したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

「まじめな話」の板

1トキ:2012/08/26(日) 17:28:59
 本島で真面目な話を書きたいが、IDが出るので書きにくい、という方のための板です。

 IDが出ないので、より身元の秘匿性が高まります。絶対に身元が知られたくない人には最適です。
なお、本島へ転載希望の方はその旨も書いて下さい。誰かが、本板へ転載をしてくれるかも!?

(管理人が気がついたら、転載します。)

8219蒼天の實相:2019/01/13(日) 03:23:50
〜蘇民将来〜

概要
蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來、蘓民將耒、 ? 将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない[1]。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。
説話[編集]
古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される[2])の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。
すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。[3]
蘇民将来の起源[編集]
武塔神や蘇民将来がどのような神仏を起源としたものであるかは今もって判然としていない[1]。
武塔神については、密教でいう「武答天神王」によるという説と、尚武の神という意味で「タケタフカミ(武勝神)」という説が掲げられる[4]が、ほかに朝鮮系の神とする説もあり、川村湊は『牛頭天王と蘇民将来伝説』のなかで武塔神と妻女頗梨采女(はりさいじょ)の関係と朝鮮土俗宗教である巫堂(ムーダン)とバリ公主神話の関係について関連があるではないかとの説を述べている[5]。
蘇民将来についても、何に由来した神かは不明であるものの、災厄避けの神としての信仰は平安時代にまでさかのぼり、各地でスサノオとのつながりで伝承され、信仰対象となってきた[1]。
祭祀[編集]
蘇民将来の逸話を基に岩手県内を始め各地には蘇民祭が伝わっており、とくに奥州市水沢区の天台宗妙見山黒石寺の黒石寺蘇民祭をはじめとする岩手県内の蘇民祭は選択無形民俗文化財に選択されている。また、京都の八坂神社や伊勢・志摩地方の年中行事では、厄除け祈願として、茅の輪くぐりや「蘇民将来」と記された護符の頒布、注連飾りなどの祭祀が盛んに行われている。
京都祇園社の祇園祭は、元来は御霊を鎮めるためにおこなわれたのが最初であったが、平安時代末期には疫神を鎮め、退散させるために花笠や山車を出して市中を練り歩く「やすらい(夜須礼)」の祭祀となった。山車につけられた山鉾は空中の疫鬼を追いこむための呪具、花笠は追い立てられた厄鬼を集めてマツの呪力で封じ込めるための呪具であり、また、祭りの際の踊りは、本来、地に這う悪霊を踏み鎮める呪法であった[1]。悪霊や疫鬼は、これらによって追い立てられて八坂神社に集められるが、そこには蘇民将来がおり、また、疫鬼の総元締めであるスサノオが鎮座して、その強い霊威によって悪霊や疫鬼の鎮圧・退散が祈願されたのである[1]。

8220蒼天の實相:2019/01/13(日) 03:24:53
>>8219
〜蘇民将来(つづき)〜

護符[編集]
蘇民将来の護符は、避疫の利益があるとされ、スサノオ(牛頭天王)と縁の深い寺社で頒布されている[6]。護符は、紙札、木札、茅の輪、ちまき、角柱など、さまざまな形状・材質のものがある。また、単に「蘇民将来」といえば護符そのものを指すこともある。護符には「蘇民将来子孫也」「蘇民将来子孫之門」といった文言や晴明紋が記されていることが多く、家内安全や無病息災のお守りとして門口に吊されたり、鴨居に飾られるなどする。八坂神社や信濃国分寺八日堂で頒布されるものが特に有名である。また、金神や歳徳神同様、蘇民将来も方位神として陰陽道に取り込まれ天徳神という名で呼ばれている。
八坂神社(京都市)
祇園祭の行われる7月には社頭や各山鉾にて「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(ちまき)」が授与される。7月31日には摂社「疫神社」において「夏越祭」が行われ「茅之輪守」が授与される。他につり下げ型の八角木守もある。
信濃国分寺八日堂(長野県上田市)
六角柱のこけし型をなす。上田市指定有形民俗文化財に指定されているほか、毎年1月7日から8日にかけての八日堂縁日での頒布習俗が「上田市八日堂の蘇民将来符頒布習俗」として国の選択無形民俗文化財に選択されている。
陸奥国分寺薬師堂(仙台市若林区)
八角柱で房のついたつり下げ型をなす。
岩木山神社(青森県弘前市)
紙製のお札で呪文と晴明紋が記されている。
黒石寺(岩手県奥州市水沢区〈旧水沢市〉)
当寺は黒石寺蘇民祭で有名。六角柱のつり下げ型をなす。
笹野観音(山形県米沢市)
八角柱の形状。紙製で梵字や五芒星を記したものもある。
円福寺(千葉県銚子市)
木製板状で梵字と呪文が記されている。
竹寺(埼玉県飯能市)
六角柱のこけし型。
妙楽寺(長野県佐久市)
木製板状で梵字と呪文・晴明紋が記されている。
津島神社(愛知県津島市)
六角柱のこけし型。
松下社(三重県伊勢市二見町)
注連飾り形状をしており、木札に「蘇民将来子孫家門」などと記す。伊勢志摩地方でよく見られる形式。[7]
祇園神社(神戸市兵庫区)
六角柱のこけし型。紙の一端をこより状にしたものもある。
脚注[編集]
注釈[編集]
素盞嗚神社境内に末社として疫隈国社も鎮座する。
蘇民将来符は、旧暦・新暦の正月といった特定時期に、氏子・檀家といった特定の者のみに頒布されるものも多く、下記寺社に行けばいつでも誰もが入手できるとは限らない。

8221蒼天の實相:2019/01/13(日) 05:41:07
〜現代韓国で、行われた、風俗=人尿洗顔を、していると、報告はあります。

こちら、古代の勿吉族(もきつぞく)=女真族の仲間だと、思われます。
===========

3.習俗
3.2.人尿洗顔
?婁人と同様、最大の特徴である「人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。

8222トンチンカン信徒:2019/01/14(月) 19:22:32
〜クレスタマキについて〜

半値=クレスタマキは、漢字表記すると

半値=暮巣太魔樹
→(意味)暮た巣の有る太い魔樹。→別名・閑古鳥の巣の太い魔樹→閑古鳥→魔樹鳥→フクロウ魔鳥魔女の使い→魔女リリスの鈴の音→死の音→死音→志恩ですね。

8223シャンソン:2019/01/17(木) 22:43:09
  トンチンカン信徒さんへ。

▲7▼ 「活動」板 (Res:277)
All First100 Last50 SubjectList ReLoad ▲7▼
1 :トキ ◆UMw6UoGELo :2016/08/05(金) 10:10:41 ID:sZyWOnNM
 谷口雅春先生の教えを伝えたい、そのための活動をしたい、という点だけに
論点を絞り、そのトピックだけを書く板です。<

  読解力がなく、横やりを入れたり、誤読曲解したり
 人を深く傷つけるのが使命みたいなトキ管理人の
 活動版や輪読会版などにもなにか書いてあげてください。
 新掲示板を作成しても、
 口先だけの人間の雑談広場みたいになっていて
 気の毒です。

8224転載:2019/01/17(木) 22:56:33

今やネットというものは、知識がなくても使うことが可能となりました。
その結果まったく勉強をしないまま使ってしまったりとする人も多くなりました。
それによる弊害はかなりのものになります。

まず第一に『話が自分中心』という点が挙げられます。
ただ自分中心だったら良いのですが、何を話してもすべて自分中心に物事を考えるような人はすぐに嫌われます。
ネットという世界はリアルとは違い、相手の顔や性格が文字でしか判断することができません。

よく言われるリアルは『コミュニケーション障害=コミュ障』の人たちはネットに来ると嫌われる存在になることが多いです。
リアルではあまり話さないことが多い!でもネットだと話せる!といった人達です。
相手の顔を見れないわけですから、心情を読み取ることは大変厳しいものですからね。

8225蒼天の實相:2019/01/25(金) 09:24:32

概要
禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)夜に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件。吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れたものである。
「禁闕」とは、皇居(京都御所)の内裏の意味。嘉吉の変とも呼ばれるが、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍足利義教の暗殺事件(嘉吉の乱)と混同されることから、「禁闕の変」の名称が用いられる。


1.経過
建武3年/延元元年(1336年)に後醍醐天皇により開かれた南朝(大覚寺統)は、3代将軍足利義満時代の明徳3年/元中9年(1392年)に明徳の和約が行われて名目上は解消された。しかし、その後も南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて登場し、反幕府勢力とも関係して活動を続ける。一方で、かつての北朝(持明院統)側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。
幕府では嘉吉の乱による混乱もあり、嘉吉3年(1443年)7月に7代将軍足利義勝が死去し、弟の足利義政が8代将軍となった。しかし、その就任までは間があり、事件はその最中の9月23日夜に起きた[1][2]。首謀者は南朝の後亀山天皇あるいはその弟惟成親王の孫とされる通蔵主 ・金蔵主の兄弟、鎌倉時代の後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀(鳥羽尊秀とも、尊秀王か?)、日野家嫡流の日野有光とその息子日野資親ら、実行部隊は楠木正秀に率いられた楠木氏・和田氏らであった[3]。
一味は数百人で内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣の近衛房嗣の邸に避難した。幕兵との戦闘も行われている。一味は三種の神器の剣と神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もった[2]。同24日に朝廷から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、管領畠山持国が派遣した幕府軍や協力を拒んだ山徒によって、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[2]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた。
幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた五十余人を処刑した[2]。通蔵主は四国へ流罪の途中、道中の摂津太田で殺害された。そして、10月2日には勧修門跡の門主である教尊(小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したとして逮捕され、隠岐島へと追放された[2]。
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]。
奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]。

8226蒼天の實相:2019/01/25(金) 09:26:41
南朝系日野氏

概要
日野 有光(ひの ありみつ)は、室町時代前期の公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野資教の子。官位は従一位・権大納言。
経歴[編集]
足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘は称光天皇の妃となった。応永24年(1417年)に院執権となり、応永28年(1421年)権大納言となるが、応永32年(1425年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。しかし、応永34年(1427年)に足利義持と日野家の確執が原因で室町殿より追放[1]され、続いて称光天皇が男子を残さずに没して皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。
嘉吉3年(1443年)の嘉吉の乱の後、京都の動揺に乗じ、その後の尊秀王による京都侵入事件(禁闕の変)が起こると神璽と宝剣の神器を奪い比叡山に籠った。しかし畠山持国らに攻められ、討ち死にした。子・資親は斬罪にされた。

8227トンチンカン信徒:2019/01/25(金) 10:18:25
後南朝の唱えた?『吉野朝廷復活論』?

あれ?最近、西日本で聞く、『天皇国・日本』プラカードして、『明治憲法復活』?雅春先生に過去着けてね(笑)?これて?後南朝のしてる事と良く似てません?

8228トンチンカン信徒:2019/01/25(金) 10:27:50
日野ボンさん、北朝日野氏なのは、失礼いたしました。

こちらが、南朝系日野有光公の三種神器盗んだ事件です
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
南朝系日野氏

概要
日野 有光(ひの ありみつ)は、室町時代前期の公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野資教の子。官位は従一位・権大納言。
経歴[編集]
足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘は称光天皇の妃となった。応永24年(1417年)に院執権となり、応永28年(1421年)権大納言となるが、応永32年(1425年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。しかし、応永34年(1427年)に足利義持と日野家の確執が原因で室町殿より追放[1]され、続いて称光天皇が男子を残さずに没して皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。
嘉吉3年(1443年)の嘉吉の乱の後、京都の動揺に乗じ、その後の尊秀王による京都侵入事件(禁闕の変)が起こると神璽と宝剣の神器を奪い比叡山に籠った。しかし畠山持国らに攻められ、討ち死にした。子・資親は斬罪にされた。


概要
禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)夜に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件。吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れたものである。
「禁闕」とは、皇居(京都御所)の内裏の意味。嘉吉の変とも呼ばれるが、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍足利義教の暗殺事件(嘉吉の乱)と混同されることから、「禁闕の変」の名称が用いられる。


1.経過
建武3年/延元元年(1336年)に後醍醐天皇により開かれた南朝(大覚寺統)は、3代将軍足利義満時代の明徳3年/元中9年(1392年)に明徳の和約が行われて名目上は解消された。しかし、その後も南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて登場し、反幕府勢力とも関係して活動を続ける。一方で、かつての北朝(持明院統)側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。
幕府では嘉吉の乱による混乱もあり、嘉吉3年(1443年)7月に7代将軍足利義勝が死去し、弟の足利義政が8代将軍となった。しかし、その就任までは間があり、事件はその最中の9月23日夜に起きた[1][2]。首謀者は南朝の後亀山天皇あるいはその弟惟成親王の孫とされる通蔵主 ・金蔵主の兄弟、鎌倉時代の後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀(鳥羽尊秀とも、尊秀王か?)、日野家嫡流の日野有光とその息子日野資親ら、実行部隊は楠木正秀に率いられた楠木氏・和田氏らであった[3]。
一味は数百人で内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣の近衛房嗣の邸に避難した。幕兵との戦闘も行われている。一味は三種の神器の剣と神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もった[2]。同24日に朝廷から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、管領畠山持国が派遣した幕府軍や協力を拒んだ山徒によって、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[2]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた。
幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた五十余人を処刑した[2]。通蔵主は四国へ流罪の途中、道中の摂津太田で殺害された。そして、10月2日には勧修門跡の門主である教尊(小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したとして逮捕され、隠岐島へと追放された[2]。
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]。
奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
現実の天皇陛下は、北朝(関東)天皇陛下と最近のご著書にありますよ。日野ボンさん、そのような、主張されてると、後南朝日野氏と思われますよ。

8229シオン観測隊:2019/01/25(金) 15:26:32
後南朝復活を夢見る、吉野朝廷復活こそが、『明治憲法復活』の唱える、言動の、『言霊』の根源であります。


この、霊的根源が、理解できないと、真に神義を、誤認しますね。(笑)

8230トンチンカン信徒:2019/01/25(金) 15:27:12
後南朝復活を夢見る、吉野朝廷復活こそが、『明治憲法復活』の唱える、言動の、『言霊』の根源であります。


この、霊的根源が、理解できないと、真に神義を、誤認しますね。(笑)

8231トンチンカン信徒:2019/01/25(金) 15:49:21
>>8225
北朝正統天皇家だけ、征夷大将軍と幕府政治(関東政治)を室町時代から、承認されていたわけである。

1.歴史
1.4.建武政権・室町時代の将軍
建武新政で天皇公家の親政と国衙復活を目指して朝廷の独裁政治となり、恩賞や領地を巡り武家との対立が勃発した。足利尊氏の叛旗で建武政権は瓦解し、尊氏は北朝を奉じて征夷大将軍に就任し京都に室町幕府を開くが、有力守護の細川氏・斯波氏・畠山氏などとの連立政権となり、公武政権の特色が増した。だが、室町幕府3代将軍足利義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、征夷大将軍は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿や大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。足利義満の王権簒奪で朝廷は統治権を失い、政治権力は史上最も低下した。将軍職は嫡男の義持へ譲ったが権力は治天の位置を占めた義満に集中したままだった。応永15年(1408年)5月、義満の急死後に将軍の権限が急速に回復し細川管領と斯波義将ら宿老との連携の中、将軍権力と幕府機能が復活し義満の政庁北山第も現・金閣を残し取り壊した[20]。以降に天皇と朝廷は揺り戻しや戦国大名の貴族化と猟官への接近による権威再建はあったが、統治権のない権威としての政府となり、幕府こそが日本全土を実質統治する政府となった[21]。足利義教の代には頻繁に守護大名家の相続に介入して独裁的な権力を行使したが、その暗殺と守護大名主導の叛乱鎮圧により再び将軍権力は低下した。足利義政の代には、守護大名間の武力抗争に対し、朝廷のように半ば超然と振舞う存在となった。その子の足利義尚は実権回復を図り六角氏討伐軍を自ら率いたが、中途で病死し果たせなかった。
南北朝時代には、南朝の北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍と名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。

8232トンチンカン信徒:2019/01/25(金) 21:36:16
>>8228
SUB
歴史の因果が、現代に甦る
MES
歴史の因果が、現代に、甦ったのが、極端な菜食主義だと思われますね。

無意識相のなせる業でしょ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]。
奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]。
投稿日時
2019年01月25日 (金) 21時35分

8233蒼天の實相:2019/01/26(土) 04:24:16
〜南朝正統説の②〜

>太平洋戦争後には西陣南帝の子孫を称する「熊沢天皇」こと熊沢寛道など、自らを正統な天皇の継承者と称する自称天皇たちが現れたとき、その多くは1911年(明治44年)に明治天皇の裁断によって南朝が正統とされたことを受けて、後南朝の子孫と主張していた。<


※こうした、観点より、現在、公開てきに、『天皇国日本』と騒いでる、人々の、『内面的主張は、正統血統南朝天皇復活』なのであって、現在の東京の皇居にお住まいの、北朝正統先生(関東)天皇陛下のことでは、ありません。

8234蒼天の實相:2019/01/27(日) 00:36:14
〜両統迭立、①〜


両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。
日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。

8235蒼天の實相:2019/01/27(日) 00:37:59
>>8234
〜両統迭立、②〜


1.日本
1.1.鎌倉時代
鎌倉時代の両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで行われた。
端緒[編集]

仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨は、寛元4年(1246年)に皇太子久仁親王(後深草天皇、4歳)に譲位して院政を開始したあと、後深草に皇子が生まれるのを待たず、正嘉2年(1258年)に後深草(16歳)の同母弟恒仁親王(亀山天皇、10歳)を皇太子とし、さらに翌正元元年(1259年)には後深草から恒仁に譲位させた。後深草にはその後皇子が生まれたが、文永5年(1268年)、後嵯峨は、後深草の嫡男(第2皇子)煕仁親王(4歳)をさしおいて亀山の嫡男(第2皇子)世仁親王(2歳)を皇太子とした。
この一連の措置から、後嵯峨が亀山を自らの後継者としその子孫に皇統を伝える意図を持っていたことは容易に推測できるが、後嵯峨はその意図を明確にせずに文永9年(1272年)に死去した(53歳)。遺言状も財産の分与をこまごまと定めるのみで後継者を指名する文言はなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。後深草と亀山はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨の正妻であり後深草と亀山の生母でもある大宮院に故人の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山を治天に指名した。後嵯峨がこのような曖昧な態度をとったのは、自身が幕府の介入によって傍系から予想外の即位をした経験を踏まえ、後継者を指名しても幕府の意にかなわなければ簡単に覆されてしまうことをよく知っていたためであろう。亀山はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)には皇太子世仁(8歳、後宇多天皇)に譲位した。
一方、治天の地位を逃した後深草は不満を募らせ、後宇多が即位すると抗議のため上皇の待遇を辞退して出家しようとした。後嵯峨は、膨大な王家領荘園群のうち、全国100ヶ所以上の荘園から構成される大荘園群長講堂領を後深草が相続できるようとりはからっていたが、皇室伝来の坂上田村麻呂の御佩刀(坂上宝剣[1])が後嵯峨の意向により亀山に伝えられ、大宮院も関与していたことに後深草の不満は収まらなかったのである[1]。のちに長講堂領は持明院統の重要な財政基盤となる。亀山も対抗措置としてやはり200ヶ所にのぼる大荘園群八条院領をのちに手に入れ、こちらは大覚寺統の主要な財政基盤となった。2つの皇統は、こののち、治天・天皇・皇太子の地位だけでなく、女院などの皇族たちが分散して管理する王家領荘園群の熾烈な争奪戦も演じることになり、王家は政治的にだけではなく経済的にも分裂状況に陥ることになる。後深草の不満を受けて、承久の乱以来の慣行に従って幕府が皇位継承に介入し、建治元年(1275年)に煕仁(11歳)を皇太子に指名、将来、後深草が治天となることを保証した。この介入は、執権北条時宗が後深草の立場に同情したためという説明が当時からなされている(「増鏡」)ほか、得宗と治天の交渉を仲介する立場にある関東申次西園寺実兼が亀山父子よりも後深草父子と親しかったため、後深草にとって有利な解決をはかったことも指摘されている。この時点ですでに幕府は摂関家が分裂したのと同様に王家をも分裂させる意図を持っていたとも言われる(本郷和人)が、史料がなく真相は不明である。鎌倉時代には、公家社会一般で分家を次々に創出させる傾向が見られたことにも留意する必要がある。いずれにしても、建治元年の幕府の介入によって、後深草と亀山の両者が等しく皇位を子孫に伝え自らは治天となる資格を有することが確定し、これが以後200年に及ぶ王家分裂の端緒となった。
定着[編集]

8236蒼天の實相:2019/01/27(日) 00:40:55
>>8235
〜両統迭立、③〜


両統迭立が鎌倉幕府(最高権力者は得宗北条貞時)の公式な方針として表明されたのは、この交替のときが最初である。以後滅亡まで幕府はこの方針を堅持した。王家の分裂を固定化する意図によるものとする説と、皇位継承を王家の自律に任せ直接的な関与を避ける意図によるものとする説とが対立している。両統迭立の定着にともない、一方の皇統に専属的に仕える貴族が出現しはじめ、また治天の側も貴族たちにそれを求めた。王家の分裂が公家社会全体の分裂へと発展してゆくことになった一方、貴族たちの治天への従属は深まった。また、政務の交替とともに朝廷の高官・要職が一斉に入れ換えられ、一方の皇統の治天が下した訴訟の判決が他方の皇統の治天によって安易に覆されるなどの混乱も生じ、朝廷そのものの権威はかえって地盤沈下してゆくことになった。更にこの混乱は幕府へも思わぬ影響を及ぼした。治天が下した判決を執行するための警察力・軍事力を欠いていた朝廷では、六波羅探題にその執行を命じる勅命(違勅綸旨・違勅院宣)を送ってその検断権に基づく執行を命じたからである。この結果、敗訴した側は朝廷に逆らう「悪党」として討伐の対象となり、一方的に「悪党」と認定された側も激しく抵抗した。ところが、治天の交替によって判決がひっくり返されると、今度は対立していた側が同様の目に遭わされた。このため、訴訟当事者たちの朝廷に対する怒りが六波羅探題とその後ろにいる幕府にも向けられた。しかも、訴訟当事者の中に御家人がいた場合でも六波羅探題や幕府は勅命や院宣に逆らってまで彼らを保護することが出来なかった。このため、悪党の活発化や御家人の幕府への不信を招く結果となり、幕府の権威もまた傷つく結果となったのである。
両統迭立の方針に基づき、次の皇太子は持明院統から出すこととされた。13歳の後伏見にはまだ皇子がなく、伏見の第4皇子富仁親王(5歳)が皇太子となった。2つに分裂した王家がさらに分裂する可能性が生じ、伏見は持明院統の分裂を防止するため富仁を後伏見の猶子とする措置をとっている。大覚寺統では、すでに後二条には正安2年(1300年)に第1皇子邦良親王が生まれて将来の皇位継承が予定されていたにもかかわらず、亀山が乾元2年(1303年)に生まれた自分の皇子恒明親王を偏愛するあまり、邦良に代えて恒明を皇位につけることを後宇多と伏見に約束させて、さらなる皇統分裂の種を蒔いた。
嘉元2年(1304年)に後深草が62歳で死去、翌嘉元3年(1305年)には亀山が57歳で死去し、両統迭立は第2世代の時代に入った。それに先立つ正安4年(1302年)、伏見は2年前に死去した室町院より相続した持明院を新たな御所とした。一方、後宇多は徳治3年(1308年)になって大覚寺を再興して自らの御所とした。近藤成一の研究によれば、後深草・亀山両院の存命中はそれぞれ冷泉富小路殿と冷泉万里小路殿を拠点としており、「持明院統」「大覚寺統」の名称の由来となった持明院と大覚寺は自己の系統を新たな皇統として位置づけることに成功した伏見と後宇多という第2世代を象徴する殿舎であったと指摘している。
両統迭立の影響は芸能面にも見られる

8237蒼天の實相:2019/01/27(日) 01:05:50

※後醍醐天皇陛下が、史実的には、『治天』を乗った経緯も、史実には、解釈できる。

南朝方、北朝方の歴史は関西近畿地方の歴史でもある。

良く、検分する事が、必要である。

尚、天皇国日本、唱える連中の大半は、関西人である事注目すべきである。もっと現代日本人は客的に、検分する目なくては、ならない。

8238蒼天の實相:2019/01/27(日) 02:14:39
〜シャクシャイン〜
(アイヌ民族)

1.経歴
シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの首長であった。メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。メナシクルの先代の首長であるカモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、副首長であったシャクシャインが首長となった。
シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現・新ひだか町静内地区)。オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661〜1673年)に対立が再燃し1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、使者は松前に毒殺されたという風説が広り、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。
シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌへ松前藩への戦いを呼びかけた。1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。松前藩から急報を受けた徳川幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。
クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続くが、シャクシャイン勢が和人側の妨害により渡島半島のアイヌと連携できなかったのに対し、松前軍は幕府や東北諸藩の支援を受け、鉄砲を多数装備していた。これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされた。シャクシャインは10月23日(11月16日)に現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で謀殺され、指導者を失った蜂起者たちは松前軍に降伏した。


▼人気記事ランキング
2.記念物
2.1.シャクシャイン像
1970年9月15日、シャクシャインのチャシが遺跡として残る新ひだか町・真歌公園に、任意団体「シャクシャイン顕彰会」によって強化プラスチック製の立像が有志の寄付により建立され、1976年に静内町に寄贈された[2][3]。このシャクシャイン像は和人の彫刻家竹中敏洋がデザインしたもので[4]、像は高さ3.5m、杖の先までの長さは4.2m[2]。「風をはらんだカッコロ(マント)を背に、エクンネクワ(山杖)を右手にかざし、神の祈りを聞くシャクシャインの姿」を表現したもので、一部に言われている松前藩の方向へ怒りを表した姿ではないことが、1972年9月30日に発行された児童書「明日に向かって アイヌの人びとは訴える」によって記されている[5]。毎年9月には、新ひだかアイヌ協会が像の前で全道からアイヌを集めた法要祭を行っている[3]。
1972年9月20日、結城庄司ら5人がシャクシャイン像の台座に刻まれていた町村金五知事(当時)の名を削り取る事件があった。犯行に新左翼の太田竜が加わっていたことから、警察は札幌オリンピックを控えた時期を狙った過激派による事件とし、全国指名手配の末1974年に結城らを逮捕した。しかしこの事件で有罪となったのは太田のみで、結城や足立正生・新谷行など他の4人は起訴猶予となった。
2015年、新ひだかアイヌ協会が老朽化を理由に協会をNPO法人化し寄付を募る形で像の建て替えを決定した[2]。しかし、政府のアイヌ新法検討を踏まえた穏やかな表情のデザインによる新像の発注を行ったアイヌ協会と、すでに定着している従来の像の存置を主張するシャクシャイン顕彰会との間で意見が二分し、新ひだか町は新像完成後に旧像撤去を行う方針だったものの顕彰会の申し出を受けて保留し、町・アイヌ協会・顕彰会による3者会談を行った[3]。しかし話し合いは平行線をたどり、いったんは旧像を残したまま新像も立てることになったが[6]、結局9月20日に新ひだか町は「老朽化が進み、倒壊の恐れがあり危険」として旧像を撤去した[7]。新像は手のひらを上にしてオンカミ(拝礼)をする姿をかたどった高さ約4mのブロンズ製で、9月23日の法要祭で披露された[8][9][10]。その後10月にはシャクシャイン顕彰会が町による旧像の撤去を「対応が乱暴で納得いかない」として、旧像の型枠を用いた独自の再建計画が判明している[11]。


2.記念物
2.2.シャクシャイン古戦場跡碑
2016年10月28日、長万部町は国縫川ほとりの旧国縫小敷地に「シャクシャイン古戦場跡碑」を設置して除幕式が行われた[1]。この碑は台座からの高さ2m、幅3m、奥行き1mの大きさで御影石製である[1]。

8239蒼天の實相:2019/01/27(日) 03:26:39
〜坂上宝剣〜
概要
坂上宝剣(さかのうえのたからのつるぎ)は、日本の天皇に相伝される朝廷守護の宝剣(現在は所在不明)。坂上宝剣の呼び名で知られるが、正しい銘文は「坂家宝剣」である[1]。文献によっては田村将軍の剣[2]、敦実親王の剣[3][4]などとも記されている。
醍醐天皇が外に持ち出したとき、石突が抜け落ちて紛失したが、それを犬がくわえて持ってきたという故事がある。また雷鳴により自然に鞘から抜けると伝わる。


1.概要
坂上宝剣は天皇に相伝される護り刀で、朝廷の守護刀として坂上田村麻呂より伝わった御佩剣という[2]。
西園寺公衡が『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』に乾元二年五月九日付(西暦1303年)で記述したこの刀剣の説明およびその裏書によれば、田村将軍剣は刀身の一方に「上上上 不得他家是以為誓謹思」、もう一方に「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていたという[5]。刀身は「鯰尾の剣で、鮫柄・銀の鐔・平鞘・白銀の責・石付、黒地に胡人狩猟図を金に蒔く」とあり「頗古物宝物歟」とされる[6]。


2.関連する出来事
2.1.平安時代
征夷大将軍坂上田村麻呂の死後、その死を惜しんだ嵯峨天皇により田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び、その刀を御府に納めたとされる[7]。
『富家語』では、関白藤原忠実の談話として連続する二条に見られる。前条で忠実は「藤原師実の御車に乗ったとき、乗り方が悪く御剣を敷いて折ってしまったため、もっての外に貧窮がたなと仰せられた。この貧窮刀は今も手元にある」[8]と語っている。続いて「式部卿敦実親王の剣を持っていたが、白河上皇からお召しがあって献上した。今は鳥羽の宝蔵に伝来しているだろう。この剣は醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突がなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突をくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、自分が知る限りは未だ無かった。師実は抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた」と続く[9][8]。忠実の談話は貧窮刀と坂上宝剣という2つの剣に関わる話題として対照的だが、どちらも失錯にまつわる説話である。また、いずれも師実が伝来に関わっており、忠実のもとに剣が至ることが共通している。
『古事談』では、『富家語』の記述を受けながらも微調整や再構成を行って、異なるテーマとして説話を描き出している。「醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので殊に興じて歓喜した。敦実親王は自ら肌身離さず持っていた。雷が鳴るときは自然に脱ぐという霊威を示したという。霊剣の評判を聞きつけた白河上皇は藤原師実から召し上げたが、その後に自ら脱ぐことはなかった。藤原忠実が若いころに不審に思ってある者に抜かせてみたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣という銘があった」[3][11]。『古事談』では時系列が整えられて敦実親王を中心人物とし、『富家語』にはない文言を追加することで談話をひとつの物語へと改編している[10]。
『古今著聞集』になると「この剣は醍醐天皇が野行幸の時に腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、今の世には知らず。師実は畏れて抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた。藤原忠実に伝えられたが、白河上皇により召されたという。式部卿敦実親王の剣という」[4]。と『古事談』で追加された文言は削られて『富家語』に近い説話となっている[11]。

8240蒼天の實相:2019/01/27(日) 03:32:11
〜坂上宝剣、②〜

2.関連する出来事
2.2.鎌倉時代
鎌倉時代に後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統との間で皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあった。
『増鏡』「みなれ川」では、1272年(文永9年)に死去した後嵯峨は、次代の治天は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけを示された。後深草と亀山はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨の正妻であり後深草と亀山の生母でもある大宮院に故人の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山を治天に指名した。後嵯峨は長講堂領と呼ばれる荘園や播磨国、熱田神宮などを後深草が相続できるようとりはからっていたが、皇室伝来の将軍坂上田村麻呂の御佩刀[14]が後嵯峨の意向により崩御の後、直ちに内裏へと奉られたことで亀山に伝えられ、大宮院も関与していたことに後深草の不満は「女院のうらめしき御事」と収まらなかった。この一件は幕府にも不満を伝え、後に幕府の介入を招くことになる[12]。
坂上宝剣はその後、両統迭立の正式な始まりとされる後二条天皇の時に、亀山から恒明親王へと与えられた[12]。


3.関連する刀剣
国文学者の荒木浩は関連する刀剣として壺切御剣を挙げている。壺切御剣は坂上宝剣と同じく、後深草を超えて亀山へと伝授されたことで、どちらもレガリア的役割を深く担った。両刀剣が決定的に異なっているのは、後三条天皇の頃に消失した壺切御剣は実検と復元、新造と発見という真偽を超えた対応で処遇され、象徴としてのモノとしてすでに儀礼化の中に位置していた。それに対して坂上宝剣は『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』乾元二年五月九日と裏書に、刀身に彫られた文字まで克明に記録されたように、実物として存在する歴史的実在性が権威化の象徴であった[13]。


4.俗説
4.1.牧秀彦説
時代小説作家の牧秀彦は、坂上田村麻呂が征夷副使となった第二次征伐の際に佩用した太刀が坂上宝剣であるとしている。最初は標剣(そはやのつるぎ)とも呼ばれ、811年(弘仁2年)に没した田村麻呂の遺愛刀の標剣が皇室の御剣に加えられたのち、歴代天皇や親王の側に置かれて、現在は鞍馬寺に所蔵されていると著書で述べている[14]。しかし牧秀彦説は引用された史料が挙げられておらず疑問点も多い。
標剣とは蝦夷征討において天皇から征夷大将軍に賜与される節刀の事を指し[18]、『日本紀略』によると第二次征伐では794年(延暦13年)1月1日に大伴弟麻呂が節刀を賜与されているものの、征夷副使である田村麻呂が賜与された事実は無いことから、田村麻呂が第二次征伐で標剣を佩用していたとは考えられない。田村麻呂は第三次征伐で征夷大将軍となった801年(延暦20年)2月14日に節刀を賜与されているが、同年10月28日に帰京して天皇に節刀を返還しており、また征夷大将軍に還任した804年(延暦23年)では翌年に徳政相論が起こって桓武天皇が蝦夷征討を中止しているため出征はなく、節刀を賜与されることもなかった事から、生涯に渡って標剣を持ち続けていた事実は確認できない。標剣をそはやのつるぎともしているが、標剣とそはやのつるぎを結びつける一次史料が挙げられていないため、標剣をそはやのつるぎとしている点にも疑問が残る。
同様に、鞍馬寺が所蔵する黒漆剣についても田村麻呂が戦勝祈願に訪れ無事に凱旋した時に奉納した大刀とのみ口伝で寺に伝わるため[15]、鞍馬寺の大刀が坂上宝剣であるとする牧秀彦説は信憑性に欠ける。坂上宝剣には刀身の両面にそれぞれ「上上上 不得他家是以為誓謹思」「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていた事が記録に残るが、黒漆剣には坂上宝剣を示す金象嵌はない。
このように牧秀彦説には多数の疑問点がみられることから俗説と考えられ、近年では坂上宝剣と標剣、そはやのつるぎ(騒速)、黒漆剣の4振りの刀剣はそれぞれ同一ではない、または同一であるか定かではないと説明されるのが一般的となっている[16][17]。

8241蒼天の實相:2019/01/27(日) 03:36:20
〜壷切御剣〜

壺切御剣
▼人気記事ランキング
▼目次
概要
壺切御剣(つぼきりのみつるぎ/つぼきりのぎょけん)は、日本の皇太子(東宮)に相伝される太刀。皇室経済法第7条に規定する皇位とともに伝わるべき由緒ある物(いわゆる御由緒物)であり、三種の神器や宮中三殿とともにいわゆる御由緒物の中でも別格の扱いを受けている[1]。「壺切の御剣」「壺切太刀(つぼきりのたち)」とも。
現在は、皇太子徳仁親王に継承されている。



1.概要
壺切御剣は皇太子に相伝される護り刀で、代々の立太子の際に天皇から授けられてきたものである[2]。その始原は、寛平5年(893年)の敦仁親王(醍醐天皇)の立太子に際し、親王が宇多天皇から剣を賜ったことまで遡る(『西宮記』)[3]。それは元々藤原氏の剣であったと見られ[4]、藤原氏出身の皇太子の地位安定化のために、皇位を象徴する草薙剣を模倣し創設されたと推測される[3]。
御剣は、天皇から皇太子に代々授けられたが、敦明親王(小一条院)の継承に際しては藤原道長が妨げたことが知られる[3]。その後、初代の御剣は平安時代後半の内裏の火災で焼失し、別の剣が充てられた(2代目)[5]。これも承久の乱(1221年)に際し所在を失ったため、寛元元年(1243年)の久仁親王(後深草天皇)立太子に際して3代目が新鋳された[3]。しかし、正嘉2年(1258年)の恒仁親王(亀山天皇)立太子に際して勝光明院の宝蔵から2代目が見つかったため、3代目は廃され2代目が壺切御剣とされた[3]。
以後現在まで継承され、近年においても平成3年(1991年)2月23日の皇太子徳仁親王の立太子に際して御剣の親授がなされている[6]。
日本国憲法施行後における法体制では、皇室経済法第7条に規定する皇位とともに伝わるべき由緒ある物(いわゆる御由緒物)とされており、これにより相続税法第12条第1項第1号の非課税財産とされている[1]。また、御剣は、昭和天皇崩御の際に昭和天皇から明仁へ皇位とともに相続されていることから、民法上の所有者は皇位を持つ今上天皇であり、使用貸借契約に基づき皇太子が占有している状態である[1]。立太子の礼の際の授受は、民法上現物の授受であり、このときに契約の成立要件が満たされる形である。

8242蒼天の實相:2019/01/27(日) 04:54:35
〜壷切御剣、例外〜

2.関連する出来事
2.1.敦明親王の皇位辞退
長和3年(1014年)頃から三条天皇は眼病を患い政務に携わることが不可能となったため、当時内覧であった左大臣藤原道長は、天皇に敦成親王への譲位を求めるようになった。天皇はかたくなに拒んだが、この間に内裏の火災が相次いだため[7]、道長はこれを天皇の不徳であるとした。一ヶ月ほどの交渉の間に道長が折れ、次の東宮には三条天皇の第一皇子の敦明親王が立てられることとなった。
長和5年(1016年)1月29日、三条天皇は譲位し敦成親王が践祚(2月7日に即位:後一条天皇)。三条上皇は翌寛仁元年(1017年)5月9日崩御した。その直後の8月4日に、敦明親王は道長に対し会談を求めた。8月6日に道長が東宮御所に赴くと、親王は東宮の地位を辞退する旨を打ち明けた。
道長は翻意するよう(形式的に)説得するが敦明親王の意思は固く、結果として後一条天皇の弟である敦良親王(のちの後朱雀天皇)が新たに東宮として立てられることとなった。道長が敦明親王を東宮として認めなかった、あるいは認めたくなかったという実証として、壺切の存在が挙げられる。8月23日の敦良親王立太子式から2週間後、内裏から壺切が授けられたが、敦明親王立太子の際にはこれを授けることを拒み、ついに敦明親王は立太子から辞退までの1年半、壺切を受けることがなかったのである。敦明親王は皇位継承権を失い「小一条院」の尊号を受け、太上天皇に次ぐ扱いを受ける[8]。



2.関連する出来事
2.2.後三条天皇の即位
後朱雀天皇の御世、当時の関白である藤原頼通は、父道長に続いて外戚の地位を得るべく苦心したが徒労に終わり、そうこうしているうちに天皇は病を得て第一皇子で東宮であった親仁親王に譲位する(後冷泉天皇)。その際、新帝の東宮には親仁親王の皇太弟である尊仁親王をあてるよう頼通に告げる。尊仁親王の母は三条天皇の皇女禎子内親王であり、藤原氏を外祖父としない。
藤原氏を外祖父とせず、かつ新帝に皇子が生まれる可能性を考慮すれば、頼通にしてみれば賛成できるはずもなく、あからさまに不服の態度をしめしたという[9]。また、尊仁親王を東宮としたいという天皇の考えを察した頼通が先手を打ち、東宮のことはゆっくりと考えるべきであるとして時間稼ぎに走ろうとしたところ、藤原能信[10]が東宮のことは今すぐ決めるべきだと薦めて実現した[11]。
結局のところ頼通、教通の努力も実を結ぶことがなく、後冷泉天皇は皇子はおろか皇女すら得ることなく病により崩御し、尊仁親王が後三条天皇として即位する。藤原氏を外戚としない天皇は、宇多天皇以来実に170年ぶりになる。尊仁親王が東宮であった期間は23年間であったが、この間壺切は頼通が内裏に留め置いたため、東宮としてのシンボルを持たずに即位した天皇となる。
頼通の言い分では、この剣は藤原氏腹(つまり、藤原氏を外戚とする)の東宮のものであるから、尊仁親王に持たせるつもりはないということである。天皇はならば壺切は不要であると述べ、即位の後にようやく献上された。
この話は大江匡房の『江談抄』に掲載された話で、匡房が後三条天皇のあつい信任を受け重用されたため、この話は信憑性が高いとされてきた。だが、明治24年(1891年)に松浦辰男が『江談抄』は匡房が語った話を聞いた藤原実兼がメモしたものを後日文章として起こしたもの(つまり、大江匡房本人の執筆ではない)で、匡房が語ったとされる元の話は「後三条院」ではなく[12]「故三条院」(すなわち三条天皇あるいはその譲位の詔で立てられた敦明親王[13])の故事であった可能性(「壷切御剣之事」(『史学会雑誌』19号、1891年6月))を指摘しており、実際のところは後三条天皇の話であったのかどうかは不明である[14]。

8243蒼天の實相:2019/01/27(日) 19:16:02
〜坂上宝剣と征夷大将軍〜

概要
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。
忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。
坂上宝剣では坂家。


1.生涯
1.2.征夷大将軍
延暦15年(796年)1月25日に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、10月27日に鎮守将軍も兼任すると、翌延暦16年(797年)11月5日には桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、東北全般の行政を指揮する官職を全て合わせた[7]。延暦17年(798年)閏5月24日に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛権中将となると、延暦19年(800年)11月6日に諸国に配した夷俘を検校のために派遣されている[8]。
延暦20年(801年)2月14日に節刀を賜って、4万の軍勢、5人の軍監、32人の軍曹を率いて平安京より出征。記録に乏しいが『日本略記』には、9月27日に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり、討伏という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている[9]。10月28日に凱旋帰京して節刀を返上すると、11月7日に「詔して曰はく。云々。陸奥の国の蝦夷等、代を歴時を渉りて辺境を侵実だし、百姓を殺略す。是を以て従四位坂上田村麿大宿禰等を使はして、伐ち平げ掃き治めしむるに云々」と従三位を授けられる。12月には近衛中将に任じられた[9]。

8244蒼天の實相:2019/01/27(日) 19:19:45
>>8243
〜坂上宝剣と征夷大将軍②〜

概要
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん、旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。
飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。
大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。

8245蒼天の實相:2019/01/27(日) 19:22:33
>>8244
〜坂上宝剣と征夷大将軍③〜

1.歴史
1.2.源頼朝
東国の独立政権[編集]

源頼朝の一族(河内源氏)は軍事を家業として朝廷に仕える軍事貴族であった。しかし、伊豆の流人生活から東国武士団を率いて反平氏の旗を揚げた。頼朝の当初の立場は朝廷に公認されたものではなかった。頼朝は、まず朝廷から相対的に独立した「東国王権」を築き上げ、京都の朝廷では元号を養和と改元したが、頼朝は、そのまま治承の年号を使用した[1] 。その後、朝廷との関係も含め、先行する平氏政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンの比較検討から次第に政権構想が練られたのではないかといわれている。
平氏政権は、既存の貴族の家格秩序に従って官位昇進をし、天皇の外戚として朝廷の権力を掌握する道を選んだが、平氏の繁栄を誇示するだけになり、地方の実効支配者としての武士の代表としてうまく機能しなかった。これに対し、東国の一定の独立性は保ちつつ朝廷に武家権力としての自主的統治権を認めさせるために交渉を重ねていくことになる。
平氏を追い落として京都を制圧した源義仲は、200年以上前に存在した征東大将軍に任官された。征東大将軍の官名は東方を征伐する職務を示すもので、東国の頼朝に対抗する義仲の意図が推定される。義仲を滅ぼした頼朝もまたこれに匹敵する称号を望むことになる。
当時の東北地方は、朝廷の支配が及ばない奥州藤原氏の独立した地方政権だった[2]。奥州藤原氏は鎮守府将軍の地位を得て、陸奥国・出羽国における軍政という形での地方統治権を認められ100年支配した[3]。辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の現地司令官という性格を持つが故に在京の必要がなく、地方政権の首領には都合が良かった。頼朝自身も鎌倉に留まり続け、京都の朝廷から公認を受けつつ一定の独立性を保持しようとした。
近衛大将から征夷大将軍へ[編集]

建久元年(1190年)、頼朝は右近衛大将(右大将)に任官したが、近衛大将は中央近衛軍司令官という性格上在京しなければならず、半月も経ぬうちに辞任した。右大将は官位相当こそ高いものの、源義仲の征夷大将軍のように武士を統率して地方の争乱を鎮圧する地位ではなく、奥州藤原氏の鎮守府将軍のように東国に独立の勢力圏を擁するに相応しい地位でもない。
そこで注目したのが、征夷大将軍という官職であった。坂東の武士を率いて行う蝦夷(奥州藤原氏)征服に大義名分を得るという目的からしても、また鎮守府将軍と同様に軍政(地方統治権)を敷く名分としても相応しく、故実からも鎮守府将軍より格上である格好の官職だった。
つまり、
東国武士の棟梁たる鎌倉殿という私的地位
守護(追捕使)・地頭を全国に置き、軍事・警察権を掌握する日本国惣追捕使・日本国惣地頭という公的地位
右大将として認知された、家政機関を政所などの公的な政治機関に準ずる扱いを受ける権限
を、全て纏め上げて公的に裏付けられた一体的地位とするのが征夷大将軍職であった。
征夷大将軍の意義[編集]

しかし、頼朝にとって征夷大将軍職は、奥州藤原氏征討のためにこそ必要とされた官職であって、奥州合戦を経て実際に任官した建久3年(1192年)にはすでに必要なくなっていたという見方もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執せず、2年後には辞官の意向を示している[10][12]。
また、嫡男の頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督に任官しており、征夷大将軍に任官したのはその3年後である。頼家が失脚する比企能員の変の際、惣追撫使・惣地頭の地位の継承が問題となった一方、征夷大将軍職は対象とされていない。従って、この段階の征夷大将軍は、武家の棟梁たる鎌倉殿や日本の軍事的支配者たる惣追撫使・惣地頭の地位と不可分なものではなく、さほど重視されていなかったことが伺える。ただ、頼家の弟実朝の家督継承の際にはまず征夷大将軍に任官している。
頼朝は朝廷の常設最高職である左大臣に相当する正二位でこの職に就き、同時に一部で朝廷との二重政権状態を残しつつ全国に武家支配政権を形作ったため、以降その神格化とともに「天下人」としての征夷大将軍の称号が徐々に浸透していく。また、後年に至るまで執権、管領、大老などの幕府次席職の官位は従四位どまりであり、将軍のみが隔絶して高い権威として全ての武士に君臨する(たとえ実権がともなわなかったとしても)慣習もこの時期に確立されている。

8246蒼天の實相:2019/01/27(日) 19:25:59
>>8244
〜坂上宝剣と征夷大将軍④〜

概要
坂上宝剣(さかのうえのたからのつるぎ)は、日本の天皇に相伝される朝廷守護の宝剣(現在は所在不明)。坂上宝剣の呼び名で知られるが、正しい銘文は「坂家宝剣」である[1]。文献によっては田村将軍の剣[2]、敦実親王の剣[3][4]などとも記されている。
醍醐天皇が外に持ち出したとき、石突が抜け落ちて紛失したが、それを犬がくわえて持ってきたという故事がある。また雷鳴により自然に鞘から抜けると伝わる。


▼人気記事ランキング
1.概要
坂上宝剣は天皇に相伝される護り刀で、朝廷の守護刀として坂上田村麻呂より伝わった御佩剣という[2]。
西園寺公衡が『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』に乾元二年五月九日付(西暦1303年)で記述したこの刀剣の説明およびその裏書によれば、田村将軍剣は刀身の一方に「上上上 不得他家是以為誓謹思」、もう一方に「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていたという[5]。刀身は「鯰尾の剣で、鮫柄・銀の鐔・平鞘・白銀の責・石付、黒地に胡人狩猟図を金に蒔く」とあり「頗古物宝物歟」とされる[6]。


2.関連する出来事
2.1.平安時代
征夷大将軍坂上田村麻呂の死後、その死を惜しんだ嵯峨天皇により田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び、その刀を御府に納めたとされる[7]。
『富家語』では、関白藤原忠実の談話として連続する二条に見られる。前条で忠実は「藤原師実の御車に乗ったとき、乗り方が悪く御剣を敷いて折ってしまったため、もっての外に貧窮がたなと仰せられた。この貧窮刀は今も手元にある」[8]と語っている。続いて「式部卿敦実親王の剣を持っていたが、白河上皇からお召しがあって献上した。今は鳥羽の宝蔵に伝来しているだろう。この剣は醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突がなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突をくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、自分が知る限りは未だ無かった。師実は抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた」と続く[9][8]。忠実の談話は貧窮刀と坂上宝剣という2つの剣に関わる話題として対照的だが、どちらも失錯にまつわる説話である。また、いずれも師実が伝来に関わっており、忠実のもとに剣が至ることが共通している。
『古事談』では、『富家語』の記述を受けながらも微調整や再構成を行って、異なるテーマとして説話を描き出している。「醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので殊に興じて歓喜した。敦実親王は自ら肌身離さず持っていた。雷が鳴るときは自然に脱ぐという霊威を示したという。霊剣の評判を聞きつけた白河上皇は藤原師実から召し上げたが、その後に自ら脱ぐことはなかった。藤原忠実が若いころに不審に思ってある者に抜かせてみたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣という銘があった」[3][11]。『古事談』では時系列が整えられて敦実親王を中心人物とし、『富家語』にはない文言を追加することで談話をひとつの物語へと改編している[10]。
『古今著聞集』になると「この剣は醍醐天皇が野行幸の時に腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、今の世には知らず。師実は畏れて抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた。藤原忠実に伝えられたが、白河上皇により召されたという。式部卿敦実親王の剣という」[4]。と『古事談』で追加された文言は削られて『富家語』に近い説話となっている[11]。

8247蒼天の實相:2019/01/28(月) 03:37:58
〜草薙剣盗難事件〜
(新羅民族=志恩さんの先祖の悪さ)

1.記録
1.1.日本書紀
事件は、『日本書紀』(養老4年(720年)成立)において簡潔に記載されている。同書天智天皇7年(668年)是歳条によると、沙門(僧の意)の道行が草薙剣を盗み、新羅に向かって逃げた。しかしその途中で風雨に遭ったため、道行は迷って帰ってきたという。同書では道行の素性に関する記載はなく、その後の道行の経緯も記されていない[1]。
草薙剣のその後については、事件18年後の朱鳥元年(686年)6月10日条に記述がある。同条によると、天武天皇が病を得た際に占いで草薙剣による祟りだと見なされたため、剣を尾張国の熱田社(現・愛知県名古屋市の熱田神宮)に送り置いたという[1]。
是の歳に、沙門道行、草薙剣を盗み、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、芒迷(まと)ひて帰る。
?・『日本書紀』天智天皇7年是歳条[2]
戊寅に、天皇の病を占ふに、草薙剣に祟れり。即日(そのひ)に、尾張国の熱田社に送り置く。
?・『日本書紀』朱鳥元年6月戊寅条[3]



1.記録
1.2.熱田太神宮縁記
熱田神宮側の文献として、鎌倉時代初期頃の成立[4]になる『尾張国熱田太神宮縁記』では、道行を新羅僧として説話を記載する[4][1](素性を新羅僧とするのは、一説に『日本書紀』の記述の拡大解釈[2])。
それによると、道行は熱田社から神剣(草薙剣)を盗み出し本国に渡ろうとしたが、伊勢国において神剣は独りでに抜け出して熱田社に還った。道行は再び盗んで摂津国より出港したが、海難のため難波に漂着した。道行は神剣を投げ捨て逃げようとしたが、神剣がどうにも身から離れず、ついに自首して死罪に処せられたという[4]。
そして朱鳥元年(686年)6月10日、天武天皇の病が神剣の祟りと見なされ、神剣は熱田社に移されたとしている[4]。



1.記録
1.3.その他
大同2年(807年)の成立になる『古語拾遺』では、簡潔ながら、外賊が草薙剣を盗み逃げたが境を出ることが出来なかったと事件について触れている[5]。
草薙神剣者。尤是天璽。自二日本武尊催旋之年一。留任二尾張熱田社一。外賊偸逃。不レ能レ出レ境。
?・『古語拾遺』[7]

8248蒼天の實相:2019/01/28(月) 03:41:17
>>8247
〜草薙剣盗難事件〜
(新羅民族=志恩さんの先祖の悪さ)

2.考証
事件に関わる草薙剣(天叢雲剣)は、三種の神器の1つであり、古来熱田神宮の神体とされている。熱田神宮側では、日本武尊東征時の神宮創建から現在まで草薙剣は神宮に祀られているとし、この事件も一時的に剣が神宮を離れたものとしている。しかしながら、『日本書紀』の内容には疑問点が指摘されており、その経緯を巡って他にも諸説が出されている。
一説として、盗難後18年間も宮中に留めおかれたのは不自然であることから、道行が盗み出した場所は熱田神宮でなく朝廷であるとして、朱鳥元年が初めての熱田神宮への草薙剣下賜とする説がある。この説では、『日本書紀』に盗み出した場所が明記されていないこと、朱鳥元年記事が熱田社に「還し置く」でなく「送り置く」と記すことが指摘される。熱田神宮では草薙剣が正殿(本殿)とは別の社殿に祀られていたことが知られ[8]、この様も草薙剣が創建後に入ってきたことを表すとされる。下賜の背景には、壬申の乱における尾張氏の協力が考えられている[1]。
別説として、盗難記事と朱鳥元年記事につながりを見ない説もある。この説では、草薙剣は盗難後すぐに熱田社に還されたが、天武天皇即位儀式のために一時的に宮中に移されていたと見て、それが熱田社に還されたと推測する[1]。
そのほか、元々熱田社に伝わる草薙剣を天武天皇が尾張氏に貢上させ、漢の斬蛇剣になぞらえて皇位継承の神器としたとする説もある。その中で、その後に天武天皇に対して剣の祟りがあったため、熱田社から朝廷への移動を貢上ではなく盗難説話にすり替えたと推測する[7]。
なお現在では、草薙剣の本体は熱田神宮に、分身は宮中にあることとなっている。これに関して、『古語拾遺』では分身の作製を上古の崇神天皇(第10代)の時のこととするが、上記の一連の事件の存在により、分身による皇位継承を持統天皇(天武天皇次代)即位時からとする説がある[7]。


3.伝承
熱田神宮の伝承では、道行は神剣を盗み出して、かつての神宮北門の清雪門(せいせつもん)を通ったという。古来、清雪門は不開門(あかずのもん)として閉ざされたままとなっているが、これは不吉の門とされたためとも、門を閉じて神剣を再び外に出さないためともいわれる[8][1]。
また神宮では、毎年5月4日に朱鳥元年(686年)の神剣遷座の際に歓喜した様を伝える酔笑人神事(えようどしんじ)を行う。さらに翌5月5日には、「都を離れ熱田に幸(みゆき)すれど、永く皇居を鎮め守らん」という神剣の神託に由来して、神輿が楼門に渡御し皇居を遥拝する神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)も行なっている[9][1]。
そのほか、大阪府大阪市の地名「放出(はなてん)」について、道行が神罰を怖れ、草薙剣を「放り出した」ことが由来(はなつて→はなて→はなてん)とする説があり、同地の阿遅速雄神社ではその伝承を伝えている。
鳥栖八剱社(名古屋市南区鳥栖)の社伝では、和銅元年(708年)ママに道行が熱田神宮の草薙剣を盗み去った際、元明天皇に知られるのを恐れて新しく同地で神剣が作られ、熱田神宮別宮の八剣宮に奉納されたとする[12]。

8249蒼天の實相:2019/01/28(月) 23:39:15
〜漢皇帝=正統継承剣→斬蛇の剣〜

※ 「斬蛇の剣」は、漢の高祖劉邦が得たとされる宝器で、革命を起こした漢王朝の始祖にちなみます。劉邦は、一介の庶民から身を起こして皇帝にまでなった下克上の体現者です。

8250蒼天の實相:2019/01/28(月) 23:49:28
>>8249
〜草薙剣と斬蛇の剣〜

※漢皇帝継承剣→斬蛇の剣について。

> 「斬蛇の剣」は、漢の高祖劉邦が得たとされる宝器で、革命を起こした漢王朝の始祖にちなみます。劉邦は、一介の庶民から身を起こして皇帝にまでなった下克上の体現者です。<

※日本天皇陛下継承剣 →草薙剣について。


3.伝承
熱田神宮の伝承では、道行は神剣を盗み出して、かつての神宮北門の清雪門(せいせつもん)を通ったという。古来、清雪門は不開門(あかずのもん)として閉ざされたままとなっているが、これは不吉の門とされたためとも、門を閉じて神剣を再び外に出さないためともいわれる[8][1]。
また神宮では、毎年5月4日に朱鳥元年(686年)の神剣遷座の際に歓喜した様を伝える酔笑人神事(えようどしんじ)を行う。さらに翌5月5日には、「都を離れ熱田に幸(みゆき)すれど、永く皇居を鎮め守らん」という神剣の神託に由来して、神輿が楼門に渡御し皇居を遥拝する神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)も行なっている[9][1]。
そのほか、大阪府大阪市の地名「放出(はなてん)」について、道行が神罰を怖れ、草薙剣を「放り出した」ことが由来(はなつて→はなて→はなてん)とする説があり、同地の阿遅速雄神社ではその伝承を伝えている。
鳥栖八剱社(名古屋市南区鳥栖)の社伝では、和銅元年(708年)ママに道行が熱田神宮の草薙剣を盗み去った際、元明天皇に知られるのを恐れて新しく同地で神剣が作られ、熱田神宮別宮の八剣宮に奉納されたとする[12]。



※結論、漢皇帝継承の剣
『斬蛇の剣』を模して、
日本の天皇陛下継承の剣『草薙の剣』が、造らたのは、間違いなさそうである。

8251蒼天の實相:2019/01/29(火) 01:14:16
>>8249
〜天村雲剣と斬蛇の剣〜
※天叢雲剣
あめのむらくものつるぎ
三種の神器の一つ。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾より出現した剣である草薙剣(くさなぎのつるぎ)の元の名を、『日本書紀』本文の注および一書では天叢雲剣とし、大蛇の上につねに雲気があったゆえの命名とする。中国の『史記』の高祖本紀に、斬蛇剣(ざんだけん)をもつ高祖のいる上にはつねに雲気がたつと語る。その漢の宝剣である斬蛇剣に、わが国の三種の神器の一つである神剣を擬するための命名。

8252蒼天の實相:2019/01/29(火) 11:02:24
>>8251
8251:蒼天の實相
19/01/29(火) 01:14:16
>>8249
〜天村雲剣と斬蛇の剣〜
※天叢雲剣
あめのむらくものつるぎ
三種の神器の一つ。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾より出現した剣である草薙剣(くさなぎのつるぎ)の元の名を、『日本書紀』本文の注および一書では天叢雲剣とし、大蛇の上につねに雲気があったゆえの命名とする。中国の『史記』の高祖本紀に、斬蛇剣(ざんだけん)をもつ高祖のいる上にはつねに雲気がたつと語る。その漢の宝剣である斬蛇剣に、わが国の三種の神器の一つである神剣を擬するための命名


8250:蒼天の實相
19/01/28(月) 23:49:28
>>8249
〜草薙剣と斬蛇の剣〜

※漢皇帝継承剣→斬蛇の剣について。

> 「斬蛇の剣」は、漢の高祖劉邦が得たとされる宝器で、革命を起こした漢王朝の始祖にちなみます。劉邦は、一介の庶民から身を起こして皇帝にまでなった下克上の体現者です。<

※日本天皇陛下継承剣 →草薙剣について。


3.伝承
熱田神宮の伝承では、道行は神剣を盗み出して、かつての神宮北門の清雪門(せいせつもん)を通ったという。古来、清雪門は不開門(あかずのもん)として閉ざされたままとなっているが、これは不吉の門とされたためとも、門を閉じて神剣を再び外に出さないためともいわれる[8][1]。
また神宮では、毎年5月4日に朱鳥元年(686年)の神剣遷座の際に歓喜した様を伝える酔笑人神事(えようどしんじ)を行う。さらに翌5月5日には、「都を離れ熱田に幸(みゆき)すれど、永く皇居を鎮め守らん」という神剣の神託に由来して、神輿が楼門に渡御し皇居を遥拝する神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)も行なっている[9][1]。
そのほか、大阪府大阪市の地名「放出(はなてん)」について、道行が神罰を怖れ、草薙剣を「放り出した」ことが由来(はなつて→はなて→はなてん)とする説があり、同地の阿遅速雄神社ではその伝承を伝えている。
鳥栖八剱社(名古屋市南区鳥栖)の社伝では、和銅元年(708年)ママに道行が熱田神宮の草薙剣を盗み去った際、元明天皇に知られるのを恐れて新しく同地で神剣が作られ、熱田神宮別宮の八剣宮に奉納されたとする[12]。

8253蒼天の實相:2019/01/30(水) 10:19:46
>>8252
〜征夷大将軍と漢皇帝〜(劉邦末裔〜東漢氏〜坂上田村麿呂将軍〜

▼人気記事ランキング
1.中国
1.3.その他の劉氏
漢王朝の滅亡後は、南朝宋(劉宋)の劉裕が劉邦の弟である楚元王劉交の子孫を称したほか、後述のようにいくつかの非漢族の王朝が漢姓として劉氏を称している。後の前趙となる漢を建てた劉淵を始めとして前漢・後漢時代に漢の皇族と通婚関係を持った匈奴の単于一族(攣?氏)の末裔が漢室の正統な後継者を自負して劉氏を名乗った。さらに下って五代の後漢を建てた突厥沙陀部の劉知遠は明帝の子孫を名乗り、遼(契丹)の耶律氏も漢姓として劉氏を称した。アラブ系という説もある十国南漢の劉?も漢王室の支族である彭城劉氏の子孫を自称している。
また、4世紀から6世紀にかけて日本列島に多く渡来した中国系の渡来人の多くが、劉邦または漢室の子孫を称している。特に東漢氏と西漢氏が有名である。東漢氏の子孫に坂上田村麻呂がいる。
[4]前ページ


3.出自
東漢氏の「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している[5]。『続日本紀』延暦四年(785年)6月条は東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたことを記している。系譜などから判断すれば、東漢氏は漢王朝との関係を創作したものと思われる。
東漢氏と直接の関係は無いが百済から五経博士「漢高安茂」という人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段楊爾」と替えたいと百済は申し出ている[6]。



4.氏族の特徴
東漢氏は、先来の秦氏と同じく漢土由来の製鉄技術をもたらしたと考えられている。また、記紀などの記録から土木建築技術や織物の技術者が居たことをうかがい知れる。東漢氏の一族に東文氏があり、7世紀から8世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を出している。
また、東漢氏は軍事力にも秀で、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。『肥前国風土記』によれば、602年の新羅征討計画の際には兵器の製作を担当した[7]。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒(東漢直駒)が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂(たもと)を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の坂上苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。


※坂上宝剣を天皇陛下より承った、征夷大将軍はら皇帝と同じである。

8254シオン観測隊:2019/01/31(木) 06:30:39
〜宇治とウトロ地区〜

概要
ウトロ地区(ウトロちく)は、京都府宇治市伊勢田町[1]51番地に所在する地区(伊勢田町小字ウトロ)。在日韓国・朝鮮人の集住地域のひとつで、自衛隊大久保駐屯地の北隣に展開している。
戦時中に計画された飛行場の建設労働者とその家族が暮らした飯場を源流とする。住民側が数十年にわたって日本政府と日産グループに対して居住権の保証を要求する闘争を展開し、在日朝鮮人問題の象徴的事例とされてきた。2016年には家屋の解体が始まり不法占拠状態が解消、再開発が始まった。
「ウトロ地区」とはあくまで通称であり、正式な地名(町丁)ではない。本来の正しい地名は宇土口(うとぐち)であるが、誤記や誤読によって「ウトロ」へと変化したと考えられている。故に北海道のウトロとは全く関係ない。


1.ウトロ地区の起源
第二次世界大戦中の1942年2月に京都飛行場[2]と、併設の飛行機工場の建設工事が正式決定した。日本国際航空工業が建設工事を請け負い、工事には約2000名が従事した。従事者の約1300名が朝鮮人であり、彼等とその家族が生活していた1943年建造の飯場(宿泊設備)が現在のウトロ地区の前身である。
かつて当地区住民側は居住権を主張する根拠として「ウトロ住民は1944年9月から1945年3月までの間、出稼ぎに来た朝鮮半島出身労務者とその子孫であり、ウトロ住民の居住権は日本政府、もしくは原因企業の日産車体、ひいては母体の日産グループが保証すべきである」とし、地主企業の西日本殖産との法廷闘争と並行して、日本政府、および日産グループを相手方として闘争を展開してきた[3]。
しかし現在、ウトロ地区住民の作る「ウトロ国際対策会議」などによると日本国際航空工業の1300人の朝鮮人労働者達は、ほとんどが国民徴用令や国家総動員法による徴用で来日した訳ではなく、経済的理由や兵役免れなどで移住してきた者であるとしている[4]。また、韓国の国務総理傘下の「日帝強占下での強制動員被害者の真相究明委員会」も、2006年末の報告書で、ウトロ地区住民について、「強制徴用者ではなく、元から日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明らかにしている[5]。また、水野直樹は講演で、戦時中に鉱山での過酷な労働を嫌って逃げ出した朝鮮人労働者が多く、軍指定の労働のためここで働けばまた徴用に会わないと、ウトロ地区に来た者もいたと述べている[6]。つまりウトロ地区は、徴用以前から日本に居住していた朝鮮人を基盤とし、これに1930年代末に日本の併合時代の貧困層の朝鮮人や被徴用者が加わって形成されたものである。
2005年時ウトロ地区に暮らす65世帯のうち、(1)大戦中に飛行場建設工事に関わった1世と子孫、(2)その親類縁者 (3)戦後(1945年以降)にウトロに移住してきた家族とその子孫が、それぞれ3分の1ずつを占める。65歳以上の高齢者を含む世帯が30世帯、その中で高齢者だけの世帯が16世帯20人。生活保護世帯が全体の約20%(宇治市平均約1%)と、若い世代はウトロから転出し日本から生活保護を受けている高齢者が残っている傾向にある[7]。


2.ウトロ地区問題の推移
1945年7月、飛行場が米軍に爆撃されたことを受けて航空機工場は生産活動を停止し、従事者の全てが失職した。終戦と同時に飛行場の建設が中止されると彼らが居座る理由も法的な根拠も無くなり、更に同基地と付帯設備はGHQが接収することとなった。朝鮮人労働者の大半は帰国したが、GHQからの退去勧告および朝鮮への帰国要求を拒否した朝鮮人労働者は不法に残留し続け、GHQが接収できなかった元・飯場が朝鮮人集落の原型となった。これは朝鮮までの船賃が労働賃金の数ヶ月分にも相当するほど高額で工面できなかったり、GHQによる無償の送還事業から漏れる等して帰国できなかったためである。朝鮮人の集落は日本各地に存在するが、私有地の不法占拠という点でウトロ地区は他の地域と事情を異にする。
日本国際航空工業の合併等により1962年の7月に、ウトロ地区の土地所有権は日産車体工機(現・日産車体)へと移る。1980年代、不法占拠であることを理由として水道管の敷設を認めない日産車体側と、人権問題であるとして水道管の敷設を認めるよう要求するウトロ地区住民側が対立。1987年3月、日産車体が水道管の敷設を認める結果となった。

8255神の子様:2019/01/31(木) 06:38:31
※新羅民族→志恩さんは、横浜日吉ですね。宇治地区には、ウトロ地区=新羅人部落が、たくさんあるんですね。

日産の本社などは、横浜湊未などにありますね。
フリー信徒式=趣味生長の家方式の新羅人の、偽日本人が、たくさんいる事が、この事から、わかりました。以上!


8256シオン観測隊:2019/01/31(木) 07:31:29
>>8255
〜新羅人と日産〜

2.ウトロ地区問題の推移
2.3.日産への要求
1988年、西ドイツ(当時)の自動車メーカーであるダイムラー・ベンツ(当時)は、第二次大戦中に同社で強制労働に服されたユダヤ人からの補償請求に対し2000万マルクを支払い、同社の自動車博物館の正面に彫刻物を設けた[9]。この事実を知ったウトロ住民は、上京し日産車体と日産自動車に対し補償を要求しようとしたが、面会は拒否された。1993年9月、住民代表は渡米し、ロサンゼルスで北米日産や日本領事館前でデモを行った[10]。
ダイムラー・ベンツは学者に依頼して1994年5月、「ダイムラー・ベンツにおける強制労働者」と称する調査報告書を出版した。その内容は下記の通りである。
ダイムラー・ベンツのルツェツォフ(ジェシュフ Rzeszow、旧称: ライヒスホーフ Reichshof)工場(ポーランド)には、ユダヤ人強制収容所からの労働者が運び込まれ、工場付属の強制収用所に700人が宿営させられた。30人用のバラックに100人のユダヤ人が宿営され、「労働を通じての殲滅(Vernichtung)」への移行の一つの代表例であった。賃金は会社より国防軍当局に支払われ、労働者に直接渡らなかった[11]。
このように、ダイムラー・ベンツが行った強制労働と、ウトロ地区での労働実態には格差があることが判明し、住民たちは1994年以後、日産に対してダイムラー・ベンツを引き合いにして要求することはしていない。

8257神の子様:2019/01/31(木) 07:39:21
>>8256
シオン観測隊の調べでは、横浜、川崎地区に、フリー信徒→新羅人=半値志恩さんが、住むの、宇治に、フリー信徒が存在するのも、理解できてきました。

日産の今回の話を、盛んしてたわけも、うなずけますね。偽日本人として成り済ましをする、新羅人ならです!
===========

8258神の子様:2019/01/31(木) 14:04:39
>>8257
志恩さんが、新羅民族だと言う事が、段々わかってきました!

8259蒼天の實相:2019/02/01(金) 09:45:31
〜ミリンダ王の問い〜
※異端主義、極端主義の間違い。(間違いたヴーガン)

2.内容
2.1.名前と存在
ミリンダ王はナーガセーナ長老とあいさつをかわし腰を下ろしてから、ナーガセーナ長老に名を尋ねる。ナーガセーナ長老は、自分は「ナーガセーナ」と世間に呼ばれているけれども、それはあくまでも呼称・記号・通念・名称であって、それに対応する実体・人格は存在しないと言い出す。
ミリンダ王は驚き、実体・人格を認めないのだとしたら、「出家者達に衣食住・物品を寄進しているその当事者達は一体何者なのか、それを提供されて修行している当事者達は一体何者なのか、破戒・罪を行う当事者達は一体何者なのか」「善も、不善も、果も、無くなってしまう」「ナーガセーナ師を殺した者にも殺人罪は無く、また、ナーガセーナ師に師も教師も無く、聖職叙任も成り立たなくなってしまう」と批判する。更に、では一体何が「ナーガセーナ」なのか尋ね、「髪」「爪」「歯」「皮膚」「肉」「筋」「骨」「骨髄」「腎臓」「心臓」「肝臓」「肋膜」「脾臓」「肺臓」「大腸」「小腸」「糞便」「胆汁」「粘液」「膿汁」「血液」「汗」「脂肪」「涙」「漿液」「唾液」「鼻汁」「小便」「脳髄」、「様態」「感受」「知覚」「表象」「認識」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「ナーガセーナ」なのか問うも、ことごとく「ナーガセーナ」ではないと否定されてしまう。
嘘言を吐いていると批判するミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は、ミリンダ王がここに来るのに、「徒歩」で来たか、「車」(牛車)で来たか尋ねる。「車」で来たと答えるミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は「車」が一体何なのか尋ねる。「轅(ながえ)」「車軸」「車輪」「車室」「車台」「軛」「軛綱」「鞭打ち棒」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「車」なのか問われるも、ミリンダ王は、それらはすべて「車」ではないと否定する。
先程の意趣返しのように、ミリンダ王は嘘言を吐いているとからかうナーガセーナ長老に対し、ミリンダ王は、「車」はそれぞれの部分が依存し合った関係性の下に成立する呼称・記号・通念・名称であると弁明する。それを受けて、ナーガセーナ長老は、先程の「ナーガセーナ」も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する。

8260蒼天の實相:2019/02/01(金) 09:48:55
>>8259
〜ミリンダ王の問い〜
※異端派、間違いた菜食ヴーガン主義の思考。

2.内容
2.2.変化と同一性
ミリンダ王は、ナーガセーナ長老に、「変化する事物は、変化する前と変化した後で、同一のものなのか別ものなのか」と問う。ナーガセーナ長老は、「同一でも別ものでもない」と答える。
ナーガセーナ長老は例えとして、ミリンダ王は心身未発達な幼児期の頃と、成人した現在とで、全く同じか問うと、ミリンダ王は「別もの」だと言う。ナーガセーナ長老は、そうして変化によって同一性を否定するのであれば、「母」「父」「師」「技能者」「人格者」「知者」「悪人」「善人」といった通念も全て成立しなくなってしまうと指摘する。混乱したミリンダ王は、一体何が言いたいのか問うと、ナーガセーナ長老は、変化するものであっても、同一の基体に依拠するものとして1つに統合されていることを指摘する。
ミリンダ王に例えを求められて、ナーガセーナ長老は燈火の例えを出す。ある男が一晩中燈火を燃やしているとする、その炎は浅夜と深夜と未明とでは同一だろうか。ミリンダ王は違うと答える。では別ものかと問われ、ミリンダ王はそうでもないと答える。「燈火は一晩中、同一の基体に依拠して発光していたので、各段階の炎は即自に同一とは言えないまでも、別ものだとも言えない」と。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ナーガセーナ長老は、「形象の連続継起」としての変化は、「集結・重置」する作用を伴うものであり、同時・同所にある形象が生起し、ある形象が消滅するという「形象の連続継起」は、2つの形象を一定点に「集結・重置」するものであり、それによって、もはや両者は時間とは関係なく同一存在の相を帯びることになる、したがって、「連続継起」した各形象は同一ではないが、「集結・重置」したものとしては別ものではない (と我々の感覚的認識は捉える)と述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は牛乳の例えを出す。しぼられた牛乳は、時が経つにつれて「凝乳」、「生牛酪(バター)」、「牛酪油」と転化していくが、その事を以て、ある男が、「牛乳は、すなわち凝乳、すなわち生牛酪、すなわち牛酪油に他ならない」と述べたとしたら、正しいだろうか。ミリンダ王は、「牛乳は同一基体に依拠して生成を遂げたのであり、各段階のそれは別ものでなく、また即自に同一でもない」と述べる。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する。

8261蒼天の實相:2019/02/01(金) 09:52:03
>>8260
〜ミリンダ王の問い〜

※異端派、間違いた、菜食ヴーガン菜食主義思考。

2.内容
2.3.輪廻と業
ミリンダ王は、ナーガセーナ長老に、「輪廻転生によって、改組・回帰していくものは、何なのか」と問う。ナーガセーナ長老は、「現象的個体」であると答える。
ミリンダ王は、「それでは今、現にあるこの現象的個体がそのまま改組・回帰していくのか」と問うと、ナーガセーナ長老は、「そうではなく、今、現にある現象的個体の善なり悪なりの行為(業)に応じて、それが介入・影響した別の現象的個体として改組・回帰される」と述べる。
ミリンダ王は、両者が別の個体であるのなら、現世の自分の悪行に、来世の自分が冒されないのではないかと指摘すると、ナーガセーナ長老は、ある個体から別の個体へと改組・回帰が行われる以上、悪行の応報に冒されずに済むことはないと答える。
ミリンダ王に例えを求められて、ナーガセーナ長老はマンゴーの例えを出す。ある男が、あるマンゴーの樹から実を盗む、樹の持ち主が男を捕まえて王に上訴する、そこで犯人の男が「この男が植えたマンゴー樹と、自分がマンゴーを獲ったマンゴー樹は、別ものなのだから、裁かれる筋合いはない」と弁明する、この男は裁かれるべきだろうか。ミリンダ王は、苗木段階のマンゴー樹と結実段階のマンゴー樹は切り離して考えることができないのだから、男は有罪で裁かれなければならないと答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は焚き火の例えを出す。ある男が、冬に暖を取ろうと焚き火をし、消し忘れて立ち去り、他の男の畑を焼いてしまう、畑の持ち主が男を捕まえて王に上訴する、そこで犯人の男が「自分が焚いた焚き火と、この男の畑を焼いた火は、別ものなのだから、裁かれる筋合いはない」と弁明する、この男は裁かれるべきだろうか。ミリンダ王は、焚き火段階の火と野火段階の火は切り離して考えることができないのだから、男は有罪で裁かれなければならないと答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は燈火の例えを出す。ある男が、燈火を持って露台に上り、食事をとっている内に、その燈火がひさしの茅(かや)を焼き、家を焼き、村全体に延焼してしまった、村人達が男を糾弾する、そこで男は「自分が食事のために用いた燈火の火と、村を焼いた火は、別ものなのだから、糾弾される筋合いはない」と弁明する、どちらを支持するか。ミリンダ王は、村を焼いた火はその男の燈火から出た火なのだから、村人達の言い分を支持すると答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は女の例えを出す。ある男が、ある童女をゆくゆくは妻に迎えようと結納金を納めて去る、後日その女が成人した頃に別の男が結納金を納めて婚儀に及んでしまった、先の男がやってきて、相手の男を非難する、その男は「おまえが結納金を納めた童女と、自分が結納金を納めた成女は、別ものなのだから、非難される筋合いはない」と弁明する、どちらを支持するか。ミリンダ王は、童女が成長してその成女になったのだから、先の男の言い分を支持すると答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は牛乳の例えを出す。ある男が、牛の飼い主に牛乳を瓶一杯買い求め、明日受け取ると言って預けたまま立ち去る、翌日、牛乳が凝乳に変質した頃にやってきて、牛乳の受け渡しを求め、飼い主がその凝乳を渡すと、男は「自分が買ったのは凝乳ではなく牛乳だ、さあ瓶一杯の牛乳をよこせ」と主張する、飼い主は男が買った牛乳が凝乳になったのだと弁明する、どちらを支持するか。ミリンダ王は、男が前日買った牛乳が凝乳になったのだから、飼い主の言い分を支持すると答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する。

8262蒼天の實相:2019/02/01(金) 11:01:37
蒼天とは雲の上の青い空の事。

それこそが、真佛の国、観世音国。世界の人が示す、天国、實相世界。

全て包み込み、全て有り、全てが無い。只青い清い空。それが、蒼天。

8263蒼天の實相:2019/02/01(金) 16:38:01
〜六師外道〜

※ヴーガンに、繋がる、仏教とは違う教え。


1.パーリ経典に登場する六師とその思想
アジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅) - 順世派および後世のチャールヴァーカ(Carvaka)の祖。唯物論:幸福に生きよ、死すればすべて無くなるのだから[1]。人間は地・水・火・風の4元素から成ると考えた。
パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩駄迦旃延) - 不変論(永遠論):物質、喜び、痛み、魂は永遠であり、それらに相互作用はない[1]。七要素説(地・水・火・風・苦・楽および命)。
プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那(不蘭)迦葉)) - 道徳否定論者:善行や悪行をおこなうことで、報酬を得ることも罰が与えられることも否定する[1]。悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという考え。
マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利) - 裸形托鉢教団アージーヴィカ教(邪命外道)の祖。決定論者(宿命論):私たちは無力であり、苦しみは前もって定められていたものである[1]。
サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子) - 不可知論:私はそうは考えない。そうとも、その他の方法も考えない。間違っているのか、間違ってはいないのかも考えない。判断の放棄[1]。
マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ Nigantha Nataputta 尼乾陀若提子、本名ヴァルダマーナ) - ジャイナ教の開祖。戒律主義:全ての邪悪を避け、浄化し、祝福せよ[1][2]。相対論者。



2.仏教外の視点
なお、「六師外道」というのはあくまで仏教側からの表現であり他宗では、異なった視点で区別しており、結果として同一の思想家が全く異なった位置づけになっている場合がある。例えばヒンドゥー教においては、仏教も含めたこれらヴェーダの権威を否定する諸派閥を、そのなかでもとりわけ仏教とジャイナ教のほうを「ナースティカ」(非正統派, 異端)と呼び、それに対し六派哲学(シャド・ダルシャナ)を「アースティカ」(正統派)と呼び区別している。
また、例えばジャイナ教の信者から見ればマハーヴィーラ(尊称。本名ヴァルダマーナ)は外道ではなく、あくまで開祖である。

8264シャンソン:2019/02/01(金) 16:54:42

   ミリンダ王がやってきた!

8265ミリンダ:2019/02/01(金) 16:59:26

ずいぶん昔の話ですが、学生時代に全然もてなかった私が誰からもチョコレートをもらえなかったらかわいそうだと、私に同情した後輩の女の子からバレンタインデーに「同情チョコ」をもらったことがありました。実際に他の女の子からはチョコレートをもらうことがなく、うれしかったことを思い出します。

8266トンチンカン信徒:2019/02/01(金) 19:22:51
>>8265
後南朝天皇国日本の亡霊霊に取り付かれた、日野ボン先生は、バレンタイチョコレートをFacebookで、可笑しいこと、書いてます(笑)

ベルギーチョコの志恩さんに、良く似てきましたね(笑)


若いのに、妄想壁が、凄いです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8265:ミリンダ
19/02/01(金) 16:59:26

ずいぶん昔の話ですが、学生時代に全然もてなかった私が誰からもチョコレートをもらえなかったらかわいそうだと、私に同情した後輩の女の子からバレンタインデーに「同情チョコ」をもらったことがありました。実際に他の女の子からはチョコレートをもらうことがなく、うれしかったことを思い出します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

チョコレートは、そもそも、風邪薬等万病の飲み物です。固形のチョコは、近代の話。


日野ボン先生も、勉強不足だね(笑)

8267トンチンカン信徒:2019/02/01(金) 21:07:07
>>8266
後南朝天国日本の亡霊について、書いた単行本が、最近、出版されてますね(笑)

日野ボン先生も、仲間ならないないといいね(笑)

8268トンチンカン信徒:2019/02/06(水) 15:25:37
やはり、ニューエージ思想=グノーシス(異端派)と、カトリックは、そうとらえるようですね。

8269トンチンカン信徒:2019/02/07(木) 04:41:13
カトリック神父さんの先生の動画サイトを聴いていたら、ニューエージは、現代グノーシスだと説教していましたね。

ヨハネの福音書を引用して、最近のユダの福音書やマリアの福音書をさして、何故グノーシスなのか、説教していました。

最近の、ダ・ヴィンチコートやシーザスクライスなど、映画など、作品にも、グノーシス主義は現れてると言われてます。
グノーシス主義は、二元論から成り、『光と闇』を好む性質がある。ルシフェルの教え、反キリストの教えと、言われています。


金を好みます。
確かに、ニューエージはそうなりやすいです信仰です

8270蒼天の實相:2019/02/07(木) 05:36:06
〜キリスト教全体のニューエージ批判〜

14.評価・批判
14.1.キリスト教からの批判
キリスト教の中からニューエイジに対する批判がなされている。
プロテスタントでは、ルーテル教会マリア福音姉妹会の『偽りのメシア運動』、水草修治 著『ニューエイジの罠』、尾形守著『ニューエイジムーブメントの危険』、奥山実著『悪霊を追い出せ!』等による批判があり、ローマ・カトリック教会は教皇庁文化評議会著、教皇庁諸宗教対話評議会による『ニューエイジについてのキリスト教的考察』を出している。西洋文化の支配的な思想と価値観への屈折した反動であるが、彼らの理想主義的な批判は、自らが批判する文化に典型的にみられるものである、と述べている[87]。まだ心の中にしかないものを現実に投影し、知識と意識を過大に評価することにも注意を促している[88]。
水草修治は、ニューエイジと聖書的キリスト教の相違は「人間中心」のニューエイジと「神中心」のキリスト教にあるとし、キリスト教は神の栄光をあらわすことを目的としているのに対し、ニューエイジにおいては人間が自己実現することが究極の目的であると指摘している[89]。

8271蒼天の實相:2019/02/08(金) 09:09:06
>>8270
〜ニューエージはグノーシス(異端派)〜


ニューエイジ(英: New Age「新時代」の意)とは、20世紀後半に現れた自己意識運動であり、宗教的・疑似宗教的な潮流である[1]。ニューエイジという言葉は、魚座の時代から水瓶座の時代(Age of Aquarius)の新時代(ニューエイジ)に移行するという西洋占星術の思想に基づいている[1]。グノーシス的・超越的な立場を根幹とし、物質的世界によって見えなくなっている神聖な真実を得ることを目指す[1]。ニューエイジ思想の運動は、ニューエイジ運動(英: New Age Movement ニューエイジ・ムーブメント、NAM)という[2]。

8272蒼天の實相:2019/02/08(金) 10:20:21
>>8270
〜ニューエージのグノーシス(異端)認定カルト認定〜


6.倫理観・転生思想・精神の物質化
ニューエイジの独特の点として、前向きであることを重視し、「障害」や「否定性」を全く認めないことがあげられる[1]。これは現実世界に対し、自身の望みどおりになるよう要求する主張であるともいえる[1]。前向きな思考・姿勢は、たとえ甘い認識に基づいた浅薄な態度であろうとも、高い目標に到達するための手段として支持される[1]。こうした考えは世界の代表的な宗教と最も異なる点であり、伝統的な宗教に見られる天罰・原罪などの罪と罰の観念はニューエイジには全く見れらない[1]。「善悪」の区別はなく、人の行いは覚醒の結果か無知の結果であり、罪があるとされることはなく、そのため「許し」も必要ない[41]。教皇庁は、ニューエイジでは自己否定を行うことがないため、キリスト教でもないが、仏教でもないと述べている[42]。ニューエイジにおけるカタルシスにふさわしい言葉は、「救い」ではなく「癒し」である[43]。宗教学者の島薗進は、「救い」の観念の欠如が、ニューエイジでは多くの救済宗教で強調される「同胞愛」や「奉仕」の精神があまり見られないことと、深く関連していると指摘している。
オランダの西洋エソテリシズム研究者ヴァウター・ハーネフラーフは、ニューエイジの特徴として「スピリチュアル・マテリアリズム」があり、それは「精神的な豊かさが物質的な豊かさに直結する」、端的に言うと「精神が物質化する」という考え方であるとしている[44]。精神・思いが物理現実に「影響」を及ぼすと考え、「運命」はコントロール可能でそれを変えるのは「自己責任」とされ、暗黙に「不幸」も自己責任である。ニューエイジャーにとって、「助け合い」を義務と考えたりそれに喜びを見出すような態度は、奴隷的従属や自己放棄に見え、さほど褒められるものではない[45]。否定的な気持ちを解決するのが「愛」であるとされるが、行動として示すものではなく、心の持ち方であり、「高波長の波動」であるという[41]。
生まれ変わりの思想は東洋で輪廻として伝統的に見られるが、ニューエイジは転生思想を神智学から直接継承している[1]。西洋の生まれ変わりの思想は、東洋の輪廻観より「はるかに楽観的」で、「生の繰り返し」を通して「学び」、個人が段階的に完成していく過程であるとされた。心霊主義、神智学、人智学同様に、ニューエイジでは生まれ変わりは宇宙の進化への参加であると考えており、潜在能力の完全な開発に向けた段階的上昇であるとしている[46][47]。トランスパーソナル心理学にある「高次の自己(ハイヤー・セルフ)」という概念が信じられ、霊的発展はこれと接触することであるとされた[48]。生まれ変わりの思想は、ニューエイジではキリスト教伝統の神の裁きに関する教えを超えるものとされ、地獄の概念を不要にした[47]。伝統的な宗教では天罰と見做されるような困難との遭遇は、「スピリチュアルな成長」のためのチャンスであり、地上の人生はスピリチュアル発達のための「学びの場」である[1]。人間は自分の現実を創造することができるので、自分の人生は、「病気」でさえ自分で選んだものであるという[48]。夢や瞑想によって前世を知ることができるとされた[47]。
強く思えば願望が叶うというニューソート的なポジティブ・シンキング(積極思考)とニューエイジは同一視して語られることもあり、セラピー文化の中の消費主義的な流れ、霊的成功と物質的成功を結びつける考えとの関連も指摘されている[49]。表象文化研究者の加藤有希子は、ニューエイジ・自己啓発・スピリチュアルにおける、シンクロニシティ、引き寄せの法則、「あなたの思いが実現する」ことといった非因果的連関への信仰の契機は「狂気」であり、非因果的連関・偶然の一致を体験した時の快楽「ヌミノース」がその信仰の核心になっていると指摘している。ヌミノースという快楽を誰でも手軽に体験しようというのが、ニューエイジやスピリチュアルにおける営みであるという[50]。

8273シオン観測隊:2019/02/11(月) 19:55:42
〜異端派・本流運動の歴史〜

概要
生長の家本流運動(せいちょうのいえほんりゅううんどう)は、生長の家の現総裁である谷口雅宣の主張や今の教団の方針を否定し、創始者である谷口雅春の思想の原点に返ることを主張する運動の総称。宗教法人生長の家とは、現在は無関係で、むしろ、対立的である[1



1.概要
谷口雅春の著作(特に、禁書となった戦前版の『生命の實相』を始めとする著作や生長の家政治連合関係の文章)を絶対化し雅春を「開祖」と呼ぶ、自由民主党への強烈な支持、反ユダヤ主義を掲げる、谷口雅宣の方針を否定する、といった特徴を有する。
雅春の主張は、特に大東亜戦争の評価については変遷しており[2]、また、雅春自身は大日本帝国憲法の復原・改正を主張していたが、本流運動の参加者の多くは大東亜戦争には肯定的である(大東亜戦争肯定論を採る)一方で、谷口雅春先生を学ぶ会の機関誌編集長である百地章[3]を始め大日本帝国憲法復原・改正については否定的な者が多く[4]日本会議・安倍晋三による日本国憲法改正路線を積極的に支持している(ただし本流運動の中でもときみつる会は雅春以来の帝国憲法復原改正を踏襲し、日本国憲法改正に反対している)。第2代総裁谷口清超に対する評価は様々であり、雅宣を事実上の次期総裁である副総裁に任命したことを批判する者も存在する。
新教育者連盟は生長の家と協力関係にあったが、現在は理念を異としており、本流運動と関係が深い。また光明思想社が日本教文社に対して作られている。

8274シオン観測隊:2019/02/11(月) 19:58:00
>>8273
〜異端派・本流運動の歴史2〜

2.歴史
2.1.前史
「飛田給派」の成立[編集]

雅春は戦前においては「皇軍必勝」を訴えたり、反共・反ユダヤ主義的な面を強調していた。一方で、文部省による宗教政策に否定的な見解を示したり、「準国歌」的扱いを受けていた海ゆかばへの反対運動を行うなどしたため、特別高等警察との間でトラブルになることもあり内務省の監視対象下に置かれていた[5]。
戦後になると雅春は反ユダヤ主義的な内容を含む教義の一部を撤回し、さらには「天皇中心の社会主義運動」を提唱した。被占領期間中は第二次世界大戦の悲劇を繰り返さないために政治活動を行うことを表明した[6]が、一方で国民主権論を否定もしていた[7]。このような状況において、東京都調布市飛田給にある「生長の家飛田給練成道場」において「愛国」をテーマとする青年向けの練成会が開催されることとなり、生長の家学生会全国総連合(生学連)や生長の家高校生連盟(生高連)が結成された。戦後の学生運動の中では雅春の主張の愛国的な部分が強調されるようになった。
生長の家の政治運動には初期から路線対立が存在していた。最初に対立が表面化したのが生学連で、日本学生同盟との関係を巡って早稲田大学の鈴木邦男と長崎大学の安東巌が激しく対立、鈴木は生長の家を追われることとなった。安東らのグループの中には日本青年協議会を結成した、やはり長崎大学の椛島有三らが存在し、積極的に政治活動を行った。安東は後に生長の家青年会副会長となり、彼らのグループは「生長の家青年局」と飛田給練成道場を拠点にしたため「飛田給派」と呼ばれた。一方で、教団内部には昔からの本部職員や婦人組織である白鳩会を中心にした信仰重視の「本部派」や、出版部門である日本教文社や生長の家総本山を拠点とした「教文社派」と呼ばれる派閥も形成されていた[8]。
日本会議の源流となる椛島・安東の二人がいずれも、(核攻撃を体験し戦争絶対反対のはずの)長崎大学の学生であったというのは非常に興味深い事実であると青木理は述べている[9]。
路線対立と敗北[編集]

青年会を中心に勢力を拡大していた「飛田給派」は、1982年には政治活動に消極的な姿勢を見せた本部派の理事長である和田一夫を辞任に追い込む[8]などの勢いを見せていた。その次に理事長に就任した徳久克己は飛田給道場を長く担当していたこともあり飛田給派の人間であると見られていたが、翌1983年に生長の家理事会は突如として生長の家政治連合の活動停止を表明、さらに1985年には教団が日本を守る国民会議(今の日本会議の前身の片方で財界人・文化人・学者主体[10])からも脱退し、飛田給派の拠点であった「生長の家青年局」も解体された。これを受けて飛田給派の中には伊藤哲夫のように教団幹部でありながら職を辞して日本政策研究センターを作るなど、教団と距離を置くものが出始めた。

8275シオン観測隊:2019/02/11(月) 20:00:23
>>8274
〜異端派・本流運動の歴史3〜

2.歴史
2.2.教団との決裂
1990年、生長の家副総裁に谷口雅宣が就任し、地球環境問題や生命倫理問題を重視した運動が行われるようになると、飛田給派を中心に従来型の運動を求める声が高まるようになる。1998年には生長の家社会事業団(社会事業団)が教団とは独自路線を採用するようになり、2002年には「反教団」を明確に掲げる「ときみつる会」が結成されて「本流運動」の流れが始まった。
教団と飛田給派との対立は、教団系の教育団体である新教育者連盟(新教連)において激しい対立を生んだ。日本教職員組合と激しく対立していた新教連には歴史的に保守・右派色が強く、教団の路線変更を「左傾化」として非難する意見もあった一方で、従来通りの教団との関係を重視すべきだとの意見も根強かった。しかし、2002年に新教連理事会において教団による支配を弱める内容での規約改正が強行された。これを受けて教団と新教連の対立は決定的となり、新教連の支部長の中で全体の8割以上を占める教団側の支部長が抗議して辞任するという結果となった[11]。

8276シオン観測隊:2019/02/11(月) 21:47:50
>>8275
〜異端派・本流運動の歴史4〜

2.歴史
2.3.教団への裁判闘争
本流運動系の諸団体の中で、もっとも強硬に教団を非難する団体として谷口雅春先生を学ぶ会(学ぶ会)とその出版部門光明思想社(教団側の「日本教文社」に相当する社)が結成されると、両者の対立は激化した。学ぶ会の運動の特徴の一つは、インターネット上で教団や雅宣を非難する文章や戦前期・戦後の政治活動期の雅春の思想を拡散したことであり、こうした活動が日本の右傾化(ネット右翼の出現、等)の一因になったとの指摘もある[12]。
また、生長の家の代表的な聖典である生命の実相の著作権を管理していた社会事業団は、『生命の實相 ?革表紙版?』の復刻版の印税の支払いがないとして教団と日本教文社相手に訴訟を行うと同時に、日本教文社に対して生命の実相をはじめとする社会事業団が著作権を管理するすべての聖典の出版契約の更新を拒絶した。[13]教団側は社会事業団側から過去27年間にわたって著作権料の請求がなかったこと等を根拠に「生長の家の文書伝道を阻害することを目的に、本件訴訟を巡る紛争を引き起こしたもの」と判断し[14]て全面的に争う姿勢を示し、教団と教文社側も対抗して訴訟を行った[15]が、いずれも教団・日本教文社の敗訴(本流運動側の勝訴)となった。
さらに、社会事業団は教団に対して教団が信徒に配布している「肌守り」や永代供養に使用する「霊牌」の著作権をも主張し、その使用停止を求めた。2015年に第一審判決では社会事業団側の主張が全面的に認められた[16]が、2016年の控訴審では教団側の逆転勝訴となり社会事業団は敗訴した[17][18]。社会事業団は上告したため、本流運動による教団側への裁判闘争は現在も続いている。
このように、現在では教団と本流運動は全面的な対立関係にある。

8277シオン観測隊:2019/02/11(月) 21:49:46
>>8276
〜異端派・本流の歴史5〜

3.団体
3.1.谷口雅春先生を学ぶ会
東京都中央区東日本橋に本部を置いている団体。略称は「学ぶ会」。34都道府県に支部があると主張している[19]。公式HPに「生長の家大神は住吉大神です」と明記する[20]など、万教帰一を強調している教団[21]と比べて神道色・保守色の強い教義を宣伝している。
自由民主党の稲田朋美や日本教育再生機構の新田均を行事に講師として招聘する[22]など自民党や日本会議との関係が深い。機関誌「谷口雅春先生を学ぶ」の初代編集人は日本会議政策委員の百地章である[23]。

8278シオン観測隊:2019/02/11(月) 21:53:51
>>8277
〜異端派・本流の歴史6〜

3.団体
3.2.ときみつる会
谷口雅宣の義兄である宮澤潔が代表を務める会である。右翼団体「神州蛇蝎の会」と共に大日本帝国憲法の復原・改正を訴えている[24]。


概要
神州蛇蝎の会(しんしゅうだかつのかい)または神州蛇蝎の會(しんしゅうだかつのかい)は日本の右翼団体。大日本帝国憲法の復原・改正を主張しているほか、日章旗・太極旗デモを始めとする「日韓クロッシング」の活動を推進している。


1.概要
代表は大江彰広。メンバーには日本のこころの大阪支部地区委員[1]の西ひとみや、「エコロジー右翼・プロライフ」を掲げる新政未来の党の代表[2]の日野智貴、元行動する保守運動関西地区運営[3]/ 在日特権を許さない市民の会大阪支部長[4]で今は「アジア主義・日本型社会主義」に転向[5]している野本政樹らがいる。
なお、安倍政権には批判的で街宣では脱原発や種子法廃止反対などの主張が行われることもある[6]。代表の大江は安倍批判を避けている改憲派の運動を「大義なき運動」と非難[7]している。


2.活動
2.1.帝国憲法の復原・改正運動
大日本帝国憲法の復原・改正と日本国憲法の憲法としての無効の確認が神州蛇蝎の会の主な主張であり、そのため大阪府内で定期的に街宣活動を行っている。また、同様の主張をしているときみつる会とは協調すること[8]もある。

8279インディアンの教え:2019/02/22(金) 19:54:05

子どもたちは、
こうして生き方を学びます。
批判ばかり受けて育った子は、
人をけなすようになります。
いがみあう家庭で育った子は、
人と争うようになります。

恐れのある家庭で育った子は、
びくびくするようになります。

かわいそうだと哀れんで育てられた子は、
自分が哀れな人間だと思うのようになります。
ひやかしを受けて育った子は、
はにかみ屋になります。
親が他人に対して嫉妬ばかりしていると、子どもも人を羨むようになります。
侮辱したりけなしたりされて育った子は、自分に自信を持てなくなります。

励まされて育った子は、自信を持つようになります。
寛大な家庭で育った子は、我慢することを学びます。
ほめられて育った子は、
感謝することを学びます。

心から受け入れられて育った子は、
愛することを学びます。

認められて育った子は、自分が好きになります。
子どものなしとげたことを認めてあげれば、目的を持つことの素晴らしさを学びます。

分かち合う家庭で育った子は、思いやりを学びます。

正直な家庭で育った子は、誠実であることの大切さを学びます。
公明正大な家庭で育った子は、正義を学びます。
やさしさと、思いやりのある家庭で育った子は、他人を尊敬ることを学びます。
安心できる家庭で育った子は、自らを信じ、人をも信じられるようになります。
和気あいあいとした家庭で育った子は、
、この世の中はいいところだと思えるようになります。

8280シオン観測隊:2019/02/23(土) 04:19:18
〜大熊先生が何故、師範代と言う、宣伝効果のある。在日系極真流分派空手。〜


概要
極真会館(きょくしんかいかん)は、空手団体の一つ。正式名称は国際空手道連盟 極真会館(こくさいからてどうれんめい きょくしんかいかん、International Karate Organization Kyokushinkaikan, IKO or IKOK)。創始者は大山倍達。前身は大山道場。極真の由来は「千日を以って初心とし、万日を以って極とす」という言葉の“心”を“真”に変え、名称とした。大山倍達没後に分裂し、現在では、一般財団法人極真会館(館長・松井章奎)、NPO法人新極真会(代表・緑健児)などが主な会派となっている。

7.分裂騒動
7.2.1994年
大山逝去の翌々日、極真会館の審議(評議)委員長であった梅田嘉明が「大山総裁は遺言で松井章圭を次期後継者に指名された」と発表。5月10日に、梅田を財団法人極真奨学会理事長、松井を館長、郷田勇三を最高顧問、盧山初雄を最高顧問・主席師範、支部長協議会の会長を西田幸夫[10]とし、新体制による運営が始まった。6月に入り、遺族が記者会見を行い「遺言に疑問があるので法的手段にでる」と発表し、本葬時にも抗議活動を行った。国内の支部長では9月迄に高木薫ら計5人が、新体制に異を唱えて離れた。
7.分裂騒動
7.3.1995年
2月に高木薫ら5人の支部長が大山智弥子未亡人を館長とし遺族派(大山派)を結成する。
4月に新体制の松井館長派から、西田・三瓶啓二ら35人の支部長がいる支部長協議会派(現:新極真会)に分裂。この国内の分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きも行われ、分裂が生じた。松井館長派は中村誠や山田雅稔ら12人にまで減ったが、半年後には川畑幸一ら9人が支部長協議会派から復帰した。
8月には智弥子館長を頭とし支部長協議会派と遺族派が合流(大山派)。同年から各種大会が松井館長派と大山派に分裂して開催されるようになった。

7.分裂騒動
7.4.1996年以降
松井館長派と大山派は、それぞれの機関誌である『ワールド空手』と『極真魂』誌上で数年間、双方の正当性を主張しあっていた。1997年3月17日に遺言書の有効性を否定する判決が最高裁で確定した。そののち大山派は、協議会派と遺族派に再分裂。協議会派は1999年に西田・増田章が離脱。さらに理事の役職にあった田畑繁・七戸康博・桑島靖寛らが離れ、前後して離脱した長谷川一幸・大石代悟らと2001年に極真連合会を発足させる。協議会派に残留した者が現在の新極真会となった。遺族派は松島派、手塚グループ、極真会館 宗家に分かれる。
一方、松井は自派を株式会社化し、団体名称を株式会社国際空手道連盟極真会館と刷新したが、こちらもさらなる分裂が続いている。2002年に極真奨学会の梅田が松井と関係を絶つと、同年11月に盧山や地区本部長を務めていた廣重毅・湖山彰夫らも去り、彼らは極真館を興し、梅田と一緒に休眠していた極真奨学会を復活させた。2005年には水口敏夫[11]・河西泰宏らが、2006年には浜井識安が松井派から離れ、極真奨学会の協力団体になった。2008年、木村靖彦が全日本極真連合会へ移り、2010年8月には国際委員会委員で欧州地区担当のルック・ホランダーが、傘下の支部と共に松井派から離脱した[29][30]。この期間に黒澤浩樹・小笠原和彦・八巻建志・数見肇が独立し、自派を発足している。選手ではニコラス・ペタス・野地竜太・高久昌義らが離脱。また、近年では極真会館(松井派)の愛媛県支部長だった高見成昭と高見彰が傘下の分支部と共に独立。2016年には兵庫・大阪南支部支部長の中村誠が松井派から脱退した[31]。

8281読書版から転記:2019/03/04(月) 03:47:34
1128 :アクエリアン :2019/02/23(土) 09:55:11
Primetime Propaganda: The True Hollywood Story of How the Left Took Over Your TV (英語) ペーパーバック – 2012/6/26

ジェイソンモーガンさんのアメリカには言論の自由がないという動画を見てこんな本を見つけました。
面白そう。

“Vitally important, devastatingly thorough, and shockingly revealing…. After reading Primetime Propaganda, you’ll never watch TV the same way again.”
—Mark Levin

Movie critic Michael Medved calls Ben Shapiro, “One of our most refreshing and insightful voices on the popular culture, as well as a conscience for his much-maligned generation.” With Primetime Propaganda, the syndicated columnist and bestselling author of Brainwashed, Porn Generation, and Project President tells the shocking true story of how the most powerful medium of mass communication in human history became a vehicle for spreading the radical agenda of the left side of the political spectrum. Similar to what Bernard Goldberg’s Bias and A Slobbering Love Affair did for the liberal news machine, Shapiro’s Primetime Propaganda is an essential exposé of corrupting media bias, pulling back the curtain on widespread and unrepentant abuses of the Hollywood entertainment industry

8282トンチンカン信徒:2019/03/04(月) 04:31:11
不法侵入者アクエリアン<捕縛>しました!

志恩さんの仲間新羅人のアクエリアンは傍流版入館禁止です!
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

8281:読書版から転記
19/03/04(月) 03:47:34
1128 :アクエリアン :2019/02/23(土) 09:55:11
(AA略)

8283トンチンカン信徒:2019/03/05(火) 07:30:23
楠木氏の真実を知ると、日本の歴史では、<朝敵 >や<ゲリラ>的存在なのが、見えてきました。
楠木正成公だけを、持ち上げ、その後子孫の楠木正勝公子孫は、後南朝として、伊勢へ逃亡し、伊勢楠木氏と成ったのが、事実の歴史である。

彼らの、根底は、あくまで、<後南朝〜大覚寺統小倉宮皇室天皇の復活>である。

現在の、北朝〜持明院統・伏見宮皇室天皇関東天皇家は、滅亡させたい、存在なのだ。


日野ボンも、アクエリアンも、本心は、同じだ、偽り保守である。

これが、正解だ。

8284トンチンカン信徒:2019/03/05(火) 07:32:07
嘘つく、関西人の心底。

8285トンチンカン信徒:2019/03/06(水) 10:38:03
・シオン観測隊〜関西関西隊より

①、いのちを守る親の会=高見空手・極真空手分派(新羅人空手)なの、理由。

②、宇治ウトロ地区は、韓国朝鮮人地区=通名者地区であり、宇治生長の家別格本山に近いこと。

③、母子手帳は、通名新羅人は、本名を使用しないといけない為、新羅人で、ある事を、隠したい、新羅人には、使用出来ない。または、母子手帳を改竄、通名を使用して、日本名偽造パスポートの用にに、して使用している。

④、最近、マイナンバーが、できたの、それも、難しくなった。

⑤、関西方面では、都心より、田舎で、そのことに、理解がないため、通名使用したがる、人が新羅人が、多いため、こうした、現象になってるだけ。田舎病である。

8286蒼天の實相:2019/03/06(水) 11:14:26
〜桓武天皇と坂東平家〜
1.略歴
白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一王子)として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。
父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后・井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる[1]。
天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもある夫人・藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。
延暦4年(785年)9月頃には、早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。
在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。

8287シオン観測:2019/03/06(水) 11:16:51
>>8286
〜桓武天皇と坂東平家〜

1.概要
百済系の渡来氏族で、百済の第25代王・武寧王の子孫と称した[1][2][2]。和(やまと)の名称は、大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市佐保庄町大和一帯)に由来する[4]。
もともと和史姓を名乗っていたが、和乙継(やまとのおとつぐ)の娘・新笠が入侍していた白壁王(光仁天皇)が即位したため、宝亀年間(770年代)に乙継・新笠親子には高野朝臣姓を賜与された[5]。また、乙継の子・国守らその他の一族も延暦2年(783年)に史姓から朝臣姓に改姓している[6]。
光仁天皇と新笠の皇子である桓武天皇は、延暦9年12月30日(791年2月11日)、生母の一周忌に際して、母系の祖父・和乙継と祖母・土師真妹(はじのまいも)に正一位を追贈した。朝臣姓和氏からは、桓武朝で天皇の外戚として中納言にまで昇進し、渡来系氏族として初めて公卿となった和家麻呂(乙継の孫)がいる[7]が、以降は振るわなかったとみられる。朝臣姓「高野」は乙継と新笠の父娘にのみ賜姓されたとみられ、こちらも文献に現れない。

8288シオン観測隊:2019/03/06(水) 11:19:29
>>8286
〜桓武天皇と坂東平家〜
概要
平 高望(たいら の たかもち / 高望王(たかもちおう)、生没年不詳[5][6])は、平安時代中期の賜姓皇族。桓武天皇の孫(もしくは曾孫)にあたり、高望王流桓武平氏の祖。従五位下・正親正・上総介。

1.生涯
寛平元年(889年)5月13日、葛原親王の第三王子高見王[7]の子高望王は、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望を名乗った[8]。
昌泰元年(898年)、高望は上総介に任官した。当時の上級国司は任地に赴かない遙任も少なくなかったが、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴く。高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
しかしその後、延喜2年(902年)に西海道の国司となり大宰府に居住、延喜11年(911年)に同地で没する[6]。なお、この間の延喜3年(903年)には、昌泰の変により失脚した菅原道真も同地で薨去している。

8289蒼天の實相:2019/03/06(水) 11:25:02
〜桓武天皇と坂東平家〜
概要
葛原親王(かずらわらしんのう、延暦5年11月7日(786年12月1日) - 仁寿3年6月4日(853年7月13日))は、平安時代初期の皇族。桓武天皇の第3皇子。官位は一品・大宰帥。桓武平氏の祖。
目次


1.生涯
寛平元年(889年)5月13日、葛原親王の第三王子高見王[7]の子高望王は、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望を名乗った[8]。
昌泰元年(898年)、高望は上総介に任官した。当時の上級国司は任地に赴かない遙任も少なくなかったが、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴く。高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
しかしその後、延喜2年(902年)に西海道の国司となり大宰府に居住、延喜11年(911年)に同地で没する[6]。なお、この間の延喜3年(903年)には、昌泰の変により失脚した菅原道真も同地で薨去している。

1.経歴
延暦17年(798年)異母兄弟の大伴皇子(後の淳和天皇)と共に元服。延暦22年(803年)四品・治部卿に叙任される。
延暦25年(806年)平城天皇の即位後まもなく大蔵卿に任ぜられ、弾正尹を経て、大同4年(809年)三品に任ぜられる。弘仁元年(810年)薬子の変に前後して式部卿に遷ると嵯峨朝ではこれを10年以上務め、弘仁3年(812年)大宰帥を兼ね、弘仁7年(816年)には二品に叙せられている。
弘仁14年(823年)淳和天皇の即位後に弾正尹に遷り、天長2年(825年)には息子を臣籍降下させ平朝臣姓を称することを上奏して許されている。天長7年(830年)式部卿に復し、翌天長8年(831年)には託基皇女以来80年ぶりに一品に叙せられている。こののちも、約20年の長きにわたって式部卿を務め、この間の承和2年(835年)に甲斐国巨麻郡(現在の山梨県南アルプス市)の牧であった「馬相野空閑地五百町」を与えられている。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後に、再度大宰帥に任じられている。
仁寿3年(853年)6月4日薨去。享年68。最終官位は一品大宰帥。遺言により葬儀は質素なものとしたという。伝承の墓所と邸宅跡地が京都府乙訓郡大山崎町にある。
親王として諸官を歴任したが、特に式部卿については、弘仁元年(810年)に任官ののち、途中弘仁14年(823年)から天長7年(830年)の期間を除いて、嘉祥3年(850年)に大宰帥に転任するまでの33年間にわたってその職にあり、『六国史』の薨伝において「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」[1]と親王自身が政務に熟達し、朝廷で重んじられていたことが記されている。

8290蒼天の實相:2019/03/07(木) 10:57:10
生命の實相は、頭注版八巻まで、読めよい。
MES
〜雅春先生曰=生命の實相は、頭注版八巻まで、読めよい。〜
※(注意)新羅人でフリー信徒の、生長の家無視格信徒の志恩さんのコメントは、聞かないでぐたさい。全部嘘です。

8291蒼天の實相:2019/03/08(金) 10:24:30
〜持明院統天皇家〜
(北朝天皇家現日本国天皇関東天皇家)
持明院統という名称は、鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発する。
基頼の孫持明院基家の娘陳子が守貞親王の妃になり、守貞親王はこの邸宅・持明院殿に居住した。承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王(後堀河天皇)が天皇となった(守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称した)。そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内を仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院殿内に住んだ。これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と称されたと伝えられている。しかし、実際には持明院は後堀河上皇の崩御後はその皇女であった室町院(暉子内親王)が居住し、室町院没後の遺産配分によって後深草上皇の子である伏見上皇が持明院を相続して正安4年(1302年)に仙洞御所としたことにより持明院統と称されたのが由来とされている。
院政を敷いた後嵯峨上皇が、後深草上皇の弟亀山天皇の子孫(大覚寺統)が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草上皇と亀山天皇の間で対立が起こり、鎌倉幕府により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。
元弘3年(1333年)、大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇による建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統に統一されたかに見えたが、新政は2年半にして崩壊する。吉野に逃れた後醍醐天皇に代えて、足利尊氏は持明院統(北朝)の光明天皇を擁立する。後醍醐天皇は自己の正統性を主張し(南朝)、南北朝時代となる。
後、後小松天皇の代に明徳の和約によって皇統は持明院統に統一されることとなる。だが、その系統は次の称光天皇の代に断絶し、同じ持明院統に属する伏見宮から皇位継承者が迎えられ、現在の皇室へと続くことになった。

8292蒼天の實相:2019/03/08(金) 10:33:14
>>8291
〜持明院統天皇家〜
(北朝天皇家現日本国天皇関東天皇家)
2.持明院統の分裂
現在の日本の皇室は、この持明院統の子孫であるが、初期から三分裂(後二条天皇流、後醍醐天皇流、常盤井宮流)していた大覚寺統ほどではないものの、持明院統も後半では崇光院流と後光厳院流の二つに分裂した。
正平一統の際に、当時の治天の君であった光厳上皇、その弟である光明上皇、当時の北朝の天皇である崇光天皇、皇太子である直仁親王ら北朝の皇族のほとんどが南朝軍に連行されてしまった。その際、僧侶になる予定で妙法院に預けられていた崇光天皇の弟宮を確保した足利氏は北朝方廷臣と図って、この宮を擁立した。これが後光厳天皇である。新帝は三種の神器も当時の皇位継承法(慣習法)において必要であった「治天による伝国の詔宣」を欠いた状態での即位を余儀なくされた上、これに激怒した南朝軍によって京都を追われ、足利氏とともに美濃や近江を転々する経験をした。このため、足利氏は自分達と苦労を共にしてきた後光厳天皇を重んじる姿勢を示した。その後、南朝は光厳法皇(上皇)や崇光上皇らの返還に応じた。その際、治天の君であった光厳法皇によって「持明院統の嫡流」と位置付けられていた崇光上皇に対して、南朝方は自身及び子孫の皇位継承権を放棄するように迫り誓約させた上で京都への帰還を許した(『看聞御記』永享5年11月23日条、『満済准后日記』永享5年10月23日条、『建内記』文安4年3月22日条)。光厳法皇や崇光上皇にとって本来は僧籍に入る予定であった後光厳天皇の即位は想定外であり、更に直仁親王も出家してしまったため、法皇は長講堂領など持明院統相伝の所領のほとんどを崇光上皇に与え、皇位継承権は崇光天皇の子孫(=崇光院流)にある姿勢を明確にした。これに対して、室町幕府と後光厳天皇は光厳法皇と崇光上皇へ出仕する公家を処分する(『園太暦』延文2年2月19日)として光厳法皇らを牽制している。また、後光厳天皇は光厳法皇は正平一統以前は自身と崇光天皇の子を全て出家させて、直仁親王(正平一統による廃太子後に出家)の子孫に皇統に一本化しようとしていた事情を知っており、その可能性が亡くなった現在、従来の皇位継承は白紙になったと捉えていた[1]。

〜〜つづき〜〜

8293蒼天の實相:2019/03/08(金) 10:35:18
>>8292
〜持明院統天皇家〜
(北朝天皇家現日本国天皇関東天皇家)

ところが、光厳法皇が崩御すると、後光厳天皇は自己の子孫に皇位を継承させたいと願い、室町幕府にその意向を示した。折しも幼少の将軍足利義満の時代であり、管領として義満を庇護していた細川頼之は幼少の将軍では判断が難しい事を口実として、天皇の聖断に従う意向を示した。これに従って後光厳天皇は実子の後円融天皇に譲位、更に11年後に後円融天皇が実子の後小松天皇に譲位した際にも既に成人していた義満はこれに同意し、後光厳院流が皇位を継承することを支持する態度を示した。これに崇光上皇は激しく反発して実弟や甥と対立したものの、義満の権勢の前には如何ともしがたかった。加えて南朝方と依然交した誓約は後光厳院流に対しても有効であるとみなされ、崇光上皇は失意のうちに崩じた。崇光院流の後継者で本来であれば将来の皇太子に予定されていた栄仁親王は祖父の光厳法皇から保証されていた持明院統相伝の所領のほとんどを後小松天皇に奪われ、失意のうちに出家した。親王の子孫はその居所から「伏見宮」と称された。後小松天皇は足利義満・義持親子の庇護を受けて明徳の和約による皇統統一に成功し、続いて長男の称光天皇に皇位を譲り院政を開始した。一方、伏見宮は栄仁親王とその長男の治仁王が相次いで没して衰退の一途をたどっていた。
ところが、称光天皇は病弱の上に子供に恵まれず、儲君とした弟の小川宮も兄に先だって没した。後小松上皇というより、後光厳院流には他に皇位を継承できる男性皇族が存在しなかったために、その断絶の可能性が高くなった。一方、南朝系の人々(後南朝)はこれを見越して皇位継承を求める動きを活発化させていった。苦悩した後小松上皇は伏見宮を継承していた栄仁親王の次男・貞成王を自己の猶子として親王宣下を行い(応永32年4月16日)、万が一の事態に備えようとした。ところが、皇位を奪われるのではないかと不安を抱いた称光天皇が6月28日になって出奔を図った(『薩戒記』)。これに驚いた後小松上皇は一転して貞成親王に出家を迫り、閏6月3日に親王は出家させられることとなった。ところが、これによって皇位継承問題は振り出しに戻っただけではなく、後小松上皇は称光天皇・貞成親王双方との関係を悪化させた。ところが、正長元年7月6日になって遂に称光天皇が危篤に陥った。将軍足利義教は7月13日貞成親王の皇子・彦仁王を秘かに保護した上で後小松上皇に今後の判断を委ねた。上皇は直ちに彦仁王を自己の猶子として皇位を継承させることを決断し、天皇の崩御を経た後の7月28日に彦仁王を自己の猶子として皇位に擁立した。これが後花園天皇である。貞成親王の時の失敗を繰り返さないため、称光天皇の生前にはこの計画は極秘に進められた。このため、新天皇は親王宣下も立太子もなく即位することとなった。
新天皇の元でも後小松上皇が院政を行ったが、貞成親王との確執は収まらなかった。上皇はあくまでも後光厳流の継続を意図して新天皇を崇光院流・伏見宮とは無関係な自分の実子として扱おうとした。これには新天皇の即位によって皇統が崇光院流に復帰したと考えた貞成親王は反発した。後小松上皇は『本朝皇胤紹運録』を編纂させ、南朝の天皇の記述を排除するとともに後花園天皇を自分の子として系譜に書かせ、伏見宮と切り離して記させた。永享5年、既に法皇となっていた後小松法皇が崩御した。その際に3ヶ条からなる遺詔を残したことが『建内記』(文安4年3月6・23日条)及び『満済准后日記』(永享5年10月23日条)から知る事が出来る(ただし、後者は2ヶ条と記されている)。それは、「後光厳院流を断絶させないこと、すなわち貞成親王に太上天皇の尊号を贈って後花園天皇との親子関係を認めることは許さない」、「自分の仙洞御所を伏見宮(貞成親王)の御所にしない」、「自己の追号を後小松院とすること」であった(『満済准后日記』は尊号と仙洞御所の件を合わせて「後光厳院流を断絶させないこと」の1ヶ条とみなしたために2ヶ条と記されているのである)。後小松法皇の側近たちはこの遺詔に基づいて「実子」である後花園天皇が父である後小松法皇の喪に服する「諒闇」の儀式を行うべきと主張した。当時の公家政権に大きな影響力を有した前摂政一条兼良や准后満済、将軍足利義教らがこれに同意したために諒闇が実施されることとなった。この際満済はかつての崇光天皇が南朝方と誓約した件を持ちだし、崇光院流には皇位継承権がないことをほのめかす主張している(『満済准后日記』永享5年10月23日条)。これに貞成親王は激怒し、兼良や満済の天皇への不忠を詰っている(『椿葉記』)。

〜〜〜つづき〜〜

8294蒼天の實相:2019/03/08(金) 10:36:12
>>8293
〜持明院統天皇家〜
(北朝天皇家現日本国天皇関東天皇家)

だが、後花園天皇が成長すると、この状況に不満を抱くようになり、父である貞成親王や弟の貞常王を優遇する方法を模索するようになる。永享8年後小松法皇の仙洞御所の一部が新しい伏見宮邸の敷地として献上された(ただし、先の遺詔に配慮して敷地の全部を明け渡すことは回避された)。続いて嘉吉3年には天皇から貞成親王に対して、まず貞常の元服と親王宣下を行い、その後に尊号を奉る意向が伝達された。(『看聞日記』嘉吉3年4月26日条)。文安2年(1445年)3月16日、関白二条持基の加冠によって貞常王の元服が行われた。ところが、同時に行われる筈であった親王宣下が中止され、6月7日には「荒説」「云口」(すなわち悪口)を理由として後小松法皇の側近であった広橋兼郷と白川雅兼が追放されたのである。その内容は不明であるが、両者が後小松上皇の側近であり貞成親王への尊号と、その前提となる貞常への親王宣下に反対して、貞成親王や貞常王に対する誹謗を行ったとも言われている。この騒動後の6月27日貞常王への親王宣下が行われた。続いて文安4年3月になると、後花園天皇の貞成親王への尊号が提案され、激しい議論が行われた。『建内記』の著者である万里小路時房が後小松法皇の遺詔を持ちだして天皇を激しく諌めたのもこの時のことであった。だが、天皇の意思を変えることは出来ず、同年11月27日、貞成親王は天皇の実父であることを理由に太上天皇の尊号を贈られて、後に「後崇光院」と称されることとなった。これによって後光厳院流が称光天皇の代で断絶したことと崇光院流によって皇位継承が行われることが確認されたのである。崇光院流が現在の皇室の直接の祖先にあたる。また、後花園天皇の弟である貞常親王は父・貞成親王の崩御後に伏見宮を継承、世襲親王家としての地位を認められることとなった。もっとも、後小松法皇の没後の法要が後花園天皇によって長く国家的行事として行われたのに対して後崇光院の法要が国家的行事の性格を有していない(伏見宮家の行事の範囲で行われている)ことから、後花園天皇が自身による後光厳院流の継承を否定していた訳ではないとする指摘もある。

8295トンチンカン信徒:2019/03/12(火) 22:20:44
サンピエトロ大聖堂、バチカンでは、東日本大震災の被災者為の、ミサが、行われました。

神のミサですね。

花は咲くの歌、日本語で、合唱されていました。

本当に、神のミサです。
尊いです。

3月11日。

8296シャンソン:2019/03/13(水) 07:09:39
>関西国際大学 国際コミュニケーション学部座談会 http://www.kuins.ac.jp/faculty/english/news/discussion.html

友人夫婦の話によると
 最近は昔とちがって、「英語」が難しくなってきているそうです。
 某予備校の講習科目を見せてもらったら、英語の講座が多いのに
 びっくりしました。

8297トンチンカン信徒:2019/03/13(水) 08:59:11
訊け氏と志恩さんが、東日本大震災と東京オンリピック&パラリンピックについて、デマを、流しいる。

デマと言うか、僻みのような、デマですね。


桜島が爆発しても、政府や天皇陛下は、振り向いてくれない、鹿児島にくらべて、東北がローマ教皇までミサをしてくれて、世界のニュースになる、東北福島が、うらましいのですね。


これが、現実ですね。

8298トンチンカン信徒:2019/03/13(水) 09:20:16
基本今回オンリピックは、東京2020オンリピック&パラリンピック東北復興支援大会

だと思ったよ。
だから、聖火リレー福島県スタートでしょ。


パラリンピックがある。当初からだよ。障害者アスリート支援だからね。

訊け氏や志恩さんは、このへんの、デマを流してるが、良くわかるし、都民じゃないから、実際をしらないから適当なコメント書いてくる。

8299シャンソン:2019/03/13(水) 09:27:37

デマかなにか知らないけど、志恩さんは
 前に訊け氏に騙されていますね(笑)
 それに、訊け氏が出てきたら必死にあとを追っています(笑)
 おろかな人だと思います。

8300シャンソン:2019/03/13(水) 09:48:25
8297 :トンチンカン信徒 :2019/03/13(水) 08:59:11
訊け氏と志恩さんが、東日本大震災と東京オンリピック&パラリンピックについて、デマを、流しいる。

デマと言うか、僻みのような、デマですね。<


でもさっそく、傍流の話を貼って迷惑に出しゃばり、
 こっちが反論すると、逃げ出し、訊け氏のオリンピック話に
 首を突っ込んでは、私の地区の慶應ではって
 話をすり替えています。
 自分の話に必死です(笑)

8301トンチンカン信徒:2019/03/13(水) 09:52:42
>>8299
志恩さんは、ここところ、訊け氏登場したからなのか、昔の様に、訊け氏の後をアイドル歌手の追いかけの如く、追いかけしてます。

管理人トキさんが登場しても、同じですが。
追従主義はかわりません。

愛してるハズの、御主人の最後を見とれなくて、悲劇ですね。

8302シャンソン:2019/03/13(水) 10:39:42

 こういう話をすると、また、なんだかんだと政治版まで使って
 低次元な個人の話をしてきます。
 そして他人には、生長の家のためにならないとかいって妨害する。

 志恩さんは、トキ掲示板では誰がどこで返信してもいいんだ
 とか、私の投稿を勘違いして、そそっかしく曲解して、
 そして怒っているようでした。
 トンチンカン信徒さんと似ています。

 そういう意味で、志恩さんとるん吉さんとンチンカン信徒さんは
 同じ仲間なのでしょう。

8303トンチンカン信徒:2019/03/13(水) 11:46:16
>>8302
シャンソンさん

それは、違うでしょ。

トンチンカン=志恩さんとるん基地とアクエリアン氏、訊け氏は、仲間だから、<本島版>にいたし、仲良くも、以前か、良く会話記録が、ありますね。

低次元とか、いいますが、基本、志恩さんのダーリの亡くなった件から、からですね。

本島版観測記録から明で、本島住民の殆どが、シャンソンさんを、苛めています。アクエリアン氏も例外ではありません。

それだけは、伝えおきます。

8304トンチンカン信徒:2019/03/13(水) 12:39:59
>>8303
それは、違いますね
シャンソンさん


本島版閉鎖派や、傍流版へ理不尽な、行為を沢山していたのは、何度も、確認してます。
特、当時は、トンチンカン信徒は、トンチンカンと対峙していたの、その事、間違いないです。


志恩さん=トンチンカン(同一人物)として、活動してましたからね。


シャンソンさんは、当時から、この辺の、コメントが、可笑しいので、矛盾行為と捉えました。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
4969:シャンソン
19/03/13(水) 12:18:58
>志恩さん仲間じゃないなら、志恩さんの仲間のアクエリアン氏がどうして、入館して

ひとりごと版は、アクエリアンさんやぼるぼさん優先で
 真面目な話版は、日野君優先で。

 他にも事情通さんとか、有能な人がいろいろ
 書き込みしてくれていましたよ。
 トンチンカン信徒さんと、トキさんだけがおかしいのです。
 変態みたいで。

8305トンチンカン信徒:2019/03/13(水) 12:44:03
>>8304
低次とか、子バカしするコメントて、ナチスに見られ特徴とにてる、そうです。

解析によって、分かってきています

8306シャンソン:2019/03/13(水) 16:44:12
>本島版観測記録から明で、本島住民の殆どが、シャンソンさんを、苛めています。アクエリアン氏も例外ではありません。

それだけは、伝えおきます。<


アクエリアンさんや本島関係の人に何の関係があるのかわかりません。
 訊け氏や志恩さん・るん吉さんなどは
 自分は被害者だ。いじめられていると思っているようですが?
 
 だから、ここの管理人が、ぼくはケンカが苦手ですうといって
 意見を出させるままでなにもまとめないから、悪いのです。
 本板での混乱をさけるために、傍流を作ったと、るん吉氏にトキさんは
 説明していますが、それとはべつに、るん吉とともに、傍流の批判をし、
 そういう意見専門の版も検討するといっていました。

 その件についても何回か聞いていますがなにもいいません。
 志恩さんやるん吉さんを管理人が教唆しているわけではないと
 自己弁護に必死で、なにもまとめる気がないようです。

 たぶん、トキさんの特定の目的とは、
 匿名で今の教団の現状に対する愚痴や世間話をすることじゃないですかね。

8307シャンソン:2019/03/13(水) 16:52:40
>>8301
>愛してるハズの、御主人の最後を見とれなくて、悲劇ですね。

はあ?訊け氏と共に、はなださんを痛めつけたあと、
 志恩さんは、はなださんに、来年の●●まで忙しくて書き込みできないと
 いいながら、年末に「ミバレした夫って誰のことなのか、私は現在独身です。
夫は四月に死にました」とか言い出して、ミバレした夫っていうのが、志恩さんではなく
志恩さんの友人の方が自分のことじゃないかって心配して、それで志恩さんは
書き込みしたんだって弁解していました。

 私が、志恩さんは来年まで書き込まないっていってたのではないですかと
つっこむと、「ええ、でも最近この掲示板に書き込む人が少なくなって来たでしょう」と
ぼけます。

 そしてそれから、延々と、夫の最後の現場を妻として立ち会えたとかどうとか
小義の話に必死になっていたから、たぶん、看取れたんじゃないですか?
 4月13日が命日だそうですよ。

 そのとき、もう夫の話はやめてくださいとかいってたのに
 その後、延々と書いていますよ。
 お話の会をはじめています。こういう人だから、あまり真剣に相手にしないようにしてください。
 また、濡れ衣着せられます。

8308シャンソン:2019/03/13(水) 17:05:34
>はあ?訊け氏と共に、はなださんを痛めつけたあと、

それで、トーキング版で、音階のちがう話ばかり書いてる人がいたから
 私は書き込み禁止だったけど、トーキング版に「いいかげんにして」と
 注意しに行ったんですよ。
 そうしたら、トキさんが、「その言い方はきついですよ。自分の好きなテーマを
やってもらいたいのならこうこうで」と私に横やりを入れてきます。

 そして、傍流では、訊け氏に、はなださんやうのはなさんが反対しても大丈夫ですとか
いっていました。結局はなださんは心臓発作をおこして、志恩さんとも会話が成立しなかったみたいで
この掲示板から離れていかれました。

 トーキング版2ができたけど、そこで訊け氏は自分の好きなテーマについて
投稿していますか?もともと、トーキングスティックの趣旨は何だったのですか?

 そのとき、はなださんが、志恩さんについて嘆いていたので、私が
「はなださんの気持ちもわかります」とひとこと書いたら、志恩さんは
「うのはなさん、はなださんにからまないでください」といいます。

 そして、前に志恩さんは、はなださんとの雑話で、
「志恩は生長の家のためにならないから、このまま引退しようかと考えている」とか
そんな会話をしていた。といったら、

「嘘をつかないで。私はそんなことをいっていない」と興奮して怒り出します。
でも、探したら、そのようなことをいってる投稿があったので、それを傍流に貼りました。

 きのうでも、志恩さんはそそっかしいのでこう書いてくれると助かりますと
言い逃れしています。しかし、志恩さんのような人は、どんな書き方をしても
的外れなことをしでかします。そういうのは「そそっかしい」性格とは別問題だと思います。

8309シャンソン:2019/03/14(木) 14:58:46
>>8305

 解析したの?それでさっき変な信号が出たんだな。
 ところで、卑怯なスレッドを作る、とても生長の家の年長者には
 思えない志恩あらしへの反論を新掲示板にコピペしてください。
 
 なにが、この文言だけ読むと志恩にもいってるように見えます、なんだ。
 全体をよく読め!

8310シャンソン:2019/03/14(木) 15:05:20

  人々の偏見とは違う意見を冷静に
  表現できる人はごくわずかです。
  ほとんどの人は、
  そのような意見を持つことすらできません。

  誰もが世論の形成に関わっています。
  何が必要なのかをしっかり理解し、
  それを発表する勇気を
  持たなければなりません。

    byアインシュタイン

8311トンチンカン信徒:2019/03/14(木) 17:42:46
>>8309
シャンソンさん

志恩さんは、かなり、差別コメントをしてます。
ナチス並みです。アフリカ黒人が、志恩さんが、嫌いなことが、判明してます。

ブラックソンさんが、原宿本部に来たころ、志恩さんて、どう言う対応したか、微妙ですね。

凄く気になります。
谷口雅春先生の部屋へ御通さなたりして、大変失礼な、職員じゃないですかね。志恩さんて。

8312トンチンカン信徒:2019/03/14(木) 17:47:21
>>8311
シャンソンさん

こうした、新羅人的な差別意識のある、志恩さんて、日本人では無いと、解析できるわけです。

新羅の人は、良く、ドラマでも、差別が、激しいですね。

日本のドラマは、そうした場目はありません。

8313トンチンカン信徒:2019/03/14(木) 23:33:41
<傍流版共同統治権住民権>により、トンチンカン信徒も、シャンソンさん同じ権利がある。

シャンソンさん、差別コメントは、共同統治法違反
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
>変態とか、低次元とか、呼び捨てしたりするは、シャンソンさんが、<差別>してるからですよ

 わたしは、無能男の掲示板で、長い間、生長の家の名称をはずせとか
 生長の家の恥だとか、雅春先生を汚す奴は出ていけとかいわれ続けてきたのです。
 愚かな老人などは、生長の家の今後を考えた場合、この傍流などは
 トキ管理人の方針通り閉鎖したらいいと、執拗にいやがらせをしてきます。

 差別でもなんでも偏狭で生長の家とは無縁の場所だと
 管理人自身が明記しているように、
 ここでの発言は、原則、私の自由なんです。
 差別でもキャベツでもなんでもいいのです。わかったか!!
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
シャンソンさんが、自由なら、トンチンカン信徒も自由である。

8314トンチンカン信徒:2019/03/14(木) 23:48:10
>>8309
シャンソンさん

不法侵入者の

※ハンネ=うのはな9年目と、アクエリアン氏は、推定、同一人物と思われますね。

侵入の仕方が、良く似ています。

シャンソンさんが、どう思うかしらないが、そう鑑定しています。

8315若い:2019/03/15(金) 04:34:11
> 私たち、一人一人が地道に勉強をし、三正行を行うことが大事であり、それこそが真の「若い」への道だと信じており

三正行は若さを保つために、アンチエイジング効果があると
 いうことですか?

8316若い:2019/03/15(金) 04:41:44
>志恩さんは、かなり、差別コメントをしてます。
ナチス並みです。アフリカ黒人が、志恩さんが、嫌いなことが、判明してます

 訊け氏も、るん吉さんもそれ以外の人も
 ずっと、人を愚弄し、中傷揶揄してるし
 事実ではない話のつくりかえをしていますよ。
 ここの管理人の心の影でしょう。

 トキ管理人には、そういう愚かな人たちにはえこひいきして
 なにもいいませんから。

8317神の子様:2019/03/15(金) 04:45:24
>最初に言っておきますが、私、自然エネルギーを否定するつもりはありません。それはそれで有意義だと思います。

 しかし、本部から電話がかかってきて、
 「トキ」という人物の意見に賛成かと聞かれると
 「反対だ」という。

8318シャンソン:2019/03/15(金) 04:53:57
私は、結構、そそっかしいですし、、講師でもない
大したことのない人間ですのに偉そうな口をきいてますせいか、
掲示板では、日々、ボロクソに言われていることは
自分でも認識しており、それは、昨年とちっとも変わっていないです。

ですけれど、
トキ掲示板に出させていただけることはとても光栄に幸せに思っています。
掲示板で学ぶことも大変多いです。
トキさま、皆様、ありがとうございます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜^

 志恩さんは、運営方針版に書き込み資格がないのに
訊け氏のあとを追って入って来て、それでは、志恩もそろそろ
卒業しようかなとか、フェイスブックについて訊け氏に尋ねているようでした。

 そのときも、●●さんの投稿を掲示板には出て来なくてもいつも拝聴させてもらうtか、
ここにいいる皆さんには感謝でいっぱいですとか、うだうだ書いていましたが、
誰も聞いていないのか、これといって運営版で惜別の辞、みたいなことはなかったように
思います。

 もともと、話すことに信用がないのかもしれません。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板