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素朴な疑問
1444
:
一字三礼
:2004/06/30(水) 15:26
空き缶さん
>日蓮聖人門下の邸宅に出入りする人も他宗の人が多かったのではないかと想像いたします。
とのご指摘、私も同感です。
ただどうなのでしょうか、大曼荼羅を授与された信者は、常には仏間なり、持仏堂なりに安置していたのでしょうか。
真筆曼荼羅の中には深く折り目のついたものがありますし、像師授与の曼荼羅では、折り目が擦り切れて破れてしまっているそうです。
たとえば、常時吊るすような形式で安置されていれば、そのような折り目はつかないのではないか、と想像します。
ひとつには、大曼荼羅と言っても、その種類といいましょうか、性格といいましょうか、違いがあるのではないでしょうか。
「新尼御前御返事」にみられる例。ここでは大曼荼羅の役割は本尊であり、その展開は法華経に基づくと説明されております。
亀若丸・亀姫への授与にみられる例。千葉新介宗胤(亀若丸)の生年は文永2年(1265年)とされていて、授与されたのは建冶2年(1276年)だから11歳の時でしょう。年齢から考えても身命を惜しまないほどの強信者とも思えません。おそらく富木氏か太田氏が主家の若君の元服、もしくは九州での息災を願って蓮祖にお守り用曼荼羅を要請したものではないでしょうか。
「御本尊集」では、その他に一人に対して複数の大曼荼羅が授与されている例も見受けられます。これなどは賞与・功労賞の性格を持つのかもしれません。
余談ですが。
少し前の産経新聞に元・経団連会長の土光敏夫氏の母・土光登美氏の事が書かれておりました。岡山が地元の土光家は代々法華信者であったそうです。その紙面の写真に土光家の板碑が写っていたのですが、そこには題目が書かれていて、そのお文字がどう見ても保田の万年救護の首題にしか見えないのです。
備前法華と言えば、日像門流を思い浮かべるのですが、保田妙本寺と通用があったのでしょうか。
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