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「まじめな話」の板

8274シオン観測隊:2019/02/11(月) 19:58:00
>>8273
〜異端派・本流運動の歴史2〜

2.歴史
2.1.前史
「飛田給派」の成立[編集]

雅春は戦前においては「皇軍必勝」を訴えたり、反共・反ユダヤ主義的な面を強調していた。一方で、文部省による宗教政策に否定的な見解を示したり、「準国歌」的扱いを受けていた海ゆかばへの反対運動を行うなどしたため、特別高等警察との間でトラブルになることもあり内務省の監視対象下に置かれていた[5]。
戦後になると雅春は反ユダヤ主義的な内容を含む教義の一部を撤回し、さらには「天皇中心の社会主義運動」を提唱した。被占領期間中は第二次世界大戦の悲劇を繰り返さないために政治活動を行うことを表明した[6]が、一方で国民主権論を否定もしていた[7]。このような状況において、東京都調布市飛田給にある「生長の家飛田給練成道場」において「愛国」をテーマとする青年向けの練成会が開催されることとなり、生長の家学生会全国総連合(生学連)や生長の家高校生連盟(生高連)が結成された。戦後の学生運動の中では雅春の主張の愛国的な部分が強調されるようになった。
生長の家の政治運動には初期から路線対立が存在していた。最初に対立が表面化したのが生学連で、日本学生同盟との関係を巡って早稲田大学の鈴木邦男と長崎大学の安東巌が激しく対立、鈴木は生長の家を追われることとなった。安東らのグループの中には日本青年協議会を結成した、やはり長崎大学の椛島有三らが存在し、積極的に政治活動を行った。安東は後に生長の家青年会副会長となり、彼らのグループは「生長の家青年局」と飛田給練成道場を拠点にしたため「飛田給派」と呼ばれた。一方で、教団内部には昔からの本部職員や婦人組織である白鳩会を中心にした信仰重視の「本部派」や、出版部門である日本教文社や生長の家総本山を拠点とした「教文社派」と呼ばれる派閥も形成されていた[8]。
日本会議の源流となる椛島・安東の二人がいずれも、(核攻撃を体験し戦争絶対反対のはずの)長崎大学の学生であったというのは非常に興味深い事実であると青木理は述べている[9]。
路線対立と敗北[編集]

青年会を中心に勢力を拡大していた「飛田給派」は、1982年には政治活動に消極的な姿勢を見せた本部派の理事長である和田一夫を辞任に追い込む[8]などの勢いを見せていた。その次に理事長に就任した徳久克己は飛田給道場を長く担当していたこともあり飛田給派の人間であると見られていたが、翌1983年に生長の家理事会は突如として生長の家政治連合の活動停止を表明、さらに1985年には教団が日本を守る国民会議(今の日本会議の前身の片方で財界人・文化人・学者主体[10])からも脱退し、飛田給派の拠点であった「生長の家青年局」も解体された。これを受けて飛田給派の中には伊藤哲夫のように教団幹部でありながら職を辞して日本政策研究センターを作るなど、教団と距離を置くものが出始めた。


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