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田母神氏問題

1キラーカーン:2008/11/06(木) 01:03:13
田母神氏の問題については

1 自衛官(特別職公務員)の思想信条の自由・表現の自由と自衛隊法で禁止されている「政治的行為」との関係

2 自衛官(特に高官)に対する「シビリアン・コントロール」は担保されているのか

というものです。

 この問題について「歴史認識」について問題とする限り、前者の問題に帰着します。したがって、焦点は外部への意見の公表について上司の許可を得るという内規に従ったか否かという問題だけです。(「歴史認識」の内容については問うことはできない)

 後者については、田母神氏の「歴史認識」に関する部分よりも「雁字搦め」の部分こそ問題にすべきで、「歴史認識」を理由にシビリアン・コントロール上問題という批判の仕方は、本件に関しては「ピンぼけ」である

 というものです。以下、やや詳しく述べます。
 この種の問題においては、外部(他人)からその思想信条が推測される状況になることが必要条件である(他人に分からない個人の思想信条は問題にしようがない)ので、一般的には、「表現の自由」という問題としてとらえられることとなります。
 ある組織に属する人(特に最高幹部)がその組織の肩書を明示して自己の意見を表明する場合、その人の意見はその組織の「公式見解」とみなされる可能性が高くなります。そして、まさに「公式見解」を述べるために、肩書を明示して意見を表明する場合もままあります。というわけで、政府機関に属する人が媒体(メディア)で何らかの意見を表明する場合には

これは個人の見解であって、その個人が属する組織の見解を代表するものではない

という内容の注意書きが「決まり文句」としてついてくるのが通例です。今回の「論文」にはそのような注意書きすらついていないという意味においても、田母神氏の論文は驚天動地の文章でもあります。
 さらに、公務員には、国家公務員法や人事院規則などの法令によって「政治的行為」が禁止されています。ちなみに、田母神氏は自衛官でしたので、国家公務員法の管轄ではなく、自衛隊法の管轄になりますが、基本的考え方は同じです(国家公務員法の管轄範囲は一般職の公務員までで、自衛官を含む特別職公務員には国家公務員法は適用されません)。
 範囲を広げて、私企業についても、肩書を明示して部外の媒体に意見(文章)あるいはインタビュー記事が掲載される場合には、そのことについて上司に何らかの形で許可を得るということが必要ということも社会通念上「当たり前」といってよいと思います。
 で、防衛省の場合においても、そのような許可を得なければならないという内規があるようなので、田母神氏は論文投稿に当たってその内規に従った許可を受ける必要があったということになります。その許可を受けていなかったとすれば、内規違反として処分の対象となるのは仕方がないでしょう。また、この事件に関して、内規の運用について問題があったということであれば、田母神氏の論文投稿に当たって、その内規の運用にかかわる人が処分を受けるのも、これまた仕方がないということになります。
 政治的行為について、国家公務員法と「人事院規則14−7」で規定されています(自衛隊法には直接の影響はありませんが参考にはなるでしょう)。いろいろな項目が列挙されていますので、興味があれば直接条文を参照してください。
 「論文」の投稿という問題については、上述のように、表現の自由と政治的行為の禁止との連立方程式の解がどこにあるのかという問題に帰着します(派生的な問題として、それでは、防大教授が政治学の分野において「学術論文」を執筆するのは「政治的行為」であるから禁止されるのかというものもあります。)。従って、外部に対して、自己の意見を表明することは「政治的行為」との関係で問題とはなりますが、そのことが直接「シビリアン・コントロール」の問題になるということを意味しません。
 まら、田母神氏は政治献金を行ったという疑惑もありますので、この方面からも「政治的行為」に該当する可能性があります。

2キラーカーン:2008/11/06(木) 01:03:23

ここからが「シビリアン・コントロール」との問題についてです。
 今回の事件で「シビリアン・コントロール」上問題と批判を受けることをそれらしく解説すれば

 歴史認識や自衛隊の行動の制約について、政府見解や現行法についての疑念を、自己の肩書を併せて表明することにより、防衛省の長である防衛大臣あるいは自衛隊の最高指揮官である総理大臣の命令に自衛官が「従わないこともある」

という「疑念」を広く国民一般に抱かせたということです。
 自己の歴史認識と与えられた命令を遂行するという自衛官の任務とは直接の関係はありません。「政府公式見解」と異なる歴史認識を持っていても自己に与えられた命令を粛々と遂行することは基本的に両立します(「過去は過去、現在は現在」と割り切ることが可能)。極端な例をあげれば、部下が「トラキチ」であっても、巨人ファンである上司の命令に従って職務を遂行することができます。
 とはいっても、日本における歴史認識問題は、明治維新後の日本における「戦争と軍隊」の評価にまつわるものが大きな比重をしてていますから、歴史認識が現在の日本における「軍」あるいは「自衛隊」に対する社会的評価あるいは自衛隊に対する支持に影響を及ぼすものであることは間違いなく(更に、戦前の帝国陸海軍に対するシビリアン・コントロールを制度的に確立することができなかったということも歴史的事実として共有されていることもあり)、その観点からいえば、歴史認識とシビリアン・コントロールとの関係は「ゼロではない」という意味でこの両者は関係があるということはできますが、後述のように「雁字搦め」の部分に比べれば、その比重ははるかに小さいものです。
 したがって、シビリアン・コントロールの観点からすれば、田母神氏の「論文」における歴史認識を問題にするよりも

諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動き出来ないようになっている

という部分のほうを問題にすべきです。田母神氏はこのことについて「だから、どうすべき」ということについては意見を表明していませんが、「いざという場合には、自衛隊は法律に反して超法規的行動をとらざるを得ない」という意見を田母神氏が持っているということを予想させます。なぜなら、この部分は来栖統幕議長(当時)のいわゆる「超法規」発言と趣旨は同じでだからです。従って、シビリアン・コントロールとの関係で問題にするのであれば、この「雁字搦め」の部分を真っ先に問題にしなければなりません。
 20年近く前にも、ある自衛官が「現状の日本であればクーデターも仕方がない」という意見を週刊誌に発表して問題になったという事件がありましたが、その時も、「クーデター」というシビリアン・コントロールに反する行動を容認したということが問題となったわけです。

 最後に繰り返しになりますが、自身の歴史認識を発表すること自体はシビリアン・コントロールの問題には直結しません。しかし、「雁字搦め」の部分は自衛隊の任務遂行に直結します。即ち、シビリアン・コントロールの観点から問題にするのであれば「歴史認識」よりも「雁字搦め」の部分でなければならないのです。従って、政府見解に反する歴史認識を有することをもってシビリアン・コントロールの観点から問題にするという批判は「ピンボケ」であると断ぜざるを得ません。
 うがった見方をすれば、「雁字搦め」の部分を問題にすれば、その「雁字搦め」を解消する方向で法律を改正しようという動きになるという「やぶへび」になる可能性があるので、あえて「ピンボケ」の批判をしているという見方も成立します。

3キラーカーン:2008/11/12(水) 00:31:13
とうとう、国会への参考人招致まで話が大きくなった田母神問題ですが、「政治的中立」義務とシビリアンコントロールとが混同して論じられているきらいがあります。また、そこに、本来別個の問題である「歴史認識」問題も絡んで、見た目には複雑な様相を呈しています。

もし、氏の行為を違法として問うのであれば、自衛隊法上の「政治的中立」を保つ義務に違反したということになるのですが、この政治的中立に関する規定は国家公務員法と自衛隊法とでほぼ同様の規定ぶりとなっています。(興味があれば、国家公務員法、人事院規則14−7、自衛隊法、自衛隊法施行令などの該当条文をご覧ください)。ということは、この「政治的中立」というものは、シビリアンコントロールとは関係なく、役人(公務員)であれば、文官、武官の区別なく守るべき準則として定められているということです。もし、シビリアンコントロールに関するものであれば、自衛官だけを対象とした規定になるはずです。

シビリアンコントロールコントロールは本来、軍隊の指揮命令に関するものであることから、本来的には、「政治的中立」ではなく、「法令及び上司の命令に従う義務」との比較検討になります。しかしながら、この件では実際に、部隊の統帥に関して「命令違反」や「独断専行」という具体的問題が生じたわけではありませんので、この問題点は生じません。また、これまでの田母神氏の自衛官生活の中で、氏の歴史認識がシビリアンコントロール上問題とはなりませんでした。このことは、「歴史認識」と「シビリアンコントロール」とは本来別個の問題点ではないかということを強く示唆していると思います。ただし、先日の投稿の「雁字搦め」に直面するような状況にならなかったのと同様に、歴史認識が部隊の統帥上問題となる場面が幸運にもなかったという可能性は残っています。

とはいっても、歴史認識という自己の思想信条が時の政府と反するということを公にしたということが、シビリアンコントロール上全く問題がないというわけではなく、ある程度は問題があるということがこの問題の難しいところであります。つまり、「政治的中立」とシビリアンコントロールとは何らかの関係があるということです。では、何が問題になるかといえば、

 歴史認識や自衛隊の行動の制約について、政府見解や現行法についての疑念を、自己の肩書を併せて表明することにより、防衛省の長である防衛大臣あるいは自衛隊の最高指揮官である総理大臣の命令に自衛官が従わないこともあるという「疑念」を広く国民一般に抱かせた

ということです。
 しかしながら、自衛官もロボットではない以上、個人として「政治的中立」であることは不可能です(思想信条を持たない人間はあり得ない)ので、個人の思想信条と公務員としての業務施行能力は基本的に別物であるということがいえます。さらに、政府見解と反する思想信条を有する自衛官が「統帥権」とは何も関係がない職に就いている場合(上述の「5」に該当する自衛官)には、そもそもそのような問題は発生しません。将来の可能性として、そういう自衛官が「統帥権」の行使に関わる職に就く可能性は否定できませんが、そういう自衛官は防衛研究所の研究員や防衛大学校の教官や技術研究本部の職員として有能である可能性も否定できませんので、そういう思想信条を持っていることを以って退職させるということは防衛省、自衛隊にとって損失であることにもなります。

 田母神氏は航空幕僚長という統帥権に関わる職に就いていたので、氏の言動は、歴史認識に関するものであったとしても、シビリアンコントロール上問題になるということは間違いないのですが、その場合においても「突っ込みどころが違う」というのが私の現時点での見解です。

4キラーカーン:2008/11/28(金) 00:22:43
一度目は悲劇として、二度目は・・・ 

今回は、田母神問題に戻ります。

 この「騒動」では、いわゆる左翼・サヨクと石破氏や「オブイェクト」といったミリオタ系の代表格であるが、「田母神許すまじ」で歩調がそろうと言う奇観を呈しています。そのことについて、わかりやすい補助線がありました。

 本日発売の「週刊文春」における宮崎哲弥氏の連載コラムに面白いくだりがありました。記憶モードですが、まず、市ヶ谷での三島由紀夫の「檄文」の一説を引用します。すなわち

>自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。
>自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、
>警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、
>その忠誠の対象も明確にされなかった

そして、当時の自衛隊は、そのような問題を存在しないものとして、三島を無視した。そのツケが田母神問題として噴出したとしています。それを、今回の「狂騒曲」と絡めて、

一度目は悲劇として、二度目は喜劇として

と評しました。

 確かに、自身(自衛隊)の存在を認めていない、更に言えば、「絶対悪」として(自衛隊を)滅すべきもの規定している憲法に対して自衛官が忠誠を誓うと言う絶対的矛盾。その矛盾を放置したまま「シビリアンコントロール」の名を以って氏を非難する空虚さ。その点を本能的に理解した多くの人が、田母神氏の行動をについて理解を示したのでしょう。

 そして、その矛盾を理解していないと言う点で左翼・サヨクとミリオタが一致したため、冒頭のような奇観を呈したと思います。

 前者は、憲法9条絶対主義のため、自衛隊を否定することでその矛盾を「克服」し、
 後者は、なまじ軍事に対する理解があるために、現行法制上あるいは政治上の問題点を無視して、正統的な政軍関係を論じている

という状態になってしまったのです。なぜ、自衛隊法における政治的行為あるいは上司の命令に従う義務は国家公務員法と同様の規定なのか。それは、日本の法制度上、「シビリアンコントロール」と言う概念が定着していないからではないのか。

 そのような状況の中で、現在の自衛隊が忠誠を尽くすべきものは何なのか。政府か、国民か、歴史・伝統か、それらを全て包含した「日本」なのか、その闇は深い

5キラーカーン:2008/12/12(金) 23:44:05
床屋政談(カイロプラッティックと田母神問題)

これまた、奇矯な題ですが、共通点は

表面に現れた歪みは別の歪みの反映である

ということです。
 まず、カイロの例で説明しますが、カイロで強制する背骨の歪みはそれ単独で存在しているのではなく、その患者が持っているそもそもの問題点(体質、姿勢の歪み)をカバーしようとして、背骨が歪んでしまうということにあります。したがって、歪みがある背骨を矯正したとしても、従来どおりの生活を続けていれば、また、同じように背骨は歪んできますので、そもそもの問題点が(ある程度)解決されるまで、継続的にカイロを受けなければならないということになります。カイロは背骨の矯正が目的ではなく、背骨の矯正を通じて身体本来の問題点を平癒させることが目的です(つまり、背骨の矯正は目的ではなく手段)。勿論、背骨の歪みを矯正することで、そもそもの問題点も改善され、体調が改善することもあるのですが、その場合においても、背骨の歪みという「表面に現れた」問題点ではなく、本来解決すべき問題点が解決できたからこそなのです。
 つまり、表面上に現れた歪みというものが

カ イ ロ:背骨
光市の事件:橋下弁護士の懲戒請求呼びかけ
田母神事件:懸賞論文提出

というものであるのに対し、本来解決すべき問題点としては

カ イ ロ:姿勢の悪さ
光市の事件:刑事裁判を含む刑事司法における犯罪被害者の位置づけ
田母神事件:国防という「誇り」、政軍関係における「政」の側の果たすべき役割

ということといえるでしょう。そして、光市の事件や田母神事件においては、いわゆる「専門家」といわれる人種(前者の代表例が弁護士、後者の代表例がミリオタ)に、その表面上の歪み「だけ」しか見ないという状態に陥り、素人のほうが本来解決すべき問題点を本能的に見抜いていたという面白い状況を呈していました。
 つまり、表面的に見える「歪み」を強制するだけでは問題の本質的解決にはならない。表面上の歪みを生じさせている根本原因を取り除かない限り同様の問題が生じうるということになります。先の投稿との関連からいえば、宮崎哲弥氏の週刊文春におけるコラムは、三島事件や田母神事件という表面の歪みだけを取り除いただけでは本質的な解決にならない。「建軍の本義」を自衛隊にも足せなければ本質的な解決にならないという解釈も可能です。

 ここからは、田母神問題に的を絞ります。
再掲すれば、三島は
>自衛隊は敗戦後の国家の不名誉の十字架を背負い続けてきた。
>建軍の本義を与へられず、
>警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、
>その忠誠の対象も明確にされなかつた。
と激を飛ばし、
田母神前航空幕僚長は「村山談話」をはじめとするいわゆる「自虐史観」的な歴史認識を問題としています。そして、村山談話によって
>軍(事)を無視または軽視し
>憲法9条によって、自衛隊の否定し、
>政治家は自衛隊を正当な軍として国家機構として位置づける努力を怠り
>ひいては、自衛隊危険なものとしてひたすら抑圧することを「シビリアンコントロール」と勘違いした
という傾向を下支えしているのは間違いないと思います。その歪みが、今回の事件という「歪み」として発現したのです。
 だからこそ、村山談話を是とする側が田母神氏を糾弾するのはもちろんのこと、自分は「軍事に対して理解がある」と思っている人は、そのような自負があるがゆえに、現状の政軍関係の歪みを無意識のうちに無視してしまい、日本の現実にそぐわない「正論」に走ってしまい、これまた、田母神氏を糾弾するという展開になったということになったのではないでしょうか。

6キラーカーン:2008/12/19(金) 23:10:23
12月19日付の正論欄は櫻田淳氏の文章でした。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/205847
参照
 そこから一部を引用しますと

 前航空幕僚長が(中略)行おうとしたのが、主に「過去の戦争」への評価に関する異議申し立てであったのは、率直に奇異なことであったと断じざるを得ない。筆者は、武官は、(中略)「現在の課題を前にして、軍事作戦上、何が出来て何が出来ないのか」を世に知らしめることに徹すればよいのであって、「過去の戦争」への評価に容喙(ようかい)し、(中略)思想家、政治活動家もどきの振る舞いに及ぶ必要性は全くないと考えている。
(中略)
 結局のところは、「進歩・左翼」層も「保守・右翼」層も、陸海空三自衛隊の活動を語る折に、六十余年前の日本の軍隊の活動への評価と重ね合わせる性癖を直すに至っていないのであろう。彼らは、「今、そこにある危機」には生真面目に向き合っていないのである。こうした惰性こそは、今後の安全保障政策を進める上でも、最たる「支障」であり続けるのであろう。

これはまさに正論です。特に後段は私も深く同意するところです。そのことが逆説的に、当の櫻田氏も田母神論文問題で噴出した

「今、そこにある危機」には生真面目に向き合っていない

ということが露呈したのです。自衛隊に対する信頼というものが、軍に対するそれと同質のものであるのであれば、自衛隊の活動を語るため、明治維新から敗戦までの日本軍の活動に対する評価も「少なくとも」その一部は重ね合わせざるを得ないでしょう。そして、「村山談話」を初めとするいわゆる自虐史観的見解による、過去の日本軍への評価を以って、軍あるいは軍事に対する評価を「全て」否定しようとするのであれば、それに対する反論は避けられないものです。

 その側面を無視して、田母神氏の行動のみを叩くのであれば、それこそ、現在に目がくらんで、過去の歴史による現在の影響が見えなくなっていると断ぜざるを得ません。

7キラーカーン:2009/01/09(金) 23:42:26
床屋政談(補足)
 田母神氏問題に関する論争を見るにつけ、文民統制のもう一方の主体である政治の側に対する言及がまったくといってなかったことに、言い知れぬ違和感がありましたが、その違和感を共有していると思われる論考が一つ(佐瀬防衛大学校名誉教授の論考)だけありましたので紹介しておきます。
 勿論、佐瀬氏は「自衛隊=軍隊」とみなして論を進めています。しかし、日本の政軍関係、文民統制を巡る議論の中で、日本では自衛隊は「真っ当な」軍隊として扱われて「ない」という事実を指摘し、その事実を是正するための処方箋を提示して初めて田母神氏の行動を批判することができる。そうしなければ、この問題の根本的解決にはならないという点まで踏み込んでいます。その面である意味「わが意を得たり」という論考であり、また、私が文字にできなかった部分も文字にしている論考でもあります。

8キラーカーン:2009/01/09(金) 23:42:58
『田母神論文には、秘められた「救い」がある』(「諸君!」2009年1月号)です。
なお、色や活字の大きさといった強調部分は投稿者(私)がつけたものです
(ここから)
 民主主義国家における文民統制の目的は、軍(日本の場合は自衛隊)を国の防衛に関して国民に奉仕する存在として担保することである。(中略)責任の大小関係では文民(政治)が大、軍が省である。国民に奉仕する軍を担保する第一の責任は政治の側にある。より大きい責任を担う政治が、受動的責任を負う制服よりも平素から大きな研鑽を積み、より地道な努力を重ねるよう養成されていることは、これまた明瞭というべきだろう(中略)少なくとも右の関係の逆ではないことは誰もが理解するであろう。
 ところで、わが国の文民統制原則の実践ぶりを眺めると、政治の側はより大きな責任を果たしていると言えるだろうか。この見地からの議論は沸騰したといえるだろうか。私の答えは「ノー」である。(中略)私が問うのは、制服ではなく政治こそが文民統制原則貫徹のため「平素からより大きな研鑽を積み、より地道な努力を重ねる」責任を負うという根幹の問題が議論されたか、なのだ。
 残念ながらその議論は与野党間でも、与党内でも、防衛省内でもなかった。文民統制問題を論じた世の識者の間でも、私の知る限りなかった。幾人かの識者の議論には、「より小さい責任」を負う制服側の姿勢を論じて傾聴すべき考えの披瀝があったことは事実だが、「より大きい責任」を担う側についての苦言はなかった。
 (中略)時間をかけて信頼関係を育むと、通常、そこに相手方に対する愛情ないし共感が芽生える。人間の親子関係が教えるように、意識としての愛情はまず親のほうに生まれる。文民統制関係についても、本来はそうであろう。親、即ち政治は子、即ち制服を愛育する。その下で育った子は親に対して愛情と神経、ないし感謝の念を抱く。わが国の文民統制にそのような関係が見出せるか。
(中略)文民統制の最高責任者である総理にとり会同での訓示は広義の職務に当たるだろう。それを総理は理由説明なく放棄したのだ。高級幹部側がいかに白けたかは想像に余りある。しかし、私にとって驚きはもう一つあった。国会の与野党がこの件に全く無反応だったことである。特に民主党の無反応にはあきれた。(中略)この一軒で、国会もまた文民統制では能動的責任の一翼を占めるのだとの意識が野党には極めて希薄であることが裏付けられたと思う。
 今回の田母神事件で、野党は文民統制問題を極めて重視しているかのごとくに振舞っている。だがそれは政府に対する責め道具としてのことに過ぎない。その能動的責任感、特に政治主導で制服との間に信頼関係を築かねばならないとの責任感はきわめて希薄である。個人的には自衛隊との信頼関係情勢を重視する野党議員がいることは私も知っているが、それは例外的だ。公党としての野党はダメ。(中略)民社党が唯一の例である。

9キラーカーン:2009/01/09(金) 23:43:15
 (中略)防衛大学校卒業式は、やがて幹部自衛官となる防大生を送り出す重要な式典である。だから、行政府の長(総理大臣)とできうれば立法府の長(衆参両院の議長)が出席して訓示を与えるという慣行があった。この慣行は文民統制の見地からしても重視されるべきである。(中略)一九九五年三月の卒業式には自さ社政権の村山総理が出席し、その勤めを果たした。が、社会党出身の土井たかこ衆院議長(議長就任で無所属)は欠席。参院議長は無論、出席。(中略)村山総理訓示は(中略)卒業生へのはなむけの言葉も忘れなかった。
 卒業式の後、(中略)教え子たちの感想を聞いた。村山訓示は「変ってましたね。だが嬉しかった」と一人が言った。土井議長欠席については、「言ってみても仕方がない」という。諦めなのだ。
 民社党の春日一幸議員は(中略)ある年(中略)「春日節」のスピーチをした。すると、卒業生、父兄の間から万雷の拍手が沸いた。野党の政治家の励ましに感動したのである。
 (中略)近年では衆参両院議長がともに出席していない。中でも河野洋平衆議院議長は戦後の衆議院議長として最長在任記録を更新しつつあるが、同時に防大卒業式を五年連続して欠席という新記録を樹立した。立法府の長の不出席という新しい「慣行」が定着しつつあるのか。憂慮している。だから再度言う。
 田母神解任、そして「不適格者だった」との事後認定による精神的懲罰を加えることも文民統制の一面ではある。(中略)だが文民統制にはそれに劣らぬ重要な一面がある。しかる、監視する、罰するとは逆方向の政治と制服とのよき信頼関係構築のため、即ち、自衛隊を「必要な危険物」資するのではなく「必要で有用な装置」とするための政治による愛育。この面において、日本の政治はあまりにも怠慢であったし、いまなおそうである。

これと
>自衛隊は敗戦後の国家の不名誉の十字架を背負い続けてきた。
>建軍の本義を与へられず、
>警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、
>その忠誠の対象も明確にされなかつた。
という三島の激文と併せてみれば、自衛隊にはその任務に応じた正当な地位と処遇と尊敬が与えられるべき。しかし、日本ではそれは与えられていない。それが田母神問題を根本的に解決する処方箋であると多くの一般国民は気が着いたというところでしょうか

10キラーカーン:2009/01/22(木) 22:21:40
空幕長論文問題の本筋とは何の関係もないですが

>星4つから3つに降等処分
>2階級降等処分
(以上『軍事評論家=佐藤守のブログ日記』 より)

>階級としては空将のまま
(以上『おおやにきjus postulandi actionem pro aliis』 より)

と一見して対立する2つの見解が並立していますが、この件においては、「おおやにき」表現の方がことの本質に近いです。
 ご存知のことだと思いますが、自衛隊において、統合幕僚長、陸上幕僚長、海上幕僚長、航空幕僚長の4人は階級章が「4つ星」であることから「大将」といわれることがありますが、正確には

「○○幕僚長たる陸(海、空)将」

といわれ、あくまで階級は他の「3つ星」の方々(方面総監、師団長、自衛艦隊司令官、地方総監、航空総隊司令官等々)同じ陸(海、空)将です。ということで、かつて(自衛隊草創期)においては、これらの方々も階級章は他の陸(海、空)将と同じ「3つ星」でしたが某空幕長が(空軍大将の待遇を受けたいがために)米国で勝手に(3つ星の階級を変造して)「4つ星」の階級章をつけたのが、そのまま追認されて現在に引継がれているようです。したがって、これら「4つ星」の方々の階級の英訳は「大将」であり、その他の「3つ星」の階級の英訳は「中将」となっています。

 この職務によって実質的に階級が代わるということについて、一番近い例を探せば、これまた、旧軍の「親補職に就いた中将」ということになろうかと思います(「大将待遇の中将」という点からも4幕僚長と同じ)。旧軍において中将は勅任官1級(天皇陛下の名前で辞令書をもらう)であり、大将はその上の親任官(天皇陛下から「直々に」辞令書をもらう)であり、待遇が異なっていました。しかし、中将で就任できる職には「親補職」というものがあり、その職についている間は「親任官」(=大将)の礼遇を受けるというものがありました。例を挙げると
陸軍:陸軍大臣、参謀総長、教育総監、師団長以上の指揮官、軍事参議官
海軍:海軍大臣、軍令部総長、艦隊司令長官、鎮守府司令長官、軍事参議官
というものです。したがって、師団長から陸軍次官への異動は階級としては同格の異動ですが、職の格付けから言えば「格下げ」人事となります(仕事の内容からすれば、「栄転」ですが)。田母神氏の例で言えば、

参謀総長(親補職)から参謀本部出仕(いわゆる「付」配置=)

に異動したというところでしょうか。また、自衛隊法上も、航空幕僚長であってもなくても階級上は「空将」で一まとめですから、階級上の降格処分ということにはなりません。なお、「職務の級」については、事務官や技官などの「階級を持たない(国家)公務員」における階級の「ようなもの」とでも理解して置いて下さい。

11キラーカーン:2009/01/22(木) 22:21:57
 では、佐藤氏はなぜ

2階級降等処分

という言葉を使ったのでしょうか(「4つ星」→「3つ星」については上述のとおり)。
 それは、「防衛省の職員の給与等に関する法律」の別表第2に答えがあります。この別表第2を見ていただければ分かるのですが、自衛官の給料は基本的に階級毎に決められています。
 しかし、例外があって、将補と一佐だけは、細分化されて、(一)、(二)、(三)という欄が設けられています。で、将補と一佐の階級の人で階級が上がらなかったけれど(二)→(一)というように適用される欄が変わるときも、他の階級と同じく「階級が上がった」と給与法上みなさなければ、法制度上都合が悪くなるということになります。将の場合には(一)、(二)という下位区分はないのですが、特例として、別表第2の備考として以下の規定があります。

備考(一) 統合幕僚長その他の政令で定める官職以外の官職を占める者で陸将、海将又は空将であるものについては、この表の規定にかかわらず、陸将補、海将補及び空将補の(二)欄に定める額の俸給を支給するものとする。

で、田母神氏の最後の官職となった「航空幕僚幹部付」という官職は上の備考で言う「その他の政令で定める官職」ではないので、航空幕僚長から航空幕僚幹部付に異動した田母神氏は

空将→空将補(二)

と給与法上の「2段階格下げ」(百歩譲っても空将から空将補への格下げ)を受けたからです。また、同法の第5条第4号には

自衛官が昇任し、又は降任した場合(別表第二の陸将、海将及び空将の欄に定める額の俸給の支給を受けていた職員が同表の陸将補、海将補及び空将補の(二)欄に定める額の俸給の支給を受ける陸将、海将又は空将である職員となつた場合、同表の陸将補、海将補及び空将補の(一)欄に定める額の俸給の支給を受けていた職員が同表の陸将補、海将補及び空将補の(二)欄に定める額の俸給の支給を受けることとなつた場合又は同表の一等陸佐、一等海佐及び一等空佐の(一)欄から(三)欄までのいずれか一の欄に定める額の俸給の支給を受けていた職員がこれらの欄のうちの他の欄に定める額の俸給の支給を受けることとなつた場合を含む。)

とあり、田母神氏はまさにこの例(空将の欄に定める額の俸給の支給を受けていた職員(=航空幕僚長)が同表の空将補の(二)欄に定める額の俸給の支給を受ける空将である職員(=航空幕僚監部付)となつた場合)に該当するため、給与上では「階級の降格」という処分を受けたと同視しても良い状況となったからです。言い換えれば空将補(二)の給与しか受け取れない空将という摩訶不思議な状態になったわけです。給与法上では、自衛官はその階級・職務に見合った給与を受けることとなっています。)
 このことを指して、佐藤氏は「2階級降等」という表現を使用しました。

ちなみに、この別表第2でも「空(陸、海)将」は「空(陸、海)将」であって、航空(統合、陸上、海上)幕僚長は別扱いになっていません。このことも、航空(統合、陸上、海上)幕僚長は「将の上の将」という階級を併せ持つ官職ではなく、階級上は単なる「将」であるということの傍証となっています(ちなみに航空幕僚長は空将の7号俸です)

12キラーカーン:2009/02/07(土) 00:09:41
サヨクの田母神「論文」批判派は「国体明徴運動」の夢を見るか。

と、これまで、田母神「論文」問題についてつらつらと駄文を書き重ねてきたわけですが、サヨクの田母神論文批判派は、日本国憲法(特に第9条(平和主義)と99条(公務員の憲法尊重擁護義務)を金科玉条のものとして、公務員(や場合によっては日本国民全員)に対して、いわゆる「『村山談話』史観」を押し付けようとしています。

日本近代史にも、これと良く似たような事件、時代(時勢)がありました。

「天皇機関説」事件という言葉を一度は聞いたことがあると思います。で、その天皇機関説の結果として起こったのが天皇機関説を排斥する「国体明徴運動」というもので、公的にも

天照大神の子孫である高貴で神聖不可侵の存在であり、その天皇が全責任を持って主体的に国家を統治運営している。そのような天皇の統治権を否定するような天皇機関説は大日本帝国の取るところではない

という内容の声明(いわゆる「国体明徴声明」)を政府は発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じたということになったのです。
 この「天皇機関説事件」とそれに続く「国体明徴声明」によって、国家の統治主体(天皇の政治的権能を含む)に関する議論が封殺されました。現代風に言えば、国民主権と象徴天皇制に関する思想・言論の自由と学問の自由を封じられることとなりました。

 いわゆるサヨクの田母神論文批判派は、「村山談話」をまさに「現代の国体明徴声明」として、これに関する議論を封殺するというまさに彼らが神聖視してやまない日本国憲法を蹂躙するという所業を取ったわけです。
 ある週刊誌に田母神氏の対談記事があったのですが、田母神氏は「言論の自由」、「思想の自由」という日本国憲法的な価値観に依拠して論を進め、対談相手は、武人の矜持というような一歩間違えば戦前的な価値観ともいえるもので田母神氏に迫っており、その記事のあとがきでも、「明治憲法体制擁護の権化」とも言える田母神氏が「日本国憲法」で認められた「人権」を基本として論を組み立てていることに対して「奇妙」という感想を漏らしているという「なじれ」が生じていたのです。

13キラーカーン:2010/10/18(月) 01:27:31
久々に、このスレへの書き込みですが、
最近、経済産業省の現役職員である古賀茂明氏が「エコノミスト」(6月29日特大号)に
『公務員改革 現役経産官僚が斬る「公務員改革」』を寄稿したことを巡って、
一部で話題になっているようです。

一部には、「こういう政府批判の内容は『やめてから』書くべきだ」
という意見もあるようですが、内容が、現行公務員制度批判であり、
氏が参考人出席した参議院予算委員会で、仙谷官房長官が
「彼の将来が傷つき残念だ」
と発言したことから、世間では同情的に見られています。

ここで、現役公務員が実名で政府批判を行なった文章を発表した場合の
例が一応出揃いました。

1 現役自衛官である田母神氏の「論文」
2 現役防衛大学校長である五百旗頭氏の「メルマガ」
3 現役一般職員である古賀氏の「雑誌寄稿」

の3つです。
 で、これらの行為については法令上「政治的行為」との関係になるというのは、
このスレの上のほうで述べたとおりなのですが、その条文は、上記の3類型とも

「全く同じ」

となっています。
 国家公務員法は一般職(上記「3」)のみを対象としていますので、
自衛隊員(≒防衛省職員(制服組+背広組))については自衛隊法で
規定されているのですが、その条文が全くといっていいくらい同じです。
そして、自衛隊法の規定上も「自衛隊員」ということになっていまして、
制服組(自衛官)と背広組(非自衛官)との間で区別を設けていません。

このことは、一般職の公務員も制服組(自衛官)も背広組(非自衛官)
同じ原則で規律されるというのが大原則であり、「職務内容」に応じて
微修正される

ということになります。すなわち

>> 自衛隊固有の職務に基づく制約に注意しつつも、基本的には人事院規則に
>>関する議論が通用すると言って差し支えない。それはつまり、公務員にも
>>政治的自由はあり、ただ職務の性質から一定の制限を受けるという考え方である。
>> 基本的人権に対する制約であることから、この制限は抑制的に考えられなくてはならない
(http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000674.html 改行引用者)

>>新憲法下において政治参加の自由は基本的人権として全国民に等しく保障されるべきものだ
>>という前提がまずあるからである。当然ながら公務員についてはその職務の特殊性によって
>>一定の制限を加えられるべきところ(中略)限定的に解されるべきことは言うまでもない
>>ということになる
(http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000626.html 改行引用者)

ということです。
 もちろん、空幕長(「軍人」)と防衛大学校長(「軍属」)と官房審議官(一般公務員)では職務の内容が
違うという「直感」は正しいものです。しかし、その「直感」を法律学の議論に載せようとすると

一般の公務員と軍属と軍人

の区別は何かというところにまで踏み込まなければなりません。しかし、これは、
現行防衛法規が「ポジリスト」(法律に書かれてあることしかできない)であり、
「ネガリスト」(法律で禁止していなければやってよい)方式ではないという
「警察法規」形式で規定されているということと、理念上衝突をきたします。

これが、三島由紀夫の言った 
>建軍の本義を与へられず、
>警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、
ということの、法規面での実態だったのです。
本来、軍人(や軍属)であることによる「特別の職務」を法制度上、
どのように位置づけることを怠ってきたために、
同種の事案を同種の条文で処理をするのにもかかわらず
その「違い」を法律学上説明できないという袋小路にはまり込んでしまったのです。

14キラーカーン:2011/08/01(月) 23:13:42

「反乱官僚」こと経済産業省の古賀氏が、最近、立て続けに著書を出版していますが、その内容は「政府見解」と一致しているわけではありません(だからこそ、古賀氏は、現在、官房付という「無役」(≒「座敷牢」)にあり、大臣から辞職勧告を受けた)。しかし、そのことについて、田母神氏の事例とは異なって、「辞職すべき」という声は大きくなっていません。ということで、理由を推測すると

1 古賀氏の言説も田母神氏の言説も法令違反(「政治的行為」規制違反)ではないが
 −古賀氏の見解は貴重なので、現状では不遇をかこっていても退職させるべきではない(このままでは、左遷→勧奨退職という名の事実上の諭旨免職)
 −田母神氏の見解は一面の真実を含んでいても、航空幕僚長としては不適切なので左遷→定年退職は至当(左遷→定年退職という名の事実上の諭旨免職)

2 古賀氏の言説は法令違反ではないが、田母神氏の言説は法令違反である
(1) 古賀氏の言説は「正義」だから合法だが、田母神氏の言説は「不義」であるので違法
(2) 古賀氏は文官(一般職)だが、田母神氏は自衛官なので、たとえ条文が同じでも適用基準が異なる

ということになろうかと思います。
 上記「1」は、現時点での状態です。両氏とも懲戒理由には該当しないので、「説得」によってやめさせるしかないということです。もちろん、古賀氏を官房付という「座敷牢」ではなく、閑職に左遷するということは充分にありえます。現時点では、「やめてくれ」という退職への説得を上司や人事部門が行っているということです。
 田母神氏の顛末も、制度的な構造は古賀氏の場合と同じです。ただし、田母神氏の場合は、年齢が60歳を超えていましたので、「定年」という要素が紛れ込んでしまったということになります。
 いずれにしても、この両氏の事例が懲戒免職には該当しない(しなかった)というのは両氏に対する扱いを見れば自明のことでしょう。

 上記「2(1)」が、現実のところ、一番大きい理由であると推測していますが、それは、報道・論説の「偏向」の問題であり、つまるところ「自分と同じ考えだから合法」、「自分と異なる考えだから違法」というレベルですので、制度論上、法律論上の論評に値しません。したがって、これで打ち止めです。

15キラーカーン:2011/08/01(月) 23:14:32
 問題は、「2(2)」の場合です。一般職公務員(文官)と自衛官とでは条文上は同じでも、適用基準が異なるというのは妥当だと思う人も多いでしょう。しかし、法律学的に「何が自衛官は(文官と)違うのか」という立論は現代日本の憲法学・行政法学ではかなり困難を極めるはずです。ここで、思い起こされるのが、三島由紀夫の「遺言」とも言うべき、市谷での檄文の一節

警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず

です。
 文官と自衛官とが「違う」という感覚の原点は、「文官(経産官僚)」と「軍人(自衛官)」との違いの類推でしょう。そして、この区別の根拠が、当人は意識していないにせよ、「統帥権」、「軍刑法(軍法裁判所)」、「シビリアンコントロール」(あるいは、「特別権力関係理論」)といったものに起因するのですが、現在の日本の憲法学(特に日本国憲法)においてはこれらの全てを事実上捨て去ってしまった現状にあります。

 このような中で、自衛隊(自衛官)をどのように位置づけたかといえば、現行法制上、三島が檄文で指摘したように

警察の物理的に巨大なもの

となったのです(ただし、自衛隊創設当時、「特別権力関係理論」はまだその意味を失っていませんでした)。
 このことは、海外派遣される自衛官の武器使用基準において、「警察比例の原則」といった警察官との比較論や類推が出てくることにも現れています。しかし、警察官は一般職公務員(文官)であり、現在の法体系上、警察官と古賀氏の「政治的行為」は同一の条文(国家公務員法)で規制されているというのは押さえておくべき事実でしょう。
 したがって、自衛隊が「警察の物理的に巨大なもの」(≠軍隊)であるのが法制度的な建前(「通常の観念では自衛隊は軍隊ではないが、国際法上軍隊として扱われる」という内容の国会答弁は存在する)であるのならば、文官と自衛官(≒警察官)とを区別する垣根は法制度上存在しないということになります。
 そして、現実にも、その鏡像として、条文上、文官も自衛官(自衛隊員)も事実上同一の条文(「コピペ」)によって規制されている(ただし、自衛隊員は特別職なので、国家公務員法ではなく、自衛隊法の管轄になります。)ということになります。そして、そのような状況である以上、警察官(文官)と自衛官とを区別する垣根も条文上は存在しないということになります。そして、そのことは古賀氏と田母神氏とを区別する理由をも消滅させることとなります(「政治的行為」を規制する法制度として、経産官僚=警察官=自衛官なので古賀氏=田母神氏、という等式が成立する)。

16キラーカーン:2011/08/01(月) 23:15:44
 その様な現状において、一般職と自衛官との職務遂行上の違いによって適用基準を変えるということはどういうことを意味するのでしょうか。

A 自衛官は「暴力装置」の一員だから(経産)官僚とは異なる
この理由では、「暴力装置」の一員である警察官が一般職公務員(文官)として経産官僚(文官)と同一の条文で「政治的行為」が規制されているという現状の説明がつきません。また、他省庁のキャリア官僚と同一の試験を受験して防衛省に入った「背広組」が自衛官と(ついでに「防大校長」も含めて)同一の条文で「政治的行為」が規制されているということの説明もつきません。

B 田母神氏は航空幕僚長だから
職責によって、適用基準が変わるというのは一般論としては成立します。管理職はヒラ社員(ヒラ公務員)よりも思い責任があるので厳しく適用すべきというのも一般論として成立します。しかし、この場合でも、「航空幕僚長」という航空自衛官の最高位だったということであり、「事務次官だから」、「○○局長だから」という、一般職におけるそれと本質的に変わるところはありません。

つまり、自衛官だから、特別の服務基準に服すべしという命題が成立するためには、私が思いつく限り

1 自衛官=軍人
2 自衛官はその他の公務員と異なる特別の規律に服する(「特別権力関係」理論の復活)

という方策が考えられますが、この両者を現在の捨て去っている現在の日本の憲法学、行政法学がこれに耐えられるのか。現代の日本の行政法学第一人者といっても良い原田尚彦氏はその著書で

特別権力関係理論は、軍務において部下が上官の命令に従うという状況を典型的な例として導き出された理論であろう(記憶モード)

という旨の記述をしています。

17キラーカーン:2011/08/01(月) 23:17:05
私も、防衛法制とは何かということをつらつら考えていて、現時点における結論として

・有事においては、「法の支配」とは別の原理が支配する
・「軍令」、「統帥権」あるいは「特別権力関係」とはその「別の原理」の言い換えである
・軍においては、「法の支配」が妥当する平時においても「別の原理」が有効な領域がある
・この「法の支配」と「別の原理」を端的に表現した言葉が「ポジリスト」と「ネガリスト」である
・警察は飽く迄前者(「法の支配」及び「ポジリスト」)の領域にあり、軍隊は基本的に後者(「別の原理」及び「ネガリスト」)の領域にある。
・「軍政」は後者ではなく前者の領域に属する

ということだろうと思っています。
 小室直樹が『新戦争論』喝破したように、シビリアンコントロールの客体は「軍隊」でしかありえません(警察に対してシビリアンコントロールとは言わない。憲法9条至上主義者がシビリアンコントロールを主張することは、論理矛盾以外の何者でもない)。それは、軍隊というものが、「法の支配」の枠外に存在するものということをその本質としているからであり、その軍を制御するのは「法の支配」ではなく「政治の領域における支配」(シビリアンコントロール)となるからです。
 「法の支配」の外側の領域について法律学は沈黙せざるを得ません。しかし、日本国憲法はそのような【外側の領域】の存在すら認めていないというのが憲法学の多数説でしょう。このような状況で防衛法制、自衛隊どのように位置づけられようとしているのでしょうか。

経産官僚の「反乱」がなぜか、三島由紀夫の亡霊を市谷に召喚してしまったようです。

18キラーカーン:2011/08/01(月) 23:18:29
この辺りは「おおやにき」の
「due process (1)」(http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000573.html
「政治的行為」(http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000674.html
「政治的中立性(2・完)」(http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000627.html
が参考になると思います。
 因みにブログ主の大屋名古屋大学准教授は基本的に上記「1」の立場です。

「まあこれで懲戒免職に持ち込むのは無理やなというのが、相場というものではあるまいか」

ただし、一般論として、一般職公務員と自衛官とで適用基準が異なる「2(2)」の可能性は否定していません。

自衛官という職務の特殊性から、たとえば上官に対する犯行や秩序紊乱、一般人に対する暴力の不当な行使といった行為類型についてはより重い処罰にするべきだという考え方は十分妥当だろう。あるいは、今回問題となった田母神氏が空幕長というまさに組織の模範を示すべき立場であったことを考えれば責任は重く、処罰もそれだけ重くなるべきだという考え方も適当であろう。(「due process (1)」)

新憲法において公務員もまた等しく国民であり従って基本的人権を享有すると考えてしまっているからである。戦前日本のように「天皇の官吏」は特別権力関係に入るので一般人民と同列ではなく従って基本的人権とか制約されても構いませんとか、イギリスのようにcivil serviceの構成員はCrown (個々の国王ではなく王権の象徴としての「王冠」)に雇われているので統治される側ではなく統治する側であり、従って当然統治される国民のための権利とか保障されるわけないんだぞという制度設計にすれば政治的行為を禁止することに何の憲法上の問題もないわけである。おおそうか菅直人氏は戦前の「天皇の官吏」へと歴史を巻き戻そうとしているのかぐんくつのおとがきこえるぞおおおお。(「政治的中立性(2・完)」)

自衛隊固有の職務に基づく制約に注意しつつも、基本的には人事院規則に関する議論が通用すると言って差し支えない。それはつまり、公務員にも政治的自由はあり、ただ職務の性質から一定の制限を受ける(「政治的行為」)

そして、繰り返しになりますが、現代日本の法律学(憲法学、行政法学)は、上述の理由から、この【自衛官という職務の特殊性】あるいは【自衛隊固有の職務に基づく制約】(そして、その根拠)について、沈黙を余儀なくされ、

警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず

という三島の檄文が虚しく響くだけという状態になるのです。
(ついでに言えば、「ミリオタ」系はこの「沈黙」について、概して無知あるいは無理解であり、「国際基準」で田母神「論文」問題を論じていた。「国際基準」という意味で彼らの理解は正しい。しかし、その「正しさ」ゆえに、日本国内においては「的外れ」な議論となっていた)

19キラーカーン:2012/04/02(月) 23:07:58
>>特別権力関係理論は、軍務において部下が上官の命令に従うという状況を典型的な例として導き出された理論であろう(記憶モード)

という一文は原田尚彦氏の「行政法要論」の第7版にあるのですが、先日古本屋で第6版があったので、該当部分を見たところ、上記の文章はありませんでした。

つまり、
第6版:2005年
第7版:2010年(補訂版は2011年)→第7版かその補訂版かは未確認
の間に、この1文を入れざるを得ない状況が発生したということです。

その事情はここにある「田母神氏論文問題」しかありえません。
推測するに、原田氏は田母神氏を 「クビ」 にすべきだと思っている。
しかし、それには、

特別権力関係理論を復活させる
自衛隊を軍として認める

という現代法律学が捨て去った2つの命題を復活させる必要があります。
しかし、それは、これまでの行政法学者としての自身(原田氏)の業績を
「無にする」ことに等しい。(田中二郎の時代まで戻る)

したがって、冒頭のようなもって回った言い方をするしかなかったということです。
その傍証として、冒頭の文章を書いたのにもかかわらず、原田氏は「特別権力関係」の例に、自衛官の命令服従義務を上げていません。
軍命服従が「特別権力関係」の典型例であるのならば、真っ先に考察すべきなのは、自衛官の命令服従義務のはずです。
それを華麗に 「スルー」 しているということも挙げられます。

その点について、名古屋大学の大屋准教授は自身のブログ「おおやにき」で皮肉たっぷりに

上記のようにぐだぐだと論じなくてはならないのは新憲法において公務員もまた等しく国民であり従って基本的人権を享有すると考えてしまっているからである。
戦前日本のように「天皇の官吏」は特別権力関係に入るので一般人民と同列ではなく従って基本的人権とか制約されても構いませんとか、
イギリスのようにcivil serviceの構成員はCrown (個々の国王ではなく王権の象徴としての「王冠」)に雇われているので統治される側ではなく統治する側であり、
従って当然統治される国民のための権利とか保障されるわけないんだぞという制度設計にすれば政治的行為を禁止することに何の憲法上の問題もないわけである。
おおそうか菅直人氏は戦前の「天皇の官吏」へと歴史を巻き戻そうとしているのかぐんくつのおとがきこえるぞおおおお。
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000627.html

と書いています。
といっても、大屋氏はこの問題について、「配置転換の問題」 であって、
公務員の政治的行為と公務員の基本的人権の制限という問題ではない
という立場に立っていて、自衛官の自由権も問題については言及を避けています。

ただし、ブログを見る限り、大屋氏も自衛官と警察官とで有意な差がつけられる理論を持っているとは思えません。

20キラーカーン:2012/04/02(月) 23:16:37
補足です。

上の大屋氏の文は、どこかの省の事務次官か局長の発言に対して、「政治的行為」だという菅直人元首相の発言に対するコメントです。

24キラーカーン:2013/08/19(月) 02:01:21
先日、海上保安庁長官に「制服組」を充てるという人事がありました。
 海上保安庁長官は従来、いわゆる事務系の「キャリア組」の指定席とされていましたが、その慣例が崩れたと言うことでも話題になりました。

 この事例は、仙谷官房長官(当時)のいうところの「暴力装置」である警察(及び海保)と自衛官との越えがたい溝を示しています。

 単純に言えば、
 警察官と海上保安官は「文官」
 自衛官は「武官」
であるということです。

 事務系キャリアが海上保安庁に出向すれば、海上保安官になりますし、警察庁に出向すれば警察官になります。

 しかし、防衛省の背広組が統合幕僚長になることも無ければ、その逆に、自衛官が事務次官になることもありえません。つまり、警察官や海上保安官と異なり、自衛官と「背広組」とはその本質が異なると言うことです。

 上の投稿にも関連しますが、「文官」は行政機関の一員として「法治行政」の一角を担い、いわゆる「ポジリスト」によって、法律に書かれた任務「しか」できないこととなっています。しかし、「武官」は本来的に法治行政の「枠外」の存在として、「ネガリスト」方式によって、やってはいけないと法律に書かれてあること以外はやって構わない存在となっています。
(これが、「特別権力関係」理論が兵役を典型例としている本質的な意味。法治行政の枠外の存在に対する権利制限は法治行政以外の手段によってしかなされない)

 もっとも、エジプトの例を見るまでも無く、軍(武官)というものは、政府を改廃する実力を持った集団であることから、「ネガリスト」で勝手気ままに振舞われても困ります。したがって、法律によって「ネガ」の範囲を局限させることによって、軍の自由裁量による行動の余地を可能な限り狭めると言うこととなります。

 三島由紀夫は、このような試行経路ではなかったでしょうが、「警察力の巨大なもの」と自衛隊と評したことは、この警察と軍隊との本質的な差異を理解していたと言うことなのでしょう。

25Emmanuel Chanel:2014/01/26(日) 21:59:23
田母神氏が東京都知事選に立候補していますね。
ツイッターを見ているとこの人は不適格であるとして支持しない保守系の方がいますし、私自身、更迭
の件で擁護せず、言動もフォローしていないので、いいのか悪いのかという感じではあります。FBでは
田母神支持一色な感じですけど。(喋りが面白いのはよくわかりました。)
都民だったとして、真面目に不支持の方の意見に従い舛添氏にするかもという感じではありますけど、
不真面目な話としては、田母神氏が都知事になるのは面白いとか、支持キャンペーンが面白いとか
いう事は出来るなあと感じたり…

26キラーカーン:2014/01/28(火) 23:27:42
実は、住民票を移していないので、都知事選挙の有権者だったりする

27キラーカーン:2014/02/03(月) 00:24:18
というわけで、丁度東京に戻る用事があったので、
期日前投票をしてきました

28キラーカーン:2014/02/18(火) 00:32:52
都知事選挙も終わり、その結果について色々論評されていますが、田母神氏が60万票以上獲得したことが一番の注目の的であるのは間違いないでしょう。

桝添氏もどちらかといえばリベラルに分類される政治家であることから、いわゆる保守系からも票を集めたのは間違いないでしょう。
又、40台以下の若年層の得票率が高く、特に、20台では二位ということに「若者の右傾化」といわれています

あと、23区内の方が得票率が高くなっているということで、若い独身層に浸透したのでは、とも言われています。

私は、この結果が「サヨクの限界」か「ネトウヨの限界」か判断が着きかねています。


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