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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

222修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/21(土) 17:38:02 ID:/XJTTU3k
武田知己「日本外務省の対外戦略の競合とその帰結」(「年報日本現代史」編集委員会『検証アジア・太平洋戦争』2011年)
 30年代の外務省の主流はアジア派。メンバーの中核は有田八郎と重光葵→アジア派と対立したのが革新派、白鳥敏夫が中心
 アジア派以外の主要メンバーは欧米派。幣原喜重郎や広田弘毅など
 白鳥は満州事変拡大の過程で幣原外交と訣別し、事変の拡大を支持した
 欧米局長東郷茂徳の国際情勢判断→東郷はリアリスト、イギリスとの協調に可能性を見出し、日英関係を通じて対米関係の改善を構想
 東郷はソ連との不可侵条約締結を強硬に主張→これを締結すればアメリカの警戒心も緩和されると考えていた
 重光の構想→東郷が中国本土への進出を戒めていたのに対し、重光は満州国周辺への勢力拡大を目指していた。アジア・太平洋をアメリカと分割することも考えていた
 重光路線への批判→中国通の外交官は中国の国家統一を日本は援助すべきだとしていた。東郷も重光を批判
 ただ、重光らアジア派の路線は、欧米派や革新派と緩やかに提携していく→アジア派と欧米派は英米協調・反ソで共通性。東郷もイギリスとの協調で共通性
 →革新派は対ソ戦争を辞さないという点以外で重光の路線とほぼ同じ
 →重光の路線は日中全面戦争開始で挫折する→英米を敵に回してしまった。重光は中国との戦争など想定していなかった
 →重光の路線は、ソ連・中国内部の共産勢力との対立を利用して英米と協調すること

223修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/22(日) 10:05:33 ID:/XJTTU3k
鹿錫俊「日独伊三国同盟をめぐる蔣介石の多角外交」
 蔣介石の基本方針は、日本以外の全ての国と友好関係を結ぶというもの→ドイツが満州国を承認して以降は、ドイツを区別するようになる
 想定外の事態→独ソ不可侵条約、欧州戦争でドイツが快進撃→蒋介石外交は、どっちつかずの静観になる
 日本が独伊と同盟条約を締結するという第一報→蔣介石にとっては望んでいた局面→ただ、ソ連がどのような態度をとるのか計りかねている
 →日独伊三国同盟については沈黙し、日本を南進に向かわせる方針になる。国民党は共産党との対決にそなえて戦力を温存する方針
 →日本のみを敵国とする方針を堅持、欧州戦争に介入しない、ドイツによる日中戦争の調停を拒否しない、ソ連の態度表明を待つ
 日独伊三国同盟は日本が公式に独伊陣営に参加したことを意味する→英米は日本を牽制するために中国を支えなければならなくなる
 中国共産党だけは英米と提携してはいけないと主張→蔣介石はソ連の意志によるものと見た→蔣介石はソ連の援助を獲得したかったが、ソ連に支配されることは避けたかった
 ただ、蔣介石は独ソ関係は破綻すると予測、ソ連が日独伊に対抗することを期待していた。欧州戦争も英が勝つことを予測→対日平等講和の可能性を見出す
 →蔣介石は日本を甘く見ていた。日本は蔣介石の予測とは違う方向に進んでいく→ただ、日本との講和以外は蔣介石の試みは大方成功している
 →英米の援助獲得、ソ連の動向予測は当たった、欧州戦争でドイツが苦境に陥る予測も当たった→日本側の予測は蔣介石の予測より認識が甘かった

224修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/23(月) 18:39:10 ID:/XJTTU3k
手嶋泰伸「海軍の対米開戦決意」
 日本の南部仏印進駐→アメリカの経済制裁(石油禁輸、在米日本資産の凍結)→海軍は対米戦を現実的に検討。海軍で強硬な意見を持っていたのは、永野修身と中堅層
 海軍省首脳部は対米戦に極めて慎重。海軍が要求していたのは万一のための準備→時間をかせぎつつ、石油を獲得する手段が現れることを期待した
 →ただ、対米戦に消極的な発言をすると軍備整備に遅れが生じるというジレンマから、ストレートに対米戦反対の意思表示ができなかった
 帝国国策遂行要領では、期限の10月15日がきたら何らかの行動を起こさねばならないとなっていたので、対米戦に慎重な勢力は焦っていた
 10月17日、近衛内閣は閣内不一致で総辞職する→東条内閣に嶋田繁太郎が海相として就任
 10月30日、嶋田は開戦不可避と判断している。嶋田の政治力では対米開戦の流れは覆せないという判断。嶋田は国際情勢の好転にも期待していなかった
 →開戦責任は海軍単独の責任ではないということも、あっさり対米開戦を決意させた要因

225修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/24(火) 18:52:45 ID:/XJTTU3k
春日豊「戦争と財閥」
 日中戦争の拡大・長期化→三井は政府要請に応じて重化学工業投資を急増させる。41年4月30日には、三井化学工業が設立された
 →国策に呼応しつつ三井内の事業を整備し、国家的援助を引き出しつつ重化学工業への進出を強化した
 三井は、日本の中国占領地域の拡大とともに、軍・官の出資要請に応じて対中国投資を増大させていった
 日中戦争以前の三井財閥本社は借入金がまったく無かった→日中戦争以降、状況が一変する
 →組織改革。三井本社設立、事業体制の再編成→戦後の企業グループの萌芽が形成される。企業間の株式相互持ち合い、中核銀行の融資
 →ただ、財閥解体までは本社と三井家が圧倒的に株式を所有していた
 組織改革で三井同族の経営への関与は後退していた→ただ、三井本社社長は三井同族会議長→財閥解体の意義は大きい

226修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/25(水) 18:46:24 ID:/XJTTU3k
戸ノ下達也「音楽のアジア・太平洋戦争」
 日中戦争期、音楽も国家による統制がなされた→出版統制、公的流行歌である国民歌の発表
 アジア・太平洋戦争初期は音楽も攻めの諸相、戦意高揚。健全娯楽としてクラシック音楽がその象徴となる
 1943年になると、演奏に対する規制も顕著となる→米英楽曲の演奏禁止、クラシック音楽にも一部規制→真珠湾攻撃で一気にアメリカ文化が排撃されたわけではない
 1944年、大都市の多くの劇場が閉鎖される
 オフィシャルでない歌(替え歌)では、国民の本音が歌われていた

227修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/07/26(木) 18:39:59 ID:/XJTTU3k
官田光史「「応召代議士」をめぐる前線と銃後」
 大政翼賛会内部グループの清新クラブは東条内閣を支持。過去の政党政治を批判して当選したグループ→しかし、翼賛会の主導権が旧二大政党系の議員にあることに不満
 →東条内閣の提出法案に激しく抵抗→清新グループの濱田尚友らは召集される→濱田の選挙区民にとっても深刻な問題→地元の要望に応える人がいなくなる
 濱田は硫黄島に送られ一旦帰ってきている→選挙区民の感情的にも、陸軍省は濱田を2度も硫黄島に送ることはできなかった
 →議員に復職した濱田は、自らを硫黄島の戦友の代弁者だとして兵器の増産を求めた
 濱田は岸信介の新党結成の動きに呼応→翼賛会へ脱退通告書を提出→濱田の選挙区の選挙を無効とする判決が下ったので、濱田は岸グループの護国同志会には参加できず
 →再選挙。選挙では、戦友とともに国家の苦難に立ち向かう自分をアピールした→濱田は再選→護国同志会に参加
 戦後、東条内閣による懲罰召集を乗り越え、戦局の実相を伝えようとした濱田という政治家のイメージができあがる

228修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/09/30(日) 17:23:28 ID:HdaWEsTU
成田龍一『「戦後」はいかに語られるか』を読みました。
「戦後」を歴史としていかに語っていくかを考えている本です。まだ、こう語っていくべきだという結論は著者にも出せていないようですが。

『ゴーマニズム宣言』も『永遠の0』も『小さいおうち』も祖父・祖母と孫の話であって「戦後」世代である父母の話が消去されているというのは、なるほどなと思いました。
現政権や現政権シンパは「戦後」を全否定するような言動を繰り返しているし、だからこそ「戦後」をしっかりと歴史的に位置づけていかなければいけないのだろうと思いましたね。
ただ、著者もあとがきで、「「戦後」を変えつつ、しかし「戦後」を破壊する権力の暴挙を批判するという、ねだれともだえがある」と書いていますが、
『三丁目の夕日』みたいに「戦後」のある時期を美化するようなことは避け、新しい時代を考えながらも「戦後」を全否定するようなことは避けるということが必要なのでしょう

229修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/10/15(月) 22:14:04 ID:HdaWEsTU
三谷博『維新史再考』を読みました。
幕末から明治初期までの政治史をかなり丁寧に書いてあるというところがこの本の特徴なのかな。
特定の人物や大名(藩)を英雄視せずに公儀(幕府)や藩の動きをそれぞれ丁寧に描いているというところも特徴なのだろう。
ただ、「再考」とまで言っていいのかは疑問、帯に「維新史観を根底からくつがえす」と書いてあるのも疑問。
幕府が色々と考えていたということは結構知られてきていると思うし。
まぁ、長州が幕末の政治史的にはろくな活躍をせず、ただただ混乱を引き起こしていただけというのが分かるのはいいけど。
あと、鹿児島に多大な犠牲をもたらした西郷が英雄視され、大久保が非難されているのが謎と著者が書いているのもよかった。
それにしてもこの本、いきなり人類の移動から始まり、世界史の話になって、江戸時代がどのような時代かをくどいぐらいに書いてから幕末が始まるので、なかなか本題が始まらない。
しかも、最後に再び世界史の話に戻るので風呂敷を広げまくっている気がしてしょうがない。
あと、「維新史再考」と言うぐらいならむしろ庶民視点こそ必要だったのではないか。政治史の話だけだと、いうほど「再考」してないような

230修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/10/21(日) 16:41:48 ID:HdaWEsTU
岡本隆司『歴史で読む中国の不可解』を読みました。
歴史のことを知らずに中国のことを語っても深みがないということを危惧して多くの本を出している著者の新しい本。
日経から出しているということでサラリーマン向けに書いたとことであろうか。

内容としては、現在の日本の基準、考え方というのは西欧近代的なものなので、それを唯一の基準として中国を見てはいけないのだということだと思う。
中国には「中華思想」というかなり長い基準、考え方があるのであり、社会主義国家になっても文化大革命があってもその考え方は実は変わってない。
それを理解しなければ中国のことはいつまでも理解できないということなのだと思う。
面白かったのは、ロシアも西欧近代的な考え方ではないと主張しているところ。
ロシアもモンゴルの系譜につながる国家なのであって、ヨーロッパだけれども西欧近代とは違うのだというところはなるほどなと思わされましたね。

231修都 ◆7VC/HIVqJE:2018/11/07(水) 21:43:29 ID:HdaWEsTU
本郷恵子『怪しいものたちの中世』を読みました。
中世という時代は、権力が弱く「セーフティネット」と呼べる者もなかったので、人びとは宗教の力に頼るしかなかった。
しかし、宗教の中核にいる人たちは庶民と接することはない。庶民と接するのは、現代人からすれば「怪しい」宗教者達だった。
そんな「怪しいものたち」に注目した本…ということなのですが、内容的には段々違う方向に進んでいきます。
怪しいものの話というよりは、時代の表舞台に立てなかった不遇な人たちの話になっていきます。
そういう意味では少し残念な本ですが、平安末から鎌倉初期の政争を知りたい人にはお勧めの本かもしれません。

ところで、権力が弱く「セーフティネット」も無かったから宗教に頼ったのが中世だとするならば、
近世は権力が強く「セーフティネット」も(一応)存在するようになった時代だった。だから、宗教の力が弱くなったと考えることもできそうですね。

232オリバ:2018/11/08(木) 12:08:04 ID:BdrAuH5Q
ttps://is.gd/zFczvD

233修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/01/06(日) 17:42:32 ID:E3jCVgGk
最近は『応仁の乱』が売れたことをきっかけにちょっとした日本中世史ブームらしいですが、
日本中世史の学会の世界では有名だけど一般的にはあまり知られていないであろう「権門体制論」の論文を読んでみました。
僕もちゃんと読むのは初めてでしたが、江戸時代までのことを考えた内容だったというのははじめて知りました。
簡単にまとめると中世は天皇が国王だが、絶対的な権力を持つものは天皇を含めて存在しない時代。近世は天皇が国王でなくなり、絶対的な権力を持つ存在がいる時代ということでしょう。

黒田俊雄「中世の国家と天皇」
 権門勢家(権威・勢力のゆえに国政上なんらかの力をもちえたいくつかの門閥家)が国政を支配する国家体制→権門体制。天皇家・貴族・寺社・武家が権門勢家
 権門の経済的基礎は荘園制的土地所有
 公家・寺家・武家、どの権門も独自に国家全体を掌握するだけの勢力を確立するまでにはいたらない→王位を簒奪することではなく、国王を交代させることで国政を掌握する
 権門は、官職として国政に参加するのではなく、権門勢家であることをもって国政に関与する→権門体制の第1段階は院政。上皇という存在は律令にはない
 →第2段階は鎌倉幕府。幕府は公家・寺家と相互補完的。守護は国王の名で幕府に所管されている、幕府の地方官ではない
 →守護・地頭を幕府の地方官とし、官衙の役人や国郡司と対立する存在として単純に説明することはできない
 ただ、官人は天皇の名によって任免されるが、天皇は自由な任免権をもたず、権門の競合と妥協によって決められる。天皇の権力は、無力であり、形式的なもの
 →院政を始めたときにはじめて、権利行使能力を得る
 天皇の政治的地位の形式化が著しくなると神国思想が広まる。天皇の権威は宗教的尊厳性に依拠するものとなる
 後醍醐天皇の建武政権は上皇・摂関家・幕府など権門を一切否定した→権門体制の否定→しかし、権門的支配者は存在し、領地は安堵された
 室町幕府も1個の権門。守護大名も中央権力と依存関係にある。ただ、幕府以外の権門は政治的にも経済的にも幕府に従属して存続している
 →国家権力の主要な機能は幕府が掌握。ただ、公家・寺社は儀礼など幕府では果たせない機能をもっていた→権門体制を克服していない
 →権門体制が荘園制とともに消滅するのは、事実上幕府が存在しなくなる応仁の乱のとき→職豊政権、江戸幕府はあらゆる領主を従属させる強力な封建王政として君臨する
 →この時代では、天皇は国王の地位にはない

234修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/01/06(日) 17:46:06 ID:E3jCVgGk
ちなみに、権門体制論批判として存在するのが「2つの王権論」でこちらの説では国王は天皇と将軍の2人いるということになります

235修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/02/19(火) 22:39:32 ID:E3jCVgGk
松沢裕作『自由民権運動』を読みました。
まぁ西郷どんの後の話とも言えますかね。

この本の論調としては、江戸時代が終わった後、どういった国をつくりあげていくかという流れがあって、
政府内では主流になれなかった人たちが自由民権運動で自分達が主導権を握ろうとした。それに期待した人々がいたから盛り上がったということだと思います。
この評価は正しいと思いますね。
そんな自由民権運動は、国会開設にしても憲法制定にしても政府に先手を打たれてしまい、何もすることができなかった。
そうして自由民権運動は終わったということのようです。

著者はあとがきで、2011年以降に起こったデモと自由民権運動を重ねつつ、自由民権運動の失敗などから学ぶことがあるのではないかとしていますが、これも同感かな

236修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/03/04(月) 22:43:30 ID:E3jCVgGk
高橋修『熊谷直実』を読みました。
熊谷直実って源平合戦の後に出家してたんだね。初めて知った。

直実は「武士」とは呼べないような身分だったようだけど、頼朝の前では御家人としてみんな平等であるという考えで戦っていたけれど、
源平合戦後、実際は御家人の間に差があったという現実から頼朝のもとを去ったようですね。
あと、殺人を生業とすることへの罪悪感も出家の理由としては考えられるようですね。

237修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/04/07(日) 23:02:32 ID:E3jCVgGk
福田千鶴『後藤又兵衛』を読みました。
後藤又兵衛について、数少ない史料から確実に言える事だけを検討した本です。

なぜ、又兵衛は豊臣方として戦ったのか?という理由は示されてはいませんが、
黒田は江戸時代の大名として変化して生きていくことができたが、又兵衛は戦国時代でしか生きられなかったということは本のなかで示されているように思います。
又兵衛に限らず、大坂の陣で豊臣方として戦った人たちは戦国時代でしか生きられなかった人たちなのかもしれません。
「真田丸」は、そういう視点でつくられていたように思う

238修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/06(月) 23:45:39 ID:ddOzpFck
岡本隆司『腐敗と格差の中国史』を読みました。
おそらく、現在の中国近現代史研究者ではトップクラスの位置にいる著者の新たな一札。
今回は主に「腐敗」をテーマにしながら、中国の官僚について周の時代から現代までを論じています。

「腐敗」とは汚職などを指すわけですが、元来中国では「官吏」の「官」と「吏」が分かれていて、そこには大きな格差があったのだということが一番重要になってきます。
「官」は管理職みたいな人達の事で、正式な給料をもらってはいますが、ぎりぎり生活ができるかできないかの額しかもらっていませんでした。
「吏」は実務を担当する人たちなのですが、なんと彼らは給料を一切もらえない立場だった。しかし、彼らがいなければ当然支配は行えない、特に「吏」になるような人たちは地方のことをよく知っている人達だったりするので余計に重要な存在になっている。
しかし、給料はもらえない。何より「官」もたいした額はもらっていない。だから、賄賂というかたちで民衆からお金を取らなければいけなかった。というか、そうしなければまともに地方の行政は成り立たなかったとのことです。

著者は以前から中国社会は上と下が大きく分離した社会だということを論じていますが、それは今回の本でもそうで、中央と地方、官吏内部と官吏と民衆がいかに大きく分離していたかということを論じています。
そしてこれも著者が以前から論じていることですが、孫文も毛沢東も上下の分離状態を何とかして改革しようとしたが、いずれも失敗し、現在に至っているのだとしています。

とりあえず、紋切り型の嫌中本を読むぐらいなら、岡本先生の本を読もう

239レト:2019/05/21(火) 22:33:46 ID:5xDgiNaU
幻冬舎社長の騒動がきっかけでウェブ出版のメリットについての議論が活発化してるけど、
編集者の存在意義はともかくピンハネするような悪質な出版社が淘汰されていく良い機会かもしれない。

240修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/22(水) 19:58:32 ID:ddOzpFck
ワンマン社長の悪さが一番典型的に出たケースでしたね

241修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/05/22(水) 21:00:31 ID:ddOzpFck
苅部直『「維新革命」への』道を読みました。
簡単に言えば、明治時代の文明開化は江戸時代の段階で準備されていたのだという内容になります。
江戸時代の思想家の考え方、社会のあり方、それらが既に文明開化への準備を整えていた。
商業の発展をどう考えるか、いろいろな考え方が江戸時代にあったのだということも分かります。
面白かったのは、幕末のオールコックの日本評。「豊かで幸福だがfreedomのない社会」、そうオールコックは言っています。
一応、明治維新で「自由」は与えられるわけですが、その自由が「freedom」だったのかは気になるところですね。
というか、戦後改革を経た現代日本の「自由」は「freedom」なのでしょうかね

242修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/06/09(日) 22:02:07 ID:ddOzpFck
坂井孝一『承久の乱』を読みました。
『応仁の乱』が売れて以降、中世の戦乱を扱った本がたくさん出ましたが、これもその1冊。
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとした戦いだと思われているが、実際は北条義時を倒そうとした戦いなのだというのがこの本の1番の主張でしょうか。
源実朝が将軍としていた時は、朝廷と幕府の関係はとても良かった。しかし、実朝が暗殺され、北条氏が権力を握ると幕府は朝廷のコントロールをどんどん離れていった。
だから、後鳥羽上皇は北条氏を倒そうとしたのだが、北条氏の方が一枚上手。上皇は幕府を倒そうとしているのだという論理にもっていって御家人達の支持を得、一気に上皇軍を倒したということのようですね。
承久の乱後の動きがとても重要で、鎌倉幕府が出来た段階では幕府の方が朝廷より上というような状態でもなんでもなかった。
それが承久の乱後、幕府は完全に朝廷の上になり、後醍醐天皇の時期があったけれども、基本的には大政奉還まで幕府はずっと朝廷よりも上の立場にいた。
そういう意味で、承久の乱はとても重要な戦いだったということですね。

243chi:2019/06/22(土) 04:43:32 ID:HJWBqy3g
  再投稿 沖の島 祭祀の研究図書目録

*河瀬文庫「宗像・むなかた沖の島展」1977
*河瀬文庫「古代沖の島の祭祀」・「東大三十余年」著者・発行 井上光貞1978
*河瀬文庫「海の正倉院 宗像沖の島 古代の旅3」著 弓場紀知(ゆばただのり) 平凡社1979
*河瀬文庫1576 抜粋「宗像市史第1章」旧石器時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 平ノ内幸治1997
*河瀬文庫1577 抜粋「宗像市史第2章」縄文時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 清水比呂之 木下尚子1997
*河瀬文庫1578 抜粋「宗像市史第3章」弥生時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 安部裕久1997
*河瀬文庫1579 抜粋「宗像市史第4章」古墳時代『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 原俊一 花田勝広1997
*河瀬文庫1580 抜粋「宗像市史第5章」特色ある古墳文化・付宗像地域考古文化財文献一覧『宗像市史通史編第1巻自然考古』平成9年3月発行抜刷 原俊一 白木英敏 大澤正巳 田中良之 本田光子 木下尚子 花田勝広 松本肇 岡崇1997
*「沖の島と津屋崎古墳群」重住真貴子 池ノ上宏 ・「古代の福岡」 アクロス福岡文化誌編纂委員会2009
*「沖ノ島」・「伊勢神宮と三種の神器」著 新谷尚紀 講談社2013

244chi:2019/06/22(土) 06:05:59 ID:abphGKwQ

○縄文人とは九州北部の鬼刀禰(オオトネ)族
鬼刀禰族は、西アジア・アフリカでシュメール人と呼ばれ。古代支那では倭国(鬼・オオ)やツングースなどの十支族同盟。現在の日本でアジア北方騎馬民族と呼んだ。彼らは北極星を知っていて、古代の舟(貴布禰)を操りヨーロッパ・アジアを含め、七つの海を巡った。北極星を中心に一周する恒星を観て「一年」を知り。製鉄を行い、米・麦を刈り取る「鎌」を造った。製鉄遺跡を調べると、「通風こう、出入り口」は遺跡内部より夜空を見ると「外側が円や真四角であったら」中心に北極星がある。これは、北極星に近い恒星が時計の短針となっている。エジプトのピラミットも、前方後円墳の円(半球体・通風こう)も同形。この形は、台風、サイクロンの接近を知らせてくれる。吹き込む「音」(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド)の最後の音の「ド」。彼らは音(声)に感謝して「土偶」を祀っている。明治から昭和のはじめに東北地方で偽物がたくさん作られたが、見分け方は「青年女性で口を開き声出ししている」これが土偶。名は「雨 カンムリ 龍」。読み方は「オカミ・古事記(於迦美娘)」。「オカミ」発見場所は日本だけでなく、インドの遺跡やメソポタミアの遺跡から。外務省のデータのサイクロン発生と進行状況を地図表されたものと「オカミ」発見遺跡とが、線上にある。紀元前15世紀、メソポタミアで千年続いた最初の王朝は、インド北部からやって来た「戦車に乗り鉄剣をもった者」に滅ぼされた。ユダヤ・ソロモン王(紀元前12世紀)に「鉄は赤い土から採る」の名言もある。話が時間的に前後するが、花粉の権威、高知大学・中村純教授らによると、福岡市博多区の「板付遺跡」の近郊・近隣地層から発見された「花粉」は3700年前に水耕栽培があったとしている。注)稲の花粉は一度水中に入っても、動き出すので、そこに田があったとは、言えないが、花粉の直径(厚さ)から自然界の物でなく、人手による物としている。このことは、紀元前17世紀には九州北部に文明開化していた事になる。昼、北極星に向けられた穴の前の広場でガラス(レンズ)で「火」を熾し「製鉄」の業をした。のちの人々は、たたら製鉄と呼んだ。

 鬼刀禰族は「たたら製鉄」を業うまえに「金(昆)刀比羅の社」を建立した。

245chi:2019/06/22(土) 06:19:04 ID:abphGKwQ

「板付遺跡」を探る・図書目録   
*河瀬文庫3914-142「板付周辺遺跡調査報告書1福岡県福岡市博多区板付」福岡市教育委員会1974
*河瀬文庫3915-142「板付周辺遺跡調査報告書2福岡県福岡市博多区板付」福岡市教育委員会1975
*河瀬文庫2814-111「板付 上巻(本編)」市営住宅建設にともなう発掘調査報告書 福岡市教育委員会1976
*河瀬文庫「板付 下巻(本編図版・付編)」市営住宅建設にともなう発掘調査報告書 福岡市教育委員会1976
*河瀬文庫「板付 下巻(付編)」市営住宅建設にともなう発掘調査報告書 福岡市教育委員会1976
*河瀬文庫3286-122「板付」県道505号線改良に伴う発掘調査報告書 福岡市教育委員会1977
*河瀬文庫 401-14「古代の顔」開館10周年 図録第7集 福岡市立歴史資料館1982
*「最古の農村 板付遺跡」著 山崎純男 新泉社2008

246chi:2019/06/22(土) 06:31:18 ID:abphGKwQ
「オリエント」を探る・河瀬文庫「オリエント学会図書目録」
*河瀬文庫773-4「オリエント 第18巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1975
*河瀬文庫774-4「オリエント 第18巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1975
*河瀬文庫775-4「オリエント 第19巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1976
*河瀬文庫776-4「オリエント 第19巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1976
*河瀬文庫0114「オリエント 第20巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1977
*河瀬文庫1354「オリエント 第20巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1977
*河瀬文庫0115「オリエント総目録」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1977
*河瀬文庫1355「オリエント 第21巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1978 P13〜23「テル・サラサートⅡ号丘出土の女性土偶について・メソポタミアの土偶」堀晄。
*河瀬文庫0116「オリエント第21巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1978
*河瀬文庫1357「オリエント 第22巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1979
*河瀬文庫778-4「オリエント 第22巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1979
*河瀬文庫1358「オリエント 第23巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1980
*河瀬文庫1360「オリエント 第23巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1980
*河瀬文庫1361「第23巻 附録 資料室所蔵欧文雑誌目録 Ⅷ」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1980
*河瀬文庫0117「オリエント 第24巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1981
*河瀬文庫780-4「オリエント 第24巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1981
*河瀬文庫781-4「オリエント 第25巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1982
*河瀬文庫782-4「オリエント 第25巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1982
*河瀬文庫783-4「オリエント 第26巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1983
*河瀬文庫784-4「オリエント 第26巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1983 P61〜74「ある未発表のファーラ時代の土地購入契約文書・紀元前第三千年紀半ば 土地あるいは家屋の売買契約」ネンド版 五味亨。
*河瀬文庫785-4「オリエント 第27巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1984
*河瀬文庫786-4「オリエント 第27巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1984
*河瀬文庫788-4「オリエント 第28巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1986
*河瀬文庫1362「オリエント  第28巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1984

247chi:2019/06/22(土) 06:35:51 ID:abphGKwQ
「オリエント」を探る・河瀬文庫「オリエント学会図書目録」②
*河瀬文庫0118 「オリエント 第29巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1986
*河瀬文庫1364 「オリエント 第29巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1986
*河瀬文庫789-4「オリエント 第30巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1987
*河瀬文庫790-4「オリエント 第30巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1987
*河瀬文庫791-4「オリエント 第30巻別巻総目録」発行 社団法人日本オリエント学会1987
*河瀬文庫792-4「オリエント 第31巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1988
*河瀬文庫793-4「オリエント 第31巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1988
*河瀬文庫794-4「オリエント 第32巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1989
*河瀬文庫1365「オリエント 第32巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1989
*河瀬文庫1366「オリエント 第33巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1990
*河瀬文庫795-4「オリエント 第33巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1990
*河瀬文庫796-4「オリエント 第34巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1991
*河瀬文庫161-2「オリエント 第34巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1991
*河瀬文庫797-4「オリエント 第35巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1992
*河瀬文庫798-4「オリエント 第35巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1992
*河瀬文庫0119 「オリエント 第36巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1993
*河瀬文庫799-4「オリエント 第36巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1993
*河瀬文庫787-4「オリエント 第37巻第1号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1994
*河瀬文庫800-4「オリエント 第37巻第2号」編集 発行 社団法人日本オリエント学会1994

248chi:2019/06/22(土) 08:52:15 ID:vmKSualw
「遠賀川・筑後川」「博多」「壱岐・対馬」を探る・図書目録。
*河瀬文庫1700「嘉穂地方史 先史編」編集者 児島隆人 藤田等 嘉穂地方史編纂委員会1973 P249〜255福岡県筑穂町「小瀬隈土壙墓」遺物の「刀」。P497〜499 503〜506筑穂町大分「大分廃寺」。
*河瀬文庫「嘉穂地方史 古代 中世編」編集者 川添昭二 表現研究社 嘉穂地方史編纂委員会1968
*河瀬文庫556「研究紀要 8」 竹中岩夫氏収蔵資料の紹介(4)福岡県遠賀郡芦屋町山鹿貝塚採集土器の紹介(2)北九州市立考古博物館2002
*河瀬文庫364「九州考古学 第67号」 西平式土器に関する諸問題-福岡県築上郡築城町所在,松丸遺跡(D地区)出土縄文土器の位置づけ 九州考古学会1992
*河瀬文庫664「九州考古学 第70号」 広形銅矛の鋳造技術に関する二・三の研究-連結式鋳型の製品を中心にして 九州考古学会1995
*河瀬文庫「筑穂町誌上巻」福岡県嘉穂郡筑穂町 2003
*河瀬文庫「北九州市史 総論 先史・原始」北九州市1985 P839金刀比羅山;八幡東区八王寺町
*河瀬文庫「筑後市史 第1巻」筑後市1997

*河瀬文庫0942「博多」著 武野要子 岩波書店2000

*河瀬文庫194-8「壱岐・原の辻遺跡 国指定特別史跡」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2002
*河瀬文庫「原の辻ニュースレター18」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2004
*河瀬文庫「原の辻ニュースレター23」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2005
*河瀬文庫「原の辻ニュースレター30」原の辻遺跡調査事務所 長崎県2008
*河瀬文庫2811-111「対馬の考古学」 木坂石棺群:長崎県上県郡峰町大字木坂 著 坂田邦洋 縄文文化研究会1976
*河瀬文庫2805-111「対馬越高尾崎における縄文前期文化の研究」別府大学考古学研究室報告第三冊 長崎県上県郡上県町大字越高字尾崎 著 坂田邦洋 広雅堂書店1979

249chi:2019/06/22(土) 08:57:11 ID:vmKSualw
「大分 国東(クニサキ)」を探る・図書目録。

*河瀬文庫1293-14「み仏の里国東半島を訪れる人々へ」国東半島観光協会 (発行年不明・登録2011)
*河瀬文庫2744-107「国東町文化財調査報告書・大分県東国東郡国東町大字成仏」国東町教育委員会1972
*河瀬文庫1849「羽田遺跡(A地区)国東富来地区県営圃場整備事業関係発掘調査概報」国東町教育委員会1987
*河瀬文庫682「羽田遺跡(I地区)国東富来地区県営圃場整備事業関係発掘調査報告書」国東町教育委員会1990
*河瀬文庫「国東地区遺跡群発掘調査概報 1由井ヶ迫製鉄炉跡・安近炭窯跡」国東町教育委員会1990
*河瀬文庫237「国東由井ヶ迫遺跡地区遺跡群発掘調査報告書」国東町教育委員会1997
*河瀬文庫3347-126「浜崎寺山遺跡県営圃場整備富来南部地区関係発掘調査報告書」国東町教育委員会1993
*河瀬文庫662国東町「飯塚遺跡東国東郡広域連合総合文化施設建設に伴う発掘調査報告書」国東町教育委員会2002
*河瀬文庫2201大分県西国東郡香々地町「香々地の遺跡 1過ノ本遺跡・御霊遺跡・信重遺跡」香々地町教育委員会1994
*河瀬文庫3600-135「姫島用作(ひめしまようじゃく)遺跡大分県東国東郡姫島村」姫島村教育委員会1991
*河瀬文庫「国見町の考古資料縄文時代編」国見町教育委員会1987
*河瀬文庫「伊美崎遺跡大分県東国東郡国見町所在遺跡の発掘調査報告書」国見町教育委員会1989
*河瀬文庫2366「遺跡が語る大分の歴史大分県の埋蔵文化財」大分県教育委員会1992
*河瀬文庫2415「先史時代の日韓交流と大分水稲農耕文化の伝播と成立」大分県教育委員会1994
*河瀬文庫26-1「豊後府内南蛮の彩り 南蛮の貿易陶磁器」大分市歴史資料館2003
*河瀬文庫「大分県史 先史篇1」大分県1983

250chi:2019/06/22(土) 21:06:42 ID:IlHuHeSA
*河瀬文庫0068「インド考古学の新発見」B.K.ターバル著、 訳 小西正捷(まさとし),小磯学 雄山閣出版1990 この中でダーイマーバード出土品13銅製の象,14サイ,15水牛,16 2頭の牛に引かれた御者付き車。(戦車)、リンガヴェーラブラ:ハーリーティーの出土品25土偶(鬼子母神)。
*河瀬文庫0464「シベリア極東の考古学1」著 ア・べ・オクラドニコフ他.訳 岩本義雄 ほか 河出書房新社1975 鉄器時代P306〜316.
*河瀬文庫「シベリア極東の考古学2 」著 ア・べ・オクラドニコフ他.訳 萩原眞子ほか 河出書房新社1982
*河瀬文庫「シベリア極東の考古学3」 著 ア・べ・オクラドニコフ他.訳 岩本義雄 ほか 河出書房新社1983

*河瀬文庫「研究論集Ⅵ」奈良国立文化財研究所学報第38冊1980 日本古代の鬼面文鬼瓦 毛利光敏彦P29〜65 東北アジアのツングース民族{願い事を形にして屋根の上にあげ魔除けや福を呼ぶまじないとして永く親しみ愛されてきた}。

*「鬼瓦 ルーツを尋ねて」著 平田芳蔵 東京書籍2000 鬼瓦は世界に拡散①アジア古代支那・モンゴル・シベリア。②古代支那・インド経由(陸路&海路)でメソポタミア・ヒッタイト、ギリシャ、イタリア。③海路太平洋・大西洋よりメキシコ・アステカ。④海路太平洋、南半球ニュージーランド。

251chi:2019/06/22(土) 22:22:56 ID:IlHuHeSA
投稿250
小アジアのトルコからギリシャ、イタリアの伝播は、「鬼瓦」から「屋根飾り瓦」に変化している。
単なる「ヘレニズム」による伝播だけでなく。縄文人=鬼刀禰(オオトネ)人の影響も大きい。
また古代支那の三国志時代の孔明や張飛の扱う青銅剣の時代に「鬼刀禰人」は「オビ川」河口付近に到達。そこで「たたら製鉄」の業・実施。遺跡より鉄器の発掘がある。ということは、メソポタミア、シベリア、オビ川河口では、川砂鉄が採れ、古代支那には川砂鉄が採れなかった事がわかる。

252chi:2019/06/22(土) 22:33:17 ID:IlHuHeSA
「花粉」を探る・図書目録 再投稿

かふん 「岡山県津島遺跡の花粉学的研究」藤則雄・「考古学研究 第16 巻第2号(通巻62号)」考古学研究会 1969
かふん①「花粉分析」著 中村純 古今書院1967
かふん②「花粉は語る 人間と植生の歴史」著 塚田松雄 岩波書店1974
かふん③「花と花粉の世界」著 岩波洋造 玉川大学出版部1977
かふん④「花粉の世界をのぞいてみたら 」宮澤 七郎/監修 -- エヌ・ティー・エス 2012
かふん⑤「花粉が語る多様な食物」・「史跡でつづる 京都の歴史」門脇禎二 編 法律文化社1977
かふん⑥「世界で一番美しい花粉図鑑」著 マデリン・ハーレー ロブ・ケスラー 監修 奥山雄大 訳者 武井魔利 創元社2011

253chi:2019/06/24(月) 00:17:31 ID:eTgCSwak
国名に「中国」を使用するのに「違和感」有り
1300年前「記紀」「萬葉集」「出雲國風土記」が書かれる前、勢力分野。鬼(おお)族は、二大勢力。①鬼刀禰(おおとね)族。出目は九州北部。金属を生産。主に川砂鉄から「たたら」で鉄生産。多量の木炭を使用する。最低80人くらいで、土を半球状に盛り上げ通風こうをもうけ、中をくりぬいて、生産場所、生活場所とした。稲作の米と鉄器(鎌・刀剣)を貴布禰(古代の舟)で大陸や韓半島へ輸出した。
②鬼山衹(おおやまつみ)を祀り、米の生産や魚・貝を採った。保存のきく米は大陸や韓半島へ輸出した。住んだのは、①の残した穴。この集団を「出雲族」・「物部族」と呼んだ。この集団の住む地域を「穴津國(なかつくに)」、「記紀」「萬葉集」「出雲國風土記」を書き上げるのに墨の倹約・節約から「中國(なかのくに)」した。「中」は日本でつくられた名。「国名・中国」は、古代・出雲にあたる。明治政府は、「古事類苑 外交部」の中で、「古代支那」の表記。

・最初書「古事記」を観ると、「出雲族」。――>「八十神」。「出」の字を書くのに、1「八」を書き、2「十」を書き3「一」を書いた。
・「魏志倭人伝」を読むと「刺青(いれずみ)」をしている。貢物をもってきた人を裸にする訳がないので、顔に「龍」の文字の「刺青」。墨の倹約・節約から「龍」の文字は「神」に書き換えている。
・住人がいなくなった製鉄遺跡に「ヤドカリ」のように住んだ。それで、「ウ カンムリ 八」――>「穴(なか)」。出雲族の住んだ地域を「穴津國(なかつくに)」としたが、墨の倹約・節約から「中國(なかのくに)」。古代出雲族の住んだ地域を「中國」。「穴」も「中」も日本でつくられた文字。
アジアの「あの国」は「古代支那」がよい。「元都知事・石原慎太郎」氏と明治政府の考えは違う。

254修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/06/27(木) 22:08:46 ID:ddOzpFck
倉本一宏『内戦の日本古代史』を読みました。
日本の弥生時代から後三年の役まで、古代の戦乱を扱った本です。

特に面白かった部分を2点、1点目は平将門と藤原純友についてのところ、少しまとめておきます。
2人が国家に対して反逆行為をおこなっていたのは、天慶年間の3ヶ月から1年半のことに過ぎない。
戦闘に参加した兵士の数も多数ではない。純友は恒常的に戦闘行為を行っていたわけではない。
日本古代においては、これくらいの規模の内戦が最大級。しかも、将門や純友は一方的に謀叛だと騒ぎたてられ内戦に至った存在だった。

2点目は前九年の役・後三年の役のところから、「おわりに」までの部分。
この戦乱になると急に大量虐殺や残虐性が登場してくる。この時期に作者は時代の転換点を見ています。
武士は本来貴族であったのに、暴力集団となっていく。しかもその暴力集団が政治の中心を担っていく。
明治維新後も、武士は善、貴族は悪というようなイメージが出来上がる。しかもそのイメージは現在でも続いたまま。
どうしてそうなってしまったのか?それを解き明かさなければいけないというのが作者の一番の主張のようですね。

255chi:2019/07/07(日) 15:50:50 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。①

*「升田幸三名局集」日本将棋連盟 販売元 マイナビ2012
*「古事記傳」1(古事記の一之巻〜六之巻) 、2(七之巻〜十四之巻)著 本居宣長 1764年(明和元年)に起稿し1798年(寛政10年)に脱稿した。版本としての刊行は1790年(寛政2年)から宣長没後の1822年(文政5年)当館では古事記傳1〜5有。
*「野竹遺跡群 広島県三良坂町文化財調査報告書第5集」広島県三良坂町教育委員会2002
*「百済滅亡と古代日本」―白村江から大野城へ― 著 全榮來(ジョン ヨンラエ)2004
*「お江戸でござる」杉浦日向子(すぎうらひなこ)監修 新潮社2006
*「杉谷遺跡群 三良坂町文化財調査報告書」 第6集広島県三良坂町教育委員会2003
*一部写し「石見の郷土史話上巻」編著者 山根俊久 石見郷土研究懇話会1978
*「大田植の習俗と田植歌 牛尾三千夫著作集2」著 牛尾三千夫 名著出版1986
*「備中神楽」衣装の色彩 著 坪井有希 吉備人出版2011 P50陣羽織の金刺繍をめぐる図柄展開(明治〜昭和)表。 坪井有希[ツボイユキ] 1980年岡山市生まれ。徳島大学大学院人間環境研究科修了。民俗学、文化人類学を学ぶ。在学中よりカラーの勉強をはじめ、企業タイアップ作品選考会で佳作受賞。Web関連会社勤務。
*「金髪碧眼の鬼達」著 中村昴コウ JDC出版2015 読み;きんぱつへきがんのおにたち 副題;鬼・天狗・山姥は白人的特徴を持っていた
*「古代イラク」ナショナルジオグラフィック考古学の探検 著 ベス・グルーバー 監修 トニー・ウィルキンソン 訳 日暮雅通 BL出版2013 2つの大河とともに栄えたメソポタミア文明。
*「古代アフリカ」ナショナルジオグラフィック考古学の探検 著 ヴィクトリア・シャーロー 監修ジェイムズ・デンボー 訳 赤尾秀子 BL出版2013 400万年前の人類と消えた王国――巨大大陸の謎を追う。
*「奥備後の民俗」著 山田次三 山田次三遺稿集刊行会1979
*「徐福と日本神話の神々」著 前田豊 彩流社2016 「じょふく」。
*「森と神と日本人」著 上田正昭 藤原書店2013
*「塩・ものと人間の文化史07 」著 平島裕正 法政大学出版1995(初版1973)
*「賤民の異神と芸能」――山人ヤマビト・浮浪人ウカレビト・非人―― 著 谷川健一 河出書房新社2009
*「君田村史」君田村1991
*「古代の光通信」著 横地勲イサオ 図書出版のぶ工房2004
*「江戸時代 人づくり風土記35山口」農山漁村文化協会1996
*「荘園史研究ハンドブック」編 荘園史研究会 東京堂出版2013
*「神話に隠されている日本創世の真実」著 関裕二 文芸社2005
*「三次地方史論集」著 堀江文人 三次地方史研究会1979
*「三次の歴史」編 三次地方史研究会 菁文社1985 執筆者 藤村耕市・米丸嘉一ヨシカズ・新祖隆太郎シンソリュウタロウ・向田裕始ムカイダユウジ。
*「三次郷土史の研究」著 藤村耕市 三次地方史研究会2008 P82三次町の成立と旭堤。
*「歌人たちの遺産」著 池田勇人イケダユウト 文芸社2011 よみがな「うたびとたちのいさん」。
*「鬼瓦 続 ルーツを尋ねて」著 玉田芳蔵 東京書籍2009
*「江戸時代人づくり風土記 6山形」農山漁村文化協会1991
*「日本のうた 第5集」野ばら社1998 昭和53〜63年
*「日本のうた 第6集」野ばら社1998 平成01〜07年
*「日本のうた 第7集」野ばら社2001 平成08〜12年
*「金属伝説で日本を読む」著 井上孝夫 東信堂2018
*「古里の民話と伝説 改訂版」著 池峠繁治 池峠英夫 菁文社1998 著者;いけとうはんじ広島県甲奴郡総領町。著者;いけとうひでお広島県甲奴郡総領町。
*「熊 ものと人間の文化史144」著 赤羽正春 法政大学出版局2008
*「日本抒情歌全集 3」編著者長田暁二 オサダギョウジ ドレミ楽譜出版社2001(初版1997)
*「江戸時代人づくり風土記 15 新潟」農山漁村文化協会1988 監修 牧野昇 会田雄次 大石慎三郎 編纂 加藤秀俊 谷川健一 稲垣史生 石川松太郎 吉田豊。

256chi:2019/07/07(日) 15:58:55 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。②

*「山怪 1 山人が語る不思議な話」著 田中康弘 山と渓谷社2015 SANKAI。
*「山怪 2 山人が語る不思議な話」著 田中康弘 山と渓谷社2017
*「山怪 3 山人が語る不思議な話」著 田中康弘 山と渓谷社2018
*「荘園 日本史小百科」編 安田元久 東京堂出版1993(初版1978) P234島津庄しまづのしょう;日本最大の荘園。建久八年(1197)に作成された「図田帳ずでんちょう」によると、総田数八千七百余町から成る。日向、大隅、薩摩にまたがる、「近衛家領の荘園」。
*「マタギ奇談」著 工藤隆雄 山と渓谷社2016
*「伝承怪異譚」著 田中螢一 三弥井書店2010 聞き取り収集収録地島根県全域(出雲・石見・隠岐)。
*「海の熊野」編 谷川健一・三石学 森話社2011
*「世界で一番美しい花粉図鑑」著 マデリン・ハーレー ロブ・ケスラー 監修 奥山雄大 訳者 武井魔利 創元社2011
*「武士と荘園支配」著 服部英雄 山川出版社2004
*「寺社と芸能の中世」著 安田次郎 山川出版社2009
*「杉 1・ものと人間の文化史141」著 平島裕正 法政大学出版2010
*「杉 2・ものと人間の文化史141」著 平島裕正 法政大学出版2010
*「紫式部の父親たち 中級貴族たちの王朝時代へ」著 繁田信一 笠間書店2010
*「日本のうた 第4集 1965〜1978」野ばら社1998 昭和③40〜53年。
*「土偶のリアル」著 譽田亜紀子こんだあきこ 監修 武藤康弘 山川出版社2017 絵 スソアキコ。
*「日本抒情歌全集 2」編著者 長田暁二オサダギョウジ ドレミ楽譜出版社2001(初版1991) 編集協力 (株)パイン・プロデュース。
*「江戸時代人づくり風土記 1 北海道」農山漁村文化協会1991 監修 牧野昇。会田雄次・大石慎三郎 編纂 加藤秀俊・谷川健一・稲垣史生・石川松太郎・吉田豊。
*「図説 日本古地図コレクション」著者 三好唯義タダヨシ 小野田一幸 河出書房新社2014(初版2004) 
*「古代史の思い込みに挑(いど)む」著 松尾光ヒカル 笠間書店2018

257chi:2019/07/07(日) 16:09:05 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。③

*「演目別にみる能装束 一歩進めて能観賞」著 観世喜正・正田夏子 撮影 青木信二 淡交社2004
*「神社の至宝 洋泉社MOOK 別冊歴史REAL 2017年1月16日」発行 洋泉社 執筆者 小倉一邦カズクニ・渋谷申博ノブヒロ。
*「江戸時代 人づくり風土記17石川」農山漁村文化協会1991
*「本瓦葺の技術 復刻版」監修 太田博太郎 著 井上新太郎 彰国社2009(初版1974)
*「風呂で読む 万葉挽歌 湯水に耐える合成樹脂使用」著 上野誠 新潮社1998
*「万葉びとの奈良」著 上野誠 新潮社2010
*「京都 鬼だより」著 梅原猛 淡交社2010
*「東アジア世界と古代の日本」著 石井正敏 山川出版社2003
*「紫式部と平安の都」著 倉本一宏 吉川弘文館2014

258chi:2019/07/07(日) 16:11:19 ID:/apeUZxQ
 三次市立図書館をめぐる・蔵書を探る。④

*「能のちから 生と死を見つめる祈りの芸能」著 観世銕之丞カンゼテツノジョウ 青草書房2012
*「恋する能楽」著 小島英明 東京堂出版2015
*「古代文字で遊ぼう」著 鈴木響泉 発行 可成屋 発売元 木耳社2005
*「墨のすべて」著 為近磨巨登 木耳社2010 ためちかまこと。
*「日本の書と紙 古筆手鑑[かたばみ帖]の世界」編者 石澤一志 久保木秀夫 佐々木孝浩中村健太郎 三弥井書店2012
*「江戸時代 人づくり風土記 5秋田」農山漁村文化協会1989
*「三次地方史研究 第1号」編集発行 三次地方史研究会1987
*「江戸の天文学 渋川晴海と江戸時代の科学者たち」監修 中村士ナカムラツコウ 角川学芸出版2012
*「古代の星空を読み解く キトラ古墳天文図とアジアの星図」著 中村士 東京大学出版会2018
*「紫式部伝 その生涯と[源氏物語]」著 角田文衞 法蔵館2007 つのだぶんえい; 1913年4月9日 - 2008年5月14日)は、日本の歴史学者(古代学専攻)。文学博士。従四位勲三等。大阪市立大学教授、平安博物館館長兼教授、古代学研究所所長兼教授、財団法人古代学協会理事長を歴任。 研究分野は文献史学と考古学の両分野で、その論考には日本・東アジア・ヨーロッパ・北アフリカ(地中海世界)にまたがる幅広いものがあった。 福島県伊達郡桑折町出身。成城高等学校在学中から濱田耕作の学問を慕い、京都帝国大学に進学し濱田の指導により考古学を学んだ。濱田の在職中での病没と、梅原末治との確執が無ければ、濱田の後継者となっていたとの説もあるほど将来を期待された学徒であった。 世界史的な視座に立って考古学と文献史学を統合した「古代学」を提唱。主要な研究テーマは、日本の奈良・平安時代史、古代学方法論、古代ギリシア・ローマ考古学、ヨーロッパ・アフリカの旧石器考古学、ユーラシア北方考古学など広範囲に及ぶ。 妻・有智子は陸軍大将・岸本綾夫の次女であり、手塚治虫とは義理のいとこに当たる。
*「世阿弥の中世」著 大谷節子 岩波書店2007 成城大学 文学研究科 / 国文学専攻職位:教授 学位:博士(文学),京都大学,2003年03月 専門分野:中世文学 主な担当科目:中世文学 最近の研究テーマ:能、狂言 研究内容:能及び狂言を中心とする中世日本文学。享受史、文化史の問題としての、謡曲研究。 略歴:1988年、京都大学大学院文学研究科国語学国文学専攻博士後期課程退学 学位:博士(文学) 主要業績:[著書]『世阿弥の中世』(岩波書店、2007年) 『無辺光 片山幽雪聞書』(共著、岩波書店、2018年) [編著]『伊藤正義中世文華論集』第一巻 謡と能の世界(上)(和泉書院、2012年) [論文]「狂言「拄杖」と『無門関』第四四則「芭蕉拄杖」」(『成城国文学論集』第41集、2019年)「狂言「八句連歌」の「をかし」——狂言と俳諧連歌——」(『国語と国文学』95巻9号、2018年)「毘沙門堂本古今集と能「女郎花」「姥捨」」(『中世古今和歌集注釈の世界——毘沙門堂本古今集注をひもとく——』、勉誠出版、2018年)「狂言「かくすい」考」 『成城国文学論集』第三十九集、2017年)「世阿弥、その先達と後継者——融をめぐって」(天野文雄編『世阿弥を学び、世阿弥に学ぶ』(2016年、大阪大学出版会)「狂言「釣狐」と『無門関』第二則「百丈野狐」」(『禅からみた日本中世の文化と社会』ぺりかん社、2016年)「弘安元年銘翁面をめぐる考察——能面研究の射程——」(『能面を科学する』勉誠出版、2016年)「世阿弥自筆本「カシワザキ」以前——宗牧独吟連歌注紙背「柏崎」をめぐって」(『国語国文』83巻12号、2014年)「「頼政」面を溯る——能・狂言面データベースの可能性——」(『デジタル人文学のすすめ』勉誠社、2013年)「細川幽斎と能」(『細川幽斎——戦塵の中の学芸』笠間書院、2010年)
*「源氏物語事典」編集 林田孝和 原岡文子 他 大和書房2002
*「能のおもて」著 中西通 玉川大学出版部1998
*「新源氏物語1上」著 田辺聖子 新潮社1985(初版1984)
*「新源氏物語2中」著 田辺聖子 新潮社1984
*「新源氏物語3下」著 田辺聖子 新潮社1985(初版1984) 主な参考文献下記のとおり。
・山岸徳平校注 「源氏物語」<日本古典文学大系>岩波書店刊
・阿部秋生、秋山虔、今井源衛校注・訳「源氏物語」<日本古典文学全集>小学館刊
・石田穣二、清水好子校注「源氏物語」<新潮日本古典集成>新潮社刊
・円地文子訳「源氏物語」新潮社刊
・谷崎潤一郎訳「源氏物語」中央公論社刊
・与謝野晶子訳「源氏物語」<日本の古典>河出書房新社刊
解説者 石田百合子。
*「田辺聖子全集第1巻」集英社2004

259::::2019/08/04(日) 21:30:51 ID:5nhpwGXA
あげ

260修都 ◆7VC/HIVqJE:2019/09/20(金) 19:26:02 ID:3Lreac3U
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』を読みました。
現在の歴史学が、「武士」がどのように誕生したのかを説明できていない事に絶望した著者が武士の起源論に挑戦した挑発的な一冊です。

著者の主張をまとめると、武士というのは弓馬術に優れた人達の事で、その術を学ぶことが出来たのは中央貴族と地方郡司層だった。百姓がこのような技術を学ぶことはない。
地方の収奪を目論む中央貴族と中央貴族の血統を求める地方郡司層、この2つが結びつくことで武士団が生まれた。
ただ、彼らに武士という名前を与えたのは朝廷(滝口武士)で、その点では朝廷の役割も重要だった。

中央と地方の対立という視点、弓馬術という視点はおもしろく、今後の武士起源論において論争の種になる一冊なのかなと思いました。
中央と地方の対立だけで説明できるのかとか思う面もありましたが、面白かったです。

261修都:2020/04/05(日) 16:49:21 ID:2jZy2d7Q
久々にここを使う。

山田朗『日本の戦争Ⅲ 天皇と戦争責任』を読みました。
昭和天皇の史料としては『独白録』と『実録』があります。どちらも貴重な史料であることは変わりませんが、
昭和天皇=平和主義者というストーリーに成り立っているということを理解し、何が書かれていないのかを分析することが重要だということが分かりました。

昭和天皇が政治に口を出した事例としては田中義一首相辞職と2・26事件が有名ですが、それ以外にも多く口を出していたということがよくわかりましたね。
特に沖縄戦では、もっと積極的に反撃すべきと昭和天皇が言ってたりもしていたようです。

あと、日本には社会主義・共産主義以外に共和勢力というのがいなかったので昭和天皇をマッカーサーが理解するしかなかったという話も興味深かったです。
少年天皇にするつもりもなかったので、昭和天皇退位論者であった近衛文麿は戦犯になり自殺したという話もあり得るなぁと思いました。

262修都:2020/04/05(日) 16:50:17 ID:2jZy2d7Q
>>261
×理解するしかなかった
〇利用するしかなかった

263修都:2020/06/20(土) 20:14:59 ID:2jZy2d7Q
岡本隆司さんや木村幹さんが執筆者にいるのが気になって購入した『日本近現代史講義』
なんとこれ、自民党の勉強会で行った講義をまとめたものなんですね。執筆者が現実主義的な人ばかりなのはそういうことか
しかし、「特定の歴史観やイデオロギーに偏らず」というのを売りにするのはどうなのか。
自民党向けに現実主義の学者たちが行った講義をまとめた本は「特定の歴史観やイデオロギーに偏」っていないのか?
それ以上に気になるのは、一部自民党議員も現実主義の学者たちですら主張しないことを自分たちは主張しているということを分かってて言っているのではないかということ
まぁ自民党議員全員がこの勉強会に参加してたのかは知らんが

264修都:2020/06/24(水) 21:54:33 ID:2jZy2d7Q
『日本近現代史講義』の木村幹「日本植民地支配と歴史認識問題」が植民地というものについてわかりやすくまとめていくれていますね。
日本の植民地支配は西洋とは違うんだということを主張する人達がいるけれど、そもそも植民地支配とは何か?をちゃんと理解しているとは思えないということを木村さんは言っているわけです。

日本は西洋と違って朝鮮に大規模な投資を行ったという主張があるが、それはあの時代の植民地支配では当然のことである。
ただただ搾取するだけの時代はその前の時代であって、日本が西洋を見習っていた時代にはもはや西洋でも植民地に大規模な投資が行われるようになっているということですね。

また、そもそも植民地とはどういった場所を指すのかということも解説してくれています。
これは1つのことで説明できるようです。
つまち、本国とは違う法が適用されているということ。
台湾や朝鮮では明らかに日本本国とは違う法が適用されていたということですね。

265修都:2020/07/26(日) 14:37:33 ID:y7S32/wE
岡本隆司『「中国」の形成』を読みました。
岩波のシリーズ物の最終巻で、清王朝から現代までを論じています。

清王朝は、多元的な中国を多元的なまま地方に任せて支配することで、東アジアに安定と平和をもたらしました。
中央政府と地方の政治・経済はまとまっていなかったのですが、それでも安定はしていました。
それが決定的に崩壊してしまったのは西洋の進出、そして日清戦争でした。
近代的な1つにまとまった国家をつくらなければいけなくなったのです。
しかし、清王朝にその力はなく、中央支配の強化に地方が反発した結果、軍閥化や「独立」が進むことになります。
辛亥革命以降、中国を1つにまとめることを一気に進めたのは中国共産党でした。
中華人民共和国は、海外の経済に頼ることが出来なかったので、自前の経済制度をつくる必要があり、そのことが社会経済を1つにすることを進めたわけです。
しかし、未だに中国が1つになっていないことは説明するまでもなく皆さんお分かりでしょう。

今の中国が清王朝の時代に戻ることは難しそうですが、果たしてどうなっていくのか、そんなことを考えさせられる1冊です

266イル:2020/09/01(火) 05:05:51 ID:cxJJ3dxw
マガジン連絡変更いってこおい

267修都:2020/10/09(金) 18:18:12 ID:RDu1ZCCo
岡本隆司『教養としての中国史』を読みました。

近年、必ず毎年1冊は中国史の本を出す著者の新しい本。
まぁ基本的に言ってることは、どの本でもほとんど変わらないのだが、この本では講義調の文章になっている。
著者の主張としては中国の3つの特徴がある。
「官民乖離(政治と民衆の間が離れすぎている)」、「コミュニティへの強い帰属意識(国家よりコミュニティ)」、「一つの中国(ばらばらだからこそ一つになることにこだわる)」
以上の3つは、どの本でも言っていることであり、これを理解できなければ中国を理解することは難しいということですね。

内容的には、そんなに異論はないのだけど、ちょっと気になったのは気候の話かなぁ。
元が滅んだのは寒冷化だったという話はどこまで実証できるんだろうとは思った。

268修都:2020/10/17(土) 12:51:57 ID:y7S32/wE
早島大祐『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか』を読みました。

今年の大河放送にあわせて出された本の1冊ですね。
タイトルに牢人医師とありますが、それについての記述は最初の方のみになります。
当時は武士に医術の知識が必要だったが光秀は特に豊富だったのではないかということですね。

謀反に関しては、光秀は異例の出世を遂げた1人だが、織田政権が段々と織田一族を中心に据える組織になっていくなかで、光秀の立場が段々と苦しくなっていたことにあったのではないかとしています。
そう考えると、秀吉も織田政権では途中までしか出世しなかったのではないかとも考えられますね。

個人的に面白かったのは、裁判に関する部分。
織田政権の裁判方針は現状追認。正当なことが書かれた書類であっても現状を変えるものは採用されないというやり方だったようです。
普通に考えたら裁判としてはおかしいのですが、それでも織田政権の裁判が求められていたというのが面白かったですね。

269真ナルト信者:2021/02/10(水) 15:38:23 ID:???
▽ぶんしょうを狂きにしないための3のこつ(対人)文章の問題地図 上坂徹著
・「ありがとう」からはいーる
・かならずけーごにする
・よけいなかんじょうをのせない

ダメなれい「こんなことすら、わからないの?」「きいてませんよ」「みんながそういってるんです」
ほんらいのことはいがいにひにくなどめっせーじをこめようとしないとこです。

じんせいはおべんきょうのひいび

270真ナルト信者:2021/04/26(月) 00:28:19 ID:???
あげ

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273<削除>:<削除>
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274修都:2022/03/05(土) 20:13:47 ID:hOsKLosY
現在、岩波講座世界歴史シリーズが発刊されているので、日本歴史シリーズに引き続き、メモ代わりに。

佐藤正幸「人は歴史的時間をいかに構築してきたか」『岩波講座世界歴史01』
世界という概念は地球上の陸地に生息する人類全てを指示する概念ではなかった
→世界はいくつものエクメネ(人類居住圏)から形成されていたから→各エクメネでは、それぞれが独自の紀年法と暦法。多くの場合、複数の紀年法が併用・併記
→世界史と呼べるものは誕生すべくもなかった
キリスト紀年はキリストの死後500年以上たった紀元6世紀に創案された→キリスト紀年法がキリスト教会で広く使われ始めたのは10世紀以降。一般の人は14世紀以降
→それ以外の紀年法も18世紀まで使用されている
17世紀の科学革命→地球は世界が創造された年より以前に存在していたことが証明された→キリスト紀年法による紀元前という考え方
キリスト紀年法は宗教色を排除して世界に広まった→20世紀に入ってからキリスト生誕年は起源元年より前ではないかという疑義→宗教性がそがれる
アラビア(インド)数字の優位性→ゼロという表記と位取りの原理→0のおかげで左から羅列表記するだけで位取りが可能
10世紀にアラビア数字はヨーロッパに伝わり、12世紀頃から使用されるようになり、16世紀にはヨーロッパ全域に拡大
ヨーロッパ科学が世界を席巻することが出来たのは10個の記号を並べるだけで表現できるアラビア数字のおかげ

275修都:2022/03/06(日) 15:37:31 ID:hOsKLosY
西山暁義「世界史のなかで変動する地域と生活世界」
地域社会と住民によるしたたかな主体性が国境の形成、機能に重要な役割→フランスとスペインに分かれたピレネー山脈南東部、東西ドイツ
地域社会の主体性は国民国家形成のプロセスを下から後押しする可能性もあれば、国境をまたぐトランス・ナショナルな地域・地帯を形成することもある
→ピレネー山脈西北部はフランス・スペインをまたいで慣習、東西ドイツの親族による越境的ネットワーク
アフリカや北中米の国境線は人工的、恣意的だが、ヨーロッパの国境も人工的
地域意識や郷土理念も、ナショナリズムと同様、想像の共同体
世界史は国民国家史の寄せ集めではなく、地域史の寄せ集めでもない

276修都:2022/03/07(月) 22:18:21 ID:hOsKLosY
長谷川貴彦「現代歴史学と世界史認識」
19世紀の近代歴史学(実証史学)を批判して登場してくる20世紀以降の現代歴史学→近代歴史学の基調は方法論的ナショナリズム、ヨーロッパ中心主義
マルクス主義史学→社会的構成体の発展段階。発展段階論の基礎は生産様式。階級闘争によって移行していく→1930年代から主流
近代化理論→伝統社会から近代社会へ移行していく。第二次世界大戦後に登場する理論
従属理論→すべての社会に適応される普遍的な発展段階論を批判。世界を中核・半周縁・周縁と分節化
1970年代以降、転回が始まる→経済的・社会的な関係が文化的・政治的表現の基礎を提供するという前提に異議申し立て
ポストコロニアル研究→征服されたものの視点に基づく。ヨーロッパ中心主義的な世界史叙述を批判→ポストコロニアル批判→植民地主義への対抗がナショナリズムを内包している
歴史学のナショナリズムを克服するために登場したのがグローバル・ヒストリー
近代以降の世界史叙述の基本的な単位は国民国家であった。マルクス主義は国際主義の理念にもかかわらず、革命への経路は国民国家単位。近代化理論も同様
従属理論も均衡ある国民経済の確立が世界資本主義からの離脱の戦略。グローバル・ヒストリーの近年、国民史の位相も回復しつつある
近代の世界史は進歩の目的地として近代のヨーロッパを設定、マルクス主義や近代化理論も欧米の近代性が進歩の座標軸
グローバル・ヒストリーも進歩主義とヨーロッパ中心主義が前提とされている

277修都:2022/03/08(火) 22:19:36 ID:hOsKLosY
三成美保「ジェンダー史の意義と可能性」
歴史学も男性の男性による男性のための歴史であることに無自覚だった→男性歴史学者が男性が残した文字記録に基づいて研究を公表し、男性教授によって評価を受ける
フェミニズム第1の波(19世紀後半〜20世紀初頭)→女性参政権と高等教育を求めた。白人中流女性を中心とするリベラル・フェミニズム。性別役割分担を受け入れていた
第2の波(1960年代後半〜90年代)→フェミニズムの多様化。多くの成果
第3の波→60〜70年代アメリカで生まれた世代が中心。個人主義・多様性を重視。第2波は世界全体で共有されたが、その後は各国・各地域で自律的に発達
女性社会史は白人中産階級女性を無自覚に普通の女性たちとみなしがち
→ジェンダー史は、人種・民族・階級などによるバイアスを反省的に検討。逸脱的存在とみなされてきた性的マイノリティの歴史もテーマとする
社会主義国は第2波フェミニズムに否定的だった。社会主義は女性解放理念を含んでおり、受容に値しないとされた
→台湾は中国との政治的緊張関係から国連での地位の上昇を目指して、ジェンダー政策を積極的に展開

278修都:2022/03/09(水) 20:45:46 ID:AY2wDrvM
粟屋利江「「サバルタン・スタディーズ」と歴史研究・叙述」
サバルタン→従属的階級
インドにおけるマルクス主義の学問伝統を引いた初期サバルタン・スタディーズ・グループ(70年代末から80年初頭)→既存のインド史研究はエリート主義であると総括
→同時にマルクス主義的歴史研究も非エリートを階級意識への発展という物差しで測る機械的な応用、分析であると批判
1980年代以降、後期サバルタン・スタディーズ→近代西洋社会に由来する概念や価値、啓蒙主義的理性への批判
サバルタン・スタディーズへの批判→ヨーロッパからの差異を強調すると土着主義に近似する。発展や進歩を批判したのちの歴史像はどのようなものか

279修都:2022/03/10(木) 20:58:18 ID:AY2wDrvM
金沢謙太郎「環境社会学の視点からみる世界史」
更新世(氷河時代)は旧石器時代→新石器時代(日本では縄文時代)。縄文人は狩猟栽培民→定住集落を形成しつつも、一定の遊動性を発揮して食料を共有
現在でもボルネオの先住者は恵まれた自然環境で、低い人口密度で遊動的な生活様式を志向
縄文時代には地域集団間の社会的ネットワークができている

280修都:2022/03/11(金) 20:54:29 ID:AY2wDrvM
飯島渉「「感染症の歴史学」と世界史」
感染症は世界を変えた→代表例はペストだがヨーロッパ中心主義的な考え方
ペストは中世を崩壊に導いたのか→14世紀、ペストによる人口の減少恒常化はしだいに経済的影響→農産物価格低落、手工業製品価格高騰
→農民の都市流入激化、都市の人口は農民の移住で補充。村落の共同体は動揺、紛争→ペストの影響は過大ではないが構造的変化の背景にはなった
19世紀後半のペスト流行時、アジアで死者が多かったのはインドのみ。しかし、インドの歴史を変えたとする研究はほとんどない
感染症の流行はたびたびあったにもかかわらず、今後もそれが起こりうるにもかかわらず、歴史に決定的な影響を及ぼした感染症は多くなかった
世界を変えたという表現がぴったりなのは、ヨーロッパから感染症が、免疫性のない南北アメリカに持ち込まれ、先住民社会の人口を激減させ、植民地化を促進したこと
感染症が世界を変えたことはあまりないが、感染症が変化を促したことはたくさんあった→コロナで明らかになったように、感染症の流行は、既存の制度などの持つ構造的な問題を顕在化させる

281修都:2022/03/14(月) 19:58:51 ID:AY2wDrvM
吉岡潤「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解」
ヨーロッパ統合の過程は、和解の共同体を構築する試みだった→歴史認識の相違を自覚し、自民族美化を忌避することがヨーロッパ・スタンダードに
東欧では、ヨーロッパ統合への参加を求めていた間はヨーロッパ・スタンダードを受容しようとしていた→2000年代半ば以降、ポピュリズムが勢いを増すにつれ歴史認識の乖離が目立つようになる
バルト諸国やポーランドは、社会主義化を全体主義による支配の確立過程とみなし、戦後の社会主義を全否定している→西欧にもこの考え方が拡大
→言論自由化後のポーランドでは、保守的で自国中心主義的な歴史認識とリベラルでヨーロッパ志向の歴史認識の2つが競合→どちらも社会主義期を否定
2000年、ポーランド系ユダヤ人学者ヤン・トマシュ・グロスが、1941年7月のユダヤ人虐殺事件に普通のポーランド人が関わっていたことを指摘
→逆に保守的で自国中心主義的な歴史観を台頭させるきっかけともなった→「法と公正」政権は自国史中心主義的な政策を行う

282修都:2022/03/15(火) 20:04:17 ID:AY2wDrvM
笠原十九司「東アジアの歴史認識対立と対話への道」
2000年ころ、史上最も良好といわれた日韓関係、経済を中心に活況を呈した日中関係→2001年、新しい歴史教科書をつくる会の歴史・公民教科書が検定で合格
→韓国政府は。82年の近隣諸国条項に反しているとしてつくる会の教科書の記述について修正要求を日本政府に提出。中国政府も訂正要求を提出
→文科省は「明白な誤りとはいえない」と回答、両国の反発を招く→韓国政府は日本文化の開放政策を停止、交流事業も中止された
つくる会の歴史教科書は採択率0.04%、公民教科書は0.1%→韓国や中国の反発は鎮静化
2005年、中国の抗日戦勝利60周年、韓国の独立達成60周年。この年に検定合格した歴史教科書から従軍慰安婦の記述が消えた→中国各地で抗議デモ。韓国政府は憂慮を表明
2002年、第1期日韓歴史共同研究委員会発足→日本側は教科書検定制度の問題であって歴史研究とは別という立場、韓国と対立→事実上決裂して終わった
2007年、第2期日韓歴史共同研究委員会→成果なく終わる
2006年、安倍首相は胡錦濤国家主席に日中歴史共同研究を提起→友好な雰囲気で研究報告・討論→日中戦争は日本の中国侵略戦争と規定、南京大虐殺も事実と認定
→安倍政権は評価せず、無視した

283修都:2022/03/16(水) 20:56:57 ID:AY2wDrvM
勝山元照「新しい世界史教育として「歴史総合」を創る」
2022年から高校地理歴史は歴史総合・地理総合必修、地理探求・日本史探求・世界史探求選択制に移行
1950年代、高校社会科で自分の頭で考え自分の言葉で表現する歴史学習が希求された→60年代、そういった学習は後退する
→80年代、知識詰め込み授業が大勢を占め、高校社会科は地理歴史と公民に分割
2006年、500校を超える高校で世界史未履修問題→世界史は受験に不利との風潮→2011年、学術会議による提言→歴史総合ができる
2018年新指導要領→歴史的な見方・考え方を強調

284修都:2022/03/17(木) 21:59:45 ID:AY2wDrvM
吉本道雅「「中華帝国」以前」『岩波講座世界歴史5』
前2500年ころに始まる龍山期には階級分化、都市・文字の出現などがほぼ出そろっている→前1900年からの二里頭文化は中国本土全域に影響力
→夏王朝は二里頭期以降の諸王権に関わる伝説が春秋戦国時代に一個のイメージに結晶したもの
→前1600年頃、殷王朝成立→前1350年頃から甲骨文出現。甲骨文で殷王朝は大邑商と自称→邑とは城壁で囲まれた集落
殷王の支配が及ぶのは河南北部・南部(内服)、諸侯に対する支配は緩やか→殷王朝は王位継承が不安定だった→2大支族が交代で王位
天の観念は周人にはじまり、周王は天子を称する。周公旦は中原支配の拠点として成周(洛陽)を建設、天下の中心
王が諸侯に賜与すべき邑田の枯渇→権益や家産の分配→権益創出のため外征→内紛や紛争の中で西周王朝滅亡→東遷(東周)
→中原の有力諸侯国は小国を併合して領域を拡大→有力諸侯国の紛争慢性化→諸侯は最有力の諸侯を盟主に戴く同盟を結成し、紛争停止を図る
→前中原的な覇者(盟主)体制と各同盟国の世族支配体制→中原覇者晋が中原外の斉・楚・秦に対抗するという構図が前4世紀戦国中期まで持続
中原諸国は晋に貢納することを義務づけられていたが、前546年晋楚講和の結果、根拠が失われる→内乱続発。晋の覇者体制解体の危機
孔子は客観的規範(道)に基づく君臣関係を主張、君主が道を逸脱した場合、臣下は自由にやめることができるとした→官僚制
前453年晋の正卿知伯敗死→ここから戦国とする研究者が多い
趙・韓・魏(三晋)は晋から実質的な独立→それぞれ斉・楚・秦と提携。趙・韓は周を東西に分裂される→周王朝・晋侯を奉じて覇者体制を維持することは不可能
春秋期から郡・県はあったが、秦漢的郡県制の形成は戦国中期
前349年、晋断絶→周王朝は秦を覇者に認証→前334年、斉と魏は王号を相互に承認、周王朝と秦の覇権を否定。前325年、秦は独自に王号を称す
孟子が新たな政治的秩序(王道)を提唱。王の1人が天下を統一し、新しい王朝を開くことを期待
秦の独走→前256年、周王朝が断絶すると昭襄王は周に代わる王朝樹立を宣言し、秦を天子とする封建制を志向→統一はなかなか進まなかったが前221年天下統一
→郡県制施行、全領域を皇帝の直轄領とした→前206年、秦滅亡で封建が復活
中国→官僚制が編成、礼によって秩序づけられた支配層、高い農業生産力、他国との外交関係を持続しうる存在→夷は政治的文化的未成熟
『論語』は異民族にも適応しうる儒家的倫理の普遍性を強調、異民族同化の可能性を主張

285修都:2022/03/21(月) 17:13:16 ID:AY2wDrvM
宮宅潔「軍事制度からみた帝国の誕生」
中国史上最初の帝国とされる秦は軍事的な拡大傾向を持ち、幾多の戦役を勝ち抜いた
荀子は秦の軍功褒章制度を評価
春秋時代、兵役は士以上の階層が特権的に担っており主役は馬の戦車→前6世紀後半から主力は歩兵に→広い階層の人間を徴発→戸籍がつくられる
秦の兵力→職業軍人・専門兵・応募兵・徴集兵・刑徒
新占領地には罪人、一般人を移住させる→兵站の拠点になり、兵員徴発地となる
秦王政は6国との共存を放棄し、16年で斉を滅亡させ戦いは終結→それまでの戦いとは違う全面的な総動員
→台所事情が苦しくなる、限界→拡大した領土を支配する軍事体制は確立できなかった
漢の皇帝が直接支配したのは秦の元々の支配領域を中心とした帝国の西半→劉邦最大の脅威は帝国東半の諸侯王、功臣たち→粛清後も直轄化されず、親族が封建された
→諸侯王にある程度の自由裁量を認め、間接的に統治するやり方→軍事力動員において、各王国が兵を徴発・組織し、費用も各王国が負担する
→皇族出身諸侯王との関係も悪化し、前154年呉楚七国の乱が起こる→皇帝は全土の直轄地化を進めてゆく→ただし、軍事費の一定部分を王や列侯が負担するという体制は存続する

286修都:2022/03/22(火) 21:43:53 ID:AY2wDrvM
鷹取祐司「漢帝国の黄昏」
漢帝国は物資と労働力を民衆から徴発した→民衆はたやすく逃亡する存在→帝国存続のためには民衆の生活を守ることが必須
武帝崩御、昭帝即位→武帝期の軍事的成果からの負担軽減と休息が政治課題→次の宣帝期頃までに夷狄が帝国西北辺の諸郡に少なからざる規模で移住していた
→一部は選抜されて漢軍に編入
元帝は節約、税の減免を実行→儒学が政治に深く入り込んでいたので経済振興による民衆の生活向上が推進されることはなかった
→元帝が崩御すると王皇后の実子成帝が即位→外戚王氏が権勢→哀帝は高級官僚や豪族が広大な田宅と多くの奴婢を保有していることを問題とした
前漢晩期には辺境防備の傭兵化が進行
王莽が皇帝となると改革が強行されたため、混乱に陥る→文書行政が徹底していたため、その命令は確実に遂行されていた→王莽の混乱で多くの人々が逃亡、流民化
光武帝は郡国の常備兵を廃止→移住していた夷狄の軍事利用が加速→中華と夷狄の混淆
章帝→10歳の和帝→13歳の安帝。安帝の代行として鄧太后→鄧太后が生きている時は鄧氏の専横は抑制されていたが、死去すると外戚と宦官の横暴
安帝の時代107年、羌の大反乱→西域遠征に使役されたことがきっかけ→鎮圧するも帝国の国庫は空となる→134年にも反乱
→郡国の常備兵が廃止されているので鎮圧の戦力は夷狄と募兵
儒学が政治に深く浸透しているので経済積極政策はできない→財政状況は改善しない
安帝期以降、漢人の反乱も発生するようになる→反乱はいずれも帝号や王号を称する→漢帝国はすでに民衆から見限られている
→漢帝国立て直しの最後の希望は清流士大夫→専横を極める宦官を批判→逆に排除される
疫病の流行→人々の不安→太平道などに救いを求める→184年、太平道信者大反乱(黄巾の乱)→各地で反乱
190年、多くの胡兵を率いた董卓が献帝擁立→実質的に後漢王朝滅亡→220年、献帝が曹丕に禅譲、後漢王朝滅亡

287修都:2022/03/23(水) 20:25:50 ID:AY2wDrvM
石井仁「漢人中華帝国の終焉」
曹操直属軍が地方の要地に駐留し、治安維持を開始したのが都督府の始まり→都督制は魏晋南北朝期を通して基幹的な制度・体制
董卓、曹操が勢力をのばしたのは偶然ではない→後漢帝国の最重要課題だった西方・北方政策、非漢人対策を担った人材だった
三国時代、中国の勢力は南北に拡大した→非漢人との関係が多様化、深化
州都督は支配地域の官民に人員・物資の供出を強要できる→流民、非漢人にも支配の網→都督制は後漢末以来の社会変動に対応し、人の直接把握を狙った統治体制
→定住民と流民、漢人と非漢人を区別しない平等な制度→北宋まで残存。魏晋の都督制は普遍的、完成度の高い政治制度だった
漢末の群雄、三国政権は漢人中華帝国維持という点で一致している→一方、都督制は都市から農村への人口移動、胡漢の雑居を前提に適用される政治制度→漢人中華帝国の終焉

288修都:2022/03/24(木) 19:27:14 ID:AY2wDrvM
髙村武幸「漢代地方官吏の日常生活」
漢の官僚機構の基礎は戦国期から発展した秦の官僚機構。漢代の地方行政機構は郡と県→郡は前4世紀末までに秦で設置されたと考えられ、県を管轄
郡県の長官・次官は中央政府が任命。この他、諸侯王国・列侯国もある→紀元前154年、呉楚七国の乱以後は、諸侯王国は郡、列侯国は県と大差ない権限しかない
県の下に郷と里。郷の主要業務は民衆の把握と徴税。前106年、全国は13の州に分けられてもいる
下級官吏は各官府長官が任用→経済的に中流以上が多い→長官・次官らは地域事情に詳しいとは限らず地域に影響力を行使できる人物を任用する傾向
優れた地方長官の転任→地域性の均質化。ただし、地方長官は地域の事情に詳しいとは限らないので地方少吏らが地域社会の利害を優先しても抑えられないケースが多々
→地域有力者との関係は党派として機能
前漢末以来広域地域社会成立→184年、黄巾の乱以後、漢の統治能力が著しく低下すると州を単位とする地域意識

289修都:2022/03/25(金) 20:12:44 ID:AY2wDrvM
釜谷武志「漢魏晋の文学に見られる華と夷」
前漢の詩歌として伝わる烏孫公主の歌→西域の烏孫王国に嫁いだ女性の歌→中国の生活習慣と異なる住と食の例を挙げる
北方の匈奴に嫁いだ王昭君の物語→烏孫公主の物語も王昭君の物語も望郷の念にかられながら異国で生涯を終える同一の類型
西晋時代の王昭君を題にした歌→異民族は人以外の動物に相当しているという表現
後漢時代、南匈奴に連行されて王の妾となった蔡琰の物語→北方の陰鬱さ、ことばの通じない人種の野蛮性
南朝の梁では北方の地や民族を内容とする歌がたくさん制作された→北方を異民族から奪還したいと願いつつ、かなわないことからノスタルジアを覚えるしかない

290修都:2022/03/26(土) 16:36:24 ID:AY2wDrvM
古勝隆一「礼秩序と性差」
殷以来の礼制があり、孔子と後継者が礼を革新し思想的に深め、後世へと引き渡した→殷王には帝に対する信仰があり、それが西周王の天信仰のもと
周の礼→天命が王の権力の源泉で、王は臣下や諸侯に青銅器を下賜し、その命を再分配していた
中国を統一した秦は、周の天命を完全に断ち切ったという意味で礼においても画期→始皇帝は東方の名山をめぐり祭祀→礼による権力の誇示
漢は武帝期以降、儒教が漢の制度に導入された→後漢から西晋にかけての諸王朝も礼制の整備に熱心→秦漢に作られた統一王朝的な礼制が引き継がれた
春秋時代、男女の別は社会通念だった→孔子の前から成立していた→秦代の思想家には中国の太古や異民族には男女の別がないという思想がある
婚姻は男系の家を中心とした視点のもと、礼において重視される→中国古代では、夫婦は対等ではない
礼の基本的な構想は、それぞれの人が与えられた立場(分)に応じて行動すべきというもの→男女の役割分担
新石器時代では男系ではない双系的な社会→二頭里文化の儀礼は男性中心だったのではないか→殷時代の王妃は王陵区に埋葬されていない
→西周時代は夫人墓が王墓と並んでおり地位が上昇したと思われるが男性優位は変わらない
春秋時代の男女の服喪規定は対等に近い→戦国時代の夫婦墓は妻の墓が小さくなる

291修都:2022/03/27(日) 16:47:07 ID:AY2wDrvM
田中俊明「楽浪と「東夷」世界」
中国東北にいちはやく置かれた遼東郡は戦国時代、燕の時代(前300年前後)→郡設置以前から燕人の入植があった
漢の時代、燕国は諸侯廃絶策で瓦解し、燕王に仕えていた満は朝鮮に逃げ、王となった→衛氏朝鮮国成立→朝鮮は漢の外臣として認められる
→前108年、外臣にふさわしくないとして武帝に滅ぼされる。国としては王を中心に土着中国人と在地首長層が結集したものだった
→武帝は楽浪・真番(後に廃止)・臨屯(後に廃止)・玄菟郡を置く→後漢末、董卓の遼東太守公孫度が自立→子の公孫康が帯方郡を設置
高句麗には公孫氏に通じる勢力と魏に通じる勢力とがあった→魏が公孫氏を滅ぼし楽浪・帯方郡を接収→魏と高句麗の対立
卑弥呼は魏が公孫氏を平定した時に使者を送っている

292修都:2022/03/28(月) 20:39:30 ID:AY2wDrvM
荒川正晴「漢晋期の中央アジアと中華世界」
紀元前後頃、パミール以東のタリム盆地周辺に大小様々なオアシス国家。パミール以西には一都市一国家的なオアシス諸国
秦漢代、中央アジアの草原地帯に現れたのが、遊牧国家匈奴
シルクロード→中央アジアを中心にしたユーラシア大陸における前近代の交流・交易のネットワーク
遊牧国家はオアシス国家を支配していた→漢の武帝は匈奴を討滅する目的でパミール以西まで使者として張騫を派遣→これ以後、漢は西域に進出→西域支配は比較的安定
クシャン朝勃興→シルクロードの主要ルートはイランへ延びるルートではなく、インドへ南下してゆくルートに
後漢の班超はクシャン朝の勢力進出を押しとどめる→班超が中国本土に帰還すると西域経営が急速に悪化、西域から完全撤退。クシャン朝全盛時代
中国への仏教伝来は、クシャン商人の東方活動が活発化し始める時期
タリム盆地周縁のオアシス国家は中華世界の政治的な統治を受け入れても、文化・宗教的にはインド文化の影響下。オアシス国家では仏教を信奉
三国魏の時代に中国と西域との関係は再構築される→大月氏(クシャン朝)に新魏大月氏王を授与(この称号は知られている範囲では大月氏以外では倭国のみ)
→当時、呉の孫権が皇帝になり、東南アジアとの結びつきを強めていた→呉との対抗上、魏は西域の大月氏、東方の倭国に称号

293修都:2022/03/29(火) 21:47:05 ID:AY2wDrvM
佐川英治「十六国北朝隋唐政権と中華世界」
十六国期ほど華北が分裂した時代はない→劉淵が漢の劉氏の後裔として皇帝に即位→漢の将軍だった石勒は趙王になるが撤回されたことで袂を分かち、漢は分裂(漢と前趙)
→劉氏を倒し石勒が皇帝に即位(後趙)→やがて内乱が起こり、好機として前燕が河北に進撃→皇帝に即位
関中では後趙の滅亡後、前秦が建国される→皇帝に即位→前燕を滅ぼす→やがて華北を統一→東晋に敗れる
→皇帝・天王が複数いたのは前燕と前秦が対峙した18年間のみ→前秦敗北後は皇帝・天王を称する国が常時併存する状況
鮮卑の拓跋部は曹操の時代に勢力を築き、4世紀の初めには晋から援軍を要請されるようになっていた→338年、後趙の人質だった什翼犍が戻って王となると君健安定
→376年、前秦に滅ぼされる→386年、前秦崩壊後、魏を名乗る→398年、皇帝に即位(北魏)→北魏は十六国のなかで唯一モンゴル高原の草原世界に君臨
436年、北魏が華北の全域を支配、北は柔然、南は宋と対峙した。北魏では皇帝と可汗の称号を併用(これまでは併用されなかった。可汗は非漢民族の称号)
十六国期は華北に仏教が普及。仏教振興は前秦崩壊後。中華を相対化する仏教を王権に取り込む素地は北魏にはあった→皇帝・可汗を併用する北魏はもともと中華を相対化している
466年、宋の皇位継承をめぐる乱で逆臣となった人物が北魏に降伏してきたことで北魏の領土拡大→膨大な兵力が必要→兵役の公平化と租税の負担軽減→均田制
→兵力を民に担わせる反対給付としての均田制
孝文帝は洛陽に遷都し、宮中での鮮卑語を廃止、漢化政策
北魏内で爾朱氏の力が強くなる→爾朱氏を高歓が倒す→孝武帝が宇文泰の下に出奔→高歓は孝静帝を擁立(東魏)。宇文泰は孝武帝を殺し、文帝を擁立(西魏)
東魏では高歓の子が即位(北斉)。西魏では宇文泰の子が即位(北周)→574年、北周の武帝は仏教と道教を禁止→577年、北斉を滅ぼす
→幼帝を補佐した楊堅は仏教・道教禁止を解く→581年、楊堅が即位(隋)→589年、陳を滅ぼして中国統一
都城制は北魏の洛陽城にはじまる

294修都:2022/03/30(水) 20:10:34 ID:AY2wDrvM
鈴木宏節「トルコ系遊牧民の台頭」
遊牧民についてはウイグルを過渡期として遊牧社会が古代から中世に移行したという時代区分が共有通認識
トルコ系遊牧民も世俗王権は世襲。君主はカガン(可汗)
遊牧国家ではカリスマ的な君主のもと、強大な王権の求心力が発生する→時代の経過とともに中央の権力は分散
突厥はユーラシア東西に勢力拡大→部族集団をつなぎとめるための方策としてタルカン制

295修都:2022/03/31(木) 21:27:20 ID:AY2wDrvM
辻正博「隋唐国制の特質」
隋の文帝は州と県の間の郡を廃止、州―県とした→地方間の任免権を中央に回収→地方統治は中央派遣の官員が担う
煬帝は二百数十年ぶりに統一された中華の皇帝だった→李淵は煬帝の母方の従兄弟。北方防衛を任されていた李淵は突厥と結び、長安に進軍→入城すると煬帝の孫を皇帝に擁立
→煬帝が死ぬと自身が皇帝に即位(唐の高祖)→隋朝官人は別の煬帝の孫を皇帝とする→隋が滅亡しても鄭や夏では隋の官制を用いた→唐は差別化を図るため律令で独自色
隋唐は身分秩序で成り立っていた
文帝は各地に置かれていた軍府を大幅に削減、兵籍につけられていたものを民籍に編入
唐王朝は軍役を課した→衛士に選抜されなかったものは防人→負担に耐え切れなくなった農民は逃亡しだす
衛士は宮城の警備で戦闘要員ではない。防人は辺境警備。戦時にのみ行軍を召集・組織して兵員を大量動員する→8世紀前半になると職業兵士が中心になる
北周から隋、隋から唐への変革はそれまでと違い、前朝国制の継承を拒絶するものだった

296修都:2022/04/01(金) 20:41:48 ID:AY2wDrvM
戸川貴行「南朝の天下観と伝統文化」
4世紀初頭、永嘉の乱→騎馬遊牧民が西晋の都を攻略し、皇帝を殺害→漢族は江南に避難、東晋が成立→国家儀礼と雅楽の大部分が失われたと思われる
→中原を恢復するまでは国家儀礼や雅楽の整備を控えるべしとされた→東晋につづく宋の孝武帝は中原恢復をあきらめ健康を新たな天下の中心にしようとした→国家儀礼の整備
北魏では530年、権臣の爾朱栄が孝荘帝に殺された後、従子の爾朱兆が洛陽を襲撃→雅楽器が略奪・燃やされた→新たな雅楽がつくられた

297修都:2022/04/03(日) 20:13:57 ID:AY2wDrvM
桃木至朗「東南アジア世界と中華世界」
東南アジアが歴史学会の市民権を獲得したのは、1990年前後
東南アジアで、仏教・ヒンドゥー教やサンスクリット語などインド文明の摂取が始まるのは4世紀末以降→国家成立
紀元前千年紀から10世紀までに形成された東南アジアの諸歴史圏は現代の諸国家の記憶の中に残っていない→9〜14世紀(憲章時代)の諸国家は歴史叙述の中に多くが姿を見せる
→憲章時代は唐宋変革の時代とほとんど重なる
東アジアの一部と見なされていたベトナムは、80年代の東南アジア地域研究の発展で東南アジアの一員であることが強調されるようになった
ベトナムは陳朝になると中国と対等な南国(南の中華帝国)というイデオロギーと歴史を練り上げていく

298修都:2022/04/04(月) 20:42:48 ID:AY2wDrvM
岩尾一史「チベット世界の形成と展開」
吐蕃の中核となったのはヤルルン川周辺のプゲェル氏、東チベットコンポのコン・カルポ、チベット東南部の諸勢力
ソンツェン・ガンポが統一→この後、チベットは拡大路線。唐軍に勝利して一時期はタリム盆地を支配→皇位継承をめぐり国内が安定しないなか、唐軍により押さえ込まれた
→755年、安禄山の乱が勃発すると吐蕃が再び進出。763年には吐蕃軍が長安を2週間占領→790年代、唐軍に大敗。9世紀初めには拡大路線は手詰まり
→唐と長慶会盟→吐蕃は最大の版図、吐蕃とウイグルが崩壊するまでユーラシア東方に平和
吐蕃は農耕の経済的安定性と牧畜民の機動力を併せ持つ国家。チベットは多民族国家
吐蕃が仏教を公式に受け入れたのは779年→普遍的な宗教権威による王権正当化のため世界宗教を選んだ
→ただし、吐蕃期は仏教がチベット社会に完全に浸透する前段階。古代信仰が残っている
842年以降、後継者をめぐって南北に対立→分裂していき吐蕃の栄光を取り戻すことはなかった→ただし、吐蕃崩壊後も支配地域ではチベット語が利用され続け、チベット仏教文化圏が残った

299修都:2022/04/05(火) 21:31:04 ID:AY2wDrvM
李成市「朝鮮史の形成と展開」
韓国と北朝鮮は936年の高麗王朝を最初の国家統合としている→新羅の時代の渤海を朝鮮史の一部とみなし、南北国時代とするから
高句麗の広開土王は永楽太王と号した→中国の冊封体制では通用しない独自の王号→高句麗を中心とする政治秩序→独自の天下観は五胡十六国時代という華北の変動のなかで生まれた
百済は360年代末、近肖古王の時代、高句麗に勝利→372年、東晋に朝貢。支配層は高句麗系、新羅系、倭系、中国系など多様な出自
新羅は377年、前秦に朝貢→高句麗に朝貢を強いられるが、百済と同盟を結び、高句麗に抵抗→漢江下流域を奪取→564・568年、南北朝(北斉・陳)に外交
642年、高句麗の権臣泉蓋蘇文と百済の義慈王は連携して新羅を攻撃→新羅は唐の支援を求める→唐は女王統治を非難→女王廃位・唐依存派と自立派(春秋)の対立→春秋の勝利
→春秋は衣冠制を唐制に改め、唐年号を採用→政治的実権は権力を掌握した金春秋と一部の近親者集団のもとに
新羅は670年から6年にわたって唐と抗争、それに勝利→684年、朝鮮半島全土を支配
景徳王は759年、官司を名を唐風に改める
新羅後半期は王位争奪戦がくり広げられ、地方では反乱が頻発→高句麗の再興を訴えた勢力は朝鮮半島独自の年号を用いた

300修都:2022/04/06(水) 21:43:18 ID:AY2wDrvM
冨谷至「中華と日本」
2000年に及ぶ帝政中国で中華帝国が周辺諸国に賜与した称号は一貫して王
後漢光武帝の時代、倭の首長は倭王の称号を与えられた→「漢倭奴国王」は漢の倭奴国の王と読むべき
6世紀に入ると、倭と中国南朝の交渉は疎遠
『日本書紀』には隋からの国書に「倭皇」と書かれている→倭王を隠ぺいするために書きかえている。倭王の称号は、もはや忌むべきものとなっていた
→もとから倭皇だったのではなく、『日本書紀』が書写されていく過程で書きかえられた可能性が高い
倭が日本に国号変更したことを唐へ正式に告げたのは702年第8回遣唐使→701年に初めての年号大宝を制定した翌年
すでに漢語として存在していた日本を倭国が東方の国である自国の国名に転用した
天皇の称号が飛鳥浄御原令に記されていた可能性。少なくとも天智朝では日本という国号も天皇号も成立していない→天武朝に天皇号、国号日本。読みとしては日本もヤマト
中国王朝は一貫して王・日本国王という呼称を維持→天皇の読みスメラミコトを姓・号と見なした可能性

301修都:2022/04/07(木) 20:45:55 ID:AY2wDrvM
下倉渉「交拝する夫婦」
経書の婚礼→男家が女家に婚姻を申し込む→女性の名前を聞く→占う→結納→輿入れの日を決める→新郎が女家に向かう→花嫁が男家に至る
→男家に至るまでに婦が夫に付き従う存在であることを可視化したパフォーマンスが行われる
漢の時代は皇帝の娘公主と結婚するときは公主の居宅に通った→魏の時代に公主であっても夫尊妻卑の論理が適用されていく
後漢代後期あたりから夫婦交拝の儀式→通常は身分差のある者同士で交わされる拝礼ではない→宋代は新郎の寝室で行われ、元代以降もこれに準じていた
男尊女卑・夫尊妻卑を基本理念とした儒家的な婚礼は婚礼儀礼上における絶対的なスタンダードではなかった
→宋代以降、新郎の寝室で行われるようになった→成婚の儀礼が儒家の説くものになっている(夫尊妻卑)

305真ナルト信者:2022/07/08(金) 11:16:51 ID:???
age

306修都:2022/07/09(土) 16:45:35 ID:sO0X8N3w
佐々木憲一「北アメリカにおける先史時代社会の諸相」
アメリカ大陸へはベーリング海峡が陸地であった氷河期末期にシベリアから現生人類が大型哺乳類を追いかけて移動してきたというのがアメリカ考古学会のほぼ一致した見解
極北(アラスカ州北部からカナダ北部、グリーンランド沿岸地域)→ヨーロッパ人入植まで海獣や海鳥の狩猟と若干の漁労→極北東部域で人々が生活を始めたのは紀元前2500年頃
北西沿岸(アラスカ州南端からカリフォルニア州北端)→気候変動のため多くの遺跡が水没
北部では唇飾りを装着した人々、南部では頭蓋変形を受けた人々が社会的に高位の人々→社会的不平等。北部海岸地域では戦争の証拠
→ヨーロッパ人がこの地を初めて訪れた時には社会的な階層分化が存在
南西部のチャコ・キャニオン遺跡群には食人の習慣も含めて暴力の考古学的証拠が顕著
ヨーロッパ人入植以前の北アメリカ大陸先住民は金属器の鋳造技術を有することはなかったが、自然銅で道具を作ることはできた
紀元前10世紀頃、土器の使用の開始は北東部と南東部で大きな変革→定住化が起こったからこそ土器製作が容易になった
紀元前1050年頃、南東部のミシシッピ文化→マウンド(墳丘墓)築造に精魂を傾けた時代→大遺跡をトップとする階層構造は地域ごとに完結
→地域を超えて築造規格が共有される日本の古墳時代とは違う
北アメリカ大陸の多くの地域はヨーロッパ人入植のときも狩猟採集経済で土器もなかったが、南西部・南東部・北東部(北部を除く)は紀元前4世紀までに農耕、定住化

307修都:2022/07/10(日) 15:45:22 ID:sO0X8N3w
関雄二「アンデスとメソアメリカにおける文明の興亡」
メソアメリカ→メキシコ中部からホンジュラス、ニカラグア、コスタリア西部。アンデス→ペルーとボリビアの一部
更新世の末頃、アジアからアメリカ大陸に人類到達、拡散→完新世初期に植物栽培は開始されるが、農耕に依存した社会は4000年以上も後
アンデスは定住、公共建造物の出現でメソアメリカに先行→平等性が高い社会で、埋葬に差異が認められない。いずれの遺跡でも、王宮や王墓などが見つからない
→公共建造物が出現して、2000年以上経って集団内の差異が明確化
メソアメリカは公共建造物よりも土器の出現が早い→前1400年頃オルメカ文化では大規模な公共建造物の建設と支配者の存在を示唆する証拠
アンデスでは国家が誕生していなかった時期、オアハカ地域では国家レベルの社会。マヤでは王権が成立
前100〜後700年のナスカ文化(ペルー南海岸)→国家ではない。地上絵は儀礼の際に歩いた通路とする見方が強い
マヤは各都市に王を戴く国家が成立。都市国家間で同盟が結ばれ、抗争も絶えなかった→マヤの崩壊。人口急増による環境破壊、戦争による社会疲弊などによると考えられている
アンデスでは国家や都市は限られた地域であり、王はいない→ワリ文化。アンデスの広い範囲を影響下においた初めての政体、帝国とする論もある
スペイン人が到来した当時、アンデスのインカ帝国は地球上最大の帝国→中央集権的ではなく間接的支配→王の親族集団の生活は私有地からの物資
インカ帝国は1532年、160名あまりのスペイン人との数時間の戦いで崩壊
マヤはスペイン人が到来してもすぐに征服されず、滅ぼされたのは1697年
メキシコ高原のアステカは人身供犠を行ったことで知られる→1521年、スペイン人に滅ぼされる
アメリカ大陸の古代文明では財を蓄えていくような王があらわれない→軍事行動においても祭祀や世界観の具現化を求めた行動が底流。祭祀の精緻化に伴って階層構造

308修都:2022/07/11(月) 20:06:16 ID:sO0X8N3w
大越翼「マヤ人から見たスペインによる征服と植民地支配」
マヤ文明の王や貴族らと平民との間に財に関して大きな差はない→王の権力基盤は労働力の多寡→王は人口の大多数を占める農民の意向を無視することができない
→王は一方的な収奪を行っておらず、農民への還元がある→農民が王権をくつがえすほどの力を持っている
ユカタン半島東海岸のマヤ人はスペイン人を平和に迎えスペイン国王に忠誠を誓った→1527年のモンテホの征服は成果を得られず、ユカタン半島を放棄
→半島西海岸から進軍、北部低地西半分の王国群を支配下に収めた→モンテホは先住民同盟軍の必要性を認める→1546年、北部低地の征服終了
マヤ地域の主だった征服戦は16世紀半ばまでにすべて終了→南部低地の大半は手つかず→南部低地はスペインが実効支配していた地域から逃れてくる人々が住む地域
スペイン側の思惑通りに先住民社会が改編され、スペイン王国の臣民としてのキリスト教原理に基づいた社会が創造されたわけではない
マヤ人すべてが、暗黙のうちに2つの宗教を矛盾することなく生きていた→スペイン人による征服がマヤ社会を崩壊させたのではない、マヤ人が主体的に新しい時代を乗り切っていこうとした
ピラミッドは壊され教会が建てられたが、道は手をつけられなかった→先住民にしてみれば、道の行きつく先が異教の教会だろうと、既知の精神世界に教会を包摂していく行為
マヤの人々は、スペイン人邸宅で働く者が多く、女性はスペイン料理に伝統的なマヤ料理を組み合わせた新しい料理を作りだした
乳母はスペイン人の子供たちにマヤの伝統や儀式などを語り聞かせた→事実上、子供たちはスペイン語とマヤ語のバイリンガルとなった
スペイン人がマヤ人たちを冷酷に扱い、人とも思っていなかったというのは必ずしも正しくない
マヤ地域の征服はスペインとメソアメリカの人々との共同事業

309修都:2022/07/12(火) 21:50:53 ID:sO0X8N3w
網野徹哉「トレント公会議とアンデスにおける先住民布教」
インディオを委託されたエンコメンデーロには先住民の教化義務が課せられ、聖職者を雇う必要があった
アンデスの伝統的宗教実践については、一概に排毀するのではなく、積極的に取り込んでゆくという柔軟な適応精神
1545〜1563年トレント公会議→公共要理を土着の言葉で伝える方針→先住民言語の習得が義務づけられた
インディオは法務文書を運用する能力も身につけている→司祭を訴えるインディオたち

310修都:2022/07/13(水) 20:50:56 ID:sO0X8N3w
横山和加子「一六世紀メキシコからみたグローバルとローカル」
メキシコ市は西半球随一の都市であった→スペイン人は都市、先住民は村という住み分け→異人種間の婚姻に法的な問題は無し。先住民女性との結婚は珍しくない
アステカ王国モクテスマ二世娘イサベル・モクテスマはアステカ王の血と姓をスペインの貴族の中に注ぎ込んだ
17世紀、多くのカシケ(先住民首長)がメスティーソ(先住民とスペイン人の子)、カスティーソ(メスティーソとスペイン人の子)だった
自由な黒人(征服に同行した黒人奴隷)と先住民の混血も始まる→17世紀半ば、メキシコ市に黒人は一定割合いたが、18世紀になると減少、ほぼゼロ→混血者の中に吸収された
混血の複雑化と白人化の可能性→北米とは異なる緩やかな人種観の形成

311修都:2022/07/14(木) 21:32:05 ID:sO0X8N3w
金井光太朗「「先住民の黄金時代」とセトラー・コロニアリズムの衝撃」
セトラー・コロニアリズム→「野蛮人」を殲滅排除して勤勉なる入植者が定住を進めて文明社会を再現するのが正当だというイデオロギー
アメリカ先住民の黄金時代→季節に応じて生態系をめぐり移動しながら生きる生活
オランダは宗教的寛容や経済的繁栄により多民族・多文化社会で、植民地入植者も多様
フランス入植者にとっては封建的な農地の生活より野蛮人生活の方が魅力的だった→先住民首長との結婚に積極的
オランダもフランスも先住民と入植者の相互関係に落ち着いていた
イギリスのヴァージニア植民地は入植から数年間危機的。入植者の半分以上が一年経たずして死亡→入植者による先住民からの強奪→1609年、アングロ・ポーハタン戦争
→1614年、ポカホンタスがイギリス人ジョン・ロルフと結婚して一旦は和平成立→1622年、第二次アングロ・ポーハタン戦争→32年、イギリス勝利、民族浄化
ニューイングランド植民地→(入植者にとって)「空いた土地」への入植侵入→1634年、ピークォト戦争→1637年、イギリス勝利、民族浄化

312修都:2022/07/18(月) 16:11:59 ID:sO0X8N3w
大峰真理「一七世紀フランスの初期植民会社と小アンティル諸島」
16世紀半ばまで中南米地域にむかう船団の積み荷は、カリブ海域の船乗りたち(フリビュスティエ)の格好の略奪対象だった→スペインの覇権は略奪者集団を存続させる要因
1626年フランス王国史上初めて植民のための特権会社サン=クリストフ会社→サン=クリストフ島をイギリスと二分割していたがフランスの植民は上手くいかなかった
→国家から許可を与えられ敵国の船を襲撃して積み荷を奪う私掠をフランスのブランはイギリスに行い、イギリスとの勢力均衡を図った→結局、植民は失敗。1634年サン=クリストフ会社は解散
→1635年アメリカ諸島会社設立→グアドループ島の開墾を目指す→年季奉公人と黒人奴隷労働力を投入する典型的なプランテーション社会

313修都:2022/07/19(火) 19:57:35 ID:sO0X8N3w
小原正「アメリカ植民地の経済とスペイン黄金世紀」
17世紀スペインは文化的には黄金世紀。一方で有力貴族が深刻な財政難の時代→疫病による農業危機、銅貨改悪による通貨危機、国債利払い停止→銀の価値上昇
→アメリカ植民地の銀を入手できるエンコミエンダの権利に注目→スペイン本国の有力貴族にエンコミエンダの権利が与えられるようになる
→現地の商人がエンコミエンダの管理を委託される→責務を果たさない商人もいた

314修都:2022/07/20(水) 21:28:35 ID:sO0X8N3w
清水有子「徳川家康のメキシコ貿易交渉と「鎖国」」
文禄元年(1592)、豊臣秀吉がルソンに投降を呼びかけた→ルソンの修道士が使節として日本に来る。日本とスペインの関係の契機
→秀吉の死後、倭寇がルソンに跋扈→家康はそれに対処。1606〜09年、マニラ市内で日本人暴動が起きると家康は日本人暴徒の処刑を命じた
家康は慶長7年(1602)禁教を表明したが、宣教抜きでの外国人の日本滞在は認めた→ルソン側は名目的なものと誤解した可能性。家康も積極的な宣教取締りはしていない
家康はルソンに関しても格下の国から進物が送られていると都合よく解釈→日本型華夷意識の萌芽
1609年、ビベロ漂着→家康と貿易交渉→協定案謝絶。家康は南蛮通行全般を見直し始めている→オランダ人との通行関係が成立している
1611年、使節ビスカイノ冷遇→貿易構想放棄。1612年、禁教令。1615年、スペイン使節を無視、スペインとの外交は途絶えた

315修都:2022/07/25(月) 21:36:15 ID:0jMA5iFU
三田昌彦「南アジアにおける国家形成の諸段階」
前6世紀頃ガンジス川中流域に都市→前3世紀マウリヤ朝が南アジアほぼ全域を統合。マウリヤ帝国は湿潤な稲作地帯から発した世界的に特異な帝国
首都パータリプトラは世界最大級の都市。マウリヤ朝は画一化を目指す施策をほとんど行っていない
マウリヤ帝国はガンジス川流域と重要地点とを結ぶ点と線の統治。領域内の経済的格差は極めて大きい
マウリヤ帝国崩壊→デカンにサータヴァ―ハナ朝、中央アジアから北インドにクシャーナ朝→4世紀初頭グプタ朝が北インド統合
グプタ朝崩壊→7世紀前半ハルシャが北インド統合→崩壊後、小勢力割拠→8世紀後半プラティーハーラ朝、パーラ朝、ラーシュトラクータ朝並立期
北のプラティーハーラ朝は辺境勢力。中央部のラーシュトラクータ朝は南アジア最大勢力→10世紀後半、地域国家並立→この時代の王朝は安定的で約300年継続

316修都:2022/07/26(火) 20:58:07 ID:0jMA5iFU
鈴木恒之「インド洋・南シナ海ネットワークと海域東南アジア」
前2世紀末、漢の武帝はベトナム北・中部を支配下に置き3郡を置いた→南シナ海交易の玄関口→ローマ、インド、中国を結ぶ海上交易路海のシルクロード
8世紀、マラッカ海峡域でスマトラ南東岸のシャリーヴィジャヤ王国が交易ネットワーク形成。中部ジャワではシャイレーンドラ家がマハーラージャを名乗り、シャリーヴィジャヤの王位に就く
877年、東西交易の拠点だった広州が黄巣の反乱軍に襲撃され、居留していた外国人12万人が殺される→ムスリム商人の拠点はクダーに
1025年頃、南インドのチョーラ軍の襲撃でシャリーヴィジャヤは中心的役割を失う→北隣のスマトラのジャンビ王国が中心に
13世紀末から東南アジアのイスラーム化→ムスリム商人の活動を反映

317修都:2022/07/27(水) 21:38:22 ID:mLoZKEwA
馬場紀寿「サンスクリット語とパーリ語のコスモポリス」
サンスクリット語が政治の言語として用いられ、サンスクリット語の聖典をもつヒンドゥー教と仏教が主要な宗教→サンスクリット・コスモポリス
インドではアラビア語のクルアーンを正典とするイスラム教が浸透。スリランカから東南アジア大陸部にはパーリ語の仏典を伝承する仏教→パーリ・コスモポリス
1世紀から3世紀、外来民族の王朝である北インドのクシャーナ朝でサンスクリット語の使用が始まる
4世紀、北インドのグプタ朝は本格的にサンスクリット語を政治的発話に採用→4世紀から13世紀、南アジアと東南アジアの関係の緊密化とともにサンスクリット語が広まる
密教は儀礼をもたなかった仏教の弱点を克服し、仏教がサンスクリット・コスモポリスの主要宗教となる原動力となる
→7,8世紀、サンスクリット仏教は南アジア・東南アジアという地域を超え(中国・日本など)、サンスクリット語すら超えて(翻訳)世界最大の宗教となった
サンスクリット化に抵抗する仏教の一派による変革がスリランカで起こり、影響が東南アジア大陸部に波及→パーリ語こそが正しい仏典の言葉であるという言語論
11〜12世紀、アフガニスタンのガズナ朝やゴール朝がインドへ進出→北インドを中心にペルシア語が知識人の言語としての地位を獲得→ゴール朝によってインドの仏教拠点も破壊される
13〜14世紀、東南アジア大陸部の新たな王権は改革後のスリランカ仏教を導入。パーリ語はサンスクリット語とは異なり、仏典言語にとどまった

318修都:2022/07/28(木) 21:52:08 ID:mLoZKEwA
二宮文子「南アジアにおけるムスリムの活動とイスラームの展開」
ムスリムはインド洋の海の道を利用して南アジアに進出。アフガニスタンに拠点を置いたガズナ朝は10世紀末から11世紀に南アジアへ侵攻。ゴール朝は北インドを中心に征服活動
デリーを根拠としたムスリム政権はスルタンを称した(デリー・サルタナト)→13世紀末から14世紀初頭、征服活動→トゥグルク朝の時代にデリー・サルタナトは南アジア最南端以外を支配下
南アジアのムスリム社会は異なるルーツを持つ多様な人々から構成。デリー・サルタナト時代の農村部の人口の大部分は非ムスリム→支配は多くの非ムスリムに支えられている
後宮の女性たちの中にも非ムスリム出身者がいた。宗派の違いが政治的・社会的な対立に必ず結びつくわけでもない
デリー・サルタナトにおける行政や文芸活動は主にペルシア語。14世紀以降は各地の言語を用い、地域文化に根ざした素材を用いる文学作品がムスリムによって著される

319修都:2022/07/29(金) 22:16:13 ID:mLoZKEwA
小磯学「南アジアの古代文明」
前2600年〜前1900年頃、南アジア北西部で興亡したインダス文明→西南アジア交流圏の東方に展開した諸文化を結び付け統一したのがインダス文明
→交流圏の中の関係性が失われたことが文明が衰退し崩壊した原因と考えられる
インダス文明では長文の文書資料が発見されていない。王宮・王墓に否定できる建築物や遺構も不在・未発見。紛争の痕跡も欠如している
周壁をもつ都市ともたない都市が存在しており、文明内に一定の社会的格差はあった

320修都:2022/07/30(土) 20:12:38 ID:mLoZKEwA
山形眞理子「ドンソン文化とサーフィン文化」
ドンソン遺跡はベトナム北部、サーフィン遺跡はベトナム中部
ドンソン文化の紅河平野には中国の南下に圧倒される前に、東南アジアのどの地域と比べても複雑な社会が出現していたと思われる
地域ごとに成長した首長制社会の集合体がサーフィン文化の社会
鉄器時代の東南アジアには、考古学的な知見から推測される様々な道が交錯し、ネットワークが広がっていた
ドンソン文化とサーフィン文化は、交易ネットワークを通じて東南アジア各地の鉄器時代文化とつながっていた

321修都:2022/07/31(日) 23:04:43 ID:mLoZKEwA
田畑幸嗣「東南アジアの古代国家」
東南アジアは少なくとも紀元前4・5世紀以降にはインドとの明瞭な接触→インド的ないしはインドにインスパイアされた文化をもつ諸国家が成立するまでの約千年間は長い助走期間
漢籍に登場する扶南→真臘。扶南は後の真臘とよく似た価値観をもつ人々の政体。統一国家ではなく、カンボジア・ベトナム南部の政治的なまとまりの総称だったのではないか


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