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素朴な疑問
1505
:
犀角独歩
:2004/07/14(水) 09:24
―1504からつづく―
> 既存の教学というのが人によって何処までが過去と捉え手放すべきと捉えるか提案
教学がなければ、こんな大それたことは無理でしょう。
そもそも既存の教学が何であるのかをわからなければ捉えようもないでしょう。
なお、仏教は、そもそも有形・無形を問題にしていないのは三諦論に明らかです。有無ではなく空仮中です。仏教は有論から、無論を言ったものではありません。
また、題目は形がないものではなく言語音声(ごんごおんじょう)という形を持っているからこそ、人々は認識できるわけです。これは心についても同じであって「心有らん人」などと蓮師は‘有’と記しました。
わたしには、あなたの 本尊・戒壇(有形):題目(無形) という分別が既に間違っているために、議論にならないのが、上述、空き缶さん、大宮さんとの食い違いであると見えます。
建造物として戒壇、紙に書かれた遺文、漫荼羅は火にくべれば燃えて無くなるから、そんな形あるものに拘らず、無いもので考えようというアプローチは、わたしは頷けません。
これでは蓮師が禅宗を批判して言う「禅宗等の人云はく「一代聖教は月を指す指なり。天地日月等も汝等が妄心より出でたり。十方の浄土も執心の影像なり。釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変なり。文字に執する者は株を守る愚人なり。我が達磨大師は文字を立てず」ということと何ら異なるところがないからです。
以上、やや批判的に記しましたが
> 形在るものはいつかは壊れる、壊れるものに執着し所有することは悲しい
私はそう思う
という点については、仏教で言う「無常」観そのものであり、この点については異論はありません。しかし、上述の如き、投稿に混乱を来し、また、他の投稿者と整合性、止揚に基づく会話を成り立たせず、自論を押し付けられても議論にはならないでしょう。出来れば真摯な議論が出来ればよいと思う故に記しました。
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