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床屋政談

1キラーカーン:2008/10/07(火) 22:49:39
床屋政談(大臣と参議と省卿と)

最近では、若林農水大臣が2・3ヶ月の間に3度農水大臣に任命されるという椿事がありましたが、それは、閣議に出席する資格は大臣にしか与えられず、副大臣が代理して閣議に出席することはできず、大臣の臨時代理、臨時兼任はその他の大臣(首相を含む)しか行うことができないという事情によるものです。例えば、海外出張などで大臣が閣議を欠席する場合、副大臣が大臣を代理して閣議に出席することはできません(注1)。
では、なぜ、そういう制度設計になっているのでしょうか。歴史は律令時代までさかのぼります。律令時代、政治・行政を担当するのは太政官と呼ばれる人々でした。現在の内閣制度に関係する範囲において、大きく分けると
1 大   臣:太政大臣、左右大臣、内大臣(、准大臣)
2 納言・参議:(権)大納言、(権)中納言、参議
3 省   卿:○○卿(例:刑部卿)
4 各省の次官:○○大輔、○○少輔(例:冶部少輔)
の4つに分かれます。このうち、上記の1と2を併せて議定官といい、この人たちが律令時代においては国の最高決定を行う者たちでした。彼らを指して公卿と言い、貴族の中の最高ランクでした(注2)。国家の最高方針は議定官との会議(閣議)で決まります。議定官(大臣、納言、参議)である限り、全ての分野における国家の最高方針について発言権があることとなっていました。
 時代は下り明治時代になります。明治維新後、いろいろ変遷はありましたが、結局太政官制をとることとし、議定官は大臣(三条実美など上流階級で明治維新に功績のあった人)と参議(西郷隆盛など下級武士で明治維新に功績のあった人)の2つに収斂していきました。国家の最終方針は閣議で決まることは律令時代と同じです。但し、参議と省卿を兼任するという時代が相対的に大きい割合を占めていました。しかし、天皇を直接補佐(輔弼)する責任は大臣だけが持ち、参議にはありませんでした。その後、
1 省卿は参議を兼任(省卿を兼任しない参議(無任所大臣=内閣班列)を否定しない)
2 参議を大臣に格上げして内閣構成員全員が天皇を輔弼
ということにして、現在まで続く内閣制度が創設されました。
つまり、現在の大臣は、理論上、参議(国務大臣)と省卿(各省の長)の2つの身分を兼ねているとされているということです(注3)。したがって、各大臣は自身の所掌分野にかかわらず、閣議の場で国政全般について意見を述べることができるという権限を持っています(注4)。
 このことから、大臣は各省の長として、各省の事務を次官(副大臣)に委任することはできますが、参議の地位を次官(副大臣)に委任することができません。言い換えれば、各省の長としての仕事(通達の発出や式典への出席)については大臣の代理ができますが、閣議の出席、閣議決定文書への署名という閣議構成員としての大臣の代理はできないということになります。ということで現在では
1 大臣:首相以下各閣僚
2 省卿:首相以下無任所大臣を除く各大臣
(首相は内閣府の長でもあり、その意味で各省の長)
3 大輔:副大臣
4 少輔:政務官、事務次官
ということになるでしょう。
 この大臣としての立場と省卿としての立場のどちらを優先させるかで「政治主導」、「役人に取り込まれた」というような大臣の評価がなされることとなります。

注1 それなら、副大臣を大臣の臨時代理に任命すればよいのではないかという意見が出るかもしれませんが、この場合、副大臣を大臣に任命するわけには行きません。それは、現在、大臣の上限が17人と決まっているためであり、欠員がない場合、大臣でないものを他の大臣の臨時代理に任命する余地がないからです。戦前には、陸軍大臣の病気につき、陸軍次官を臨時に内閣班列(国務大臣)に任命して次官を閣議に出席させた例があります。

注2 議定官のどの職まで出世できるかという観点から公家の家格というものが定まってきました(例:五摂家、九清華、三大臣家)

注3 大臣の定数を守っている限り、無任所大臣や特命担当大臣(昔の大臣庁(防衛庁や科学技術庁など)の長官、現在の金融担当大臣や内閣府特命大臣)の存在を否定するわけではありません

注4 枡添厚生労働大臣が国際政治学者としての識見から、「閣僚として」日本の外交防衛政策について自身の見解を披露することは閣議の構成員である大臣の身分において認められる。しかし、度が過ぎると、閣内不一致や外務大臣など他の大臣(省卿として)の職権を侵したという政治的責任を負うことになります。

2キラーカーン:2008/10/07(火) 22:50:15
床屋政談(予算と法律)

最近では、ガソリンの暫定税率の扱い(価格が25円下がるか否かという問題)で問題となっている予算と法律との関係ですが、この両者の議決については、よく知られているように、衆議院の優越については大略以下のような違いがあります(細かい点については、憲法の規定を参照してください)。おさらい的に確認しておきますと
予算:衆議院の過半数で議決→参議院が否決・両院協議会決裂(30日以内に参議院が議決しなかった場合)→衆議院の議決が優先
法律:衆議院の過半数で議決→参議院が否決・両院協議会決裂(60日以内に参議院が議決しなかった場合)→衆議院の3分の2以上の多数決で再議決
ということで、大きな違いは
1 予算では衆議院の再議決の必要がない(俗に「自然成立」といわれます)
2 みなし否決までの期間が一般の法律では60日であるのに対し、予算では30日
ということになります。
また、予算と法律は形式上無関係です。つまり、予算の議決をもって法律の改正はできません。また、その逆もしかりです。というわけで、予算案の中には法律改正を予定しているものもあります。代表的なものは税金に関するもので、その他には、政府組織の改編というものもあります(今年度でいえば、「観光庁」の新設と「海難審判庁」の廃止→国土交通省設置法の改正)。これらの、予算成立に伴って改正が必要となる法律を「予算関連法案」といいます。
これまでは、(連立)与党が衆参両院の過半数を制していました(参議院は自民党単独過半数ではないため、衆参両院で過半数を制するために自公連立が必要)ので、これらの法案は、予算成立後速やかに成立していました(予算に賛成しておいて、予算関連法案に反対することは現実にはありえません)ので、予算と法律との衆議院の優越の差異は問題とならなかったのですが、今般のような「ねじれ国会」では、予算案と予算関連法案の審議日程上、30日と60日という「みなし否決」までの期間の差異が影響を与えます。
 予算を成立させるだけであれば、2月中に予算案を衆議院通過させれば年度内成立になるのですが、その日程では、予算関連法案の年度内成立が不可能になります。つまり、4月の1ヶ月間だけは、予算はあってもそれを裏付ける法律がない(暫定税率に基づく税金を徴収出来ない)という事態になります。これが、
「4月の1ヶ月間だけはガソリンが25円安くなる」
ということの実際的な意味です。この事態を避けるためには、
1 1月中に予算案と予算関連法案を衆議院で可決→事実上不可能
2 予算案を2月中、予算関連法案を1月中に衆議院可決→これも不可能
(現実に予算が成立していないのに予算関連法案を審議することはできない)
ということで、報道にもあるように、とりあえず、「暫定税率」を延長することでしのぐという「奇手」をひねり出したわけです。

3キラーカーン:2008/10/07(火) 22:51:47
床屋政談(役人のランク)

前回は、首相から事務次官までが対象でしたが、今回はそれ以下の役人のランクについて述べます

役人のランクは、法律で「俸給表」(と「級別職務標準表」)という形で決まっています。本省の代表的な例(「行政職(一)」と「指定職」)でいえば、基本的に以下のようになっています。
別格
官房副長官(事務担当:官僚の総元締めと言われる人)、官房副長官補(事実上、事務次官と同格かやや上)
指定職
8号俸 各省次官、警察庁長官、金融庁長官、統合幕僚長
7号俸 警視総監、陸・海・空幕僚長
6号俸 (警察庁、金融庁長官を除く)庁の長官(国税庁長官や中小企業庁長官など)、次官級審議官(「省名」+審議官:国土交通審議官など。一般的に○○担当次官と英訳される場合が多い。財務官(財務省)や技監(国交省)もここに含まれる)
4〜5号俸 官房長、局長、政策統括官、(技術)総括審議官、陸・海・空幕僚副長、方面総監、自衛艦隊司令官、地方総監、航空総隊司令官、航空教育集団司令官、支援集団司令官、補給本部長、情報本部長
1〜2号俸 部長、局次長、(技術)審議官、地方局長(○○国税局長、○○運輸局長など)、師団長、中央即応集団司令官、護衛艦隊司令官、潜水艦隊司令官、航空集団司令官、教育航空集団司令官、地方総監、航空方面隊司令官、航空混成団司令官、技術研究本部開発官、旅団長、幕僚監部部長、方面総監部幕僚長、自衛艦隊幕僚長、横須賀地方総監部幕僚長、掃海隊群司令、航空総隊幕僚長
行政職(一)
9〜10級 課長、参事官、将補、一部の1佐(大佐)
7〜8級 室長、企画官、1佐(大佐)
5〜6級 課長補佐、専門官、2佐(中佐)、3佐(少佐)
3〜4級 係長、1尉〜3尉(大尉〜少尉)
1〜2級 係員、主任、下士官、兵(曹や士といわれる人々)
となっています。
指定職のところまでたどり着けば役人の世界では一応成功した部類に入ります。また、行政職(一)の7級以上が一般的にいって管理職に該当するかと思います。
一般的には
次官=省名審議官(+財務官、技監)
本省局長=政策統括官=総括審議官(+防衛参事官)
本省局次長=部長=審議官
本省課長=参事官
本省室長=企画官
というイメージになります。審議官にも3段階あるのでややこしいです

4キラーカーン:2008/10/07(火) 22:52:34
床屋政談(politically correctとactually correctとインターネット)

中山前国土交通大臣が舌禍事件で辞任しましたが、JNNのアンケートでは賛否が拮抗しており、「中山つるし上げ」を目論んでいたテレビ番組の出演者は気勢を削がれた格好となっていました。

 結論から言えば、大臣という国政の最高責任者としては(politically correct:「政治家の文法」の世界においては)不適切ですが、その発言には少なからず「事実」が含まれている(actually correct:事実としては(ある程度)正しい)ため、発言自体はかなりの支持を得ている

というところでしょうか。
 成田空港が本来の性能を発揮できないため(「現状で成田の性能は100%発揮できます」や「B滑走路やC滑走路なんて飾りです」ということは口が裂けても言えない)、アジアのハブ空港争いでシンガポールや仁川の後塵を拝しているという現状では「一坪地主」に対して一坪では耕作は不可能ですから「ごね得」といいたい気持ちも分かります。
 また、その思想的背景から日教組に色々問題があるというのも一つの事実でしょう。

といって、「政治家」がそのままの事実を言ってよいかどうかというのは別次元の問題です。竹下元総理大臣の「言語明瞭意味不明瞭」を極致として、政治家は「断言を避けて、聴衆に都合の良いイメージを持たせる」という技術は必要です。
これは、「敵を作らない」という意味でも重要ですし、また、「妥協の余地」を残すという観点からも必要な技法です。

中山氏は、大蔵官僚だった方(奥様も)ですので、そういう「内向きの言葉」と「外向きの言葉」の使い分けは知悉していた筈です。麻生内閣になって、「失言」にはハイエナのように食いつくという「嗅覚」が働いたのかもしれませんが、それにしても・・・です。

ところが、インターネット時代になって、そのような「内向きの言葉」と「外向きの言葉」の使い分けがあいまいになっていきます。よく言われるのが、匿名掲示板における言葉使いであり、「内輪」と思っていたSNSでの発言や、「聞き手」が見えない個人ブログでの「失言」によって電凸を食らったり、ブログが炎上したりするという事象は、この切り口で見れば明解に説明ができます。
その流れに乗って、中山氏の発言も事実としてはあまり間違っていないというところから、「どの場で話したか」というよりも「何を話したか」で評価され、世論調査などでも擁護論が辞任論と拮抗するくらいの割合であるということになるのでしょう。

批判的に言えば、「場による言葉の使い分け」が無意味になる時代であり、
好意的にいえば、インターネットの「フラット化」機能により、肩書きではなく、話した内容で評価される

ということになるのでしょうか。

5キラーカーン:2008/10/07(火) 22:54:42
床屋政談(各省資料提出前の自民党への「相談」と議院内閣制) 投稿者:キラーカーン 投稿日:10/07(火) 22:48

民主党から各省庁へ要求のあった資料は提出前に自民党国対に「相談する」ようにとのお達しが出て、自民党による「検閲」だと民主党側が息巻いておりますが、議院内閣制における与党による行政府(各省庁)の統制はどのようにするのかという観点からすれば非常に面白い題材です。

日本の歴史と伝統に即した与党による政府(各省庁)統制(=政治主導)というのはどのような形態であるのかという意味において、非常に面白いモデルを自民党は提示したのだと思います。

(学術的には正確さを欠きますが)議院内閣制とは、衆議院(下院)において多数を得た政党が大臣その他の政府(各省庁)の要職を占めて、政府を統制するという政治形態です。この政治体制では、与党党首は衆議院多数派の党首と内閣の首長である首相という2つの地位を兼任できることから、立法、行政の双方の長として行動することとなります。

ということで、一般論としては、議院内閣制における閣議は「与党幹部会」と化すのが通例のようです。しかし、現在の日本の内閣は「官僚内閣制」(by飯尾潤氏)とも言われているように、官僚の力が与党議員である大臣(や副大臣、政務官)よりも強いと思われています。このパワーバランスを議院内閣制の本旨に則り、与党有利にしようというのが「政治主導」ということの意味なのですが、この自民党への「相談」問題は日本流の与党による政府(各省庁)統制の実態を明らかにしたともいえます。

そもそも、「官僚内閣制」といわれるのは、内閣制度は「超然内閣」が基本であって、政党内閣(議院内閣制)が(許容はされていたが)定着しかなかった戦前の統治機構(特に515事件以後)を戦後も基本的に引継いだことに由来します。つまり、内閣と与党は別物という意識が現在も生きていることによるということです。55年体制が確立した後、自民党政権で党と内閣の要職を兼ねたのは自民党総裁ただ一人です。
細川内閣、村山内閣では連立各党(村山内閣で閣外協力を表明していた「さきがけ」は除く)の党首は入閣していましたが、最近の自自連立、自自公連立、自公連立では公明党党首は入閣していません。また、自民党三役をはじめとする連立与党の幹部も入閣せず、党と内閣との役割が人的にも分離されています。

そのような役割分担の中で、与党から送り込まれた大臣は役所のトップ(つまり、役人の代弁者)として行動します。単純に言えば、議定官(参議)としての役割を放棄し省卿としてのみの振る舞いをするようになり、世間もそれを当然とみなします。最近の例で言えば、中山前国土交通大臣が日教組などを巡る発言で辞任しましたが、その際に、「『国土交通大臣』がなぜ、文部行政について(『文部科学大臣』でもないのに)発言するのか」ということですが、制度上、中山氏は「参議(国務大臣)」として国政の「全て」にわたって発言することは許されています(「床屋政談(大臣と参議と省卿と)」を参照してください)。勿論、文部科学大臣から「俺の職分を侵すな」という抗議があれば、それは尊重すべきですが。

では、そのような与党と霞ヶ関との関係の中で、与党(自民党)はどのようにして各省庁を統制していたのでしょうか。ここで、「族議員」、「根回し」、というような単語が出てきます。各省庁が国会に期待する最大の機能は、自身(各省庁)が行う政策の担保となる「法律の成立」です。各省庁は自身が起案した法案(いわゆる「政府提出法案」)の成立を期するためには与党である自民党の賛成を得る必要があります。自民党内で、担当部会→政務調査会(政調会)→総務会と段階を追って承認を得ることとなります。この各段階で与党議員から反対意見が出ないようにするために、各省庁の担当役人(といっても局長とかの高いレベル)が各(族)議員に対して法案を「説明」すると言う「根回し」を行うこととなります。
族議員についての、一応の定義は、「部会などに所属してある特定の省庁(の政策決定過程)に対して影響力を有する政治家(群)」ということになります。そのことによって、外務省vs鈴木宗男議員といったバトルや「利益誘導」が行われるということになります。

6キラーカーン:2008/10/07(火) 22:55:03
それなら、与党議員という「仲間」である各省庁に送り込まれた大臣(と副大臣、政務官)がそれらの議員に対して「根回し」すればよいということになるのですが、なぜか、そういう風にはなっていません。(イギリスではこの方式)。これが、「役人と政治家との接触」の制限しようという動きが民主党辺りからちらほら出ています。(例1:「根回し」は各省庁に送り込まれた与党議員が行う、例2:政治家と接触できる官職を制限する)

で、このようにして、与党の合意を取り付けた法律案はめでたく国会審議にかけられることとなります。といっても、ここからも大変で、いつどの法律案を国会審議にかけるかというのは与野党の国会対策委員会の合意によります。与野党対立法案であれば、国会に提出できたけれども、審議入りすら出来ないという状況になり、どの法案を審議するかということ自体が国対の取引材料となります。

野党が、各省庁に対して資料を要求するということは、それをネタにして国会で質問するという意思があるということに他なりませんから、その成り行き次第で、「審議が止まる」こともありえます。このため、野党がどのような資料を要求したかということについて与党の国対が知っておくことは、国会対策(運営上)ある意味必要なこととなります。特に、ねじれ国会である現在、一つの法案を可決するためには最低2ヶ月(参議院によるみなし否決の期間)が必要になり、これまでと比べて格段に時間がかかるようになりました。しかも、全ての案件で「三分の二再可決」という手法も使えないでしょうから、少しでも国会が紛糾すれば、法律案が成立しないということも十分あります(例:ガソリン税の暫定税率)

この問題について、民主党は自民党による「検閲」だと言う追求の仕方をしていますが、追及の仕方を一歩間違えば、与党による政府(各省庁)統制を否定するという「官僚内閣制」を肯定するという諸刃の剣となってしまいます。
個人的には、この国対に「相談」すると言う方法は、いかにも自民党的な解決手法だとおもいます。これが、自民党流の「政治主導」だと言う言い方も可能といえば可能ですので、一概に否定することはできません。民主党の小沢党首は、政権奪取の暁には150人の与党議員を各省庁に送り込むというイギリス流(あるいは政治的任用職が多いアメリカ流)の方法を取ると意気込んでいますが、その政治家が役所の代表(省卿、各省大輔、各省少輔)として振舞えば、現在の自民党政権と同じです。
問題があるとすれば、自民党国対が資料の修正を要求したり、資料の提出時期を変更したりすることでしょうか。前者の意味であれば、辞書的な意味(≠憲法学上)の「検閲」に該当するという批判を浴びても仕方がないと思いますが。

7キラーカーン:2008/10/11(土) 00:29:38
床屋政談(班列国務大臣は復活するのか)

現在の内閣法では、(首相を除く)大臣の上限は原則14人、特例で17人となっています。つまり、内閣総理大臣を除くと
各省大臣:11人
(総務、法務、外務、財務、文科、厚労、農水、経産、国交、環境、防衛)
その他:6人
(法律で、国務大臣を充てることとなっている職:2つ 内閣官房長官、国家公安委員会委員長)
(特命大臣として必ず任命しなければならない大臣:3(2)つ 沖縄担当、北方担当、金融担当。事実上、前の2つは1つの職とみなされ、沖縄・北方担当大臣といわれるのが通例ですが、法律上、必ず1人でなければならないとは限定されていません)
ということで、兼任がなければ、これだけで16(15)人の大臣が必要となります。

つまり、首相が自由に使える大臣の空き枠は「1(2)」しかなく、この枠を増やすためには「兼務」させるしかないということです。

ちなみに、麻生内閣では、沖縄担当と北方担当、財務大臣と金融担当は兼務とされています。そして、その空き枠を利用して、この他に、その時々の情勢に応じて担当大臣(兼務も含みます)が置かれます(麻生内閣の例:科学技術政策担当、経済財政改革担当。過去の内閣で置かれていた例:拉致問題担当、国際博覧会担当)

8キラーカーン:2008/10/11(土) 00:30:05
 ここで、議院内閣制では一般的な手法である「閣議=与党幹部会」という方式を目指すのであれば、イギリスの例に倣えば、幹事長と参議院議員会長の2名の入閣で丁度枠は埋まります。イギリスでは、歴史的経緯から閣僚ポストであるが実務はあまりない枢密院議長、ランカスター公爵領担当大臣、王璽尚書が事実上の無任所大臣として機能していることから、貴衆両院の院内総務(各院における政党の責任者:日本で言うと衆参両院の議員会長といったところでしょうか)という党の要職を占める人物が枢密院議長と王璽尚書に任命され、党と内閣(政府)との一体性を担保しているということになります。
 ただし、与党幹部会という機能を閣議に持たせるには、上記の2名だけではなく、ある程度の人数を入閣させる必要があるでしょう。自民党内閣、民主党内閣ともに最低5名
(自民党:幹事長、総務会長、政調会長、国対委員長、参議院議員会長)
(民主党:幹事長、政策調査会長、国対委員長、常任幹事会議長、参議院議員会長)
を「入閣」させる。必要があります。さらに、自民党では副総裁、民主党では、代表代行、副代表を追加する可能性があります。(現時点で、自民党副総裁は空席ですが、民主党では代表代行2名、副代表7人が置かれています)

 これでは、大臣の数は足りません。といって、大臣の数を増やすということは行(財)政改革の流れに逆行します。また、一般論として閣僚の数が多くなれば、閣議の運営も難しくなります。日本を含めた先進国の例からすれば、20人が一応の限度でしょう。

 ということで、日本でこの方式を取るには
1 複数の閣僚を兼任させて、空き枠を捻出する
2 幹部と閣僚を兼任させる
3 大臣ではないが、閣議に出席させる
という方法しかありません。

 いずれにしても、兼務をさせられる人は激務になるでしょう。とすれば、大臣(閣僚)は国政の大要に専念し、各省のことは副大臣に任せるという事実上の「参議(閣僚)、省卿(各省の長)分離制」という運用を行うことはありえます(明治初期の一時期はこの方式(各省の長は閣僚ではない)でした。各省の長は閣僚ではなかった)。とはいっても、建前と現実は可能な限り一致させることが求められますから、この方法は各省の長は大臣が「兼務」(=各省の長は国務大臣をもって充てる)ということですから、この方法も可能な限りとるべきではありません。ただ、与党党首・首相の女房役と言われる幹事長と内閣官房長官は兼任が可能かもしれません。

 とすると残る方法は「3」ということになるのですが、これが、まさしく戦前における班列(閣議に列席する資格を有するということをはっきりさせるために「班列国務大臣」とも言います)だったわけです。この制度は政府に何らかの役職を持っている人(例:枢密院議長)を前提としていたわけ(大臣に任命されるわけではない)ですが、これでは、政府に役職を持たない人が閣議に列席させられないことになるため、昭和になって正式に大臣として任命され、(無任所)国務大臣といわれるようになりました。

9キラーカーン:2008/10/11(土) 00:30:20
 この役職として利用できそうなのは
1 内閣法制局長官
2 内閣官房副長官
3 総理補佐官
(4 与党の役員と言う資格を持って閣議への列席を許可する)
の3つです。4つ目は、そのような政府の役職がなくても閣議への列席を許可すると言うことになります。

 内閣法制局長官は内閣制度創設以来、閣僚名簿の最後に記載されるという「閣僚待遇」のポストなのですが(現在でも、閣僚名簿には名を連ねます)、このポストは司法試験合格者と同等以上の法律の専門知識が必要とされるため、単なる国会議員では勤まりません。
 内閣官房副長官は現在3人でそれぞれ、衆議院議員、参議院議員、官僚から選ばれます。大臣より隠したですが、省庁再編以前から大臣経験者も起用されると言う重職であり、現在では、閣僚名簿にも名前を連ねるまでになりました。
 ちなみに、官僚枠の官房副長官(俗に、「官房副長官(事務担当)」とも言うわれます)は、旧内務省系といわれる旧自治省、旧厚生省、旧労働省の事務次官、警察庁長官経験者から選ばれるのが通例です。阿部内閣の時の的場副長官は大蔵省出身者だったので「異例」と言われました。
 内閣法制局長官と官房副長官は閣議に陪席することもあったので、この両者が閣議に列席することは不可能ではないでしょう。ただ、大臣経験者が就任することがあるとは言え、官房副長官は待遇では「副大臣相当」なため、与党の幹部としては「役不足」の嫌いがあります。

 では、総理補佐官もその意味では「役不足」には変わりありませんが、首相の好き勝手に任命できると言う点では一番融通が利きます。そして、枠も5人とこの3つでは一番多いので一番可能性があります。それでもというなら、いっそのこと、与党幹部ということで、閣議への列席を認めると言う方法もありますが、それでは際限がなくなると言う懸念もありますので、その意味では現実的ではないでしょう。
 と言うことで、幹事長と参議院議員会長は空き枠の(無任所)大臣として、その他の役員は総理補佐官として閣議に列席を認める(班列)というのが一番現実的でしょうが、

そもそも「班列」を現行制度で認められるかと言う

根本問題が未解決のままではどうしようもないと言う身も蓋もないことになります

10キラーカーン:2008/10/20(月) 22:45:20
床屋政談(与党は過去(実績)を問われ、野党は未来(将来の施策)を問われる)

現在開会されている国会で、麻生首相の施政方針演説が「野党への質問型」ということで話題になりましたが、その型は、異例と言われました。野党に「実績」がないのは当たり前。だからこそ、野党は自党が政権をとった際の「ばら色の未来」を有権者に訴えなければならないのです。ということで、政権選択を目指す争いであれば

「実績」の与党VS「未来」の野党

という軸で争うのが本来の姿のはずです。勿論、未来は過去と現在と無関係に存在するものではなく、過去−現在という時系列の延長線上にあるものですから。潜在的には

与党は実績を元に(実績の延長線上にある)「未来」を訴え
野党は未来を元に(未来の起点としての)「現在」を訴える

ということにはなりますが。この側面からすれば、「現在」(実績VS実現可能性)の土俵に争点軸を設定する麻生首相の施政方針演説は、一種の「禁じ手」に近いものです。
 それはそうとしても、野党の政策の実現可能性について何ら検証がなされず、与党の実績についてのみ批判を加えるというマスコミ(のうちの多数)が存在するという現状からすれば、そのような禁じ手に走るのは、それはそれで仕方がないのかもしれませんが、個人的にはあまり感心しません。

11キラーカーン:2008/11/12(水) 00:32:58
田母神前航空幕僚長の「論文」問題で脚光を浴びた、本来は思想信条の自由との関係で問題になる「政治的中立」ですが、それでもシビリアンコントロールと絡めてこれを論ずるのであれば、法令上は同一の条文で規定されている「政治的中立」を各公務員の実際の勤務形態に即して判断しなければならないということになります。具体的には
1 国立大学の教官
2 防衛大学校など文部省管轄外の「大学校」の教員
3 防衛研究所など、各省庁にある調査・研究(シンクタンク的)機関
4 その他の業務についているいわゆる「公務員」
5 部隊以外(「統帥権」とは関係のない)職務に就いている自衛官
6 部隊(「統帥権」にかかわる)職務に就いている自衛官
くらいには分類しなければならないでしょう。

文部省に属していた国立大学というものが独立行政法人化に伴いなくなったので、現在では「1」の類型の公務員は存在しませんが、「2」との関係の補助線としてまず述べることとします。現実問題として、国立大学の憲法学の教官が自衛隊違憲説や天皇制反対という立場に立つ(=政府見解に反する)ことはあったでしょうが、そのことが「政治的中立」との関係で問題になったということは寡聞にして知りません。つまり、国立大学の教授は政府見解に反する意見を発表しても問題なかったということになるのですが、それは、大学の教官には思想信条の自由だけではなく「学問の自由」というものが保障されているからです。つまり、大学教官は自己の研究分野に関する意見の発表については、事実上「政治的中立」の制限を受けないということになります。(自己の研究分野以外においては、「4」と同じ制限になると考えられます)

では、「2」の類型(防衛大学校の教官など)ではどうでしょうか。防衛大学校は正式な「大学」ではありません。しかし、社会通念上「大学」とみなされている組織です。であれば、自己の研究分野において、かつての国立大学教授と同様の「学問の自由」を認めてもよさそうな気がします。その限界事例が、「自衛隊員」でもある五百旗頭(いおきべ)防大校長が石破防衛大臣を差し置いて福田前首相の安全保障政策のブレ−ンとして動いていたといわれていましたが、そのことも「政治的中立」との関係で問題にされていなかったので、この類型も自己の見解を表明する自由はかなり広い範囲で認められそうです。ただし、よくあるように「個人的見解であって」という旨の注意書きは必要でしょう。
また、「職員教育」という観点からは、政府見解に反する考え方を教えるわけにはいきませんから、その方面の制限はかかるでしょう。上記の「1」の類型ではこの問題は事実上発生しません。

「3」の類型ではどうなるでしょうか。「学問の自由」を享受できる主体として大学教員が該当することは争いがない(この観点では大学教員と高校以下の教員では明らかな差があります)と思われますが、この類型の研究員についても「学問の自由」が及ぶかどうかについては争いがあると思われます。例えば、大学には「学問の自由」に対する制度的保障(「外堀」)として「大学の自治」というものが認められていますが、このような研究機関ではそのような自治が認められていません。現実問題として、研究分野や方向性もその省庁の統制がきつくなってくるでしょう。しかし、自己の研究に対してはある程度の自由を認められてしかるべきでしょう。その場合において上記「2」の類型と同様に「自己の見解であって・・・」という注意書きは必要でしょう。

「4」の類型がいわゆる「公務員の政治的中立」ということになるでしょう。これについては、猿払事件などで国家公務員法の規定は表現の自由などとの関係においても合憲であるとされていますので、法律の規定そのままの制限を受けるでしょう。

「5」の類型は、実際に就いている職務によって「2」〜「4」に応じた制限かかかるということになりそうですが、問題としては、自衛官ということで、将来の可能性として、「統帥権」に関与する職に就く可能性があるということで、その意味で、非自衛官(いわゆる「背広組」)よりは強い制限かかかっても仕方がないかもしれません。ただし、人事上の配慮ができるのであれば、あるいは、自己の思想信条と命令遂行とが分離できる人物ということであれば、同様の職務を行っている非自衛官と同様の制限でよいのかもしれません。

「6」の類型においては、「統帥権」の担い手として、極めて強い制限がかかっても仕方がないでしょう。ただし、思想信条と与えられた命令を遂行するのは別だということであればかまわないのかもしれませんが、「瓜田に靴を入れた」という状態は避けたほうが無難かもしれません。

12キラーカーン:2008/11/12(水) 00:34:14
床屋政談(政治的任用と政治的中立)

田母神前航空幕僚長の「論文」問題で民主党から「統合幕僚長、陸自幕僚長、海上幕僚長、航空幕僚長の4名は国会承認人事にすべき」という提案がなされていますが、この問題は「表面的」には自衛隊法上の「政治的中立」を保つ義務というところから発している以上、その「政治的中立」といわゆる「政治的任用」との間に横たわる問題を解決する必要があります。

日本における公務員の「政治的中立」というものの淵源は第二次山県内閣における文官任用令の改正にまでさかのぼります。
 最初の政党内閣といわれる第一次大隈内閣で、勅任官といわれる高級官僚(本省の局長級以上)の官職が猟官運動あるいは論功行賞の結果として解放され、政党幹部がその地位(のすべてではないですが)につきました。その反動として、その後を襲った第二次山県内閣において、勅任官の任用資格についても一定の試験(高文試験)の合格者に限定したことが、近代日本における官僚(公務員)の政治的中立義務というものの淵源だと思います。

 当時は明治憲法の時代でしたので、その時代の「政治的中立」とは、「政党」などの一党一派に偏らず「天皇の官吏」としてそれらの政治勢力から「超然」とした(中立的な)行政を行うべきという意味でした。
 いわゆる「超然内閣」の「超然」もこの意味です。この場合、「政治的中立」義務は首相以下各大臣までにも及ぶこととなります。議院内閣制が規定された日本国憲法の時代においては、このような意味での政治的中立は最早存在し得ません。各省庁の上司である大臣、副大臣、政務官は基本的に政党員であり、法律上もこれらの官職を占める人には「政治的中立」を保つ義務はありません。従って、大臣の政策がその所属政党に偏った政策であっても(政党政治ではそれがある意味当然なのですが)、公務員は、上司の業務命令には従う義務がありますので、その指示に従わざるを得ません。そして、その「政治主導」により、選挙で示された国民の意思が公務員を縛るという「民主的統制」行うのが現在の政治体制では正しい(あるべき)姿とされています。

 民主党は、政権を取ったあかつきには、各所長の局長級以上の公務員に対し、内閣の方針に従うのか否かの「踏み絵」を踏ませるという案もあります。そして、民主党の方針に従わない局長級以上の幹部は退職あるいは休職ということになります。これは、第一次大熊内閣に限らず、戦前の政党内閣がとった手法です。
 日本国憲法の時代においては、そのような公務員人事への「露骨」な政治介入はこうむいんの「中立性」を侵すものとして否定的にとられていました。

 したがって、公務員の「政治的中立」と「政治的任用」との間には一定の緊張関係があります。漫然としていては、「政治的中立」と「政治的任用」との間の陥穽にはまり込んでしまうことになります。公務員に対して、時の政権の政策に賛成するか否かの「踏み絵」を踏ませることは、一般論として「政治的中立」からは遠ざかります。もちろん、「何色にでも染まる」という意味で「中立」ということも言えますが、おそらく、それは、公務員の政治的中立といった場合の多数説ではないような気がします。

13キラーカーン:2009/05/27(水) 22:31:29
身もふたもないが
178の
>要はこの法律自体が未完成で、みんなを振り回してるってことか
がこの件についての実態を端的に言い表しているのではないだろうか

203の
>刑が嫌なら犯罪を犯さなければ良い。
これがいわゆる刑法の「一般予防効果」といわれるもので、刑法の犯罪予防効果の2本柱のうちのひとつ。予断ながら、この効果がどれほどかということも死刑の存廃論争においても主要な論点の1つ。
ということで、どういう行為であれば犯罪を犯さないということになるのか、裏を返せば

「どのような行為が犯罪行為になるのか」

ということが国民の代表が決めた法律で明確に分からなければならないと一般国民として困るというのも「罪刑法定主義」の実際的な意味の1つ。
この観点からも、法律時の条文をもっと明確(分かりやすく)すべきというのはというのはひとつの方向性だと思う。その場合、

179の「アルコール又は薬物の影響で運転」

だけの構成要件にするべきというのはひとつのたたき台と思う。レスにもあったが、「薬物」だけでは風邪薬も含まれるというのであれば、覚せい剤などの「禁止薬物」に限定するのも一法だと思う。
今回の場合、飲酒運転によって引き起こされた重大事故を「故意」犯に準じて処罰するという立法趣旨については一応のコンセンサスが得られているのだから、当座(法律が改正されるまで)は「判例法」という「不文法」で凌ぐしかない。その意味でも、178のいう「未完成」という言葉が妥当する。

余談的にいえば、日本の刑法で殺人罪に関する条文は1つだけ(過去には尊属殺規定もあったが、意見判決後の長い空文期間を経て条文は削除された)で、事件の態様に応じて裁判官が判決を下すというシステムになっているが、これは、世界的にも異例で、外国から日本の司法を研修に来ていた人から「罪刑法定主義」との関係で問題にならないのかという質問もあった。
 つまり、

裁判官の裁量が広すぎる。殺人の類型に応じて類型化して、各類型ごとに刑罰を定めるのが罪刑法定主義の趣旨からいって適切ではないか

という趣旨の質問だった

例えば、米国では、殺人罪は謀殺(murder)と故殺(Manslaughter)とに分かれ、前者は一級と二級に分かれるので、実質的には三段階の殺人罪がある。後者には今回の危険運転致死罪のような「重過失致死」罪も含まれる。であれば、
199の
>今回は殺人じゃないよ。一緒にすれば、殺人の悪質性が見えにくくなる
という観点から、少なくとも
殺人罪
重過失致死罪(危険運転致死罪のようなもの)
その他致死罪
という位の類型は必要かもしれない。

14キラーカーン:2009/05/27(水) 22:31:55
>故意か過失かは関係ない。
これを、今回の事件に即していえば、理由はどうであれ、人を死に至らしめたのだから殺人罪ということになるのだか、これがいわゆる

「結果無価値論」

という考え方。
その一方、人が、罪を犯そうという意思から発した行為こそが罰するに値するという考え方が

167の「行為無価値論」

ということになる。現状では、後者の行為無価値論が基礎となっており、それが広く受け入れられていることから、このスレでも飲酒運転での事故は「故意か過失か」ということが主要な論点の1つとなっている。故意がなければ、罪に問えないのだから学術上では、「過失犯」を刑法で罰するべきかという議論さえある。派生的な問題として「不真正不作為犯」(喧嘩の現場に通りかかったが、そのまま通り過ぎたため、けが人(死者)が出た行為を傷害罪や殺人罪に問えるか)という問題もある。
しかし、最近では、犯行動機が理解を絶するような犯罪が増えてきているので(例:秋葉原通り魔事件)、結果無価値論が盛り返してきている状況ではないか。

また、203のように
>24歳で過失を犯した彼は、この先家族を持つことも出来ず
>おそらく40半ばで出所した後も不幸な人生を送るでしょう。
ということが社会的コンセンサスとしてあり、実際そうなるのであれば、厳罰化の流れは止まる。しかし、現在の日本社会では、そうではなく、名前を変え、フリーターとして経歴を「白紙」にしておけば、「ワーキングプア」並みには生きていけるのだから、それは、「前科者」としての「不幸な人生」にならないというコンセンサスがなんとなく出来上がっているから、184の言うように
>罪=罰=社会的制裁+刑罰
の社会的制裁の部分が減少しているので、その穴埋めとして厳罰化の風潮があるということだと思う。

15キラーカーン:2009/06/01(月) 22:20:39
>152で再発防止に関する意見をコメントしたけど、だーれもコメントせず。

 言い訳がましく言わせてもらえれば、「あまりにも当然のことは、議論にもならず、記録にも残らない」ということだと思います。この議論も、「識者」のコメントが当たり前では「なかった」ことに起因しています。コメントがつくのは、ある意味、

そのコメントが、当たり前ではないと思っている人がいる

ということでしょう。
で、私自身はその再発防止策に基本的には賛成です(酒税の増税は少し留保)。
 余談的にいえば、名神高速道路では高速運転のために直線区間が多くしたため、居眠り運転が多くなったので、以後の高速道路は意識的にカーブなどを入れているようです。
 本来、事故を起こさなくても、飲酒運転自体が禁じられているので、

危険運転=飲酒運転+重大な結果(事故)
(被害者を救護しなければ、さらにドン! として、「逃げ得」をなくす。)
(もちろん、懸命に救護した人は情状酌量を与えるべき)

でよかったのではないかと思います。ただ、この理論を突き詰めると、無過失責任、結果責任、ひいては結果無価値論の肯定(つまり、故意又は過失の存在を問わない。せいぜい、飲酒を「故意」と同等に扱うというところ)まで突き進んでしまう可能性があるので、現行の刑法理論との間にかなり懸隔があるとは思います。
 なぜ、そんな条件が入ったかは分かりませんが、飲酒と交通事故の間に直接的な因果関係がなければならないとでも思ったのでしょうか、それとも、対象行為があまりにも拡大すること(極論すれば、「国民総犯罪者化」となる)を恐れたのでしょうか。

個人的には、この事件は最高裁の判断を必要とする事案だと思います。

240の
>批判すべきは立法府で、一審の判事ではないはず

はそのとおりで、コメント「240」の全体の流れも現時点では異論を唱える次元ではないです(細かいレベルまでいけば、異論が出る可能性はありますが、現段階では、そのレベルに達していませんし、達する必要もないと思います)
 とはいっても、立法府も完璧ではありません。そういったことを司法(裁判所)が穴埋めするというのも三権分立の実際的な運用ではないかと思う次第です。これも、細かく言えば、「裁判所による立法行為」であり、国会(立法府)の権限を侵しているのではないかという論題は十分成立するのですが、立法府が作ったできの悪い法律を裁判所が専門家の目から見て、「実際に使える」ように支援することがあってもよいと思います。
 米国では、国会議員だけしか法案提出権がないので、国会議員が関連法律との整合性を図らずに法案提出をして、可決成立することがよくあるとのことです。そして、裁判所はそういう法律の「交通整理」を行う役目も担っているとのことです。(日本では政府提出法案は、既存の法律と齟齬をきたさないように、主管省庁、内閣法制局で徹底的にチェックされます。

 今回の事例については、立法趣旨からいって危険運転致死罪を適用すべきだとは思いますが、条文があいまいに過ぎるという批判を回避するために、最高裁で何らかの基準を示すべきだと思います。
 レベルは違いますが、いわゆる「永山基準」というものも、死刑に値する「一級殺人」とそれ以外の「二級殺人」とに分ける「判例法」として機能していたわけです(221のコメントのように、日本の刑法上一級殺人、二級殺人という区別はありません)。その意味で、221の

>当座(法律が改正されるまで)は「判例法」という「不文法」で凌ぐしかない

となると思います。もちろん、その最高裁の判断を受けて、立法府が刑法を改正するというのが、わが国における、好ましい、「三権分立」の運用になるのではないかと思います。

16キラーカーン:2009/06/03(水) 22:39:11
「副大臣・政務官」の機能不全

今回の新型インフルエンザで、「大臣の負担が大きい」と厚生省の分割案が出ました。結局沙汰止みになりそうですが、本来、こういうときのために副大臣、政務官がいて、大臣を補佐して、政治家の主導力を発揮するのが「省庁改革」、「政治主導」の本誌だったはずです。

今回の事例では、大臣の性格(「俺が、俺が」という性格らしい)も原因で、大臣が「一手に引き受ける」ということになってしまいましたが、こういうときこそ、大臣と副大臣が業務を分担して乗り切るべき事案だったと思います。でなければ、何のための副大臣制度かということになります。

しかも、副大臣は、大臣並みの「認証官」(内閣によって任命され、天皇陛下によって認証される)という最高の格式なのです。
(実際にはその上に、首相と最高裁長官が「天皇陛下から任命される」いわゆる「親任官」とされていますが、公式には「親任官」という官職はなく、事実上、「認証官」と同一の扱いとなっています)

といっても、記者会見などで「大臣を出せ」と息巻く輩も出てくるでしょうから、そういう場合には、受け手も「副大臣」に相応の敬意を払う必要があるでしょう。受け手が納得しないから、大臣が対応せざるを得ないという「逃げ道」を作られないためにも。

17キラーカーン:2009/06/06(土) 00:50:11
 法律学では自然科学のような厳密な法則というものはなく、271の言うように、法解釈や法理論には論者の「何を正義とするか」という「イズム」言い換えれば「主観」が入り込みます。刑法では

結果無価値と行為無価値
応報刑主義と教育刑主義

というように。この理論の対立は、自然科学のように「決着」することはありません。しいて言えば、どちらが「社会通念」に近いかという、「感情論」あるいは「多数決」の次元で決められるものであるため、社会構造が変化すれば、優劣が逆転することもあります。
 このようなことは自然科学ではありえません。自然科学では種々の仮説があっても正しいものは正しいし、間違っているものは間違っているという判定が「論者の主観」とは無関係に決定されます。

18キラーカーン:2009/06/13(土) 00:08:42
犯罪の成立には故意の存在を必要とすることを原則とする「行為無価値」を突き詰めると、その故意を処罰するのが主目的なので、犯罪の結果は量刑には影響を与えないということになります。
つまり、純粋な行為無価値理論では、

人を1人殺しても、3人殺してもそのこと自体では量刑に影響を与えない

ということになります。
日本の刑法では、犯罪の成立は故意の存在が前提であり過失犯は例外(刑法38条)で、未遂犯も既遂犯と同様に処罰できますが、刑法、善悪の弁別能力がない場合(心神喪失)あるいは劣っている場合(心神耗弱、未成年)の場合には刑罰が免除あるいは軽減される(刑法39条)というのがその例です。
光市の事件や名古屋の事件のように、被害者の数に関係なく、悪質なものは死刑という裁判例が出たことは、この行為無価値の原点に戻ったということがいえます。

しかし、現実にはそうなってはいません。永山基準にも見られるように、生じた結果によって刑罰が重くなるというのが一般的になっています。この限りにおいて、行為無価値を基準とするが結果無価値的な観点を取り入れているということになるでしょう(尤も、故意の悪質性と結果の重大さは比例する(正の相関関係にある)という論理構成も可能だとは思います)。いずれにしましても、量刑の決定については、事実上、横軸に「故意、過失のレベル」、縦軸に「結果」をとった二次元の座標上で決定されるということです。(例:故意過失レベル4、結果レベル4の事件と故意過失レベル6、結果レベル2の事件では前者のほうが罪が重くなる(=原点より遠くなる)

故意犯より過失犯の方が刑罰が「常に軽い」というようなことはなく、
316の
>3、故意より過失が重く処罰されるのは法律的にそもそもおかしい
についてはこの見解に賛成です。そもそも、殺人罪の最低が懲役5年で、危険運転致死罪の最高刑が懲役20〜30年ですから、極端な例を選択すれば306の言うように

危険運転致死罪>殺人罪

となる場合があるということは、刑法自身が許容しているということになります。少なくとも、危険運転致死罪に問われる程度の「重過失」であれば、「故意」との差は「逆転可能」というのが刑法の下している価値判断です。

19キラーカーン:2009/06/13(土) 00:09:04
同様に
>過失犯で結果の重大性から重罰を下すのはおかしい
についても現行刑法でも「結果的加重犯」という概念はあります。
端的な例は「傷害罪」と「傷害致死罪」(「○○致死罪」の類)です。一般的にいって、この二つの罪は「故意」のレベルでは同等です。しかし、不幸な偶然で被害者が亡くなったという結果によって罪のレベルが上がってしまうということです。
したがって、危険運転であっても事故を起こさなければ、単なる「飲酒運転」であり、人身事故の発生という結果によって罪が重くなるということも現行刑法上では奇異なものではありません。

とはいっても、最近の「体感治安」の悪化は、
・「通り魔殺人」に代表されるような犯罪動機が理解できない「結果が甚大」な犯罪が多くなっているために
・そういう動機が理解できない犯罪の方が「心神喪失(耗弱)」による無罪(減刑)を主張しやすく、結果として「いつ被害者になるか」という恐怖が増幅される(本件の「危険運転致死罪」もその延長)
が原因と思われるため
・「社会秩序の安定」という刑事裁判の目的からすれば、(動機よりも)結果の甚大さを以って処罰する「結果無価値」的主張の説得力が増大する
というような社会情勢となっていると考えられます。

20キラーカーン:2009/06/19(金) 23:37:31
また、法律学をかじった方の「上から目線」が炸裂しているようです。
以前にも

>法律用語らしい事を言ってる人(中略)たちは
>何で人を馬鹿にした話しかできないんだろう。
>本当に詳しいんだったら、(以下略)

>社会常識から来る思いと刑法理論とが乖離(中略)
>この隙間を埋めていく努力を法律のプロたちが怠るならば
>「机上の空論」「専門バカ」との陰口(以下略)
というような指摘がありましたが

専門家とは、その専門知識を持って、専門的知識が必ずしも十分でない市井の人々の思いを専門的な議論に「翻訳」し(吸い上げ)て、専門家同士の議論に耐える素材として「料理する」ことが求められています。
このスレでも、そのように、市井の人々の思いを「感情論」と【馬鹿にして】【切って捨てる】ではなく、その「感情論」を専門家の言葉に翻訳して議論に耐えるネタとして提供しようとしている人はいます。
市井の人々との議論においては、専門的知識は市井の人々と専門家とをつなぐ道具として使うべきであって

専門的知識の欠如を以って、議論する資格がないと
「排除する」あるいは「馬鹿にする」

ために機能しているわけではありません。
人権派弁護士をはじめとする法律の専門家といわれる、あるいは、法律学を「かじった」人の議論が

>>専門的知識を楯に、
>>市井の人々の思いを【無 視 し】【見 下 し】【馬 鹿 に し】
>>自らの専門領域に閉じこもって、
>>現実を全く反映していない偏ったイデオロギーを
>>さも「中立的な正義」のように
>>市井の人々に押し付け、

現実との齟齬を指摘されると

>>現実が間違っている、
>>専門的知識のないものの戯言は聞くに値しない

と嘯(うそぶい)いて、市井の人々の声を無視するような傲岸不遜な態度をとるから、光市の事件における弁護団に対する批判や「人権派弁護士」に対する批判のように

>>「法曹の常識は社会の非常識」
>>イデオロギーのために「人権」を利用している

という批判を浴びることになるのです。
そして、現在の状況においては、その批判は大筋において当たっていると断ぜざるを得ません。それは、冒頭で引用したこのスレッドにおける書き込みにも妥当します。

例えば、法哲学を専門にする、名古屋大学の大屋准教授は

>interconnectivity principle、
>(中略)法は社会を運営する仕組みのうちの一つで
>(中略)他のさまざまな仕組み(たとえば宗教や市場や伝統的秩序)
>と相互に関連して存在している
>(中略)「社会の法に対する優越性」を承認し、
>(中略)社会の中で所期の目的を果たす手段の一つとして
>法改革を位置付けなくてはならないと

とある学者の見解を自らのブログで好意的に引用しています。
最近の弁護士はこの

「相互に関連して存在」

というのを忘れているのではないでしょうか。
このため、弁護士(に代表される法律の専門家)には現代社会の現状に応じた「法律的な解決策」を生み出す能力が決定的に欠けていると断ぜざるを得ません。自らの専門敵領域に閉じこもって、社会のために法律学を役立てるというという法律家としての使命を忘れ去っているのです。それが

>>光市の事件における「弁護団バッシング」に対する拒絶反応
>>刑事裁判にかけて欲しいと起訴を求める一般国民の権利を
「権力の味方」と切って捨て
>>本件のように「殺人でもこんなに重くない」

という「非常識」なコメントになって、市井の人々から「法律家は社会のゴミ」といわんばかりの嘲りを受けるのです。

21キラーカーン:2009/09/07(月) 22:29:27
床屋政談(国務大臣と各省大臣と与党協議会)

民主党と国民新党、社民党との連立協議の中で、社民党が
「内閣と別に与党協議会を設けて、そこで連立政権としての政策決定をすべし」
という要求を出していますが、民主党(鳩山代表)は、「政策については内閣で一元的に決定を行う」として社民党の提案に難色を示しています。この部分については、「官僚内閣制の打破」を掲げてきた民主党(鳩山代表)に分があると思われます。といいますか、現在の民主党案でも社民党の要求に応えることは十分可能です。
 結論を言えば、社民党は(国務)大臣の何たるかが分かっていない。
 かつて、「床屋政談(大臣と参議と省卿と)」で、
>各大臣は自身の所掌分野にかかわらず、閣議の場で国政全般について
>意見を述べることができるという権限を持っています。
> このことから、大臣は各省の長として、各省の事務を次官(副大臣)に
>委任することはできますが、参議の地位を次官(副大臣)に
>委任することができません。
と書いたことがあります。現代風に言えば、
参議→国務大臣(行政法学では「狭義の無任所大臣」。「班列」も含む)
省卿→各省大臣(行政法学では「主任の大臣」。)
ということになります。この中間として「主任の大臣=各省大臣」ではないが「内閣官房長官」、「国家公安委員長」など担当職務が明確で、純粋な意味での無任所大臣では「ない」大臣(かつての「防衛庁長官」など)大臣がいます(この場合の主任の大臣は総理大臣になるのが一般的)。
 「官僚内閣制」という言葉をこれに即して解釈すれば、

現状の大臣は、国務大臣ではなく各省大臣として振舞うことにより、結果的に「役人の代表」となっている

といえます。
 そこで、各省の代表ではない「各省大臣」ではなく、もっと政治家として大所高所から国家行政をリードする「国務大臣」として振舞えというのが「政治主導」ということの分かりやすい言い方になるかと思います。
 ここからが本題ですが、現行制度でも、連立各党の党首が入閣すれば、社民党の要求の殆どは実現可能です。つまり、入閣した各党党首が「国務大臣」として国政全般に閣議の席で積極的に議論すればいいだけのことです。それだけで、閣議=与党党首級協議会として機能させることは十分可能です。また、閣議決定は原則として「全会一致」ですので、連立各党の「拒否権」は担保されています。勿論、閣議決定を多数決で行うことは可能ですが、そのような事態になれば連立崩壊になるでしょうから、そういう事態は考慮しなくてもよいでしょう。また、閣議で全党首の合意があった上での多数決が必要条件(=国連安保理方式)という「連立内閣としてのルール」を設けることは可能です。
 とはいっても、ボトムアップ型の意思決定が殆どでしょうから、連立各党の党首が入閣しただけでは、与党協議会としての機能は不十分です。言い換えれば、党三役級、それ以下という重層構造も必要でしょう。その観点からすれば、「国家戦略局」に連立各党の代表を加えるというのは妥当な解決策だと思われます。

 連立各党の代表が加わった国家戦略局での合意事項を最終的に閣議兼与党党首会談で決定する(さらにいえば、閣議を「全閣僚出席」ではなく、関係閣僚だけでも開催できるようにするという「微修正」(例:安保会議(決定)=閣議(決定)とする)があってもよいかもしれません)という内閣=与党党首会談兼与党幹部会という意思決定システムにすることで、内閣の一元的意思決定システムというのは担保できます。問題は、そういう一元的意思決定システムへの志向とは反対の志向を持つ(と思われる)小沢一郎が幹事長(民主党「留守家老」)として、どういう横槍を入れてくるかということになります。

22キラーカーン:2009/09/07(月) 22:29:43
 このようなことが成立する条件として、

閣議が議論の場として機能すること

が挙げられます。閣議が、これまでのように、下から上がってきた案件の追認機関、そして、内閣の統一を誇示するために、実質的な議論を封じ込めるのであれば、内閣による政策一元化なるものは画餅に帰します。そして、そのように、閣議で議論を起こさず、統一を誇示するために必要だったのが、事務次官等会議だったわけです。
 鳩山内閣が、内閣で政策一元化を図るのであれば、閣議そのものを議論の場として活性咲かせることが必要となります。
 ここでも、戦前の内閣を参考とすることができます。戦前の内閣には、総理大臣の人事権が事実上及ばない軍部大臣という明らかに異質な勢力の代表者が存在していました。このため、軍部大臣は閣内での火種になりやすく、場合によっては内閣崩壊の原因となったりします。その顕著な例が「軍部大臣現役武官制」による内閣崩壊だったりするわけです。逆に言えば、陸軍大臣を閣内で統御できれば、政権そのものは安定します(但し、一般的に軍部大臣より両総長のほうが軍人としての序列が上であり、両総長は「統帥権」の輔弼権者であるため、事はそう単純でもありません。余談的に言えば、戦前の日本で(現役)軍人首相が多かったのは、(現役)軍人としての序列に由来する権威で大臣総長を統御することが求められたため)。
 そのように、内閣が緊張感を持った場であれば、政策一元化の最高機関として、内閣は実質的意味を持ち、閣僚も、各省大臣だけではなく「国務大臣」として国政全般に関与しているという自覚が出てくることでしょう。

23キラーカーン:2010/04/14(水) 09:34:26
 今般、鳩山内閣で法令解釈を担当する枝野国務大臣の補佐として古川内閣府副大臣を充てるという人事が発表されましたが、そもそも、こんな人事を充てるのは、政治家の「体面」を慮った人事でしかありません。なぜなら、内閣法制局長官に枝野大臣か古川副大臣を充てれば済むからです。

 戦前(明治憲法体制)において、内閣法制局長官は閣僚の一員でした。従って、戦前の政党内閣の時代においては、法曹資格を持つ与党の国会議員を内閣法制局長官に当てたという例もあります(例:「反軍演説」で有名な斉藤隆夫)。その名残で、現在においても内閣法制局長官は認証官では 「な い」 のにも拘らず閣僚名簿の末尾に名を連ね、閣議にも常時出席できるという認証官で 「あ る」 副大臣にも認められない特別な待遇が認められています。

 内閣法制局長官は、法律案、政令案などが正式決定される閣議の場において法律の専門家として説明するという任務を負っています。このため、自民党政権では、憲法や法律に関する政府統一見解は内閣法制局長官によってなされるのが通例でした。

 このため、内閣法制局長官は内閣と進退を共にする(引き続き務める場合でも、内閣交代辞表受理、再度の任命という手順を踏む)というのが慣例でした。法令解釈も「政治主導」というのであれば、戦前のように、法曹資格を持つ与党の議員を内閣法制局長官(と次長)に任命すべきです。それを、「認証官ではない」、「給与が副大臣(次長は事務次官)並み」だから、内閣法制局長官や次長に任命しないというのであれば、体面だけの理由でしかありません。尤も、内閣法制局長官は閣議において法律的事項について「のみ」発言権があって、国務大臣のように全ての事項に発言権があるというわけではありませんから、そういう観点で配慮が必要になるというのは否定しませんが・・・。

24キラーカーン:2010/04/27(火) 00:43:02
 またまた、事業仕分けが話題になっていますが、今回は、この事業仕分けについて、少々小難しく(衒学的に)解説してみたいと思います。

 組織におけるお金の効率的な流し方については「PPBE」という考え方があります。このPPBEとは何かといえば
P:Plan(計画)
P:Project(事業)
B:Budgeting(予算)
E:Execution(執行)
というもので、組織(ここでは「国」)の行なう事業を
1 計画(方針)を打ち上げ
2 その計画に基づいた事業を立案し
3 その事業を行なうために必要な予算をつけて
4 ついた予算を適切に執行する
の4つの段階に分類し、そのそれぞれを効率的に行なうことによって、結果として、限られたお金を最大限に活かすということにつなげるという考え方です。
 このPPBEがきちんと機能しているか否かを判定するには簡単に言って
ア 決定された計画に過不足無く対応した事業が決定され
イ 各事業に配分される予算が予算策定当時で費用対効果が最適なものであって
ウ 予算の執行も適正に行われている
ということが条件となります。

 国の事業については、これらの決定過程が全てが国民に対して必ずしも明らかになっているというわけではなく、特に、
イ (「事業」)については、各省庁の政策決定過程
ウ (「予算」)については、予算要求における財務省(と各省庁との折衝)過程
にうずもれて、「ブラックボックス」と化していたといっても過言ではない状況にありました。もっとも、
(1) 「計画」については、政治家の公約や法律案の審議
(2) 「予算」については、国会における予算案審議
(3) 「執行」については、道路工事など
によって、一部国民の目に触れるものがあるといっても、そして、情報公開法やパブリックコメント制度などである程度国民の目にさらされることになりましたが、依然として、国民の目からあまりよく見えてなかったかと思います。

 そのような中で「事業仕分け」というものは、上記の
P:Project(事業)
B:Budgeting(予算)
について、「可視化」される領域を拡大するというものでした。そして、この発想自体は、野党時代から民主党が訴えてきた「行政の可視化」というものに沿ったもので、その点に対する国民の期待も高かったことからこそ、民主党が政権を獲得した後に手をつけた政策の中で

「始めて」 だからうまくいかないことがあったとしても、 長 い 目 で見ていこう

という「気にさせる」唯一といってよいものだったのです。

25キラーカーン:2010/04/27(火) 00:43:16
 しかし、この「事業仕分け」を行なうことによって、政権奪取後の民主党の根本的な欠陥も明らかになりました。それは

Plan(計画)と「Project(事業)及びBudgeting(予算)」との連携が取れていない

ということです。もっと辛らつに言えば、

「事業仕分け」に必要な 国 家 戦 略 が 不 在 

ということです。
 事業仕分けを行なうには、その事業が国家戦略に従って立案され、その事業目的が「仕分け人」に共有されていなければなりません。その端的な例がスパコンの事業で国会議員の仕分け人の言い放った「なぜ、一番でなければならないのか」という言葉であり、防衛省の事業で、一部の民間の仕分け人が「国防計画が決定されていない以上、仕分け人としては判断できない」と意見をつけたことです。
 前者は「技術立国日本」という、民主党政権になっても維持されている、ある意味、戦後日本の産業政策の根本である基本国家戦略との整合性を無視した「事業仕分け」であり、後者については、民主党政権下で、防衛分野における国家戦略が欠落しているということを端的に指摘したということです。
 この、事業仕分けにおける「計画」と「事業」(予算)との不整合に多くの国民は昨年の「第一回事業仕分け」の段階から 「本 能 的」 に気づていた訳です。だからこそ、

主旨には反対しないが、結果には満足していない

というのが、昨年の事業仕分けに対する国民の一応のコンセンサスだったと考えられます。
 この、「計画」(国家戦略)とは何かということを国民の前に提示することなく、二回目の事業仕分けに臨んでも民主党(鳩山内閣)の支持率向上には繋がらず、逆に、民主党政権の「国家観」のなさ、あるいは、「国家戦略」の無さが浮き彫りになるという「墓穴」を掘る事態になってしまいます。
 地方自治体で、なぜ、この「事業仕分け」という手法が効果的だったかといえば、私が想像するに

日本では、いまだに国家の権限が強く、地方行政レベルでは「計画」は所与の前提として与えられており、地方自治体自身で決められることは少ない
(従って、「計画」と「事業」(予算)との整合性を図り易い。また、「計画」の不在が問題になることが少ない。)

ということだろうと思います。言い換えれば、だからこそ「地方分権」ということが政治課題となるのです。
 逆に、国家レベルでは、「計画」そのものを国が決められる (鳩山内閣に 「国 家 戦 略 担 当 大 臣」 がいるのがその証左)ことから、事業仕分けの前提としての「計画」とは何かということについて、国家自身に跳ね返ってくることとなります。
 つまり、事業仕分けが政府、国民から双方からみても所期の成果をあげていないのは、民主党自身がきちんと「国家戦略」(例:成長戦略)を描けていないことにあるのです。その「国家戦略」が不明確あるいは非現実的なものであるから、各種政策の連携・整合性が無く、事業仕分け自体が「自己目的化」してしまい、鳩山内閣が迷走しているということになります。

26キラーカーン:2010/05/13(木) 01:44:27
床屋政談(総選挙と内閣総辞職)

 今月6日、我が国の現在の政体である小選挙区・議院内閣制のルーツといわれている英国で総選挙がありました。選挙結果は、保守党が第一党となったものの、過半数に達せず、英語で言う「Hang Parliament」という事態になりました。

 我が国では、衆議院の総選挙が行われた後に召集される特別国会で内閣は 「自動的」 に総辞職します。しかし、英国では、総選挙に敗北しても内閣総辞職する必要はありません。ということで、総選挙後の情勢が固まるの(保守党と自民党との連立)を見定めてブラウン首相は辞職することとなりました。

 このため、英国首相は法律の文言上 「総選挙に勝つまで」 解散を連続して行うことができます。しかし、現在の憲法の運用では、そういう解散総選挙については国王が拒否権を発動できることになっており、それが、「慣習法」の域にまで高められています。
(ちなみに、このような権限(大権)が残っているのが「立憲君主制」であって、そもそもそのような権限が憲法上認められていない天皇陛下は(本来的な意味での)立憲君主では「ない」というのが日本の憲法学の多数説。)

 我が国では、衆議院の総選挙後に内閣は確実に総辞職するため、総選挙で敗北した(過半数を維持できなかった)首相が連続して解散総選挙を行うことは不可能となっています。

 英国でこのような状況(三党鼎立)になったのは、第一次大戦前後、当時の二大政党の一角であった自由党が凋落し、そのあとを埋めるように労働党が躍進していった時期以来です。その後、自由党は小政党として存続し、そして、労働党からの脱党組を吸収したのが現在の自由民主党ということになります。

27新八:2010/05/14(金) 21:14:32
ここに来て、私は、無党派層とか言われる「投票行動をする静的な多数派」が
政治に対して、何を期待しているのかが、今後の日本を考える重要な視点では
ないかと考えるに至りました。


当たり前だと言われれば、それまでなんですけどね。
ほんとにみんな、子供手当欲しいのかとか、高速道路タダがいいのか、ダムなんか
なくてもイイと思ってるのか。
なんか、聴いてまわった見たくなったんですよ。

28キラーカーン:2010/06/05(土) 02:16:27
床屋政談(首相の辞任と各大臣の進退)

新八さんから
>>首相辞任という報道なのに、その他の閣僚の辞意なんて、
>>全く聞こえないって何よ

という投稿が
「我が方としては、最悪の選択かも」
スレにありましたので、一応

法制度的に言えば、首相が辞任したと同時に内閣総辞職になるため、
その他閣僚はあらためて辞意を表明することはない

と答えておいたことに関連する若干の解説です。
日本国憲法では内閣総辞職に関する規定が第60条と第70条にあります。簡単に言えば

1 衆議院で内閣不信任案が可決(内閣信任案が否決)された後、10日以内に衆議院を解散しない場合
2 内閣総理大臣が欠けた場合
3 衆議院総選挙後初めて国会が召集された場合

となります。
 「1」と「2」はわかりやすいですが、「3」の場合は与党が勝利した場合は事実上分かりません(例:郵政解散)。このような場合、現在の首相が再任されるのは確定的ですが、一度内閣総辞職を行なうことになります(つまり、1つの内閣は衆議院議員の任期である4年を越えることはできない。選挙をはさんで、第X次内閣、第X+1次内閣となります)。
 「2」の類型に含まれるのが、一般的には「首相の自発的な辞任」と「首相の死亡」ということになります。特殊な例として、「首相が人事不省に陥って回復の望みがない場合」と「首相が選挙で落選した場合」があります。前者は、小渕首相(当時)が倒れた際の内閣総辞職の理由として挙げられたものです。後者は、まだ実例がありません。
 今回の場合は上記「2」に該当するために内閣総辞職となります。

 戦前は、首相を含む各大臣は天皇から「個別」に任免されるため、制度上首相の単独辞任では内閣総辞職とはなりません。名実共に内閣総辞職となるためには、首相を含む全閣僚の辞表を取りまとめて天皇に辞職を願い出ることとなります。従って、戦前においては、変則的な自体ですが、首相の辞表だけを受理し、しかるべき人に首相兼任を命じて、その他の閣僚を辞表を差し戻して留任させたこともあります。(三条暫定内閣)

 また、加藤高明内閣は護憲三派連立崩壊時に全閣僚の辞表を提出し、再度の大命降下を受けているため、加藤憲政会単独内閣は、かつて、第二次加藤高明内閣と言われていました(私も学校ではそう習った)。しかし、加藤を含む憲政会の閣僚の辞表は受理されていないため、現在は連立崩壊に伴う内閣改造というのが正式見解のようです。

 英国では、日本とは異なり、総選挙後に自動的に内閣総辞職となることはない(総選挙で敗北しても、国会運営で行き詰るまで首相に居座ることは制度上可能)ため、総選挙で勝利するまで、連続して解散総選挙に打って出ることは明文では否定されておりませんが、憲法的習律(慣習法)の世界で否定されており、もし、そのような「暴挙」に打って出た場合、解散の上奏を受けた英国王は例外的にその上奏を拒否することができるとされています。

 このような実質的権限が君主にあることが、従来型の「立憲君主制」であり、わが国の「象徴天皇制」とは大きく異なる点で、これが、日本の憲法学者の中で、日本が「従来型」の立憲君主国ではないとする説が多数説となっている理由のひとつです。

29キラーカーン:2010/07/13(火) 01:06:15
「みんなの党」は「新自由クラブ」の道を歩むか

参議院通常選挙も終わりました。民主党の惨敗で、ねじれ国会が再現することとなりました。
「みんなの党」が躍進しましたが、その躍進具合を見て、かつて存在したある政党のことが
頭をよぎりました。その政党とは

新自由クラブ

です。
当時の衆議院は定員3〜5(原則)という中選挙区制で、参議院でも新自由クラブが議席を
確保できたのは、東京、大阪、全国区などという定数が3以上の選挙区でした。
(当時、2人区だった埼玉で議席を確保したことはあります)
そして、基本的に都市型政党でした。
この特徴は、今回の「みんなの党」にもあてはまります。

新自由クラブはロッキード事件を契機として自民党を脱党した河野洋平氏などを中心として
結成された政党というのはご存知のことだと思います。そして、結党直後の総選挙で
旧来の自民党支持層に飽き足らない層を捉え、一躍17議席を獲得して「ブーム」
を起こしました。

その後、第二保守党路線と社公民路線との対立などがあり、結局、自民党が持ち直すと共に、
自民党と連立を組んだり、自民党に鞍替えする議員などもあり、自民党に(再)吸収されて
その歴史を終えました。
(例えば、鳩山邦夫、中川秀直両氏も新自由クラブでの当選経験があります)

みんなの党も、これまでなら自民党などの保守系の支持者であったと思われる層で自民党など
に飽き足らない層を上手く捉えて、今回、公明党を凌いで改選第3党の座を勝ち取りました。

しかし、今回の選挙で「みんなの党」の限界も明らかになりました。それは、「みんなの党」が
政権政党を(原則として)目指さないということを事実上明らかにしたということです。
渡辺党首自身が「みんなの党」は 「アジェンダ政党」 だと明言したことです。
「アジェンダ」とは英語で「議題」という意味です。つまり、その時々の政治課題を設定して
その課題を解決するための処方箋を出すというスタイルを鮮明に出しました。
もっと簡単な言葉で言えば、「みんなの党」は 「専門店主義」 であり、
自民党や民主党のような 「総合百貨店」 ではないということを明らかにしたということです。

これでは、政権与党として国政を担うことはできず、案件ごとに時の政権与党と協議して
是々非々路線を歩むという方法をとるということを意味します。このスタイルは参議院では
ある程度親和性がありますが、小選挙区を基本とし、政権選択選挙という意味合いを持つ衆議院
にはそぐわないスタイルです。この制度では、ドイツの「緑の党」のような単一政策政党が存続
する可能性は極めて小さくなります。しかも、「みんなの党」は1人区(小選挙区)で議席を
獲得できる候補者は極めて少ない。このままでは、比例専門政党への道を歩むこととなります。

もちろん、現実的な問題として、「みんなの党」は小選挙区で政権を担えるだけの候補者を擁立
できるだけの体力がないということもあります。しかし、今回の立候補者もいわゆるベンチャー
起業家が多いということからも、全国区ではなく、都市型政党(特に東京型)という色彩が
明らかになっています。現実に関東以外の3人区である愛知と大阪では「みんなの党」は議席を
獲得できませんでした。愛知は民主党の支持基盤である自動車労連が強く、大阪は伝統的に公明党
が強いということと、「お笑い100万票」というほかの選挙区にない特徴はありますが、
逆に言えば、その「特殊事情」を「みんなの党」が突破できなかったことを意味します。

さて、「みんなの党」は今後、民主、自民の2大政党の間に埋没して、消滅するか、あるいは、
社民、共産のように泡沫政党となるか、それとも、公明党のように第3党として一定の存在感を
発揮できるか。それには、2大政党にはない何か(公明党で言えば、創価学会)をもって、
一定の国民の受け皿となれるか。それが「みんなの党」の今後を占うことになるでしょう。

30新八:2010/07/27(火) 21:31:24
暑い日が続きますね。


転勤時期なので、いろいろと忙しいです。
このあいだ、床屋に行って、政治談義。

ネットしていない人間とは、ホントに話がかみ合わない、
というより、情報量の違いに唖然としてしまい、いちいち細かい情報について
かみ砕いて説明しないとイケナイのが煩わしいです。

31キラーカーン:2010/07/28(水) 23:27:40
>>情報量の違いに唖然としてしまい、

確かに、情報量は圧倒的に違いますから。
そのあたりのところは、こちらが噛み砕いて説明しないと・・・

その裏返しとして「嘘を嘘であると・・・」ということも言えるのですが

32キラーカーン:2010/07/30(金) 01:55:44
そう言えば、妻は、電車で移動中の共産党の志位委員長と同じ車両に乗り合わせたようです。で、周りにはSPらしい人はあまり見当たらなかったようです。

33新八:2010/07/30(金) 21:13:44
ふーむ。

まぁ、SPといえば、どちらかと言えば体制がわという感じですよね。
委員長は、反体制ですから…と言えなくもない…ですが、
体制側のSPは、色々着込んでいますから、それっぽく見えますけど、
電車内で気づかれるような、それと分かる風体をしているモノかどうかと問われると
正直、分かりません。

ムキムキに身体を鍛えていれば、なんとなくそうかもしれないと思うかもしれませんが
平さんの、外見(除髪型)だけで「それ」と分かるような人が、どれくらいいるモノでしょうか。

34キラーカーン:2010/11/07(日) 00:48:40
今回の尖閣ビデオ「流出」事件は、「右」にとっての西山事件となるか

 今回の騒動で、どこからとも無く「ネットに流出しないかなぁ」という声があがっていましたが、本当にそうなるとは思いませんでした。小見出しにも挙げましたが、かつて、外務省から米国の核持込に関する秘密文書を入手した西山という記者がいたのですが、このときは
1 入手した文書が秘密文書だった
2 外務省女性職員を「色仕掛け」で篭絡し、その女性職員をそそのかして秘密文書を入手
ということで、世間の批判を浴びました。
 しかし、「左」からは政府の秘密情報を漏洩させた「英雄」として、扱われていました。民主党政権になって、「核密約」の公開が話題になったことから、西山氏にも脚光が浴びていましたが、今回は、「右」と「左」が立場を変えた展開となっています。
 で、西山氏との事件との相違点として
1 「流出」したビデオが国家公務員法上の「秘密」に該当するか
2 公益通報者保護制度の(類推)適用はあるか
といったところでしょう。
 例のビデオが職務上知りえた秘密に該当しなければ、守秘義務違反には問われないのは当然の結末です。となれば、「公開するな」という上司(?)の命令に逆らったというくらいしか「流出」させた職員を処分する根拠はなくなります。さらに言えば、最近は、公益通報者保護制度によって「内部告発者」は保護されるということになっていますので、この制度で守ることができるか否かについても議論になるでしょう。
 と考えれば、流出させた人はさほどの処分を受けず「手切れ金」代わりに退職金をもらう依願退職という形にもなれば、田母神氏的な「有名人」になる可能性すらあります。西山氏も「左」にとってのヒーローであり有名人でしたから、その意味でも「左右」が逆転しているのかもしれません。

35キラーカーン:2011/02/01(火) 22:53:39
法律学で最初に習う言葉の一つに

「法律は最低の道徳」

というものがあります。
 これは、法律に違反すれば、民事では賠償(金)、刑事では刑罰という制裁が強制的に課されるため、道徳や慣習という 「掟」 といわれるもののうち最大公約数的なものしか規定できないというところからきています。だからこそ

法律には反していない

という言葉は、どちらかといえば 「人として卑しい」 という評価を含意することが多い、言い換えれば、決して褒め言葉では「ない」ということです。このことについて、あまり反論はないかと思われます。つまり、法律には反していないと公言することは

人として最低の道徳しか身につけていない人間である

と公言しているようなものなのですが、それは、政治家としてどうかと思う次第です。
とくに、民主党は弁護士上がりの議員が党の要職にいる(いた)のにもかかわらず(枝野官房長官、江田法務大臣、仙谷代表代行、千葉元法相)そういうことが話題にならないというのも、不思議といえば不思議です。さらに言えば、谷垣自民党総裁、福島社民党党首も弁護士です。

36キラーカーン:2011/02/28(月) 21:41:31
>>「法律は最低の道徳」

に関連したエントリーです
>>http://synodos.livedoor.biz/archives/1693516.html

一部を抜粋しますと
>>「法律は最低限の道徳」と言われることがあるのは、この反映である。
>>法はあくまで、自由にふるまう人々が共存するために絶対排除しなくてはならない
>>行為のみを規制するためのものであり、それに反しない行為が道徳的に
>>正しいことは保証しないし、行為の動機とも関係はない。盗みは悪いことだから
>>手を染めないという人と、発見されたときの処罰が怖いからやらないという人は、
>>法的には区別されない。

37キラーカーン:2011/05/18(水) 22:34:07
内閣不信任案と「一時不再理」

法律、特に刑法関連で「一時不再理」という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、この言葉は国会運営の世界でもあります。平たく言えば

一度否決された議案・法律案はその会期では二度と提案できない

というものです。
 昨今の東日本大震災での内閣の不手際等々で内閣不信任案の提出が取りざたされていますが、いつ提出するかどうかというのが、なかなか決まらないというのは、この一時不再理という国会運営上の縛りがあるからです。
 特に、衆議院では民主党が圧倒的多数を占めているために、漫然と内閣不信任案を提出しても否決され、(以後、会期終了まで提案できなくなるだけですから、どうしても、不信任案の提出時期の決定については慎重になります。
 また、内閣不信任案が提出されれば、最重要の先決案件になりますので、採決まで、その他の議案の審議が止まります。

 こういう、効果をもつだけに「一度しか切れない」カードをどこできるかというので、「さっさと提出すればよい」ということにはならないのです。

38MOMO:2011/05/29(日) 12:12:35
>>37
知らなかった。 でも考えてみたら しごくもっとも

民主の反乱を抑えるために解散脅迫して意外に本当に解散になると思います?

でもって 府中近辺の住民がこんどは 首相落選に追い込んでほしいな

39キラーカーン:2011/05/30(月) 05:05:26
>>本当に解散になると思います?

首相がその気ならできるというのが答えなのですが
(首相が解散に反対の閣僚を罷免して、首相が兼任の上、解散詔書に署名すればよい、というのが法制度上の結論です。その結果民主党がどうなろうと知ったことではありません。現実の問題としては、東北地方の現状で総選挙ができるかということだけでしょう。

裏口としては

参議院で首相問責決議を採択(参議院では野党が多数なので、うまく根回しすれば、可決される可能性は高い)して、それを理由として衆議院を解散するという、小泉首相時代の「郵政選挙」と同じパターンです。

という日本の喧騒をよそに、今、スウェーデンにいます。

40MOMO:2011/05/30(月) 09:10:42
>>39
へんな缶詰め買おうとしてます

41新八:2011/05/31(火) 22:43:19
それ、やめて。

買っても良いけど、持ち帰らないで。

42キラーカーン:2011/06/04(土) 21:40:55
というわけで、スウェーデンから帰ってきました。
ちなみに、変な缶詰は買っていません。

43キラーカーン:2011/06/14(火) 22:13:29
最近、頭にもやがかかる時間が多くなって、ふと思いついたネタです
気休めにどうぞ

ミスター・ヨーロッパといえば
A:カール・ハインツ・ルンメニゲ
B:役所広司

谷川流といえば
A:光速
B:驚愕

長門といえば
A:陸奥の同型
B:綾波の同型

鶴屋といえば
A:南北
B:めがっさ
C:八幡

44キラーカーン:2011/06/20(月) 01:21:22
「まし」になると微積分

最近「辞めてましになるならいつでも辞める」と言っている首相がいますが、その「まし」という尺度についても、
・微分的
・現状的
・積分的
の3つがあります。

国の借金が分かりやすいので、この例でいきます。
現在、国の財政は単年度ベースで、ざっと

税収50兆円、赤字国債50兆円、累積債務1000兆円

という額になっています。
で、

・微分的な「まし」:赤字国債発行額を前年度より減らす(例40兆円)
・現状的な「まし」:単年度黒字
・積分的な「まし」:累積債務の解消

となります。
つまり、現在の震災対応の例でいえば、後手後手の対応度合いを少なくするだけでも 「微分的な」まし ということはできます。現状的や積分的に見れば、状況は悪化しているということになるのですが。

ということで、
退陣要求派は「微分的」でもましになると言い
首相擁護派は「積分的」ではましにならないと言い
議論がかみ合わないということになります。

個人的には、民主党が衆議院第1党である以上、まず「微分的」にましにして、そこから、「現状的」、「積分的」に進めていくしかないと思っています。そのためにも、現首相では・・・というところです。

45新八:2011/06/22(水) 22:24:10
システムの復旧に血道を上げてみたものの、全く効を成さなかったため新規組み上げとなりました。
4コアは、快適です。(しかしながら、XPは2度もアクティベーションを要求してきました。
(通ったのでサポート終了まで使い倒すつもり)
それにつけても、石油とPC部品それぞれに円高の恩恵は受けているようですね。(メモリーの安さに驚愕です)
この円高は、利用すべきです。こんな時です、今更感のある国内向け借金1京円に50兆円ぐらい追加したって
日々テラだかペタだか分らん係数で放出される放射性物質をやっつけられるなら
ここで債券を発行して、カネ持ってるヤツから絞り出して、現状的マシな状況にしないと
金持ちが、この国から逃げ出しちゃいますよ。
国の借金ガーとか言ってるけど、そんなネガティヴに考えてたら、本当に日本が
沈んじゃいます。



ミスター・ヨーロッパといえば B:役所広司


谷川流といえば  A:光速

谷川 流といえば B:驚愕(4年も待たせてこのオチかよ)

長門といえば 7月7日ないしは12月18日

鶴屋といえば 実は、松林。

46キラーカーン:2011/06/24(金) 02:22:33
>>鶴屋といえば 実は、松林

そうですか。それは知りませんでした。

実は、このほかにも

「レベル5とは」

というネタがあったのですが、あまりにも不謹慎なのでやめました。
(選択肢によっては、本当にシャレにならない)

追伸
個人的には現役最高の外野手と思っている、オリックスの田口壮が
(レーザービームの出力(精密さはともかく)はイチロー以上というのは、イチロー自身も認めているらしい)

西宮北高→関西学院大学

という驚愕もびっくりという経歴の持ち主。
(確かに野球の「ワールド」シリーズを大いに盛り上げたという意味で、 世界を大いに盛り上げた 一人ではあるのには間違いないのですが。)

47キラーカーン:2011/07/09(土) 02:03:51
七夕ということで、天の川とは行きませんが、五月雨式に。
個人的には、長門の16インチ砲で世界を改変してもらいたいのですが・・・
(首相の自称先祖である菅原道真は「驚愕」のラストに短歌で特別出演しています。)

ということで、昨今の政局を見ていると

「何もせん十郎」と「すっから菅」がダブってしまいます。
春秋の筆法を以ってすれば

「越境将軍」ならぬ「かいわれ大臣」で名声を得て、「食い逃げ解散」ならぬ「食い逃げ不信任案否決」で野垂れ死に

といったところでしょうか。

48新八:2011/07/09(土) 09:10:31
野垂れ死んでくれればこれほど良いことはないのですが…



なんか、しぶとく任期を満了しそうで恐ろしいです。
これほどまでに、権力にしがみつくのは、うわさ通り日本人ではないからなのでしょうか。

49御前:2011/07/14(木) 12:56:08
今にしてみると、厚生省AIDS問題の時が彼の人生ピークでしたね。それから何年か後、久しぶりに見たら倒産しかけてるラーメン屋チェーン店のオヤジみたいな人相になってたので驚いたことがありましたが。
ダメだ、村山氏の時といい今回といい、ビンボーくさいのが首相になると大災害が起きる。(なんだかんだ言って、小泉さん、安倍さんの時はこれという災害起きてないもんね)

50キラーカーン:2011/07/15(金) 00:30:20
>>小泉さん、安倍さんの時はこれという災害起きてないもんね

中越地震とか台風とかそれなりには来ているような気がするのですが、その割には、大事に至っていないのは、何と言ってよいのかわかりませんが・・・


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