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スピノザ『エチカ』読書会

1ムラタ:2019/04/22(月) 22:16:33
6月23日(日)よりスピノザ『エチカ』の読書会を新たにはじめることになりました。
新規参加者を募集します。
参加希望者はこの掲示板に書き込むか、久保またはムラタに連絡を下さい。大阪哲学同好会以外の方であっても、どなたでも歓迎いたします。

テキストは中公クラシックスの翻訳『エティカ』(工藤・斎藤訳)を標準のものとして使用しますが、どうしてもこの訳本でなければならないというわけではありません。
第一回の範囲は第一部のはじめから定理15まで(P3〜34)です。
各自読んだ上で参加されることが推奨されます。

日時:6月23日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部最初〜定理15(p3〜34)
会場費1000円を参加者で等分して負担

43久保共生:2019/05/23(木) 00:16:41
>>38
僕もほぼ同じイメージで理解しています。

44ムラタ:2019/05/23(木) 00:29:46
>>42
横山さん

ちょっと読解できなかった部分もありましたが、僕の考えと大して相違ないように思われました。

45横山:2019/05/23(木) 00:31:51
>>43
ありがとうございます。

46横山:2019/05/23(木) 00:32:23
>>44
ありがとうございました。

47則天去私:2019/05/23(木) 18:12:09
かなり穿った疑問なのですが、一読して指定箇所の詳しい読解はよくわからないが、エチカが神から始まるのは、以下の全ての内容が神から必然的に流出するからで、神のみが実体、ということでしょうか?

48ムラタ:2019/05/23(木) 21:47:10
>>47
則天去私さん

友人に宛てた書簡(1665年)にも書かれているようですが、『エチカ』が神についての話から始まっているのは、倫理学の基礎づけとして汎神論の哲学的理論がどうしても必要であったからでしょう。

49横山:2019/05/23(木) 22:15:42
昨日の時点では、スピノザの実体が少しわかった気になってたのですが、今日になるとやっぱり分からないです。

定理17の備考の後ろの方で、
「物質はいたるところで同一であってその部分は物質がいろんなふうに変状すると考えられる限りにおいてのみ区別されるのであり、したがってその部分は様態的にのみ区別されて実在的には区別されない・・例えば水は水である限りにおいて分割されまたその部分は分離されると我々は考える。しかしそれが物体的実体たる限りにおいてそうではない。その限りにおいては水は分離されも分割されもしない・・水は水として生じかつ滅する。しかし実体としては生じることも滅することもない」(岩波p58)

この辺りを読むと、様態としてとらえられたときの世界の対象と、実体としてとらえられたときの世界の対象とは、同じものでありながら、まったく別の世界記述だとするべきように思われます。

例えて言えば、「非常口表示マークの緑の人は扉の外に出られる」という言い方も、「出られない」という言い方も、「出られるも出られないもない」という言い方も、それぞれあるのだけれど、そこで示される「出られる世界」と「出られない世界」と「どちらもない世界」は別の世界になってしまいます。

なんか、スピノザの実体と様態の関係がそれに似てる気がするのです。

つまり、「実体は分割され得ない」と言われるときに語られる世界と「様態としての物質は分割され得る」と言われるときに語られる世界とでは、別の世界が示されていることにならないでしょうか。

もし、そうであるなら、
実体としての世界を語るとき我々は、世界を現実にここに実存する個物として捉えられるかもしれませんが、分析不可能なものでしかないことにならないでしょうか?
また、様態として世界を語るときは分析して捉えられた世界を手にできるかもしれませんが、現実に実存する個物とは無縁の世界でしかないものにならないでしょうか?

なんか、量子力学の不確定原理みたいな、こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらが立たず的なつかみどころのなさを感じてしまい、どうも分からなくなってしまいました。

スピノザの世界観って、そんな感じのものなのでしょうか。それとも、僕の勘違いでしょうか。

50久保共生:2019/05/23(木) 22:52:46
おそらく、定理15の備考ではないでしょうか?

51ムラタ:2019/05/23(木) 22:55:59
>>49
横山さん

>この辺りを読むと、様態としてとらえられたときの世界の対象と、実体としてとらえられたときの世界の対象とは、同じものでありながら、まったく別の世界記述だとするべきように思われます。

その通りだと思います。
スピノザは第2部以降において、認識を
第一の認識・・・想像知
第二の認識・・・理性
第三の認識・・・直観知
と区別しています。

理性によって導かれ、ある個物を神(実体)の変容(かぎりの神)だとみなす認識(第三の認識)を直観知とし、一方、単に対象をそのまま認識(第一の認識)することを想像知だと表現しています。


>つまり、「実体は分割され得ない」と言われるときに語られる世界と「様態としての物質は分割され得る」と言われるときに語られる世界とでは、別の世界が示されていることにならないでしょうか。

示されているということになるでしょう。

52横山:2019/05/23(木) 23:00:39
>>50
あ、その通りでした。15でした。ありがとうございます。

53横山:2019/05/23(木) 23:02:34
>>51
やっぱりそうなのですね。
ありがとうございます。分かりました。

でも、なあんだ、って感じでちょっとつまらない気もします。

54久保共生:2019/05/23(木) 23:24:47
なんといっても第二部がやたらと難しいので、僕もよくわかっているわけではないのですが、

>「実体は分割され得ない」と言われるときに語られる世界と「様態としての物質は分割され得る」と言われるときに語られる世界とでは、別の世界が示されていることにならないでしょうか。

というのはどうなんでしょう?
世界はあくまで一つの実体と見るべきで、別の世界など考えられないと思うのですが。
ただし、一つの世界に対する別様の世界記述、認識様態というのは考えられるとは思います。

55ムラタ:2019/05/24(金) 00:31:05
>>54
久保君

正しく解釈できているのか甚だ怪しいのですが、久保君の主張は、
「個物(世界の対象)に関してはそれを神(実体)の様態と認識したり(直観知)、そうじゃないふうに、つまり単に認識したり(想像知)ということがありえるけれど、世界に関しては、それは実体としてしか考えることはできない」ということなんでしょうか?

もしそうなら、「世界」という言葉の意味が問題になってきそうです。

56久保共生:2019/05/24(金) 00:47:47
僕は、今のところ、世界そのもの≒神と解釈しています。

57ムラタ:2019/05/24(金) 01:25:01
なるほど、そのように世界という語を解釈するなら納得です。
世界≒神=実体なのだから
世界が非実体(様態)であるはずがない。

58横山:2019/05/24(金) 08:32:26
「実体と様態が別の世界」という僕の問題提起の言い方がイマイチだったような気がします。

僕が問題にしたかったのは、

眼前にあるリンゴをリンゴだと分析して捉えたいならば、それに対して同時に個物としての捉え方をすることができなくなる、

ってところなのですよね。
でも、スピノザはそれを神の力でもってできるようにしたかったのじゃないのかという気がして仕方ないのですよね。
それで、どうにももやもやしてるのですよね。

59横山:2019/05/24(金) 09:24:47
実体としての世界記述と様態としての世界記述がまったく独立で別のものだと考えたメタファとして、僕は非常口表示の緑の人を挙げましたが、
ムラタさんが紹介してくださったように、海と波の関係であるのなら、まったく独立だと考えるのも、もしかすると違うのかも知れないと、

そんな気もしています

60横山:2019/05/24(金) 13:42:24
それで今度は、場の量子論をメタファとして考えられないかと考えています。

例えば量子論でいうとありとあらゆる電子は全てまったく同じもので、2つの電子に電子a、電子bと名付けることは意味がありません。
なので、ある一つの電子について、それだけを取り出して、その個別の、個物を、語ることは、意味がないはずです。

しかし、そうなのですが、電子の場合、ある一つの電子を取り出してその電子が電子としていかなる様態であるかを語りながら、その個物を語ることができるような気がするのです。
つまり、その一つの電子の様態を語りながらその一つの電子を語ることによって、宇宙に存在するすべての電子の個物を語る、というようなことはできないか、ということです。

もし、それが可能なら、
実体を語る世界記述と様態を語る世界記述が、別なものであることを受け入れながら、様態を語る語り口で個物を語ることが可能になるような、そういう世界モデルがあり得るのじゃないか、って思われるのです。

スピノザはもしかすると、そのような視点で汎神論を考えたのではないかって、その辺りを疑いながらエチカを読み進めたいな、と思ってます。

61ムラタ:2019/05/24(金) 20:31:11
非常口表示の緑の人の話が分かりませんでした。
どうスピノザの議論(定理15の備考の最後)と対応しているでしょうか?

62横山:2019/05/24(金) 21:16:26
>>61
ムラタさん、

定理15備考を、僕は、

同じ対象を二つのしかたで記述するときに、それぞれ正しくその対象の記述でありながら、互いに矛盾することがあって、実体と様態がそれである

という話だと読みました。
そのように読むならば、実体を語る記述と様態を語る記述は、連言として同時に同じ世界を表すことができないもののはずだと考えました。

それが、緑の人について「戸の外へ出る」と「出ない」と「出るも出ないもない」という記述があり得て、それぞれ矛盾しあい、決して連言にならないものになるというところで、
その比喩になるかな、
と考えた。

そういう感じです。

63横山:2019/05/25(土) 16:42:47
また別の疑問。

「定理25.神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、物の本質の帰省原因でもある。
「証明.これを否定するなら、神は物の本質の原因でないことになるので、物の本質は神なしに考えられ得る。しかしこれは不条理。ゆえに神はまた物の本質の原因でもある。」

僕には、この証明において証明されるのは、「神が物の本質の必要条件」ということでしかないように思えます。
「必要条件であること」のみでなく「原因であること」までが証明できたとされているのは、
これが神の話であって、神の話である限りにおいて、その対象は無限であるので、「因果関係」と「相関関係」の違いがなくなってしまうことによるのかなあ。って、
それゆえ、「原因」と「必要条件」が同じになってしまうからなのかなあ。って、

そういう感じで穿っています。

64横山:2019/05/25(土) 16:44:35
>>63
打ち間違い、スミマセン。

物の本質の帰省原因



物の本質の起成原因

65ムラタ:2019/05/26(日) 11:01:14
横山さん


せっかくお答えいただいたのに返信遅れて申し訳ありません。
かなり熟考したのですが、やはり僕の理解を超えているようです。
非常口の緑の人の比喩は、連言が偽となるという共通点があるということだけがかろうじて分かり、その他のことは何も分かりませんでした。

また、>>63の定理25の横山さんの疑問も自分には?です。
もしかして横山さんは「神は物の本質の原因でなく、一因にすぎない」と主張されているのでしょうか。
スピノザは他からの原因を持たない(自己原因)のが神で、持つのは神でないと主張しているのだから、定理25は証明も含めて僕には筋が通っているように読めましたが。

66横山:2019/05/26(日) 12:15:42
>>65

緑の人の話と電子の話になぞらえようとしたのは、結局、
世界の様態としての記述と実体としての記述が、連言で語り得るか否か、
という感じの疑問だったのですが、うまく表現できてなかったです。申し訳ないです。読書会当日に直接そのへんも皆さんにご意見をお聞きできるくらい、説明できるようになってたいと思います。

それから、

定理25の話は、
「証明.・・神が存在しなくても物の本質を考えられ得るが、それは定理15に矛盾する。ゆえに・・」

というのは、
「ゆえに、神がなければ物の本質はない(神は物の本質の必要条件である)。」
の証明でしかなくて、
「ゆえに、神は物の本質の原因である。」
は、言い過ぎじゃなくのか?

ということを疑問に思ったのです。

67横山:2019/06/18(火) 07:25:21
4月のショーペンハウアーに来られていた松本さんが、エチカ#1に参加されるそうです。

68久保共生:2019/06/23(日) 01:15:07
>>67
ごめんなさい。
見落としてました。
了解しました!

69おぐす:2019/06/23(日) 19:55:42
スピノザ「エチカ」読書会1回目。出だしからスピノザの世界に導かれた感じでした。
スピノザとはじっくり向き合いたかったので今後も難解ながら楽しんで読みたい。

次回が7月28日(日)なら文楽前売りチケットの日附と重なっていたので残念です。
参加できなくても個人的にしっかり読んでおきます。

70横山:2019/06/23(日) 23:06:06
ありがとうございました。なかなかハードな時間でした、もう頭痛しそうなくらいでしたがとても面白かったです。

今後はここの掲示板で質問をさせてもらいますのでご意見をもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします。

今日の会のなかでも、少し出しましたが、まだ上手く質問にはできない感じのもやもやした疑問を幾つか持ってますので、なんとかそれを伝えられる形にできるようにしたいと思っています。

71ムラタ:2019/06/24(月) 01:34:38
次回の詳細です。

日時:7月28日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部定理11〜定理17(中公クラシックス p.18〜41)
会場費1000円を参加者で等分して負担

72ウラサキ:2019/06/24(月) 07:39:30
7月27日(土)〜30日(火)京都にて勉強合宿中ですので、次回参加できません。
又、疑問点など、こちらの掲示板にUPさせてもらいます。

73則天去私:2019/06/24(月) 07:53:58
スピノザは実体が分割されないことにこだわっていますが、これは、実体は神しかいないのだから、神は分割出来ないということでしょうか。それでは神を信じない人はどうなるのでしょうか?

74ウラサキ:2019/06/24(月) 10:00:05
則天去私さん、

エチカを読んでいくとわかりますが、
スピノザの「神」はキリスト教の神とはかなり異なった、
いわば「自然の摂理」みたいなもののようです。
むしろ唯物論、機械論に近いと思います。

75ムラタ:2019/06/25(火) 07:16:45
ゲーテの戯曲『ファウスト』にスピノザ的な神を感じさせる美しい一節があるので、参考に載せておきます。
恋人に信仰心を疑われた際、ファウストが返したセリフです。

“神の名を唱えて、自分は神を信ずると告白できる人がいるだろうか。
心に神を感じていながら、自分は神を信じていないなどと果たして言い切れるものだろうか。
すべてを包むもの、すべてを保つもの、その神は君をも私をも自分自身をも包み支えているのではあるまいか。
大空は大きな丸天井を作っているし、大地は足の下にしっかりと横たわっていて、やさしい眼差しで星々が永遠に差昇ってくる。
君と眼と眼を見合わせていると、すべてが君の頭、君の心に押しせまってきて、君のかたわらでは、すべてが見ゆるが如く見えざるが如くに、永遠の神秘のうちに動き働いているではないか。その気分で君の胸をいくらでもふくらませるのがいいのだ。
そうして君がその気持に浸りきって、もう何も言うことがなかったならば、その気持をなんとでも呼べばいいのだ、幸福とも、まごころとも、愛とも、神ともね。
それをなんと呼んでいいか、私にはわからない。
気持が一番大切なのだ。
名など、天の炎を霧のように包み隠す空虚な響き、煙のようなものにすぎない。”
(ゲーテ『ファウスト』マルテの家の庭より、高橋義孝訳)

76おぐす:2019/06/27(木) 13:59:26
ムラタさん

マルガレーテはファウストに貴方は神を信じているのか信じていないのかと問い質し、それ対するファウストの応答の部分ですね。
ファウストは自分は神を信じるとも信じないとも言及せずに、ただ「私の言うことを誤解してはいけないよ」と前置きしてから述べるセリフです。

>すべてを包むもの、すべてを保つもの、その神は君をも私をも自分自身をも包み支えているのではあるまいか。

この辺りがスピノザの説く汎神論的な神の概念と重なっているような文言なのですが、神が「自分(神)自身」をも包み支えている、という部分は、
「エチカ」の冒頭「神について」の定義にある「自己原因」が念頭にあったのかもしれません。

補足ですが、この場面は「罪と罰」のラスコーリニコフとソーニャの鬼気迫る応答の場面を彷彿させますね。役者と雰囲気はずいぶん違いますが。
自らの犯罪を告白する男に対して女は、今すぐ街中の四つ辻に立って大地に接吻し、それから「私は人を殺しました」と大きな声で告げなさいと
迫ります。「そうすれば神様があなたに命を授けてくれます。行きますか?行きますか」

面白いのは、ソーニャはラスコーリニコフにキリスト教会での告白(懺悔)を促してはいないということです。女は教会に行きなさいとは言わない。
大地に接吻せよ、その後で世界にに自分の罪を打ち明けよと告げていることです。

ドストエフスキーの中の汎神論的なロシアのナロード(民衆)が持つ宗教性は、ロシア正教的な観念とない交ぜになったままソーニャの抱く宗教観念
として現れています。

スピノザとゲーテ、スピノザとドストエフスキーの思想的、哲学的な連関はあまり論じられてきませんでしたが、読み深めれば中欧、東欧の神観念も
含めて、興味深い場所であると思います。

77ムラタ:2019/07/01(月) 22:29:54
おぐすさん

おぐすさんに指摘されるまで、僕はドストエフスキーをそんなふうにスピノザと結びつけて読んだことはありませんでしたが、思い返してみると、ドストエフスキーにも定型的なキリスト教を超えた、普遍的な宗教的感情が作品の中に表現されていたように思います。クリスチャンでもない日本人でもドストエフスキーを多数愛読するのは、そういったある特定の宗教を超えた普遍的感情が琴線に触れるというのが、その理由の一つなのかもしれません。
もっとも、僕はスピノザの文学的影響を学的に整理することには何の興味もなく、また力量として不可能でもあり、単純に読んで面白がっているだけですが。


蛇足ですが、去年の夏にラスコーリニコフが大地に接吻したサンクトペテルブルクのセンナヤ広場を訪れました。小説では感動的な場面として描かれていますが、実際目で見たそれは、どこにでもあるような平凡な駅前の広場という感じで、なんだか呆気なかったですが、それと同時に、この何の変哲もない平凡な広場があの偉大な作品につながっているということが、かえってどこか感動的でもありました。これは矛盾したことではないと思います。

78おぐす:2019/07/03(水) 11:04:11
ムラタさん。

おっしゃるようにドストエフスキーの信仰は、カトリックともロシア正教とも異質ですね。
自分は棺を覆われるまで「不信と懐疑の子」だと言いながら「実際に真理がキリストの外にあったとしても、私は真理よりもむしろキリストと共にあることを望む」と述べる時の
ドストエフスキーのキリストは聖書のキリストを逸脱しています。「私はむしろナロード的だ」という宣言は、ロシアの農村共同体の民衆の素朴な大地信仰が背景にあるように思います。

キリスト教は中世を通じてヨーロッパ各地のさまざまな神々を習合しますが、マリア信仰が10世紀以降に異常に普及するのも、民衆の地母信仰とマリアが結びついた結果とも考えられます。
キリスト単独では民衆の信仰の受け皿にならないので、大勢の聖人たちへの信仰をもって多神教の世界に対応したのでしょう。

スピノザの「神即自然」の概念が「エチカ」の中にどのような方法で、どのように表現されているのか。難解な「エチカ」の叙述ですが、自分なりにスピノザの世界を楽しみながら読みたいと
考えています。

79名無しさん:2019/07/20(土) 12:00:36
新しい疑問点

第1部,公理6「真の観念はその対象と一致しなければならない」

第2部,定義4「十全な観念とは、観念が対象との関係を離れてそれ自身において考えられる限り、真の観念のあらゆる特質あるいは内的な特徴をもっている観念のこと」

を合わせてよむと、

「十全な観念とは、対象との関係を離れて考える限りで、対象と一致していると考えられる観念の特質特徴をもっている観念」

となりそうに見えます。

「対象から離れて考える限りで、対象と一致してると考えられるもの」って、意味がわからないです。

80名無しさん:2019/07/20(土) 12:01:08
ごめんなさい。↑横山です

81ムラタ:2019/07/28(日) 07:00:45
胃が少し痛いので今日欠席することにします。
無理したら行けなくもない程度ですが、明日の仕事の影響もあるので。
久保くん、申し訳ないですが、次回の詳細の書き込みお願いします。

82久保共生:2019/07/28(日) 09:21:47
了解しました。
8月の予定を教えてください。

83ムラタ:2019/07/28(日) 10:56:57
久保

8月も残念ながら参加できません。
最終週以外は外国にいるし、最終週も勉強合宿に参加しているので。
僕のことは気にせず8月の予定を組んで下さい。

84ムラタ:2019/07/28(日) 11:20:26
>>83
間違えて呼び捨てになってました。スミマセン

85久保共生:2019/07/28(日) 23:12:02
今日は参加者が、僕と父と前回参加されていなかった野口さんの3人だけになってしまったので、前回の範囲をもう一度読み直しただけで、次には進みませんでした。
ですから、次回は今回予定していた範囲になります。
よろしくお願いします。
以下詳細です。

日時:8月25日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部定理11〜定理17(中公クラシックス p.18〜41)
会場費1000円を参加者で等分して負担

86久保共生:2019/08/26(月) 20:58:37
次回の詳細です。よろしくお願いします。

日時:9月23日(月・祝) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部定理16〜定理29(中公クラシックス p.34〜56)
会場費1000円を参加者で等分して負担

87名無しさん:2019/08/27(火) 10:26:42
久保くん

どうもありがとうございます。

88ムラタ:2019/08/27(火) 10:27:41
↑の書き込みはムラタによるものです。

89則天去私:2019/09/19(木) 13:30:46
該当箇所を読んだら、無限とか永遠とか持続とか存在とか論じてますが、要するに、エチカ全般が神を讃える内容なのでしょうか?

90ウラサキ:2019/09/19(木) 21:12:00
則天去私さん、
17世紀のヨーロッパで神を否定するのは有り得ない選択でしたので、
スピノザは神という名を借りて、極力機械論的世界観を展開したのでは無いでしょうか?
彼の「神」は「自然の摂理」みたいなものです。

91ムラタ:2019/09/22(日) 18:56:26
今回の範囲では、定理21から23が難解だと感じます。
様態化のプロセスを説明した箇所です。直接無限様態、間接無限様態云々。
重要なところだと思うのでなんとか理解したいと思うのですが・・・
定理21の証明の前半は、直接無限様態が有限のものだと仮定すると(背理法の仮定をすると)矛盾すると言いたいのでしょうか。

92則天去私:2019/09/23(月) 17:21:19
うらさきさん
『エチカ』のどの辺りが機械論なのか、僕には読み取れないので教えて頂けませんか?

93ウラサキ:2019/09/23(月) 18:01:03
万物は神の摂理の現れです、ってな所でしょうか。

94横山信幸:2019/09/23(月) 19:06:48
>>91
ムラタさんの問いに対して、まったく見当外れのことを考えているのではないかと心配しながら、書き込んでいます。
ズレたことを言ってしまっていたら、笑って読み流してください。

日本大百科全書の「様態」の説明で次のように書かれています。
「ところでこの属性(本質)と様態(偶有性)との区別はアリストテレスにまでさかのぼるが、中世、近世の哲学でもさまざまに議論されている。たとえばデカルトでは精神と物体が実体とされ、思惟(しい)と延長がおのおのの属性とみなされるとともに、情意、判断、欲求が精神の様態として、また位置、形、運動が物体の様態として考えられている。またスピノザでは神が唯一の実体であり、思惟と延長がその属性であり、それらの変容したもの、すなわち個々の人の心や個々の物体が様態とされている。さらにロックでは、様態は印象や単純観念から合成された複合観念の一種とされている」

つまり、デカルトにおいて、存在は形相的なものと数的なものが一体となったものであった。それに対して、スピノザにおいては、実在的区別は形相的であって数的区別ではないとされ、数的区別は様態的区別であって実在的区別ではないとされる。
このことは、スピノザにおいては、実体が何者であるかを示す本質の形相に関することは形相的区別のみがすべてであり、その実体がいまたまたまどんな状態であるかという様態に関することは様態的区別のみがすべてである、ということを言っていると思います。
この点こそに、デカルトモデルからスピノザモデルへの大転回があるのじゃないかと、そして、スピノザとしては力説したかった部分なのではないかと思います。
つまり、それが今、たまたま気体になっている、たまたま流体になっている、たまたま複数の物に分かれている、たまたまその状態になっている。というようなことを様態的区別として語ることができる。しかし、それをその状態にさせた原因はすべてが無限に必然な形相的本質的において神の下に決定していて、その環境にあったからそれは必然的に気体なのであり、必然的に流体だったのであり、必然的に複数の物としてあったのであり、必然的にそのような状態にあった。というようなことも、同時に形相的区別として語ることもできる。
そして、この世界モデルにおいては、その様態は、神の絶対的本性から必然的に無限なものとして確定されていなければならない。

というような話として、僕は「無限様態の定理」を解釈したのですが、どうなのでしょう。

もしかすると定理21〜23とはまったく無関係なことをまた妄想してしまったかもしれません。

95ムラタ:2019/09/23(月) 20:04:13
次回の詳細です。よろしくお願いします。

日時:10月27日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部 定理24〜定理36 (中公クラシックス p.48〜68)
※第一部終わりの付録は含みません。
会場費1000円を参加者で等分して負担

96ムラタ:2019/09/23(月) 20:06:03
>>94
横山さん

返信ありがとうございます。
少し考えて返事したいと思います。

97ムラタ:2019/09/23(月) 20:19:31
今回の会の終わりのほうで「無限」という言葉の多義性の話が出ましたが、
家に帰って、ドゥルーズの『スピノザ』を調べてみたら、スピノザがある書簡で「無限」を
次のように3つに区別していたことを知りました。

(1)本性上、限界を持たないもの
(2)その原因ゆえに限界を持たないもの
(3)大小の違いを持ち、その大きさ自身にも最大・最小はあるが、
どんな数をもってしても数では算定することができないもの

そして、スピノザに言わせると

(2)が直接無限様態の無限
(3)が間接無限様態の無限

ということになるようです。

説明が長く全部打つわけにもいかず、
詳しいことを知りたい方は該当箇所を何らかの方法で読んでみてください。

98久保共生:2019/09/23(月) 21:30:14
今回議論になった無限様態なるものの解釈について、考えてみました。
定義6にて、スピノザは、「絶対無限」と「自己の類における無限」とを区別しています。
さらに、定理16の証明にて次のようなことを述べています。

ところで、神の本性は、そのおのおのが自己の類において無限の本質を表現する絶対無限数の属性を持っているから、……

絶対無限数という表現が若干気になりますが、それは不問にするとして、スピノザは「自己の類において無限の本質を表現する属性」と述べています。
とすれば、属性は「自己の類における無限」ということなのでしょう。
僕が思うに、神のみが「絶対無限」であるのに対して、属性、さらには、そこから生じる無限様態も、「自己の類における無限」と理解すべきなのではないでしょうか。(村田さんが書き込んでくださった分類で言うと、(1)が絶対無限、(2)と(3)が自己の類における無限になるのかな?)

99久保共生:2019/09/23(月) 21:53:40
「自己の類における無限」というのをどう解釈するかですが、僕なりに考えを述べれば、「それ自身の本性において限定されないもの」というほどの意味なのでないでしょうか。
例えば、消しゴムという個物は、同じ本性を持つ文房具によって限定されうるので有限であるが、「延長」という属性は同じ本性を持つ他のものに限定されないので、自己の類において無限なのではないか。
また、延長の絶対的本性から生じる運動と静止という直接無限様態も、あるいは、宇宙の総体と理解すべき、延長の「間接無限様態」も、他のものに限定されないという意味では自己の類における無限なのではないでしょうか。

以上の解釈は帰りに読み返していてふと思いついたものなので、確証はありませんが、個人的にはそれなりに腑に落ちるような気がします。
皆さんはいかがでしょうか?

100横山信幸:2019/09/23(月) 22:21:16
無限の話に、参加します。

僕の勝手な解釈イメージでは、
「絶対無限」が「実無限」、「自己の類においてのみ無限なもの」が「可能無限」に当たるもののように思えています。

さらに、僕の勝手なイメージなのですが、
ある対象を「類・種」でもって分析するとき、僕はベン図みたいなもので考えます。そして、個物の対象がそのベン図のなかの要素として「点」で表されるようなイメージを僕は持っています。それは面積のまったくない点なので、面としての「類」からそれを切り出す作業をするのに実無限な情報が必要になります。
しかし、「類」は、それを細かく分析分類を尽くして、それが何者なのかを細かく細かく示そうとしても、どこまでも面としての分類枠でしかないものなので、その作業は「実無限」には到達せず「可能無限」でしかないものになる。

だから、
個物であるところの実体そのものは実無限であるところの「絶対無限」によってその本性を持ち得て、
「自己の類においてのみ無限なもの」は、人が可能無限な分析でもって、世界の様態を分節化することになるのじゃないか。

なので、「自己の類においてのみ無限」はその無限を施した後もさらに新たな無限な様態のあり方を許すものでしかないものになるって感じになるのではないか。

って、そんな捉え方をしています。
やっぱり、自分勝手な偏った捉え方かもしれませんが、久保さんの捉え方とも齟齬なく、捉えることができるようなモデルになってるんじゃないかなぁ、とも思っています。
どうでしょう?

101久保共生:2019/09/23(月) 23:20:47
横山さんにも、無限様態が議論になった経緯をご説明しておきます。
スピノザは「無限」という語を、多くの場合「他のものに限定されない」というような意味で用いています。
あるいは、定義2において、有限とは、他のものによって限定されるもののことだと述べています。

ところで、様態とは、定義5より、他のもののうちに存在し、他のものによって考えられるもののことを意味します。
しかし、それならば、様態は他のものによって限定されていると解釈されねばならないのではないか。
だがそうだとすれば、様態は常に有限でなくてはならないのであり、「無限様態」なる表現そのものが語義矛盾になりはしないか?

今日の読書会では、このようなことが問題になりました。
結局、未解決のままになったのですが。

102横山信幸:2019/09/23(月) 23:28:23
久保さん、ありがとうございます

103横山信幸:2019/09/23(月) 23:46:58
実体と様態とではまったく別な話なので、それに対応する無限もまったく別のものになる、っていう風に単純に無限の語義が異なると考えてはつまらないですか。

それだけのことと解釈しても良いのかなと、何となく感覚的な思いとして思いました。

104久保共生:2019/09/23(月) 23:54:47
>103

本文を少し読み返してみて、僕もそう思いました。
おっしゃる通りだと思います。
ただ、無限の語義が具体的にどのように違うのかは、結構難しい問題ですが。

105横山信幸:2019/09/24(火) 00:09:03
実体の原因てある無限は、定義からすでにその個物の原因であるので、すでに無限の向こう側まで到達した実無限としての無限を備えているはずである。
それに対して、様態の方はそれをあとから一般化された概念として分節するだけのものなので、どんなに頑張っても無限の向こう側には到達することができない可能無限としての無限でしかない。

という感じではどうでしょう?

106ウラサキ:2019/09/24(火) 08:15:59
横山さん、
「実無限」と「可能無限」の違いをもう少し(出来れば実例を挙げて)説明していただけませんか?

107横山信幸:2019/09/24(火) 10:34:21
【実無限】たとえば、2の平方根1.414…の「…」において無限に続いていく先の「全て」がすでに決定しているのだとする立場。この1.414…の先は終わりがなく無限に続いている。そして終わりがない永遠のその「全て」がすでに決まっているのだとする。限りなくどこまでも終わらないはずの無限の、その無限の全てがすでに実在しているのだとされるので、この無限は「実無限」と呼ばれる。
【可能無限】たとえば、1.414…の「…」の先は、どこまでも続いているというのは同じだが、それはどこまでも計算できる可能性があるというだけで、無限の答えが初めから決定されているわけではない。終わりがない永遠のその「全て」がすでにあるというのは、矛盾でしかなく、神であろうとそれを知ることはできないとするのである。無限とは、その全てが初めからあるのではなく、どこまでも掘り起こすことができるその手順や可能性だとされるので、この無限は「可能無限」と呼ばれる。

という感じです

108ウラサキ:2019/09/24(火) 14:11:17
横山さん、
とすると、同じ2の平方根の値を、実無限とみる立場と可能無限と取る立場があるわけでしょうか?
で、スピノザはその2つの立場を使い分けている、という事でしょうか?

109横山信幸:2019/09/24(火) 15:37:00
ウラサキさん、
スピノザが実無限と可能無限を、意識的に使い分けて分析してたというのは考えにくいかもしれません。でも、
神であるところの実体における無限と、その単なる別のものとしての属性でしかないところの様態における無限とは、異なるイメージを持っていたとは十分に考えられますし、
それが実無限と可能無限に当たるものだったのではないかとする解釈ももしかすると結構妥当なものなんじゃないか、
と、ちらっと思ってるのです。
でも、これは、単なる思い付きですので、僕も確信があって言ってるものでもありません

110ウラサキ:2019/09/24(火) 16:59:18
横山さん、
『エチカ』読んでて思うのですが、「幾何学的秩序に従って論証された」と題しているにも関わらず、
あまり論理的とは思えない記述があちこちに散見されるという事です。
何しろ17世紀のヨーロッパで書かれた文書ですから、語彙が現在とは異なった意味で使用されていたり、
「神」の存在が大前提とされているなど、すんなりとは理解できません。

111久保共生:2019/09/24(火) 17:46:57
横山さん

神=実体を実無限と解釈するのはなんとなく理解できますが、無限様態を可能無限と解釈するのは適切ではないような気がします。
横山さんの可能無限の説明で「無限の答えが初めから決定されているわけではない」と書かれていますが、スピノザは決定論なので、可能無限的な無限の捉え方は支持しないのではないでしょうか。

112横山信幸:2019/09/24(火) 18:47:36
久保さん、
僕の理解がずいぶんと自分勝手に偏っているのだと思います。それで僕は、

スピノザの世界では、実体は神としての原因であることによって、すべてがすでにして無限に決定しているというのはその通りだと思います。でも、
様態は、神ではない他のものとして(人の視点におけるものとして)の世界認識のアイテムなのじゃないかと、僕は考えてるのです。
そして、もしそうであれば、様態に対しては、実体の無限がストレートに対応するものであるとは限らないのじゃないか。それはまたストレートに決定論的に確定されるものだとも限らないのではないか。と疑われそうな気もしています。

確かに、久保さんの言われる通り、無限様態の無限が可能無限だとするのは、短絡的すぎてまずいように思います。(無闇に可能無限を採ってしまったら、排中律を排除する世界モデルになってしまうかもしれません。)
でも、(実体の無限には認知と無関係な無限であるけれども、)様態の無限には、認知との関連を考える余地がありそうにも思われて、しかたありません。

113横山信幸:2019/09/24(火) 21:01:10
そう考えると、
神の「絶対無限」はまさしく「実無限そのもの」を意味するのに対し、
「自己の類において無限」の方は、「人間のコントロールの下で扱えるように処理した実無限」を意味する、
とするのはどうでしょう?

それは、デルタイプシロン論法みたいな仕組みで可能無限として扱えるようにした実無限的なもの、と捉えるとするなら、
「自己の類において無限」を可能無限だとしたのは言い過ぎだったとしても、あながち間違いとも言い切れないとも、考えられるような気もします。

すいません。エライしつこく強引な書き込みになってしまいました。

114ムラタ:2019/09/24(火) 23:14:44
「神=実体=自然に関わる無限」と「無限様態に関わる無限」が異なるというということはスピノザ自身も述べていることですし、実際何となくそうかもな、そうだよなという感じです。

ただ、>>97で紹介したスピノザの手紙の内容自体が難解で、何が言いたいのかいまいち不明瞭です。

久保くんと横山さんは「絶対無限の無限」と「自己の類における無限」を分けて考えていますが(私もそのように考えたいのですが)スピノザに言わせると、それらは共に>>97の(1)の無限に相当するようです。

ついてにちょっと訂正ですが、>>97の(3)の無限は間接無限様態だけでなく有限様態に関わる無限性でもあるようです。なんじゃそりゃという感じですが、そう分類されています。

115久保共生:2019/09/25(水) 00:41:42
>>114

>久保くんと横山さんは「絶対無限の無限」と「自己の類における無限」を分けて考えていますが(私もそのように考えたいのですが)スピノザに言わせると、それらは共に>>97の(1)の無限に相当するようです。

いや、もしかすると少し分かったかもしれません。

まず神は絶対無限であり、本性上、限界を持たないものです。そして、それは無限の属性から成り立っています。
一方神の属性は、自己の類における無限ですが、例えば延長という属性は、同じ本性を持つ如何なるものからも限定されないので、やはり、本性上、限界を持たないものと言えると思います。

ところで、神=実体は、延長という属性のみにおいて考察されるではなく、他の属性、例えば思惟という属性においても考察されえます。
とすれば、神の属性の無限性とは、各々の属性が、それぞれその属性の本性上限界を持たないということになるはずです。(延長なら延長の本性上限界を持たないし、思惟ならば思惟の本性上限界を持たない)
思うに、これが「自己の類における無限」ということなのではないか。
一方、これら無限の属性を全て包摂した唯一の実体が神であり、それこそが「絶対無限」ということになるのではないか。

いかがでしょうか?

116久保共生:2019/09/25(水) 07:34:18
もう一点。
直接無限様態に相当する>>97

(2)その原因ゆえに限界を持たないもの 

についてですが、まず直接無限様態とは、属性の絶対的本性から生ずるものですよね。
そして、属性はその本性上、無限なので、その本性が直接的原因となって生ずる直接無限様態もやはり無限だということになるのではないでしょうか。
原因が無限ならば、その結果も無限という理屈は、少し疑問ではありますが、属性の本性がそのまま反映されたものが直接無限様態だと考えると、一応納得できそうには思えます。
(3)はよく分かりません。

117久保共生:2019/09/25(水) 07:48:07
横山さん

>様態は、神ではない他のものとして(人の視点におけるものとして)の世界認識のアイテムなのじゃないかと、僕は考えてるのです。

横山さんの解釈では、人間の認識は神という実無限には到達できないというふうになりはしないでしょうか?
しかしスピノザは、人間精神は、神の本質に到達しうると考えていると思われます。
というのも、スピノザの神は超越的ではなく、内在的だからです。(第1部定理18)
実際、第2部の定理47では、

人間精神は、神の永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている。

と述べられています。
ですから、横山さんの言い方で言えば、人間の認識はむしろ実無限に到達しうるということになるのではないでしょうか。

118横山信幸:2019/09/25(水) 14:12:38
久保さん、
たしかにスピノザは、様態がことごとく実体に対応するとしているようで、その無限には違いがないと言ってるように思えます。
しかし、中公クラシックス「エティカ」4ページの図のスピノザの属性について「神の属性は無限に多くあるが人間に認識しうる属性は思惟と延長だけ」とし、様態について「思惟の様態」と「延長の様態」としてるのをみると、
様態はやはり人間の認識アイテムであって、実体の無限と様態の無限には明らかにレベルの違いがあるようにも思われます。

そうすると、「定理47人間は永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている」の「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって考えたのですがどうでしょうか。
もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。
という風な感じの話のような気がしました。

来月の大阪哲学同好会ドゥルーズの発表で、「存在の一義性」についても取り上げたいと思ってるのですが、この「十全な認識」は個物や神や存在自体が一義的ではないとしたアリストテレスやトマスに対して、つまり、世界の個物を語る言葉は一般的な存在者を語る言葉で語れるものだけがそのすべてだと、つまり一義的でなければならないはずだということを言っている「存在の一義性」についての主張なのではないのかって、思ったのですがどうなのでしょうか。

119久保共生:2019/09/25(水) 17:26:43
横山さん

>様態はやはり人間の認識アイテムであって、実体の無限と様態の無限には明らかにレベルの違いがあるようにも思われます。

様態が人間の認識アイテムとはどういう意味ですか?よく分かりません。

>そうすると、「定理47人間は永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている」の「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって考えたのですがどうでしょうか。

スピノザが言いそうにもないことだと思うのですが。
本文のどこの記述を根拠におっしゃっていますか?

120久保共生:2019/09/25(水) 17:31:16
それと、

>もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。

というのも、全く意味が分かりません。
上でも言いましたが、スピノザの神は超越的ではなく内在的ですよ。

121横山信幸:2019/09/25(水) 19:36:45
久保さん

>様態が人間の認識アイテムとはどういう意味ですか?

実体は分割されず部分を持たない。だから、実体の、ここの部分がどうだとか何個あるとか何色でどのくらいの量があるとか、それについて語ることも考えることもできないですよね。なので、人間が世界を認知し認識するためには、そこから延長や思惟のついての属性を取り上げて考えて語るしかなく、それを為すことが認識することになるだろうと、そしてだから、それを為すには様態が必須アイテムになるだろうと考えました

>>「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって……
>スピノザが言いそうにもないことだと思うのですが。本文のどこの記述を根拠におっしゃっていますか?

中公クラシックス「エティカ」p17図2「属性はその存在に関して言えば実体と見なされる。しかし、その実体を認識するために側から見れば属性は一つの面を表しているに過ぎない。従って、知性が実体について延長と私意の二つの属性を認識するならば、その二つの属性は二つの実体の存在を表すのではなく、同一の実体の二つの面を表している。つまり、属性は実体の部分ではない。同一の実体は異なる見地あるいは異なる面から考察される」
とあります。僕はここで語られていることを表現したかったのですが、具合の悪い表現をしてしまってたみたいで、申し訳ないです。
表現しなおしてたところで、さらに泥沼のぐだくだになりそうですが、無謀に挑戦してみます。
「人間がそこで認識した世界がすでに無限の本質そのものの実体であるのだから、人間はその世界の外側を認識できることはあり得ない。その意味で人間の認識としては十全だといえるものだ。ただし、それは、実体の無限性に対する認識としての十全である」
ということを言いたかったのです。ダメですね。やっぱりぐだぐたになってしまいました。これは、もう無視してください。


>>もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。
>というのも、全く意味が分かりません。上でも言いましたが、スピノザの神は超越的ではなく内在的ですよ。

これについても、超越者の存在は全然想定してない話だったのに変な言い方をしてしまって上手くなかったです。
すみません。
ここで、僕はウィトゲンシュタイン「論考」を思い浮かべながら語っています。様態が人間の認識アイテムであったとすると、言語が存在そのものに到達すると言った「論考」と考え方が馴染むもののように思ったのです。「論考」の「語り得ないもの」というのは、私秘的な心的内容や個物を語り得ないと解釈されることが多いですが、僕はウィトが「到達する」と言ったのは個物にまで届き得るものだと考えています。なので、まるで、スピノザの汎神論とウィトの世界モデルとがまるで似通った話だと思えたのです。
しかし、ウィト「論考」の分析においては、世界の認識は必ず文によって為され、それは文によるものであるがゆえに必ず有限な範囲かあるいは可能無限の範囲までしかカバーすることができません。
もし、スピノザの様態が認識アイテムという捉え方が正しくて、その認識が人間の考える文によって構成されるものとするのであれば、そこで扱われ得る情報量はたかだか可能無限でしかないのじゃないか、とそう考えた訳です。
一方、実体の方はそのような可能無限とは一線を画した、まさに実無限の情報量かあるいは情報量という捉え方からはみ出してしまうような、レベルの違うものとして考えるものなのじゃないかって気がして仕方ないのです。

もう、僕の考察というよりほとんど妄想ですので、伝わらなくて当たり前なことを言ってしまってると思います。笑って流してください。

122久保共生:2019/09/25(水) 21:13:13
横山さん

丁寧な説明ありがとうございます。おかげで少し分かってきました。

>「人間がそこで認識した世界がすでに無限の本質そのものの実体であるのだから、人間はその世界の外側を認識できることはあり得ない。その意味で人間の認識としては十全だといえるものだ。ただし、それは、実体の無限性に対する認識としての十全である」

なるほど、そういうことが仰りたかったのですか!そして、その通りかもしれません。
つまり横山さんの考えは、人間が神=実体の本質を認識するとは言っても、その都度、何らかの特定の属性において考察するしかなく、無限の属性全てを包摂してしまうような認識は不可能ではないか、ということですよね?
本文をちゃんと読んでいないので断言はできませんが、その考えは僕もおそらく正しいと思います。
そして、おそらく実体それ自体と、人間がその都度認識する実体とのレベルの差が、絶対無限と自己の類における無限の差に当たるのだと思います。

ただそれならば、「様態は人間の認識アイテム」というよりも、「属性は人間の認識アイテム」といった方がよいのではないでしょうか?

123横山信幸:2019/09/25(水) 21:59:23
久保さん、

「属性は人間の認識アイテム」でも正しいとおもいます。でも、

中公クラシックス「エティカ」4ページの図はスピノザの属性について、「神の属性は無限に多くあるが人間に認識しうる属性は思惟と延長だけ」とし、また、様態について「思惟の様態」と「延長の様態」があるとしてます。

それをみて、属性のなかでも人間の認識アイテムとして使えるのは、結果的に様態だけしかないのじゃないかと考えました。それで、「様態は人間の認識アイテム」と言ったわけですが、どうなのでしょうか。

124ムラタ:2019/09/25(水) 22:46:35
僕には自己の類における無限と無限様態の無限の違いがいまひとつ飲み込めません。
それらは共に様態の無限とはならないのでしょうか?

自己の類における無限というのは、例えば延長に関していうと、ある延長A、それを包括するより大きなB、さらにその延長Bを包括する延長C・・・と続いていって、その究極にあるところの、他の何者によっても限界付けられることのない延長の無限性を言うでしょう。
それはあくまで、神における、ある類に限定された無限であるわけで、神に限定されているという意味では有限とも言えると思います。
そして一方、無限様態の無限というのも、直接無限様態にしろ、間接無限様態にしろ、それは神の絶対無限(字義通り、本当にあまねくすべてであるところの無限)とは違って、それは神に含まれているので、やはりその意味では有限と言っていいように思います。

そして、スピノザは>>97の手紙において前者(自己の類における無限)を本性上の限界を持たない無限ということで絶対無限と共に>>97の(1)の無限にカテゴライズし、後者(無限様態の無限)とは別物と考えているようです。
多分その根拠は、無限様態は神という原因の結果として生じている様態だからでしょうが、無限様態を神が原因で生じたものというなら、自己の類における無限(例えば無限延長)だって神が原因といっていいようにも思えます。

「神から生ずる」ということの意味が分からないというのがこの疑問の根底にある気がします。

125久保共生:2019/09/25(水) 23:15:47
>>124

様態は、実体から産出されるので、実体を原因とするものと言えますが、一方で、属性は実体の本質を構成するものですから、実体をその原因と見做すべきではないのではないでしょうか。
神の属性は、神から産出された結果ではなく、神そのものの本質を構成していると見るべきだと思います。

126ムラタ:2019/09/25(水) 23:40:07
>>125
スピノザがそのように考えていることは分かるのですが、無限様態が実体を原因として産出されるということの意味がよくわからないんです。
このことはとりわけ直接無限様態についてそう思います。
スピノザは思惟の属性の直接無限様態が「絶対無限知性」で、延長の属性のそれが「運動」と「静止」と言っています。(定理21の注)
これらが実体を原因として産出されるとは?
このことの意味がよく分からないという感じです。

127久保共生:2019/09/26(木) 00:03:16
>>126

延長という属性の本性から必然的に「運動」や「静止」といったことが帰結してくるということでしょう。
抽象的過ぎていまいち実感が湧かないですが、一応形式的には理解できます。

128ムラタ:2019/09/26(木) 00:49:49
>>127
フーム・・・・
ありがとうございます。
もうちょっと考えてみます。

129横山信幸:2019/09/26(木) 16:45:15
また、思い付きで書き込みます。自分の思考を深く確かめないまま言ってしまってますので、使えそうじゃなかったら、即、笑い流してください。

「自己の類において無限」というのは「無限にある属性のうちの、一つの類としての一属性の中だけでしか言えない無限」で、「絶対無限」が「実体そのものが無限であるゆえに、あらゆる属性のすべてについて言える無限」と解釈するのはどうでしょう?
つまり、「自己の類において無限」と「絶対無限」の違いは無限のサイズや濃度の違いなのじゃなくて、その適応範囲の違いと考えるわけです。
定義6を素直に読もうとすると、どうもそのように読める気がするのです。
なので、これまでの僕の採っていた、無限のサイズ的な違いとする解釈は考え直した方が良いかと知れないと思っています。

「定義6説明 私は絶対無限と言い、自己の類において無限とは言わない。なぜなら自己の類においてのみ無限なものについては、無限に多くの属性を否定できるからである。だか絶対に無限なものについては、本質を表現しいかなる否定も含まないあらゆるものがその本質に属している」

130横山信幸:2019/09/26(木) 17:17:20
そして、

でも僕には、
実体の無限と無限様態の無限のあり方については、〈実体を認識するものとして様態がある〉という、実体と様態の成り立ちを考えるとスピノザの世界においても、〈実体が実無限で様態が可能無限である〉と言えるように思えます。
スピノザが「実体から属性が生じる」と言っていることも、その成り立ちの違いと何かしらの関係がありそうなことを言っているようにも思えます。

しかし、スピノザは、
その〈「実無限」と僕が解釈しているところの「実体の無限」〉と、〈「可能無限」と僕が解釈しているところの「直接無限様態ならびに間接無限様態」〉の無限のサイズや濃度には、それぞれどれも違いがない
と考えているのだ、

という風に考えられるようにも思われています。
「同様に必然的に無限に存在せねばならない」というのは、そういうことなのじゃないか、と考えました。

131横山信幸:2019/09/26(木) 18:13:30
つまり、

実体の無限と
直接無限様態の無限と
間接無限様態の無限には、
成り立ちの違いや様々なとらえられ方の違いがあり、もしかすると、実無限や可能無限とも関連する違いがあるかもしれない。
けれども、
サイズや濃度の違いはない。

と、解釈してみました。

132久保共生:2019/09/26(木) 18:47:05
横山さん

>>129 については、僕もほぼ同じ解釈です。
しかし、>>130については、理解できません。
なぜ直接無限様態ないしは、間接無限様態は、可能無限になるのでしょう?
そもそも可能無限と決定論は両立しうるのですか?

133横山信幸:2019/09/26(木) 19:01:25
久保さんは、可能無限と決定論は両立しないと考えられるのですね。

僕はそれが両立するのに不都合があるとは思われないのですが、なぜ両立できないのですか?

134久保共生:2019/09/26(木) 19:09:28
まず、可能無限なるものがよく分かっていないのですが、少なくとも横山さんの可能無限の説明では

>たとえば、1.414…の「…」の先は、どこまでも続いているというのは同じだが、それはどこまでも計算できる可能性があるというだけで、無限の答えが初めから決定されているわけではない。

と書いています。これは決定論に反しないのですか?

135横山信幸:2019/09/26(木) 19:15:13
なぜ無限様態が可能無限だと考えるのかというと、昨日書き込んだとおり僕は、様態が必ず人間の認識に関わるものだと考えているからです。
それが人間の言語による認識に関わるものである限りにおいて、という話ですが、実体の無限の奥の奥の方は言語の揺らぎでゆらめいて見えてしまわざるを得ないという考え方をしてるからです。
「様態」というものは、そのような捉え方をするのが適当であるような気がするのです

136久保共生:2019/09/26(木) 20:13:51
>>135
「様態が必ず人間の認識に関わる」と取り立てて主張される意図がよく分かりません。
確かに様態は人間の認識に関わると思いますが、それなら実体だって当然人間の認識に関わるでしょう。
様態だけを取り上げる意味が分からないです。

>それが人間の言語による認識に関わるものである限りにおいて、という話ですが、実体の無限の奥の奥の方は言語の揺らぎでゆらめいて見えてしまわざるを得ないという考え方をしてるからです。

何故、言語の話が出てくるのですか?
いくら何でも、ウィトゲンシュタインの『論考』に解釈が引っ張られ過ぎではないですか?
上で

>ウィト「論考」の分析においては、世界の認識は必ず文によって為され、それは文によるものであるがゆえに必ず有限な範囲かあるいは可能無限の範囲までしかカバーすることができません。

と書かれていますが、『エチカ』第2部を読む限り、スピノザの考える世界認識は、『論考』における文(命題)と世界とを対応付けるような見方とは全然別物だと思います。
少なくともこの点においては、両者は全然アナロジカルではないと思います。

137久保共生:2019/09/26(木) 20:23:20
だって、スピノザは、「人間精神は、身体の観念である」というような、かなり独特な認識論を展開するんですよ。
『論考』とは全然違うじゃないですか。

138横山信幸:2019/09/26(木) 20:51:45
>>134
これはまた、僕の表現のまずさのために不要な混乱を招いてしまいました。ご迷惑をお掛けしてすみません。
可能無限が決定論と両立できないとは限らないと僕が考えている理由を説明します。またさらにまずい説明をして、いよいよぐだぐたにしてしまうかもしれませんが、そこは大目に見てください。



野矢茂樹「無限論の教室」では、
実無限を土中から化石を発掘することに例えていて、
可能無限を木材から像を切り出すことに例えていたと思います。(細かいところは違ってたかも知れません。)
ここで、掘り出し切り出す作業は、数値化などの人間による分析作業を比喩します。

つまり、
実無限では掘り出されるべき分析結果が最初から決定しているとするのに対して、
可能無限ではそこにある素材ははじめから決定しているのだけれども、そこから切り出される分析結果は人間の分析方法や分析能力に左右されるものであるから、分析される以前に決定しているものではないとします。



スピノザの世界における実体が木材であるとしてみると、それは切り出されることなどなくても世界がどんなであるかを完全に決定しているものだと言える。
でも、人間が、そこにある世界が何者かを知るためにはそれを自らの言語というナイフで切り刻み、人間が理解できるような意味を切り出す必要がある。ところが人間は己のナイフの分析可能性をはじめから無限に知っているわけではないので、実際に切り出されるまではそこに何者が切り出されるのかが決定しているわけではない。
というイメージで考えるわけです。

「実体」は、決定論的に、はじめからしっかりと固定的なものとして存在してるのだけれども、それを認識し分析するナイフとしてのアイテム「様態」の切り方は必ずしも事前に決定されてないかも知れず、分析されてみて初めてはっきりするだけである。

というように、可能無限とスピノザの世界がとてもしっくりするようにイメージできると思えました。

そんな感じで、僕はスピノザの世界を決定論として捉え、その決定論と可能無限とがとても馴染むものだと考えたのです。

139横山信幸:2019/09/26(木) 20:54:09
>>137
そうですね。「論考」に引っ張られすぎというのはそのとおりかも知れません

140横山信幸:2019/09/26(木) 21:03:20
>>136
そうですか。2部をみると、スピノザの考える人間の認識は「論考」的言語観とは無関係ですか。

これは、ずいぶんと早とちりな考えをしてしまってました。失礼しました。
その辺りの僕の主張をごっそりと忘れてください。
ちゃんと2部を読んでからまた考え直してみたいと思います。

141久保共生:2019/09/26(木) 21:23:07
>「実体」は、決定論的に、はじめからしっかりと固定的なものとして存在してるのだけれども、それを認識し分析するナイフとしてのアイテム「様態」の切り方は必ずしも事前に決定されてないかも知れず、分析されてみて初めてはっきりするだけである。

様態というのは、実体の本性の必然性から生じてくるものですよね。スピノザは、

第一部定理29 自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない、いっさいは神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている。

とまで言っているのですから、やはり様態が可能無限だというのはしっくりきません。
様態は実体から産出された結果であり、その結果は実体の本性の必然性によってあらかじめ決定されているのであれば、様態は人間の認識能力に左右されるわけではないということになるのではないでしょうか。

142横山信幸:2019/09/26(木) 22:10:17
>>141
久保さん、ありがとうございます。
なるほど、様態が可能無限ではないこと、少しわかってきたかもしれません。
しかし、もう少しこだわって可能無限的な捉え方ができないかという考えを無理して引っ張ってみます。


人間自身も世界のなかにある実体であるところの存在者なのであるから、その認識の仕方も認識の内容も最初から無限に完全に決定されている。だから人間の認識の様式としての様態も、(ある意味では人間の側の視点による「偶有性」があるとすることができたとしても、)すべてこの世界において完全に必然的なものである。
しかし、それはもしかすると「その人間の認識がその世界をどう理解するかが不完全で不十分なものでしかない」ということが、完全な必然性において決定されているものかもしれない。

そのように考えたとき、
その「様態の偶有性」というものは、
我々が神の視点にたって語ろうとするときには必然的な決定として語られ、
我々が幼子の視点にたって語ろうとするときには決定されるかどうか分からない偶然的なものとして語られるものになるでしょう。

そのように捉えるとするなら、そこで語られる「様態の偶有性」は、すでに決定されているわけですから、
もはや「可能無限」とされるべきものではないかも知れません。

しかし、僕はそこに、実無限でありながら、可能無限でもあるとするような捉え方が残されてるような気がして仕方ないのです。
木材から像を切り出す時のその切り出し方がすでにはじめっから決定されていたのだとしても、それでも、切り出す人間にとっては、切り出されない限りそこに像は隠されていず、発掘されるのではなく、切り出されて初めて発明される。



という捉え方は無理筋でしょうか。ある意味で、「様態の偶有性」を掴めてるんじゃないかって気も、まだちょっぴりとしてるのですが、ダメですかねえ。


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