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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

1避難民のマジレスさん:2019/06/18(火) 19:24:25 ID:y0tBAQCMC
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 - なんでも避難所 - したらば
URL:
http://jbbs.m.shitaraba.net/b/i.cgi/study/8276/1530935225/n#last

>>863〜マハリシの対話録の講読会、開催中であります。

849鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/09(土) 23:59:38 ID:1d4drIFg0
理解とは気付くことなのじゃ。
それは記憶による知識とは違い、常に今ここにあるものごとに気付くことなのじゃ。
常に変化する心を観るには気付くことしかないのじゃ。
知識は過去を記録するものであるから、今ここにある心を観る役には立たないのじゃ。

850避難民のマジレスさん:2020/05/10(日) 00:09:06 ID:dcxeBd5E0
変化の緊要

   夢 1

質問者 私は専門家によって、夢を見ることは昼間の思考と活動と同じぐらい生命に関わるし、もしも私が夢を見なかったなら、私の日々の生活を大きな緊張とストレスのもとに(あると)気づくだろう、と言われてきました。ここで私は彼らの仲間内の言葉ではなく、私自身の言葉を使っているのですが、彼らは、眠りの一定の期間にまぶたの動きが、さわやかにしてくれる夢を表示するし、これらは頭脳に一定の明晰さをもたらすと主張するのです。私は、あなたがよく語ってこられた心の静けさは、夢の諸様式がもたらす平衡よりももっと大きな調和を生活にもたらすのかもしれない、と思っています。私はまた、夢の言語はなぜ象徴の一つであるのかを、訊ねたいようにも思うのです。

K 言語自体が象徴ですし、私たちは諸象徴に慣れています。私たちは、樹の象徴であるイメージをとおして樹を見るし、私たちは隣人について持っているイメージをとおしてその人を見るのです。イメージ、見解、結論はすべて象徴ですが、それらをとおさず何かを直接的に見ることは、明らかに、人間には最も困難なことの一つです。それで、夢のなかで諸象徴は大きな役割を果たすし、これには大きな欺瞞と危険があるのです。私たちは夢の意味は象徴にあると悟って、それらを解読しようとするけれども、その意味はいつも私たちに明らかであるのではないのです。私たちは、何かを見るとき、自発的にそれについて語るので、そのため言葉もまた象徴であることを認識しないほどなのです。このすべては、技術的事物には直接的伝達があるが、人間的な関係と理解にはめったにないことを、表示するでしょう。誰があなたを叩くとき、あなたに象徴は要りません。それは直接的伝達です。これはとても興味深い点なのです - 心は、ものごとを直接的に見るのを、言葉と象徴なしに自分自身に気づくのを、拒絶するのです。あなたは空は青いと言います。そのとき聞く人は、これを自分の青さの言及対象に応じて解読し、自分の暗号であなたに送信するのです。それで、私たちは諸象徴のなか生きるし、夢はこの象徴的過程の一部です。私たちは、象徴、言葉、先入観、結論なしの直接的で無媒介の知覚の能力がないのです。これの理由もまた全く明らかです。それは、防衛、抵抗、逃避、恐怖をもつ自己中心的活動の一部なのです。頭脳の活動には、暗号化された応答があるのです。そして、目覚めている時間に、私たちは直接的な応答や知覚の能力がないのだから、夢は自然と、象徴的であるにちがいないのです。

質問者 それではこれは頭脳の本来的機能であるように、私には見えるのです。

K 本来的とは、何か恒常で、必然的で、長続きするもの・こと、という意味です。確かにどんな心理的状態も、変化しうるのです。ただ、有機体の物理的安全に対する頭脳の深く常なる要求だけが、本来的なのです。象徴は、精神を保護するための頭脳の装置です。これが、思考の過程全体です。「私 'me' 」は、現行ではなく、象徴です。「私 'me' 」の象徴を造り出しておいて、思考は自分自身をその結論、定式と同定するし、そのときそれを防衛するのです。悲惨と悲しみのすべてが、これから来るのです。

質問者 それでは、私はどのようにそれを避けるのでしょうか。

K どう避けるのかを訊ねるとき、あなたはやはり「私 'me' 」の象徴に取りすがっていますが、それは虚構です。あなたは、あなたの見るもの・ことから分離したものになるし、それで二元性が生ずるのです。

質問者 これを継続するために、また他の日に戻ってきてもいいでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

851避難民のマジレスさん:2020/05/10(日) 00:10:58 ID:dcxeBd5E0
くまめも1

言語、イメージ、見解、結論はすべて象徴。それらをとおさず直接的に見ることは、人間には困難。夢のなかで諸象徴は大きな役割を果たす。これには大きな欺瞞と危険がある。夢の意味は象徴にあると悟って、それらを解読しようとするが、その意味は明らかでない。何かを見て、それについて語るが、言葉もまた象徴。技術的事物には直接的伝達があるが、人間的な関係と理解にはない。心は、ものごとを直接的に見るのを、言葉と象徴なしに気づくのを、拒絶する。諸象徴のなか生きるし、夢はこの象徴的過程の一部。象徴、言葉、先入観、結論なしの直接的で無媒介の知覚の能力がない。防衛、抵抗、逃避、恐怖をもつ自己中心的活動の一部。頭脳の活動には、暗号化された応答がある。目覚めている時間に、直接的な応答や知覚の能力がないから、夢は自然と、象徴的。
有機体の物理的安全に対する頭脳の深く常なる要求だけが、本来的。象徴は、精神を保護するための頭脳の装置。「私 'me' 」は、現行ではなく、象徴。「私 'me' 」の象徴を造り出しておいて、思考は自身をその結論、定式と同定するし、そのときそれを防衛する。悲惨と悲しみのすべてが、これから来る。
それをどう避けるのかを訊ねるとき、「私 'me' 」の象徴に取りすがっているが、それは虚構。あなたは、見るもの・ことから分離したものになるし、それで二元性が生ずる。
(´・(ェ)・`)

852鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/10(日) 22:45:44 ID:1d4drIFg0
質問にあわせて自分の観念を象徴と呼ぶのじゃ。
人は自分という象徴を守ろうとしてさまざまな観念を作り出し、それが苦になるのじゃ。
それも自分という象徴があるという孤独や不安からの逃避として起こるものじゃ。
それが無ければ恐れも孤独も逃避も苦も無いのじゃ。

853避難民のマジレスさん:2020/05/10(日) 23:18:29 ID:4/qOEk/o0
変化の緊要

   夢 2

質問者 よくも戻ってこさせていただきました。私は、昨日私たちが離れたところから継続したいように思います。私たちは夢における象徴について話していました。あなたは、私たちが象徴によって生き、それらを私たちの満足に応じて解読することを、指し示されました。私たちは夢のなかだけではなく、日々の生活でもそうなのです。それは私たちのふつうの行動です。私たちの行為のほとんどは、私たちの持つ象徴やイメージの解釈に、基づいてあるのです。ふしぎにも、先日あなたとお話しした後、私の夢は奇妙な転換をしました。私はとても動揺する夢を見てきたのですが、それらの夢の解釈が、夢のなかで起きているままに、起こったのです。それは同時的過程でした。夢は夢見る者により解釈されつつありました。これは私には前に起きたことはないのです。

K 私たちの目覚めた時間には、観察されるもの・ことから異なった観察者、行為から分離した行為者が、いつもあるのです。同じように、夢から分離した夢見る者があるのです。彼は、それが自分自身から分離していて、ゆえに解釈が必要だと思うのです。しかし、夢は、夢見る者から分離しているのでしょうか。夢を解釈する必要があるのでしょうか。観察者は観察されるもの・ことであるとき、解釈し、判断し、評価づけるどんな必要があるのでしょうか。もしも観察者が観察されるもの・ことと異なっていたなら、この必要は存在するでしょう。これは理解することがとても重要です。私たちは観察されるもの・ことを観察者から分離してきたし、ここから解釈の問題だけではなく、葛藤、抗争と、それに関連する多くの問題もまた生じるのです。この分割は幻想です。諸集団、諸人種、諸民族、諸国家の間の分割は、虚構です。私たちは、名、ラベルにより分割されない存在です。ラベルばかりが重要になるとき、分割が起きるし、そのとき戦争と他の格闘すべてが存在するにいたるのです。

質問者 それでは、私は夢の内容をどのように理解するのでしょうか。それは意義を持つにちがいありません。私が、何か特定の出来事や人物の夢を見るのは、偶然なのでしょうか。

K 私たちは本当に、これを全く違ったように見つめるべきなのです。何か理解すべきもの・ことがあるのでしょうか。観察者が自らは観察されるもの・こととは異なると思うとき、彼自身の外側にあるもの・ことを理解しようとする試みがあるのです。同じ過程は彼のなかで続きます。自らの観察するもの・ことは彼自身であるのに、それを理解したいと願う観察者があるのです。しかし、観察者が観察されるもの・ことであるとき、理解するという問題はないのです。観察だけがあるのです。あなたは、夢には何か理解されるもの・ことがある、そうでなければ夢はないだろうと言われます。そして、夢は、何か未解決で理解すべきもの・ことのほのめかしであると、言われます。あなたは、「理解する」という言葉を使われますが、まさにその言葉こそに二元的過程があるのです。あなたは、「私 'I' 」と、理解されるべきもの・ことがあると思うのですが、真実には、これら二つの事物は一つで、同じなのです。ゆえに、夢の意味へのあなたの探求は、葛藤の行為です。

質問者 あなたは、夢は心の何かの表現であると言われるのでしょうか。

K 明白にそうです。
(´・(ェ)・`)つ

854避難民のマジレスさん:2020/05/10(日) 23:23:03 ID:4/qOEk/o0
くまめも2

目覚めた時間には、観察されるものと異なった観察者、行為から分離した行為者がある。同様に、夢から分離した夢見る者がある。彼は、それが自分自身から分離していて、解釈が必要だと思う。しかし、夢は、夢見る者から分離しているか。解釈する必要があるか。
観察者は観察されるものであるとき、解釈し、判断、評価づける必要があるのか。もしも観察者が観察されるものと異なっていたなら、この必要はある。この理解は重要。
観察されるものを観察者から分離してきた。ここから解釈、葛藤、抗争それに関連する多くの問題が生じる。この分割は幻想。
諸集団間の分割は、虚構。私たちは、名、ラベルにより分割されない存在。ラベルばかりが重要になるとき、分割が起き、戦争、格闘すべてが生じる。
観察者が自らは観察されるものとは異なると思うとき、彼自身の外側にあるものを理解しようとする。しかし、観察者が観察されるものであるとき、理解するという問題はない。観察だけがある。「理解する」という言葉こそに二元的過程がある。あなたは、「私 'I' 」と、理解されるべきものがあると思うが、真実には、これら二つの事物は一つで、同じ。ゆえに、夢の意味へのあなたの探求は、葛藤の行為。夢は心の何かの表現である。
(´・(ェ)・`)

855鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/11(月) 22:31:26 ID:1d4drIFg0
観察する事は観察される対象と観察する者を生み出すのじゃ。
それ故に観察する者そのものを観察する事は難しいのじゃ。
観察することが分離を生み出すからのう。
観察する者が今ここで観察する自らを観た時、観照は起こるのじゃ。

856避難民のマジレスさん:2020/05/12(火) 00:29:50 ID:d76TxRxw0
変化の緊要

   夢 3

質問者 私は、夢をあなたが叙述しておられるとおりに眺めることがどうして可能なのか、理解できません。それは、意義を持たないのなら、なぜ存在するのでしょうか。

K 「私 'I' 」は夢見る者です。夢見る者は、自らの考案または投影した夢の意義を分かりたいのです。それで、どちらも夢ですし、どちらも非真実です。この非真実は、自分自身を分離していると思う夢見る者に、観察者に、真実になったのです。夢の解釈の問題全体は、行為者と行為との間のこの分離、この分割から生じるのです。

質問者 私はますます混乱してきますので、私たちはそれを再び違ったように調べてみてもいいでしょうか。私は、夢は私の心の産物であり、それから分離していないことが分かります。しかし、夢は、探検されたことのない心の水準から来るように思われるのです。だから、夢は、何か心のなかの生きているもの・ことの暗示であるように、思われるのです。

K それは、隠れたものごとがあるあなた特定の心ではないのです。あなたの心は人間の心です。あなたの意識は人間の全体です。しかし、あなたはそれをあなたの心と特定化するとき、その活動を制限するし、この制限ゆえに夢が生ずるのです。目覚めた時間に、観察者は制限の表現ですが、彼なく観察しなさい。どんな分割も制限です。自分自身を「私 'me' 」と「非私 'not me' 」とに分割しておいて、「私 'me' 」、観察者、夢見る者は、多くの問題を持つのです - それらのなかは、夢と夢の解釈です。どの場合にも、あなたは、制限された仕方でのみ夢の意義や価値が分かるでしょう。なぜなら、観察者はいつも制限されているからです。夢見る者は、自分の制限を永続化します。ゆえに、夢はいつも、全体の(表現)ではなく、不完全なもの・ことの表現です。

質問者 月の構成を理解するために、月から破片が持ち帰られるのです。同じように、私たちは、私たちの夢から破片を持ち帰り、それらの表現するもの・ことを検討することにより、人間の思考を理解しようとするのです。

K 心の表現は心の断片です。各断片が、それなりにそれ自体を表現し、他の諸断片と矛盾するのです。一つの夢はもう一つの夢と、一つの行為はもう一つの行為と、一つの願望はもう一つの願望と矛盾するかもしれません。心はこの混乱に生きるのです。心の一部分は、自分は、夢、行為、願望といったもう一つの部分を理解しなければならないと言うのです。それで、各部分が自分の観察者、自分の活動を持つのです。そのとき、超観察者がそれらすべてを調和に持っていこうとします。超観察者もまた心の断片です。夢を生み育てるのは、これら矛盾、これら分割です。
  それで、本当の疑問は、特定の夢の解釈や理解ではないのです。それは、これら多くの諸断片が全体に収まるという知覚です。そのとき、あなたはあなた自身を、全体の断片としてではなく、全体として見るのです。

質問者 あなたは、一日の間に、自分の家庭生活や実業生活や生の他のどんな個別の面だけでもなく、生の動き全体に気づくべきである、と言われているのでしょうか。

K 意識は人間の全体であり、特定の人に属していないのです。特定の一人の意識があるとき、断片化、矛盾、戦争という複雑な問題があるのです。目覚めた時間に(一人の)人間に生の全的動きの気づきがあるとき、いったい夢にどんな必要があるのでしょうか。この全的気づき、この注意は、断片化と分割を終わりにするのです。いかなる葛藤、抗争もないとき、心は夢の必要がないのです。

質問者 確かにこれで、扉が開かれるし、それをとおして多くのものごとが見るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

857避難民のマジレスさん:2020/05/12(火) 00:41:36 ID:d76TxRxw0
くまめも3

夢見る者、夢、どちらも夢、どちらも非真実。この非真実は、自分自身を分離していると思う夢見る者、観察者に、真実になった。
夢の解釈の問題全体は、行為者と行為との間のこの分離、分割から生じる。
夢は、隠れたものごとがあるあなた特定の心ではない。あなたの心、意識は人間の全体のそれ。それを特定化するとき、その活動を制限するし、この制限ゆえに夢が生ずる。
目覚めた時間、観察者は制限の表現。彼なく観察しろ。どんな分割も制限。自分自身を「私 'me' 」と「非私 'not me' 」に分割しておいて、「私 'me' 」、観察者、夢見る者は、多くの問題を持つ。夢見る者は、自分の制限を永続化する。ゆえに、夢はいつも、全体のではなく、不完全なもの。
心の表現は心の断片。各断片が、それなりにそれ自体を表現し、他の諸断片と矛盾する。
一つの夢、行為、願望はもう一つのと矛盾する。心はこの混乱に生きる。心の一部分、自分は、夢、行為、願望といったもう一つの部分を理解しなければならないと言う。それで、各部分が自分の観察者、活動を持つ。そのとき、超観察者がそれらすべてを調和に持っていこうとする。超観察者もまた心の断片。夢を生み育てるのは、この矛盾、分割。
夢は、多くの諸断片が全体に収まるという知覚。自身を、全体の断片としてではなく、全体として見る。
質問者 一日の間に、生の動き全体に気づくべきか。
K 意識は人間の全体であり、特定の人に属さない。特定の一人の意識があるとき、断片化、矛盾という複雑な問題がある。 
目覚めた時間に人間に生の全的動きの気づきがあるとき、この全的気づき、注意は、断片化と分割を終わりにする。いかなる葛藤、抗争もないとき、心は夢の必要がない。
(´・(ェ)・`)

858避難民のマジレスさん:2020/05/12(火) 00:50:06 ID:d76TxRxw0
>>856

>意識は人間の全体であり、特定の人に属していない・・・この全的気づき、この注意は、断片化と分割を終わりにする。
うむ。それが、むずかしいのである。
結局、Kは、いつも、常に、注意してあれば、気づけると言うのでありましょう、
(´・(ェ)・`)っ

859鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/12(火) 22:14:09 ID:1d4drIFg0
↑それも難しい事じゃ。
悟りを得ていない者にはほとんど不可能なのじゃ。
結局悟った者が悟りを得る方法となってしまうのじゃ。

悟りを得ていない者はただひたすらに観察在るのみなのじゃ。
観察そのものになりきるまで実践すれば観察者無しに観察する事も出来るのじゃ。

860避難民のマジレスさん:2020/05/13(水) 03:15:45 ID:eCJLneZg0
変化の緊要

   伝統 1

質問者 本当に伝統から自由になれるのでしょうか。いったい何かから自由でありうるのでしょうか。それともこれは、それをよけてかわし、それとどんな関係をも持たないという事態でしょうか。あなたは過去とその条件づけについてたいへん多くを話されます - しかし、私は本当に、私の生のこの背景全体から自由になれるのでしょうか。それとも私は、背景から自由になるよりむしろ、単にそれをさまざまな外的要求と挑戦に応じて修正し、私自身をそれに適応させられるだけなのでしょうか。これは最も重要なものごとの一つであるように私には思われます。そして、私は自分が重荷を、過去の重さを運んでいるといつも感じるから、私はそれを理解したいように思うのです。私はそれを降ろし、二度とそれに戻ってこないで、それから歩み去りたいように思うのです。これは可能でしょうか。

K 伝統は、過去を現在に運ぶ、持ち越すという意味ではないでしょうか。過去は、自分特定のひとまとまりの相続(である)だけではなく、特定の文化と伝統に生きてきた特定集団の人々の集合的思考すべての重さでもあるのです。人は、人種、民族と家族の蓄積された知識と経験を、持ち運びます。このすべて - 知られたもの・ことから現在へ持ち越す、運ぶこと - が、未来を形作る過去なのです。歴史すべてを教えることは、伝統の一形態ではないでしょうか。あなたは、このすべてから自由になれるのかを訊ねています。まず最初に、なぜ自由になりたいのでしょうか。なぜこの重荷を降ろしたいのでしょうか。なぜでしょう。

質問者 私はそれはそうとう単純であると思います。私は過去でありたくないのです - 私は私自身でありたいのです。私は、新しい人間になれるように、この伝統全体を浄化されたいのです。私たちのほとんどには、新しく生まれたいというこの感情がある、と私は思うのです。

K あなたは、(新しい者になることを)願うだけでは、または新しくなろうと格闘するだけでは、とうてい新しい者になれません。あなたは過去を理解するだけではなく、またあなたが誰であるかをも見出さなくてはなくてはなりません。あなたは過去ではないでしょうか。あなたは、あったもの・ことの、現在により修正された継続ではないでしょうか。

質問者 私の行為と思考はそうですが、私の存在はそうではありません。

K あなたは、行為と思考の二つを、存在から分離できるのでしょうか。思考、行為、存在、生きること、関係は、すべて一つではないでしょうか。「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」へのこの断片化は、この伝統の一部です。
(´・(ェ)・`)つ

861避難民のマジレスさん:2020/05/13(水) 03:16:27 ID:eCJLneZg0
くまめも20-1

伝統は、過去を現在に運ぶ、持ち越すという意味。過去は、自分特定のひとまとまりの相続だけではなく、特定の文化と伝統に生きてきた特定集団の人々の集合的思考すべての重さでもある。人は、人種、民族と家族の蓄積された知識と経験を持ち運ぶ。知られたもの・ことから現在へ持ち越す、運ぶことが、未来を形作る過去。歴史すべてを教えることは伝統の一形態、これから自由になれるか。
新しい者になることを願い、格闘するだけでは、新しい者になれない。過去を理解するだけではなく、あなたが誰かをも見出さなくてはならない。あなたは過去ではないか。あなたは、あったもの・ことの、現在により修正された継続ではないか。
行為と思考の二つを、存在から分離できるか。思考、行為、存在、生きること、関係は、すべて一つではないか。
「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」へのこの断片化は、この伝統の一部。
(´・(ェ)・`)

862鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/13(水) 22:46:32 ID:1d4drIFg0
過去から自由になりたいという願望ですら、過去からの観念なのじゃ。
それだけでは到底自由にはなれないのじゃ。
自分がなにものであるかを見出さなければならんのじゃ。
自分を過去からの観念ではなく、今ここで観ることにより理解して気付くのじゃ。
それが全ての賢者達の教えなのじゃ。

863避難民のマジレスさん:2020/05/14(木) 02:55:14 ID:6AQRseHA0
変化の緊要

   伝統 2

質問者 あなたのいわれるのは、私が考えていないとき、過去が作動していないとき、私は滅却される。私は存在するのを停止する、という意味なのでしょうか。

K あまりに多くの質問をしないで、私たちが始めたところを考慮しましょう。過去 - 近来のだけではなく有史以前のもの、集合的なもの、人種的なもの、人間的なもの、動物的なもの - から、自由になれるでしょうか。あなたはそのすべてです。あなたはそれから分離してないのです。そしてあなたは、そのすべてを片づけ、新しく生まれられるのかを訊ねています。「あなた 'you' 」はそれであるのです。あなたが新しい事物として生まれ変わりたいと願うとき、あなたが想像する新しい事物は、「新しい」という言葉で覆い隠された、古いものの投影です。しかし、下ではあなたは過去なのです。それで、疑問はこうです - 過去は片づけられるのでしょうか。それとも、修正された形態の伝統はいつまでも継続するのでしょうか。変化し、蓄積し、取り除くが、いつも、違った結合での過去でしょうか。過去は原因ですし、現在は結果です。今日は昨日の結果ですが、明日の原因になるのです。この連鎖が思考の道なのです。というのは、思考は過去であるからです。あなたは、今日への昨日のこの動きを止められるのかを訊ねています。過去を検討するため、見つめられるでしょうか。それともそれは全く可能ではないのでしょうか。それを見つめるには、観察者がそれの外側にあるのでなければなりません - しかし、そうではないのです。それでここに、もう一つの主題が生ずるのです。観察者自身が過去であるのなら、そのとき、過去はどのように、観察のため孤立させられるのでしょうか。

質問者 私は何かもの・ことを客観的に見つめられるし・・・

K しかし、あなたは観察者ですが、それ自体を見つめようとしている過去なのです。あなたは、あなたが長年にわたってあらゆる形態の関係において組み立ててイメージとして、あなた自身を客体化できるだけなのです。それで、あなたが客体化する「あなた」は、記憶と想像、過去なのです。あなたは、まるであなたが、見つめている人とは異なった事物であるかのように、あなた自身を見つめようとしています。しかし、あなたは、古い判断、評価づけなどをともなう過去であるのです。過去の行為が、過去の記憶を見つめているのです。ゆえに、過去からの救出は、けっしてないのです。過去による過去の継続的検討は、過去を永続化するのです。これがまさに過去の行為ですし、これが伝統のまさに本質です。
(´・(ェ)・`)つ

864避難民のマジレスさん:2020/05/14(木) 13:09:17 ID:6KoK9UVM0
くまめも2

過去−有史以前の、集合的、人間的、動物的なもの−から、自由になれるか。 あなたは、分離してない。そのすべてを片づけ、新しく生まれられるか。新しい事物として生まれ変わりたいと願うとき、想像する新しい事物は、「新しい」という言葉で覆い隠された、古いものの投影。それで、疑問は、過去は片づけられるか。それとも、修正された形態の伝統はいつまでも継続するか。変化、蓄積し、取り除くが、いつも、違った結合での過去か。過去は原因、現在は結果。今日は昨日の結果、明日の原因。この連鎖が思考の道。というのは、思考は過去であるから。
過去を検討するため、見つめられるか。それを見つめるには、観察者がそれの外側にあるのでなければならないが、そうではない。
それでここに、もう一つの主題が生ずる。観察者自身が過去であるなら、過去はどのように、観察のため孤立させられるのか。あなたは観察者だが、それ自体を見つめようとしている過去。あなたが長年にわたってあらゆる関係において組み立てたイメージとして、自身を客体化できるだけ。あなたが客体化する「あなた」は、記憶と想像、過去。
あなたは、まるであなたが、見つめている人とは異なった事物であるかのように、自身を見つめようとしている。しかし、あなたは、古い判断、評価づけなどをともなう過去。過去の行為が、過去の記憶を見つめている。ゆえに、過去からの救出は、けっしてない。過去による過去の継続的検討は、過去を永続化する。これがまさに過去の行為だし、これが伝統のまさに本質。
(´・(ェ)・`)

865鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/14(木) 22:27:28 ID:1d4drIFg0
自分を観る時に分別を働かせると過去の記憶から観ていることになるのじゃ。
過去の記憶からの価値観や条件付け等から見てしまうのじゃ。
それではやはり観念しか見えないのじゃ。
今ここに在るものとしてありのままに、己を起こす心の働きを感知するのじゃ。

866避難民のマジレスさん:2020/05/14(木) 23:36:55 ID:PWaryu2Q0
変化の緊要

   伝統 3

質問者 それでは、どういう行為が可能なのでしょうか。私が過去であるのなら - 私はそうであることが分かるのですが、そのとき、私が過去を削りとるためするいかなることも、それに付け加えることなのです。それで、私はどうしようもないままなのです!私に何ができるのでしょうか。私は祈れません。なぜなら、神の考案もまた過去の行為であるからです。私は他の人を頼れません。他の人もまた私の絶望の創作であるからです。私はそのすべてから逃げ去れません。なぜなら、その終わりにもやはり私は、私の過去とともにいるのです。私は私自身を、過去のではない何かイメージと同定できません。なぜなら、そのイメージもまた私自身の投影であるからです。このすべてを見て、私は本当にどうしようもなく、絶望のなか残されているのです。

K なぜあなたは、それをどうしようもない、絶望と言うのでしょうか。あなたは、一定の結果を達成できないから、過去と見えるものを情動的心配に翻訳していないでしょうか。そうするなかであなたは再び、過去をして行為させていないのです。ここであなたは、伝統すべてをもつ過去のこのすべての動きを、それから自由になりたい、それを変化させたい、修正したい、それから逃げ去りたいと思わず、見つめられるでしょうか。どんな反応もなく単純にそれを観察できるでしょうか。

質問者 しかし、私たちがこの会話をとおして言ってきたとおり、私は過去であるのなら、どうして過去を観察できるのでしょうか。私はまったくそれを見つめられないのです!

K あなた自身は過去ですし、思考の動きは過去ですが、あなたはあなた自身を思考のどんな動きもなく見つめられるでしょうか。あなたが、考え、評価づけ、好き嫌い、判断なしに見られるなら、そのとき、過去に触れられない眼で見ることがあるのです。それは、静寂のなか、思考の音なく見ることです。この静寂には、観察者も、彼が過去として見つめているものも、どちらもないのです。

質問者 あなたは、評価づけや判断なく見るとき、過去は消えてしまったと言われているのでしょうか。しかし、そうなっていないのです - 何千の思考と行為、ほんの一瞬前にあばれていた卑小のすべてが、やはりあるのです。私はそれらを見つめるし、それらはやはりあるのです。過去が消えてしまったとどうして言えるのでしょうか。それは瞬間的に行為するのを止めたかもしれません・・・

K 心が静寂であるとき、その静寂は新しい次元です。そして、何かあばれる卑小さがあるとき、それは瞬時に解消されるのです。なぜなら、心はいまや、過去が生成したエネルギーではない違った性質のエネルギーを持つからです。これが大事なことなのです - 過去を持ち運ぶのを消し去るエネルギーを持つこと、です。過去を持ち運ぶことは、違った種類のエネルギーです。静寂は他の一つを拭い去るのです。大きなものが小さなものを吸収し、触れられぬままなのです。それは、海に似ています。汚れた川を受容して、清浄なままなのです。これが大事なことなのです。過去を拭い去れるのは、このエネルギーだけなのです。静寂(があるの)か、過去の音があるのかのどちらかです。この静寂のなか音は停止するし、新しいものはこの静寂です。それは、あなたが新しくなるのではないのです。この静寂は無際限ですし、過去は制限されているのです。過去の条件づけは、静寂の充実のなか崩れ去るのです。
(´・(ェ)・`)つ

867避難民のマジレスさん:2020/05/14(木) 23:38:53 ID:PWaryu2Q0
くまめも3

質問者 過去を削りとるためすることは、それに付け加えること。私自身を、過去のではないイメージと同定できない。なぜなら、それもまた私自身の投影であるから。
K 過去のすべての動きを、それから自由になりたい、変化させたい、修正したい、逃げ去りたいと思わず、見つめられるか。反応なく単純にそれを観察できるか。
質問者 私は過去であるのなら、どうして過去を観察できるか。私はそれを観れない。
K あなた自身は過去、思考の動きは過去だが、あなた自身を思考の動きなく見つめられるか。考え、評価づけ、好き嫌い、判断なしに見れるなら、そのとき、過去に触れられない眼で見ることがある。それは、静寂の中、思考の音なく見ること。この静寂には、観察者も、彼が過去として見つめているものも、どちらもない。
質問者 何千の思考と行為、ほんの一瞬前にあばれていた卑小のすべてが、やはりある。
過去が消えてしまったとどうして言えるか。
K 心が静寂であるとき、その静寂は新しい次元。何かあばれる卑小さがあるとき、それは瞬時に解消される。心はいまや、過去が生成したのではない違った性質のエネルギーを持つ。過去を持ち運ぶのを消し去るエネルギーを持つことが大事。静寂は過去を拭い去る。大きなものが小さなものを吸収し、触れられぬままなのだ。それは、海に似ている。汚れた川を受容して、清浄なままなのだ。過去を拭い去れるのは、このエネルギーだけ。新しいものはこの静寂。あなたが新しくなるのではない。この静寂は無際限。過去は制限されている。過去の条件づけは、静寂の充実のなか崩れ去る。
(´・(ェ)・`)

868避難民のマジレスさん:2020/05/14(木) 23:48:20 ID:PWaryu2Q0
>>862
うむ。
質問者も、繰り返しその難しさを訴えているのであるが、
Kの説くところは、
「過去を持ち運ぶのを消し去るエネルギーを持つこと・・・過去の条件づけは、静寂の充実のなか崩れ去る。」
無思考の訓練は、瞑想で出来るでありますね。
(´・(ェ)・`)b

869鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/15(金) 22:50:39 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、結局は瞑想が必要なのじゃ。
 悟っていない者には静寂に達することも無理であるからのう。
 悟ってから静寂も感じるものじゃ。
 過去から解放されるには悟ってから悟れというようなものじゃ。

870鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/15(金) 23:01:21 ID:1d4drIFg0
静寂は深い瞑想の中で我を忘れた時にも訪れるじゃろう。
忘我の境地はサマーディと呼ばれるのじゃ。
まだ悟りではないが自らの心を観るためには最も優れた境地なのじゃ。
サマーディの静寂の中で分別も過去もなく自らを観ることができるのじゃ。

871避難民のマジレスさん:2020/05/16(土) 00:23:05 ID:1jo0mRFQ0
変化の緊要

   条件づけ 1

質問者 あなたは、条件づけについてたいへん多くを話されたし、この束縛から自由であるのでなければならない、そうでなければ、いつも投獄されたままであると言われました。この種の説はとても無法で、受け入れがたいと思われます!私たちのほとんどは、とても深く条件づけられているし、私たちはこの説を聞き、お手上げですし、そういう突拍子もない表現から逃げ去ります。しかし、私はお話を真剣に取ってきました - というのも、あなたは多かれ少なかれ、趣味としてではなく、深い真剣さをもって自らの生をこの種のことに捧げてこられたからです - ゆえに、私は、人間がどこまで自分自身を条件づけから解き放てるのかを見るため、それをあなたと議論したいように思うのです。それは本当に可能なのでしょうか。もし可能なら、どれはどういう意味なのでしょうか。私は、習慣、伝統(の世界)、こんなに多くの事態での正当的概念の受け入れの世界に生きてきましたが、可能なのでしょうか - 私が本当にこの深く根づいた条件づけを投げ捨てることは、可能なのでしょうか。正確には、条件づけとはどういう意味なのでしょうか。そして、条件づけからの自由とはどういう意味なのでしょうか。

K まず初めに第一の疑問を取りましょう。私たちは、物理的、神経的、精神的に条件づけられてあるのです - 私たちが生きる気候風土と食べる食物により、私たちが生きる文化により、私たちの社会的、宗教的、経済的環境の全体により、私たちの経験により、教育により、家族の圧力と感化によって。これらすべてが、私たちを条件づける要因です。知的、情的、外的、内的な私たちの環境の挑戦すべてへの私たちの意識的、無意識的応答 - これらすべては、条件づけの行為です。言語は条件づけです。思考すべては、条件づけの行為、応答です。
  私たちが条件づけられてあることを知って、私たちは、私たちをこの機械的状態から救い出してくれるだろうと敬虔に願うところの神的機関を、考案するのです。私たちは私たち自身の外側または内側にその存在を措定します - アートマン、たましい、内なる神の王国として、後は神のみぞ知るです!それら自体が、破壊したり贖罪してくれるとされる条件づけの要因の一部であることが分からないで、私たちは、これら信念に必死にすがるのです。それで、この世界で私たち自身を条件づけから解き放つことができないし、条件づけが問題であることさえ分からないので、私たちは、天国や解脱や涅槃に自由があると思うのです。原罪というキリスト教の神話と輪廻という東洋の教義全体には、かなり曖昧ながら条件づけの要因が感じられてきたことが、分かるのです。もしもそれが明らかに分かったのなら、当然これらの教義と神話は生じなかったでしょう。今日、心理学者もまたこの問題に取り組もうとするし、そうするなかで私たちをさらにいっそう条件づけるのです。
(´・(ェ)・`)つ

872避難民のマジレスさん:2020/05/16(土) 00:24:29 ID:1jo0mRFQ0
くまめも1

私たちは、物理的、神経的、精神的に条件づけられてある。気候風土、食物、文化、社会的、宗教的、経済的環境の全体、経験、教育、家族の圧力と感化によって。
知的、情的、外的、内的な私たちの環境の挑戦すべてへの意識的、無意識的応答-これらすべては、条件づけの行為。言語、思考すべては、条件づけの行為、応答。私たちは、この機械的状態から救い出してくれるだろうと敬虔に願うところの神的機関を、考案し、自身の外側または内側に、アートマン、たましい、内なる神の王国としてその存在を措定する。それら自体が、破壊したり贖罪してくれるとされる条件づけの要因の一部であることが分からないで、これら信念に必死にすがる。それで、この世界で自身を条件づけから解き放つことができないし、条件づけが問題であることさえ分からないので、私たちは、天国や解脱や涅槃に自由があると思う。原罪という神話と輪廻という教義全体には、曖昧ながら条件づけの要因が感じられる。
もしもそれが明らかに分かったのなら、当然これらの教義と神話は生じなかった。
心理学者もまたこの問題に取り組むなかでさらにいっそう条件づける。  
(´・(ェ)・`)

873避難民のマジレスさん:2020/05/16(土) 00:28:07 ID:1jo0mRFQ0
うむ。Kは、否定によってのみあらわされるアートマンをも、否定するのでありますね。
言葉で表現されることを一切見ない。一切の観念のない、無思考であること=静寂のみを追求せよと言うのでありますね。
(´・(ェ)・`)b

874鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/16(土) 23:00:28 ID:1d4drIFg0
アートマンの観念も創られた当初は有効な法であったが、長い間使われているうちに過去の条件付けになってしまったのじゃ。
人の間で伝播するうちにどうしてもいろいろな観念が付随してしまうからのう。
全ての観念を捨てるのがアートマンの法なのに、アートマンの観念を守ってしまうのじゃ。
本末転倒なのじゃ。

875避難民のマジレスさん:2020/05/16(土) 23:20:37 ID:5sl1fQqk0
変化の緊要

   条件づけ 2

かくして、宗教的専門家は私たちを条件づけてきたし、社会秩序は私たちを条件づけてきたし、それの一部である家族は私たちを条件づけてきたのです。このすべてが、心の隠れた層とともに明らかなものを作り上げる過去なのです。ちなみに、いわゆる個人は全く存在しないことに注目するのは、興味深いのです。というのは、彼の心は、彼が他のあらゆる人と分かち合う条件づけの公共貯蔵庫に、頼るからです。それで、共同体と個人の間の区別は、虚偽なのです。ただ条件づけのみがあるのです。この条件づけは、ものごと、人々、観念との諸関係すべてにおける行為です。

質問者 それでは、私はそのすべてから自由になるには、何をすべわきでしょうか。この機械的状態に生きることは、全く生きることではないし、それでもなお、行為すべて、意志すべて、判断すべてが条件づけられてあるのです - それで、明らかに、条件づけについて私のできる、条件づけられていないことは、何もないのです!私は手足を縛られているのです。

K 過去、現在、未来の条件づけの要因こそが、時間ということで考える「私 'me' 」、それ自体を発揮する「私 'me' 」です。そしていま、それは、自由になりたいとの要求においてそれ自体を発揮します。それで、条件づけすべての根は、「私 'me' 」である思考です。「私 'me' 」は過去のまさに本質です。「私 'me' 」は時間です。「私 'me' 」は悲しみです - 「私 'me' 」が、それ自体から自由になろうと尽力するし、「私 'me' 」が、達成するため、拒否するため、なるため努力し、格闘するのです。なるためのこの格闘が、混乱ともっと多くもっと良くへの欲があるところの時間です。「私 'me' 」が安全を探し求めるし、それが見つからないので、探求を天国に移転します。それ自体を失いたいと願うところの何かもっと大きなものに - それが国家でも、民族でも、理想でも、何か神でも - それ自体を同定する「私 'me' 」こそが、条件づけの要因です。

質問者 あなたは、私からあらゆるものごとを取ってしまいました。この「私 'me' 」なしに、私は何なのでしょうか。

K 「私 'me' 」がないのなら、あなたは条件づけられていないし、それは、あなたが何でもないという意味です。

質問者 「私 'me' 」の努力なく、「私 'me' 」は終わりうるのでしょうか。

K 何かになろうとする努力は、条件づけの応答、行為です。

質問者 「私 'me' 」の行為はどのように止まるのでしょうか。

K あなたがこの全体、その事態全部を見てこそ、それは止まりうるのです。あなたが行為のなか、すなわち関係のなかそれを見るなら、見ることが「私 'me' 」の終わることなのです。この見ることは、条件づけられていない行為であるだけではなくて、条件づけに対して行為するのです。

(´・(ェ)・`)つ

876避難民のマジレスさん:2020/05/16(土) 23:27:29 ID:5sl1fQqk0
くまめも2

①彼の心は、あらゆる人と分かち合う条件づけの公共貯蔵庫に頼るから、いわゆる個人は全く存在しない。共同体と個人の間の区別は、虚偽。ただ条件づけのみがある。条件づけは、ものごと、人々、観念との諸関係すべてにおける行為。②過去、現在、未来の条件づけの要因こそが、時間ということで考える「私 'me' 」。条件づけすべての根は、「私 'me' 」である思考。③「私 'me' 」は、過去の本質、時間、悲しみ。④「私 'me' 」が、それ自体から自由になろうと尽力し、「私 'me' 」が、達成するため、拒否するため、なるため努力し、格闘する。なるためのこの格闘が、混乱と、もっと多く、もっと良くへの欲があるところの時間。
⑤「私 'me' 」が安全を探し求め、大きなものに−国家、理想、神−それ自体を同定する「私 'me' 」こそが、条件づけの要因。「私 'me' 」がないのなら、あなたは条件づけられていない。⑤何かになろうとする努力は、条件づけの応答、行為。この事態全部を見てこそ、それは止まりうる。
行為のなか、すなわち関係のなかそれを見るなら、見ることが「私 'me' 」の終わること。
この見ることは、条件づけられていない行為であるだけではなくて、条件づけに対して行為する。
(´・(ェ)・`)

877避難民のマジレスさん:2020/05/16(土) 23:31:37 ID:5sl1fQqk0
①〜⑤までを全部見るなら「私」は終わる、無我にに気づけるみたいな。
がんばるしかありますまい。
(´・(ェ)・`)b

878鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/17(日) 22:37:57 ID:1d4drIFg0
見ることこそ条件付けられていない行為とクリシュナムルティは言うのじゃ。
条件付けに対して行為できるものであると。
そうであるから条件付けから脱することができるのじゃ。
自分という条件付けによる観念からも脱却できるのじゃ。

879避難民のマジレスさん:2020/05/17(日) 23:14:56 ID:4r7N8PaQ0
変化の緊要

   条件づけ 3

質問者 あなたのいわれるのは、頭脳 - すなわち、無際限の条件づけをもつ広大な進化の結果 - は、自由になれるという意味でしょうか。

K 頭脳は時間の結果です。それは、物理的にそれ自体を保護するよう条件づけられています。しかし、それが心理的にそれ自体を保護しようとするとき、「私 'me' 」が始まるし、私たちの悲惨すべてが始まるのです。「私 'me' 」の肯定とは、心理的にそれ自体を保護しようとするこの努力であるのです。頭脳は、学びうるし、科学技術的に知識を取得できるのですが、それが心理的に知識を取得するとき、その知識は関係のなか、経験、意志、暴力をもつ「私 'me' 」として、それ自体を主張するのです。これが、関係に区別、葛藤、抗争、悲しみをもたらすものなのです。

質問者 この頭脳は止まって、科学技術的に働かなくてはならないときにだけ、作動する - たとえば言語を学んだり、車を運転したり、家を建てたりのように、行為に知識が要求されるときだけ、作動することができるでしょうか。

K ここでの危険は、頭脳を心理的なものと科学技術的なものとに区別することです。これは再び、矛盾、条件づけ、理論になるのです。本当の疑問は、頭脳は、その全体は静かに止まって、科学技術や生活で応答しなくてはならないときにだけ、効果的にそうできるのかということです。それで、私たちは心理的なものや科学技術的なものに関心はないのです。私たちはただ訊ねるだけなのです - この心全体は完全に止まって、作用しなくてはならないときにだけそうできるのでしょうか。私たちは、それはできるし、これは冥想とは何なのかを理解することであると言うのです。
         *

質問者 よろしければ、私は、昨日私たちが離れたところから継続したいように思います。あなたは、私が二つの疑問を訊ねたことを、憶えておられるかもしれません。私は、条件づけは何なのか、条件づけからの自由は何なのかを、訊ねました。あなたは、まず初めに第一の疑問を取ろうと言われました。私たちは第二の疑問に入る時間がありませんでした。ですから、私は今日、自らの条件づけすべてから自由である心の状態は何なのかを、お訊ねしたいように思うのです。昨日あなたと話した後で、私には、私がどんなに深く強く条件づけているのかが、ごく明確になったし、私は条件づけのこの構造の隙間、開きが見ました - 少なくとも私は見えたと思うのです。私は事態をある友だちと話しあいましたが、一定の条件づけの実例を取るなかで、自らの行為がそれによりどんなに深く有毒な影響をされるのかが、私はごく明確に見えました。あなたが終わりに言われたとおり、冥想は、心から条件づけすべてを空にし、そのため歪曲や幻想がないようにすることなのです。どのようにして歪曲すべて、幻想すべてから自由になるのでしょうか。幻想は何なのでしょうか。

(´・(ェ)・`)つ

880避難民のマジレスさん:2020/05/17(日) 23:17:02 ID:4r7N8PaQ0
くまめも3

頭脳は物理的にそれ自体を保護するよう条件づけられている。保護しようとするとき、「私 'me' 」が、私たちの悲惨すべてが始まる。「私 'me' 」の肯定とは、心理的にそれ自体を保護しようとするこの努力。
頭脳は学びうるが、心理的に知識を取得するとき、その知識は関係のなか、経験、意志、暴力をもつ「私 'me' 」として、それ自体を主張する。これが、関係に区別、葛藤、抗争、悲しみをもたらすもの。
頭脳は、その全体は静かに止まって、科学技術や生活で応答しなくてはならないときにだけ、効果的にそうできる。これは冥想とは何なのかを理解すること。
質問者 自らの条件づけすべてから自由である心の状態は何なのか
冥想は、心から条件づけすべてを空にし、そのため歪曲や幻想がないようにすること。
どのようにして歪曲すべて、幻想すべてから自由になるのか。幻想は何なのか。
(´・(ェ)・`)

881避難民のマジレスさん:2020/05/17(日) 23:19:46 ID:4r7N8PaQ0
Kは、一切の観念を否定してるのではなくて、科学技術的知識を肯定してるのは、恣意的選択の余地がないからでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

882鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/18(月) 22:59:07 ID:1d4drIFg0
心理的なものや科学技術的なものに関心はないというのじゃ。
それもまた条件付けされたものになるからのう。
心が止まり、作用しなくてはならないときに作用することも出来るというのじゃ。
それが真の瞑想であるというのじゃ。

883避難民のマジレスさん:2020/05/18(月) 23:14:10 ID:sSVBh.220
>>882
釈迦が、形而上的ことに答えなかったのと、同じスタンスでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

884避難民のマジレスさん:2020/05/18(月) 23:18:01 ID:sSVBh.220
変化の緊要

   条件づけ 4

K 自分自身を欺瞞することはこんなに容易で、そもそも何でも確信することはこんなに容易です。自分は何かであるのでなければならない(、何かであるにちがいない)という感情は、欺瞞の始まりですし、もちろんこの理想主義的(観念論的)態度は、さまざまな形態の偽善につながるのです。何が幻想を作るのでしょうか。まあ、要因の一つは、有るものと有るべきものや有ってもよいもの(有るかもしれないもの)との間のこの常なる比較、善し悪しの間のこの計量です - 思考がそれ自体を、楽しみの記憶を改良しようとし、もっと楽しみを得ようとするなどです。何かを受け入れさせたり、信じさせたりするのは、もっと多くへのこの願望、この不満足です。これは必然的に、あらゆる形態の欺瞞と幻想につながります。目標を、経験されるべき帰結を投影するのは、願望と恐怖、希望と恐怖です。ゆえに、この経験に実在性はないのです。いわゆる宗教的経験すべては、この様式に従います。悟りへのまさに願望もまた権威の受け入れを生み育てるにちがいないし、これは悟りの対極です。願望、不満足、恐怖、楽しみ、もっと多くをほしがること、変化したがること、そのすべてが計量です - これが幻想の道なのです。

質問者 あなたは本当に、何にも全く幻想をもたないのでしょうか。

K 私はすべてのときに私自身や他の人たちを計量しているのではありません。この計量からの自由は、あなたが本当に、有るものと生きている - それを変化させたいと望むのでもなく、それを善し悪しということにおいて判断するのでもない - とき、訪れるのです。何かと生きるとは、それの受け入れではありません。あなたが受け入れようと入れまいと、それはあるのです。何かと生きるとはまた、あなた自身をそれと同定することでもないのです。

質問者 本当にほしいこの自由は何なのかという疑問に、戻れるでしょうか。この自由への願望は、あらゆる人に、ときには最も愚かな仕方で表現されるのです。しかし、人間の心にはいつも、けっして実現されない自由へのこの深いあこがれがあると言える、と私は思うのです。自由になろうとするこの絶え間ない格闘があるのです。私は私が自由でないのを知っています。私はこんなに多くのほしがりに捕らわれています。私はどのようにして自由になれるのでしょうか。本当に正直に自由であるとは、どういう意味なのでしょうか。

K おそらくこれが、私たちがそれを理解する助けになるかもしれません - 全的自由がその自由なのです。私たちが肯定的であると考えるものごとすべてを否定する。全社会道徳を否定する。権威の内的受け入れすべてを否定する。真実について自らの言ったり結論してきたことすべてを否定する。伝統すべて、教えすべて、科学技術的知識以外の知識すべてを否定する。経験すべてを否定する。憶えられたり忘れられた楽しみから派生する欲求すべてを否定する。充足すべてを否定する。特定の仕方で行為する参与すべてを否定する。観念すべて、原理すべて、理論すべてを否定する - こういう否定が最も肯定的な行為ですし、ゆえにはそれが自由なのです。
(´・(ェ)・`)つ

885避難民のマジレスさん:2020/05/18(月) 23:21:58 ID:sSVBh.220
くまめも4

自分自身を欺瞞すること、確信することは、容易。自分は何かであるべきという感情は、欺瞞の始まり。この理想主義的(観念論的)態度は、偽善につながる。
幻想を作る要因の一つは、有るものと有るべきもの、有るかもしれないものとの間の常なる比較、善し悪しの計量。思考がそれ自体を、楽しみの記憶を改良しようとし、もっと楽しみを得ようとするなど。
何かを受け入れさせたり、信じさせたりするのは、もっと多くへのこの願望、不満足。これは必然的に、欺瞞と幻想につながる。
目標を、経験されるべき帰結を投影するのは、願望と恐怖、希望と恐怖。故に、この経験に実在性はない。悟りへの願望も権威の受け入れを生み育てる。これは悟りの対極。
願望、不満足、恐怖、楽しみ、もっと多くをほしがること、変化したがること、そのすべてが計量。これが幻想の道。
計量からの自由は、あなたが本当に、有るものと生きている−変化させたいと望むのでも、それを善し悪して判断するのでもない−とき、訪れる。
何かと生きるとは、それの受け入れではない。あなたが受け入れようと入れまいと、それはある。何かと生きるとはまた、あなた自身をそれと同定することでもない。
私たちが肯定的であると考えるものごとすべてを否定する。全社会道徳、権威の内的受け入れ、真実について自らの言ったり結論してきたこと、伝統、教え、科学技術的知識以外の知識、経験、憶えられたり忘れられた楽しみから派生する欲求、充足、特定の仕方で行為する参与、観念、原理、理論、これら全てを否定する-こういう否定が最も肯定的な行為だし、ゆえにはそれが自由。
(´・(ェ)・`)

886鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/19(火) 22:45:09 ID:1d4drIFg0
>>883 そうじゃ、実践こそが大事なのじゃ。
 知識はそのためのものなのじゃ。

887鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/19(火) 22:48:38 ID:1d4drIFg0
全ての観念を否定することは伝統的なアートマンの法と同じなのじゃ。
しかし、アートマンと名づけられ、観念となってしまうと又同じことの繰り返しになるのじゃ。
全てを否定することで、全てであるものを肯定し、自由を見出すのじゃ。
観念の無い時にそれはあるのじゃ。

888避難民のマジレスさん:2020/05/19(火) 23:41:58 ID:YYSZUkJs0
変化の緊要

   条件づけ 5

質問者 私が少しずつこれを削りとろうとするのなら、私はいつまでもつづけるでしょうし、それ自体が私の束縛になるでしょう。そのすべては一種の閃きでしおれうる(しりうる?)のでしょうか。私は、人間の欺瞞全体、価値と渇望と標準のすべてを、即時に無媒介に否定できるでしょうか。それは本当に可能なのでしょうか。このすべてを一瞬の閃きで見て、それを光に、あなたが話された智恵に晒すとは、非常な能力、非常な理解を必要としないでしょうか。私はその能力を欠いているのです。これに何が付随するのかあなたは知っておられるのかどうかと思われます。私に、ふつうの教育を受けたふつうの人に、信じがたく何でもないように思われるものに、突っ込むよう求めるとは・・・私にそれができるでしょうか。私は、それに跳び込むとはどういう意味なのかさえ知らないのです!それは、私に全く突然に最も美しく無垢で愛らしい人間になるよう求めるのに、似ています。私がいま本当に怯えているのが、おわかりでしょう。前に怯えていたようにではなく、私はいま、何か真実であると知っているものを向き合っているのですが、それでもなお、そうできない私の全くの無能力が私を縛るのです。私はこのこと、本当に完全に何でもないことの美しさが分かるのですが、しかし・・・

K おわかりでしょうが、創造があるのは、自分自身に空性があるときだけ - 浅い心の空性ではなく、自らがあったものごと、あるべきものごと、なるであろうものごとすべての全的否定とともに来る空性、この空性のなかだけなのです。新しい何かが起こりうるのは、この空性のなかだけなのです。恐怖は知られざるもの・ことの思考です。それで、あなたは本当は、知られたもの・こと、執着、満足、楽しめる記憶、楽や快適を与える継続と安全を去ることに、怯えているのです。思考はこれを、空性と思われるものと比較しています。この空性の想像が恐怖です。それで、恐怖は思考です。あなたの疑問に帰ってくると、心は知ってきたものごとすべてを、自らの意識的、無意識的な自己の全内容  - すなわちあなた自身の本質 - を、否定できるでしょうか。あなたはあなた自身を完全に否定できるでしょうか。できないのなら、自由はないのです。自由は、何かからの自由ではありません - それではただの反応です。自由は全的否定のなか来るのです。

質問者 しかし、そういう自由を持つことは、どういう良いことなのでしょうか。あなたは私に死ぬよう求めているでしょう。

K もちろんです!あなたはこの自由はどういう良いことなのかと言うとき、「良い」という言葉をどのように使っておられるのかと、思われるのです。どういうことにおいて良いのでしょう。知られたもの・ことでしょうか。自由は全体的に良いし、その行為は日々の生の美しさです。この自由ばかりに生きることはあるし、それなしではどうして愛がありうるでしょうか。どのものごとも、この自由のなか存在し、有るのです。それはどこにもあるし、どこにもないのです。それは辺境がありません。あなたは、死ぬため明日を待たないで、いま、あなたの知るものごとすべてに対して、死ねるでしょうか。この自由が永遠と忘我と愛なのです。

(´・(ェ)・`)つ

889避難民のマジレスさん:2020/05/19(火) 23:43:19 ID:YYSZUkJs0
くまめも5

創造があるのは、新しい何かが起こりうるのは、自分自身に空性がある時だけ-自らがあった、あるべき、なるであろうものごとすべての全的否定とともに来る空性の中だけ。
恐怖は知られざるもの・ことの思考。知られたもの・こと、執着、満足、楽しめる記憶、楽や快適を与える継続と安全を去ることに、怯えている。思考はこれを、空性と思われるものと比較する。この空性の想像が恐怖。恐怖は思考。
心は知ってきたすべてを、自らの意識的、無意識的な自己の全内容、すなわちあなた自身の本質を、否定できるか。あなた自身を完全に否定できるか。できないなら、自由はない。自由は、何かからの自由ではない。それはただの反応。自由は全的否定のなか来る。
自由は全体的に良いし、その行為は日々の生の美しさ。この自由ばかりに生きることはあるし、それなしではどうして愛がありうるか。どのものごとも、この自由のなか存在し、有る。それはどこにもあるし、どこにもない。それは辺境がない。
あなたは、死ぬため明日を待たないで、いま、あなたの知るものごとすべてに対して、死ねるか。この自由が永遠と忘我と愛。
(´・(ェ)・`)

890鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/20(水) 23:42:11 ID:1d4drIFg0
観念である自分を全て否定することから空性も起こるのじゃ。
しかし、それは悟っていない者には恐怖を生み出すのじゃ。
自分が全て否定されるのであるからのう。
それが出来なければ自由は無いのじゃ。

891避難民のマジレスさん:2020/05/21(木) 00:36:38 ID:hMrPqebM0
変化の緊要

   幸せ 1

質問者 幸せは何なのでしょうか。私はいつもそれを見つけようとしてきましたが、なぜかそれは私の道には来ないのです。私は人々が多くのさまざまなやり方で楽しんでいるのを見ますが、彼らがすることの多くはとても未熟で子どもっぽく見えるのです。私は彼らは彼らなりに幸せなのだと思うのですが、私は違った種類の幸せがほしいのです。私は、それを得ることが可能なのかもしれないという暗示はまれにあるのですが、なぜかそれはいつも私を避けてきたのです。私は本当に完全に幸せに感じるには何ができるのかと思うのです。

K あなたは、幸せはそれ自体が終わりの目的であると思うのでしょうか。それともそれは、智恵をもって生きるなか、二次的なものとして来るのでしょうか。

質問者 私はそれ自体が終わりの目的であると思うのです。なぜなら、幸せがあるなら、そのとき何をしようとも、調和的になるでしょうから。そのとき、努力なく、容易に、どんなあつれきもなく、ものごとをなすでしょう。私は確かに、この幸せのなから何をしようとも正しいだろう、と思うのです。

K しかし、そのとおりでしょうか。幸せはそれ自体が終わりの目的でしょうか。美徳はそれ自体が終わりの目的ではありません。もしそうであるなら、そのときそれはとても小さな事柄になるのでのです。あなたは幸せを探し求められるでしょうか。探し求めるなら、そのときたぶんあなたは、あらゆる種類の気晴らしと耽溺のなかに、それの模倣を見つけるでしょう。これは楽しみです。楽しみと幸せの間の関係は何でしょうか。

質問者 私は自分自身に訊ねたことがありません。

K 私たちが追求する楽しみは、誤って幸せと呼ばれます。しかし、あなたは楽しみを追求するように、幸せを追求できるでしょうか。確かに私たちは、楽しみが幸せであるのかどうかについて、ごく明確でなければなりません。楽しみは、愉快、満足、耽溺、娯楽、刺激です。私たちのほとんどは、楽しみが幸せであると思うし、最大の楽しみを私たちは最大の幸せであると考えるのです。そして、幸せは不幸せの対極でしょうか。あなたは、不幸せで不満足であるから、幸せになろうとしているのでしょうか。幸せは、いったい対極があるのでしょうか。愛は対極があるのでしょうか。幸せについてのあなたの疑問は、不幸せであることの結果でしょうか。

質問者 私は、世界のその他と同じように不幸せですし、自然にそうでありたくないと思うし、それが、私をして、幸せを探し求めるよう駆り立てているものなのです。

K それで、あなたにとって幸せは、不幸せの対極です。もしも幸せであったなら、あなたはそれを探し求めないでしょう。それで、重要なことは、幸せではなくて、不幸せが終わりうるのかということです。これが本当の問題なのでしょう。あなたは不幸せであるから、幸せについて訊ねているし、あなたは幸せが不幸せの対極なのかどうかを見出さずに、この疑問を訊ねるのです。
(´・(ェ)・`)つ

892避難民のマジレスさん:2020/05/21(木) 00:40:07 ID:hMrPqebM0
くまめも1

あなたは幸せを探し求めるなら、そのとき、あらゆる種類の気晴らしと耽溺のなかに、それの模倣を見つける。これは楽しみ。
楽しみと幸せの間の関係は何か。私たちが追求する楽しみは、誤って幸せと呼ばれる。
楽しみが幸せであるのかについて、明確でなければならない。
楽しみは、愉快、満足、耽溺、娯楽、刺激。私たちのほとんどは、楽しみが幸せであると思うし、最大の楽しみを私たちは最大の幸せであると考える。
幸せは不幸せの対極か。あなたは、不幸せで不満足であるから、幸せになろうとしているのか。幸せは、いったい対極があるのか。愛は対極があるのか。あなたにとって幸せは、不幸せの対極。もしも幸せであったなら、あなたはそれを探し求めない。
重要なことは、幸せではなくて、不幸せが終わりうるのか。あなたは不幸せであるから、幸せについて訊ねているし、あなたは幸せが不幸せの対極なのかどうかを見出さずに、この疑問を訊ねる。
(´・(ェ)・`)

893鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/21(木) 22:50:37 ID:1d4drIFg0
苦や不幸からの逃避として人は幸せを捜し求めるのじゃ。
娯楽とか快楽とかで一時的に苦や不幸を忘れるだけなのじゃ。
その繰り返しが人生になってしまうのじゃ。
真の幸福はその繰り返しから抜け出した時に在るのじゃ。

894避難民のマジレスさん:2020/05/21(木) 23:08:18 ID:GeSUPULM0
変化の緊要

   幸せ2

質問者 あなたがそのように言われるのなら、私はそれを受け入れます。それで、私の関心は、私がおかれている悲惨から自由になるすべなのです。

K どちらのほうが重要でしょうか - 不幸せを理解することでしょうか、それとも幸せを追求することでしょうか。あなたが幸せを追求するなら、それは不幸せからの逃避になるし、ゆえにそれはいつも留まるでしょう。おそらく覆い隠され、いつも内側で膿みながら。それで、いまあなたの疑問は何でしょうか。

質問者 いま私の疑問としては、なぜ私は悲惨なのでしょうか。あなたは、私のほしい答えを私に与えるよりむしろ、私の実態をきちんとうまく私に指し示してくださいました。それでいま、私はこの疑問に向かい合っています。私はどのようにして、私のおかれている悲惨を免れるのでしょうか。

K 外側の機関が神でも、大師でも、薬物でも、救世主でも、その外側の機関が、あなたが自分の悲惨を免れるのを助けられるのでしょうか。それとも、不幸せの本性を理解する智恵を持ち、それを即時に無媒介に扱いうるでしょうか。

質問者 私は、あなたが助けてくださるかもしれないと思ったから、あなたを訪ねてきたのです。だから、あなたはあなた自身を外側の機関と呼んでもいいかもしれません。私は助けがほしいのであり、誰がそれを私に与えてくれるのは気にしません。

K 助けを受け入れたり、与えたりするなかには、いくつものことが関与しています。あなたはそれを盲目的に受け入れるのなら、どれかの権威の罠に捕らわれるでしょうし、これは、服従と恐怖といったさまざまな他の問題をともなうのです。それで、あなたは助けをほしがるのを始めるなら、どちみち誰もあなたを助けられないから、あなたは助けを得ないだけではなく、加えてあなたは一連の新しい諸問題全部を得るのです。あなたはかつてよりももっと深く泥沼にはまっているのです。

質問者 私はそれを理解し、受け入れると思います。私はそれを前に明らかに考えぬいたことがありません。それでは私は、自分で即時に無媒介に不幸せを扱う智恵を、どのように発達させられるのでしょうか。もしも私はこの智恵があったなら、確かに私はここにいないでしょうし、私はあなたに助けてくださるよう頼んでいないでしょう。それで、いま私の疑問はこうなのです - 私は、不幸せの問題を解決し、よって幸せを成就するために、この智恵を得られるでしょうか。

K あなたは、この智恵がその行為から分離していると言われています。この智恵の行為は、問題自体を見て理解することなのです。二つは分離し連続的なのではありません。あなたはまず初めに智恵を得て、それからそれを道具として問題に対して用いるのではないのです。まず初めに能力を得てそれからそれを用いるべきである、まず初めに観念や原理、それからそれを応用すると言うことは、思考の病気の一つです。これ自体が、智恵のまさに不在で、問題の起源です。これが断片化です。私たちはこのように生きるので、私たちは幸せと不幸せ、憎しみと愛などについて語るのです。
(´・(ェ)・`)つ

895避難民のマジレスさん:2020/05/21(木) 23:16:13 ID:GeSUPULM0
くまめも2

あなたが幸せを追求するなら、それは不幸せからの逃避になり、それは留まり、覆い隠される。いつも内側で膿みながら。
外側の機関、神、薬物、その外側の機関が、あなたが自分の悲惨を免れるのを助けられるか。それとも、不幸せの本性を理解する智恵を持ち、それを即時に無媒介に扱いうるか。
助けを盲目的に受け入れるのなら、どれかの権威の罠に捕らわれ、服従と恐怖といった他の問題をともなう。
助けをほしがるのなら、どちみち誰も助けられないから、助けを得ないだけではなく、加えて一連の新しい問題全部を得る。あなたはかつてよりももっと深く泥沼にはまる。
幸せを成就するための智恵の行為は、問題自体を見て理解すること。二つは分離し連続的なのではない。まず智恵を得てから、それを道具として問題に対して用いるのではない。
まず初めに能力を得てそれからそれを用いるべきと言うことは、まず初めに観念や原理、それからそれを応用すると言うことは、思考の病気の一つ。これ自体が、智恵のまさに不在で、問題の起源。これが断片化。
(´・(ェ)・`)

896鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/22(金) 22:57:20 ID:1d4drIFg0
問題を見て理解することが智慧の行為とクリシュナムルティはいうのじゃ。
智慧とは能力ではなく行為そのものというのじゃ。
自分の心にある問題を観なければそこに智慧もないのじゃ。
どれほど頭が良くても自分を観ることから逃避しているならば、智慧はないのじゃ。
自分を理解することが智慧なのじゃ。

897避難民のマジレスさん:2020/05/23(土) 04:01:21 ID:tZQ.Vl/c0
変化の緊要

   幸せ 3

質問者  おそらくこれは言語の構造に本来備わっているのでしょう。

K おそらくそうなのでしょうが、ここでそれについてあまり大騒ぎし、主題を離れてさまよわないようにしましょう。私たちは、智恵と、その智恵の行為 - すなわち不幸せの問題を見ること - は、分割不可能なほど一つである、と言っているのです。また、これは、不幸せを終わらせることや幸せを得ることから分離していない、と。

質問者 私はどのようにしてその智恵を得るのでしょうか。

K あなたは、私たちが言ってきたことを理解したのでしょうか。

質問者 はい。

K しかし、あなたは理解したのなら、この見ることが智恵なのであることを見たのです。あなたのできるただ一つのことは、見ることです。あなたは見るために智恵を養成できません。見ることは智恵の養成ではありません。見ることは、智恵や幸せや不幸せよりも重要です。ただ見ることがあるのか、見ることがないのかです。残りのすべて - 幸せ、不幸せ、智恵 - は、ただの言葉です。

質問者 それでは、見ること、それは何なのでしょうか。

K 見るとは、思考がどのように対極を造り出すのかを理解する、という意味です。思考が作り出すもの・ことは、真実ではありません。見るとは、思考、記憶、葛藤、抗争、観念の本性を理解する、という意味です。このすべてを全的過程として見ることが、理解することです。これが智恵なのです。全的に見ることが智恵なのです。断片的に見ることが智恵の欠如です。

質問者 私は少しうろたえています。私は自分では理解すると思うのですが、それはかなり希薄です。私は緩やかに行かなければなりません。あなたが言われていることは、完全に見て聞きなさい、ということです。あなたは、この注意が智恵であると言われるし、それは即時で無媒介であるのでなければならないと言われるのです。ただ、いま見られるだけなのです。私はいま本当に見るのかと思われます。それとも、私は家に帰って、後で見ようと願って、あなたの言われたことを考えてみるのでしょうか。

K それではあなたは、けっして見ないでしょう。それについて考えるなかであなたは、けっしてそれを見ないでしょう。なぜなら、考えることは見ることを妨げるからです。私たちはどちらも、見るとはどういう意味なのかを理解しました。この見ることは、本質や抽象や観念ではありません。何も見られるもの・ことがないのなら、あなたは見られません。ここで、あなたは不幸せの問題があるのです。それを完全に見なさい、あなたが幸せになりたいことと思考がどのように対極を造り出すのかをも含めて。幸せへの探求と、幸せを得るために助けを探し求めることを、見なさい。失望、希望、恐怖を見なさい。このすべてが完全に、分離してではなく、全体として見られなければなりません。いまこのすべてを見なさい。あなたの全注意をそれに注ぎなさい。

質問者 私はやはりうろたえています。私はそれの本質を、論点全体を捉えたのかどうか分かりません。私は眼を閉じて、私が本当にこのことを理解したのかを見るため、私自身のなかに入りたいと思うのです。理解したなら、そのとき私は私の問題を解決したのです。
(´・(ェ)・`)つ

898避難民のマジレスさん:2020/05/23(土) 04:02:21 ID:tZQ.Vl/c0
くまめも3

智恵と、智恵の行為−すなわち不幸せの問題を見ること−は、分割不可能な一つ。また、これは、不幸せを終わらせることや幸せを得ることから分離していない。
この見ることが智恵。あなたのできるただ一つのことは、見ること。あなたは見るために智恵を養成できない。見ることは智恵の養成ではない。ただ見ることがあるのか。幸せ、不幸せ、智恵は、ただの言葉。
見るとは、思考がどのように対極を造り出すのかを理解するという意味。思考が作り出すもの・ことは、真実ではない。
見るとは、思考、記憶、葛藤、抗争、観念の本性を理解するという意味。このすべてを全的過程として見ることが、理解すること。
これが智恵。全的に見ることが智恵。断片的に見ることが智恵の欠如。
質問者 完全に見て聞け。この注意が智恵。それは即時で無媒介であるのでなければならないと言われる。
K それについて考えるなかであなたは、けっしてそれを見ない。なぜなら、考えることは見ることを妨げるから。見ることは、本質や抽象や観念ではない。何も見られるもの・ことがないのなら、あなたは見られない。
ここで、あなたは不幸せの問題がある。それを完全に見なさい、幸せになりたいことと思考がどのように対極を造り出すのかをも含めて。幸せへの探求と、幸せを得るために助けを探し求めることを、見なさい。失望、希望、恐怖を見なさい。このすべてが完全に、分離してではなく、全体として見られなければならない。いまこのすべてを見なさい。あなたの全注意をそれに注ぎなさい。
(´・(ェ)・`)

899鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/23(土) 22:22:41 ID:1d4drIFg0
質問者は全て理解したと言いながら、まだどのようにして智慧を得るかと聞くのじゃ。
もはや知識ではなく観ることの実践のみが智慧と理解した筈であるがのう。
それは自分を観ることの実践への恐れから起こる無理解なのじゃ。
自分の心を観ることは今まで逃避してきた恐れを観ることでもあるからのう。
逃避の習慣を止める事はかなりの勇気が要るのじゃ。
強い決意が必要なのじゃ。

900避難民のマジレスさん:2020/05/24(日) 05:03:43 ID:fBHCYJXA0
変化の緊要

   学び 1

質問者 あなたはしばしば学びについて話してこられました。私は、あなたの言われるのがどういう意味なのか、よくは知りません。私たちは学校、大学で学ぶよう教えられるし、生もまた私たちに多くのことを教えるのです - 環境に、私たちの隣人に、私たちの妻や夫に、私たちの子どもに適応することです。私たちはほとんどあらゆるものごとから学ぶように思われます。しかし、あなたが学ぶことについて語られるとき、それがすっかりあなたの意味されることではないのは、確かであると思います。なぜなら、あなたはまた教師としての経験をも拒否されるように見えるからです。しかし、あなたは経験を拒否するとき、学びすべてを拒否していないでしょうか。つまるところ、科学技術でも人間的な日常生活でも、経験をとおして私たちは、私たちの知るものごとすべてを学ぶのです。それで、私たちはこの疑問に入ってもよろしいでしょうか。

K 経験をとおして学ぶこと - それは条件づけの蓄積です - と、客観的ものごとについてだけではなく自分自身についてもすべてのとき学ぶことは、全く別々のことなのです。条件づけをもたらす蓄積があります - これを私たちは知っています。そして、私たちが語る学びがあります。この学びは観察です - 蓄積なく観察すること、自由のなか観察することです。この観察は、過去から方向づけられません。それら二つのことを明らかにしておきましょう。
  私たちは経験から何を学ぶのでしょうか。私たちは言語、農業、礼儀作法、月へ行くこと、医療、医薬、数学のようなものごとを学びます。しかし、私たちは、戦争をするのをとおして、戦争について学んだのでしょうか。私たちは戦争をもっと命取りで、もっと効果的にするのを学んだのですが、しかし、私たちは戦争をしやないことを学んでいないのです。私たちの戦争状態での経験は、人類の生存を危険にさらすのです。これは学びでしょうか。あなたはもっとよい家を建てるかもしれません。しかし、経験はあなたに、その内でもっと高貴に生きるすべを教えてくれたのでしょうか。私たちは経験をとおして、火は燃えて熱いことを学んできたし、それは私たちの条件づけになったのですが、しかし、私たちはまた私たちの条件づけをとおして、国家主義、民族主義が良いことを学んできたのです。それでもなお経験はまた私たちに、国家主義、民族主義が命取りであることをも教えてくれるはずなのです。証拠すべてがあるのです。私たちの条件づけに基づくような宗教的経験は、人から人を分離してきたのです。経験は私たちに、もっと良い衣食住、庇護を得ることを教えてくれました。しかし、それは私たちに、社会的不正が人と人との間の正しい関係を妨げることを、教えてくれなかったのです。それで、経験は、私たちの先入観、私たち固有の傾向、私たち特有の教義と信念を、条件づけ、強めるのです。私たちは、このすべてがどんなに愚かな無意味であるかを、学びません。私たちは、他の人たちと正しい関係に生きることを、学びません。この正しい関係は愛なのです。経験は私に、社会と他の諸家族と対立する単位として家族を強めることを、教えてくれます。これが闘争と分割をもたらすし、それは、家族を保護的に強めることをさらにもっと重要にするのです。それで、悪循環が継続します。私たちは蓄積し、これを「経験をとおした学び」と呼ぶのですが、この学びはますます断片化、狭さ、専門化をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ

901避難民のマジレスさん:2020/05/24(日) 05:10:15 ID:fBHCYJXA0
くまめも-1

経験をとおして学ぶこと−それは条件づけの蓄積−と、客観的ものごとについて、自分自身について学ぶことは、全く別々のこと。
学びは観察。蓄積なく観察すること、自由のなか観察すること。この観察は、過去から方向づけられない。経験から何を学ぶのか。
あなたはもっとよい家を建てるかもしれない。しかし、経験はあなたに、その内でもっと高貴に生きるすべを教えてくれたのか。
私たちは経験をとおして、火は燃えて熱いことを学んできたし、それは私たちの条件づけになった。
経験は私たちに、もっと良い衣食住、庇護を得ることを教えてくれた。しかし、それは私たちに、社会的不正が人と人との間の正しい関係を妨げることを、教えてくれなかった。それで、経験は、私たちの先入観、固有の傾向、特有の教義と信念を、条件づけ、強める。このすべてがどんなに愚かな無意味であるかを、学ばない。他の人たちと正しい関係に生きることを、学ばない。
この正しい関係は愛。
経験は、社会と他の諸家族と対立する単位として家族を強めることを、教えてくれる。
これが闘争と分割をもたらすし、それは、家族を保護的に強めることをさらにもっと重要にする。それで、悪循環が継続する。
私たちは蓄積し、これを「経験をとおした学び」と呼ぶが、この学びはますます断片化、専門化をもたらす。
(´・(ェ)・`)

902鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/25(月) 00:27:35 ID:1d4drIFg0
普通は学ぶという事は経験して知識を得ることを言うのじゃ。
しかしそれは更なる断片化をもたらすというのじゃ。
蓄積無く観察すること、自由の中観察する事、それがクリシュナムルティの語る学びなのじゃ。
自分の心を観察し、気付いたことも知識として蓄積する事無く、自由に理解していくのじゃ。
それが悟りに至る学びなのじゃ。

903避難民のマジレスさん:2020/05/25(月) 01:47:32 ID:EBqggWUs0
変化の緊要

   学び 2

質問者 あなたは、技術的な学びと経験に対し、科学と蓄積された知識に対する、反例を示しておられるのでしょうか。私たちはそれに背を向けるなら、野蛮状態に戻るでしょう。

K いいえ。私は全くそういう反例を示しているのではありません。私たちは互いに誤解しあっていると思います。私たちは、二つの種類の学びがあると言いました - 経験をとおした蓄積と、その蓄積から行為すること。蓄積は過去であり、知識の行為が必要であるところではどこでも、これは絶対的に必要です。私たちはこれに反対しているのではありません。それはあまりに愚劣でしょう!

質問者 ガンジーは生活から機械を締め出そうとし、インドで「国内産業」または「家内工業」と呼ばれる産業すべてを始めました。それでもなお彼は、近代の機械化された運送を使いました。これは、彼の立場の不一致と偽善を示すのです。

K 他の人々はここから外しておきましょう。私たちは、二つの種類の学びがあると言っています - 一つは、知識と経験の蓄積をとおして行為することで、もう一つは、蓄積なく学ぶこと、まさに生きる行為のなかすべてのときに学ぶことなのです。前者は、技術的事態すべてにおいて絶対的に必要です。しかし、関係、行動は技術的な事態ではないし、それらは生き物ですし、あなたはすべてのときにそれらについて学ばなくてはなりません。あなたが行動について学んだことから行為するなら、そのときそれは機械的になるし、ゆえに関係は課業になるのです。
  それから、もう一つとても重要な点があるのです。蓄積と経験である学びすべてでは、利得が、学びの効率を決定する基準です。そして、利得の動機が人間関係に作動するとき、それは孤立と分割をもたらすから、それら関係を破壊するのです。経験と蓄積の学びが、人間行動の領域、心理的領域に入るとき、それは必然的に破壊するにちがいないのです。開明的な利己心は一方では前進ですが、他方では、危害、悲惨、混乱のまさしく所在です。どんな種類でも利己心があるところに、関係は花開けないのです。そういうわけで、関係は経験や記憶に導かれるところで花開けないわけなのです。

質問者 それは分かります。しかし、宗教的経験は、何か違ったものではないでしょうか。私は、宗教的な事柄において集められ伝えられた経験について、話しています - 聖人と導師の経験、賢者の経験です。この種の経験は、無知のなかの私たちには有益ではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

904避難民のマジレスさん:2020/05/25(月) 01:48:45 ID:EBqggWUs0
くまめも2

経験をとおした蓄積と、その蓄積から行為すること。蓄積は過去であり、知識の行為が必要であるところでは、これは絶対的に必要。これに反対していない。それは愚劣。
二つの種類の学びがある。
一つは、知識と経験の蓄積をとおして行為することで、もう一つは、蓄積なく学ぶこと、生きる行為のなかすべてのときに学ぶこと。
前者は、技術的事態すべてにおいて絶対的に必要。しかし、関係、行動は技術的な事態ではないし、それらは生き物だし、すべてのときにそれらについて学ばなくてはならない。行動について学んだことから行為するなら、そのときそれは機械的になるし、ゆえに関係は課業になる。
もう一つ重要な点がある。蓄積と経験である学びすべてでは、利得が、学びの効率を決定する基準。そして、利得の動機が人間関係に作動するとき、それは孤立と分割をもたらすから、それら関係を破壊する。
経験と蓄積の学びが、人間行動の、心理的領域に入るとき、それは必然的に破壊する。
開明的な利己心は一方では前進たが、他方では、危害、悲惨、混乱の所在。利己心があるところに、関係は花開けない。関係は経験や記憶に導かれるところで花開けない。
質問者 宗教的経験−聖人、賢者の経験は、無知のなかの私たちには有益ではないか。
(´・(ェ)・`)

905鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/25(月) 23:41:55 ID:1d4drIFg0
とはいえ知識を否定するのではないのじゃ。
知識を蓄積することは日常生活で役立つから技術的な事態では絶対必要というのじゃ。
知識が適切に用いられれば智慧となるのじゃ。
智慧に拠って他者も導くことが出来るのじゃ。

906避難民のマジレスさん:2020/05/26(火) 00:58:17 ID:Q9kJ3fsg0
変化の緊要

   学び 3

K 全くそうではないのです!聖人は、社会に認識されなければならないし、いつも社会の聖人たることの概念に順応するのです。そうでなければ、彼は聖人と呼ばれないでしょう。同等に導師は、伝統によって条件づけられている従う人たちにより、それとして認識されなければなりません。それで、導師と学徒はどちらも、彼らが生きる特定の社会の文化的、宗教的条件づけの一部です。彼らが自分たちは真実と接触した、自分たちは知っていると主張するとき、あなたは、彼らが知っているものは真実ではないことを、全く確実だと思っていいのです。彼らが知っているものは、過去からの彼ら自身の投影です。それで、自分は知っていると言う人は、知っていないのです。これらすべてのいわゆる宗教的経験には、認識の認知過程が本来的に備わっているのです。あなたは、前に知っていたものを認識できるだけなのです。ゆえにそれは過去のであるし、ゆえにそれは、時間に縛るし、無時間ではないのです。いわゆる宗教的経験は、利益をもたらさないで、単にあなた特定の伝統、傾向、性癖、願望に応じてあなたを条件づけるだけで、ゆえにあらゆる形態の幻想と孤立を助長するのです。

質問者 あなたが言われるのは、真実を経験できないという意味でしょうか。

K 経験するとは、経験者があるのでなければならないという含意ですし、経験は条件づけすべての本質です。彼が経験するもの・ことは、すでに知られたもの・ことなのです。

質問者 あなたが経験者について話されるとき、それはどういう意味なのでしょうか。経験者がないのなら、あなたは消えさるという意味でしょうか。

K もちろんです。「あなた」は過去ですし、「あなた」が留まる、または「私 'me' 」が留まるかぎり、無量であるものはありえないのです。浅く小さな頭、経験、知識をもち、嫉妬と心配の重荷を負った心をもつ「私 'me' 」は - そういう事物がどうして、始まりもなく終わりもないもの、忘我であるものを、理解できるでしょうか。それで、英知の始まりはあなた自身を理解することなのです。あなた自身を理解しはじめなさい。

質問者 経験者は、彼が経験するもの・ことと違うのでしょうか。挑戦は、挑戦への応答と違うのでしょうか。

K 経験者が経験されるもの・ことであるのです。そうでなければ、彼は経験を認識できないでしょうし、それを経験と呼ばないでしょう。経験は、彼がそれを認識する前に、すでに彼にあるのです。それで、過去はいつも作動して、それ自体を認識しているのです。新しいもの・ことは、古いもの・ことに呑み込まれてしまうのです。同様に、挑戦を決定するのは反応です。挑戦は反応です。二つは分離してありません。反応なしには、挑戦はないでしょう。それで、経験者の経験、または経験者から来る挑戦への反応は、古いのです。というのは、それらは経験者によって決定されるからです。あなたが考えるにいたるなら、「経験」という言葉は、何かを経る、しるす。それを蓄えておくのではなく、それを終了させる、という意味です。しかし、私たちが経験について話すとき、それは現行としては反対の意味なのです。あなたは、経験について語るたびに、そこから行為が始まる何か蓄えられたものについて語るし、楽しんできて再び得たいと要求するもの、または嫌ってきて反復されるのを恐れているものについて語るのです。
  それで、本当に生きるとは、累積的過程なく学ぶことなのです。
(´・(ェ)・`)つ

907避難民のマジレスさん:2020/05/26(火) 01:03:19 ID:Q9kJ3fsg0
くまめも3
聖人は、社会に認識され、その概念に順応しなければならない。導師は、伝統によって条件づけられている従う人たちにより、それとして認識されなければならない。導師と学徒は、彼らが生きる社会の文化的、宗教的条件づけの一部。彼らが知っているものは、過去からの彼ら自身の投影。
前に知っていたものだけを認識できる。ゆえにそれは過去のであり、時間に縛られる。宗教的経験は、利益をもたらさないで、単に特定の伝統、傾向、性癖、願望に応じて条件づけるだけ、ゆえに幻想と孤立を助長する。
質問者 真実を経験できないという意味か。
K 経験するとは、経験者があるという含意。経験は条件づけすべての本質。彼が経験するものは、すでに知られたもの・こと。
経験者がないのであなたは消えさる。「あなた」「私 'me' 」が留まるかぎり、無量であるものはありえない。浅く小さな頭、経験、知識をもち、嫉妬と心配の重荷を負った心をもつ「私 'me' 」は、始まりもなく終わりもないもの、忘我であるものを、理解できない。経験者が経験されるもの・こと。そうでなければ、彼は経験を認識できないし、それを経験と呼ばない。経験は、彼がそれを認識する前に、すでに彼にある。
新しいものは、古いものに呑み込まれる。挑戦を決定するのは反応。二つは分離してない。それで、経験者の経験、経験者から来る挑戦への反応は古い。というのは、それらは経験者によって決定されるから。
「経験」という言葉は、それを蓄えておくのではなく、それを終了させる。本当に生きるとは、累積的過程なく学ぶこと。
(´・(ェ)・`)

908鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/26(火) 22:46:55 ID:1d4drIFg0
世間で言う聖人や導師は既に伝統による条件付けられているというのじゃ。
そこに真実は無いというのじゃ。
経験する者が居ない時に真の無量であるものがあるというのじゃ。
私もあなたも無い時に本当に生きるということが出来るのじゃ。

909避難民のマジレスさん:2020/05/27(水) 00:06:55 ID:HQ/A94Rg0
変化の緊要
   
   情熱と受苦 1

質問者 情熱とは何なのでしょうか。あなたはそれについて話してこられたし、明らかにあなたはそれに特別の意味を与えられるようです。私は自分がその意味を知っているとは思いません。あらゆる男と同じく私は、性的情熱と、速いドライヴや美しい庭の育成のような表面的なものごとへの情熱を、持っています。私たちのほとんどは、何らかの形態の情熱的活動に耽溺します。その人の特別の情熱について話をすると、その人の目が輝くのが見えるのです。私たちは、情熱 passion という言葉が、苦痛を表すギリシャ語から来るのを知っていますが、あなたがこの言葉を使われるとき私の受ける感情は、苦痛のそれではありません。むしろ、西から轟きながら来て、その前のごみくずと雲を追い払う風のそれのように、何か駆り立てる性質のです。私はこの情熱を所有したいように思うのです。どのようにそれに近づくのでしょうか。それは、何について情熱的なのでしょうか。あなたの言われる情熱は、何なのでしょうか。

K 私たちは情欲と情熱は別々のものであることを明らかにすべきであると、私は思うのです。情欲は思考により維持され、思考により駆り立てられるし、思考において成長し、実体を得て、ついに性的に爆発するにいたるし、またそれが権力への情欲であるなら、それ自らの暴力的形態の充足において、です。情熱は何か全然違ったものなのです。それは思考の産物ではないし、また過去の出来事の思い出でもないのです。それは、充足のどんな動機によっても駆り立てられません。それはまた悲しみでもありません。

質問者 性的情熱すべては情欲なのでしょうか。性的応答はいつも思考の結果です。それは、その愛らしさに圧倒される誰かにふいに出会うときのように、接触なのかもしれません。

K どこでも思考が楽しみのイメージを築き上げるところでは、それは必然的に、情熱の自由ではなく、情欲であるにちがいないのです。楽しみが主な駆り立てる力であるなら、そのときそれは情欲です。性的感情が楽しみから生まれるとき、それは情欲です。それが愛から生まれるなら、たとえそのとき大きな歓喜が存在していようとも、それは情欲ではありません。ここで私たちは、愛は楽しみと味わいを排除するのかどうかについて明らかであり、私たち自身で見出すのでなければなりません。あなたは雲を見て、その広大さとそれに当たる光に歓喜するとき、もちろん楽しみはあるのですが、楽しみよりももっと多くがあるのです。私たちは全くそれを非難していません。あなたが、思考や所作において刺激のためにその雲に戻りつづけるなら、そのときあなたは、空想の想像的高まりに耽溺しているし、明白にここでは楽しみと思考が、作動する誘因です。あなたがまず初めにあの雲を見つめて、その美しさが見えたとき、そういう楽しみの誘因は作動していなかったのです。セックスの美しさは、「私 'me' 」、自我の不在なのですが、しかし、セックスの思考はこの自我の定立です。そしてそれが楽しみです。この自我は、すべてのときに楽しみを探し求めているのか、苦しみを回避しているのかのどちらかで、充足をほしがり、よって欲求不満を招いているのです。このすべてのなか、情熱の感情は、思考により維持され、追求されるのです。ゆえに、それはもはや情熱ではなく、楽しみです。憶えられ思い出される情熱の希望、追求は、楽しみです。
(´・(ェ)・`)つ

910避難民のマジレスさん:2020/05/27(水) 00:08:05 ID:HQ/A94Rg0
くまめも1

情欲と情熱は別々のもの。情欲は思考により維持され、駆り立てられ、思考において成長し、実体を得て、ついに性的に爆発するし、またそれが権力への情欲であるなら、それ自らの暴力的形態の充足において爆発する。
情熱は思考の産物ではないし、また過去の思い出でもない。それは、充足のどんな動機によっても駆り立てられない。それはまた悲しみでもない。
質問者 性的情熱すべては情欲なのか。
K 思考が楽しみのイメージを築き上げるところでは、情熱の自由ではなく、情欲。楽しみが主な駆り立てる力であるなら、それは情欲。性的感情が楽しみから生まれるとき、それは情欲。
それが愛から生まれるなら、たとえそのとき大きな歓喜が存在していようとも、それは情欲ではない。
ここで愛は楽しみと味わいを排除するのかを自身で見出すのでなければならない。
あなたが、思考や所作において感覚刺激に戻りつづけるなら、そのときあなたは、空想の想像的高まりに耽溺しているし、ここでは楽しみと思考が、作動する誘因。
あなたがまず初めに感覚刺激を得て、その美しさが見えたとき、そういう楽しみの誘因は作動していなかった。
セックスの美しさは、「私 'me' 」、自我の不在だが、セックスの思考はこの自我の定立。そしてそれが楽しみ。この自我は、すべてのときに楽しみを探し求めているのか、苦しみを回避しているのかのどちらかで、充足をほしがり、よって欲求不満を招いている。
このすべてのなか、情熱の感情は、思考により維持され、追求される。ゆえに、それはもはや情熱ではなく、楽しみ。
憶えられ思い出される情熱の希望、追求は、楽しみ。
(´・(ェ)・`)

911鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/27(水) 23:28:17 ID:1d4drIFg0
情熱と情欲は全く違うというのじゃ。
愛から生まれるのが情熱というのじゃ。
快楽に駆り立てられるならば情欲であるのじゃ。
楽しみはあっても善いのじゃ。
それを追い求めたり、苦からの逃避として選ぶならば苦を産むのじゃ。
執着になるからなのじゃ。

912避難民のマジレスさん:2020/05/28(木) 03:56:39 ID:Q9kJ3fsg0
変化の緊要

   情熱と受苦 2

質問者 それでは、情熱自体は何なのでしょうか。

K それは、喜びと忘我と関わります。これらは楽しみではありません。楽しみにはいつも微細な形態の努力があるのです - 探し求め、奮闘し、要求し、それを保とう、それを得ようと格闘すること、です。情熱には、要求がないし、ゆえに格闘がないのです。情熱には充足のいささかの影もないし、ゆえに欲求不満も苦しみもありえないのです。「私 'me' 」は充足と苦しみのすべての中心ですが、情熱は「私 'me' 」からの自由です。情熱は、有るから、要求しないのです。私は、何か静止したものについて語っているのではありません。情熱は、「あなた」と「私 'me' 」がない自己放棄のきびしさです。ゆえに、情熱は、生、いのちの本質です。動き生きるのは、これなのです。しかし、思考が、持つこと、保つことの諸問題すべてを持ち込むとき、情熱は停止するのです。情熱なしには、創造は可能ではないのです。

質問者 あなたのいわれる創造とは、どういう意味なのでしょうか。

K 自由です。

質問者 どういう自由ですか。

K 環境に依存し環境の産物である「私 'me' 」 - 社会と思考により組み立てられる「私 'me' 」 - からの自由です。この自由は明晰さであり、過去から灯されない光です。情熱はただ現在のみなのです。

質問者 私には、ふしぎな新しい感情が、燃え立ちました。

K それが学びの情熱です。私が日々生きるなか、どういう特定の行為が、この情熱が燃えて作動していることを、確実にしてくれるのでしょうか。

質問者 学びの注意以外に、何もそれを確実にしてくれないでしょう。その注意は行為であり、いまなのです。これには情熱の美しさがあるし、それは「私 'me' 」とその時間の全的放棄です。
(´・(ェ)・`)つ

913避難民のマジレスさん:2020/05/28(木) 03:57:39 ID:Q9kJ3fsg0
くまめも2
情熱自体は、喜び、忘我と関わる。これらは楽しみではない。楽しみにはいつも微細な努力がある−探し求め、奮闘し、要求し、それを保とう、それを得ようと格闘すること。
情熱には、要求がないし、ゆえに格闘がない。情熱には充足のいささかの影もないし、ゆえに欲求不満も苦しみもありえない。
「私 'me' 」は充足と苦しみのすべての中心だが、情熱は「私 'me' 」からの自由。情熱は、有るから、要求しない。私は、静止したものについて語っていない。情熱は、「あなた」と「私 'me' 」がない自己放棄のきびしさ。
ゆえに、情熱は、生、いのちの本質。生きるのは、これ。
しかし、思考が、持つこと、保つことの諸問題を持ち込むとき、情熱は停止する。情熱なしには、創造は不可能。創造とは、自由。環境に依存し環境の産物である「私 'me' 」−社会と思考により組み立てられる「私 'me' 」−からの自由。この自由は明晰さであり、過去から灯されない光。情熱はただ現在のみ。ふしぎな新しい感情が、燃え立つこと、それが学びの情熱。私が日々生きるなか、どういう特定の行為が、この情熱が燃えて作動していることを、確実にしてくれるのか。
質問者 学びの注意。その注意は行為であり、いま。これには情熱の美しさがあるし、それは「私 'me' 」とその時間の全的放棄。
(´・(ェ)・`)

914鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/28(木) 22:15:03 ID:1d4drIFg0
自分が無い時に自由があると言うのじゃ。
自分とは環境や社会や思考の産物なのじゃ。
さまざまな記憶から起こる観念なのじゃ。
観念の自分から自由になれば今ここに在ることができるのじゃ。

915避難民のマジレスさん:2020/05/30(土) 04:38:36 ID:uVMlvQas0
変化の緊要

   思考を終わらせること 1

質問者 あなたの言われる思考を終わらせることは、本当はどういう意味なのかと思われます。私はそれについてある友人に話したのですが、彼はそれはある種の東洋のたわごとであると言いました。彼にとって思考は、最高の形態の智恵と行為で、いのちのまさしく塩分で、不可欠です。それは文明を創り出してきたし、関係すべてはそれに基づいてあるのです。一番偉大な思想家から一番つつましい労働者まで、私たちのすべてがこれを受け入れます。私たちは考えないとき、眠ったり、植物みたいであったり、白昼夢を見ています。私たちは空虚で、鈍く、非生産的なのです。ところが、私たちは目覚めているとき、考え、行い、生き、口論しています。これらが、私たちの知るただ二つの状態です。あなたは言われます - 両方を越えなさい。思考と空虚な無活動を越えなさい、と。これはどういう意味なのでしょうか。

K ごく単純に言うと、思考は記憶の応答、過去なのです。過去は無際限なのか、一秒前なのです。思考が行為するとき、記憶として、経験として、知識として、機会として行為しているのは、この過去です。意志すべては、この過去に基づき、楽しみや苦しみの回避を志向する願望です。思考が作用しているとき、それは過去ですし、ゆえに新しい生活は全くないのです。それは、現在に生き、それ自体と現在を修正している過去なのです。それで、その道には、生に何も新しいもの・ことがないのです。何か新しいもの・ことが見つけられることになるとき、過去の欠如がなければならないし、心は思考、恐れ、楽しみ、他のあらゆるものごとで散らかっていてはいけません。心が散らかっていないときにのみ、今は生じうるのです。そして、この理由のために私たちは、思考は作動しなくてはならないときにだけ - 対象的に、効果的に - 作動して、止まらなければならないと言うのです。継続すべては思考です。継続があるとき、何も新しいもの・ことはありません。あなたは、これがどんなに重要なのか、分かるでしょうか。それは本当に、生それ自体の疑問です。あなたは過去に生きるのか、全く違うように生きるのかのどちらかです。それが論点全部です。

質問者 私はあなたの言われる意味は分かると思うのですが、しかし、いったい全体どのようにして、この思考を終わらせるのでしょうか。私が鳥(の声)を聞くとき、即時にそれはクロウタドリであると語ってくれる思考があるのです。私が通りを歩いていくとき、思考は私は通りを歩いていくと語ってくれ、私の認識し分かるすべてを語ってくれるのです。私が、考えないという概念を弄ぶとき、このゲームをやって戯れるのは、今度も思考です。意味と理解と伝達のすべては思考です。私は他の誰かと伝達しあっていないときさえ、私は私自身とそうしています。私は目覚めているとき考えるし、私は眠っているとき考えるのです。私の存在の全構造が思考です。その根は、私が知るよりはるかに深くあるのです。私が考えて、なすすべて、私の存在すべては、思考です - 思考が楽しみと苦しみ、欲望、あこがれ、解消、決断、結論、希望、恐怖、疑問を創り出すのです。思考は殺害するし、思考が許すのです。それで、どうしてそれを乗り越えられるのでしょうか。それを乗り越えることを探し求めるのもまた、思考ではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

916避難民のマジレスさん:2020/05/30(土) 04:41:37 ID:uVMlvQas0
>>915
順番を間違えたので、この章は、後回しにするであります。
(´・(ェ)・`)つ

917避難民のマジレスさん:2020/05/30(土) 04:43:52 ID:uVMlvQas0
変化の緊要

自己表現 1

質問者 表現は私にはとても重要に思われます。私は芸術家として自己を表現しなければなりません。そうでなければ、私は窒息して深く欲求不満の感じがします。表現は自らの存在の一部です。男が言葉と身振りで女に愛を表現するように、芸術家として私がそれに私自身を捧げることは、自然です。しかし、このすべての表現をとおして、私がよくは理解できない一種の苦しみがあるのです。ほとんどの芸術家は、自らの最も深い感情をカンバスや他のどの媒体に表現するなかに深い葛藤があるということでは私に同意するだろう、と私は思うのです。はたしてこの苦しみから自由になれるのかどうかと思われるのです。それとも、表現はいつも苦しみをもたらすのでしょうか。

K 表現の必要とは何でしょうか。苦痛はどこでこのすべてに入ってくるのでしょうか。いつも、ますます深く過剰に十分に表現しようとしないでしょうか。いったい、表現したものに満足することがあるでしょうか。深い感情とそれの表現は、同じことではないのです。二つの間には多大な違いがあるし、表現が強い感情に相応しないとき、いつも欲求不満があるのです。たぶんこれが、芸術家が自らの感情に与える発言の不適切さへのこの不満足が、苦しみの原因の一つです。ここには葛藤があるし、葛藤はエネルギーのむだなのです。芸術家は、そうとうに真誠である強い感情を持ちます。彼はそれをカンバスに表現します。この表現はある人々を楽しませるし、彼らはその人の作品を買うのです。その人はお金と評判を得るのです。彼の表現は、注目されたし、流行になるのです。彼はそれを洗練させ、追求し、発達させるし、いつのときにも自分自身を模倣しています。この表現は習慣的になり、様式化されるのです。表現はますます重要になり、最終的には感情よりも重要になるのです。感情は結局、蒸発します。芸術家は、成功した画家としての社会的結果とともに、残されます。サロンと画廊の市場、通のくろうと、批評家。彼は、社会のために絵を描き、その社会の奴隷になるのです。感情ははるか前に消えてしまったし、表現は残る空っぽの殻なのです。結果的にこの表現さえ結局、魅力を失います。なぜなら、それは何も表現するものがなかったからです。それは意味のない身振り、言葉です。これが、社会の破壊的過程の一部です。これが良いものの破壊です。

質問者 感情は、表現のなか失われずに、残れないのでしょうか。

K (表現が)楽しめたり、満足できたり、収益が上がるから、表現ばかりが重要になるとき、表現と感情の間に断裂があるのです。感情が表現であるとき、葛藤は生じません。ここには矛盾がないし、ゆえに葛藤がないのです。しかし、収益と思考が介入するとき、この感情は欲をとおして失われるのです。感情の情熱は、表現の情熱とは全然違っているし、ほとんどの人々は表現の情熱に捕らわれるのです。それで、良いものと楽しめるものとの間には、いつもこの分割があるのです。

質問者 私は、この欲の流動に捕らわれずに、生きられるでしょうか。

K 重要であるのが感情であるなら、あなたはけっして表現について訊ねないでしょう。あなたは感情を持っているのか、持っていないのかのどちらかです。あなたは表現について訊ねるなら、芸術性についてではなく収益について訊ねているのです。芸術性は、けっして勘定に入らないものなのです。それは生きることなのです。

質問者 では、それは、生きるとはどういうことなのでしょうか。(生きて)有るとは、それ自体が完全である感情を持つとは、どういうことなのでしょうか。私はいま、表現は的外れであることを理解したのです。

K それは葛藤なく生きることなのです。
(´・(ェ)・`)つ

918避難民のマジレスさん:2020/05/30(土) 04:44:45 ID:uVMlvQas0
くまめも25-1

芸術家は、強い感情を持ち、それを表現する。深い感情とその表現の間には多大な違いがあるし、表現が強い感情に相応しないとき、欲求不満がある。この不満足が、苦しみの原因の一つ。ここには葛藤がある。
表現→人々を楽しませ、その人の作品を買う→金と評判を得る→表現は、注目され、流行→それを洗練、発達させる→いつのときにも自分自身を模倣→表現は習慣的、様式化される→表現はますます重要になり、最終的には感情よりも重要になる→感情は蒸発→芸術家は、成功した画家としての社会的結果とともに、残される→社会のために絵を描き、その社会の奴隷になる。
感情ははるか前に消えたし、表現は残る空っぽの殻。結果的にこの表現さえ魅力を失う。なぜなら、それは何も表現するものがなから。それは意味のない身振り、言葉。これが、社会の破壊的過程の一部。これが良いものの破壊。
質問者 感情は、失われず残れないか。
K 楽しめ、満足でき、収益が上がる→表現ばかりが重要になる→表現と感情の間に断裂。感情=表現→矛盾、葛藤がない。収益と思考が介入→感情は欲をとおして失われる。
感情の情熱は、表現の情熱とは全然違う。人々は表現の情熱に捕らわれる。それで、良いものと楽しめるものとの間には、いつもこの分割がある。
重要であるのが感情→けっして表現について訊ねない。感情を持っているのか、いないのかのどちらか。表現について訊ねる→芸術性ではなく収益について訊ねている。芸術性は、けっして勘定に入らない→生きること
質問者 生きて有るとは、それ自体が完全である感情を持つとは、どういうことか。
K それは葛藤なく生きること。
(´・(ェ)・`)

919鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/05/31(日) 00:08:30 ID:1d4drIFg0
表現とは他人に向けた感情のあらわれなのじゃ。
それによって芸術は金にもなるのじゃ。
芸術が表現に偏るならばもはや金のための商品にもなるのじゃ。
ありのままの感情を現す時、表現は葛藤の無い芸術になるのじゃ。

920避難民のマジレスさん:2020/05/31(日) 06:03:50 ID:tFvY.HzI0
変化の緊要

   秩序 1

質問者 あなたの教えには、千もの詳細があります。私は生きるなかで、それらすべてを一つの行為へ解消することができなければならないし、いまそれは、私のなすすべてに浸透します。なぜなら、私は生きるなかで、行為するための一つの瞬間が、私の真ん前にあるだけであるからです。頂点のうえに倒立したピラミッドのように、あなたの教えの詳細すべてを一点に持っていく日々生きるなかでの一つの行為とは、何なのでしょうか。

K ・・・危険ですね!

質問者 または違うように言うと、生きることの全的智恵を、一瞬に現在に集中させるだろう一つの行為は、何なのでしょうか。

K 問うべき疑問は、どう混乱、適応、悲惨なく、他の人間たちとの調和的な関係のなか、本当に智恵あり均衡ある活動的な生を生きるのかである、と私は思うのです。あなたがしているいかなることにも、この智恵を作動するよう喚起するであろう一つの行為は、何なのでしょうか。世界にはこんなに多くの悲惨、貧しさ、悲しみがあるのです。あなたは人間として、これらすべての人間的問題に向き合い、何をすべきなのでしょうか。あなたが他の人たちを助ける機会をあなた自身の充足のために使うなら、そのとき、そのときそれは濫用で危害です。それで、私たちは初めから、それを片づけられるのです。本当は疑問はこうなのです - 私たちはどのようにして、どんな種類の努力もなく大いに智恵あり秩序ある生を生きるのでしょうか。私たちはいつもこの問題に外側から接近し、自分自身に「私は、人類の、経済的、社会的、人間的な多くの問題すべてに直面して、何をすべきなのだろうか」と訊ねるように、思われるのです。私たちは、外ということにおいて働いてこれを解きたいと思うのです。

質問者 いいえ。私はあなたに、私がどのように世界の経済的、社会的、政治的問題に取り組んだり、解決したりできるのかを、訊ねているのではありません。それではあまりに愚劣でしょう!私が知りたいすべては、まさにあるとおりのこの世界でどう正しく生きるのかばかりです。なぜなら、それはいまあるとおりにここに私の真ん前にあるし、私はそれを他のどんな形にも望めないからです。私はいま、あるとおりのこの世界に生き、これら環境、境遇のなかで、生きることの問題すべてを解決するのでなければなりません。私はこの生きることを、どう義(ダールマ)の生にするのかを訊ねているのです。それは、外から課されないし、どんな訓戒にも順応しなくてどんな思考によっても養成されない美徳です。

K あなたのいわれるのは、あなたは即時にふいにあなた自身を、大いなる智恵、無垢、愛である恵みの状態に見たい - 過去や未来をもたずあなた自身をこの状態に見たい、この状態から行為したい、という意味でしょうか。

質問者 はい!全くそのとおりです。
(´・(ェ)・`)つ

921避難民のマジレスさん:2020/05/31(日) 06:06:58 ID:tFvY.HzI0
くまめも1

質問者 あなたの教えの詳細すべてを一点に持っていく日々生きるなかでの一つの行為とは、何か。
K ・・・危険ですね!
問うべき疑問は、どう混乱、適応、悲惨なく、他の人間たちとの調和的な関係のなか、本当に智恵あり均衡ある活動的な生を生きるのかである。
世界にはこんなに多くの悲惨、貧しさ、悲しみがある。あなたは人間として、これらの問題に向き合い、何をすべきか。他の人たちを助ける機会を自身の充足のために使うなら、そのとき、そのときそれは濫用で危害。
本当は疑問はこう−私たちはどのようにして、どんな種類の努力もなく大いに智恵あり秩序ある生を生きるか。
私たちはいつもこの問題に外側から接近し、自分自身に「私は、人類の、経済的、社会的、人間的な多くの問題すべてに直面して、何をすべきなのだろうか」と訊ねる。
質問者 いいえ。どのように世界の経済的、政治的問題に取り組み、解決できるかを、訊ねているのではない。それでは愚劣。
私はいま、あるとおりのこの世界に生き、これら環境、境遇のなかで、生きることの問題すべてを解決するのでなければならない。
私はこの生きることを、どう義(ダールマ)の生にするのかを訊ねている。
K あなたは即時にあなた自身を、大いなる智恵、無垢、愛である恵みの状態に見たい − 過去や未来をもたずあなた自身をこの状態に見たい、この状態から行為したい、という意味か。
質問者 はい!全くそのとおり。
(´・(ェ)・`)

922避難民のマジレスさん:2020/05/31(日) 06:18:40 ID:tFvY.HzI0
うむ。
「危険ですね!」
廻光返照
「言を尋ね語を逐うの解行を休すべし」
道元さんも覚者でありますか?
同じことを言ってるであります。
(´・(ェ)・`)b

923鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/01(月) 00:57:44 ID:1d4drIFg0
言葉だけ覚えて繰り返しても無意味なのじゃ。
現実が言葉の通りになることはありえないのじゃ。
それは心の中にイメージを持っていることであるからのう。
ありのままにものごとを観る障碍になるばかりなのじや。

924避難民のマジレスさん:2020/06/02(火) 08:36:30 ID:WhCvvMPA0
変化の緊要

   秩序 2

K これは、達成、成功、失敗とは何の関わりもありません。確かに、ただ一つの生きる道があるにちがいありません。それは何でしょうか。

質問者 それが私の疑問です。

K 始まりもなく終わりもないし、あなたの願望によって灯されないし、あなたのや他の誰かのではない光を、あなたの内に持つこと。この内的光があるとき、あなたが何をしようとも、いつも正しく真実であるでしょう。

質問者 格闘、探求、あこがれ、疑問のすべてなしに、その光をいま、どのように得るのでしょうか。

K あなたが本当に過去に対して完全に死ぬときにだけ、それは可能です。そして、これは、頭脳に完全な秩序があるときにだけ、できるのです。頭脳は無秩序に耐えられません。無秩序があるのなら、その活動すべては矛盾的で混乱し悲惨になるでしょうし、それはそれ自身とそれ自身のまわりに危害をもたらすでしょう。この秩序は、思考の企画、原理(へ)、権威(へ)、何かの形態の想像された善への服従の企画ではありません。葛藤、抗争をもたらすのは、頭脳の無秩序です。そのとき、この無秩序から逃避するため思考が養成した、宗教的その他のさまざまな抵抗すべてが、生じるのです。

質問者 この秩序は、それ自体が無秩序で矛盾的である頭脳へ、どのようにもたらされるのでしょうか。

K それは、一日中見張ることにより、それから眠る前に、日中になされたことごとくを秩序立てることにより、できるのです。そのとおりに頭脳は無秩序のなか眠りに就きません。これは、本当は(頭脳の)なかとまわりに無秩序があるときに、頭脳が自分自身に催眠をかけて秩序の状態にする、という意味ではありません。昼の間に秩序があるのでなければならないし、眠る前にこの秩序を締めくくることが、一日が調和的に終わることなのです。それは、帳簿を付け、毎晩それを適正に決算し、そのため次の日新たに始めるようにし、そのため眠りに就くとき、心が悩み混乱し心配で恐れているのではなく、静かで空っぽであるようにする人に、似ているのです。彼が目覚めるとき、思考や楽しみの産物ではないこの光があるのです。この光は、智恵と愛なのです。それは、私たちが育てられてきた道徳という無秩序の否定です。

質問者 私は即時に無媒介にこの光を得られるでしょうか。それが、私がまさに最初に訊ねた疑問です。ただ私はそれを違うように表しただけなのです。

K 「私 'me' 」がないとき、それを即時に無媒介に得られるのです。「私 'me' 」は、自らが終わらなければならないことを自分自身で見るとき、終わりになるのです。見ることが理解の光なのです。
(´・(ェ)・`)つ

925避難民のマジレスさん:2020/06/02(火) 08:45:19 ID:WhCvvMPA0
くまめも2
K これは、達成、成功、失敗とは何の関わりもない。ただ一つの生きる道がある。始まりも終わりもないし、願望によって灯されないし、あなたのや他の誰かのではない光を、あなたの内に持つこと。この内的光があるとき、いつも正しく真実。
あなたが本当に過去に対して完全に死ぬときにだけ、それは可能。そして、これは、頭脳に完全な秩序があるときにだけできる。
頭脳は無秩序に耐えられない。無秩序があるのなら、その活動すべては矛盾的で混乱し悲惨になるし、それはそれ自身とそれ自身のまわりに危害をもたらす。この秩序は、思考の企画、原理、権威、想像された善への服従の企画ではない。葛藤、抗争をもたらすのは、頭脳の無秩序。そのとき、この無秩序から逃避するため思考が養成した、さまざまな抵抗すべてが、生じる。
秩序は、どのようにもたらされるか。それは、一日中見張ることにより、それから眠る前に、日中になされたことを秩序立てることにより、できる。頭脳は無秩序のなか眠りに就かない。昼の間に秩序があるのでなければならないし、眠る前にこの秩序を締めくくることが、一日が調和的に終わること。 
彼が目覚めるとき、思考や楽しみの産物ではないこの光がある。この光は、智恵と愛。それは、私たちが育てられてきた道徳という無秩序の否定。
「私 'me' 」がないとき、それを即時に無媒介に得られる。「私 'me' 」は、自らが終わらなければならないことを自分自身で見るとき、終わりになる。見ることが理解の光。
(´・(ェ)・`)

926鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/02(火) 21:21:01 ID:1d4drIFg0
見る事に拠って私が終わるというのじゃ。
私が無ければ目覚めが在るのじゃ。
目覚めれば条件付けによる観念遊戯も全て終わるのじゃ。
見ることが理解の光であると言うのじゃ。

927避難民のマジレスさん:2020/06/03(水) 06:39:47 ID:FyHVc0AM0
変化の緊要

   個人と共同体 1

質問者 私はこの疑問の訊ね方をよく知らないのですが、私は、個人と共同体、これら二つの対立的事物の間の関係は、長い危害の歴史であったという強い感じを持っています。世界の(歴史)、思考、文明の歴史は、つまるところ、これら二つの対立的事物の間の関係の歴史です。社会すべてにおいて個人は多かれ少なかれ抑圧されるのです。彼は、理論家たちが決定してきた様式に順応し、適合しなければなりません。個人はいつもこれら様式を破って抜けようとしているし、二つの間の継続的な戦いが結果です。諸宗教は、集団的魂から分離したものとして、個人の魂について話すのです。彼らは個を強調します。(近代)現代の社会は、こんなに機械的になり、標準化され、集団的に活動することになったのですが、この社会では、個人は自分が何なのかを探究し、自分自身を主張し、自分自身を同定しようとしています。格闘すべては、何にもつながりません。私の疑問はこうです - このすべてのどこが、間違っているのでしょうか。

K 本当に大事であるただ一つのことは、生きるなか善と愛と智恵の行為があることです。善は個人的でしょうか、集団的でしょうか。愛は人格的でしょうか、非人格的でしょうか。智恵はあなたのや私のや他の誰かのでしょうか。それがあなたのや私のであるのなら、そのときそれは智恵や愛や善ではありません。善が、自らの特定の趣向や判断に応じた個人や集団の事柄であるのなら、そのときそれはもはや善ではありません。善は個人の裏庭にも集団の広野にもありません。善は両方からの自由にのみ花開くのです。この善と愛と智恵があるとき、そのとき行為は個人や集団ということにおいてではありません。善を欠いて私たちは、世界を個人と集団とに分割するし、さらに集団を宗教、国家、民族、階級に応じて無数の諸集団に分割するのです。これら諸分割を創り出したので、私たちは、新しい集団を形成することによりそれらに橋を渡そうとするのですが、それら(形成される集団)も再び他の諸集団から分割されるのです。私たちは、どの偉大な宗教もすべて仮定では人の同胞愛をもたらすために存在しているが、現行の事実ではそれを防止することが、分かるのです。私たちはいつも、すでに腐敗しているものを改革しようとするのです。私たちは腐敗を抜本的に根絶するのではなく、ただ単にそれらを配置しなおすだけなのです。
(´・(ェ)・`)つ

928避難民のマジレスさん:2020/06/03(水) 06:41:46 ID:FyHVc0AM0
くまめも1

本当に大事であるただ一つのことは、生きるなか善と愛と智恵の行為があること。
智恵はあなたのや私のや他の誰かのか。それがあなたのや私のであるのなら、そのときそれは智恵や愛や善ではない。
善が、特定の趣向や判断に応じた個人や集団の事柄であるのなら、そのときそれは善ではない。善は個人の裏庭にも集団の広野にもない。善は両方からの自由にのみ花開く。
この善と愛と智恵があるとき、そのとき行為は個人や集団ということにおいてではない。善を欠いて私たちは、世界を個人と集団とに分割するし、さらに集団を宗教、国家、民族、階級に応じて無数の諸集団に分割する。これら諸分割を創り出したので、私たちは、新しい集団を形成することによりそれらに橋を渡そうとするが、それら(形成される集団)も再び他の諸集団から分割される。
私たちは、どの偉大な宗教もすべて仮定では人の同胞愛をもたらすために存在しているが、現行の事実ではそれを防止することが、分かる。私たちはいつも、すでに腐敗しているものを改革しようとする。私たちは腐敗を抜本的に根絶するのではなく、ただ単にそれらを配置しなおすだけ。
(´・(ェ)・`)

929鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/03(水) 22:59:09 ID:1d4drIFg0
個人の集まりが集団と呼ばれるのじゃ。
個人が無ければ集団も無いのじゃ。
それは分けられない一つのものなのじゃ。
集団のためにすることは個人の欲望のためにすることであり、腐敗は免れないのじゃ。

930避難民のマジレスさん:2020/06/03(水) 23:36:39 ID:0u2NzBkU0
変化の緊要

   個人と共同体 2

質問者 あなたは、私たちは個人と集団の間のこれら終わりなき取引に時間を費やしたり、それらは異なっているとか、それらは同様であるとかを立証しようしたりしなくてもいい、と言われているのでしょうか。あなたは、ただ善、愛、智恵のみが主題であるし、これらは個人や集団を越えていると言われているのでしょうか。

K そうです。

質問者 では、本当の疑問は、愛、善、智恵が日々生きるなかでどのように行為できるのかであるように、思われます。

K これらが行為するのなら、そのとき個人と集団の疑問は学理的なのです。

質問者 それらはどのようにして行為するのでしょうか。

K それらはただ関係のなかにのみ行為できるのです。存在すべては関係のなかにあるのです。それで、初めのことは、自らのあらゆるものごととあらゆる人との関係に気づくこと、この関係のなか「私 'me' 」がどのように生まれ、行為するのかを見ることなのです。集団と個人のどちらでもあるこの「私 'me' 」、です。分離するのは、「私 'me' 」です。集団的、個人的に行為するのは「私 'me' 」で、天国と地獄を創り出すのは「私 'me' 」です。これに気づくことがそれを理解することです。そして、それを理解することが、それの終わることなのです。それの終わることが善、愛、智恵なのです。
(´・(ェ)・`)つ

931避難民のマジレスさん:2020/06/03(水) 23:41:26 ID:0u2NzBkU0
くまめも27-2

質問者 善、愛、智恵のみが主題であり、これらは個人や集団を越えていると言うのか。
K そうです。
質問者 愛、善、智恵が、日々生きるなかでどのように行為できるのか。
K これらが行為するのなら、そのとき個人と集団の疑問は学理的。
質問者 それらはどのように行為するのか。
K それらはただ関係のなかにのみ行為できる。存在すべては関係のなかにある。
初めのことは、自らのあらゆるものごととあらゆる人との関係に気づくこと、この関係のなか「私 'me' 」がどのように生まれ、行為するのかを見ること。集団と個人のどちらでもあるこの「私 'me' 」。分離するのは、「私 'me' 」。集団的、個人的に行為するのは「私 'me' 」で、天国と地獄を創り出すのは「私 'me' 」。これに気づくことがそれを理解すること。そして、それを理解することが、それの終わること。それの終わることが善、愛、智恵。
(´・(ェ)・`)

932鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/04(木) 23:32:11 ID:1d4drIFg0
全ては私から起こるというのじゃ。
分離も、個人と集団の行為も、天国と地獄を作り出すのも全て私なのじゃ。
それが観られて気付いたならば、全ては消え去るのじゃ。
私が無ければ私から創られた全てもなくなるからなのじゃ。

933避難民のマジレスさん:2020/06/04(木) 23:50:57 ID:1R/9XXYg0
変化の緊要
   
   冥想とエネルギー 1

質問者 今朝私は、冥想のもっと深い意味、もっと深い感覚に入りたいように思うのです。私は、少しの禅を含めて、その多くの形態を実践してきました。気づきを教える学派はさまざまにあるのですが、それらはすべてむしろ表面的なように思われます。それで、私たちはそのすべてをわきに置いておき、これに入れるでしょうか。

K 私たちはまた権威の意味全体をもわきに置かなければなりません。なぜなら、冥想のなかで、どんな形態の権威も、自分自らのも他の人の権威も、障害になり、自由を防止するからです。新しさ、新鮮さを防止するのです。それで、権威、順応、模倣は完全にわきに置かなければなりません。そうでなければあなたは、単に言われてきたことを模倣し、倣うだけですし、これは心をとても鈍く愚かにするのです。そこには自由がありません。あなたの過去の経験は導き、指導し、新しい道を確立するかもしれません。それで、それさえも去らなければなりません。そのときにだけ、冥想と呼ばれるこのとても深くとてつもなく重要なことに、入れるのです。冥想はエネルギーの本質です。

質問者 長年の間、私は自分が他の誰かの権威やある様式の奴隷にならないようにしてきました。もちろん私自身を欺瞞する危険はあるのですが、私たちが進むにつれて、私はたぶん見出すでしょう。しかし、あなたが冥想はエネルギーの本質であると言われるとき、あなたの言われる「冥想」と「エネルギー」という言葉は、どういう意味なのでしょうか。

K 思考のあらゆる動き、あらゆる行為がエネルギーを要求します。あなたが何をしようと、考えようと、エネルギーが要るのです。このエネルギーは、葛藤、抗争をとおし、さまざまな形態の不必要な思考、情動的追求、感傷的活動をとおして、消散するかもしれません。二元性に、「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」に、観察する者と観察されるもの・こと、思考する者と思考されるもの・こととの間の分割に生ずる葛藤、抗争のなか、エネルギーはむだになるのです。このむだがもはや起きていないとき、気づきと呼べるエネルギーの性質があるのです - そのなかに、評価づけ、判断、非難、比較がなく、単に注意深い観察、思考 - すなわち過去 - の干渉なく内的、外的にものごとをまさに有るとおりに見ることのみがあるところの気づき、です。

質問者 私はこれをとても理解するのが困難だと思います。もしも全く思考がなかったなら、樹や私の妻や隣人を認識することは、可能でしょうか。あなたは樹やお隣の女性を見るとき、認識は必要であるでしょう。

K あなたが木を観察するとき、認識は必要でしょうか。あなたがあの樹を見るとき、あなたはあれは樹であると言うのでしょうか、それともあなたはただ見るだけでしょうか。あなたがそれをニレ、カシ、マンゴーの来と認識しはじめるなら、そのとき過去が直接的観察に干渉するのです。同じように、あなたは、あなたの妻を見るとき、やっかいや楽しみの記憶をもって見るのなら、あなたは本当は彼女を見ていなくて、あなたが彼女について心に持っているイメージを見ているのです。それが直接的知覚を防止します。直接的知覚には、認識が要りません。あなたの妻、あなたの子ども、あなたの家、あなたの隣人の外的認識はもちろん必要です、しかし、なぜ眼、心、頭に過去の介入があったりするのでしょうか。それはあなたが明確に見るのを防止しないでしょうか。あなたが何かについて非難したり、見解を持つとき、その見解や先入観は、観察を歪曲するのです。
(´・(ェ)・`)つ

934避難民のマジレスさん:2020/06/04(木) 23:52:32 ID:1R/9XXYg0
くまめも28-1

冥想のなかで、どんな形態の権威も、障害になり、自由を防止する。新鮮さを防止する。それで、権威、順応、模倣は完全にわきに置かなければならない。言われたことを模倣するだなら、それは、心をとても鈍く愚かにする。そこには自由がない。過去の経験は導き、新しい道を確立するかもしれない。それさえも去らなければならない。そのときにだけ、冥想のとても深く、重要なことに、入れる。冥想はエネルギーの本質。
思考のあらゆる動き、あらゆる行為がエネルギーを要求する。このエネルギーは、葛藤、抗争をとおし、さまざまな形態の不必要な思考、情動的追求、感傷的活動をとおして、消散するかもしれない。
二元性に、「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」に、観察する者と観察されるもの・こと、思考する者と思考されるもの・こととの間の分割に生ずる葛藤、抗争のなか、エネルギーはむだになる。
このむだが起きていないとき、気づきと呼べるエネルギーの性質がある。そのなかに、評価づけ、判断、非難、比較がなく、単に注意深い観察、思考、すなわち過去の干渉なく内的、外的にものごとをまさに有るとおりに見ることのみがあるところの気づき。
あの樹を見るとき、あなたは①あれは、木である。②ただ見るだけ③それを〇〇の木と認識しはじめるなら、そのとき過去が直接的観察に干渉する。
同じように、妻を見るとき、記憶をもって見るなら、本当は彼女について心に持っているイメージを見ている。それが直接的知覚を防止する、直接的知覚には、認識が要らない。妻、隣人の外的認識はもちろん必要、しかし、なぜ眼、心、頭に過去の介入があったりするのか。それは明確に見るのを防止する。何かについて非難したり、見解を持つとき、その見解や先入観は、観察を歪曲する。
(´・(ェ)・`)

935鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/05(金) 22:44:59 ID:1d4drIFg0
言葉とイメージに拠って過去の記憶から観念が起こるのじゃ。
それが悟っていない者の認識なのじゃ。
それは今ここにあるものごとを観ていないのじゃ。
記憶を観ているだけなのじゃ。
何の分別も無く観ることが気付きなのじゃ。

936避難民のマジレスさん:2020/06/06(土) 00:00:30 ID:2WdNfqJs0
>>935
いつも、簡潔なまとめをありがとうであります。
精進するであります。
(´・(ェ)・`)つ

937避難民のマジレスさん:2020/06/06(土) 00:01:53 ID:2WdNfqJs0
変化の緊要

   冥想とエネルギー 2

質問者 はい、それは分かります。その微細な形態の認識は歪曲するのです。それは分かります。あなたは、これらすべての思考の干渉はエネルギーのむだであると言われます。あなたは、どんな形態の認識、非難、判断もなく観察しなさい、名づけず観察しなさい、と言われます。その名づけ、認識はエネルギーのむだであるからです。それは論理的に現実的に理解できます。そのとき次の点、すなわち、二元性を創り出す観察する者と観察される者・ことの間に存在する分割、分離、あるいはむしろあなたがしばしば表してこられたとおり空間があるのです。あなたは、それもまたエネルギーのむだであり、葛藤、抗争をもたらすと言われます。私はあなたの言われることすべてを論理的だと思うのですが、その空間を取り除くこと、観察する者と観察される者・こととの間に調和をもたらすことを、とてつもなくむずかしいと思うのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。

K 「どのように」はないのです。「どのように」は、機械的になる体系、方式、実践を意味します。もう一度私たちは、「どのように」という言葉の意義を離れなくてはなりません。

質問者 それは可能でしょうか。私は可能という言葉は、未来、努力、調和をもたらそうと奮闘することを含意するのを、知っています。しかし、一定の言葉は使わなければなりません。私たちがそれら言葉を乗り越えられるのを私は願うのです。それで、観察する者と観察されるもの・こととの間の統一をもたらすことは、可能でしょうか。

K 観察する者は観察されるもの・ことにいつも陰を落としています。それで、二つの間の統合をどのようにもたらすのかではなくて、観察者の構造と本性を理解しなければなりません。観察者の動きを理解しなければなりません。その理解のなかおそらく観察者は終わりになるでしょう。私たちは、観察者が何なのかを検討しなければなりません。それは、意識的、無意識的な記憶、人種的、民族的な遺産、知識と呼ばれる蓄積された経験、諸反応をともなう過去なのです。観察者は本当は、条件づけられた事物です。彼は、その人はある、私はあると主張する者なのです。彼自身を保護するなかで彼は抵抗し、支配し、快適と安楽、安全を求めます。そのとき観察者は内的、外的に、自分自身を、観察されるもの・こととは異なる何かとして、分け隔てます。これが二元性をもたらすし、この二元性から葛藤、抗争があるし、これ(葛藤、抗争)がエネルギーのむだなのです。観察者、その動き、その自己中心的活動、その主張、その先入観に気づくには、自分は異なっているという分離主義的感情を築くこれら無意識的な動きすべてに、気づかなければなりません。それは、どんな形態の評価づけもなく、好き嫌いなく観察されなければなりません。ただそれを日々の生のなか、その諸関係のなか観察してください。この観察が明らかであるとき、観察者からの自由がないでしょうか。

質問者 あなたは、観察者は本当は自我であるとおっしゃっています。あなたは、自我が存在するかぎり、彼は抵抗し、分割し、分離する、というのは、この分離、この分割のなか彼は生きていると感じるから、とおっしゃっているのです。それは彼に、抵抗し戦う活力を与えるし、彼はその戦いが慣習となってしまったのです。それが彼の生きる道なのです。あなたは、この自我、この「私 'I' 」が、好き嫌いの感覚のなく、見解や判断のなく、ただ行為のなかこの「私 'I' 」の観察のみがある観察をとおして解消しなければならない、と言われていないでしょうか。しかし、そういうことは本当に起きるのでしょうか。私は私自身をそんなに完全に、真実に、歪曲なく見られるでしょうか。あなたは、私がそんなに明らかに私自身を見つめるとき、「私 'I' 」は全く動きを持たないと言われます。そしてあなたは、これが冥想の一部であると言われるのですか。

K もちろんです。これこそが冥想です。
(´・(ェ)・`)つ

938避難民のマジレスさん:2020/06/06(土) 00:02:51 ID:2WdNfqJs0
くまめも2

質問者 あなたは、観察者は本当は自我であるという。あなたは、自我が存在するかぎり、彼は抵抗し、分割し、分離する、というのは、この分離、この分割のなか彼は生きていると感じるから、と言っている。
それは彼に、抵抗し戦う活力を与えるし、彼はその戦いが慣習となってしまった。
それが彼の生きる道。あなたは、この自我、この「私 'I' 」が、好き嫌いの感覚のなく、見解や判断のなく、ただ行為のなかこの「私 'I' 」の観察のみがある観察をとおして解消しなければならない、と言うのか。
そういうことは本当に起きるのか。
私は私自身をそんなに完全に、真実に、歪曲なく見られるか。 
私がそんなに明らかに私自身を見つめるとき、「私 'I' 」は全く動きを持たないと言う。これが冥想の一部であると言うのか。

K もちろんです。これこそが冥想です。
(´・(ェ)・`)

939鬼和尚 ◆qx3.49AOzA:2020/06/06(土) 23:25:37 ID:1d4drIFg0
>>936 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

940鬼和尚 ◆qx3.49AOzA:2020/06/06(土) 23:33:08 ID:1d4drIFg0
観察する時に観察する者と観察されるものをわけてはいかんというのじゃ。
観察する者こそを観察するべきなのじゃ。
観察する者がどのように観察しているのか理解するのじゃ。
観察する者を観察する事が瞑想だというのじゃ。

941避難民のマジレスさん:2020/06/06(土) 23:43:31 ID:zulUrRnU0
変化の緊要
   
   冥想とエネルギー 3

質問者 この観察は確かに、とてつもない自己修練を要求します。

K あなたの言われる自己修練とはどういう意味でしょうか。自己に拘束服を帰せることにより自己を修練するという意味でしょうか。それとも自分自身(について)、主張し、支配し、野心的暴力的などである自分自身について修学する、それについて学ぶ、という意味でしょうか。学ぶことはそれ自体が修練です。修練という言葉は、学ぶ、修学するという意味です。蓄積ではなく、学びがあるとき、現行の学びがあるとき、それには注意が要るし、その学びがそれ自体の応答する責任能力、それ自体の活動、それ自体の次元をもたらすのです。それで、それに課されるものとしての修練はないのです。学びがあるとき、模倣はなく、順応はなく、権威はないのです。これがあなたが修練という言葉でいわれる意味であるのなら、そのとき確かに学ぶ自由がありますか。

質問者 あなたは、私をあまりに遠く、おそらくあまりに深く連れていっています。私は、この学びが関係するところでは、あなたにぜんぶは付いてゆけません。私は、観察者としての自己が終わりにならなければならないことが、明確に分かります。論理的にそのとおりですし、葛藤があってはなりません。それはごく明確です。しかし、あなたは、まさにこの観察が学びであるし、学ぶなかにはいつも蓄積があると言われています。この蓄積が過去になるのです。学びは付け加えの過程ですが、あなたは明らかにそれに全く違った意味を与えられています。私が理解したところからは、あなたは、学びは蓄積なき常の動きであると言われています。そのとおりでしょうか。蓄積なしの学びがありうるのでしょうか。

K 学びはそれ自体の行為です。一般的に起きることは、学んでおいて - 私たちは学んできたことにのって行為する、ということなのです。それで、過去と行為の間に分割があるし、ゆえに、有るべきもの・ことと有るもの・こと、またはあったもの・ことと有るもの・こととの間に、葛藤があるのです。私たちは、学びの動きこそに行為がありうると言っているのです。すなわち、学ぶことはなすことです。それは、学んでおいてそれから行為するという問題ではないのです。これを理解することがとても重要です。なぜなら、学んでおいてその蓄積から行為することは、「私に 'me' 」、「私 が 'I' 」、自我、またはどんな名を付けたくても、まさにその本性です。「私 'I' 」は過去のまさに本質ですし、過去は現在に触れて、さらに未来になるのです。ここには常に分割があるのです。学びがあるところには、常に動きがあるのです。「私 'I' 」になりうる蓄積はないのです。

質問者 しかし、科学技術の分野には、蓄積された知識があるのでなければなりません。知識なしには、大西洋を飛んだり、車を走らせたり、またはふつうの日々のことのほとんどをすることさえもできません。

K もちろんですね。そういう知識は絶対に必要です。しかし、私たちは、「私 'I' 」の作動する心理的分野について話しているのです。「私 'I' 」は、何かを立場や信望を達成するために、技術的な知識を用いられるのです。「私 'I' 」は、作用するためその知識を用いられるのです。しかし、作用するなかで「私 'I' 」が干渉するのなら、ものごとはおかしくなりはじめるのです。というのは、「私 'I' 」は技術的な手段をとおして地位を探し求めるからです。それで、「私 'I' 」は単に科学的な諸分野に関心を持つだけではありません。それは、何か他のものを達成するためにそれを用いているのです。それは、有名になるためピアノを用いる音楽家に似ています。彼が関心を持つものは、それ自体での、それ自体のための音楽の美しさではなくて、名声です。私たちは、技術的な知識を除かなければならないと、言っているのではありません。反対に、技術的な知識があるほど、それだけもっと良い生活状況があるでしょう。しかし、「私 'I' 」がそれを用いるととたんに、ものごとはおかしくなりはじめるのです。
(´・(ェ)・`)つ

942避難民のマジレスさん:2020/06/06(土) 23:47:27 ID:zulUrRnU0
くまめも3

修練とは、学ぶ、修学するという意味。蓄積ではなく、学びがあるとき、現行の学びがあるとき、それには注意が要る。学びがあるとき、模倣、順応、権威はない。
質問者 蓄積なしの学びがありうるのか。
K 学びはそれ自体の行為。一般的に起きることは、学んでおいて-私たちは学んできたことにのって行為する、ということ。
それで、過去と行為の間に分割があるし、ゆえに、有るべきものと有るもの、またはあったものと有るものとの間に、葛藤がある。私たちは、学びの動きこそに行為がありうると言っている。すなわち、学ぶことはなすこと。それは、学んでおいてそれから行為するという問題ではない。
これを理解することがとても重要。
なぜなら、学んでおいてその蓄積から行為することは、me' 、I' 自我、またはどんな名を付けたくても、まさにその本性。「私 'I' 」は過去のまさに本質だし、過去は現在に触れて、さらに未来になる。ここには常に分割がある。学びがあるところには、常に動きがある。「私 'I' 」になりうる蓄積はない。
科学技術の分野の知識は絶対に必要。しかし、私たちは、「私 'I' 」の作動する心理的分野について話している。
「私 'I' 」は、何かを立場や信望を達成するために、技術的な知識を用いられる。
「私 'I' 」は、作用するためその知識を用いられる。
しかし、作用するなかで「私 'I' 」が干渉するのなら、ものごとはおかしくなりはじめる。というのは、「私 'I' 」は技術的な手段をとおして地位を探し求めるから。
それで、「私 'I' 」は単に科学的な諸分野に関心を持つだけではない。技術的な知識があるほど、それだけもっと良い生活状況がある。
しかし、「私 'I' 」がそれを用いるととたんに、ものごとはおかしくなりはじめる。
(´・(ェ)・`)

943避難民のマジレスさん:2020/06/07(日) 23:30:16 ID:Jqx6nX820
変化の緊要

   冥想とエネルギー 4

質問者 私はあなたの言われていることを理解しはじめていると思います。あなたは、学びという言葉に、全く違った意味と次元を与えられています - それはすばらしいのです。私はそれをつかみはじめています。あなたは、冥想は学びの動きであるし、そこにはあらゆるものごとについて、冥想についてだけではなく、生き方、車の走らせ方、食べ方、話し方、あらゆるものごとについて学ぶ自由がある、と言われているのです。

K 私たちが言いましたように、エネルギーの本質は冥想です。それを違うように言うと - 冥想者があるかぎり、冥想はないのです。彼が他の人たちの叙述した状態や何か経験の閃きを達成しようと試みるなら・・・

質問者 お話を遮らせていただくと、あなたは、学ぶことは常であり、絶え間なき流れ、線であり、そのため学びと行為が一つ、または常の動きであるようでなければならないと、言われているのでしょうか。私はどういう言葉を用いるべきなのか知りませんが、私の言いたい意味は必ず理解なさると思うのです。学びと行為と冥想の間に絶え間があるととたんに、その絶え間は不調和ですし、その絶え間は葛藤です。その絶え間には、観察者と観察されるもの・ことが(あるし)、ゆえにエネルギーのむだ全体があるのです - それが、あなたの言われていることなのでしょうか。

K はい、それが私たちの言っている意味なのです。冥想は状態ではありません。行為が動きであるように、それは動きです。そして、ちょうどいま私たちが言いましたように、私たちが学びから行為を分離するとき、観察者が、学びと行為の間に来るのです。そのとき彼は、隠密の動機のために行為と学びを用いるのです。これが、行為し、学び、冥想する一つの調和的動きとしてごく明確に理解されるとき、エネルギーのむだはないし、これが冥想の美しさです。ただ一つの動きがあるのです。学びは、冥想や行為よりもはるかに重要です。学ぶには、完全な自由が、意識的にだけではなく、深く、内的に、あるのでなければなりません - 全的な自由です。そして、自由には、調和的全体として学び、行為し、冥想するこの動きが、あるのです。全体 whole という言葉は、(語源的に)健全 health というだけではなく、神聖 holy という意味なのです。それで、学びは神聖ですし、行為は神聖ですし、冥想は神聖です。これは本当に聖なることですし、美しさはそれを越えてではなく、それ自体にあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

944避難民のマジレスさん:2020/06/07(日) 23:34:37 ID:Jqx6nX820
くまめも4

K エネルギーの本質は冥想。
冥想者があるかぎり、冥想はない。
彼が他の人たちの叙述した状態や何か経験の閃きを達成しようと試みるなら・・・
質問者 あなたは、学ぶことは常であり、絶え間なき流れ、線であり、そのため学びと行為が一つ、または常の動きであるようでなければならないと、言われているのか。
学びと行為と冥想の間に絶え間があるととたんに、その絶え間は不調和だし、その絶え間は葛藤。その絶え間には、観察者と観察されるもの・ことが(あるし)、ゆえにエネルギーのむだ全体がある。それが、あなたの言われていることか。
K はい、それが私たちの言っている意味。冥想は状態ではない。
行為が動きであるように、それは動き。
そして、私たちが学びから行為を分離するとき、観察者が、学びと行為の間に来る。
そのとき彼は、隠密の動機のために行為と学びを用いる。
これが、行為し、学び、冥想する一つの調和的動きとしてごく明確に理解されるとき、エネルギーのむだはないし、これが冥想の美しさ。
ただ一つの動きがある。
学びは、冥想や行為よりもはるかに重要。
学ぶには、完全な自由が、意識的にだけではなく、深く、内的に、あるのでなければならない。全的な自由。そして、自由には、調和的全体として学び、行為し、冥想するこの動きが、ある。
全体 whole という言葉は、(語源的に)健全 health というだけではなく、神聖 holy という意味。それで、学びは神聖だし、行為は神聖だし、冥想は神聖。
これは本当に聖なることだし、美しさはそれを越えてではなく、それ自体にある。
(´・(ェ)・`)

945鬼和尚 ◆qx3.49AOzA:2020/06/07(日) 23:46:54 ID:1d4drIFg0
通常の学問では習うことと実践は離れているのじゃ。
数学を習って金勘定をするとかのう。
しかし、悟りのための学びは実践そのものなのじゃ。
自分を学ぶことで理解と気付きが訪れるのじゃ。
道元も仏法とは自己を習うことだと言っているのじゃ。
自己を習うことで自分を忘れる忘我も訪れるというのじゃ。

946避難民のマジレスさん:2020/06/08(月) 00:01:34 ID:Jqx6nX820
>>945
鬼和尚、いつもありがとうであります。
ありのままを見ていれることは、ありのままでいいと思えることになり、そこで、また、これで良いのかと、思えてしまうのであります。
そう思えるからこそ、きっと、見続けることができるのでありますね。
たぶん、これで良いのでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ

947鬼和尚 ◆qx3.49AOzA:2020/06/08(月) 22:47:46 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに己を観続けるのじゃ。
東西全ての賢者達の教えであるからそれを実践していれば間違うことは無いのじゃ。
ただひたすらに自己を観察し、蓄積無しに自己を習うと善いのじゃ。

948避難民のマジレスさん:2020/06/09(火) 00:21:22 ID:YNKg7Ogo0
変化の緊要   
思考を終わらせること 1

質問者 あなたの言われる思考を終わらせることは、本当はどういう意味なのかと思われます。私はそれについてある友人に話したのですが、彼はそれはある種の東洋のたわごとであると言いました。彼にとって思考は、最高の形態の智恵と行為で、いのちのまさしく塩分で、不可欠です。それは文明を創り出してきたし、関係すべてはそれに基づいてあるのです。一番偉大な思想家から一番つつましい労働者まで、私たちのすべてがこれを受け入れます。私たちは考えないとき、眠ったり、植物みたいであったり、白昼夢を見ています。私たちは空虚で、鈍く、非生産的なのです。ところが、私たちは目覚めているとき、考え、行い、生き、口論しています。これらが、私たちの知るただ二つの状態です。あなたは言われます - 両方を越えなさい。思考と空虚な無活動を越えなさい、と。これはどういう意味なのでしょうか。

K ごく単純に言うと、思考は記憶の応答、過去なのです。過去は無際限なのか、一秒前なのです。思考が行為するとき、記憶として、経験として、知識として、機会として行為しているのは、この過去です。意志すべては、この過去に基づき、楽しみや苦しみの回避を志向する願望です。思考が作用しているとき、それは過去ですし、ゆえに新しい生活は全くないのです。それは、現在に生き、それ自体と現在を修正している過去なのです。それで、その道には、生に何も新しいもの・ことがないのです。何か新しいもの・ことが見つけられることになるとき、過去の欠如がなければならないし、心は思考、恐れ、楽しみ、他のあらゆるものごとで散らかっていてはいけません。心が散らかっていないときにのみ、今は生じうるのです。そして、この理由のために私たちは、思考は作動しなくてはならないときにだけ - 対象的に、効果的に - 作動して、止まらなければならないと言うのです。継続すべては思考です。継続があるとき、何も新しいもの・ことはありません。あなたは、これがどんなに重要なのか、分かるでしょうか。それは本当に、生それ自体の疑問です。あなたは過去に生きるのか、全く違うように生きるのかのどちらかです。それが論点全部です。

質問者 私はあなたの言われる意味は分かると思うのですが、しかし、いったい全体どのようにして、この思考を終わらせるのでしょうか。私が鳥(の声)を聞くとき、即時にそれはクロウタドリであると語ってくれる思考があるのです。私が通りを歩いていくとき、思考は私は通りを歩いていくと語ってくれ、私の認識し分かるすべてを語ってくれるのです。私が、考えないという概念を弄ぶとき、このゲームをやって戯れるのは、今度も思考です。意味と理解と伝達のすべては思考です。私は他の誰かと伝達しあっていないときさえ、私は私自身とそうしています。私は目覚めているとき考えるし、私は眠っているとき考えるのです。私の存在の全構造が思考です。その根は、私が知るよりはるかに深くあるのです。私が考えて、なすすべて、私の存在すべては、思考です - 思考が楽しみと苦しみ、欲望、あこがれ、解消、決断、結論、希望、恐怖、疑問を創り出すのです。思考は殺害するし、思考が許すのです。それで、どうしてそれを乗り越えられるのでしょうか。それを乗り越えることを探し求めるのもまた、思考ではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ


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