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鷹目遊里史板

1鷹目:2006/03/12(日) 14:04:22
一流への道
≫活魚料理店の水槽を撮らずして一流とは言えないでしょう。

 道は険しいな・・・。

>bananaさん
 情報ありがとうございます。そちらも次回候補に入れておきます。会場選定が一番悩みます(笑)。

504夕凪:2009/10/05(月) 00:26:27
大阪市の売春地区
●赤線地区 飛田:待合 兼 カフェー
      松島:待合
      今里:待合、カフェー(置屋)、芸妓扱所(置屋)
      住吉:待合
       港 :待合

●青線地区 飛田新地周辺地区(西成区東□町、松□町、△王町)・・・・ 旅館及び娼家
      大阪駅周辺地区(阪神ビル裏一帯)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋、飲食店
      大淀地区(天神橋筋○丁目、吉△町、長○中通1〜2丁目) 娼家

●散在している売春地区
      西 成 署(西成区▲王町1〜3丁目附近、東□町)・・・ 旅館、下宿、娼家
      都 島 署(省線京橋駅附近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館
      南  署(南区高○町、日○橋1丁目附近)・・・・・・・・ 旅館、娼家(ハイヤー受)
          (御堂筋西側)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
      港  署(港地区:港区△條通)・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館、小料理屋
          (八幡○地区)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
      住 吉 署(加賀○町1丁目)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 飲食店
          (加賀○町2丁目)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
          (村○町八地)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
          (浜■町443)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
      天王寺署(天王寺公園、上六附近)・・・・・旅館、やとなくらぶ、カフェー、娼家
      阿倍野署(旭○一帯、斎場前一帯)・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館、娼家
      旭  署(京阪千○駅附近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
      生 野 署(省線寺□町駅附近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 娼家
      曽根崎署(吉▲町附近一帯、○垣町附近一帯)・・・・・ 娼家
      浪 速 署(下○町、日本○方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
          (新川○町方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
          (大□町26号線方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
          (新世界方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)


                        1957年の大阪市の資料より

505夕凪:2009/10/13(火) 02:29:55
女性デジタルアーカイブシステム(真面目なサイトです。)
●国立女性教育会館 女性デジタルアーカイブシステム

 こちらのサイトから、日本キリスト教婦人矯風会資料(売春防止法関係)等
 売春防止法公布当時の資料を閲覧する事ができます。

      ttp://w-archive.nwec.jp/main.html

506夕凪:2009/10/24(土) 13:26:19
滝井特飲街の誕生 (0)
●滝井共栄新地(再掲)

参勤交代制度のあった江戸時代の頃、京街道の要所で、
船着場としても有名な宿場であったが、
ここでも例外なく男の集るところに飯盛女がいた。
しかし時代の進展に伴い宿場の衰微と共に消滅した。

大正5年頃第一次欧州戦争の好景気を背に再度台頭し、
昭和27年末頃より急に発展を来し、当時許可を得ることが至難のため、
取りあえず建物のみを急造し然る後風俗営業の許可申請をすると言う
手段を講じたのである。

業者は大阪の松島、飛田新地にならない、
セット制に切替え営業を続けているが、
その移行状況は次のとおりである。

料理店は何れも旧飛田、松島新地の業態を模倣したセット方式が多く
1セット600円乃至700円程度のものが多い。
各店とも1,2人から7,8人位の女給を抱えており、
全体で30数人程度が現に稼動している。

女給に対しては各店の実情によって異なるが、
大体100円乃至300円の固定給1セット売上げに対して
100円乃至200円程度の歩合給を加えている。
女給の年令は、25,6才位が一番多く一部を除いて殆ど住込みである。
元の青線当時ここで働いていた女子も現に1、2名稼動している。

売春もひそかに行われているやの風評もあり、想像もされるが、
業者はあくまでも全然関知しない体裁をとっているので、
警察側においても検挙は困難のようである。


                 1961年の資料より

507夕凪:2009/10/24(土) 19:00:12
滝井特飲街の誕生 ?
●守口市の特飲街問題

守口市で大きな社会問題となったのは、
1952年10月2日守口市滝井■町で、3名が待合い営業を申請し、
規制する法的根拠がないことから、
公安委員会が許可したことに始まった。

同年10月20日には、近くにあった滝井小学校の校長・PTAが
許可取り消し申請を出し、その結果3軒のうち2件が廃業届を出した。

同年12月には市民による「守口市特飲街設置反対」の請願書・陳情書が
市議会議長宛に提出され、議長は臨時市議会の決定に基づき
公安委員会に善処方を要望した。

しかしながら、翌年には問題となった地区周辺に
同種の店舗が旅館などの名目で続々と建てられた。

1953年5月21日の読売新聞夕刊によると
同種の営業をしている店は、
待合い営業(許可済み)1軒、旅館営業(未許可)3軒、無許可8軒となっており、
ダンスホールを含めて8軒が建設中であり、
さらに6、7軒が増えそうだと記述している。


                      2000年の資料より

508夕凪:2009/10/25(日) 10:13:17
滝井特飲街の誕生 ?
●公安委員長は業者の見方 ・・・・・・

【公安委員長】
 あの広い所に、待合は差支えないと思われ許可しました。
 そしたら、その後は旅館として申請が出ております。

 しかし、なんと言っても、できた以上、
 我々は業者の生きる途を考えねばなりません。
 そういう時は、相手が警察の取締の対象になり得る業種なら
 市民は安心してもらえるのではないか、
 と考えたから、そのように計らいました。

 先に15軒の建物ができてしまったのですから、
 これをいかにいかに生かすべきかを考えるべきだと思います。


【財総副委員長】
 最初待合を申請したときなぜ料理屋として許可しなかったのですか。

【公安委員長】
 最初2軒の待合申請が出てきた時は、
 あそこに特飲街ができるとは察知できなかったのです。
 世情に疎いと言われるかもしれませんが、
 当時としては将来の想像は、許されませんでした。
 増えた時は許可できないと考えておりましたが
 後は旅館の申請が出ましたので・・・・

【財総副委員長】
 それは許可せぬ方針だと、相手が考えたからです。
 現在15軒の料理屋、飲食店を許可するなら、
 なぜ初めに許可しないかと言う事になります。
 これは行政の一貫性がないと思います。


            以上、1953年の守口市議会会議録の抜粋
            (常任財政総務、警察消防合同委員会)

509夕凪:2009/10/25(日) 19:05:30
滝井特飲街の誕生 ?
こうした状況から、守口市警察と大阪府衛生予防課は
1953年6月8日に一斉手入れし、風俗営業取締法違反容疑で12業者を、
性病予防法で接客婦48名を検挙した。

同年6月12日の市議会は、市公安委員会に対する
前年12月の要望書への対応について説明を求めるとともに、
特別調査委員会を設置した。

また市議会は当時の市議会議長が、
特飲街の建築設計に関与した疑いがあるとして追及し、
同年7月6日の市議会議長の辞任にまで発展している。

さらに市議会は、同年7月7日に「売春勧誘行為等取締条例」を
提案し、9月22日に可決した。

公安委員会は翌1954年6月9日に紅屋町全域および
滝井■町3丁目全域および滝井■町2丁目の内31番地〜39番地を
風俗営業禁止区域にした。

                 2000年の資料より

510夕凪:2009/10/25(日) 19:31:06
滝井特飲街の誕生 ?
●風俗営業を営むことのできない 区域とその業種
     ― 市公安委員会で指定 ―

風俗営業取締法による待合、小料理屋店、カフェー、バー、
キャバレー、ダンスホール、ダンス教授所等は、
守口市公安委員会の指定によって6月9日から
次の区域では営業できないことになりました。

 1.紅◆町全域
 2.滝井■町3丁目全域
 3.滝井■町2丁目の内31番地から39番地まで

この区域内でも既に許可を受けて営業されているものは
この指定から除かれます。

               1954年の資料より


※上記資料に記載されている風俗営業禁止区域の
 説明地図を見ると、現在の新地は禁止区域外の
 ように見えます。

511夕凪:2009/10/25(日) 20:10:44
1966年頃の五條楽園 (再掲)
かって“七条新地”の名で馴染まれた廓。
明治以来というから京都では新興の口だろう。
従来は祇園甲部と変わらぬお茶屋街であった、
それが自然に純お茶屋が祇園の方に移動、自然娼妓が隆盛となった。

昭和14、5年の不況旋風に、芸妓は金がかかる、
てっとり早く金にできるのは肉体を売る方法という事で
全面的に娼妓一本 ―― つまり赤線になってしまった。

全盛時代には、やかた185軒、娼妓800人を抱えたというから大変なものである。
売防法以来はもっぱら旅館に転向したが、
女抜きではさっぱり客も集まらず、お茶屋に生まれ変わった。
お茶屋84軒、バー、スタンドなど19軒。芸妓は100人もいるという。

芸妓は名前だけ芸妓とつけているのでなく、
6ヵ月間はお座敷にも出さず、みっちり芸を仕込んでいる。
芸といっても長唄、三味線の類では、いまの若い人たちにアッピールしないとあって、
もっぱらギター、アコーデン、歌謡曲などのレッスンが主。

芸妓たちはすべて通い。ここがミソでお座敷で話し合って勤めの終わった11時頃から
2人っきりでどこへ行こうと、それは束縛するすべもない。

「お茶屋だってレンアイできますよ。あそこは十席(5千円)が相場。
 座布団を丸めて枕に、裾をめくるだけでやるのは飛田や松島と変わりませんネ。」
という声もあるが、彼女らも生身の女性だから、
馴染みのいい男には浮気もするということだろうか。

                       1966年の盛り場案内より

512夕凪:2009/10/25(日) 22:02:41
『 色街をゆく 』 ― 全国色街今昔探訪記 ―
● 橋本玉泉 著 『 色街をゆく 』( 2009/10/21、彩図社 )¥620 (税込)

歓楽街の「いま」「むかし」、ちょっと覗いてみませんか?

[内容]
北は札幌・ススキノから、南は沖縄・真栄原まで―。
全国津々浦々の旧遊郭・赤線街・青線街などを歩き、
各地の歴史から現在の様子までを綴った、色街今昔探訪記。

[目次]
・吉原(東京都)徳川以来400年の歴史と伝統が今も息づく日本最大の遊里
・川崎(神奈川県)かつての「工場の街」は高層ビルとパステルカラーの
 ショッピングモールに飾られる
・名古屋(愛知県)「日本一の敷地面積の遊郭」「風俗店集中のヘルスビル」など
 話題に欠かない土地
・京都(京都府)2日がかりでも見飽きない古都に残る歓楽街のさまざまな風景
・宇都宮(栃木県)かつての赤線は住宅街へと変わり繁華街には新興の風俗も進出
・黄金町(神奈川県)200店以上の店が並んだ「ガード下」も
 その50余年の歴史に終止符か
・ススキノ(北海道)開拓者たちの憩いの場は観光客が集うエリア
・池袋(東京都)裏表あらゆる風俗が集結した都内有数の広域歓楽ゾーン
・飛田(大阪府)現在も灯り続ける関西最大の「ちょんの間」エリアの灯
・土浦(茨城県)川沿いの歓楽街は時代とともに変貌を続ける
・西川口(埼玉県)一時は渋谷や池袋なども凌駕した歓楽街の50年余りに及ぶ興亡
・高松(香川県)海を臨むソープ街と日本一のアーケード街に散在する歓楽スポット
・福原(兵庫県)震災から立ち直った歓楽街はその片隅に旧遊郭の名残もとどめる
・船橋(千葉県)住宅街に現在も残るかつての遊郭を偲ばせる大店の跡
・真栄原(沖縄県)内地とはまた違った明るさを放つ歓楽スポットは南国ならではの香りか
・甲府(山梨県)わずかな痕跡を残すのみの遊郭跡と商店街の奥に潜む風俗店たち
・木辻・生駒(奈良県)閑静な住宅街に残る日本最古の遊郭跡と参道に並ぶ歓楽旅館の群れ
・安浦(神奈川県)かつては地元漁師たちが通った色街跡にひっそりとたたずむ街路灯の残骸

[著者略歴]
1963年横浜市出身。トラック運転手や学習塾講師、コンビニ店長、経営実務書編集、
販促ツールの営業マン、フリーペーパー記者、夜勤作業員など職を転々とする。
91年からフリーライター。

事件や世相などに関するルポのほか、歴史・文化、民俗・庶民生活、
性風俗などについての記述も多い。

最近は『紙の爆弾』『リアルスポーツ』などの紙媒体のほか、
インターネットサイト『メンズサイゾー』で性に関する習俗、
話題、事件についても執筆。

※著者のブログです。 ttp://ameblo.jp/tg016450/entry-10366980378.html#cbox

513夕凪:2009/11/28(土) 15:05:58
新町で 3連発  
? 12/4(金)〜 12/16(水) なつかしの昭和・新町展

            ??会場:大阪市立中央図書館(無料)

   ttp://www.city.osaka.lg.jp/nishi/page/0000057385.html

???? ttp://hito-machi.org/ppt/2009/091121/chirashi.pdf

? 12/6(日)13:30 新町・町歩き:文学と歴史を訪ねて

          集合:西区民センター (資料代&保険料 500円:先着40名)

          申込先:西区民センター 06-6531-1400
?????????????????? ※できるだけ早く申し込んだ方が良いみたいです。

 ◆ 町歩きの途中、あの大阪屋(旧新町演舞場)で講演があります。
   大阪屋の中に入る貴重なチャンスです!

   講演1:新町と文学 ・・・・・・・・・・・ 織田草之助(オダサク倶楽部)
   講演2:演舞場の変遷 ・・・・・・・・・ 北口明彦(大阪屋)
???? ※演舞場の貴重な写真を見れるようです。

? 12/13(日)13:30 新町:過去・現在・未来フォーラム

           会場:大阪市立中央図書館(無料:当日先着 300人)

          演題:a.花街の歴史、b.新町の戦前戦後
??????????????????????????c.新町と文学(講演者は?と異なります。)
             d.御田植神事、e.新町ジオラマ

 ttp://www.manabi.city.osaka.jp/Contents/lll/kouza/inview.asp?CONTENTNO=34795

514夕凪:2009/11/30(月) 21:27:00
新町 : 過去・現在・未来フォーラム
● 講演内容

 華やかな新町の過去の歴史を掘り起こし、昭和時代の西六(サイロク:新町)を経て、
 大阪大空襲による劇的な変化を検証し、新町の未来を考えます。


● 演題と講演者

 a.開会挨拶・・・・・・・・・・・・・・・・吉原康文 (大阪市立中央図書館長)
 b.花街の歴史・・・・・・・・・・・・・・人見佐知子(甲南大学・文学部)
 c.新町の戦前戦後・・・・・・・・・・西平のぶ子(ふくこ美容室)
 d.新町と文学・・・・・・・・・・・・・・高橋俊郎 (大阪市立図書館)
 e.御田植神事・・・・・・・・・・・・・・小出英詞 (住吉大社・権禰宜)
 f.新町ジオラマ・・・・・・・・・・・・北澤嘉浩 (宝塚造形芸術大学)・・・未来の新町

 総合司会・・・・・・・・・・・・・・・・・・堀田暁生(大阪市市史編纂室所長)


● 日時:12月13日(日)13時30分〜16時(13時会場)
  場所:大阪市立中央図書館 5F 大会議室
  入場無料


 なつかしの昭和・新町展・特別企画 その2

 主催 特定非営利活動法人なにわ堀江1500


                      ゲットしたチラシより


 (参考)ttp://www.rivervillage.net/west6/joho.htm

515夕凪:2009/12/16(水) 23:59:46
●性病予防自治会熊本縣連合会
?熊本市二本木組合      ?本渡特殊料理店組合   ?芦北郡湯浦町料理店組合
?八代市紺屋町特殊飲食店組合 ?牛深料理店組合     ?芦北郡桟敷町料理店組合
?八代市横手町特殊飲食店組合 ?北天草料理店組合    ?芦北郡日奈久特殊飲食店組合
?八代郡有佐組合       ?天草郡一町田料理店組合 ?芦北郡田浦村組合
?荒尾市特殊飲食店組合    ?玉名市貸席組合     ?下盆城郡松橋町組合
?人吉市特殊飲食店組合    ?山鹿市料理店組合    ?下盆城郡隈庄町組合
?水俣厚生会貸席組合     ?宇土郡三角町料理店組合 21.上盆城郡浜町組合


                             1954年度の資料より

 ※性病予防自治会熊本縣連合会の組合事務所 所在地は二本木町
 ※なんで高田原がないの !?

(参考)ttp://jdream2.jst.go.jp/jdream/action/JD71001Disp?APP=jdream&action=reflink&origin=JGLOBAL&versiono=1.0&lang-japanese&db=JSTPlus&doc=07A0409692&fulllink=no&md5=65865b1ca67343ad20c281b4b9f52ae0

516夕凪:2009/12/18(金) 00:00:53
●鹿児島席貸組合
?鹿児島貸席組合   ?海潟料理屋組合      ?鹿屋市木町料理屋組合
?鹿児島市組合    ?肝属郡内ノ浦組合     ?東隅料理屋組合
?出水料理屋組合   ?肝属郡高山町組合     ?垂水町料理屋組合
?川内市組合     ?南隅四ヶ村料理業組合   ?枕崎市組合
?財部町組合     ?岩川町組合        ?名瀬市組合
?末吉料理屋組合   ?加世田町料理屋組合
?串木野市組合    ?山川町料理店組合


                         1954年度の資料より

517夕凪:2009/12/20(日) 21:00:39
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●上柴遊廓(上馬場町)

揚屋の料理人と女郎とが情死したのを当時の作者によって小稲・半兵衛と美化され、
それが広告となって想い大津の柴屋町と謳はるるに到った履歴附きの遊廓で、
重なる茶屋は小島屋、大房、金繁で之についで大芳、富美久、北此、金君、などがある。

小島屋の構造は大阪城落城の当日元和元年5月7日に棟上をしたままのもので
大高源吾閑居の茶室が現存し、北此楼は所謂小稲半兵衛の情死した家である。

老妓としては、上方唄の巧い上田うた(52)、浄瑠璃は男優りの松室喜代助(56)、
長唄とチャリ舞で知られた若山榮吉(48)、踊の堪能な中村あい(42)があつて、
孰れも舞妓からの勤続者である。

名妓といえば年は若くとも谷口富子を推さねばならなぬ。

遊芸の師匠としては踊は藤間都壽、唄は長谷川はな、鳴物は田中忠次郎、
新曲技芸顧問池田百八である。

518夕凪:2009/12/20(日) 21:01:45
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●下柴遊廓(下馬場町)

此廓は明治20年(1887)に上柴から分離したもので喧嘩繁昌すること
江州十一遊廓中の随一なれど芸者なり楼主なり品位に欠く所があって
何となく成金の全盛を見るような心地がする。

茶屋としては、四層楼の島屋、之に次ぐものは夷屋、一富士楼で、
その他は芝居の書割を見るような家ばかりで、

芸者は首を看板にする若い芸者ばかりのうち、唯一人二見あい(52)という老妓があって、
何くれとなく世話をやいて居る。

遊芸の師匠としては踊は岡本きく、唄は磯田きく、鳴物は田中忠次郎、
此廓は稽古が八釜しいので追々腕が出来、上柴の連中と立列べる者もあるようになった。

519夕凪:2009/12/20(日) 21:03:59
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●眞町遊廓

明治初年には長等山麓の寂しい土地でチラホラある家の中に白首の鬼が棲み
順禮宿という名の下に遊里の形を造ったのがそもそもで、
次第に発達し今では上柴に次ぐ江州有数の遊廓となったのである。

大駒楼が飛放れて良く、次に千代の家、可祝楼、玉屋などあり。
其の他はお粗末なのも無いだけに立派なのもない。

芸者は40名以内で相当に芸もあり、老妓に、お人柄な木村八重(38)と、
喧ましやの服部小才(39)とがあって、重忠と岩永のように捌きが附く。

遊芸の師匠としては、踊は小谷はる、唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
此廓に歌舞会なるものが常設され時々月ざらいを演る。

520夕凪:2009/12/20(日) 21:05:14
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●甚七町遊廓(稲荷新地)

大津の東部菊ヶ浜を拓き稲荷神社の附近に遊廓を置いたので稲荷新地という。

24・5名の芸者は隣接せる料亭魚善楼のお蔭で活きて居るようなもので、
茶屋では川上音二郎が久しく食客になって居た俵屋を始めとし、
木村屋、魚友楼など可なり立派なのがある。

芸者は可もなく不可もなき雁首が揃い、
黒田美代吉(38)という老妓が牛耳を取り、
芸に堪能な大辰楼の梅子が若手を引立てて居る。

遊芸の師匠としては唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
踊は当時欠員で、芸者梅子が代理を勤め得意な篠塚派の手振を教えて居る。

521夕凪:2009/12/20(日) 21:06:29
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●花代と祝儀

花代は1本10銭で、1時間を5本とし、最初の1時間には送り込みと称して2本を附加する。
昼夜通し花は75本、之を細かに分けると、午前6時より同9時まで6本、
午前9時より正午まで6本、正午より前1時間を6本とし余は1時間4本の割で追うて行く。

茶屋の口銭は花1本に付2銭7厘、芸者の祝儀は客の意志次第で一定せず、
中には、知らぬ顔の半兵衛もある。

                           1919年の資料より

522夕凪:2009/12/20(日) 21:11:21
某所 お座敷遊び企画 協賛 : 入れずの6発 !!!!!!
●上馬場・下馬場の穴場(再掲)

 国鉄大津駅から北西に約1?“三井の晩鐘”で知られる三井寺の麓あたりに、
 細くゆるやかな坂道に沿って、バーや小料理屋がぎっしりと並んでいる。

 ネオンこそ華やかだが、どこかしっとりとしているのは、
 この場所が、もとの遊郭で格子のある家の形そのままで
 飲食店営業をしているからであろう。

 古い造りの建物に、横文字のスナックやクラブの看板があるのは、
 奇異なものだが、しかし慣れてしまえば、
 それもまた大津独特の風情と感じられて面白い。

 この街には、もう一つ結構な趣向がある。
 T江姉さんから聞いたのだが、
 大津ではお座敷に上がらなくても、芸者が呼べるのである。
 ホステスよりも安くつき、その場の“自由恋愛”も腕次第でOKというから、
 まさしく男性天国。

                     1970年の男性週刊誌より

523夕凪:2009/12/29(火) 13:50:18
赤線はすでに復活している (その1) 
●大阪周辺の旧赤線地帯は、めざましい活気を呈しているといってよい。
 まずは大阪府警の資料によって、現在の状況をみよう。

  △飛田新地 200軒 (女)??800名
  △松島新地 160軒   ??640名
  △堺    200軒   ??800名
   ――――――――
  △尼崎初島 200軒  ??1,600名
  △尼崎神埼 100軒  ??1,000名

 このほか、今里新地に130軒。約400名の女性がいる。
 生野区にある<今里新地>は、旧赤線というよりも青線で、
 いわゆる三業地、一枚看板の芸者と、転び芸者の二枚看板にわかれ、
 松島や飛田とは趣きを異にする。


                   1966年の月刊雑誌より

524夕凪:2009/12/29(火) 14:08:18
赤線はすでに復活している (その2) 
●全盛時は、400軒以上の業者があり、女の数も3,000人を超えた
 <飛田遊廓>も、現在では当時の勢威はない。

 だが、旧赤線業者が、知恵をしぼって、
 “アルバイト料亭”なる偽装売春システムによって、
 売春防止法以後はいちはやく開業したことでも知られている。

 ビール1本、おつまみ付きをワン・セットと称し、
 これを3セットくらいとれば、
 女性と一つの座敷で1時間ぐらい楽しめる・・・・・
 という偽装売春だ。

 業者としては、客が何セット注文しようが、
 客と女が密室の中で恋愛におちいろうが、
 まったくノー・タッチという方針。
 ただし、追加のビールは、部屋に運ばないだけなのである。

 女たちは、料亭の住み込み女中とか、
 仲居という名目で働いている。

 最近は不景気のため、3セット(3,600円)まで出せば、
 確実に遊んでもらえるが、
 むろん最初のワン・セット分は、業者の収入。
 次のセットのうち6割は、つまり1,440円が女の収入となる。

 業者としては、1本のビールを1,200円で売りつけ、
 さらに女から4割を搾取している訳で、
 かつての赤線よりも悪どい手口となっている。

 もっとも逮捕されると、
「私は、女と客の<取り引き>には、タッチしまへん。
 女に部屋を、1時間1,000円で貸してるだけだす・・・・」と
 逃げる業者もいるという。

 取締の厳しい昨今では、2セットぐらい注文したからと言って、
 かならずしも女と寝られるわけではない。

 <松島新地>も、同じような形態だが、
 飛田とくらべて格が下がるだけに、
 交渉もそのものズバリでいくという。


                 1966年の月刊雑誌より

525夕凪:2009/12/29(火) 14:22:59
赤線はすでに復活している (その3) 
●しかし、大阪の遊び人は、飛田や松島ではなく、
 県境の神崎川を越えた尼崎の初島や神崎に行く。
 なぜなら、必ずセックスを満たしてもらえる、
 という保証があるからだ。

 つまり、アルバイト料亭に行き、財布をにらみながら、
 女を口説くという、“技術”が、神崎や初島では不要なのである。

 <初島>や<神崎>は、ただ一つ川を越えただけなのに、
 それこそまったくの別天地で、完全に昔の赤線スタイル。

 名目は小料理屋でも、働いている女は、自分の個室を持っている。
 ただし、この個室はショート・タイム用である。

 泊まり客だと、近くの旅館や、大阪十三あたりのホテルへ行く。


                 1966年の月刊雑誌より

526夕凪:2009/12/29(火) 14:56:46
赤線はすでに復活している (その4) 
●ただ用心しなければならないのは、神崎である。
 ここは20組ちかい暴力団が入っていて普通のタクシーを使わせない。
 白タクばかりである。この白タクが、暴力団の資金源の一つになっており、
 神崎と十三の間を往復して稼いでいるわけだ。

 なぜ、尼崎の神崎と初島とが、このように公然と営業できるのか、
 と言うと、○○氏が尼崎市長時代の、移転問題がからんでいるらしい。

 かつての初島遊廓などは、尼崎市の中心にあり、
 付近には、学校や民家が密集していた。
 教育上も、環境上もよろしくおない・・・・というわけで、
 ○○市長が現在の県境の、へんぴな位置に移したのであった。

 その点、大阪の飛田、松島とも、境遇がよく似ているわけだが、
 支障のある場所から、支障のない地域に業者を集めた・・・・という裏事情もあり、
 へんぴなため監視の目の行き届かないという点も重なって、
「取り締まりもあまり厳しくできない」ということらしい。

 尼崎は天国だというので、客も流れ、また女たちも飛田あたりから、
 尼崎へと移ってゆく。大阪の業者は、女を移動させまいととし、
 一方、新しい女を集めるために、必然的に暴力団と結びついた。


                     1966年の月刊雑誌より

527夕凪:2010/01/04(月) 02:00:13
住吉新地 拾五周年紀念 大演藝會
若葉にそよぐすず風もいと心地よき時候となりました
尊台愈々御清福にあらせられ何よりと、お慶び申上げます。

扨(サ)て當住吉新地の発祥は、遠く二百有余年の昔に初り
住吉大社と最も由緒ある岸辺の茶店が、お茶屋となり
赤前垂れが「やとな」となり、藝妓と呼ばれて
茲に十五星霜、げに光陰は矢の如く
首を回せば創設以来藝界の消長興廃窮なりき間に立ちまして
極めて健全に、且つ極めて急激なる発展を
遂げてまいつた積りでありますが
未だ未だ他の新地に比べまして、
将来もつともつと、奮発もし、勉強もせなければならん点が
いくらもあると存じます。

此秋にあたりまして、
住吉新地は、西隣の元菖蒲園一帯の土地4万坪に、
新地の更生を計らねばならない事になりましたため、
茲に住吉新地創設15周年と、
更生の将来を祝福する意味に於て、
紀念大演藝会を開催いたしまして
皆様の住吉新地を、いやが上にも引伸したいと、
藝妓は勿論、當業者一同、
必死の努力をいたして居ります。

何卒熱誠なる住吉ファン各位の、
絶大なる御声援と御批判を、
希望して已まない次第で御座います
一言以て御挨拶と致します。


 昭和11年5月
             住吉新地同盟組合

528:2010/01/06(水) 18:45:14
東京西部
 遅くなりましたが、昨年11月に東京方面に赴いた時の簡単なレポをば。

・八王子花街
 現役花街。何軒かは少しはなれて存在するが、比較的駅近くに料亭は集中。黒塀のそれなりの建物なれど、さほど古いと言う印象はもたず。こちらでも旅行会社(?)が、お座敷体験企画をやっているみたいです。

・旧田町遊廓
 大きなお店が5軒前後健在。必見の価値あり。

・立川錦町
 中心に飲み屋が数軒あり。それが往年の名残を留めるのみ。

・立川羽衣町
 完全に住宅地化。ただ不自然に大きな道路、整然とした町割、アパートの多さでかつてそうであった感じるのみ。

・武蔵新田
 残念ながら、書籍に掲載されていた建物全て壊滅。

 東京都下全て廻った訳ではありませんが、吉原、鳩の町、玉の井、八王子ぐらいしかまとまって建物が現存する処がないと思われ・・・。

529通りすがり:2010/01/09(土) 12:42:35
鳩の街…
突然の書き込み失礼します。
鳩の街の印象的な黄緑色のタイルのお宅が火事で半壊状態になってしまったとか…

530k_taii:2010/01/11(月) 22:04:27
こんばんは
 正月に連夜の夜をパラパラとめくっていたら、石巻の建物が目につき
連休に行ってきました。でも観光局に遊郭の存在を確かめ、役所に正確な場所
を聞き、建物が現存していることを確認してしまいました。(遠いので)
場所は駅から歩いて10分ぐらい。細い道を入るとそこが元遊郭。片側5軒ぶん
ぐらいでぜんぶで10軒ぐらいの規模だと思われました。残っていた建物は2軒。
1軒は1階をスナックにしていたようで、モルタルでよくみられるように改装され、
もう一軒はほぼ往時の面影を残しておりました。

531えもん:2010/01/14(木) 11:44:45
長野。
上諏訪遊郭
その場所だけ周りとは雰囲気の違う、隔離されたような場所。
残っているのは数件のみ。現在は民家となっているものもあるけれど
公園近くにある建物が、モルタルの洋風で一番雰囲気を残していました。

線路を越えたところは、かつての花街。現在も検番あり。
お茶屋さんも数軒残ってましたが、ほとんどがスナック街。
いりくんだ路地にある蕎麦屋さんに、料理店の鑑札あり。

下諏訪遊郭(湯田町)
細い坂道に2軒、雰囲気の残る建物。
1軒は廃屋。漆喰と格子の少し凝った建物。

中山道の宿場町に料理店の鑑札のある宿あり。
白狐神社に下諏訪料芸組合との明記あり。

532夕凪:2010/01/16(土) 07:35:52
東の吉原、西の柴屋町 (大津駅) 再掲 
宿場町、商業の町で栄えると、夜の町花街もにぎわうことになる。
今も健在の柴屋町だ。

柴屋町は俗称、正しくは馬場町(現在は長○三丁目)といった。
いつごろ花街になったかはわからないが、大津城ができ、宿場町になり、
旅籠が並んだころからではないだろうか。
大津には柴屋町のほか、四の宮(京○三丁目)、真野(長○一丁目)、稲荷新地(松○二丁目)と
傾城遊女の町があったが、当時から柴屋町は別格だった。

西鶴は『日本永代蔵』の中で「昼間から三味線のバチの音が聞こえて・・・・・」と書き、
『好色一代男』では、色男世之介がやぼったい格好をしていたため
「格式高い柴屋町で遊ぶ身分ではない」と軽く見くびられるくだりがある。
一時は、お江戸の吉原と肩を並べるほどだった。

『色道大鏡』という粋書によると、延宝4年(1676)の揚代は、天神(または格子)と呼ばれる
ハイクラスな遊女で銀26匁。塩3俵が21匁だった時代、
今流に換算するとウン万円は軽いというところか。

また文化15年(1818)に揚屋仲間・茶屋仲間から出された定書では、
「傾城揚代 金2朱(1朱金16枚で小判1両)局女郎 銭464文」とある。
当時、1両で米が1石7、8斗。塩が1升で32文だったのだから、
柴屋町での遊びは、かなり高くついたといえる。

柴屋町にも花街情話が残っている。「小稲・半兵衛情死」だ。
柴屋町遊廓に富永屋という置屋があり、小稲という遊女がいた。
その小稲に坂本村(大津市坂本)の呉服屋の手代、半兵衛がぞっこんほれ込んで、
商用で大津に来ると通いつめていた。

柴屋町の遊び代は高く、手代の給金では後が続かない、
小稲会いたさに、借金に借金を重ね、ついには店の金まで手をつけた。
進退きわまって、小稲に窮状を訴えたが、10両盗めば打ち首になる世の中、
「私のような物に入れ揚げたばっかりに」と、小稲・半兵衛は心中して果てた ――― 。

柴屋町の名の起こりは、古くから薪売りが多く住んでいたからとか、
花街の女にたきつくす慕情を、火を焚く柴にたとえてとかいわれている。
まだ格子が残る古い家並みをみると、慕情のロマンを採りたくなる。


                   1981年の鉄道旅行案内より

533夕凪:2010/01/16(土) 07:54:19
大津 (再掲) 
冬は鴨料理で雄琴温泉が、夏は浜大津を基点に湖岸各地の海水浴場が賑わう。
一泊することも多い訳で、そんな時にお色気を求めようとしても、
地方都市のことだけに、一現で穴を掘り当てるのは至難の業といえよう。
雄琴、石山両温泉とも何もないから、夜は浜大津へ出てこなければならない。

トルコ、ヌードスタジオ、ステッキなど見当たらないし、
ストリートガールも立ってはいないから普通のお愉しみコースは、
まず浜町か柴屋町のバーで飲むことから始まる。

前者は新興バー街でいともたやすく夜のデイトに応じるホステスがいるし、
柴屋町にしても旧赤線だから、堅い一方ではない。
店によっては飲食を抜きにして、ホステスに肉体サービスをさせるところもあるという。
芸者はそうした要求にこたえてくれまいから、宴会でまず親しくなって
夜の街へ誘い出そうというのなら、やとなといった方がいい新検芸妓だろう。
これらは、とりたてて看板もあげていないから、旅館の番頭と相談してみるべしだ。

                  1967年の夜のお遊びガイドより

534夕凪:2010/01/18(月) 00:51:02
近江國大津遊郭 馬場町
●色道大鏡(シキドウ オオカガミ)

 大津の遊郭は、世に柴屋町といひならはし侍れど、馬場町なり。
 柴屋町といへるは、遊郭の外下の一町をいふ。

 柴屋町は、むかし、比良・小松わたりの柴を舩につみて、
 爰(ココ)につけて売りたる所なれば、かくいへるなるへし。
 抑(ソモソモ)江州大津は、帝城を去ること3里、
 昔時、天智帝此所に宮づくりし給ひて、大津宮と申し奉りき。

 台嶺巍ゝとそびへ、前には湖水洋ゝたり。

 所謂大津八町は、都より吾妻におもむく最初の旅館にして、
 人馬道路につどひ、往還こゝにしげし。

 あやしの出女までも一ふり見えて、
 恋のしるへなきにしもあらす。


        新版色道大鏡刊行会編『新版色道大鏡』(2006年)


?? ※書名の読みは大阪市立図書館のHPによる

 【おまけ】ttp://books.google.com/books?id=_a6ANgx9ho0C&dq=%E8%89%B2%E9%81%93%E5%A4%A7%E9%8F%A1&printsec=frontcover&source=bl&ots=KEU_me5KL6&sig=F2Mz41-rZ_7-H2dSO1rsNbSMQWU&hl=ja&ei=wFVUS4DkCY7q7AOA_7mjCg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CCIQ6AEwBQ#v=onepage&q=&f=false


※この本の解説に「色道即ち紳士道である。」とあった・・・・

535夕凪:2010/01/18(月) 01:30:07
大津柴屋町之事
●諸國 色里案内(貞享5年板、1688年)

 いつはじまりたる共しらず古き色里
 京極殿時代より 上下貳(ニ)町にさだまりぬ
 北南よこ町 桶屋町と云に揚屋あり
 北の入口今颪(イマオロシ)といひ 南の入口石橋町といへり
 やうじや有


         未刊文藝資料(1953年)

536夕凪:2010/01/18(月) 22:43:44
大津駅の沿革
大津駅が誕生したのは大正10年8月1日(1921年)。
現在の駅舎は昭和51年(1976年)に改築された。

初め東海道本線は、馬場駅(現在の膳所駅)から
大谷(大津市)−稲荷(京都市伏見)を経て、
京都駅に通じていたが、

逢坂山・東山トンネルが新しく開通したのを機に、
現在地に駅舎を新設し、大津駅舎とした。


        1981年の鉄道旅行案内より

537k_taii:2010/03/19(金) 05:07:05
おはようございます
横須賀の安浦の元赤線で先日県警の摘発が行われたみたいです。
売春の場所を提供したということですが、TVの画面でチラっと
見えた建物が、1階部分がタイルに覆われた印象的な建物でした。
1階がスタンド、2階の部屋で営業がおこなわれたそうです。
1万円で女性は20代、30代だったそうです。
スタンド部分を是非見ておきたかったです。

538夕凪:2010/03/24(水) 07:48:36
新町に咲いた物語
こんなんありました。

●舞踊劇集団「遊輝座」公演

??― 新町に咲いた物語 ―


日 時 : 4月25日(日) 14:00
会 場 : ワッハ上方

【第一部】なつかしの新町
 1.講   演 : 近代大阪と浪花踊 ・・・・・・・・ 水知悠之介
 2.唄と三味線 : 新町音頭 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 和敬由三郎
 3.藤間良輔師偲草 : 舞踊常盤津「寿」・・・・・ 藤間遊子

【第二部】吉田屋と夕霧
 4.講?? ??演 : 夕霧と近松が生きた時代 ・・・ 水知悠之介
 5.落語舞踊  :「新町廓今昔譚」 ・・・・・・・・・・ 桂 三象
 6.創作舞踊劇 :「夢の夕霧」・・・・・・・・・・・・・・・ 藤間遊子ほか

 ※ちなみに入場料は4,000円です。

 ttp://www.wahha.or.jp/5Fsin/next2.htm

539タケちゃん:2010/03/24(水) 08:46:24
清水一行氏、ご逝去。
作家の清水一行氏が逝去されました。まだ、79歳と若い方です。
あまり知られていないのですが、清水氏の親はカフェーを経営されてみえ、戦後の玉ノ井で生活をしてみえたのです。当然、親のカフェーには出入りしていたので、赤線での生活体験はあり、その時の経験から清水氏は「赤線物語」など、女給の生態について短編小説を書かれていました。時々古本屋でも入手できます。
数年前にご自宅にお伺いした時、当時の出来事をお聞きすることもできました。客あしらいのよい奥さまでしたが、奥さまの実家は玉ノ井の近くに喫茶店だったんだそうで、コーヒーを出される手際も良かったのです。
ご冥福を祈ります。

540あき:2010/03/26(金) 01:11:34
映画 廓育ち
こんにちは。

この映画は、昭和32年秋の島原を描いています。

おやまを新妍芸者にして、客と惚れあって寝たということにしたら法律の適用はない・・というセリフがあります。

歌舞練場や輪違屋や、裏門のロケがあります。

http://www.youtube.com/watch?v=jxMKAMlBaLA&amp;feature=related

541k_taii:2010/04/04(日) 21:16:59
こんばんは
 先日、日光にあった赤線跡を探しに行ってきました。友人からその存在は
教えてもらっていましたが、場所は教えてもらえずあてもなく電車に乗りましたが、
駅の案内所であっさりその場所を教えてもらえました。
 場所は駅前で、遊所が存在するパターンに従っていました。現状は建物、その他
の痕跡はなにもなく、商店のご老人から隣の空き地はかつて遊郭がありあたりは
花街と呼ばれていたということを確認できただけでした。その規模、沿革は聞け
ませんでした。

542夕凪:2010/04/11(日) 23:13:33
赤線地区の設定計画 Yokosuka City 1951 
横須賀市は、夜の女対策として赤線地区を、
その地域にモグリハウスや売春婦を順次囲い込む腹で業者、
団体との協議に入ったと、11月3日の読売新聞は、報道している。

市は、柏木田、安浦、皆ヶ作の既設施設のほか、
もう一ヶ所の地域を予定しているらしく、この地域を公表せず、
取締り面から暗黙のうちに業者にわからせ、
女たちや、モグリハウスを追い込んで行く腹のようであると報道していた。

赤線地区をつくると言っても、そう簡単ではなさそうであった。

また11月7日の朝日新聞は、「取締り今後もゆるめず、横須賀の女860名検挙」と
報道し、指定地域の女達もそろそろ日の出町、三春町方面に移動し始めたが、
彼女達を客としていた一般商人にも、たちまち影響し予期していた
業者の反撃する機運もそろそろ見え始めていると報道しており、
夜の女対策はなかなか難しく、市当局の苦悩の姿が浮き彫りになってきた。


                     1999年の資料の要約

543夕凪:2010/04/15(木) 22:42:11
全国女性街ガイド はしがき ? by 渡辺 寛   
考えて見れば、この20年間に1,000人以上の女の人と、
その場、その場ではかなりまじめに、
暮しを語り、その女のこしかたについて
ふむふむとうなずいてきたものです。

書いていると次々にいろいろのことが想いだされ、
盗癖の直らないあの女の子供はどうしたろうか、
70万円貯めたら小店を持つといったあの女は店を持てただろうか、
と極めて個人的感慨が湧き出してきて困りました。

それでなくとも、これを書くことは、
ふだんから友の間で“昭和の世之介”といわれている
放蕩者の正札を貼りつけるようなもので、
こういう自分の青春の遍歴をむき出しにするような
書き方は好まなかったのですが、棚橋さんにすすめられ、

全国350余ヶ所にわたり、1,000人以上の女と交渉におよんだ
私の経験を北から南へまとめてみる気になりました。

私の、この経験が幾分なりとも参考になるとすれば、
それに越したことはありません。

そういう意味で、本文では、私という主観は絶対に伏せることにし、
このデータを基にして、
いろいろ想像していただくように書きました。

544夕凪:2010/04/15(木) 22:55:52
全国女性街ガイド はしがき ? by 渡辺 寛   
これをほぼ書きあげた6月3日に、
4年と7ヶ月かわいがった八五郎という犬が死にました。

人間には、心に起伏やかげひなたがあり、
心もとなくおもうことがありますが、
犬は十年一日にように、むき出しの愛情を営々として注ぎます。

私の、この20年間は、雑種犬のようなもので、
旅から旅へ、女から女へ、歩み続けてきたものです。

そのためには友を失くし、或る時は旅廻りの一座について都落ちし、
或る時は化粧品の包みを背負って、
紅殻格子のならぶ石割道を歩いてきました。

旅をしたいばかりに、大新聞をやめ、
交通を専門にした業界新聞の記者を八年間続けました。

「売春禁止法」が必要であるという否定的な立場に立てば、
なるほど、全国津々浦々に散らばっている50万余の夜の女たちは、
病気と犯罪を媒介する悪の華であることにちがいありません。

しかし、実際には、その女たちを相手として、
夜毎日毎、たくさんの男達が、
細君や兄弟にもいえないことを平気で洩らし、
汚職や不正について憤り、
自分の理想について頬をほてらせ、
意地の悪い課長の悪口さえ聞いて貰い……

その揚句に、おのれの情欲を充たして帰って行くのです。

545夕凪:2010/04/15(木) 23:07:26
全国女性街ガイド はしがき ? by 渡辺 寛   
あからさまに、これを評価すれば、
男たちは、責任を持たないですむ、
そうした関係において、女たちの青春を貪りくらって、
花も嵐も踏み越えられる勇気の糧をとっているわけです。

どうか、夜の女たちの人格を尊重してやって下さい。
そうすれば、たとえ一夜の契りでも、
必ずやあなたの滋養分となることは間違いありません。

私は、こうして、その女たちの、秘密も、身を落としてきた経歴も、
どういう暮しをしているかという家計簿的なことも、ささやかな望みも、
そこまでは売ることの出来ない心の蕊も、肉体的なよろこびも、
無知からくる古くさい苦しみも、心の崩れも……
じっと、みつめてきました。

そのことは、これから一つ一つ書いて行くつもりです。
ここにまとめたデータそのものも、じっくり書くとすると、
たいへん分厚なものになってしまうので、
資料的にしぼったため意に充たないものが出来あがりました。

私の経験は20年余におよんだとしましても、
この資料は、ここ2、3年の現況とおもっていただければよい。

この資料をつくるために、
えんぴつをなめなめ近況を書き送ってくれた女の人たちに、
ここを借りて厚くお礼を申します。


    昭和30年 夏     渡 辺  寛

546夕凪:2010/04/18(日) 02:54:08
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛  
―― 桑折鉱泉のことなど ――

この原稿をすっかり書きあげてしまってからも
私はあとがきを書くこともはしがきを添えることも
心のなかで渋っていた。

これはあまりにも個人的なことなので、
読んでいただくのはやめようと
なんどか自分にいいきかせた。

私はかれこれ26年間ほど、いで湯の旅をつづけている。

その間にはたのしいことも嫌なこともいろいろと経験した。

温泉そのものにしても、人間と同じ浮き沈みがあり、
伊豆土肥の湯は私の知っている間に、
栄えていたのが枯渇すてさびれ、
最近また湯が出るようになって持ち直してきた。

上越線後閑から入る紅葉の美しい猿が京も
あと2年ほどの短命で
赤谷川ダムの湖底に沈んでしまう。

鮎のおいしい伊豆矢熊温泉も泉温が低下し、
いまは休んでいる。
バスで通り越ぎると烟のあがらない湯宿が
船原川と狩野川の出合のところに
さびしくとり残されて建っているのが見える。

石楠花の美しい那須飯盛の湯も
いまは雨戸を閉じている。

この20数年間に繁栄した湯の町も多いが、
その反面消えて行った温泉も多い。

それがきまって鄙びた、
人情味の溢れた湯ばかりなのである。

そひとつの鉱泉を加えるか、やめるかで
原稿を書いている間じゅう、
私は悩んだ末に、
どうしても書かずにはいられなくなり、
おもい切ってここにしたためさせていただくことにした。

547夕凪:2010/04/18(日) 16:53:25
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛  
いまから23年も前の昭和8年のことである。

私は古い老舗の佃煮家●半の御寮さんと道ならぬ恋におちた。
お縫というその女は、浅草の西検から芸者に出ていて、
私の知人の佃煮問屋の若主人に落籍された。

女にしてみれば、小さいころから水商売で苦労してきたのだから
清潔な女房になりたかった。

それを夫の●次郎は厚化粧を好み、
三日にあげず丸髷を結い直させ
三味線を弾け、唄をうたえと強いるのだった。

……そういう事情で、私の方が同情し、
いつの間にか離れられない仲になってしまった。

結局はふたりとも義理や世間態にせばまれるようになり、
年下の私の方から心中しようと誘うところまで行ってしまった。

もちろん女も承諾をし、死場所はどこがよいだろうと話し合った末、
女の生まれ故郷の近くにある福島県桑折鉱泉へ行くことになった。

548今紫:2010/04/24(土) 00:46:52
お久しぶりです
 鷹目様、皆様

 拝啓、春暖の候、お久しぶりです。そちらへ来るのは5年振りになります。内のPCが故障してしまい、何も予告もせずにホームページを閉じてしまいました。誠に申し訳ございませんでした。
 さて、先々月嶋原を訪れカフェの改装された「きんせ旅館」(旧・金清楼)に入りお茶にいたしました。ご存知でしょうか、長年開店休業していた旅館が現当主様の手により、(完璧ではありませんが)見事に蘇らせました。この建物は以前訪れたとき、通ったことがございますが昨年、初めて中へ入りました。実はそこでジャズセッションが行われると聞いて足を飛ばしたのです。聞くところによりますと、200年以上前に建てられ内装のサロンは大正期に作られたそうです。ステンドグラスも美しく妓楼時代の面影を伝えてくれます。嶋原には申し訳ありませんが娼妓屋さん(妓楼、貸座敷)の雰囲気を強く醸し出されています。今の方が心のある方でよかったのです。それ以外はみな、ただの(建物も、町並みも)住宅街(おまち)にされてしまいました。先日、YouTubeの動画で拝見しました昭和30年代当時の嶋原(東映映画『廓育ち』)とは180度違います!個人的意見になりますが嶋原全域を史跡に指定してもらい長崎出島のように建物、町並みを伝統建築による復元(復原)、改修、新築にすればよいのです。(ただし、住民との話し合いが必要ですが梅小路に水族館を造るよりはるかに価値が高いのです)
 話を飛ばしましたがもうひとつ、嶋原のことで触れさせてもらいます。昨年、『角屋』さんで行われた文化講座に参加し「角屋といわゆる遊廓(公娼制度)の店との違いについて」の話を館内見学の傍ら耳を澄まして聞きました。その一部を参考にして触れます。

 角屋は唯一残る「揚屋」建築で重要文化財であるのはご存知のとおり。その「揚屋」は今でいう料理屋、料亭にあたり、置屋(屋形)から太夫、芸妓を招き歌舞音曲から和歌、俳句に至るまで芸術に花を咲かせ、お客をもてなした場所だそうです。一般に知られる「遊廓」とは違うことを説明されていました。最近の案内標識も「公許花街」と改められています。もちろん、負の歴史に目を反らしてはいけませんし、伝えていかなければなりません。話を戻して花街と遊廓との比較も聞きました。花街と遊廓の業種、店名、営業形態、内容、技芸の習得にいたるまでプリントに掲載されていました。でも、加藤雅洋氏の著書によりますと、狭義としての「花街」にも娼妓は存在していましたし、また、遊廓にも芸妓が少数存在していたのも事実にございます。嶋原は吉原や他の遊廓とは違い、一般の女性や子供の出入りが許されていました。遊女もまた手続きさえすれば外出もしていたようです。もし、残酷な歴史がありましたらそれは明治期以後であり、揚屋そのものも今日に残ることができないでしょう。それで『角屋』さんとNHKさん(原因は大河ドラマで吉野太夫の描写がおかしかったのです)が揉め事を起こし、『角屋』さんは一切の(興味本位での)取材は断っているのです。いつになったら終わるのでしょう。(雄山閣発行の『日本花街史』もそのことで訴えられました)
 つまらない内容になりました。「きんせ旅館」のホームページ、およびブログのアドレスを掲載いたします。

 http://www.kinse-kyoto.com/

 http://www.kinse-kyoto.com/blog/

 他にも沢山書くことがありますがこの辺りにいたします。それでは、また・・・・
                                 敬具

549あき:2010/04/27(火) 18:49:23
映画 廓育ち つづき
こちらは最後の場面です。

歌舞練場から輪違屋にむけての太夫道中。

裏門。

国鉄島原口駅(当時は七条通に面していた)。

性病科高橋医院の看板。

http://www.youtube.com/watch?v=oaLMiXBjU58&amp;feature=related

550夕凪:2010/04/30(金) 01:16:55
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛  
それは丁度、もうしばらくで浅草の三社祭のくる5月のはじめだった。

追われるように上野を発った汽車の中でのことなども書きたいが、これは端折り、
その夜は電燈の暗いわびしい鉱泉宿でふたりともまんじりともしなかった。

あくる朝早く窓を明けると、宿の裏は一面の桜桃畠で、
うすべに色の花がこぼれるように咲いていた。
その向こうに霊山がガレを白く陽にあててたたずまっていた。

女が人知れず両親の墓へ別れに行きたいというので、
朝食のあと私たちは線路を横切り桑折道を湯野まで歩いて行った。

女の両親は、女が11のとき相次いで死に、
たったひとりの伯母を頼って上京したきり
もう13年も郷里へ帰っていなかった。

551夕凪:2010/05/21(金) 08:08:48
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛  
町をはずれるとそこはもう平坦な畑地が続き、
野の末は、半円形の窪みを見せた半田山と
武骨い万歳楽山に終わっていた。

成田・松原の部落あたりは萌え匂うような花の畑で、
うす桃色の桃の花も咲いていれば、
白い五弁に紅暈をつけたリンゴの花も咲いていた。
白い花をたくさんつけたすももの花は散りかけていたが、
うすべに色のあんずの花は匂うようだった。

春が一度にきたような果樹畑を抜け、
湯野に入る手前の大きな柳の木の下に、その墓があった。
そこで伊達道とぶつかって一本になり
5分も歩けば飯塚温泉の十網橋に出る。

東京では黙って家を出てきた女を探しはじめたろうし、
ふたりとも飯塚へ行く勇気はなく、
また花の中を桑折まで帰ってきた。


その野道で、翌日は鉱泉宿から一里ほどの半田山の中腹にある
半田沼で死ぬことに話が決まった。

552夕凪:2010/05/21(金) 08:33:09
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛  
いつか野の末も夕霧の中に沈んでゆき、
うぐいすが曇りはじめた空で啼いていた。

帰り道に寄った万正寺には古びた五輪の塔が建っていて、
文政4年辛巳10月造立と刻まれていたのが
いまもうろ覚えに心に残っている。
その裏の墳墓が伊達家の祖、中村常陸介朝宗の墓である。


うす暗がりに宿へ帰りつくと、
鉱泉宿の前には高張が立ち、人の出入りが激しかった。

ふたりとも裏口から逃げるように部屋へ入り
それから湯にも入らず、じいっと差し向かっていた。
夜食の膳がとどいたところで、
ふたりとも箸をつける気にはならなかったろうが、
その夜食さえ忘れ去られたようだった。

そのうち廊下でぼそぼそいう人の声がした。
どきんとしてふたりとも顔を見合わせるうち障子があき
「お晩方でして」
と紐付袴の老人が廊下に平身低頭した。

わかりにくい訛りの話を継ぎ合わせてみると、
今夜はこの近くの地主のところへ嫁の来る日で、
宿の広間で披露の宴を張るのだそうだ。
泊り逢わせたのもなにかの縁だから、
夫婦お揃いで宴に列席してくれという。

「さあサご両人さま、たまには田舎の婚礼もいいべした」
と老人は強いるのだが、こちらは辞退する一方だった。

そのうち、どやどやと人が降りてきて無理やりに
お縫と私は赤と白のまん幕の張られた広間へ案内された。

553夕凪:2010/05/03(月) 11:36:29
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛  
浅黒いくび筋にこってり厚化粧した花嫁と
ポマードの光った花婿の近くに私たちは坐らされた。

老人は地方の方言で「ごしはんさま」という仲人役で、
そのごしはんさまのいうには、
自分は頭の古くなった不調法者だから、
晴れがましい今夜の先達<あいさつ、いうなれば代表スピーチ>は
最高学府に学ばれたご夫婦にして貰いたいというのである。

もちろん、宿帳に学歴を書いたわけもなし、
私たちにもそんな心のゆとりはなかったが、
そう老人が口火を切ると、
激しい拍手の波で私と女は起つしかなかった。

こうして私は無理に祝詞を述べさせられ、
次々と杯を持ってこられ、
女は「きいのくにはおとなしがわのみなかみに
たたせたもうはせんぎよくざん」・・・・・・と歌をうたわせられた。

この地方の婚礼の風習で、
その夜はごしはんさまに付き添われ
第一夜を花嫁の家で送る里帰りだそうで、
花嫁たちが行ってしまうと、
今度は私たち夫婦のやり直し婚礼だと、
みなが離さなかった。

少しもわざとらしい言葉のやりとりでなく、
しん底から私たちを祝うようだった。

554夕凪:2010/05/03(月) 12:11:36
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛 
とうとう私は酔いつぶれ、
気がついてみると女が枕もとにきちんと坐っていた。

その夜明けに見た桜桃の花の色を、生涯私は忘れられない。
「 仄桃色 (ホノモチイロ) 」という言葉があれば、
それがいちばん似合った色だ。

私たちはふたりとも話し合わないのに
死ぬことを考えなおしていた。

そのことについてお互に話を避けたわけではなかった。
生きろことの尊さがわかったようで、
女と別れるときも、ふたりともお互いのしやわせを
いわず語らずのうちに折り合った。

結局は邪恋だということをあの婚礼が反省させてくれたのだと
いまでもしみじみそう思う。

女はその後、空襲で死んだ。

私はなくなった桑折鉱泉を想うとき、
桜桃の花と婚礼の席を想い起こす。

いで湯・いで湯はどの人にとっても、
これに似たおもい出を残していることだろう。

まして無くなった温泉は………。



           昭和31年6月1日発行の著作より

555夕凪:2010/05/03(月) 12:28:46
温泉・女・風土記 はしがき ? by 渡辺 寛  
内外タイムスへ今年の1月中毎日書いた
「湯女さまざま」と

サンケイ読物へ半歳ほどつづけた「旅の女」、

それに面白倶楽部や自由国民の旅行の手帖に
のせたもののほかに、

日本特有の味を持っている
「湯女」という呼び名のある
温泉場の女たちを新しく書き加えました。

わたしは、こうやって
生涯旅をつづけているだろうとおもいますが、
ここに集めたものはその或る部分です。

556夕凪:2010/05/03(月) 20:50:00
温泉・女・風土記 はしがき ? by 渡辺 寛 
売春防止法が成立したので、
1年半後の昭和33年には
全国の特飲街が
消えて行くことになっています。

地方のまじめな小さな特飲街は
早くも本気で転業をはじめています。

甲府市の穴切町周辺のように
青線と赤線がわからなくなり、
青と赤が溶け合ったのだから
「紫水晶」という粋な名で
通人に呼ばれるところも出始めました。

そういうわけで2年後の、女たちの分布は
ある程度かわってしまうでしょう。

この本は、かわることを予想して、
かわらない女たちのことを書いてみました。

557夕凪:2010/05/03(月) 20:52:28
温泉・女・風土記 はしがき ? by 渡辺 寛 
女は、ほんとうは同じ程度の男でないと
安心して愛そうとしないものです。

自分と同じくらいの脳味噌だとおもうと、
女は、行きずりの旅の人であろうと、
たとえ一夜であろうと、
真剣な愛情を示してくれるものです。

その上、女ほどその土地の匂いを
沁みこませているものはありません。

おいしい高野豆腐のようなものです。

この本のなかから、
あなたのふるさとの匂いが感じられたら、
わたしはもう、それでうれしいのです。


  昭和31年秋
            渡辺 寛

558夕凪:2010/05/03(月) 21:37:05
酒と女 全国温泉めぐり はしがき ? by 渡辺 寛? 
日本ほど多くの温泉をもっている国は少ないだろう。

楽しい自然のなかに、
休むまもなくこんこんとして湧き続ける湯は、
まったく私たちのオアシスである。

温泉のきらいな人はまずいないだろう。
会社の慰安会にしても、
悪友打連れての校楽にも、
そして人生で一番愉しい新婚の旅にしても、
必ずといっていいくら温泉を選ぶ、
温泉こそ私たちの心を休め、
明日への活力を養ってくれる故郷なのである。

こうした多くの温泉にもおのずから特徴がある。

脂粉の香の濃い遊楽郷、
素朴な民謡にききほれるローカル色豊かな山間の湯、
また美酒に酔い、珍肴に舌鼓打つ秘境の湯と、
それぞれ独自の良さを自慢しあっている。

559夕凪:2010/05/03(月) 22:00:45
酒と女 全国温泉めぐり はしがき ? by 渡辺 寛?
そこで本書では、百数十ヵ所の温船をピックアップし、

 第1部 酒と肴の出湯めぐり
 第2部 湯どころの女めぐり
 第3部 民謡をきく出湯めぐり

の3部に大別し、ここだけはという
その道の代表的な温泉を紹介してみた。

紙数の関係上、語りつくせぬ点も多いが、
これからの出で湯の旅に、
少しでもお役にたてば、
また仕事の合間のつれづれを慰めるに役立つならば、
編者としてこの上ないしあわせである。


  昭和31年11月
                著 者

560夕凪:2010/05/05(水) 22:52:33
『 酒と女 全国温泉めぐり 』 は 誰の作 ? ?
1.かの木村聡さんは『赤線跡を歩く』(1998年発行)の中で下記の通り紹介されている。

   同じ著者(=渡辺寛氏)の単行本としては共著の『酒と女 全国温泉めぐり』がある。

2.また同氏は『赤線跡を歩く【完結編】』(2007年発行)の中では、
  訂正のうえ下記の通り紹介されている。

  「酒と女 全国温泉めぐり」は、『全国女性街ガイド』と並ぶ渡辺寛氏の主著。

?? ??なぜか著者名がなく、
??  『赤線跡を歩く』で紹介したときには共書としてしまったが、
   読み直してみると、全編にわたって『全国女性街ガイド』の著者でなければ
   知り得ない記述が多く、文体や雰囲気から判断して著書とした。

   温泉、紅燈街、日本酒、民謡の知識を生かした新書版の旅行書で、
   文字数に制限があった『全国女性街ガイド』とはまた違い、
   文章家でもあった氏の本領が存分に発揮されている。

3.『酒と女−全国温泉めぐり』の奥付には下記の記載があるが、
   渡辺寛氏の名前はありません。

    印    刷 : 昭和32年1月20日
    発    行 : 昭和32年1月25日
    編著兼発行者 : 田中 博之
    発  行  所 : ?田中書店

561夕凪:2010/05/06(木) 06:54:14
『 酒と女 全国温泉めぐり 』 は 誰の作 ? ?
●そこで下記の疑問が湧いてきました。

 そもそも、当初、木村聡さんは、
 奥付に「編著兼発行者 田中博之」とあるが、
 渡辺寛氏の名前の無い本を
 どのようか根拠に基づいて、
 渡辺寛氏の“共著”と判断されたんでしょうか?

 また、その後、「編著兼発行者 田中博之」と書かれているのを、
 あえて無視して、
 渡辺寛氏の“単著”と判断されたんでしょうか?

 もし「文体や雰囲気から判断して著書」とされたのであれば、
 共著であっても良いのではないでしょうか?

 さらに言えば、私が、先に書きこんだように、
??著者“渡辺寛”と明記されている、
 他の3冊の“はしがき”では
 自己の“体験”や“思い入れ”を、書き込んでいるのに、
??『酒と女 全国温泉めぐり』のそれは、
 非常に淡白なものに思えてなりません。

 はたして『酒と女 全国温泉めぐり』の作者は
 誰なんでしょうか ……

562k_taii:2010/05/27(木) 05:16:25
大連 逢坂町遊郭
に行ってきました。ここ何回か上海で慰安所の写真を撮っていましたが、万博で
ホテル代があがっていたので、代わりに203高地にでも行こうかと大連の旅行
会社のHPを見ていたら、旧逢坂町遊郭の建物が残っているという情報があった
ので、その旅行会社でガイドさんをお願いして訪問してみました。
 終戦のとき200軒の貸座席があったそうですが、メインの場所は現在 青空
市場になっていて、そこで働いている人むけに通路の片側分、7−8軒が残って
いました。日本風の建物はなく(木造では気候に合わないためと思われ)4−5階
建てのアパート風の建物で、かつての遊郭の雰囲気はまったく残っていませんでした。
ただ丸窓のある建物や、色付きのタイルのある建物などかすかにそのての建物かと
おもわれました。
 ほかに中国人向けの遊郭跡にも行きましたが、特定は出来ませんでした。

563k_taii:2010/05/27(木) 22:07:06
大連 逢坂町遊郭 その2
 旅行会社の方とメールをやりとりしているなかで、大連の隣の旅順と
中朝国境の町 丹東にも遊郭の建物が残っているとのことでした。
ガイドを頼めば連れて行ってくれるとのことでした。
 私は来年訪問してみるつもりです。

564夕凪:2010/05/27(木) 23:39:13
満洲の女性街
下記は、1930年に発行された、支那及び南洋、印度における
売娼婦の生活の実相を、紹介したという本の“ 満洲 ”の目次です。
でも、なんで、ここに大連や旅順が、無いんでしょうか?
その理由が判りません。もし御存知でしたらお教え頂けませんでしょうか。
よろしくお願い致します。

齊々哈爾 ・・・・ 妓樓の四等級−悲惨なる白奴に陥ちて−浮浪の支那人
満洲里 ・・・・・・ 九州の果てから−債権の担保としての拉致−カツフヱの女給−主人に汚された下女
哈爾濱 ・・・・・・ 細かく分けた遊興費−支那売笑婦の洪水−内職を稼ぐ縫窮婦−四百名のロシア私娼
長春 ・・・・・・・・ 金髪美人跡を絶つ−領家の絶対権
吉林 ・・・・・・・・ 花代と泊り代−稀に女優の成れの果て−雨天は倍額頂戴
奉天 ・・・・・・・・ 変態な売春制度−春を売る支那俳優−外人相手のロシア女
遼陽 ・・・・・・・・ 鉄道附属内外の売春街
間島 ・・・・・・・・ 芸一本の『清爪』、肉を売る妓女−取締困難な鮮人私娼
鐵嶺 ・・・・・・・・ 淺ましい自負心−故郷も知らず親知らず
安東 ・・・・・・・・ 支那街の『暗娼』


※まったく外地に不案内なもんで、トンチンカンな質問でしたらすみません。

565k_taii:2010/05/28(金) 05:12:38
夕凪さん おはようございます
 考えられる理由としては、大連、旅順あたりの土地は 関東州 と言って
日露戦争の結果、日本の租借地となっており(たしか1997年までの期間)
満州の行政範囲からはなれていたからではないでしょうか。
 間違っていたら、すいません。
 中国は今のうちなら、まだ遊郭の建物が残っているかもしれません。穴場(?)
かもしれません。

566夕凪:2010/05/28(金) 08:10:32
上海の女性街
k_taiiさん、おはようございます。

なるほど、租借地と言うことで、内地扱いされているのかもしれませんね。
たしかに、この本には、租借地でなく租界であった
“ 上海 ”については、記載されています。
※実用性の観点からは、チョット不便ですね !?

もう少し調べてみたいと思います。御教示どうもありがとうございました。

●上海(中部支那)

 共同租界の廃娼−東洋のピカデリー−密室に拠る魔の女−
 七種の売春婦−『長三』の共同生活−留宿の尊厳−
 『公二』の客に選択権なし−路上に活躍する『野鶏』−
 どん底の『烟女』その他−『鹹水妹』と『暗娼』−
 ナンバア・ハウス−目覚しい私娼の発展

567夕凪:2010/06/13(日) 12:55:39
幻の今里新地 − 丸窓の長屋 −
東成区のHPに、こんなんありました。

「 大今里南1〜3丁目は戦前から街づくりが行われ、
  住宅地として歳月を重ねてきましたが、
 当初はここに、「花街」を建設する構想がありました。
  今、街なかで風情のある長屋を見かけるのは、その構想の名残です。」

※今、近鉄の北側に、残ってる建物は、芸妓居住地に指定されるのを見越して、
 先物買いで、それ用の建物を作ったが、指定をめぐる汚職が発覚した。

 その為、結局、指定されず、計画は幻に終わってしまったそうです。

 ttp://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu640/matikadotua-/machikado-meisyomeibutsu/machikado/tatemono-musium/page1/page3.html

568夕凪:2010/07/10(土) 21:59:56
'68 伊丹新地は盛況中
伊丹新地には“料理店”が33軒ある。
女性の数は100人足らず。

1店平均3名もいるかいないかだが、
7〜8名の女がたむろしている店も数軒ある。
ともかく伊丹新地の実状はなかなかの“盛況”である。

同新地は「サロン」とか「料理屋」とか銘打っていて、
飲みにきた客にはアルコールを売る。
女たちに“強制的”にカラダを“奪われる”ようなことは少ない。

ただ「2階へ上がろうか」と誘えば、それこそ打てば響くで
「上がってくれる?どうもありがとう」とくる。
だから酒だけ飲んで坐っているのは、客のうちに入らないようなもんだ。

2階の部屋は、コタツの上ぶとんだけが
タタミの上にクシャクシャになって広がっている。
タバコの火でできた穴から、
水をこぼしたようなシミがあるうすっぺらなやつだ。
枕のかわりに座ぶとんを丸めて使用する。
四畳半の部屋には、あと小さな机が置いてあるだけ・・・・・・
その行為の方も、味も素っ気もない。
ショート(15分)1,500円は初島と同じ料金だ。

伊丹署でも新地の特殊な“サービス”には目を光らせているようだが、
盛況であるところを見ると、取り締まりが完全ではないようだ。

「水商売経験者がほとんどですが、キャバレーなどで働いてても
 金を稼ぐためには、ある程度カラダを張らなきゃいかんし、
 同じことなら、神経を使わなくてすむところでやったほうがラクだし、
 金にもなるという気持ちだろう。だから、かりに初島あたりのコが、
 また水商売に戻っても、つづかんねえ。
 こちらばかりでなく大阪市内の飛田や松島へも流れてるんじゃないですか」
 (伊丹署保安課の話)

※【背景】赤線 初島女性500人の密かなる大移動
  当時、初島は、警察の波状攻撃で、壊滅寸前に追い詰められていた。
?? 仕事場を追われた女性たちの転出先は、
?? 隣接する伊丹市や大阪市内であった ・・・・・

????????????????????????????????????????1968年の週刊誌より

569夕凪:2010/08/12(木) 00:31:12
横丁シリーズ 『 石見町小路 』 (1935年) ?
● むき出しのエロティシズム

 新世界は歓楽街と言ふよりも盛り場である。
 洗練された趣味の代りに、
 あくどい欲望と、好奇心がむき出しになっている。
 欲望だけを端的に投げ出す大衆が集まるのだ。

 新世界には伝統がない。植民地的な場末的な荒々しさが、
 すべて特徴づける。

 エロティシズムにしても、ここではむき出しになってゐる。
 だからすべてのものが強烈な色彩と、あくどい匂いをもつ。

 これを最も率直に表現した。最も新世界的なものは、
 石見町小路 ― 俗に「軍艦横丁」の小料理屋であろう。

570夕凪:2010/08/12(木) 00:48:11
横丁シリーズ 『 石見町小路 』 (1935年) ?
●「軍艦横丁」のエロ風景

??「軍艦横丁」は、通天閣南側の劇場街を抜けて、
 噴泉浴場の裏から「公園南口」停留所へ出るせまい、
 おでん鍋の匂ひに満ち、女の笑声と乱調子にかき鳴らす
 三味線の音に溢れた、騒がしい小路である。

 ここにおでん屋めいた奇妙な小料理屋がある。
 通行人に喧しく呼びかける女の高い声と、
 三味線の音の洩れて来るのは、この店だ。

 紅色ののれんを排して入ると、忽ち6・7人の酌婦にとりかこまれる。
 二坪ばかりの店に、鍋を囲んだ椅子にかけると
??「旦那、何か聞かせて頂戴ね。」と、口を揃へて言ふのを合図に、
 座の中央の椅子程の高さ台の上で三味線を抱えて座ってゐた女は、
 突如と調子の狂った三味線をかき鳴らす。

 客が歌はねば女が歌ふ、別の女は新たに客を呼び入れるため、
 ちらちらする通行人に呼びかける。

 この強烈な雰囲気には気の弱いサラリーマンなどは
 逃げ出さずにはゐられない。

 かうした存在の許されるのも、新世界なればこそ。


                  1936年発行の大阪案内より

571夕凪:2010/08/12(木) 02:45:51
1924年の電話番号簿より
● 下市郵便局

 叶家席   下市町大字下市字今在家 芸妓置屋

 見返り席  下市町大字下市字今在家 芸妓置屋

 M本淺次郎 大淀村大字下淵     芸妓置屋兼料理業

 都席    下市町大字下市字柳町  芸妓置屋兼料理業


※上市郵便局管内に、“芸妓置屋”は載って無かった・・・・

572夕凪:2010/08/07(土) 08:53:39
完全冷房 A級伊丹
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 関西ヌードの本場

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    1969年の全国で唯一のヌード界情報誌より

http:// 

573夕凪:2010/08/15(日) 22:30:50
長島遊廓 (三重県)
1.藩政時代の文久元年(1861年)に端を発する。
2.明治以降になっても、木曽川改修工事(1861年)、関西線の敷設、
  木曽川三川の鉄橋架設工事を始め、長島輪中(わじゅう)の排水機設置工事、
  近鉄の鉄道工事(1937年)等、相次ぐ大工事のため大いに繁盛した。
3.大正期には置屋12軒、揚屋2軒を数える盛大さを誇った。
4.長島遊廓の特色は、ほとんどの遊女が娼妓と芸妓を兼ねていた。
5.大正中期に長島貸座敷組合を設立した。
6.組合の活動として遊廓発展策のために、1928年および1941年には
  長島駅〜長島遊廓〜国道1号線に、自動車、乗合自動車を運行した。
  また、駅または国道1号線から遊廓までの道路を整備し、
?? 照明灯の設置も行った。
7.桑名遊廓が戦争で焼け(1945年)てからは、桑名遊廓の娼妓も、
  長島遊廓が引受けて、娼妓数125名となった。
8.売春防止法の施行により,1958年を以って全部転廃業し、
  約100年に亘る歴史に幕を閉じた。

※遊廓に関する記録は、伊勢湾台風(1959年)の高潮洪水により、
 流失または逸散してしまい、統計的な資料は全く欠いてしまった。
 よって、上記の内容は、乏しい資料と旧店主の談話による。


                 1978年発行の町誌による

574夕凪:2010/08/16(月) 06:45:59
温故知新シリーズ ― 愛知、岐阜、三重の 旧遊廓地帯を訪ねて…
● こんなんありました。

??ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/blog-date-201004.html

??No.00.ごあいさつ
??No.01.錦三丁目の知られざる歴史
 No.02.大須観音から中村・大門へ
 No.03.岐阜の旧遊廓地帯を訪ねて… 前編 幕末〜明治、開業まで
 No.04.岐阜の旧遊廓地帯を訪ねて… 後編 開業〜大正〜昭和まで
 No.05.岡崎の知られざる歴史、東海道に栄えた大宿場町
 No.06.豊橋の知られざる歴史、軍都に咲いた大遊廓
 No.07.風流な花柳界の栄枯盛衰…一宮の知られざる歴史
 No.08.旅情をそそる歴史街道…桑名の知られざる歴史
   ?? ― 三重県一の規模を誇った宿場町 ―
 No.09.多治見編 -東濃一の心意気で設立-
 No.10.熱田編 東海道の名所に隠された遊女の歴史を紐解く…
 No.11.名古屋・中川・八幡園編 歴史の流れに消えた名古屋の色街
 No.12.知られざる名古屋の風俗裏話、歴史に埋もれたおもしろ小話
 No.13.旧遊廓地帯を訪ねて… 名古屋・港区・稲永遊廓
   ?? ― 歴史の流れに消えた名古屋を代表する遊廓 ―
 No.14.大垣「旭遊廓」編 8人の嘆願によって幕末期に誕生した遊廓
 No.15 ?.旧赤線地帯…前編 名古屋・大曽根「城東園」
 No.15 ?.旧赤線地帯…後編 岐阜・墨俣「夜城園」

????to be continued ・・・(?)


        マンゾクネット名古屋裏風俗研究所【出張版】より

  ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/


(参考)

 愛知県の特殊カフェー

  01.花岡園(一宮市)    02.曳馬園(小牧町)    03.桜楽園(犬山町)
  04.新天池(津島市)    05.陶華園(瀬戸市)    06.道風園(春日井市)
  07.清娯園(半田市)    08.海楽園(内海町)    09.常楽園(常滑町)
  10.昭和園(岡崎市)    11.衣浦荘(新川町)    12.千鳥園(矢作町)
  13.陽貴園(安城市)    14.鶴城園(西尾町)    15.睦荘(一色町)
  16.観月境(挙母町)    17.有楽荘(豊橋市)    18.円福荘(豊川市)
  19.新栄連(新城市)    20.三谷観楽荘(三谷町) ??21.蒲郡歓楽荘(蒲郡町)
  22.共楽園(田原町)    23.五楽園(福江町)    24.名楽園(名古屋市)
  25.八幡園(名古屋市)   26.城東園(名古屋市)   27.港陽園(名古屋市)

 岐阜県の特殊カフェー

????01.金津組合(岐阜市)   02.旭日園(大垣市)    03.西ヶ原組合(多治見市)
????04.夜城園(墨俣町)    05.花岡組合(高山市)   06.船津花岡組合(船津町)

 三重県の特殊カフェー

????01.水郷園(長島村)   ???? 02.桑陽園(桑名市)   ??  03.朝明待合組合(富田町)
????04.菰野東町待合組合(菰野町) 05.湯ノ山支部(湯ノ山) ??  06.神戸六郷園(十日市町)
????07.江島組合(江島町)     08.亀山待合組合(亀山町)??  09.藤枝待合組合(津市)
????10.久居支部(久居町)     11.上野支部(上野市)  ??  12.名張支部(名張町)
????13.松坂貸席組合(松坂市)   14.山田支部(宇治山田市) ?? 15.神社三業組合(宇治山田市)
????16.田丸支部(田丸町) ?? ?? 17.尾鷲支部(尾鷲町)  ??  18.紀伊長島組合(長島町)
????19.鳥羽待合組合(鳥羽町)  ??20.二見浦待合組合(二見浦)?? 21.浜島待合組合(浜島町)
????22.渡鹿野待合組合(的矢村)  23.木ノ本支部(有井村)  ?? 24.引本待合組合(引本町)
????25.阿下喜支部(阿下喜町)   26.港楽園(四日市市)   ?? 27.一身田支部(一身田町)


                        ????????   1950年の資料より

575夕凪:2010/08/30(月) 23:59:54
ひら方節
01.好きな淀川艪櫂はいらぬ 浮いた同士の中じゃもの

02.むかし泥町今花が咲く 桜新地の宵燈す

03.桜さくらと新地へ来れば ものいふ桜の花ばかり

04.花のあけぼの紅葉の夕邊 遊ぶ枚方菊おどり

05.こゝは枚方 桜の新地 中の蕾を見にござれ

06.松のとなりへ桜を植りや めでたゝゝゝの花が咲く

07.松が様なら桜はわたし おぼろ月夜の一ッ夜着

08.ひとつお唄ひ枚方節を わたしや三筋で舵を取る

09.重たい話に三十石も 登りかねたる梅雨上り

10.しばしとゞめて置きたい人も 舟は柳の吹流し

11.様は舟かや月夜は明い 柳がくれに艪がひゞく

12.舟と水とはあなたとわたし どんな艪櫂も立つものか

13.こゝは枚方八幡のもどり 誰れに白羽のお矢が立つ

14.八幡みやげで枚方通りや 鯉とこひとがからみ合ふ

15.傘をわすれた枚方茶屋で ぬれたむかしを思ひ出す

16.一度ですまぬとつい二度三度 さくら新地へ淀の舟

17.ござれ枚方きのふで三度 こんど逢ふたらよどの川

18.翌日は土曜日菊見にござれ その又あしたも其まゝで


       ※各節の後に合いの手が入ります↓
         上りは曳けゝゝ下りはぐうゝゝ
         寝耳に水音チャーブチャブ

576夕凪:2010/08/31(火) 21:08:36
むかしや三十石 今京阪電車
● 橋本音頭

1.再興五十年 橋本くるわ
   祝ひましようよ 祝ひましようよ
  はれやかに ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

2.むかしや三十石 今京阪電車
   通う御客の 通う御客の
  氣はひとつ ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

3.一度おこしよ 橋本くるわ
   白い御手てが 白い御手てが
  ちよいとまねく ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

4.男だてなら あの淀川の
   水の流れを 水の流れを
  止めて見よ ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

5.水の流れは 止めよで止まる
   止めて止まらぬ 止めて止まらぬ
  はしもとへ ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

6.橋本見るよな 眼鏡があれば
   かわいお方に かわいお方に
  もたせたい ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

7.空に神風 地に双葉山
   ともに人氣は ともに人氣は
  はしもとへ ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン


  ※木曾節作り替
             1937年の資料より(再掲)

577鷹目:2010/09/01(水) 21:22:36
無題
♪五条楽園高瀬の柳がフーラフーラ

   お酒に酔ったか 女に酔ったか

  それとも浮気でゆれるのか

   も一度廻って 五条の楽園

578タケちゃん:2010/09/04(土) 22:26:08
玉の井
近い内にこんな本が出るみたいです。

http://www.jiyu.co.jp/support/announce.php

579鷹目:2010/09/23(木) 23:29:18
『玉の井』
>タケちゃんさん

 耳寄りな情報、ありがとうございます。

 アマゾンではもう予約可能みたいですね。

 どこで予約するかは不明ですが、多分購入します。

580鷹目:2010/09/23(木) 23:33:24
ご案内 第7回秋のオフ会
 遊里史研究会恒例、第7回秋の百番オフ会のご案内です。

 ・開催時間 2010年10月24日(日) 5時〜開始予定
 ・会場 飛田 鯛よし百番 由良の間予定
 ・料理 鍋とオードブルのコース
 ・会費 5000円
 ・募集期間 10月20日まで

 申し込みに関してはいつものメンバーは、下記URL出欠党幹事長のほか、MIXI・伝言板・メール・直電で構いませんのでご連絡を。また各自連絡網の方もお願い致します。

 こちらからもまだ連絡の来ていないいつものメンバーさんには、ニ三日中にご連絡致します。

 ご新規で参加希望の方は、こちらに記載の上、メール、MIXIメッセージより、お名前、HN、当日の御連絡先を御連絡ください。先にメール・メッセージでも構いません。

 出欠党幹事長は、携帯からは閲覧のみとなります。

 携帯で見られている方は、メール・メッセージで頂いた方、こちらで登録いたします。

 皆様のご参加お待ちしております。

↓出欠党幹事長↓

http://kanji.kodama.com/note.aspx?ac=qa1etq6kbmmq7beb

581鷹目:2010/09/30(木) 20:56:19
2010年前半戦
 前半を振り返って、少々。

 埼玉県川越市 旧赤線
 赤本の通り、門前に転業旅館が点在。比較的大見世が多い印象。一軒転業喫茶店有り。泊まれるのなら泊まって、ここから川越祭りでも見に行きたいものですね。

 徳島県鳴門市 旧花街
 海岸近くに2軒のみ。それなりに趣のある建物。

 同市 旧赤線
 路地に5,6軒点在。ただしちらほら空き地や新築が目立つので将来的には消えてしまう可能性大。

 同県徳島市
 ご存知、秋田町!
 現在も営業は健在なりも、人通りが極端に少なく、これでやっていけるのと思うほど。でもやっていけているみたい。
 顔見世ありだが、ピンクのライトマジックではなく、白熱灯ライトマジック。街灯もほとんどないので暗くて顔がよく判らん(笑)。
 全体的には繁華街からかなり遠く照明の暗い松島って感じですかね・・・。

 尼崎 かんなみ街
 火事の前に冷やかしに。
 相も変わらず、人が多い。ここも観光化してる気が・・・。

582鷹目:2010/10/01(金) 19:49:40
2010年前半戦追加
 洲本
 転業かつ現役で営業している旅館も含め、6、7軒ほど。地元の人曰く、内2軒はほとんど手をくわえず当時の建物状態のまま営業しているとの事。

 確かに外見もいい感じです。

 是非、宿泊してみたいものです。

583夕凪:2010/10/08(金) 22:34:14
大峰信仰を支えた『遊郭』
大峰山と洞川の近現代史は、大きな時代のうねりの中にあった。
それとともに、実は、男たちの大峰信仰には、もう一つの姿があった。

それは、龍泉寺の近くに7、8軒の「遊郭」がたあったことである。

「遊郭」がにぎわっていた時代には、大峰山に登るのが目的ではなく、
大峰山参りにかこつけて洞川の「遊郭」で遊ぶのが
目的であったという人も多くいたという。

彼らの中では、「精進おとし」「筆おろし」「垢おとし」といった
符帳で語られ、堂々と行われていたのである。

先の戦争までは、大峰山よりも、
洞川の「遊郭」のほうが知られていたのである。


          2002年発行の「女人禁制」をめぐる冊子より

584k_taii:2010/10/09(土) 08:17:35
台湾の遊郭跡
 今回、ある方のHPで台北の万華遊郭の跡地に遊郭の建物が残っているという情報を得て
温泉訪問と合わせ行ってきました。台湾の南から。
 台南 日本人遊郭と台湾人遊郭。日本家屋は遊郭地区に1軒も残っていませんでした。
    1年半前までは 真花園 という台湾人遊郭の建物(築100年)あったそう
    ですが、いまは駐車場となっていました。
 嘉義 旧遊郭地区には安宿が多く、日本時代の建物は2軒ぐらい?そのうちの1軒は
    丸、菱形、長方形 の窓が美しく1階部分が改装されていてよくわかりませんが
    遊郭の建物の可能性あり。
 台中 旧遊郭地区に日本時代の建物は1軒もありませんでした。
 台北 万華遊郭。まったく寂れた通りに洋風の建物が1軒ありました。HPの写真の
    とおり。ボロボロだけど装飾が美しく、正面2階には8角窓。入り口2箇所。
    すごくお金がかかっていそう。おそらく遊郭の建物。
    名称不明遊郭。以前 順子 さんが報告されていた、台湾人遊郭跡。円環の
    そば。通りの片側に4−5軒が残っていて、そのうちの 文萌楼はセックス
    ワーカーの支援団体で管理され、なかを少し見せてもらえました。写真は不可。
 基隆 田寮遊郭。間違った場所を地図をもってウロウロしていたら、住民の方が日本語
    の出来る方をつれて来てくれ、場所と2−3軒遊郭の建物が残っているという
    ことを教えてくれました。(感激)メインストリートと思われるところに
    ボロボロの日本家屋。おそらくこの建物が元遊郭の建物。改装しまくりで
    遊郭の特徴はまったく発見できず。ほかにもう1軒それらしい建物。

585k_taii:2010/10/09(土) 08:17:36
台湾の遊郭跡
 今回、ある方のHPで台北の万華遊郭の跡地に遊郭の建物が残っているという情報を得て
温泉訪問と合わせ行ってきました。台湾の南から。
 台南 日本人遊郭と台湾人遊郭。日本家屋は遊郭地区に1軒も残っていませんでした。
    1年半前までは 真花園 という台湾人遊郭の建物(築100年)あったそう
    ですが、いまは駐車場となっていました。
 嘉義 旧遊郭地区には安宿が多く、日本時代の建物は2軒ぐらい?そのうちの1軒は
    丸、菱形、長方形 の窓が美しく1階部分が改装されていてよくわかりませんが
    遊郭の建物の可能性あり。
 台中 旧遊郭地区に日本時代の建物は1軒もありませんでした。
 台北 万華遊郭。まったく寂れた通りに洋風の建物が1軒ありました。HPの写真の
    とおり。ボロボロだけど装飾が美しく、正面2階には8角窓。入り口2箇所。
    すごくお金がかかっていそう。おそらく遊郭の建物。
    名称不明遊郭。以前 順子 さんが報告されていた、台湾人遊郭跡。円環の
    そば。通りの片側に4−5軒が残っていて、そのうちの 文萌楼はセックス
    ワーカーの支援団体で管理され、なかを少し見せてもらえました。写真は不可。
 基隆 田寮遊郭。間違った場所を地図をもってウロウロしていたら、住民の方が日本語
    の出来る方をつれて来てくれ、場所と2−3軒遊郭の建物が残っているという
    ことを教えてくれました。(感激)メインストリートと思われるところに
    ボロボロの日本家屋。おそらくこの建物が元遊郭の建物。改装しまくりで
    遊郭の特徴はまったく発見できず。ほかにもう1軒それらしい建物。

586k_taii:2010/10/09(土) 08:43:40
夏の遊郭訪問
 今年は熱すぎて訪問地は少な目でした。
越中八尾 おそらく妓楼は2軒。花街と共存していたみたいで、料亭は解説書が
     入り口にありましたが、妓楼には無し。解説書がないそれらしい建物
     は妓楼。ある意味わかりやすい。1軒は大店。1軒は中型。
湯田中  清風荘、泊まってみました。客室に遊郭の面影無し。母屋には少し
     あるみたい。遊郭時代の部屋をみせてもらいましたが、豪華な部屋。
     三社遊郭は学童疎開を受け入れたとき閉鎖。(その前か?)戦後は
     赤線近くに出来、戦後は旅館になったそう。次回はその赤線跡を探します。
富岡   富岡製糸場そば。飲食店で昼ごはんを2回食べ、場所を特定。1軒めは
     教えてくれなかった。赤線跡は現在は飲み屋街。当時の建物は無し。
     観光案内所でもらった地図に赤線跡の記述をあとで発見、案内所の人は
     内容を理解していなかった。

587T-レッド:2010/10/09(土) 15:27:56
洞川温泉へ行ってみた♪
実は、夏に洞川温泉へ行ってみました。

観光客も多く、普通の旅館街という感じで、"オトコの世界"という雰囲気は、すでに希薄でした。

昼ご飯ということで、川沿いにある一軒の食堂に入ってみましたが、トイレは地下室に降りて行くような感じでした。
河原へ垂れ下がったような建て方が、この辺りの建物の特徴のようですね。

いつ頃まで"オトコの世界"だったんでしょうか…

588夕凪:2010/10/13(水) 11:12:38
遊廓変じた三社・湯田中温泉
一茶も「さみせんのばちではいたるあられかな」・・・・・・
と一句ものしているように、三社はむかしから嬌声の遊里であった。


終戦前までは岩戸屋、内山楼、長島屋など12軒の遊廓だったものを、
ほとんどそのまま旅館にしたというのだから、
いまでも登楼する気分がかわらない。

みがきのかかったちょんちょん格子や連楼(レンジ)窓や
土蔵づくりの湯のまちなんていうのは、全国でもめずらしいもので、
宿へ入ると張店部屋に花魁ならぬ番頭が坐っていたり、
居間も本部屋のまま次ぎの間つきで、
女中と差し向かいでいると、女中が「そうでありんす」と
いい出しそうな錯覚を起こす。

汚いはなしで失礼だがご不浄という名の便所も、洗浄ができるような広さで、
その近くには陽の当らない割部屋らしいのが残っていたりする。

信州浅間温泉と松本市の間の横田遊廓には、
いまでも土蔵を仕切った部屋が残っているが、
ここの温泉場には土蔵を改造した部屋も残っている。

陽の当らない、陰気な土蔵部屋には
山形県上ノ山温泉の滝沢屋という宿でも案内されたが、
こういった古いふんいきを持っている三社遊廓受継温泉旅館に入る芸者は、
平穏(ヒラオ)小唄・湯田中ぶし・安代小唄・渋音頭・上林小唄と
歌謡曲みたいな歌しか知らず、

「みのは田んぼの乙女のすがた、色と恋との絞り染め、
きたさの金時、妾の親父で、せがれのじいさん、
まさかりかついでたいした元気だ、オオサヨイヨイ」・・・・・・
という長唄に似た「親沢追分」だとか

「岩にこもりしぎじきでさえも顔を見たさに出てござる」・・・・・・の
「安曇ぶし」などはまるきり唄えない。

レディーメードな湯のまち芸者が多い。


                  1956年の渡辺寛氏の著作より



※ k_taiiさん、毎度レポートありがとうございます。
 お泊りになられた“ 清風荘 ”が、
 上記にも出てくる“ 内山楼 ”だそうですね。
 羨ましいです。

 なお女性街ガイド(1955)には、七尾が
「能登半島もここまでくると風情があり、赤線27軒に126名、
 富山.石川の貧農出が多く客にだまされ安い。」と
 紹介されていました。

589夕凪:2010/10/14(木) 00:29:33
住吉新地へ行ってみた ♪
実は、今日、住吉新地へ行ってみました。

普通の住宅街という感じで、"オトコの世界"という雰囲気は、すでに希薄でした。

しかたないんで、住吉新地について、ちょっと調べてみました。


住吉新地は、古くは紀州街道に面した住吉新家(今の住吉警察署付近)に
あった料亭・茶屋がその起因であるが、

明治18年(1885年)南海本線の開通によって住吉新家は漸次衰え、
住吉公園に移ったが、

大正11年(1922年)5月大阪府は公園内の歌舞音曲は面白くないとの理由から、
住吉公園南側の浜口町一帯を指定地としてこれに聚落するように命じた。

当時芸妓扱席15軒、貸席業者168、芸妓数800名、幇間12名を数えて、
住吉新地の最盛期を示した。

しかしこの浜口町も公園に隣接している結果、
公園風紀を害することがあり、

たまたま昭和2年(1927年)頃、日泉土地?が現在の住吉新地一帯の
低湿地に菖蒲を移植、遊園地として菖蒲園があったので、
昭和11年(1936年)新しく指定地となり、
約3ヵ年をもって移転を了することとなった。

昭和19年(1944年)芸妓全員が徴用され、
貸席業者の業態にも著しく変化を生じたが、
終戦後また漸次昔の姿に復し、

昭和28年(1953年)11月18日には演舞場(総面積238.5坪)が竣工した。

そして毎年夏には名物の住吉踊が踊られ市民の人気を呼んだ。


                    1974年の資料より



いつ頃まで " オトコの世界 " だったんでしょうか…

590T-レッド:2010/10/14(木) 09:03:58
龍神新地へ行ってみた♪
昨日、龍神・栄橋へ行ってみました。

かなり久しぶりで、前回訪れたのは8年近くも前のことでした。
(※実はこの日…龍神新地の次に、松島新地へ向かったのでした。
北上する途中ということで、住吉新地へも寄ろうかと思いましたが、嫌な予感がしたので止めました)

「建物は、かなり減った」とは聞いておりましたが、それでも約7軒ほど残ってました。

個人住宅・マンション・駐車場の他、特に飲食店が多く、韓国エステもあるのが、少しは"オトコの世界"でしょうか。

それよりも……

龍神・東側に隣接する『フェニックス横丁』のほうが気になりました。

案外、この掲示板を見ておられる方々は、横丁みたいな「狭い・暗い・クサい・汚い」場所も好きなんじゃないですか?

私だけ…??

591鷹目:2010/10/18(月) 21:55:59
無題
>k_taiiさん

 この暑い夏の日差しの中、台湾、越中・湯田・高岡、散策レポ、ありがとうございます。この辺の有名どころは、桐木町、羽衣町、越中大門、伏木玉川、新湊、西和田ですが、もう一箇所あるらしいです。
 こちらも名称だけ風聞で知っただけなのですが・・・。

>T-レッドさん

 集まると何かと話題になる洞川調査ありがとうございます。
 男の世界が希薄とは残念なことです。

 龍神まだ7軒ほど残っていますか!ただ良い物件ほど先になくなりますね・・・。

>夕凪さん

 毎度、フォローありがとうございます。

592鷹目:2010/10/18(月) 22:01:17
吉野方面
 夏に吉野方面に行ってきました。

 下市
 花街に一軒転業旅館、かなり離れた場所に廃業料亭が一軒残るだけ。花街であったことを感じされる雰囲気は無し。
 ただ川沿いの吉野建ては必見かな?

 上市
 昔の業種名が入った旅館が一軒存在。あとは遊里時代からある料理屋は改装されるも存在せり。
 往年は数軒旅館が立ち並んでいたそうです。

 上市、下市、共に林業盛んな頃はかなり賑わったそうです。今は若い人たちが町をでて寂しい状態になっています。

593鷹目:2010/10/18(月) 22:23:15
和歌山方面
 先日の休みに他にも用事があったのでぶらっと和歌山を周ってきました。

 阪和新地
 往年の鑑札を残す建物1軒、新地時代の面影を建物1軒、いまだ健在なり。その他は今回確認せず。

 東廓
 昭和時代、中心的で建築方面でも有名だった料亭。数年前に借金で廃業に。現在は取り壊され100円パーキングに。
 ただ周辺に割烹が存在するもアロチに隣接する地域だけにかつて和歌山を代表する花街だったと認識できる人は少ないのでは・・・?

 天王新地
 3時ごろにちょっと素見しましたが、5軒ほど営業していました。居られた方は大阪というかいかにも関西のおばちゃん風。
 ネットでよく名が挙がるお店はそれらの方よりも若目の方がいらっしゃいました。でも10年程前に素見した時よりも少し若返ったと言う印象有り。

 ただ以前は中之島ロータリーからの抜け道だった新地と平行に走っていた道。いまでは拡張され信その道から裏手が丸見えw。

 新和歌浦
 昔は有名だった和歌山の観光地。
 昔は芸妓さんもいて、検番もありました。今の旅館街は廃旅館が目立ち、観光地としては終わっている感じです。 和風の廃業旅館もありましたが、そこが芸妓を呼んでいたのか不明。

 海岸も遊歩道が設けらるなど整備されおり、時折みるモノクロの絵葉書面影が残っておりません。

 昭和5年生まれの地元の老人の話だと昭和60年代には芸妓もおらず、ホテル・旅館の宴会はコンパニオンを呼んでいたとの事。

 取り合えず、紀北方面の昭和以降も営業していた遊里は建物、位置は大体確認済み。ただ橋本だけは情報がはっきりせず不明です。田辺以南はいまだ未見です。そのうち行きたいなぁ・・・。

 確認済み 天王新地、阪和新地、黒江、東新地、田辺、粉河、湯浅
 位置確認のみ 番廓、東廓、不老園、新和歌浦、芦原、白崎

594夕凪:2010/10/19(火) 09:38:37
和歌山方面へ行ってみたい ♪  芦原新地篇
>> 位置確認のみ 番廓、東廓、不老園、新和歌浦、芦原、白崎

鷹目さん、ちょっと教えて頂きたいんですが、
“ 芦原 ”ってどこにあったんでしょうか?
和歌山市? 海南市? まさか浪速区 !?


●実は、1966年の夜のタウンガイド(新書)に下記の記述があり、
 芦原新地が、どこにあったんか気になってました。

 旧赤線:【和歌山市内】には「芦原新地」「旧天王新地」「旧阪和新地」の
 3ヵ所があって、結構赤線の灯は消えていない。
 すれていないウブな女性がいると粋人の間でも信じている者が多く、
 はるばる大阪あたりからえんせいするものも多い。
 ※和歌山【県内】ではありません!

●「旧芦原(アシハラ)新地」和歌山市東和歌山
??雄松町、三沢町、汐見町といった皮革工場街を背景にもち、
??客ダネはそこの工員たちが主である。
 なにしろ、同地は靴用表皮を主に生産、全国屈指の生産量を誇り、
 天皇陛下も見学されたというところ。
 ひところはたいした景気だったが、いまはまずまずといったところ。

 したがって芦原新地は、その後のこらずスタンド、お好み焼き類の
 飲食店に転業してしまった。

 バラック風の住宅だが、交渉次第で比較的安く
 つきあわせることができるといわれている。

ちょっと前、ある方がブログで、芦原新地のことを書かれており、
好奇心が、再度、ムクムクと頭を擡げてきました。

ぜひ「芦原新地」の場所を特定頂き、
ボクの悩みを解決して頂けませんでしょうか。

595夕凪:2010/10/19(火) 11:04:01
和歌山方面を調べてみた ♪   芦原新地篇
そこで「芦原新地」の周辺情報を、ちょっと集めてみました。

●1954年の実話雑誌では、和歌山の赤線を下記のように紹介しています。

 和歌山は仙台と2つだけ城下遊里御禁制の土地だったのですが
 後世出現したところです。

 天王・阪和・芦原の3新地がありまして全市で80軒です。
 海南市は船尾新地があります。(以下、略)

 ※船尾新地=黒江新地=西の新地です。
  詳しくは今里さんの2007年 7月13日の書込み参照


●1934年10月の内務省衛生局の業態者集団地域に関する調によると
 和歌山県からは下記の4地区が報告されています。

  NO.集団地名(所在地名)?? 戸数 − 業態者数
  ? 天王新地(和歌山市) ?? 57 − 95
  ? 東 新 地(海草郡日向町) 40 − 65
  ? 阪和新地(和歌山市)???? 13 − 27
  ? 岡????町(和歌山市)???? 12 − 32

 和歌山市立芦原小学校のHPによると、同校の所在地が、
 旧:岡町村(→芦原→現:雄松町)であったそうです。
 ttp://www.wakayama-wky.ed.jp/ashihara/index1.html

 この“ ? 岡町 ”と言うのが、芦原新地の事ではないかと推測しています。


●芦原新地をネットで検索してみると下記の書込み(2006年)がありました。

  芦原新地ゎ、八光ミュージックがぁったとこから
  ちょびっと東の芦原っていう地区に存在しちゃぁっとょ。

  ※八光ミュージック:和歌山市島崎町3−8 ttp://www.gekijou.net/hakko/

  ttp://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E7%94%BA3-8&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl


●和歌山じゃんじゃん横丁:和歌山市島崎町3-27 ⇒ Rさんヨロピコ!

    昭和30年代にはモダンな建物が立ち並ぶ歓楽街だった横丁に、
    センスある店が次々にできた。
    味の店を中心に、古い建物を利用しておしゃれな町筋をつくり出している。
    ttp://www.mapple.net/spots/G03001008901.htm
    ttp://co2lo.jp/janjan/
????????ttp://maps.google.co.jp/maps?q=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E7%94%BA%EF%BC%93%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%92%EF%BC%97&um=1&ie=UTF-8&hq=&hnear=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E7%94%BA%EF%BC%93%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%92%EF%BC%97&gl=jp&ei=VwS9TKD4BcXJcem0mfEN&sa=X&oi=geocode_result&ct=title&resnum=1&ved=0CBUQ8gEwAA

 ※ひょっとしてこのへんですか?


●(参考)和歌山県連合会 1957年の業界紙の年賀広告より

 01.阪和新地組合、 02.天王新地組合、??03.海南新地組合、
 04.下津料理組合、 05.箕島検番組合、 06.湯浅検番組合、
 07.御坊南新地組合、08.御坊北新地組合、09.田辺検番組合、
 10.新宮新地組合、 11.串本新地組合、 12.勝浦新地組合、
??13.白浜社交倶楽部、14.白浜浜木綿社交倶楽部




※地図は最大までズームしてみて下さい。

596T-レッド:2010/10/19(火) 14:58:15
芦・葦・葭・アシ・足・脚・・・ヨシ♪
関係があるかどうか、わかりませんが…
"芦原"の語源について、ちょっとだけ調べてみました。

『江戸幕府の命で、遊廓が一か所に集められた場所もアシの茂る湿地だったため、葭原(よしはら)と名づけられ、後に縁起を担いで吉原と改められた』

…という記述もありますね。

芦(葭・葦)は、湿地帯に生息することが多いことから、一般的に、建物を建てるには適さないようです。

したがって、辺鄙な場所となる→町外れになる→遊所を設置しやすい、ということなんでしょうか……

ちなみに、芦原橋(浪●区)も皮革産業が有名ですね。

597鷹目:2010/10/19(火) 18:57:40
芦原新地
 昔、今里さんと和歌山散策したとき、今里さん持参の昭和20年代か30年代の地図に芦原新地って名称がありました。

 そのときは、赤線なのか、花街なのか、飲み屋街なのか、それともただの新興の埋め建て地なのか、資料がなくて解かりませんでした。

地図に書き込まれていた場所は、川を挟んでいましたが、確かに夕凪さんの書いた町名に隣接している場所でした。

 で、現代(散策当時ですが)は大型店舗が建っています。

598遊楽:2010/10/20(水) 01:34:10
岡山へ行ってきました
こちらへの投稿ははじめてなので、ちょっとドキドキしてます。

いつもの如く、近代遺産散策がメインの旅でしたが、せっかくの
遠出ですので、倉敷市玉島柏島(旧天満町)界隈、川西町、岡山市の
西中島・東中島を近建巡りの合間に巡って参りました。

残念ながら私は「赤線跡を歩く」の2だけは持っていないので(涙)、
詳細もわからぬまま、ただ彷徨ってきただけですが、短い日程の中で
3箇所の町並みを拝見できたのはこちらのバックログを参照させて
頂いてから出かけたからだと、いつもながら感謝しています。

■玉島柏島(旧天満町)

玉島自体が置き忘れられたような(さすが「ALWAYS 三丁目の夕日」
のロケ地に選別されただけありますね。笑)街並みですし、3連休の
初日は雨でしたので、とりあえず玉島魚市場の裏から公会堂までの
範囲しか歩いていませんが、なんだか通りのお家がすべてそれ風に
目に映りました。

しかしながら地元の方にお訪ねしたところ、戦前だとはっきりと断言
できるのは、現在は天〇教の集会所となっている3階建てと、天満町
公会堂の近くの2階建て丸窓のある家ぐらいで、後は不明であるとの
事でした。いずれにしても先を急いでいましたので、この場所がいつ頃
までその様な目的で利用されていたのか、その後の転業の光芒などの
詳細をお聞きすることができなかったのは残念です。

■川西町

こちらもはっきりと資料がないまま、川西1丁目界隈を歩いただけ
ですので、帰ってから撮った写真を検証してみるとかなりピントを
外してるようでした(川の反対側をメインに歩いてたようです。涙)
確かなデータではありませんが、最盛期の妓楼数17、妓人数113・・・
となるとゆっくり回れば、当時の建築物の半分くらいは残って
いそうな雰囲気は充分残っておりました。

■東中島・西中島

町名からいうと非常に馴染みのある名前ですので(笑)以前から
どうしても行ってみたかった場所ですが、実際に行ってみると
街自体は思っていたほど特殊な雰囲気はありませんでした。
中に入ってしまうより対岸から眺める方が、それらしい街ですね。

中の島・・・という事で、周辺より少し下がった場所に孤立してある
ような場所を想像していましたが、新京橋の方から入ると、川を
挟んだだけのただの通りで、「京橋を渡る・・・」という言葉の持つ
厭世観というか閉塞感は今はありません。ただ、家自体は橋本などと
同じくお住まいの方が老齢化が進んでいるのか?それともただの廃屋
になってしまってるのか?夕方の人の出入りが激しい時間帯に行った
わりにはまったくひと気がなく寂しい街でした。

599夕凪:2010/10/20(水) 20:25:24
すしのこ本社@堺
●以前、タケちゃんさんに教えて頂いた『玉の井−色街の社会と暮らし』買いました。

 パラパラとしか見てませんが、筆者の視点は、女給の生態や、売春禁止ではなく、
 “ 玉の井 ”の歴史や、赤線(青線)の仕組や制度を解説する事にあります。

 またカフェーの間取りや、洗浄器がどのように設置されていたか等も
 イラストが添えられていて、わかりやすいものになっています。

 なかなか面白そうな本です(こんな本が欲しかったです)。

 タケちゃんさん、どうもありがとうございます。

 ttp://www.jiyu.co.jp/shumiseikatsu/detail.php?eid=00964&series_id=s01


●T-レッドさん、鷹目さん、芦原新地の件、どうもありがとうございました。

600夕凪:2010/10/21(木) 16:58:32
幻の花町新地 (須磨)
●加藤政洋さんの『花街』(2005年)に、
 幻の花街として、須磨にあったと言う《花町新地》の名が出てきます。

 加藤さんは、同書の中で「花町新地」を、
 須磨区役所が発行した本を引用して紹介した後に、
 下記の通り述べています。

  妙法寺川左岸に昭和10年(1935)に成立し、
  しかも戦後はその姿を消してしまった《花街新地》。
  「そこはまた別のファンがいて評判だった」というのだが、
  存続した期間が短かったため、市民一般に(あるいは他地区の花街)
  には知られていなかった可能性が高い。(中略)

????昭和10年以降に、市街地の片隅に「検番とは全く関係がない」と
  いう語りは、「そこにはまた別のファンがいて・・・・・・・」とともに、
  《花町新地》が私娼窟に近い状態であったことを暗にしめしている。
  (以下、略)

 加藤政洋さんが引用した本は、須磨区役所まちづくり推進課著の
??『須磨の近代史−明治・大正・昭和−』(1998年)と言う本です。

 加藤さんが引用した箇所は、『須磨の近代史−明治・大正・昭和−』も
 その事を明記していますが、
 須磨神戸市編入50周年記念誌『須磨』からの要約転載記事でした。

601夕凪:2010/10/21(木) 17:44:47
幻の花街新地 (須磨)
要約前の記述を『須磨』で確認してみました。

●須磨神戸市編入50周年記念誌編集委員著『須磨』(1970年)より

??  戦前妙法寺川東の古川町あたりにあった「花街新地」というのは

   所謂「やとなくらぶ」という組織のもので
???? 検番とは全く関係がないけれども、

???? そこには、別のファンがあって安いという評判だったが
??  須磨検番も神戸市内ではいつも線香代がたとえ10銭でも安いと
??  いうようにしていた。(中略)

   昭和戦前期で2円ぐらいで遊べたように聞いている。
   現在の地形は当時と全く一変してどこに「花街新地」が
   あったのかわからない。(中略)

   幻の「花街新地」として胸に覚えのある方々のみの
   思い出の地であろう。


 とあります。「花街新地」は、少なくとも私娼窟ではなく、
 組織的な雇仲居倶楽部であったと書かれています。
 もっとも雇仲居倶楽部も私娼窟と言えば私娼窟なのかもしれませんが・・・・

602夕凪:2010/10/23(土) 22:33:06
港新地へ行ってみた ♪
港新地に残る、2軒の内、貴重な1軒である、

『都旅館』が、近々解体されるようです。


入り口のまえに、不動産屋さんの建て売りの広告が ・・・・・・


ttp://www.taiyo-jyutaku.co.jp/detail/index.php?act=detail&bn=1081#detaildata

603鷹目:2010/10/27(水) 23:02:12
訂正
 天の声にて間違いを発見。

 芦原新地の位置、大型店舗の処ではなく、雄松町付近。大型店舗の処は新天地。

 昭和10年の地図に新天地の名称有るも、芦原新地の名称なし。

 仮説-新天地→戦災→移転→芦原新地 かもとの事です。

 スマソ。

 またそのうち、自転車で確認に行って来ます。


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