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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
766
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/15(水) 23:05:07 ID:J37r6Elk0
くまめも2
私たちが話してることは、顕微鏡の荒い客観性ではない。慈悲、敏感さ、深さのある状態。修練は学ぶこと。きびしさについて学ぶことは、自身や他人へ暴力をもたらさない。
明らかに見ることは独自の修練。そのためには、制御された視覚ではなく自由が必要。自由の理解は独自の修練。二つは分離不可能。分離するとき、葛藤、抗争がある。その葛藤、抗争を乗り越えるため、意志の行為が存在するに至り、もっと多くの葛藤、抗争を生み育てる。これは終わりなき連鎖。自由は終わりにではなく、始まりにある。
学び自体が敏感さを要求する。もし自身に、境遇、諸関係、身のまわりで、台所や世界で起きていることに敏感でないなら、そのときどれほど自身を修練しても、ますます鈍感に、自己中心的になるだけ。これが、無数の問題を生み育てる。学ぶとは、自身と外側の世界に敏感であること。外側の世界はあなただから。自身に敏感であるのなら、必ず世界に敏感である。この敏感さは、最高の形態の智恵。断片化は敏感さをもたらさない。
敏感さがないのなら、どうして愛せるか。感傷性と情動主義は敏感さを拒否する。なぜなら、それらは恐ろしく残酷であるから。それらは戦争に責任がある。
一日中、眠りの間にも学ぶことは、優しく、速い、独自のとてつもない修練を持つ。これには愛がある。愛は独自の修練を持つ。それの美しさは、訓練され、しつけられ、形作られ、制御され、拷問される心を、避ける。こういう修練なしに、心はあまり遠くに行けない。
(´・(ェ)・`)
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