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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

1424愚鈍凡夫:2004/06/29(火) 13:50

普段はROMしてますさん、どうも初めまして。

「区別」と「差別」についてですが、

**************************************************
さ‐べつ【差別】
①差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。「―意識」
②区別すること。けじめ。「大小の―がある」

広辞苑第4版より
**************************************************

蔑視といった悪感情を持って区別するか、論理的に区別するかで、おのずと解釈も変わってくるのでしょうね。S学会で感情的区別を散々見てきましので、ふと、そんなことを考えてしまいました。

1425平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 14:20
犀角独歩さん
日蓮正宗の上人の過去帳を開いて疑問に思ったのですが、16世の日就上人から
19世の日舜上人の没年月日はおかしいと思いました。16世日就上人は寛永9
年2月21日(1632年4月10日)、17世日精上人は天和3年11月5日
(1683年12月22日)、18世日盈上人は寛永15年3月7日(1638
年4月20日)、19世日舜上人は寛文9年11月12日(1670年1月3日)
になっています。異様なのは17世日精上人が後の18世日盈上人よりも45年
も長生きし、19世日舜上人よりも13年長生きしている所です。日精上人は処
刑されたということを創価の本で読んだことがあります。また日精上人の御本尊
は昭和40年代半ばまでは、改築前の東京池袋の常在寺の本堂に御安置されてい
ました。日精上人に関することを知りたいと思いまして御質問差し上げました。

1426犀角独歩:2004/06/29(火) 14:55

1425 平和創価さん:

この問題はむしろ、わたしなんかより、たとえばれんさんその他の方のほうがお詳しいのではないでしょうか。以下、補完いただければ幸甚です。

わたしは基本的に蓮師が拝んでいたものは随身の釈迦一体仏像、その意味で造像仏像崇拝は日蓮門下では当然のことと思っています。漫荼羅ばかりを本尊とすることを「漫荼羅偏向」と思っているぐらいです。その意味で、精師に関しては、ちょっと違う観点です。つまり、造像に関してはあまり否定的に見ていません。


例として引かれる漫荼羅の取り替えは、なにも常在寺に限ることではなく、ほとんどの由緒寺院で、歴代の誰彼を問わず行われたことでした。わたしの知り限り、東京では取り替えがなかったのは品川妙光寺ぐらいではないでしょうか。要は寺院安置の板漫荼羅に「法華講総講頭・創価学会会長・池田大作」と彫られたものを安置するという学会の外圧、ならびに、新たに自分の漫荼羅を安置するという達師のやり過ぎに由来したものでしょう。それを取って、精師批判を学会がするとすれば、嗤うしかありません。

現石山では、別段、精師を批判する傾向はないのであって、漫荼羅偏向者が悪者と見立てるという一連の流れがあるばかりでしょう。石山にあっては御影を拝したものの、殊に造像をなしたわけではないので、むしろ、経営面で徳川、または公家をパトロンにして、寺運興隆、伸長させたわけですから、評価されるわけでしょう。

また、全国から資料文献を集めたという点でその価値があるのでしょう。それが元々あるような顔をして自山顕彰の勝手教学を作ったのが寛師であったのでしょう。しかし、御影堂を作るのはいいにしても、それを本門戒壇堂として建立したことは如何にも行き過ぎであったでしょうし、そこに弥四郎漫荼羅を据えたのも行き過ぎ。さらに、たぶん、御肉牙というけったいな見せ物を霊宝随一なんて詐称し、客寄せに使ったのもこの人であろうと思います。つまり、資料蒐集、宗史家としては評価できる面はあるものの、その後の謀りの原因を作ったのもこの人であろうとわたしは考えています。

まあ、かなり、学会、顕正会なんかの精師観とは違うかも知れませんが、わたしは以上のように考えています。

1427空き缶:2004/06/29(火) 18:31

犀角独歩さん、私は日精師の「随宜論」は大石寺歴代の著作の中では、最も日興師の本尊思想に近いのではないかと考えます。

曼荼羅至上主義は八品派日隆師の教説です。日有師または細草檀林開所以降、大石寺に持ち込まれた思想ではないでしょうか。

1428犀角独歩:2004/06/29(火) 20:00

空き缶さん、有り難うございます。

「なるほど、なるほど」と納得しました。
さすがのご賢察と拝しました。

1429れん:2004/06/29(火) 20:46
犀角独歩さん、私は精師につきましては、残念ながら富士宗学要集・歴全以上の知識は持ち合わせていなかったので、1426の独歩さんの御投稿に御披露された御賢察は大変勉強になりました。ありがとうございます。
空き缶さん、1427の御投稿に御披露された御賢察、大変勉強になりました。ありがとうございます。最近はパケット代節約のためほとんど閲覧だけにしておりますが、皆さんの御議論・御賢察から沢山学ばせて戴いております。これからも皆様の御賢察から学ばせて戴きます。今後とも宜しくお願い申し上げます。

1430一字三礼:2004/06/29(火) 21:01
犀角独歩さん
空き缶さん

私見ですが。
蓮祖のお考えでは、大曼荼羅と一尊四士(仏像)とは、元来の用途が違うのではないでしょうか。
大曼荼羅に言及している数少ない真筆遺文「新尼御前御返事」などを読むと大曼荼羅本尊を与えられている信者には信仰心の有無等のかなり厳しい条件が付されていたのではないか、と思えます。(亀若・亀姫等に与えられたお守りは別と考えて)
大曼荼羅を集団に与えた事を示す脇書もありません。とすると大曼荼羅本尊はあくまで個人用だったのではないでしょうか。

寺院には一般の信者のみならず、他宗派の人間も出入りするでしょうし、その折、信仰心の無いものには見せられない秘仏は安置できません。
ことによると、寺院での本尊は一尊四士に限り、大曼荼羅本尊は寺院で奉ってはいけないのかもしれないと考えております。

1431平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 21:24
れんさん
室町時代後期から江戸時代初期辺りには稚児貫首の風習があったそうです。
日院上人も稚児貫首であったとの記載が聖教新聞か創価新報で以前ありまし
て切り抜きをしてノートに貼っていたのですが、今年の2月に処分してしま
いました。私が1425で犀角独歩さんに質問した件ですが、れんさんはど
うお考えですか?17世の日精上人が処刑された経緯や、日精上人が18世
の18世に日盈上人よりも45年も長生きしていると言うことは、日盈上人
が稚児貫首であって、日精上人が事実上の貫首であったためではないかと思
うのですが。また日盈上人の御遷化がお早かった為にこのようなことになっ
たのではないかと思いますが、どうお考えですか?私はお恥ずかしながら『
富士宗学要集』を持っていないために憶測しかできません。博識の方の御返
事をお待ちしております。

1432平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 21:46
また8世の日影上人の御遷化の年月日の應永26年8月4日(1429年9月
2日)と9世の日有上人の御遷化の年月日の文明14年9月29日(1482
年11月19日)の間の63年の開きと、11世の日底上人の御遷化の年月日、
文明4年4月7日(1472年5月23日)と12世の日鎮上人の御遷化の年
月日、大永7年6月24日(1527年8月1日)と、との間に55年もの開
きがあるのはなぜでしょうか?この間に貫首不在の時期があったためでしょう
か。『富士宗学要集』が無い私としては手探りの状態です。私と同じように持
っていない人もいるかと思いますので、博識の方がおられたらお教え下さい。

1433れん:2004/06/29(火) 21:52
平和さん。先ず精師は処刑などされておりませんよ。当時の有力な大名信徒の敬台院さんと精師が一時期仲たがいして、精師が江戸の石山末寺に移ったということはあったようですが。平和さんが疑問を持たれている件ですが、石山は昌師以来、九代にわたり京都要法寺から貫首を迎えますが、それは精師を含め稚児貫首ではなく、相応に学業をつまれた成人貫首で、たまたま精師が前後の要山出身の貫首さんよりも長寿であっただけのことと思います。私の精師に関する知識はこの程度ですので、あとはもっと御詳しい方にお聞きになってください。

1434平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 22:13
れんさん
御返事有難う御座います。精師処刑というのは私の中学生の時の誤読であった
ようです。語彙が少なかった少年時代の記憶を頼りにしていまして大変失礼し
ました。

1435平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/29(火) 23:00
日蓮正宗の貫首の過去帳を見て気が付いたのですが。日蓮大聖人以外の方の亡くな
られた年齢が書かれていないのです。日興上人は(1246〜1333)87歳、
日目上人(1260〜1333)73歳、日昭(1221〜1323)102歳、
日朗(1245〜1320)75歳、日頂(1252〜1317)65歳、日向(
1253〜1314)61歳、日持(1250〜?)46歳?、日寛上人(166
5〜1726)61歳と分かっているのですが、過去帳に貫首の没年齢が書かれて
いないために研究ができません。貫首の没年齢が分かる資料を御存知の方の御返事
をお待ちしております。このことは『富士宗学要集』に書かれているのでしょうか。

1436普段はROMしてます:2004/06/29(火) 23:14
>>1421
行は、禅だけじゃなくて、荒行などもあるわけで。でも臨在宗じゃなくて、曹洞宗なら、瞑想になるのかな? ま、ヨガの瞑想とは違うって、言いたかっただけなので(自分が上手く説明できないだけだけど)。

>>1424
仏教徒なら、自分のモノサシではなくて、仏のモノサシで判断するように心がけることかと。感情的区別は、自分の感情が入っている以上は、自分のモノサシだし。日蓮系なら、手前勝手な法華経解釈じゃなくて、正しい法華経解釈に基づいた判断をすれば良いかと。現実には難しいけど「損は悟り、得は迷い」と思えれば。って、一遍上人は、ここではマズイか…

1437空き缶:2004/06/29(火) 23:20

横レスします。
創価平和さん、はじめまして。大石寺歴代の没年齢は「日蓮正宗冨士年表」巻頭の「日蓮大聖人血脈付法系譜」に大体書いてあります。
大体と申しますのは、行・時・阿・乗・低の五師は空白になっているのです。先ほどより、問題提起されている面々だけになにかありそうですけどね。
確か「法主詐称」にもこの辺のことが出ていたと記憶しています。

1438愚鈍凡夫:2004/06/29(火) 23:33

平和創価さん、始めまして。

こういうのはどうですか。ご参考までに。

普段はROMしてますさん、

> 仏教徒なら、自分のモノサシではなくて、仏のモノサシで判断するように心がけることかと。

この「仏のモノサシとはなんぞや?」というのが、仏教最大の難問ではないかと思います。

日蓮大聖人血脈付法系譜(総本山大石寺 御歴代上人)
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/rekishi_rekidai.htm

1439三吉:2004/06/29(火) 23:54
荒行っすか。 滝に打たれたりするやつね。
悟りのための実践(行)ではなくて、
念願を達成するためという位置づけのはずかもですよ。
しかもですね。仏教というより、修験道からでは?汗

1440空き缶:2004/06/30(水) 01:07
犀角独歩さん、いつも私の愚考にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。

一字三礼さん、こん○○は。
非常に興味深いご投稿です。
現代的に考えますと各個人の家庭にも、他の宗派に属する方が友人として遊びに来ることはありますね。現代は立派な仏壇も販売されていますからそれなりに曼荼羅本尊を安置することも可能と思われます。
しかし宗祖の時代はどうだったのでしょうか、まず現代のような立派な仏壇や厨子は無かったのではないかと思われ、またほとんどの人が他宗の人であったため、日蓮聖人門下の邸宅に出入りする人も他宗の人が多かったのではないかと想像いたします。
ここのところのご見解をまたお聞かせ下さい。

れんさん、パケット料金大変ですね。
今回のボーナスにてPC導入なんていかがでしょう。ランニングコストを考えれば、ブロードバンドがいいですよ。

愚鈍凡夫さん、さすがです。これはまさしく冨士年表のそれと同じですね。

1441犀角独歩:2004/06/30(水) 01:47

なんだか、パラレルに話題が同時進行ですね(笑)

1430 一字三礼さん:

曼陀羅と仏像の用途の違い。このお考えにわたしも大いに賛成です。
ただ、蓮師の段階で一尊四士はあったでしょうか。文面で見られますが、ご自身もまた、消息文などでも一体像に留まっているように思えるのですが。一尊四士を具象化したのは興師で、またそれをご自分の考えとし、故にその義を盗んだとして、澄師を批判した経緯が重須文書に見られたと記憶します。

仰るような相違は、派祖以降は、

伽藍でいえば、本堂(釈迦堂)と御影堂で分立されるということになるのでしょうね。


1432 平和創価さん:

>『富士宗学要集』が無い

これは nb さんのサイトを活用されればよろしいでしょうね。

nb 資料室
http://nakanihon.net/nb/siryou.html

1442平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/06/30(水) 10:11
>>1438 >>1441
愚鈍凡夫さん 犀角独歩さん
貴重な御資料のご紹介有難う御座います。この研究は信仰に関する直接的なもの
のため、私はかなり神経を使って来ました。先月から体調を崩し今仕事を休んで
通院中なので健康には十分注意して研究していきたいと思っています。

1443犀角独歩:2004/06/30(水) 10:29

平和創価さん:

そうでしたか。どうか、お体を大切になさってください。
信仰体系から脱したわたしが言うにはあまりにも不似合いな言葉ですが、ご回復を心より祈念申し上げます。

1444一字三礼:2004/06/30(水) 15:26
空き缶さん

>日蓮聖人門下の邸宅に出入りする人も他宗の人が多かったのではないかと想像いたします。

とのご指摘、私も同感です。
ただどうなのでしょうか、大曼荼羅を授与された信者は、常には仏間なり、持仏堂なりに安置していたのでしょうか。
真筆曼荼羅の中には深く折り目のついたものがありますし、像師授与の曼荼羅では、折り目が擦り切れて破れてしまっているそうです。
たとえば、常時吊るすような形式で安置されていれば、そのような折り目はつかないのではないか、と想像します。

ひとつには、大曼荼羅と言っても、その種類といいましょうか、性格といいましょうか、違いがあるのではないでしょうか。

「新尼御前御返事」にみられる例。ここでは大曼荼羅の役割は本尊であり、その展開は法華経に基づくと説明されております。

亀若丸・亀姫への授与にみられる例。千葉新介宗胤(亀若丸)の生年は文永2年(1265年)とされていて、授与されたのは建冶2年(1276年)だから11歳の時でしょう。年齢から考えても身命を惜しまないほどの強信者とも思えません。おそらく富木氏か太田氏が主家の若君の元服、もしくは九州での息災を願って蓮祖にお守り用曼荼羅を要請したものではないでしょうか。

「御本尊集」では、その他に一人に対して複数の大曼荼羅が授与されている例も見受けられます。これなどは賞与・功労賞の性格を持つのかもしれません。

余談ですが。
少し前の産経新聞に元・経団連会長の土光敏夫氏の母・土光登美氏の事が書かれておりました。岡山が地元の土光家は代々法華信者であったそうです。その紙面の写真に土光家の板碑が写っていたのですが、そこには題目が書かれていて、そのお文字がどう見ても保田の万年救護の首題にしか見えないのです。
備前法華と言えば、日像門流を思い浮かべるのですが、保田妙本寺と通用があったのでしょうか。

1445一字三礼:2004/06/30(水) 15:28
犀角独歩さん

>なんだか、パラレルに話題が同時進行ですね(笑)

どうも私は大事なお話の間に割り込んでしまったようで、間が悪くて申し訳ありません。

>ご自身もまた、消息文などでも一体像に留まっているように思えるのですが。

難しいところだと思います。観心本尊抄の「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩・・」等の記述によれば、たしかに四大菩薩と切り離して一体仏でも寿量釈尊を表現出来るとも読めます。しかし、その前段「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、・・」等の文章の流れでは、特に脇士に言及しておりますので本門にいたれば脇士としては四菩薩の存在が不可欠とも読めます。

>伽藍でいえば、本堂(釈迦堂)と御影堂で分立されるということになるのでしょうね。
なるほどご指摘の通りですね。

1446空き缶:2004/06/30(水) 15:58

一字三礼さん、こんにちは。

本尊としての大曼陀羅、賞与としての大曼陀羅、確かにおっしゃる通りですね。

現在でも歴代の肉筆曼荼羅は、ほとんどどの宗派でも「賞与」あるいは多額の供養に対する「礼状」的な役割を担っていると思われます。

土光氏のことは、かつて正信会が行った「日蓮聖人展」を見に行ったとき、ビデオ放送されていました。
最初は土光氏が日蓮正宗系の信徒なのか、あるいは正信会系の寺院となにか関係があるのか疑問に思いましたが、どうやら日蓮聖人の教えを信奉していた人で有名な人ということであったようです。

1447Jルーカス:2004/06/30(水) 16:42
御本尊にはもう一つ、呪符としての意味もあると思いますが・・・。

1448一字三礼:2004/06/30(水) 20:59

蓮祖が授与された大曼荼羅には複雑な意味があると考えました。
① 本尊として
② お守りとして
③ 賞与として
勿論、①と②を兼ねていたり、①と③を兼ねていたりと単純には断定できないかもしれませんが、本尊としてのみ大曼荼羅を書かれたのではないでしょう。
その上、表面に年月、授与者名等を記入している事から考えて、大曼荼羅とは私信・手紙に類する、蓮祖と信者間のとても私的なもののような印象を受けます。
そこで、大曼荼羅を寺院に安置して本尊として公開するというような、現在どこの日蓮宗系寺院で見られる形式は、本来、蓮祖の意図するところでは無かったのではないか、と推測いたしました。

1449空き缶:2004/06/30(水) 21:30

一字三礼さん、今晩は。

本弟子日興師は、恐らく弟子の中で一番多く曼荼羅本尊を書写され、蓮祖御筆曼荼羅に添書をされている方と存じます。

その日興師の添書に「本門寺に懸け奉るべし」とあるものが数点ございます。この点につきどのように思われますでしょうか。

仏像造立は本門寺建立後、それまでは曼荼羅をもって本尊とするという、日興門流上代の本尊観はどのように思われますでしょうか。

1450犀角独歩:2004/07/01(木) 02:23

一字三礼さん:

> どうも私は大事なお話の間に割り込んでしまった

まったくそんなことございません。興味深く拝読させていただいております。
漫荼羅の用途、実はこの点を三学無縁さんをはじめ、複数の方々と話してきました。わたしは三学無縁さんと同意見なのですが、第一の用途は「諸尊勧請・道場荘厳」のための札であるという見解です。


Jルーカスさん:

> 御本尊にはもう一つ、呪符としての意味


ここで言う呪符の「呪」はどのような意味ででしょうか。
辞典では

じゅ 【呪】

(1)のろい。まじない。
「―を唱える」
(2)〔仏〕 密教で、陀羅尼(だらに)、真言のこと。
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

とあります。「のろい」というより「陀羅尼、真言」ということでしょうか。蓮師の段階では前者は無しで、後者はあり。後代に前者もありとなったのではないのかと想像しますが、どうでしょうか。

『四条金吾殿御返事』に「日蓮は首題の五字を汝にさづく。法華経受持のものを守護せん事疑ひあるべからず。まりし(摩利支)天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給ふ。「臨兵闘者皆陳列在前」に、わたしは注目しています。

この引用は真跡に見られず、録外でもこの一書に限ります。
それに比し、「還著於本人」は真跡で6カ所に見られるわけで、蓮師が呪詛を漫荼羅によせるわけもないと思えるわけです。
最近学会では顕師を呪うことを勧めているようですが、この‘狂気の沙汰’はまったく蓮師の素意に悖るものであると思います。(もちろん、顕師の肩を持つわけではありません。たぶん、尤も骨肉を抉って本質の部分でものを言っているのはたぶんわたしでしょうから)

1451孤独な迷子:2004/07/01(木) 08:40
久しぶりの投稿ですが、横から失礼します。

独歩さん

>>1443
>信仰体系から脱したわたしが言うにはあまりにも不似合いな言葉ですが、ご回復を心より祈念申し上げます。

独歩さんは今でも勤行等はなさっているのでしょうか。

宜しかったらお聞かせ下さい。

1452犀角独歩:2004/07/01(木) 09:34

孤独な迷子さん:

お久しぶりです。

> 今でも勤行等は

現在、石山が言うような勤行はしていません、そこで定められている三宝観に異義があるわけですから。殊に観念文は叙用に耐えません。

ただ宗派を問わず、法事に参列し、そこで勤行法式が為されれば、合掌しますし、知っているお経であれば、唱和もします。儀礼の範囲であるという心得です。

1453一字三礼:2004/07/01(木) 22:32
空き缶さん、こんばんは。
> その日興師の添書に「本門寺に懸け奉るべし」とあるものが数点ございます。この点につきどのように思われますでしょうか。
日興師の本門寺構想の全体像がつかみ難いのでよくわからないのですが、すくなくとも蓮祖ご自身は、一度授与された大曼荼羅を、本門寺建立の後に回収して本堂なり、戒壇院や御影堂などの諸堂宇なりに奉る事は想定しておられなかったのではないでしょうか。
>仏像造立は本門寺建立後、それまでは曼荼羅をもって本尊とするという、日興門流上代の本尊観はどのように思われますでしょうか。
なぜ本門寺建立後でなくてはいけないのでしょうか。空き缶さんは、その意味、理由なりをどのようにご理解されておられますでしょうか。

1454空き缶:2004/07/01(木) 22:50

 一字三礼さん、今晩は。

 私は日興師が「天台沙門」ではなく「日蓮聖人之弟子」にこだわり、本門寺構想に執念を燃やされたことは、日蓮聖人の教えが公に認められることにこだわったのではないかと思います。

 現代的に言えば、当時の本門寺建立は現代でいう宗教法人の認可が下りるということを意味していると想像しています。つまり宗教として認められていないうちから仏像を造るということは、遠慮していたという程度ではないでしょうか。

1455犀角独歩:2004/07/02(金) 05:57

空き缶さん、ちょっといいでしょうか。

> 当時の本門寺建立は現代でいう宗教法人の認可

この考えにわたしも賛同します。これはまた、天奏にも言えることでしょうね。天奏は国家諫暁だと現在では解釈されていますが、実際は今で言う宗教法人の許認可申請であったとわたしは考えます。


> 仏像を造るということは、遠慮していた

これは興師の考えなのでしょうか。
この点は以前も記したことがあるのですが、わたしは興師という人は代用品を一切、認めない人だったのではないのかと想像しているのです。

昭師が随身仏を持ち去ってしまった。その時、円師は新しい仏像を造ろうとした。これに興師は反対しました。それを興師の造仏否定と石山系では解説するわけですが、わたしはこれは違うと思うのです。要は蓮師が随身された仏像が尊いのであって、その代替品では意味がないと考えられたのではないのかと思うのです。ある面、いつか昭師の元から仏像が還ってくると待っていたのかも知れません。待っているわけですから、その席は空けていた。それがいつしか、仏像のない様式と解されて重須の、例の本門寺建立以降、仏像造立という伝承を生んでいったのではないのかと思うわけです。

ある状態が続くと、その説明が必要になり、それが説明されると、それが前の常識に取って代わられる、そんな変遷のなかで「漫荼羅正意」という後世の姿勢が定着していったのではないのかと思うのです。

1456れん:2004/07/02(金) 09:49
犀角独歩さん、空き缶さん。お二方のお考えに私も賛同しております。造像のについてですが、犀角独歩さんのお考えに賛同ですが、墓所傍(身延)に安置せよと蓮師が遺言された随身の釈尊像と、興師の弟子の三位日順師が心底抄に「行者既出現久成之定慧広宣流布本門戒壇其豈不立哉安置仏像如本尊図」(同様の意見は興師弟子の代師、目師弟子の尊師、他門でも像門の存師にもみえる)とした仏像とは、多少性質が違うのではないかなぁと、少々疑問を感じました。基本的に性質の違いはどうあれ、興師は決して仏像否定論者ではなかったと私も思っています。

1457犀角独歩:2004/07/02(金) 11:10

れんさん、有り難うございます。

仰るとおり重須その他で言う「広宣流布本門戒壇」では漫荼羅図示の如くにしようとするものでしょうから、一体仏像安置ではないでしょうね。

この点、実はずいぶんと昔に問答さんと議論したと記憶しています。
興師は一尊四士の奉安様式を自身の義とされたわけですが、たとえば洛では一塔二尊四士の奉安様式が生じ、それが東漸し用いられるようになった歴史的な推移がありますね。ここでの解釈は仏像配置様式に留まる、と見えます。

ところが、たとえば北山三堂棟札、あるいはそれを伝える化儀抄「本門寺朽木書」と言った文献を見ると、それが興師に由来するかどうかは別として、ここでは仏像配置様式を言っているのではなく寺院境内の伽藍様式を言ってないか?と、わたしは着目しました。

そこから改めてみると、西面・五重塔がその伽藍の中心となり、その脇に四菩薩それぞれの御堂が配され、その前に各天堂、菩薩堂、さらに大師堂、鬼子母神等、諸々に配し、その最前に御影堂を置く、大伽藍様式を夢想したことがありました。

この場合、五重塔の内には妙法蓮華経五字(漫荼羅か?)が懸かり、その両脇に釈迦・多宝仏像が安置されることになると考えました。

この点で一言すれば、いまに伝わる一塔二尊四士配置様式は、わたしは本尊抄の記述からすると違っていると断言してよいと考えています。
いまの寺院でこれを見ると、妙法蓮華経が塔と建ち、その両脇に二仏が配されます。つまり、二仏が塔の外になっているのです。しかし、『本尊抄』では

「寶塔居空塔中妙法蓮華經左右釋迦牟尼佛・多寶佛・釋尊脇士上行等四菩薩」
と言うのであって、宝塔の‘中’と明示されています。一塔二尊という時二仏は妙法蓮華経の五字とともに塔中に収まらなければ、その記述と違うことになります。またこれは法華経宝塔品の説相でも、塔の中から多宝が呼びかけ、半座を分かって塔中に釈迦が並座することが明記されます。つまり、一塔二尊が宝塔品をモチーフとする以上、塔外に二仏を配する「一塔二尊四士」は宝塔品とも本尊抄とも違っているとわたしは考えたわけです。

なにか冗長に記しましたが、れんさんがお示しくださった『心底抄』の文意は仏像配置様式を言うのではなく、伽藍様式を言うものであると、さらにその一塔二尊四士の有りようまで、勝手気儘に記させていただきました。

元より、厳粛に資料を当たって記すところでなく、わたしの詰まらぬ管見であることは断るまでもないところです。れんさんをはじめ、皆さんからご叱正を賜れれば有り難く存じます。

1458犀角独歩:2004/07/02(金) 11:38

1457の補足です。

わたしは「塔中妙法蓮華経」とは法華経八軸二十八品の妙法蓮華経経典であると個人的には思っています。つまり、五重塔は妙法蓮華経経典とその両脇を固める釈迦多宝二仏像で奉安された須弥壇を持つ堂塔であると考えています。

1459普段はROMしてます:2004/07/03(土) 00:31
>>1439
天台宗の比叡山延暦寺には、千日回峰行ってのがある。毎年100日、合計700百日、毎日経を唱え野山を裸足で歩き回り、さらに間に9日、最後に8日の断食断水まである。で、失敗したら(病気などして続けられなくなったら)、小刀で切腹か、喉を突くかする。NHKが取材して番組として放送したこともあったとか。

で、これは念願を達成するためじゃない。実際に達成した僧侶(葉上師だったかな?)は、仏さんに生かされていることがわかったと言っている。日蓮系なら法華経の三車火宅の譬えの他力を、体でわかったということ。

ただ三吉さんは知っていると思うけど、こうした荒行は恍惚感や臨死体験を伴なうけど、イコール悟りじゃない。悟りと勘違いすると、オームの麻原になる。あくまでも悟りへの第一歩。

ま、僕は半歩でさえ歩むこともできていないんで、これ以上は無理だけど。

1460空き缶:2004/07/03(土) 00:44

 れんさん、今晩はいつもありがとうございます。PC導入はかないそうですか?

 犀角独歩さん、いつも鋭いご指摘をありがとうございます。
 時同じくして「大聖人門下掲示板」では、中山本妙寺の一尊四士が宗祖御在世中のものかどうかとの論議がございます。
 関連事項として閲覧されてみてはいかがでしょうか。以下の「門下・門流史関係」のスレッドです。
 ↓
 http://jbbs.shitaraba.com/study/3171/

 私は蓮興二師の仏像観については全くの駆け出しであり、あちらも・こちらも、皆様の論議についていくので精一杯というのが本音です。

 しかし、独歩さんの「本尊図」が「伽藍図」であるとのご見解、二師は同じ塔内にあるとのご見解には、宗祖の本尊観・本門寺観を考察する上で、非常に良いヒントを戴いたと感謝しております。

1461三吉:2004/07/03(土) 15:53
悟りに至る道は瞑想だけだと言ったのは、
当時の仏教の常識からするとという話。

千日回峰行なんて、実践すると、やっぱり見えてくるモノはあるみたいね。
一種の悟りだけども、「恍惚感や臨死体験」というより、
もっと醒めたものだね。

千日回峰行二回された酒井雄哉さんのインタビューね。
http://blog.main.jp/wiki/pukiwiki.php?大阿闍梨(あじゃり)/酒井雄哉さん

「千日目であっても千一日目であってもいつも第一日目という気持で歩けることが、
最高に充実した生き方じゃないか、と思うわけ」
「それで二千日終わって、やっぱり何だったのかってわからない。
終わったというだけのことなんだな。
だからあきらめないで、もう一歩ずつ、進んでいこうということしかない。
終点はない、その先、またその先へ行こうというだけ。」
「今は歩くのが行(ぎょう)だけど、行って「行(おこな)い」のことであって、
生きていくことが行なんだね。」

ここまでくると凄いなぁ、一種の悟りだなと私は思うけどね。
私が生きているということ以外に「行=実践」はない、と私も思う。
だから普段ROMさんの人生も立派な仏道なわけで、
「人生=仏道」を立派に歩かれているわけです。
千日回峰行と同じですよ、だふん。なかなか意識できませんけど。

1462犀角独歩:2004/07/04(日) 12:19

1460 空き缶さん、なかなか面白いテーマですね。

一尊四士と中山ですか。わたしは直ちに『四菩薩造立抄』を想起しました。
この御書の真偽はどうでしょうか。中山としては真筆としたいのではないかと思いますが、そうなると蓮師在世に一尊四士が相成ったことと矛盾してしまいますね。

同書で蓮師はまず四菩薩を造るべきとして、釈尊像はやがて上行等が出現して建立されるから待つべきと言うのですから、もし、この像を造ることが出来る仁があれば蓮師を置いてないと言うのが上行応化の立場となりませんか。それにもかかわらず、中山の某が造ってしまったすれば、上行僭称の叱責を免れ得ないことになります。すなわち「日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」です。こんな風に読んでいかないと歴史考証はつまらないでしょうね(莞爾)

ただ、個人的にはわたしはこの書が心打たれるものです。

「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり」

わたしがもっとも愛する一節です。

1463れん:2004/07/04(日) 21:17
犀角独歩さん。本尊図=伽藍配置とのご管見、スケールが大きいですね。私など本門寺戒壇については、東大寺の戒壇・比叡山の戒壇と同じスケールで、仏像が蓮師の文字マンダラ(宝塔)図の通りに配置されるのだろうなぁ、と勝手に思っていたので、独歩さんのお考えのスケールの大きさには、さすがだと感服しました。
空き缶さん、先日思わぬ出費があり、今すぐのPCの購入は叶いそうにもありません(T_T)。まぁ年内に購入出来ればいいなぁと思っております。
横レス失礼しました。m(__)m

1464空き缶:2004/07/04(日) 23:23

 犀角独歩さん、是非「大聖人門下掲示板」にもご参加下さい。

 れんさんにもPCご購入の際には、是非ご参加いただきたいと思います。
 大聖人門下掲示板は日蓮宗の御僧侶(住職)が運営されており、出家・在家の論師方々が種々の考察を行っています。

 ちなみに管理人さんは、類纂日蓮聖人遺文集の校正を手がけた御僧侶です。

1465犀角独歩:2004/07/05(月) 05:21

空き缶さん、お誘い有り難うございます。

1466犀角独歩:2004/07/05(月) 05:23

れんさん、いやはや恐縮です。
かつて夢見た大本門寺構想でした(笑)
いや、お恥ずかしいかぎりです。

1467普段はROMしてます:2004/07/07(水) 01:32
>>1461
>悟りに至る道は瞑想だけだと言ったのは、
>当時の仏教の常識からするとという話。

了解です。

行が悟りの第一歩と言ったのは、麻原のような勘違いがいるからで、酒井師は、悟ったと言って良いかと(本人は否定するかも)。ちなみに葉上師は、酒井師の友人で、戦後の千日回峰行は、この二人(三人かも)。開闢以来、20人に満たないから、凄いわけで。

で、先月、NHKで永平寺の住職の特集をやってたけど、座禅の時だけ、真っ直ぐになってたって駄目だ。常に禅なんだと。スリッパを脱いだら揃えるのが当たり前。できないのは心が歪んでいるからだ。日々常に禅だ、と。

こんな感じに、名僧は、宗派問わず、同じようなことを言う。禅も念仏も同じだと言う僧侶までいるし。日蓮系だと「法華経が最高の教え」を信じるし、日蓮正宗だと特にその傾向が強いけど、総論否定・各論賛成のような感じでいいから、他宗に習うことは必要じゃないかと思う。明治政府の政策で、僧侶は戒律を破っても良くなったけど、戒律を守り続けている名僧は、深いから。

>私が生きているということ以外に「行=実践」はない、と私も思う。
>だから普段ROMさんの人生も立派な仏道なわけで、
>「人生=仏道」を立派に歩かれているわけです。

先の永平寺の住職は、文豪の小説を上げて「いつ死んでも良いというのは、悟りではない。生きているうちは生きてたら良いというのが、悟りなんだ」と言ってた。でも「仏法に自己を投げ入れて無垢に生きる=仏道」であって、「人生=仏道」じゃないと思う。「仏法に自己を投げ入れて無垢に生きているからこそ、生きているうちは生きていたら良い」と自然と思えるんじゃないかな? やっぱり僕は、半歩も歩んでないなあ…

1468管理者:2004/07/13(火) 06:12

晃司さんより、他スレッドで、以下のレスがありました。当スレッドに取り合えずレスを移転させました。よろしくお願いいたします。

以下、晃司さんのレスです。

本門戒壇大御本尊様への帰一を目指す、団体を超えた信徒のネットワークです。

どうも完全なる納得ができません
何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか
戒壇と本尊とは形在る存在です、題目は形がありません
形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思うのです
再び、何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

1469問答迷人:2004/07/13(火) 06:28

晃司さん

富士門ネット発足当初は、三大秘法抄(太田金吾抄)が真書であるとの認識で、その三大秘法抄の記述に従い、無批判に日蓮聖人の御遺命が本門戒壇の建立にある、との認識で居りました為、そのような表現になっております。三大秘法抄は偽書ではないか、との疑義が出されている以上、本来ならば「日蓮聖人の教えに帰一」とすべきものだと思います。富士門ネットとしては、訂正を考えて来た経緯は有りますが、未だ手付かずとなって居り、申し訳なく思っています。富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと思っております。

1470晃司:2004/07/13(火) 07:24
おはようございます
早速のおとりあげ有り難う御座います
前もって言っておかなければなりません、私は教学のない人間です
なので御書や仏教用語、数々の語句が読めない、理解がにぶい人間ですので
その点ご容赦お願いいたします、いろいろご迷惑をかけるかも知れませんが
その都度注意をして下されば勉強になるかと思いますのでよろしくお願いします

さて本題(質問)に移らせていただきますが
御書全集に所在地不明という手紙が真跡かどうかということなんでしょうか?
もし無い物が真跡かどうかを問うとき、ないものはないという点からしまして
形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することがまず問題かと思うのですが
それから富士門ネットのあり方の全面改変を日蓮聖人の教えに帰一という趣旨で改変されるのでしたら
その前座としまして掲示板の1スレッドで宜しいのでその改変後のテーマを建ててくださいませんか
そちらへ参りたいと考えますので
それから問答迷人さん以外の方々も同趣旨なんでしょうか?宜しくお願いいたします

1471犀角独歩:2004/07/13(火) 09:47

非常に興味深いテーマなので、わたしも参加させていただきます。

「富士門流」とは何かという点が、先ず不鮮明であると思ってきました。
その源流は白蓮興師に置かれるのでしょう。わたしはここが基本であると思うわけです。そこで、興師の時代に日蓮本仏が言われ、弥四郎漫荼羅(本門戒壇之大御本尊)があったのかということがいちばん大きな問題になってきます。これまでの経過からすれば、共に興師の時代には戻れないと言わざるを得ません。つまり、日蓮本仏、弥四郎漫荼羅はその祖である興師と相違しているという点が挙げられます。

のちにこの二つが形成され、それが後天的なものであっても一向に構わないという意見もあります。それも一つの考えでしょう。しかしながら、日蓮本仏(人)弥四郎漫荼羅(法)一体の本仏本尊論を言うのは、ただ大石寺一派に限ります。となると、従来言われてきたのは「富士門流」ではなく、そのなかのわずか「大石寺門流」信徒の、ということになるわけです。故に富士門流が日蓮本仏・弥四郎漫荼羅崇敬であると誤認されかねない表現は先ず避けるべきであろうと考えます。

もちろん、なかには以上の点を充分承知のうえで、全富士門流信徒を日蓮本仏・弥四郎漫荼羅に帰伏させることを目論む人もあるのかも知れません。そうあれば、日蓮本仏義が興師、もしくは蓮師ご本人の確実な資料からその証拠を呈示し、かつ、弥四郎漫荼羅が弘安2年10月12日、蓮師自ら板に図示し、法師が彫刻した証拠をここに掲げることが必要となるでしょう。

わたし自身の管見を述べれば、後世の解釈である日蓮本仏、後世の贋作である弥四郎漫荼羅から脱却することは、興師を祖とする富士門流の祖道の恢復の第一歩であると申し上げるほかありません。

> 御書全集に所在地不明という手紙が真跡かどうかということ

まさにこの点は数年前にわたし自身が呈示した疑問点でした。
簡潔に申し上げれば、御書全集の半分は真偽未決、もっと言えば偽書が多く混入していると言うことです。もっと具体的に言えば、日蓮門下では自分に解釈を権威づけるために既に興師の時代から多くの偽書が捏造されてきたということです。

たとえば、弥四郎漫荼羅で言われる法師彫刻説は因師『有師物語聴聞抄佳跡上』以外に紹介される『松野殿御書』しか「御書」としてその事柄を伝えるものはありません。しかし、この書が真筆であれば、法師こそ蓮師の法嗣ということになり、七面山(竜女神)信仰と弥四郎漫荼羅不可分を認めなければならずしかしまた、そもそもここでは弥四郎漫荼羅彫刻を一字たりとも出ない不都合もあります。さすがにこのような書が真筆であるとは、石山ですら言わないわけですが、実際、このような形で御書が偽造され、法師顕彰、法師彫刻が肯定されたわけです。

1472犀角独歩:2004/07/13(火) 09:49

―1471からつづく―

以下、長いのですが参考のために挙げておきます。

「安房国東条小松原の道善坊持仏堂にして念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊の姿を申出し候へば数百人、兵者共敵成し、いる矢は雨の如く、打つ太刀は電光の如し、当座に弟子一人打死し既に日蓮は頭に疵を蒙り法華経の御為に命を捨る事まのあたりなり、殊に伊豆佐渡の大難は申すに及ばす種々の難に値へり、先札に申尽し候間今之を書かず等云云、依之命かなへ候て身延山に隠居せしむ法華経を読み奉る折節我弟子の中に和泉阿闍梨と申す僧一人御座候、朝夕身を離れず給使奉事致さるゝ 事比類なく秘蔵弟子なり、然るに彼の泉阿闍梨行功をはげまし日蓮か形をあらわさんか為に七面の明神に祈念せし故か、又天道道の至りか浮木出来せり、此の木を以 一躰ならず三尊まで造る一尊は大仏なれし身延山に安置せり、故に末世に於て日蓮か形をきざみつる事は泉阿闍梨無んば造仏しがたし、爾も闍浮第一の弟子なり、然るに予は妙法蓮華経の中の字を取て日蓮と名乗り候間彼の泉の阿闍梨には法の字を取て日法となづけて候、然る間日蓮や前き日法やさき日蓮やさきと云ふ意を以て日法となつけて候、定て弟子達うらやましくやをもはんずらん、又はあだみめねみやすらん、兎に角末代に於て法華宗たらん者は日法一人を信仰せば日蓮を信仰するに成るべきなり。諸宗の中には妙法蓮華経第一の良薬なり、一切衆生の中には日法一の人第一の導師なり、上行所伝の寿量肝心是好良薬の妙法を口に唱へ入れ候えば悪人女人如何なる人非人成り共是人於仏道、決定無有疑豈唐捐ならんや、是故に日蓮か弟子檀那は日法に不背、日本国の一切衆生の口に上行所伝の要法を入れんとはげまんこと肝要なり、日蓮もしきりに法華経をひろめまいらせ候ひしを鎌倉殿にくみついらせ大難を蒙らしめ玉ひしかども、仏天の御使か、今日まで命ながらへ候て当山に住せしめて法華経を読ましめ候処に、日蓮が形を木像に造立せしむる日法は、末世の師匠孝行の手本たるべし、日興一人ならず日朗等に至るまで漸々丁聞せしむるなり、末世日蓮二度の出世とは此の木像を申すなり、頼母敷く思ひ候てをがませ玉へ、恐々謹言、日蓮在御判」

1473晃司:2004/07/13(火) 10:34
問答迷人さんが富士門ネットのあり方の全面改変と宣言されましたので
この富士門自体が改変されるのではないでしょうか、画期的な改変が楽しみです

独歩さん、レスありがとうございます
御本尊さんを戒壇と曼陀羅とに分けたと致してもまだ分けたらずと思うのですが
それは形あるものと形ないものという分け方なんです
例えば重要文化財並びに仏像がもし焼失した場合
信者さんは困ります、でも魂があるから新しい物を作り魂を入れれば同じであるという発想はいかがかとも思うのです
同じように考えますと
形あるもの戒壇並びに曼陀羅が焼失したらどうでしょうか
新しいものを作ってしまうのでしょうか

私のHPの演題に胸中の肉団・・・という御書の一節を引用していますが
それが真跡かどうかは別にしまして
我が胸中の肉団に生わしているというこれが重要かと思い引用しています
http://www.geocities.jp/kouji_s36/(これがそうです)

この興味深いであろうとされた質問が活気満ちますよう希望いたしたいと思います

現実に今在るものは在る内は活用させていただけば良いと思います
しかし無くなって嘆く前に無くても嘆かない意識作りも大切であると考えています

1474犀角独歩:2004/07/13(火) 10:57

1473 晃司さん:

ちょっとわからないんですが、HPをほんとにざっと見ただけなのですが、スピリチュアリズムとか、生命主義とかから、水を販売している人なんですか?

1475晃司:2004/07/13(火) 11:18
えっと水の販売はしていません
水はプラシーボ効果を引用するために記載しています
現実にアトピー性皮膚炎が治りました

スピリチュアルはニューエイジ思想の内なる対話という引用です

私は生まれてから今まで学会員一筋です
今は幽霊会員となっております、
学会内でもこの話をしていくので嫌われているようです
今では誰も話しかけてこないな、私が話し出すと長いから

1476空き缶:2004/07/13(火) 15:04

 横レスです。

 日女抄にも真偽の問題があるとする理由は、①真筆あるいはそれに順ずる直弟子写本等も不伝であること。②遺文中に中古天台本覚法門「修禅寺決」と同意の内容がある等でしょうか。
 
 日蓮宗系では、本覚思想自体が日蓮の思想ではないと思っているようです。
 また、昭和定本日蓮聖人遺文にて続編に入っている「十八円満抄」などは、修禅寺決の十八円満法門をそっくりそのまま写した形になっています。
 飯高談林等の日蓮系談林の多くで、天台本覚法門が摂取され、数多くの偽書が誕生したのでしょうが、この「修禅寺決」の日蓮門下における位置は相当なものだったのでしょうか。

1477晃司:2004/07/13(火) 15:29
戒壇が本物かどうか、書き物が真跡かどうか、あるいは故意に偽書云々と疑うよりも

形在るかないを問うことはいかがでしょうか
真実の戒壇であっても本物のお手紙であっても焼失すれば「無い」ということになるはずです
ということでこの問題提起となりました
何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

1478大宮:2004/07/13(火) 16:11

>何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊

??? 戒壇は戒壇、題目は題目、本尊は本尊じゃないの

1479晃司:2004/07/13(火) 16:17
>>1478
1468番で提案させていただきました
富士門流のホームページの趣旨が
本門戒壇大御本尊様への帰一を目指す、団体を超えた信徒のネットワークです。
この説明に対して下記のように質問しました

どうも完全なる納得ができません
何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか
戒壇と本尊とは形在る存在です、題目は形がありません
形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思うのです
再び、何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

ここで戒壇は戒壇、題目は題目、本尊は本尊ですが
形在る存在と形無い存在にわけることで質問をさせていただいております

1480大宮:2004/07/13(火) 16:46
題目である大御本尊様って、なに?

1481晃司:2004/07/13(火) 16:54
口で唱える「南無妙法蓮華経」のことです(ないもの)
目で見る場合は曼陀羅のように書いてあるものとなります(あるもの)

1482大宮:2004/07/13(火) 17:06
何で形がない題目が戒壇なわけ? why

1483大宮:2004/07/13(火) 17:09
あ、そうか、そう書いているんじゃなくて
形がない題目が本尊?
なんで、そんなことがいえるわけ?

1484大宮:2004/07/13(火) 17:10
形って、目で見えるか見えないかの区別?

1485大宮:2004/07/13(火) 17:15
>何故本門戒壇なんでしょうか

そりゃ、戒壇の大ご本尊さまにそう書いてあるからだよね

1486大宮:2004/07/13(火) 17:17
なんで、形があるものとないものに分けなきゃあかんの?
いちおう、ここまでで一区切り、答え待ち

1487空き缶:2004/07/13(火) 17:34

晃司さん、貴方の主張はずっと以前より正信会にて主張されている内容です。

菅野憲道師の『正信覚醒運動のめざすもの』では、ほぼ同じ主張がなされています。

創価学会よりも、正信会の方が貴方向きの思想かもしれませんね。

いずれにしましても、最近の創価学会や日蓮正宗宗門では、かつて正信会や日蓮宗が主張していたことを、さも新しげに主張するケースが目立っているようです。
私も日蓮宗や正信会の書籍を手にするたびに、目から鱗が落ちる思いです。

1488大宮:2004/07/13(火) 17:38
つぶやきね、題目って大聖人さまのお言葉を借りれば法華題目=妙法蓮華経の五字
この五字って漢字で書いた五文字ってことでしょう。
声に出して唱えるのが唱題(唱法華題目)
だから唱えた声が本尊じゃなくて、書かれた五文字が本尊なんじゃないの??

1489晃司:2004/07/13(火) 17:46
まとめていいですか
形があるのは戒壇と本尊です、形がないのは題目です
形とは目に見えるではなくて実際に有るという存在です
何故戒壇の御本尊かという質問はですね私が質問をしている質問です
戒壇に書いてあるから戒壇の御本尊であるというそういう質問ではありません

形があるものないものにわけるのは
形云々ではなくて題目である大御本尊様への帰一ではないのですかという質問なんですが

1490晃司:2004/07/13(火) 17:49
>>1487
そうですか、私は正信会という思想は知りません
でも形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着したり所有したりせず
手放し調和を目指すって主張されているのですか?

1491晃司:2004/07/13(火) 17:52
>>1488
ですから形在るものと形無いものとに分けました
声に出す南無妙法蓮華経とは声ですから字自体がないと思うでしょ
でもね、イメージとして唱えています、つまり声(ないもの)で南無妙法蓮華経という
その全体をイメージとして声に出しています

1492大宮:2004/07/13(火) 17:55
あれ、そうなの。そんなこと言ってたボンさん、おった?
己心の妙法(蓮華経)とかいうのは、聞いたことあるけど
声に出さないと本尊ならんていうのは…声仏事をなす!
でも「声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり」
だよね、声は本尊じゃなくて、経でしょ

1493大宮:2004/07/13(火) 17:57
声ってさ、出した瞬間に消えてなくなっちゃう
形あるものが壊れるよりもっともろいじゃん

で、なんで声だと調和するの なに言ってるかわからん?
説明してください

1494大宮:2004/07/13(火) 18:03
>>題目である大御本尊様って、なに?
>口で唱える「南無妙法蓮華経」

こんなこと、どこで大聖人さまが言ってるの?
なんか聾唖者差別みたいでやな展開
自分の思い込みで言われてもなあ

1495空き缶:2004/07/13(火) 18:04

 晃司さん>1487は、日蓮正宗宗門がかつて正信会の教義を皮肉って「本尊=目には見えないもの」と書いたことがあります。

 菅野師の主張がそのまま、晃司さんのお考えとは申しませんが、もし晃司さんが日蓮を信仰される方でしたら、きっと学ぶべきところのある論文であろうと思います。

1496大宮:2004/07/13(火) 18:07
「口で唱える南無妙法蓮華経が大御本尊様」と晃司さんが思うのは、
どうぞご自由にってとこだけど、それと富士門流のホームページの趣旨と
ぜんぜん関係ないもんなぁ
というより大聖人様の教えとも関係ないよね

1497晃司:2004/07/13(火) 18:12
どうも話が私の質問したいこととそれているように思います
私は1469番の問答迷人さんの
富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと思っております
と仰ってくれていますのでそれを待つことにします

1498大宮:2004/07/13(火) 18:15
「それている」たってねぇ … …
問答迷人さんの富士門流のホームページの趣旨の全面改変て
「口で唱える南無妙法蓮華経が大御本尊様」への帰一!?
うそだあ

1499晃司:2004/07/13(火) 18:56
>>1498
>口で唱える南無妙法蓮華経が大御本尊様への帰一

これは違うと思いますよ
それから聾唖者さんに対する題目ですが
題目とは意識ですからね単なる声で処理は出来ません
イメージとして声に出すと申しているように
声が出ない、目が見えない、耳が聞こえない
でも声となるのですよ

では改変が画期的なものと信じてお待ちしています

1500大宮:2004/07/13(火) 19:35
>1479 題目である大御本尊様への帰一
>1481 口で唱える「南無妙法蓮華経」
ていうから、「口で唱える南無妙法蓮華経が大御本尊様」
と言ったわけさ、そしたら、
>1499 これは違うと思いますよ
違う?? はあ?
>1489 形があるのは戒壇と本尊です、形がないのは題目
だってさ、最初に題目=大御本尊様って言ったよ
これは形がないわけだよね。それに帰一だっていったんでしょが
なのに、形があるのが本尊で、ないのが題目
じゃなに、本尊は形があって、御本尊様(題目)は形がないって?
本尊(形)、御本尊(無形)、何がどう違うのさ はあ??
こんな改変できないでしょうが??

1501晃司:2004/07/13(火) 20:22
>>1500
大宮さん
あの〜
口で唱える「南無妙法蓮華経」は私が言ったもので
これは違うと思いますよと言ったのは問答迷人さんは違う意味の
富士門ネットのあり方の全面改変だと思いますよ
まずは最初に戻ってね

>形があるのが本尊で、ないのが題目
>じゃなに、本尊は形があって、御本尊様(題目)は形がないって?
>本尊(形)、御本尊(無形)、何がどう違うのさ はあ??

えっとですね
初めに日蓮さんは題目を発しました、これが題目です(形のないもの)
次いで
本尊を作りました(曼陀羅等)(形在るもの)
次いで
その居場所を決めました(戒壇)(形在るもの)
です

御本尊さまというのはね三つ揃って御本尊さまというというのが既存の教学なんですよ

1502空き缶:2004/07/13(火) 21:24
晃司さん

>御本尊さまというのはね三つ揃って御本尊さまというというのが既存の教学なんですよ

そんなことはないと思いますよ。以前より「本門之題目」を根本とし、他のものは「形式の中の形式」と創価学会池田名誉会長も発言されています。

それから先ほどは正信会の菅野師の著書を紹介いたしましたが、もっとわかりやすいのが故伊芸益道師が「日興跡条々事への復帰」(大石寺法門研究序説)の「日興門徒の本尊観」という章で「色体巻軸本尊」(形となって目の前にある本尊)を批判しています。

晃司さんは、自身の哲学的感懐より日蓮の本尊観をとらえ、ここで新しい提案をされていることと存じますが、それと「日蓮の真意」・「日興の真意」は別のものであり、文献学的考証を重んじるこの掲示板の性格と矛盾点があると思います。
したがいまして晃司さんの求めている論議と、ここで展開されている論議とは基本的に主旨が異なるものと思われます。

1503晃司:2004/07/14(水) 07:17
>>1502
空き缶さん、おはようございます
既存の教学というのが
人によって何処までが過去と捉え
手放すべきと捉えるか提案させて貰っています

ここの掲示板の主旨はスレッド事に性格があると思います
それから問答迷人さんが更新すると宣言されましたのでその展開を待ってからでもよろしいかと思います
また
最新の富士門流の掲示板であっても
宗教の本論とは幸福です
部活動のように一つのテクニックを養うための場ではないと思います
宗教という名の集まりは幸福という築き上げと情報交換です
この掲示板は議論によって自分の知識だけを養う掲示板なのでしょうか?
もし知識だけを養う掲示板であるなら私は去ります、
それは各論でしかないからです

1504犀角独歩:2004/07/14(水) 09:23

1503 晃司さん:

> 初めに日蓮さんは題目を発しました、これが題目です(形のないもの)

違います。羅什がサダルマプンダリーカスートラを妙法蓮華経と訳した、この経題(経典の題名)を題目というのです。漢字で書かれた五文字を言います。
それを五重玄に解釈したのが天台であり、この(妙法蓮華経)五字を唱えることをはじめたのは天台(宗)です。それを踏襲して唱題を行として確立したのが蓮師です。

> 本尊を作りました(曼陀羅等)(形在るもの)

これも違います。蓮師は観心本尊という己心のなかに久遠実成釈尊を観たのです。これが本尊です。その一形態に漫荼羅本尊があるということです。

> その居場所を決めました(戒壇)(形在るもの)

そんなことは蓮師は言っていません。

> 御本尊さまというのはね三つ揃って御本尊さまというというのが既存の教学

そうではなく、興師門その他を既存の教学といえば、戒壇・本尊・題目は戒定慧の三学に配し、それを倶伝することを仏教というのです。

自分の考えを恰も蓮師のように、また、その後の継承者の教学のように語ることは甚だ不可です。

> 宗教の本論とは幸福

何でこのようなことが言えるのでしょうか。
しかし、では学会が好きな「幸福」とかいうこの言葉を否定しようと言うものではありません。あなたがどう言おうと、それは勝手ですが、仏教が宗教であれば、それは幸福を目指したものではなく、成仏を目指したものであったでしょう。ではその成仏を絶対幸福とか訳のわからない解釈をしたのは学会ですが、それをそのまま、当たり前のことのように書かれれば異議を唱えないわけにはいきません。

空き缶さんの指摘に何を勘違いしたか、本論・各論とか言い出し、幸福がどうということは「三つ揃って御本尊さま」に対する疑義への何の回答にもなっていません。
また、この点については大宮さん(はじめまして)がいう、本尊(有形)・御本尊様(無形)の違いへの疑問も同じくあなたは何も答えていません。

また、ここでは各論がどうだとやっているわけではなく、蓮師、あるいは興師が、実はどのような教学思想の持ち主であったのか、個人の勝手な解釈、後世の改竄を取り除いて、その素意を考えることを真剣にやってきました。その点を本論が幸福などと言って論をすり替えてよい謂われはありません。

1505犀角独歩:2004/07/14(水) 09:24

―1504からつづく―

> 既存の教学というのが人によって何処までが過去と捉え手放すべきと捉えるか提案

教学がなければ、こんな大それたことは無理でしょう。
そもそも既存の教学が何であるのかをわからなければ捉えようもないでしょう。

なお、仏教は、そもそも有形・無形を問題にしていないのは三諦論に明らかです。有無ではなく空仮中です。仏教は有論から、無論を言ったものではありません。
また、題目は形がないものではなく言語音声(ごんごおんじょう)という形を持っているからこそ、人々は認識できるわけです。これは心についても同じであって「心有らん人」などと蓮師は‘有’と記しました。
わたしには、あなたの 本尊・戒壇(有形):題目(無形) という分別が既に間違っているために、議論にならないのが、上述、空き缶さん、大宮さんとの食い違いであると見えます。

建造物として戒壇、紙に書かれた遺文、漫荼羅は火にくべれば燃えて無くなるから、そんな形あるものに拘らず、無いもので考えようというアプローチは、わたしは頷けません。

これでは蓮師が禅宗を批判して言う「禅宗等の人云はく「一代聖教は月を指す指なり。天地日月等も汝等が妄心より出でたり。十方の浄土も執心の影像なり。釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変なり。文字に執する者は株を守る愚人なり。我が達磨大師は文字を立てず」ということと何ら異なるところがないからです。
以上、やや批判的に記しましたが

> 形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思う

という点については、仏教で言う「無常」観そのものであり、この点については異論はありません。しかし、上述の如き、投稿に混乱を来し、また、他の投稿者と整合性、止揚に基づく会話を成り立たせず、自論を押し付けられても議論にはならないでしょう。出来れば真摯な議論が出来ればよいと思う故に記しました。

1506晃司:2004/07/14(水) 10:05
>>1504
独歩さんおはようございます
初めにことわっておりますと書いています1470番
その中でのご注意と言うことで受けとめておきます
ただし解釈の違いであって自分が絶対に正しいと言うことはあり得ませんので
そういう解釈で述べさせていただこうと思います
勝劣を争うことが本論ではなく幸せ観を与えてあげることが本論です
またどうも単語に拘られるようなので少し変えてみます

初めに日蓮さんは南無妙法蓮華経を発しました、これが唱題に出てくるお題目です(形のないもの)
次に一形態に漫荼羅本尊を作りました(曼陀羅等)(形在るもの)
次に世代にその居場所を決まりました(戒壇)(形在るもの)

それでですね
私は議論をしたいのではありませんのでご理解下さいませ
1468番の質問に対してご回答下さいませ

一つ言えることは
独歩さんは文証理証を追求して現証を求めないのですね
私は乃至法界というようにすべての人に(知識や知恵が出来ない)簡単で幸福観が得られる
そういった方法を教えるのが仏教の本論だと思っています
出来ればこのスレッド或いは別スレッドで
真跡、偽書などの追求をする議論のないスレッドにしたいと願っています
問答迷人さんが富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと仰って下さっておりますので
それを待ちたいと思います

1507晃司:2004/07/14(水) 10:09
>>1505
> 形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思う
という点については、仏教で言う「無常」観そのものであり、この点については異論はありません

ではこの点でのスレッドとして下さい
質問をされると私流を答えることになります
それではくり返しと言うことになりますので
すると
>上述の如き、投稿に混乱を来し、また、他の投稿者と整合性、止揚に基づく会話を成り立たせず、

こういったことにはならないと思います

1508犀角独歩:2004/07/14(水) 10:26

晃司さん、富士門ネットのあり方の全面改変への議論に加わるのであれば、重複になりますが、以下の点をまずは答えられては如何でしょうか。

「空き缶さんの指摘に何を勘違いしたか、本論・各論とか言い出し、幸福がどうということは「三つ揃って御本尊さま」に対する疑義への何の回答にもなっていません。
また、この点については大宮さん(はじめまして)がいう、本尊(有形)・御本尊様(無形)の違いへの疑問も同じくあなたは何も答えていません」

わたしは自分もそうしてきたことですから申し上げますが、自分の考えを修正・訂正することは何も間違ったことでも、恥ずかしいことでもないと思います。また、議論の中で日々精進していくことは、「一つのテクニックを養う」「自分の知識だけを養う」ことではなく、自分が信じ・行動する確かな糧を得るために必要なことであるとわたしは思います。

自分への学への怠慢を向学批判にすり替えても、学は少しも増さず、それ故、信もまた進歩変哲のない独り善がりに陥るばかりです。

1509晃司:2004/07/14(水) 10:27
そうだ、ちょっと横道になりますが
私は学会員ですが(他には何も経験はありません)
オリジナル思想を持っています
すべては良きことのために起こるよきっと教会という教会です

ここではね、難しい知識や教養はなくても
あるよりはない方が良いと教えています
叶えたい願いがあるなら思い続けることです、夢に見るくらいに思ってみよう
叶えたいと思うことは簡単ですがなかなか叶わない、
でも思い続けることが大切なんです

こういうことを伝えています
仏とは
ありのままの自分を認めたことといいます

仏教とは
そういったことを教えることで

成仏とは
それに気付くことです

余談ですいませんでした

1510晃司:2004/07/14(水) 10:40
>>1508
全面改変というのが
私の質問の戒壇による帰一ではなくて題目による帰一ではないのですかという
質問による回答で前面改変となっている思っています
ですからそれを待ちましょう
そしてそこには勝劣を争う議論のないスレッドも登場することを願っています

ですから富士門ネットのあり方の全面改変への議論に加わるのであれば
という議論には加わりません

三つ揃ってという解釈も独歩さんの気が済む答えは発することができないでしょう
だって私はきっと教会流で喋ることになりますから
三つ揃うとは既存の教義を学んだ所では三大秘法からです
ですが私は一大秘法を三大秘法と言ったとご理解下さい

>本尊(有形)・御本尊様(無形)の違いへ

本尊とは形ある存在と捉えています、(曼陀羅等)
形ない存在を御本尊様と捉えています(唱題に出てくる南無妙法蓮華経という単語を題目)

>自分への学への怠慢を向学批判にすり替えても、学は少しも増さず、それ故、信もまた進歩変哲のない独り善がりに陥るばかりです

これこそ伝えたいことです
学(知識や教養)を手放し直感とインスピレーションを養うこと(気付き)

1511管理者:2004/07/14(水) 10:48

晃司さん

どのようなスレッドをご希望なのか、管理者にはよく理解できません。もう一度、スレッドテーマのご提案をお願いいたしたいと存じます。

1512犀角独歩:2004/07/14(水) 11:02

晃司さん:

> 勝劣を争う議論

誰がそんなことをやっているのですか。学会ですか。
ここには勝とうと思っている人が言葉に詰まり逃げ出すことはあっても、真摯に資料文献を呈示しながら真面目に議論している人で勝劣を争っている人など一人もいません。事実を求めているだけです。

> 学(知識や教養)を手放し直感とインスピレーションを養うこと(気付き)

オカルトとか、神秘主義が好きなんですね。
南無妙法蓮華経、「日蓮さん」も一般の人からすれば、充分に知識であり教養であると思いますが。

どのみち、あなたの言うところは蓮師とも、富士門とも無縁のところでしょう。それなのに、富士門ネットについて問うのはどうしてでしょうか。
わたしは真跡とは思いがたいですが、蓮師門下は

「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」

という篤い志を懐いており、その点をわたしは尊いと思います。
そうしないあなたが富士門の、それも富士門ネットに拘る理由は何一つ無いのではないでしょうか。

> 単語に拘られるようなので少し変えてみます…

ですから、こうではないですよ。
1504に記したとおりです。

> 私は議論をしたいのではありませんのでご理解下さいませ

では何をしたいのですか。

> 1468番の質問に対してご回答下さいませ

既に申し上げたとおり、晃司さんの発題が間違っていると申し上げました。

> 何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

これは富士門ネットに問うべきことで、わたしへ問うのはお門違いです。
ただし、わたしは本門戒壇本尊への帰一へ従来記してきたとおり反対です。

> 戒壇と本尊とは形在る存在です、題目は形がありません

これは既に記しましたが、まったく了解できません。
できないわけですから、回答は出来ません。

> 形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思うのです

この点については異論がないと答えました。

> 再び、何故本門戒壇なんでしょうか

これは先に述べたとおり、わたしが答えるべきことではなく、わたしの考えとも違います。

> 題目である大御本尊様への帰一ではないのですか

これに回答するためには「題目である大御本尊様」の意味がわからないかぎり答えようがありませんので、大宮さんも同趣旨の質問をされていたので、まずはこの意味を晃司さんが解説されることが先決です。

> 独歩さんは文証理証を追求して現証を求めないのですね

そんなことはありませんよ。
晃司さんさんはご自身でも記されているとおり、創価学会しかご存じないのでしょう。ですから、あなたが仰る現証とはその井の中を出ません。つまり、外の現証を結果的に求めていないことに気付けませんか。

> …すべての人に(知識や知恵が出来ない)簡単で幸福観が得られる
そういった方法を教えるのが仏教の本論だと思っています

わたしは「簡単で幸福観が得られる…仏教…本論」なるものに至りませんので、無責任に放言をしないだけです。しかしそれは、個人的に何ら法悦、至福を味わったことが無いという意味では、もちろん、ありません。

では、それはどんなもので、それがまた、どのような根拠で文理の証があるのでしょうか。是非ともご呈示ください。

> 議論には加わりません

そうであれば、独り善がりの一方的な書き込みは、わたしにとっても皆さんにとっても実に迷惑な雑音に過ぎないことになります。
わたしもあなたの質問に答える必要もないし、あなたの投稿は見もせず、読み飛ばすだけです。

1513晃司:2004/07/14(水) 11:05
>>1511
ところで管理者さんと問答迷人さんは別人さんなのですか?

スレッドはそれぞれ宗派組織思想いろいろあるでしょうから
勝劣を争わずというのが基礎となります

この富士門ねっとの主旨が
本門戒壇大御本尊様への帰一を目指す、団体を超えた信徒のネットワークです。
となっていますがどうも完全なる納得ができません
何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか
戒壇と本尊とは形在る存在です、題目は形がありません
形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思うのです

ここで語句に誤解が生じましたので
南無妙法蓮華経へ帰一ではないのですかに変更しますが
問答名人さんの
富士門ネット発足当初は、三大秘法抄(太田金吾抄)が真書であるとの認識で、その三大秘法抄の記述に従い、無批判に日蓮聖人の御遺命が本門戒壇の建立にある、との認識で居りました為、そのような表現になっております。三大秘法抄は偽書ではないか、との疑義が出されている以上、本来ならば「日蓮聖人の教えに帰一」とすべきものだと思います。富士門ネットとしては、訂正を考えて来た経緯は有りますが、未だ手付かずとなって居り、申し訳なく思っています。富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと思っております

これをお待ちします、そしてこの新しい分野での新しいスレッドも待つことにします

1514晃司:2004/07/14(水) 11:13
>>1512
すでにオカルトなどという決め付けで勝劣を争っているではありませんか

> 何故本門戒壇なんでしょうか、題目である大御本尊様への帰一ではないのですか
>これは富士門ネットに問うべきことで、わたしへ問うのはお門違いです。
>ただし、わたしは本門戒壇本尊への帰一へ従来記してきたとおり反対です。

独歩さんへもともと質問はしておりませんが
非常に興味深いテーマなので、わたしも参加させていただきます
とご自分から参加されております
ですから当初の質問にのみご回答下さいませ
また管理人さんより回答がありました、その回答に回答していますので
そちらの結果をお待ち下さい

1515問答迷人:2004/07/14(水) 11:15

晃司さん

>1506 問答迷人さんが富士門ネットのあり方の全面改変を然るべき時期に実施したいと仰って下さっておりますので
それを待ちたいと思います

まだしばらく時間が掛かってしまいそうです。よろしくお願いいたします。

>そしてそこには勝劣を争う議論のないスレッドも登場することを願っています

富士門掲示板には論争禁止スレッドがいくつかあります。ご紹介しておきます。

「つぶやきスレッド」「組織活動の嫌な点についてお聞かせ下さい」「信心して良かったと感じた時は、どんな時ですか」「井戸端スレッド「山門前」」

1517晃司:2004/07/14(水) 11:21
>>1516
>まだしばらく時間が掛かってしまいそうです。よろしくお願いいたします

了解しました、ゆっくりどうぞ

>本来ならば「日蓮聖人の教えに帰一」とすべきものだと思います

新しい富士門ねっとが日蓮聖人の教えに帰一に変わった
という画期的な期待をお待ちしています

1518問答迷人:2004/07/14(水) 11:27

晃司さん

>ところで管理者さんと問答迷人さんは別人さんなのですか?

問答迷人が、現在は富士門掲示板の管理者を勤めさせて戴いて居ります。多重ハンドルネームでは有りません。管理者としての立場での発言は、当然のことながら「管理者」と書き込みます。管理者の立場を離れて、一人の掲示板参加者として発言する場合には、「問答迷人」と書き込んでいます。御理解賜りたく存じます。

1519晃司:2004/07/14(水) 11:41
本門戒壇の大御本尊への帰一という大目標を掲げる富士門信徒同士が、
法華講・正信会・創価学会・顕正会という組織の壁を乗り越え、
精神的結束力を高めて、異体同心の戦いを誓い合う場

富士門という存在が成長ある存在になるためには
法華講・正信会・創価学会・顕正会という組織の壁を乗り越えるのが一番ですね
それには戒壇が問題となっていきます
ですから日蓮聖人の教えに帰一が望ましいと思うのです
また教えとして争うようではもう終わりと思っても過言ではないとも思います

1520問答迷人:2004/07/14(水) 12:08

晃司さん

>また教えとして争うようではもう終わりと思っても過言ではないとも思います

意味が取れません。「日蓮聖人の教えに帰一」と言うのは簡単ですが、中身が本当は問題なのです。「日蓮聖人の教え」が何なのか、それに迷うが故に、日蓮聖人を祖師と仰ぎながら、四分五裂しているのが現実です。この点をどのように晃司さんは考えられて居られますか。

1521晃司:2004/07/14(水) 12:23
>>1520
心機一転問答迷人さん、こんにちは

>また教えとして争うようではもう終わりと思っても過言ではないとも思います

ここで戒壇が大切な教えであると主張があってそこを争うようでは
改変した意味がありません、からです

私はポジティブ思想のきっと教会ですから、簡単に捉えます
只南無妙法蓮華経のみです

もちろん声に出せない人は目で読んでもいいのです
只只、南無妙法蓮華経と唱えることです

1522空き缶:2004/07/14(水) 12:59

晃司さん、おはようございます。

やはり文証無き論議は、説得力に欠けます。日蓮の教えは「経文を先とせり」ですので、おっしゃられることを裏付ける文証がなければ空回りであろうと存じます。

独歩さんご指摘の通り、「教外別伝不立文字」では他宗の理念となってしまいます。なお「日蓮本仏論」や創価学会での「凡夫本仏論」などは禅系の思想が存分に発揮されたところであろうと存じます。
ここでは宗祖日蓮の元意(本懐?)というか、多くの富士門徒が結束するにふさわしい急進軸の一つとして、「本門戒壇之大御本尊への帰一」としていたのではないでしょうか。

しかし、本来「富士門徒」とは「本門戒壇之大御本尊」を特に特別なものと拝しない、京都要法寺・伊豆實成寺・西山本門寺・北山本門寺・保田妙本寺・小泉久遠寺などを中心とした門流も含まれます。
したがいまして、「日蓮正宗圏の結束」ではなく「富士門徒の結束」とされたところに、私のような珍客も仲間入りすることができたのではないでしょうか。

1523晃司:2004/07/14(水) 14:04
>>1522
空き缶さん、こんにちは
文証は必要ですか、必要な人には必要かも知れませんね
例えば風邪
なかなか治りにくいもの、効能書きがなくても薬は飲めるし効く
風邪が治ることが一番大切なことで
効能書きは製薬会社が他者よりも多く売りたいからでしょう

ただ風邪ぐすりかどうかを判断できればよいと思われます
私のきっと教会では効能書きはありません、ですから空き缶さんのご要望は満たせません
これは初めに申しております

ただ今回は問答迷人さんがもう少ししたら新HPにしてくれますので
それからそこをみて参加できる人が参加すれば宜しいかと思います
私がみて参加できないようであれば参加は致しません
待てと言われている以上待ちましょう、それまでは必要最小限の問答と致しましょう


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