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近現代史綜合スレ

1とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース

http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説

戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

吸収したスレは>>2-6あたり。

1045名無しさん:2017/01/07(土) 15:26:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170106-00000040-cnippou-kr
釜山少女像、韓日外交戦に飛び火…日本が超強硬対応
中央日報日本語版 1/6(金) 13:48配信

日本政府が6日、釜山(プサン)の日本総領事館前に設置された旧日本軍慰安婦少女像に対する抗議の表示として在韓日本大使と釜山総領事を「一時帰国」させることにした。これに対し韓国政府は直ちに遺憾を表明した。釜山少女像問題が韓日外交戦に飛び火した。

日本政府は「釜山少女像」設置に対する「即刻対抗措置」として長嶺安政駐韓国大使と森本康敬釜山総領事を一時帰国させる一方、釜山総領事館職員の釜山市関連行事参加を見合わせることにした。また日本政府は韓国政府と進めてきた通貨スワップ交渉の中断を宣言し、韓日高官級経済協議も延期すると発表した。

日本側が釜山総領事館前の少女像設置に超強硬対応措置を取ったことで、韓日関係の悪化を警戒する韓国外交当局の悩みも深まる見込みだ。韓国政府はこの日、外交部報道官の論評を通じて「政府は日本政府が在釜山日本総領事館前の少女像に関連して今日閣議で決めた措置について非常に遺憾に思う」と明らかにした。また「政府は両国間に難しい問題があっても両国政府間の信頼関係を基礎に韓日関係を持続的に発展させていくべきだという点を改めて強調する」と述べた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170106-00000049-reut-bus_all
日韓通貨スワップ協議中断、麻生財務相「信頼ないと安定しない」
ロイター 1/6(金) 12:35配信

[東京 6日 ロイター] - 麻生太郎財務相は6日の閣議後会見で、日本政府が協議の中断を表明した日韓通貨スワップに関し、「信頼関係を作った上でやらないとなかなか安定しない」との見方を示した。

これに先立って記者会見した菅義偉官房長官は、韓国の市民団体が釜山市にある日本の総領事館に面した歩道に従軍慰安婦を象徴する少女像を設置したことを受け、日韓通貨スワップ協議の中断などを韓国側に伝えたと明らかにした。

麻生財務相はこれまでの協議の経緯を踏まえ、まずは両国の信頼関係構築が必要と強調。「当面の措置として官房長官からの談話の発表があった。中断することにしたというのは間違いない」と語った。

一方、米国のトランプ次期大統領がトヨタ自動車のメキシコ工場建設を巡って、自身のツイッターで批判したことについては、「北米自由貿易協定(NAFTA)の合意の中での話」とし「それをどういわれても、こちらとしてはどうしようもない」と明言を避けた。

その上で、トヨタが米国内でも工場を展開していることにも触れ「(トヨタは米国でも)大きな雇用を抱えてやっている」と述べた。

麻生財務相はまた、20日から始まる通常国会では「予算の成立に全力を挙げたい。早期成立が一番の景気対策になると確信している」と強調。

アベノミクスで円安・株高が進んだことなどを念頭に「これまでやってきた経済政策は間違っていなかった」と指摘した。

1046名無しさん:2017/01/07(土) 15:29:35
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20170106-00000062-nnn-pol
慰安婦像設置への対抗措置、その背景は…
日本テレビ系(NNN) 1/6(金) 18:59配信
 韓国・釜山の日本総領事館前に先月、慰安婦像が設置された問題をめぐり、菅官房長官は6日、長嶺駐韓国大使の一時帰国などの対抗措置を取ることを発表した。国会記者会館から青山和弘記者がその背景を解説する。

■なぜ政府は今回、厳しい対抗措置に踏み切ったのか

 一言で言えば、「面目が立たない」ということ。一昨年の慰安婦問題をめぐる日韓合意の際、安倍首相は冷え切った日韓関係を改善するため自らを支持する保守層の反発も覚悟して合意を決断した。そして去年9月には韓国の財団に10億円を拠出している。

 ところが合意に反する形で新たに慰安婦像を設置されてしまっては「面目が立たない」。首相周辺は「我慢の限界だ」と話している。

■今後の展開は?

 政府・与党内には日韓関係はしばらく冷え込むのではとの懸念が出ている。自民党のある閣僚経験者は「振り上げた拳をどう下ろすのか。慰安婦像が撤去されるまでとなると時間がかかるのではないか」と話している。

 政府高官は「日本は別に何も困らない」と強気の姿勢も見せているが、北朝鮮への対応などで韓国との連携が求められる上、同盟国アメリカからは日韓合意への支持と同時に良好な関係を保つように要請されている。そうした中、韓国大使が不在という状況をいつまで続けるのか。

 日本政府は今後、難しい判断が迫られることになる。

1047名無しさん:2017/01/07(土) 22:30:57
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010400921&g=pol
釜山少女像「極めて遺憾」=菅長官

 菅義偉官房長官は4日のBSフジの番組で、韓国南部・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置されたことについて「極めて遺憾だ。国際条約の中で国家としてしっかり対応してほしい」と述べ、韓国政府に善処を求めた。慰安婦をめぐる日韓合意にも触れ、「約束したことだから合意に基づいて努力することが極めて大事なことだ」と指摘した。(2017/01/04-23:16)

1048名無しさん:2017/01/07(土) 22:52:54
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170103/k10010827541000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_072
明治元年から150年へ 文書のネット公開など検討
1月3日 4時41分

政府は、来年、平成30年に明治元年から150年を迎えることに合わせて、明治期の貴重な文書などをインターネットで公開することや、当時活躍した若者や女性らの伝記を出版することなどについて、検討を進めていく方針です。
政府は、来年、平成30年に明治元年から150年を迎えることから、明治時代の資料の収集や保存、それに各地で行われるイベントへの支援などの関連施策を検討していて、このほど関係府省庁でつくる連絡会議が基本的な考え方を取りまとめました。

この中では、立憲政治や議会政治の導入といった明治以降の歩みを次世代に残すほか、機会の平等や和魂洋才などの明治の精神に学び、さらに飛躍する国を目指すとしています。そして、明治期の貴重な文書や写真などの資料を収集・整理し、インターネットで公開するデジタルアーカイブ化を進めることや、明治期に日本各地で活躍した若者や女性、外国人の伝記を出版したり、明治にゆかりのある建築物を公開したりして、当時の文化遺産に触れる機会を充実させることなどを、施策の方向性として示しています。

政府は、これらの施策の実現に向けて、ことし夏の平成30年度予算案の概算要求を見据え、関係府省庁ごとに検討を進めていく方針です。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830491000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_028
韓国の日本総領事館前の少女像撤去を要求 外務省杉山次官
1月6日 4時37分

外務省の杉山事務次官が韓国外務省のイム・ソンナム第1次官と会談し、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことについて、「到底許容できない」として直ちに撤去するよう強く求めました。
アメリカを訪れている外務省の杉山事務次官は5日、首都ワシントンで韓国外務省のイム・ソンナム第1次官と会談しました。この中で杉山次官は、韓国プサンの日本総領事館の前に学生などでつくる団体が慰安婦問題を象徴する少女像を設置したことを取り上げました。

そして、「おととしの日韓合意で長年にわたる慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを両国で確認しているが、このようなことは合意の大切な基礎を韓国側が一方的に崩すことを意味しており、到底許容できない」と述べ、直ちに少女像を撤去するよう強く求めました。

これに対し、イム第1次官は、「韓国政府としても、おととしの合意を着実に履行していく立場に変わりはなく、申し入れの内容は確実に政府の責任者たちに伝達する」と述べたということです。このあと杉山次官は記者団に対し、「1時間余りの会談のほとんどを少女像の問題に費やした。引き続き韓国政府や関係自治体に強く申し入れていくつもりだ」と強調しました。

1049名無しさん:2017/01/07(土) 22:54:55
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830651000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_025
韓国駐在の長嶺大使ら一時帰国へ 少女像設置で対抗措置
1月6日 11時28分

菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に、慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことは極めて遺憾だとして、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させることなどを発表しました。
この中で、菅官房長官は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことについて、「おととしの日韓合意では、慰安婦問題が最終的で不可逆的に解決されることを確認している。にもかかわらず少女像が設置されたことは、日韓関係に好ましくない影響を与えるとともに、ウィーン条約に規定する領事機関の威厳等を侵害するもので極めて遺憾だ」と述べました。

そのうえで、菅官房長官は、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使と森本プサン総領事の一時帰国、緊急時に通貨を融通しあう通貨スワップ協定の再開に向けた協議の中断、日韓ハイレベル経済協議の延期、それにプサン総領事館の職員による、プサン市関連行事への参加見合わせを発表しました。

そして、菅官房長官は「政府としては少女像を早急に撤去するよう、引き続き韓国政府や関係自治体に強く申し入れていく。引き続き韓国側に対し、少女像の問題を含め、日韓合意の着実な実施を求めていきたい」と述べたうえで、すでに対抗措置を講じることを韓国側に通報したことを明らかにしました。

また菅官房長官は、記者団が対抗措置をいつまで続けるのか質問したのに対し、「状況を総合的に判断して対応していきたい」と述べるとともに、「韓国はまさに隣国で極めて重要な国だ。そういう中で、今回このような措置をとらざるを得なかったのは極めて残念だが、そこはお互いに国と国として約束したことは履行してほしいという強い思いだ」と述べました。
石破氏 出たとこ勝負でない対応を
石破前地方創生担当大臣は東京都内で記者団に対し、「政府は、出たとこ勝負ではなくて、どういう収め方をしていくのか判断しながら対応しなければならない。日韓両国で、お互いに感情がエスカレートしていくことは決してよいことではなく、この地域の平和と安定のために何が一番大事で、北朝鮮を利することがないように何をすべきか、よくよく考える必要がある」と述べました。
大使の一時帰国は過去にも
外務省によりますと、抗議の意思を示すため、韓国に駐在している日本の大使を一時帰国させるのは、平成24年8月に、当時のイ・ミョンバク(李明博)大統領が島根県の竹島に上陸したことを受けて、当時の武藤大使を帰国させた時以来です。この時は10日余り、韓国に大使が不在となりました。

このほか、平成22年11月に、当時ロシアの大統領だったメドベージェフ氏が北方領土の国後島を訪問した際や、平成24年7月に、中国が沖縄県の尖閣諸島の周辺で領海侵入を繰り返した際にも、日本政府は、対応を協議するためなどとして、大使を一時帰国させました。

今回の対応について、外務省幹部は「日本がとった措置は強いものだが、韓国との扉を閉ざしたわけではなく、よい方向に向かうよう願っている」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830841000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_020
通貨スワップ協定の再開協議も中断 麻生氏「当面の措置」
1月6日 13時50分
韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことへの当面の対抗措置として、政府は、緊急時に通貨を融通しあう「通貨スワップ協定」の再開に向けた協議を中断することになりました。これについて麻生副総理兼財務大臣は、閣議のあとの会見で、「信頼関係をきちんと作った上でやらないとなかなか安定したものにならないので、当面の措置ということで理解している」と述べました。
日本と韓国は、金融市場が混乱し外貨の確保が困難になった場合などにドルなどの通貨を融通しあう通貨スワップ協定を2001年に結びました。両国の関係悪化などを背景におととし(2015年)2月に終了しましたが、去年8月、世界経済の先行きに不透明感が増しているとして、韓国側から協定の締結が提案され、日本としては協定の再開に向けて議論を始めることに合意していました。

1050名無しさん:2017/01/07(土) 23:07:07
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010831301000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_012
韓国 日本の大使呼び遺憾の意 少女像への対抗措置で
1月6日 19時05分

韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に、慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことに対する日本政府の措置について、韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相は、韓国駐在の長嶺大使を呼んで会談し、遺憾の意を伝えました。
韓国南東部のプサンでは先月30日、日本総領事館の前に学生などで作る団体が慰安婦問題を象徴する少女像を設置し、日本政府は6日、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させ、緊急時に通貨を融通しあう通貨スワップ協定の再開に向けた協議を中断することなどを発表しました。

これを受けて、韓国のユン・ビョンセ外相は6日夕方、長嶺大使を韓国外務省に呼び、およそ1時間にわたって会談しました。

韓国外務省によりますと、会談でユン外相は、日本の対抗措置について遺憾の意を伝えたということです。
そのうえで、「両者は慰安婦合意を着実に履行していくという立場を再確認するとともに、両国関係を継続的に発展させていかなければならないという点で一致した」としています。

これに先立ち、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク報道官は、「日本政府の措置は非常に遺憾だ」としたうえで、「両国間に困難な問題があったとしても信頼に基づいて継続して関係を発展させていかなければならないという点を改めて強調したい」と述べました。

また、企画財政省もコメントを発表して遺憾の意を示しましたが、その一方で「政治や外交に関係なく、経済と金融の分野での協力が継続されることを願っている」とも表明し、経済面に影響が及ばないことに期待をにじませました。
少女像設置した団体は
日本政府の対抗措置について、像を設置した団体がコメントを発表し、日本政府の対応を非難したうえで、「日本政府は慰安婦問題をはじめとする植民地支配と戦争犯罪について、公式な謝罪と法的な賠償を行わなければならない」と主張しました。
さらに、韓国政府に対しても「日本にあいまいな態度をとり続けるのならば、国民の怒りはさらに高まるだろう」として、慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意は見直すべきだと主張しました。
韓国メディアも詳しく報道
日本政府が発表した対抗措置について、韓国の各メディアもその内容を詳しく報道しています。
このうち、公共放送KBSは、午後5時からのニュースで、「日本政府が少女像の撤去を要求し、報復措置を発表した」としたうえで、東京から特派員が菅官房長官の記者会見の様子などを詳しく伝えました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170107/k10010831521000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_009
少女像撤去の見通し立たず 日韓関係悪化は不可避
1月7日 5時18分

政府は、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する大使を一時帰国させることなどを決めましたが、少女像が撤去される見通しは立っておらず、改善の流れにあった日韓関係が再び悪化するのは避けられない情勢です。
政府は、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことに抗議し、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させることや、緊急時に通貨を融通し合う「通貨スワップ協定」の再開に向けた協議を中断することなどを決めました。

政府は「少女像の設置は、慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓両政府間の合意だけでなく、国際条約にも反している」として、韓国側に対し、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含めて、早期に撤去するよう求めていくことにしています。

菅官房長官は6日の記者会見で、「韓国はまさに隣国で極めて重要な国だ。今回、このような措置を取らざるをえなかったのは極めて残念だが、国と国として約束したことは履行してほしいという強い思いだ」と述べました。

政府としては、核実験や弾道ミサイルの発射を繰り返す北朝鮮に対応するためにも、日韓関係の悪化は避けたい考えで、防衛協力などは推進する方針です。

ただ、韓国のパク・クネ(朴槿恵)大統領の職務が停止されて求心力が低下する中、少女像が撤去される見通しは立っておらず、改善の流れにあった日韓関係が再び悪化するのは避けられない情勢です。

1051名無しさん:2017/01/08(日) 21:21:36
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600311&g=pol
駐韓大使ら一時帰国へ=少女像設置へ対抗措置-政府

 菅義偉官房長官は6日午前の記者会見で、韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置されたことに関し、長嶺安政駐韓大使を一時帰国させるなどの対抗措置を講じると明らかにした。一昨年の日韓合意の精神に反するとして、異例の強い措置に踏み切った。

 菅長官は少女像設置について「日韓関係に好ましくない影響を与えるとともに、領事機関の威厳を侵害するもので極めて遺憾だ」と表明。当面の間、(1)長嶺大使、森本康敬釜山総領事の一時帰国(2)釜山総領事館職員の釜山市関連行事への参加見合わせ(3)日韓通貨スワップ(交換)協議の中断(4)日韓ハイレベル経済協議の延期-の四つの措置を取ると説明した。
 政府は6日までに、外交ルートで韓国側に伝達。措置をいつ解除するかについて、菅長官は「状況を総合的に判断する」と述べ、韓国政府の対応を注視する姿勢を示した。
 2015年12月の日韓合意では、ソウルの日本大使館前に設置された少女像に関し、「韓国政府は関連団体との協議を通じて適切に解決されるよう努力する」とされた。だが、その後、撤去などの動きは進まず、釜山の像についても韓国政府は積極的に阻止しなかった。日本政府高官は対抗措置について「日本の強い抗議の姿勢を示した」と語った。(2017/01/06-12:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600072&g=pol
釜山少女像、即時撤去を=外務次官が韓国に要求

 【ワシントン時事】訪米中の杉山晋輔外務事務次官は5日、日米韓3カ国の次官協議に先立って韓国の林聖男外務第1次官とワシントンで会談し、韓国・釜山の日本領事館前に設置された慰安婦を象徴する少女像について「到底許容できない」と述べ、即時撤去するよう求めた。杉山次官が明らかにした。

 杉山次官は、慰安婦問題の最終解決をうたった2015年末の日韓合意に触れ、「日本は既に(合意に基づく)10億円の拠出を済ませ、ソウルの日本大使館前の少女像撤去について、韓国の努力を固唾をのんで見守っていた」と指摘。「そのような中での新たな像の建立は、韓国が大切な合意の基礎を一方的に崩すことを意味する。直ちに撤去すべきだ」と強調した。
 これに対し、林次官は「合意を着実に履行していく立場に変わりはない。申し入れの内容は確実に、中央政府の責任者に伝達する」と応じたという。
 杉山次官は林次官に、駐韓大使の一時帰国などの対抗措置も説明したとみられる。
 杉山次官はこの後、ブリンケン米国務副長官とも会談。杉山次官が「日韓合意に逆行することは建設的でない」との考えを示したのに対し、ブリンケン副長官は「合意が双方によって着実に履行されることを強く期待する」と語った。(2017/01/06-12:48)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600412&g=pol
日韓関係、また冷却化へ=少女像撤去の見通し立たず

 【ソウル時事】韓国・釜山の日本総領事館前での少女像設置を受け、日本政府が6日、長嶺安政駐韓大使の一時帰国など対抗措置を発表したことで、2015年12月の慰安婦問題をめぐる政府間合意を機に好転するかに見えた日韓関係が再び冷却するのは避けられない見通しとなった。

 韓国外務省は同日、「大変遺憾に思う」との論評を発表。「両国間で難しい問題があっても、政府間の信頼関係を基に、日韓関係を引き続き発展させていかなければならない」と強調した。
 ただ、釜山の総領事館前の少女像をめぐっては、釜山市東区がいったん強制的に撤去したものの、市民からの激しい抗議を受けて、一転、設置を認めた経緯がある。このため、再び撤去するのは極めて困難で、見通しは立っていない。
 韓国外務省も論評の中で「難しい問題」があることは認めたものの、少女像問題への具体的な対応には触れなかった。
 慰安婦合意を主導した朴槿恵大統領は、国会の弾劾訴追案可決で職務停止に追い込まれている。野党は慰安婦合意の履行中断や再協議を求めており、日本の対抗措置に強く反発するのは必至だ。(2017/01/06-12:55)

1052名無しさん:2017/01/08(日) 21:24:30
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600406&g=pol
少女像設置は「非建設的」=安倍首相-米副大統領、着実な履行期待

 安倍晋三首相は6日、バイデン米副大統領と電話で会談した。韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置されたことを念頭に、バイデン氏は「米政府として慰安婦問題に関する日韓合意を支持しており、着実に履行されることを強く期待する」と述べた。首相は「日韓両政府が責任を持って実施していくことが重要で、これに逆行することは建設的ではない」と応じた。

 首相は、日米同盟について「かつてないほど強固な希望の同盟だ」との認識を示した。昨年末の真珠湾訪問で「オバマ大統領とともに日米の和解の価値を世界に向けて発信できた」と強調した。(2017/01/06-13:18)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600697&g=pol
韓国外相、日本大使に遺憾表明=少女像問題、次期政権に-関係停滞長期化も

 【ソウル時事】韓国南東部・釜山の日本総領事館前に少女像が設置された問題で、日本政府が長嶺安政大使の一時帰国など対抗措置を発表したことを受け、尹炳世外相は6日午後、長嶺大使を呼んで約1時間会談し、「遺憾の意」を表明した。尹外相と長嶺大使はまた、慰安婦問題に関する日韓合意を着実に履行していく立場を再確認した。

 日本政府は、少女像の設置が合意に反するだけでなく、外国公館の安全や権威維持をうたったウィーン条約にも違反しているとして、即時撤去を求めている。長嶺大使はこうした立場を伝えたとみられる。
 釜山の少女像に対し、韓国政府は撤去への具体的な措置を取れない状況だ。朴槿恵大統領の親友、崔順実被告の国政介入事件を受け、弾劾訴追案が可決され、職務停止となる中、ソウルの日本大使館前にある少女像を含め、問題解決は次期政権に持ち越される可能性が高い。勢いを増す野党は、合意の破棄を求めており、次期政権の対応次第では日韓関係が長期停滞局面に入る恐れもある。(2017/01/06-20:39)

1053名無しさん:2017/01/10(火) 22:18:36
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010700060&g=pol
日韓合意、着実に履行を=釜山の少女像設置で-岸田外相

 【パリ時事】フランスを訪問中の岸田文雄外相は6日夜(日本時間7日午前)、韓国・釜山で慰安婦を象徴する新たな少女像が設置された問題について、慰安婦問題に関する2015年12月の日韓合意の履行を韓国側に求めていく考えを示した。パリで開かれた日仏外務・防衛担当閣僚協議(2プラス2)終了後、記者団に語った。
 日本政府は6日、長嶺安政駐韓大使を近く一時帰国させるなどの対抗措置を発表している。これに関し、外相は「こうした措置は残念だが、少女像の問題も含め日韓合意の着実な履行を求めていきたい」と述べた。
 外相は韓国について「重要な隣国であるという認識は変わらない」と指摘。その上で「日韓合意は多くの国が高く評価した。しっかり履行することが両国の大きな責任だ」と語り、韓国政府に責任ある対応を取るよう促した。(2017/01/07-08:07)

1054名無しさん:2017/01/14(土) 00:13:43
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011000004&g=pol
10億円、日本に返還を=慰安婦合意で韓国野党幹部

 【ソウル時事】韓国最大野党「共に民主党」の禹相虎院内代表は9日の幹部会議で、慰安婦問題をめぐる合意に基づき日本政府が韓国の財団に拠出した10億円について「早期に返すべきだ」と述べた。「予算が足りないなら、国会で予備費を計上すればいい」と指摘した。

 安倍晋三首相は、釜山の日本総領事館前の少女像設置に関し、「日本は10億円の拠出を既に行った。次は韓国がしっかり誠意を示していただかなければならない」と述べたが、禹氏は10億円の拠出と少女像設置問題の関連付けに強く反発した格好だ。
 禹氏は「韓国が日本を相手に詐欺を働いたというような話まで出ている」と述べ、「韓国外相は抗議もできない。このような屈辱があろうか」と批判した。(2017/01/10-00:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011000377&g=pol
韓国首相「言動自制を」=慰安婦問題の応酬過熱で

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領の職務を代行する黄教安首相は10日の閣議で、慰安婦問題について「状況悪化をもたらす言動は自制することが望ましい」と述べ、日韓双方に冷静な議論を呼び掛けた。釜山の日本総領事館前に設置された慰安婦を象徴する少女像をめぐり、日韓双方で応酬が過熱していることが念頭にあるとみられる。

 黄首相は2015年末の日韓合意に基づく事業では、被害者の名誉と尊厳回復、心の傷の癒やしが重要だと指摘。「両政府だけでなく、すべての利害当事者が合意の趣旨と精神を尊重し、努力することが必要だ」と訴えた。(2017/01/10-11:51)

1055名無しさん:2017/01/14(土) 00:13:53
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011000254&g=pol
安倍首相、駐韓大使から報告聴取=釜山の少女像設置で協議

 安倍晋三首相は10日午前、首相官邸で、韓国・釜山の慰安婦問題を象徴する新たな少女像設置に抗議して一時帰国させた長嶺安政駐韓大使から報告を受けるとともに、今後の対応について協議した。

 これに先立ち、長嶺氏は菅義偉官房長官に報告した。菅氏はこの後の記者会見で、「(慰安婦問題に関する日韓)合意を責任を持って実施することが極めて重要だ。引き続き韓国政府に対し、合意の着実な実施を求めていく」と語った。
 日本政府は、ソウルの日本大使館前に続き、昨年末、釜山の日本総領事館前に少女像が設置されたことに「合意の精神に反する」と反発。長嶺氏らの一時帰国や通貨スワップ(交換)協議の中断など4項目の対抗措置を発表した。(2017/01/10-12:09)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010800156&g=pol
駐韓大使ら、9日に一時帰国=釜山の少女像設置で対抗措置

 【ソウル時事】韓国・釜山の日本総領事館前に昨年末、慰安婦を象徴する少女像が新たに設置されたことを受け、長嶺安政駐韓大使と森本康敬釜山総領事は9日、日本に一時帰国する。日本の外務省が8日、発表した。
 長嶺大使と森本総領事の一時帰国は、釜山の少女像設置をめぐる日本政府による対抗措置の一つ。長嶺大使は日本に数日間滞在する見通しで、安倍晋三首相や岸田文雄外相に状況を報告し、今後の対応を協議するとみられる。
 日本政府は2012年8月、李明博大統領(当時)による竹島(韓国名・独島)上陸に抗議するため、武藤正敏駐韓大使(当時)を一時帰国させたことがある。当時、武藤氏の日本滞在は12日間に及んだ。
 ソウルの日本大使館前に続き、釜山の総領事館前に少女像が設置されたことを受け、日本政府は6日、駐韓大使や総領事の一時帰国のほか、通貨スワップ(交換)協議の中断、日韓ハイレベル経済協議の延期などの対抗措置を発表していた。(2017/01/08-19:50)

1056名無しさん:2017/01/14(土) 16:43:33
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170110/k10010833991000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_076
少女像設置 一時帰国の駐韓大使ら首相に報告 対応を協議
1月10日 11時57分

安倍総理大臣は、10日午前、総理大臣官邸で、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として一時帰国させた韓国駐在の長嶺大使らから韓国国内の現状の報告を受け、今後の対応などを協議しました。
韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことをめぐり、政府は、おととしの日韓両政府の合意に反するなどとして撤去を求めていますが、改善が図られないため対抗措置として、9日、韓国に駐在する長嶺大使と森本プサン総領事を一時帰国させました。

長嶺大使らは10日午前、外務省で杉山事務次官らと協議したあと、総理大臣官邸で、安倍総理大臣や菅官房長官と面会しました。
安倍総理大臣は、長嶺大使らから、少女像設置後の韓国政府の対応などの報告を受け、少女像の撤去に向けた今後の対応などを協議しました。

面会後、長嶺大使は記者団に対し、「内容について申し上げることはできないが、総理、官房長官にしっかりとご報告したということだ」と述べました。
また、同席した外務省幹部は「総理から指示があったが、内容は言えない」と述べました。

政府は、慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓合意に反するなどとして、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含めて撤去を求めており、韓国政府の対応も見ながら長嶺大使らを韓国に戻す時期などを決めることにしています。
官房長官「合意の着実な実施求める」
菅官房長官は閣議のあとの記者会見で「おととしの日韓合意では、慰安婦問題が最終的で不可逆的に解決をされると両政府で確認している。韓国政府も『合意を着実に実行していくという立場には変わりはない』としており、引き続き韓国側に対してこの慰安婦像の問題も含め、合意の着実な実施を求めていきたい」と述べました。

また、菅官房長官は長嶺大使らが韓国に戻る時期について「現時点では決まっているわけではなく、今後の諸状況を総合的に判断して検討していきたい」と述べました。

一方、菅官房長官は、韓国との関係について「極めて重要な同じ価値観を共有する国だと理解している。特に北朝鮮問題が厳しい中にあって、日米韓はしっかり連携して対応していく必要がある」と述べました。
防衛相「誠実に合意履行を」
稲田防衛大臣は閣議の後の記者会見で、「歴史的な日韓合意に反する行動には強く抗議し撤去を求めていく。日韓双方が誠実に合意を履行していくことが求められている」と述べました。そのうえで、稲田大臣は、「わが国と韓国は、ともにアメリカの同盟国として、東アジアの平和と安定に共通の利益を有している。長年の懸案であった、GSOMIA=安全保障上の機密情報を共有・保護するための協定の発効は、地域の平和と安定に資するものであり、安全保障をめぐる協力を強化していきたい」と述べました。
自民 二階幹事長「それほど長くはならない」
自民党の二階幹事長は、記者会見で、「韓国は、日本と緊密な歴史がある国なので、丁寧に対応することが大事だ。大使の帰国は、どこの国でもそういう対応をとることがしばしばあるが、用が済めば再び戻ることが通例であり、今回もそんなに長く引っ張ることにはならないと思う」と述べました。

1057名無しさん:2017/01/14(土) 16:45:45
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170111/k10010834911000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_058
駐韓大使ら戻す時期 韓国政府の対応見極め判断
1月11日 5時29分

政府は慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置された問題で一時帰国させた長嶺大使らを韓国に戻す時期について、北朝鮮の動向を踏まえれば長引かせるのは得策ではないという意見もあり、撤去に向けた韓国政府の対応も見極めながら判断することにしています。
政府は韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国駐在の長嶺大使と森本プサン総領事を一時帰国させ、安倍総理大臣は10日、長嶺大使らから少女像設置後の韓国政府の対応などの報告を受けました。

長嶺大使らは外国訪問を終えて11日に帰国する岸田外務大臣とも面会する予定で、少女像の撤去に向け、今後の対処方針などを協議することにしています。

政府は「パク・クネ(朴槿恵)大統領の職務停止など、韓国国内の状況にかかわらず、2国間の合意は引き継がれるべきだ」として、韓国政府に対し、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含めて撤去を求めていく考えです。

ただ、政府内には長嶺大使らを韓国に戻す時期について、北朝鮮がミサイルの発射実験を強行する可能性を示唆していることなどから、長引かせるのは得策ではないという意見もあり、政府は少女像の撤去に向けた韓国政府の対応も見極めながら判断することにしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170110/k10010833921000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_077
少女像設置 一時帰国の駐韓大使 官邸で首相と対応協議か
1月10日 11時22分
慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、一時帰国した韓国駐在の長嶺大使らは10日午前、総理大臣官邸に入り、安倍総理大臣に韓国国内の現状などを報告し、今後の対応を協議しているものと見られます。
韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことをめぐり、政府はおととしの日韓両政府の合意に反するなどとして撤去を求めていますが、改善が図られないため対抗措置として9日、韓国に駐在する長嶺大使と森本・プサン総領事を一時帰国させました。

長嶺大使らは10日午前、外務省で杉山事務次官らと協議したあと総理大臣官邸に入りました。長嶺大使らは安倍総理大臣に、少女像が設置されたあとの韓国政府の対応などの状況を報告したうえで、少女像の撤去に向けた今後の対応などを協議しているものと見られます。

政府は、少女像の設置について慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓合意などに反しているとして、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含め撤去を求めていて、今後の対処方針が決まり次第、長嶺大使らを韓国に戻し、韓国政府への働きかけを強めていくことにしています。

1058名無しさん:2017/01/14(土) 16:47:05
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170109/k10010832921000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_086
駐韓国大使 きょう一時帰国 少女像設置への対抗措置
1月9日 4時18分

政府は、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使を、9日、一時帰国させて今後の対応を協議することにしていて、少女像の撤去に向け韓国政府への働きかけを強めていくことにしています。
政府は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使と森本・プサン総領事を9日、一時帰国させることにしています。長嶺大使らは、チェコなどの訪問を終えて11日帰国する岸田外務大臣らと面会して、現状を報告したうえで、今後の対応を協議する予定です。

これに関連して、安倍総理大臣はNHKの番組で、「慰安婦問題の日韓合意は最終的かつ不可逆的な合意だとお互いに確認している。日本は誠実に義務を実行し10億円をすでに拠出している。次は韓国がしっかりと誠意を示していただかなければならない。それはたとえ政権が代わろうとも実行するのが国の信用の問題だ」と述べました。

政府は、少女像の設置について、日韓合意に反しているなどとして、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含め撤去を求めていく考えで、今後の対処方針が決まり次第、長嶺大使らを韓国に戻し、韓国政府への働きかけを強めていくことにしています。
外相 「合意内容の着実な実施求めたい」
岸田外務大臣は訪問先のチェコで記者会見し、「日韓合意で、慰安婦問題が最終的、不可逆的に解決されることが確認されたにもかかわらず、わが国の公館の前に少女像が新たに設置された事態は極めて遺憾だ」と述べました。

そのうえで、岸田大臣は「日韓合意は、世界の多くの国々が高く評価しており、日本も韓国も、合意の内容を履行する責任を持っている。日本は履行しており、引き続き韓国側に対し、少女像の問題も含め、合意内容の着実な実施を求めたい」と述べました。
韓国メディア 問題長期化との見方
長嶺大使の一時帰国など日本政府の一連の対抗措置について、韓国メディアは問題が長期化するとの見方を伝えています。

このうち、公共放送KBSは、8日午後9時のニュースの中で安倍総理大臣がNHKの日曜討論に出演し、プサンの日本総領事館の前にある少女像の撤去を求めていく考えを示したことなどを詳しく伝えました。

そして、「韓国外務省は、慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意を着実に履行する立場を示すなど原則的な対応を示していて、日本側との摩擦が大きくなることを避けている」として韓国政府の対応を擁護したうえで、「日韓関係は当分の間、冷え込むことが予想されるという分析が出ている」として、問題が長期化するとの見方を伝えています。

一方、通信社の連合ニュースは、安倍総理大臣が「次は韓国がしっかりと誠意を示していただかなければならない」と述べたことについて、「日本側は合意の核心部分である謝罪と反省を誠実な態度で示さずに慰安婦問題の解決だけを求めているという批判が少なくない」として、日本側の対応を批判的に伝えています。

少女像の問題について、韓国政府は「外国の公館の保護という観点から慎重に判断する必要がある」とする立場ですが、具体的な解決策は示しておらず、パク・クネ(朴槿恵)大統領の職務が停止され、求心力が低下するなか、韓国政府が主体となって像を撤去すれば、世論の反発が強くなることを懸念しているものと見られます。

1059名無しさん:2017/01/14(土) 16:52:27
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170109/k10010833211000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_082
一時帰国の駐韓国大使 ソウルを出発
1月9日 12時37分

韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことへの対抗措置として、政府が一時帰国させることにした韓国に駐在する長嶺大使はソウルの空港で、「少女像の設置はきわめて遺憾だ」と述べて帰国後、今後の対応を協議する考えを示しました。
政府は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使を9日、一時帰国させることを決めました。

長嶺大使は午前11時すぎソウルのキンポ空港で記者団に対し、「少女像が設置されたことはきわめて遺憾だ。これから日本に帰国し関係者の間で打ち合わせをすることにしている」と述べました。長嶺大使はこのあとソウルを出発し、日本に向かっています。
一方、長嶺大使とともに一時帰国することになった森本プサン総領事は、9日午前、日本に到着しました。

政府は慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓両政府の合意に反しているとして少女像の撤去を求めています。

一方、韓国政府は日韓合意を着実に履行する立場ですが、パク・クネ(朴槿恵)大統領の職務停止で求心力が低下する中、撤去に踏み切れば世論の強い反発を招くとの懸念もあり、具体的な解決策を示していません。
東京のコリアンタウン「残念だ」
韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことへの対抗措置として、政府が韓国に駐在する大使を一時帰国させることについて、国内最大規模のコリアンタウンがある東京・新大久保周辺では「残念だ」という声が聞かれました。

新大久保の近くに長年住んでいるという80代の日本人の男性は「慰安婦の問題に関しては、おととし両国の間で合意したと思っていたのに残念だ。韓国では政府と国民で思いが食い違っているのではないか」と話していました。

新大久保周辺で韓国の料理や化粧品などを扱うおよそ130の店が加盟する新宿韓国商人連合会のシン・デーヨン(申大永)専務理事は「政府どうしで同じ話を何度も繰り返しているようで残念だし、きちんと信頼関係を築いて大人の対応を取ってほしい。コリアンタウンに大きな影響が出るかはわからないが、こんな時だからこそ、新大久保を活気づけて街を盛り上げていきたい」と話していました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170108/k10010832731000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_087
政府 少女像設置への対抗措置 駐韓国大使あす一時帰国へ
1月8日 18時39分

政府は、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使を、9日、一時帰国させると発表しました。
政府は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことに抗議し、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させることや、緊急時に通貨を融通し合う「通貨スワップ協定」の再開に向けた協議を中断することなどを決めました。

これを受けて、政府は8日夕方、長嶺大使と森本プサン総領事を、9日、一時帰国させると発表しました。このあと長嶺大使らは、チェコなどの訪問を終えて今月11日に帰国する岸田外務大臣と面会して現状を報告したうえで、今後の対応を協議することにしています。

政府は、少女像の設置が慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓両政府の合意に反しているとして、韓国側に対し早急に撤去するよう求めていて、韓国政府の対応が焦点となっています。
韓国では問題長期化の見方も
韓国外務省のチョ・ジュンヒョク報道官は公共放送KBSの電話インタビューに対し、「経済や交流に影響を及ぼしてはならず、日本側は積極的に韓国側と問題を解決してほしい」と述べました。

少女像の問題について韓国政府は、「外国の公館の保護という観点から慎重に判断する必要がある」とする立場ですが、像を撤去すれば世論の強い反発を招くだけに具体的な解決策を示すことができない状況で、問題は長期化するという見方も出ています。
韓国メディアも、問題を早期に収束させるのは難しいという見通しを伝えており、このうちKBSは、「長嶺大使が帰国したあと、日韓関係は重要な局面を迎えることになる」としたうえで「少女像の設置に対して日本国内の世論は悪化しており、問題を早期に収束させるのは難しいだろう」と伝えています。

1060名無しさん:2017/01/14(土) 16:53:01
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170108/k10010832431000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_092
安倍首相 少女像の撤去求める考え示す
1月8日 11時37分

安倍総理大臣はNHKの「日曜討論」で、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことについて、韓国は慰安婦問題をめぐる日韓合意の義務を履行する必要があるとして、ソウルの日本大使館前の像も含め撤去を求めていく考えを示しました。
この中で、安倍総理大臣は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する新たな少女像が設置されたことについて、「慰安婦問題の日韓合意は最終的かつ不可逆的な合意だとお互いに確認している。日本は誠実に義務を実行し10億円をすでに拠出している」と指摘しました。
そのうえで安倍総理大臣は、「次は韓国がしっかりと誠意を示して頂かなければならない。それはたとえ政権が代わろうとも実行するのが国の信用の問題だ」と述べ、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含め撤去を求めていく考えを示しました。

また安倍総理大臣は、先の日ロ首脳会談で北方領土での共同経済活動の実施に向け検討を始めることで合意したことについて、「北方四島に住むロシア人の人々が理解を示さなければ北方領土は返ってこないという現実に向き合わなければならない」と述べました。
そのうえで安倍総理大臣は、「日本人とロシア人が四島で共同経済活動をする。これは間違いなく平和条約の締結に向けて大きなプラスになる。四島の帰属を解決して平和条約を結ぶ道筋の中に共同経済活動がある」と述べました。

1061名無しさん:2017/01/14(土) 17:43:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011100787&g=pol
岸田外相、長嶺大使らと協議=韓国帰任「総合的に判断」-少女像問題

 岸田文雄外相は11日午後、韓国・釜山の慰安婦少女像設置への対抗措置として一時帰国している長嶺安政駐韓大使、森本康敬釜山総領事と外務省で会い、報告を受けた。少女像撤去の見通しが立たない中、今後の韓国当局への要求事項などをめぐり協議したとみられる。
 岸田氏はこの後、安倍晋三首相を首相官邸に訪ね、自身の欧州訪問について報告。併せて少女像問題への対応や長嶺大使らの帰任時期をめぐっても意見調整したもようだ。岸田氏は大使らの帰任に関し、記者団に「総合的に判断する」との考えを示した。(2017/01/11-21:07)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010900108&g=pol
駐韓大使が一時帰国=10日にも安倍首相と協議-釜山・少女像に対抗措置

 韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、長嶺安政駐韓大使と森本康敬釜山総領事が9日、それぞれ一時帰国した。長嶺氏らの日本滞在は数日間となる見通し。10日にも安倍晋三首相や菅義偉官房長官に状況を報告し、今後の対応を協議する。日本としては、少女像撤去を含め、慰安婦問題に関する2015年末の日韓合意の着実な履行を韓国側に求めていく方針だ。
 長嶺氏は9日午後、羽田空港着の民間機で帰国。これに先立ち、ソウルの金浦空港で記者団に「少女像設立は極めて遺憾だ」と改めて強調した。森本氏は同日午前に成田空港に到着した。両氏は外務省で金杉憲治アジア大洋州局長と会い、首相への報告を前にすり合わせを行った。
 少女像はソウルの日本大使館前に続き、釜山の総領事館前に昨年12月末に設置された。これを受け日本政府は今月6日、日韓合意の精神に反するとして、大使と総領事の一時帰国に加え、通貨スワップ(交換)協議の中断や日韓ハイレベル経済協議の延期などの対抗措置を発表した。
 駐韓大使の一時帰国は、12年8月の李明博大統領(当時)の竹島上陸への抗議で実施して以来。日韓合意に基づき元慰安婦支援のため10億円を拠出した日本としては、強力な対抗措置により韓国側の誠実な対応を引き出したい考えだ。
 しかし、朴槿恵大統領の職務停止で韓国の内政は混乱しており、少女像撤去などは見通せない状況だ。日本外務省幹部は「出口戦略は描けてない。韓国側の対応を見て考える」と語った。
 韓国内では日本の対抗措置に反発する声が出ており、柳一鎬副首相兼企画財政相は8日、与野党議員らに「外交問題が経済的な影響を与えるのではないか」と懸念を示した。(2017/01/09-18:23)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010900020&g=pol
駐韓大使、午後帰国=釜山・少女像設置に抗議

 【ソウル時事】韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置された対抗措置として一時帰国する長嶺安政駐韓大使は9日昼、ソウルの金浦空港を出発した。出発前、同空港で記者団に対して「少女像設立は極めて遺憾だ」と述べた。同日午後に羽田空港に到着する。森本康敬釜山総領事は9日午前、成田空港に到着した。
 長嶺大使は日本に数日間滞在する見通し。安倍晋三首相や岸田文雄外相らに韓国の状況を報告し、今後の対応を協議するとみられる。(2017/01/09-12:25)

1062名無しさん:2017/01/14(土) 18:26:07
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011300422&g=pol
潘氏「10億円返すべきだ」=少女像撤去と関連なら-韓国

 【ソウル時事】韓国次期大統領選の有力候補とされる潘基文前国連事務総長が、慰安婦問題をめぐる日韓合意に基づき日本が拠出した10億円について「少女像撤去に関わるものならば、それは間違ったことだ」と指摘し、「そうならば返した方がよい。話にならない」と発言していたことが分かった。韓国メディアが13日、伝えた。

 韓国紙・朝鮮日報などによると、12日に帰国した潘氏は、帰国途中の機内で韓国記者団のインタビューに応じた。
 また、潘氏は安倍晋三首相と昨年末に電話で会談したことを明らかにした。安倍首相に対し、「慰安婦や歴史問題で公平に歩み寄り、未来志向で解決しなければならない」と話したという。(2017/01/13-12:19)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011300588&g=pol
日韓関係「変わらず」46%=慰安婦問題で対立後-時事世論調査

 時事通信が6〜9日に行った世論調査で、今後の日韓関係の見通しについて尋ねたところ、「変わらない」と答えた人が46.9%で最も多く、半数近くを占めた。「今より悪くなる」は36.8%で、「今より良くなる」は4.4%にとどまった。11.9%が「分からない」と答えた。
 韓国・釜山の日本総領事館前に昨年末、市民団体が慰安婦を象徴する少女像を新たに設置。これを積極的に阻止しようとしなかった韓国政府への対抗措置として、日本政府は今月6日、長嶺安政駐韓大使らの一時帰国を発表した。(2017/01/13-15:08)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011300803&g=pol
少女像移転に「努力」=関係者協議に前向き-韓国外相

 【ソウル時事】韓国の尹炳世外相は13日、国会の外交統一委員会に出席し、釜山に設置された慰安婦を象徴する少女像の移転について「関係当事者と一緒に可能な解決策を見つけることができるよう努力していきたい」と述べ、関係者との移転協議に前向きな姿勢を示した。

 韓国政府はこれまで「適切な場所について知恵を絞ることを期待する」との表現にとどめていた。日本政府が対抗措置として駐韓大使を一時帰国させ、帰任時期が見通せない中、慰安婦をめぐる日韓合意を着実に履行する姿勢を示す狙いとみられる。
 ただ尹氏は、市民団体との協議は「特に進展があると言えない」と明かした。合意の無効を訴える市民団体が協議に応じる見込みも薄く、移転の先行きは依然不透明だ。(2017/01/13-19:09)

1063名無しさん:2017/01/21(土) 21:44:45
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011600697&g=pol
崔被告、慰安婦合意と無関係=在日学者聴取の結果-韓国

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領の親友、崔順実被告の国政介入事件などを調べている特別検察官チームは16日午後、慰安婦問題をめぐる2015年末の日韓合意に崔被告が関与した疑惑について、「確認した結果、崔被告とは関係ないと判断した」と明らかにした。
 特別検察官チームは14日、崔被告とともに日韓合意に影響力を行使した疑いがあるとして、日韓関係を専門とする在日韓国人学者を事情聴取していた。
 尹炳世外相は昨年12月、国会で「私が知る限り、難度の高い外交政策に(崔被告が)関与する可能性はない」と答えていた。(2017/01/16-19:10)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011800507&g=pol
広島市長、オバマ大統領に書簡=昨年の訪問「大きな希望」と謝意

 広島市の松井一実市長は18日の記者会見で、20日に退任するオバマ米大統領宛てに書簡を送ったことを明らかにした。この中で昨年5月の大統領の広島訪問について「被爆者の思いを受け止めてもらったことに市民は感銘を受け、被爆体験を原点に未来志向の重要性を強調したことに大きな希望を抱いた」と謝意を伝えた。
 書簡は昨年12月16日付。市長はまた、オバマ氏が退任後も「核兵器のない世界」実現に向けて尽力するとともに、都市間の連携を通じた核廃絶を目指す「平和首長会議」(会長・松井氏)と「バラク・オバマ財団」が連携を深めるよう求めた。
 同会議の事務局がある広島平和文化センターによると、同センターの小溝泰義理事長が12月20日、ケネディ駐日大使に面会した際に書簡を手渡した。大使は「広島の願いを大統領は真剣に受け止めるでしょう」と話したという。(2017/01/18-14:48)

1064名無しさん:2017/01/22(日) 23:34:05
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170119/k10010845281000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_036
一時帰国の駐韓大使ら 帰任は当面見送る方向に
1月19日 17時11分

安倍総理大臣は、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことを受けた韓国への対応をめぐって、岸田外務大臣と協議し、韓国側の対応を見極める必要があるとして、一時帰国させている韓国駐在の長嶺大使らを戻すのは、当面、見送る方向となりました。
安倍総理大臣は19日午前、総理大臣官邸で、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されて以降、関係が停滞している韓国への対応をめぐり、岸田外務大臣と協議しました。

その結果、韓国側の対応を見極める必要があるとして、一時帰国させている韓国駐在の長嶺大使らを戻すのは、当面、見送る方向となりました。

これに関連して、菅官房長官は午前の記者会見で、長嶺大使らを戻す時期について「諸般の状況を総合的に判断して時期は検討していく考えに変わりはない」と述べたほか、外務省幹部は「日本側が動くより、まずは韓国側が日韓合意に基づいて対応を示すべきだ」と話しています。

韓国国内では、島根県の竹島に新たに少女像を設置する動きもあり、政府は、こうした韓国側の動きも見ながら長嶺大使らを戻す時期を検討するものと見られます。
官房長官「帰任は諸般の状況で判断」
菅官房長官は午後の記者会見で、記者団が「慰安婦像が撤去されないかぎり、駐韓大使の帰任は考えられないのか」と質問したのに対し、「総合的に判断して検討していくという考えに変わりはない。諸般の状況などを見ながら判断していきたい」と述べました。

そのうえで、菅官房長官は「日韓合意で、慰安婦問題の最終的で不可逆的な解決を確認したにもかかわらず、在プサン総領事館前に慰安婦像が設置された事態は、日韓関係に好ましくない影響を与えるとともに、領事関係に関する国際的なウィーン条約に照らしても問題であり、極めて遺憾だ」と述べました。

そして、菅官房長官は「日韓それぞれ、一昨年の合意に基づいて責任を持って実施することが重要であり、韓国政府も合意を着実に実行していく立場に変わりはないと表明している。引き続き韓国側に対して、粘り強く、あらゆる機会をとらえて慰安婦像の問題を含め合意の着実な実施を強く求めていきたい」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170117/k10010842901000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_063
竹島に少女像設置の動き 官房長官「強く抗議 」
1月17日 18時06分

菅官房長官は、午後の記者会見で、島根県の竹島に慰安婦問題を象徴する少女像を新たに設置する動きが韓国内で出ていることについて、「受け入れられず、極めて遺憾だ」と述べたうえで、韓国側に対して直ちに強く抗議したことを明らかにしました。
この中で菅官房長官は、記者団が、韓国の議員団が慰安婦問題を象徴する少女像を島根県の竹島に新たに設置する動きが出ているとして政府の受け止めをただしたのに対し、「竹島の領有権に関するわが国の立場に照らしても受け入れられず、極めて遺憾だ。韓国側に対しては、報道を受け、直ちに強く抗議を行った」と述べました。

また菅官房長官は、プサン(釜山)の日本総領事館の前に少女像が設置されていることに関連して、「一昨年の日韓合意は、最終的、不可逆的に解決されることを確認している。韓国でも、『日韓合意を守ることも大事だ』とユン・ビョンセ(尹炳世)外相が発言しており、合意をお互いの国が守ることが大事だ」と述べました。
韓国外務省報道官「関連の動向を確認」
島根県の竹島に慰安婦問題を象徴する少女像を新たに設置する動きが韓国内で出ていることについて、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク(趙俊赫)報道官は17日の記者会見で、「報道があるのは承知しているが、まずは関連の動向を確認したい」と述べました。

一方で、日本政府が改めて竹島が日本固有の領土だとする立場を示したことについて、「明らかに韓国固有の領土であり、日本政府はつまらない主張を直ちにやめるよう求める」と述べ、ソウルにある日本大使館の鈴木総括公使を呼んで抗議したことを明らかにしました。

1065名無しさん:2017/01/22(日) 23:53:41
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011900604&g=pol
竹島設置「望ましくない」=慰安婦象徴の少女像-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は19日の記者会見で、慰安婦を象徴する少女像を島根県・竹島に設置する動きに関し、「少女像に関連した事案を、性格が全く異なる独島(竹島)と関連付けることは望ましくない」と述べ、反対する立場を示した。

 報道官は「少女像は普遍的人権問題で、日本軍の慰安婦被害に関連している一方、独島は、わが国の領土主権に関わる事案であり、性格が全く違う」と指摘した。
 聯合ニュースによると、中部・京畿道の議会は、竹島での少女像設置を目指し、募金活動を開始。これに対し、韓国で竹島を「管轄」している慶尚北道の知事は「不適切だ」と反対している。(2017/01/19-16:25)

1066とはずがたり:2017/01/25(水) 19:03:16

「慰安婦本」著者に無罪=名誉毀損の刑事裁判―韓国
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20170125/Jiji_20170125X873.html
時事通信社 2017年1月25日 16時41分 (2017年1月25日 18時54分 更新)

 【ソウル時事】韓国の学術書「帝国の慰安婦」で「自発的な売春婦」といった描写により元慰安婦の名誉を傷つけたとして、名誉毀損(きそん)罪で在宅起訴された朴裕河・世宗大教授(59)の判決公判が25日午後、ソウル東部地裁で開かれ、無罪を言い渡した。
 検察側は「歴史的事実を意図的に歪曲(わいきょく)し、全く反省していない」などとして、懲役3年を求刑。これに対し、朴教授は「名誉を傷つける意図はなく、虚偽でもない」「公共の利益が目的だった」と無罪を主張していた。
 元慰安婦らは2014年6月に朴教授を告訴。検察は15年11月、在宅起訴した。

1067とはずがたり:2017/01/29(日) 16:33:11

ベルリン市長「この壁を造るのをやめなさい」
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20170128-567-OYT1T50095.html
13:21読売新聞

 【ベルリン=井口馨】ベルリンのミヒャエル・ミュラー市長(52)は27日、トランプ米大統領に対し、「孤立と排斥という誤った道」に進まないように警告し、メキシコ国境沿いに壁を建設する計画の撤回を強く求めた。

 独DPA通信などが伝えた。

 ベルリンは東西冷戦時代に「ベルリンの壁」で街が分断された経験がある。ミュラー氏は「ベルリンに住む人々は、有刺鉄線とコンクリートの壁による分断が引き起こす苦しみを最もよく知っている」と指摘した。

 1987年に当時のレーガン米大統領がベルリンで行った演説でソ連側に「この壁を壊しなさい」と迫ったエピソードにも言及し、「大統領、この壁を造るのをやめなさい」と諭した。

 ベルリンの壁は、西独への住民流出を防ぐため東独が61年に建設した。89年に東西の市民が取り壊し、撤去。冷戦終結の象徴となった。

1068とはずがたり:2017/01/31(火) 13:52:45
旅順攻囲戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6

しりとり歴史人物館
乃木希典
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/siritori/nogi.html

1069とはずがたり:2017/01/31(火) 19:10:41
<ナチス医学>20万人以上障害者が安楽死、調査へ
毎日新聞社 2017年1月31日 13時49分 (2017年1月31日 18時12分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20170131/Mainichi_20170131k0000e030250000c.html

 ◇ドイツの研究機関、「負の歴史」に向き合う

 ナチス政権下で20万人以上の障害者が強制的に安楽死させられた事件を巡り、ドイツを代表する研究機関・マックスプランク研究所が近く、犠牲者の生涯や脳などの人体標本の行方について、外部研究者による委員会を設けて実態調査を始めることが分かった。同研究所は犠牲者の人体標本を使って医学研究を進めた経緯があり、戦争犯罪に加担した「負の歴史」に向き合う取り組みだ。【千葉紀和】

 ナチス政権はホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の前に、「民族衛生」を名目に障害者をガス室などで殺害した。「T4作戦」と呼ばれ、殺された人々の脳などは、マックスプランク研究所の前身のカイザー・ウィルヘルム協会に送られ、医学研究に利用された。

 こうした標本の存在はかつて問題化し、同研究所は1990年に約10万点を国内の墓地に埋葬。ドイツ精神医学会は2010年に障害者安楽死に関与したことを認めて謝罪した。しかし、一昨年に安楽死の犠牲者とみられる組織標本が同研究所にまだ残っていることが判明。また、脳標本の一部は他機関の医学者らに研究材料として提供されたとみられ、標本の行方の全容は分かっていない。

 このため、米国やオーストリアの歴史家ら4人を中心に3年間で、同研究所に残る資料や散在した標本の状況を調査。非倫理的に集められた標本がどう取り扱われたかを探るほか、犠牲者の特定も試みるという。同研究所のハインツ・ベッスレ名誉教授は「犠牲者は忘れられるべきでなく、彼らの人生を再構築することで人間としての尊厳を回復したい」と話す。

 戦時中は日本の医学者も731部隊などに参加し、中国などで細菌や毒物を使う非倫理的な人体実験を試み、戦後にその成果や関連研究で医学論文を書いたことが判明している。「戦争と医の倫理」の検証を進める会世話人の吉中丈志・京都民医連中央病院院長は「日本も調査を進めるべきだ」と指摘する。

 ◇T4作戦

 優生思想に基づく独ナチス政権の障害者安楽死政策。知的障害者や精神障害者のほか、遺伝性の視覚障害者らの一部も対象となった。公式には1939?41年に実施され、犠牲者は約7万人だが、実際はその後も続き、少なくとも20万人が殺害されたとされる。名称は作戦本部があったベルリンのティーアガルテン通り4番地に由来する。

1070とはずがたり:2017/02/09(木) 09:54:30
あ,朝日新聞が中曽根を絶賛している(;´Д`)右傾化だっヽ(`Д´)ノw

安倍・トランプ会談、80年代にタイムスリップ?
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%AE%89%E5%80%8D%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E4%BC%9A%E8%AB%87%E3%80%81%EF%BC%98%EF%BC%90%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%EF%BC%9F/ar-AAmJi9b#page=2
朝日新聞デジタル
10 時間前

 10日に米ワシントンで行われる安倍晋三首相とトランプ大統領の首脳会談の最大のテーマは、「通商」になりそうだ。自動車を含む対日貿易赤字、為替操作問題……。たびたび日本を名指しで批判するトランプ氏。外務省幹部は「1980年代にタイムスリップしたようだ」と当惑する。

 その80年代は、現在より激しい貿易摩擦が日米間に横たわっていた。外務省が1月に公開した外交文書には、両国のやりとりの内幕を書き留めた約千ページの記録があった。当時、日本のかじ取りを担ったのは中曽根康弘首相。手書きの文面に宿る生々しいやりとりから、難局を切り抜けようと奮闘する中曽根氏の姿が浮かび上がった。

 米国人労働者が日本車をハンマーでたたき壊す映像を思い出す人もいるだろう。米国の貿易赤字の大部分を日本が占め、貿易摩擦問題は再選を目指す共和党のレーガン大統領への格好の批判材料となっていた。

 そのような情勢の中、首相に就任したばかりの中曽根氏は初めての日米首脳首脳会談に臨む。拡張政策をとるソ連に対抗するためにも、同盟国・米国との関係悪化は避けなければならない。

 公開された記録を読むと、会談では初めてとは思えない突っ込んだ議論を展開していた。米側が牛肉・オレンジの関税引き下げを迫ると、中曽根氏は「オレンジの皮は固い」と切り返した。代わりに、米側が望む防衛協力について踏み込んだ。結局、レーガン氏は通商問題は軽く触れただけで先鋭化させなかった。中曽根氏にとっては、狙い通りの会談だったと思う。

 良好な日米関係は、日中関係の発展にもつながったようだ。胡耀邦総書記との関係は「友」と呼び合う間柄になり、当時の最高権力者・鄧小平氏には「43世紀まで友好を続けよう」と、言わしめた。日米をテコに日中関係を強める――。

 文書を繰りながら感じたのは、中曽根外交に一貫した戦略性だ。その根幹となった「ロン・ヤス」関係について、識者の一人は「両者には大局観で一致する胆力があった」と指摘した。翻って現在。尖閣問題もあって日中関係は悪化し、トランプ氏の就任で日米関係も揺らいでいる。40年前の為政者たちは、会談に臨もうとする今の両首脳をどう見るのだろうか。(古賀大己)

     ◇

 経済部・古賀大己 1976年生まれ。首相官邸や外務省で経済政策や通商交渉を担当している。トランプ大統領の政策が、世界の通商秩序にどう影響するのか、注視している。

1071とはずがたり:2017/02/20(月) 12:14:42
ハルノートと書いてhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1399200577/813改めてwikiを読んで復習したが,太平洋戦争は多大な,余りに多大な貴い犠牲を出しながらも,日本に所謂戦後民主主義を確立する契機となったと評価せざる得ないし,戦没者は全て日本の民主改革の革命の英雄として靖国に(w),まあ千鳥ヶ淵に祀られて然るべきであるかと思うが,そもそも戦争が回避出来なかったのかと云う思いはなくもない。

で,戦争の原因に石油の確保があった訳で,ナチス・ドイツが振り返れば無謀とも思える独ソ戦に踏み切った原因の一つにバクー油田の確保があり(他方に思想的に優性民族のゲルマン人はスラブ人を奴隷として使っても良いと云う考えもあったようだ),日本の南方進出もアメリカに依存していた石油資源の確保と云ふ狙いがあった事も良く云はわれてゐる。

wikiのハルノートにはじり貧論って記述があって石油の自給は2年分だそうな。まんが日本の歴史かなんかでも2年分とあったけど,この2年分ってのはどういう積算根拠なんだ?
と思って検索かけてみた。ちゃんと誰かが答えてるもんだ♪
しかし当時はまああんま使わなかったから2年分も貯め込めてたんだな〜。今では2年分も備蓄するとか夢の又夢だw

太平洋戦争開始の時、日本の石油備蓄は1年〜1年半くらいだったはずです しかし...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320719753
nezubadonさん2008/11/1623:41:21

太平洋戦争開始の時、日本の石油備蓄は1年〜1年半くらいだったはずです
しかしその後4年も戦争続けていたとはどういうことでしょうか?
東南アジアからそんなに大量に石油を運んでいたとは考え難いんですが

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nmurasさん 編集あり2008/11/1719:37:23
当時の統計資料から、ごく大雑把に数字を引用すると、こんな感じになります。

開戦時点での国内備蓄: 800万キロリットル
開戦前の年間消費量予測: 500万キロリットル(現実には400万キロリットル程度で収まった or それしか使えなかった)

戦争中の全消費量: 1300万キロリットル
戦争中の国内生産量: 150万キロリットル
東南アジアからの輸入総量: 500万キロリットル

東南アジアに展開した軍や企業が現地で直接消費した分は入っていない数字ですが、まあ、こうなります。
終戦の年である1945年には輸入が途絶え、燃料備蓄の減少から消費量も極端に減っているので、これらの数字の大半は1942〜1944年の3年分だと考えた方が良いかもしれません。
「800万(事前備蓄)+150万(国内生産)+500万(輸入)-1300万(消費) = 150万(残り)」ですから、輸入の途絶えた1945年にはまともに活動できるだけの燃料が残っていない現実が判ると思います。

そして事前予測通りに年間500万キロリットルのペースで石油を消費すれば、3年もたずに石油供給が破綻したであろうことも判ります。
例えば、戦争中ずっと海軍の艦隊の動きが鈍い(戦艦や空母がなかなか出動しない)大きな理由は燃料を節約するためなのですが、そうやって燃料を節約したから、4年近くも戦い続けることができたわけです。

また南方からの石油輸入は、現地の生産量にはゆとりがあり、主にタンカーの不足によって日本本土への輸送が滞っています。

1072とはずがたり:2017/04/10(月) 14:17:47
近代教育と識字率: 日本の統治が近代教育を施し、識字率を上げた説
http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-literacy.html
 
日本が学校を建ててやってハングルをどうのこうの、という物言いが本当に成り立つのか、数字で検証してみます。

 まずは手っ取り早く、大日本帝国の栄えある朝鮮文明統治20年の成果を、帝国の正確無比な(たぶん、ね)統計で確かめてみましょう。
 下記に、1930年(昭和5年)の国勢調査結果から作成した識字率のグラフを示します。

(図略)

学齢期の10代ですら識字率が男性で半分いかず、女性に至っては1割台なかばです。
 併合後に日本帝国より賜ったとかいう近代教育が朝鮮人の識字率を劇的に上げたなら、こんな事起こる筈がありません。

 この時点で早くも、日本帝国は初等教育の普及を怠っていたことが露見されます。実際、朝鮮総督府は最後まで義務教育を施行しませんでした。

 更に、併合のかなり前から朝鮮・韓国自前で、16〜20%程度の識字率を確保し、漸次改善していた事をこのデータは強く示唆しています。

1073とはずがたり:2017/05/30(火) 21:16:55
ナチスもソ連に攻め込まなければもっと延命してたかと思うとぞっとするがその思想の中に崩壊の萌芽が仕込まれてたって訳か。
さて現代資本主義・グローバリゼーション・人権というイデオロギーセットはどうだろうか?

ナチスドイツはどうしてソ連の資源を目がけて行ったのでしょうか?南に行けば石油...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14100880204
efudetarou1さん2013/1/2522:08:24

ナチスドイツはどうしてソ連の資源を目がけて行ったのでしょうか?南に行けば石油資源は手に入ったんじゃないでしょうか?どっちにしてもやらねばやられてやんでしょうか?
そういえばアフリカにも侵攻してましたよね。石油資源なら中東かアフリカに行けばよかったんじゃないでしょうか?どうして見るからに強そうなソ連を相手にクマを起こすようなことをしたんでしょうか?ソ連へ侵攻さえなかったらまだドイツは戦えていたんじゃないでしょうか?

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kdkosfpさん 2013/1/2523:45:58
『我が闘争』を読めばわかります。
東方植民を行い、劣等民族のスラブ人を農奴としてドイツ人農民の大農園でこき使うのが目的です。
ヒトラーの戦争目的はロシアを植民地にするためで、フランスやイギリスと戦ったのは成り行き上の前哨戦にすぎません。
他の人も言っていますが、当時の主要産油地はアメリカ、バルカン半島、ソ連のコーカサス地方で、中東ではボチボチと油田が発見された頃でした。
ドイツ軍がアフリカに行ったのは、同盟国イタリアが植民地リビアからイギリスの植民地のエジプトに侵攻して返り討ちにあったから尻拭いに行っただけです。

1074とはずがたり:2017/06/01(木) 14:43:53

橋下徹氏 日韓慰安婦問題で提案「他国の事例を参考にして謝罪方法の基準をつくる」
http://news.livedoor.com/article/detail/13099516/
2017年5月23日 9時56分 トピックニュース

22日放送の「橋下×羽鳥の番組」(テレビ朝日系)で、橋下徹氏が日韓の従軍慰安婦問題をめぐって、日本の謝罪の方法を見直すべきと提案した。

番組では、従軍慰安婦問題をテーマに、橋本氏と東海大学教授の金慶珠(キム・キョンジュ)氏らを交えて激論が戦わされた。

橋下氏は、2015年の慰安婦問題日韓合意について、国会は批准しておらず「(法的効力は)まずないでしょう」と、断言した。そして、韓国の立場から日本の謝罪について「『謝り、謝罪が足りない』と思っているのでしょう」と、韓国側の心情を推察する。

その上で、橋下氏は「謝りのレベルは何で決めるのか」と問題提起し、その解決策として他国の事例を参考にして、謝罪方法の基準を設けなくては、韓国側は納得しないと力説したのだ。

また、橋下氏は米、英、仏、独における慰安婦問題の事後処理を引き合いにして、日本の謝罪対応の評価を仰ぎながら、韓国側の納得を得るしかないと打開策を語った。

しかし、これに金氏は異論を唱えた。金氏は、韓国は諸外国の事例や基準を求めているのではないと断じ「真心のこもった謝罪を求めてるの!」と反論しながら、安倍晋三総理大臣からの謝罪の重要性を強調していた。

1075とはずがたり:2017/06/10(土) 07:57:21
なぜ樺太放棄した? 面積だけでは測れない「樺太千島交換条約」の真意
https://thepage.jp/detail/20161129-00000009-wordleaf
2016.11.30 12:00

 終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。

 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。

もっと知りたい北方領土
日魯通好条約の20年後に行われた領土交換

樺太を放棄し、全千島列島の領有権を得た「樺太千島交換条約」(内閣府北方対策本部ホームページ参考)

 日ロ間で初めて法的に国境を決めた1855(安政元)年、「日魯通好条約(日露和親条約)」では、樺太を両国民混住の地とし、千島列島の択捉島と得撫(ウルップ)島の間に国境線を定め、択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領と決めました。

 しかし、その20年後の1875(明治8)年、樺太はロシア領、代わりにウルップ島以南を含む全千島列島を日本領とする「樺太千島交換条約」を日ロ間で交わします。なぜ、このような領土の交換があったのでしょうか。

両国民混住の樺太 たびたび日ロの紛争の種に

樺太千島交換条約には全権公使として榎本武揚の名が記されている

 日魯通好条約の後、樺太は松前藩領から江戸幕府の直轄地に。その後、明治政府の成立に伴い、1869(明治2)年には太政官直属の開拓使所管となります。一方、両国民混住の地と決めたロシアは、クリミア戦争終結後、樺太開発に乗り出し、たびたび両国間の紛争が起こるようになりました。

 事態を受け、両国間で樺太の国境線を決めることは重要な問題でした。新政府には、樺太全島もしくは半分で境界線を引き、南半分を日本のものとするという意見と、遠隔地である樺太を放棄し、北海道開拓に注力する、という2つの意見がありましたが結局、樺太放棄論が優勢になりました。

国際法に長けていた全権公使・榎本武揚

樺太千島交換条約には千島列島の島としてウルップ島以北の18島名のみ書かれている

 交渉は1874(明治7)年から、ロシアのサンクトペテルブルクで行われました。日本から派遣された旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。榎本は新政府と旧幕府側の最後の戦いとなった箱館戦争(五稜郭の戦い)で破れ、投獄されますが、オランダ留学中から肌身離さず海洋法に関する「海律全書(海上国際条規)」を持つなど国際法に通じていたことから、助命され、明治政府の一員となりました。交渉時は日本初の海軍中将、駐ロ特命全権公使に任命され、約1年近い交渉の末に、ロシア外務大臣ゴルチャコフとの「樺太千島交換条約」締結にこぎつけます。

地政学上重要だった千島列島の領有

 新政府にとり、財政力でも防衛力でも広大な樺太を統括する力がなかったとはいえ、面積的に見れば7万6400平方キロメートルある樺太を放棄し、総面積1万数千平方キロメートルしかない千島列島との交換は割に合わないようにみえます。

 しかし、ロシアの海洋進出を警戒していた英国政府のアドバイスもあり、地政学上、オホーツク海と太平洋を分ける千島列島は海洋戦略上、重要な地点という認識を、明治政府が持っていたとみられます。また千島列島は南北に約1200キロの長さがあり、水産業にとっては大きな意味を持ちました。

 また、「樺太千島交換条約」の文面をみると、日本に譲渡されるウルップ島以北の18島の名称はありますが、択捉・国後・色丹・歯舞の北方四島は含まれていません。既に先の「日魯通好条約」で択捉島以南が日本領であるということが両国間で明確に認識されていたようです。

1076荷主研究者:2017/07/02(日) 11:35:58

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201706/CK2017061702000147.html
2017年6月17日 東京新聞
陸軍板橋火薬製造所跡 近代産業遺産「高い価値」

現存する国内最古の射撃場跡。燃焼実験室(奥の建物)から弾道管が延びる=板橋区で

 16日に国の文化審議会が史跡に指定するよう答申した陸軍板橋火薬製造所跡(板橋区加賀1)には、現存する国内最古の火薬研究所と射撃場の跡があり、近代の産業遺産として価値が認められた。区は製造所跡を、史跡公園として整備。東京五輪・パラリンピックがある2020年に一部オープンし、23年に全面開業する。 (増井のぞみ)

 特に貴重とされる射撃場は一八七七(明治十)年にできた。小銃などの弾の速さを計測する弾道管が火薬の燃焼実験室から延び、五十メートルあったうち三十メートルが今も残る。現在は区立加賀公園として使われている場所の築山には、射撃場から弾を撃ち込んだレンガ積みの標的がある。

 また、敷地の一部は戦後の一時期、理化学研究所(理研)板橋分所として使われた。共にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永(ともなが)振一郎が研究室を構えた、一部レンガ造りの物理試験室が建つ。

 史跡公園は面積約一万三千平方メートル。区は本年度中に、跡地を所有者から購入。二〇二〇年、旧理研分所に湯川や朝永の研究室を再現し、区の産業史を学べる博物館を開館する。二三年には射撃場を復元するなどする。

レンガの壁が残る旧理化学研究所板橋分所の物理試験室

 いたばし観光ボランティアの辺見美代治さん(72)は「地元の小学生の郷土学習にも役立てられる」と期待する。区教育委員会の吉田政博学芸員は「火薬製造所跡は軍事研究の先駆けとなった場所で、欧米の最先端の技術を導入した日本の近代工業発祥の地。東京五輪に向け、国内外から多くの人が訪れる場所にしたい」と意気込んだ。

<陸軍板橋火薬製造所跡> 明治政府が国内で初めて建設した火薬工場。加賀藩前田家下屋敷跡に1876年に開所し、1945年8月の終戦まで稼働した。明治から昭和にかけての火薬の研究、実験、製造、貯蔵など一連の工程を示す遺構がそろっている。1903年に設けられた火薬研究所は日本初の近代的な理工学系研究所とされる。

1077とはずがたり:2017/07/12(水) 01:11:44
金正恩氏斬首後の「不統一国家」 度を超す自己主張+激高しやすい民族性+偏狭な民族&共産主義者が入り乱れ…
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/170508/wor17050810120016-n1.html
2017.5.8 10:12
【野口裕之の軍事情勢】

 韓国の新政権発足に伴い、米トランプ政権にはぜひ、大東亜戦争(1941〜45年)後の朝鮮半島情勢を学習してほしい。朝鮮人が国家体制にかかわらず、いかに統治能力を欠く致命的欠陥を持っているかを知ることは、朝鮮労働党の金正恩委員長が主導する北朝鮮を排除して誕生する?「新国家」との付き合い方や間合いの取り方に資するためだ。

 折しも、…CIA(米中央情報局)のマイク・ポンペオ長官が4月末、韓国入りした。韓国大統領選挙後の米韓関係や金正恩政権崩壊後の国体や半島情勢などについて、韓国の情報機関・国家情報院の李炳浩院長らと意見交換したもようだ。

 ■強弁だけの「抗日戦」

 大日本帝国は1945年8月15日、大東亜戦争敗戦を国民に知らせた。無政府状態を憂うわが国の朝鮮総督府は《朝鮮建国準備委員会》設置を比較的冷静・公平に対処できる朝鮮人指導者に要請した。ソ連軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放・流出→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行…が想定され、朝鮮人釈放や治安維持への協力を取り付ける意図もあった。

 だが、自治組織に過ぎぬ朝鮮建国準備委員会は1945年9月6日《朝鮮人民共和国》を樹立し“独立”を宣言してしまう。

 一連の流れの中で、朝鮮総督の阿部信行・陸軍大将(元首相/1875〜1953年)や朝鮮軍管区司令官の上月良夫・陸軍中将(1886〜1971年)が総督府はじめ主要な建物から日章旗を降ろし、太極旗(現韓国国旗)を掲揚させる。

 しかし“独立宣言”直後、進駐してきた米軍は太極旗を降ろさせ、日章旗を再び掲揚させた。米軍の軍政が本格的に始まるや、日章旗が星条旗へと付け替えられた。なぜか-。

 米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認。自らの軍政に正当性を持たせた。朝鮮が日本と別国家ならば、米国が朝鮮を「解放」したことになり、解放後は統治を朝鮮に任せる過程を生む。これを嫌った米国は終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命した。治安も朝鮮軍管区や日本の官憲に担わせた。

 上陸後も、日本人官吏は相当期間米軍の軍政を支援、治安も軌道に乗るまで日本側が協力した。日本側の統治能力や軍紀を大いに評価していた背景もあった。反面、米国は当初、朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけた。結果、朝鮮人の軍政登用は牛歩で進められた。なぜか-。

 統治能力欠落+度を超した自己主張+激高しやすい民族性+偏狭な民族主義者&共産主義者が入り乱れ=一致団結して建国に邁進するまとまりに欠けている…など、こと朝鮮人に関し米国の学習能力は高かった。

 実際1945年秋、30もの朝鮮人軍閥が警察署や新聞社、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制したが効果は限られた。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争を繰り返し暗殺・テロが横行した。

 そもそも、自治組織がなぜか“独立宣言”(とは註:自治組織が独立宣言してもかまわんだろーが。)して出来上がった《朝鮮人民共和国》ですら中華民国に建てた韓国臨時政府と対立。2つの“政府”それぞれの内部でも抗争に明け暮れた。米国は朝鮮人の政党も政治活動も全く認めなかったのに、この有り様であった。

 かくなる混乱では、38度線の北側に陣取るソ連軍に対する力の均衡維持はおぼつかない。米国の最重要課題はソ連の半島支配阻止で、南朝鮮独立は副次程度の認識だった。米国は、曲がりなりにも内閣・政府を通じ権力を行使した日本と同じ統治形態ではなく、韓国に直接軍政を敷いた正解を噛み締めた。

 ■日本の欠陥憲法よりひどい韓国の歪曲憲法

 さて、統一国家か南北分断国家か、あるいは民主国家か否かは別として、「新国家」樹立に伴い、新生政府は「史実の貼り替え」に着手。憲法改正、いや憲法粉飾で「見事な腕前」を発揮するに違いあるまい。

 韓国では憲法上、韓国が日本となった《日韓併合/1910〜45年》は存在せず、代わりに併合期の《3・1運動/1919年3月1日》を起点とする建国物語が記されている。

 筆者は3・1を反日暴動、韓国は「独立運動」と認識するが、たった2カ月で収束。米国の独立戦争(1775〜83年)のような長期・大規模戦争を思い描くのは誤り。日本国憲法は“不磨の大典”を気取り進化を放棄しているが、韓国憲法は研磨し過ぎでバーチャル世界に踏み込んだ。生い立ちのいかがわしさ故に出来の悪い日本の欠陥憲法の方が、まだマシか…。

 韓国憲法前文にはこうある。

 《悠久の歴史と伝統に輝くわが大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国(韓国)臨時政府の法統…を継承》

1078とはずがたり:2017/07/12(水) 01:14:30
>>1077-1078
 朝鮮人が日韓併合期の3・1運動に際し独立を宣言した点は史実。ただ、憲法が宣言を捉え、建国をうたうのは無理スジだ。このシナリオだと、韓国は大韓帝国の正統後継国家で、日韓併合は史上存在しなくなる。《大韓帝国→大日本帝国→米国軍政→韓国》との正史ではなく《大韓帝国→日本の植民地→韓国臨時政府→韓国》との虚構だ。日韓併合は国際法上合法なのだが(とは註:歴史修正主義者なら欧米列強の植民地侵掠の正当化も修正しろよなあ)、韓国は朝鮮も大韓帝国も世界地図から消えた哀史を正視できないでいる。

 3・1運動は2カ月で終わった上、参加者は多いが逮捕→服役者は少なく、量刑も軽かった。何よりも初代大統領・李承晩(1875〜1965年)が大東亜戦争後の1948年に行った独立宣言の正当性まで問われかねず、運動に建国の起点を見いだすのは難しい(諸説アリ)。

 確かに韓国臨時政府は1919年、中華民国・上海で結成され、その後、各地を転々とした。ところが、適性を疑われ連合・枢軸国双方が国際承認を拒んだ。

 現に、「韓国臨時政府主席」の金九(1876〜1949年)は戦後、個人資格で“帰国”。自伝で憂いた。

 《心配だったのは(大東亜)戦争で何の役割も果たしていないため、将来の国際関係において、発言権が弱くなること》

 ■一蹴された連合国資格と棚ぼた式の独立

 そう。近代に入り、日本と朝鮮は本格的に矛を交えておらぬ。まともな対日ゲリラ抗戦もゼロ(とは註:こいつ(野口某)は北朝鮮の淵源の抗日パルチザンはどう評価してるのかな?まともには活動してないという評価?)。韓国は「日帝を負かして独立した」のではない。先述したが、終戦3年後、半島で統一国家建設をたくらむソ連に対抗した対日戦勝国・米国が長期信託統治を断念。米国に独立を大きく前倒ししてもらった棚ぼた式だった。

 だのに、韓国の「連合国願望」は筋金入りだ。

 李承晩は長崎県・対馬の「返還」要求と抱き合わせで、領土も画定する「サンフランシスコ講和条約署名国の資格が有る」と1949年、米国に訴えた。戦勝国=連合国入りさせろ-とゴネたのだ。駐韓米大使は米政府に口添えした。ワケがある。韓国は在日朝鮮民族の連合国民扱い=賠償を求めるなど国際の法・常識を無視する数多の無理難題を吹っ掛けたが、日本は無論、米国もほぼ呑めぬ内容だった。米国は難題を押さえ込むべく、韓国の署名要求を預かり、条約草案で一旦は締結国リストに加えた。

 けれども、日韓は戦っていないと英国が異を唱え、朝鮮戦争(1950〜53年休戦)を共に戦っていた米国も英国にならう。米国は《連合国共同宣言》への署名(1942年)がないとも指摘したが、韓国は執拗に食い下がった。連合国共同宣言参加国は最終的に47カ国。全物的・人的資源を対枢軸国用戦力に充てる方針に同意していた。

 間の悪いことに、フィリピン独立準備政府や多くの亡命政府も参加していた上、連合国(United Nations)なる用語が共同宣言で正式採用された。交渉過程で韓国は、日本の講和条約締結を終始妨害し、島根県・竹島の韓国編入すら主張した。結局、韓国が得たのは在朝鮮半島の日本資産移管のみ。講和会議へのオブザーバー参加も拒絶された。

 日本だった朝鮮の人々は、欧州列強の植民地兵のごとく人間の盾にされもせず、日本軍将兵として戦った。朝鮮人高級軍人の武勇は目覚ましく、触発された朝鮮人が志願兵募集に殺到した。1942年と43年の場合、募集各4000名/6000名にそれぞれ25万5000人と30万人超が受験。競争倍率63〜50倍が裏付ける朝鮮人の戦意に日本=朝鮮一体を確信する米国専門家もいた。朝鮮人の軍人・軍属は24万2000人以上。2万1000柱の朝鮮人英霊が靖国神社に祭られる。(とは註:英霊を崇めるならもっと朝鮮人リスペクトしやがれよなあ。)

 国際社会に連合国資格を一蹴されても、韓国は歴史の粉飾・捏造に耽った。韓国臨時政府は1940年、中華民国内で《韓国光復軍》を立ち上げる。韓国の教科書にも載るが、2013年の光復軍創立73周年、韓国メディアは光復軍について講釈した。

 《英軍と連合して1944年のインパール戦闘をはじめ、45年7月までミャンマー(ビルマ)各地で対日作戦を遂行した》

 実は、光復軍の動員計画は遅れ、創設1年目の兵力は300人。米CIAの前身で抵抗活動を支援するOSS(戦略諜報局)協力の下、朝鮮半島内で潜入破壊活動を考えたが、日本降伏が先になった。…

1079とはずがたり:2017/07/12(水) 01:14:52

韓国光復軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%85%89%E5%BE%A9%E8%BB%8D

韓国光復軍(かんこくこうふくぐん、英: Korean Liberation Army)は、1940年9月17日、中華民国の支援のもとに同国臨時首都重慶で創立された大韓民国臨時政府(通称:臨政)の軍事組織である。単に光復軍とも呼ぶ。
軍隊を称していたが、連合軍の参加は認められておらず、臨政が国家として承認されなかったので国軍でもない。参戦の計画はあったが、その前に終戦に至り、9名をインドに派遣した以外はほぼ戦闘に参加することもなく、連合軍によって解体を命じられた。

概要
大韓民国臨時政府を正式な交戦国・交戦団体に昇格させて連合国の一員とするという政治目標を持った組織であり、正式な軍隊[1]を“目指した”点で、他の抗日組織とは一線を画した。
重慶では、蒋介石を長とする国民党政府軍事委員会の傘下にあった。中国全域では中国共産党影響下の朝鮮人抗日組織の方が勢力が強かったが、「光線(光復戦線)」と「民線(民族戦線)」の統合が要求されて、直接の指揮下にない朝鮮人部隊も名目上は光復軍を名乗ることがあった。結果、国家主義者と共産主義者が混在することになって、日中戦争中も消えることがなかった中国大陸内における国共内戦の対立構造の中で不和が目立った。光復軍は朝鮮半島への潜入などいくつかの計画を温めていたが、1945年の日本のポツダム宣言受諾により、実戦にほとんど参加することなく終わった。
軍政期、冷戦対立が顕在化する中で、大韓民国臨時政府は正式な政府とは認められず、光復軍も民線(左派)が含まれていたことからすでに解体を命じられ、兵士と将校はばらばらに帰国するように指示された[2]。結局、大韓民国臨時政府および光復軍を朝鮮独立の礎となすという構想は実現せず、韓国陸軍の前身もアメリカ軍政時代にアメリカ軍政庁が結成した南朝鮮国防警備隊に譲ることになった。
皮肉にも、この組織は日本軍および満州国軍の朝鮮人将校(右派)を中心幹部としていた。さらに、最大の支援者であった中国国民党も、戦後の内戦で中国共産党に敗北して中国大陸から追われて台湾に逃れ、中国には中国共産党の中華人民共和国が成立した。臨時政府の幹部の中では、臨政初代大統領も務めた李承晩がアメリカでのロビー活動で得た人脈を活かして首班候補にまでなり、1948年8月15日に建国された大韓民国でも初代大統領に擁立された一方で、光復軍を構想から立ち上げた金九は、その李承晩との政争に敗れ、1949年に暗殺された。

詳細は「大韓民国臨時政府」、「李承晩」、「連合軍軍政期 (朝鮮史)」、および「大韓民国陸軍」を参照

1080とはずがたり:2017/08/06(日) 15:42:29
引き揚げ者多く住んだ「樺太団地」姿消す 札幌 年内に1棟に
https://news.goo.ne.jp/article/hokkaido/region/hokkaido-123939.html
08月05日 12:45北海道新聞

 戦後、サハリン(樺太)から引き揚げてきた人が多く住み、かつて「樺太団地」とも呼ばれた札幌市北区北24条周辺の市営住宅が、老朽化による取り壊しで姿を消しつつある。かつて23棟あった建物は現在3棟まで減り、年内には1棟のみとなる見通し。引き揚げ者の多くは別の土地に移ったり、亡くなったりして少なくなったが、元住民らは、まちの歴史を語る建物の最後を惜しんでいる。

 この地区の発展は、戦後間もない1948年ごろから建設された引き揚げ者住宅が原点だ。辺りは舗装路もない湿地で、住民たちはぬかるむ道を夏でもゴム長靴で歩いたという。49年には市内で戦後最初の町内会「北札幌振興会」を発足。「たすけあい金庫」をつくり、生活に困る会員に無利子無担保で金を貸し出すなど地域を支えた。

 引き揚げ者住宅は61年から順次建て替えられ、引き揚げ者以外も住むことができる市営住宅「幌北団地」となったが、継続して住む人も多く「樺太団地」と呼ぶ人もいた。主に鉄筋コンクリート造3階建てで、23棟に約400戸が入居。2006年になると樺太団地も老朽化に伴う取り壊しが始まり、住民は、付近に建て替えられた市営住宅か、他地域へ移転した。

1081とはずがたり:2017/08/14(月) 09:47:27
なんだ、寧ろ向いてたじゃねえか。

昭和天皇
「不向きな性格」死去直後、英大使が報告書
https://mainichi.jp/articles/20170720/k00/00e/040/228000c?inb=ys
毎日新聞2017年7月20日 10時32分(最終更新 7月20日 10時49分)

 若き日の昭和天皇は「性格的に天皇を務めるのに向いていなかった」。1989年1月7日の昭和天皇死去の約2週間後、英国のジョン・ホワイトヘッド駐日大使(当時、故人)がこうした内容の報告書を作成していたことが、20日に英公文書館が機密解除した公文書で分かった。

 報告書は1月23日付でサッチャー政権のハウ外相(同)宛て。天皇の来歴や太平洋戦争などへの関与、戦後に果たした役割を11ページにわたって記していた。

 ホワイトヘッド氏が「性格的に不向き」と述べたのは「(天皇の)青年期」の項目の冒頭。「明治維新の指導者の後継者たちはカリスマ性のある戦闘的な天皇を望んだ」ものの、即位前の昭和天皇は「内省的で、練兵場より科学実験室にいるほうが向いている」性格だったと描写。将来の軍最高司令官として軍事教育を受けたが「ほとんど熱意を示さなかったようだ」と述べた。

 ホワイトヘッド氏は報告書で、日中戦争や太平洋戦争に日本が突き進んでいった30〜40年代、天皇自身は穏健派としてこうした動きを食い止めようとしていたというのが研究者らの共通認識だとも指摘した。

 報告書では言及がないが、死去の数カ月前、英大衆紙が天皇を戦争指導者と位置付けて病状悪化を歓迎するような記事を掲載、日本外務省が抗議する騒動があり、ホワイトヘッド氏は記事のような見方があることに懸念を持っていたとみられる。

 ホワイトヘッド氏は55年に外務省に入り、86〜92年に大使を務めたのを含めて日本に4回駐在し、計17年間を過ごした。英国の日本研究者らでつくる日本協会の理事長も務め、2013年11月に81歳で死去した。(共同)

1082とはずがたり:2017/08/20(日) 22:28:39
インパール作戦も見入ってしまった。

NHKが731部隊の人体実験証言テープを公開し、安倍政権につながる重大な問題を指摘! ネトウヨが錯乱状態に リテラ 2017年8月16日 13時33分 (2017年8月20日 22時18分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20170816/Litera_3392.html

…今回、NHKは、1949年にソ連で開かれた軍事裁判「ハバロフスク裁判」の音声データを発掘。この裁判では731部隊の関係者も被告や証人となったが、そこで発せられた当事者たちの生々しい証言の数々を、テレビで放送したのだ。

「昭和18年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために、中国人それから満(州)人を約50名あまり人体実験に使用しました。砂糖水を作って砂糖水の中にチブス菌を入れて、そして、それを強制的に飲ませて、細菌に感染をさせて、そして、その人体実験によって亡くなった人は12から13名だと記憶しています」(731部隊隊衛生兵・古都良雄)

「ペスト蚤(ペストに感染させた蚤)の実験をする建物があります。その建物の中に、約4〜5名の囚人を入れまして、家の中にペスト蚤を散布させて、そうしてその後、その実験に使った囚人は全部ペストにかかったと言いました」(731部隊軍医・西俊英)

 さらに、731部隊では人体実験だけでなく、当時すでに国際条約で禁じられていた生物兵器の実践も行っていた。番組では、大量感染させる目的で集落に細菌を蒔いたとする裁判での証言音声も放送された。

「使われる細菌は、主として、ペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌であることが決定しました。ペスト菌は主として、ペスト蚤の形で使われました。その他のものはそのまま、水源とか井戸とか貯水池というようなところに散布されたのであります」
「あの当時、現地に中国人の捕虜収容所が2カ所ありました。その人員は約3000名と言われていました。その饅頭をつくりに参加しました。少し冷やしてから、それに注射器でもって、菌を注射しました」(731部隊第一部〔細菌研究〕部長・川島清)

●「人体実験はなかった」「NHKの捏造」とネトウヨがまたぞろトンデモ攻撃

 証言によれば、その後、細菌を注射した3000個の饅頭を収容所の中国人に食べさせたうえで解放。
"パラチフスに大量感染させる目的だったか"との問いに、「はい。自分はそのように聞きました」と答えている。

 生きた人間を生体実験に用い、さらに大量感染させるという極めて非人道的な戦争犯罪の実態。今回、NHKが初めて報じたハバロフスク裁判での証言音声は、これまでの研究を裏付ける貴重な新資料だ。

 ところが、放送後、ネトウヨたちがNHKに対して、またぞろ「人体実験はなかった」「NHKの捏造」なるトンデモ攻撃をがなりたて始めた。…

 過去の戦争犯罪を正視できず、条件反射的に「捏造」「反日」と騒ぎ立てる知性のなさは今に始まったことではないが、まさか、731部隊まで否定するとは......。

 ネトウヨたちは〈森村誠一が書いた「悪魔の飽食」によって事実がゆがめられた防疫部隊の話〉などと言って〈人体実験は捏造〉と吠えまくっているが、そもそも731部隊の話を書いてセンセーショナルな話題となった本『悪魔の飽食』が出たのは80年代初頭の話だ。現在では前述のとおり、常石敬一氏らの実証的な研究や関係者の証言及び手記等により、731部隊による人体実験の存在は事実と確定している。

 とりわけ人体実験の有無については、秦郁彦氏をはじめとする保守派の歴史学者でも異論を挟む者はもはや皆無だ。というか、だいたい『Nスペ』を見れば、番組が『悪魔の飽食』を下敷きにしていないのは誰にだってわかるだろう。まったく、お話にならない。

 しかし、これは逆にいうと、ネトウヨたちが錯乱し、こんな噴飯モノのいちゃもんしかつけられないくらい、今回の『Nスペ』の内容が実証的で決定的だったということでもある。しかも、同番組を評価すべき点は、裁判証言の音声データを放送したことだけではない。『Nスペ』は膨大な資料と丹念な取材から、731部隊を生み出した背景に、大学と研究者の全面的な協力があったことを浮かび上がらせた。

 そして、これは、現在の安倍政権が推し進める"軍学共同"政策につながる問題だった。…

1083とはずがたり:2017/08/23(水) 18:21:01
中韓は日本のせいで植民地になったから植民地に侵掠した他の東南アジア諸国とは逆だよなあ。。台湾は中国が侵略者であったという事か。

台湾やミャンマーも侵略されたのに・・・なぜ中国と違って「日本を恨まないのか」
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170823/Searchina_20170823034.html
サーチナ 2017年8月23日 11時42分 (2017年8月23日 18時05分 更新)

 中国で根強い反日感情が存在することは日本でも広く知られている。だが、歴史問題を理由とした反日感情が存在する国は中国と韓国くらいであり、過去に日本の統治を受けた台湾や東南アジア諸国には根強い反日感情が存在するという話は聞かない。

 中国メディアの今日頭条はこのほど、東南アジア諸国も第2次世界大戦中に日本によって侵略されたというのに、「なぜ日本を恨まないのか」と疑問を投げかける記事を掲載した。

 記事は、アジアの近代化の歴史は、西洋の侵略者への対応の歴史であったとし、第2次世界大戦までに独立を維持できたのは日本とタイと中国だけだったと指摘。そのほかの国は西洋の列強に植民地にされていたと伝え、なかでも日本はもっとも近代化に成功した国であり、その日本が西洋の列強によるアジア侵略に危機感を抱いたのもごく自然な流れだったとした。

 続けて、「日本の軍国主義者が中国を侵略したことを弁護するわけではない」とする一方、第2次世界大戦で、日本の多くのエリート達が植民地化されたアジア諸国の解放を目指していたのも事実であるとし、戦争が、西洋諸国とアジア人による戦いだったという側面は否定できないとした。

 さらに、ミャンマーのヤンゴン大学の教授がかつて「東南アジアの植民地政権は日本によって打ち破られ、日本は東南アジア諸国の人びとに民族独立の鼓動を与えた」と考察していることを伝え、日本人のなかには、「第2次世界大戦の終結によって、西洋の白人はアジアの植民統治を維持できなくなり、アジア諸国は解放されたのだ」と考える人がいると指摘した。

 中国人の立場からは「賛同できない」としながらも、こういった考え方は東南アジア諸国では比較的認知された考え方であり、こうした「歪んだ考え方」があるから「東南アジア諸国は日本を恨まないのではないか」と主張した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

1084とはずがたり:2017/08/24(木) 15:25:06
小池も歴史を直視出来ないタイプなのか?

関東大震災朝鮮人犠牲者への追悼文取りやめ 小池知事
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASK8S3K4NK8SUTIL00P.html
12:45朝日新聞

 東京都の小池百合子知事が、9月1日に市民団体の日朝協会などが主催する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に、都知事名の追悼文を送らない方針を決めたことが分かった。都知事は例年、追悼文を出してきたが、小池氏は今春、見直しを示唆していた。主催者からは「突然の方針転換は納得できない」と非難する声が上がっている。

 追悼式は毎年、日朝協会や日中友好協会などが、都立横網町公園(東京都墨田区)で開いている。1923年の関東大震災時には「朝鮮人が暴動を起こした」といったデマが広がり、多数の朝鮮人や中国人が虐殺された。式典では、その犠牲になった人たちも追悼している。

 都や式典の主催団体によると、式典には例年、石原慎太郎元都知事らが知事名で追悼文を寄せてきた。小池氏も昨年、「多くの在日朝鮮人の方々が、言われのない被害を受け、犠牲になられたという事件は、わが国の歴史の中でもまれに見る、誠に痛ましい出来事」などとする文を主催者に送っている。だが今年は、主催団体が5月に追悼文送付を要請したところ、担当する都建設局が今月、送付中止の方針を伝えたという。

1085とはずがたり:2017/08/26(土) 22:46:06
防衛・安全保障国家・民族
昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52568
「独白録」「実録」から聖断を再考する
栗原 俊雄

1086とはずがたり:2017/09/04(月) 22:43:52
濡れ衣「戦犯」の名誉守りたい-熊本県白菊会、英霊47柱を追悼 「真面目な人ほど罪着せられ犠牲に」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%BF%A1%E3%82%8C%E8%A1%A3%E3%80%8C%E6%88%A6%E7%8A%AF%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%AA%89%E5%AE%88%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%EF%BC%8D%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E7%99%BD%E8%8F%8A%E4%BC%9A%E3%80%81%E8%8B%B1%E9%9C%8A%EF%BC%94%EF%BC%97%E6%9F%B1%E3%82%92%E8%BF%BD%E6%82%BC-%E3%80%8C%E7%9C%9F%E9%9D%A2%E7%9B%AE%E3%81%AA%E4%BA%BA%E3%81%BB%E3%81%A9%E7%BD%AA%E7%9D%80%E3%81%9B%E3%82%89%E3%82%8C%E7%8A%A0%E7%89%B2%E3%81%AB%E3%80%8D/ar-AAregUG#page=2
産経新聞
15 時間前

 敗戦後、「戦犯」として戦勝国に裁かれ、処刑された熊本県出身の英霊47柱を追悼する慰霊祭が3日、立田霊園(熊本市中央区)の英霊慰霊碑前で営まれた。遺族8人や隊友会関係者ら約30人が参列し、鎮魂の祈りをささげた。

 「熊本県昭和殉難者慰霊祭」は、BC級戦犯として処刑された人々の遺族でつくる「熊本県白菊会」が主催した。同会は昭和33年に発足し、37年に立田山山上に慰霊碑を建立した。

 慰霊祭で、白菊会の寺岡節会長(64)は「戦後72年がたち、ようやくあの戦争の真実が暴かれ始めた。今こそ国民が真実を知り、自覚しなければならない。海外に眠る113万柱のご遺骨を迎えに行かなくては、日本の戦後は終わらない」と述べた。

 寺岡氏の祖父、中村鎮雄・陸軍大佐は戦時中、タイにあった捕虜収容所の所長を務めた。日本軍は泰緬(たいめん)鉄道(タイ-ミャンマー)の建設を進めたが、栄養失調や疫病で、従事した捕虜らが亡くなった。中村大佐は戦後、捕虜に対する虐待(ジュネーブ条約違反)を問われ、逮捕された。

 中村大佐はシンガポールに送られ、英軍の軍事法廷で、捕虜管理の責任者として死刑判決を受けた。中村大佐が捕虜に手を下した事実はなく、英軍捕虜が減刑を嘆願するほどだったという。

 だが、死刑は執行された。享年63。辞世の句は「敗戦の贄(にえ)と散りゆく 我(われ)はまた ただ立ち上がる国 祈るのみ」だった。

 寺岡氏は「祖父は国際法にのっとった行動をしていた。戦犯は濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)。その中で、覚悟をもって刑を受けた英霊には、感謝の気持ちでいっぱい」と話した。

 慰霊祭の斎主を務めた熊本県護国神社の坂本泰彦宮司も「真面目な人ほど、罪を着せられて犠牲になられた。英霊の名誉を守らなければ、浮かばれない」と述べた。

1087とはずがたり:2017/09/05(火) 19:31:38
どっかで書いたhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1043205301/4642けど,国連軍の金看板が有りながら開城とソウル北部近郊を確保出来なかった事が朝鮮戦争休戦での大失敗だけえがこの2人が戦犯か。。

「北朝鮮」を存続させた2人のダメ指揮官
プレジデントオンライン 2017年9月3日 11時15分 (2017年9月4日 11時11分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/economy_clm/20170903/President_22992.html

1950年に勃発した朝鮮戦争で、国連軍は一時北朝鮮を中朝国境まで追い詰めている。その後、中国の介入によって国連軍は押し戻され、現在の38度線に国境が引かれた。その結果、韓国と北朝鮮は現在も休戦状態にある。アメリカのマッカーサー、韓国の李承晩。2人の「ダメ指揮官」の“呪い”は、現在の朝鮮半島にも影を落としている――。

■闇に葬られたある事件
朝鮮戦争が勃発して間もない1950年7月11日、まだアメリカの占領下にあった日本で、忌まわしい事件が発生しました。福岡県小倉市(当時。現在は北九州市の一部)の城野基地に一時駐屯していた米陸軍第25歩兵師団第24歩兵連隊の数千名の兵士のうち、約200名(『福岡県警史 昭和前編』による)が夜間に武装して基地を脱走。周辺の民家に侵入し、略奪や婦女暴行を働いたのです。
当時朝鮮半島では、アメリカ軍が劣勢に追い込まれていました。事件を起こした兵士たちは、日をおかず危険な前線に送られる予定であり、死を覚悟していたとされます。脱走兵たちはほどなく米軍の手で鎮圧され、部隊に連れ戻されましたが、多数の女性が被害に会いました。当時の日本は占領下にあったため、ほとんど何の対応もできず、報道もされませんでした。被害の詳細はわからず、事件は闇に葬られたままです。ただ、『福岡県警史 昭和前編』には、42〜43歳の主婦が夫の目の前で兵士たちに集団暴行されたことが記されており、松本清張はこの夫婦をモデルに小説『黒地の絵』を書いています。
この部隊はその後、小倉から朝鮮半島に派遣されて激戦地を転戦し、大きな犠牲を出すことになります。

■マッカーサーとトルーマンの対立
朝鮮戦争で米韓側の指揮をとっていた連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、何の根拠もなく「中国の半島介入はない」と大見得を切っていました。「ない」という誤った前提で作戦が展開されたため、中国「義勇軍」の介入によってアメリカ軍をはじめとする国連軍は大打撃を受け、敗走しました。そして、再び、ソウルを奪われました。2カ月後、前線の指揮を任されたマシュー・リッジウェイ中将により、国連軍はソウルの再奪還に成功しますが、戦線は膠着(こうちゃく)します。
マッカーサーは自分の大失態をごまかすため、「中国東北部に原爆を落とせ」と主張します。もちろん、そんなことをすれば中国やソ連との全面戦争となるため、ハリー・トルーマン大統領らワシントン中枢は誰一人、賛同しません。
マッカーサーはトルーマン大統領が作戦の障害となっていると批判。トルーマンは激怒し、「上級機関の了承を得て、意見表明をするように」と指示しましたが、マッカーサーはこの指示を無視。「中国をたたきのめす」と勝手に声明を出し、中国との全面戦争を主張しています。
中国が介入したことで、トルーマン大統領は停戦の方向へかじを切ります。マッカーサーはこれを非難し、両者の確執はいっそう高まります。さらにマッカーサーは、とんでもない主張をはじめます。
中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に50個もの原爆を投下し、さらに中国国境に放射性コバルトを散布して、中国軍の侵入を防ごうというのです。
トルーマン大統領は温厚な調整型の政治家でしたが、そのトルーマンもマッカーサーには我慢がなりませんでした。「なぜ、ルーズヴェルト(前任の大統領)はあのうぬぼれ屋を登用したんだ?」と、トルーマンは言っています。
イギリスなどの同盟国も、マッカーサーの資質にはっきりと疑問を呈しています。トルーマンは国務長官ディーン・アティソン、国防長官ジョージ・マーシャルとも相談していますが、彼らもまた「マッカーサーはふさわしくない」と答えています。トルーマンはついにマッカーサーの解任を決意します。
1951年4月19日、マッカーサーはワシントンで退任演説を行い、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という有名な言葉を発しています。最後の最後まで、パフォーマンスづくしでした。

1088とはずがたり:2017/09/05(火) 19:31:55
>>1087-1088
■絶たれた大統領選への野望
マッカーサーは「自分は『中国の介入はない』と言ったことはない」と主張していました。しかし、ニューヨーク・タイムズ紙にトルーマンとマッカーサーの会議録が掲載され、マッカーサーが「中国の介入はない」と断言していることが明らかになります。これは政府のリークによるものでした。当初、マッカーサーはこの件に関し、名誉毀損(きそん)だとわめいていました。議会の公聴会で、民主党議員がこの件をマッカーサーに追及したところ、マッカーサーはまともに答えることができませんでした。
虚言癖が明らかになりながらも、マッカーサーは国民から絶大な人気を誇っていました。マッカーサーは翌年に控えていた大統領選に出馬するため、全国を遊説してまわります。最初は各地で熱狂的に迎えられましたが、聴衆は次第にマッカーサーの中身のない演説に飽き飽きしていきます。マッカーサーが話せば話す程、彼の人間性の浅さが露呈し、人々の支持は急速に失われていきます。
最終的に、共和党の大統領候補者に指名されたのは、マッカーサーの元部下のドワイト・アイゼンハワーでした。

■自軍の兵士を横領で餓死させた韓国軍幹部
さてこの間に、韓国では常識では考えられないような事件が起こっています。劣勢に追い込まれていた韓国軍は、新たに徴兵制による「国民防衛軍」を創設し、戦力の増強をはかりました。ところが、その兵士たちに届くはずの食料が横領され、なんと約9万人の兵士が餓死してしまいました。1951年1月に起きた「国民防衛軍事件」です。
国民防衛軍にかき集められた新兵たちには未成年や病人も多く含まれ、そのほとんどは銃の扱い方も分からないような状態でした。中国「義勇軍」と北朝鮮軍にソウルを奪い返されると、50万人の国民防衛軍はなすすべもなく、南の大邱や釜山へと後退しました。
その過程で、国民防衛軍のために用意された軍事物資や兵糧米などを、同軍の幹部たちが横流ししてしまったのです。極寒の中、徒歩で撤退していた国民防衛軍の兵士は食糧不足でバタバタと倒れ、文字通り「死の行進」となりました。…

この横領の背後には、国防長官の申性模(シン・ソンモ)ら、政府中枢からの指示があったことが明らかになっています。横領で得た利益の一部は、李承晩大統領の政治資金に回されたとされます。
これらのことは韓国メディアによって報じられ、焦った李承晩は国民防衛軍幹部数人を処刑し、申性模国防長官を解任しました。申性模以外にも、複数の軍幹部が関わっていたはずです。

■戦いを継続できる状況ではなかった
アメリカのマッカーサー、韓国の李承晩。連載でみてきたように、このコンビは米韓側に最悪の状況をもたらしていました。米韓側は、北朝鮮や中国とまともに戦争を続けられる状況ではなかったのです。こうした状況を踏まえ、トルーマン大統領は停戦を模索しはじめます。
1951年6月にソ連がこれに応じ、以後、休戦に向けた交渉が続きますが、難航しました。1952年の1年間は交渉が放棄されていた時期が多かったのですが、1953年3月、ソ連のヨシフ・スターリン書記長が死去すると交渉が動きはじめました。アメリカでは1月に、大統領がトルーマンからアイゼンハワーに交代しています。
1953年7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれました。この休戦協定は「停戦の合意」に過ぎず、いまだに朝鮮戦争は正式に終わっていません。2人の「ダメ指揮官」の呪いは、現在まで続いているのです。
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宇山卓栄(うやま・たくえい)

1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。
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(著作家 宇山 卓栄 写真=時事通信フォト)

1089とはずがたり:2017/09/05(火) 19:39:50
マッカーサーはなぜ大統領選で落選したのですか? アイゼンハワーとかは当選し...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13101197083
ID非公開さん2013/1/3113:45:53

マッカーサーはなぜ大統領選で落選したのですか?

アイゼンハワーとかは当選したのに

ベストアンサーに選ばれた回答
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kouyouchinbutaiさん 2013/2/213:07:14
大統領選には出ませんでした。マッカーサーは大統領職に興味を持った時期はありましたが、結局高齢の為(大統領になっていたら73歳の時だった)陸軍士官学校の後輩でマッカーサーが陸軍参謀総長そしてフィリピン軍総司令官の時の副官だったアイゼンハワーに譲りました。別にアイゼンハワーと大統領候補の座を争ったわけではなく、共和党のシニアの連中がアメリカでは英雄として崇拝されていたマッカーサーを押し立てて独走気味で大統領候補に推薦、その時点ではマッカーサー自身も余り乗り気ではなく結局尻すぼみで10歳若いアイゼンハワーに落ち着きました。

アメリカに於けるマッカーサーとアイゼンハワーの人気の差を気にする人もいる様ですが、マッカーサーは生粋の軍人。朝鮮戦争に関してトルーマン大統領と意見を異にして解任され14年ぶりにアメリカに帰った時は「アメリカン・シーザー」と呼ばれて各地で熱狂的な大歓迎を受けました。

あの有名な「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という演説を議会で行ったのちワシントン市で凱旋パレードを行いましたが、ワシントン市建設以来最高の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送りました。そしてその翌日、ニューヨーク市のマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋のパレードの時の4倍、約700万人がマッカーサーが乗ったオープン・カーが通る沿道を埋め尽くしてマッカーサーを祝福したといいます。

(ニューヨーク市内のパレードで沿道に集まった市民とビルの窓からの紙テープの大歓迎を受けるマッカーサー元帥の車列)

1090とはずがたり:2017/09/05(火) 19:51:08
産経大好きなブロガーみたいなんでどうでも良い事をうだうだ書いてるけえが興味深い。
自衛だろうが侵掠だろうが無能な旧日本軍の醜態を忘れてはならんし,日本人が負け戦するとああなる事をキモに命じておかねばならんだらう。

マッカーサーは,事実上第三次世界大戦を煽動して解任されたのであり,言動に不信感をもたれこの後の大統領選に出られもしなかったのだ。
また極東軍事裁判の時点とこの時点での状況の変化も見逃せない。

極東軍事裁判の無謬性に固執しても日帝の無謬性に固執しても真実は明らかに出来ないのだよ┐('〜`;)┌

マッカーサーは52年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/ee73689ae1fa81b116f1ccfc8571d3a1
2015-12-26 08:57:03 | 日記

友人が、昨日の産経新聞の特集もとても良いよ、と言って、手渡してくれたのが、以下の本文である。
朝日や毎日を購読している世帯に育った人たちは、全く知らなかった事実である。
朝日や毎日の人間たちにとっては、正に不都合な真実だろう。

報道とは、簡単に言えば、事実を伝える事である。
その観点からも、今の産経新聞は、日本で最もまともな新聞社だと言えるだろう。

「日本は自衛の戦争だった」
「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら」 

1951年4月19日。米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官(SCAP)として日本を占領統治した陸軍元帥のダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。 

後に第37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著「指導者とは」にこう記した。

「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。彼は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。ある上院議員は『共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らした』と語った。

8日前の11日、マッカーサーは第33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国した。

マッカーサーは52年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを完膚なきまでにたたき潰す腹づもりだったのだ。

演説でも「私の朝鮮政策だけが勝利をもたらす。現政権の政策は長く終わりのない戦争を継続するだけだ」とトルーマンを批判した。

米国内のマッカーサー人気は絶大だった。

愛機」「バターン号」がサンフランシスコに到着した際は50万人以上が出迎え、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、ミルウォーキーの各地で行われたパレードには総勢数百万人が集まった。

逆に「英雄」を解任したトルーマンに世論は冷ややかで、マッカーサーの第二の人生は順風満帆に見えた。

マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが徂いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/74b5e2d639cfb444a3019d2a70f3f469
2015-12-26 09:00:47 | 日記

共和党の策謀

米上院軍事・外交合同委員会はマッカーサーを聴聞会に召喚した。
テーマは 「極東の軍事情勢とマッカーサーの解任」背景にはトルーマン政権に打撃を与えようという共和党の策謀がめった。

マッカーサーは快諾した。
大統領選の指名争いに有利だと考えたからだ。
狙い通り、世界中のメディアが聴聞会の動向に注目し、事前から大々的に報じた。

1091とはずがたり:2017/09/05(火) 19:51:31

5月3日の聴聞会初日。証言台に立ったマッカーサ-は質問に誠実に応じ、1950年6月に勃発した朝鮮戦争の経緯をよどみなく説明し続けた。

質問者の共和党上院議員、バーク・ヒッケンルーパーは「赤化中国を海と空から封鎖するという元帥の提案は米国が太平洋で日本を相手に勝利を収めた際の戦略と同じではないか」とただした。

マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが徂いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった。
「日本は4つの小さい島々に8千万人近い人口を抱えていたことを理解しなければならない」
「日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた」
「もし原料供給を断ち切られたら1000万〜1200万の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」

会場がどよめいた。
証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる。
これは「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、東京裁判(極東国際軍事裁判)まで正当性を失ってしまう。
もっと言えば、5年8ヵ月にわたり日本を占領統治し「民主化」と「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。

この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。
マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領の夢は潰えた。

軍人マッカーサー偽らざる思い なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/da0eecbe455cab65982bc16446224a08
2015-12-26 09:18:00 | 日記

なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。

日本の「自衛戦争」を認めた理由についてマッカーサーは回顧録でも触れていない。
だが、マッカーサーが朝鮮戦争でどのような戦略を描いたかをひもとくと答えが見えてくる。
マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国(中華人民共和国)という共産主義国の脅威を痛感した。 朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。
それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。
この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。

ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国が「中ソが徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」と動揺したこともあり、北緯38度線付近で「痛み分け」にする策を練っていた。

これに対して、マッカーサーは中国を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。

これがトルーマンがマッカーサーを解任した理由だった。
マッカーサーの主張は、その後の歴史をたどっても説得力がある。

日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/28e0880dbbc7dc71d69a36e9eac68d86
2015-12-26 09:24:18 | 日記

ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。

「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」 マッカーサーはこうも語った。

マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。

1092とはずがたり:2017/09/05(火) 19:51:45
>>1090-1092
交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/c8e5575de803db29381a64b72d62c287
2015-12-26 09:26:46 | 日記

他にもマッカーサーは重要な証言を残した。

民主党上院議員、ラッセル・ロングが「連合国軍総司令部(GHQ)は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」とたたえたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。
「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」 

それならば日本の占領統治や東京裁判は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。

別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えた。
原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を「虐殺」と表現した意義は大きい。

このように3日間続いた聴聞会でのマッカーサー証言は日本人を喜ばせたが、ある発言で一転して激しい怒りと失望を招いた。

治世を称賛した。マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/2dfd30ddfe06699fcedea121ffad744f
2015-12-26 09:28:29 | 日記

「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである」。ただ、この発言の前後で「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。

日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。 マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。

1952年7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、53年に第34代大統領に就任した。

マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政言長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。ただ、欠点も見抜いていた。「マッカーサーの最大の過誤は政治的野心を公然と示し、軍事的声望を政治的資産に転じようとしたことだった…」

64年4月5日午後2時30分、マッカーサーはワシントン近郊のウォルター・リード陸軍病院で84年の生涯を閉じた。
元首相、吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。
昭和天皇も米大統領宛てに弔電を打った。葬儀は8日に米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。

毀誉褒貶の激しい人生だった。
マッカーサーの評価は日本でもなお定まらない。

1093とはずがたり:2017/09/05(火) 20:26:58
>マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政言長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。>>1092
だそうだがアイゼンハワーは少なくとも後年はマッカーサーを評価してなかった様だし耄碌してまともな戦略を描けなくなった様だ。。

ダグラス・マッカーサー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC

退任

1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイントに自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ[注釈 13]」と述べ、有名になった。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークのマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その日ビルから降り注いだ紙吹雪やテープは、清掃局の報告によれば2,859トンにもなった。また、1942年にマッカーサーがコレヒドールで孤軍奮闘し国民的人気を博していた時に、コーンパイプやマッカーサーを模したジョッキなどのキャラクターグッズで儲けた業者が、また大量のマッカーサー・グッズを販売したが、飛ぶように売れた。住居としていたマンハッタンの高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」のスイートルームには15万通の手紙と2万通の電報と毎日3,000件の電話が殺到し、家族にも各界から膨大な数のプレゼントが送られてくるほど、マッカーサーの国民的人気は頂点に達した[212]。

5月3日から、マッカーサーにとって最後の公務となる、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーとの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側のリークによりニューヨーク・タイムズ紙にトルーマンとマッカーサーによるトラック島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年にピューリッツァー賞を受賞している[213]。この記事により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは削がれていた。

1094とはずがたり:2017/09/05(火) 20:28:35

公聴会が始まると、マッカーサーは「ソ連は朝鮮戦争に深く関与していない」「中共が朝鮮半島から追い出されるくらいの敗北はソ連に大した影響は与えない」「極東地域のソ連軍にアメリカ軍と戦うだけの実力はなく、核兵器も劣っている、従ってソ連と戦うのなら今の方がよい、時間と共にアメリカの優位性は失われていく」など、自身のソ連への評価と情勢判断を雄弁に証言したが、統合参謀本部と議員にはソ連が例えマッカーサーの分析通りであったとしても超大国ソ連を刺激する覚悟はなく、マッカーサーの大胆な提案が現実離れしているという考えが大勢を占めていた。ブラッドレーはマッカーサーの提案を「我々を誤った場所で、誤った時期に、誤った敵との誤った戦争に巻き込むことになったであろう」と切り捨てている[214]。
また、マッカーサーのソ連への過小評価を聞き、大戦前に日本を過小評価して敗北したマッカーサーの前の過ちを思い出す議員も多かった[215]。
しかし、雄弁に公聴会をリードしてきたマッカーサーも、民主党のブライアン・マクマーン上院議員からの、ニューヨーク・タイムズの記事に書かれた通り「あなたは中国は参戦しないと確信していたのではなかったのか?」との質問を受けると、これまでのように否定することもできず「私は中国の参戦はないと思っていた」と認めざるを得なくなった。この白状によりマッカーサーの立場は弱くなっていき、マクマーンがたたみかけるように「将軍はアメリカと西側連合軍が西ヨーロッパでソ連軍の攻撃に耐えることができるとお思いか?」と質問すると、マッカーサーは「私の責任地域(極東)以外のことに巻き込まないでほしい。グローバルな防衛に関する見解はここで証言すべきことではない」と答えたが、リンドン・B・ジョンソン上院議員からのその責任地域の「中国軍が鴨緑江以北に追いやられた場合、中国軍は再度国境線を突破し朝鮮半島に攻め込んではこないのか?」という質問に対しては、まともな返答を行うことができなかった。それまで専門家を自認し自説を雄弁に語っていた強気な姿勢は完全に失われ、政権側の民主党の容赦ない質問に一方的な守勢となっていった[216]。

マッカーサーへの質疑は3日間にわたり、トルーマン政権はマッカーサーに対し勝利を収めたが、これでトルーマンが責任追及から逃れられたわけではなく、鴨緑江流域での敗北はマッカーサーと同様にトルーマン政権をも破壊し、この後民主党は政権を失うこととなる[217]。しかし、マッカーサー解任当時は「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」とタイム誌に書かれるほどの不人気さで、大統領再選を断念したトルーマンも、文民統制の基本理念を守り、敢然とマッカーサーに立ち向かったことが次第に評価されていき、在職時の不当な低評価が覆され、今日ではアメリカ国民から歴代大統領の中で立派な大統領の1人と看做されるようになっている[218]。
この3日間にわたる質疑中に、今日でもよく日本で引用される「中国に対しての海空封鎖戦略」や「日本人は12歳」証言もなされている(#マッカーサーのアメリカ議会証言録を参照)。 この聴聞会の後は軍人として活動することはなく、事実上退役したが、アメリカ軍において元帥には引退の制度がないため、軍籍そのものは生涯維持された[220]。

1095とはずがたり:2017/09/05(火) 20:28:50
>>1093-1094
退任後

マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。テキサス州を皮切りに11州を廻ったが、いく先々で熱狂的な歓迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で1952年の大統領選を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を繰り返したが、時が経つにつれ次第に聴衆は減少していった[201]。

1951年9月にサンフランシスコで日本国との平和条約が締結されたが、その式場にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーにとことん冷淡であり、フランクリン・ルーズヴェルトの元大統領顧問バーナード・バルークなどはトルーマン政権にマッカーサーにも式典への招待状を送るようにと強く進言していたが、ディーン・アチソン国務長官はそれを断っている。首席全権であった吉田茂が、マッカーサーと面談し平和条約についての感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省よりは「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。

その後も相変わらずマッカーサーの政権批判は続いたが、英雄マッカーサーの凱旋を当初熱狂的に歓迎していた全米の市民も、1952年に入る頃には熱気も冷め始めており、ジャクソンで行われた演説は反対の叫び声などで25回も演説が中断した、と『ニューヨーク・タイムズ』紙で報じられた。マッカーサーに対する共和党内の支持は広がらなかったが、大統領の座に並々ならぬ執着を見せ、同じく劣勢であった候補者ロバート・タフトと選挙協力の密約を行うなど最後の挽回を試み、7月のシカゴであった共和党大会の基調演説のチャンスを与えられたが、その演説は饒舌で演説上手なマッカーサーのものとは思えない酷いもので、演説に集中できない聴衆が途中から私語を交わし始め、最後は演説が聞き取れないほどまでになった。マッカーサーも敗北を悟るとひどく落胆したものの、即座にニューヨークに戻り、結局共和党の大統領候補には元部下のアイゼンハワーが選出された[222]。
大統領候補となったアイゼンハワーとマッカーサーは、共和党大会後の11月に6年ぶりに再会した。かつての上司の顔を立てる意味であったのか、アイゼンハワーからの会談の申し出であったが、マッカーサーはアイゼンハワーに自らが作成した14箇条の覚書を手渡した。その内容は、ヨシフ・スターリンと首脳会談を開き、「東西ドイツ及び南北朝鮮の統一」「アメリカとソ連の憲法に交戦権否定の条項を追加」などを提案し、スターリンが尻込みするようであれば北朝鮮で核兵器を使用せよ、などという、大胆だという以外は何の価値もない提案であった。その後、アイゼンハワーは大統領本選にも勝利して第34代大統領に就任したが、アイゼンハワーらホワイトハウスもペンタゴンもマッカーサーに意見を求めるようなことはなかった[223]。

1096とはずがたり:2017/09/05(火) 21:18:39
https://books.google.co.jp/books?id=e_MkDwAAQBAJ&pg=PP57&lpg=PP57&dq=%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8&source=bl&ots=jh8gDmAi1_&sig=XTnzYboaTnue-Eu-LXzRZWACQkk&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwix9dDU-I3WAhUJTrwKHRU_ARE4ChDoAQhEMAg#v=onepage&q=%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8&f=falseで一部中身を見れたが面白そうだ♪

嘘だらけの日米近現代史 (扶桑社新書) 新書 ? 2012/9/1
https://www.amazon.co.jp/%E5%98%98%E3%81%A0%E3%82%89%E3%81%91%E3%81%AE%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2-%E6%89%B6%E6%A1%91%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%80%89%E5%B1%B1-%E6%BA%80/dp/4594066623
倉山 満 (著)

1097とはずがたり:2017/09/05(火) 22:58:42

ウィリアム・ミッチェル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB

ウィリアム・ランドラム・ミッチェル(William Lendrum "Billy" Mitchell、1879年12月28日-1936年2月19日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。アメリカ空軍の父。

生涯
1879年12月28日フランスのニースで生まれる。ミルウォーキーで育ち18歳でウィスコンシン州歩兵志願兵の二等兵として入隊する。米国陸軍で最年少の23歳で大尉になった。この間に陸軍通信隊として、キューバ、1899年フィリピン革命、1901年アラスカで活動する。1913年最年少のワシントンの陸軍省部員となる。1916年陸軍通信隊の航空部門で飛行訓練を行う[1]。
1917年第一次世界大戦のアメリカ参戦が決定する。在仏米陸軍航空隊司令官としてミッチェルも参加。この戦争でミッチェルは敵地を飛行したアメリカ初の飛行将校となる。ミッチェルは遠征軍の航空将校としてアメリカ初の航空隊であるハット・イン・ザ・リング隊を組織する。また単独で偵察任務を行い、ドイツに対する奇襲成功に大きな貢献をした[1]。1918年9月サンミエール攻勢でミッチェルが完全な航空優勢の獲得を図り、ドイツ軍陣地の突出部を孤立分断するように集中攻撃した。その後も類似作戦が展開され兵力の集中使用の重要性を立証した[2]。
1917年に「イギリス諸島はいつか大量の空中攻撃に対して脆弱になる」と語った。1919年に「空挺部隊は壊滅的効果がある敵地の背後へ侵入できる」と語った。1920年に「ドイツの軍国主義が世界を脅かす」と語った。1925年に「日本は太平洋で戦争を引き起こす。はじめに晴れた日曜日の朝にハワイを叩くことでアメリカに攻撃する」と語った[1]。…

ミッチェルは空軍独立論者であり、戦艦無用論の提唱者であった。1921年7月13日〜21日、ミッチェルによって陸海軍協同で戦艦に対する大規模な爆撃実験を行なわれた。陸軍航空隊のマーチン爆撃機(MB-2)で大西洋岸に浮かべた実験艦に対艦爆撃を行い、ドイツの戦艦オストフリースランドを900キロ爆弾で撃沈した。実験では他に数隻の旧式戦艦、巡洋艦なども撃沈させている。ミッチェルはその後、アメリカ空軍の設立を各方面に説いてまわったが容れられず、ついには軍首脳の不興を買い、米陸軍航空隊副司令官の要職を追われてテキサス州サンアントニオに左遷され、その後も相変わらず、戦艦無用論をしつこく宣伝したため、ついに予備役に編入されたが、自説を曲げることはなかった[4]。彼は非常に先見的ではあったがその自説はかなり過激なもので、戦艦無用論どころか海軍無用論とも取れるほどの過激さを含んでいた。上記の実験でも、海軍としては停船中かつ大戦時の損傷を受けたままで、さらになんらのダメージコントロールを施さない戦艦は航空攻撃で沈んでも当たり前だという態度をとっていた。しかしそうしたミッチェルの常軌を逸した海軍嫌いが米軍上層部からの忌避を誘ったことは否めない。

1925年、悪天候によって飛行船シェナンドー (ZR-1)が墜落した事件で、ミッチェルは友人を失い、「勇敢な飛行士が安全を処置しない無知な提督に死へ送られた」「無能、犯罪にも等しい職務怠慢、国益に反する国防行政」と新聞に声明を発表して、陸海軍統帥部を激しく批判した。このためカルビン・クーリッジ大統領はこの反抗を軍法会議にかけた。判決は軍法96条により有罪となり、「階級、指揮権、職務の五年間停止、給与、手当の没収」という処分を受けた[1][5]。唯一、少年時代からの友人であるダグラス・マッカーサーだけがこの判決に反対した[1]。ミッチェルは1926年に除隊する。除隊時の階級は准将。


除隊後はバーモント州の生家へ戻る。 1930年「将来、子供たちは生活において航空機を世界中の防衛や輸送の最大の手段とみるようになるだろう」と語った[1]。
1936年2月19日死去[1]。
1946年、アメリカ政府はミッチェルの功績と先見の明を認め、少将に任命するとともに、議会名誉黄金勲章を授けた。

1098とはずがたり:2017/09/22(金) 12:44:45
ポツダム宣言仲介のスイス、「日本と断交」検討
https://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20170922-567-OYT1T50017.html
09:14読売新聞

 1945年8月のポツダム宣言受諾の仲介という日本の終戦に大きな役割を果たしたスイスが、同年5月、日本と断交しようとしていたことが、スイスの外交文書から分かった。

 国文学研究資料館の加藤 聖文 きよふみ准教授がスイス連邦公文書館で確認した。断交が行われていた場合、スイスを通じてのポツダム宣言受諾ができず、終戦が遅れて日本の被害が拡大していた可能性もある。知られざる歴史の一面を語る貴重な史料だ。

 日米開戦直前の41年7月、米国は日本人の在米資産を凍結し、翌年には日本大使館員も国外退去となった。日本にとって中立国のスイスは外交の窓口で、対米関係では紛争当事国の利益を守る唯一の「利益代表国」だった。同宣言受諾までの米国とのやり取りは、スイスを通じて行われた。

1099とはずがたり:2017/09/26(火) 08:29:51

大阪市、慰安婦像設置の姉妹都市に抗議へ「関係解消も」
http://news.livedoor.com/article/detail/13662588/
2017年9月25日 21時29分 朝日新聞デジタル

 大阪市の吉村洋文市長は25日、姉妹都市の米サンフランシスコ市に建てられた旧日本軍の慰安婦像をめぐり、現地の市営公園に組み込まれれば「姉妹都市関係は解消する」と述べた。市役所で報道陣に語った。

 大阪市によると、像は今月22日にサンフランシスコ市の市営公園に隣接する土地に中国系米国人らの民間団体が建てた。同市は今後、像のある土地を取得して公園の一部にする方針。像の碑文に「数十万人の女性が性奴隷にされた」とあり、吉村氏は「日本政府の見解と違う。一方的な主張に基づく日本バッシング」と主張した。今月中にも抗議の文書を送るという。

 両市は1957年10月に姉妹都市になった。市民の語学交流や市長の相互訪問を続け、60周年を迎える来月にはサンフランシスコから市民の代表団が大阪市を訪問する予定だが、吉村氏は「サンフランシスコ市が市の意思として(慰安婦像を)受け入れるなら、笑顔で握手できる関係じゃない」と姉妹都市解消の可能性に言及した。

 サンフランシスコ市議会は2015年9月、慰安婦像の設置を支持する決議案を採択。橋下徹・前大阪市長と吉村氏はこれまで計5回、サンフランシスコ市に抗議の文書を送っている。(半田尚子)

1100とはずがたり:2017/10/27(金) 16:30:40
2代目国連総長は暗殺か…墜落死は「外部攻撃」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171026-00050135-yom-int
10/26(木) 19:24配信 読売新聞
 【ニューヨーク=橋本潤也】第2代国連事務総長のダグ・ハマーショルド氏を乗せた航空機が1961年9月にアフリカで墜落したことを巡り、国連が設置した調査委員会の報告書が25日公表された。

 報告書は、墜落原因が「外部からの攻撃や脅威」だった可能性があると指摘し、断定は避けつつも、ハマーショルド氏が暗殺されたことを示唆する内容になっている。

 墜落当時、航空機にはボイスレコーダーなどがなく、飛行高度を見誤るなど、パイロットのミスやその他の原因による「事故」と結論づけられた。ところが近年、ミサイルによる撃墜の可能性を指摘する専門家の声などを受け、国連は潘基文(パンギムン)事務総長時代の2013年、事故の再調査を決めた。

1101荷主研究者:2017/10/27(金) 22:42:57

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20171009000108
2017年10月09日 21時00分 京都新聞
戦時中の京都「独仏」火花散らす 京大調査で判明

フランスの外交文書館で見つかった1930年代の関西日仏学館(奥)の写真。手前はドイツ文化研究所で、現在は京大の施設が立っている=アンスティチュ・フランセ関西提供

 戦前にフランス政府による語学学校として日本で初めて京都市内に設立された「関西日仏学館」(現アンスティチュ・フランセ関西)が第2次世界大戦に際し、隣接する「ドイツ文化研究所」と火花を散らしていた様子が、京都大人文科学研究所の調査で明らかになった。敵対する本国の緊張関係を反映し、ドイツ文化研が展覧会中止を要求する一方、フランス側も運営面で張り合おうとしていた。立木康介准教授は「表面上は良好な関係を保ちながら、水面下では独仏の文化宣伝活動が京都でも激しさを増していたことが分かる」と話す。

 調査は「アンスティチュ-」(左京区)が創立90周年を今月迎えるのに合わせ、3年前から行われた。資料の多くが戦時中に廃棄されたため、フランスの外交文書館が保管する事業報告書を分析した。

 調査によると、フランスがドイツの占領下に置かれていた41年1月、関西日仏学館で開かれた展覧会「医学の発展におけるフランスの貢献」に対し、ドイツ文化研が「今のフランスにふさわしくない」と当局に中止を求めたことが書かれていた。一方、開戦前の38年7月16日付で駐日フランス大使が本国の外務大臣に宛てた書簡では、ナチス党の元極東担当部長で知日派の人物がドイツ文化研の所長に就くことが報告され、関西日仏学館として「ライバル」への優位性を維持するために次期館長に適した人材を注文している。

 調査の成果は、25日にアンスティチュ・フランセ関西で始まる創立90年記念の展覧会で紹介する。28日には立木准教授ら研究者が歴史を振り返るシンポジウムも開く。いずれも入場無料。問い合わせは「アンスティチュ-」075(761)2105。

■関西日仏学館
 1927年、詩人でもあった駐日フランス大使ポール・クローデルの提唱で九条山(京都市山科区)に設立。36年に現在の左京区東大路通東一条上ルに移転。戦時中も講演会やコンサートを続けた。45年4月に軍需工場として接収され、教職員が投獄されたが、終戦後に建物が返還された。2012年に現名称に変更した。ドイツ文化研究所は戦後に西洋文化研究所に改組され、のちに京大人文研所属になった。

1102とはずがたり:2017/11/04(土) 18:09:24

徳川慶朝さん死去 67歳 写真家、将軍慶喜のひ孫
https://this.kiji.is/285236032426001505
2017/9/26 10:569/27 13:56updated

江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の直系のひ孫に当たる徳川慶朝(とくがわ・よしとも)さんが25日午前5時12分、心筋梗塞のため、水戸市内の病院で死去した。67歳。自宅はひたちなか市金上。通夜や葬儀は親族のみで執り行う。後日、お別れ会を検討している。

静岡県生まれ。カメラマンや大学講師として活躍した。2007年にひたちなか市に自宅を建てて移り住んだ後は、茨城県の風景などをテーマにした写真展を開いた。同市内のコーヒー店と連携し、自身が焙煎した「徳川将軍珈琲」を販売するなど、コーヒー研究家としても知られた。

1103とはずがたり:2017/11/05(日) 08:20:06

<訃報>荒井信一さん91歳=戦争責任資料センター共同代表
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20171105k0000m040009000c.html
02:00毎日新聞

 荒井信一さん91歳(あらい・しんいち=日本の戦争責任資料センター共同代表、茨城大名誉教授、西洋史専攻)10月11日、胆管がんのため死去。葬儀は近親者で営んだ。後日お別れ会を開く予定。喪主は長男潤(じゅん)さん。

 著書に「戦争責任論」「空爆の歴史」「ゲルニカ物語」など。

1104とはずがたり:2017/11/14(火) 11:53:57
2017.9.28 11:30
「反日」の韓国 偽りの歴史教育で日本への見方ゆがんでいる 同じテーブルに着くのはやめていい 元閣僚が激白
http://www.sankei.com/politics/news/170928/plt1709280037-n1.html

 北朝鮮が「核・ミサイル開発」を強行するなか、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権の対応がおかしい。15日に米国領グアムに届くほどの弾道ミサイルを発射するまで、800万ドル(約8億8000万円)もの人道支援を検討していたうえ、隙あらば、事実無根の慰安婦や徴用工の問題を蒸し返そうとしているのだ。国家公安委員長や自民党総務会長などを歴任し、韓国要人に知己も多かった深谷隆司元通産相が激白した。(夕刊フジ)

 あの国には常識が通用しない。北朝鮮の「核・ミサイル」は韓国にも脅威のはずだ。それなのに、なぜ文政権は北朝鮮におもねるのか。あの政権の存在自体が、極東の不安定要因に思える。

 日韓間には、慰安婦や竹島、日本海呼称の問題などが横たわる。加えて最近、徴用工問題が再燃した。文氏が演説で「個人の請求権は消滅していない」と述べたためだ。

 もっとも、安倍晋三首相と8月25日に行った日韓首脳電話会談では、文氏は発言を一部修正したが、油断はできない。

 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時の2005年、韓国政府は徴用工問題について「1965年の日韓請求権協定で解決済み」と認め、韓国政府の責任として取り組むことを表明した。

 文氏は当時、盧氏の主席秘書官を務めており、その事実を知らないはずがない。

 そもそも、日本は65年当時、徴用工問題について「個人には直接補償したい」と韓国側に申し出た。ところが、韓国側がそれを断り、すべての賠償を受け取ることを主張した。結果、日本が韓国政府に支払った賠償金は5億ドルにのぼった。当時の日本の国家予算のほぼ2倍に相当する。

 この賠償金で韓国は「漢江の奇跡」を実現した。いわば日本のおかげで、韓国は近代化を成し遂げたといえるのだ。

 そうした歴史的事実を知っている世代が生きている間はまだ良かった。私が通産相をやっていたころは、親日派の友人がたくさんいたものだ。

 しかし、今では真実を知る韓国人は少なくなった。偽りの歴史教育のせいで、日本に対する見方が歪められている。

 「最終的かつ不可逆的に解決」とされた2015年12月の慰安婦問題に関する日韓合意も、日本は10億円を拠出したのに、韓国側の義務は果たされていない。それどころか、慰安婦像はバスの中にも設置されている。もう「狂気の沙汰」としか思えない。

 韓国では政権が代わるたび、「反日」が政治的安定の道具として使われてきた。その傾向は改まるようには見えない。

 そうした国と同じテーブルに着くのは、もうやめてもいいのではないか。日本や極東アジアの安全保障にも、資することは少ないだろう。(ジャーナリスト・安積明子)

1105とはずがたり:2018/01/24(水) 09:05:59
誰だ?近衛家ちゃうの?
>であれば、次に今上陛下に近いのは、誰か。「新潮45」本誌では、その人物の意外な素顔を明らかにしている。

今上天皇に血統の近い、知られざる「男系男子」の存在が!
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/12261605/?utm_source=yahoo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&ui_medium=http&ui_source=yahoo&ui_campaign=link_back&all=1
社会新潮45 2017年1月号掲載

 皇位継承者の不足は、かねてより問題視されてきた。悠仁さまお一人しか将来の候補がいない現状には、旧宮家の復帰、あるいは女系天皇といったことが話題になるが、

〈意外に議論されていないのが、男系でならどういった人たちがいるかということだ〉〈皇室に近い人々の全体像を明らかにしないまま、皇位継承についての議論をすると、得た結論も粗雑で「正統性」が薄いものになりかねない〉

 と説くのは、評論家で徳島文理大学教授の八幡和郎氏だ。「新潮45」1月号に寄せた「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」で、現在の皇室に近い人々の存在を明かしている。※〈〉は本文より引用、以下同

 ***

 八幡氏が試みるのは、皇室典範でも採用されている「サリカ法典式」で男系男子を長子優先で系図をたどって探す〈頭の体操〉である。

“今上天皇に近い血統”と聞いてまず思いつくのは、昭和22年に皇籍離脱された11宮家ではないだろうか。JOC竹田恒和会長の「竹田宮」など、男系男子での継承が今後も見込まれる旧宮家はあるが、そのルーツはいずれも伏見宮邦家親王であるという。

〈伏見宮家は、男系では南北朝時代の北朝崇光天皇の子である伏見宮栄仁親王に始まる。孫の彦仁親王が後花園天皇となって現皇室につながり、その弟の貞成親王の子孫が伏見宮家を継いだ。

 そして、幕末の邦家親王が子だくさんだったので、その子孫がこの11宮家となった〉

 だが意外にも〈男系ということでいえば、伏見宮家の御当主と今上陛下は36親等も離れている〉という。実はより今上陛下に近い血統が存在する。例えば「華園家」である。

■今上天皇の14親等
 “華園”は、明治の苗字義務付けで、浄土真宗興正寺の僧侶である本寂が「華園摂信」を名乗ったことに始まる。

 京都の西本願寺の南にある興正寺に養子に入った本寂は、文政6年から30年にわたって関白を務めた鷹司政通の次男にあたる。さらに政通の曾祖父は東山天皇の第6皇子の直仁親王であるといい、

〈政通の嫡男輔煕の系統は絶えたので、もっとも皇室に近いのは、政通の次男で浄土真宗興正寺の門跡になった本寂の子孫ということになる〉

 その子孫というのが、本寂の玄孫に当たり、現在の興正寺の門主である第31世本顕(華園真暢)。さらには、父親である前門主真準も健在で、皇族を除けばこの人物がもっとも今上天皇に近い(14親等)という。

 ところが「華園家」には“男系男子”にあたる存在がいない。

〈真暢(59)に男子はなく、長女・沙弥香(22)、法名・真慶(しんきょう)さんが2017年4月1日に門主後継者である「嗣法(しほう)」に就任する予定だ〉

 であれば、次に今上陛下に近いのは、誰か。「新潮45」本誌では、その人物の意外な素顔を明らかにしている。

1106とはずがたり:2018/03/22(木) 12:56:40

福岡に「幻の首都」構想 太平洋戦争中に政府が検討 極秘文書に明記
https://www.nishinippon.co.jp/feature/attention/article/328970/
2017年04月18日 17時26分

 八女が日本の首都になっていたかもしれない。突拍子もない冗談のようだが、実は太平洋戦争中に政府が検討していた歴史的事実だ。「事実は小説より奇なり」とはまさにこのこと。当時の資料をひもとき「八女遷都論」について調べてみた。

 「八女遷都論」が明記されているのは、1943年10月付の極秘文書「中央計画素案」だ。内閣総理大臣直属の組織で、戦時下の国家総動員体制の諸計画を立案した「企画院」が作成した。現在は、国立公文書館の「アジア歴史資料データベース」で公開されている。

 この文書は朝鮮、中国、東南アジアにおける権益確立を目指す「大東亜共栄圏」建設を見据え、政治、経済、産業、文化、防衛などを含めた国のあり方について方向性を示したもの。計画の対象は日本、朝鮮、台湾。遂行目標を「一応15年」としていた。

 「首都」の項目では、候補地として岡山県行幸村(現・瀬戸内市)、朝鮮京畿道京城府(同・ソウル)と並び福岡県福島町(同・八女市)が挙げられていた。条件として、全国土の中心▽地震、風水害など天災地変が少ない▽寒さや暑さが厳しくない▽用水、電力、食料など物資が豊富▽既成の都市とは適当に離れている、など計6項目を明示。福島町は条件をクリアしていたようだ。

 首都を構成する機能を、皇居のほか、政府各機関や生活必需物資配給機関、外国公館などとしているが、「極力不要なる機能の集中を抑制する」とも記載。「防空、耐火、耐震および美術上の見地において最も完全なる都市の造成に重点を指向する」と目標を掲げており、あらたに計画都市を造ろうとしていたことがうかがえる。

 極秘文書は1967年、福岡県立花町(現八女市)出身の県職員だった故松延茂さんが発見した。松延さんは地域文芸誌「飛形」への寄稿で発見の経緯を振り返っている。当時、松延氏は県の企画室企画主査として県総合開発計画の策定に当たっていた。その参考資料を集める中で、戦前、戦中の膨大な公文書に触れる機会があり、その中から見つけたのだという。

 この「中央計画素案」策定から2年後に日本は敗戦。遷都案も消えた。松延氏は寄稿の中で、矢部川の自然豊かな風情を表現した洋画家・青木繁の書簡の一節を紹介しながら思いを語っている。「福島町中心地区が首都になっていたら、わが故郷の様相はどうなっていたことか。時折、白昼夢にも似たまぼろしの首都を思い描いてみることを楽しみにしているが、そのようなとき、青木繁の詩情が私の心をゆさぶるふるさとである」

 もし、福島町に首都が置かれたら、現在、八女はどうなっていただろう。国会や中央省庁が集まり、周辺も高層ビルが立ち並んでいるのではないか。人口も比べものにならないほど増えていたはずだ。一方で、伝統的な白壁の町並みや、丘陵地に広がる茶畑など現在の八女ならではの風景は失われていた可能性が高い。

 いずれにせよ、多くの謎を残し、八女遷都論は歴史の中に消えた。

この記事は2017年04月18日付で、内容は当時のものです。

1108とはずがたり:2018/04/13(金) 09:42:51

 その一方で第5次吉田内閣に国務相として入閣した安藤正純と大野伴睦は鳩山自由党の復党工作を展開していた。安藤と大野は「このまま党外にいたら政権は緒方に行ってしまう。へたをしたら重光に横取りされるかもしれない。吉田ももう長くはないから早く復党した方がよい」と鳩山を説得した。自由党と改進党の提携が進んで鳩山自由党は政界で孤立しており、鳩山の心境も復党に大きく傾いた。

 鳩山復党の総仕上げは松野の出番である。松野は安藤と大野の工作をじっくり見守っていたが、緒方副総理や佐藤幹事長の意向も確認した上で、吉田首相と会い、11月17日に吉田が鳩山邸を訪問して復党要請するという段取りを決定した。吉田・鳩山会談には安藤国務相と松野が同席した。吉田は「鳩山自由党の全党一致の復帰を期待しているが、それが困難なら君一人でも帰ってきてほしい」と懇請した。

 鳩山自由党は11月30日、鳩山、石橋ら27名が自由党に復帰した。当初は三木、河野らも「恥を忍んで復党する」意向だったが、松田竹千代、山村新治郎らが「吉田の軍門に下るのはいやだ」と復党を拒否したため、「彼らを見殺しにできない」として復党せず、わずか8名で日本自由党を名乗った。自由党が鳩自党を吸収したことに改進党は「保守連携への裏切り」と反発したが、防衛問題に限って自由党との連携は維持することにした。

 1954年(昭和29年)に入ると保全経済会事件、造船疑獄が明るみに出て吉田政権は三たび動揺した。同年2月、鳩山は病床にある前田米蔵を訪ねて鳩山政権実現へ協力を求めた。鳩山と前田は戦前、犬猿の仲と言われる間柄だった。前田は追放解除後、吉田首相に接近したが、選挙違反事件で摘発され、さらに病床に伏し、前年の総選挙では落選して不遇をかこっていた。

 鳩山は「その時前田君は『三木と松野はどうかね。大丈夫君の方の側かね』と聞いた。三木君とはその時一応分かれた形になっているし、松野君は吉田君の指南番のように思われている最中だったからだろう。そこで私は『三木君はもちろん問題はない。松野も大丈夫だと思う』と答えた。この話をあとですると大抵の人は『さあ松野はどうですかね』と、不満げに言葉をさしはさむけれども、私はその当時は本当にそう思っていた」と回顧している。

 息子の松野頼三は「私は吉田首相の秘書官もしているので吉田7、鳩山3のスタンスだったが、オヤジは鳩山7、吉田3のスタンスだった」と述べている。松野鶴平の行動は結果的に見ると常に吉田寄りに見えたが、これは戦前、2回も政友会分裂を経験した松野の「党を割ってはいけない」という信念に基づくもので、心情的には鳩山への思いも強かったのは事実であった。

■「総裁といえども除名するぞ」と一喝

 造船疑獄の広がりで吉田政権は窮地に陥った。吉田首相は緒方副総理、松野鶴平らと連日協議を重ね、検察当局の佐藤幹事長逮捕許諾請求に法相の指揮権を発動することを決定した。緒方副総理は局面打開のため、改進党に保守合同を呼びかけた。保守合同に向けた自由党、改進党、日自党の協議は総裁問題で行き詰まった。改進、日自両党は吉田退陣を明確にするよう求めたが、自由党は「総裁は公選で」との立場を崩さなかった。この時の保守合同運動は結局、鳩山の下に改進党、日自党、さらに自由党の鳩山派と岸派が合流する形で実現した。昭和29年11月22日、鳩山を総裁とする日本民主党が結成された。副総裁重光葵、幹事長岸信介、所属衆議院議員125名。

 吉田長期政権は最後の局面を迎えた。12月6日、民主党は左右社会党と共同で内閣不信任案を提出した。可決は確実であった。すでに人心は吉田内閣から離反していた。吉田は解散するつもりだったが、緒方副総理が解散に強く反対し、総辞職を主張した。12月7日朝の臨時閣議でも吉田の解散方針に異論が出て閣議は中断した。閣議と並行して外相公邸内の隣室では自由党幹部会が開かれていた。幹部会でも解散反対論が大勢を占め、吉田の方針を支持する池田幹事長は孤立していた。

 吉田首相は幹部会に顔を出し、大野に向かって「総務会長、誰が何といっても解散に決めましたから」と言った。大野は声を荒げて「そんなはずはない。われわれは閣議でも解散反対が多いのを知っている」と公然と反駁した。これに追い打ちをかけたのは松野である。「吉田、君は今になって何を言うか。総裁あっての党ではない。党あっての総裁であることを知らないのか。解散すれば党は壊滅するのだぞ。解散するなら総裁と言えども除名してしまうぞ」と怒鳴りつけた。普段はめったに怒った顔を人に見せたことがない松野の一喝がとどめの一撃となり、吉田は解散を断念して総辞職を決意した。

1109とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:31

 昭和29年12月10日、鳩山一郎は念願かなって民主党内閣を発足させた。自由党は野党になった。鳩山首相は左右社会党との約束に従って昭和30年1月24日、衆議院を解散した。この選挙で民主党は大きく議席を伸ばしたが、過半数には達せず、自由党は議席を大幅に減らして惨敗した。選挙後、民主党の三木総務会長は自由党に保守合同を呼びかけた。民主党と自由党の保守合同協議は総裁問題で難航したが、総理は鳩山、総裁は鳩山、緒方、三木、大野の4人を代行委員とすることで妥協が成立し、昭和30年11月15日、保守勢力を結集した自由民主党が発足した。松野は参議院自民党議員会長になった。

 1956年(昭和31年)1月、次期首相間違いなしと言われた自民党総裁代行委員の緒方竹虎が急死した。三木、大野両代行委員と岸幹事長、石井光次郎総務会長が協議した結果、緒方に代わる総裁代行委員に松野を決定した。緒方の死去で鳩山首相の対抗馬がいなくなったため、自民党は4月5日の党大会で鳩山を正式に初代総裁に選出した。この直前の4月3日、松野鶴平は第4代参議院議長に当選した。緑風会出身の河井弥八議長が同年7月の改選を控えて「選挙準備に専念したい」と突如辞意表明をした結果であった。
 参議院議長は初代が松平恒雄、第2代が佐藤尚武、第3代が河井でいずれも緑風会出身であった。松野議長の誕生は保守合同と左右社会党の統一で参議院でも政党化が急速に進み、「参議院の良識」を代表していた緑風会が凋落しつつあることの象徴であった。松野が議長になったばかりの第24通常国会は自民党と社会党が激突して参議院では新教育委員会法案をめぐって会期末に乱闘騒ぎの大混乱が起きた。

 自治体の教育委員会を公選制から任命制に改めるこの法案は鳩山内閣の目玉政策の一つで、すでに小選挙区制法案の成立断念に追い込まれた自民党執行部は何が何でも成立させる意気込みを見せた。社会党は日教組の突き上げを受けて実力で成立を阻止する構えをとった。本会議採決の攻防が始まると社会党の議員・秘書団が議長室を取り囲み、松野議長は軟禁状態になった。ようやく本会議を開いて議長席に座っても社会党議員が殺到して議事妨害を行い、隣の事務総長が負傷する事態も起きた。

 徹夜国会になり、71歳の松野議長は体力の限界に達した。混乱した議場の秩序を回復するため、松野議長は自民党執行部の要請を入れて参議院では初めて警官隊の導入を決断した。2泊3日の徹夜攻防の末に新教育委員会法は緑風会も賛成して賛成143、反対69で可決・成立した。自民党の岸幹事長が議長室を訪れ、松野議長と抱き合って喜ぶ場面が見られた。

 昭和31年7月の参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を維持し、さらに保守系議員を糾合して過半数を確保した。社会党も憲法改正阻止に必要な3分の1の議席を確保した。これにより参議院に一定の平和と秩序が訪れた。選挙後、松野は議長に再選され、翌昭和32年1月の通常国会再開の際、自民党と社会党は衆参両院で国会正常化を申し合わせた。

1110とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:41
>>1107-1110
■党籍離脱を拒否、政防法案握りつぶす

 1959年(昭和34年)7月、岸内閣の下で行われた参議院選挙で自民党は71議席を獲得し、非改選と合わせて135議席に達した。松野もこの選挙で3回目の当選を果たし、選挙後に三たび参議院議長に選出された。選挙後の岸内閣の改造で松野頼三が労相として入閣し、野田卯太郎―松野鶴平に続く憲政史上初めての親子3代大臣の誕生が話題になった。

 議長3選にあたって社会党と緑風会は松野に党籍離脱を強く要求した。これは前年、警職法改正案をめぐって国会が紛糾した際に川島正次郎自民党幹事長と浅沼稲次郎社会党書記長の間で衆議院の正副議長は党籍を離脱することを申し合わせ、参議院についても「自主性は尊重するがこの申し合わせに従って運営するよう要請する」としていたからである。松野は「私は母の胎内にいた時からの政党人だ」と言い放って党籍離脱を断固拒否した。

 松野は、国会の混乱を防ぐために議長の権威を高める必要があるが、それは党籍離脱という手段ではなく、むしろ多数党の党籍を持って多数党の横暴を内部から抑える力を持つことが大事である、という信念を持っていた。社会党の浅沼書記長が議長室に乗り込み、党籍離脱を直接勧告したが、松野は軽く一蹴した。この後、記者団の質問に答え「みんなコドモだから親爺の言うことは判ってくれるよ」と平然としていた。

 松野はこの信念を口先だけでなく、自らの行動で実行に移した。昭和36年の通常国会に自民党は民社党と共同で政治的暴力行為防止法案を提出した。社会党が強く反対し、衆議院は強行採決で通過した。池田勇人首相はこの法案の成立に強くこだわっていた。審議に協力的な民社党のメンツを立てる必要があり、国会後の訪米を控えてこの法案が不成立なら国際信用が傷つくことを懸念していた。益谷自民党幹事長が松野議長を訪ねて法案成立への協力を強く求めたが、松野は「参議院の自主性に任せてくれ」とやんわり拒否した。益谷は池田首相と会談するよう松野に求めたが、これも拒絶した。

 松野は佐藤栄作と極めて親しかったが、池田とはソリが合わなかった。参議院自民党も、この国会は農業基本法の成立で手いっぱいで政防法案の成立は無理と判断していた。結局、政防法案は参議院で握りつぶされ、継続審議となった。池田首相は政防法案不成立の経緯を見て岸・佐藤兄弟が松野と組んで倒閣を仕掛けたとにらんだ。池田は訪米帰国後の内閣改造で岸派、佐藤派を遠ざけ、大野派、河野派、三木・松村派を取り込んだ内閣改造に踏み切った。

 1962年(昭和37年)7月の参議院通常選挙を機に松野鶴平は参議院議長を辞任した。前年、糖尿病の悪化で入院するなど松野の体力は衰えが隠せなくなった。選挙後、後任の議長には岸、佐藤兄弟と並んで「長州ご三家」と言われた自民党の重宗雄三が選出された。松野は議長退任からわずか2カ月後の10月18日に日本医大病院で永眠した。77歳だった。

 松野鶴平は議長退任の際に参議院本会議で次のように述べている。「私は国会運営の根本は、国会議員の心構えにあると存じます。各党各派ないし各議員が、国民に対する責任を自覚し、お互いに参議院を辱めないようにとの気持ちをもって、忍耐強く話し合えば、大抵のことは解決するものと信じます。肝要なことは、本院は良識に従い常に自主的な態度を持するということであります。院内の事の処理に当たっては、みだりに院外の運動に左右されたり、利害団体の圧力に屈することのないようにいたさねばなりません。対衆議院の関係においても同様でありまして、両院が協調しながらも、各自が自主性を堅持することが、二院制度の要諦であります。かくして初めて参議院の権威が高まり、使命は達成されるのであります」。=敬称略

1111とはずがたり:2018/04/13(金) 09:48:43
松野の党籍離脱拒否に関しては其の後の重宗得宗体制をもたらしたそうな。
因みに緑風会出身の参院議長河井弥八は掛川の人♪

松野鶴平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E9%B6%B4%E5%B9%B3

参議院議長
戦後の参議院では、議事の遂行において公平を期すために議長在任中は党籍を離脱する慣例となっていた(松野以前の3人が所属していた緑風会は無所属議員のための会派であって身分的には無所属である)。だが、戦前の帝国議会で唯一の公選によって選ばれていた衆議院の議長(通常は第一党から選出)は、その党籍を維持してその権威によって議事運営を行う一方で、第一党の独断的な動きに対しては党員としての発言力によって阻止し続ける事によってその暴走を食い止めるという慣例が存在していた。

戦前立憲政友会に在籍していた松野はその時代の議長観を戦後になっても保持しており、他党の党籍離脱要求にも関わらず参議院議長在任中も党籍を維持。自民党会派にも所属し続けた。日米安保条約改訂などで政局が流動的な情勢の中、松野は己の議長観に忠実に従うことによって自民党側の強引な議事運営を防止しつつ、円滑な審議に尽力して一定の成果を収めたが、それは同時に「参議院の政党化」を促進する事にも繋がった。

松野の後任となった重宗雄三も同様に自民党所属のまま参議院議長を9年間務め、党内で絶対的な権力を持つに至った。議長の党籍、ないしは院内会派からの離脱が定着するのは、重宗の後任となった河野謙三が党籍を離脱してからである。

河野謙三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E8%AC%99%E4%B8%89

参議院副議長などを経て、参議院自民党の重鎮として存在感を増す中、佐藤栄作内閣末期に持ち上がったのが、重宗雄三参議院議長をめぐる問題で中心となって動く。重宗は1962年(昭和37年)8月から1971年(昭和46年)7月まで3期9年参議院議長をつとめる中で参議院自民党は重宗王国といわれるようになっていたが、このような長期独裁体制打破を求めて1971年(昭和46年)7月に参議院改革を内容とする「河野書簡」を発表した。河野の動きをきっかけに参議院自民党の中にも新谷寅三郎、迫水久常、鍋島直紹ら反重宗の参議院議員は桜会を結成。7月17日、この自民党首脳部から造反した桜会と野党の支持を受けて、重宗雄三の後継議長候補であった木内四郎を128票対118票と10票差で破って参議院議長に選出された。当選後、自民党籍を離脱し、在任6年間、参議院改革に努力した。

1977年(昭和52年)7月に参議院議長を退任。1983年(昭和58年)に立候補せず、政界を引退した。

なお、長男の河野鉄雄は1983年の第38回衆議院議員総選挙に自民党の公認を得て神奈川2区から立候補したが落選し[1]、続く1986年(昭和61年)の第39回衆議院議員総選挙では無所属で再び神奈川2区から立候補したが議席には届かなかった[2]。

河井弥八
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BA%95%E5%BD%8C%E5%85%AB

静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、1904年東京帝国大学卒業後、内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となり、1930年から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。

1938年1月7日に貴族院議員に任命された[1]。貴族院では同成会に所属した。この間、鉄道会議議員を兼ねた。また大日本報徳社社長ともなっている。

サツマイモ栽培や砂防林の普及運動に力を尽くし「サツマイモ博士」とあだ名された[2]。

戦後、第1回参議院議員通常選挙に静岡県選挙区から立候補し、参議院議員に当選した。当選後は緑風会に所属し、3年後の第2回参議院議員通常選挙でも再選された[3]。

1953年には参議院議長に就任した。1956年の第4回参議院議員通常選挙では議長在任中だったが落選し、高齢だったこともあり政界引退を表明した。死後、従二位と勲一等旭日桐花大綬章を贈られた。

1112とはずがたり:2018/04/13(金) 09:53:51
急逝と云えば石橋湛山が返す返すも惜しいのだが,鳩山ではなく緒方の総裁当選の可能性も高かったのに急逝したのだそうな。緒方氏に関しては戦後政治史に疎い俺としては惜しいとか以前にあんま良く知らん。

松野の一喝より緒方の根回しが効いたのかも。

緒方竹虎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E

吉田内閣退陣と緒方総裁選出
吉田政権末期、バカヤロー解散や造船疑獄をめぐり吉田が法務大臣・犬養健に命じて指揮権を発動させ、側近の自由党幹事長・佐藤栄作の逮捕を阻止したことなどにより、急速に政権は求心力を失っていった。そうした中、1954年(昭和29年)3月に緒方は保守合同を呼びかける「緒方構想」を発表した。しかし「緒方構想」による新党推進勢力には、吉田退陣を前提とする吉田棚上げ論者が予想外に多数を占めたため、吉田が消極的であり、「緒方構想」は6月にいったん打ち切られた。結局、12月に鳩山一郎を中心とする反吉田勢力は、左右両派社会党と連携し吉田内閣不信任決議案を提出する。自由党は、衆議院解散総選挙による吉田内閣延命か、吉田内閣総辞職かで真っ二つに別れる。

吉田は政権維持に執念を燃やして解散を主張したが、緒方は内閣総辞職を主張し、1954年(昭和29年)12月7日朝、「もし総理が解散を強行すれば私は閣僚として解散書類に署名しません。むしろ政界から引退します。かっこうの悪い西郷になりますよ」[12]と、自らの政治生命を賭けて吉田に直言した。吉田は緒方を罷免してでも解散するつもりだったが、同日の閣議では文部大臣・大達茂雄、運輸大臣・石井光次郎、国務大臣・加藤鐐五郎が総辞職を主張し、自由党幹部会は全員解散反対だったため[13]、吉田は解散を断念、内閣総辞職した。翌12月8日の議員総会で自由党は吉田総裁の辞任を了承し、正式に後任総裁に緒方が選出され、石井光次郎を幹事長とした。吉田内閣総辞職にともなう首班指名選挙で、緒方派の代議士らは、同じ早稲田大学出身の右派社会党書記長・浅沼稲次郎、左派社会党委員長・鈴木茂三郎らをはじめ、左右両派社会党議員に緒方への投票をはたらきかけたといわれるが、両派社会党は鳩山に投票し、第1次鳩山内閣が成立した。

保守合同と急逝
翌1955年(昭和30年)1月の「天の声解散」による第27回衆議院議員総選挙で、鳩山の与党日本民主党は185議席と単独過半数を得ることが出来ず、緒方の自由党は112議席だった。この選挙結果は、与党民主党が保守合同なしで政局運営を行っていくことが困難であることを示していた。そのため、自由党と民主党による保守合同論の気運が再び高まりを見せる中、緒方はこれを積極的に推進した。新党総裁をめぐる難航した協議の結果、総裁代行委員による集団指導体制に落ち着いた。11月15日、自由民主党が結党され、緒方、鳩山の両党総裁と、三木武吉、大野伴睦の両党総務会長の4人が総裁代行委員に就任した。

しかし、同年12月に全国各県で結成された党支部結成大会の巡回旅行で睡眠不足と過労が続き、途中でひいた風邪をこじらせて12月25日に帰京してからは静養につとめたが、翌1956年(昭和31年)1月8日に心臓発作を起こした。それでも1月25日に国会が再開されると登院、自民党の代議士会にも出席し、1月27日の福岡県人会にも出席したが、翌1月28日に東京都品川区五反田の自宅で急性心臓衰弱のため急逝した。67歳。緒方の死去によって、4月5日に実施された自民党総裁公選では鳩山一郎が初代総裁に選出された。総裁公選となれば、旧民主党が「反吉田」の寄り合い所帯のため緒方に流れる可能性のある票も少なくなかったのに対し、旧自由党の方が結束力が固く、緒方が初代自民党総裁に選出される可能性が高かった。同年末に鳩山は、日ソ国交正常化を花道として、後継者を指名せず退陣を表明し、岸信介、石橋湛山、石井光次郎(緒方派の継承者)による総裁公選が行われた。緒方の急死がなければ、戦後政治史の歩みも大きく変わったと言われる所以である。また後任の石橋が病気で短期で退陣したのち、田中角栄の登場まで15年間余り、岸・池田・佐藤の官僚出身者3名が総理総裁となった。

言論界の象徴として、左派からもその人格・識見を肯定的に評価された一方で、吉田内閣時代、1952年(昭和27年)の東南アジア歴訪の途上、中華民国国民政府の拠る台湾を訪問、総統・蒋介石に謁見し、日華軍事同盟に言及したり、前述のように1954年(昭和29年)、戦前の情報局総裁の経験から政府直属の情報機関設置構想を打ち出したりしたため、当時のジャーナリズム主流派からは「特高的言論統制復活」と揶揄された。

1113荷主研究者:2018/04/15(日) 11:32:54

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180321_63022.html
2018年03月21日水曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(1)「官名乗る賊徒に従わず」

[はらだ・いおり]1946年、京都市生まれ。大阪外語大卒。広告代理店勤務後に独立。編集ライターなどを経て2005年に作家デビュー。主な著書に「明治維新という過ち」「官賊と幕臣たち」「大西郷という虚像」など。東京都在住。

戊辰戦争後の若松城(鶴ケ城)。1カ月にわたる籠城戦で受けた砲弾跡が生々しく残る(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(上)作家・原田伊織さん

 <「明治維新という過ち」などの著書で知られる作家の原田伊織さん(71)は、東北における戊辰戦争を「討幕戦争とは別物だった」と指摘する>

◎私怨を晴らす戦

 いわゆる戊辰戦争を「討幕戦争」と位置付けるなら、会津戦争などは討幕とは無関係で性格が異なるというのが私の主張だ。1868年4月4日、江戸城に東征軍の勅使が入り、徳川家への沙汰状を公式に交付した。この日をもって徳川政権は公式に終わった。

 東征軍の江戸入城(11日)や大総督府有栖川宮熾仁(たるひと)親王の入城(21日)など、どのタイミングをとっても4月中には江戸幕府は歴史の幕を閉じたと断定できる。だから、その後の東北での戦争は論理的に討幕戦争とは言えない。

 <それでもなぜ東北戦争は起きたのか>

 平たく言えば報復だ。会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職時代、テロ活動を妨害された薩摩や長州、土佐藩の恨みだ。大義名分がない私怨(しえん)を晴らす戦だ。恭順が拒否された会津藩は戦うしかなかった。

 会津は奥羽鎮撫(ちんぶ)使に何度も嘆願書を出したが、下参謀の世良修蔵が拒否する。容保の斬首にこだわった。和平工作を行った仙台藩や米沢藩なども、世良の品性の欠ける行状もあって「ならば戦うしかない」という流れになる。

 錦の御旗を振りかざして進軍した官軍は、奥羽諸藩も簡単に恭順すると読み違えた。だが、奥羽諸藩の思考回路は「長いものには巻かれろ」ではなかった。「朝廷には恭順するが、官を名乗る賊徒には従わない」という心理だった。

 官軍を名乗った薩長に、もう少しまともな人材がいたら戦争は避けられた。会津戦争や二本松戦争は無益な殺生だった。ただ、「不幸だ」だけで終わらせては意味がなく、歴史から何かを学ぼうとするなら、史実は検証されるべきだ。

 <東北の諸藩は「朝廷に逆らった賊軍」という「官軍史観」が今も残る>

◎前政権を全否定

 新政権は前政権、前時代を全否定し、自分たちを正当化する歴史を書く。これは古今東西を問わずよくあること。ただ多くの民族は一定期間を経て誤った歴史を修正する。日本人はそれをやらずに大東亜(太平洋)戦争に突き進み、国家を滅ぼした。

 戦後も検証されず、そこへ連合国軍総司令部(GHQ)支配の鬱屈(うっくつ)した社会心理を打ち払うかのような作品とともに司馬遼太郎さんが登場し、たちまち国民的作家となった。大学の大先輩で尊敬する面は多々あるが、吉田松陰、坂本龍馬をはじめ、明治維新に関して書いているものは大半がフィクション。「官軍史観」に「司馬史観」が重なり、明治維新に対する誤った理解が定着してしまった。

 <政府は「明治に学ぶ」として、国の行事に150年の冠を付ける考えだ>

 同じようなことが言われた時代があった。軍国主義がピークに達した昭和10年代だ。「明治精神への回帰」をうたう「昭和維新運動」が燃え盛り、もてはやされたのが吉田松陰の思想だ。

 そこから日本の侵略戦争が始まる。日本軍の進出した国や地域は松陰が唱えた対外侵出エリアと全くと言っていいほど一致する。日本に近代をもたらしたとされる明治維新という出来事を、われわれは一度白紙に戻し、冷静に総括しなければならない。

[松平容保]1836〜93年。会津藩9代藩主。62年に京都の治安維持のために新設された京都守護職に就く。「8月18日の政変」で長州派を追放するなどした功績で、孝明天皇から絶大な信頼を得た。
[世良修蔵]1835〜68年。長州藩士。奇兵隊出身。奥羽鎮撫総督府下参謀を務め会津討伐を声高に主張。「奥羽皆敵」と記した密書などが仙台藩士らの怒りに火を注ぎ、福島藩内で捕らえられ殺害された。

1114荷主研究者:2018/04/15(日) 11:33:23

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180322_63027.html
2018年03月22日木曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(2)新政府に国の青写真なし

二本松城を巡る戦いでは、二本松藩の12〜17歳の少年たちも戦闘に加わった。「二本松少年隊」の史実を伝える銅像が城跡に立つ=二本松市

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(下)作家・原田伊織さん

 <戊辰戦争から150年。奥羽諸藩を「賊軍」におとしめた明治維新の実像をどうみるか。作家の原田伊織さん(71)は「偽りの革命」だったと言い切る>

◎模倣にすぎない

 テロリズムを背景にしたクーデターにすぎない。「明治維新がなければ植民地化されていた」「日本を近代に導いた」といった歴史認識は真っ赤なうそだ。幾つもの隠蔽(いんぺい)や捏造(ねつぞう)を繰り返さなければ、そのような認識にはならない。

 大隈重信が維新後に語った言葉が象徴的だ。「われわれがやっていることは小栗忠順(ただまさ)の模倣にすぎない」と言っている。「明治維新至上主義者」とも言える司馬遼太郎さんですら小栗を「明治の父」と評価した。時代の違う2人が同じことを言っている。

 桂小五郎(後の木戸孝允)、西郷隆盛、大久保利通が「維新三傑」と呼ばれている。だが彼らは幕府を挑発し戦争を起こしたものの、その後の国の青写真を持っていなかった。だから倒幕後に個々人は強烈な虚脱感に襲われ、組織は腐敗していった。

 <尊皇攘夷(じょうい)の旗印の下、列強との不平等条約を正すために倒幕に踏み切った印象が定着している>

 「尊皇」は武家社会の教養、常識として当たり前の概念だった。(薩長の)偽勅や偽の錦旗が効力を発揮し、幕府や諸藩が恭順していくのも、そういう背景があったから。佐幕人の高い教養に裏打ちされた尊皇意識を背景として、幕末になって長州人、薩摩人が天皇を政治の表舞台に引っ張り出して「政争ツール」としてうまく利用した。

◎外面だけの勤皇

 桂は「玉を動かし」「玉を抱く」などと発言している。長州藩は天皇の拉致を計画し、御所に大砲を放つ暴挙に及んだ。外面だけの勤皇だ。薩摩・長州は「攘夷」と叫んでいる最中に大英帝国の支援を受けた。「尊皇攘夷」は単なるキャッチフレーズ。政権を奪うやいなや卑しいほどの西洋崇拝に走った。

 倒幕勢力は不平等条約の中身も分かっていない。岩倉使節団は条約改正の意識や目的を持って出発したものではない。全権委任状すら持っていなかった。そもそも政府首脳が2年も国を空けてどうするのか。新政権になって新しくできたのは、西郷、大隈、江藤新平らの留守政府による制度がほとんどだ。

 <新政府は富国強兵の名の下、殖産興業を進めた>

◎長州型政権 今も

 新政府は、国の予算で造ったものを商人や同郷の士に払い下げるなどして長州、薩摩出身者らに甘い汁を吸わせた。尾去沢銅山事件などが象徴的。歴史学者の毛利敏彦氏の言葉を借りればまさに「長州汚職閥」だ。

 「明治6年の政変」(1873年)で下野した西郷の言葉が残っている。「我脱出する人間虎狼(ころう)の群れ」。福沢諭吉も明治の要人を「人面獣心」と評した。面識のない2人が似通ったことを言っている。それほど新政府が腐敗していた。彼らが何のグランドデザインも持っていなかったことにも通じる。

 明治維新50年は寺内正毅内閣、100年は佐藤栄作内閣、そして150年は安倍晋三内閣と、いずれも長州内閣であることは単なる偶然だと思いたい。だが、森友・加計(かけ)問題などの官民癒着に限らず、展望のないキャッチフレーズを連呼するところなど、「長州型政権」は今も続いていると言わざるを得ない。

[小栗忠順]1827〜68年。幕臣。外国奉行、勘定奉行などを務め、幕府の財政改革、軍制改革を進める。大政奉還に反対し、戊辰戦争では将軍徳川慶喜に徹底抗戦するよう訴えた。新政府軍に捕らわれ処刑された。
[岩倉使節団]1871年12月〜73年9月、岩倉具視を特命全権大使とし、欧米を歴訪した使節団。政府首脳や留学生らを含む107人で構成された。
[尾去沢銅山事件]1872年、長州藩出身の大蔵大輔(大蔵省次官)井上馨が尾去沢銅山(鹿角市)を私物化しようと鉱山を没収した事件。井上は訴えられ逮捕寸前まで追い込まれたが長州閥が抵抗し、辞職するだけで罪を問われなかった。

1115荷主研究者:2018/04/15(日) 11:33:48

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2018年03月23日金曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(3)京都守護職を辞退できず

中村彰彦(なかむら・あきひこ)1949年6月、栃木市生まれ。東北大文学部卒。「二つの山河」で直木賞、「落花は枝に還らずとも」で新田次郎文学賞。会津藩関係の本を数多く執筆。東京都在住。

京都守護職時代の松平容保の肖像写真(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎会津藩の悲劇 なぜ起きた?(上)作家・中村彰彦さん

 <戊辰戦争は会津藩の存在抜きに語れない。幕末に京都の治安を守った雄藩が一転して「朝敵」とされ、蹂躙(じゅうりん)された悲劇はなぜ起きたのか。作家中村彰彦さん(68)は「藩の歴史を藩祖保科正之、中興の名家老田中玄宰(はるなか)、幕末の3段階で考える必要がある」と言う>

◎東北の藩を救う

 1643年に初代藩主になった保科正之はユートピア思想を持っていた。農民が十分に食べ、農作業にいそしむ。被支配階層が飢えずに人生を楽しむ姿にするのが王道政治と考えた。

 第2次世界大戦後の英国の福祉制度は「揺り籠から墓場まで」と言われるが、正之は既に実践していた。新生児の間引きを禁止し、年貢率を下げ、無料の医療制度を作った。

 90歳以上には身分や男女の区別なく、終生一人扶持(いちにんぶち)(1日玄米5合)を与える「年金制度」を創設。年金保険は18世紀末にドイツのビスマルクが作ったとされるが200年以上早い。

 正之の世話になっていない東北の藩はないと言っても過言ではない。米沢藩は3代藩主が跡継ぎを決めずに亡くなった時、お家断絶の危機を救われた。伊達騒動が起きた仙台藩については、藩を取りつぶさないよう将軍に穏便な処置を助言した。

 戊辰戦争時、仙台、米沢を中心とした東北諸藩は、朝敵とされた会津藩を救うため嘆願書を新政府に提出し、奥羽越列藩同盟を結成した。会津藩への恩義が形になった。軍事同盟というより友情同盟だった。

 正之は15カ条の「会津藩家訓(かきん)」を残した。第1条には「将軍家に忠義を尽くせ。他藩と同程度の忠義で満足してはいけない」とある。自分を大藩の藩主に抜てきしてくれた腹違いの兄、3代将軍徳川家光に感謝する気持ちを持続的に伝えてほしいと願った。

 <正之の死後、鎖国の影響で藩財政は次第に傾く>

◎国防の第一線に

 田中玄宰が登用された18世紀後半、藩には大借金があった。天明の大飢饉(ききん)が起こり、食糧備蓄制度があった藩にも餓死者が出た。子捨てや放火などモラル低下を象徴する出来事が起きた。

 玄宰は教育改革で藩校日新館を創設。入学前の子どもに「什(じゅう)の誓い」を朗唱させた。「うそを言ってはいけない」など7項目のエチケット集で、「ならぬことはならぬ」と戒めた。

 玄宰は最新兵学「長沼流」を導入し、軍を立て直した。19世紀初めに樺太がロシアに攻撃されると、家訓の精神で北辺警備を買って出る。借金を返したばかりなのに、国家のための出費をいとわなかった。

 黒船来航の時も江戸湾警備を担当し、会津藩は日本の国防の第一線に立った。この頃から「困った時の会津藩頼み」という感覚が出てくる。全国に会津藩士の墓が残るのは広範囲で国防に挺身(ていしん)した証拠だ。

 <幕末、京都で「天誅(てんちゅう)」の名を借りた過激な尊皇攘夷(じょうい)派のテロが横行。会津藩が歴史の表舞台に出る>

 幕府は治安を守る京都守護職を新設し、会津藩主松平容保(かたもり)を指名した。尊攘派の憎しみを一身に集める要職。容保は断ったが、政事総裁職松平春嶽に「正之公が生きていれば引き受けただろう」と家訓を持ち出され、逃げられなかった。京都守護職を引き受けざるを得なかったところに会津の悲劇が生まれた。

[保科正之]1611〜73年。高遠藩主、山形藩主を経て初代会津藩主。玉川上水開削などを実行し、将軍補佐役として活躍。
[田中玄宰]1748〜1808年。会津藩家老。軍や教育の藩政改革を進め、絹織物や清酒、漆器など地場産業を育成。
[伊達騒動]1671年3月、仙台藩で実権を握った伊達兵部と、反対派との権力闘争で起きた同藩最大の政争。
[松平春嶽]1828〜90年。幕末の福井藩主。「幕末四賢侯」の一人。

1116荷主研究者:2018/04/15(日) 11:34:13

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2018年03月24日土曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(4)孝明天皇崩御一転「賊」に

孝明天皇が松平容保に贈った御宸翰の写本。会津藩への感謝の思いがつづられている(会津若松市蔵)

◎会津藩の悲劇なぜ起きた?(下)作家・中村彰彦さん

 <作家の中村彰彦さん(68)は、京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)について「誠実な人柄で、孝明天皇の信頼が厚かった」と話し、天皇崩御で会津藩を取り巻く形勢が急激に変わっていったと指摘する>

◎容保に感謝の意

 1863年2月、容保が京都に入ると、テロが鳴りを潜めた。容保が天皇との信頼関係を確実にしたのが同年の「8月18日の政変」。会津、薩摩藩は天皇の命を受け、過激な尊皇攘夷派の長州藩士や公家を京都から追放した。

 喜んだ天皇は、容保に感謝の意を伝える御宸翰(ごしんかん)と和歌2首を与えた。容保は死ぬまで御宸翰を肌身離さず持っていた。「賊と言われても、先帝と自分の関係は知る人ぞ知る」と言いたかったのだろう。

 御宸翰については明治時代、長州出身の陸軍中将三浦梧楼がその存在を示す本の出版を金を払って差し止めた。出版されれば「戊辰戦争は官軍が賊軍を討った正義の戦い」という薩長寄りの歴史観が崩れる、と考えた。

 <64年の池田屋事件、禁門の変で、会津藩は長州藩の恨みを買う>

 67年に孝明天皇が亡くなった。毒殺説があるが、天皇が代替わりした途端、容保は「幕賊」の一味と呼ばれるようになる。

 容保が「賊」とされた最初の文書は薩摩、長州藩に出された「討幕の密勅」だが、明治天皇の署名、押印「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」がない。討幕派公家3人の署名は1人の筆跡だ。明治維新は偽文書から始まった。

 江戸城開城後、容保は将軍徳川慶喜の代わりに幕賊の首魁(しゅかい)にされる。会津藩は恭順姿勢を示したが、新政府は聞く耳を持たない。会津藩は理不尽な言い掛かりをつけられ、1カ月の籠城戦を強いられた。

 容保は良識的に戦った。戦況が不利になった時、プロシア人商人がベトナムから雇い兵を連れてくることを提案するが、内戦にとどめるため言下に断った。最後の一兵まで戦うことはせず、約5000人が城から出た。次世代を残すために戦をやめたのだと思う。

 <戦後、新政府に東北差別の意識が残った>

◎明治政府の恥部

 最も虐げられたのは会津藩で、領地23万石を全部没収される滅藩処分を受けた。69年に斗南(となみ)藩3万石(青森県下北半島など)として復活を許されたが、当時の稲作の北限より北の土地で「死んでくれ」と言っているのと同じだ。明治政府の政策の恥部だった。

 77年の西南戦争で手柄を立てた元会津藩家老山川浩が陸軍少将に昇進した。昇進決定の会議を欠席した長州出身の陸軍中将兼内務大臣山県有朋は「山川は会津ではないか」と怒った。差別は太平洋戦争まで続いた。

 会津の人々は苦難にめげず、各方面で名を残した。山川の弟で東京、京都、九州の3帝大で総長を歴任した山川健次郎ら、教育界で活躍した人が多かった。第1次大戦中、板東俘虜(ふりょ)収容所(徳島県鳴門市)所長の松江豊寿(とよひさ)はドイツ人捕虜を人道的に扱い、たたえられた。

 山川捨松や新島八重らは篤志看護師として活躍した。彼女たちは鶴ケ城に籠城し、親しい人が死んでいくのを目の当たりにした悔しさがあった。会津の人々は、戦の後も目的を持ち、毅然(きぜん)として知的に生きた。

[池田屋事件]1864年7月、京都の旅館「池田屋」に集まった長州藩などの過激派志士が新選組に襲撃され、多数の死傷者を出した事件。
[禁門の変]1864年8月、池田屋事件に怒った長州藩急進派が挙兵し、京都・蛤御門で会津藩などと交戦、敗走した事件。
[西南戦争]1877年、下野した西郷隆盛が挙兵した士族の武力反乱。政府軍に阻まれ敗走した。
[山川捨松]1860〜1919年。山川浩、健次郎兄弟の妹。薩摩藩出身の大山巌と結婚。「鹿鳴館の華」と言われた。
[新島八重]1845〜1932年。戊辰戦争時に籠城して銃を取り戦う。同志社大学創設者新島襄の妻。

1117荷主研究者:2018/04/15(日) 11:34:37

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2018年03月25日日曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(5)天皇を抱き込み権力掌握

白虎隊自刃の石版画が祭られている山口県萩市の唐樋地蔵堂。会津藩と長州藩の因縁を超え、地域の人が供養を続けている

いちさか・たろう 1966年11月、兵庫県芦屋市生まれ。大正大文学部卒。至誠館大特任教授、防府天満宮歴史館顧問。著書に「長州奇兵隊」「明治維新とは何だったのか」など。山口県下関市在住。

◎長州藩はなぜ官軍になったか(上)萩博物館特別学芸員・一坂太郎さん

 <幕末の動乱期に一度は「朝敵」となった長州藩は薩摩藩と手を組んで倒幕に成功する。長州藩をはじめとする西南諸藩がなぜ「官軍」となり得たのか。萩博物館(山口県萩市)の特別学芸員一坂太郎さん(51)は「天皇を抱き込んだことが大きかった」と話す>

<嘆願はねつける>
 長州藩にとって許せなかったのは1863年の「8月18日の政変」だった。当時、孝明天皇は長州藩や急進派公家ら攘夷(じょうい)派の操り人形にされていた。

 天皇は権威を利用され、大和行幸などの勅を出す。攘夷派の暴走を危険視する天皇の真意を知った会津、薩摩藩などが政変を起こし、攘夷派を京都から駆逐する。

 天皇は「18日以降の勅は全て本物」と政変の正当性を認めたが、それ以前の勅は「真偽不分明」とし、どれが「真」でどれが「偽」かは分からなかった。長州藩は「天皇の御前で申し開きをしたい」と何度も嘆願したが、はねつけたのが会津藩だった。

 会津藩は「天皇が駄目というから駄目」と話し合いを一切させなかったため、長州藩は会津を恨むようになった。

 戊辰戦争では、逆に会津藩が謝罪恭順を嘆願する立場になる。仙台藩は「なぜ長州は許されたのに、会津は許されないのか」と新政府に言ったが、相手にされなかった。政変で会津が同じことをしたからだ。

 歴史は話し合いがなくなった時に狂う。太平洋戦争時の軍部の増長など、その後の歴史にも言える。理屈が通らなくなり、感情や数の力、雰囲気で時代を押そうとすると、「悔いが残る歴史」になると思う。

<幕末動乱のキーマンは孝明天皇だった>

◎どちらが取るか
 会津藩主の京都守護職松平容保(かたもり)は孝明天皇から個人的に信頼されていた。一方、長州藩は毛利家が天皇家の子孫とされ、伝統的に天皇家は忠義の対象だった。天皇への忠誠心を全国版にしようとしたのが明治の国家づくりだった。

 長州藩は禁門の変で御所に発砲したため、孝明天皇は幕府に長州藩を討つよう命じた。この第1次長州征伐は「幕府対長州」ではなく、「天皇対長州」の戦いだった。

 67年に孝明天皇は崩御する。会津藩を信頼し、長州を憎んだ天皇の死は政局を揺さぶる。長州藩主は「玉(ぎょく)」を奪われないよう、薩摩藩士の大久保利通に注意を与える。玉は天皇を指す隠語。天皇の旗印をどちらが取るかが焦点だった。

 公家の岩倉具視らの画策で武力討幕派が朝廷を乗っ取り、68年1月、明治天皇が王政復古の大号令を下す。新政府は一度の会議も開かずに誕生した。開けば、将軍徳川慶喜がトップになっていたからだ。「天皇の意思だから」が絶対的な一言になる天皇制近代国家の始まりとなる。

<鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍は天皇の軍であることを示す錦旗を掲げた>

◎政治の駆け引き
 日本人は水戸黄門のような分かりやすさが好きで、印籠を見て「偽物だ」という人はいない。錦旗も皇室に代々伝わる旗ではなく、岩倉が作らせたものだったが、疑う人はなかった。効果は絶大で、旗一枚で官と賊、善と悪を色分けした。錦旗を見た各藩は雪崩を打って新政府側に付いた。

 江戸時代の天皇は基本的に政治の権限がなかったが、幕末は敵も味方も天皇を神格化した。新政府が幕府を倒せたのは、天皇を抱き込んだことが大きかった。奥羽越列藩同盟が負けたのも、政治の駆け引きで差があったからだろう。

[大和行幸]攘夷派の討幕計画。天皇が神武天皇陵を参拝し、攘夷の軍議を開くことを企てた。
[王政復古の大号令]倒幕派が天皇親政の新政府樹立を宣言した政変。幕府を廃止、政府機関として総裁など3職を創設した。

1118荷主研究者:2018/04/15(日) 11:34:59

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2018年03月26日月曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(6)朝敵は征伐 見せしめ徹底

新政府が「官軍」の戦没者を祭った靖国神社。「賊」と扱われた会津藩士らは慰霊されなかった

◎長州藩はなぜ官軍になったか(下)萩博物館特別学芸員・一坂太郎さん

 <明治天皇を擁し「官軍」となった長州、薩摩両藩を中心とする新政府軍は、「朝敵」となった会津藩の征伐に向かう。萩博物館(山口県萩市)特別学芸員の一坂太郎さん(51)は「新政府軍が東北を攻撃した理由は(長州藩士)木戸孝允の言葉に象徴される」と言う>

◎禍根残さぬよう

 木戸は戊辰戦争について「大政一新の最良法」と述べていた。岩倉具視らに宛てた手紙には「『膏薬(こうやく)療治』で速やかに表面の形だけ整えては、他日再び禍害が生じる」とある。徹底的に武力でつぶさなければ、禍根を残すと考えた。

 新政府軍の表の大義は、錦旗に発砲し、朝廷に逆らった会津藩を倒すこと。裏の大義は、天皇の名の下に統一国家を築くため「逆らえばこうなる」という見せしめをつくることだった。

 <戊辰戦争後、新政府は東北などの「賊軍」の復権を認めなかった>

◎靖国 対象色分け

 その象徴が靖国神社(東京)だ。新政府は幕府が加護した仏教ではなく、招魂という神事で戊辰戦争の戦没者を祭ろうとした。1869年、招魂場の全国版である東京招魂社を創建。10年後に靖国神社と改称した。

 古来、日本では戦死者の慰霊は敵味方の区別なく行われてきた。「禁門の変」後も会津藩、長州藩などが一緒に慰霊された。

 しかし、新政府は敵の戦死者はあくまで「賊」として扱い、慰霊対象にしなかった。同じ国民同士を色分けしたところに、靖国神社の矛盾点があった。

 靖国神社の大祭は9月22日、会津落城の日だった。他の大祭は鳥羽・伏見の戦いの1月3日、彰義隊が壊滅した5月15日、五稜郭が陥落した5月18日。政権に逆らうことがいかに不義かを知らしめた。

 明治維新は近代化の出発点になった。近代国家を造り、独立国として生き残ったことは評価できる。しかし、近代化を急ぐあまり、考える暇を与えずに力ずくで政策を進め、日本を有らぬ方向へと導いた。

 <戊辰戦争と明治維新から150年を迎える>

◎反省の視点必要

 戦争から60年後、実際に見聞きした人々を取材した「戊辰物語」が東京日日新聞に連載された。岩波文庫で出版もされているが、江戸っ子に「薩長の田舎侍が自分たちの都をめちゃくちゃにした」という意識があったことが分かる。

 100年後の1968年は政府が明治維新を美化して催しを開いた。太平洋戦争から約20年しかたっておらず、「近代化は日本やアジアにとって良かったか」と疑問視する声があった。

 150年を迎えた今年、明治維新はイベントの材料でしかなくなった。一方で「明治維新は間違い」とあおるような本の出版が相次いでいるが、どっちが正しい、悪いという話ばかりだ。そんなことで歴史は評価できない。

 歴史は「英雄偉人たちの紙芝居」ではない。吉田松陰が「老中を殺せ」などと言ったのも事実。そこを切っては歴史ではなくなる。会津戦争は悲惨だった。一般人が巻き込まれ、会津の人は大変な辛酸をなめた。多くの人が決して忘れてはいけない歴史だ。

 明治維新150年は歴史を考える年にしなければならない。その中に反省という視点が絶対に不可欠。今の政府のような、ひたすら美化して都合が悪いものにはふたをする姿勢では歴史は見えなくなる。どこで、なぜ、道を誤ったかは常に議論が必要だ。

[彰義隊]15代将軍徳川慶喜の復権を掲げ、旧幕臣らが結成。上野・寛永寺に立てこもり、新政府軍に壊滅させられた。

1119荷主研究者:2018/04/15(日) 11:35:41

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2018年03月27日火曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(7)白河口の大敗 軍内に亀裂

奥羽越列藩同盟が使用したとされる旗。作製の時期や経緯、使われた場所などは分かっていない(米沢市の宮坂考古館所蔵)

ほし・りょういち 1935年5月、仙台市生まれ。東北大文学部卒。著書に「奥羽越列藩同盟」「偽りの明治維新」「東北を置き去りにした明治維新」など。NHK東北ふるさと賞など受賞。郡山市在住。

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎奥羽越列藩同盟はなぜ敗れたか(上)歴史作家・星亮一さん

 <戊辰戦争をテーマに小説を書き続ける歴史作家星亮一さん(82)は、奥羽越列藩同盟の目的を「薩長を駆逐し、新政権をつくることだった」と語る>

◎官軍へ反感募る

 1868年1月の鳥羽・伏見の戦い後、15代将軍徳川慶喜は謹慎した。幕府の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会談し、江戸城は無血開城となった。割を食い、いけにえにされたのが会津藩。将軍が恭順した以上、会津藩に罪はなかった。

 新政府は奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府を仙台に派遣。総督府は仙台藩に会津藩の攻撃を命じたが、仙台には「なぜ会津を攻撃するのか」という疑問があった。玉虫左太夫らを派遣し、会津藩の意向を探った。

 藩主松平容保(かたもり)は玉虫らに幕府に倣って恭順する意向を示したにもかかわらず、総督府の下参謀世良修蔵は怒り、仙台藩に容保の斬首を命じた。

 仙台藩と米沢藩は、会津藩の首謀者(家老)の首を条件に仲介しようと試みる。会津藩は断ったが「戦争と首謀者の首を出すのとどちらがいいか」と説得され、両藩にげたを預けた。だが、世良の要求はあくまで容保の首だった。

 怒った仙台藩士は世良を殺す。世良ら新政府軍兵士の官軍らしからぬ傍若無人な振る舞いが背景にある。仙台人を侮辱し、反感を買っていた。

 同時期に奥羽越の各藩が集まって列藩同盟を結成した。当初は会津藩への寛大な処置を嘆願する平和同盟だったが、拒否されたことで軍事同盟に転換した。

<68年6月、白河口で戦いが始まる>

◎兵器の差は歴然

 仙台藩と会津藩が白河を死守する盟約だった。ところが、戦争が始まると、午前中に負けてしまう。同盟にとって大誤算だった。

 十分な打ち合わせの時間がないまま戦闘に突入したため、両藩の連携が良くなかった。加えて主力の会津藩の総督西郷頼母に実戦経験がなかった。

 西郷は非戦派で容保の京都守護職就任に反対した。結局、会津藩は京都から戻り、藩内に西郷が正しかったという雰囲気が広がった。容保が西郷を総督にしたのは懐柔策だったのかもしれない。

 同盟はゲリラ戦法で時間を稼ぐ必要があった。新選組から夜襲を仕掛ける提案があったが、西郷は「堂々と戦う」と断った。どういう作戦を取るべきか分からない人を選んだことが失敗だった。

 兵器の差も歴然としていた。同盟軍の人数は相手の倍以上いたが、大砲は旧式。連発銃も少なく、旧態依然の軍備だった。対する新政府軍は最新式の大砲や連発銃で圧倒した。

<白河口の戦いの大敗はどう影響したか>

 同盟軍内に「大丈夫か」という疑問が湧き、仙台藩のうち水沢の軍は白河から引き上げた。白河城奪還は約3カ月試みたが、実現できなかった。

 仙台藩内部でも厭戦(えんせん)気分が出た。「会津を支援するべきだ」という主流派と、「薩長と手を握った方がいい」という反主流派の対立があり、次第に反主流派が力を付けた。

 初戦は何としても勝つ必要があった。戦争後、会津藩士秋月悌次郎は「白河が全てだった」と無念の詩を詠んでいる。

[玉虫左太夫]1823〜69年。仙台藩士。世界1周から帰国後、藩校養賢堂指南統取。
[西郷頼母]1830〜1903年。会津藩家老。非戦和平を主張した。会津戦争で一家21人が自刃した。
[新選組]京都守護職の下で京都の治安維持に当たり、尊攘(そんじょう)派を制圧した。近藤勇、土方歳三らが中心メンバー。
[秋月悌次郎]1824〜1900年。会津藩軍事奉行添役。戊辰戦争後、教育者として活躍した。

1120荷主研究者:2018/04/15(日) 11:37:01

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2018年03月28日水曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(8)仙台藩 人質手放す大失態

1995年に復元された白石城。戊辰戦争勃発後、奥羽越列藩同盟締結の舞台になった

◎奥羽越列藩同盟はなぜ敗れたか(下)歴史作家・星亮一さん

 <歴史作家星亮一さん(82)は、奥羽越列藩同盟の盟主、仙台藩の責任は重大だったとみる>

≪秋田藩が寝返り≫

 仙台藩の戦略は稚拙だった。仙台に滞在していた奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府総督の九条道孝は会津藩の降伏謝罪を認め、奥羽越列藩同盟と運命を共にする意向を示していた。九条は同盟にとって大切な人質だった。

 だが、仙台藩は九条奪還をもくろむ佐賀藩士前山清一郎にだまされてしまう。前山は「九条総督と、秋田にいる副総督を一緒に連れて京都に戻り、朝廷に戦争中止を訴える」と語った。仙台藩は信じて総督を手放してしまった。

 この失態は大きい。九条総督一行が秋田入りすると、秋田藩は反同盟に傾く。仙台藩は使節を派遣したが、新政府軍に同調した若い秋田藩士に皆、斬殺された。秋田藩は同盟に宣戦を布告。仙台藩は秋田攻撃に向かわざるを得なくなり、白河方面と兵力を二分された。

 <同盟に参加した各藩の意識はさまざまだった>
 秋田藩は「官軍」になったが、庄内、仙台藩などと壮絶な戦いを強いられた。戦争後は石高が少し増えただけで、得た物は多くはなかった。

 仙台藩と共に同盟を主導した米沢藩は、上杉家がかつて越後の領主で、「戦争に勝てば、越後に戻れる」と意欲を燃やした。だが、江戸家老が「江戸は薩長が支配し、大勢は決まった」という情報を入れ、同盟に疑心暗鬼になった。白河で敗れた会津藩の援軍要請を断り、越後の戦闘も及び腰となった。

 庄内藩は薩摩藩と因縁がある。庄内藩は江戸の薩摩藩邸焼き打ちを実行し、会津藩と共に朝敵とされた。焼き打ちは、江戸で騒乱を起こし、戦争に持ち込むという薩摩藩士西郷隆盛の謀略で引き起こされたとする説がある。

 秋田藩を攻めた庄内藩は、豪商本間家が金を出して新式銃を買ったため連戦連勝だった。降伏後は西郷が寛大な態度を示し、薩摩との交流が続いた。

 長岡藩は家老河井継之助が中立を宣言したが、新政府軍に受け入れられず戦いを始めた。河井は「越後の竜」といわれた傑出した人物だが、中央では無名。京都で存在感を示しておくべきだった。

 盛岡藩は家老楢山佐渡が列藩同盟は正義と信じた。同盟を裏切った秋田を攻めたが、新政府軍にしてみれば仲間同士の戦いにすぎなかった。

 戊辰戦争から50年後、藩出身の原敬は「戊辰戦役は政見の異同(考え方の違い)のみ。勝てば官軍、負くれば賊軍」と語っている。薩長藩閥政治に挑んだ原は東北初の総理大臣に就任し、佐渡の恨みを晴らしたといえる。

 <奥羽越列藩同盟の意義は何だったのか>

≪北方政権目指す≫

 歴史上初めて東北は一つという発想で連携できたのは画期的。今の地方の時代につながる先駆的な行動だったと言えるだろう。

 基本にあったのは仙台藩の玉虫左太夫が米国で見た共和政治。公正正義、衆議、弱者への思いやりを込めた画期的な連帯だった。幕府再興ではなく、薩長新政府に対抗する北方政権を旗揚げしようとした。

 同盟はうまく戦えば、新政府に日本をリードする人材を出したかもしれない。しかし、そうならず、東北は「白河以北 一山百文」という汚名に泣いた。

[薩摩藩邸焼き打ち]1868年1月、浪士らの略奪や暴行に手を焼いた徳川幕府の江戸警備担当、庄内藩が三田の薩摩藩邸を焼き打ちした。
[河井継之助]1827〜68年。長岡藩家老。戊辰戦争で一度落城した長岡城を取り返し、奮闘した。
[楢山佐渡]1831〜69年。盛岡藩家老。奥羽越列藩同盟入りを決断。敗戦の責任を負って切腹した。
[原敬]1856〜1921年。盛岡藩出身。立憲政友会総裁を経て首相。爵位を持たず平民宰相と呼ばれた。

1121荷主研究者:2018/04/15(日) 11:37:26

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180329_73045.html
2018年03月29日木曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(9)強い大藩意識 同盟を主導

[くりはら・しんいちろう]1975年3月、上山市生まれ。東北大大学院文学研究科修了。著書に「戊辰戦争と『奥羽越』列藩同盟」「幕末戊辰仙台藩の群像-但木土佐とその周辺」など。仙台市青葉区在住。

家名断絶になった仙台藩士の名簿「明治5年 官省願伺綴」。戊辰戦争後、多くの藩士が過酷な処分を受けたことを示す(宮城県公文書館蔵)

◎仙台藩は何を考えていたのか/宮城県公文書館専門調査員・栗原伸一郎さん

 <奥羽越列藩同盟は仙台藩が主導し、動かなければ誕生しなかった。幕末の仙台藩は何を考え、どう行動したのか。宮城県公文書館専門調査員の栗原伸一郎さん(43)は「大藩としての強い自意識があった」と語る>

◎密約口伝の覚書
 仙台藩は国持ち大名の大藩だった。幕末の時点で直臣約1万人、陪臣約2万4000人を抱え、石高は62万石と全国で3番目。官位も高く、加賀、薩摩藩と並ぶ「外様御三家」としての自己認識があった。

 奥羽の主導者という意識も持っていた。幕末の資料に「伊達家は鎮守府将軍」という話が出てくる。鎮守府将軍は古代に蝦夷に対処するため陸奥国に置かれた軍政府長官で、実際は江戸時代になった人はいない。奥羽で問題が起きれば、解決するのが自分たちの役割と考えた。

 さらに朝廷や幕府を助ける存在だと自覚していた。真偽は不明だが、ある重臣の家には、非常時に仙台藩が江戸を守り、水戸藩が京都を守るという密約が両藩間で結ばれていたという口伝の覚書が残る。

 仙台藩が何か行動を起こす場合、奥羽の大藩としてふさわしい振る舞いかという問題が常につきまとった。藩内ではよく意見が衝突したが、どの藩士も「大藩としてどうするか」を考えた点は同じだった。

 <仙台藩は京都の政局に関与しようとする姿勢が乏しかったと指摘される>

◎国政関与を議論
 理由の一つに奥羽地域を重視する意識があったと考えられる。地域を守る「鎮守府将軍」として警護や治安維持に当たることに意義を見いだし、政局から距離を保つことを正当化した。

 ただ、京都の仙台藩士は積極的に動いた。大政奉還後は対応を協議するため奥羽各藩に呼び掛けて会議を開いた。奥羽以外の藩とも接触し、熊本藩と連携する動きにつながった。後に熊本藩内では奥羽越列藩同盟との連携を念頭に挙兵する計画も浮上した。

 政治秩序が激変すると、仙台藩内では「今こそ動いて薩長と対峙(たいじ)するべきだ」「奥羽諸藩を率いて京都に行くべきだ」などと、自藩領に待機せず、国政に積極的に関与しようという議論が展開された。

 戊辰戦争勃発後、藩内では、武力を用いずに会津藩を開城させて時局を収拾することによって発言力を得ようとする意見が出た。こうした奥羽を主導しようという大藩意識が奥羽越列藩同盟の結成につながった。

 仙台藩は薩摩、長州藩を「公論を無視し、私心で戦争や改革を進めている」と対決姿勢を鮮明にし、中央政局を転換しようとした。しかし、同盟は軍事行動を展開したため崩壊した。

 <幕末の仙台藩ではどんな人物が活躍したのか>

 あまり知られていないが、波瀾(はらん)万丈の人生を送った藩士が多い。藩全般のかじ取りをしたのは奉行の但木土佐(ただきとさ)。玉虫左太夫は全国で情報収集し、藩主に直接意見を言った。玉虫のような100石以下の、家格が高くない藩士が登用され、藩を動かした。

 但木、玉虫らは資料が少なく、不明な点が多い。幕末仙台藩の歴史は研究が少なく、まだまだ基本的なことが分かっていない。藤原相之助の「仙台戊辰史」が基本文献になり、それ以外のことがあまり調べられていない。調査は難しいが、少しでも明らかにする努力が必要だ。

[但木土佐]1817〜69年。幕末仙台藩の奉行。新政府軍の標的となった会津藩の救済を目指し、奥羽越列藩同盟を主導した。
[藤原相之助]1867〜1947年。ジャーナリスト。歴史家。東北新聞などを経て河北新報主筆。著書に「仙台戊辰史」「平泉情史 藤原秀衡」など。

1122荷主研究者:2018/04/15(日) 11:37:49

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180330_63003.html
2018年03月30日金曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(10完)「辺境」イメージ 決定的に

河西英通(かわにし・ひでみち)1953年11月、北海道生まれ。弘前大卒、北海道大大学院博士課程満期退学。上越教育大助教授を経て2007年から現職。著書に「東北-つくられた異境」「『東北』を読む」など。

会津藩主松平容保らが臨んだ降伏式の様子を描いた「会津軍記 会津藩降伏の図」(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎軍事的敗北の影響は/広島大大学院教授・河西英通さん

 <戊辰戦争の敗北は東北にどんな影響をもたらしたのか。東北の近代史を研究する広島大大学院教授の河西英通さん(64)は「東北イコール辺境のイメージを決定づけ、その後も印象の再生産が続いた」と指摘する>

◎未開の地 固定化

 江戸時代の日本は基本的に親藩・譜代・外様といった来歴や、財政規模を示す石高で藩のステータスが決まっていた。「東北」「西南」など地域区分はなく、モザイク状の社会だった。

 中央集権的な政治行政が定着した途端、東北が「貧しい未開の地」で、西南が文明的で「進んでいる」というイメージが固定化していった。「白河以北一山百文」史観が成立する。

 近代になって進んだモノカルチャー化が背景にある。東北の産業がコメ作りに集約される中、経済発展の歴史や可能性も消えていく。凶作・飢饉(ききん)も、一元的農業ゆえの落とし穴だった。

 植民地ができてコメの輸入が増えると、東北の産業が空洞化する。宿命的な遅れではなく、国の政策的な判断もあり、結果的に「遅れた地域」とみなされていった。

 <軍事的敗北は、東北人の自己認識にどんな影響を与えたのか>

◎西南日本に対抗

 東北と一口に言っても太平洋側と日本海側で気候・風土は異なる。県内でも青森の「津軽」「南部」のように地域の成り立ちが違う。都市と地方の格差や対抗意識もある。ばらばらなのに、藩閥政府批判や西南日本に対抗するため「東北意識」が育まれていく。

 (1887年からの)明治20年代の自由民権運動の中で「第二維新論」と東北主義が生まれる。東北の運動家は「第二の維新を起こそう」と、とりあえず明治維新を「第一の維新」として肯定する。その上で「これから求められる『第二維新』はわれわれがやらせていただく」と訴える。

 明治22、23年の青森県の新聞記事などには地域や歴史への複雑な思いが語られている。レトリックの側面もあると思うが「自虐史観」。未開だから「開発されなければならない」という東北開発論につながった。

 <凶作や身売りといった東北の貧困は1935年からの昭和10年代、昭和維新運動に結び付く>

◎「正義」の視点に

 貧しさは東北だけの問題ではないのに、ひたすら東北の貧しさが強調され、帝国主義的対外膨張に突き進む。東北人自身も国家的使命感を強く意識する。自分たちは強い兵士であり、東北は食料や資源を供給し戦時体制を支える-というプライドを持つ。

 ナショナリズムの高まりの中で否定的イメージは薄まるが、敗戦で植民地を失うと東北は再び「辺境」に戻る。一方で「資源は東北にしかない」と、また東北開発論に注目が集まる。高度成長期には、失われた日本の「原郷」「異境」という印象も付与された。東日本大震災でも「我慢強い東北の人々」が称賛された。

 戊辰戦争は東北全体が敗者だったわけではない。秋田藩や弘前藩など官軍についた藩もあった。しかしその後の歴史を見ると、東北は全体として後進地化、植民地化されていく。

 戊辰後150年の歩みを眺め、これからの150年を展望するとき、浮かれた勝者や中央ではなく、苦汁をなめた東北や周辺側によって立つことが大事。その時、東北の視点は決して「敗北」ではなく、新しい歴史像を描く「勝利」「正義」の視点になるはずだ。

1123とはずがたり:2018/05/02(水) 10:17:22
「うそで政権短命化、歴史が証明する教訓」磯田道史さん
https://www.asahi.com/articles/ASL4Q52YSL4QUPQJ001.html?ref=tw_asahi
聞き手・後藤太輔2018年4月25日08時13分

 歴史家として過去の様々な記録を読むと分かるのは、江戸から明治までの日本は、細かく正確に文書を残す記録大国だったということです。その国がいま「改ざんする」「うそを書く」「残さない」という公文書3悪で歴史に残る問題を起こしてきました。

「公文書焼かれた国、歴史の空白生まれる」保阪正康さん
 江戸時代に細かく記録を残すようになったのは、農民と武士が離れて暮らすようになり、武士が統治の役割を担うようになったからです。武士は、領地での出来事の細かい記録を積み重ね、よりよい統治を行おうとしたのです。

 250年を超える江戸時代に日本人に染みついた記録をとる癖は、明治時代に力を発揮します。福沢諭吉や岩倉具視の海外使節団が残した西洋の詳細な記録は共有され、急激な近代化を支えました。

 しかし日露戦争に勝ってから記…

1124とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:18
宗教よりこっちだな。

「潜伏キリシタン」世界遺産へ…日本人がしがちな誤解を解いておこう
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180701-00056354-gendaibiz-bus_all&p=1
7/1(日) 13:00配信 現代ビジネス

大浦天主堂を建てたのは誰か?
 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産への登録が決定された。

 ニュース映像では、たびたび教会の映像が流れていた。大浦天主堂や黒島天主堂である。

 見逃しそうなところだけれど、しかし考えてみると、奇妙な取り合わせである。

 「潜伏キリシタン」はキリスト教徒であることを隠し、「潜伏」していたから(表面上は仏教徒であったから)潜伏(隠れ)キリシタンなのであって、その文化に「どこから見てもキリスト教の象徴」である教会は存在しないはずだ。

 日本独自の文化である潜伏キリシタンと、大浦天主堂は、本来は直接関係がない。大浦天主堂は潜伏キリシタンが建てたものではない。

 しかしニュース映像では、教会を映したいのだろう。日本人が見たときに、あ、キリスト教徒の文化が登録されるのだ、とわかりやすい。

 大浦天主堂は、フランス人が自分たちのために長崎に建てた教会堂である。

 建てられたのは元治2年(1865年)だから明治マイナス3年、つまり3年後が明治元年になるという、幕末ぎりぎりの建立である。

 日本人が、キリスト教を信仰するのは犯罪だった時代だから、日本人信者のための教会ではない。

 ただ、建立してまもなく、浦上村の潜伏キリシタンがここを訪れ、自分たちもカトリック教徒である、とフランス人神父に告白した。そういう「隠れ(潜伏)信徒の発見」の場所であるため、今回の「潜伏キリシタン遺産」に入っている。

 しかし、その告白が遠因となったのだろう、しばらく経ってから浦上村の潜伏キリシタンはそれまでの埋葬方法を拒否した。つまりキリスト教方式による埋葬を自分たちでやろうとしたのだ。

 残念ながら、フランス人の教会が建立されようと、日本人のキリスト教信仰は犯罪である。幕府に通報され、浦上村の信者は大量検挙され、やがて流刑になり、流刑先で多くの信者が死んだ。

 浦上四番崩れ、と呼ばれる事件である。

 浦上村の史上四回目の信者摘発、という意味の呼称である。つまり江戸期を通して、それまで三度、同様の摘発があったのだ。

本部からの「勧告」
 教会堂として単体で登録されるのは、この大浦天主堂だけである。

 他のものは「長崎の教会群」で申請されたときは却下され、周辺の「潜伏キリシタン施設」を含めたものとして、つまり風景の一部として、申請しなおされたものである。

 そういう教会には以下のものがある(カッコ内は建設完成年)。

 黒島天主堂(1902年。初期建立は1878年)
旧五輪教会堂(1881年のものを1931年に移築)
旧野首教会(1908年。初期建立は1882年)
出津天主堂(1909年。初期建立は1882年)
大野教会堂(1893年)
頭ケ島天主堂(1919年)

1125とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:29

 もっとも古いものが、久賀島の五輪教会堂1881年建立であるが、それはこの島の入り口に近い浜脇地区に建てられた教会を、1931年(昭和6年)に五輪地区の山のエリアに移築したものである。

 ここへはいまだにクルマで行けないらしい。最後は山道を10分ほど歩くため、雨天やその直後には到達困難との案内がある(それで世界遺産として大丈夫なのかしら、とちょっと心配ですが)。

 たしかに他の教会に比べると、日本家屋のような建築で、西洋建築が本格化する前の、土着の教会という雰囲気がある。潜伏キリシタン時代に近い感じがしている。でも、潜伏キリシタンの施設ではない。

 ほかの施設は明治の後半から大正時代に建てられたもので、西洋建築が流行していた時代の立派な教会堂である。

 なかでも黒島天主堂が象徴的存在なので、ここもニュースで映されていた。

 立派な西洋建築で、威風堂々という印象を持った。

 でも「潜伏キリシタン」(関連)施設として紹介されているのは違和感がある。映像だけを見たとき、一瞬、ここはキリシタンが繋がれた牢獄かなんかだったのか、と奇妙な連想をしてしまった。キリスト教信仰が犯罪だった時代は、見つかれば牢獄に繋がれてたわけだから。

 最初、長崎の古い教会群を世界遺産に申請していたのが、潜伏キリシタン施設に限って申請しなさい、と勧告されたのは、そこに日本の独自性があるからで、その勧告の意味はすごくわかる。

 ただ、残念ながら「潜伏」の文化である。キリスト教徒であることが外側からわかってはいけない文化だ。

 隠れていた人たちの文化遺産というのは、犯罪者が仕方なく残した証拠のようなもので(実際にキリストを祀る道具が見つかれば犯罪者として捕縛される状況だから、比喩ではない)、人を圧倒するようなビジュアルを持っていない。

 言ってしまえば地味である。

 その背後にある精神史まで見ないと、感得できない遺産であり、おそらく指示した本部はそういう意味合いを持たせていたのだろう。

 しかし、残念ながら、日本人にはあまり“キリスト教文化理解の基盤”がないようにおもう。

 クリスマス歴史の新書(『愛と狂瀾のメリークリスマス』)を書くために日本のキリスト教史を調べて以来、とても強く感じていることである。

潜伏か、隠れか
 そもそも「潜伏キリシタン」という言葉にあまり馴染みがない。今回の世界遺産報道で初耳という人もいるだろう。

 ふつう「隠れキリシタン」と呼ばれている。

 「鎖国」が「海禁」とされているのと同じく、歴史の視点を変えて、それに沿って歴史用語も変えていくようである。ただ、この変換が「新しい発見によっていままでの概念では通用しなくなったから」ではないように見える。

 『潜伏キリシタン』(大橋幸泰=著、2014年刊)の説明によると、こういうものである(ちなみに当書は新しい知見に満ちた刺激的な好著である)。

 隠れるように活動していたことは事実なので、江戸時代のキリシタンを“隠れキリシタン”と呼ぶことが直ちに誤りだとはいえないが、「潜伏キリシタン」の呼称を使うのは、明治時代以降、禁教が解除されていったにもかかわらず、隠れるように活動していた近現代のキリシタン継承者との差異を意識するためである。江戸時代のほうはむしろ潜伏状態にあった、というのがもっとも事実に近い。

1126とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:41

 つまり、完全な禁教下で、見つかれば殺される(つまり犯罪者として死刑になる)可能性の高い時代の信仰を「潜伏」、表立った禁教が解かれた時期以降、それでも隠れて活動していたキリシタンを「隠れ」と分けているのである。一瞬、なるほどと納得してしまうが、しかし日本語として考えてみるとよくわからない。

 「隠れ」と「潜伏」の使い方の差異が明確ではない。

 そもそも「犯罪を犯した者の長期逃亡」を必ず「潜伏」というわけではない。

 「彼は隠れている」
「彼は潜伏している」

 この二文の違いをどう感じるかという問題である。

 たしかに潜伏のほうが、やや強めな印象を受けるが、あくまで印象でしかない。どちらも自分の意志で身を隠しているという意味に取れる。外的な要因によってやむなく、という意味が、どちらかに必ず含まれているわけではない。

 わかりにくい。

 しかし学術用語を決める権利は学者にあるのだがら、学者がそういう意味で使っているなら従うしかない。

 ただ、「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」の意味の違いは、通常日本語の範疇ではわかりにくいのはたしかである。あまりセンスのいい言い換えではない。

明治政府もキリスト教を禁じていた?
 「潜伏キリシタン遺産」はいくつも登録されており、かなりの長い期間にわたる遺産が並ぶ。

 ただ、じつは「日本ではいつ、キリスト教の禁教は解かれたのか」というポイントがはっきりしておらず、少しわかりにくくなっている。禁教時代の終わりが明確ではないのだ。

 「徳川幕府が倒れて、明治になったらキリスト教は許されたんじゃないの」、とざっくり考えている人もいるだろう。でもそれは違う。

 明治新政府は、べつだん開明的な存在ではなかった。

 古い徳川政府から新しい明治政府になって世の中がすべてよくなった、というのは、明治政府自身がしきりに流し続けた政治的プロパガンダであり、現実はかなり違う。

 明治新政府は、キリスト教は禁教のまま、その信者は強く弾圧した。

 政府発足当初は、仏教さえも外来宗教として扱い、神仏分離令を出して、全国の寺々の仏像が壊された時代を作った政府である(その廃仏毀釈の騒動はわりと早々におさまったが)。キリスト教信仰など認めるわけがない。

 五箇条の御誓文とほぼ同時期に「五榜の掲示」を布告し、キリスト教禁止を明確に打ち出している。

キリスト教は「解禁」されていない
 秀吉が1587年に布告した伴天連追放令に始まったキリスト教禁教の流れは、徳川幕府も継承し、1610年代に禁教令を次々と出し、1637年の島原の乱以降、国内のキリスト教徒を一掃する政策を打ち出した(俗に鎖国政策と呼ばれる「キリスト教徒の殲滅施策」である)。

 明治政府もその流れを継承した。

 キリスト教信仰は引き続き禁止。

 ただ、徳川時代とは状況がかなり違う。

 なにせ、横浜や築地あたりに限られるにしろ、異人さんがそこにいるのである。

 キリスト教徒が我が物顔で歩いてる時代のキリスト教禁教は、それまでと変わらざるをえない。

 またキリスト教を信じる日本人を捕縛し、牢に放り込んでいるのを知った西洋列強は、強く非難しはじめた。欧米を歴訪している政府高官たちから、キリスト教禁止を緩めないと、条約改正がうまくいかないと報告もあり、政府も譲歩していく。

 しかし明確に「これから日本人がキリスト教を信じても、罪とはしません」と国民に向かって明言したことはついになかった。ずっと「黙許」でしかない。

 日本のキリスト教に多くの人が興味ないのはしかたがないことであるが、そのポイントだけは押さえておいてほしい。

1127とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:58

 「明治政府は発足時に「キリスト教信仰は禁止」と明言したあと、その禁止を取り消すことは一度もなかった」

 つまりキリスト教信仰解禁の年、というのは、政府の公式発表を追う限り、日本史上、存在していないのである。

 今回の潜伏キリシタン世界遺産への報道では、「1873年にキリスト教解禁」という文字が見えた。

 どうやら、それが歴史的事実という認識があるようだ。

 残念ながら、錯誤である、というしかない。世界キリスト教史に、わざと錯誤されるように流された情報であり、日本史としては、間違っている、というべき事項である。

 少なくとも「解禁」という事実はない(日本人がなぜ、日本史側から追わないで、世界キリスト教史から追おうとするのか、その態度も問題だとおもうが)。

7/1(日) 13:00配信 現代ビジネス
明治政府の公式見解
 1873年の解禁と言われるのは「五榜の掲示の撤去」のことである。

 「五榜の掲示」は明治政府の民衆への五つの禁令である。

 「五輪の道の遵守」「徒党して強訴や逃散することの禁止」「切支丹邪宗門の禁止」「攘夷行為の禁止(外国人への暴力禁止)」「郷村からの逃散禁止」

 これは新政府樹立のとき(戊辰戦争の真っ最中)に打ち出された新政府の禁令である。徳川時代と同じく、高札に書かれ、辻々に立てられた。

 この五榜の掲示の立て札が1873年(明治6年)に撤去されたのだ。

 各キリスト教国は、これにて日本国はキリスト教信仰を認めたとして、自国へ打電した。

 しかし、明治政府の見解は違う。

 この撤去のあと、イギリスの新聞が「日本政府はキリスト教徒を処罰する法典を廃棄した」と報じたのを見た外務省が驚き、太政官政府にこれは本当なのかと問い質した。 

 政府の回答は「高札の文面は人民があまねく熟知したので、取り除いたまでである。もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」というものであった。

 高札での告知では、これからあらゆる分野の新法典を公布していくのに追いつかないので、告知スタイルを変えただけで、書かれた内容は今後も続行である、というのが、政府が行政機関に告知した内容である。

 これが明治政府の公式見解だというしかない。

 1873年の日本政府には「もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」のである。

ひねり出された苦肉の策
 じつは、明治政府がとった立場はダブルスタンダードだった。

 外国に対する態度と、日本人に対する態度を変えていたのだ。

 簡単に言えば「日本人に向かってはキリスト教信仰は禁止」「外国人に向かっては、キリスト教に対して宥和的態度をとりはじめたかも、と勝手に誤解したとしても、敢えて否定しない」という面倒な両面である。

 日本の国際的な評判を落とさないための苦肉の策である。

 五榜の掲示を撤去したことによって、キリスト教宥和に動き始めたと勝手に誤解した外国人たちは、あえてそのままにしておいた。それは違う、まだキリスト教信仰は許してない、とこちらから出向いて通告することはしなかった。それは世界相手に喧嘩を売るようなものだからだ。

 日本人に向けては、「日本人のキリスト教信仰は今後も認めない」という態度は崩していない。おそらく明治6年という時期に、日本人のキリスト教信仰を認める、などという衝撃的な発表をすると、日本国中が大きく動揺し、政府転覆勢力に利用される、という恐れを抱いたのだろう。

 理由はどうあれ、200年間、犯罪者だと指定していた切支丹をいきなり解き放つと聞かされたら、ふつうの庶民はただ驚いて怖がるだけである。思想的背景まで考えて喜ぶ庶民が多かったとはおもえない。だから切支丹禁制は継続である。

1128とはずがたり:2018/07/04(水) 18:47:15

 そういうダブルスタンダードである。

 国際的立場の弱い国の政府判断としては、しかたのないところだったのだろう。正論だけを通したり、本音をぶちまけてしまっては、政治は成り立たない。苦しい政治判断である。

 この前年、1872年(明治5年)には「自葬の禁止」を通達している。

 自葬の禁止というのは、仏式か神道式でしか埋葬をしてはいけないというものである。日本人のキリスト教式の埋葬は「自葬」とされ、たびたび捕縛されている。明治政府による明確なキリスト教信仰禁止(信仰は犯罪とする)という告知である。

 明治6年に、その自葬禁止の令は継続中である。

 日本人には、キリスト教信仰を許さず、目立つ布教などは取り締まっていた。

そして黙許へ
 1875年(明治8年)には、函館でのキリスト教布教が妨害されたので、イギリス領事が抗議したところ、外務卿(つまり外務大臣)寺島宗則はこう答えている。

 「耶蘇教(キリスト教)はいまもって我が政府の制禁するところであって、いまだこの制禁を廃したことはない」

 こうイギリス領事へ明言している。

 1875年になってもキリスト教信仰は「解禁」されたとはいえない。

 外務省のトップがそう通告し、それが記録として残っている。

 何度か、キリスト教解禁を告知すべし、とキリスト教国側から要求されたことがあるが、明治政府は絶対それに応じなかった。

 ついぞ「日本人のキリスト教信仰を認める」とは一度たりとも告知していない。

 ただ、取り締まらなくなっただけである。つまり黙許である。

 だから、日本国内でキリスト教信仰が許された年は、明確には特定できない。

 これが歴史事実に対する謙虚な態度だとおもう。

 あまりテレビで「1873年キリスト教解禁」という文字を出さないほうがいいとおもいます(インターネットや雑誌でもですけど)。

 それは、私たちは、自国日本のキリスト教の歴史についてさほど関心を持っていない、と表明しているようなものだ。キリスト教徒に対して優しい気持ちで言っているようでいて、じつは真逆の態度になっている。

大日本国憲法下の「信教の自由」
 「自葬の禁止」は1884年(明治17年)に規制が解かれる。

 人種や宗旨にかかわらず、その土地で死んだ者(およびその土地に本籍を持つ者)は、そこに埋葬していい、ということになった。

 地味な政令であるが、これがかなりわかりやすいキリスト教信仰“黙許”の政令である。ひとこともキリスト教に触れてないが、そういうことである。1884年(明治17年)はひとつのわかりやすい黙許の転換点である。

 明治政府樹立当初の理念のひとつに「神道」を国の中心に置くことがあった(少なくとも狂信的にそれを目指す集団がいた)。

 しかしいくつかの挫折があり10年で諦めざるをえなくなった。

 その明治10年までは、政府首脳は(幕末の志士上がりの元勲たちは)、日本人のキリスト教信仰を認めるつもりはまったくなかったとおもわれる。あらたな宗教的理念を作り出そうとしているときに、そんなものを解き放つわけがない。

 しかし神道国教化は失敗する。やがて民権運動も起こる。

 明治10年代(1877-1886)に入り、社会は別のタームへ入りだした。

 その状況で、キリスト教信仰は黙許されるようになったようだ。

 民衆レベルでは、キリシタンであると告白すると、かなりの差別を受けたようだが(ときに宣教師が暴力的に襲撃されることも起こった)、政府が弾圧することは、なくなっていく。

1129とはずがたり:2018/07/04(水) 18:47:41
>>1124-1129
 1889年発布の大日本国憲法には信教の自由の条文がある。

 キリスト教信者である、ということだけで、捕縛され処刑される可能性は低くなった。

 「なくなった」のではなく「低くなった」というのは、この信教の自由の条文には留保事項があるからだ。

 「安寧秩序を妨げす及び臣民たるの義務に背かざる限において」信教の自由を有す、とされている。日本国の安寧秩序を妨げたり、臣民の義務に背くような宗教であれば、断固、取り締まるというもので、そこにはキリスト教徒を想定しているようにおもえる。

 明治政府の立場からじっくり見ると、常にキリスト教信仰は警戒されており、国家安寧の敵になる可能性を秘めていると見なされていただろう。

日本人とキリスト教の距離感
 今回の世界遺産には、各時代の遺産が登録されている。

 鎖国以前の島原の乱の戦場である「原城跡」がもっとも歴史的に古い。ただ、この時代のキリシタンは「棄教しなかった者たち」であり、潜伏キリシタンとは少し違う。

 鎖国時代(1639年から1853年)が、まさに潜伏キリシタンの時代である。この時代の遺物を中心にキリスト教遺産が選ばれている。しかし、見た目は地味である。

 たぶんその地味さゆえに、幕末開国期(1853年から1867年)、明治禁教期(始まりは1868年、終息は1880年代から1890年代)の「西洋ものらしい文物」が取り入れられている。わかりやすくいえば「古い教会堂」である。

 目立つアイコンが欲しいからだろう。

 おそらく、どこまで行っても、キリスト教文化は日本人にとって異文化なのだ。

 観光施設の目玉としてシンボリックな「教会群」を何とか入れたい。

 ただそうしたことによって「潜伏キリシタンの遺産」というイメージがわかりにくくなってしまった。繰り返しになるが、潜伏と教会は、基本、両立しない。

 そのあたりは、世界遺産センターの指示と、地元の思惑とが、少し行き違っている感じがする。

 世界の視点から見れば、「日本のキリスト教文化」というのは、あまりめぼしいものがない。世界的に見て、キリスト教信者がおっそろしく少ない国である。比較のうえなら、ほぼ信者がいない、と言ってもいいくらいだ(信者が全人口の1%に満たない)。

 そんな国においては、国内的視点で見れば、150年前から存在している教会堂群は、とても珍しく、保存して残し、また多くの人に見てもらって、観光資材としたいものだろう。

 しかしそれは「キリスト教徒のほとんどいない日本」だからこその感覚である。

 日本の神社もキリスト教施設と変わらない古さを持っている。2000年レベルで存在する神社たちのなかで、「明治になってから創建された神社群」だけを歴史遺産として保護しようという申請があったら「それに意味はないと言わないけど、それ以前にもっと守るべき古い神社があるんじゃないですか」と指摘されそうだ。

 世界レベルで見れば、日本の教会群は、そういう「最近できたもの」グループに入るはずである。

 世界遺産なんだから、世界レベルで判断するしかない。

 2000年近くに及ぶキリスト教文化とその遺産を持つ人たちから見れば、「日本にしか見られないキリスト教文化の特徴」は「200年を越えた国を挙げての徹底した禁教時代に、それでも信仰を守り続けた潜伏キリシタンという凄まじい土俗の力」にしかないのである。

 今回の指摘はそういう意味を持つと私はおもっている。

 世界で共有できる独特の遺産は、おそらくその「精神性」にある。

 ただ日本人は、あまりそういうことを想像しない。

 一部の人をのぞき、日本でのキリスト教の活動に、あまり興味を持っていないようにおもう。

 キリスト教施設は、いつも「エキゾチックでロマンチックで荘厳」という気分で捉えられている。

 おそらく世界遺産センターは、日本人のそういう気分を見抜いて「自国向けの視点ではなく、きちんと世界向けの視点を持ちなさい」という意味で、潜伏キリシタンに焦点を当てよ、と指導してきたのだろう。教育的指導である。

 日本人が自力でその視点を持つのは、なかなかむずかしいのだ。

 日本にとって、どこまでもキリスト教文化は異文化である。

 ひょっとしたら「日本」があり続けるかぎり、そうなのかもしれない、とあらためておもう。

堀井 憲一郎

1130とはずがたり:2018/07/18(水) 12:09:06
韓国元慰安婦支援団体「挺対協」が「正義連」に名称変更
https://www.asahi.com/articles/ASL7J6WS7L7JUHBI033.html?ref=goonews
ソウル=武田肇2018年7月16日21時30分

 韓国の元慰安婦支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」(挺対協)は16日、組織改編を行い、新たに「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)の名称で活動に取り組むと明らかにした。挺対協は韓国で最大の元慰安婦支援団体。名称変更は1990年の発足以来初めて。

 発表によると、挺対協は、2015年の日韓慰安婦合意に対抗し、元慰安婦を対象に独自に福祉事業を行うために設立された「正義記憶財団」と組織統合する。

 今後は、①戦時性暴力の再発防止②日本軍慰安婦問題に関する調査・研究▽次世代に歴史を継承する活動に力点をおくという。理事長には尹美香(ユンミヒャン)挺対協常任代表が就いた。

 挺対協は元慰安婦の証言集の出版や生活支援を手がけ、ソウルの日本大使館周辺で毎週水曜日、日本に謝罪と賠償を求める「水曜デモ」を主宰している。11年には同大使館前に設置した「少女像」が日韓の外交問題となった。また最近はベトナム戦争での韓国兵による性暴力や、アフリカ・コンゴ紛争での性暴力の被害者も支援している。(ソウル=武田肇)

1131とはずがたり:2018/07/20(金) 18:45:27

大西洋は「大」、太平洋は「太」になった“本当の理由”
https://excite.co.jp/News/it_g/20180720/Itmedia_nl_20180719089.html
ねとらぼ 2018年7月20日 11時00分

「タイセイヨウ」「タイヘイヨウ」と音が似ているのもあって、ややこしい。

 ヨーロッパ、アメリカのあいだに位置する海は「『大』西洋」。アメリカ、アジアのあいだにあるのは「『太』平洋」。よく似ていますが、後者は「大」に点が入ります。テストでうっかり間違ってしまった経験がある人も多いのでは?

 この違いについて「太平洋は『Pacific Ocean』を翻訳したもの。Pacificには平和、太平という意味があるから『太』と書く」などと説明されることがありますが、これは誤りなんだとか。一体、どういうことなんです?

●大西洋は「大」、太平洋は「太」になった“本当の理由”

 16世紀、史上初の世界一周に成功したとされるマゼランは、ある大洋をラテン語で『Mare Pacificum(平穏な海)』と命名。この英語訳が「Pacific Ocean」で、日本語訳は「太平洋」――。このような説明は辞典などにも掲載されているものの、岩手大学名誉教授・米地文夫氏によると“短絡的な理解”とのこと。

 同氏の解説をざっくりまとめると「そもそも太平洋にはさまざまな呼称や書き方があり、スムーズに定着したわけではない」というものになります。

 例えば、イタリア人宣教師マテオ・リッチが17世紀初頭に作成した「坤輿万国全図」(こんよばんこくぜんず)では、太平洋がいくつかに分けられ、以下のような呼称が使われているとのこと。

・大東洋

・墨瓦蝋泥海

・寧海

 この他にも「東海」「東洋海」「大日本海」などさまざまな名前があり、太平洋という表現が初めて使われたのは、マゼランの航海から約300年後のこと。…

イギリス人宣教師が手掛けた「地理全誌」(1853〜1854年)に見られるそうです。しかし、ややこしいことに、その著者自身は点が入らない「『大』平洋」を用いているといいます。

※Pacific Oceanには「Grand Ocean」という呼び方も存在。米地文夫氏は、両者を合わせた「Grand Pacific Ocean」の訳として『大』平洋が採用されたとしている。

 また、明治初期の日本でも「『大』平洋」という書き方が見られ、「大」「太」のどちらも使われていたとか。この表現の混在は1903年、国定教科書に「『太』平洋」と記載されたことで収まったとのこと。

 つまり、歴史をさかのぼると「『太』平洋」「『大』平洋」はともに間違いではなかったというわけ。元も子もない話になってしまいますが、その片方「『太』平洋」だけが正解とされるようになった理由は「教科書にそう書いてあるから」ということができそうです。

●主要参考文献

・太平洋は当初「大平洋」であった ?(季刊地理学/米地文夫氏)

・How the oceans got their names(OxfordWords blog)

1132名無しさん:2018/08/12(日) 23:21:43
http://jyouhouya3.net/2013/07/_1950.html

2013/07/05
[貴重画像] ロシアのサイトに掲載された1950年代の日本

共有ツイートピンメールロシアのフォーラムで紹介されていた1950年代の日本の画像。撮影したのは旧軍パイロットのアメリカ人。日本に訪問した際に撮影したものです。似たような画像で、元米軍の方が、撮影した、昭和40年頃の自衛隊駐屯地の画像を見たことがありますが、日本のこういった画像は海外の方が持ってる場合もあるんだなぁと実感させられます。今回紹介する画像は、カラー写真で写りも綺麗です。
[貴重画像] ロシアのサイトに掲載された1950年代の日本

1133とはずがたり:2018/08/14(火) 13:43:29
平和教育に赤信号 沖縄県・ひめゆり資料館の来館者はほぼ観光客
2017年6月19日 07:55
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/103431

 沖縄戦の記録や証言などを展示している糸満市の沖縄県平和祈念資料館とひめゆり平和祈念資料館の県内の入館者数が低迷している。県資料館の2016年度の県内有料観覧者数(無料の学校団体除く)は7963人で、開業翌年の01年度と比べて8割減少。ひめゆりでは県内の利用状況が分かる小中高校の来校数が、ピークだった1995年度の140校から2016年度は72校と、ほぼ半減した。終戦から72年を迎え、沖縄戦の証言者が年々少なくなる中、施設関係者は「平和学習も含め、県民の関心の薄れを感じる」と危機感を抱いている。(学芸部・座安あきの)

 観光客を含めた全体の入館者総数も減少傾向。県資料館の16年度の入館者は37万2502人で10年前の06年度に比べて17%減。ひめゆりは同比約36%減の57万9865人となり、初めて60万人を割り込んだ。来館者のほとんどを観光客が占める。国内は減少傾向にあるが数年前から海外が増加し、県資料館の担当者は「全体的には下げ止まりつつある」と話す。

 一方、県内の入館者数は依然低迷が続く。県資料館の県内(有料)は開館効果があった00年度の約11万人を除くと、01年度の4万3820人が最多。08年度からは1万人を下回る。有料観覧者に占める県内の割合は05年度まで10%前後だったが、08年度以降は2%台で推移。県内小中高校の利用も00年度の368校(3万1947人)から、16年度は224校(1万8982人)に減った。

 県資料館は開館当初から、ひめゆりは08年度から県内の学校団体の入館料を無料にしているが、入館者の増加にはつながっていないという。識者や関係者は、県内客が低迷する要因の一つに、学校現場での平和教育の取り組みに課題があるとみている。

 平和祈念資料館学芸班長で、中学校で社会科を教えていた古謝将史さんは「県内の学校現場はここ数年、学力向上に力を入れ、校外学習行事を減らす傾向がある。一方で地域の身近な戦跡を活用した学習を進める学校も出始めている」と話す。「沖縄戦の体験者が少なくなる分、記憶を残す『場所』が一層重要になる。教育現場でも『場所』を活用し、共感する場面をどうつくるか、考えていく必要がある」と指摘した。

1134とはずがたり:2018/08/21(火) 12:37:42
正統史観年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-565.html

「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判

産経ニュース 2011.12.7 22:41
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n2.htm

ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874〜1964年)が、
日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の
大統領だったフランクリン・ルーズベルト
(第32代、1882〜1945年)について、
「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った
『狂気の男』」と批判していたことが分かった。

1135とはずがたり:2018/08/23(木) 19:48:00
昭和天皇、戦争責任で苦悩=晩年の姿、元侍従が日記に
https://www.excite.co.jp/News/society_g/20180823/Jiji_20180823X137.html
時事通信社 2018年8月23日 16時35分



 昭和天皇が85歳だった1987年4月、太平洋戦争の責任をめぐり苦悩する姿を、元侍従の小林忍氏(故人)が日記に書き残していたことが23日分かった。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記されていた。

 小林氏は人事院出身で、74年4月に昭和天皇の侍従に就任。89年1月の昭和天皇逝去後も香淳皇后に仕え、2001年6月に皇太后宮職御用掛で退任した。06年7月に83歳で死去した。

 日記は74年から香淳皇后が逝去した00年まで27冊あり、家族が保管。共同通信を通じて、23日公開した。85歳だった昭和天皇が戦争責任を気に掛けていたとの内容は87年4月7日の欄に「昨夕のこと」として記述。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減を検討しており、同年2月には弟の高松宮が逝去した。

 これに対し、小林氏は「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と述べたと記している。

 75年11月24日の欄には、同22日の侍従長の話として、「訪米、帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており、自信を失っておられる」と記述。訪米後の75年10月の記者会見で原爆投下や戦争責任についての発言が波紋を呼んでいた。「お上の素朴な御行動が反(かえ)ってアメリカの世論を驚異的にもりあげたことなど申しあげ、自信をもって行動なさるべきことを申し上げたところ、涙をお流しになっておききになっていた」と記している。 



Read more: https://www.excite.co.jp/News/society_g/20180823/Jiji_20180823X137.html#ixzz5OzsyonXa

1136とはずがたり:2018/09/02(日) 09:56:02

会津藩士への弔辞見つかる
汚名返上の思い伝わる史料
https://this.kiji.is/408526774184477793
2018/9/1 16:38
c一般社団法人共同通信社

 150年前の戊辰戦争で犠牲になった会津藩士の家族らが、戦争から22年後に移住先の青森県で営んだ法要で読み上げたとみられる弔辞6通が、仙台市の藩士子孫宅から見つかった。専門家は「朝敵の汚名を着せられ、一刻も早く名誉を回復したい会津出身者の思いが伝わる貴重な史料だ」としている。

 弔辞は仙台市の小池純一さん(70)が自宅で発見した。1890年5月、円通寺(青森県むつ市)で開かれた二十三回忌で男女6人が読んだとみられる。

 「弾丸を援軍のない城に受けたが、盾を布団に、矛を枕にして国のために戦死した」「諸君の忠義は世の中の称賛を浴びるだろう」などとつづられていた。

1137とはずがたり:2018/09/02(日) 09:59:43
1918年米騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95

騒動の広がり
第一次世界大戦による好景気がまだ続いていた1918年(大正7年)に伊勢の福寅一派の相場師の買いあおりにより米穀取引所における期米相場は遂に50円(1石当たり)に迫り、小売価格も1升30銭から50銭を超すに至り世の中は物情騒然となった[17]。

米価の暴騰はとどまりを見せず、1918年(大正7年)8月1日には1石35円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)とのねつ造記事を書かれたことにより焼き打ちに遭った。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約20,000人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ち壊すなどして1升30銭での販売を強要した。

東京市では、北陸での暴動発生の報を受けても主要な政治団体は静観の構えを見せた[18]。しかし、8月10日に宮武外骨を発起人として山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による野外演説会を日比谷公園で8月13日に開催する広告が打たれ、警察が禁止の決定をしたにも関わらず当日には約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった。200人の警官が包囲する中で行われた即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れて怒号と興奮が高まっていた[18]。事態は警官との衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行った。浅草方面に向かった一派は翌14日に浅草・本庄近辺の米商に押し寄せ、暴力的な廉売交渉を行った。8月15日には軍が出動し、翌16日に暴動は鎮圧され総計299人が検挙されている[18]。東京市での暴動は、他の地域と比較して反ブルジョア思想を背景とした都市暴動の性格を持っており、暴動参加者の多くは若年層の男性だった[18]。

こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日頃からは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、9月12日の三池炭坑の騒動終了まで、50日間を数えた。

炭坑への飛び火
8月17日以降には、米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火する。山口県沖の山炭坑、福岡県峰地炭坑などにおいて、炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化した。沖の山炭坑の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ち毀しや遊郭への放火などが起こった。出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど(陸軍のねつ造)、死者13名を数える惨事となった。陸軍が発砲理由とした坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は、陸軍が発砲を正当化するためにねつ造したコメントを、『大阪朝日新聞』(大正7年8月23日付)などが取材なしに記事化したことにより流布された可能性が高い[19]。

1138とはずがたり:2018/09/02(日) 09:59:59
>>1137
騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇
「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間に渡る一連の騒動は最終的に、1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された[20]。呉市では、海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙する中、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。検挙された人員は25,000人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴[21]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。

被差別部落との関わり
米騒動での刑事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった[22]。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。京都市の米騒動も、市内最大の部落である柳原(現・崇仁地区)から始まっており、同地区では50人以上の部落民が逮捕されている[23]。処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。

1920年(大正9年)、事態を重く見た原内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。

軍人の参加、警官による暴動への加担
呉市では、水兵が騒動に参加して検挙された。また、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した。

政府対応
政府は8月13日に1000万円の国費を米価対策資金として支出する事を発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。

平民宰相の誕生
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。

寺内は体調不良もあり8月31日に山縣有朋に辞意を告げ、9月21日に正式に辞表を提出した。

山縣は西園寺公望に組閣を命じたが、西園寺はこれを固辞し、原敬を推薦した。そして9月27日に原に組閣が命じられ、日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。

爵位を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。

1140荷主研究者:2018/09/02(日) 22:14:57

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/218167?rct=n_hokkaido
2018年08/14 16:57 北海道新聞
検体求め倫理を逸脱? 北大教授、旧満州で人体実験か

 戦時下、北海道帝国大教授が軍の協力を得て、被験者の同意を得ずに人体を使った実験を行っていたことが明らかになった。背景には当時の外地の国民に対する人権意識の低さがあるが、近年、民生分野にも活用できる「デュアルユース(軍民両用)」の研究の是非が議論になる中、軍事と科学技術の距離は今も問われている。

 「この材料からどういふ方法で睾丸(こうがん)をとり出して薬品処理したかといふ事ですが(中略)相当重大な問題でもあり(中略)口を緘(とざ)して置きます」

 中国人から摘出した睾丸で染色体を観察する研究を行った北海道帝国大教授の小熊捍(おぐままもる)氏は、1939年の講演でこう述べ、手法の詳細への言及を避けた。当時は、医学研究について被験者の同意が不可欠とする国際倫理指針「ニュルンベルク綱領」が作られる前だが、小熊氏に非倫理的な人体実験との自覚があったことをうかがわせた。

 旧満州(現中国東北地方)では、関東軍防疫給水部本部(通称・731部隊)が36〜45年、生物兵器開発などのため中国人らに対する人体実験を繰り返した。犠牲者は2千〜3千人に上るとされる。

 31年の満州事変以降、日本の占領政策に抵抗する武装勢力による襲撃が相次いだ。戦時下の人体実験に詳しい神奈川大の常石(つねいし)敬一名誉教授(科学史)は当時の時代背景について「抗日運動に対する憎しみが日本で高まり、殺してもいいという考えが広がった」と語る。

 731部隊の上位部隊・関東軍の元参謀副長だった旧日本陸軍大将は回顧録で「某国立大学の外科教授が来訪し、匪賊(ひぞく)処分の機会を与えてくれと頼まれた」と振り返った。常石名誉教授は「満州は人体実験など『国内ではできない研究』ができるとされ、多くの研究者が訪れた。小熊氏も検体が欲しいあまり、非倫理的な手段をとったのだろう。資料を読む限り被験者の同意はなく、戦時とはいえ生命倫理に反する研究だった」と話す。

 見返りに軍は大学から優秀な人材を送ってもらえる利点があり、時流に乗って軍と科学者が互いに利用し合っていた構図が浮かぶ。

 各分野の科学者でつくる日本学術会議は2016年、軍事的な研究を行わないとする声明の見直しを議論。結局、昨年3月に従来の声明を継承することを決めたが、研究者の間には「自衛のための研究は許される」「基礎研究の段階では軍民の区別はない」などの声もある。戦後、科学者が一線を引いてきた軍事と科学技術の関わりは、転換点を迎えている。

 小熊氏について調べている北大大学院の川本思心(ししん)准教授(科学技術社会論)は「小熊氏の研究は軍事応用ではなく基礎的研究だが、社会環境によって研究者の良識のたがが外れ得ることを示している」と指摘。「重要なのは資金源だけでなく、研究結果がどう利用されるか。今の研究者も望んだ研究ができる環境になったとき、一線を越えないか深く考えるべきだ」と警鐘を鳴らす。(吉田隆久)

1141荷主研究者:2018/09/02(日) 22:20:54

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180814_13029.html
2018年08月14日火曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(上)勤労の日々/貴重な青春、無為に消費

火薬廠で働いていた当時の笠松さん(手前左)=1945年4月ごろ

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 大河原町の市場貞子(ていこ)さん(89)が火薬廠に動員されたのは1944年11月。旧白石高等女学校に通う15歳だった。

 「女の自分でも国のために働ける」。動員が決まった時は、不安よりも喜びが勝った。

 工場に入ると、身なりは一変する。セーラー服から作業着、スカートからもんぺ。頭には日の丸の鉢巻きを結んだ。

 寮の起床時間は午前5時。シューマンの「トロイメライ」が流れると、急いで身支度を整えた。

 食事は白米にサツマイモの葉を混ぜてかさを増やした「糧飯(かてめし)」やかゆ。粗末なものばかりだった。

 火薬廠の入り口に着くと、班長の市場さんが「白石高女隊100人入ります」と守衛に敬礼。履き慣れない地下足袋で「丘にはためく あの日の丸を…」と軍歌を歌いながら歩いた。

 敷地は530万平方メートルと広大で、入り口から持ち場まで歩いて1時間近くかかった。

 機銃火薬を定規に合わせて切断するのが市場さんの仕事。火薬はプレス機械で圧縮され、うどんのように落ちてきた。仕事は12時間勤務で夜勤もあった。

 45年3月に女学校を卒業するまで、火薬廠で働き続けた。「10代半ばの少女にとっては大変な重労働だった」と振り返る。

 火薬を取り扱うだけに仕事は危険を伴った。やけどを負ったり、機械で指を切断したりする人がいたという。

 中には命を落とす学徒もいた。旧角田中の男子生徒が作業中、機械の歯車にマントを引き込まれ、頭を強く打って亡くなる事故があった。

 「戦争で勝つにはみんなが働かなくちゃいけない」。旧大河原高等女学校から火薬廠に動員された笠松ヤエ子さん(88)=仙台市=は当時、自分の置かれた状況を当然のことと捉えた。

 終戦から時間がたつにつれ、考えが改まる。「二度と来ない青春を無為に消費させられた」。そんなやりきれなさを感じるようになった。

 一方で「女学校時代から学徒動員を取ったら何も残らない」とも思う。同級会の話題は火薬廠ばかり。当時歌った軍歌を合唱したり、習った手旗信号をしたりして昔を懐かしむ。

 貴重な学業の時間を戦争によって奪われた学徒たち。理不尽な目に遭いながらも、類を見ない経験を共にして互いの絆を強めた。

[メモ]第一海軍火薬廠は1939年、現在の柴田町船岡地区と角田市北郷地区に海軍火薬支廠として開庁し、41年に改称。機銃火薬や爆弾用爆薬の補充、供給のほか、東北開発が開設目的だった。太平洋戦争末期には学徒を含め毎日1万人が働き、終戦まで操業を続けた。

1142荷主研究者:2018/09/02(日) 22:21:31

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180815_13009.html
2018年08月15日水曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(中)戦火の中で/「敵機近づけぬ」神話も

陸上自衛隊船岡駐屯地に残る第一海軍火薬廠時代の防空壕。現在は立ち入り禁止となっている=柴田町

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 太平洋戦争末期、第一海軍火薬廠(しょう)(宮城県柴田町、角田市)の動員学徒らの間で一つの「安全神話」がささやかれていた。

 「蔵王連峰の影響で起きる乱気流のため、火薬廠に敵機が近づけない。阿武隈川から立ち上る霧で下界も見えない」

 実際には、多くの米軍機が火薬廠の上空を飛んでおり、単なるうわさ話にすぎなかった。

 話の信ぴょう性を高める事故が起こった。1945年3月10日未明。蔵王連峰の不忘山で、3機の米爆撃機B29が相次いで墜落した。

 旧白石中から火薬廠に動員された阿部雄次さん(89)=白石市=は「B29が落ちたぞ」と聞き、寮から蔵王連峰を眺めた。「確かに山が燃えていた」と振り返る。

 動員学徒は皆が皆、火薬の製造ラインに配置されたわけではない。阿部さんは防空壕(ごう)の掘削に汗を流した。「ただ国が勝つことだけを信じて働いた」と言う。

 動員学徒が火薬廠時代を追想した冊子「戦争の頃の思い出」では、旧角田中の卒業生が「火薬を作りながら、竹やりの訓練も受けた」とつづる。

 指導官は「隠れていて敵が来たら、一突きすればいい。一人一殺だ」と厳命。「アメリカが来たら、女は強姦(ごうかん)され、男は睾丸(こうがん)を抜かれる」とも語ったという。

 空襲警報が鳴ると、学徒たちは敷地内のあちこちにある防空壕に駆け込んだ。「暑いし、蚊が多いし、気持ちのいい場所ではなかった」と思い起こすのは、旧黒沢尻高等女学校(北上市)から来ていた小原崇(たか)さん(89)=北上市=だ。

 B29が火薬廠の上空に飛来することもしばしば。威嚇のためか、地上数メートルの高さまで急降下することがあった。「パイロットのゴーグルまではっきり見えた。おっかない顔だと感じた記憶がある」

 45年7月10日には、火薬廠周辺から仙台空襲の光景が見えた。空が真っ赤に染まっていたことだけが脳裏に焼き付いている。

 B29や仙台空襲を目の当たりにしても、不思議と怖さは感じなかった。「当時の自分たちには兵隊さんと同じような覚悟があったのかもしれない」と振り返る。

 結局、火薬廠は爆撃を受けずに終戦を迎える。大規模な軍需工場が標的にならなかった理由は不明だ。いずれにしても「安全神話」のおかげではないだろう。

 学徒たちの覚悟は幸いにも、空振りに終わった。

[メモ]1941年12月に太平洋戦争が開戦し、国は43年6月、労働力を補うため学徒戦時動員体制確立要綱を閣議決定。44年3月には動員の通年実施を決めた。同8月には学徒勤労令が発布され、第一海軍火薬廠にも学徒が逐次動員された。

1143荷主研究者:2018/09/02(日) 22:22:09

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180816_13012.html
2018年08月16日木曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(下)迎えた終戦/放心 絶望 交錯した感情

終戦直後、動員学徒が仲間からノートに寄せてもらったサインやメッセージ

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 1945年8月15日。今年の夏のように、うだるような暑さだった。

 正午、第一海軍火薬廠(宮城県柴田町、角田市)の工員が広場に集まった。旧黒沢尻高等女学校(北上市)から動員された佐々木静子さん(88)=北上市=もその一人だ。

 ラジオからの玉音放送は雑音も多く、よく聞こえなかった。「日本は戦争に負けた」。誰かがそう言うと、周りは一気に騒がしくなった。泣きだす人もいた。

 動員された旧制二高(現東北大)の学生は「慚愧(ざんき)、慚愧」と悔しがり、地面に拳をたたきつけた。

 一般の工員の一人は、やり場のない怒りを抑えられず、工場の椅子を倒し、そばにあった物を放り投げた。

 佐々木さんは「今まで頑張ったのは何だったのか」と放心状態になった。「戦争に負けたら男も女も奴隷として連れて行かれる」。そんなことを聞いていただけに絶望感にも襲われた。

 午後になると、動員学徒たちが再び広場に出てきた。旧制二高の学生は「日本は確かに戦争に負けた。だが、民族の誇りを失わず、国の再建のために頑張ろう」と年下の学徒たちを鼓舞した。

 「私は朝鮮で生まれ、幼い頃に日本に来た」。旧制中学のある生徒が立ち上がり、告白した。「日本が敗戦国となり、朝鮮に帰ることになる。けれど、日本国民だったことを忘れず、再建に力を尽くしたい」。声を詰まらせながら訴えた。

 佐々木さんは生徒の心情を思い、胸が苦しくなった。涙と汗でハンカチがぐっしょりとぬれた。

 敵機が上空を飛び交うごう音は、もう聞こえない。ジー、ジー、ジー。セミの鳴き声が久しぶりに耳に響いた。

 終戦により、数日で片付けを済ませ、古里に帰ることになった。動員学徒の仲間たちとの別れを惜しみ、佐々木さんら女学生たちはそれぞれ、ノートにサインを求めて回った。

 「作業中に明るい声で笑っていたね」。言葉を交わしたことのない二高生からこんなメッセージを贈られ、驚くような恥ずかしいような気分も味わった。

 「あの朝鮮出身の生徒は母国に帰った後、日本に戻ろうとし、スパイ容疑で処刑された」。後に風のうわさでそんなことを聞いた。

 火薬廠を離れてから73年。「さまざまな感情が押し寄せたあの日のことを忘れることはできない」。今年も終戦記念日を迎え、胸がざわめいた。

[メ モ]終戦後の1945年9月、米軍が第一海軍火薬廠に進駐。同11月に火薬廠が閉庁した後、米軍が敷地や建物を接収した。58年3月、火薬廠の接収を解除し、日本政府に返還。跡地には現在、仙台大や陸上自衛隊船岡駐屯地、角田宇宙センターなどがある。

1144とはずがたり:2018/09/05(水) 08:44:36

おお,未だお元気そうでなによりだ。今年は平成の最後にして余りにも多くの昭和人が逝ったからな。。

熊谷空襲
「戦争、国が人生奪う」 作家・森村誠一さん、終戦前夜を語る /埼玉
https://mainichi.jp/articles/20180828/ddl/k11/040/215000c
会員限定有料記事 毎日新聞2018年8月28日 地方版

埼玉県
 「人間の証明」などの作品で知られる作家森村誠一さん(85)は、終戦前夜の1945年8月14日夜から15日未明にかけ、故郷の熊谷市で空襲を経験した。闇夜を切り裂く焼夷(しょうい)弾に、川を埋め尽くした無数の遺体。玉音放送を聴いて感じた喜び。共同通信の取材に「戦争とは、国が人々の人生を奪うこと」と、平和への思いを語った。

 森村さんは当時12歳。8月14日深夜、米軍機が次々に落とす焼夷弾で、熊谷市中心部にあった自宅も瞬く…

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