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スピノザ『エチカ』読書会
94
:
横山信幸
:2019/09/23(月) 19:06:48
>>91
ムラタさんの問いに対して、まったく見当外れのことを考えているのではないかと心配しながら、書き込んでいます。
ズレたことを言ってしまっていたら、笑って読み流してください。
日本大百科全書の「様態」の説明で次のように書かれています。
「ところでこの属性(本質)と様態(偶有性)との区別はアリストテレスにまでさかのぼるが、中世、近世の哲学でもさまざまに議論されている。たとえばデカルトでは精神と物体が実体とされ、思惟(しい)と延長がおのおのの属性とみなされるとともに、情意、判断、欲求が精神の様態として、また位置、形、運動が物体の様態として考えられている。またスピノザでは神が唯一の実体であり、思惟と延長がその属性であり、それらの変容したもの、すなわち個々の人の心や個々の物体が様態とされている。さらにロックでは、様態は印象や単純観念から合成された複合観念の一種とされている」
つまり、デカルトにおいて、存在は形相的なものと数的なものが一体となったものであった。それに対して、スピノザにおいては、実在的区別は形相的であって数的区別ではないとされ、数的区別は様態的区別であって実在的区別ではないとされる。
このことは、スピノザにおいては、実体が何者であるかを示す本質の形相に関することは形相的区別のみがすべてであり、その実体がいまたまたまどんな状態であるかという様態に関することは様態的区別のみがすべてである、ということを言っていると思います。
この点こそに、デカルトモデルからスピノザモデルへの大転回があるのじゃないかと、そして、スピノザとしては力説したかった部分なのではないかと思います。
つまり、それが今、たまたま気体になっている、たまたま流体になっている、たまたま複数の物に分かれている、たまたまその状態になっている。というようなことを様態的区別として語ることができる。しかし、それをその状態にさせた原因はすべてが無限に必然な形相的本質的において神の下に決定していて、その環境にあったからそれは必然的に気体なのであり、必然的に流体だったのであり、必然的に複数の物としてあったのであり、必然的にそのような状態にあった。というようなことも、同時に形相的区別として語ることもできる。
そして、この世界モデルにおいては、その様態は、神の絶対的本性から必然的に無限なものとして確定されていなければならない。
というような話として、僕は「無限様態の定理」を解釈したのですが、どうなのでしょう。
もしかすると定理21〜23とはまったく無関係なことをまた妄想してしまったかもしれません。
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