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神と科学は共存できるか

1地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:22:48 ID:yb0RBWTc
管理人のブログ記事
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105/
のコメント欄におけるやりとりの続編スレですにゃ

2地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:32:58 ID:yb0RBWTc
以下はコメント欄における「懺悔と後悔」と「地下に眠るM」のやりとりの再掲
もとのコメント欄がいまいち読みにくいし、アンカーをつけやすくもなるので、こちらにもおかせてもらいますにゃ。
問題があるのなら言ってくださいにゃ>懺悔と後悔

*****************************
後悔と懺悔 『話の流れをぶった切って、申し訳ないのですけど……。

ドーキンスの著書は『神は妄想である』と『利己的遺伝子』しか読んでいないので、ドーキンスの真意は分かりませんが、『神は妄想である』でのドーキンスの主張は、「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)は確かにあるが、その問いの回答を(既存の)宗教に求めたり委ねることは、有害である」「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)の答えを提示するのは、もちろん科学ではないが、(既存の)宗教であるべきでもない」ということだと、私は理解しました。つまり、NOMAは尊重するけど、科学とは別の側面を担うモノとして宗教と呼ばれるモノは著しく有害である──ということだと理解しました。
そして、私はその意見に全面的に賛成です──私がずっと以前からそういう考えを持っていたので、ドーキンスの主張を(彼の意図とは別に)そう受け取ったのかも知れませんが。

NATROM さんは、「これらの問題点を解決することと、NOMAを尊重することは両立しうると思う」と思う理由として、「私が無神論や曖昧な宗教的立場に寛容な文化を持つ日本で育ったからかもしれないが」とおっしゃっていますが、「曖昧な宗教的立場に寛容な文化」ということは、日本人は、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)の答えを、様々な宗教的立場からその都度自分で考え選び取ってきたということでもあると言えると思います。
しかし、通常私たちが「宗教」と呼ぶモノは、そういった態度を許すことはなく、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)への答えは、その「宗教」の不可侵で排他的な体系内で完結されるべきとされます(ぶっちゃけて言えば、硬直した思考停止状態を促す)。そこから、ドーキンスが指摘するような負の側面ばかりが目に付くわけです。一方で、(ドーキンスも指摘しているように)私たちが普通「宗教」と呼ぶモノの「良い点」とされていることのすべては、「宗教」などなくても、理性的で合理的な人間ならば同じように振る舞えるはずのことばかりに、私には思えます。』 (2007/11/06 23:39)


地下に眠るM 『本論のほうだけど、ドーキンスは確かに宗教の野蛮についてよくわかっているんだろうけれど、啓蒙の野蛮さ、啓蒙の暴力性についての理解が不足しているのではにゃーだろうか?現在のメリケンにおいて、馬鹿宗教が幅をきかせていることに対して危機感を持つのはよく理解できるんだけどにゃ。
世界各地の宗教と固有文化は分離できるものではにゃー。また、宗教の役割として大国におけるマイノリティ集団のアイデンティティになっているということもあるにゃ。になりかねにゃー。
ことによると、ドーキンスの言い分って固有文化否定のローラー作戦、あるいは貨幣を唯一神とあがめる「グローバリズム」とかいう名の拝金教のイデオローグにもなりかねにゃーんだ。』 (2007/11/07 16:36)

3地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:34:33 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『私も、世界各地の宗教と固有文化は分離できるものではないと思います。でも、世界各地の固有文化と「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)への答えとしての宗教」は分離可能だと私は考えますし、ドーキンスの主張はそういうことです(と私は理解しています)。
つまり、クリスマスを祝ったり、ハロウィンを楽しんだり、教会で結婚式を挙げたりするけど、「中絶・同性愛は是か非か」とか「私たちの子供にどんな教育を与えるか」とか「私たちは何故、何のために生きているのか」とかいった問いの答えを得るのに、キリスト教(の絶対的な教義)に頼ることはしない──ということは、そんなに不可能なことなのか? ということです。
これらは『神は妄想である』第1章の根幹をなすテーマであると、私は理解したのですけど。

「では、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)に、我々はどのように答えれば・向き合えば良いのか」という点について、ドーキンスは多くの紙幅を費やしてさまざまな観点から徹底的に論じていますが、確かに、それらが一種の理想論であり実現可能性の点で大いに疑問があるのは、私も認めます。地下に眠るMさんが指摘するような誤解・曲解にも晒されるでしょうし、それを乗り越えるのは簡単ではないでしょう。
個人的なことを言わせてもらえば、根拠もなく現実とも反する非常識な被害妄想に取り憑かれ自殺した母と、借金して飲み遊んでは突然「オレなんて死んだ方がいいんだ」などと愚痴るだす父の子として育った身としては、そういうことに悩まされなくてすむんなら、どんな宗教でも(江原ナントカでも)いいから……と、正直思います。宗教は、(その教義に疑いをもつことの決してない)信者だけのコミュニティー内だけですべてが完結している限り、生きるのを非常にラクにしてくれる、何の問題もないシステムであるのは間違いないでしょう。

──でも、これまで人類全体の学んできたことの蓄積と、それらの敷衍状況を鑑みれば、十分な理性と知性・教養を持った健全な人間ならば、もう、そんなモノに頼る必要もないだろう……というのが、私の(そしてたぶんドーキンスの)考えなわけです。つまり、「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)の答えを得るのに、宗教に頼ることはしない──ということは、そんなに不可能なことなのか?」と思うのです。だって、このブログだって、誰も「聖書によると……」なんて論拠で、医療訴訟や医療報道の問題を論じてる人なんていないじゃないですか。

私が望むような世界を「戦闘的な無神論者」らしく書かせていただければ、どのようなレベルであれ「宗教家」などというものは(皆無にはならないにせよ)、生活保護を受けざるをえない人々や、学校教育を受けられない子供たちに対して、今の私たちがもつ感情と同じような感情をもって受け止められるような存在になって欲しいと思っています(思っているだけなのが恥ずかしい限りなのですけど)。』 (2007/11/07 20:49)



地下に眠るM『>後悔と懺悔
ドーキンスの理屈でもうひとつ問題点を指摘するとすれば、それは
「馬鹿禁止」
ということではにゃーだろうか?
「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」であることを万人に要求した20世紀の政治家の名前を知ってるかい? ポル・ポトっていうんだぜ。毛沢東の文化大革命も同じ理屈なんだにゃ。他にもフランス革命のロベスピエール、清教徒革命のクロムウェル、ナチス、スターリン、こいつらの恐怖政治と虐殺の基本モチーフは、実は啓蒙なんだにゃ。(ついでにいえば、僕の議論スタイルも啓蒙の暴力を地で行っているにゃんな、げらげら)
もちろん、宗教(特にキリスト教)が歴史的に死体の山を築いてきたことも事実だし、今のメリケンの馬鹿クリには頭痛がするけど、少なくとも20世紀は啓蒙の暴力と野蛮が突出しとるだろうにゃ。

暴力的啓蒙とヤクザ宗教の共通点っていうのが、非寛容にゃんな。言い換えると(自分の立場から見た)馬鹿を禁止する、ということにゃんよ。
おみゃーさんのいうことにはうなずけるところも多いんだけど、「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」であることを要求し、馬鹿であったり弱っちいことを否定しちゃうのは、最終的に血の雨を呼ぶことにしかならにゃーと思う。

ただ、馬鹿宗教の馬鹿たるゆえんは、他者への非寛容にあるからにゃー。
馬鹿はお互い様だから仕方にゃーとしても、馬鹿が公的領域に口を出すことはなんとか阻止するシステムを作らにゃーとね。これもムツカシイ問題だけど。』 (2007/11/08 00:06)

4地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:37:16 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『「馬鹿禁止」──そう、それが「地下に眠るMさんが指摘するような誤解・曲解」のなかで、ドーキンスが『神は妄想である』において一番説明不足な点だと思うんですよ。だからこそ、私の両親の話や、最後の段落のようなことをわざわざ書いておいたわけなんですけど、どうしたって、「ITが発達すると情報格差で取り残される人たちが否定されることになるから、IT化は避けるべきだ」みたいな論法を持ち出す人はなくならないのでしょうね。
こういう人たちは、きっと、私が(そしてたぶんドーキンスも)思い描いているような世界では、ITを使いこなすようになった人(強者)は皆、情報弱者に配慮したり庇護したり、情報格差が固定・継承されないようなシステムづくりを模索したりなんてことをするとは微塵も想像できず、強者は弱者を愚か者として罵倒し搾取し尽くすことしか、そして弱者が強者の地位を脅かすことになるかもしれないあらゆる可能性を徹底的に潰すことしか考えないだろう──と思うのでしょう。
まぁ、現実問題として、実際なんであれ弱者は強者に罵倒され搾取し尽くされるのは間違いない、歴史が証明している……という反論は(もしされても)否定しませんが、それは「宗教」の有無には関係ないと思うのですけど、どうなんでしょうか。「宗教」がなくなれば、少なくとも「宗教的弱者(マイノリティ)」という弱者は存在しなくなるわけですし。

ちなみに、なんでこの文脈で啓蒙主義(暴力的啓蒙)の話になるのかさっぱり分からないのですけど、私が(そしてたぶんドーキンスも)もっとも強く非難しているのが「宗教」のどんな点なのかということは(納得や同意はされないにしても)理解はされているのですよね。そのもっとも強く非難されている点を変えずに、「宗教」という看板を「啓蒙主義」に変えただけなら、私は(そしてたぶんドーキンスも)まったく同じ観点からまったく同じ非難を、その「啓蒙主義」に対してするだけだと思います。
まぁ、多くの日本人は、ドーキンスの言うニュアンスでの「宗教」は60年ちょっと前にとっくに捨てているので、そういう意味では、多くの日本人にとって『神は妄想である』は「何を今さら」な書なので、かえって(別の意味で)誤解されやすいのかもしれません(っていうか、誤解しているのは私のほうなのか?)。

余談ですけど、私自身は「「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」ならば、宗教から決別すべきだ」ということを主張しているのであって、「「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」であることを要求し」ているのではない──というニュアンスで伝わるように、注意深く文章を選んで書いていたつもりだったんだけどなぁ…… 力不足にがっくり。
もっとどうでもいいけど、「これまで人類全体の学んできたことの蓄積」と書いたなかに、私がポル・ポトや(以下略)の教訓を含めていないと思われていたことも、ちょっとがっくり……。』 (2007/11/08 20:08)



地下に眠るM 『うーんと、ちょっとリンク先の文章を読んでみてもらえにゃーだろうか?
ttp://saiki.cocolog-nifty.com/shoka/2007/03/post_e7e3.html』 (2007/11/08 22:02)



後悔と懺悔 『よく分からないのですけど、地下に眠るMさんは、「宗教」がなければ、人間は道徳的な(現在一般的に道徳的と考えられているような)振る舞いをすることはまったく不可能である。つまり、「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)」に向き合うときに、「宗教」に頼らなければ、人間は(現在の一般的な感性に照らして)非常に悲惨でむごたらしい答えしか導けない──ということを主張したいのでしょうか。実際、それが真実なのかも知れませんけど、ちょっと悲し過ぎる結論ですね。

この件に対しての私の反論は、『神は妄想である』第6章「道徳の根源──なぜ私たちは善良なのか?」(この章のなかの、とくに「神がいなかったら、どうして善人でいられるのか?」の項)を読んでみていただけないでしょうか──というお願いで代えさせていただきます。
ただそれが、上のような地下に眠るMさんの決定的核心的な指摘に対して説得力を持ちうるのかどうかは、正直言って自信がありません。(私にとっては)非常に悩ましいです。』 (2007/11/09 00:32)

5地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:39:01 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『ところで、地下に眠るMさんが紹介された(この議論とはまったく何の関連性も見出せない見当外れの)文章に対して、わざわざここで私が、今の議論の文脈でのこの文章の馬鹿馬鹿しさ・ナンセンスさ・レベルの低さを説明する必要があるのでしょうか。この人たちは、まさに「神」という看板を「啓蒙」や「強者の法則」や「自然の法則」などに付け変えただけという好例ですね。

余談ですけど、せっかく話のついでですので、この機会に『kikulog』(地下に眠るMさんはご存知ですよね)の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論に少しでも興味をもってもらえる人があらわれれば幸いです。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987
コメント欄がとてつもなく長いので、差し当たって、以下のコメントから数コメント(少なくとも125くらいまで)だけでも読んでいただければと思います。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1169988833
もし、興味ももってくれたなら、次のコメントとそれに対するきくちさんの返信もできれば。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1170079605
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1170513000
結局は、NOMA原理の議論に話がループすることになるのかな?』 (2007/11/09 01:13)



地下に眠るM 『直接的なレスは後で気が向いたらね>後悔と懺悔
ちょっと思いついたジョークのアレンジだにゃ。まだいまいち面白くにゃーのだが。
1)原理的宗教家 平行線は交わると信じている。なぜなら教典にそう書いてあるから。
2)穏健な信仰者 日常生活においては平行線は交わらないということは受容しているが、平行線が交わる場合もあると信じている。
3)穏健な無神論者 平行線が交わるはずはないが、交わると信じている人が感情を害するかもしれないので、大きく主張することは無礼だと考えている。
4)おい、ここでの距離は2センチだよな。ほら、ここでも距離は2センチだ。どこまでいってもこれは縮まらないから平行っていうんだ。十分な理性と知性・教養を持った健全な人間ならわからないはずはないんだが』 (2007/11/10 03:26)

6地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:40:11 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『「中絶・同性愛は是か非か」とか「私たちの子供にどんな教育を与えるべきか」とか「私たちは何故、何のために生きているのか」とかいった「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)=以下「問い」と略記」というのは、もしも人間が一人しかいない世界、またはすべての人がまったく同じ思考・感性をもった世界ならば、その人の答えはどんなものであれ必ず「正しい」のは明らかなわけで。でも、現実の世界はそうなっていないわけで。どんなに全体主義(宗教も含む)を徹底させようとしてもダメらしいということも歴史が証明しているわけで。だからこそ、この「問い」が悩ましい問いであるわけで。なんでこの「問い」が“問い”たりえているのか──ということを忘れている・目を背けている人が多すぎるような気がするのは、気のせいでしょうか。
「問い」の答えは、あくまで人間対人間(人間社会)の関係のなかで見出していくしかないのに、人間(人間社会──未来の人間社会も含む)に向き合うことから逃げ出して、「神」とか「自然の法則」とか見当違いのモノに飛びついて閉じ籠もる人たちを非難しようとは思いませんけど(自分も弱い人間だから)、閉じ籠もることを積極的に奨励・強制したり、ちゃんと人間(人間社会)に向き合おうという人たちを罵倒・迫害しようとする人たちには、とても悲しい感情を覚えます。
──ドーキンスも指摘していますが、現在のもっとも非道徳的な人でさえキリスト時代のもっとも道徳的に優れた人よりも全体的にははるかに道徳的であるように、あの時代の人たちが現代の感覚で無知で幼稚なのは当然だと思いますけど、現代の人たちが地下に眠るMさんのいう「啓蒙主義」に正当性や説得力を感じるのだとしたら、これまで人類全体の学んできたこと・成し遂げてきたことの蓄積は、いったい何だったのかなぁ……とか。』 (2007/11/11 01:13)



後悔と懺悔 『まず、本当にごめんなさい。「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」といった表現は非常に不適切でした。撤回します。
私の立場としては、今は平行線が実際に交わるかどうかを問題にしているのではなく(まぁ、宗教家側のNOMA原理の侵犯はどうかと思いますけど)、どう信じることが人間社会全体(および人類全体の将来)にとってどう影響するかを問題にしているわけです。繰り返しますけど、ドーキンスもNOMA原理自体は認めているわけです。その上で、科学とは別の側面を担うモノとして「宗教」は著しく有害ではないかと訴えているだけです。そういう意味で、3)の立場をとることも人間社会全体にとって有害ではないかというのが、私の(そしてたぶんドーキンスも)言いたいことなわけです。

私の長年の切実な疑問は、人間は「宗教」か「啓蒙主義」のどちらかの立場に立つことでしか、(上のコメントの)「問い」に向き合うことができないような弱く悲しい存在なのか──ということなんです。
ドーキンスは「そうではない。人類は別のもっと望ましい第3の立場で「問い」に向き合うこともできるはずだ」と説得力をもって主張してくれました。だから、私は(なかば盲目的に)飛びついてしまったわけです。でも、地下に眠るMさんがおっしゃるように、それは幻想なのかも知れません。少し冷静になれたと思うので、地下に眠るMさんのご意見をお聞かせいただければ幸いです。今なら落ち着いて両者の主張に耳を傾けることができると思います。』 (2007/11/11 01:37)

7地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:41:47 ID:yb0RBWTc
地下に眠るM 『>ドーキンスも指摘していますが、現在のもっとも非道徳的な人でさえキリスト時代のもっとも道徳的に優れた人よりも全体的にははるかに道徳的であるように

え? 本当にそんなことをドーキンスがいってるの? 問題にゃんなあ。
まず、おみゃーさんも意識しているように、現代における道徳的感性を過去のニンゲンにあてはめて判断するのは意味がにゃー。
次に、現代の基準を過去に当てはめたとしても、その主張はおかしいにゃ。ソクラテスや孔子がヒトラーやブッシュよりも道徳的に劣るなんてことありえるの?
古代世界よりもたくさんのニンゲンが20世紀において虐殺されているのはなぜ?

そして、本当にドーキンスがそんなことをいっているのであれば、彼は人文科学や哲学について根本的にわかってにゃーことになる
ヤスパースの哲学入門には以下の1節があるにゃ
>また哲学的思惟には、科学のように、進歩発達の過程というものがないのであります。確かに、私たちはギリシア時代の医者であったヒッポクラテースよりもはるかに進歩しています。しかし私たちはプラトーンよりも進歩しているとはいえないのです。私たちは、プラトーンに利用できた科学的認識の材料に関してだけなら、彼よりも進歩しているといえる。しかし「哲学すること」それ自身に関していえば、おそらく私たちはもう一度彼の水準に到達することはほとんどできないのではないでしょうか。

それと、「啓蒙」についてなんだけどにゃ
啓蒙ってのは「正しくて知的な者が、まちがった愚者を教え諭す」ことだろ? 正しさというものが一つの何かに集約されることともいえますにゃ。
で、集約された「ひとつの正しさ」というのは、それが「神」と呼ばれようが、「科学」と呼ばれようが、「理性」と呼ばれようがニンゲン社会において同じような結果を生み出すにゃんな。すなわち、
「俺が正しくお前がまちがい。愚かなお前は正しい俺のいうことを聞かなければならない。嫌なら死ね」

正しさなんてものは、いくらでもあるんだにゃ。石を投げれば正しさにあたるって。正しさがいくらでもあるから、政治は意見を調整しなければならにゃーわけだ。
問題は「正しさ」を独占しようとすることにあるのですにゃ。現代のメリケンにおいて、馬鹿宗教が正しさを独占しようとしているのは明白なように思えますにゃ。だからそれに抗するのは正しいとして、だからといって科学が「正しさ」を独占したらやっぱり血の雨が降るよ、というだけのことですにゃ。』 (2007/11/11 11:36)



後悔と懺悔 『う〜ん、激しく議論が噛み合ってない気がしますね(苦笑)。ちょっと私なりに整理してみます。

【問題提起】人類は「(上のコメントで私が定義した意味での)問い」に対して「宗教」よりもマシな向き合い方はできないのか。

【前提1】なぜ、ドーキンスや私が「宗教」を非難しているかと言うと、何度も書いてますけど「問題は「正しさ」を独占しようとすることにあるのですにゃ」からです。それは『神は妄想である』全体を通じて主張され続けていることです(特に第8章)。
(帰結1a) ここで「“正しさ”を独占しようとするモノ」がいかに危険であるかを力説される必要はまったくありません。論者は皆その点を十分理解しているということが、この議論の前提なので。
(帰結1b) もし人類が「問い」と向き合うのに、(「宗教」という名で呼ばれているかどうかは別にして)いずれにせよ「“正しさ”を独占しようとするモノ」にしか頼ることができない存在なのだとしたら、ドーキンスや私の主張(理想論)はその時点で無意味なものになります。地下に眠るMさんは、この観点から私に反論されているのですよね(一応念の為に確認しておきます)。

【前提2】「問い」の答えとしての「科学」も「(地下に眠るMさんのおっしゃる)啓蒙主義」も、「“正しさ”を独占しようとするモノ」であることは、誰もがとっくに知っています。
(帰結2) 「問い」の答えとしての「科学」や「(地下に眠るMさんのおっしゃる)啓蒙主義」がいかに「“正しさ”を独占しようとするモノ」であるかを力説される必要は(ここではもう)まったくありません。
(余談2) 「え?“誰もがとっくに知ってるだって? オレは知らないよ」という方は、ぜひ、上に挙げた『kikulog』のエントリを参照していただければと願います。

以上は私が勝手に今まで共有されていると思い込んでいた前提なのですけど、どうもそうではなかったようで……。まずこれらの前提について、ご意見をお願いします。』 (2007/11/12 00:31)

8地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:42:57 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『>chochonmageさんへ。いい議論かどうかは別にして、「馬鹿禁止」については、ぜひ、上の私のコメント(下記URLのコメント)に対するご意見をうかがいたいです。いい議論だったのは「ここまで」にならないように(苦笑)。
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105#c1194520113
>地下に眠るMさんへ。まず、私の「ドーキンスも指摘していますが、現在のもっとも非道徳的な人でさえ(以下略)」という発言は、誇張が過ぎたことを認めます。より穏当で妥当な(と私には思われる)形で『神は妄想である』第7章(特に「道徳に関する時代精神」の項、395頁)に述べられていることを不適切に曲解し誇張してしまいました。その部分を全面的に削除した上で、当該の文章の私の主張を検討していただければと願います。ちなみに余談ですけど、古代世界よりも多くの人間が現代において虐殺されているのは、単に能力の問題かと考えますがいかがでしょうか。私の知る限りにおいて、古代世界の人々が現代の装備を持っていたらと想像すると、空恐ろしいものがあります。
次にヤスパースの引用は勉強になりました。ありがとうございます。ただ、プラトーンに並ぶ人間がプラトーンの時代から増えていないという主張には同意するとしても、プラトーンの100分の1くらいなら思想できるかもしれない人間は、プラトーンの時代からは確実に増えているのではないでしょうか。また、そこまで高いレベルでなくても、少なくとも、たとえば、女性が参政権を持たないことにそもそも何の疑問も感じない人と、「もしかしたら女性も参政権を持ったほうが全体として良い社会になるのではないだろうか?」ということを考えることのできる人の割合は、確実に時代とともに(良い方向に)変わっていってると主張するのは、楽観的で我田引水にすぎるでしょうか。』 (2007/11/12 01:17)

9地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:49:45 ID:yb0RBWTc
さて、コピペここまでですにゃ。

それはそうと
「懺悔と後悔」ではなく「後悔と懺悔」が正しいハンドルでしたにゃ。まちがえててごめんなさい(ぺこり

こちらにスレ建てしたのでじっくりやらせてもらうつもりなんで、とりあえず茶々でも入れておいてくださいにゃ>おおる

10chochonmage:2007/11/12(月) 22:33:17 ID:Qhwn4442
地下に眠るMさま、新スレッドありがとうございます。
結構な作業だったようで、お疲れさまでした。
今はちょっと時間が無いので、本論についてはまた後ほど書き込ませて
いただきます。

11chochonmage:2007/11/12(月) 22:48:25 ID:Qhwn4442
地下に眠るMさま、新スレッドありがとうございます。
結構な作業だったようで、お疲れさまでした。
今はちょっと時間が無いので、本論についてはまた後ほど書き込ませて
いただきます。

12chochonmage:2007/11/12(月) 22:52:24 ID:Qhwn4442
うわっ、2重カキコごめんなさ〜い!

13地下に眠るM:2007/11/13(火) 05:59:22 ID:yb0RBWTc
うーん、変な時間に起きちゃったにゃー

実のところ、僕も「神は妄想である」と思っていますにゃ。
ただ、「文化」も「理性」も「愛」も妄想だとも思ってるけどにゃ。

ドーキンスの著作は、「利己的遺伝子」と「ブラインドウォッチメイカー」しか読んでにゃーんでなんともいえにゃーんだけど
彼は「神は妄想である」とは知っていても、「理性は妄想である」とは思ってにゃーだろうね。
仮想敵を「妄想」と断じ、自らの立場を妄想だとは思ってにゃーとしたら、それはすなわち「啓蒙」にほかならにゃーんだな。

14chochonmage:2007/11/13(火) 07:29:38 ID:Qhwn4442
さて、化け猫さん(すんません。私の中の心象風景です。尊敬がこもってます。いや、ほんま。)
に対してレスするとなると緊張するにゃぁ。過去ログさんざん読んでますから。(笑)
罵倒されないようにぐぁんばりますぅ。

えーっと、私がお二人の議論の趣旨をちゃんと理解できてるかどうか
確認させていただきたく思います。誤解してるところがあったらご指摘いただければ
幸いです。

お二人とも「おバカなことや、おバカを信じちゃう人々」がいなかったり、少なかったり
する世界のほうが好ましいとは思ってらっしゃるのですよね?(何がおバカか、という
議論はちょっと置いておいてください。それから、ちょっとぐらいのおバカはあった方が
面白いとか、潤いがあるとかってのもちょっとパスで。)

そんで、ドーキンスや後悔と懺悔 さんの(そして私も基本的には)「本音」は
「おバカ撲滅論」かと思います。
もちろん、ドーキンスも後悔と懺悔さんも、そして私も、いきなり「撲滅」がならないのは
よく理解しているので、NOMAにおける科学の反対側の代表が宗教であるというのは
納得がいかない、というような言い方をしているのでしょう。(少なくとも私はそのようです。)

化け猫さんは、その「本音」部分を見抜き、それが「啓蒙主義」であると看破し、
その危険性につき警鐘をならしている。

と、この辺で正しいでしょうか。

15GB:2007/11/13(火) 19:27:33 ID:UK61EP2o
横からすみません。私なりの理解からすれば、
「おバカなことや、おバカを信じちゃう」のが当たり前なのだと考える方がいいと思うんです。
違う時代の人たちが言ってることはみんなおバカに見えたりするけど、われわれだって
きっとおバカに違いない。

科学という方法が発明されてから、世界の一部はかなりすっきりしてはきたけれども、
あいかわらず人はおバカ、でいいのではないでしょうか。

16後悔と懺悔:2007/11/14(水) 01:13:19 ID:TLGZVI4U
恥ずかしながら、ここでのこれまでの議論を知りませんでした。掲示板の存在自体は知っていましたが、あらためてほんの少しだけ目を通してみました。ここにいらっしゃる皆さんは、すでに広く深い見識と検討に磨かれた方々のようですから、私などが私見を述べるのもおこがましくて恐縮ですけど、まずは、私の立場を明確にしておきたいと思います。

──────────
【立場1a】NOMA原理は認める。「科学」の側のNOMA違反も、「宗教」の側のNOMA違反も、どちらも重大な問題である。
(補記)ただし、『神は妄想である』が議論の出発点であるので、私はここでは「宗教」の側のNOMA違反についてのみ主に取り上げている。「科学」の側のNOMA違反についての私の見解は、上のコメント>>5で紹介した『kikulog』のエントリおよびコメントを参照。

【立場1b】そもそもNOMA違反を犯さない「宗教」を考えること自体が困難である。NOMA違反を犯さない「宗教」とはどんなモノなのか。それはどんな教義を持つのか。その教義の「正しさ」の根拠は何か──想像できるだろうか(NOMA原則を遵守する「宗教」がもしあったとしても、おそらく我々はそれを「宗教」と呼ぶにふさわしいモノと思わないのではないか──と、私は思う)。
(補記)私の理解が正しければ、『神は妄想である』第2〜5章はこの観点からの徹底的な批判的検討である。「穏健な宗教家」が極めて謙虚に慎ましく述べる宗教的見解の多くでさえ、(注意深く見れば)どれほどNOMA原理の「科学」領域の成果に対する挑戦になっているか気づくだろう。たとえば、ドーキンスも引用しているビアスの『悪魔の辞典』にはこう書かれている。「【祈る】取るに足らないことが明々白々なたった一人の嘆願者のために、宇宙の全法則を廃棄してくれるように頼む(角川文庫、p.291)」──それが悪いこととは思わないが、NOMA違反ではある。

──────────
【立場2a】そもそもNOMA原理の「科学」とは別の側面を担うモノに求められているのは何か。それは、「中絶・同性愛は是か非か」とか「私たちの子供にどんな教育を与えるべきか」とか「私たちは何故、何のために生きているのか」とかいった「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)」(以下括弧付きの「問い」と略記)にどのように向き合っていくのか、その態度の指針・方針ではないのか。
(補記)求められているのが、“「問い」の答え”ではなく、“「問い」への向き合い方の指針・方針”としている点に特に留意して欲しい。

【立場2b】「問い」の答えそのものに対して、絶対的な「正しい」答えなどない──ということは歴史が証明しているように、私には思える。NOMA原理の「科学」とは別の側面を担うモノが、「問い」の答えそのものを提示し、その答えの「正しさ」を独占しようとすることは(それが何であれ)絶対にあってはならない。

【立場2c】この観点から、NOMA原理の「科学」とは別の側面を担うモノとして、「科学」も「(地下に眠るMさんのおっしゃる)啓蒙主義」も、そしてもちろん「宗教」も、絶対に相応しくない──このことが、私がここで主張したいことのほとんどすべてである。

【立場2d】「問い」に絶対的な「正しい」答えなどない──と主張する「宗教」があったとしよう。では、その「宗教」はどうして成立していられるのか。人が「宗教」に望むほとんど唯一のことは、「問い」の「正しい」答えを与えてくれることではないのか。「問い」の「正しい」答えを与えない「宗教」など有り得るのか。
(補記)「宗教」が与えてくれる「問い」の「正しい」答えを信じつつ、しかし注意深く「“正しさ”を独占しようとする」態度を回避するよう振る舞うことは可能であるし、実際多くの「穏健な宗教家」がそのように振る舞っているのは、私も知っている。そういう態度を非難するつもりはない。しかし、いとも容易に「“正しさ”を独占しようとする」態度に陥りうるという「宗教」のとてつもなく大きな負の側面を伏せて、「宗教」を擁護したり敷衍したりすることには疑問を呈したいとは思う。

──────────
お気づきいただけると思うのですけど、「宗教」に対する批判として、【立場1】の観点からの批判は、私自身はあまり重視していません。【立場2】(とくに【立場2c】)の観点が、もっとも問題視したいこと──「宗教」の最大の問題点であると私が考える点です。
だから、このスレッドのタイトルは「神と科学は共存できるか」ですけど、私の(そしてたぶんドーキンスも)問題意識は「神に存在価値はあるのか」なのです。「ある」となってはじめてようやく「それは科学と共存できるか」という問題に移れるわけです。

17後悔と懺悔:2007/11/14(水) 01:26:10 ID:TLGZVI4U
>>14
>そんで、ドーキンスや後悔と懺悔 さんの(そして私も基本的には)「本音」は
>「おバカ撲滅論」かと思います。

ドーキンスの本音は分かりませんけど、私は違います(違うと思ってます)。うまく説明できそうにないんで、こんなたとえ話で何かしら伝わるでしょうか。

3人のサラリーマンが昼食に出掛けます。和食・洋食・中華の店があります。

(1) いつどんなときに行っても、必ず3人の意見は一致します。
→「昼食は何を選ぶべきか」という「問い」が存在すること自体、気づかれることはないでしょう。

(2)「神の御心は和食である。聖書の記述はそうとしか解釈できない。洋食や中華を選びたいなどというのは悪魔の誘惑だ。地獄に堕ちたくなければ和食にしろ。どうしても洋食や中華がいいと俺を誘惑するなら、神に代わって俺が悪魔(つまりお前)を滅ぼすだけだ」
→まぁ、典型的な宗教批判ってことで、まずは分かりやすいのを一つ……。

(3)「和食がもっとも健康に良いということは科学的に証明されている。和食を選ぶのが正しい。愚かなお前は正しい俺のいうことを聞かなければならない。嫌なら死ね」
→っていうか、そもそも「健康への影響」を基準に決めようなんて、まだ誰も合意してないんですけど(苦笑)。健康よりも「味」とか「店の雰囲気」とか「ボリューム」とか他の基準で選びたいと考えてる人もいるかも知れないのに……。

(4)「俺、最近太り気味だから和食がいいなぁ」「俺は中華がいい」「俺は和食以外なら何でもいいけど。あの店、マズイんだもん」「俺も中華がダメなら洋食かなぁ」「洋食は昨日も食べたじゃん、ヤダよ」「健康にいいんだから和食にしようよ」「どうしても意見が一致しないんなら別々に食べる?」「それはつまんないなぁ。そこまでして和食にしようとは思わない」「ジャンケンで決める?」「でも、ジャンケンで油っぽい中華になったら嫌だなぁ」「じゃあ洋食にしよっか」「いいよ、もうジャンケンで」
→結論が「正しい」か「愚か」かかはともかく、「問い」に向き合う態度としては、(2)(3)よりはいくらかマシなんじゃないのかなぁ……と、思うのですけどいかがでしょう?

これを読んでもらった後に、>>6の最初(2007/11/11 01:13)のコメントを読んでくれると、私の本音が単純な「おバカ撲滅論」ではないことが伝わるかなぁ……。
「自分と異なる価値観・思考・感性を認めない、理解しようとしない」人や、「自分と異なる価値観・思考・感性から学ぼうとしたり、そこから自分の価値観・思考・感性をより望ましいものにしようと考えない」人を、「おバカ」と呼ぶのだとしたら、「おバカ撲滅論」と呼ばれるのも仕方ないのかな……とも思うけど(そういう態度こそ「“正しさ”を独占しようとする」態度だから)。
もう一度、>>16の【立場2a】を読んで欲しいのですけど、皆さんは、その人の出す“「問い」の答え”が「おバカ」な人を撲滅するとかしないとか言っているのでしょうか? その人の“「問い」に向き合う態度”が「おバカ」な人を撲滅するとかしないとか言っているのでしょうか?

──でも、(4)程度のことなんて、誰でもいつも当たり前にしてることですよね。それができないことや、それをできなくさせるモノを非難するのって、そんなに嫌悪されることなのかなぁ……。人間は容易にそれができなくなることを知ること、それをできなくさせるモノをなくすこと──それだけで良いと思うのですけど、それを主張することが「おバカ撲滅論」?

最後にもう一つだけ弁明させて下さい。
私は、自分自身が“「問い」に向き合う態度”も「おバカ」なのを知っています(特に最近痛切に思い知らされました)。というか、“「問い」に向き合う(私が考えるような)望ましい態度”なんて、誰もが簡単に出来るものじゃない。わがままで理不尽で非合理で自分勝手な人間(人間社会──未来の人間社会も含む)に向き合うことは、悩むこともあるし、傷つくこともあるし、打ちのめされることだってある。いや、そんなことばかりだと言ってもいい。「神」とか「自然の法則」とかにすがったほうが遥かにラクなのは分かってる。
でも、“「問い」に向き合う(私が考えるような)望ましい態度”がうまくできなくても、理解されるし助けてくれるし生きられる──そして少しずつでもそういう態度がうまく出来るように成長していける──そんな土壌が、人類の(血塗られた?)蓄積から今まさにつくられつつあると思うんですよ(引き籠もりとか不登校とかは分かりやすい例かも)。むしろ、そういう(私が望ましいと考えるような)土壌を荒らすだけの存在でしかないのが「“正しさ”を独占しようとする」態度に他ならないと思うわけです。別の言い方で言い直せば、>>4のコメント参照。

18後悔と懺悔:2007/11/14(水) 01:42:22 ID:TLGZVI4U
本当にすみません。私はこの問題になるとどうしても感情的になってしまいます(自分の生い立ちとか両親のこととかあるんで、なかなか冷静になれないんです)。
読み返してみると、今回も感情的に溢れるモノをそのまま吐き出していました。普通の冷静な人なら10分の1の分量で述べなければならない内容でしょう。でも今の私には無理でした。

そんなわけで、まともに冷静に「議論」に参加できるように、自分ルールを作ります。私は返信したくなったコメントが書き込まれてから最低3日間はそのコメントに対して返信しないことにします。だから、しばらく私の返事がなくても、書き逃げしたと思わないで下さると幸いです(苦笑)。

なお当然のことですけど、私以外の皆さまは遠慮せずに御自由にどんどんと有意義なコメントを書き込んでいただけると幸いです。

19chochonmage:2007/11/14(水) 13:29:30 ID:Qhwn4442
>「自分と異なる価値観・思考・感性を認めない、理解しようとしない」人や、
>「自分と異なる価値観・思考・感性から学ぼうとしたり、
>そこから自分の価値観・思考・感性をより望ましいものにしようと考えない」人を、
>「おバカ」と呼ぶのだとしたら、「おバカ撲滅論」と呼ばれるのも仕方ないのかな……
>とも思うけど(そういう態度こそ「“正しさ”を独占しようとする」態度だから)。

後悔と懺悔様

まず、「おバカ撲滅論」と書いてしまったことをお詫びいたします。
正確には「おバカなこと撲滅論」でした。

私は「おバカを信じちゃう人」を後悔と懺悔さんが上記で示されたたような意味で
使ったつもりです。

私が「おバカなこと」と呼んだのは、「人を、後悔と懺悔さんが上記で示されたたような、
盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか考えとか」
(その中でも最も影響力があるのが宗教かなと思っています。)であり、人のことではありません。
人については、「おバカを信じちゃう人々」と記述しました。

何が「おバカか?」という議論は私が後悔と懺悔さんと猫さんの議論を誤読してないかどうか
はっきり確認してからしたかったのです。

が、GBさんからのコメントもあったし、ここで考えを述べさせていただいたほうが良さそうなので、
そうします。(とか言って、実ははっきり定義できてないんですけど。これってメッチャむつかしい。)

私の思う「おバカなこと」というのは、極力簡単に言えば上記の
「人を盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか考えとか」で、
例をあげると:

人をして旅客機で高層ビルに突っ込ませたり、突っ込まさせられたり、自発的に突っ込んだり、あるいは
棄教したら死刑みたいな法律作っちゃったり、それを擁護したり、させられたり、あるいは子供たちを、信じなければ
地獄に落ちて永遠に火で焼かれるぞと脅迫したり、信じてないやつは市民とは考えられないとかいうやつを大統領に
してみたり、その大統領に「God Bless自分の国」とか言わせてみたり、
地下鉄内にサリンガスをまかせちゃったり、まかさせられちゃったり、自発的にまいちゃったり、何千年前かの
お告げだかなんだかを根拠に、長〜く続く極めて悲惨な地域紛争をおこさせちゃったり(これには経済的な理由の
方が大きいのかなとも思いますが、状況を一般の人たちに容認あるいは耐え忍ばせる、
また使える兵士を育てるのに「おバカ」を信じ込ませることがひじょ〜に役立つ、ということで)、人間魚雷をこさえて
人間を詰め込んじゃったり、詰め込まれちゃったり、自発的に中に入っちゃたり、神風吹くからダイジョブとかで
耐え忍ばせたり、させられたり、守るべきものは某尊きものなどと信じこませちゃって、集団自決させたり、
させられたり、しちゃったり、肌の色を「罪」のせいにしちゃって人種差別思想を敷衍しちゃったり、それを支持しちゃったり、

とかを人間にさせちゃう大きな動機になり得るのが、私のいう「おバカなこと」です。

で、「人を盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか
考えとか」を「おバカなこと」と単純化した表現にしたのはドーキンスの「神は妄想である」が議論の出発点で、
論点が「科学と宗教」であり、そこで共通の土台があった(と私が思っていた)ということでご理解いただけると
思ってしまったからです。

ですから、私の記した「おバカ撲滅論」はあくまで「おバカなこと」に対するもので
「人間」に対するものではありません。
かさねがさね明確でなく申し訳ありませんでした。

20chochonmage:2007/11/14(水) 13:36:22 ID:Qhwn4442
そしてこの「おバカなこと」については、やはりできることならば撲滅されたらいいなぁと、私は思っているのですが、
猫さんの「固有文化否定のローラー作戦」、「啓蒙主義の血塗られた歴史」等の
記述を読んで、現在考えが色々と揺れております。
というのは、「おバカなこと」を撲滅することは、即ち「おバカなことを信じちゃう人」を撲滅する
ことに繋がることに気がつかされたからです。それってやはり血塗られた道になりそうです。

が、やはり基本的には「おバカなこと」が無くなって欲しいと思っています。。

それと、後悔と懺悔さんは

>皆さんは、その人の出す“「問い」の答え”が「おバカ」な人を撲滅するとかしないとか言っているのでしょうか? 
>その人の“「問い」に向き合う態度”が「おバカ」な人を撲滅するとかしないとか言っているのでしょうか?

と記述なさっていますが、「皆さん」は言っていません。私だけです。
そして、繰り返しになりますが、私の本意は「おバカな人」撲滅ではありません。


で、やはり後悔と懺悔さんは「おバカなこと撲滅論者」ではありませんか?


ダブルレスで失礼になりますが、
GB様
上記なような「おバカなこと」も信じちゃうのがあたりまえだと考えた方がいいのでしょうか?

21地下に眠るM:2007/11/14(水) 22:41:26 ID:yb0RBWTc
科学という知的体系は、人類史的にみても特殊な地位を獲得した知的体系だということは僕も率直に認めますにゃ。この特殊な地位というのは、科学が《「中絶・同性愛は是か非か」とか「私たちの子供にどんな教育を与えるべきか」とか「私たちは何故、何のために生きているのか」とかいった》問い(以下「重要な問い」とでも書きますかにゃ)にそもそも答えようとしにゃーところから得られたものなのではにゃーでしょうか。

科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
だから
・宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?
宗教には「重要な問い」に答えられない、と判断してしまったとしたら、その時点でその判断者は「重要の問い」の「正しい答え」を独占したのと同じことになるにゃんが。

僕は、ドーキンスは「啓蒙」の立場だと思ってるにゃ。
まあ、「神は妄想である」は未読なので断言はしにゃーけどな。

僕は別に、宗教に「重要な問い」の答えを独占させようとしているのではにゃーのだよ。ただ、宗教は「重要な問い」に答えられない、という判断は少なくとも科学がしてよいことではにゃーといっているんだにゃ。
文化相対主義の立場(各文化の間に優劣はなく、現代が古代や中世に優越するわけではないという立場。つまり「啓蒙」からもっとも遠い立場)では、「重要な問い」への答えは「それぞれの文化次第」ということになるわけで、各宗教がそれぞれの立場で「重要な問い」に答えることこそが自由と寛容の精神にのっとることに一応なるわけにゃんな。
(ここでは通文化的な普遍性については触れないでおく)


ちゅうわけで個別に
>chochonmage
>化け猫さんは、その「本音」部分を見抜き、それが「啓蒙主義」であると看破し

本音部分もなにも、形式論理的にドーキンスの立場は「啓蒙」ですにゃ。
宗教に答えられないと判断できるということは、自分が当の答えを知っているのだと主張しているに等しい。


>GB
>違う時代の人たちが言ってることはみんなおバカに見えたりするけど、われわれだって
>きっとおバカに違いない。

「理性は万人の狂気である」(アンドレ・シュアレス)
僕たちは狂っていにゃーことが不可能なんだと思いますにゃ。



>後悔と懺悔
>立場2c】この観点から、NOMA原理の「科学」とは別の側面を担うモノとして、「科学」も「(地下に眠るMさんのおっしゃる)啓蒙主義」も、そしてもちろん「宗教」も、絶対に相応しくない──このことが、私がここで主張したいことのほとんどすべてである。

繰り返すけど、ドーキンスの立場こそ啓蒙主義ではにゃーのかね?
正しさを独占したがる宗教と啓蒙とは双子みたいなものでにゃ。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」(ニーチェ)
ドーキンスはミイラになっちゃったんでにゃーのか?

22地下に眠るM:2007/11/14(水) 23:43:25 ID:yb0RBWTc
加藤尚武「現代倫理学入門」講談社学術文庫P167によれば
(この本↑オススメにゃんぜ。事例(10人の命を救うために1人を殺すことは許されるのか、とか、10人のエイズ患者に対して特効薬が1人分しかないとき誰に渡すか、とか)をベースに説き起こす本)

自由主義の原則は、要約すると、「1判断能力のある大人なら、2自分の生命、身体、財産に関して、3他人に危害を及ぼさないかぎり、4たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、5自己決定の権限をもつ」となる。
ここで
3の原則を「他者危害原則」、4の原則を「愚行権」と言うのですにゃ。ここが自由主義のキモなんだにゃー。
他者の愚行(お馬鹿な行為)に対して、説得することはできても禁止することは「自由主義社会」ではできにゃーのさ。いったん「愚行」の禁止を認めてしまったら、公権力やら多数派の気に入らないあらゆる行為が「愚行」の名のもとに禁止されるのは明白なんだにゃー。

「分別がある者は、自分を世界に合わせようとする。 分別がない者は、世界を自分に合わせようと躍起になっている。 ゆえに、分別がない者がいなければ、進歩はありえない。」(バーナード・ショウ)
などという話もあって、愚行を禁止したら確かにニンゲン社会の進歩なんてありえにゃーよな。種痘の予防接種法を発見したジェンナーなんて、愚行の極みを地でいっとるよにゃ。

ドーキンスはミイラをとりにいって、自由主義者を廃業しちゃったんだろか?

23chochonmage:2007/11/15(木) 08:35:58 ID:Qhwn4442
うーむ、さすが猫さん。簡潔にして明瞭、いつもながら感服いたします。
ですが、いくつか疑問点があります。

>各宗教がそれぞれの立場で「重要な問い」に答えることこそが自由と寛容の
>精神にのっとることに一応なるわけにゃんな。

ここは、「各宗教」でなく「各文化」なのではないでしょうか。
それとも現実的に文化=宗教だということですか?

>宗教には「重要な問い」に答えられない、と判断してしまったとしたら、その時点でその判断者は「重要の問い」の
>「正しい答え」を独占したのと同じことになるにゃんが。

>宗教に答えられないと判断できるということは、自分が当の答えを知っているのだと主張しているに等しい。

おっしゃりたいことは何となく分かるのですが、

例えば浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」(あまり一般的でなく、かつ異論が出そうな例で
申し訳ない。ですが過去ログのどこかで猫さんがこの本を既読という記述をなさってたような記憶が
あったもので。ウロなんですけど。)や、山本七平氏と佐伯真光氏との間での「Do not swear at all.」の
解釈に関する論争を読んだ後に、山本氏はユダヤ教や英語に対する問いには答えられないと読者が判断する
のはその読者が「正しい答え」を独占したり、自分こそが答えを知っているのだと主張することと同義でしょうか。
些細な間違いを指摘されということでなく、内容がとんでもなく出鱈目でしかも捏造が多くあるような事を知った後に
山本氏の指摘された部分と関係のない記述、発言についてもうさんくさく思ってしまうのは、推論としてそれほど
とんちんかんだとは思えません。
そして、各宗教の聖典なり、教義なりに出鱈目が多いと思った人が、宗教は「重要な問い」に答えられないと
判断したとしても、自分は答えを知っていると主張しているわけではないと思うのですが、いかがでしょう。

24AH1:2007/11/15(木) 12:58:09 ID:8sNrdPpc
たとえば、和食か中華か洋食かを討議している時に、誰かが宗教的理由で中華と言い出したとします。
ここで
「ちょっと待てよ、それって俺らにはどうでもいい事じゃん」
「お前、なんでリクツ抜きなんだよ、頭悪いんじゃねえのか?」
「こういう時は協議するのが当然だろ、馬鹿じゃないならお前の考えを改めろよ」
となると、やはり「理屈と協議を理解できないおバカを撲滅する啓蒙主義」になっちゃうんではないかと。
(こんなに挑発的な言い方はしないかもしれませんが敢えて罵倒モードで)

「なるほど、ではそれに合わせますか?」
「まあ、中華がどうしても嫌な人は他へ行くということで」
くらいに話を合わせておくのが「オトナ」な態度かもしれません。
もちろんオトナな態度が良いのかどうか、これは場合によりけりでしょう。中華にしたからって死にはしないでしょうが、命に関わることだってありますから。
これが地下猫さんの書いておられる「3他人に危害を及ぼさないかぎり、・・5自己決定の権限をもつ」という部分でしょう。

協議しましょうというやり方は、一応「異なる意見の言い分も聞く」形にはなっているので、形式としては異なる意見への侵略性は低いかもしれません(まあ**教に帰依しなければ殺すと言われるよりゃよほどマシでしょう)。
それでもメタレベルで言えば「協議して決めよう」という同じ土俵に上がる事を要求します。
(日本人は黙っているから欧米人から見ると何を考えているかわからない、というような話がありますが、それって「違いにワーワー言い合って意見を調整する文化」を前提にしてるだろ?自己主張自体が不作法とされる文化はどうしてくれるのよ?というような話です。*)
この問題は「同じ世界で生きて行く時に、最低限の『同じ土俵』をどこに定めるか」という問題であるかと思います。ただ・・「オレサマの言うことを聞かない奴は殺す!」と叫ぶ無法者がいれば、そいつと共存するのは難しいでしょうから、地下猫さんの挙げた付帯条件くらいがギリギリの線ではないかと思います。

*いや、日本人が本当に黙っているかどうかは別としてですが。
ただ、ドナルド・キーンが川端康成のことを「欧米のジャーナリストは彼を寡黙な、もしくは気難しい人物と紹介するが、それは違う。彼は喋ることがある時は喋り、そうでない時は黙っているのだ」とわざわざ書いている文章を読んだ記憶はあります。

25カクレクマノミ:2007/11/15(木) 17:22:45 ID:THRtI5kM
ん・・・?何だか変な方向に進んでいるいるような。
ドーキンスは価値に関してはどちらかと言えば文化相対論的だと思いますし、愚行権を否定してもいないと思うんですが。
ドーキンスのどの主張が文化相対論や愚行権を否定しているのか僕にはわからないので、ちょっと議論について行けません。

ところで、「重要な問い」に答えを出す単位は、「各文化」ないし「各宗教」なのでしょうか?答えを出すのは、各個人なのでは?
個人が出した答えよりも、文化ないし宗教が出した答えは優先されるのですか?

26GB:2007/11/15(木) 19:37:17 ID:UK61EP2o
>>20
「おバカなこと撲滅」については、もちろん賛成です。
でも、既存宗教を否定すればいいとも思えない。私なりの問題意識としては…

・科学が答えられない「重要な問い」に関しては、宗教を含む文化が答えるしかないのではないか。
人の「理性」がそれらの問題に答え得るというのは、幻想なのではないか。
・理性が取扱い可能なのは、世界認識の方法としての科学や、政治的な手法としての民主主義などの
(価値を棚上げにする)「手続き」でしかないのではないか。
・しかしその手続きを現代社会の合意事項にしようというのも、実は一定の文化的な背景を持っているので、
たとえばテロに対する米国の「民主主義の戦い」も難航してる。

ど、どうしたらいいんだ!

27Kosuke:2007/11/15(木) 20:02:17 ID:NkrhEzds
チョットだけ口を出させていただくとすれば、「宗教」という用語の定義がまちまちだと議論はかみ合いません。
究極的には、個人の心の中だけの営みとして宗教を定義(限定)してしまえば、かなりのトラブルは防げると思います。

もちろん、既成宗教(団体)の多くはそれ(「宗教」を個人の心の内に限定すること)には賛同しないでしょうが。

28地下に眠るM:2007/11/16(金) 12:20:48 ID:cizMQ0FI
>chochonmage

>ここは、「各宗教」でなく「各文化」なのではないでしょうか。
>それとも現実的に文化=宗教だということですか?

文化∋宗教、なので。

>例えば浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」

浅見には聖書学について答えをいう資格があるだろ? 専門家が自らの専門の範囲において無知を無知と断じただけにゃんね。何の問題もにゃーだろ。
科学には「重要な問い」に答える資格がそもそもにゃーのに、宗教には何もわからんと断じるのとは訳が違いますにゃ。
それに
山本ベンダサンという特定個人の無知蒙昧とデタラメぶりを、書籍や議論から判断することは可能であるけれど
ある種の宗教がデタラメだからといって、既存宗教すべてについてデタラメとは判断できるわけにゃーよな。
山本ベンダサンがデタラメだからすべての保守系評論家がデタラメである、という判断をするようなものだにゃ。

既存宗教はダメだとか「重要な問い」に答えられないとかいっているのなら、ドーキンスは「戦闘的」というより「無謀で野蛮で非論理的」無神論者といっていいにゃ。

29地下に眠るM:2007/11/16(金) 12:21:18 ID:cizMQ0FI
>カクレクマノミ

>ドーキンスは価値に関してはどちらかと言えば文化相対論的だと思いますし、愚行権を否定してもいないと思うんですが。
>ドーキンスのどの主張が文化相対論や愚行権を否定しているのか僕にはわからないので、ちょっと議論について行けません。

僕もドーキンスは自由主義者であると思っていたけどさ、どうも相手が宗教になると自由主義を返上しちゃってるのではにゃーかということにゃんね。
で、僕自身は「神は妄想である」は未読なので、ナトロムのブログから孫引きすると

>同じように、私たちはみな、科学に道徳的価値観について助言する役割を務めさせるのは、控え目に言っても問題であるということについては意見が一致するだろう。しかしグールドは本当に、何が良くて何が悪いかという権利を特に宗教に譲り渡したいのだろうか?宗教がそれ以外に人類の英知に貢献すべきものをもたないからといって、私たちに何をなすべきかを教えるフリー・ライセンスを宗教に手渡すべきだ、ということにはならない。そもそも、どの宗教を選べばいい?私たちがたまたま育てられた宗教なのか?あるいは、聖書のどの書のどの章によればいいのか―なぜなら、聖書中の見解は聖書全体を通じて一致しているというにはほど遠く、またあるものは、いかなる理性的な規準に照らしてもおぞましいものだからである。(「神は妄想である」、 P89)

1)宗教は道徳的価値観「以外に人類の英知に貢献すべきものをもたない」などとなぜ生物学者のドーキンスが断言できるのか?

2)「そもそも、どの宗教を選べばいい?」以下の記述は、どうみても「1つの正しさ」を前提にした物言いだにゃ。動物行動学者であるドーキンスは、生物がある行動をとるときに多様な要因が働いていることはよく理解しているはずだにゃ。キリスト教だけをとっても、聖書の相互に矛盾するように見える記述について厖大な解釈がなされているのは僕だってしっているにゃ。相手が宗教となると極めて表面的で単純で逐語的、要するに愚昧な批判をするというのはどういうわけだろにゃ。

つまり、ドーキンスはこと宗教さんが相手だと文化相対論的ではにゃーのよ。文化相対論者は特定の考え方を無益だとか悪だとか撲滅せよとは言わにゃー。また、「1つの正しさ」を前提に議論するものが愚行権を認めているとは言い難いにゃ。
少なくともドーキンスは、信仰者の愚行権を認めているようには見えにゃーよな。

また、(2)でもちょい触れたにゃんが、宗教文献・神話などのテキストを逐語的に読むのは馬鹿の極みだろにゃ。
聖書を逐語的に解釈するという意味では、創造科学とドーキンスは同じ穴の白痴だにゃ。心からの侮蔑に値するにゃんね。

というわけで、ごくごく部分的な引用だけでも問題が山のように見て取れますにゃ<「神は妄想である」
批判しておいて無責任なようだけど、気分が悪くなりそうなので読む気になれにゃー。

30地下に眠るM:2007/11/16(金) 12:40:46 ID:cizMQ0FI
>ところで、「重要な問い」に答えを出す単位は、「各文化」ないし「各宗教」なのでしょうか?答えを出すのは、各個人なのでは?
>個人が出した答えよりも、文化ないし宗教が出した答えは優先されるのですか?

おっとっと、これに答えわすれてたにゃんね。
個人という単位で「重要な問い」に答えられると考えるのは、近代人に特有の思考でしょうにゃ。
ちゅうか、文化的なバックグラウンドなしで「重要な問い」にどう答えるのでしょうにゃ?
極端にいえば、利己的な動機による殺人がなぜダメなのかについて、文化的バックグラウンド抜きで根拠を出すのはムツカチイのではにゃーかな?
(まあ、思いつかなくもにゃーけど)

このあたりの話は、いくらでもでかくなってしまいますからにゃー。困った。

とにかく、個人という単位で「重要な問い」に答えるなんてのは、古代のニンゲンから見たらまさに狂気の沙汰でしょうにゃ。
昔と今ではニンゲンは別の狂い方をしているのでしょうにゃ。

31カクレクマノミ:2007/11/16(金) 14:22:42 ID:THRtI5kM
まず最初に。たぶんドーキンスは宗教の否定よりもむしろ、無宗教の擁護に重きを置いています(少なくとも僕はそう理解しています)。

>1)宗教は道徳的価値観「以外に人類の英知に貢献すべきものをもたない」などとなぜ生物学者のドーキンスが断言できるのか?

この部分はむしろNOMAに対する皮肉なレトリックでしょう。大事なのは、科学が及ばない範囲だからと言ってそれが宗教の領分だとは言えないという、それだけのことです。
宗教が道徳的価値観を独占的・特権的に扱えるとする理由はこれといって示されていません。強いて言うなら、宗教は他のことに役立たないから道徳ぐらいしか居場所がないってことじゃないの?とちょっとからかっているわけです。

>2)「そもそも、どの宗教を選べばいい?」以下の記述は、どうみても「1つの正しさ」を前提にした物言いだにゃ。

「1つの正しさ」を前提としなくても、この記述は理解できますよ。
各個人ないし各文化、まあ何でもいいんですが、何かの単位が宗教に基づいて「重要な問い」に答えたいときには、どの宗教を選ぶかによって、また宗教のどの記述を、どの解釈を選ぶかによって答えは変わってしまいます。文化によって答えは違うとしても、この問題は残るでしょう。
愚行をするにしても、宗教に基づいて愚行をするとしたら、どの宗教に基づくかによって話は違うでしょう。

それに続く記述においても、ドーキンスは宗教の原典を逐語的に理解するのは馬鹿だということをよく知っています。それどころか、それこそがドーキンスの議論のキーポイントになります。
地下猫さんのおっしゃる通り、宗教から「重要な答え」を出そうとするとき、まともな人は逐語的に読んだりしません。

たとえば、ある宗教の聖典に「異教徒は直ちに殺すべし」という記述と、「みだりに人を殺すなかれ」という記述があったとき、たぶん現代の多くの人は前者を逐語的に受け取ったりはせず、後者を重視して「重要な問い」に答えを出すでしょう。
実際、今の穏健なキリスト教徒はそうしていると思います。
なんで前者よりも後者を重視するかと言うと、僕たちは「みだりに人を殺すのはよくない」と思っている(注)からです。聖書を読む前から何がしかの倫理基準を持っていないと、取捨選択はできません。
だったら、そのもともと持っている倫理をそのまま答えとして採用しても、答えは変わらないでしょう。聖書解釈というステップをはさむのは、よく言っても冗長です。

だから、宗教が独占的・特権的に道徳的価値を扱えるという主張(しばしば、だから無宗教では倫理が崩壊するという含みを持たせてなされる)は誤りです。
ドーキンスが宗教と道徳の問題について書いているのは、おおむねこういうことです。

僕にはこの主張は、かなり説得力があるように感じられるのですが、どうでしょうか?


>ちゅうか、文化的なバックグラウンドなしで「重要な問い」にどう答えるのでしょうにゃ?

それはそうなんですが、でも文化的バックグラウンドをもとに答えを出すのはその文化に属する個人なのではないでしょうか?
そもそも、"文化"という実体のない存在が、どうやって判断を下すのでしょうか?


(注)これがどこから出てくるのかという問題について、ドーキンスはヒトの生得的な傾向と、"道徳に関する時代精神"について論じています。でもこれはたぶん本質的な問題ではなく、由来はともあれ何らかの倫理基準を持っているというのがミソ。

32地下に眠るM:2007/11/17(土) 00:06:12 ID:yb0RBWTc
レス前後しますにゃ

>Kosuke
>究極的には、個人の心の中だけの営みとして宗教を定義(限定)してしまえば、かなりのトラブルは防げると思います。

ジンケンの基本は自由権にあり、さらにその核は内心の自由にありますにゃ。
この内心の自由というのは、いかなる専制主義政体や全体主義国家においても現実的に取り締まることができにゃーというシロモノにゃんね。言い換えれば、地上の権力、世俗の権力が一切及びようがにゃー領域が個々人の内心ちゅうことになるわけですにゃ。

で、自由権の拡張の歴史ちゅうのは、内心の自由の拡張の歴史なんですよにゃ。
内心の自由を認めるからこそ、表現の自由や身体の自由を認めなければならにゃーわけで、そこから政治的自由にも直結しますよにゃ。逆にいえば、表現・身体・職業・政治的自由などを認めにゃーということは、内心の自由を認めてにゃーことになる。
内心の自由の発露として政治にかかわること自体は、自由主義においては必然なんですにゃ。

だから、宗教を個人の心に限定して政治的活動を認めにゃーというのは、自由主義の原則に反することになっちまいましてにゃー。
無論、自由主義の寛容につけこんで、馬鹿宗教の非寛容が跋扈したりすることもあるわけで、このあたりが自由主義の悩ましいところですにゃ。

33地下に眠るM:2007/11/17(土) 00:13:36 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

逐語的にレスする前に聞いておきたいですけどにゃ
おみゃーさんの言う通りに
>たぶんドーキンスは宗教の否定よりもむしろ、無宗教の擁護に重きを置いています(少なくとも僕はそう理解しています)。
のであれば、グールドを犬呼ばわりする必要なんてまったくにゃーと思うんだけど。

NOMA原理って、そもそも無宗教の擁護なんでにゃーのか?
グールドへの犬呼ばわりって、NOMA原理への否定でにゃーの?
つまりそれは無宗教擁護というよりは宗教否定とはならにゃーのかね?

その辺についての意見をお聞かせ願えにゃーですか?

34カクレクマノミ:2007/11/17(土) 14:46:13 ID:THRtI5kM
ドーキンスの考えでは、宗教は、自分たちが道徳的価値を扱うのに適した存在であるということを説得力を持って示してはいません。
にもかかわらずグールドは、道徳的価値を宗教の教導権下に置いてしまっています。

積極的な理由がないのに、道徳的価値を宗教のなわばりに献上するというのは、宗教へのご機嫌取りではないかとドーキンスは主張しているわけです。

35地下に眠るM:2007/11/18(日) 12:56:55 ID:yb0RBWTc
とりあえず簡単なレスね

>ドーキンスの考えでは、宗教は、自分たちが道徳的価値を扱うのに適した存在であるということを説得力を持って示してはいません。

ふーん、なんでドーキンスにそんなことがわかるのかにゃ?
カガクには道徳を扱えないことを認めていながら、なんで宗教、しかも既存の宗教全てに対してそういう判断ができるの?
僕にはぜーんぜんわかんにゃーんだけど。


>にもかかわらずグールドは、道徳的価値を宗教の教導権下に置いてしまっています。

え?
グールドは道徳を宗教に独占的に扱わせろとかいってるの?
そういう悪意に満ちた誤読をして相手を否定するという、創造カガク信者のような手口をドーキンスがしているのではにゃーのかね?

グールドがそんな白痴的な主張をしているというのなら、証拠を見せてほしいものだにゃ。

1)道徳の領域にカガクが口をだすべきではない
2)道徳の領域は宗教が独占するべきである

確かに(1)はグールドが主張しているけど、(2)をグールドが主張してんの?
もし(2)をグールドが主張しているのなら、ドーキンスによるグールドの犬呼ばわりは妥当でしょうにゃ。
しかし、グールドが(2)を主張してにゃーのなら、ドーキンスは創造カガクの連中と同じ類いのカスだにゃ。

もしもグールドが(2)の主張をしてにゃーのなら、ドーキンスはカスだとカクレクマノミも認めるかにゃ?

36chochonmage:2007/11/18(日) 14:21:32 ID:Qhwn4442
う〜、書きたいことがいっぱいあってどこから手をつけたらいいのか
よくわからん。とりあえず猫さんからいただいたレスについて。


猫様。
>>23へのレスありがとうございました。
しかし、私の比喩が良くなかったのか、少々ずれを感じましたので
再吟味していただけたら幸いです。

>浅見には聖書学について答えをいう資格があるだろ? 
>専門家が自らの専門の範囲において無知を無知と断じただけにゃんね。
>何の問題もにゃーだろ。

私の行った比喩は、ある「読者」(ドーキンス)が山本七平という人の著作を読んだり、
浅見さんの本を読んだりした後に(ドーキンスが各種宗教の経典を読んだり、信頼できる文献に当たった後に)
山本七平氏にはユダヤ教や英語に対する疑問には答えられないと判断しても(ドーキンスが「重要な問い」には
宗教は答えられないと判断しても)その「読者」(ドーキンス)自分はその答えを知っていると主張しているようには
私には思えないということです。

浅見さんとドーキンスを比べたわけではありません。

37カクレクマノミ:2007/11/18(日) 17:07:07 ID:THRtI5kM
はじめに断っておきます。僕としてはできる限りドーキンスを代弁しているつもりでいますが、議論が進むにつれて当然、僕自身の解釈による部分が多くなってくると思います。
というわけで、これはドーキンス自身の議論というよりも、僕なりのドーキンス解釈として読んでください。

>カガクには道徳を扱えないことを認めていながら、なんで宗教、しかも既存の宗教全てに対してそういう判断ができるの?

まず第一に、ドーキンスが科学者だからといって、科学のみに依存した議論しかしてはいけないということはないでしょう(それとも、科学者には殺人犯を非難することも許されないのですか?)。科学者であるグールドが主張してNOMAだって、科学の範疇内に収まるものではありません。
実際、「神は妄想である」のドーキンスの議論には、科学だけでなく倫理学などの分野も関連しています。

そして、ドーキンスの主張は、「宗教は道徳的価値を扱うのに適していない」ではなく「仮に宗教は道徳的価値を扱うのに適しているとしても、その理由は示されていない」というものです。
一般論として、何かが何かを扱うのに適した枠組みかどうか、適していると主張する側に立証責任があるでしょう。

>グールドは道徳を宗教に独占的に扱わせろとかいってるの?

訂正します。「独占的・特権的」というのは強すぎる表現でした。
しかしグールドは(独占的ではなくとも)道徳的価値を扱う資格を宗教に認めています。少なくとも、宗教による道徳についての意見は尊重すべきものだとグールドが考えているのは間違いないでしょう。
そして繰り返しになりますが、宗教が道徳的価値を扱うのに適した存在であるということについての説得力のある理由は示されていません。

38地下に眠るM:2007/11/18(日) 19:09:43 ID:yb0RBWTc
>chochonmage

>浅見さんとドーキンスを比べたわけではありません。

浅見の発言の文脈と、ドーキンスの発言の文脈とを比較したうえで
浅見の発言から山本ベンダサンについて判断するのは妥当だけど、ドーキンスの発言から既成宗教全般について判断するのは話にならにゃーと書きましたにゃ。

39地下に眠るM:2007/11/18(日) 19:10:18 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

>科学者には殺人犯を非難することも許されないのですか?

まったくソノトオリで、科学者には殺人犯を非難してもいっこうにかまわにゃーよな?
ならば、宗教家が殺人犯を非難することも許されて当然ではにゃーのかね?
殺人犯を非難するってのは、要するに「倫理的判断」をしているちゅうことだろ?

>実際、「神は妄想である」のドーキンスの議論には、科学だけでなく倫理学などの分野も関連しています。

うんうん。別に科学者が倫理について語っても構わにゃーと僕も思う。
しかし、宗教家が語っていけにゃーとも思わにゃーぜ。
科学者である自分が倫理を語るのはいいけど、宗教者に語る資格がないとでもいってるのなら、とんだダブスタ小僧にゃんねえ>ドーキンス

そもそもさ、倫理とか道徳って、専門家のみに語る資格があるという類いのものではにゃーだろ。
万人が従うべき規範について考えるときには、万人に発言権があるのはアッタリマエだよにゃ。例えば、犯罪者だからこそ説得力のある倫理に関する発言だってありえるわけだにゃ。道徳的価値を扱うについては、適するも適さないもなく、みなに発言権があるにゃんね。


その上、
宗教には積極的に倫理について発言してもらわなければ困るんだにゃ。理由はいま思いつくところで2つ。

1)先ほど言った通り、倫理とは万人に開かれ、万人が従うべき規範だよにゃ。であれば、多数派を無視することはできにゃーのよ。無論、多数決で決まるようなものではにゃーが、多数派を無視もできにゃーわけね。地球上では無神論者よりも信仰者の数のほうがはるかに多く、彼らの依拠する価値を無視できうるはずもにゃー。

2)倫理とか道徳というものは、ようは「価値」「規範」を扱うというこものだにゃ。で、価値や規範というのは実証的・科学的に決められるものではにゃーよな(実証的に価値や規範を決めるのであれば科学的に決めるべき)。で、現実に宗教というものは価値や規範を説いているだろ? 適している適してないとかいうお話以前に、実際に価値や規範を扱っているという事実が厳としてあるにゃんなあ。

つまりさ、
倫理とか道徳といった問題に対して、ある社会集団や個人の独占を許すことも、あるいは排除することもブッブーなのよ。

>一般論として、何かが何かを扱うのに適した枠組みかどうか、適していると主張する側に立証責任があるでしょう。

したがって、適しているとか適してないとかいう話は問題外。
倫理や道徳については誰でも発言してよいし、責任を多く負うものには倫理の問題から離れることは許されにゃー。どうしても宗教の言い分を聞いておく必要はありますにゃ。したがって「宗教による道徳についての意見は尊重すべきものだとグールドが考えているのは」まさに妥当な見解にゃんねえ。

40chochonmage:2007/11/19(月) 05:31:54 ID:Qhwn4442
えーっと、私はドーキンス派なのですが、猫さんご指摘の

1.ドーキンスがしていることは啓蒙活動である。
2.ドーキンスがしていることは文化相対主義の観点から問題がある。

の二点については、私としては認めざるを得ません。

しかし、その上でドーキンスの擁護にまわりたいと思います

>科学者である自分が倫理を語るのはいいけど、宗教者に語る資格がないとでもいってるのなら、
>とんだダブスタ小僧にゃんねえ>ドーキンス

ドーキンス氏(なぜか山本氏とか日本人には”氏”をつけて、
ドーキンスさんには”氏”つけてなかった。ダブスタもいい加減にしろよ>俺)
は上記のようには言っていないと思います。
宗教者の「宗教が無ければ倫理が崩壊する」という発言に対する押し返しとして
「宗教なくしても倫理は成り立つ」ということを論証しようとしています。

>倫理とか道徳といった問題に対して、ある社会集団や個人の独占を許すことも、
あるいは排除することもブッブーなのよ。

「多数派である信仰者」が、事実上、倫理や道徳の独占をしていることにドーキンス氏は対峙しています。
猫さんは、上記ご発言で、「独占を排除すること」もブッブーだとおっしゃっているのでしょうか?

41chochonmage:2007/11/19(月) 05:36:22 ID:Qhwn4442
「啓蒙」の部分ですが、そもそもドーキンス氏は「フィクションとしての宗教」を否定していません。
例えば彼は「西洋人」としての文化的素養としての聖書理解はむしろ重要であるという認識です。
それは、シェークスピアの「物語」を「西洋人」の常識として身につけるのが重要であると考えることと
同様の認識だと思われます。

彼が批判しているのは、「宗教というフィクション」をそれこそ「逐語的」に取り入れ、その内容に「懐疑的」に接せず
「盲信」してしまうことだと思います。(それを信仰と呼ぶのでしょうが)
そして、信仰者がその奉じる宗教の内容をフィクションでないと主張することと、シェークスピアの物語が
フィクションでないと主張することの差異が、私には見えません。

>聖書の相互に矛盾するように見える記述について厖大な解釈がなされているのは僕だってしっているにゃ。

私は聖書学、神学等に全く無知でありますので、ご批判は甘受いたしますが、
ここの部分なんかは、私には「フィクションであるストーリーの矛盾部分の厖大なつじつま合わせ」に思われてしまいます。
(歴史学的な証拠に基づいて検証できる部分は除いて)
ラブクラフト氏のクトゥルフ神話を同時代、後世の人たちが様々に解釈、世界観の構築に励んだことに似ているように
思えます。
その研究過程で新たな重要な思想が生まれ、蓄積されてきたであろうことは容易に想像でき、かつ錬金術が科学を
大いに発展させたのと同様に有意義であったのであろうとは思いますが。

で、ドーキンス氏が「啓蒙」しようとしているのは、
「フィクションと現実をごっちゃにするなよ」=「クトゥルフの世界をほんとの世界だと思うなよ。(マニアには多いらしいっす。)」
レベルの話だと思うんです。
そのぐらい言ってもいいじゃん、と私なんぞは思ってしまうのは、やはり危険なのでしょうか。

さらに、「逐語解釈」について、読者が宗教文献を読むときにどこを逐語解釈し、どこを比喩的に捉えるかというのは
誰が決めるのでしょう。そこに神学のキモがあるのでしょうが、いずれにしても決める人の脳内の話になってしまうのでは
ないでしょうか。
私が例えばキリスト教に入信したいと思ったときに、極力「逐語解釈」から遠い宗派を選ぶのが安全なのでしょうか。
イエスが「神の子」である、「復活した」ひいては「神の存在」さえ逐語解釈していない宗派はあるのでしょうか。

42chochonmage:2007/11/19(月) 06:56:03 ID:Qhwn4442
シェークスピア「氏」、でした。
こだわると結構わずらわしいっすね。(^ ^;

43カクレクマノミ:2007/11/19(月) 08:53:45 ID:THRtI5kM
>ならば、宗教家が殺人犯を非難することも許されて当然ではにゃーのかね?

えと、宗教家が個人として倫理的判断をするのは全くかまわないし、宗教家の意見が一個人の意見としてそれなりに尊重されるのは全くかまわないでしょう。
ドーキンスもそれを否定したりはしていないと思いますが。

ドーキンスが問題にしているのは、宗教に基づいた意見が、そうでない意見に比べて特に尊重されるべき理由は示されていないというものです。
地下猫さんがおっしゃるように、宗教を信じている人の方が人数が多いから、尊重すべきというのは1つの理由かもしれません。でもそれは、宗教的意見と非宗教的意見を区別しなくても、単なる多数決と結果は変わりません。多数決の表現で言うなら、ドーキンスが批判しているのは、宗教に基づく票には重み付けして集計するような態度です。
ある人の意見は、宗教的であろうと非宗教的であろうと1票に数えられるべきです。

もう1つの問題は、宗教的意見であれば批判が許されないという点です。
いくら価値は相対的で、倫理は実証的に取り扱えないとしても、倫理的主張には説得力のあるものと荒唐無稽なものがあります。この点で価値相対主義的でないと言われればそうかもしれませんが、そこまで行くと相対主義と言うよりもアナーキズムになってしまうでしょう。地下猫さんだって、グールドによる価値に関する意見には説得力があり、ドーキンスのそれは荒唐無稽であると主張しているわけですし、この点には同意していただけると思います。
非宗教的に荒唐無稽な意見を言えば、もちろん批判されます。じゃあ宗教的で荒唐無稽な意見に対してはどうすればいいのでしょう?同じくらい荒唐無稽な非宗教的意見に比べて批判すべきでない理由はあるでしょうか?
ドーキンスはないと主張しますし、僕もそれに同意します。

44NAN:2007/11/19(月) 09:55:21 ID:???
かくなる私の考えによると、一般的(世俗的)に言う「神」とは「お偉いさん」すべてを象徴するものであり、なにか非常に現実的な「ご飯」とか「おこづかい」とか時には「罰」を「生きている者」に与える存在です。言い換えれば倫理そのもの、と云ってもいいでしょう。お金を盗んだらいけないことも、むやみに人を殺してはいけないことも、それらは妄想である現実を保つために必要な「狂気」の一種であり、この狂気がもしも霧散したならば、今ある文明社会とやらが根底からひっくり返るような類のものです。

これらは大抵、誰もが営んでいる生活の対価として現れます。自給800円で8時間働くと6400円もらえる。信仰はこれほど具体的ではないけれど、一種のヒエラルキー(坊さんの位とか位牌とか牧師のランクとか果ては天使の階級まで様々)が存在することが、やはり実績に対する対価を保証していて、それらピラミッドの頂点に位置するものが「世俗的な神」の正体なのだろう、と思います。

信仰に対して、そんなものどうでもいいじゃん!と云える人であっても、社会的信用制度に対してそれを云える人はとても少ないでしょう。お金?全部あげるよ!とか云えないことと同じです。特定地域における信仰はそれ以上に厳格な規範として共同体を支え(だって財産投げ出しても信仰するんだぜ)、規範に背くものには積極的に罰を与える。まさにそこでは信徒が神そのものであり、彼らの「意向」に背くということはそのまま、神への冒涜であることにワイヤリングされちゃう…しかもごく自然にそうなるのではないでしょうかね。

では科学はなにをするのか?

コレは当然、それらが妄想であることを暴く存在です。しかも「倫理に束縛されない」という、ジンルイ歴史上最強の無敵モードというかチート行為によって、一部のニンゲンの目を片っ端から覚ましてしまう、実にキケンなシロモノなのですね。

なんてことだ!イカの目が我々ニンゲンの目より高度な構造になっていたなんて!これが科学です。究極の平等であり、無差別攻撃です。天体の運動も、時間さえもが相対的であることを暴き、ジンルイシャカイを支えるあらゆるヒエラルキーが、それらはまったく正当性の見当たらない、単に「ヒトビトの要求」によってルール化された真実味のない妄想であることさえ教えてしまう、価値に依存する人にとっては猛毒と云って差し支えないでしょう。

しかしここで気付くことがあります。巨大宗教の本当に原始的な教えも、実は似たようなものではなかっただろうか?ある苦しみがそこにあるのならば、その原因を科学的に探り、ワケの分からない形而上に頼らずに問題解決に臨め、と教えたのではないだろうか。私はそう思います。難しい問題はなんでも「神のミワザ」にしちゃうのも、消費税の税率が上がる本当の理由も、似たようなものです。問題の棚上げやすり替えによって、妄想を保つ行為にほかなりません。

いわゆるキリスト教信者で全うな生物科学者である人は、山ほどいるでしょう。相対論を数式(幾何)で理解している仏教家も、数多くいることでしょう。私は思うのですが、彼らは迷うことなく信仰と科学を両立させているのでしょう。それは恐らく、我々が営む「現実と認識される世界」が妄想であることを認め、受け容れた後に訪れる(宗教的な意味に於いても)「悟り」の境地に近いのではないでしょうか。

神とはつまり、想像を超えるもの、であるはずだと私は思います。聖書に書いてある神なんてのは、想像の産物なのですから神であるはずがない(しかしガイネンとしての神を導入するきっかけには使える)。人語にコーディングされた瞬間、神は神でなくなる。そういうものだと思うのです。既存宗教とはこれに反し、想像の「限界」を経典の内部に閉じ込め、封印させる装置です。国家も似たようなものですが、一応立法制度があるので少しは革新的かも知れません。まぁ現実が妄想であることがバレないようにするには、想像の限界点というのを定め、定点化することで絶対的な価値観を維持できるってことですね。

神と科学は、もちろん共存できるでしょう。それが私の結論です。想像の限界を超え、あらゆる屈辱的な事実を受け容れ、事象と向き合う姿勢こそが科学の姿である、と私は思います。だからこそ、真に科学的である姿勢を貫ける人格というのは、ほとんど存在しないだろうな、とも思います。

45NAN:2007/11/19(月) 09:55:57 ID:???
件の本は私も未読なので書評的なことは書けませんが…少なくともドーキンスは時折、宗教(あるいは宗教家)に対して露骨な感情(もちろん嫌悪)を露に表現していることは間違いない、と私は思う。この理由、つまり米国の末期的な狂信者の群れと共存しなければならない進化生物学者のストレスという点について、私は大いに同情できるし理解もできるけれど、かといってそれが「行き過ぎに見える」ことに違いはありません。

で、このスレってドーキンスの人物評スレ(あるいは書評)なの?だったら正直あんまり興味ないんだけど、スレタイどおりに「神と科学は共存できるか?」ってところを主題にして良ければ若干書きたいことがあります。

根源的に考えると、情緒を持つ生物すべてが恐れるものは「死」ですね。人間においてそれは激しく顕著で、信仰はそれを薄れさせてくれるものだったのだろう、と私は思います。言い方を変えると、一種の生命保険ですね。きちんと積み立てすると、こんだけ保証があんだよ、みたいな(笑。死の恐怖を担保しつつ、生の苦しみを補填してくれるものが信仰だったのでしょう。お金を貯めるのも社会的地位を向上させるのもあれこれと蓄財したりコレクションしたりするのも、生の満足度と死の恐怖とのバランスシートの上で成り立っているのではないだろうか?なんてことを最近は考えています。

そいでもって、猫氏じゃないけど私にとって究極の理解ってのがあり、それは「なんでも妄想なんじゃん!」という科学的知見に基づくスタンス(視点)です。ドーキンスが「悪魔に仕える牧師」の中で書いている、分子の格子の中の兵隊の視点では、世界はスカスカです。電子と電子、あるいは核と電子、あるいは分子配列中の各原子の距離というのは、人間的スケールに直すと膨大なものであり、私たちがなにかに「触れた」と感じているのも、実は電子のやりとりに過ぎない。とても硬い壁に思えているものも、たまたま私たちの脳は「硬くて通り抜けられない」と知覚する(それも恐らく進化的要望によって)に過ぎない。私たちは妄想(あるいは知覚という幻想)の中で生きているという事実です。

ところが…我々が感じる苦悩や欲望、あるいは喜びや幸せさえもが、実は妄想であることを約2000年ほど前に説いた人がいます。イエスですね。ていうか仏陀でもいいけど、原始経典にある「教え」ってそういうものでしょ。キリスト教は詳しくないけど、原始仏教なんかそうですね。(死を超えるとかってそういうことじゃなかろうか)

しかし、世界が妄想だと困る人たちがいる。最初は弟子たち、以後は教会や寺社かな。「神」を強く導入したのはそういう人たちでしょう。死んだら仏になるとか神がいつも見ているとか、それらは帰依を強要し死を担保された共同体として強く結びついていったんじゃないでしょうかね。

実は、生命保険だとか積み立て預金の勧誘と布教活動はそっくりだな、と思っています。どちらも「価値」を保証するものだし、自由経済社会における倫理を支えるものって、実は通貨だったりするんだけど(なにせ罰金刑だとか保釈金なんてものがある)、信仰によって得られるものはなんだ?と考えると…ああそうか、教会に行っている、という「共同意識」なんかが、たとえば米国などでは非常に強い、きっと「村(共同体)への帰属意識」なのではないかな、と思います。

内心の自由ではなく、共同体としての確固たる枠組みを保つためには、さまざまな理由付け、あるいは私の大嫌いな「自己正当化」が必ず必要で、これに反するもの、つまり経典に反するものを排除したがるのも頷けるところでして、創造科学信仰家が守りたいものとは、個別の信仰ではなく共同体としての信仰集団を支える正当性なんだろうね、などと思うわけです。

と、前振りが長くなりましたがいよいよ本題へ(笑。

46NAN:2007/11/19(月) 09:56:33 ID:???
失礼!書き込みが逆順に投稿されちまいましたとさ!

47chochonmage:2007/11/19(月) 15:40:37 ID:Qhwn4442
それから、文化相対主義の話なのですが、私も基本的には文化相対主義者でありたいと思っています。
他者の文化を大切にしよう、他者の意見を大切にしよう、お父さんお母さんを大切にしよう、一日一善!
などと思ってしまう今日この頃ではあります。

しかし、文化相対主義というのは無敵の思想なのでしょうか。
すでに古い議論かもしれませんが女性割礼廃絶運動が文化相対主義者
から批判された一件など、私はやはり廃絶運動の方を支持したくなります。
(もちろんどうしてもしたいと本人が主張した場合、止める権利はだれにもありませんが。)

また、ある文化が「他文化の否定」を既に含んでいた場合(多くの宗教なんかモロこれにあてはまる
と思うのですが)それさえも尊重しなさいという話になって自己矛盾しちゃいます。
(「お前は他者の文化を否定してるから間違っとる」「これは我々の所属するコミュニティの
文化であるからして、その文化を否定するお前の方が間違っとる」ってな話ですな。)

さらに、文化相対主義を徹底した場合「完全逐語解釈宗教者」やNOMA侵犯の「創造科学者」でさえ、
それもまた文化の一部だということで、「カス」だとはよべなくなってしまうと思うのです。

で、文化相対主義の観点から問題ありとしても、必ずしも誤ってるとは言えないと
思うのですが、これは私の浅薄な見方にすぎないのでしょうか。

48後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:22:30 ID:FvvOuBrA
>>18の約束通り、とりあえず11月15日までのコメントについて返信したいと思います。3日かけて冷静に多面的批判的にじっくり読んだつもりですけど、まだ誤読・誤解、重要な論点の見落としなどがあれば指摘していただきたいと思います。それ以降のコメントについては、私自身がまだ我田引水な誤読や先入観による誤解をしている点が多々あると思いますので、もう少しきちんと読み返した上で返信したいと思います。

>>20:chochonmageさん
>猫さんの「固有文化否定のローラー作戦」、「啓蒙主義の血塗られた歴史」等の
>記述を読んで、現在考えが色々と揺れております。

「固有文化否定のローラー作戦」については、>>3のコメント(2007/11/07 20:49)の最初の段落を読んでも納得できなかったということでしょうか。ならば、『神は妄想である』第1章「すこぶる宗教的な不信心者」などを読むといいと思います。

>>20:chochonmageさん
>というのは、「おバカなこと」を撲滅することは、即ち「おバカなことを信じちゃう人」を撲滅する
>ことに繋がることに気がつかされたからです。それってやはり血塗られた道になりそうです。

「おバカなこと=“正しさ”を独占するモノ」がなければ、たぶん血塗られた道にはならない気がしますが、楽観的過ぎるでしょうか。人間を「血塗られた道」に駆り立てるモノが何なのかを、もう一度検討してみる価値はあるかも知れません。
>>17のたとえ話をもう一度読んで欲しいのですけど、(4)のような場で「俺が正しい! 俺に従え!」と言い張る人がいたら、誰かがその人を諭すか、だんだんと人が離れていくだけですよね。あなたはそういう人を殴り倒せますか。そういう気持ちにはなるかも知れませんが、まず実際にそんなことはしませんよね。殴り倒すことが、その人の「悪行」への制裁として本当に相応しいかどうか、まず考えてしまうはずです(相応しいとなれば殴り倒すでしょうけど、そういった場面場面で下される我々の判断がどれほど普遍性をもち信頼に値するかについての議論は、『神は妄想である』第6〜7章に詳しいです)。そういうふうになっていくんじゃないでしょうか。
しかし、「おバカなこと=“正しさ”を独占するモノ」にとって、その「正しさ」に疑問をもつとか、その「正しさ」を認められないとかいった「罪」は、無条件で自動的にどのような制裁にも釣り合う罪になってしまう傾向がとてつもなく強いわけです。その点こそを問題にし、非難しているわけです。

>>20:chochonmageさん
>で、やはり後悔と懺悔さんは「おバカなこと撲滅論者」ではありませんか?

正直に言うと、私の立場は、「おバカなこと=“正しさ”を独占するモノ」がどれほど人類にとって悪しきモノかということを、すべての人間が学び知るべきだ──というところまでです。
何度も書いてるけど、人間なんて弱いモノです。絶対的な「正しさ」を求めてしまう心を撲滅してしまうことが本当にできるとは思えません。少なくとも私はできない。でも、人間が本来的にもつそういった心の「悪しき」部分が他人に噛み付いたりしないように、ある程度飼い慣らすことはできると思うんです。だから、あえて言うなら「おバカなこと探究論者」かな。マキアベリじゃないけど、「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探究することである」ということを主張したいと考えています。
──でも、本当に撲滅できるのならば、(手段にもよりますけど)それにこしたことはないとも思っています。『神は妄想である』はその意味でも挑戦的で興味深い意欲作だと思います。

>>20:chochonmageさん
>上記なような「おバカなこと」も信じちゃうのがあたりまえだと考えた方がいいのでしょうか?

横レスで失礼しますが、私自身は、人間は「おバカなこと」も信じちゃうのが当たり前だと考えた方が良いと思います。そしてそのことは現代の人間が必ず学ばなければならないことの一つだと考えています。宗教について、この観点からの議論は『神は妄想である』第5章「宗教の起源」に詳しいです。

49後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:24:14 ID:FvvOuBrA
>>25:カクレクマノミさん
>ところで、「重要な問い」に答えを出す単位は、「各文化」ないし「各宗教」なのでしょうか?答えを出すのは、各個人なのでは?

そのとおりなのですけど、私はニーチェみたいに(?)「神なんかに頼らないで、ひとりひとりが強くなって生きようね」などと主張できるほど、人類に対して楽観的にはなれないわけです。『神は妄想である』第5章「宗教の起源」などを読めば、「重要な問い」に向き合う際に「宗教」が人類にとっていかに拒みがたく魅力的な麻薬であるか納得していただけるのではないでしょうか。
いろんな意味で問題のある比喩ですけど、煙草を吸うか吸わないかの答えを出すのは各個人です。でも、煙草の魅力に逆らうのは(特に幼少時からそれに接している人にとっては)難しいのではないのでしょうか。特に煙草の(いろんな意味での)害を知らなければ、なおさらです。私は喫煙者を非難するのではなく、煙草そのものの害をいろいろな面から論じることで、各個人が煙草を選ぶときの判断基準を提供したいわけです(で、私の主張が正当でかつ説得力を持つものならば、煙草はしだいに社会から姿を消すことになっていく──当然喫煙者も少なくなっていくし、残った喫煙者は煙草の(いろんな意味での)害についてちゃんと理解した上で楽しむようになる──と期待しても良いでしょう)。

>>26:GBさん
>人の「理性」がそれらの問題に答え得るというのは、幻想なのではないか。

何度も繰り返していますけど、この(当然生じうる)疑問については、私は主に2つの点から反論をしています。
(1)「重要な問い」に対する何らかの答え(絶対的な「正しい」答え)が得られて、それを人類が共有できるというのは確かに幻想であるし、有害ですらある(もちろん各個人がその答えを得たと思うのは構わない)。私が主張したいのは「重要な問い」への向き合い方についてである。
(2)「重要な問い」への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(人類の歴史上、事実の問題として、それを妨げている最大の要因は「宗教」であるようにさえ思われる)。この点については、『神は妄想である』第6〜7章で徹底的批判的に議論されている。
ただ、この2点(特に(2))の主張の正当性について私の信頼度はドーキンスほど強固ではありません。だからこそ、ここでさまざまな方のご意見をうかがいたいわけです。

>>27:Kosukeさん
>究極的には、個人の心の中だけの営みとして宗教を定義(限定)してしまえば、かなりのトラブルは防げると思います。

Kosukeさん自身も認めていらっしゃるように、いわゆる「宗教」が実際にはそういうものではないから非難しているわけです。
付け加えるならば、そういうものは(少なくとも私とたぶんドーキンスも)ここでは「宗教」とは呼んでいません(たとえば、>>16の【立場2d】(補記)や、『神は妄想である』第1〜2章などを参照)。余談ですけど、私が注意深く括弧付きで「宗教」と書いたり、「“正しさ”を独占するモノ」と言い換えたりしているのも、そういう理由からです。

50後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:25:09 ID:FvvOuBrA
>>24:AH1さんの論点は、私の立場(“「宗教」有害論”&“人類は「宗教」がなくても「重要な問い」にうまく向かい合える論”の立場)にとって興味深いものであるので、少し詳しく論じておきたいと思います。

まず、対立する意見が深刻な衝突をおこした場合、議論以上に望ましい解決策が私には思い浮かびません。この点については、ぜひとも皆さまのご意見をうかがいたいと思っています。
なお、誤解のないように付記しておけば、正しくは「私」が思い浮かばないのではなく、私がこれまで知りえた狭く偏った僅かな知識や経験のなかに、議論以上に望ましいと思えた解決策のアイデアが存在しないということです。>>7の地下に眠るMさんのコメントにならって言うなら、私はプラトーンには遠く及びませんが、プラトーンに学ぶことはできますから(ちなみに古代ギリシアのデマゴーグたちやソフィストたちからも学ぶべきことが多いのは知っています、念の為)。
さらにあわてて補足しておきますけど、ここでいう「議論」とは、「ディベート」や「言い争い」みたいなものでも、ましてや「勝ち負け」を決めるようなものでもないということは強調させて下さい。

さて、実は、日常生活で対立する意見が深刻な衝突をおこす事態というのは案外少ないのではないでしょうか。>>17の例でも、「あえて言えば中華だけど別になんでもいい」「むしろ誰かにスパッと決めてもらえるとありがたい」という人も多いわけです。
一般的な極めて単純化した話をすれば、人生に立ちはだかるさまざまな問題に対して優先順位(または「譲れない度」とでも言いましょうか)というものがあります。ある問題に対して、Aさんはとても差し迫った重大な問題ととらえるかも知れません。同じ問題に対してBさんはあまり関心をもたないかも知れません。一般に、ある問題に対して高い優先順位を与えた人は、そうでない人に比べて、その問題についてより広く深く知識を集め思索を深めていると期待することができますから、意見の対立があった場合には、とりあえずそういう人の意見を聞いておこう──と判断する傾向が多くの人間にはあるわけです。人類はそれでとんでもない大失敗をしでかしてしまうことも多かったわけですが、長い目で見れば、全体的には概ねそれでうまくやっていったように見えます。

たとえば、普通の多くの人にとって「同性愛問題」は、その人が抱え思い悩むさまざまな問題のなかでも特に高い優先順位が与えられるということはまずないと思われます。少なくとも、その人が払わねばならない税金についての議論よりも優先順位が上であることはないでしょうし、同性愛者自身が同性愛問題に与える優先順位よりも上になることはおよそ考えられないでしょう。だから、同性愛問題で意見が対立した場合、当然議論になりますが、普通の多くの人は同性愛者に主導権を譲るわけです(ただ、もしも同性愛者が税制的な優遇や公的福祉の拡充などを主張すれば、普通の多くの人が高い優先順位を与えている問題に抵触しますから、真剣な議論が必要になるでしょうけど……)。

しかし、「“正しさ”を独占するモノ」、特に「宗教」が絡むと事態は不穏に変化します。
信仰者にとって、「宗教」はつねに優先順位の最上位にくることになります(それは「正しさ」を独占するものですから)。一般の信仰者にとって同性愛問題の優先順位は低いかも知れませんが、「宗教」の教義がそれを否定しているとなれば、無条件でそれはその人の優先順位の最上位に置かれてしまいます。信仰者にとっては「“正しさ”を独占するモノ」の見解に反する主張を撲滅することが優先順位の最上位を占めているからです。さらに、その問題についてより広く深く知識を集め思索を深めていると期待できる人の見解を学んだり取り入れたりして自分の見解を改善することが期待できません。「“正しさ”を独占するモノ」の見解は予断なく「正しい」からです。

つまり、「宗教」は本来おこりえなかったはずの深刻な対立・衝突を誘発するものでもあるわけです。これが私が「宗教有害論」を唱える根拠のひとつ(あくまでひとつ)です。
もちろん、このような本来不要なはずの深刻な対立を煽る傾向は「宗教」に限ったことではありませんが、特にこの点における「宗教」の絶大な威力は目に余るものがあるように感じます。

51後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:28:49 ID:FvvOuBrA
正直に言って、地下に眠るMさんは『神は妄想である』を読んだほうが良いと思います。「藁人形論法」という言葉をご存知かも知れませんけど、地下に眠るMさんのここでの主張は完全に「藁人形論法」になっています。

>>21:地下に眠るMさん
>ただ、宗教は「重要な問い」に答えられない、という判断は少なくとも科学がしてよいことではにゃーといっているんだにゃ。

これは2重の意味ではっきり誤解です。誰も「宗教は「重要な問い」に答えられない」とは言っていません。主張しているのは「「重要な問い」に対する答えとしての宗教は有害である」ということです。そして、誰もその主張の根拠を「科学」に求めたりしていません。「宗教がいかに有害か」を述べるのに「科学」など必要ないことは言うまでもないでしょう。
これらは『神は妄想である』を読んだ人間にとって誤解の余地はありません。

>>21:地下に眠るMさん
>僕は、ドーキンスは「啓蒙」の立場だと思ってるにゃ。

私は「(地下に眠るMさんのいう意味での)啓蒙」の立場ではない気がします。「重要な問い」に絶対的な正しい答え(と称するモノ)を与えるモノはなんであれすべて有害だ──と誰よりも強く主張しているドーキンスに向かって、『神は妄想である』を読まずに、彼が「(地下に眠るMさんのいう意味での)啓蒙」の立場だとして非難するというのは、勇み足に過ぎると思います。
「重要な問い」に絶対的な正しい答えがなくても、人間は「重要な問い」に向き合えるはずではないのか──ということを、『神は妄想である』のなかで彼は徹底的批判的に検討しているものと、私は理解しました。この彼の立場は、「(地下に眠るMさんのいう意味での)啓蒙」の立場とイコールなのでしょうか。私にはそうは思えないのですが。

>>21:地下に眠るMさん
>各宗教がそれぞれの立場で「重要な問い」に答えることこそが自由と寛容の精神にのっとることに一応なるわけにゃんな。

それは、各宗教が人々にその「正しさ」を強制しない限りにおいて、また、各宗教が教義の対立する他の宗教に対しても自由と寛容の精神を保てる限りにおいて、認められるべきかと思います。そして、ここで問題になっている「宗教」は、容易に喜んでその自由と寛容の精神を破棄する強い傾向をもつことが避けえないし、実際破棄し続けてきたという点を非難されているわけです。
そういう傾向のない「文化としての宗教(という言い方が適切かどうか分からないけど)」については、>>3のコメント(2007/11/07 20:49)の最初の段落、および>>16の【立場2d】(補記)ですでに述べたとおりです。それでも納得できないようでしたら、『神は妄想である』第1〜2章を読むことをお勧めします。

>>22:地下に眠るMさん
>3の原則を「他者危害原則」、4の原則を「愚行権」と言うのですにゃ。

ご説明のことはもちろん存じています。私は(そしてたぶんドーキンスも)、「“正しさ”を独占するモノ」が著しく容易にこれ以上ないほど効果的かつ徹底的に「他者危害原則」を犯すことを助長しうる──と非難しているわけです。私が(そしてドーキンスも)「(他人に危害を及ぼさない)愚行権」を否定したことがあったでしょうか。少なくとも私は「愚行権」を非難する気はまったくありません。>>16の【立場2d】(補記)や、>>17のたとえ話の(4)は、その種の誤解をあらかじめ回避する意図だったのですけど……。

──────────
ところで、最初、私は、地下に眠るMさんは、「「重要な問い」に向き合うのに、人類から「宗教」を奪ったら、「(地下に眠るMさんがいう意味での)啓蒙」しか残らない」「だから「宗教」はいわば“必要悪”である」という主張をしているのかと思っていました(>>4で引用された一番下のコメントなどを参照)。

しかし、「ドーキンスは、「重要な問い」に向き合おうという人類から「宗教」を奪って「(地下に眠るMさんがいう意味での)啓蒙」を押しつけようとしている」というのが、地下に眠るMさんの現在の主張なのだとしたら、はっきり言って、私は、私の知らなかった・気づかなかった視点や論点・事実などに気づかせてもらえるなど、この議論を通じて地下に眠るMさんから何かを得られるかも知れないという期待をもつことができません。ドーキンスの立場については、カクレクマノさんが(私よりも的確かつ端的に)説明されていますから、私がこの件についてこれ以上口を挟んでカクレクマノさんの解説を邪魔するのは良くないでしょう(もちろん、『神は妄想である』を読んでなお同じようなことを主張なさるのでしたら、話は別ですけど)。

52後悔と懺悔:2007/11/21(水) 00:30:09 ID:FvvOuBrA
>>22:地下に眠るMさん

加藤尚武『現代倫理学入門』を読みました(ご紹介ありがとうございます)。倫理学者たちの思索の偉大な成果はともかく、『神は妄想である』では、似たようなより悩ましい様々な事例について、現実の人間(西洋人及び文明人との交渉がほとんどなく宗教らしい宗教も持たない中央アメリカの小さな部族)の道徳感覚を実際に調査した研究が紹介されています(p.325以下)。大変興味深い結果だと思うので、一読をお勧めします。
ちなみに、イスラエルの子供1000人以上に対する調査で、聖書の「ヨシュア記」のエピソード(預言者ヨシュアに命じられたイスラエルの民が異教徒の町々を焼き払い、女子供家畜にいたるまで一人残らず虐殺した上で財宝を略奪し主に捧げた物語)について、74%が民は正しい振る舞いをしたと回答したこと、また、ヨシュアを「リン将軍」、イスラエルを「3000年前の中国の王国」に変えただけのまったく同じ文章では、民の振る舞いを是認したのは7%に激減したことも紹介されています(p.372以下)。

──────────
ところで、ここでの議論とはまったく関係ないのですけど、個人的な興味から教えて欲しいことがあります。

>>22:地下に眠るMさん
>種痘の予防接種法を発見したジェンナーなんて、愚行の極みを地でいっとるよにゃ。

似た分野で言えば、華岡青洲の妻や母、晩年の野口英世などに対して「愚行の極みを地でいっている」というのなら理解できなくもないのですけど、ジェンナーって、何か「愚行の極み」のようなことをしてましたっけ。私は、先にも書いたように、人間の愚行(我々はどんな愚行をしでかしうるのか)にはとても興味があるので、ぜひ教えて下さい。

53chochonmage:2007/11/21(水) 03:07:14 ID:Qhwn4442
後悔と懺悔様

>世界各地の固有文化と「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)への
>答えとしての宗教」は分離可能だと私は考えますし,

猫さんは、

>ドーキンスの言い分って固有文化否定のローラー作戦、あるいは貨幣を唯一神とあがめる「グローバリズム」
>とかいう名の拝金教のイデオローグにもなりかねにゃーんだ。

と、書かれてます。「である。」とはおっしゃっていません。
で、私も「なりかねにゃー」と思います。

後悔と懺悔や私の立場からすれば「分離可能」だと考えられるし、それがそれほど困難な
ことだとは思えませんが、宗教が日常の、そして人生そのもののほとんどを占めてしまって
いる方たちっているわけで(極端な例で言うとアーミッシュの人たちとか)、この方たちにとって、
宗教を何かから分離するというのはとんでもなく難しいことだと思うのです。

我々がここで固有文化と「重要な問い」に対する答えとしての宗教を分離した議論を展開することは
可能ですし、「宗教≒人生」外部の人たちの間でのある程度の合意を得ることも可能かも知れません。

でも、例えば米国の白人ばっかの小さな田舎町を想像してみてください。そこでは教会がコミュニティの
中心であり、皆で同様の思想を共有してそれなりに平和に暮らしちゃってるわけですよね。
そこはかなり外界から隔離された場所であり、情報が行き届き難い場所でむかしながらに暮らしている
わけです。
もちろん現代のインターネットやら通信技術の発展した世界で「我々には情報が届きにくい」とか主張されたら、
私なんぞは、そらぁ単なる怠慢やんけとか言いたくなりますけど。しかも恵まれた米国で。

私はそういう「宗教≒人生」という人たちを見たり、それが大きな理由のひとつとなって世に起きている悲惨を
見て「何とかならんのか」という感想を抱きますし、かつ私の考える「おバカなこと」を「撲滅」したく思ってしまいます。
また、ドーキンス氏がさんざん論じておられるように、「宗教≒人生」の人たちの子供たちが親の考えを刷り込まれ、
公平な知見を得るのに困難が生じることに対して憤りを覚えます。

ただ、猫さんの記述を拝読して「ことはそれほど単純ではないな」ということを改めて確認させられました。
モルモンの人たちのように国家と戦争になっちまうことさえあるのですから、「宗教≒人生」という人たちが存在する
以上それを変えようとする動きには相当な抵抗が予想され、状況次第で簡単に血塗られた道になりそうだと
思います。

ですが、ドーキンス氏が主張していることは(「本音」は撲滅したいのだとまだ私は思っているのですが)
カクレクマノミさんがわかりやすく、的確に要約してくださっていることだと思いますので、
私はドーキンス氏を支持したいです。

54地下に眠るM:2007/11/21(水) 13:01:27 ID:cizMQ0FI
>カクレクマノミ

おみゃーさんが>>43で述べた内容に特に異論はありませんにゃ。
でもさ、>>43の記述内容ってグールドの言っていることと変わらないんでにゃーの?
なんでグールドが犬呼ばわりされたんだろ?
ドーキンスの考えが>>43のようなものだとしたら、グールドへの犬呼ばわりの理由がわかんにゃーのだが

グールド「宗教と科学は共存できるだろ」
ドーキンス「共存だとお? おまえは宗教の犬か? あいつらは侵略者なんだ。」
という話なのでにゃーの?

つまり、このロジックでは最終的には宗教全否定にならざるをえにゃーんだけど。
ドーキンスの主張って「やつらは侵略者だ。殺られる前に殺っちまおうぜ」
とかいう全体主義国家の総統が好むロジックなんでにゃーですか?

55カクレクマノミ:2007/11/21(水) 14:48:38 ID:THRtI5kM
ドーキンスのどの主張が、「やつらは侵略者だ。殺られる前に殺っちまおうぜ」に対応するのかよくわからないので、返答できません。

56地下に眠るM:2007/11/21(水) 14:58:01 ID:cizMQ0FI
グールド「宗教と科学は共存できるだろ」
ドーキンス「共存だとお? おまえは宗教の犬か? あいつらは侵略者なんだ。」

まではおっけー?>カクレクマノミ

で、ある社会集団を侵略者だと認定したら、「殺られる前に殺っちまおうぜ」となるのは必然ではにゃーの?

57AH1:2007/11/21(水) 16:24:27 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔様

>まず、対立する意見が深刻な衝突をおこした場合、議論以上に望ましい解決策が私には思い浮かびません。この点については、ぜひとも皆さまのご意見をうかがいたいと思っています。

はい、私もそのように考えます。より正確に言えば、「正しいであろう判断」としてそれを支持します。
内心で「この阿呆が**したろか!!」と思うことはありますが、現在、自分の暮らす社会で、公に認められないであろうという意味です。
(さらに自分だけが何をしてもいいというのは不公平であると認めているとか、そういう点もあります)

>さて、実は、日常生活で対立する意見が深刻な衝突をおこす事態というのは案外少ないのではないでしょうか。>>17の例でも、「あえて言えば中華だけど別になんでもいい」「むしろ誰かにスパッと決めてもらえるとありがたい」という人も多いわけです。

同意します。先の投稿では対立する場合としてちょっと強調して例を挙げました。
「今日は中華!神様がそう決めたの!」に対する反論は、二種類あるかと思います。
一つは「俺は中華は食いたくないんだ!」という場合です。
>>50で挙げておられる優先順位の問題は「なんでもいい」から「中華は絶対に嫌(理由は和食が食いたいから、中華が嫌いだから、etc.)」にいたる、その人の昼食のメニューの重要性に例えられるかと思います。

いま一つは「お前の決め方はおかしいだろ!」という場合でしょう。
後者は「中華は食いたくない」場合もあるし、そうではない場合もあるだろうと考えます。そうではない場合というのは、「中華を食うことには賛成だがお前の決め方は悪いだろ」であり、物事を決める時のお約束を守らない相手に対するダメ出しという意味です。

>しかし、「“正しさ”を独占するモノ」、特に「宗教」が絡むと事態は不穏に変化します。
>信仰者にとって、「宗教」はつねに優先順位の最上位にくることになります(それは「正しさ」を独占するものですから)。

まさにそうであろうと思います。前回は長くなるので省きましたが、教義や布教は恐らく、(言葉は悪いかもしれませんが)侵略性を持つ場合がある、あるいは持ちがちである・・という事があるでしょう。kosukeさんが「内心であれば」と書いておられますが、例えば「内心ではイカンと思いつつ牛肉を食べるヒンズー教徒」はかなりな苦痛でしょう。また、ある信仰に深く帰依した人にとって、明らかに神の道を守らず、どうかすれば地獄行きの道を歩く衆生を救済するのは、その人の努めと感じられるかもしれません。
で、「ある一つの絶対基準」を持つ人にとって他人との協議などは無意味であり、当然、「協議するという同じ土俵に立つ」ことを拒否するでしょう。
つまり、
>「“正しさ”を独占するモノ」の見解は予断なく「正しい」からです。
と同じ意見です。
これは「同じ土俵に立とうとしない相手をどうするか」という問題であり、
多様な意見を認める立場としては、「違う土俵に立つ相手に対しても、なるべく公平なルールを適応しようとすべきではないか」という事になるかと思います。
これが「この土俵のすばらしさがわからんボケは撲滅したるんじゃー!」になると、「同じ土俵か、死か」という極めて侵略的・暴力的なものになるでしょう。
その壁は意外と薄いのではないか、と思います。

>もちろん、このような本来不要なはずの深刻な対立を煽る傾向は「宗教」に限ったことではありませんが、特にこの点における「宗教」の絶大な威力は目に余るものがあるように感じます。

はい、しばしば絶大であろうと思いますね。
しかし、それを「宗教」としてくくって良いのだろうか?というのが私にもわからないところです。さっき牛肉を食べるヒンズー教徒はいそうにないと言いましたが、そこまで「譲れない度」が高くなければ適当に折り合いをつけている人々もいるであろうことは疑いません。
よって「狂信的に社会を破壊するものは、多数の幸福のために排除せざるを得ない場合があるだろう」ことには同意するのですが(テロを野放しにしていいとは言わない)、
それが「宗教の排斥」になるとやりすぎではないか? つまり、宗教ではなく
「他人の言い分に全く耳を貸さず、他人が嫌がったり悲しんだりする事にも目をつぶり、自分の正しさをふりかざせば何をしても良いという態度」
が悪いのであり、宗教は時としてこれに手を貸すかも知れないけれども、全部を「宗教は」と呼ぶことに抵抗があるという事です。
ドーキンスは原理主義的・狂信的なものを指して「宗教」と呼び、批判しているように見えますが、なにが宗教でなにが宗教でないか?という点は私にはなんとも言えず、
ドーキンスの表現には納得していない所があります。

58リリス:2007/11/21(水) 23:31:16 ID:nrzx3pJo
こんばんわです。

件の「神は妄想である」、私も未読なんですが、ドーキンスの宗教批判の文章なら幾つか目にしています。私の場合、頭の中で[宗教→西洋系一神教の中でも保守的でちょっとアレな宗教さん]と翻訳して読んでいるので、賛同する気持ちが大きいです。でも「宗教→既存の宗教全て」と読むなら、もの申したいところが多いですね。ドーキンスの批判は、仏教儒教神道ヒンドゥー教その他アミニズム系などの西洋系一神教以外の宗教を広く考慮したものとは思えませんから。

NANさんが原始経典について注意を促しておられますが、仏教では今でも「空」「無」が教えの中核に据えられているでしょう。ここでは、世界を確固とした実体のあるものとして把握するのは人間のこころの働きによる、とされています。これは「すべては妄想である(だからと言って無価値という意味ではないけど)」とも言えますし、具体的な正しさという概念を人間のこころの裡にあるものとすることで、「問い」に絶対的な「正しい」答えなどないと主張することに通じると思えます。

「宗教」というのは非常に門戸の広いものでしょう。人間の情動と深く関わっている分野ですから、「神」のような絶対価値の概念と結びつきやすいのは宿命かもしれません。しかし「宗教に神は必須か」という問いだって立てられると思います。禅宗に至っては、「仏に逢っては仏を殺し、・・・」「仏とは乾屎蕨(かんしけつ)」などという、「仏」を「神」に置き替えたならばクリスチャンが卒倒してしまいそうな言葉まであるくらいですもの(笑)。

問題なのは、信仰に名を借りた思考停止や、無意識的にであれ思考停止を他者にも求めること、教義(の解釈)の正しさを確信するあまり他の正しさに対して盲目になってしまうこと、などでしょう。またニーチェは、仮想された「絶対的真理」を過剰に重んじる事がリアルの人間存在の軽視に繋がることについて警鐘を鳴らしていたと記憶しています。これらの根底には、問いに確固とした答えがあると思う傾向、自分が正しい側にあると思いたがる傾向、人生の価値に保証を求める傾向、などがあると思います。で、私は、こういった事柄は人間の問題(必ずしも悪ではない)であって、宗教固有の問題ではないだろう、と思うのです。

これらは人間に普遍的に見られる傾向ですし、それゆえに強力ですから、勢力を伸ばしたい社会集団なら宗教でなくてもこれらの傾向を利用するでしょう。これらの傾向を効果的に取り込む教義体系を見いだした一部の宗教は、人間の普遍的な傾向を吸着することによって大きく進展してきたのだと思います。でも、信者数が多いという理由で、一部の教義を「宗教」の代表のように扱うならば、それもまた藁人形論法になってしまうのではないか、と案じます。人間のこれらの傾向と向き合うのも宗教の機能の一つでしょうし、現にそれらを否定する宗教だって存在するのですから。

進化論と創造論の話では宗教=キリスト教のような雰囲気になりがちなのが気になって、ヨコを入れてしまいました。「宗教」に関しても文化相対主義ヨロシク、ということで如何でしょうか。
(文化相対主義は価値感の意識的無意識的な押し付けを戒める考え方でしょうから、本末転倒に陥ってまで適用する必要はないでしょうけれど。)

59地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:36:19 ID:yb0RBWTc
まず最初に言っておくんだけど、僕のニンゲン観は進化生物学を基盤にした唯物的・自然主義的なものだにゃ。
また、理性的たらんと欲するのであれば、「敵」に対するよりも「味方」「身内」に対してより批判の矢を向けるべきでもあると信ずるものにゃんね。


>chochonmage

>>40
>宗教者の「宗教が無ければ倫理が崩壊する」という発言に対する押し返しとして
>「宗教なくしても倫理は成り立つ」ということを論証しようとしています。

これは後悔と懺悔にもいっておこうと思ってたけど、僕自身は「宗教なくても倫理は成り立つ」という言明にいかなる異論もにゃーですよ。進化心理学(社会生物学)のニンゲン観の基本コンセプトを理解した上で支持しているつもりだし、そもそも自由主義って根本的には性善説がベースにゃんからな。

ただし、ここで注意すべきは「宗教なくしても倫理は成り立つ」が正しいからといって、「宗教を前提とした倫理はありえない」「宗教を前提とした倫理は間違っている」が正しいということにはならにゃーということだにゃ。


>「多数派である信仰者」が、事実上、倫理や道徳の独占をしていることにドーキンス氏は対峙しています。

ほほう?
ナトロムのブログエントリによれば「「微妙さだとか多様性といったことをなんら理解できていない」戦闘的な無神論者は例外的だとグールドは主張」しているとのことにゃんが、「倫理道徳の事実上の独占」なんてのは確かに微妙さや多様性を何ら理解していない発想にゃんな。
これは>>41
>私が例えばキリスト教に入信したいと思ったときに、極力「逐語解釈」から遠い宗派を選ぶのが安全なのでしょうか。
>イエスが「神の子」である、「復活した」ひいては「神の存在」さえ逐語解釈していない宗派はあるのでしょうか。
という疑問とも通底しているにゃんね。

60地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:37:00 ID:yb0RBWTc
つづき

日本大百科「神学」の項から一部引用するにゃ
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現状と将来

 4世紀のコンスタンティヌス大帝のキリスト教公認以来、ヨーロッパに形成されてきたキリスト教世界における神学は、二度の世界大戦によって大きな衝撃を受けた。啓蒙(けいもう)主義時代を経て、19世紀にきわめて楽観主義的、進歩主義的、人間主義的になっていた近代自由主義神学は、第一次世界大戦によってキリスト教世界が幻想にすぎないことに衝撃を受け、1918年に『ロマ書』をもって登場したスイスのプロテスタント神学者K・バルトを中心とする弁証法神学運動によってやっと活路を得て新しい時代を迎えた。さらに、第二次大戦の経験を経て、教会と世俗世界の関係について積極的な関心をもつようになった。ヨーロッパではキリスト教福音(ふくいん)の非神話化を唱えたR・ブルトマンをはじめ、世俗化論を唱えたD・ボンヘッファー、F・ゴーガルテンなどが活躍し、アメリカではH・コックスや神の死の神学、状況倫理などが現代世界との取り組みに苦闘した。1970年代前後からはヨーロッパの希望の神学者J・モルトマン、歴史の神学を唱えたW・パンネンベルク、アメリカではプロセス神学者たちや、J・コーンなどの解放の神学が活発に展開されている。ローマ・カトリック教会では第二バチカン公会議(1962〜65)を開き、現代世界に対する教会のあり方を再検討し、全キリスト者の一致を求め、内的に刷新し、他宗教に対しても開かれた姿勢をとろうとしている。将来の神学は、ますます現代化、一致(エキュメニズム)、革新、他宗教の問題を積極的に取り上げざるをえないだろう。
*******************************

ここにいろいろとキーワードがあるから、ぐぐってみてほしいにゃ。例えば「自由主義神学」でぐぐるとウィキペディアの記述が筆頭に来るにゃんな。
で、こんなことが書いてあるわけだにゃ。
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自由主義神学の特徴

* 科学的な見方(進化論等)を許容し、聖書に記されている神話的要素(天地創造、ノアの箱舟、バベルの塔等)を必ずしも科学的・歴史的事実とは主張せず、宗教的に有益な寓話(若しくは神話・説話・物語等々)とみなす。
* 聖書本文に対する批評的な研究・解釈を支持し、書かれた言葉が書かれた時代の人々にどう読まれたかを解釈の第一義とする。各書の成立に纏わる伝説(モーセ五書の著者はモーセ、イザヤは一人の預言者イザヤによる、など)を必ずしも採用せず、聖書無謬説、聖書無誤説、逐語霊感説を採らない。
* 古文書学の他、考古学、史学の成果も最大限活用して古代の信仰のありようを分析し、そこから現代の課題に合わせたキリスト教信仰を再構築しようとする。

* 一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも肯定しない。
*****************************

61地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:37:38 ID:yb0RBWTc
他にも黒人神学とかフェミニズム神学とかいろいろありましてにゃー。ちゅうわけで、キリスト教神学に限ってみても、もう百花繚乱なんだにゃ。ドーキンスがこれら主要な各神学の主張全てを適切に理解した上で批判しているとは、とてもとても思えにゃーな。
日本大百科の記述に
>ローマ・カトリック教会では第二バチカン公会議(1962〜65)を開き、現代世界に対する教会のあり方を再検討し、全キリスト者の一致を求め、内的に刷新し、他宗教に対しても開かれた姿勢をとろうとしている。将来の神学は、ますます現代化、一致(エキュメニズム)、革新、他宗教の問題を積極的に取り上げざるをえないだろう。
とありますにゃ。現代のメリケンを中心とした馬鹿宗教は、こうした動きに対する「反動」にゃんな。

>「多数派である信仰者」が、事実上、倫理や道徳の独占をしていることにドーキンス氏は対峙しています。

こんなことは、宗教の多様性を理解したらそうそう言えることではにゃーはずなんだにゃ。
良心的な信仰者は、まさに多数派の倫理・道徳から疎外されているのが現状なのにね。

もちろん、メリケンを中心に馬鹿宗教がでかい面してブイブイ言わせているのは僕も知っているにゃ。でもさー、さっきも書いたけど、これは流れから言うと「反動」なわけでしてにゃ。例えば、「外国人は犯罪者が多いから、みな出て行け」とか、日本で馬鹿ウヨがブイブイいっているという理由で、「日本人(全て)は、アジア侵略に対して何の反省もしてない」とかいう「微妙さだとか多様性といったことをなんら理解できていない」物言いってどうよ?

「微妙さだとか多様性といったことをなんら理解できていない」論法というのは、まさに全体主義者の好む論法だろにゃ。ドーキンスがこの話題で採用している論法にゃんけどな。

だいたい、多数派がカスだなんてことはアタリマエにゃんからな。多数派の屑を基準にするのなら、いかなる国民・民族も生きている価値なんでにゃーだろ。

62地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:39:35 ID:yb0RBWTc
>NANのネタ

長くなりそうなので、メモ風箇条書きで。
・NOMA原理は、成り立ちはするけれど机上の理論だと思う

・ニンゲンの実際の行動に対する影響をあたえるモチーフとして、宗教と科学は対立する
※文化妄想装置論、という妄想を以前にまき散らしたことがあるにゃ。「妄想は適応的」が基本コンセプトでしたにゃ
ttp://members.jcom.home.ne.jp/natrom/board040611.html

・つまり、宗教という妄想はもともと適応的なもの

・宗教感情、というコトバがある。宗教と感情は切り離せない

・道徳感情、倫理感情、というコトバもある。道徳や倫理と感情は切り離せない

・4枚カード問題は、感情を伴う場合においてこそ、ニンゲンが正確で素早い判断ができることを示す

・感情は合理的である

・無論、科学も合理的である

・ブレーキとアクセル、交感神経系と副交感神経系、理性と感情、科学と宗教、などの一見すると対立する要素はいずれも合理的であり、2つそろって現実的な制御が可能となる

63地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:59:16 ID:yb0RBWTc
うう、ネミイ
今日はここまでにゃんな

>chochonmage

文化相対主義の原理主義的適用については、もちろん問題オオアリ。


>後悔と懺悔

ジェンナーは息子で天然痘予防接種の人体実験をしたという話があるにゃんね。調べたらどうも伝説の類いのようですけどにゃ。

64リリス:2007/11/23(金) 02:20:28 ID:nrzx3pJo
すこし補足。

猫さん仰るところの「馬鹿宗教」がキリスト教の一部に過ぎないことは存じております。
私はキリスト教は、その母体であるユダヤ教の起源や、啓典宗教であり唯一神を信仰することから、「“正しさ”を独占しようとする」傾向が他の形態の宗教よりも強いのではないかと思っています。しかし信仰の中の「神の前での敬虔さ」がそのブレーキになるだろうと思いますし、“正しさ”と言っても決して静的に硬直したものではなく、動的に探求されてきたものである事は、キリスト教の歴史が示していると認識しています。先の投稿で、一神教の傾向についての言及と「馬鹿宗教」についての言及が混ざってしまいましたので・・・。

NOMA原理に賛同する〜理解を示すクリスチャンは多いだろうと思います。でも、聖書の記述を「事実」として信じる事が重要であるような信仰をもっている人にとっては、NOMA原理と言えど、侵略的で承認し難いものになるのかもしれません。信仰を変容させることなしに、NOMA原理を受け入れることは出来ないわけですから。

AH1さんの仰る「同じ土俵に立とうとしない相手をどうするか」という問題は難しいです。
聖書の記述を「事実」として信じる事がなぜ重要か・・・このような事柄は、「キリスト教」や「プロテスタント」といった同じ土俵の上で色々と議論して欲しいですね。土俵の主要部分を共有する多数の人間が活発に意見交換を行うなら、さほど偏った考えにはならないと思いますので。(無神論者の私は参加できませんが。)無神論者も含めて同じ土俵で議論するなら、それは「社会の構成員として」あるいは「人間存在として」といった大きな枠組みになるのでしょうかね。

65カクレクマノミ:2007/12/04(火) 00:34:17 ID:THRtI5kM
しばらく間が空いてしまいました。

>で、ある社会集団を侵略者だと認定したら、「殺られる前に殺っちまおうぜ」となるのは必然ではにゃーの?

ここでいう「殺す」が何を指す比喩なのかよく理解できません。まさか、文字通りではないでしょうし。

>他にも黒人神学とかフェミニズム神学とかいろいろありましてにゃー。ちゅうわけで、キリスト教神学に限ってみても、もう百花繚乱なんだにゃ。

その通りです。キリスト教1つとってもいろんな流派、解釈があり、それぞれに支持者がいます。
で、その支持者たちは、いったい何を基準に自分の流派を選んでいるのでしょう?

結局のところ、宗教とは別の理由で持っている価値観をもとに選んでいるのではないでしょうか?
たとえばフェミニズム神学の支持者や提唱者は、もともと何か別の理由でフェミニストであって、だからこそフェミニズム神学を選んだのでしょう。

結局多くの人は、宗教とは別の理由で何かを価値観を持っていて、それに合った宗教解釈を選んでいるだけではないでしょうか?
だとしたら、宗教が倫理に果たす役割って、何なのでしょうか?

66後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:32:54 ID:FvvOuBrA
議論の論点は、主に「宗教をどう撲滅するつもりなのか」「すべての“宗教”を十把一絡げにして非難するのは不当ではないか」──という流れになっているようですので、この2点について、私の見解と、ぜひ皆さまの見解をうかがいたい点を述べておこうと思います。

まず前者。「宗教をどう撲滅するつもりなのか」について。

何度も繰り返しているように、私自身は本気で「撲滅」したいとは思っていません(>>48>>49参照)。重要なのは、「人間はどんな過ちを犯しうる存在なのか」ということを知ることだと思っています。一方で、人間が犯しうる過ちのすべてを、一人の人間が知ることは不可能なので、社会全体がいわば「ファイルセーフ機構」として働くようなシステムであることが望ましいわけです。たとえば、いわゆる「マナー」といったものは、一種の「ファイルセーフ機構」と言えるでしょう(余談ですけど、そう考えると、人類の道徳観念や価値観・倫理観の「進歩」というのは、結果的に(あくまで「結果論として」)この「ファイルセーフ機構」をより良いモノにしていくための営みであった──という見方もできるかも知れません)。

そういう意味で、太古の昔、ヒトにとって「宗教」がそういった「ファイルセーフ機構」として大変有益だったような時代があったであろうことは容易に想像できます(「宗教者」の「宗教がなければ人はどうして善悪を判断できるのか・善良でいられるのか」という主張は、それを端的に表していると私には感じられます)。
しかし、これだけ多様な価値観が混じり合い(>>6で再掲された (2007/11/11 01:13)のコメントの最初の2段落などを参照)、かつ、道徳観念や価値観・倫理についての考察・教訓がこれだけ蓄積されている現代では、むしろ「宗教」自体に「ファイルセーフ機構」が必要になってきているわけです。
──ここまでは、おそらく誰も異論はないでしょう(あれば言って下さい)。では、具体的にどのような「ファイルセーフ機構」が必要であり、また現実的なのか──ということが、問題になるわけです。

ドーキンスや私が、本音として「“宗教”なんてこの世から消えてなくなってしまえば良い」と思っているのは否定できません(ハロウィンを楽しんだり、お盆に墓参りすることまで、なくなって欲しいとは思っていません、念の為)。でも、それは不可能であるということは、よく分かっているわけです。では、どうすればいいのか。
私自身の今の考えは、>>49において、カクレクマノミさんへの返信で書いた通りです。そしてその結果、最終的には、>>3で再掲された(2007/11/07 20:49)のコメントの一番下の段落のようになってくれれば……と考えています。今の日本は、かなりそれに近い状態と言えるかと思います(自分の家族がなんらかの「宗教」にハマっていると知ったとき、日本の平均的な人がどんな反応をするか想像してみて下さい)。他の点はともかく、「宗教」について言えば、現在の日本はドーキンスにとって(そして私にとっても)かなり理想に近い世界なのかも知れません(そのかわり、「宗教」の占めていたトコロに、別のやっかいなモノが次々と居座ってるみたいですけど(苦笑))。

でも、正直に言って、私はそれがベストと言えるだけの根拠や確信があるわけではありません。今のところ、他の考えがないだけです。いずれにせよ、「宗教」を現在のように野放しにしておくのが好ましくないという点には同意して頂けると思うのですけど、では皆さんは、どんな「ファイルセーフ機構」が必要ないし好ましいと思いますか。

67後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:38:37 ID:FvvOuBrA
「宗教をどう撲滅するつもりなのか」について、もう少しだけ。以下はドーキンス擁護みたいな感じになりますが……。

日本では、一般的に「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」というイメージがかなり広く浸透しているのではないでしょうか。平均的な日本人は、伝統的な仏教徒やキリスト教徒など「宗教者」の滅私的・道徳的な振る舞いに深い敬意を示すものの、自分の家族がそれらの宗教に入信することを積極的に勧めようとはしないと思われます。これはなぜでしょう。
「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」というイメージの浸透こそが、「ファイルセーフ機構」として働いていると考えることは、あながち荒唐無稽とは言えないでしょう。しかも、これは「反宗教-原理主義」に陥るわけでもない絶妙な「ファイルセーフ機構」と言える気がします。
では、なぜ、どうやって、そんなイメージが日本人の間に広く浸透したのでしょうか。

ちょっと想像してみて欲しいのですけど、日本の平均的な中学生に「サンタクロースは実在する」ということを信じ込ませるのは、かなり難しいことのように思えます。では「(宇宙人の乗り物という意味での)UFOは実在する」や「FBI超能力捜査官は実在する」はどうでしょうか。「マイナスイオンは身体に良い」とか「化学肥料を使った作物・化学調味料を使った料理は身体に悪い」とかだと疑わせるほうが難しそうです。では、その差はいったいどこにあるのでしょうか。
「1999年に地球は滅ぶ」と信じる人たちの声が大きい社会では、平均的な中学生に「1999年に地球は滅ぶ」と信じ込ませるのは簡単なことだったでしょう。たとえ社会全体で「1999年に地球は滅ぶ」と本気では信じていない人の割合が実は大きかったとしてもです。

>>31でカクレクマノミさんが指摘しているように、ドーキンスは、『神は妄想である』の「はじめに」で、とくに無宗教・無神論者の擁護を重要な目的のひとつとしていることを強調しています(この目的が効果的に果たせているかは微妙ですが)。『神は妄想である』は、「宗教者」の側から無宗教・無神論者に向けられる様々な非難に対する徹底的に練られた決定版「想定問答集」と読むこともできます。むしろ、そのような意図で書かれていると主張してもそれほど不当ではないでしょう。

私としては、『神は妄想である』は、「宗教者」に向けられた本というよりも、「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」というイメージを持っている人・持ちうる人に向けられた本という気がします。「あぁ、そういう気持ちをもっても、そういう態度を表明しても、いいんだ……」という勇気を与える本と言えるでしょうか。

──これらのことは、『神は妄想である』の「はじめに」の最初の1ページ目に書かれていることから、私なりに連想したことです。未読の方は、『神は妄想である』の最初の1ページだけでも立ち読みしてみることをお勧めします。どういう状況にいるどんな人に向けた本なのか、はっきりすると思います。

68後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:56:08 ID:FvvOuBrA
次に、「すべての“宗教”を十把一絡げにして非難するのは不当ではないか」という点について。

この点については、2つの論点から意見を述べたいと思います。一つは「NOMA原理」の観点から、もう一つは「ファイルセーフ機構」の観点から。いずれにせよ「“宗教”または“宗教者”の犯しうる過ち」についての話に収束していくでしょう。

まず、「NOMA原理」の観点から。

ドーキンスは「実際には、そうしたもの(仏教や儒教:引用者注)は宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある(『神は妄想である』61頁)」と書いていますが、これに全面的に納得する人は少ないでしょう。一方で、ドーキンスは「私は超自然的な神だけを妄想と呼んでいることを心に留めておいてほしい(同書29頁)」と何度も強調しています(「超自然的な」の部分は傍点で強調されています)。

>>16の【立場1】で述べたように、私には、そもそもNOMA違反を犯さない「宗教」を考えること自体が困難です。教義のどこかにNOMA違反を犯している部分があれば、必ずそれは現実と齟齬をきたすことになるわけです。「宗教」はそのとき容易に「教義」のほうを優先する強い傾向があるということは誰も否定できないでしょう。
さらに悪いことに、もしも「教義」を支持するような「科学的事実」があれば、喜んでNOMA原理を(逆の意味で)放棄して、自分たちの「教義」こそ「“正しさ”を独占する」に相応しいということを示す根拠として、その「科学的事実」に飛びつこうとする抗いがたい強い傾向をも有しているわけです。

私は、まさに「自由主義神学」を標榜するミッションスクールを卒業しました。「自由主義神学者」たちは、そういった「宗教」に内在する危険を十分に知った上で、意識的にNOMA原理に忠実であろうと努めているように思えます(そして私はそう教わりました──正確に言うなら、学校側の意図はどうあれ私はそう受け止めました)。「意識的に」「努めて」いるんです。
──余談ですが、その結果、私が受けた印象は、「それは“宗教”と呼べるようなモノではなく、“文化”といったほうが相応しいモノ」でした。なぜそういう印象をもったのかうまく説明できないのですが、「信仰」という言葉自体に「信じるべき適切な理由がなくとも信念をもちつづけることができるのが、信仰の本質である(同書80ページ)」というイメージを持っていたことが何らかの影響を与えたのかも知れません。

NOMA原理とは少しずれるかも知れませんが、>>16の【立場2d】(補記)に書いたとおり、人は「穏健な宗教家」や「自由主義神学者」として生きることは可能ですし、文化の多様性という観点からは、むしろ望ましいとさえ思います。
しかし、彼らが「宗教」を擁護することで、いらぬ誤解をしてしまう人々(特に「“正しさ”を独占しようとする宗教家」たち)が多くいるという事実から目をそらすことは「彼らには」許されない──と私は考えています。

(続きます)

69後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:59:05 ID:FvvOuBrA
(続きです)

『神は妄想である』第8章(特に「信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか」の項)で詳しく議論されていますが、超自然的な教義をもつ「宗教」は、多かれ少なかれ「信仰」を奨励せざるをえないわけです。たしかに、「穏健な宗教家」や「自由主義神学者」は「信仰」の負の面を熟知しているかも知れません。しかしいずれにせよ、「信仰」の奨励は、過激主義者・原理主義者に好都合な土壌の一部になっていること・なりうることは否定できないでしょう。この点に関する「穏健な宗教家」や「自由主義神学者」の責任と義務はとても大きいと考えます。少なくとも「自分たちは過激主義・原理主義ではない」と言っていれば済む問題ではありません。

合コンなどで血液型の話題をする多くの人は、「婚姻相手は血液型を重視して選ぶべきだ」とか「雇用者の採用にあたっては血液型を積極的に利用すべきだ」とか主張しているわけではないでしょう。むしろ「そこまでいくとさすがに非難されるべき差別だと思う」と感じる人がほとんどかも知れません。でも、次のような指摘は、あながち的外れとも言えないのではないでしょうか。
====================
自分が血液型を書くこと、話すことが、根拠のない「社会的現実」を維持するために、どのような貢献をすることになるのか。そこで血液型を書くことに、どんな科学的、倫理的意味があったのか。あなたにそれを思い出していただけるだけで、このページの使命は終わりです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
柴内康文氏、Webページ『「血液型と性格」の問題点』より引用
ttp://www1.doshisha.ac.jp/~yshibana/etc/blood/archive/ethics.htm
====================

キリスト教に限らず、「超自然的な」教義をもつすべての「宗教」に対して、これらのことを当てはめて論じてはいけない理由は、私にはないように感じられるのですが、いかがでしょうか。

70後悔と懺悔:2007/12/04(火) 03:00:58 ID:FvvOuBrA
「すべての“宗教”を十把一絡げにして非難するのは不当ではないか」という点について、「ファイルセーフ機構」の観点から、私見を述べたいと思います。

日本人なら誰でも、現在の仏教や神道が「“正しさ”を独占しようとするモノ」でないことを知っています。その意味で、ドーキンス(や私)の「宗教」批判で非難されている点を、現在の仏教や神道などはすでに克服していると言っても良いと思います。

しかし、かつては、仏教も神道も「血塗られた道」を通ってきた「“正しさ”を独占しようとするモノ」であった歴史をもっていることは紛れもない事実なわけです。また、カルト化した・カルト化が危惧される多くの現代の新興宗教が、仏教やヒンドゥ教などの影響を強く受けていることも否定できない事実です。
後者は直前のコメントでの論点から語られるべきことでしょうから、ここでは前者について論じましょう。

まず、リリスさんの>>58での指摘を引用します。「これらの根底には、問いに確固とした答えがあると思う傾向、自分が正しい側にあると思いたがる傾向、人生の価値に保証を求める傾向、などがあると思います。で、私は、こういった事柄は人間の問題(必ずしも悪ではない)であって、宗教固有の問題ではないだろう、と思うのです」
この見解には全面的に同意します。むしろ私は、このような人間のもつ本来的な傾向が生み出したモノの一つが「宗教」であるという解釈に説得力を感じます(『神は妄想である』第5章「宗教の起源」参照)。そして私は、「宗教」にはこれらの「人間の問題」に対して「正しい答え」を提示し(それこそが「宗教」の本来的な目的だったと思われます。>>16の【立場2】などを参照)、「その“正しさ”を独占しようとする」強い傾向があることを、ずっと非難してきたわけです。言い換えれば、「宗教」は「人間が本来的に犯しうる過ち」(のうち近年特に無視できなくなっている点)をこれ以上ないほど効果的に助長するモノであるということです(同じ点を助長するモノは「宗教」だけではありませんが、今は「宗教」について論じているので、そのことについては割愛)。

しかし、少なくとも、現代日本の仏教と神道について言えば、これらの「宗教」の好ましくない傾向に対する強力な「ファイルセーフ機構」をみずから築き上げたように、私には見えるんです。つまり、「“宗教”および“宗教者”の犯しうる過ち」に対する「ファイルセーフ機構」が内蔵された「宗教」である──ということです。これは私にとって非常に興味深いことです。

私は仏教の歴史について詳しいわけではありませんが、もともと釈迦は「人間が本来的に犯しうる過ち」について教え諭していたように思えます。その後「宗教」として組織化されると(その当然の帰結として)「“正しさ”を独占しようとする」傾向が強まっていったように見えます。しかし、まったく不思議なことに、いつのまにか現代では「仏教=(“正しさ”を独占しようとすることも含めた)人間が本来的に犯しうる過ちについて戒めるモノ」という印象を持っている人が多いのではないでしょうか。その意味で、ドーキンスが「実際には、そうしたもの(仏教や儒教:引用者注)は宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある(『神は妄想である』61頁)」と述べたのも一理あると言えるかも知れません。

私が特に興味を持つのは、「このように、みずからが犯しうる過ちに対する“ファイルセーフ機構”をみずから持つことを、ほかのすべての“宗教”にも期待できるのか。そして、その“ファイルセーフ機構”は永久に働き続けると期待しても良いのか」ということです。
もしも期待して良いと信じられるのでしたら、すべての「宗教」を一括りにして非難するのは不当かも知れません。まだ「ファイルセーフ機構」を持たない「宗教」だけを批判の対象にすべきでしょう。
でも、それを期待するほど楽観的になれないうちは、すべての「宗教」を一括りにして、「“宗教”および“宗教者”の犯しうる過ち」について警鐘を鳴らし続けることは大切なことだと、私は考えています(たとえすでに現在はその点を克服している「宗教」があったとしても)。

71chochonmage:2007/12/04(火) 14:16:06 ID:Qhwn4442
”フェイルセーフ ”っすよね? まぁ、英語の日本語表記ですから,
何が正しくて、何が間違ってるとは言いがたいですが、一般的に、ってことで。
すんません、細かいことで。ちょっと気になったもんですから。

内容についてのコメントはまた後ほどさせていただきたく思います。

72chochonmage:2007/12/04(火) 14:34:39 ID:Qhwn4442
>現代日本の仏教と神道について言えば、これらの「宗教」の好ましくない傾向に対する
強力な「ファイルセーフ機構」をみずから築き上げたように、私には見えるんです。

眠いので一言だけ。神道については、「靖国」の愚かしいドタバタを見るに、
上記ご意見には賛同できません。

まぁ、「靖国」の場合、神道という「宗教」以外の要素が大部分を占めている
こともわかってはいるつもりです。
が、「強力なフェイルセーフ機構」、「みずから築き上げた」には全く同意できません。

73次郎:2007/12/04(火) 16:17:38 ID:D2PZoWjk
はじめまして。議論が始まった当初から興味深く拝見させていただいております。

>現代日本の仏教と神道について言えば、これらの「宗教」の好ましくない傾向に対する強力な「ファイルセーフ機構」をみずから築き上げたように、私には見えるんです。

フェイルセーフと言うのが何を指すのかが今ひとつ微妙なんですが、これが「他者に対する価値観の強要」を防ぐと言う意味であれば、仏教も神道も落第でしょう。
単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。

実際それらと齟齬のある沖縄では、どちらも現地の民間の祖先崇拝を弾圧してますよ。

といいますか、人類の道徳観念や価値観・倫理観にしても「他者に対する価値観の強要」の歯止めにはならないのじゃないでしょうか。
つーか、そうであるならドーキンス氏のような主張がそもそも出てこないように思えるのですが、それとも価値観・倫理観の進化がまだ不十分なんでしょうか。

74AH1:2007/12/04(火) 18:21:56 ID:fKqeZx4M
なんとなく思っている事を書きますが・・・多分に詭弁めいて来るのですが・・・

後悔と懺悔さんが書いておられるのは、
「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」を是とする、という事ですよね(このちょっと警戒する感覚をフェイルセーフと呼んでおられるのでしょう)。
これはつまり、個人の理性と良心と自由意志に基づく合理的判断ができなくなる絶対基準に頼ることはやめよう、という意味であるかと考えます。
これは「個人の理性と良心と自由意志」に至上価値を置く価値体系なわけですね。

「それは良い価値体系だと思うか?」と言われれば、「うん、僕はそう思う。もし考えを変えることがあるとしても、他人に価値観を強制されるのはご免だ。」と答えます。

で、聞いてみたい所は結局ここへ戻るんです。
「私は『個人の理性と良心と自由意志」』に全く価値を見い出さない。お前は他人に意見を強制しないと言いながら、俺には『「個人の理性と良心と自由意志』を重視することを強制するのか」

その辺の採るべき態度をいかが御考えになりますでしょう?

私はあまり良い知恵がないのですが、「あんたがそうしたけりゃ勝手にしていいけど、他人まで巻き込むなや。勝手に賛同する奴は知らんけどさ。」くらいしか思い付きません。要するに対策というか態度としては狡獪と懺悔さんの想定しておられるであろう「日本人の普通な態度」とほとんど同じになりそうな気がします。

75AH1:2007/12/04(火) 18:23:41 ID:fKqeZx4M
うわわわ、失礼しました!!
誤 狡獪と懺悔さん
正 後悔と懺悔さん

76後悔と懺悔:2007/12/04(火) 23:55:15 ID:FvvOuBrA
取り急ぎ訂正です。
>>66から>>70までの私の発言の「ファイルセーフ」はすべて「フェイルセーフ」の間違いです。正しくはもちろん「フェイルセーフ」です。chochonmageさん、ご指摘ありがとうございました。

他のご指摘に対しては、しっかりと時間をかけて吟味した上で、自分の考えたことを述べようと思います。ただ、現状、自分の認識の底の浅さというか、視野の狭さは痛感しています。貴重な経験だと思っています。

77次郎:2007/12/05(水) 11:46:24 ID:D2PZoWjk
後悔と懺悔さん
うまく論理的に書けないのですが、結局GOD派とアンチGOD派はコインの裏表のようなものじゃないでしょうか。
どちらも神様に対して強く固着しているのではないでしょうか。

ドーキンスがミイラになってしまったのも彼がアンチGOD派であって、信じるものが「人間理性」というよりも「神を排除するために、神を排しても成り立ちうると彼の信じる人間理性」なのだからのような気がします。

後悔と懺悔さんの思想や考えが浅いというよりも、やはりドーキンスと同種の神へのこだわりが視野の限界を規定しているような気がします。

78地下に眠るM:2007/12/06(木) 03:43:57 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

>>で、ある社会集団を侵略者だと認定したら、「殺られる前に殺っちまおうぜ」となるのは必然ではにゃーの?

>ここでいう「殺す」が何を指す比喩なのかよく理解できません。まさか、文字通りではないでしょうし。

ドーキンスの立場では、信仰集団という社会集団を侵略者だと認定することになるということに異論はにゃーのだね?
ここは重要なところにゃんぜ。


>>他にも黒人神学とかフェミニズム神学とかいろいろありましてにゃー。ちゅうわけで、キリスト教神学に限ってみても、もう百花繚乱なんだにゃ。

>その通りです。キリスト教1つとってもいろんな流派、解釈があり、それぞれに支持者がいます。

で、ドーキンスはそうした多様性を無視して一律に侵略者認定をしているということにゃんね?
しつこいようだけど重要なところにゃんぜ。


>結局多くの人は、宗教とは別の理由で何かを価値観を持っていて、それに合った宗教解釈を選んでいるだけではないでしょうか?
>だとしたら、宗教が倫理に果たす役割って、何なのでしょうか?

「だとしたら」の前後のつながりがわかんにゃーのだが。
多様でありえるから倫理に果たす役割がない、ってどういう理屈かにゃ?
いっとくけど、グールドにしろ僕にしろ、宗教に倫理面において特権的な役割を認めたおぼえはにゃーですよ。

>>62ですごく乱暴に書いたけど、倫理と感情、宗教と感情は切り離せないものですよにゃ。
感情の生き物であるニンゲンは、宗教的生物でもあるのだにゃ。

79地下に眠るM:2007/12/06(木) 03:44:58 ID:yb0RBWTc
中高生のセックスが体に悪くて頭も悪くなると仮定しますにゃ。しかも社会秩序を乱す社会の敵、いうなれば侵略者であるとしましょうにゃ。
そう信じ込んでいる馬鹿宗教さんとかチンカス道徳屋とか珍しくもにゃーしな。

で、
この手のチンカス道徳屋は、どうあっても中高生のセックスを禁止したくてしょうがにゃーようだ。

でもさ
セックスを禁止したら、ガキがセックスをしなくなるとでも思っているんだろか?
ここが本当に馬鹿だよにゃ。
どっちかちゅうと、禁止したら魅力が増すものですにゃ。

ガキに教えるべきは、パートナーの身体と人格を尊重し、リスクをコントロールすることだってのが現実的なおとしどころだと思うんですにゃ。

自分の狭い視野で「侵略者」と認定したものを禁止してすませようとするのは、チンカス道徳屋とかガリガリ権力亡者とか逝かれナチとかドーキンスの発想にゃんね。

80地下に眠るM:2007/12/06(木) 04:15:12 ID:yb0RBWTc
>>78の補足

>だとしたら、宗教が倫理に果たす役割って、何なのでしょうか?

>>39で書いたことが埋もれてしまっているので再掲

*****************************************
その上、
宗教には積極的に倫理について発言してもらわなければ困るんだにゃ。理由はいま思いつくところで2つ。

1)先ほど言った通り、倫理とは万人に開かれ、万人が従うべき規範だよにゃ。であれば、多数派を無視することはできにゃーのよ。無論、多数決で決まるようなものではにゃーが、多数派を無視もできにゃーわけね。地球上では無神論者よりも信仰者の数のほうがはるかに多く、彼らの依拠する価値を無視できうるはずもにゃー。

2)倫理とか道徳というものは、ようは「価値」「規範」を扱うというこものだにゃ。で、価値や規範というのは実証的・科学的に決められるものではにゃーよな(実証的に価値や規範を決めるのであれば科学的に決めるべき)。で、現実に宗教というものは価値や規範を説いているだろ? 適している適してないとかいうお話以前に、実際に価値や規範を扱っているという事実が厳としてあるにゃんなあ。

つまりさ、
倫理とか道徳といった問題に対して、ある社会集団や個人の独占を許すことも、あるいは排除することもブッブーなのよ。

>一般論として、何かが何かを扱うのに適した枠組みかどうか、適していると主張する側に立証責任があるでしょう。

したがって、適しているとか適してないとかいう話は問題外。
倫理や道徳については誰でも発言してよいし、責任を多く負うものには倫理の問題から離れることは許されにゃー。どうしても宗教の言い分を聞いておく必要はありますにゃ。したがって「宗教による道徳についての意見は尊重すべきものだとグールドが考えているのは」まさに妥当な見解にゃんねえ。
*****************************************

上記の特に(2)の論点、つまり宗教には倫理規範について発言する義務がある、という論点を忘れてほしくにゃーね

81カクレクマノミ:2007/12/06(木) 04:21:25 ID:THRtI5kM
>「侵略者」

なんだかすごくこだわっておられるようなので、「侵略者」の定義も確認しておきたいです。
もちろん、「殺す」のほうについても説明をお願いします。
「重要なところ」を、比喩のままで議論するのは不気味なので。

>「だとしたら」の前後のつながりがわかんにゃーのだが。

たとえばフェミニスト神学者は、フェミニスト神学を読む前からフェミニストであって、だからこそフェミニスト神学を選択しているという場合がほとんどでしょう。
他の聖書解釈についても、だいたい同じでしょう。
ここまではいいですか?

>自分の狭い視野で「侵略者」と認定したものを禁止してすませようとするのは

ドーキンスは(僕の知る限り)一言も、宗教を禁止しろとは書いていませんよ。
それに僕を含め、ここでの議論で宗教を禁止しろという意見は誰も出していないと思いますが。

地下猫さんは、いったい誰に対して罵倒しておられるのでしょう?

82地下に眠るM:2007/12/06(木) 06:23:40 ID:yb0RBWTc
>「重要なところ」を、比喩のままで議論するのは不気味なので。

もとが比喩なんだけどにゃ。
この「侵略者」の比喩は、ドーキンスがNOMA原理(宗教と科学の共存)を提唱したグールドを犬呼ばわりした比喩の解釈として出したものだにゃ。
だから、てっとりばやいのはドーキンスがグールドを犬呼ばわりしたのはなぜかをカクレクマノミが説明することだと思いますにゃ。
ちなみに、犬呼ばわりの僕の解釈は>>54で示したとおりにゃんね。
宗教と科学の共存を主張したグールドを犬呼ばわりするというのは、宗教の否定ということにならにゃーというのなら、その解釈を是非とも聞いてみたいものにゃんよ。


>たとえばフェミニスト神学者は、フェミニスト神学を読む前からフェミニストであって、だからこそフェミニスト神学を選択しているという場合がほとんどでしょう。
>他の聖書解釈についても、だいたい同じでしょう

そうでもにゃーと思うんだにゃ。宗教心理学においては「回心」というのは無視できにゃー要素なのだにゃ。ほとんど人格変容をともなうような信仰への目覚めっていうことは事実としてあんのよ。パウロの回心なんかは典型例にゃんな。
でも、まあここはその前提で話をしていただいてかまいませんにゃ。

83カクレクマノミ:2007/12/06(木) 07:34:55 ID:THRtI5kM
>ちなみに、犬呼ばわりの僕の解釈は>>54で示したとおりにゃんね。

その>>54の意味を理解するために、「侵略者」「殺す」とはなんの比喩なのかを知りたいのですが。
一応僕の解釈も説明しますが、地下猫さんの比喩の意味についても説明していただけると幸いです。

ここでいう「犬呼ばわり」は、「ご機嫌取り」という意味です。
「神は妄想である」の中での「犬呼ばわり」の前後の文脈は、実は道徳はほとんど出てこなくて、主に「神仮説」についての議論です。
「犬呼ばわり」の対象となっている文章も、グールドが神について述べたものです。

神仮説に、妥当な仮説と認められるだけの根拠はなく、まともに考えれば神は「ほとんど確実に存在しない」(ドーキンスの表現)
たぶんグールドだって、神と同じ程度にしか証拠のないもの(たとえば妖精)について問われれば、ほとんど確実に存在しないと答えたでしょう。
にもかかわらず、グールドが神についてだけそう言わないのは、宗教のご機嫌取りなんじゃないのか、とドーキンスは述べているわけです。

もちろん神仮説の否定が宗教の否定だと言われればそうかもしれませんし、僕もドーキンスが宗教を批判していないとは言っていません。程度の問題として、無神論擁護に重きを置いているとは言いましたが。
ただ、ドーキンスの批判を「侵略者」「殺す」といった比喩で表現するのが妥当かどうかは、その比喩の具体的な意味を説明していただかない限り、判断できません。

>でも、まあここはその前提で話をしていただいてかまいませんにゃ。

前に述べたことを前提にすれば、宗教があってもなくてもその人はフェミニストであったわけで、つまりその人がフェミニズムという1つの価値観を採用する上で、宗教は実のところなんの機能も果たしていないということになります。

宗教の原典をそのまま価値観として採用するのは馬鹿げています。だから宗教から価値観を読み取ろうとすれば、何らかの解釈が必要です。すごく大雑把には、この解釈の違いが宗派の違いと言っていいでしょう。
で、ある人がどの解釈を採用するかは、その人がもともとどんな価値観を持っているのかに強く依存します。
だったら、そのもともとの価値観をそのまま採用しても結果はほとんど変わらないのではないでしょうか?

84GB:2007/12/06(木) 15:31:31 ID:Ni9i2QWM
>>77の次郎さんのご意見と、おそらく同じ感想を持ちました。キリスト教文化という
コインの表裏ですよね。ドーキンスが最初に展開する「神は科学の対象となる」
「神はほとんどいない。妄想である」というのも、キリスト教文化圏の中でしか通じない話です。
(ユダヤ・キリスト教、およびイスラム文化圏と言った方がいいか)

人は、具体的な文化の中で育ち「人になる」ことにより、本人が意識することなく、
ある価値体系を共有する人々の一員になります。「重要な問題」が重要なのは、自分が
生きる社会集団(との関係)にとって重要だからです。

文化が指し示す規範の内容は多彩です。「誰も見ていないところでお金を拾っちゃったらどうするか」
から、たとえばアメリカにおける「銃規制」のような歴史的な問題、死生観に絡む事柄まで。
これらは思考方法や感情が絡み合った複雑なものなので、「宗教」だけを切り離すことはできないのでは
ないかと思います。

ただ、キリスト教も科学によって「おバカ」をそぎ落としながら変容してきたのも事実で、
その意味で、「理性」は有効だったし、これからもそうでしょう。でも、西欧文化のコアの部分は
キリスト教という宗教と一体となっており、たとえばフェミニズムという一つの価値観も、
実はキリスト教文化が生んだ発想なのだと私は思っています。

もし、私が自分の文化、特に無意識の領域を否定されれば、私には感情的な反発が起こるでしょう。
外国では、相手の反応にとまどったり不快な思いをすることもありますよね。
それを避けるために、人々は多様な文化を認め合うという方法を長い時間をかけて身につけてきましたが、
ドーキンスの言う「宗教」に関しても、同じことだと思うわけです。(NOMA賛成)。

85atheist:2007/12/06(木) 17:44:00 ID:s2.p1dVI
>自分の狭い視野で「侵略者」と認定したものを禁止してすませようとするのは、チンカス道徳屋とかガリガリ権力亡者とか逝かれナチとかドーキンスの発想にゃんね。

検討外れの批判ですね。それは、地下に眠るMさんの”脳内ドーキンス”に対する批判でしかないと思いますよ。
カクレクマノミさんが指摘されている通り、ドーキンスは(私の知る限りでは)宗教を禁止しろとは書いていません。
ドーキンスが言おうとしているのは、宗教なんてみんなが思っているほど重要なものではないのだから、変に尊重して
無批判な態度をとるのはやめろと言うことだと私は受け止めました。批判的な態度をとるということと全面的に否定して禁止しろということとは、天と地の開きがあります。

86GB:2007/12/06(木) 19:32:59 ID:Ni9i2QWM
しかしドーキンスは、はっきり「宗教は必要ない」と繰り返していますよ。
宗教の害を、これでもかとばかり列挙する中で。

読み進める中で気になる部分は多々ありましたが、10章の「死」に触れた部分もその一つです。
(実は、歴史的な宗教の必要性という視点が欠けているところに首をかしげていたので、とくに印象に残った
わけなんですが)。

死の扱いは(NANさんがおっしゃるように)宗教の根源の一つだと思うので、
ドーキンスが「慰めとして死後の世界を信じる効用」に触れたあとで、
「そうであるなら、なぜ宗教を信じるものは自殺や安楽死に反対するのか」
という意味の内容を述べるくだりは、目を疑いました。
(そこで実例をも挙げている)死を恐れない精神を賞賛するのは良いのですが、
それをもって宗教否定につなげるというのは、啓蒙の暴力、といってよいと思います。

87atheist:2007/12/06(木) 21:17:37 ID:.r2n24dM
「必要ない」というのと「絶滅しろ」というのとは違います。
たとえば、ゲームなどは興味もないし、やるだけ時間の無駄だと思っていますから、
私にとってはゲームは「必要ない」ということになりますが、だからと言って、「ゲームなど禁止してしまえ」などと主張するつもりはありません。
ゲームに関しては、私は「ゲーム脳」などというものはトンデモだと思っているので、過度にのめりこまない限り害はないと思っていますが、宗教に関していえば、宗教が原因だったり宗教を正当化に利用した害悪(戦争、差別、詐欺等)が明らかにが存在します。なにごとにおいても絶対的な悪というものは存在しないと思いますし、当然、宗教には良い面もあるわけですが(人心をまとめる、生きる活力となる、心の慰めとなる等)、問題は宗教のメリットとデメリットではどちらが大きいかということです。ドーキンスが苛立っているのは、宗教が尊重されすぎるあまり、デメリットの方が無視されてしまうという状況に対してではないかと思います。ドーキンスが宗教の悪い面を並べ立てるのはそのためではないでしょうか。

88atheist:2007/12/06(木) 21:30:29 ID:.r2n24dM
補足です。
率直に言って、私は宗教というものは、メリットよりもデメリットの方が大きいと思っていますが、だからと言って「宗教を絶滅しろ」などと主張するつもりはありません。それは、無理に宗教を排除しようとしたときの反作用的な害が大きいからです。私は、殺人は当然悪だと思っていますが、だからと言ってこの世から殺人を無理になくそうとしたら、超管理社会にするしかないないわけで、そのような社会を私は望みません。このことは、私が殺人がこの世からなくなればよいのにと思うこととなんら矛盾しません。

89名無しさん:2007/12/06(木) 22:03:42 ID:zXfK7pu6
私が問題だと思うのは、「人がいかなる基準によって宗教を選ぶのか」
「どの宗教の道徳的価値観を受け入れるべきかを決定するのか」
「なぜ(神という)仲介者を排して、宗教なしにその道徳上の判断基準を判定しないのか?」
という、私にとっては考えにくい「疑問」そのものなんです。

直後に続く(P90)、
「私は、グールドが『千歳の岩』で書いたことの大半を本気で言っていたという可能性を
断じて信じない。先ほども言ったように、私たちはみな、こちらを益するところはなくとも
強大な力をもつ対抗勢力に対して、あらんかぎりの手を尽くして、いい顔をしようとした点で
有罪であり、グールドがしていたのもそれだとしか私には考えらない」

これは、(ドーキンスにとっての)神=宗教の全面的な否定ではないですか?

90GB:2007/12/06(木) 22:05:13 ID:zXfK7pu6
あれれ。>>89は、GBです。

91後悔と懺悔:2007/12/07(金) 02:30:25 ID:FvvOuBrA
以下は皆様の見解や示唆とは無関係の、たんなる私の内心の感情的な吐露です。

人間が本来的にもつ性向のうち、私がとてつもなく嫌悪感を覚えるものに、「“正しさ”を独占しようとする」「自分の“正しさ”を受け入れないモノを“敵”と認定する」「“敵”に対してはどのような“罰”も許される」などと思いたがる傾向があります。

私がこれらの性向を憎悪するのは、たぶん、私自身が現実にこのような態度をとってしまっては、後になって悔い恥じることが多かったからでしょう。私は常に「自分はこのような過ちを犯しうる、実際犯してきた人間である」と自戒しながら生きていかなければならない存在であり、それでもなお過ちを犯してしまう愚かな人間です。
そんな愚かな人間でも──「オレは正しい」「あいつは間違ってる」と一度思い込んだら修正不可能になってしまうような、「お前馬鹿なんじゃね、こんなことも分からないのかよ」と罵りたい衝動にかられてしまうような、「あいつなんか死んだほうが世のためだ」と思ってしまうような、そんな愚かな人間でも──人間社会のなかでなんとか無事に(?)生きていられるのは(そもそもそういったことが「愚か」だと気づけたのは)、法体系とか世間体とか理性とか、本当のことは分かりませんが、なにか理由があるのでしょう。

ところで、これらのような強い傾向を持ちながら、なぜ私が人間社会のなかでなんとか無事に生きていられるのか、その理由は分かりませんが、そのような(私にとって)好ましいとは思えない人間の性向を効果的に助長し、それが犯しうる過ちを顕在化・肥大化させ正当化するモノが確かにあるように、私には感じられます。それが、「神」という名で呼ばれているモノだとしても、「啓蒙」と呼ばれているモノだとしても、「科学」と呼ばれているモノだとしても、人間の本来的にもつ性向を煽り立て、それが犯しうる過ちを奨励するかのようなモノは、何であれ、私にとって、嫌悪する対象になりうるわけです。

いずれにせよ、「自分自身が犯しうる過ち」に対して無自覚だったり、そのことに対する批判を許さない態度は、理屈抜きに、私に度し難い憎悪の感情を湧き上がらせます。そして、そういう態度を促すモノ・助長するモノを、私は非難せずにいられないのです。これが私の動機のすべてです。

当然、以上のことはすべて私の感情的な思いですので、論理的な矛盾や非合理的な欠陥はいくらでもあります。私はこれらの幼稚で衝動的な気持ちを、理性的に捉え直し、より一般的でより望ましい「見解」へと修正していかなければならないのですけど、まだそれがまったく出来ていないわけです(そもそもその湧き上がった感情が「私自身が犯しうる過ち」でないかどうか吟味しなければならないわけで)。

一部の「宗教」は、明らかに、「自分自身が犯しうる過ち」に対して無自覚であり、そのことに対する批判を許さない態度を誇示してさえいます。『神は妄想である』は、そういった態度を助長する土壌として「超自然的な神をもつ宗教」一般の存在を指摘し、無宗教・無神論が「宗教」と対等な立場で互いを批判することが許される世界を要求していると、私は受け取りました。そして、それらの主張にとても強く説得力を感じました。
しかし、皆さんご指摘の通り、まだまだ私の認識は狭く浅はかだということが、よく分かりました。皆さんのコメントは、これからじっくりと時間をかけてしっかり消化吸収し、自分の幼稚で衝動的な気持ちを整理修正する糧としたいと思います。

92AH1:2007/12/07(金) 12:24:26 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さんの>>91はまさに「フェイルセーフ」と書いておられた部分を自らに当てはめ、自戒として書かれたものと拝読します。
つまらない意見ですが、宗教であれ啓蒙主義であれ科学主義であれ、全てが「独占ー排除ー敵対ー撲滅」というループにはまり得るものであり、このループこそが害悪である、という認識は必須でしょう。
実はグールドもドーキンスも宗教について語っている著作はちゃんと読んでいないので伝聞と推定なのですが、この自戒の部分を強く書いているのがグールドであり、ややもすれば侵略的傾向を示す(恐らくはアメリカの原理主義的な一部の)宗教に対するレッドカードとして書かれたのがドーキンスの著作でしょうか。
(まあ、両者が譲り合って境界を決めるのがグールド、押し合って境界を決めるのがドーキンスという感じはするから好みは分かれそうな)
「あいつらが押して来るんだから押し返さないとバランス取れねえだろ!」という苛立ちは、わかる気がします。私は日本に住んでいますので肌で感じているわけではありませんが。

チェンバレンとチャーチルみたいなもんかな?とはいえ、チャーチルが「ついでにドイツを占領し、世界に冠たる大英帝国の版図にしてしまえ!その方が世界は平和!ドイツ人も幸せ!」と言えば「そりゃあんた、ヒットラーと同じっしょ」と言わざるを得ない。
(くり返しますが未読のため、ドーキンスがヒットラー的と言ってるわけじゃないです。押し返すのもやりすぎれば侵略になるだろう、という話。)

93atheist:2007/12/07(金) 13:15:16 ID:Gg732u8U
>これは、(ドーキンスにとっての)神=宗教の全面的な否定ではないですか?

宗教の効用の評価という意味では、全否定といといってもいいでしょうね。
ですが、前にも書いた通り、だからといって、ドーキンスが「宗教を撲滅しろ」と主張しているとは思いません。

「神は妄想である」の「はじめに」を読めば分かる通り、すでに宗教に強くとらわれてしまっている人間を無神論者に転向させるのはほとんど無理だとドーキンスは考えている。

  もし本書が私の目論見どおりの役目を果たしてくれれば、本を開いた宗教的な読者が、
  本を閉じるときには無神論者になっているだろう。なんという厚かましくもずうずうしい楽天主義か!」P16

「神は妄想である」は、宗教に疑いを持ち始めたり、宗教に違和感を持っている人の肩を押して、宗教に対する批判的な態度を進めているのだと思います。
アルコールをやめたいと思っているアルコール中毒患者に対して、アルコールの危険性を説いてアルコールをやめる手助けをしたからといって、その人間が飲酒を全面的に否定しているというわけではないでしょう。

94atheist:2007/12/07(金) 15:24:45 ID:Dffm1ah2
93で引用した箇所だけだと、これがドーキンスの自嘲的な表現だということが分かりにくくて、誤解されそうな気がしてきたので、別の箇所も引用しておきます。

  世の中には、特定の宗教の強い影響のもとで育てられたが、居心地の悪さを感じていたり、
  その宗教を信じることができなかったり、あるいはその宗教のの名によっておこなわれる
  悪徳に心を悩ませたりしている人間がたくさんいるのではないかと私は疑っている----いや
  むしろ、確信している。つまり、両親の信じる宗教を捨てたいという漠然とした願望を抱いて
  いて、できればそうしたいと思っているが、離脱が現実的な選択肢であると気づいていない
  だけの人々がいるはずだ。もしあなたがそういう人間の一人なら、本書はあなたにこそ
  読まれるべきである。(p9)

96名無しさん:2007/12/09(日) 03:18:06 ID:E7qhD8do
なんだか知らないけど、当該の本も読んでないくせに孫引き、引用の
言葉尻をとらえて脳内敵認定&批判てダメじゃね?

97地下に眠るM:2007/12/09(日) 03:58:19 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

>その>>54の意味を理解するために、「侵略者」「殺す」とはなんの比喩なのかを知りたいのですが。

・宗教(特に、ヘブライの一神教)という「ミーム」は自然科学という「ミーム」に敵対的であり、共存は不可能である、「侵略」というのは宗教と自然科学というミーム相互間が本質的に敵対的であるということであり、「殺す」とはミームの消滅をはかること(ヴィークルの消滅ではない)
ってところかにゃ。
宗教(特に、ヘブライの一神教)と科学の共存は不可であるというのがドーキンスの認識なのではにゃーのかね?

このあたりに関しては、atheistクンが屁の突っ張りにもならにゃー出来のワリイ詭弁をご開陳されているにゃんな。必要性がなく、有害でしかない、と弁じるということは、できたら撲滅したいということでなくて何なんだ?>>87とかえらく非論理的にゃんぜ。ゲームに興味がなく、しかもゲーム特に有害であると考えてないのなら、ゲームを禁止しろとか言い出す必然性がにゃーだろが。もしゲームが有害であると信じるのであれば、ゲーム撲滅を願うのは当然ではにゃーかね。


ある特定の価値に対するニンゲンの態度はおおざっぱにいって3種類。すなわち、積極的肯定・消極的容認・否定、だにゃ。グールドの立場は消極的容認、ドーキンスの立場は否定であるという読みは間違っているかにゃ?
ある価値体系に対して、その有用性を認めず、有害性ばかりを言い募る言論をすることが、その価値に対する撲滅キャンペーンでなければなんだというのかにゃ?

98地下に眠るM:2007/12/09(日) 03:59:36 ID:yb0RBWTc
>神仮説に、妥当な仮説と認められるだけの根拠はなく、まともに考えれば神は「ほとんど確実に存在しない」(ドーキンスの表現)
>たぶんグールドだって、神と同じ程度にしか証拠のないもの(たとえば妖精)について問われれば、ほとんど確実に存在しないと答えたでしょう。
>にもかかわらず、グールドが神についてだけそう言わないのは、宗教のご機嫌取りなんじゃないのか、とドーキンスは述べているわけです。

ここだけど、僕にはドーキンスが厨房にしか見えにゃーよ。人工世界論の富樫クンなみに馬鹿丸出しなのではにゃーのか?
ドーキンスの理屈で「ほとんど確実に存在しない」といっている神はどういう神なんだろね。

例えば、こんな神概念はどないだ?
ウィキ「否定神学」の項より引用
****************************
神はすべてを超え出ている。しかしそのような知識は神についての一面的な知識に過ぎず、否定神学によって否定される。たとえば、肯定神学は神を善を超えたものとして示す。否定神学においては、神は、善ではない。ただしそれは神が悪であるという意味ではなく、人間の思考しうるいかなる「善」をも超えているという意味である。人間や事物は神の善性に似ることができる。なぜなら善の源は神であるから。しかしそれは神が善性において人間と似ていることを意味しない。したがって、神は、人間が把握しうる限りでの善ではない。こうして一切の述語は否定される。否定神学の終局は、一切の形、音、概念、人間に把握されるすべてを捨てて、いわば概念の闇と沈黙において、すべてを超えた光のうちに、神と合一することにおかれる。

中略

ドイツ神秘主義の影響の下にあるクザーヌスにおいては、神は万物の原理であるために、かえって神に作られた万物は原理としての神を完全に理解できないとされ、神の人間に対する本質は「知解されえない」ことにおかれる。この人間の本質的な無知を自覚することが、人間にとって最上の知、「知ある無知」である。

こうした中世の神秘主義的否定神学は、ルター派とくにシュヴァーベン敬虔主義に影響し、そこからカントの非述語的な存在概念や、ドイツ観念論における神および絶対者概念の成立にも影響した。

またハイデッガーの存在論などにも類似の思考がみられるそこにおいて、ハイデッガーは存在を存在者でないと定める。その定め方は極めて否定神学システム=「この世のあらゆる概念“でない”というシステム」に近いといえよう。
*******************************

こういう「一切の述語は否定され」「知解されえない」」ことに本質がおかれる神を、自然科学の理屈でどうやって存在否定ができるんだろ?
ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?
だったら教えてくれよにゃ、いままでの発言を保留した上で、カネ出して「神は妄想である」を購入して検討するから。

「神の不在証明」とかいう理屈がありますよにゃ。神は完全であると仮定すると矛盾するから神は存在しないとかいうやつね。しかし、この否定神学における神概念であれば、この不在証明ではまったく歯が立たにゃーことはすぐにわかるだろ?
僕たちは線的な形式論理を日常的に用いているけど、そんなものは論理の中のひとつでしかにゃーだろ。
神秘主義的宗教においては、排中律すら通用しにゃーんだぜ。科学的な知見で存在を否定できうるはずもにゃーんだよ。

否定神学の神概念をここで出してきたのは、たまたま神学ドシロートの僕が哲学との絡みで少しは理解できるからだにゃ。でも、キリスト教の範囲だけでもいろいろな神概念があるんだにゃ。科学的知見で否定できるのは、聖書を逐語解釈したチンケな神くらいなものだろ?

富樫クンの人工世界論ってのは、本質的に無知で何もわかってにゃーくせに世界がわかったとか抜かすお笑い理屈だよにゃ。世界というものがどんなに複雑で記述し難いものかがわかってにゃーくせに、さも自分ではわかったように思うのは厨房でありトンデモだにゃ。
ドーキンスと富樫クンのどこが違うんだろね? 神概念というものがどんなに厄介なものかドーキンスにはわかっているのかにゃ? ボクシングを習い始めて1カ月の練習生をボコボコにして「ボクサーって弱いぜ」とかいっているチンピラ、人工世界論の富樫クン、ドーキンスは同じことをやっているのでなければいいけどにゃ。

99地下に眠るM:2007/12/09(日) 04:00:53 ID:yb0RBWTc
他にもこんな話もあるにゃ

伊勢田哲治の「科学的実在論はどこへ向かうのか」
ttp://www.info.human.nagoya-u.ac.jp/~iseda/works/realism.html

科学・技術の枠内、あるいは常識的知見において電子の存在は自明であるとしても、科学哲学においては自明でもなんでもにゃーんだな。さっきの話は、ドーキンスの理屈は宗教的ロジックには通用しにゃーという話だったわけにゃんが、欧米世界における合理的思考のひとつの極みである科学哲学に対しても、ドーキンスの理屈って通用しにゃーんでにゃーのか? 電子の実在すら自明でないのに、神の不在を弁証するだって?
正直なところ分析哲学系はまるでわかんにゃーので、科学哲学における議論を展開する能力が僕にはにゃーんだが、ドーキンスの理屈は科学哲学的にみてどの程度の水準なのか重大な疑義があるのではにゃーのだろうか?

つまり、神学や観念論哲学の知識があるニンゲンだけでなく、分析哲学や科学哲学系のニンゲンもドーキンスを嘲笑してなければいいね、と。


つまりさー、「ほとんど確実に神は存在しない」などとグールドがいわにゃーのは、グールドが科学主義的厨房ではにゃーからだよ。


でさー
こういう底の浅い厨房発言をするのが富樫クンだったら笑っていればいいわけ。ところがカリスマのドーキンス先生がおっしゃると、真に受けるお歴々がでてくるにゃんな。
僕自身は進化生物学をベースにした人間観を採用するがゆえに、「味方陣営のカリスマ」の科学主義的厨房発言を看過するわけにはいかにゃーんだよ。「利己的遺伝子」「ブラインド・ウォッチメイカー」のドーキンスに対する評価は高いつもりにゃんけどな。神を攻撃するドーキンスはただの厨房だにゃ。

で、その厨房としかいいようのにゃー幼稚な認識を振り回して、「敵陣営」の多様さや奥深さを無視して同一視して否定するってのはどういうことよ? 多様さを無視して同一視するのはファシストのお決まりの論法であり、ドーキンス自身もそういうのはダメだといってたんでにゃーのか? 厨房かつダブスタでファッショでは何の救いもにゃーだろ。百害あって一利もにゃーな。

事実、僕はいわゆる創造カガクの言説について、多少なりとも同情的になっちゃったにゃ。
こんなドーキンスみたいな厨房の宗教否定言説がまかり通るのなら、その対抗言説として創造カガクのようなものがあっても当然ではにゃーか。

100地下に眠るM:2007/12/09(日) 04:01:49 ID:yb0RBWTc
さて、宗教と倫理のからみね

>宗教があってもなくてもその人はフェミニストであったわけで、つまりその人がフェミニズムという1つの価値観を採用する上で、宗教は実のところなんの機能も果たしていないということになります。

はあ?
その理屈だと、カトリックのフェミもプロテスタントのフェミも無神論のフェミも区別をつける必要がなくなっちまうだろ? みんな同じだとでも思ってんの? カクレクマノミの通常の言動を知る身としては、信じられにゃーほど粗雑にゃんな。

ちょっと別の視点から見てみるにゃ。法と宗教の関係ね。
以下は「世界の法思想入門」千葉正士著 講談社学術文庫版 より「結論 諸法思想の比較的特徴」より引用
***********************************************
まず法と宗教との関係について、西欧法思想の特徴がいちじるしい。言うまでもなく、法と宗教の分離を憲法上の大原則としていることである。これは、近代国家法としては普遍的原則であることに疑いない。しかるに、他の法思想はむしろこれと異なる。ユダヤ・イスラム・ヒンドゥー・仏教の各法思想は、宗教と一体である。固有法思想も現在まで報告されているものは、祖神信仰・超自然力信仰・精霊信仰あるいは創造神信仰など何らかの宗教的信仰と結びついている。

中略

だが、西欧法思想も、法理論としては法と宗教を峻別するけれども、法文化としては、両者は、峻別されていないどころか、反対に不可分の関係にある。西欧文化は、諸民族の固有文化とキリスト教が同化した結果であり、西欧人の行動基準はキリスト教倫理か少なくともそれの支配する社会道徳である。

中略

法と宗教の分離という法理論上の原則は、法が自己完結の規範論理体系であるという観念上の要請を概念的に尊重するための文化的な形式だと言わねばならない。逆説的に言えば、法と宗教は、文化的に不可分だからこそ法理論上分離しておかないと、それぞれ固有の特質が混同され存在意義が損なわれると解されて、いわば分業体制がとられたものである。
P290〜292
***********************************************

法と宗教の分離なんて前提だと僕たちは思っているにゃんが、ぜんぜんそうでもにゃーんだよね。このあたりの記述を見ると、宗教が法に対して発言権を持つのは当然もいいところにゃんがな。法と宗教の形式的分離という、キリスト教に特有の法思想を前提にすることは、各文化における法思想に対する押し付けであるという意識は、法人類学においては共有されているもののようにゃんな。

法思想ですら宗教と不可分であるのに、倫理と宗教の分離なんざどこの厨房のタワゴトかと眩暈がするにゃんよ。

それにね
キリスト教の歴史というのは、政治・科学・法などとの分離の歴史であるといえますよにゃ。キリスト教の枠内において、宗教と倫理の分離という話が出てくるのも理解はできるにゃ。しかしね、他の文化に対して、宗教と倫理を分離しろなんざあ、実は他の文化を完全に破壊したうえで奇形的なキリスト教化をすることにほかならにゃーのではにゃーのか? まさに、異文化否定のローラー作戦だにゃ。
ドーキンスは、自分でも知らずに他の文化圏をキリスト教化しようとしているオオタワケ。まさに厨房だにゃ。

101地下に眠るM:2007/12/09(日) 04:04:56 ID:yb0RBWTc
>>96
まともな本相手であれば、おみゃーさんの言う通りにゃんがな。
厨房のタワゴトだと読まずにわかるのであれば、そんなものを読む必要なんてにゃーのだよ。

102後悔と懺悔:2007/12/09(日) 07:51:23 ID:FvvOuBrA
これだけ議論を重ね、コメントを何度も読み直し、それでもまだドーキンスのほうに強く説得力を感じるのは、私が「反宗教-原理主義者」だからなのでしょうか。

たとえ仮にドーキンスが「反宗教-原理主義者」だとしても、ドーキンスが提起した様々な批判・非難は、「宗教」が真摯に受け止め、その答えを全人類に(他の「宗教」や無宗教者、これから生まれてくるすべての人たちを含めた全人類に)広く示す義務と責任がある──と思わずにはいられません。
たとえば、超自然的な神や教義の存在は重大なNOMA違反ではないのか。「宗教」は、自らの神や教義を支持する科学的事実があったときにもNOMA原理を遵守することはできるのか。そもそも厳密なNOMA原理の遵守など有り得るのか。(『神は妄想である』第2〜4章など)
たとえば、「宗教」は自らに批判が向けられることに対してどのような態度を奨励してきたのか・今後するのか。その態度の正当性をどう説明するのか。(『神は妄想である』第1〜2, 8章など)
たとえば、「宗教」は自らが犯してきた過ち・犯しうる過ちに対して、どこまで自覚し自省しうるのか。「宗教」は自らが犯しうる過ちに対する有効な「ブレーキ」なり「フェイルセーフ機構」を自らもちうるのか。(『神は妄想である』第8〜9章など)
たとえば、これらの批判に真摯に向き合った「宗教」があるとして、自分の「宗教」を擁護する人間には、他の「宗教」という名のもとで行われている非倫理的・反道徳的行為に対して責任と義務はないのか。(『神は妄想である』第8〜9章など)
たとえば、……。たとえば、……。たとえば、……。……。

「宗教」批判者の態度など、「宗教批判」そのものに対する皆さんの反論にはそれぞれ正当性があるのでしょう。説得力を感じるものも多いです。しかし、私には(ここに限らず)どの議論を見ても、「宗教」擁護者が、「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に向き合っているようには(まったくとは言いませんが)ほとんど感じられないのです。

一方、ドーキンスは「宗教撲滅論者」「無宗教-原理主義者」かも知れません(私にはそう思えませんが)。しかし、そのような態度は別にして、ドーキンスが主張する「無宗教者」擁護の言説とその根拠には、とても強い説得力を感じます。
たとえば、他人の「宗教」を、他人の家族や食事の好み以上に尊重しなければならない理由はあるのか。その理由は本当に正当と言えるのか。(『神は妄想である』第1, 5〜7章など)
たとえば、無宗教者が自分の立場を(「宗教」に配慮・遠慮することなく)明言できるということは、社会にとって健全なことではないのか。自分の価値観や道徳観を表明するのに、また、新たな問題について倫理的な考察をするのに、まず「宗教」に配慮しなければならないという社会は、あまりに不健全ではないのか。(『神は妄想である』第1, 8章など)
たとえば、私たちが善良であることに「宗教」はどれほど寄与しているのか。現代ではむしろ「宗教」は人類の「道徳観念」の「進歩」に対する足枷となっているのではないか。(『神は妄想である』第5〜7章など)
たとえば、……。たとえば、……。たとえば、……。……。

ドーキンス(や私)が、「宗教」を有害なモノとみなすよう促しているのか、全否定しているのか、撲滅しようとしているのか、そういった議論はともかく、私としては、様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか──という点に議論が発展していくことを期待したいのですが、皆さんはこの点にはあまり関心がないのでしょうか。

103後悔と懺悔:2007/12/09(日) 08:01:40 ID:FvvOuBrA
10日以上読み返し自分なりに咀嚼し検討したコメントに対してならば、私のような偏見に凝り固まった人間でも、多少とも何らかの示唆となりうるコメントができるのではないかと期待します。より最近のコメントについては、私がまだ十分に意を汲めていないと思われる点が多々あるので、もう少しじっくりと反芻してみます。

>>57:AH1さん
>これが「この土俵のすばらしさがわからんボケは撲滅したるんじゃー!」になると、「同じ土俵か、死か」という極めて侵略的・暴力的なものになるでしょう。
>その壁は意外と薄いのではないか、と思います。

>>48にも他にも随分と書いてきたと思うのですけど、私が興味深いのは、なぜ「“正しさ”を独占するモノ」を批判すべきだという思想が、「オレの言い分を理解できないヤツは撲滅したるんじゃー!」になりうる、その壁は意外と薄いのではないか──と思われるのだろう……ということです。
決して破られない壁とは言いませんけど、少なくとも、「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒(「ブレーキ」「ファイルセーフ機構」)を持った人・社会ならば、その壁は十分厚いだろうと期待しても不当ではないかと思うのですが、楽観的すぎるのでしょうか。

>>58:リリスさん
>でも、信者数が多いという理由で、一部の教義を「宗教」の代表のように扱うならば、それもまた藁人形論法になってしまうのではないか、と案じます。

おっしゃることは正論だと思います。しかし一方で、「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。的を射た喩えではないかも知れませんが、「穏健な行革肯定派」は「過激な行革肯定派」が弱者切り捨て政策を次々と断行することに対して責任はないのでしょうか。責任を追及するのは酷だとしても、何の負い目も感じないとすれば、やはり問題かと私は思います。
本音を言えば、>>64でリリスさんが述べているように、ドーキンスの問題提起のほとんどは、「宗教」自身が解決してくれれば良い問題であるはずなんです。しかし、それに期待をかけたい気持ちが、「宗教」について知れば知るほど萎えてくるというのが、私の正直な気分です。もっと知れば、その気分も変わってくるのでしょうか。

>>58:リリスさん
>(前略)で、私は、こういった事柄は人間の問題(必ずしも悪ではない)であって、宗教固有の問題ではないだろう、と思うのです。

もちろんおっしゃる通りです。しかし、もしも「宗教」がなければ、こういった事柄に対して、より建設的でより望ましい議論ができたはずだと思わざるを得ないのです。こういった人間の問題に関して思索するときに、「宗教」という腫れ物に少なくないリソースを向けなければならないというのは(私にとっては)悲しいことです(たとえば、>>6の最初の2段落を参照。これは私があらゆる事柄のなかで最も声を大にして主張したい気持ち・感情の発露です)。
ドーキンスは次のように書いています。「宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、(中略)内集団/外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカーチームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる(『神は妄想である』378頁)」

>>64:リリスさん
>私はキリスト教は、その母体であるユダヤ教の起源や、啓典宗教であり唯一神を信仰することから、「“正しさ”を独占しようとする」傾向が他の形態の宗教よりも強いのではないかと思っています。しかし信仰の中の「神の前での敬虔さ」がそのブレーキになるだろうと思いますし、“正しさ”と言っても決して静的に硬直したものではなく、動的に探求されてきたものである事は、キリスト教の歴史が示していると認識しています。

「正しさ」が静的に硬直したものでないことは、『神は妄想である』第5〜7章(とくに第7章)の主要なテーマです。人類の倫理観・道徳観が、数多の紆余曲折を経ながらも全体としてより望ましい方向に「進歩」してきているということは、疑いのないことだと思います。
そして、その点について「宗教」自身の寄与はほとんどないという『神は妄想である』の主張とその根拠にはとても強い説得力を感じます。つまり、「動的に探求されてきた」動機は、「宗教」そのものにあるのではなく、たとえば「安息日に薪を拾ったからって処刑するのはやりすぎじゃないか」とか「処女でないという理由だけで婚約者に打ち殺されるなんてあんまりじゃないか」とかいったより素朴でより根元的な感情が動機になっていたのではないかということです。この考えでは、「宗教」そのものは「進歩」に対するブレーキとしてのみ働いているわけです。

104地下に眠るM:2007/12/09(日) 10:24:39 ID:yb0RBWTc
>自分の「宗教」を擁護する人間には、他の「宗教」という名のもとで行われている非倫理的・反道徳的行為に対して責任と義務はないのか。

20世紀における虐殺の多くは無宗教の名の元に行われたのは知っているだろ?
ドーキンスやチミが、スターリンやポルポトの虐殺に責任をとってからそういう馬鹿発言をするのなら聞いてやるよ。
チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタになっていにゃーかどうか、ちっとは考えてからカキコしな。

105後悔と懺悔:2007/12/10(月) 00:56:07 ID:FvvOuBrA
かなりムカついたくらいで自分の決めた約束事をあっさり反故にするダブスタ野郎の言うことなんで、適当に無視するなり嘲るなりしてくれれば良いのですけど……。

>>104:地下に眠るMさん
>20世紀における虐殺の多くは無宗教の名の元に行われたのは知っているだろ?

知ってますよ。>>4で地下に眠るMさんご自身が再掲した私の(2007/11/08 20:08)のコメントの最後の一文は信じてもらえてなかったわけですね、残念です。ちなみに、「無宗教の名の元に」という主張にはとてつもなく強い違和感がありますが、地下に眠るMさんがそう主張し続けるなら、いずれ議論の俎上にのぼることになるでしょう。

>>104:地下に眠るMさん
>ドーキンスやチミが、スターリンやポルポトの虐殺に責任をとってからそういう馬鹿発言をするのなら聞いてやるよ。

>>91を書いた直後に、なおそういうことを言われなくちゃいけないんですか。>>5で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論を読んで、なおそういうことを言われるわけですか。
もともと私の問題意識は、「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探究することである(マキアベリ)」にあり、「人が犯しうる過ち」についてであり、ヒトラーやスターリンやポルポトの虐殺のようなことがなぜ起こるのだろうといったことから始まり、より身近な「ニセ科学」問題を経て、理科教員時代に「オウム事件」の衝撃を受け、「宗教」に至っているわけで。私としては、すべては同じ問題意識上にあるんですが。

で、地下に眠るMさんは、私にどんな責任をとれとおっしゃるのでしょうか。
一応、私は微力ながら理科教員として、科学や科学史などの話題を取り上げながら、「人はどんな過ちを犯してきた・犯しうる存在なのか」「どんな自戒が必要なのか」といったことを子供たちや同僚に伝えてきたつもりですが、まだ不足ですか、そうですか。いや、不足なんじゃなくて、そもそもそんなのは責任の取り方として見当違いだとおっしゃりたいのですか。教えて下さい。

ドーキンスがスターリンやポルポトの虐殺にどんな責任をとっているのかは、『神は妄想である』第7章を読むか、彼に直接手紙でも書いてみたらいかがですか。

>>104:地下に眠るMさん
>チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタになっていにゃーかどうか、ちっとは考えてからカキコしな。

そうしたいし、そうしているつもりなんですけど、自分の能力を超えることはなかなかできないんで、自分が知らないうちに失態を犯していたり陥穽にはまりこんでしまっていたりしていたときには、そう指摘していただけるのはとても有り難いです。ただ、今回はさすがに納得しかねました。10日以上推敲した結果がアレなわけで、そんな馬鹿で無知な人間にも、どこがどう「ドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」になっているのか、もう少し分かるようにご説明頂ければ幸いです。

106chochonmage:2007/12/10(月) 01:46:43 ID:Qhwn4442
後悔と懺悔様
猫さんの「ダブスタ」は、後悔と懺悔さんの、

>「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
を受けてのことでしょう。
(無宗教を擁護する人間は、「無宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
になるという事。)

それから、
>彼に直接手紙でも書いてみたらいかがですか。
は、それを言っちゃあおしまい、ってやつみたいに思います。

ですが、私も猫さんに質問。

スターリン、ポルポトの虐殺は、「無神論者」の行ったことに間違いなく、また
無神論を含む共産主義思想が背景にあったこともまた間違いないとは思いますが、
「無宗教の名のもと」は少々違うと思うのです。かつて「宗教の名のもと」に行われた
様々な蛮行は「宗教の教義」そのものに負うところが大だったの思うのですが、
私が調べた限りでは、スターリン、ポルポトについては「無宗教思想」そのものが虐殺のバックボーンであった
とは考えられません。いかがでしょうか。
私の無知なのかも知れませんので、もし文献をご存知でしたらご紹介いただけたら幸いです。

107カクレクマノミ:2007/12/10(月) 02:08:07 ID:THRtI5kM
>このあたりに関しては、atheistクンが屁の突っ張りにもならにゃー出来のワリイ詭弁をご開陳されているにゃんな。必要性がなく、有害でしかない、と弁じるということは、できたら撲滅したいということでなくて何なんだ?

「できたら撲滅したい」と、独裁者の言う「殺してしまえ」というのはずいぶんニュアンスの違う言葉だと思いますが。
まあ何にせよ、ドーキンスが宗教をできたらなくしてしまいたいと考えているのは間違いないと思います。たぶん、地下猫さんが安易な宗教否定を撲滅したがっているのと同じくらいに。

>こういう「一切の述語は否定され」「知解されえない」」ことに本質がおかれる神を、自然科学の理屈でどうやって存在否定ができるんだろ?

ドーキンスは、自分が否定する「神」の定義をかなり絞っています。
ドーキンスが批判対象とする「神仮説」は、
「宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説」(邦訳p.52)
です。これ以外の神の定義が可能なことも、それらについては批判できていないことも、ドーキンスは認めています。
だいたい、無数の神の定義すべてを扱おうと思ったら、たぶん定義の列挙だけで「神は妄想である」よりも厚い本が必要でしょうね。

ドーキンスは、もちろんあらゆるパターンの宗教や神を批判できてなどいないし、それができているとは思ってもいないでしょう。
ドーキンスが直接に議論している宗教はごく一部であり、その他の宗教をどう判断するかは読者への宿題といった所でしょうね。
ドーキンスの批判点をすべてクリアした宗教があるとしたら、胸を張って出てくればいいし、ドーキンスもそれを批判はしないでしょう。

>電子の実在すら自明でないのに、神の不在を弁証するだって?

地下猫さんの議論とは思えないほど甘いなあ。
科学哲学における反実在論に基づいても、神仮説が妥当でないという主張は可能です。
確かに反実在論を考慮すれば電子の実在は自明ではありませんが、「電子仮説」が妥当かどうかは判断できます。

ついでに言うと、科学者の中では素朴実在論の立場が多数派で、反実在論科学哲学者もいちいち科学者の実在論的言明の言葉尻を捉えて嘲笑するほど暇ではありません。
そんなことをしていたら、科学哲学者は素粒子物理学のジャーナルを1冊読み終わる頃には顔の筋肉を痛めてしまうことでしょうし、1年分読み終わる頃には寿命が近付いているでしょうね。

>しかしね、他の文化に対して、宗教と倫理を分離しろなんざあ、実は他の文化を完全に破壊したうえで奇形的なキリスト教化をすることにほかならにゃーのではにゃーのか?

分離"しろ"なんてドーキンスは一言も書いていないし、僕も書いた覚えはありません。
書いてないことに文句を言われても困ります。

108NAN:2007/12/10(月) 02:24:19 ID:???
>>102
>>103:後悔と懺悔さん

私もあなたの主張に批判的ではあるのだけれど、そのポイントは少し違う(あるいは単にちょっとソフト)ものです。議論自体については基本的に傍観していましたが、ここでちょっと気になる点を書いてみます。

>ドーキンスが提起した様々な批判・非難は、「宗教」が真摯に受け止め〜

一方で個人、一方でガイネンという比較はどうなんだろう?そもそもすべての「比較」において、どこかに軸が必要になるのは当然なのですが、その軸が、果たして対立軸だったり集団を隔てる壁となり得るものなのか、さらには自分は「どちら側」にいてという前提に立っているのか、その前提は本当に確かなものなのか…それらについて私はとても懐疑的な気持ちでいます。

>私には(ここに限らず)どの議論を見ても、「宗教」擁護者が、「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に向き合っているようには(まったくとは言いませんが)ほとんど感じられないのです。

その議論とはネットの議論ですか?ほとんどの場合、ネットで発言している宗教擁護者というのはどうにもならないガチガチのバカです。というかそもそもネット議論に参加している人口など、すべての宗教者のほんの一部でしかなく、さらに極端なニンゲンばかりである、と私は認識しています。これはその他の信条や主義、あるいは思想などについてもおおよそ当てはまるものであり、極端な事例ばかりを見て「宗教者はバカばかりだ」と評価するのは浅はかに過ぎる、と私は思います。

>私としては、様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか──という点に議論が発展していくことを期待したいのですが、皆さんはこの点にはあまり関心がないのでしょうか。

その点は私も大いに関心があるし、そういう議論を歓迎するでしょう。しかし、ドーキンスの著書をベースに議論を進めたところで、書評あるいは人物評(非常にローカルで問題とはまったく別次元である、ということ)から逃れることもできないでしょう。

で、せっかくなのでこの点について少し書くと、宗教者であるor無宗教者であるみたいな「境界(ボーダー)」を挟んでディベートしたところで、いつまでも理解や和解、平和的な歩み寄りに発展することはないでしょうね。ではどのような議論が考えられるのか?私はそれを「絶望の上に立った議論」と表現します。
先にも書いたジンルイの妄想とは、希望だとか理想だとかあるいは「期待」と言い換えることができるだろう、と思っています。相手に対する期待。それはつまり自己の投影であり社会と自分との同一化でもあります。自分は健全で犯罪者ではなく常識を持ち善意的な人間であるみたいな認識です(笑。同時にそれは相手もそういうニンゲンであることを期待している(前提にしている)ことを意味し、共通の文化基盤、共通の生活様式などを自分と同様に相手も保持していることを無意識に要請します。これは群れ生活を営んできたジンルイすべてが持つ広範囲で脆弱な特性でしょう。

さてこの「期待」がほとんどすべての社会生活者が持つ妄想であるのならば、ほとんどすべての社会生活者も、実は宗教者(とここで表現されている仮想集団)となにも変わらない、というのが私の認識です。そこで、少し考えていただきたいのですが、これ、実は巨大宗教のほとんどが持つ「他力本願」の思想とそう変わりがありません。つまり、自分は無宗教である、だけど宗教者をどうにかしたい、ってことです。まぁ残念ですが、こんなカタチの「啓蒙」はまったく無意味だし、対立の溝を深めることにしかならないでしょうね。(対立の溝を深めたいならそれもOKなんですよ)

109NAN:2007/12/10(月) 02:24:51 ID:???
絶望とは、相手に期待しない、ということです。この「相手」とは個人や集団に限らず社会だったり因果律で云う結果だったりします。自己の投影を行わず、相手を想定さえせず…って姿勢を極限まで貫いていくと、物凄く宗教的なスタンスが生まれるように私は思います。まぁつまり、敵を撲滅したり殲滅したりっていう、「攻撃(他力本願)」を行う姿勢からはなにも生まれないので、自分以外という認識を捨てて、自分自身が敵そのものになるしかないんじゃないでしょうかね。いわゆるこれは…「出家」みたいなものですね。

>ドーキンスの問題提起のほとんどは、「宗教」自身が解決してくれれば良い問題であるはずなんです。しかし、それに期待をかけたい気持ちが、「宗教」について知れば知るほど萎えてくるというのが、私の正直な気分です。もっと知れば、その気分も変わってくるのでしょうか。

ね、他力本願ですね。宗教者と表現されている人となにも変わりません。念仏を唱えても極楽浄土には行けません。それと同じことです。もしもあなたがクリスチャンのなにかを変えたいのであれば、あなた自身がクリスチャンとして影響力のある存在になるしかないだろう、という意味でもあります。

ここからは私の意見を書きます。
なにがしかの信条、あるいは信仰などによってラベリングされる人々(集団)になにか問題であるのだとして、本当に問題となるのはその「ラベル」にあるのかどうか?そういうことに私は重きを置きます。あるいは、置きたいです。たとえば、大学卒業者に対して中卒者の犯罪率がもしも高いのだとしたら、問題があるのは「中卒者」という集団(サンプル)でしょうか。そうではないはずです。中卒者となるだけのなにがしかの理由や社会システム、そういった要因が必ずあるはずだ、と私は思います。さらにそれらは必ず個別の事象に行き着き、複雑でしょう。この複雑な問題を解決するのだとしたら、相当に慎重で、計画的で、あるいは自力本願的な言動…仮想敵に対する相当に正しい認識あるいは理解をもたないことには、どうにもならないだろうというのが私の意見です。しかし、不可能ではない。これもやはり、私の認識です。

病的な原理主義や妄信、教条的な思考、それらはいつでも誰でも発現し得るありふれた現象で、ボーダーレスに「ある」事象です。たとえば私は法を守らないこともできる…しかも法を守らないからといって必ず人殺しや泥棒になるわけではありません。ではなぜ、私は教条的に法を守ろうとするのだろう?それはニホンジンという集団幻想の中に私がいるからです。(かなりはみ出していますが)

社会は逆に、私(あなた)自身をも投影します。つまり社会(あるいはここで云う宗教者)がなにか「悪い(自身に対して害)」のであれば、それは私自身が認識する「倫理価値の軸」の投影でもある、ということです。

110AH1:2007/12/10(月) 12:37:17 ID:fKqeZx4M
>>決して破られない壁とは言いませんけど、少なくとも、「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒(「ブレーキ」「ファイルセーフ機構」)を持った人・社会ならば、その壁は十分厚いだろうと期待しても不当ではないかと思うのですが、楽観的すぎるのでしょうか。

これは半分は自戒を込めての事なのですが。
壁は意外と薄いのではないかと書いた理由の一つは、「引けと要求する時の自戒」が常に必要であり、では宗教でなければ皆(自分も含めて)、理性的でタダシイ判断ができるのかと言えば、それを期待するのはどうかな?という漠然とした不安があるからです。押し返すのもやりすぎれば侵略、とはそういう意味です。

もう一つは、こうです。ここで恐らく、後悔と懺悔さんと私は『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という考えを共有しています。それを共有していない人間に対し、共有せよと迫る事は良いのか?ということです。
そりゃまあ、別に構わないとは思います。主張したければする自由があります。運動したければする自由もあります。ただ、ダブスタにならないためには、宗教の自由も布教の自由もあると言わざるをえない。すると、なんとなく私の頭の中では、道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景が浮かぶのです(ex. 共産党の街頭演説を狙って軍歌を流した街宣車が来るようなもの)。
つまり、「譲らずに意見を言い合う」という理想論が「大声で喚いている馬鹿が二匹」に落ちぶれるのはとっても簡単じゃないかな、ということです。

さらに一つは、自戒を込めてですが、「宗教は現実世界について正しいことを言っていない、それは科学の役目である」という考えが、科学的には正しいのでしょうが、本当に正しいかと言えば絶対の自信はないということです。同様に『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という私の持っている「幻想」が本当に正しいかどうか、それにも絶対の自信はありません。

また、例えば中絶に反対だから医者を殺すとか、婚前交渉があったからと女性を焼き殺すといった例は私も否定すべきだと思いますが、これはいわば極端な例ですよね。原爆による被害の写真を見せながら「原子力は恐ろしい、科学は危険だ」と言っているような、ちょっと恣意的な気配を感じてしまうのです。
「科学で検証できそうな『現実世界』は全て科学のもの、宗教が口を挟むのは越権行為!」と主張するのは、科学主義としては痛快かもしれないんですが、そうすると宗教の出番って最終的にはほぼ無くなりますよね(なんせ人間がこの世に生きているんだから、この世に何のかかわりもない絵空事なんて宗教にもならない)。これは考え過ぎかもしれませんが、「いや、オレは境界をはっきりさせろって言ってるだけだ、何も越権はしてない」と言いながら宗教を「保護区」に追い込み、最後は消滅させようとしているように感じてしまうことがあるんです。

111GB:2007/12/10(月) 19:41:52 ID:Ni9i2QWM
以前頂いた、後悔と懺悔さんからのことば、

>人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる
(人類の歴史上、事実の問題として、それを妨げている最大の要因は「宗教」であるようにさえ
思われる)」私には、ドーキンスはこう言っているように聞こえます。

私にも、そう言っているように聞こえます。さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と
言っているように聞こえます。でも、

理性、倫理、道徳などという実に人間的な属性が、ヒトの生物学的な基盤の上に立つものであることは
当然だとしても、「倫理もミームで説明できるはず」で済ましてよいのかどうか。
その説明自体がどんなに興味深く楽しい話ではあっても、「人が生きる価値や意味」といった領域は、
(科学で理解できる「生物」には還元できない)、それを紡ぐ仕組み(文化)に対しての洞察が必要なのでは
ないか。そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。

ドーキンスが頭に置いていたのが一神教または組織宗教だけだったとしても、彼の論理の流れは
どうしたって「宗教一般」に関わるものであり、しかし、ドーキンスはこの重要な問いに対して、
まるで、と言って良いほど答えていない、と思います。

(人間性の進歩というテーマについての「時代精神」の章でも同じ感想を持ちましたが、ここでは触れません)。
でも一言だけ、「時代精神」の「進歩」について、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」という、
実は自己の文化圏内では一定の説得力を持つにしても、そこだけにしか通用しない思い込みであるとするなら…
でも私には、そう映るんです。

112地下に眠るM:2007/12/14(金) 12:28:29 ID:cizMQ0FI
なかなか書くヒマがにゃーので、むかーし第一掲示板に書いたネタのコピペ
形式論理を用いて神や宗教を否定するなんて、基本的に無意味もいいところだにゃ



背理  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2004年01月05日23時40分

****************************************
三位一体というが、一は三に等しいか? どうして三が一になりえるのか? 母親が処女でありうるか? まだいろいろあるがこれくらいにしておこう。
すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。一体いつになったらこのことに気づくのだろうか。テルトゥリアヌスはこう告白しているではないか。
「かくして神の息子は死んだ。このことは、まさしくそれが不合理であるゆえに信じられる。かくして彼は埋葬され、復活した。このことはまさにそれが不可能であるがゆえに確かなことである」
もしキリスト教徒がこのような矛盾を信じるよう要求するのであれば、この他に若干の背理(パラドックス)を認めようとする者を非難できないのではないだろうか。わけても背理は、極めて貴重な精神的財産の1つである。
これに反して一義性は、弱さのしるしである。従ってもし宗教が、その背理性を失ったり弱めたりするようなことがあれば、それは内面的に貧困化し、背理性が強められる場合にはそれは豊かになる。というのも充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみであって、一義的な明白さとか矛盾のなさとかいうものは物事の一面にしか通用せず、従って把握しがたいものを表現するには不向きだからである。
誰もがテルトゥリアヌスの精神力を持っているわけではない。テルトゥリアヌスは明らかに背理に耐えることができたし、それどころか背理は彼の場合、その宗教的確信の最高の根拠でもあった。精神的に脆弱な大多数の人々は背理を、まともに受け止めれば大怪我でもするかのように危険なものに仕立て上げ、これを回避しようとする。
ユング「心理学と錬金術」P30より 引用者が適時改段
*******************************************

科学的世界観をもつためには、心に棚をつくらなければならず
信仰においては背理に耐えられなければならにゃーのだね


113atheist:2007/12/15(土) 21:04:22 ID:MCLpIKSA
地下に眠るMさん(以下「Mさん」と略)へ

>形式論理を用いて神や宗教を否定するなんて、基本的に無意味もいいところだにゃ

これは、神の存在を肯定する側にも言えることですね。
そもそも論理によって神の存在を証明しようとすることがおかしいのです。宗教を否定する側が狙っていることは、論理による神の存在証明の弱点を突くことにあるのであって、神の非存在を証明することではありません。だからMさんの批判は宗教批判派への攻撃としては無効なのです。
スパゲッティー・モンスターの存在が否定できないように、なにかが存在しないことの証明は不可能なのです。Mさんはスパゲッティー・モンスターの存在を肯定するのですか?

>すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。

これって単なる開き直りじゃないですか。全然宗教の擁護になってませんよ。むしろ全否定じゃないですか。

114atheist:2007/12/15(土) 21:32:03 ID:nBjbGh2w
GBさんへ

>さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と言っているように聞こえます。

確かに、現に存在する複数の倫理/道徳の体系を評価し、その中からひとつを選択するということは科学の問題ではありません。ですが、なぜ現に存在するような倫理・道徳が存在するか、ということなら科学である程度説明できると思いますよ。

>その説明自体がどんなに興味深く楽しい話ではあっても、「人が生きる価値や意味」といった領域は、
(科学で理解できる「生物」には還元できない)、それを紡ぐ仕組み(文化)に対しての洞察が必要なのでは
ないか。

その仕組みが、なぜ宗教でなければいけないのか?ということがドーキンスの論点なのです。
現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩ん

だりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。

>そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。

なぜ宗教が存在するかという問題(事実の問題)と、宗教が必要かという問題(価値の問題)は別のものです。宗教の問

題になると常にこの問題が混同され、「現に存在するのだから必要なのだ」と考えてしまうのが混乱の元なのです。

115atheist:2007/12/15(土) 21:49:06 ID:nBjbGh2w
MANさんへ

>宗教者であるor無宗教者であるみたいな「境界(ボーダー)」を挟んでディベートしたところで、いつまでも理解や和解
、平和的な歩み寄りに発展することはないでしょうね。

>これはその他の信条や主義、あるいは思想などについてもおおよそ当てはまるものであり、極端な事例ばかりを見て「宗
教者はバカばかりだ」と評価するのは浅はかに過ぎる、と私は思います。

別に私は、宗教家対反宗教家だとか、ドーキンス派対アンチ・ドーキンス派だとかいう枠組みで戦おうなどとは思っていないのです。
宗教を否定することと宗教家を否定することは別のことです。ドーキンスは、宗教をウィルスのように考えている(つまりミームとして考えている)わけで、そのウィルスにどう対抗するべきかということを考えているのだと思います。ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません。問題は、ウィルスに感染している人間が自覚がなかったり、感染していることに誇りを持っていて、ウィルスを攻撃すると怒り出してしまうことです。

116GB:2007/12/15(土) 22:40:59 ID:zXfK7pu6
とりあえず、グールドの言葉で。

「敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である──人類と同じぐらい古く、永続的に警戒することなしには
廃絶することができない伝統である。」
(『神と科学は共存できるか?』P158)

117atheist:2007/12/15(土) 23:14:12 ID:azIdXNDg
もうひとつ問題があるのを忘れていました。
それは、ウィルスに感染していない人の中にも、ウィルスに感染することに意味があると思っている人がいるということです。

GBさんへ
宗教が教条主義と不寛容を強化するのが問題なのだと思いますが。

118GB:2007/12/15(土) 23:43:36 ID:zXfK7pu6
すべての人間は、それぞれのウィルスに感染してるんだと思いますよ。

119NAN:2007/12/16(日) 13:33:40 ID:???
>atheistさん

横レスですか?構いませんが、私はあなたの発言について対立軸や立場を指摘していません。ですからあなたの反論は検討違いです。また、あなたの発言は私的にノーマークでした。チェックすらしていないのでどんな主張をしている方なのかさっぱり分かりませんでした。

>問題は、ウィルスに感染している人間が自覚がなかったり、感染していることに誇りを持っていて、ウィルスを攻撃すると怒り出してしまうことです。

そこで、逐語的にここだけ指摘します。
上記は「ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません」というワケの分からない比喩から導いた主張らしいですが、なにか説得力のようなものが存在するなら(云いたいことがきちんとあるなら)説明してもらいたいものです。

あなたが比喩として持ち出した「仮想ウィルス」はどんなウィルスですか?感染すれば必ず癌化したり致死的な症状をもたらす殺し屋ですか?それとも、遺伝子の「運び屋」みたいなものですか?ミームというガイネンを持ち出したからには後者を想定しますが、その割には「ミームを持つことに自覚のないことが問題だ」と結ぶあたり、ご自分でなにを主張しているのかさっぱり自覚していない風情に見えます。

あなたは宗教というミームを「殺し屋(ネガティブなもの)」と最初から固定して想定し、そのうえで文脈を組み立てた。ところがミーム(いや、ウィルスですら)はさまざまな性質を持つし、それぞれの環境に対して正方向にも負方向にも作用し得るものであるはずです。これらに「感染」している自覚を持っているほうが平常時には不思議だし、自ら感染したのであれば誇りを持っているであろうことは当然です。

別に私のHNを間違えてても構いませんが、反論らしきことを述べるならまともに推敲した文章でお願いします。

120NAN:2007/12/16(日) 13:56:11 ID:???
ついでにもうひとつ「横レス」しておきます。

>117:atheistさん
>宗教が教条主義と不寛容を強化するのが問題なのだと思いますが。

あなたが混同しているのは「ヒトとかいうくだらないイキモノ」が教条主義と不寛容に陥りやすい性質を持つということと、宗教がそれを強化する性質を持つ(であろうor自分が知る限りはそうだ)という点です。教条主義を強化するのは宗教に限りません。あらゆる「枠組み」がそれを強化します。不寛容なニンゲンとなると、そこら中に見受けられます。たとえば私もそうです(笑。

>114 を見ると、
>現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩んだりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。


現にあなたも「宗教と云われるものは一切信じない」という枠組みの中に縛られ、教条的に発言しています。どうやら「ゲームは(自分には)必要ない」というミームにも感染しているようだし、その自覚もなく、感染しているこおに誇りすら感じる。まさにあなたの指摘に適合しますが、それは宗教の性質ではなく、ニンゲンの性質でしょう。

121NAN:2007/12/16(日) 15:50:30 ID:???
日曜日に時間が取れるのは珍しいんだけど、なぜか空き時間ができたのでもう少し書き込もう。

宗教に対して、私は以前から強い興味を持っている。しかし、どこか特定の宗教に入信したり、信仰を持っているわけではない。無論、よくある「ニホンの家系」に属するので、菩提寺というものはある。これは禅宗で、比較的古風な宗派だけれど、私が好きな原始仏教とはほど遠い。

ttp://www.j-world.com/usr/sakura/

webには上記「佐倉哲エッセイ集」のように優れたソースもある。恐らく、この方も「入信はしていないが宗教の研究をライフワークにしている」のではないだろうか。宗教と対峙する姿勢にはさまざまなものがある。科学的仮説に対して批判を行ったり、反論を述べるにあたって、該当する仮説をきちんと理解していなければ、激しい見当違いになるのと同様、宗教についてなにか批判を行うのであれば、宗教に対しての一定の理解がなければ、同じく見当違いになるのは当然だ。ネットに多数存在するカルトバカ宗教のアホ信者を蹴飛ばすのは簡単だけれど、巨大宗教に対してこれを行うには相応の覚悟がいる。

しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

「暴力」は問題視されて当然だ。しかしそれが果たして宗教と直接結びつくものなのかどうか?これは科学的創造論者が進化論をさっぱり理解していないのに批判することと対峙する「場面」とは根本的に異なる、と私は思っている。ニホンでも、オウムのテロ行為は記憶に新しいし、私個人も最近とあるカルトの勧誘を受け、薄気味悪い主張に辟易したことがある。しかし、これらは本当に「宗教」という枠組みの持つ性質なのだろうか?はっきりとは云えないのだけれど、私は「違う」と考えている。

あなたはあなたの出身地や出身校についてバカにされると、腹を立てないだろうか?あるいは、宴席で隣に座った誰かが同じバックボーンを持つと知ったとき、喜んだりしないだろうか。これらは平常なニンゲンが誰でも持つ情緒だろうと私は考える。親は自分の子供を思うように育てようと夢想する。言い換えればコントロールだ。度が過ぎると破滅が起きる。さまざまな宗教団体を舞台に起きる事件の数々も、実を云うとそれと同じシナリオで起きているのではないだろうか。義務教育を経て高校〜大学と進学し社会に出て就職する。これを教条的と云わずなんと云えば良いのだろう?毎日同じ時間に起床してどこかに通勤または通学し、だいたい同じ時間に帰宅したり飲みに出たりする。そういう「レール」に乗ることを是とする性質はとりたてて珍しいものでもなんでもない。あるレールを失ったり転落してしまった場合、代替となるレールが必要になるだけのことではないだろうか。そこに宗教の存在理由の「ひとつ」がある、と私は思う。

122NAN:2007/12/16(日) 15:51:05 ID:???
宗教の持つ根本的価値のひとつに「死後の救済」がある。これはすなわち、生の反映でもある。死後も今と変わらないか、それ以上の「生活」があるという教えだ。さらに突き詰めるとそれは、財産の保証もしくは利息の支払い契約でもある。この場合、支払われるものはなんだろうか?それは多分「命、または魂などと呼ばれるガイネン」で表される。つまり、生命が永遠に失われないという期待に対する答えが「救い」なのだろう、と私は考える。

生命は常に、いきなり失われる不安にさらされている。この掲示板を見る誰もが、数分後には後ろから自動車に轢き殺されたり、落雷に当たって命を落とすかも知れない。生きるという連続は所有を蓄積する連続でもある。金持ちがやたらとお布施を弾むのは、掛け金を多くすればそれだけ多くの見返りがあるだろうと期待する心情に他ならない。そしてそれは、実業家が事業に投資するのと原理的にはまったく同じ心境だろう。それらは常に、失われる不安を伴い、射幸心を煽る。射幸心の存在する場所には、大きなビジネスチャンスが必ずある。そう、宗教とは巨大なビジネスでもある。「あなたはなにも失わない」という保証、それが商品である。

宗教の問題とは、所属や帰属意識、喪失の不安、集団繁栄の欲求など、ニンゲンが持つ根源的な「共同体意識」に等しいか、相似していると私は考えている。めちゃめちゃな教義や馬鹿げた教条主義を蔑視するのであれば、あなた、あるいは私が日々精進している「馬鹿げた商材の販売」や「異常な派閥主義」とか「超非人道的な人道政策」など、合法的に正当化された行為だって、同じく蔑視の対象だろう。また、そういうものと自分は一線を引いているという自覚でさえ、それら蔑視されるべきものの対称軸にあるだけのことで、実は相似形なのだ、と私は思う。

最後にテーマに戻ろう。宗教と科学が共存できるか?ということを考える以前に、一般生活と科学は共存できるのだろうか?と私は考える。霊の存在、オーラがどうの、死後の世界、宇宙人、世界規模の陰謀、地球空洞説など…そういうものと科学は、果たして共存しているだろうか?私はむしろ、優れた宗教家は科学を伴侶にできるけれど、大半の生活者は科学と共存できないのではないか?と思っている。科学的検証や実証とは無縁に、テレビで見たから納豆を買う消費者は、それが妄信であることなど歯牙にも欠けず財布を開き、ブランドを信仰し、中身を知りもせずに高価なだけで低性能なメーカー製パソコンを使用する。自分の行動を懐疑しない人格とは、カルトそのものであろう。

123地下に眠るM:2007/12/16(日) 18:39:18 ID:Ja2I4.Nc
>atheistクン
>その仕組みが、なぜ宗教でなければいけないのか?ということがドーキンスの論点なのです。
>現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩ん
>だりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。

チミは少し悩みなさい。
少なくとも、自分がぜんぜん読めてにゃーとか明後日の方を向いたことを言っているのではないかとかいう疑義を持つべきだにゃ。
字が読めるようになったらまた遊んであげるね。

他の返すべきレスは返しますにゃ。
なんか忙しくて余裕がにゃーのです。ごめんね>おおる

124atheist:2007/12/16(日) 22:12:02 ID:T4.UK3Ao
NANさんへ

全く申し訳ありません。ご指摘を読んだ時点でもしばらく何を言われているのか分からない位「MANさん」だと思い込んでいました。平謝りです。

>上記は「ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません」というワケの分からない比喩から導いた主張らしいですが、なにか説得力のようなものが存在するなら(云いたいことがきちんとあるなら)説明してもらいたいものです。

分かりくい文章で申し訳ありません。NANさんがおっしゃる通り、ウィルスにもタチの悪いものといいものがあるわけで、私が言いたかったのは、宗教はタチの悪いウィルスだということです。

>あなたが混同しているのは「ヒトとかいうくだらないイキモノ」が教条主義と不寛容に陥りやすい性質を持つということと、宗教がそれを強化する性質を持つ(であろうor自分が知る限りはそうだ)という点です。教条主義を強化するのは宗教に限りません。あらゆる「枠組み」がそれを強化します。

これには同意できません。これだと人間が不寛容になるのは不可避だということになってしまいます。不寛容に抗う「枠組み」も存在すると思います。

地下に眠るMさんへ

ドーモスミマセン。私は苦悩するだけの深みもない、浅薄でノーテンキな人間です。だけど、なんで悩まなくちゃいけないんですかね?苦悩しながら他人に害を与える人間とノーテンキで害のない人間となら、私は後者を選びますが。

私も、平日は忙しいので書き込めないと思います。っていうか、もうここには書き込まないほうがいいのかな?

125atheist:2007/12/16(日) 23:14:30 ID:rUnqyHU.
地下に眠るMさんへ

すみません。最後にもうひとつだけ。
私が文も読めない大馬鹿者だからだと思うのですが、今にいたるまでMさんの宗教に対する立ち位置が分かりません。
「否定神学」だの「啓蒙の弁証法」だのと難しいことを言われても、無知無教養の私には理解できませんので、選択式で

答えてはもらえませんか。そうすれば、私もスッキリした気持ちで退散できます。

1.宗教は絶対的な善である。
2.宗教にはいいところも悪いところもあるが、総体的に見るといいところのほうが勝る。
3.宗教は絶対的な悪である。
4.宗教にはいいところも悪いところもあるが、総体的に見ると悪いところのほうが勝る。
5.宗教は悪であるから絶滅すべきである。
6.宗教は悪であり、できればなくす方向にしたいが、無理に絶滅しようとすると悲惨なことになるので、慎重な対応が必

要である。
7.宗教が善であろうが悪であろうが、多様性をなくすことは問題なので、宗教を擁護する。
8.そもそも宗教をなくすことは不可能なので、善だの悪だの議論しても無意味である。
9.宗教は合理性を超えた深遠なものなので、善だの悪だのという議論からは超越している。
10.ドーキンスは厨房なので、ドーキンスの宗教批判はなにがなんでも否定する。
11.自分の知識をひけらかすのが大切なので、結論はどうでもいいい。
12.その他

複数回答可です。ちなみに私自身は、4と6です。

126atheist:2007/12/16(日) 23:20:42 ID:rUnqyHU.
行ズレ申し訳ない。

127後悔と懺悔:2007/12/17(月) 01:55:49 ID:FvvOuBrA
便宜上、各発言者のコメントに対する返信の形をとっていますが、そういう形を借りて、ここを見ているすべての方に対して主張ないし問題提起をしているつもりですので、そう受け取って頂ければ幸いです。私の発言に関しては横レスを歓迎します(というか、みんな最初からそうだと思っていたのですけど……)。

>>72:chochonmageさん、>>73:次郎さん

ご指摘感謝します。狭く偏った体験・見聞をもとに問題を一般化して論じようとするときの典型的な陥穽ですね。私の>>70のコメントはしばらく検討保留にさせて下さい。

>>73:次郎さん
>単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。

私が特に興味深いのは、仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。
勝手な想像をすれば、キリスト教やイスラム教の世俗化(>>103の一番下のコメント参照)と似たようなことが仏教にも起こった(起こっている)と考えられますけど、そうだとすると、仏教では「原理主義者」とはどう折り合いをつけた(つけている)のでしょうか。

>>73:次郎さん
>といいますか、人類の道徳観念や価値観・倫理観にしても「他者に対する価値観の強要」の歯止めにはならないのじゃないでしょうか。
>つーか、そうであるならドーキンス氏のような主張がそもそも出てこないように思えるのですが、それとも価値観・倫理観の進化がまだ不十分なんでしょうか。

不十分なのだと私は思っています。というか、どんな人・社会でも「十分」ということはないでしょう。言論の自由を尊重する社会はその自由を守るためにトンデモな主張の存在に対するコストを支払わなければならないのと同様、反原理主義を掲げる社会はその中に原理主義者の存在を許してしまうことを覚悟しなければならないのは当然なわけで、もちろん最初からそのことを勘案した上で、それでも反原理主義を唱えているわけです。その点については、何度も弁明したと思います(直近では>>66>>67の「フェイルセーフ機構」の話など)。
そして、何度も繰り返しているように、この点において、価値観・倫理観の進化は、現状では及第点であり信頼にたるものだと思いますし、そう主張する『神は妄想である』第5〜7章の議論には説得力を感じます。人間は本来的に「他者に対する価値観の強要」をしてしまう強い傾向を持った存在ですから、ドーキンスのような主張が絶えず出てくる(「他者に対する価値観の強要」の出現に対するコストの支払いがなされている)ということは、人間の本来的な傾向を暴力や洗脳で抑えつけてはいないし、野放しにもしていない健全な社会である──という見方さえできるかも知れません。

>>77の次郎さんと>>84のGBさんの指摘については、強い違和感がありますが、感情的な印象論を述べてしまう前にもっと肯定的に検討する必要があると思うので、もうしばらく判断保留にさせて下さい。

ところで、議論の本筋とはまったく関係ないのですが……、
「否定神学」については、かつて少し勉強したことがあるのですけど、私にとってはとても難解で、かろうじて文意を汲めた僅かな部分から推察するに、否定神学とは「オレの考えた“神”表現が一番優れている」「ボクの表現で述べられた“神”が一番すごい“神”だ」とレトリックを競い合う品評会のようなもので(モーセス・マイモニデスの「“神は存在しているもの”と言わないで“神は存在していないものではない”と言えば誰にも論破されないんじゃね?」とか)、それでも、ディオニュシオスに始まりトマス・アクィナスを経てクザーヌスまで、どの「神」表現も、「(あらゆるすべての)第一原因(としての神)」をキーワードに、「被造物」「有限者」との対比が強調されていますから、これはまさにドーキンスが批判対象とした神定義(>>107:カクレクマノミさんのコメント参照)に抵触することは、まず間違いないと思います。
というか、『神は妄想である』ではトマス・アクィナス(や否定神学の主張)に詳しく言及していますし(第3章)、>>112で地下に眠るMさんが紹介された三位一体の問題にも触れていますから(54頁以下)、「ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?(>>98)」という疑問に対しては、「十分考慮されている」と答えても許されると思います。
もちろん、(特に否定神学については)私のいい加減な解釈を鵜呑みにされるととても困るので、詳しい方がいらっしゃれば、誤解のないように正していただけると助かります。

128後悔と懺悔:2007/12/17(月) 02:01:56 ID:FvvOuBrA
>>110:AH1さん
>壁は意外と薄いのではないかと書いた理由の一つは、「引けと要求する時の自戒」が常に必要であり、では宗教でなければ皆(自分も含めて)、理性的でタダシイ判断ができるのかと言えば、それを期待するのはどうかな?という漠然とした不安があるからです。

「“正しさ”を独占するモノは危険だという自戒・ブレーキ・ファイルセーフ機構を持った人・社会でも、壁を超えてしまう恐れがないわけではない」という主張ならば完全に同意します。
「“正しさ”を独占するモノは危険だという自戒・ブレーキ・ファイルセーフ機構を持った人・社会は、持っていない人・社会に比べて、壁を超えてしまう可能性が小さいとは言えない」という主張ならば、まったく同意しかねます。
「(前略)それを期待するのはどうかな?」という当然の疑問に関しては、私は、>>2の最初の書き込みから、ずっと何度も何度もその点について考察・擁護し続けています。どの点が検討不足だったり見落としていたりするのか、具体的に指摘していただければと思います。なお、私はこれらの考察にとても強い説得力を感じていて、不安はほとんどありません。

>>110:AH1さん
>すると、なんとなく私の頭の中では、道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景が浮かぶのです(後略)

もし社会からそう見られるのであれば、その社会は(私にとって)望ましい社会なのでしょう。まさか、AH1さんは「大声で喚いている馬鹿が二匹」の存在が許されるような社会は良くない、そういう馬鹿が存在し得ない社会を目指すべきだ──と主張したいわけではないでしょう(よく分からないですが、地下に眠るMさんは特にそういう社会を恐れているように感じます。単なる私個人の印象ですけど)。

一方の端に「極端な宗教原理主義」があり、逆の端に「極端な反宗教-原理主義」があるような長い長い数直線があって、社会の構成員はそれぞれ自分の立ち位置にあたる場所に立つとすれば、(各個人はさまざまな言説や事象に触れるたびに自分の立ち位置を揺さぶられるでしょうが)きっと全体としては偏差の大きいガウス分布のような形になるのでしょう。たぶん(望ましい社会ならば)極端にどちらかの端に分布が偏ることはないでしょうし、稀に(>>7で地下に眠るMさんが引用したように)プラトーンのような人間がまったく新たな視点・価値観を社会に投げかけるようなことがあったとしても、多くの人がそれに説得力を感じれば分布は大きく変化するでしょうが、それでも(望ましい社会ならば)ある1点に分布が収束したり、極端にどちらかの端に分布が偏ったりすることはないでしょうし、全体の分布が変化するにしてもそれなりの時間をかけてでしょう──あくまで「(私にとって)望ましい社会」であるならば……ですが。

で、改めて強調しておきたいのですが、私は(たぶんドーキンスも)、すべての人を数直線上の(誰かが「理想的」と考えるような)一点に集めるべきだと主張しているわけではない──ということを何度も何度も繰り返しています。むしろ、そうしたがる傾向(を助長するモノ)を強く非難しているわけです。どのような価値観であれ言説であれ、批判の対象にならない・なりえないというのは、著しく不健全である──というのが、私の(たぶんドーキンスも)主張の根幹ですから。

余談ですけど、そのような社会では、当然、対立や衝突は起こるでしょう。日常茶飯事と言っていいかも知れません。でも、どんな対立にも衝突にも相手の人間がいるわけで、宗教とかイデオロギーとかいった得体の知れないモノを相手に、仮想的な対立や衝突を思い悩んだって仕方ないわけで、その場その場で当事者となっている人間同士が目の前にいる人間と向き合って、その場その場の解決をしていくような社会になっていくしかないでしょう。あとは、>>6の最初の2つの段落に書いたとおりです。「宗教者」の美談と言われるものを見ていると、彼・彼女は、目の前の人を見ようとすることなく「神」を見て行動しているだけなのではないか──と思うことの多い私はたぶん身も心も「反宗教-原理主義者」なのでしょう。

129後悔と懺悔:2007/12/17(月) 02:05:47 ID:FvvOuBrA
>>110:AH1さん
>これは考え過ぎかもしれませんが、「いや、オレは境界をはっきりさせろって言ってるだけだ、何も越権はしてない」と言いながら宗教を「保護区」に追い込み、最後は消滅させようとしているように感じてしまうことがあるんです。

これは特に強調しておきたいところなのですけど、ドーキンスも私も、「宗教」に対して何らかの強制力を発動しようとか、すべきだとは一言も言っていないし、むしろそのことを強く否定しています。あくまで言論として人々に働きかけているだけです。これも何度も何度も繰り返し述べられていることであり、仮に武力や権力を用いた独善的で暴力的な「宗教弾圧」が行われるならば、ドーキンスも私も、それを非難するのは間違いのないことです。

もしもドーキンスの言説に多くの人々が説得力を感じれば、結果的に「宗教を“保護区”に追い込み、最後は消滅」するようなこともあるかも知れません(>>3で再掲されたコメント(2007/11/07 20:49)の最後の段落や、>>49のカクレクマノミさんへの返信を参照)。
でも、そうならなければ、ドーキンスも私も、自分の言説には十分な説得力がなかったと思うだけで、間違っても、ヒトラーやオウム真理教などがそうしてきたように腕力で分からせてやるなどとは微塵も考えていないし、これからも考えることはないというのは明らかでしょう(『神は妄想である』412頁などを参照)。

それなのに、「宗教を“保護区”に追い込み、最後は消滅させようとしている」ような強迫観念を感じるのであれば、ドーキンスの主張にはとても強い説得力があり、それに対する「宗教」の反論にはその程度の説得力しかないと感じている──ということなのかも知れませんし、そうでないのかも知れません。

いずれにせよ、「“宗教”者が危機感を覚えるかも知れないから、“宗教”批判は差し控えたほうが良い」という見解はもっとも強く非難されるべきものだと、私は考えます。嫌悪感さえ覚えます。
「分煙主義者か煙草撲滅論者かに関わらず、煙草の害について述べると、愛煙家が“煙草を絶滅させるつもりか!”と感じて怒り出すといけないから、煙草の有害性を主張するのは控えるべきだ」という見解に、AH1さんは賛同されますか?

私がここでコメントをしているほとんど唯一の目的は、「宗教に(宗教に限りませんが)非難すべき点があるならば、社会の一員の義務として非難すべきであり、それを躊躇ってはならない(躊躇わせるような社会であってはならない)」と訴えることです。そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、その危惧を解消しておきたいわけです。
私は、誰であれ、宗教を非難しようとする際には(宗教に限りませんが)、煙草の有害性を指摘するときに煙草や喫煙者に対して通常配慮する以上の気兼ねを感じることがないような社会になって欲しいと願っているわけで(>>102など参照)、それはドーキンスも同じだと思っています(『神は妄想である』36頁、46-47頁など)。

>>84でGBさんが「もし、私が自分の文化、特に無意識の領域を否定されれば、私には感情的な反発が起こるでしょう」と書いています。私も自分の文化や無意識の領域を「非難」されれば感情的な反発が起こりますが、それを言動に移す前に「その非難は正当なものか」と考える理性を持ち合わせている(または「持ち合わせたいなぁ」)と思っています。GBさんは「だから、他人の文化、特に無意識の領域を批判すべきではない」という主張をしたいわけではないと思いますが、もしそういう考えを持った人がいるのならば、私はそれに断固として反論します(私は「反宗教-原理主義者」と言われるのは正直抵抗がありますが、この主張について「原理主義者」と言われるのは構いません)。

批判する側の礼儀の問題はたしかに存在し、それは別に論じる必要があるとても大きな問題です(今の日本ではこちらのほうが重大な問題かも知れません)。でも、これも何度も何度も書いているように(>>102とか)、「宗教」を批判するのに、他人の家族や食事の好みを批判するとき以上の礼儀を要求するのは間違っていると、私は思います(この件について納得行く反論は寡聞にして知りません)。そして、その点において、私は(たぶんドーキンスも)十分に「宗教」に対して礼儀を尽くしているつもりです(この点について異論があるのは承知していますが、そういう人は、私が非難してきた点をどう言い換えればより礼儀にかなった穏当な非難になるのか、ぜひとも教えて頂きたいと思います)。

130後悔と懺悔:2007/12/17(月) 02:12:49 ID:FvvOuBrA
>>111:GBさんへ。
まず、私が書いていない文章を、私が書いたかのように引用されるのは、あまり気分のいいものではありません。GBさんによる要約なのなら、そう分かるように書くのが礼儀ではないでしょうか。
実際に私が書いた文章は以下の通りです。
>>49:後悔と懺悔
>(2)「重要な問い」への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(人類の歴史上、事実の問題として、それを妨げている最大の要因は「宗教」であるようにさえ思われる)。この点については、『神は妄想である』第6〜7章で徹底的批判的に議論されている。

>>111:GBさん
>さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と
>言っているように聞こえます。

絶対に勘違いしてはいけないのは(>>5で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論、および、このスレッドの最初のほうの「重要な問い」に関する議論の通り)、倫理や道徳の「正しさ」や「人が生きる価値や意味」といったことが「科学」で説明できるはずだ──とは誰も主張していないということです。そんな馬鹿なことは決して誰も(私が少しでもまともだと思う人間は誰一人)言っていません。ドーキンスも『神は妄想である』89頁でそう述べていますし『利己的な遺伝子』では繰り返しそのことを強調しています。
ただし、人間は、どんな倫理感や道徳感を持ちうる本来的な傾向があるのか、そういう傾向は人間のもつどんな本性的・本能的な性質からもたらされるものなのか、それらはどの程度普遍的ないし強固なものなのか──といった話題が「科学」で説明できないと考える理由はないように(私には)思えます。そういうことを研究するのは、「我々が犯しうる過ち(>>91などを参照)」を知る上で大変有益なことだと考えます。私は詳しく知らなかったのですけど、進化心理学という学問分野もあるそうですね。

>>111:GBさん
>そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。

その点については、まさに『神は妄想である』第5〜6章などで直接的に徹底的批判的に議論されているように、私には思えるのですけど……。GBさんが>>111で述べている疑問はすべてそこで明確に取り上げられているように私には思えるので、いったい具体的にどの部分が不満で「しかし、ドーキンスはこの重要な問いに対して、まるで、と言って良いほど答えていない、と思います」と言っているのか、私にはまったく分かりません(このスレッドでのGBさんのコメントを拝見する限り、GBさんは『神は妄想である』は既読のようですし……)。
そもそも、「文化」とか「宗教」とかを論じるには、(上にも書いたように)その前に「人間」そのものについての徹底的な洞察が必要なのではないでしょうか。
ちなみに、ある特定の「文化」が支配的なミームプールのなかで、どのような「宗教」ミームの生存価が高いか、また逆に、ある特定の「宗教」が支配的なミームプールのなかで、どのような「文化」ミームの生存価が高いのか──といった話題は興味深いかも知れません(ある特定の「宗教」が支配的なミームプールのなかで、『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という「文化」ミームはどの程度の生存価をもちうるか──とか)。でも、誰でも(私でさえ)思い浮かぶようなテーマですので、きっともうすでに誰かが研究しているのでしょう。

>>111:GBさん
>でも一言だけ、「時代精神」の「進歩」について、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」という、
>実は自己の文化圏内では一定の説得力を持つにしても、そこだけにしか通用しない思い込みであるとするなら…

具体的に言ってもらわないと何が言いたいのか分かりません。たとえば仏教にしても守るべき教義なり価値観なりは持っているわけで、「戒や律はもっと緩和されてもいいのではないか」といった素朴な感情に対して、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」と言うことはそれほど荒唐無稽なことではないでしょう。でも、GBさんはそんなことを問題にしたいわけではないですよね。

131後悔と懺悔:2007/12/17(月) 02:22:05 ID:FvvOuBrA
自分は新参者ですし、感情的になりやすく偏見にとらわれやすい無知で浅はかな人間なので、論者としての信頼を得るのは簡単ではないだろうということは初めから理解しているつもりでした。だからこそ、ここでは、>>18で議論に臨む自らの態度を宣言し(すでに破ってますが……)、勧められた書籍はちゃんと購入して読み(>>52)、>>91では自分に対してどのような自戒を課しているのかを明言してきました。そして、「理性的たらんと欲するのであれば、「敵」に対するよりも「味方」「身内」に対してより批判の矢を向けるべき(>>59:地下に眠るMさん)」という態度で、皆さんのコメントをじっくりと時間をかけて検討し自分なりに咀嚼するよう努めてきたつもりです。
しかし、どうやらそれは私の自己満足以外のなにものでもなく、実際には口先だけでまったく実行できておらず、私は未だ多くの方々から信頼に値する論者として見られていない──と認めざるを得ません。

>>106:chochonmageさん
>無宗教を擁護する人間は、「無宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。

あるに決まっています。『神は妄想である』第6, 10章は、その点についての弁明および擁護ですし、この議論の初期に、私が盛んに「人類は“宗教”なしで“重要な問い”にどう向き合えるのか」といった問題提起を繰り返していたのは、「無宗教」者としての最低限の責任だと思ったからです。すべての「無宗教」者がそういう責任を感じているとは言いませんけど、(ドーキンスや私を含めた)多くの人が、様々な場所・機会を利用して、「感じるべきだ」と主張しているのは認めてもらっても不当ではないと思うのですけど……(「“無宗教”者として」という看板では言っていないと思いますが)。
ところで、>>102に書いた他の「宗教」批判についても「無宗教」者は「ダブスタ」ではないか? と、皆さんがなぜ主張しないのか、私にはとても不思議です。
──それはともかく、chochonmageさんはきっと、私のこれまでのコメントの内容と態度から推し量るに、地下に眠るMさんの「チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」という見解が妥当であり、>>105の私の弁解は信用に値せず、私はこの点に対しまったく無自覚に「“宗教”を擁護する人間には、“宗教”という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか」という主張をしたと判断されたのでしょうし、その判断はおそらく正しいのでしょう。

>>108:NANさん
>その議論とはネットの議論ですか?

私の一連のコメントは、どう考えても「極端な事例ばかりを見て「宗教者はバカばかりだ」と評価」している「浅はかに過ぎる」人間と疑われても仕方がない──ということなのでしょう(なお、正直に言えば、恥ずかしながら、私自身はネット上での「宗教」擁護者の議論にはほとんど接したことがありません)。そして、NANさんが述べられているような一連の主張についても、私はまったく思いを巡らせたことなどなく、素朴で幼稚な感情論を何ら思慮思索することなく無根拠のまま垂れ流していると判断されたのでしょう。もちろん否定はできません。
NANさんには、ぜひとも、そんな偏見に満ちた浅はかに過ぎる私に、「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします(NANさんは仏教思想に造詣が深いようですので、あらかじめ断っておきますが、私はこの点について鈴木大拙を全面的に否定するつもりはありませんし、仏教についてだけ問うているのでもありません)。

──いずれにせよ、私がここで議論に参加するには、今一度、自分の議論に臨む態度や姿勢をよく自省する必要が迫られているように感じました。これまで、不十分・不誠実な態度・姿勢で議論に参加していたことを、これらの方々に謝罪します。

132chochonmage:2007/12/17(月) 08:18:29 ID:vUxNW.gI
後悔と懺悔様

>それはともかく、chochonmageさんはきっと、私のこれまでのコメントの内容と態度から推し量るに、地下に眠るMさんの
>「チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」という見解が妥当であり、>>105の私の弁解は信用に値せず、
>私はこの点に対しまったく無自覚に「“宗教”を擁護する人間には、“宗教”という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか」という
>主張をしたと判断されたのでしょうし、その判断はおそらく正しいのでしょう。

私は上記のように判断していません。少々無思慮に>>106の書き込みをしてしまったようです。
申し訳ありません。

>どこがどう「ドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」になっているのか、もう少し分かるようにご説明頂ければ幸いです。
という後悔と懺悔さんの発言に対して単に猫さんのロジックについて私なりの理解を書き込みしてしまったということで、
少々脊髄反応的でした。重ねてごめんなさい。

ただ、後悔と懺悔さんの「“宗教”を擁護する人間」というくくりが私にはあまり適当でなく思えるということはありました。
言わば、戦争遂行者とその手駒になっている(ならざるを得ない)人では「責任」のありようが違うのではないかということです。
それで、そのくくりの「甘さ」が猫さんに反論をポンと返されるような原因になったように思え(スターリンやポルポトの所業がドーキンスや後悔と懺悔さんに直接責任があろうわけはありません。)
というわけで、>>106の私の発言はどちらかというと後悔と懺悔さん側に立ったものであったつもりです。

最初から申し上げておりますが、私は全面的に同意かどうかは別として、後悔と懺悔さんと似たような場所に立っていると思います。(そちらからは迷惑だと言われるかもしれませんが。笑)
それから、私もまたこちらでは「新参者」ですし、こちらにいらっしゃる素晴らしき(恐るべき?)論者の皆さんのレベルにはとうてい及びません。
科学好きを自認しながらもニュートン力学でさえちゃんと理解できていないナサケ無い人間であります。(そういえば、後悔と懺悔さんは理科教員でいらしたそうで。機会があったらちょっと教えていただけませんか。)
後悔と懺悔さんは少なくとも私よりは優れた論者です。

>──いずれにせよ、私がここで議論に参加するには、今一度、自分の議論に臨む態度や姿勢をよく自省する必要が迫られているように感じました。
>これまで、不十分・不誠実な態度・姿勢で議論に参加していたことを、これらの方々に謝罪します。
などとあまり思う必要があるとは私には思えません。

133AH1:2007/12/18(火) 13:25:58 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
ちょっとまとまった時間がとれないので細切れで失礼します
>>128
>「“正しさ”を独占するモノは危険だという自戒・ブレーキ・ファイルセーフ機構を持った人・社会でも、壁を超えてしまう恐れがないわけではない」という主張ならば完全に同意します。

はい,こちらの意味です.ただし,「恐れがないわけではない」の部分を,私の方が強く言っているのではないかと推測します.

>「(前略)それを期待するのはどうかな?」という当然の疑問に関しては、私は、>>2の最初の書き込みから、ずっと何度も何度もその点について考察・擁護し続けています。どの点が検討不足だったり見落としていたりするのか、具体的に指摘していただければと思います。なお、私はこれらの考察にとても強い説得力を感じていて、不安はほとんどありません。

あくまで自戒を込めて・・の話です.

ただ,もう一つ,後悔と懺悔さんが触れておられないように思われる問題を提起していて,それは
「共通認識を持たない相手にはどうすればよいか」「『ある基準において論理的に正しく望ましい』事が,別の基準と共存できるか」という問題です.
極端な例え話をしましょう.
「隣人愛」を掲げる思想Aと,掲げない思想Bが隣り合わせたとしましょう.BはAをぶん殴ります.では,AはBを隣人とみなして愛するべきか?それとも,「あいつらは隣人愛を理解しない奴らだから隣人とみなす必要はない」とするべきでしょうか.
前者は非常に苦労が多い・・・というかタカ派の侵入を許したハト派状態です.後者はタカ派の侵入を許しませんが,「お前らの隣人ってのは要するに内輪のことだけかい」という誹りを甘んじて受ける覚悟がいるでしょう.

もちろん,Bが好き放題に殴って回ることを許せと言っているわけではありませんよ.この議論に即して言うならば,宗教の無茶な要求に対して,相手が宗教だからと言って甘い顔をしろと言っているわけでは全くありません.第一掲示板の方を見て頂けばわかると思いますが,このサイト自体が「科学でないものが科学のフリをするな!科学を名乗るなら科学の基本に則ってからにしろ!」という基調に貫かれていると考えています.私もその姿勢には賛成です.
ただし,このサイトが創造科学とは対立しても創造論と対立しないのは(この事は何度も強調されています)「科学にわからない事はいっぱいあって,そのわからない事について科学は何かを保証することはできない」からでしょう.単に,「科学でわかる事について,科学的に妥当かどうかは言える」というだけです.基本的に,私の宗教に対するスタンスもそんな所です.また,相当に有害だと思わない限り,こちらから「取り締まり」に行くことはしたくありません.
つまり,お地蔵さんを拝む人に対して「それはケイ酸塩を主体とする鉱物であって・・・よってその行為はなんら意味をもたないが,君がそれで幾許かの安心を得られるという非合理的な心情を持っているなら止めはしない.ただし科学的に無意味であることは理解したまえ」と講釈する気はない,ということです.
もちろん,「お地蔵様の御利益でガンが治った!医者に行くよりお地蔵様を拝め!」と言い出せば「コラちょっと待てや」と言うでしょう.

134AH1:2007/12/18(火) 13:40:56 ID:fKqeZx4M
追記
『「恐れがないわけではない」の部分』に関して,「どこに漠然とした不安を感じるかというと,多分,この辺です.

>>2
>私たちが普通「宗教」と呼ぶモノの「良い点」とされていることのすべては、「宗教」などなくても、理性的で合理的な人間ならば同じように振る舞えるはずのことばかりに、私には思えます。

確かにそうかもしれない.宗教の種類・有無を問わず,親切や同情といった美徳はヒトに共通性が高いように思えます.
一方,上の言葉に続けて「君たちは宗教という下らないモノに囚われている.今こそ理性と自由意志によって解放されるべきなのだ」と言い出す事も可能だし,これは何気に失礼千万な言い方だな,という漠然とした「感じ」です.
「宗教がなければ不道徳になる」などという主張は「アホか」の一言で済ませますし,「宗教がなければ道徳を失ってしまいそうだ」と言う人がいれば「しっかりせんかい」と言うでしょうけどね.

135次郎:2007/12/18(火) 13:41:23 ID:D2PZoWjk
ドーキンスが宗教にせよ科学にせよ人間理性にせよ、どの陣営に対しても正しさの独占を認めていないという事になると、当然ドーキンスは多様な価値(正しさ)が共存した社会というものを志向しているはずですよね。

で、そうした多様性を受容し合うような社会を作る上で、ドーキンスとグールドの主張のどちらが有効かという事を考えた場合、結論は明らかだと思うんですが、皆さんはどうでしょうか。

「自分の価値観が一番だ」と思うのは自然ですし、他者に「自分の価値観が如何に正しいか」というのを説くのも、相手が聞きたくないと言わない限りは特に問題ないでしょう。
でも他の価値観を腐し、自分の信じる価値観を賞揚する所に行くと、啓蒙までもう一歩、あるいは啓蒙そのものではないでしょうか。

アマゾンの書評などを見ても、やはりドーキンスは宗教撲滅を啓蒙する書を書いたとしか私には思えません。

そしてやはり今回のドーキンスの行動(著作)は程度の差こそあれ、「今のメリケンの馬鹿クリ((C)地下猫氏)」の主張の裏返し、反動のように思えます。

136PDX.:2007/12/18(火) 15:34:20 ID:???
>アマゾンの書評など

 実際に本を読んだ上で書いた人がどれくらいいるんだろう?とか思ったり。

137次郎:2007/12/18(火) 15:50:05 ID:D2PZoWjk
>>127
>私が特に興味深いのは、仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。

詳しくはないのですが、日本の信仰の中心は現在でも祖先崇拝なんでしょう。神道は氏神(祖先神)が中心ですし、お寺に「先祖代々のお墓」がありますよね。
先祖代々の墓なんてえのは原始仏教から考えたら????が27億6千万個位付く代物ですし。

たぶん日本は外来宗教が入りにくいのじゃないでしょうか。お隣韓国でのクリスチャンの率(30%弱)を考えると、日本の1%という数字の異常さが際立ちます。
仏教だけは国策として導入された経緯があり、また江戸時代のキリシタン禁令の時に国民全員が所属寺を持つことが強制された(宗門人別制度)結果、檀家制度が生まれ、それが現在まで受け継がれているので広く普及しているように見えるだけに思えます(僧侶の実情は仏教というより祖先祭祀と特に葬儀を司る職業になっているように思います)。

そういった強制的な普及の結果、住民に受け容れられる形(祖先崇拝教への変化)に成らざるを得なかったのでしょう。平たく言えば檀家がお金出してくれないと干上がるから、檀家が望むような形に変化したという事でしょうかね。

琉球王朝ではこのような檀家制度はなかったため、現在も仏教信者数は他県と比べて少ないようです。

まあ、横にそれすぎなんでこの位にしておきます。

それと、>>77の指摘ですが、巨人ファンとアンチ巨人ファンの例で考えると言わんとしている事がわかりやすいかもしれません。
巨人ファンとアンチ巨人ファンは、巨人に興味があるという点で同類です。好きの反対は嫌いというのが普通なのですが、本当は好きの反対は興味がないなのではないでしょうか。アンチ巨人は巨人を口汚く罵りますが、巨人の興味がない人はそもそも巨人の事を語らないでしょう。

後悔と懺悔さんがアンチなのかどうかは本当は分からないのですが、感覚的にそうであるように感じました。あくまで感覚の話しなんで、その程度と思って下さい。

138NAN:2007/12/18(火) 18:17:12 ID:???
>>131 その他:後悔と懺悔さん

あなたに対して私が批判的である主旨とは、宗教者vs無宗教者のような「枠」に基づいた議論そのものがナンセンスではないのか?という”私の”主観(もしくは基本的な考え方とかライフスタイル)に基づいてのものです。これに対し、

>「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします。

と返されても、宗教擁護者というものが何者なのか?それこそ虚像に過ぎないと私は考えているのでお答えのしようがありません。
たとえば私は「創造論者」と「創造科学論者」はきちんと区別しなければならない、と考えています。ですのでこのサイトにおいても創造論者とおおまかにくくった批判に対しては「それは大雑把過ぎないか?」と時折クレームをつけます。それが「宗教者」となると、たとえ前書きや注釈、その他の章立ての中でいくら断りをいれたとしても「失礼で浅はかに過ぎる」と私には見えます。
#ちなみに信仰者である知人が自らの過ちや自戒について述べる機会に接したことなどいくらでもありますが、なにしろリアルな会話ですので記録やソースを提示することはできません。
#ネット上の知人にも、自らがクリスチャンだけど研究機関に於いて古生物学の学術研究に従事している者がいます。しかしここに彼を引き吊り出すことが得策であるとは思えません。

>>129

>そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、その危惧を解消しておきたいわけです。

その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。
私はあなたの発言に批判的であるけれど、あなたの発言を禁止しないし、できない。それはほかの誰も同じことで、ある主張に対して別の主張の存在は常に許されています。すでに実現されているものに対して「危惧」を感じ、より上位の影響力を望む行為は、なんらかの「強制力の発動を欲しているのではないのか?」と思われるに値する、と私は考えます。

もちろん私も、原理主義者によるテロや、カルトによるマインドコントロール、集金装置と化した布教や集会、利権構造や政治的圧力団体へと変容している宗教団体について「個別の批判、時には強制力」は、あって然るべきだ、と考えています。しかしそれが「宗教者への無差別な批判(たとえどこかで断りを入れていても)」となると、配慮に欠けるだろうと思うのです。


>)、「宗教」を批判するのに、他人の家族や食事の好みを批判するとき以上の礼儀を要求するのは間違っていると、私は思います(この件について納得行く反論は寡聞にして知りません)。

これも同様です。私は宗教行為を個別に批判する際、まったく遠慮などしません。私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。私はこれまでも個別の信仰者に対し激しい批判や時には暴言さえ撒き散らしているけれど、相手の存在を否定したりはしていません。増してや「宗教」という大きなくくりで自分と他人を峻別したりしません。それで私は憎まれたり疎ましがられたりするだろうけれど、それも私が自由意思のもとに選んだ行動の結果であり、それを受け容れています。

まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。確かに宗教者そのものはいます。ほとんど大部分の日本人が法事に参加し、結婚式に出ています。もうそれだけでその人たちは「宗教者」なのではありませんか?違うというならそれも拒否すべきです。

あるいは、たとえば宗教法人というものの法人格を認める国家が宗教擁護者でしょうか?だとするなら、誰もが国家を批判し政権を「選ぶ」権利を我が国は有しています。これについて、いつまでも与党が変わらないことを批判するなら、それは国家に対してではなく、私たち自身についての自戒となるでしょう。

139NAN:2007/12/18(火) 18:17:45 ID:???
さて、これはついでなのですが…
>>127
>仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。

どこの巨大宗教も同じでしょうが、「仏教」とくくってもあまりにバリエーションが多すぎてもはやなにが仏教なのかさっぱり分からないというのが現状ではないでしょうか。少なくとも私が仏教と「呼びたい」宗派は我が国に存在しないように思います。
#このコメントについて詳しく書くと物凄い長文になるので、先に挙げた「佐倉哲エッセイ集」などを参考にしてください。

とにもかくも、私は「宗教」が民間に伝承し広まりやがて国や地域そのものを覆うまでに繁栄していく過程における、無残な世俗化(スノビズムの過程)にこそ注目します。象徴や偶像を否定していたはずの経典から、まるっきりそれが抜け落ちてしまったかのようになにかを拝み、念仏を唱える。そういうステレオタイプが宗教だ、というのなら、私はそれを全否定したいほどです。

要するに、私が後悔と懺悔さんに対して批判的である大きな軸とは、そういう「おかしな構造」はジンルイが持つすべての文化・文明に対して共通であるはずなのに、なぜか宗教だけをクローズアップする動機が分からない、ということです。もっと端的に云うのなら、利権についての無指摘です。あなたが危惧を感じる「宗教擁護者」とは、実は利権を保護するモノではないのですか?ある利権の恩恵を受けていたり、参加している者は、ドーキンスやあなたが指摘するような行動を起こしがちでしょう。少なくとも私にはそう思えます。

140NAN:2007/12/18(火) 18:44:59 ID:???
ああ、そうか!とポンと手を打ちつつ…
#「分かったぞ!」とか「そうだったのか!」などと日常的に繰り返すヒトは心が病んでいたりあっちの世界にイっちゃっている可能性が高い。もちろん私もそうだ!

>>「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします。

「私(NAN)」ぢゃだめですかい?あるいは地下猫氏でもほかの誰でもイイんだが…w
私はどこの信者でもなく入信せず洗礼も受けず神を信じず来世もなく転生もないと考えているが、仏陀の思想や初期キリスト教には強い興味を覚え文献を漁り、時に僧侶や坊主と同席すれば宗教について長々と論じ、空(くう)や色について思いを馳せ、イン・ヤン模様や曼荼羅をデザインするのが好きで、気が向くと寺院や社殿で写真を撮りそれを3dsMAXでモデリングしたり禅宗用の長い数珠がファッションとしてステキなのではないか、とさえ考えている。

つまり私はどこから見ても「信者」ではないけれど「宗教者」ではあるのかも知れない、と思う。いや、時々自覚するのだけれど再び自覚させられてしまった。恐らく…多分、webに転がる真摯な宗教研究者たちのソースも後悔と懺悔さんが望む「批判に対する真摯な態度」ではないだろうか?

141地下に眠るM:2007/12/18(火) 23:47:31 ID:Ja2I4.Nc
>>127
>『神は妄想である』ではトマス・アクィナス(や否定神学の主張)に詳しく言及していますし(第3章)、>>112で地下に眠るMさんが紹介された三位一体の問題にも触れていますから(54頁以下)、「ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?(>>98)」という疑問に対しては、「十分考慮されている」と答えても許されると思います。

おっけー
それでは仕方にゃーのでカネを出して「神は妄想である」を手に入れ、目を通しますにゃ。
というわけで、今までの発言はいったん留保させていただきますにゃ。

図書館に みすず書房「社会生物学論争史-----誰もが真理を擁護していた----」上下2分冊があって、喜んで借りてきて読み始めたところなんだけどにゃ(すごくおもちろい)。
しかしまあ、自分の発言には拘束されざるをえにゃーので、届いたら優先してそっちを眺めるにゃ。

142カクレクマノミ:2007/12/18(火) 23:51:14 ID:THRtI5kM
少し援護射撃を。

NANさん
>と返されても、宗教擁護者というものが何者なのか?それこそ虚像に過ぎないと私は考えているのでお答えのしようがありません。

今回の文脈で、「宗教擁護者」なる語が定義できるかどうかは本質的な問題でしょうか?
ドーキンスは宗教に対して批判的に問題提起をしているのですから、それに対して答える人は必然的に、少なくともその点においては宗教擁護者と呼べるでしょう。
もちろん、その点については宗教を擁護するが他の点に関して批判するという態度もありうるので、NANさんの主張は一応妥当ではありますが、しかし瑣末な問題にしか見えません。

誰によるものであろうと、ドーキンスの批判に対する真摯な解答があるかないかが、目下の問題でしょう。その人が他の点で宗教擁護者と言えるかどうかは、ここでは関係ありません。
もちろんNANさんによる解答でもかまいませんし、WEB上に転がっているならそのうちいくつかを紹介してもらってかまわないでしょう。

143地下に眠るM:2007/12/19(水) 00:34:21 ID:Ja2I4.Nc
>>106
>スターリン、ポルポトの虐殺は、「無神論者」の行ったことに間違いなく、また
>無神論を含む共産主義思想が背景にあったこともまた間違いないとは思いますが、
>「無宗教の名のもと」は少々違うと思うのです。かつて「宗教の名のもと」に行われた
>様々な蛮行は「宗教の教義」そのものに負うところが大だったの思うのですが、
>私が調べた限りでは、スターリン、ポルポトについては「無宗教思想」そのものが虐殺のバックボーンであった
>とは考えられません。いかがでしょうか。

これは答えられるので答えておきますにゃ。
スターリン、ポルポトなどの無神論的全体主義が独裁体制をしいた場合、信仰者が優先的にぶち殺されていることはよく知られていますにゃ。

ウィキの「無神論」の記述から引用すると
*****************************
逆に無神論が政権を握った場合、キリスト教徒やイスラム教徒を初めとする宗教の信者は過酷な迫害に苦しんだ。マルクス・レーニン主義の狂信者は虐殺も含む手段で宗教を弾圧した。宗教を無教養で非合理的と決め付けた彼等は、その信者に対しても何ら価値を認めなかった。

中略

無神論者が政権を握り、無神論を公式のドグマとした場合、宗教を信じているものは極めて厳しい迫害を受けてきた。社会主義統治下での教会などは時に虐殺なども含んだ弾圧を受けたことが知られている。しかし無神論者の中にはリチャード・ドーキンスなどのように宗教などは何の価値もないものであり、弾圧されて当然であるとこれを正当化する向きもある。
*****************************
ちょっと興奮した記述なので、いまいち信頼感がにゃーけどな。
ところで「リチャード・ドーキンスなどのように宗教などは何の価値もないものであり、弾圧されて当然であるとこれを正当化する向きもある。」って出典が欲しいところだにゃ。

例えば日本史上でもっとも戦闘的な無神論者というと織田信長にゃんが、信長が宗教者ぶち殺しまくりであったことは歴史的事実だよにゃ。ロベスピエールの理性信仰というのも宗教弾圧だったしにゃー。

たいていの政治的言説というのは、統治の倫理的正当性というものを必要とするものですにゃ。倫理的な正しさを具備しにゃーものには統治ができにゃーからね。無宗教を看板にするものは、自らが無宗教・無神論であることをもって倫理的な正当性と見なすわけにゃんな。
「宗教はアヘンである」のであれば、アヘンを撲滅するのは政治倫理的に必要にゃんね。

キョーサン主義の政治倫理的自己規定というのは、自らは無神論であるがゆえにキリスト教道徳より優位であるというものなんだから、キョーサン主義のしでかしたことはすべからく無神論の名の下に行われたという論法は詭弁とはいえにゃーですよ。ちなみに、キリスト教徒は数百年間かけて数億ぶち殺しているといわれているけど、キョーサン主義も20世紀だけで億単位で虐殺しているという話もありますにゃ。まあ、このあたりの数字はいくらでも突っ込みようはあるけどね。


それと>>125
あえていえば8と12。(11と答えればよかったかい?)
宗教はね、手強いんだにゃ。だから、科学主義をこそ警戒しなければならにゃー。

(だいたいね、社会生物学論争においては、僕はウィルソンやドーキンスに肩入れするにゃんぜ)

144NAN:2007/12/19(水) 11:55:57 ID:???
>>142:カクレクマノミさん

>誰によるものであろうと、ドーキンスの批判に対する真摯な解答があるかないかが、目下の問題でしょう。その人が他の点で宗教擁護者と言えるかどうかは、ここでは関係ありません。

???
ドーキンスの批判に「見えない宗教擁護者」が真摯に答える要請はどのように生まれるのかな?もしかしたら、たとえば私がここで議論しているような「姿勢とかやり方」がそういうものなのではありませんか?とすでに書いていますよね。それで不満なのでしたら私は読みたくもない本を無理やり読まされ、それについての読書感想文をwebに掲載する義務があるということですが、その義務はどのように生じるのでしょう。当初から私はここが「書評スレ限定」であるなら辞退するけれど、あくまでここに書かれた内容について触発されるものがあったので書く、と宣言しています。
#ちなみに私も書店で該当の書籍をチェックしましたが、最初の数ページを読んだところで、所有している「悪魔に仕える牧師」などに見られる「いつものアレか」と思い、買いませんでした。しつこいな、と思ったからです。

もしかしてカクレクマノミさんも「既存の入信者や有名無名宗教者はドーキンスが発するような批判に答えなくてはいけないor答えないことは許せない」とか考えてます?正しさを押し付けないと気がすまないということかな?

以前から私は「既存のまともな宗教者による信仰の自由は守られるべきだ」と考えていますし、無思慮な「創造論者」というくくりにクレームをつけ続けています。つまり私は「気まぐれで宗教擁護者を気取っている」わけではなく、首尾一貫して宗教を擁護する主張も繰り返していますが、議論におけるルールや科学的方法論を尊重することも忘れたつもりはありません。また、行間に「言いようのない怒りや憤懣」を挟みながら主張するドーキンスによる宗教批判に比べて、冷静な態度で説得力を持つのはカール・セーガンであろう、とも考えています。

145NAN:2007/12/19(水) 11:56:56 ID:???
この「感想」の論拠は、たとえば「悪魔に仕える牧師」の3−5「立ち上がるべきとき」(p.273〜)より
---------------------
今こそ、知識人が、信仰をもつ人々に対して、立ち上がって「もう十分だ!」と叫ぶときだ。
---------------------

件の「9.1.1」について述べた序文であり、ドーキンスの怒りと憤りがよく伝わる名文です。一方で、狂信者によるテロを憎む心情に私は十分な理解と同調を持つことができますが、もう一方で、そうしたテロリストに資金を援助してきたアメリカの暗い部分には無指摘であるドーキンスの姿勢に疑問を持ちます。(私はこの事件についての陰謀説そのものは否定するけれど、米国による情報操作については確実にあったであろう、とも考えている)

またさらに、同書のp.261〜(偉大な収斂)からは

---------------------
そのあとで私は、時空の自発的な誕生を可能にした物理法則について尋ねた。「アーそれね」と、彼は微笑んで、「もう、科学の領域を超えてしまっているよ。ここは、われわれのよき友人である牧師たちに任せるしかないところだよ」と言った。しかし、なぜ牧師なのだ?なぜ庭師やシェフじゃいけないのだ。もちろん牧師たちは、シェフや庭師と違って、究極の問いについていくばくかの見識を持っていると主張する。しかし、彼らの主張を真面目に受け止めるべきどんな理由を私たちは与えられているというのだ?
---------------------

以後、アインシュタインやホーキングが持ち出す「神のレトリック」についての批判や、ドーキンスの主張の論理的正当性についてくどくどと続くのですが、他の章にある進化論のエッセイに比べて、これらの文章は、私をうんざりさせ、啓蒙主義に基づく正当性の押し付けにしか見えないものでした。たとえば、

---------------------
さて、天球のティーポットよりももっと確実に超越的存在が見つかるだろうという理由X,Y,Zがもし実際にあるとすれば、X,Y,Zは詳しく説明されるべきである。なぜなら、もしそれが本物であれば、その長所について評価を受けるべき適切な科学的論拠だからである。
---------------------(p.262)

にあるように、仮定につぐ仮定で問題を形式論理に置き換え、超越的存在(もしくは不可知であるもの)の想定さえ認めようとしない態度はどうだろう?と思います。いわゆるこれこそ「神の論理的証明と否定」というヤツではありませんか?こんなレトリック(いや、明らかに詭弁だと思う)が許されるならば、創造科学論者の正当性さえ私は再評価しなければならない、と思います。

146NAN:2007/12/19(水) 11:57:19 ID:???
ビッグバンについて、科学はドーキンスの友人である天文学者が云うほどには不可知であることを認めてはいないでしょう。コンマ数秒どころか限りなくゼロに近い領域に至る「宇宙開闢の瞬間」への科学的説明は私を心躍らせるものであるし、インフレーションがどのように置き、ゆらぎの存在がこれほど多様な宇宙の様相を作るに至る過程はまさに科学的です。その一方、われわれが「原理的に知ることが不可能である領域」を認めざるを得ないこともまた、自明であるはずです。これについて、牧師もシェフもエロCGモデラーも同様の説明を試みることができます。しかしことさら執拗に牧師の地位を貶める必要を私は感じないし、その後に否定しようが批判しようが「どんな主張もとりあえず真面目に聞くべきだろう」と思うのですが、これをもって「不当な宗教の擁護」と云われるのであれば、それは十分に差別的で傲慢な態度にしか私には見えません。(坊主憎けりゃ袈裟まで憎いを地でいっている、ということ)

十分すぎるほどに私が能天気で楽観論者であるのなら、これらドーキンスの主張にもガンガン頷くでしょう。しかし現実はどうでしょうか。「宗教」という仮想敵国を想定するのは楽観論に過ぎる、と私はあらためて主張します。ジンルイがもしも宗教を持たなかったら、と想定することは可能だし、なるほどそうであるなら宗教問題に根ざす紛争も起きないでしょう。その代わり、非常に高い確率で別の思想的主義的「枠組み」によって起きる悲劇が必ず起きているだろう、とも云えます。これはおそらく生命の持つ本質的な「中と外、個体識別」という問題にまで還元できる、根源的な問題であると私は思っています。

一貫した私の疑義は「敵は本当に宗教なのか?」です。一部の宗教者がそうであることは間違いありませんが、そこ「だけ」をことさら主張することは、本当に大事な問題から目をそらし、スケープゴートを祭上げて満足している姿にしか私には見えません。なぜなら宗教を憎むことは非常に簡単であり、安易で、正当性を(ドーキンスがやるように)主張しやすいからです。先に述べたように、宗教を自由に批判することは、とっくにできています。必要があれば、私も遠慮なくやるでしょう。しかし「牧師の話を真面目に聞く正当な理由」がないというほどに、宗教を蔑視する必要性はどこから来るのか?それがなにか問題解決に役立つのか?神というレトリックを使って宇宙誕生を説明することがそれほど不当なのか?ドーキンスの主張はそれらを混同しすぎているし、感情的で、安直な理想論に見えるのです。(長々と宗教を蔑視することの正当性を述べる書籍を読む気が起きない理由かな)

科学的方法論をもっともっと浸透させること。それこそ問題解決の鍵だ、と私は思います。仮想敵国など想定する必要はありません。きちんとした検証や論拠の提示、第三者による主張の評価と批判の自由、それらを社会に定着させることこそが「見えない敵」を撃退する唯一の手段なのではないか?と私は思います。

147AH1:2007/12/19(水) 12:24:55 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
>>128
>>道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景(後略)
>もし社会からそう見られるのであれば、その社会は(私にとって)望ましい社会なのでしょう。まさか、AH1さんは「大声で喚いている馬鹿が二匹」の存在が許されるような社会は良くない、そういう馬鹿が存在し得ない社会を目指すべきだ──と主張したいわけではないでしょう

「馬鹿」と書いたのは、「自分の主張だけが正しいと信じ、相手を封殺するためなら詭弁も恫喝も辞さない奴ら」という意味を込めています。ですから、存在しないことを望む、ではありませんが、望ましい状態とは思いません。
「相手が馬鹿なんだからこっちもやり返せ」という方法も、決して望ましいものとは思いません(実社会においてやらざるを得ない場合はあるでしょうが)。例えば対テロ、対ゲリラ戦を考えて下さい。やり放題のテロリストと、同じくやり放題の軍隊・・・例えばベルファスト・・・の光景が望ましいとは思いません。
私が理想とする「理性と自由意志を尊重する人」は、相手が原理主義バカであっても、自らが掲げる理性と自由意志の尊重を実践し、決して「科学原理主義バカ」にはならない人です。


>一方の端に「極端な宗教原理主義」があり、逆の端に「極端な反宗教-原理主義」があるような長い長い数直線があって、社会の構成員はそれぞれ自分の立ち位置にあたる場所に立つとすれば、(後略)

はい、私はまさに対立が先鋭化し、その数直線の両端に分布が偏る場合を「馬鹿が二匹」としました。

>それでも(望ましい社会ならば)ある1点に分布が収束したり、極端にどちらかの端に分布が偏ったりすることはないでしょうし、全体の分布が変化するにしてもそれなりの時間をかけてでしょう──あくまで「(私にとって)望ましい社会」であるならば……ですが。

恐らくそうだとは思うのですが、それは各人がどれだけ自戒しても過剰ではない、と思うのです。ヒトはとかく「正義の御旗」に弱いものですから。
もちろん、ポアソン分布のような分布型を考えれば、両端の最先端な辺りはゴリゴリでゴチゴチになるのは仕方ない、それをいわばパイロットシップとして、多数は中庸なあたりに分布すればよい・・という考えはあり得ますが。


>どのような価値観であれ言説であれ、批判の対象にならない・なりえないというのは、著しく不健全である──というのが、私の(たぶんドーキンスも)主張の根幹ですから。

もちろんです。批判すればよいと思います。私は「宗教に弱腰になれ」と言っているのではなく、「自分が相手に何を要求しているのか、相手が何を言っているのか、相手を批判する根拠はなにか」といった点を常に自戒を込めて自認しておく必要がある・・・ということを強調したいと思っています。
そして、「相手を批判する根拠」に関して、メタレベルで見た時に「自分が相手を批判する根拠もまた絶対のものではなく、大間違いかもしれない」という点を片時も忘れるわけにはいかないという事です。

>どんな対立にも衝突にも相手の人間がいるわけで、宗教とかイデオロギーとかいった得体の知れないモノを相手に、仮想的な対立や衝突を思い悩んだって仕方ないわけで、その場その場で当事者となっている人間同士が目の前にいる人間と向き合って、その場その場の解決をしていくような社会になっていくしかないでしょう。

全く同意します。これはNANさんも書いておられる事だと思うのですが、結局、個々の事例について「それをやっちゃ良くない」と判断するしかないのではないでしょうか。科学主義に基づくものであれ**教に基づくものであれ、同じく批判されるべきことだと考えます。

>あとは、>>6の最初の2つの段落に書いたとおりです。「宗教者」の美談と言われるものを見ていると、彼・彼女は、目の前の人を見ようとすることなく「神」を見て行動しているだけなのではないか──と思うことの多い私はたぶん身も心も「反宗教-原理主義者」なのでしょう。

これについても個々の事例およびその人の(社会の・時代の)価値観というものに大きく依存しますよね。ここでは一括りにすることは避けたいと思います。

148NAN:2007/12/19(水) 14:55:29 ID:???
瑣末な問題といえば最も瑣末な問題であると私が考える「ドーキンス評」を自発的にやっちまった反省として、このスレの「重要な問いかけ」に戻ろうと思います。なぜならいくら代弁しようとしてもドーキンスが本当はなにを考えているのかなど分からないし、翻訳の過程でさらに文章が曲解されている可能性もある。また、米国の事情の中で語られるドーキンスの「宗教憎さ」に対して、私たちニホンジンは根本的なスタンスの違いを持つ。だからあくまで、私はこのスレッドの中にある「言葉」にだけ反応しようと思う。

(1)宗教は道徳的価値観を独占的に扱えるのか?扱えるのであればその理由は?

道徳的価値観に限ったことではないけれど、倫理を判断するのは個人または個人の集合である社会であって、宗教は選択肢のひとつに過ぎない。また、もしもなにかが道徳的価値観を独占したりしようとしているのであれば、それは宗教というメタなガイネンではなく、個人または団体という特定の利権構造であろう。
で、この「ここでの議論」についてはなんだか水掛け論な雰囲気を読み取ります。宗教が道徳的価値観を独占しているとは思わないし、テーマそのものが「???」という雰囲気にさえ見える。

(2)ニンゲンは宗教なしに「重要な問い」に答えることはできないのか?

どこかの宗教に入信したりしなくても、そんなもん、いくらでもできるでしょ。当たり前じゃん。
しかし、仮に宗教者であろうと無宗教者であろうと、各地各文化における「宗教的な倫理価値の浸透」から逃れることもまた、恐らくはできないだろう。

しかしなぜこんな「当然のこと」が議論の対象となるのか?それはもちろんドーキンスが著書の中でそれを問題視しているからだろうけれど、宗教というメタなガイネンと宗教団体という特定利権を混同することは非常によろしくない、と私は思う。恐らく、議論上のすべての軋轢はこの混同によるものではないだろうか。そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、今は宗教よりも「情報」という単位でこれを行おうとしているものにこそキナ臭さが強い、と私は見ている。

(3)神は本当に必要なのか?

ぶっちゃけ「キリスト一神教」による神など、いらんでしょ。しかし、各人の心にあるだろう神は、必要でしょ。
そもそもこの議論をきちんとやるなら、ドーキンスの著書は捨てちまわないとできないだろう、というのが私の主張でもあるんだよね。だって、西洋的キリスト教的絶対論理というものから、私らニホンジンってのは基本的に縁遠いのだから。
まさに聖書ってのは武力行使に対しての正当性をくくりつけるために利用されてきた、権力者にとっての武器なのだから、有害であるのは歴史的事実なのです。しかし聖書に書かれていること、原点的な教えまでが有害なのだ、と論じ始めたらそれはキリスト教に対する迫害もしくは差別的見解になりますね。

149NAN:2007/12/19(水) 14:56:14 ID:???
(4)宗教は有害なものなのか?

イエス(笑。しかし、有益でもある。薬効と同じことではないのかな?
>>68:後悔と懺悔さん
>私は、まさに「自由主義神学」を標榜するミッションスクールを卒業しました。「自由主義神学者」たちは、そういった「宗教」に内在する危険を十分に知った上で、意識的にNOMA原理に忠実であろうと努めているように思えます(そして私はそう教わりました──正確に言うなら、学校側の意図はどうあれ私はそう受け止めました)。「意識的に」「努めて」いるんです。

すでに分かりきったことなのだけど、私は「宗教」というとき、キリスト教もしくはそれに付随する様々な宗派や思想を「ほんの一部」としか捉えない。一方、ドーキンス及び西洋諸国に住む人々、あるいは我が国に於いてもミッションスクールや教会に多大な影響力を受けている人たちと「宗教」というガイネンに大きな断絶が生まれることは自明なんだよね。その呪縛から逃れない限り、「神は妄想である」という書籍が大事なものに見えちまう妄想からも逃げられないんじゃないかなぁ。
#宗教批判することを躊躇してしまう性向を持つヒトにとって大事なものであるという意味。

ちょっと乱暴なまとめ方をすると、正しさを独占しようとする性質あるいは傾向というのは、集団行動を統率する上で生じる自然な要請であって、宗教の性質ではない。もしもそれが宗教の性質だと「固定観念化」しているのであれば、それこそ思考停止だろうし、宗教というものをさっぱり分かっていないと断じざるを得ない、と私は思う。
#ローカル事象を一般化しているってことかな。

>>73:次郎さん

>フェイルセーフと言うのが何を指すのかが今ひとつ微妙なんですが、これが「他者に対する価値観の強要」を防ぐと言う意味であれば、仏教も神道も落第でしょう。単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。

の指摘にあるように、仏教も神道も権力者の道具になった歴史を持つ。だけどそれさえも「宗教の性質」なのだ、ということにしてしまうと、問題の本質であるはずの「暴力や迫害との断絶」から離れた結論しか出てこないのではないか?というのが私の主張。それは権力者の性質であって利権の要求でもある。この意味において企業論理も国策もまったく同義のものではないか?と私は見ている。

(5)宗教はなくすべきものなのか?無宗教であることは奨励されるべきか?

各個の自由、としか云えない罠。
「宗教は害悪なのでなくすべき」という主張も「宗教は有益なので奨励すべき」という主張も「無宗教であることは中立なので奨励すべき」という主張も、どれもこれも「正しさの要請」であることに変わりがないでしょう。

あらためて書くけれど「宗教擁護者」というのは実態を持つ存在なのか?幻に過ぎないのではないか。なにか不安にとり憑かれた理性とやらが生み出した仮想の標的に過ぎないのではないか。私はそう思う。

個人的なことを敢えて書くと、先に挙げた「佐倉哲エッセイ集」をはじめとする私の周囲に点在する原始仏教に関する書籍とその内容は、私の倫理観の根底を成すものだし、これを捨て去ることが「良い=私にとって利益をもたらす」とは到底思えない。なぜならそれは私が同じように大事にしている科学的方法論とまったく矛盾することなく共存しているし、広義における信仰と云っても差し支えないだろう、とさえ思っている。だからこそ「仏教系」を自称する様々な新興宗教やその他仏教系宗派のとんでもない詭弁には嫌悪感を覚えるし、なるほど「害悪だろう」と評価しているけれど、これを「宗教」と一くくりにする主張は同じように嫌悪する。

孤独に苦しむひとと向き合うとき、今まさに死と向き合い不安におののくひとと向き合うとき、確かに経典は必要ない。しかしそこで最大の苦慮の末に出てくるであろう言葉や行動に宗教的バックボーンや観念が皆無であることなどあるのだろうか?もしもそういうものは「宗教ではない」と述べるのであれば、それは詭弁だ。ありのままを受け容れることのできない不誠実な態度だ。そんな風に私は思っています。

150AH1:2007/12/19(水) 18:08:32 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
>>129
>これは特に強調しておきたいところなのですけど、ドーキンスも私も、「宗教」に対して何らかの強制力を発動しようとか、すべきだとは一言も言っていないし、むしろそのことを強く否定しています。あくまで言論として人々に働きかけているだけです。これも何度も何度も繰り返し述べられていることであり、仮に武力や権力を用いた独善的で暴力的な「宗教弾圧」が行われるならば、ドーキンスも私も、それを非難するのは間違いのないことです。

うーん・・それはそうだと思うんですがね。
ちょっとSF的に読んでほしいのですが、弾圧を行わずに、「この世の事は合理的な判断こそが重視される」「我々は理性を尊重するという素晴らしい認識を持っている」「それに対して宗教は正しさを独占しようとしている、いわば価値観の独裁者である」という形で宗教包囲網を作り上げ、「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」という所まで持って行くとします。これは、「この世は合理的判断が全て」なる独占的価値体系をもって宗教を扼殺してませんかね?
しつこく書きますが、科学的および合理的な判断をすべき場面はもちろん多々有ります。ただ、そうでない面について科学や合理性が万能であるかどうかは私には自信がなく、よって「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」とは言いにくいのですね。(たとえば道徳についても宗教抜きに代替可能であろう、と後悔と懺悔さんが述べておられます・・まあ、道徳的な部分は代替可能だろうとは思うんですがね。宗教によらず共通性が高い部分があるし)

そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。

>私がここでコメントをしているほとんど唯一の目的は、「宗教に(宗教に限りませんが)非難すべき点があるならば、社会の一員の義務として非難すべきであり、それを躊躇ってはならない(躊躇わせるような社会であってはならない)」と訴えることです。

くり返しますがその点について同意しています。「この社会において無法者を野放しにする事はできない」と最初の頃に書いています。

また「宗教は正しさを独占しがちである」という前提そのものにちょっとした異論がありますが、NANさんが書いておられる事とかぶるので、今はちょっと省きます。

151AH1:2007/12/19(水) 18:57:57 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん、

>そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。
について、こう言えばいいのかな。かなり失礼な書き方になるんですが・・


宗教を愛する人が、しかしその論理的帰結によって「・・・やはり宗教は存在できない」
と苦渋に満ちた判断するなら、私は危惧を感じません。
しかし、宗教の害を説く人が「いや、弾圧などする気はありません。価値の独占もしません」
と言いつつ、「でも宗教はなくなるかもね」と言ったら、
「・・・え?」
と思うんです。非常に失礼なことを書いているだろうと思うのですが、正直に言えばこういう『感覚』です。

152atheist:2007/12/19(水) 22:06:01 ID:PqsV.DF6
地下に眠るMさん、回答ありがとうございます。これで幾分スッキリしました。
なるほど、8と12ですか。7,8,9あたりだろうなと予想はしていたのですが。(10と11はもちろん冗談ですよ。)
時間がないので、この件に関する私の見解は、また後ほど。

153chochonmage:2007/12/20(木) 14:32:38 ID:vUxNW.gI
NAN様

はじめまして。chochonmageと申します。横レス失礼いたします。
こちらでのご活躍はよく存じ上げておりますし、NANさんの深い学識、ご理解にいつも感服させられるばかりです。
今回の幾つかの書き込みもとても深い内容で感銘を受けました。
特に「絶望」のくだりはなるほどなるほどと読ませていただき、私の自分なりの世界なり社会なりに対する理解を深める
のに大いに参考になりました。
また、本掲示板の皆様の意見を読むうち、細かいところで考えをまとめている間に自分がもともと何を言いたかったのか
よくわからなくなってしまっていたところがあるのですが(なんて頭悪いんでしょう)、NANさんの記述を拝読して私が本来言いたかったことがいくらかまとまってきました。感謝いたしますです。
その上で、少々意見を述べさせていただきたく思います。


>そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。
>それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、

同意いたします。結局私が言いたかったのもこれでありました。

>私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、
>この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。

>また、米国の事情の中で語られるドーキンスの「宗教憎さ」に対して、
>私たちニホンジンは根本的なスタンスの違いを持つ。
>だからあくまで、私はこのスレッドの中にある「言葉」にだけ反応しようと思う。


私事で恐縮ですが、私は人生の半分近くを米国で暮らしています。そこで、「この日本において」とおっしゃるNANさんと
感覚の違いが当然生じるのですが、私にとってドーキンスの主張には現実的な実感があります。
「宗教者」「あるいは宗教の影響力」という存在も極めて身近なものです。

例えば、小学校三年になる息子が私の住所区域の公立小学校に通っているのですが、本年の9月11日に息子から
「God Bless America」、「My Father, God」なる文言を含む歌を歌わされたと聞かされ、大変にショックを受けました。
政教分離であるはずのこの国で(少なくとも建て前としては)公立校でかような歌をなんの説明もなしに判断力のいまだ養われてない子供に歌わせるとは何事じゃ!と早速担任の教師に文句をつけに行きました。
教師はそれらの歌はこの学校で開校以来歌われていること(実際には、米国のありとあらゆる公立校で歌われているようです。)、愛国心昂揚的かつ宗教的(はっきりとキリスト教的であること)を認めました。
私としては、人種の坩堝である米国で上記のような歌を選択するのは適当であるとは思えない旨主張し、担当教員は
私の意見にある程度同意しましたが、歌の変更は私が校長と掛け合うしかない、そして息子には2つの選択があると私に告げました。
その選択とは:

1.他の生徒と一緒に歌うが上記「宗教的」部分に関しては口をつぐんでいる。
2.歌うことを拒否し、歌が終了するまで学校の事務所で待機している。

まぁ、選択があるだけ某国のように国家を強制的に歌わされる状況よりましかと一瞬思いましたが、やはり私としては見過ごす
気持ちにはなれず、連れ合いとも相談のうえ校長に掛け合うつもりでいたのですが、何人かの米国人の友人たちの意見を求めたところ
「気持ちはわかるが絶対に学校は歌を変更しない。歌の選択はもっと上からの支持である。勝てない喧嘩はするな。
特にお前のような無神論者がどなりこむことによってお前の子供が不利益を蒙りかねない。」とのアドバイスを受け、泣く泣く交渉は取りやめました。

米国においては、「atheist」という言葉は大変にインパクトがあります。これは、ドーキンスも著書で指摘していることですが、
私の住んでいる地域ではまだしも、田舎に行けばほとんど人間扱いされないか、「まぁ可愛そうに」といった哀れみを受けるのが関の山かもしれません。
キリスト教に限らず「信仰を持っていない」と自ら述べる人間はかなり敵視され得ます。
「ヒューマニスト」という言葉でさえ、「神を第一義においていない」という意味合いがあるからあまり使うなとアドバイスされたこともあります。

てなわけで、もしNANさんが、日本以外も視野に入れた議論を今後なさってくれたら私としてはうれしく思います。
続きます。

154chochonmage:2007/12/20(木) 14:35:38 ID:vUxNW.gI
>そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、
>その危惧を解消しておきたいわけです。(後悔と懺悔さんの発言)

>その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり
>咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。

されていないと思います。
悪魔の詩事件は記憶に新しいところですし、上記米国人の私に対する警告「息子が不利益を蒙りかねない。」というような
米国社会状況は、田舎に行けば行くほど深刻です。
こういう例もあります。ビデオをご参照ください。
The Price of Atheism
ttp://www.youtube.com/watch?v=sTRDRP2n4Sk
まぁ、テレビ報道ですから、脚色もあり得るし、情報も一方通行気味ではありますが、充分起こり得る話です。

この状況は、日本における〇皇タブーに似ているのではないかと思います。建て前として批判可能かもしれませんが、
公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?実例としては、「噂の真相」右翼襲撃事件が記憶に新しいところです。

「ドーキンス評」が瑣末かとか、なぜ宗教のみがピックアップされるのかとかもっと書きたいことがあるのですが、
眠いので今日はこれでごめんくださいませ。
乱文失礼いたしました。

155NAN:2007/12/20(木) 18:20:44 ID:???
>>153:chochonmageさん

初めまして、ご挨拶ありがとうございます。
ご指摘のとおり、私は西洋諸国、とりわけアメリカ国内の事情については少しも考慮していません。米国における宗教事情は、私が知る限りあまりに異常で、恐らくはこの日本と両極端の相似形になるのではないか?と考えるからです。件のドーキンスの本は、アメリカなど諸外国ではかなりのインパクトを持つであろうが、我が国においてはいささか見当はずれの書籍に見える(もしこの本がリチャード・ドーキンス以外の著者によるものであるなら、ここでこのような議論が起きたであろうか?という予見も含めて)現状についても指摘しておくべき、と考えていました。

恐らく、chochonmageさんが教えてくださったような事例が、かの国内では数多く、日常的に繰り返されているのでしょう。また「キリスト教」の影響も社会の隅々までに及び、特に言論・表現・研究分野で働く人々に対しては、時に深刻なストレスとなっているであろうことは想像に難くありません。(敢えて宗教とは書きません。それはキリスト教)
ドーキンスが犯した間違いは、なぜか「キリスト教の一部勢力もしくは特定できる教会に所属する会派の者たち」という標的の特定を行わず、あたかもすべての宗教が敵であるかのように問題を一般化してしまったことだ、と私は考えます。さらに「アメリカ社会のキリスト教問題における神は妄想である」くらいに事象を特定しておいてくれれば、私は興味深くその本を読んだ「かも」知れません。

さて、私も私事を書きます。
私が育った街には大きな寺社と神社があり、私はその神仏共同体が経営する幼稚園を卒園し、幼い頃から「オシャカサマ」とか「ナムカンゼーオンボサツ」みたいな言葉に触れていました。もしこのとき、私の両親がchochonmageさんのように政教分離に敏感で、子供の教育と宗教問題を厳密に捉えていたなら、そういう幼稚園に通わせることはなかったでしょう。
続いて、私は高校でとある私学に通いましたが、その学校は入学式を靖国神社で行うという素晴らしい(笑)校風を持つ学校でした。さらに私は専門学校にも通いましたが、この専門学校は母体が宗教法人であり、いわゆる神道系の新興宗教(それも”超”がつく拝金主義)に属する組織で、今ではさらに成長して某プロスポーツチームのオーナー企業と化していたり、我が地域では多大な影響力を誇る組織へと成長しています。我が国においても、かように宗教の影響はあるものです。しかし、少なくとも幼稚園以外でカリキュラムの中に宗教的な色合いが滲み出してくることはありませんでした。

我が国の国歌には誰もが知るように宗教的色合いがあります。恐らく、大半の国歌とはそういうものでしょう。私は国歌を拒否するほどに無宗教者であろう、と志したことがなく、君が代に対する嫌悪感もありません。育った街の神社も寺社も好きだし、靖国神社と政治家の問題に議論の必要はあるにしても、靖国神社そのものが「悪い」だとか「避けるべきもの」という感覚はありません。「和の思想」など持ち出すまでもなく、法事に出ては数珠を持ち、結婚式では「アーメン」と唱えている程度のことで不利益を蒙ったり表現活動における制限を受けたり迫害に合うという事態に(幸運にも?)遭遇しなかったので、場に合わせた態度でスルーしてきた、というのが正直なところです。

そんな私ですが、つい最近ひょんなことからとある宗教団体の勧誘を受けたことがあります。日蓮宗系のカルトでした。最初はそんな話に発展するとは分からず、真摯に(笑)話を聞いていたのですが、「実は…」と相手が本題に入ってからは「???」な雰囲気になり、最終的に「君とは二度と会わないし近寄らないように」と念を押すしかない状況へと発展してしまいました。ただし、それは私が無宗教者であろう、としたからではありません。むしろ、多少は宗教と経典を知る者として、あまりにも歪曲された教義や「予言」などが「許せない」と感じたからです。さらに「私はあなたをしあわせにしたい、と思っている」と云われたからには「自分をしあわせにできるのは自分の行いだけだ」と述べるしかありませんでした。

156NAN:2007/12/20(木) 18:21:14 ID:???
では、こうした事例は宗教による私への迫害でしょうか。そうとは思いません。カルト宗教が私に勧誘を仕掛けたことは迷惑な話でしたが、それは私が「彼」と人間関係を生じさせたがために起きた事例であり、もとはといえば私の不注意な人付き合いに端を発する、と考えます。つまり、私のせいです。なぜならカルト宗教はそういう勧誘をするものだ、と知っているのに、今から思えば明らかに勧誘を想起させる行動をとっていた彼の接近を許していたからです。この件について、私は該当する教団への批判をすぐに書き、某誌に掲載しました。しかし編集部の方針によって教団の固有名称を書くことはペケになり、私も合意したので「某カルト教団」と表現するにとどめました。

そこで、
>悪魔の詩事件は記憶に新しいところですし、上記米国人の私に対する警告「息子が不利益を蒙りかねない。」というような
米国社会状況は、田舎に行けば行くほど深刻です。

にお答えするなら、やはり問題は「個別事象」であり、一般化することは困難だ、と私は思います。その問題に苦難するひとは問題を少しでも一般化し、仲間を募り、共に戦おうみたいな意識を持つだろうと理解はできますが、それをやればやるほど事態は溝を深め、新たな迫害を生むだろう、と予想します。つまり「米国の田舎のキリスト教問題」なのです。(個別事象だから議論する必要はない、という意味ではありません。個別事象として議論すべき、ということです)

また、出版…つまり社会に対してある程度公的な影響力を持つ表現者が対象を批判する場合において、その対象がどの程度センシティブでネガティブなレスポンス(たとえば復讐行為)に及ぶだろうか?ということは、リスクとして計上し把握すべきであり、理想論や性善説に立った不用意な扇りを含むタイトル付けなどを「好ましい」と、私は思いません。それは「自由な宗教批判」ではなく、挑戦的で好戦的な宣戦布告と捉えられるだろうことが十分に予想できるからです。

>まぁ、テレビ報道ですから、脚色もあり得るし、情報も一方通行気味ではありますが、充分起こり得る話です。

まさにテレビ報道です。スポンサーがあり、最初から制限された「シナリオどおり」の進行です。また、それらの話が「起こりえない」などと私は思いません。青臭い(ドーキンスのように)理想論を述べたり無駄な論理的正当化を行うよりも、対象の特徴性格長所短所を「科学的に」検討し効果的な戦略を練ったうえで成すべきことをするべき、と考えるのです。(一方で、青臭い理想論を知ることも悪いとは思いません)

>建て前として批判可能かもしれませんが、公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?

なぜ「強く」批判するのですか?効果的な批判とは「強い」批判とは限りません。たいてい逆効果です。そういう不注意で無思慮な批判が制限されるのはむしろ当たり前であり、AH1さんが指摘するような「自戒のない」行為に妄信者がネガティブな反応を起こすだろうことは「予想できる」でしょう。自由を勘違いしてはいけません。相手が勝手な言動をしているからと云って、こっちも同じ手口でやり返すというのは対立構造を生むだけです。
#敢えて対立構造を生み、その上で治安的強制力を発動させるという戦略もありますが。

最後になりますが、この議論における最大のナンセンスは論理的正当性に結論を求めているところです。そもそも「情動分野」で起きる感情論や欲求行為に対して、論理をかざすなんて馬鹿げています。土俵が違う、ということです。「科学には答えられない重要な問いかけ」に対して、論理的に答えようなんて矛盾していませんか?宗教は必要ない、といくら論理的整合性を示したところでまったく無意味だろう、と私は思います。(その正当性とやらを見出したひとの心にはとっても有意義だろうが、現実には作用しないだろう、という意味)

157GB:2007/12/21(金) 19:52:30 ID:???
>>130 後悔と懺悔さん
まず、先日の引用部分にミスがあったこと、お詫びします。
文章をごにょごにょいじっているときに、間違えました。ごめんなさい。
(遅くなってますが、とりあえずの返信を…))

「宗教という形質のダーウィン主義的な生存価」についての説明は、それ自体興味深く面白いと思っています。宗教は、(二元論や目的論的な)人の生得的な性向の副産物なのでしょうし、それが集団の生存価を左右したり、また盲信が成員に隷属を強いたりしたことも多かっただろうとも思います。いま、「宗教」の大きな部分は、確かに「火に飛び込む蛾の天空航法の誤作動」を起こしているのでしょうね。でも、

宗教の根源(役割)の一つは、自分がなぜここで生きているのかという、ふつう答えようのない疑問に対する精一杯の解答でもあり、人類誕生の時代から現代まで、地球上のあらゆる場所でそれぞれの事情で紡がれてきたヒトの貴重な歴史だと思うのですね。
哲学や科学(理性)が、それまでの説明内容に修正を加えて人間観を変え、いま結果として宗教のカタチの多くが形骸化したとしても、ふつう答えようのない「意味」を求める人々の要求はたぶん変わらない。文化と一体化したコミュニティの価値観という形で大切にされていくのではないかと思うわけで、それはたとえば、われわれ日本人に伝統的な祖先崇拝という心性についても、同じことなのではないかと思うわけです。

そういう人の心に、「解答などない」とかんたんに言っちゃっていいんだろうか、というのが、私の気分なわけです。

158AH1:2007/12/21(金) 23:40:48 ID:fKqeZx4M
ちょっと仕切り直しというか。

「例えば『メリケンの馬鹿クリ(copryright 地下猫さん)』に文句を言うことを
控えるべきだ、などと考える人」
はこの掲示板にいるんでしょうか?

159リリス:2007/12/23(日) 16:18:36 ID:nrzx3pJo
こんにちは。

ドーキンスの「宗教」批判に対して私が感じている違和感は、NANさんが私などよりずっと丁寧に雄弁に書いておられるので、私が口を挟む余地などまったく無いようです(笑)。ですから、私自身のことを少し書いてみようと思います。

こちらの何人かの方はご存知の通り、私は無神論者であり進化論支持者であって、有神論者や創造科学論者からの批判に対しては好戦的に反応する方です。一方で私は仏教というものを敬愛しています。特定の宗教に入信する意志は無いので「仏教徒」とは名乗りませんが、書物等で接した仏教の教えは、私の倫理観や価値観の一部になっています。仏教において育まれてきた思想体系は、人類の資産だと思っていますし、キリスト教のように多くの人間によって担われてきた宗教にも、きっと尊重されるべき思想体系があるものと思います。私は一神教が好きではないのですが、だからと言って一神教が育んできた良い面を無視してしまわないよう自戒を努力しています。

つまり私は、無神論者であり反原理主義者であり「馬鹿クリ」大嫌い人間であり、かつ、安直な宗教批判に対しては宗教擁護の立場に立つわけです。(宗教を全面的に擁護できるかどうかは保留。これは余りに広範で奥の深い分野だと思うので。)また、思想体系として私は仏教に心を寄せていますが、それとは別に、人間精神への興味から世界各地の神話伝承にも関心を持っています。私から見れば、ドーキンスに賛同する方々は、「宗教」において「ヘブライの一神教」をクローズアップしすぎているのではないか、と感じられます。私自身は、このような一神教は宗教においてむしろ特殊な形態なのではないか、という印象を持っていますので。

たとえば私の手元にある「憎悪の宗教(定方晟著)」では、ヘブライ系一神教について「自分のまわりには敵がいるという意識を吹き込むことで一致している」と述べています。ニーチェもキリスト教の特徴の一つに「ルサンチマン」を挙げました。これらは「宗教」の特徴とは言えないでしょう。「一神教VS多神教(岸田秀著)」に至っては、「一神教は、ひとつの特異な現象、異常な現象として中近東だけに発生したただひとつの例外ではないか」と述べ、「癌細胞のようなもの」という表現まで用いています。世界の神話に興味がある私には、この本の「旧約聖書は、多神教の世界に一神教が無理やり押し入る物語」「自生的な神(自然発生的な多神教の神々)を必死になって排除しよう、弾圧しようとする人工的な神の物語」という観点は面白いものでした。「宗教」と一括りに言ったところで、かつて一神教と対立したのは無神論ではなく土着の宗教でしたし、多神教や汎神論に(どちらかと言えば好意的な)関心を持つ私としては、「宗教」=「ヘブライの一神教」と見なす考え方にも反感を覚えるところです。

で、
後悔と懺悔さん
>しかし一方で、「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。

たとえば「キリスト教」という名のもとで行われていることに対しては、仏教徒が負うべき責任も、祖霊信仰家が負うべき責任も、無神論者が負うべき責任も、無宗教者が負うべき責任も、基本的に等価であろうと思います。仏教の主流は特定の対象(それが神であっても)に心を捉われることを否定しますから、キリスト教徒と仏教徒の心理的距離は、キリスト教徒とただの無宗教者の心理的距離よりも離れている可能性さえあります。そのことは考慮されているのでしょうか?

160リリス:2007/12/23(日) 16:41:35 ID:nrzx3pJo
後悔と懺悔さん
>しかし、もしも「宗教」がなければ、こういった事柄に対して、より建設的でより望ましい議論ができたはずだと思わざるを得ないのです。
>人類の倫理観・道徳観が、数多の紆余曲折を経ながらも全体としてより望ましい方向に「進歩」してきているということは、疑いのないことだと思います。そして、その点について「宗教」自身の寄与はほとんどないという『神は妄想である』の主張とその根拠にはとても強い説得力を感じます。

この点について、議論が尽くされていないと感じます。
後悔と懺悔さんやカクレクマノミさんは、倫理観・道徳観については
『宗教は実のところなんの機能も果たしていない』
『「宗教」自身の寄与はほとんどない』
とお考えであり、しかし“正しさ”を独占しようとする傾向については、
『宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり』
『「宗教」は「人間が本来的に犯しうる過ち」(のうち近年特に無視できなくなっている点)をこれ以上ないほど効果的に助長するモノであるということです』
とお考えなのですよね。この不均衡はどのような理由によるものでしょうか。

私自身はNANさんのご意見に賛同します。
『正しさを独占しようとする性質あるいは傾向というのは、集団行動を統率する上で生じる自然な要請であって、宗教の性質ではない。もしもそれが宗教の性質だと「固定観念化」しているのであれば、それこそ思考停止だろうし、宗教というものをさっぱり分かっていないと断じざるを得ない、と私は思う。』

つまり、正しさを独占しようとする性質あるいは傾向が宗教の周辺でよく見られるのは、宗教が「感情」や「人が生きる価値や意味」といった領域に関わるものであるからに過ぎず、宗教がそれらの傾向を助長するとは一概には言えないだろう、という考えです。(助長するケースが無い、という意味ではありません。)根拠は、宗教以外の枠組みの中にも容易に「正しさを独占しようとする性質あるいは傾向」を見出しうることです。

それに対して、「助長するものである」とする根拠はどのようなものでしょうか。勿論そのようなケースがある、というだけでは不十分です。私には、宗教全般を網羅するような考察が十分になされないままに、「宗教は人間が本来的に犯しうる過ちをこれ以上ないほど効果的に助長するモノである」と(教条主義的に)決め付けられているような気がしてなりません。

私は「宗教さん」からの批判的発言に対して、脊髄反射的に反論してしまう方なので、ヤフーでは口論に至ることがよくあります。その経験から、「宗教さん」と呼びたくなるような人たちは、逆説的ですが「宗教」に対して真摯でない、という印象を受けました。たとえば猫さんが否定神学で述べられたような「知解されざる神」の概念、人間は神の意図を知りえるのかといった問題や、神とははたして人間が「存在する/存在しない」といった言葉で認識できるような存在かといった問題は、「神」と真剣に向き合うならば不可避なものに思えます。しかし私が対論した(罵倒したとも言う)「宗教さん」達は、そのような事をまったく考えていないようでした。その経験も、私がドーキンスの「宗教」批判よりも、グールドの『敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である』に賛同する理由です。

161リリス:2007/12/23(日) 16:48:09 ID:nrzx3pJo
また、
>その意味で、ドーキンスが「実際には、そうしたもの(仏教や儒教:引用者注)は宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある(『神は妄想である』61頁)」と述べたのも一理あると言えるかも知れません。

ドーキンスはどのような理由で「そうしたものは宗教ではまったくなく」と述べているのでしょうか。「宗教≒ヘブライ系の一神教」であるかのような社会状況に大きく影響を受けた、恣意的な見解ではないのでしょうか?
たしかに『仏教の思想1―知恵と慈悲―』には次のような文章があります。
『仏教はキリスト教が、そういわれるような意味で宗教ではありません。それを、宗教だというならば、極度に思想的な宗教であります。十九世紀のヨーロッパにおける仏教学者は、そこに、驚くべき宗教を見ました。いっさいの迷信から自由な、純粋倫理的な宗教。ヨーロッパの仏教学者は、仏教の中にキリスト教とまったく違った宗教を見て、驚いたのは、彼らがむしろキリスト教というものを基準にして、宗教を考えたゆえかもしれません。』

キリスト教やイスラム教と、仏教や儒教との違いに意識を向けたとき、なぜ「宗教」というものの幅広さに思いを馳せるのではなく、「そうしたものは宗教ではまったくなく」という方向に行ってしまうのでしょうか。ドーキンスの批判対象である「宗教」が、ごく狭い範囲の限られたものを指すのならば、それに「宗教」という呼称を用いることは不適切であり、批判されてしかるべきでしょう。その論法は、創造科学者たちが「進化」という言葉で大進化のみを表そうとするのに似てしまわないでしょうか?

NANさんが書いておられる『「自分が相手に何を要求しているのか、相手が何を言っているのか、相手を批判する根拠はなにか」といった点を常に自戒を込めて自認しておく必要がある・・・ということを強調したいと思っています』という視点が大切なのであり、ドーキンスが批判対象に対して『宗教』という呼称を用いるのは、この視点においてマイナスだと考えています。

162地下に眠るM:2007/12/23(日) 22:44:44 ID:J4MyD2WQ
社会生物学論争史1を読了。
「神は妄想である」は今日発送したというメールが届きましたにゃ。
予約してあったグールドの「神と科学は共存できるか」を昨日図書館で借りて参りましたにゃ。

正月はこのあたりをゆくーりと読むつもり。

で、社会生物学論争史1を読んで、なんとなく思ったことなんだけど
ドーキンスの基本モチーフのひとつに「ニンゲンは遺伝子支配に対抗できる」ちゅうのがありますよにゃ。
もしかしたら、ドーキンスの執拗な宗教批判のベースには、この「遺伝子支配への対抗」というものがあるのではにゃーかという気がしたのですにゃ。このモチーフが宗教批判の形をとった場合、非常に激烈なものになっていくのは理解できる。それは、単なる「外部」批判に留まることができにゃーものだからだ。

まあとにかく読んでみますにゃ。
(ほかに読みたい本も正月にはあったんだけどにゃー・・・・。自業自得にゃんが)

163AH1:2007/12/26(水) 12:34:06 ID:fKqeZx4M
すいません、ここだけレスさせてください。

>>建て前として批判可能かもしれませんが、公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?
>なぜ「強く」批判するのですか?効果的な批判とは「強い」批判とは限りません。

強い批判でも弱い批判でも良いのですが、皇室問題については「宗教だから遠慮する」ではないでしょう。あくまで、ダークグリーンのいかつい車が大音量でドラ声を響かせながら、迷彩服のアンチャンを乗せて来るからではないですか?
つまり、「宗教だから遠慮する」のではなく、はっきりと暴力による威嚇があるから二の足を踏むのでしょう。
私はあんな連中は素朴な神道を汚しているとしか思えませんが、面と向かってそう言えば取り囲まれて殴られそうだから言ったことはありません。私がヘタレである事は確かだとしても、これは「宗教に遠慮している」ことになるでしょうか?
私はNANさんの言う「利権機構」に附随する暴力装置が問題であり、宗教であろうがナチズムであろうがパクス・アメリカーナであろうが同じだと思います。

164地下に眠るM:2007/12/28(金) 23:42:17 ID:SQkurglE
「神は妄想である」を読み始めたとこ。
ここまでヒデエ本だとは予想してなかったにゃ。
明白な事実誤認(ことによると捏造)や決めつけを根拠にした厨房論法が目立つ。

これを書いたのは本当にあのドーキンスなの?

読まずに厨房呼ばわりしていたけど、思っていたよりよっぽどヒデエ。
数ページめくるごとに「馬鹿か、こいつ」と呟きながら読んでおりますにゃ。

うん。これがまかりとおるのなら、創造科学に同情しちゃうね。

165後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:21:15 ID:yW.XqGsE
>>132:chochonmageさん
>言わば、戦争遂行者とその手駒になっている(ならざるを得ない)人では「責任」のありようが違うのではないかということです。

もちろんそうです。誰もが一律に同じ責任を負えと言っているわけではありません。ただ、誰か直接の責任者を見つけてきてそれを追及し、自分は無関係(むしろ「悪」を追及している自分は「正義」の側の人間である)というのは違うのではないか──ということです。
オウム事件のとき、多くの教員は(特に理科教員は)自分の教え子にオウム信者がいたわけでもないのに「自分が教えてきたことはなんだったのだろう。自分は何をしなければならなかった・今後しなければならないのだろう、一体何ができるのだろう」と激しく自問しました。それは私には人として自然な感情に思えます。そういう感情が湧かない人を「間違っている」とは言いません。でも、事実の問題として、多くの教員はそういう気持ちを持ったのです。
私は、ではなぜ「宗教」はそういった気持ちから自由なのだろう──ということが不思議なのです。その気持ちが、>>102の4番目の「たとえば」には込められているわけです。

>>133:AH1さん
>「共通認識を持たない相手にはどうすればよいか」「『ある基準において論理的に正しく望ましい』事が,別の基準と共存できるか」という問題です.

ですから、それは何度も何度も書いているように(>>6>>17>>48>>50>>128)、当事者同士が真剣に向き合って解決していくしかないでしょう。どうしても相容れなければ、「互いに今後一切干渉しない」とするかも知れませんし、第三者に判断を仰ぐかも知れません。それは当事者どうしが決めればいい。簡単なことです。それを難しいことにしているのは何か──ということです。そして私はそれを非難しているわけです。

なんというか、AH1さんは人間というものに対してあまりに悲観的というか侮蔑的に過ぎる気がします。>>130に書いたように、人間は、どんな倫理感や道徳感を持ちうる本来的な傾向があるのか、そういう傾向は人間のもつどんな本性的・本能的な性質からもたらされるものなのか、それらはどの程度普遍的ないし強固なものなのか──といったことは、実はさんざん研究・検討されてきているのです。分かってきたのは、人間の本性的・本能的な感情の傾向なんて、いつどこで生まれ育っても大して変わらない──ということです。
AH1さんは、「惚れた女なら相手の気持ちなんて考えずに力ずくでとことん犯して孕ませろ」という価値観をもった文化が醸成される可能性を本気で危惧しますか。逆に「たとえ理由なくぶん殴られても、殴った相手を決して責めてはならない」という価値観が支配的な文化が存在しうると考えますか。「異邦人の女ならいくら泣き叫ぼうが犯しても良い」という価値観と「相手が誰であれそこまで非人間的な扱いをすべきでない」という価値観の2つを提示された人間は、前者の価値観に好感を持ったり支持したりすることもあると主張しますか。
私は、もういちいち引用を示しきれないほど、「“重要な問い”への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(>>49)」という主張を擁護してきたのですけど、AH1さんはまだまだ不満だということでしょうか。

>>134:AH1さん
>一方,上の言葉に続けて「君たちは宗教という下らないモノに囚われている.今こそ理性と自由意志によって解放されるべきなのだ」と言い出す事も可能だし,これは何気に失礼千万な言い方だな,という漠然とした「感じ」です.

おそらく多くの人間はそう感じるんです。まさにここで皆さんが証明してくれているように、自分のモノとは違う「正しさ」を押しつけてくる(私のような)モノに対する嫌悪感は、人間の自然な感情だと思うんです。私の主張の正当性の根拠はまさにそこにあるわけです。

>>133:AH1さん
>第一掲示板の方を見て頂けばわかると思いますが,このサイト自体が「科学でないものが科学のフリをするな!科学を名乗るなら科学の基本に則ってからにしろ!」という基調に貫かれていると考えています.

それは存じております。その点ではすでに合意できていると思っていましたが。ただし、何度も繰り返しているように、「宗教」に超自然的なコト・モノを信じさせる教義なり傾向なりがある限り、この点での批判は避けられないと思います。

166後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:24:45 ID:yW.XqGsE
>>133:AH1さん
>また,相当に有害だと思わない限り,こちらから「取り締まり」に行くことはしたくありません.

そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。

>>147:AH1さん
>恐らくそうだとは思うのですが、それは各人がどれだけ自戒しても過剰ではない、と思うのです。ヒトはとかく「正義の御旗」に弱いものですから。

AH1さんのこのコメントが誰に向けられているのか分かりませんが、私はここでずっとそのことだけを主張し続けているのであり、「宗教」はそれを妨げるものだと非難しているのです。
なお、AH1さんの>>147での他の論点については、まず、私の>>127の主張に対するAH1さんの見解をうかがった上で考えたいと思います。

>>150:AH1さん
>ちょっとSF的に読んでほしいのですが、弾圧を行わずに、「この世の事は合理的な判断こそが重視される」「我々は理性を尊重するという素晴らしい認識を持っている」「それに対して宗教は正しさを独占しようとしている、いわば価値観の独裁者である」という形で宗教包囲網を作り上げ、「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」という所まで持って行くとします。これは、「この世は合理的判断が全て」なる独占的価値体系をもって宗教を扼殺してませんかね?

それは非難されるべきことなのですか。
各々のカギ括弧内の内容は私の主張とは大きくかけ離れており、その点で異論はありますが、それはこの論点とは無関係だと思うので無視します。
さて、もし弾圧を行わずに宗教包囲網が作り上げられたのだとしたら、AH1さんはそれはなぜだと思われますか。洗脳ですか。たしかに、私は、>>50で「古代ギリシアのデマゴーグたちやソフィストたちからも学ぶべきことが多い」と書きましたが……。
AH1さんの論法では、たとえば奴隷解放運動が、「人は誰もが基本的人権を尊重されるべきだ」「それに対して奴隷制擁護者は基本的人権の破壊者である」といった形で奴隷制包囲網が作り上げたら、それは奴隷制を扼殺しようとする非難すべき運動である──ということになりませんか。

>>151:AH1さん
>そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。

少し前に話題になった『NATROMの日記』の「信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産」(↓)
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070707
を覚えていらっしゃるでしょうか。もし私が、吉村医院の問題点を指摘して、それでも「一人ひとりの信者たちを弾圧するつもりはない」と本心で言ったとします。でも、「もしも私の主張が多くの人に共感され受け入れられるものだとしたら、吉村医院(や、そのような価値観)は次第に衰退し、消えていくかも知れない」と考えるとしたら、そう考えてしまう私に、AH1さんは不安を感じますか。

167後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:27:40 ID:yW.XqGsE
>>133:AH1さん
>つまり,お地蔵さんを拝む人に対して「それはケイ酸塩を主体とする鉱物であって・・・よってその行為はなんら意味をもたないが,君がそれで幾許かの安心を得られるという非合理的な心情を持っているなら止めはしない.ただし科学的に無意味であることは理解したまえ」と講釈する気はない,ということです.

AH1さんがそう思うのは尊重します。でも私は「拝むだけでは願いはかなわないし奇蹟はおきないということは分かってるよね。自分にできることはすべてして、それでもまだ足りなくて不安で、だから拝んでるんだよね」と言ってあげられる人を否定すべきではないと思います。少なくとも私は自分の教え子の受験生が、受験勉強よりも合格祈願のお祈りやおまじないに夢中になっていたら、AH1さんが「する気はない」とおっしゃった「講釈」をすると思います。
さらに言えば、そうやって正面から受験勉強に立ち向かわないで、祈りやおなじないに逃げた人たちのことを、これから受験を迎える生徒たちに批判的に話すようなことは実際にしてきました。批判というのは、直接批判対象となっている当人に向けてという気持ちも大事ですが、それ以上に、その批判対象と同じ陥穽にはまりうる潜在的可能性をもった人たちのためにすべきであると、私は思っています。

>>135:次郎さん
>で、そうした多様性を受容し合うような社会を作る上で、ドーキンスとグールドの主張のどちらが有効かという事を考えた場合、結論は明らかだと思うんですが、皆さんはどうでしょうか。

ドーキンスの主張が(そして私の主張も)そんな単純なものでないことは明らかです。たとえば、少し前に話題になった『NATROMの日記』の「信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産」(↓)
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070707
ですが、もしも、吉村医院が妊婦を一切転送しないとすれば、グールドは吉村医院を批判できるのでしょうか。吉村医院を非難することも不快感を表明することも、その根拠をどこに見出すことができるのか、私には分かりません。
私は、吉村医院の当事者に向かって直接非難する(ような無駄な)ことはしませんが、吉村医院の価値観(正しさ)を批判の対象にすべきでないという見解には大いに疑問を持ちます。もちろん批判や議論の結果、私の価値観が共感を得られずに「吉村医院の価値観(正しさ)を受容する社会であるべし」という世論が形成されるかも知れません。それでも、互いにより望ましい価値観を模索したり、自分の望ましいと思う価値観が社会通念になるよう努力したりする余地は認められるべきだと思うのです。皆さんの見解の多くは、そのような行為を拒否・否定するもののように私には感じられるのです。
この件(吉村医院の件ではありません)について別の場所で自分の見解を述べたのもあるので参考までに(↓)。
ttp://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-07-10
このブログはコメントに直接リンクができないようなのですけど、コメント欄の「田部勝也」が私です。このエントリとコメント欄には(少なくとも私のコメントまでは)斜め読みでも必ず目を通していただけると幸いです。この論点における私の主張のポイントがあると思っています。

>>135:次郎さん
>でも他の価値観を腐し、自分の信じる価値観を賞揚する所に行くと、啓蒙までもう一歩、あるいは啓蒙そのものではないでしょうか。

私はこの点について冷静で公正な判断を下す自信がないのでぜひ皆さんに聞いてみたいのですけど、>>129で問題提起したように、本当にドーキンスの非難は不当に「宗教」を腐したものなのでしょうか。私には正当な批判行為の範囲だと思えるのです。ドーキンスが正しいか間違っているかはともかく、「宗教」側の言い分をきちんと理解した上で(キリスト教に偏っていることはたしかですが、少なくともキリスト教に対して「藁人形論法」になっているようには思えないのですが)それに対する反論を根拠を挙げて述べ、自分の望ましいと思う価値観に不利な事実も取り上げ(たとえば330頁以下)、その上で中傷や罵倒表現を一切排した言葉遣いで、非難すべき点を指摘しているだけのように、私には見えるのです。その非難や価値観が、多くの人・社会から共感を得られるか嫌悪されるかは、また別の話です。
もしも、この書におけるドーキンスの行為が「不当に他の価値観を腐し」たものだとするのならば、私にはどんな正当な批判活動もできそうにありません。

168後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:34:18 ID:yW.XqGsE
>>108:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

たとえば、上で書いたように、オウム事件は、通常、学校教員のせいだとはみなされていません。しかし、社会の構成員である以上、オウム事件を許した社会的土壌の形成には、どんなに小さくとも何らかの寄与はしているはずであり、多くの教員はその点を悩んだわけです。いわゆる「ニセ科学」の蔓延に警鐘を鳴らしている人たちの多くも、個々のニセ科学の直接の害悪を追及しているだけでなく、ニセ科学が「蔓延してしまう」ような社会的土壌が、ニセ科学の蔓延だけでなく、他の(一見すると無関係にも思えるようなものも含め)社会的害悪のはびこる温床になっているのではないか──ということに注目しているわけです。
私は、特定の「宗教」が直接的に社会の害悪となるケースをもって、それを「宗教」一般に拡大解釈しているわけではないことを強調したいと思います。そうではなく、さまざまな社会的害悪を許すような社会的土壌の形成に、「宗教」一般がどう寄与しているのか──に興味があるわけです。

その他、NANさんが>>108>>109に書かれたことについては、すでに私なりの回答は十分していると思うので、1点だけ……。

>>108:NANさん
>つまり、自分は無宗教である、だけど宗教者をどうにかしたい、ってことです。

ここがそもそもの誤解だと思うのですけど、NANさんは、今現在の「無宗教者」と「宗教者」だけを考慮すれば済むような世界に住んでいるわけではないと思うのです。私は「宗教者をどうにかしたい」とはほとんど思いません(それはこれまでの私の発言から明らかだと思うのですけど)。「(まだ産まれてきていない人々も含めて)これから“宗教者”になりうる潜在的可能性をもったすべての人々」をどうにかしたい、ということです。

>>121>>122のNANさんのコメントについては、さんざん言い尽くされてきたことですが、よく肝に銘じておきたいと思います。>>121でNANさんが紹介された『佐倉哲エッセイ集』は、すべてに目を通すのにはとても長い時間が必要になりそうですが、興味深く読ませていただいています。

>>138:NANさん
>その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。

おっしゃる通りかも知れません。この点に関しては、私のコメントは撤回します。ただ、今私がしているこの議論において、私の論拠だけでなく、批判対象の対する感情的気遣いや批判対象を扼殺する危惧などの点から批判を受けていることについては、未だ納得しがたいものがあります。

>>138:NANさん
>あるいは、たとえば宗教法人というものの法人格を認める国家が宗教擁護者でしょうか?だとするなら、誰もが国家を批判し政権を「選ぶ」権利を我が国は有しています。これについて、いつまでも与党が変わらないことを批判するなら、それは国家に対してではなく、私たち自身についての自戒となるでしょう。

この点について反論はありません。個人的には宗教法人制度自体に疑問を感じています。そして、ここでの議論の論点とは離れますが、一般に国家に対する批判は、その政権を選んだ国民に対する批判と等価であるという指摘には全面的に同意します。

>>138:NANさん
>私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。

私は感じるのです。そのことに納得・共感していただけないのは仕方ありませんが、それは私の批判を非難する論拠にならないのは、NANさんも十分ご承知でしょう。

>>139:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。

>>142でカクレクマノミさんも指摘していますが、私の批判対象は「宗教擁護者」ではありません。「宗教」です。「宗教」自体が反論することは期待できないので、「宗教」の言い分を代弁する者として「宗教」擁護者と書きました。>>108でNANさんが「一方で個人、一方でガイネンという比較はどうなんだろう?」と書かれたので、以後その点に配慮して注意深く書き分けているつもりです。

169後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:45:27 ID:yW.XqGsE
訂正です。
上記>>168から2箇所あります。

>>108:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

は、実際には、>>121からの引用です。正しくは、

>>121:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

同じく、上記>>168からもう1点。

>>139:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。

は、実際には、>>138からの引用です。正しくは、

>>138:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。

以上、謝罪し訂正します。申し訳ありませんでした。

170後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:47:01 ID:yW.XqGsE
>>139:NANさん
>要するに、私が後悔と懺悔さんに対して批判的である大きな軸とは、そういう「おかしな構造」はジンルイが持つすべての文化・文明に対して共通であるはずなのに、なぜか宗教だけをクローズアップする動機が分からない、ということです。

私は、なぜ「宗教」をクローズアップしては駄目なのかというのが分かりません。正直に言えば、先生に叱られた子供が「あの子もやってるし、あの子はもっと悪いのに、なんでボクだけ……」と拗ねるのと、どう違うのか説明して欲しいと思っています。私が「宗教」以外のものを批判していないと思っているわけではないでしょうし……。>>145の「(前略)もう一方で、そうしたテロリストに資金を援助してきたアメリカの暗い部分には無指摘であるドーキンスの姿勢に疑問を持ちます」などにも同様の疑問を多々感じます。

>>139:NANさん
>もっと端的に云うのなら、利権についての無指摘です。あなたが危惧を感じる「宗教擁護者」とは、実は利権を保護するモノではないのですか?ある利権の恩恵を受けていたり、参加している者は、ドーキンスやあなたが指摘するような行動を起こしがちでしょう。少なくとも私にはそう思えます。

そういう点はたしかにあるでしょう。しかし、私の批判している点は、もっと人間の本性的な感情や思考傾向に根ざした部分にあります。>>91>>105は読んで頂いていると思いますが。

>>140:NANさん
>「私(NAN)」ぢゃだめですかい?あるいは地下猫氏でもほかの誰でもイイんだが…w

NANさんたちがそういう自戒をしたのは、あくまでNANさんたちの、人としての矜持なり美学なり理性なり感情なりによるものであって、「宗教」がそうさせたのではないでしょう。私は、それは「宗教」の自戒ではないと思います。だから駄目です。
特に、NANさんは「そういうステレオタイプが宗教だ、というのなら、私はそれを全否定したいほどです(>>139)」「だからこそ「仏教系」を自称する様々な新興宗教やその他仏教系宗派のとんでもない詭弁には嫌悪感を覚えるし、なるほど「害悪だろう」と評価しているけれど、これを「宗教」と一くくりにする主張は同じように嫌悪する(>>149)」といった主張を繰り返しているので、私の>>102の疑問に関する答えとしては説得力を持ちえませんし、むしろ、「宗教」から自由な人のほうが、より人として自然な矜持なり美学なり理性なり感情なりに基づいた判断ができるように思う──という私の見解を補強する例にさえ感じられます。

>>144:NANさん
>もしかしてカクレクマノミさんも「既存の入信者や有名無名宗教者はドーキンスが発するような批判に答えなくてはいけないor答えないことは許せない」とか考えてます?正しさを押し付けないと気がすまないということかな?

NANさんのご批判は論理的にもっともかと思いますが、一方、不安を感じる点に関して疑念を払拭してくれない(批判に答えてくれない)人たちと一緒の社会に暮らしていくのは、心情的に納得しかねるものがあります。

>>146:NANさん
>(前略)これについて、牧師もシェフもエロCGモデラーも同様の説明を試みることができます。しかしことさら執拗に牧師の地位を貶める必要を私は感じないし、その後に否定しようが批判しようが「どんな主張もとりあえず真面目に聞くべきだろう」と思うのですが、これをもって「不当な宗教の擁護」と云われるのであれば、それは十分に差別的で傲慢な態度にしか私には見えません。

まず、「庭師やシェフも同様の説明を試みることができる」と言うことが「ことさら執拗に牧師の地位を貶める」ことなのかが疑問です(エロCGモデラーは誰が言い出したのか知りませんが)。また、このことで牧師を擁護することを、誰も「不当な宗教の擁護」とは言いません。「説得力のない宗教の擁護」と指摘し、その論拠を述べるのは差別的で傲慢な態度でしょうか。

171後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:55:22 ID:yW.XqGsE
>>146:NANさん
>しかし「牧師の話を真面目に聞く正当な理由」がないというほどに、宗教を蔑視する必要性はどこから来るのか?それがなにか問題解決に役立つのか?神というレトリックを使って宇宙誕生を説明することがそれほど不当なのか?

端的にいれば、その正しさの根拠の問題です。何度も繰り返しているように、「重要な問い」への答えの正しさの根拠は、それぞれの人の矜持なり美学なり理性なり感情なりといった主観的なモノにしかありえないように、私には思われます(この論点については、皆様にぜひご教示を頂きたいと思っています)。

「重要な問い」への答えの正しさの根拠を「科学」に求める態度がどれほど危険かは、ここで私の間違いを指摘されている皆様には異論はないかと思います。それは、>>5で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論でほぼ尽くされていると私は考えています。
一方、私が>>16などで何度も指摘してきたように、「宗教」は、自らの「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めるシステムのように、私には思われます。余談ですが、「ドーキンスはどのような理由で「そうしたものは宗教ではまったくなく」と述べているのでしょうか(>>161:リリスさん)」の答えははっきりしていて、「“重要な問い”への仏教や儒教の答え」について、その正当性を超自然的なモノ・人智を越えたモノに拠っていることを、ドーキンスは示せなかったからです。

「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めることに違和感のない社会、むしろそれが奨励される社会は、そうでない社会に比べて、一般にどういう傾向を有しうるでしょうか。どういうものが生じうる社会的土壌の形成に寄与するでしょうか。
私は、「重要な問い」への答えの正しさの根拠を「科学」に求めるような社会と同様の、「超自然的なモノ・人智を越えたモノ」を「科学」に置き換えただけで、まったく似た傾向を有するような社会になっていくのではないかと、何度も何度も指摘し続けてきたわけです。正しさの根拠が、超自然的なモノ・人智を越えたモノである以上、正しさと現実との齟齬(いくら祈っても願いが叶わないなど)が生じうるだけ、なお好ましくない社会と考えることもできるかも知れません。

NANさんは「科学的方法論をもっともっと浸透させること。それこそ問題解決の鍵だ、と私は思います(>>146)」と述べてます。科学的方法論を浸透させる上で最大の障害は何でしょうか。私はもう20年近く「ニセ科学」について考えてきました(当時は「ニセ科学」なんて言葉はなかったですけど)。「ニセ科学」の蔓延が、科学的方法論を浸透させる上で障害となることには異論はないでしょう。では、「ニセ科学」の蔓延が、なぜ、どのようにして、科学的方法論を浸透させる上で障害となるのでしょうか。最近、poohさんのブログの『心に棲むもの』というエントリ(↓)
ttp://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-12-27-1
のコメント欄を読みました。偏見に凝り固まった私には、正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めることに違和感のないような社会における社会的心性の話としても読める気がしたのですけど、いかがでしょうか。

いずれにせよ、改めてここでの議論を何度か通読してみて、「宗教」一般についての私の主張は誰の共感も得られるようなものでなく、その論拠も多くの人にとってまったく説得力をもたないということは、さすがの私でも、かなりはっきりしました。
これまでの「宗教」一般についての私の主張は、すべて取り下げさせて頂きたく思います。もちろん、「宗教」一般についての私のあまりの無知と見解の底の浅さを深く自戒しなければならないという気持ちを強くしました。皆さんの議論や>>121でNANさんが紹介された『佐倉哲エッセイ集』も含め、自分の認識を意識して修正していくよう努めていきたいと思います。

これまでの「宗教」一般についての私の主張はすべて取り下げますが、私がそれらについて書いてきたことへの批判や、そこから派生したより有意義で建設的な議論は、ぜひとも続けて頂きたく願っています。自分の認識の修正に役立てたいと思っていますし、私の何が間違っていたのか、本当はどのような議論が必要だったのかといったことが、今後閲覧する人たちに分かりやすいかたちで提示されることは意味のないことではないと考えますので(今回の一連の投稿はその材料となるべく、自分の無知と偏見──だけど自分自身で論破できない部分を特にさらけ出したつもりです)。

172NAN:2008/01/07(月) 11:25:49 ID:???
年をまたいでしまったし、書くべき文章が大量なので少し散文気味になることをご容赦。

>>166
>そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。


どんな理由に基づく行為であれ、正当性や不当性を帯びたものであれ、批判するのも非難するのも自由ですよ。無論、まったく不当に復讐されることだってあるかも知れない。それがイヤだ、と(同じように)主張することはできるけれど、批判・非難される可能性を下げることは少しもできないだろうなぁ。

>>167
>私には正当な批判行為の範囲だと思えるのです。ドーキンスが正しいか間違っているかはともかく、「宗教」側の言い分をきちんと理解した上で(キリスト教に偏っていることはたしかですが、少なくともキリスト教に対して「藁人形論法」になっているようには思えないのですが)それに対する反論を根拠を挙げて述べ、自分の望ましいと思う価値観に不利な事実も取り上げ(たとえば330頁以下)、その上で中傷や罵倒表現を一切排した言葉遣いで、非難すべき点を指摘しているだけのように、私には見えるのです。

もちろんそれは「正当な批判行為である」と私も思いますよ。ただし、「キリスト教に偏っていることはたしかですが」とご自分で書いておられるように、それだけで「宗教一般に対する批判」としては落第でしょう。

>>168
>そうではなく、さまざまな社会的害悪を許すような社会的土壌の形成に、「宗教」一般がどう寄与しているのか──に興味があるわけです。

仮にそうであるなら、後悔と懺悔さんの文章はあまりにまわりくどく、あなたが指摘する問題点に少しも届いていないように見えてしまいます。つまり私が述べたいことは、そんなことを議論するのであれば、そもそも「宗教一般」を批判対象にする必要性すらなく、主題とすべきはニンゲンが持つ「盲信性」に端を発し、原理主義や教条主義について批判し、その解明を行えば良いのではないでしょうか。

>>これから“宗教者”になりうる潜在的可能性をもったすべての人々」をどうにかしたい、ということです。

「社会的害悪」になりうる潜在的可能性をもったすべての人々をどうにかしたい、という主張でさえ、私は賛同しにくい人格なので、これが宗教者となると、まったく無理な世界ですね。(しかし、そういう論調を否定はしません)


>>私は、なぜ「宗教」をクローズアップしては駄目なのかというのが分かりません。

説得力がないからです。十分な根拠を提示して「なるほど宗教一般にはそういう問題がある」という共通認識が得られるのなら、議論の方向は違うものになったでしょう。宗教批判者としてのドーキンスにさっぱり信用がなく、さらにその著作をベースにした二次議論であれば、さらにコンセンサスが得られなくなるのは当然のことでしょう。
私は「宗教批判をすべきではない」などとまったく思いません。後悔と懺悔さんの行う「宗教一般批判」が的外れである、と述べてきただけです。

>>あくまでNANさんたちの、人としての矜持なり美学なり理性なり感情なりによるものであって、「宗教」がそうさせたのではないでしょう。私は、それは「宗教」の自戒ではないと思います。だから駄目です。

どうとでも云える話でしたね。失礼しました。
ただし、私は「人としての矜持なり美学なり理性なり感情なり」を得るにあたり、多くの宗教的観念や思想に影響を受けています。答えは白と黒だけではないことを、最も重視すべきでしょうね。

173NAN:2008/01/07(月) 11:26:30 ID:???
>>まず、「庭師やシェフも同様の説明を試みることができる」と言うことが「ことさら執拗に牧師の地位を貶める」ことなのかが疑問です(エロCGモデラーは誰が言い出したのか知りませんが)。また、このことで牧師を擁護することを、誰も「不当な宗教の擁護」とは言いません。「説得力のない宗教の擁護」と指摘し、その論拠を述べるのは差別的で傲慢な態度でしょうか。


ドーキンスは「悪魔に仕える牧師」の中で「牧師の言い分を”真面目に”聞く必要がどこにあるのか?」と書いているのです。それに対して、なぜ”真面目に”聞くことさえNGなのだろう?と私は述べています。私はエロCGモデラーだったりベジェ絵描きだったりギャンブルチラシ屋だったりインチキコラムニストだったりする顔を持っていて、時に進化論支持者というプラカードを掲げてネット議論に参加したりします。私がどんな顔をしていようと、皆さん真面目に話しを聞いてくれます。少なくとも「牧師の話など聞けるか!」とはなりません。ドーキンスは似たような主張をしつこくくり返し、さっぱり共感の持てない私としては、該当するページの部分は常に飛ばし読みされることになりました。

>>端的にいれば、その正しさの根拠の問題です。何度も繰り返しているように、「重要な問い」への答えの正しさの根拠は、それぞれの人の矜持なり美学なり理性なり感情なりといった主観的なモノにしかありえないように、私には思われます(この論点については、皆様にぜひご教示を頂きたいと思っています)。

ぜんぜん違いますよ。ドーキンスは「宇宙創成の物理的仕組み」について友人に説明を求めたのです。これは「たとえばなし」の一種ですから、ドーキンスの友人は天文学者のはずなのにさっぱり頼りにならなくて、質問を向けられたとたんに「牧師に尋ねたほうがいい、科学では到底答えられないから」と述べた、と「演出されている」のです。(さらにその友人の態度に立腹するドーキンスの様子はまったくバカっぽい)

宇宙創成の物理的仕組みを説明するにあたり、牧師だろうがシェフだろうがマクドナルドのカウンターの中でほとんど笑わないお姉さんだろうが、適切さにおいて差はないでしょう。でも同時に、牧師だって聖書だけを読んでいるのではないだろうし、シェフは包丁を研ぐばかりではなく、マクドナルドのお姉さんは大学に戻ると理論物理学を専攻しているかも知れない。いや、そんなものを専攻していてもいなくても、大人だったら「話くらい真面目に聞けよオラ!」と思われるのは当然でしょう。

>>「宗教」は、自らの「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めるシステムのように、私には思われます。

それは宗教の「限られた一面」に過ぎません。もしもそれが「宗教一般の傾向」である、と本当に考えているのなら、そこからスタートする議論が破綻してしまうのは当然のことであろう、と私は予測します。
すでに後悔と懺悔さんは「一連の宗教批判」について、主張を取り下げておられるようですが、私としてはその「取り下げ」も少々釈然としません。なぜ長年お考えになってきたであろう議論を、これくらいの軋轢で取り下げてしまうのだろう?と私には思えるです。

以後、少し包括的に続けさせていただきます。

174AH1:2008/01/07(月) 15:01:13 ID:fKqeZx4M
>>165, >>166, >>167
後悔と懺悔さん
まず、ネットの存在しない所に引きこもっていましたので遅くなりました。
全部答えられるかどうかわからないですがやってみましょう。ただし、答えをまとめてしまうかもしれませんので御容赦ください。

>当事者同士が真剣に向き合って解決していくしかないでしょう。どうしても相容れなければ、「互いに今後一切干渉しない」とするかも知れませんし、第三者に判断を仰ぐかも知れません。それは当事者どうしが決めればいい。

まあ、そうするしかないでしょうね。

>簡単なことです。それを難しいことにしているのは何か──ということです。そして私はそれを非難しているわけです。

宗教対科学に限らず、常に、誰もがそう思っているだろうと思います。

>私は、もういちいち引用を示しきれないほど、「“重要な問い”への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(>>49)」という主張を擁護してきたのですけど、AH1さんはまだまだ不満だということでしょうか。

申し訳ないのですが、あなたが熱く語れば語るほど、「正しさを独占しようとする傾向はなんと普遍的なものか」としか思えません。
そして、前の投稿にも書いていますが、一体だれが、「メリケンの馬鹿クリ」のような存在に遠慮しろなどと主張しているのでしょうか?私が言っているのは「宗教とは」という一般化が粗雑すぎ、おバカ撲滅主義(=科学万能主義)的にすら見える、という主張です。

>そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。

ならばなぜ掲示板にお書きになったのですか。あなたが意見を述べる自由があるのと同じく、私にも意見を述べる自由があるのではないですか。

>AH1さんの論法では、たとえば奴隷解放運動が、「人は誰もが基本的人権を尊重されるべきだ」「それに対して奴隷制擁護者は基本的人権の破壊者である」といった形で奴隷制包囲網が作り上げたら、それは奴隷制を扼殺しようとする非難すべき運動である──ということになりませんか。

例えが違います。この例であれば、奴隷解放運動を行う人が「奴隷推進論者を奴隷にせよ」と言えばどうですか。

>少なくとも私は自分の教え子の受験生が、受験勉強よりも合格祈願のお祈りやおまじないに夢中になっていたら、AH1さんが「する気はない」とおっしゃった「講釈」をすると思います。

地下猫氏の投稿を引用して、有害さの程度の問題であろう、と述べました。

175AH1:2008/01/07(月) 15:12:40 ID:fKqeZx4M
ちょいと訂正。
奴隷の例えも「有害さの程度」と考える方が実体に即してますかね。
有害さをどのように計るのか、も、これまた大騒ぎだと思うけれども。

そして、まとめ。後悔と懺悔さんの御意見に対する私の意見は以下のように集約されるでしょう。
「恐らく人間にとって有害であると思われるものを批判するのはもちろん自由である。
また教条主義・排他性などは人類の陥りがちな悪として常に自戒すべきである。
宗教は(その宗教にとって)正しき事を述べるものであるがゆえに、「信者にとってのみの正しさそのもの」
であり、その点で正しさを独占するものに他ならない。しかしながら、宗教のもつ有害性を、一部の極端な例だけによって一般化するのは問題がある。」

すなわち、「メリケンの馬鹿クリ」相手の局地戦闘ルールを一般化しすぎじゃないのか、
それってキリスト教が自らの神を唯一の神と信じ込むのと同様の違和感を感じるんだけど。
というようなことです。

176NAN:2008/01/08(火) 02:07:53 ID:???
後悔と懺悔さんの問題提起に対し、私がこのように反応している理由と動機について、少し書いておきたいと思います。(この掲示板に問題提起したのは地下猫氏なわけだが…)

宗教一般について包括的な批判を行うこと…実は私もそこに興味がないわけではありません。また、くり返し述べているように、「メリケンのバカクリ」に厳しい批判を行うのは当然だ、と思っているし、カルト宗教の嘘っぱちや底の浅さ、原理主義に基づく暴力を非難しないというのは、とても恥ずかしいことだ、と思います。それでは単に、私は後悔と懺悔さんの主張する「一部宗教に対する批判の一般化」について、そこだけを批判しているのでしょうか。一連の議論はそこに終始しますが、私の個人的な動機はもっと別の部分にあるようだ、と思えるのです。

>>102において『様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか』と、後悔と懺悔さんは述べています。ここで云う宗教とは、かなり包括的なものであるように私は捉えます。また、先の投稿(>>170)で示されるような、これから宗教者となるかも知れないひとびとに対する危惧や警鐘そのものが無意味であるとは、当然、私も思いません。

それではなぜ、宗教「一般」に対する批判を私がなかなかできずにいるのだろうか?そう考えるとき、私は「その先にあるモノ」を想起せずにいられないのだろう、という推論に辿り着くのです。
私は(もちろん自分を含めて)ニンゲンに対してさほど期待をしていません。理性とやらの確かさも、信用に値しない脆いものだ、としか思っていません。それはたとえば「軍事的抑止力」などに代表される、独善的で威圧的な「正しさの押し付け」をもってしか、ひと時の平和さえ維持できないヒトの浅はかさに対して、とうの昔に絶望しきっているからなのだろう、と思っています。つまり、百歩譲ってドーキンスや後悔と懺悔さんの主張を認めたとき、それもまた「正しさの押し付け」として広まり、歪められ、必ず差別的なムーブメントに繋がるだろう、と予測しているからです。(実際、ドーキンスは『知識人』に対して決起を要請している。非知識人はどうなるのだろう?)

あるいはこんな予測も私はしています。仮に後悔と懺悔さんが述べるような「自戒」をひとびとが行い、実践していったのなら、なるほど現在はびこる宗教的問題は解決していくでしょう。しかしそれこそ仏陀やその他の開祖が試みた「救い」なのではないのか?それはつまり現代という世の中におけるとても宗教的な行為ではないのだろうか、仮にそうであるのならば、救いの「線引き」はどこでなされるのだろうか、どこかで線引きを行うような救いが、果たして私に許容できるだろうか?などと考え始めてしまい、やはり容認できないものに見えてしまうのです。

宗教に対してなにか積極的なアプローチを行うのだとしたら、もしそれが革新的で、強い説得力を持ち、本当に世界を変えるほど力のあるものであれば、それは必ず宗教的な色合いを帯びたものにならざるを得ないのではないか?私はそう思います。

177chochonmage:2008/01/14(月) 04:54:07 ID:vUxNW.gI
年末からドタバタと忙しく、すっかり間があいてしまいました。
レスをくださったNANさん、大変失礼いたしました。
何度か書き込もうとも思ったのですが、どうにもうまく考えがまとまらず苦しんでもおりました。

AH1様
横レスで失礼します。
>私が言っているのは「宗教とは」という一般化が粗雑すぎ、おバカ撲滅主義(=科学万能主義)的にすら見える、という主張です。

「おバカ撲滅主義」は私の>>14の書き込みから取られたものかと勝手に想像いたしますが、「おバカ撲滅主義(=科学万能主義)」と取られる可能性はあるなぁと思ってはいました。
が、>>19で書きましたように、私のいう「おバカなこと」とは「人を盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか考えとか」のことであり、
NANさんご指摘のような「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」にとって極めて便利な「ツールになりうるものの」ことを意味させたつもりでした。
そういった意味で、私はそういう「便利なツール」が無くなるといいな、もしくはたとえ無くならなかったとしても、「連中がツールをツールとして使っていやがるな」と、使われている人たちがちゃんと認識できるような
極力刷り込みされる機会が少ない社会がくればいいな(つまりツールとして無効になればいいな)、と、こちらでの各種ご意見を拝読した今でも思っています。

で、その便利なツールのひとつとしての宗教(ひとまとめにするなとか、ワケのわからない理屈とか考え方じゃないとか言われそうですが、ちょっとここでは勘弁)が、特に911以降は、連日新聞等で大きく報道されていることもあり、使われまくってるように私には思えるのです。
(あとは「愛国心」なる言葉とか。もちろん「連中」が使う意味でですが。)

といったわけで、私の言いたかった「おバカ撲滅」は科学万能主義を意味してるわけではないと思うのですが、いかがでしょう。

レスが前後しますが:

>強い批判でも弱い批判でも良いのですが、皇室問題については「宗教だから遠慮する」ではないでしょう。

皇室の話は「宗教への遠慮」の例としてあげたのではありませんでした。NANさんのおっしゃっていた「宗教批判を躊躇わせない社会が実現している」
に対して米国の例をあげ、(NANさんは恐らく日本社会を想定してらっしゃったと思うのですが)米国の「信仰」(キリスト教に限りません)に対する空気
(タブー感とでもいいましょうか)が日本の皇室に対するそれに似ているなぁとあげたものですが、読み返して見るとちょっとポイントをはずしていたようです。
今思えば、NANさんの発言を「日本では何に対しても自由にモノが言える」と誤読していたようです。「対宗教」限定だったのですね。

>私はNANさんの言う「利権機構」に附随する暴力装置が問題であり、宗教であろうがナチズムであろうがパクス・アメリカーナであろうが同じだと思います。

ほぼ同意します。ですが「村八分」やそれに類する周囲の反応なども、皇室問題で発動される暴力装置ほどあからさまではありませんが、また暴力装置なのではないでしょうか。

178chochonmage:2008/01/14(月) 04:58:17 ID:vUxNW.gI
そもそも宗教とは何者なのでしょう。「一般化」が難しく、無理があるのは承知で私の疑問を書いて見たく思います。
雑な議論かも知れませんが、お付き合いいただけたら幸いです。

以下はWikiの定義なのですが:

*********引用ここから*********

宗教(しゅうきょう)は一般に、神・超越的存在・聖なるものなどについての信念や信仰、
信念や信仰と結びついた個人の態度(超越的なものとの関係)・活動(礼拝など)・制度(寺社、教会など)・信者の形成する社会などを表す。

*********引用ここまで*********

まぁ、「一般的」にはこのあたりじゃないかと思うのです。仏教についてはお釈迦さんのオリジナルは「哲学」や「思想」(信仰を含まない)
に近いものだったように思われるのですが、お釈迦さんの死後、「解釈」とやらでヒンドゥー教の神様やら混ぜ込んじゃって以来、上記定義にあてはまる
「宗教」になっちゃったように思うのです。

>>NANさん、AH1さん

NANさん、AH1さんは「馬鹿クリ」、や「カルト宗教」とその他の宗教をどのように分類なさっているのでしょう。そして、「宗教」の一般化が困難であると認識なさっていながら、
「馬鹿クリ」、「カルト」に関してはわりとあっさりと一般化(ラベル貼り)なさっているように思えます。
正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)

以下、文章にうまくまとめるのが私には難しいので箇条書きにさせていただきます。

1.「馬鹿クリ」と「お利口クリ」の違いは原理主義、完全逐語解釈か否かというところなのか。
2.原理主義が問題だとしたら、「原理」から離れれば離れるほど「お利口」なのだろうか。このあたりは猫さんに「多様性を理解してない」と一蹴されているのですが、まだ良くわかっていません。
3.だとすると最終的には「信仰」の否定が正解なのではないか。
以下猫さんご紹介の「自由神学」についてのWikiの記述です。

*********引用ここから*********

* 一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも肯定しない。
この段階に達すると、聖書と基本信条に示される三位一体の神を信じる、歴史的なキリスト教の正統信仰の枠から、完全に逸脱する。異端神学というより、その宗教性そのものが根本から問われる。改革派の保守的神学者メイチェンは、自由主義神学(リベラリズム)はキリスト教では無いと断言した。

*********引用ここまで*********

4.そもそも宗教(全ての宗教に通じているわけではないので、強引ではありますが)は完全逐語解釈から始まっているのではないか。
5.そして、「解釈する」というのは、後世矛盾を生じてしまったり、ど〜考えてもこれは無理やという部分、あるいはそれ以外の「都合」によるつじつま合わせにすぎないのではないか。
6.だから、「信仰」を含んでいる以上は、例え原理主義よりでなくても単に「程度」の問題で、現在「表の掲示板」で行われているグラデーションの話なのではないか。(信仰者と非信仰者のグラデーションの議論はあるとは思いますが、ちょっとここでは「馬鹿クリ」及び「カルト」限定ってことで。)
続きます。

179chochonmage:2008/01/14(月) 04:59:53 ID:vUxNW.gI
続きです。

7.「預言者」、「神の代弁者」への降臨とかお告げとかではじまった宗教は多いが、どれについても「根拠」や「証拠」を見出すのは私には困難である。
8.だから、「ムハンマド」、「出口ナオ」、「麻原彰晃」、「ジョセフ・スミス・ジュニア」、「サイババ」、「高橋弘二」、「文鮮明」、「大川隆法」やその他幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称預言者、代弁者の区別がつけられない。
9.「イエス」は「神の子」だか「神そのもの」だかだそうだが、私には他の幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称「神その人」、「神の子」たちとの区別がつかない。有名かどうかの違いはあるけど。
10.「ギリシャ神話」、「日本神話」その他世界中に存在する厖大な数の「神話」と特に「アブラハムの宗教」の聖典の主な違いは登場する神なり神々なりがニンゲンにああせい、こうせい、あるいは、ああするな、こうするなと言うか言わないかの違いしかないのではないか。
11.結局宗教はニンゲンの作り上げたフィクションに分類されるものではないのか。
12.それを「解釈」、「研究」することで多くの重要な思想やいわゆる哲学(ってこういう書き方すると猫さんに叱られそうだけど)が誕生したことは事実であろうが、だとすると宗教も思想や哲学あるいは物語として扱われるべきもので特に「宗教」としての尊敬や遠慮を要求したり、我々がそう考えなければならない理由はないのではないか。
13.「宗教」が「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」の便利なツールであるならば、そのツールの根拠薄弱製を指摘したりする批判活動は、「情動分野」に論理的整合性で結論を求めるナンセンスな行為である、以上の意味があるのではないか。

以上、バカがバカなりに真剣に考えたことです。どうか笑っておつきあいくださいませ。

180NAN:2008/01/14(月) 14:32:53 ID:???
>正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)

ん?感覚的に分かっていらっしゃるならそれで十分ではないですか?表の掲示板ではないですが、ヒトによる区分など恣意的なものに過ぎません。こうして区分を「きちんと」しようとすると、それが新たな逐語主義や原理を招いてしまいませんか?…と、一応「タテマエ」を述べておきますw

さて、ぶっちゃけお話しますと「バカ」の対義語が果たして(この場合)「お利口」なのか?ですね。結論を急がず、もう少し書きます。

>1.「馬鹿クリ」と「お利口クリ」の違いは原理主義、完全逐語解釈か否かというところなのか。

違います。別にどんな主義に見えようと、信仰(町内会の会合に出ることは”正しい”という信仰でももなんでも良い)を正当性の道具に使い他者を迫害したり威圧する傾向を持つ人格を指しています。

>2.原理主義が問題だとしたら、「原理」から離れれば離れるほど「お利口」なのだろうか。このあたりは猫さんに「多様性を理解してない」と一蹴されているのですが、まだ良くわかっていません。

どの原理を選ぶのか?という恣意性の問題です。他者に暴力を及ぼし支配し威圧することの正当性の根拠を原理に求める態度が「バカ」なのです。基本的には統率された集団行動(たとえば軍隊の規律)における盲目的な戒律を「まんべんなく平等に」誰彼構わず行使する人格ではないでしょうか。(つぅかそれは教条主義だな)

>3.だとすると最終的には「信仰」の否定が正解なのではないか。

何度も申し上げているように、信仰はこの際関係ありません。無論それは「私の主張の範囲において」という限定ですが。
たとえば親が子を「教育する」という場面においてでさえ、そこには盲目的な服従がたびたび求められます。このとき、服従の正当性を強化する目的でカミサマやゴセンゾサマや先代シャチョーやらが登場するのです。

>4.そもそも宗教(全ての宗教に通じているわけではないので、強引ではありますが)は完全逐語解釈から始まっているのではないか。

それはまったくの誤認ではないでしょうか。口伝を逐語解釈などしようがありませんし、民俗信仰の大半は経典さえありません。教義が存在しない信仰を逐語解釈しようがありませんね。

>5.そして、「解釈する」というのは、後世矛盾を生じてしまったり、ど〜考えてもこれは無理やという部分、あるいはそれ以外の「都合」によるつじつま合わせにすぎないのではないか。

布教(統治)の際に生じる「利権獲得」をスムーズに行うためのシステム作りです。たとえば著作権協会が行っているシステム、MLM(マルチレベルマーケティング=マルチ商法)もそうだろうし、映画のコマーシャルでよく見られる「総制作費○億!」みたいなのも「権威づけ」という意味からは同様のものです。「ナニカ」を得たり興じるために対価を支払え、というごく自然に見える行為にはすべて解釈があります。

>6.だから、「信仰」を含んでいる以上は、例え原理主義よりでなくても単に「程度」の問題で、現在「表の掲示板」で行われているグラデーションの話なのではないか。(信仰者と非信仰者のグラデーションの議論はあるとは思いますが、ちょっとここでは「馬鹿クリ」及び「カルト」限定ってことで。)

この辺は残念ながら破綻しているように見受けられます。それは4)の破綻を引きずっているからですが、結論先にありきで前段を組み立ててしまいませんでしたか?警察官や官吏の教条主義は一見社会秩序を維持するために必要なものに見えます。しかし指導者が侵略的独裁者だった場合はどうなるでしょう?

181NAN:2008/01/14(月) 14:33:24 ID:???
>7.「預言者」、「神の代弁者」への降臨とかお告げとかではじまった宗教は多いが、どれについても「根拠」や「証拠」を見出すのは私には困難である。

ん?それも宗教の「有名ではあるけれどごく少ない例外」ですよ。しかもです、重要なのは彼らに根拠を与え正当性を冠したのは民衆である、という点です。民衆には「統治されたがる傾向もある」ということは、決して忘れてはいけません。もちろん、私たちにもそれはあるのです。

>8〜9. だから、「ムハンマド」、「出口ナオ」、「麻原彰晃」、「ジョセフ・スミス・ジュニア」、「サイババ」、「高橋弘二」、「文鮮明」、「大川隆法」やその他幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称預言者、代弁者の区別がつけられない。

区別する必要、ないでしょw。だって彼らはみんな「ニンゲン」ですから。ニンゲンの口から出る言葉は人語に過ぎません。

>12.それを「解釈」、「研究」することで多くの重要な思想やいわゆる哲学(ってこういう書き方すると猫さんに叱られそうだけど)が誕生したことは事実であろうが、だとすると宗教も思想や哲学あるいは物語として扱われるべきもので特に「宗教」としての尊敬や遠慮を要求したり、我々がそう考えなければならない理由はないのではないか。

論理を重んじるあまり、枠にハマった結論を急ぎすぎてませんかねぇ。無論、論理とか辻褄は大事です。私は「宗教」が特に尊敬や遠慮を要求しているとは思いません。それは「宗教コンプレックス」ではないでしょうか。
どんな批判対象であれ、あてずっぽうで的外れな批判が再批判されてしまうのは当然のことです。それは「宗教を批判するな」という強要ではありません。

>13.「宗教」が「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」の便利なツールであるならば、そのツールの根拠薄弱製を指摘したりする批判活動は、「情動分野」に論理的整合性で結論を求めるナンセンスな行為である、以上の意味があるのではないか。

(少なくとも)私は「宗教を批判することはナンセンスである」とは云っていません。ドーキンスをはじめ、chochonmageさんのそれも(論理で片付く問題じゃないものに論理を根拠に批判することが)「的外れでナンセンスである」と述べているのです。
ちなみに宗教の根拠薄弱性を論理的に証明することも「極めて困難である」と私は思います。それはたとえばこの掲示板に集まる皆さんのように、論理的整合性を読み取ることができて、科学知識にさえ通じている「グループのさらに一部」にしか通用しないものでしょう。またそれは「知識人」という非常に醜く不恰好で独善的な「差別」を生むことにしかならないように私は思います。

なぜなら私自身が、とても醜く独善的で、狡猾でさえあり、差別を平気で行う人間だからです。このような傾向は程度の差こそあれ、必ず他の人格にも共通しているであろうし、本当の危機的状況が我が身に襲い掛かったとき、今こうして維持しているような平穏さを保つことができる自信などまったくありません。

先にも述べた気がしますが、いわゆる「宗教者(すでになにがしかの信仰を持つ信者や預言者や団体)」を個別に批判することは簡単です。説得力も容易く獲得できます。それでは、こういうケースをどう批判し、根拠の薄弱性を指摘しましょうか?以下、書きます。

182NAN:2008/01/14(月) 14:35:40 ID:???
『今まさに沈没しようとしている船があります。生存者は5人。全員がひどく衰弱し、怪我をし、動くのもやっとの状態です。ある者は精神的限界を超え、ある者は体力が尽きようとしています。しかし、なんとか誰かが水没したエンジンルームに入り込み、ポンプを作動させなければ船は速やかに沈没してしまいます。生存者の全員に、これといった信仰はありません。あるとしたら、家族を愛していたり、仕事を愛していたり、我が家に帰りたいという思いがあるだけです。そうこうしているうちに、一人が持病の発作を起こしました。発作に呼応して、もう一人がパニックを起こし、ひどく暴力的な傾向が見えてきました。このとき、生存者の中で最も社会的にはみ出しモノで、普段はギャンブルばかりしている不良中年が、本当は自らの借金を返すのが面倒になった、という理由でエンジンルームに入ることを決意します。不良中年は適当に機関をぶっ叩いただけでしたが、奇跡的にポンプは復活し船は水平を保つことができました。数時間後、やっと救助された生き残りは不良中年の死体を発見します。それぞれの我が家に生還することができた生存者たちは、互いが妙な絆で結ばれていることにその後気付きます。それは身を挺して自分たちを救ってくれた(かのように見えた)不良中年に対する感謝の念でした。彼らは不良中年がどんな人物だったか、機会があれば集まり話しました。どんなことを話していたとか、どんな顔だったとかそういう話です。中にはまったくの作り話もありましたが、全員がパニック状態だったので分かりませんでした。そのうち誰かが「彼はラベンダーの花が好きだと云っていた」と云い出しました。それはまったくの妄想でしたが、生存者たちはその話をとても気に入ってしまい、互いの貯金を出し合ってラベンダー畑を作ることになりました。そこには墓碑がありました。碑銘にはこう書かれていました。「自らを犠牲にして我らの命を救ったエンジン技術者に捧ぐ」それはもう、まったく事実と違っていたけれど生存者たちの間で不良中年は信仰と化していて、前科モノで無職で住所不定のギャンブラーが彼らを救ったという事実が受け容れ難かったのです。彼らは「救い主」をカリスマ化していました。また、そうしていくことが互いの親密度を深め、なにかとても善いことをしている気分になり、仕事や生活に張り合いが出て、それまでの毎日と今がまったく違う貴重で大事なものであると思えるようになったのです。やがて、生存者の一人で本当はとても暴力的な男が不良中年とラベンダー畑について「ノンフィクション小説」を書き、これがなぜかベストセラーになります。莫大な印税を得た暴力的な男は、この印税を生存者グループの共通資産とし、さらに腎臓病の持病を持つ生存者の医療費として一部を大学病院に寄付し、記念財団を設立します。ノンフィクション小説はほとんどがフィクションでしたが読者の感動を呼び、ファンとなった読者たちが生存者を訪れたり、激励をくれるようになりました。

183NAN:2008/01/14(月) 14:36:32 ID:???
そのうち読者たちの誰かがラベンダーを育てるようになり、それは徐々に広まっていきました。これに目をつけた広告代理店が暴力的で浮気ばかりしているけれど文章だけはまともに書ける生存者に話を持ちかけ、不良中年とラベンダーをモチーフにした映画の制作をはじめます。映画はもはやいいかげんな小説とさえかけ離れた、ほとんどアクションヒーローものといって差し支えないエンターテイメントでしたがウケました。暴力的な男はこの収入で不良中年が最後に住んでいたとされているボロアパートの土地を買い取り、そこに寺院めいたビルを建てました。すると、小説の読者や映画を見たファンがそこに集まるようになり、いつしか彼らはまるで教団信者のように振舞うようになり、献身的にラベンダーを育てては売り歩くようになりました。彼らは支配的だったり威圧的だったり独善的だったりしませんでした。単に誰かと損得なく働いたり、汗を流し苦楽を共にするという絆を求めていたのです。彼らは家庭内暴力に苦しめられたり、いじめっ子だったりいじめられっ子だったり、体に機能障害があったり、要するに社会から差別的な扱いを受けてきた経験を持っていました。彼らは生存者たちが最初に作ったラベンダー畑を聖地とし、そこで育った苗を丹念に増やしては各地にラベンダー畑を増やし、暴力的な映画作家の言葉を盲目的に信じ、絆を深めていく気分になり、なにか災害があると一目散にそこへ駆けつけボランティア活動に励んだりしました。しかし、彼らは本当は、暴力的な男が少しもノンフィクション小説を書いていないことや、映画や物語が作り話であることを知っていました。実はそんなこともどうでも良くて、彼らが欲しがっていたのは「そこにいる理由」だけだったのです。彼らは税金や保険料を払いましたが、家から離れ親がつけた名前を捨て、浮世離れした行動を繰り返しました。そのうち、家族の誰かが暴力的な映画作家やその他の生存者たちを非難したり、時には警察に被害届を出したりしましたが、信者たちは自発的に行動している成人ばかりだったので家族の訴えは通りませんでした。しかも彼らは他人に危害を及ぼしたり霊感商法的に搾取をしたり布教活動みたいなことも一切しませんでした。家族はそれぞれの理由で生存者たちとその取り巻きを憎みましたが、社会はラベンダー教を歓迎しました。なぜならマスコミと政府与党が彼らを好意的に扱い、利害の一致があったからです。暴力的な性格の映画作家はやがてタレント化し、朝のワイドショーでコメンテーターを務めたり、世相を討論する番組の論客としてテレビに露出することが増え、名前も法人も教義もない教団は社会現象にさえなっていったのです。』

184NAN:2008/01/14(月) 14:37:00 ID:???
さて、調子に乗って長い物語を作ってしまいましたが(笑)、こういう話は現実にあり得ることだし、存在しているだろうとさえ私は思います。
この物語に出てくる登場人物たちは、全員が嘘つきで全員が善意的で、全員が盲信を絆に生活を営んでいます。彼らを外部から論理的に批判することはいくらでも可能ですが、それは「宗教」が必要とされる根拠を補強したり逆に貶めたりする結果を生めるでしょうか。信仰は、機会さえあればどこからでも生まれ、どのようにも育ちます。信仰というのは、恐らくニンゲンが根源的に持っている不安や恐怖を緩和してくれるものなのではないか?というのが私の考えです。私が私の妻を特定して擁護することだって、実は信仰の一種ではないのか?これらをすべて「ひとまとめにして」宗教批判することなどできるでしょうか?少なくとも、私の能力ではできそうにありません。

情報伝達という視点から、chochonmageさんはじめここで宗教批判を試みた皆さんは、それがまるでマスコミによる情報捏造を暴露する週刊誌の記事(どっちにしてもマスコミ)であるかのように、論理的に教祖が嘘っぱちであることや教義の脆弱性を指摘しようとしているように見受けられますが、宗教を受け容れるヒトと云うのは、宗教を受け容れるだけの「とても強い理由」があるのだろう、と私は考えています。そしてまさに、この部分に対して、論理などまったく無効である、と私は思うのです。

百歩譲って、宗教と宗教を取り巻く社会に対して論理的な批判を試みるとするなら、アメクリのバカやカルトなテロリストを糾弾するのとはまったく異なる、相当に社会の深層をえぐった、ひいては自分自身がダブスタにならないよう物凄く配慮をした言説を説かなければならないでしょう。宗教を受け容れる「とても強い理由」とは、貧困や差別、さまざまな障害や精神的薄弱性、さまざまな挫折や屈折、歪んだ愛情や倒錯、さらに強い母性や父性、もしくは科学的探究心や真理への渇望など、とても多岐にわたるだろう、と思います。そしてそれらは、私としてはあまり好きじゃない言葉ですが「格差」などにたとえば代表されるだろう、と考えています。ではこの格差を無くした均等な社会などというものを追い求めたら、ジンルイとやらは一体何をしてきたのだろう?そういうところに私ははまり込んでしまいます。

宗教は、ジンルイの抱える大きな矛盾である、と私も思います。であるなら…私はいっそ「ジンルイの性質そのものを批判する」ことにはいくらでも同意できるし、賛同できるんですがねぇw

185AH1:2008/01/15(火) 13:22:50 ID:fKqeZx4M
>chochonmageさん
>といったわけで、私の言いたかった「おバカ撲滅」は科学万能主義を意味してるわけではないと思うのですが、いかがでしょう。

失礼しました、元の仰っていた意味とはずれてしまっていたようです。
ただ、私としては(今回のコンテクストの、またこのウェブサイトの中で)宗教と対比される事が多いがゆえに科学主義を付け足すようにあげさせて頂きました。
というのは、ちょっと飛躍や妄想が過ぎるかもしれませんが、「人間は理性によって世界を正しく認識できる筈であり、理性を通さない(=思考停止にいたる)いかなるものも価値が低い」という考えは、それ自体正しいかどうかは別として、強力な啓蒙主義であり且つ科学主義の一種であろうと考えるからです。
実際問題として「理性や善意や自由ってのは結構なもので、無視しちゃいけないよ」「現代社会においてまあ一番使えるツールの一つだろうね」という点はもちろん同意しますが。

>ほぼ同意します。ですが「村八分」やそれに類する周囲の反応なども、皇室問題で発動される暴力装置ほどあからさまではありませんが、また暴力装置なのではないでしょうか。

同意します。あれはムラ社会という秩序を保つための強制力ということでしょう。個人的な経験による部分もありますが、ムラ八分は大嫌いです。

>NANさん、AH1さんは「馬鹿クリ」、や「カルト宗教」とその他の宗教をどのように分類なさっているのでしょう。そして、「宗教」の一般化が困難であると認識なさっていながら、
「馬鹿クリ」、「カルト」に関してはわりとあっさりと一般化(ラベル貼り)なさっているように思えます。
正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)

明確な定義はありません。しいて言えば、NANさんとほとんど同じになってしまいますが、
「お前バカじゃないのか」「そりゃいくらなんでもひどいだろ」という事をやっちゃうのが馬鹿**ですね。
「メリケンの馬鹿クリ」とは私の語感では、「アメリカの原理主義的キリスト教団体のように、自らの宗教を絶対の原理と信じて、他者にとっては不当な、あるいは横暴な、時に危険な行為を行う相手」をさします。
つまり、宗教とは非常に広い範囲を指すものとして使っているが、その中には明確に「馬鹿」「テロリスト」としか呼びようのない集団や行為も存在する、ということです。

186e10go:2008/01/15(火) 20:40:07 ID:5/V6R9W6
ドーキンスの宗教批判は全く知らないので、それについて論じる事はできませんが、宗教批判を論じるなら「イエスの方舟」事件を知っておいた方がいいと思います。
この事件の、マスコミや警察の対応と、その後の行動が、オウム真理教の事件に影響していると思いますから。

「イエスの方舟」事件は1970年代終り頃に発生しましたが、マスコミ(*)は「イエスの方舟」バッシングを行ない、教祖の千石氏を非難するキャンペーンを張りました。
この時の状況は、オウム真理教事件の批判並みに激しかったと思います。
しかし、実際は、事件性のないもので、信者の親族が誤解してマスコミに訴えたのがきっかけです。
マスコミ(*)が煽り立てる様な報道を行ない、そのマスコミ(*)に煽られて警察は犯罪者でない人を逮捕する寸前までいきました。

*、1社のマスコミが異なる対応をした。千石氏と信者を密かに匿い、そのため、匿った報道関係者が警察から逮捕されそうになった。(この当時、このマスコミによる千石氏の単独インタビューのスクープが衝撃的だった)
ttp://yabusaka.moo.jp/hakobune.htm

事実が世間に明るみに出て、マスコミと警察はその反省からそれ以後の一時期、新興宗教の扱いに及び腰になりました。
「イエスの方舟」と「松本サリン事件」以前のオウム真理教では、マスコミの対応は真逆のものでした。
それがオウム真理教の一連の事件発生に間接的に繋がったと思います。

「イエスの方舟」事件をリアルタイムで経験した人は、宗教批判にためらいを感じる人がいるのではないでしょうか。
しかし、オウム真理教事件の二の舞も困ります。
宗教批判を否定するつもりはありませんが、「イエスの方舟」事件を知っているだけに、間違ったあるいは行き過ぎた宗教批判をしないように心がけたいと思います。

流れを止めるような発言ですみません。

187ちょちょんまげ:2008/01/16(水) 16:35:27 ID:vUxNW.gI
皆さんこんばんは。ラッシャーきむ、じゃなくて旧chochonmageです。気分転換のためハンドル名をひらがなにしてみました。
気分転換ついでにNANさんのまねっこでお話を作ってみました。

「おとうさん、なにやってるんですか。なんかまた変な宗教にはまっちゃってるんですか。」
「変なとはなんじゃ。お前は人の信仰をバカにするのか。」
「いや、その、別に信仰をバカにするってわけじゃないんですけどね。なんか不穏な話を聞いたもんですから。」
「不穏な話なぞありはせんぞ。」
「不穏じゃないですか、充分。なんかお父さんのはまってる宗教の教祖に全財産投げ出すとか。」
「投げだすわけじゃない。寄付するだけだ。しかも条件付き。」
「大体なんなんですか、その宗教ってのは。なんかついこの前まで「たまごは一日、一個まで!!」とか分けわかんないこと言ってたけどその宗教ですか。」
「あれはもうやめじゃ。だいたい、最近教祖がすっかり顔を出さんしな。じゃが、今度のは本物じゃ。すごいぞ。」
「一体なんなんですか。」
「メリケンさんという神様じゃ。」
「メリケンさん?それって、大阪の通天閣にある?」
「それはビリケンさんじゃ。」
「で、そのメリケンさんってのはどんな神様なんですか。」
「全てナンバーワンで、全て正しく、一番強い神様なんじゃ。そして悪を見ればかならず介入して懲らしめてくれるという、実に頼りがいのある神様なのじゃが、一方、子供と犬は絶対に殺さんという慈悲深い神様でもあるんじゃ。」
「なんかハリウッド映画のヒーローみたいな神様だな。どんな教義なんすか、いったい。」
「わしも全貌を把握してるわけではないのじゃが、例えばぐろーばりずむとかじゃな。具体的には、非人間的なめーとる法を廃止して、より人間的なやーど・ぽんど法や温度は華氏に世界中をまとめよとかの
お告げが教祖に与えられたのじゃ。ふぃーとはだいたいの足の長さ、風邪引いて熱がでたら100度。どーじゃ、実に人間的じゃろ。」
「そんなことしたら、世界中大混乱ですよ。」
「神のお告げじゃぞ。お前は人の信仰にケチをつけるのか。」
「いや、だから別にケチつけてるわけじゃないんですけどね。そんでその教祖ってのはなにもんですか。」
「ジョージ・藪様というえらーいお方じゃ。」
「大体予想のついた名前だな。」
「藪様語録にこーいうのがある。『降参せよ。さもなくば我々がする!』 どーじゃ、イエス様の『右頬を打たれたら』にも匹敵する尊い教えじゃろうが。」
「なんか文法を間違えただけのような気もするけど。」
「お前は人の信仰にケチを」
「だから、つけませんってば。」
「こういうのもあるぞ。『私は人と魚が平和に共存できると信ずる。』 何という崇高なお言葉じゃ。」
「ん〜っ、なんかよくわかんないけど、崇高なんですかね。」
「崇高じゃ。」

188ちょちょんまげ:2008/01/16(水) 16:38:35 ID:vUxNW.gI
「ん、じゃぁ、まぁそれはいいとしてですね。その寄付するための条件ってのはなんなんですか。」
「奇跡を見せてくれるのが条件じゃ。わしも95にもなって世のためになることがしたいでな。真の奇跡を見せてくれるような教祖様には全財産寄付しても悔いは無い。」
「じゃぁ、この家とかもあげちゃうって話ですか。」
「わしの家じゃ。文句あるか」
「いやまぁ、それはそうなんですけどね。あのね、おとうさんは年のせいかちょっと正常な判断力を失ってるんですよ。でも家がなくなったらどうするんですか。」
「お前のところに転がり込む。心配するな」
「心配するなって、そんなムチャクチャな」
「ムチャクチャって、年老いた父親の面倒を子供が見るのは当たり前じゃろうが」
「いやまぁ、だから見ないて言ってるわけじゃないんですけど。」
「だからなんの心配もいらん」
「心配ですよ。で、奇跡ってどんなんですか。トリックかなんか見せられて納得させられちゃうだけじゃないんですか。」
「これはすごいぞ。聞いて腰を抜かすな。わしがこの皿を持って、教祖様の目の前で手を離す。するとなんと皿が見る見る下に落ちるんじゃという。そして落ちたら教祖様の奇跡成就じゃ。わしは財産を寄付するぞ。」
「わっ、腰がぬけた」
「抜けるじゃろ」
「抜けますよ、そりゃ。手を離したら落ちるのはあたりまえじゃないですか。奇跡でもなんでもないじゃないですよ。」
「なんでじゃ。奇跡じゃろうが」
「だって、あのですね。この世にはニュートンの法則ってのがあってですね、モノってのは引き合うんですよ。んで、地球ってのは皿に比べてすごいデッカイんで、皿が下に落っこちるです。っていうか、今ここにおとうさんと私が座ってるのだって、ニュートンさんが見つけた万有引力のおかげなんです。」
「で、その万有引力ってのは絶対なのか」
「ん〜、えーっと、あの、絶対じゃないんですけどね。いや、あの、わたしも最近聞きかじってやっとわかってきたんですけど、科学理論ってのは全て仮説で絶対って言っちゃいけないそうなんです。」
「教祖様は絶対落とすと言っておるぞ」
「いやだから、絶対じゃないんですけど、あの〜、なんちゅ〜か、あのつまりですね、絶対じゃないんですけど、ものすご〜く、高い確率なんですよ、モノが落ちるっていうのは。」
「ほれ見い。確率の話じゃろうが。」
「んっ〜とまぁ、そうなんですが、それでもですね、ほとんど絶対って言っていいぐらいなんですよ。」
「ほれ見い。ほとんどじゃろうが。教祖様は掛け値なしの100%だと言っておるぞ。ニュートンより確かじゃろが」
「だからぁ、そういう問題じゃないんですよね。皿ってのは落ちるもんなんです。万有引力があるんですから」
「科学主義」
「へ?」
「お前は科学主義者じゃ」
「いや、あの科学主義ってのはですね」
「お前は教祖様の奇跡に科学の狭い観点から文句をつけちょる。重大なNOMA違反じゃ。ふぉーくぼーるのNOMOじゃないぞ」
「NOMAって、なんでおとうさんがそんな余計なこと知ってるんですか。他のことじゃ半分ボケてるくせに」

で、これからどうなるんでせう。乞ご期待、って不評ならやめますけど。

189地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:01:13 ID:cizMQ0FI
「神は妄想である」はとっくに読了していたけど、こっちに書く字間がとれなかったにゃ。
特に気になったところをつっこんでおきますにゃ。

***********************
第1章
宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである。この聖職者もおそらく、妖精の翼の正確な形と色について専門家を自称する「妖精学者」の意見に従ったことはないはずだ。P31
************************

まずアゴが外れたのがこの箇所。
妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエなのではにゃーのか? 妖精のことについては、まともな者(つまり専門家に対する一定の敬意をもつという市民としての常識を備えた者)なら、妖精については妖精学者の意見に従うだろにゃ。僕はそうするぜ。
妖精に入れ込んじゃった人は、コナン・ドイルをはじめとして結構な数にのぼるらしいにゃ。日本では妖怪にあたるので、日本ならば水木しげる先生以下、妖精(妖怪)をまじめに研究している人はたーくさんいるにゃ。主に民俗学や人類学なんかでは、学会でとりあげられるネタでもあるにゃ。無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、妖精(妖怪)のことは妖精(妖怪)学者がよくわかっているというところは当然のことだにゃ。

ちゅうかさ、ドーキンスのこの論法は、すべての神話研究や民話研究についても「まっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである」と頭ごなしに否定する暴論であることは明らかなんでにゃーの? この論法は自然に実在するものや機構についてのガクモン以外のガクモンすべてを否定する論法なのではにゃーだろうか?

自然科学的な意味で存在しない、神や妖精についての知見とその体系を学問とよぶことを拒否するドーキンスは、人文科学すべての存在意義を否定しているといっていいだろうにゃ。少なくとも、そういう幼稚な論法を振りかざしていることは間違いにゃー。これが自然科学至上主義、悪質な科学主義でなくてなんだというのか?
巻末のほうで、文化的産物に対する敬意は書かれているけれど、それがとってつけたもののように思われてならにゃー。

190地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:01:49 ID:cizMQ0FI
***********************
第2章
宗教史家は、未開部族のアニミズムから、ギリシア、ローマ、北欧神話の神々のような多神教を経て、ユダヤ教及びそこから派生したキリスト教やイスラム教といった一神教にいたる発展過程を認めている。P52

(引用者注;以下の記述は聖人のうけもつ分野や天使の位階についての記述に続くもの)私がカトリックの神話学から受ける印象として、悪趣味な俗悪さというものが必ずどこかにともなうが、主として感じるのは、カトリックの人々がそうした細部をつくりあげる際のあっけらかんとした無頓着さである。まさに厚顔無恥なでっちあげ方なのだ。P57

(引用者注;教皇ヨハネ・パウロ2世が暗殺者に狙撃されて一命をとりとめたときに「聖母の手が弾をそらせてくださった」と教皇がいったことをひきあいにだして)なぜ聖母は、弾が彼にまったく当たらないようにしなかったのだろうという疑問をもたざるをえない。P57

ウェヌス(ヴィーナス)はアフロディーテのもう一つの名にすぎなかったのか。それとも別の愛の女神だったのか? 槌を持つトールはオーディンの顕現なのか。それとも別の神だったのか。誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。こちらを無視するのかという非難を浴びたくはないから、多神教に目を向けてきただけで、このことでもう何も言うつもりはない。以降、簡潔のために、多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神様を単純に「神(God)」と呼ぶことにする。P58
*************************
批判し、否定する対象について無知であることはしばしば問題が大きいということは、多くの人に賛同していただけるでしょうにゃ。先の投稿で、ドーキンスには人文科学を否定しているのではにゃーかと疑義を付したけれども、ドーキンスの人文科学(特に神話学)に対する無知とそこからくる侮蔑がよくわかるところを拾ってみましたにゃ。

まず、P52にある、アニミズム⇒多神教⇒一神教、といった「発展過程」なんてのは、いつの時代の宗教史家がいったことなんだろ? 自然科学においても、ちょっと昔までは、白人が一番発達しているとかいう欧米白人中心主義が幅をきかせていたことはみにゃさまもご存知だろ? ドーキンスだって知らにゃーはずはにゃーだろう。宗教史などという分野が欧米白人中心主義から無縁でいられたはずもにゃーことも、誰だってわかるよね? 少なくとも20世紀中盤以降の宗教史において、アニミズム⇒多神教⇒一神教、といった「発展過程」なんてものは相手にされてにゃーよ。
自分の批判する対象について100年前の欧米白人中心主義に汚染された知識をベースにする馬鹿がここにいるよ、と。

また、進化生物学の優れた啓蒙者であるドーキンスが、自分の専門分野でないとはいえ「発展過程」などという言葉を無思慮に使っていることには本当にがっかりしたにゃ。


教皇暗殺に関するところにゃんが、教皇にとっては、銃弾が当たり、そして助かったというところに深い意味を見いだしたのだということだろうにゃ。弾がまったく当たらなかったよりも、教皇にとっては意味があったということなんでにゃーのか? 体験とその解釈が、それぞれのニンゲンの内的な現実を形成しているということを理解しようともしていにゃーんだろう。

191地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:02:15 ID:cizMQ0FI
つづき

天使の位階を「厚顔無恥なでっちあげ」ってのもおそれいるよにゃー。ここでは紹介する余裕もにゃーし、そもそも僕にまとめる力量もにゃーのだが、天使の位階というのは土俗の神を取り入れて混淆しながら必然的に形成されていったものだにゃ。ある体系の形成過程を知ることなく「でっちあげ」呼ばわりするなんざ、夏の火に飛び込む虫のように第一掲示板に飛び込んでくる進化論否定馬鹿と何が違うんだ?

そこに関連して、さらに、多神教の神々についての「誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。」という態度。
多神教における神々の混淆とか変化とか分離とかいうのは、僕の知る限りもっとも面白いトピックのひとつにゃんな。文献や考古学的資料から神々を同定したりしていくのは、もっとも知的でスリリングな分野の一つだと思うにゃんよ。本も何冊も出ているし、専門の研究者もいるにゃ。しかし、ドーキンスにとっては「誰が気にするものか」
ドーキンスは、例えばAという甲虫とBという甲虫の関係、生態学的にはこういう違いがあり、形態的にはこういう違いがあり、地理的にはこうで、ゲノムはこうで、とかいう比較について「誰が気にするものか」という態度をもつ者が進化論を否定するようなことをいったらどうするのだろう?

それともやはり、「想像上の産物」の研究などは学問と呼ぶに値しにゃーと思ってるんだろうかにゃ?
だとすると、美術や音楽、文学の研究も学問と呼ぶに値しにゃーことになるよにゃ。そして、もし美術や音楽の研究を学問とドーキンスが考えているのなら、単に自分の好みで学問と呼ぶべきものとそうでにゃーものとを区別しているだけだにゃ。
ドーキンスは、「想像上の産物」の研究すべてを侮蔑し否定する科学主義者であるか
あるいは
自分の好みの分野だけを学問とみなす何も考えてにゃーダブスタのウルトラ馬鹿のどっちかでにゃーのか?

さらに、だにゃ
「以降、簡潔のために、多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神様を単純に「神(God)」と呼ぶことにする。」だと?
多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。
どこかの進化論否定馬鹿が、進化論をまるで知らにゃーくせに
「以降、簡潔のために、ダーウィン進化論であろうとラマルキズムだろうと重力進化論だろうとウィルス進化論だろうと今西進化論であろうと、あらゆる進化論を単純に「ダーウィニズム」と呼ぶことにする」といったらドーキンスはどうするんだろう?

以上、ドーキンスは少なくとも神話学系の知について、どうしようもにゃー無知とそれに基づくあからさまな侮蔑があることは明らかだと思われますにゃ。この事実だけで、この本はまじめに取り上げるに値しにゃーだろう。
しかし、もうちょっと続けますにゃ。ドーキンスの論理的な誤謬についても突っ込んでおきたいにゃ。

192AH1:2008/01/17(木) 12:36:55 ID:fKqeZx4M
>ちょちょんまげさん
はっはあ! なるほど、こりゃ困ったオヤジです。
公平に見て薮教祖は単なる詐欺師である可能性が非常に高い・・そうでなくても他人の金を巻き上げるのはマズイんじゃね?と言えそうですが、「本人が大喜びで喜捨したがっている場合」についてはどうすべきでしょうねえ。
第三者であれば、私としては「好きにしな」と言うところですが、父親にされちゃったのは痛い所ですね。
まあ科学的には今の所「それって奇跡だか神の力だかの証拠には全くなってねーじゃん」と言うしかなさそうです。もう一つは「神たるものが現世の財産なんぞほしがるなよ」という所ですが、これも「教団のために使うだけだ」「我々信徒は自発的に喜捨しているのだ」と言われると困るところです。
・・というような事を考えていて、
「薮が本当に神だとしても、神が人格高潔である必然性はない」という事を思い出しました(清貧を頭に置き過ぎてました)。
神の力を振るいつつ、信徒には現世利益を約束してシェアを拡大し、現世の富をガッポリ手に入れる存在・・・ 最悪かも。

193地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:41:20 ID:cizMQ0FI
>ちょちょんまげ

奇跡には希少性が必要条件ではにゃーだろうか?

194カクレクマノミ:2008/01/17(木) 13:52:26 ID:nWqwz./A
>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、

この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。それこそ、多神教の神と一神教の神を一緒にするよりもずっと無理があるように思います。
たとえば、河童伝説はカワウソがモデルになっているのか否か、頭の皿が乾くと死ぬという発想はどこから出てきたか、というのは興味深い問いだと僕も思いますし、ドーキンスもそのような研究を否定はしないでしょう。むしろ、非科学的な考えの基盤を明らかにするものとして歓迎すらするのではないでしょうか。
しかし、河童の頭の皿が乾くとなぜ死ぬのか、その生理学的機序についての研究が仮にあったとしたら、(「空想科学読本」や「ゴジラ生物学序説」的な面白さはあるにしても、)馬鹿げたナンセンスとしか言いようがないと思います。

ドーキンスが否定している宗教研究は後者のようなものだと僕は理解しています。実際、ドーキンスは宗教の起源論に1章を費やしているわけですし。(たぶん地下猫さんにとっては不満足なものなんでしょうけども、少なくともドーキンスがそのような研究に意義を見出しているということを例証するには、その章の存在だけで十分です。)


>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。

定義としてひとまとめにして良いかどうかは、そのときの議論の内容に依存するでしょう。
たとえば、進化の機構論を論じるときにダーウィニズムとラマルキズムをひとまとめにしたらもちろん問題ですが、生物が世代を重ねるにつれて変化していくというアイデアの歴史について考察するときには、どちらも(種の不変論の対義語としての)進化論と呼んでしまってかまわないでしょう。逆に、「存在の連鎖」というアイデアについて考察したいときには、ラマルキズムは創造論と同じ陣営に入り、ダーウィニズムとは別物として扱わなければなりません。

多神教の神々と一神教の神をひとまとめにしてよいかどうかも、議論の内容しだいでしょう。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

195NAN:2008/01/17(木) 16:12:42 ID:???
>河童の頭の皿が乾くとなぜ死ぬのか、その生理学的機序についての研究が仮にあったとしたら、(「空想科学読本」や「ゴジラ生物学序説」的な面白さはあるにしても、)馬鹿げたナンセンスとしか言いようがないと思います。

なんでナンセンスなの?さっぱり理解できん。
作家ちゅうんはそういう「設定」に時には命を掛けるんよ?”フォース”のSF設定は馬鹿げたナンセンスで意味のないこと?
ミフノスキー粒子は?メギドやホイミは?かめはめ波は?

>。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

名前: E-mail(省略可):
>河童の頭の皿が乾くとなぜ死ぬのか、その生理学的機序についての研究が仮にあったとしたら、(「空想科学読本」や「ゴジラ生物学序説」的な面白さはあるにしても、)馬鹿げたナンセンスとしか言いようがないと思います。

なんでナンセンスなの?さっぱり理解できん。
作家ちゅうんはそういう「設定」に時には命を掛けるんよ?”フォース”のSF設定は馬鹿げたナンセンスで意味のないこと?
ミフノスキー粒子は?メギドやホイミは?かめはめ波は?

>。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

なんだドーキンス批判はタブーだったのか(大笑。

196NAN:2008/01/17(木) 16:13:33 ID:???
む?失礼>>195にコピペミスがありました。

197カクレクマノミ:2008/01/17(木) 19:02:21 ID:nWqwz./A
>作家ちゅうんはそういう「設定」に時には命を掛けるんよ?”フォース”のSF設定は馬鹿げたナンセンスで意味のないこと?
>ミフノスキー粒子は?メギドやホイミは?かめはめ波は?

神学者や妖精学者たちの議論は、フィクションの設定考察と同じだと言うことですか?だとしたら、それはドーキンスの立場にかなり近付くことになりますが。
フィクションの設定考察がフィクションの設定考察として有意義で興味深いのは全面的に同意しますが、この世界のありようについての議論としては馬鹿げたナンセンスです。

>なんだドーキンス批判はタブーだったのか(大笑

なんだドーキンス擁護はタブーだったのか(爆笑

「ひとまとめにしちゃってるぞ」という指摘は、「ひとまとめにすることでどのような問題が生じているのか」が明らかにされない限り、批判にはなりません。
これを指摘するのが、どうしてタブー扱いすることになってしまうのか、僕にはまったくわかりません。

それとも、少しでもドーキンスに肯定的なことを書いたら最後、すべての宗教と多様な文化を弾圧し粛清するナチスでスターリンな独裁者で還元主義者で生物学的決定論者で極右でブルジョアジーで人種差別主義で西洋中心主義で科学原理主義で(以下、お好きな罵倒語をご自由に並べてください)ということになってしまうのでしょうか?w

198うに:2008/01/17(木) 21:34:18 ID:mgYBkPpk
>>194(カクレクマノミさん
>>>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、
>この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。

このツッコミは的外れじゃないでしょうか。
>妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエ
が元の文脈です。「Aについて知りたいなら、スタンスはともかくAに詳しい人・専門家に聞く」が、スタンスを問わずひとまとめにすることにはならないでしょう。
アンチにもビリーバーにもUFOの専門家っていると思いますよ。

199NAN:2008/01/18(金) 02:03:39 ID:???
>>197
>神学者や妖精学者たちの議論は、フィクションの設定考察と同じだと言うことですか?だとしたら、それはドーキンスの立場にかなり近付くことになりますが。

ドーキンスは「宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである」と主張しているんでしょ。ここについて私は地下猫氏の>>189
「自然科学的な意味で存在しない、神や妖精についての知見とその体系を学問とよぶことを拒否するドーキンスは、人文科学すべての存在意義を否定しているといっていいだろうにゃ。少なくとも、そういう幼稚な論法を振りかざしていることは間違いにゃー。これが自然科学至上主義、悪質な科学主義でなくてなんだというのか?」
に同意するわけ。

フォースが自然科学として実在するかどうか?それだって「バカげたナンセンス」とは云い切れないでしょ。仮にそれらが実在するのだとしたら、現実世界でどのように振舞うのだろう?という問いかけに対して、さまざまなSFX技術やCG技術が投入されて映像化がされてるんだけど、「その生理学的機序についての研究」が仮にあったらバカげたナンセンスなの?

今は懐かしくなっちまった「バーチャファイター2」というゲームがあるんだけど、このゲームのキャラにアキラってのがいて、こいつの技に「1/60秒のタイミングでシビアにキー入力しないと発生しない」ってのがあった。幻のワザってことでみんなが夢中になったんだけど、無論そんなワザは現実世界に存在しないし、それが自由に繰り出せたとしても現実世界にはなんの影響も(一見すると)ない。ところが当時のゲーム好きはこのワザを出そうと苦心して特訓したり、その他様々なワザが発明されたりそれらをサポートする書籍もたくさんあった。
同じくゲーム「鉄拳」に出てくるキャラ、マーシャル・ロウのモデルは故ブルース・リーで、流派もリーが興したジークンドーなんだけど、この流派はリーが武道としての強さ以外に映画向けの見栄えの良さも追求したもので、現実の格闘家がそれを習得してリングで披露したりしていた。もともとが空想の産物であろうと、それをきちんと研究したり、時には現実世界に表現される「現象」として我々に影響を及ぼす「知の連携」は確かに存在するんだよね。

論点はそれが「フィクションかどうか?」ぢゃないでしょう。ある行為が、自然科学としての実在性に基づくかどうかを基準に「行為としてのナンセンスさ」を論じるのは科学至上主義に間違いない、と私は思うけどね。

>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにしてよいかどうかも、議論の内容しだいでしょう。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

無論、「ひとまとめにしている」と指摘するだけで問題を指摘したことにはならないよね。ところが地下猫氏は「なぜ、ひとまとめにすることが問題になるのか」という条件付けを行ったうえでそれをしているわけ。ところがキミは問題を再びメタレベルに戻している。それはいったいどういう理由なんだい?というのが罵倒に値するのですよ。

仮に万が一、ドーキンスが自然科学以外の知の体系について十分な尊敬と認知を行っているのだとしても、そうしたスタンスとは「真っ向から対立する主張」を繰り返している「ように見える」だけで、件の本が「読むに値しないくだらないバカ本」だってことは十分分かる。ドーキンスの真意について「苦しい解釈」をしなけりゃならないってことがそれを例証しているよね。
ある議論が論理的に正であるか誤であるかを論じるのは極めて簡単なことですよ。しかし「なんらかの知」がフィクションであるかノンフィクションであるか(実在するか妄想であるか)の境界線は極めて曖昧であり、その存在および影響について「馬鹿げたナンセンス」だとか「かかずりあってる暇はない」ってのは単に好み・嗜好の問題だよね。

200カクレクマノミ:2008/01/18(金) 03:23:34 ID:nWqwz./A
案の定、一言でもドーキンスを擁護するとフルボッコだなあw
やっぱりドーキンス擁護はタブーなのかな。

妖精ビリーバーが、妖精について「知っている」とは、いったいどういう意味なのでしょう?それははたして、民俗学者が妖精伝承について「知っている」というのと、果たして同じ意味なのでしょうか?
僕にはこの2つが同義だとはとても思えません。そして、前者は学問的研究とは言いがたいと思います。

「妖精伝承において、妖精には羽があるとされることがある」という言明は、明らかに意味のあるものです。しかし、「妖精に『実際に』羽がある」とは、いったい何を意味する言明なのでしょうか?
僕には全くわかりません。

>ところが地下猫氏は「なぜ、ひとまとめにすることが問題になるのか」という条件付けを行ったうえでそれをしているわけ。

地下猫さんの投稿を読む限りでは、「違うからだめ」としか僕には読み取れません(この点は僕の読解力不足かもしれないので、もしそうなら教えてください)。

201NAN:2008/01/18(金) 03:59:09 ID:???
■ある議論が論理として正しいか誤っているか、を転じて『良いか・悪いか』を論じること。

なんだか結局ここに終始してしまう気がしてきました。自称宗教家が良く使う「真理」という言葉について、私は論理的な「正解」という意味以上の価値を自分の中で持たせないようにしています。ここになにか知識があり、それが「真理」であったとして、それが自身の行為の正当性を補強してくれる、と考えることは大変危険だ、と評価しているからです。

実際に私は、いくつもの矛盾や欺瞞(あるいは誤謬)とめぐり合ってきました。そして、その対処に苦慮をし、満足な結果が得られたと思ったことは、正直云ってありません。
あるひとは、「間違いは悪いことだ」と信じ込んでいました。これは「マチガイ」という日本語の多義性から来る問題と、論理的な誤りの過大評価に基づくものとの合成であったことは明確でした。しかしそれをいくら”彼”に説明しても、論理的誤=悪、という固定観念を取り払う説得ができたとは、私には思えませんでした。さらに悪いことに、私が指摘する「間違いは直せば良いだけで、別に悪いことではない」という主張が理解できないことが、二重に彼のマチガイを指摘してしまったことになり、却って彼を傷つけたかも知れません。それはたとえば「学校のテストで低い点をとることは悪いことである」と、くり返しくり返し刷り込まれてきたことの結果なのだろう、と私は思います。

宗教や信仰について、それらに興味はあるけれど宗教の危険性や欺瞞性を知り、なんらかの包括的な批判を行うべきであることに賛同するけれどその方法論について明確な指針を持てない私(あるいは、私に似たスタンスのひとたち)にとって、少しでも問題の単純化が行えるのだとしたら、たとえばこういうことなのかも知れません。

1:主張の論理的誤について、それを指摘されたり知っているのに認めない態度
2:主張の論理的正誤に基づいて、その人格的評価判断を行う態度
3:不可知である事象について、それを可知の論理であると主張し、なおかつその正しさと行為の正当性を結びつけて主張する態度

上記3点について、私は(たとえばこの掲示板に於いて)良く知っています。また、1と2については注意深く運用すべきであり、場合によってはダブルスタンダードを引き起こし兼ねないポイントであるだろう、とも思います。さらに、3については、要するに「神や死後の世界」という不可知領域から得られたとされる「知」に基づいて、教義の正当性や「聖らかさ」を主張する行為について「考える機会」を与えてくれるだろう、と思います。

それでは、このような論点はどう批評されるべきでしょうか。
4:「知」の実存性に基づいた価値判断
いわゆる科学主義はこれに類するだろう、と思います。その主張がフィクション(想像の産物)であるならば、すなわち無価値(もしくは価値が著しく低い)である、という主張です。この主張は、自然科学の範疇における創造科学に対してでさえ、慎重にならざるを得ないだろう、と私は思っています。創造科学の論理的誤りを指摘するのは簡単だけれども、その価値判断までが論理的正誤によって判断されるのかどうか?という問題です。多くの創造科学論者に対して、私は1に挙げた「論理的誤を認めようとしない態度」に基づいて侮蔑や罵倒を行います。ところが、論理的に誤りであるからと云って、それだけが「悪いモノ、ダメなもの」であることの証明になるのか?について、私はまったく同意できません。

自身の犯す過ちや誤謬についてであれば、これらを考え、過ちを認めて訂正していくことはそれほど難しくありません。しかし、他者のそれについて「なにかを指摘すること」までは一方的に行えるのですが、それが果たして相手(対象者)の「考える機会」となり得ているのかどうか?について、私はさっぱり自信が持てません。また、この点についてあまり深く傾倒すると、他者に対する過干渉にさえなり兼ねないでしょう。

この論点を突き詰めていくと、最終的に辿り着くのはヒトが持つ「根源的自由への言及」なのではないか、と私は思います。「自由という権利」はあくまで律法の中で行使されるものですが、根源的な自由とは、法や倫理とはまったく無関係に行える「すべての可能性」を指しています。ヒトは気分や興味だけで簡単に他者の生命を奪ったりその他の暴力を行使できる、恐ろしく危険なイキモノです。それらを抑制し得るものとは、云うまでもなく「知」であるだろう、と私は思いますが、決して万能ではなく、時には限りなく無力でさえあります。それでは、倫理を守る機会を与えてくれるものとはなんであるのか?もしかしたらそれも盲信の一種ではないのか?そう問われるとき、私には「違う」と結論できる根拠も自信もないのです。

202AH1:2008/01/18(金) 13:34:16 ID:fKqeZx4M
ぶっちゃけ、私がカッパについて知りたければ「自称カッパ学者」に聞きますね。多分。
例えその人がカッパビリーバーだったとしても、古今の「目撃記録」「伝承」なんぞに詳しいだろうから。
ビリーバーさんなら「カッパの系統学」「カッパの生態学」なんぞを独自に展開してくれそうですが、
その辺は聞き流す(笑

別にビリーバーさんでなくても文化人類学・民俗学的に調べている人がいれば十分である・・
むしろそういう人の方が「イッちゃってない」から助かる・・
ということは、言えるかもしれませんが。

203NAN:2008/01/18(金) 21:16:50 ID:???
いや、あのね…ちょっとちょっと待ってね。

1:「想像上の産物であることが確定的である事象」について、それを学問として研究することは、すなわち「バカげたナンセンス(無価値で意味のないこと)」である。

上記を「自然科学の一分野として」と云うなら、そりゃぁ私は同意しますよ?でも学問ってのはなにも自然科学だけじゃないでしょ?ってそれだけのことじゃないのか?カクレクマノミさんの云う「この世界のありよう」ってのは、自然科学の中にすべて含まれなければならないってことかい?ってのが私の疑義なんだよね。定量的・測定可能・実証可能なことだけで「この世界」は成り立たないし、それはたとえば「芸術性」とか「現象学」みたいな分野を侮蔑しかねない主張じゃないのかな。

2:「想像上の産物について、それらが実存するという言明」には意味がない。

ドラッグでラリって絵を描くヤツとか作曲するヤツは多いよね。倫理的にそれがどうかはともかく、そいつらにとっての「事実」をオーディエンスは共有できるわけでしょ。意味ってなに?価値ってなに?ってことだよね。そんなもん「意味があると主張するヤツには間違いなく意味がある」んだよ。これを論理で否定することなんかできるわけないじゃんか!ちなみに貨幣の価値なんてこれと同じだぜ?あんなもんニンゲンが作った最強の「想像上の産物」じゃんか。

204カクレクマノミ:2008/01/19(土) 05:31:39 ID:nWqwz./A
質問:「妖精には実際に羽がある」という主張は、具体的にどのようなことを意味するのですか?
(「意味があるかないか」じゃなくて「何を意味するか」)

答えてください。

205NAN:2008/01/19(土) 11:30:35 ID:???
>質問:「妖精には実際に羽がある」という主張は、具体的にどのようなことを意味するのですか?

その「実際」を体験した者にとって事実であり現実である、という主張だよ。

206ちょちょんまげ:2008/01/19(土) 15:19:31 ID:pnH8DlR.
AH1さんがサラッと書かれた「イッちゃってない」はけっこう重要なポイントのように思えるんだよなぁ。
うまく言えるかるかどうかわからないのですが:

フィクション創作者が作品の世界観の構築や、登場させるフォースなどの小道具の設定に命をかけるのは、あくまでその作品を自分の満足のいくものにするため、ひいてはそれを持って読者なり、観衆なりに楽しんでもらったり、何かを伝えたりするためだと思うんです。(あと自分の楽しみ、ってのは大いにあるでしょうね。)
でも、そこには「この作品はフィクションである」旨の認識が存在すると思うのです。(つまりイッちゃってない。イッちゃったような状態になった方がいい作品が生まれるとか、ってのはまた別の話だと思います。)
それに比べて、例えば「水からの伝言」の提唱者は、フィクションだとも言っていないし、科学だとも言っていないようですが、この人が「水の結晶」や「水が言葉や音楽に反応すること」の「専門家」であるとか認められるのでしょうか。
この人の場合は、おそらく金儲けやらの目的があるでしょうから多分に「確信犯」だと思うのですが、もしマジだとしたら「イッちゃってる」のではないでしょうか。
私はこの人に「水の結晶」について尋ねてみたいとは思いません。変なバイアスかかってそうだし。私よりは「水の結晶」について詳しいことは確実でしょうが。

蛇足ながら、「イッちゃってる」ことが必ずしも「悪いこと」だとは申しておりません。

NANさんに伺いたいのですが、

ある作曲家の音楽をほとんど信仰するがごとく愛している男がいたとして、その男が、その作曲家の作品群は他の作曲家のどの作品よりも
価値が高いことを「論理的」に証明することに命をかけ、ガクモン的に研究し、そして彼なりに証明できたと確信し大論文を書いたとしてください。

この人の仕事を、ガクモンあるいはそれなりに価値のあるものとして認められますか、それとも、「音楽の価値」などというニンゲンの感情的な部分でしか評価できないものを論理的に証明する、などはナンセンスである、とお考えになりますか。

207NAN:2008/01/19(土) 23:55:25 ID:???
う〜む…こぉいう「口語の領域の話」をきちんと書くってのは面倒臭いんだけど(苦笑)、行きがかり上これは私の責任らしいので書きます。
といわけでちょちょんまげさん。

>この人の仕事を、ガクモンあるいはそれなりに価値のあるものとして認められますか、それとも、「音楽の価値」などというニンゲンの感情的な部分でしか評価できないものを論理的に証明する、などはナンセンスである、とお考えになりますか。

オンガクの価値はさまざまな側面を持ちますよ。
1:意識・情動分野に明確に働きかける認知可能な質的な感動(無論、好悪のベクトルがあります)
2:楽譜、CDなどのメディアの売上(オンガク出版)枚数や量的な金額
3:楽譜(スコア)としての合理性や整合性、音楽理論的な革新性や斬新性についての質的な価値
4:その楽曲の演奏に対する観客動員数や二次演奏に関する量的な評価

ほかにもあるかも知れませんが、簡潔に述べるとこんなところでしょうか。
このうち「量的な分野」においてその楽曲が確かに数値を出しているのであれば、その論文は少なくともニンゲン社会というシステムの中で根拠を得ていることになります。しかし世の中には売上や知名度では今ひとつでも、特定分野のファン層(しかもギョーカイの一流とか呼ばれる層)にウケるオンガクなどもあり、そうした事例を根拠に「ガクモンとしてイチバンを証明すること」は難しいと思います。(ていうかオンガクとかは私にとってイチバン!ていう主張だけでそれを否定できる反論はなにもないんだけどね)
これは「オンガクの価値は論理的に証明可能かどうか?」について、できないこともない、という私の回答である、と捉えてください。

しかし、これは比喩が悪いだけで、ちょちょんまげさんの挙げた前半のくだりは的確な指摘だと思います。
疑似科学に基づいた詐欺的(に見える)商売について、私は決してそれを「認める」ことはしないでしょう。しかし、問題は「私が認めるかどうか?」ではないのです。そのような主張や商品を価値あるもの、重要なもの、大事なものとして認めるヒトは数多く存在し、中には他の分野では間違えようのない「科学の専門家」までがそれらに傾倒したり支持していることが問題なのでしょう。ただそれは「大文字ナンがへし折ったストラトキャスターのネック」に100万円払うヒトがいたとして、価値としてどう違うのでしょう。私たちは疑似科学やとんでも商売を批判することに使命感もしくはなんらかの興味を持っているわけですが、それらを「喜んで購入したり傾倒する自由」もヒトにはあり、それを否定することなんかできるわけがない、というのが私の主張です。

比喩をずらずら並べていくとなにがなにの主張に対してのメタファだったのか分からなくなるので、もともとの「妖精」について書きます。
私が「妖精を実際に見た、容姿はこんなであり、羽はこういう風に生えていた」と主張し、絵を描きました。絵は具象ですから明確な視覚情報を第三者と共有できますが、それを検証する方法はありません。するとちょちょんまげさんは「絵は分かったけれど、この実物はどこにいるんだ?」と問います。しかし私は「あなたに証拠を提出することはできないけれど、確かに私は妖精を見たのだ」と主張するでしょう。

この問答は「自然科学のテーブル」に於いて、私の完全なる敗北と云えるでしょう。あるいは、裁判をやっても負けるでしょう。
しかし、それが「計測可能な世界」において夢であれ幻であれ錯覚であれ、確かに私が認識するところの「現実世界」に於いて妖精との対面を体験し、記憶したのであれば、それをどんな方法で否定できるのでしょう?あらゆる科学的根拠を提示してでさえ、それは「正しさの要求・押し付け・強要」にしかならないのではないのでしょうか。また、そうした主張を科学者が科学的方法論に基づいていくら反証したのだとしても、私の主張に「真実」を見出してしまったり、そこまでいかなくとも「なんらかの信憑性」を得てしまう第三者は数多くいるでしょう。つまりそれが「ニンゲン社会である」ということなのだ、と私は思います。

自然科学だとか科学的方法論で否定できるモノは、この世界においてごくわずかです。このスレッドにおいて重要なテーマとして掲げられた「重要な問い」に、科学はほとんどなにも答えられないことを皆さん承知でしたよね。私の配偶者がそのひとである理由を論理的に実証することなどできるでしょうか。

208カクレクマノミ:2008/01/20(日) 04:27:49 ID:nWqwz./A
>その「実際」を体験した者にとって事実であり現実である、という主張だよ。

「とって」という言葉の意味が良くわかりませんが、ある人物の精神的状態についての言明であると理解してよろしいですか?

209名無しさん:2008/01/20(日) 11:09:36 ID:QpQGFxc6
>妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエなのではにゃーのか?(189 地下猫氏)
>ぶっちゃけ、私がカッパについて知りたければ「自称カッパ学者」に聞きますね。多分。(202 AH1氏)

それはそうでしょうね。私もそうすると思います。あくまで空想上の「妖精学」、「カッパ学」として。水木シゲルに期待するのも、その域をでないでしょう。
ドーキンスもそう言った「………学」まで否定したり、攻撃しているものではないと思いますよ。

しかし例えばその「自称カッパ学者」が、カッパは実在するものだと主張し、皿の水が乾くと死ぬメカニズムを「科学的に」証明し、その「事実」を国語の民話としてでなく理科の教科書に掲載することを要求し、カッパの棲息環境を守る為に河川の改修や護岸工事に反対し(川をコンクリートで固めることの是非について、ここでは置いておくとして)、その工事の責任者を殺害したり工事事務所に放火したとしたら………、

アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていることは、事情は違っても概ねこう言ったことではないでしょうか。それもはるかに大掛かりに。

神の実在を主張し、そのなせる業や奇跡を証明しようとし、創造論を教科書に掲載させることを求め、少なくとも進化論と併記させようとし、一部の(でも結構な数の)家庭では子供に学校教育を受けさせることを拒否して自宅で親が「教育」し、人工中絶に反対して医院を焼いたり医師を殺害したり。

ドーキンスが批判しているのは、こう言った「神の実在性とその実際の弊害」に対してだと思います。
神の実在を信じるか信じないかは個人の自由だとして、ドーキンスが強調しているのは「宗教に対する過剰な敬意」への批判であり、その政治的な利用、弊害でしょう。特にその弊害が顕著なアメリカを主に念頭に置いて。

「宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである。」31ページに有るこのフレーズは、アインシュタインの神に付いての態度を吟味する過程で述べられているものですが、わざわざ「学問分野」に傍点が付いています。
私は、神の実在を前提とし、神を通して世界を解釈する、そう言う宗教教義を、「科学的な学問分野」として認める訳にはゆかないと言う、無神論者としてのドーキンスの意思表示として読みましたが。 

「想像上の産物であることが確定的である事象」について(203 NANさん)、想像上の問題として研究すること、聖書を優れた文学的遺産として、神やその御技を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。

無心論者である私には、一つひとつのフレーズは別として、ドーキンスの主張は全体として全く違和感を感じません。宗教の起源やその進化にも、淘汰の理論を強く持ち込んで解釈しようとする点などについては、些か辟易するところも有りましたが。
NOMAに関しても、若し科学が神の実在を示唆するような知見を発見したとして、宗教の側で「それは教導権が違うから」との理由で無視することは絶対無い筈だ、とのドーキンスの主張は痛く納得できるものです。

「神は妄想である」ほど感情的でなく、論理的でシンプルな論調としては「数学者の無神論」の方が抵抗が無いかも知れません。
ttp://www.seidosha.co.jp/index.php?%BF%F4%B3%D8%BC%D4%A4%CE%CC%B5%BF%C0%CF%C0

210:2008/01/20(日) 11:11:25 ID:QpQGFxc6
No-209 の「名無し」は雄です。失礼しました。
続きです。

私は、宗教・神とはフォイエルバッハが喝破したように、「現実世界の裏返しが、観念に反映したもの」だと思っています。
病弱な人が神に祈るのは健康な体でしょうし、貧困で一家心中する人が行こうと願う天国は、お金の心配の無い世界でしょう。

現実世界に精神的な基盤を持つ宗教を、現実世界と切り離して幾ら非難しても宗教をなくすことは出来ないし、思想・信条の自由は守られるべきだとは思います。
同時に同じ理由で無心論者の主張・立場も、無条件で擁護されるべきでしょう。
その辺の基準が特にアメリカなどでは、宗教に過剰な敬意が払われすぎていると、ドーキンスは言っているのでしょうね。

私は宗教に関して、現実の一番の問題は、宗教の政治利用、政教一致だと思っています。
日本でも靖国の問題や、某巨大教団と政党の関係など、多いに議論になるべきだと思っています。
政教分離と言っても現実にイスラム国家などでは大変だ、と言うことは重々承知していますが。

政治利用と言う点で、一神教と多神教では事情が随分異なるんじゃないか、今回「神は妄想である」などを読んでそのことを自分なりに気が付かされました。

一神教の神(或いは教祖様、先生など)は、天国でもその教団内でも権力を一手に握っている訳ですが、地上の為政者がその権威付けに宗教を利用する場合でも、その方が都合が良いのではないかと思う訳です。
日本が宗教的に非常に雑多であり、律儀な信仰者からすれば誠に節度の無いバチ当たりの国民性なのは、仏教にしろ神教にしろ、日本の宗教がおそらく多神教のせいではないかと思っています。

仏教の教祖は本来お釈迦様と言うことだと私は考えますが、日本の寺院で釈迦如来を本尊としているところがどの程度有るだろうか?
多分観音様を本尊としているところが一番多いように、私には感じますが、弥勒菩薩であったり、日光菩薩であったり月光菩薩であったり、或いは地蔵様であったりと。
大仏様もそもそも大きいというだけで何の仏様なのか、私には分かりません。

神教も同じことで、必ずしも天照大神だけが幅を利かせている訳ではなく、様々な神様が、それも古事記などを読む限りでは人間界との境界が非常に曖昧なままおわします。その点ではギリシャ神話と共通性を感じています。
「常陸国風土記」の中で、マタチという人間が、開墾作業を邪魔するヤツの神(蛇)を追い払って、社に封じ込めたという寓話が出て来ますが、こう言ったバチ当たりな話は、一神教では到底考えられないことでしょうね。

多神教においては宗教的な権力が分散している訳で、地上の為政者が権威付けに利用しようとしてもなかなか難しかったのではないか。
逆に地上の権力者によって、特定の「神・仏」に宗教的権威付けがされ難かったのではないかと思っているところです。

392年、ローマ皇帝テオドシウスが、それまで迫害していたキリスト教を国教化したのも、神聖ローマ帝国として自分の権威付けに利用できると踏んだのだろうし、その後の歴史の中で、天上・地上、合い携えて権威の高め合いをして来たのだろうと思います。

宗教的にルーズな国民性で本当に良かったと、私個人は思っているところです。

211NAN:2008/01/20(日) 12:58:28 ID:???
>しかし例えばその「自称カッパ学者」が、カッパは実在するものだと主張し〜

カッパ学者であろうと民意に基づいたことになっているバカ市長が公約した予算消化(天下り先土建屋の売上になる)のための護岸工事であろうと、おかしな事業を批判したり非難することは当たり前でしょう。「なんらかの正当性・権威性」を根拠にありがたくない善意を押し付けること、それがエスカレートして暴力行為に及ぶことが非難されるべきなのは明確です。しかしそれが「○○学に傾倒しているせいだ」となった場合、その一般化が果たして妥当なものであるか否かは別個の問題として議論すべきです。

>アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていることは、事情は違っても概ねこう言ったことではないでしょうか。それもはるかに大掛かりに。

もちろん、そのとおりです。上記の文脈を否定したことはありません。
しかしそうすると、もっともっと広範囲に行われている威力行為に「営利拡大のために」という正当化を行った、様々な企業による乱開発や環境破壊、マイナスイオンをうたい文句にした数々の欺瞞商品が存在しますが、これは「自由経済」を批判すべきでしょうか?「国家・法の名のもとに」行われる暴力行為なんてのも数限りなくありますね。

私が一貫して主張しているのは、批判対象があまりに広範囲である場合、その範囲をもっと限定したり特定したりするという「礼儀」をわきまえないと、必要なもの、大事にすべきものまでが攻撃対象で(たとえ本意であろうとなかろうと)あるかのように見える、だから「メリケンのバカクリ」とか「○○教団」のような対象の特定をするべきだ、ということです。また、アメリカ社会が極度にクリスチャンに遠慮する社会であるなら、アメリカ社会の問題としてそれを扱いなさいよ、ということです。同じく創価学会と公明党だって名指しで批判できる根性のある(癒着のない)メディアがないのが問題なだけで、宗教というガイネンの問題ではないでしょう。

>「想像上の産物であることが確定的である事象」について(203 NANさん)、想像上の問題として研究すること、聖書を優れた文学的遺産として、神やその御技を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。

???誰にも「なにがしかの本を書かなければならない必要性」なんてものはないよ?それは本人の要求でしょう。

ワケの分からない一般化の事例として、我が国には「3ない運動」というのがありました。それは暴走族が社会現象と化した70年代、オートバイを諸悪の根源として一般化し、「乗らない、買わない、免許を取らない」という、さっぱり意味不明なヒステリーを正当化したものでした。(エレキギターなんてのも悪者にされたしね)

おかげで何が起きたか?隠れてバイクに乗るヤツが増え、暴走族は凶暴化し、日本のモータリゼーションはまったく寸断され、無免許でバイクに乗るからたかが一時停止も守れないせいで起きる事故が増えたりしたわけです。

つぅかね、戦争時の人殺しに代表される「平時にはあり得ないことの正当化」を行うすべての事象は批判の対象となり得るわけです。でもそれらをきちんと吟味するのが「面倒臭い」ので、とりあえず宗教でも批判しておこう、だってオレあいつらのせいで色々迷惑蒙ったし、くらいのメッセージしかドーキンスからは受け取れないのです。

212AH1:2008/01/22(火) 17:05:51 ID:fKqeZx4M
カッパ学と「イッちゃってる」について.前提となる私の認識としては「カッパは動物図鑑に出ている生き物のように,客観的かつ確実な記録があるわけではない」ことを前提にしています.もし「いや,俺は見たのだ」と主張される例があったとしても,それは「論文にできない程度の不確かな目撃情報」でしょう.つまり,「カブトガニの専門家」「ティラノサウルス・レックスの専門家」というような,対象をじかに研究した結果を持っている専門家はいない,と考えます.
さて,その上でカッパの色について知りたければ,そのような目撃情報(古いものであれば伝承)を集めるしかないでしょう.
情報の信憑性については,個別に判断するしかないと思います.「イッちゃってない」学者が有り難いのは,「これは**の見間違いかもね」「こうだと言われてるけど,どうかなあ」「これはこの時代のこういう文化的背景に影響されてるね」といった,否定的・客観的な情報を必ず紹介してくれるだろうという点でしょう.
対極に位置する人の場合,見間違い・勘違い・幻覚・妄信などを客観的に排除する努力をしていないかもしれません.全ての情報を出してくれればまだ良いが,恣意的な基準で勝手に取捨選択されている恐れもあります.ここに本人の妄想まで入ってるともはや利用不能.「**カッパは生命であるとの認識が大切です**」などと言いはじめた日には・・・(笑
カッパの実在を信じており,かつ使える情報を提供してくれる人は非常に少ないかもしれませんが,私としては「未知動物学」のようなものを想定しています.例えばネッシーについての目撃情報を全て集めて,その上で実在を真剣に考慮しつつ検討しているような人です.見間違い・イタズラ・伝説などなどがある事を知った上で,なお,いつか客観的な証拠が見つかる事を信じて,現在ある情報から科学的な考察を組み立てるという作業は不可能ではありません(情報不足ゆえに行き詰まると思いますが).
自称「進化の専門家」にもウィルス進化論,クラス進化論,重力進化論,新今西などが含まれている,ということでしょうか.

まあ,ここでドーキンスが言っているのは「そういうのはカッパ学じゃない,民俗学とでも言ってくれ」という意味であり,「カッパ学などと言い出した時点でイッちゃってる」というニュアンスを含めていると思います.しかし,もしそうなら,「カッパは存在しないんだからカッパ学なんてあるわけない,専門家なんているわけないだろ」というのもちょっとフライングじゃね?と思いますね.まあ,売り言葉に買い言葉的なノリはあると思いますけれど.

213ちょちょんまげ:2008/01/23(水) 04:34:17 ID:vUxNW.gI
「イッちゃってる」のケーススタディ

ケース1.錬金術の場合

(錬金術の歴史、手法等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)
「で、私の結論なんですけど、いままでは術師の術前の身のお清めの方法に問題があった、という結論に達しました。正しいお清めの方法はですね、まず風呂桶いっぱいの処女の生き血を」

ケース2.妖精の場合

(妖精の歴史、民俗学的ポジショニング等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)
「え?それで妖精は実際に存在するのですかって?そりゃしますとも。実際、一週間前に近所の幼稚園で2匹ばかり捕獲してきたところです。お見せしましょうか。これはニンゲンの幼児じゃないかって?何を言ってるんですか、あなたには背中の大きな美しい羽が見えないんですか?」

ケース3.カッパの場合

(カッパの歴史、民俗学的ポジショニング等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)

「え?それでカッパは実際に存在するのですかって?いや、あまり大きな声じゃ言えないんですけどね。実は宇宙人なのです。うるとらせぶんに出てきたテペト星人とかうるとらまんえーすの超獣キングカッパーなどは、それと気づいた人たちが人々にこっそりと教えようと」
(ごめん!あんまり面白くない)

ケース4.水からの伝言の場合

(「水伝」にはまってる人。一定方向に強い思想傾向を持つ。最初からあまり拝聴する価値ナシ。)
「で、だれが美しいことばか汚い言葉か決めるかですって。そりゃ、実験者が美しい心を持ち、美しい言葉だたと思っていれば水もわかってくれるんですよ。例えば「日本人」。実に美しい結晶となります。ですが、「○○人」この結晶の醜さを見てやってください。」

で、おぢさんには上記の人たちと「宗教者」の区別があまりつかないのレス。

214NAN:2008/01/23(水) 17:38:48 ID:???
「イッちゃってる」のケーススタディ:NAN編

ケース1.金融・証券マンの場合

(通貨の歴史、自由経済システムの発達、金融機構について講釈する。あまり興味がない)
「で、私の結論としてはですね、御社にこの金融商品をお奨めしたいのです。正しい投資を行えば必ず資産運用に役立ちます。このプランであればかなりの確率で御社に役立てると思うのです」

ケース2.とある会社員の場合

(ほとんど一人で営業のすべてを取り仕切る取締役部長に呼び出される。カリスマだが人格は最低だ)
「あ〜、キミ来月からブラジル行ってくれる?そう、ブラジル。新種のコーヒーがえらく期待できるから権利を全部引っ張ってきて欲しいんよ。え?考えさせてくれ?あ〜、残念だねぇ、ボクのお願いが聞けないなんてねぇ」

ケース3.いかにもエロいカップルの場合

(想像に任せる!)
「で、お前たちってさ、何回イっちゃうとイイわけ?へぇ、アイシテル感じがしてシアワセなの?で、そのシアワセって何回イっちゃうと感じるの?つまりお前たちのシアワセってイっちゃった回数で決まるのね?う〜ん、なにがシアワセかどうかなんてオレにもさっぱり分からないけどね」

ケース4.英雄の場合

(間もなく任務が始まる。でも大丈夫、この上陸作戦にはアノヒトが参加しているのだから)
「彼こそ英雄さ。あの不利な局地戦をひっくり返し、完璧なまでに敵を殲滅したのだから」

で、おぢさんは上記の人たちは全員狂っていると思うのです。
と、それだけでは「んなもん相対的に過ぎんよ」と述べただけなので、もう少し書きます。

215NAN:2008/01/23(水) 17:39:11 ID:???
「信じる」こととは、言い換えると「呑み込むこと」だったり「その味に慣れること」でもあるのではないか?と私は思います。子供がさんざん発するあの「なんで?」を、私たちは年を経るごとに忘れ、「なんで?」をしないことがまるで大人であるかのように錯覚させられ、モノを買うことがシアワセであると思い込んだり、ビールの味を覚えたり、雑誌やテレビで紹介されることに名誉を感じたり、社会の一員であることが当たり前であると慣れてしまうのではないでしょうか。

このスレッドで皆さんの挙げる「宗教者」というプラカードを観察して見ると、その対象は「私たちとなにが違うのだろうか?」と思わざるを得ません。なぜなら、なにかを盲信していたり、自分に対する疑義を見失っているという点で、あらゆるジンルイはおんなじことをしているだけだ、と思うからです。また、これは根拠なく感じることですが「なぜ宗教者に対する見直しはしないのだろう?」とも思います。創造科学論者とか原理主義者とか教条主義に基づく威圧者だとか、「そんなの宗教者と云えるのか?」というダメダメなケースだけを取捨選択している、ということです。

「(一般に云う)仏教」ではなく、「釈迦(ブッダ)の言葉」として伝わるものの中には「信仰を捨てろ」とか「形而上学的領域の断定を知識として認めない」など、非常に合理的かつ科学的である教えが数多くあります。そうでなくても、世界宗教の原点には「偶像の拒否」など、皆さんが「宗教者のステレオタイプとしているモノ」とは、両極で対立するものが数多くあります。それら変化は各宗派が世俗化しスノッブと化し「ポピュラリズムという正当性」を身に付けていく過程において起きるのですが、まったく同じミーム論的現象が私たちの周りにはいくらでもあります。

このような視点に立って、私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。ところがまるで「宗教者というのはこういうおかしなヤツらで悪いことを平気で行う」という視点に立った批判しか見えて来ない。自分たちも十分狂っているのにそれはないんじゃないか?というのが私の主張なのですが、なかなかかみ合いませんね(笑。

「なぜ夕食の買い物をスーパーでするの?」
「どうして毎日仕事に行くの?」
「なぜ私の家族はこのひとたちなの?」
「私はどうやって生きていけばいいの?」

世間一般に云う「普通のひと」は、上記のような疑問を滅多に持たないでしょう。しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。私は間違っているかも知れませんが、もし私の主張が正しいのであれば、批判すべきは宗教でしょうか、それとも宗教の名を語った詐欺師でしょうか?こういうことをきちんと考えることは「不当な宗教の擁護や遠慮」なのでしょうか?私にはそうは思えません。むしろ当然行うべき配慮である、と強く思います。

216diamonds8888x:2008/01/23(水) 21:34:08 ID:4jx.OKmA
 213番ちょちょんまげさんの挙げた例と214番NANさんの挙げた例では違いがあります。213番の例は全て世界の認識についてです。214番の例は全て何らかの行動指針です。行動指針は「こういう行動を選択すれば未来はこうなる」という予測ですから、結果的には正しいことも正しくないこともあり得ます。またどういう行動指針を取るかはまさに当人の価値観と戦略に基づくもので、完全に客観的なものではあり得ません。神頼みもサイコロ振りもありです。また信じる者は救われることも多い世界です。Qチャンみたいに。
 よって私の判断では、213番の人達は通常の常識に照らせば間違ってますが、214番の人達が狂っているかどうかは即断はできません。ケース1の場合だと「正しい投資を行えば必ず資産運用に役立ちます。」というのは一般論としては間違っていません。当の証券マンの進める資産運用方法がうまくいくかどうかは別の話ですが。また絶対に正しい投資というものを誰かが知っているかどうかも別の話ですが。


蛇足) Qチャンて高橋尚子のことだよ。もう忘れている人も多いかも知れないから。

217:2008/01/23(水) 23:07:38 ID:QpQGFxc6
NANさんから、私が言及していない問題にまで踏み込ん問題提起を頂きました。

例えば自称カッパ学者と「バカ市長の公約した予算消化」「おかしな事業」との関係。
或いは、「アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていること」と、「営利拡大の為と正当化をされた企業による乱開発」「マイナスイオンなどの欺瞞商品」「国の名のもとに行われる暴力行為」との関係。等など。

私はあまりそう言った、話しの一般化はしていなかったつもりだったのですが。
ドーキンスが、一部の急進的原理主義者による産科医院放火や、医師の殺害を批判することと、一般的に悪徳医師が批判されるべきだと言うことを混同していないのと同じように。

なお………、
>>神やその御業を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。
>???誰にも「なにがしかの本を書かなければならない必要性」なんてものはないよ?それは本人の要求でしょう。

この辺は言葉のアヤです。……が、誤解が有りましたら訂正しておきます。
→ 「神やその御業を空想物語として『学問』する分には、ドーキンスも特に文句も無かったでしょう。」


私もドーキンスに格別に入れ込んで、「神は妄想だ」を読んだ訳では有りません。
「神は妄想である」にしても「数学者の無神論」にしても、ドーキンスやパウロスが、「神の不在証明」をどのように展開してくれるか、主にそちらに興味が有ってのことです。なかなか難しいんですよね「無いもの」を「無い」と証明するってのは。

私は「無い」と言う無神論の立場で議論に参加していますが、同じ無神論者でも内容が一様でないことは、グールドに対するドーキンスの激しい論調を見ても改めて思い知らされるところです。

と言うことで「NOMA」ですが………、NOMAに関して、私は多いに懐疑的です。

先ず第一に、

この掲示板でも例えば「音楽や絵画への評価・好みの問題」「道徳とか倫理」「どう生きるべきか」など『重要な問い』について、それは科学が口出しできる領域ではない、或いは口出しすべき領域ではないと言うことを、何となく当然の前提として議論がなされているように感じます。
しかし本当にそうだろうか?と言う疑問が私には有ります。科学は関与できないのだろうか?

明日の渋谷の風向きを特定するだけでも、その計算には膨大なパラメータが必要で、今後も不可能かも知れません。しかしそれはあくまでも技術的な制約であり、原理的なものでは無いでしょう(量子論的制約はこの後述べます)。

人の心の問題も同じことだと私には思えるんですよね。自然現象に比べてさえ桁違いのパラメータ(環境や個々人の生まれ、育ち、脳内の状況、人と人との関係等など、etc・エトセトラ)が有って、今後どれ程コンピュータが進化してもその解明は不可能かも知れないが、それは原理的なものではないだろう、って思いが先ず一つ有ります。

全てに渡っての解明には未だ遠く及ばないからといって、それで科学が関与出来ないとは言えないし、現実に心の問題についての科学知見も相当に蓄積されていると思っています。
少なくとも若し何らかの解明が出来るとして、それは宗教でなく、社会科学や心理学、動物行動学、人間行動学、脳科学などを含めた、科学全般が担う筈だという確信が私には有ります。当然進化の理論も含めてです。

「どう生きるべきか」についても、人間の歴史や社会の構造など、人文諸科学がベースになる筈です。地球環境の変化が、人間の生き方や考え方に影響を与えない筈は無いだろうし、「より良く生きる」為に、科学技術や医学の進歩が無関係である訳が無いでしょう。

若し私が「どう生きるべきか」を他人に聞くとしたら、現実の世界から超越した神でなく、自然・社会と日常的に切り結んでいる、現実の生の人間に聞くでしょうね。その人は毎日「科学」している訳ですから。


次に若し探求の結果、原理的にもその解明は不可能だという結論が出たとしたら、その結論とメカニズムも又、多分科学自身の手によって解明される筈で、宗教から引導を渡されるものではないと思っています。自然科学ではそうでしたから。

量子論によって、自然は確率的にしか記述できないという結論が出たとして、それは科学自身の手によるものです。
「無からの宇宙創成とそれ以前」「観測地平とその向こう」「ブラックホールの内側」等など、全て事情は同じことでしょう。
科学によって得られたその知見の上に立って「だから科学には限界があって、その先は神のみぞ知る」などと宗教の側から教導権の説教をされても、私には説得力をまるで感じません。

218:2008/01/23(水) 23:08:42 ID:QpQGFxc6
……と、ここまで書いてきて「NOMAって不可知論、それも(天真爛漫な)ヒューム型不可知論じゃないか」と思うに至りました。
急遽グールド著の「神は科学と両立できるか(原著=Rocks of Ages)」に当たってみました。冒頭の『前口上』16ページに「私は、T・H・ハクスリーが用いた、賢明な意味においての不可知論者である。」と言う告白が有り、又しばしば「ユダヤ人の不可知論者」と自認していたらしい。むべなるかな、と思った次第です。
うーん、グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが。


第二

私が思うに、天上と地上をキチンと区分けすることが出来れば、確かに神と科学の領分が重複することも無いし、NOMA原理も問題なく成り立つんでしょうね。

しかし残念ながら、神(?)もその使徒も、実際には全て地上におわします。有神論者は否定するでしょうが無神論者である私はそう断言し、話しを進めます。
「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、教義と信者の頭の中にしか存在しません。

科学の側は特に天上の世界を必要としません。この現実の世界そのものの中に、存在と連関の有り様を探求する営為です。

そう言う意味でNOMAなどと言ってみても、所詮片手落ちにならざるを得ないと私は思う訳です。科学にとって神のお慈悲を必要とすることは何も無いが、神にとって科学への依存・浸透を免れることは1日たりとも出来ないでしょう。

そう言う舞台裏がバレバレであるにもかかわらず、何でわざわざ科学の側からNOMAなどと、現実世界から超越しているかのごとく神にお墨付きを与えるグールドを、ドーキンスは、「犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとるという芸当を見せている(86P)」と見えたんでしょうね。

言葉のきつさは兎も角として、私もNOMAには、現実からかけ離れた神への「過剰な敬意」美化が含まれると思います。
カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

「重複することの無い教導権」なるものも、単にグールドの頭の中で(議論として)アレコレ想定されている分には特に弊害は無いかも知れませんが、実際に地上の世界に引き下ろして具体的に適用されたとき、(>>213;ちょちょんまげさん)の錬金術や妖精やカッパのような、現実の弊害が表面化するのではないでしょうか。

一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

「重複しない」とは、言葉を変えれば「立ち入るな」と言うことであり「口出し無用」と言うことです。
彼ら(或いは宗教一般)を行政権力で押さえつけることには、思想・信条の自由からも慎重でなければならないと私も思います。しかし彼らの言い分を科学の立場から理論的に批判し、理性ベースで一般国民の頭の中から非科学的妄想を駆逐することは必要でしょう。
その批判を手控えさせ或いは傍観させることに、若し「重複することの無い教導権」的躊躇が働いたとしたら、NOMAの罪は大きいと思います。

マスコミが「霊媒師」なるものの提灯持ちをし、心霊写真だの水子霊だのと騒ぐのはひとえに、雑誌の売上や視聴率の為でしょう。
しかしそう言う非科学的で愚にも付かないことを、女性誌や公共放送が垂れ流すことを躊躇させない要因として、或いは批判されたときの言い訳として、若しNOMA的心理が背景に有るとしたら、それも大きな罪です。
そして私にはそう言うことが絶対にないとは言えない様な気がします。


NANさんがNo-215の最後で仰っているように、全体的には良心的な宗教者が圧倒的なのだと思います。宗教的良心に基づく平和運動、人権擁護運動などに献身されている人も多いでしょう。
宗教は現実の世界にその精神的基盤を持っている訳ですから(私はそう考えています)、世界観の違いは違いとして、一致する行動で連帯すれば良いのだと思っているところです。

219地下に眠るM:2008/01/24(木) 02:12:36 ID:9YM1mm7M
おそくなっておりますにゃー(ぺこり

>>194  カクレクマノミ

>>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、

>この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。それこそ、多神教の神と一神教の神を一緒にするよりもずっと無理があるように思います。

現象学的には同じですにゃ。以下はウィキの「現象学」の記述より引用
>フッサールにおける超越論的現象学(げんしょうがく)は、彼の継承者と批判者とによって展開され続けている哲学の一分野である。世界がすでに「ある」とする態度を棚上げ(エポケー、「判断停止」と訳される)して、そのような信念がどのようにして成立するか、そしてそのような「ある」ものとしての世界は、経験からどのように構成されるのかを探求する。エポケーとは古代ギリシアの哲学者であるピュロンにより初めて用いられた。そこでは物の本性を把握するのは不可能でありそれゆえ「判断を差し控えるべき」であるとされ、現象学に通ずるものがある。

とまあ、衒学的に誤魔化しているように思われてもなんなので以下のカクレクマノミの記述を具体的に批判すると

>>200
>妖精ビリーバーが、妖精について「知っている」とは、いったいどういう意味なのでしょう?それははたして、民俗学者が妖精伝承について「知っている」というのと、果たして同じ意味なのでしょうか?
>僕にはこの2つが同義だとはとても思えません。そして、前者は学問的研究とは言いがたいと思います。

つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?
すると、学問的に価値があるか否かという判断基準は、その学者の信念や世界観に依存するということになるんだけど、カクレクマノミは本当にそういうことをいいたいの? 論文の査読って思想チェックなの?
そもそも、「ビリーバー」の著述やら発言は、「民俗学」にとって無意味なの? 「里の古老(=ビリーバー)」を抜きにして民俗学が成り立つの? あるいは、「ビリーバー」は民俗学者になれにゃーの? どんな信念や世界観をもっていようが、そのガクモンにおける方法論を踏襲している研究は当該ガクモンの研究として成り立つと僕は思っていたんだけど、違うのかにゃ?

これは、ちょちょんまげ とか AH1 にも聞いておきたいところなんだけど、「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

研究者の信念や世界観とその業績を直接的にリンクする発想は、本来は馬鹿宗教の側の発想なのではにゃーのかね?
まあ、科学主義はひとつの「イズム」なので、科学主義の立場においては、研究者の世界観とそのガクモン業績はリンクすることになるだろうにゃ。

自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ。特に 雄 の病状がヒデエ。

220地下に眠るM:2008/01/24(木) 02:13:04 ID:9YM1mm7M
つづき
>>194

>>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。

>定義としてひとまとめにして良いかどうかは、そのときの議論の内容に依存するでしょう。

あのさー
「神は妄想である」において、ドーキンスは一神教を否定しているだけでなく、超越的な思考すべてを否定しているだろ?
つまり、多神教の神々も否定しているわけだよにゃ。

まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね? 宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ? 百年前の宗教史の馬鹿言説を引っ張り出す馬鹿、多神教の神々について「一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない」と無知に開き直る破廉恥野郎が、一神教と多神教をいっしょくたにして批判しているんだぜ?
繰り返し聞くけど、批判対象について明らかに無知であり関心もないと開き直るってのは、批判者としてそもそもどうよ?


ドーキンスの論理的な間違いとか捏造を晒そうと思ってたけど(僕の読んだかぎりでは、グールドに少なくとも捏造はない。また、宗教や人文科学についての明らかな無知や侮蔑はみられなかった)、その前にこんなアタリマエのことをいわなきゃならにゃーとはね。

221地下に眠るM:2008/01/24(木) 03:01:13 ID:9YM1mm7M
ちょっとつれづれと

橋本治が「宗教なんかこわくない!」という著書で
仏教を英語でBuddismとよび、イスラム教をIslamismと呼ぶことは、マルクス主義をMarxismと呼ぶことと同じ。つまり、宗教とはイデオロギーなのだ、といっておりますにゃ。

うんうん
確かに儒教はConfucianismだしにゃ。道教はTaoismで神道はShintoismですにゃ。シャーマニズムとかアニミズムもよく知られた用語にゃんね。
ただし、キリスト教はChristianityにゃんな。まあ、自分たちだけはイデオロギーではない、という態度が逆にイデオロギーであることを証明しているようなものにゃんね。

で、このあとは僕の思いつきなんだけど
ニーチェは「事実などない。あるのは解釈だけだ」といっておりますにゃ。
この言明は基本的には正しいと思うのですにゃ。個々のニンゲンにとっては、事実そのものがあるわけではなく、それぞれの体験があるのであり、体験とは何らかの解釈がなされて意味付けされているものですからにゃ。(意味付けのない体験は記憶されない)
そして、イデオロギーというのはその「解釈」あるいは「意味」を共有する社会集団といえるのではにゃーかな。そして、各々のイデオロギー間についてはそれぞれ対等だとするのが正しい文化相対主義ですよにゃ。
で、宗教とはイデオロギーであり「イズム」のひとつなんだと考えれば、当然ながら無宗教とか無神論もひとつのイデオロギーであり「イズム」であるといえるわけですにゃ。この意味で、無神論と宗教は対等ですにゃ。どっちも世界観にゃんからね。

イスラムを殺しまくるブッシュと、宗教撲滅を望むドーキンスはよく似ているわけだにゃ。


ところで自然科学ちゅうものをニーチェの言明に即して考えてみると、自然科学とはことによると「解釈」以前の「事実」を外化して共有するシステムなのではにゃーだろうか?
カントによると「物自体」は不可知だよにゃ。当然ながら、「事実そのもの」もニンゲンには本来ならば不可知といえますにゃ。しかし、事実の一部を抽象化して記述する方法論を徹底することによって、体験し解釈される前の事実そのものの一部を外在化することが可能になったのではにゃーかと。この外在化された事実の一部のことを「データ」と呼ぶわけにゃんね。

自然科学の方法論によって人類にとって初めて事実の共有が可能になったのかもしれにゃーですね。それまでは、解釈の共有以外はなかったのかもしれにゃー。

222カクレクマノミ:2008/01/24(木) 04:05:04 ID:nWqwz./A
>つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?

すみません、人を単位にして書いてしまったのが、誤解のもととなったようです。
ここで単位にすべきは、人ではなくて個々の言明です。

ここでは、「妖精は存在しない」「魚は存在する」というのを前提として話をします。
「魚には鰭がある」「魚には消化管がない」というのは、明らかに学問的に意味のある主張です。なぜなら、これらの主張は現実の存在と対応しているからです(もちろん、後者は間違った主張ですが)。

では、「妖精には羽がある」と主張したとき、いったいそれは現実世界の何を表しているのでしょう?
(「多くの伝承などにおいて」という枕詞が省略されている場合もあるでしょうが、ここではそうでない場合を考えます。)
妖精はいません。いないものに、羽があったりなかったりするというのは、いったいどういうことでしょうか?存在しないのだから、当然羽を持ってはいないし、持っていなくもないはずです。
(もちろん、民俗学などのデータとして、「このように主張する人がいる」というのは学問的に意義があります。)

妖精はいないにもかかわらず、妖精には本当に羽があるのかないのか議論するのは、はたして学問的行為と呼べるのかどうか、僕は非常に疑問だと思います。

妖精の代わりに空飛ぶスパゲッティモンスター、羽の代わりにミートボールを考えてもらってもかまいません。
スパゲッティモンスターはミートボールを持っているのかどうか議論するのに学問として意味があるとは思えません*。

ドーキンスの考えでは、ほぼ間違いなく神は存在しません(この点に関する異論もあるかもしれませんが、ドーキンスの議論を追いかけるために、仮に受け入れてください)。
では、神学などの分野で、神がどんな性質を持っているかどうか議論するのは、いったい何について議論しているのでしょうか?


>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

>宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ?

そのあたりの問題についてドーキンスの議論はかなり雑だというのは同感です。
ただし僕の能力不足で、その雑さが具体的にどのような齟齬を発生させているのか、指摘することができません。
具体的な問題があるのでしたら、ぜひ教えてください(皮肉でなく)。

ただ、多神教について(あるいはキリスト教以外の宗教について)、ドーキンスは概論としては批判しているにも関わらず、各論としてはろくに取り扱っていないというのは確かだと思います。そしてそのことはかなり問題だというのもまた確かでしょう。
キリスト教以外の宗教について考えるときには、ドーキンスの議論をそのまま使ってしまうのは危険です。(参考になる点は多々あると思いますが)

この点についてドーキンスを弁護するとしたら、多様な宗教をすべて議論し尽くすのは事実上不可能だということが言えます(リストアップだけで「神は妄想である」よりも分厚い本が必要になるでしょうし、必要な労力も現実的な量ではないでしょう。グールドだって、ほとんどキリスト教のことしか書いていないし)
でも、それならば宗教全般を射程に入れているかのように書くのは風呂敷を広げすぎだ、という批判は当たっていると思います。彼は、具体的な議論の対象はキリスト教に限られているということを、もっと強調すべきだったと思います。

223ちょちょんまげ:2008/01/24(木) 15:38:29 ID:vUxNW.gI
>>猫さん

>つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?

おっしゃるとおりだと思います。

ただ、私の上記書き込みの「錬金術」の場合で言うと、彼が錬金術の歴史や科学史における意義、術者の興味深い人間像等について語っている時「ある種の信念を強固に抱いている」かどうかは、事実に即している限り全く問題であるとは思いません。むしろ情熱的でおもしろいかも。
しかし、彼が「具体的に鉄を金に変える方法(錬金術的に)」について語りだしたとしたら、その話を真面目に聞くことに意味があるのかどうかは私には疑問です。

224AH1:2008/01/24(木) 16:49:40 ID:fKqeZx4M
>地下猫氏 

>「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

当然,同意します.最初からそのつもりで書いています.古今のカッパだか妖精だかの情報に精通しており,しかも実在すると信じてる人は存在し得ます.
ちょちょんまげ氏の書いている「ここまでは拝聴する価値あり」と同様と言ってよいかと考えます.

とりいそぎ

225:2008/01/24(木) 17:06:49 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏

地下猫氏と私の間に明らかな見解の違いが有ることは重々承知しています。それでいいのだと思っています。
例えば、私はニーチェは最悪の哲学の一種だと思っていて、どうもこれだけで地下猫氏からすれば病気に見えるかも知れません。
カントについても、その汲むべき内容が多い中で、地下猫氏が話しに出された「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いていると言う認識です。

しかしこれらは私の見解であって、神の実在性云々と同じく、ここで哲学に関して果てしない議論をしようとは思いません。
私の『科学主義』について「病状」を批判されるのも一向に構いません。

ただ一点、事実誤認が有りますので指摘させてもらいます。

>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>特に 雄 の病状がヒデエ。

骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。
と言うより………、ホントに読んでますか?

私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。
カッパを空想上の生き物として、例えば民俗学の範疇で研究すること、そしてそう言う観念がどう言う実在的背景の元で生じて伝播したのか(おそらく深い淵で水遊びする子供達を戒める為じゃないかな?とか)を研究することは多いに意義が有るだろうと思っています。

ただカッパを実在するものとして、自然科学の対象に研究するとしたら、それは違うだろうと言うことです。
カッパの皮膚の色は何色か?、若し緑色だったとしたらそれはキュウリを食っている為か?などと言う「研究成果」は、酒の席でのヨタ話としては受けるかも知れませんが、生物学の研究対象にはならないだろうし、すべきでないと言っているに過ぎません。

神そのものは空想上の産物だが、その精神的基盤は現実世界にあると思っている私は、宗教を研究することで現実社会を理解する、一つの手掛かりになるとも思っています。
聖書など教義の内容を、現実のものとして研究したり、押し付けることは問題だと言っているだけです。
古事記を国語でなく、歴史の教科書に載せようとしたり、創造論を生物進化の理論と並べて生物学の教科書に載せようとしたり、まっ、同じことですな。

ただ実在するかしないか、これもモノ(例えば神)によって見解が激しく異なることも承知しています。この点でも繰り返し「無神論の立場で」と、自分の立ち位置をハッキリさせた上で議論に参加させて貰っています。

なお、私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。時に自然を拷問(実験)に掛けて無理やり真理を白状させるようなこともしながらね。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。
悪しからず。

226AH1:2008/01/24(木) 18:33:22 ID:fKqeZx4M
そもそも「妖精の羽の色」を何故知りたいと思ったのだろう?
妖精は実在し,その色が知りたいと思ったの?
伝承の中で何色とされていたのか知りたかったの?
絵を描くのにそれらしく見える色が知りたかったの?

そもそも,そんな事を本気で問う所からして間違っちょる,というレトリックかしらん?

227ka:2008/01/25(金) 00:33:00 ID:fopTCrCQ
>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
よろしければソースください

228NAN:2008/01/25(金) 00:57:54 ID:???
>>216:diamonds8888xさん
>>よって私の判断では、213番の人達は通常の常識に照らせば間違ってますが、214番の人達が狂っているかどうかは即断はできません。

はい、それが「通常の常識」だろう、と私も思います。冷静に指摘していただいている通り、「狂っているかどうか即断できない」という、それらが狂気である可能性を認めていただければ十分です。

>>217:雄さん
>>私はあまりそう言った、話しの一般化はしていなかったつもりだったのですが。

「宗教」という「あまりに乱暴なひとまとめ」を支持しているでしょう?よって、私も「弊害が出るであろう一般化」でお答えしたんだけど、分からないかな?

>>カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

カッパや妖精は比喩でしょう。
「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
これらが問題とならない「機会」は、それらの「解釈」が自然科学として私たちが既に確立している知識に照らし合わせたとき、著しく現実である可能性が低いと判断された場合に限られるはずです。たとえば創造科学にしたところで、既存の論者の述べる説明があまりに幼稚であることから簡単にバカ扱いできるけれど、まったく新しい、少なくとも論理の筋道だけは通った創造科学の解釈が出てこないとは限らない。そういう言明に対してできることがあるとしたら、断定を行う前に検証する、検証できたにしても「確度の判定」ができるのみであり、絶対否定や肯定なんかできないってのが冷静な態度じゃないのかな。

なお、オッカムの剃刀で普段は切り落とされている領域にある、あってもなくても項として結果に影響を与えないパラメータとしての神については、どんな方法でも否定できない。これは私が「自分は無神論者である」とまったく思わない最大の理由です。

>>一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

永遠リフレインの世界になってきたな(苦笑。
何度でも云うけれど、そういう欺瞞的商行為に無批判であるべきはずがない。ところが、その主旨がが「超越的存在を前提としているから」だとか「宗教的だから」と云うようでは、私たちが「通常の常識」だと思い込んでいるすべての事象(つまり、私たちの生活している文化や文明のすべて)でさえ、それらは「すべて妄想であり狂気の共有ではないのか?」という再反論に晒されることになり、これに確かな証拠を提示して反証することは極めて難しいので、個別の嘘だけを指摘するべきだ、と申し上げているわけです。

自然科学で云う「実在」と、広範囲な学問(あるいは知識全体)で云う実在とではかなり隔たりがあるはずです。あるいは隔たりがなくてはならない。人間の脳は基本的に夢と現実の区別ができない。よって(地下猫氏が指摘するように)外的に知を確保・検証するための方法論として自然科学という道具があるのだけれど、ある個人の体験を自然科学の範疇で事実ではないと実証できるからと云って「現実ではなく空想や妄想、錯覚である」と切り捨てる態度は、批判されるべき科学主義と呼んで差し支えないでしょう。

229NAN:2008/01/25(金) 01:30:12 ID:???
ついでに「妖精議論」について。
>>222などに散見されるけれど、妖精はいない、という証明は自然科学的実在性でしか世界を認識しようとしない「主義」にもとづくものではないでしょうか?しかし私は、先の発言(いや、今までずっと一貫して主張していることだけど)にあるように、誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは「事実なのだろう」と考えます。それが他者にも体験可能、あるいは実測したり検証することが可能な「科学的実在」であるかどうかはその次のステップであろう、と考えます。

これはたとえば「痛い」という知覚にも同じことが云えるのではないか?と私は思います。私のような体中傷だらけの後遺症患いだと往々にしてあることですが、私が感じる「痛い」という知覚は計測不可能です。医師によって、あるいは計器によって、それを「痛覚レベル」として検証したり確認したりすることが極めて難しいので、触診したり薬液をつけたりその他の方法で「患部にアクセス」することによってなんとなく確かめるしか方法がないようです。結局のところ「これくらい痛そうな反応を示すのでよほど悪いのだろう」という、極めて不明瞭な判定しかできないのが現状のようです。(この点については、もっと確度の高い方法があるのかも知れませんが、私の経験の範囲ではこんな雰囲気でした)

このような「症状」を抱える私が各所の医院を訪ねると、その対処は千差万別です。「痛い」という私の主観的主張に基づいて適格な治療指針を探ろうとする医師もいたし、はなから「この損傷でそんなに痛いはずがない」という態度で診察に臨むような医師もいました。極端な話、治療も間違いない、検査の結果も傷みなど出るはずがない、よってこの患者(私)の痛いという主張は一種のヒステリーだろう、みたいな診断さえ「食らった」ことがあります。

しかし、患者の側からすれば確かに痛いのであり、それで困っているからわざわざ病院に出向き、長い診察待ちを経てやっと医師と邂逅しているのです。同様にして、極めて現実的であるけれど、極めて「我々が現実として認識するこの世界」とはかけ離れた「あっちの世界」を確かな現実であると主張するひともいます。彼らは通常、精神障害のあるひと、と診断されるでしょうが、彼らの言明は「空想の産物、妄想、錯覚であるので学問的意味などない」と捨てるべきでしょうか。(同様の指摘は「カールセーガン科学と悪霊を語る」がずっと詳しいし、丁寧だと思います)

「妖精はいない」という言明は「不可知であるはずのモノに対する断定」ではないだろうか?私はそう思うのです。無論、これまでのジンルイの経験において、妖精の存在は実証されていない。また、今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

230:2008/01/26(土) 11:39:55 ID:QpQGFxc6
RE kaさん
>>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
>よろしければソースください

カントの「物自体」は、後に二つに区分けされることになる不可知論のうちの、その一つの主張です。
不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

NANさんからもNo-228で、
>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?

と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。
カッパにしろ妖精にしろ、或いは神やその奇跡にしろ、若し実在すると言うことであれば、そう主張する人が、そしてそれを必要とする人が証明してくれ、俺に見せてくれ、と言うだけのことです。
無いものを「無い」と明確に証明できない(これって実は結構難しい)ことを持って不可知だと言うことになれば、空飛ぶティーポットであろうがスパゲッティモンスターであろうが、カッパ、妖精、座敷わらし、砂かけばばあ、等など、際限が有りません。

NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と言うことでkaさんに「権威あるソース」を提供することは出来ませんが、私の拙い知識の範囲内で、私の哲学的立場に沿った解説で勘弁してください。私の哲学的立場とは、唯物弁証法の立場です。


人間は意識の中に、客観世界を正しく認識しうるか否か?と言う問題に対して、「認識できない」或いは「全ては認識できない」とする哲学的主張を不可知論と言う訳です。大雑把に言えば。

「認識できない」とする代表がイギリスのヒュームです。
ヒュームにあっては世界の認識可能性が全面的に否定されます。意識がその外の何かを正しく反映しているかどうか知りようが無いし、そもそもそう言う何かが意識の外に実在するかどうかさえ、知りようが無いと言うことです。詳細は割愛します。

231:2008/01/26(土) 11:41:40 ID:QpQGFxc6
続きます
「全ては認識できない」とする代表がドイツ古典哲学のカントです。
カントはヒュームと違って、意識の外に何かが存在することは承認され前提されます。
しかし人間が感覚器官などの認識装置を通して知り得るのは現象だけで、その奥に有る客観的実在そのもの、すなわち「物自体」は原理上認識できない、と主張されます。
つまり人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない、と言うことです。
ここでカントは不可知論に陥ります。

「物自体」はカントに於ける、観念論と唯物論と言う、相対立する哲学的傾向の調停・妥協の産物だとも言えます。従って破綻します。

カントの不可知論に対し、先ず観念論の立場から偉大なヘーゲルが反駁します。
ヘーゲルの批判の要旨は次のようなものです。

○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。

○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

例えばリンゴのリンゴたる全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、リンゴの「物自体」と、同じくミカンの全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、ミカンの「物自体」と、その違いはどこに有るのか? 若しどこか違いを見出せるとしたら、それは未だ汲み尽くすべき現象・属性が残っていることであって、カントの言う「物自体」とは言えない。

人間、ナメクジ、水、電子など何でも、そのものをそのものたらしめている、全ての現象・属性を全て汲み尽し、剥ぎ取った後に残る、それぞれの「物自体」の間には何の違いも無い。認識すべきどのような具体的内容も残っていない筈だ。
カントが絶対に認識不可能だとする「物自体」なるものは、ただ存在すると言う抽象的事実以外のどのような意味も持たない。ヘーゲルの主張はこう言うことでしょう。
元々カントに於いては「物自体」が意識の外に存在することは、最初から承認・前提されている訳で、「認識不可能な物自体」と言う彼の主張はますます無意味と言うことになります。

要約するならば、現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない。なんら考慮の対象になるものでは無い、と言うことです。

流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。
どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか。

ヘーゲルのような徹底した観念論者からすれば、カントの中途半端が我慢なら無かったのでしょう。ヘーゲルの批判はカントの主に観念論的部分に向けられます。
その結果、ヘーゲルの批判は唯物論の主張すれすれのものになります。
「ある観念論者が他の観念論者の観念論の基礎を批判するとき、そのことによって勝利するのは常に唯物論である」と言うことです。

232:2008/01/26(土) 11:42:09 ID:QpQGFxc6
唯物論の側からヘーゲルに付け加えることは、一つしか有りません。それは「実践」です。
現象や性質を理解するだけでなく、若し人間が、物そのものを作ることが出来たら、カントの言う「物自体」に到達することになる。後に認識不可能な「物自体」などどこにも残らない。と言うことです。

唯物論からの不可知論への批判は、ヒューム型不可知論を含め、主にエンゲルスの仕事です。
エンゲルスはアリザリンと言う染料を例に出して、「物自体」を批判しています。
この染料はかって、あかね草という植物の根からしか取れなかったのですが、有機化学の発達によってアリザリンの分子構造が分かり、その認識に基づいてコールタールなど、安い原料から大量に作ることが出来るようになりました。

この時、アリザリンという物質に、人間が認識できる現象と認識不可能とされるアリザリン自体が有る、などと言う主張は無意味になります。
コールタールから作り出したアリザリンは、あかね草の根から取ったアリザリンと全く同じものです。それを作り出したとき、人間にとって原理的に到達できないアリザリン自体が未だ残っているなどと言う主張は、もう成り立たないでしょう。

昆布のうまみがグルタミン酸ナトリウムと言う物質であることを突き止め、大豆や小麦粉など、安い原料から同じものを作るシステムを構築し、「味の素」として製品化した鈴木三郎助は、グルタミン酸ナトリウム自体に到達できた人間だと言えるでしょう。
後にグルタミン酸ナトリウムの「物自体」などと言うものは残っていません。

エンゲルスの時代と比較して、格段に進歩している現代の有機化学工業は、日々カントの「物自体」への反証になっていると思います。

なお、No-218で私は、NOMAがヒューム型不可知論じゃないか、と書きました。間違っていましたね。
明らかにカント型不可知論でした。訂正します。

233地下に眠るM:2008/01/26(土) 13:38:41 ID:z58pW4fo
ドーキンスの著書の批判的読解はもちろん続けるとして、参加者のみにゃさまに質問。
(ちゅうか、以下の質問はドーキンスの誤謬に直接に関連している)

1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?

3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

234NAN:2008/01/26(土) 23:05:35 ID:???
私は哲学というものに素養がなく、知識が乏しい。だから、それぞれの論者による「ここに書いてある内容」だけを読んで、図々しくも自分の考えを書いてみようと思うのだけど、よく考えると哲学論に突っ込んで論じているのは二人だけなので、まぁいいか!とか思います(笑。

さて、不可知論とか不可知性について、がテーマということでよろしいでしょうか。
>>230で雄さんは
>NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と、批判をしてくださいましたが、私は「事実」だとか「実在」と云うときに、自然科学的な事実と一般(文化)論で云う「実在」との両方を併せて述べています。この二つはきちんと峻別するべきであり、そうしないと科学議論は成り立たなくなるでしょうから。
では私の立場とはどんな立場か?それは「あるひとの体験を第三者が否定することはできない」というものであり、「あるひとの体験は科学的証明でしか客観的な知識とはなり得ない」という、もうひとつの立場となかば対立しながら私の中では矛盾なく存在しています。
つまり「妖精を見た」と主張する誰かと私が会ったときには「このひとは確かに妖精を見たのだろう」と考えますが、一方で「しかしその妖精を私が見ることは極めて難しいか不可能で、科学的な実証も同じことだろう」と考えるのです。つまり私に云えることとは「私には妖精が見えない」ということであり、もうひとつ踏み込んで「科学的方法論でも妖精の実在証明は難しいだろう」ということです。しかしどう足掻いたところで「あなたが妖精を見たという主張は嘘だ」と断定することはできません。(無論、その他の発言に矛盾やデタラメが混在しているようだと、主張の信憑性は、そのひとの主観であることを念頭に置いてでさえかなり乏しいものになるのだけれど)

それでは「不可知論」というテーマに於いて、私はどんなスタンスでいるのでしょう。カントがどうしたとかいう話は、残念ながら私は無知なのでさっぱり分かりません。しかし「ヒトが不可知であるはずのもの」についてであれば、かなり明確にお答えすることができると思います。
「物自体」というここでの説明を読んで、私は(この議論に於いては批判対象になってしまった)かのドーキンスの「盲目の時計職人」の中で、私たち地球上の生物が、壁や鉄の板を「硬くて通り抜けられないもの」と認識している、その知覚の適応についての議論を思い浮かべました。

235NAN:2008/01/26(土) 23:06:04 ID:???
もしもカントという哲学者が「人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない」と述べたのであれば、それは科学的に見ても正しいのではないか?私はそう思います。また、私が述べる「物自体」とは電子や原子格子だったりクォークだったり、極論すると「場」そのものであるような、時空そのものを指しています。私たちはその本質を知覚できないことから、現象を体験するのであり、認識します。そもそも私たちが「モノ」と知覚するすべての物質が、実は時空の振る舞いであることなど、いったいどうやって知覚すれば良いのでしょう。

まぁしかし、雄さんの議論を見ていると「現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない」というカントへの反論もあるようです。なんだか先に挙げた「物自体」の定義(概念?)とは飛躍しているようですが、私たちがいる「世界」とは現象そのものなのですから、これがなにを批判しなにを意味しているのかが私には分かりません。(そう、モノもなにもすべて現象だろう、ということならこの批判は正しいけれど、なにをもって現実と定義しているのかが分からない)

ちなみに物質の属性として最後に残るものとは、ブラックホールの属性そのものである「質量・電荷・スピン」ですね。ホーキングら宇宙論学者たちの議論によると、ブラックホールの内部(つまり事象の地平面の向こう側)に「落ちた」物質も、それらの属性だけはブラックホールが消滅するまで残り続けるとのことですが、事象の地平の向こう側に「なにか」があると云う言明はなにを意味するのでしょう。さらに困ったことに、ブラックホールは物質を吸い込むばかりでなく、えらい勢いで吐き出すことも量子論の予測することとなり、近年の観測でそれが確かめられたようです。私たちの知覚からすると、恐らくブラックホールは「ある」ということですが、事象の地平の内部は「現実世界」でしょうか?これこそ、云うなれば「現象から切り離されたモノ自体」の顕現のひとつではないか?と私は思います。

同様にして、量子論におけるエヴェレットの多世界解釈を引っ張り出すと、私たちの世界は常に確率論的な「重ね合わせ」であり、ある二つの結果を持つ事象があるならば、その結果の発生と同時に二つの世界は切り離されたことになりますが、その切り離された世界は私たちに知覚することは不可能であり、不可知であることは明確です。大統一理論や超重力理論、膜宇宙論などが展開されるn次元宇宙でさえ、数学的には実証されているようですが、これを私たちが「知覚する」ことは可能でしょうか?

最近の私が思うことですが、ある物質を見て、これはボーズ粒子であるとかフェルミ粒子であるとかという「知覚」も、結局のところ情報に過ぎなくて物質の本質でもなんでもないのではないか?かつてのクォーク発見競争がそうであったように、いつまで経っても私たちジンルイは「物自体」になど辿り着けないのではないか?それは哲学などというややこしい理屈をこねるまでもなく「あって当然の疑問である」と私は思います。

236NAN:2008/01/26(土) 23:15:30 ID:???
あと、クイズもあったね(笑。

>1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?→存在しない。


>2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?→学問と呼ぶに値する
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?→これは判断保留

>3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

どっちにしろ「価値」の話なので、最終的にはポピュラリズムに委ねられる、と私は思う。
ちなみに私個人の判断においては、自然科学における実在性の否定は、それら観念の価値の否定にはまったく繋がらない、と思う。

237地下に眠るM:2008/01/27(日) 01:43:36 ID:XBKwcxm2
ありゃ、NANに答えてもらって質問の不備を発見したにゃ。
答えてもらったNANにはすんごく申し訳にゃーのだが、書き直すにゃ。


1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 A)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していることを前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 C)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していること前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 D)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?


3)以上の質問における「愛」を、
 A)「妖精」と置き換えてみた場合はどうか?
 B)「キリスト教の教義」と置き換えてみた場合はどうか? 
 C)「ある特定の妄想」と置き換えてみた場合はどうか?



僕の答えも書いておきますにゃ。要は「存在」とは多階層にわたったものだといいたいだけなんで。

1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない

2)A)自然科学としては成り立たない。人文・社会科学としてはまあ異端の学派であろうが、当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
  B)正統的な人文・社会科学といえる。
  C)純然たる「と」自然科学
  D)意味の通じないたわごと。社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」し、人文科学的な意味では狂人の私的な妄想すら「存在している」。自然科学的に存在しないものは自然科学の対象にならないように、社会科学・人文科学的に存在しないものは社会科学・人文科学の対象にならない。

3)A〜Cすべてにおいて基本的には「愛」の場合と同じ。妄想の共有の度合いが違うので差異はあるんだけど、めんどいので突っ込まない。

問題は 2)A)の立場なんだけど、これを簡単に切り捨てるのはやっぱり科学主義なんでにゃーの? この立場が学問的貢献をなしえにゃーという理由はどこにもにゃーんだよな。この立場にいる天才的学者っているぜ。W.ライヒはオルゴン・エネルギーの自然科学的実在を信じていた「と」だけど、その著書である「ファシズムと大衆心理」は紛れもにゃー名著だったりね。確かに自然科学に対して侵犯しやすい困ったヒトタチだけど、だからといってそれが人文・社会科学としてダメだということにはならにゃー。

238ka:2008/01/27(日) 03:08:15 ID:fopTCrCQ
雄様知らないこともあったのでとても勉強になりましたご丁寧なご返答ありがとうございました。
今度ヘーゲルの本を読んでみようと思います。
それではROMにもどります。

239NAN:2008/01/27(日) 05:40:30 ID:???
ちょっとこの問題は重要な気がするので、徹夜作業の途中で書き込み…。
(部分的に雄氏にレスしているけれど、全体としては私の雑感)

>>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
>と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。

ん〜…事象の地平の内面について、すべて分かる(不可知などない)という言明は科学的なのだろうか?事象の地平を越えたモノは原理的に不可知ではないのか?あるいは「虚数時間」という数学的モデルとして「実証された世界」について、私たちは「知覚している」と明言できるのだろうか?
事象の地平の内面についての考察はホーキングが行ったEPR粒子(相関)による思考実験で「事象の地平のこっちとあっちに粒子のペアが分かれた場合、こっち側の粒子の状態が確定すれば、あっち側の状態も確定し、事象の地平の向こう側から『情報をサルベージできる』」というものがあるけれど、ホーキング自身が「だからといってブラックホールの中身がすべて分かる」と述べているわけではない(決定論の領域が少し増える)ことなども考慮すべき、と私は思うのだけれど。(さらにもちろん、そういう実験がジンルイにとって可能な実験なのかどうか?という技術的障壁も考慮すべき)

それと、上記のような「私の疑問」とは別個に「不可知であるモノを仮定した問いかけ」に対して「私は不可知論的立場はとらない」と返答することに「科学の側に立った考え」におけるなにかを示唆しているのか?そもそもダークマターなどという、宇宙に於いては圧倒的多量と予測されている「はず」のなにかさえ(現時点では)観測できないジンルイの科学において「不可知であるモノの仮定」を認めないことは、ただの思考停止か知の領域を広げることの拒否にしかならないのではないのか?

つまり「不可知であるモノを仮定すること」は、西洋哲学の流儀で云うと「それは分からないとあらかじめ決めてあることなので考えるだけ無駄だ」という思考停止に映るのだろうか?だとしたら、私の主張に対する反論の「動機」も理解できかけてくる。そう、私はこの問題を正逆に捉えていたんだよね。もちろん私は「不可知領域(面積)の絶対性」を肯定しない。「不可知である領域はいつまでも残る」と云っているだけ。
(還元主義の観点から云って、さっぱり還元してない>>232なんてのは少しも説得力がないし)
(ちなみに「物自体を作る」というのはエネルギー保存則に重大な亀裂を生じさせることになるのではないか?まさか化学物質を合成する程度のこととか、放射性物質の崩壊や核融合程度で「モノを作った」なんて認識じゃないよね?そりゃバカだぞ)

科学者でもなんでもない私が恐れ多くも勝手に標榜している「科学的な考え方」として、『今現在分からないことであっても、将来的には分かるようになる可能性が高いだろうね。それでもやっぱり、ヒトがすべてを知ることはできないだろうね…だって、すべてを知ったと判断したのと同時に知の拡大も停止するのだからね』というものがあります。また、この立場が「不可知論」というレッテルを貼られるべきものなのか、あるいは唯物論というレッテルを貼られるべきものなのか、私には分かりません。というかそもそも私は哲学に疎いし、そんなレッテルを知っていようがいまいが、これらの問題について私なりに考えることができるのでそれで十分だ、と思っているのです。

240NAN:2008/01/27(日) 05:41:20 ID:???
さて、次の問題。「カッパの生理学的研究」に果たして自然科学的な学問上の意味はないのか?少なくとも、さまざまな伝承や絵画をもとにして、カッパの実在を仮定した、まさしく科学的なモデルを構築することは可能だよね。その結果、現時点では「カッパと呼ばれている伝承上の生物は、その伝承どおりの形態で実在することはあり得ない」という結論を下すことができるかも知れない。それだって十分に意味のあることなんじゃないのかな?カッパの自然科学的実在を主張する誰かは、この結論を受け容れなくてはいけないけれど、カッパを「未知の生物」と置き換えれば、その生理学的な研究に意味がないなんて誰も云えないはずなのだけど、そもそもカッパの生理学的研究に意味がないという主張の思考停止加減のほうに私はうんざりしてしまう。(それともカッパや妖精が具象であるからダメなのか?それは想像力欠陥ではないのか?)

私に反論する多くのヒトの傾向は「自然科学的結論を無視して実在性を主張すること」についての主張だと思う。しかし私は、そんなことを肯定していない。それよりも「現存する伝承だけで、カッパについての言及のすべてが出揃ったと考えることは妥当なのか?」だとか「伝承とは違うかも知れないが、カッパとしか名付けようのない未知の生物がいる可能性は否定できるのか?」ということを危惧しているんだよね。

上記と同様の、あるいは類似した宗教への批判はあからさまに的外れだ、と私は思う。霊感商法やインチキ予言が「金になる」というのは、そもそも迷信を信じやすいジンルイブンカの体質上の欠陥であって、それはたとえば「家族」だとか「ムラ社会」だとか「国家」というレベルでヒトの文化的体質を批判しなければならないだろう、と私は思う。無論、その中には宗教だって含まれるけれど、それらの欺瞞が「宗教の属性である」という認識は対立を生むばっかりでなんの解決にもならないのではないか?というのが私の疑義だってことは何度も書いた。(だって、新しいから、という理由だけでモノを買うことだって同じだろう?)

神が自然科学的な意味で実在する、と主張するのであれば、それはあからさまに間違っているか、かなり特殊な(自然科学的に云えば、ただのヒトであることを認めた)主張であろう、と私は思う。しかしなぜ、そんなバカな主張について何度も確かめなければならないのか?ことは聖書の記述だけではない。神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?しかし「実在」とは、自然科学的な意味でだけ流通しているガイネンではない。言うなれば、言語あるいは数式で記述可能な「あらゆるすべて」が、私たちの周りに実在し、存在し、明確に影響を与えている。実在とか事実というガイネンが自然科学「だけに」許された表現であると、世界的なコンセンサスでも得られているのだろうか?

誰かが神を見たと主張する。無論、その主張は自然科学的な意味で肯定されない。しかし、それでなにか解決するのか?問題は、私たちジンルイが幻覚や妄想を(生理学的にも)現実世界と区別できないということなのではないのか?懸命になって、それは客観的事実ではないと証明することなんか必要なくて、単に「あなたには見えるし現実なんだろうが、私にはそうじゃない」で十分ではないのか。私が主張しているのは「超越存在を自然科学的な実在として扱え」という主旨ではない。ぶっちゃけ、この議論において自然科学的実在などどうでもいいとさえ思うほどだ。

批判の対象となるのは、そうした「超越存在への信用」に基づいて、他者に対してなんらかの侵害が成されるとき、だろう。しかしそれさえも、実は「規則だからと云う理由だけで貧困老人から生存権利を奪う行為」とか「軍人だからという理由だけで他者の命を奪う行為」と、狂気というモノサシでどれくらいの違いがあるのか、私にはよく分からない。増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、バイクを禁止すれば事故が減るという短絡ヒステリーとなんの違いがあるというのだろう?お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、そういうイキモノであることが明確なのだから。

241ちょちょんまげ:2008/01/27(日) 16:07:30 ID:vUxNW.gI
>猫さん

ご質問の件。
猫さんとほとんど同意見です。
2)A)については、内容次第かなぁと思います。

>当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。
まさにおっしゃる通りで、この段階で切り捨てる理由など無いと思います。

>ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
ここなんですよね。ここで「愛」の自然科学的な存在の証明とか、「愛」の物質的な組成とか、「愛」とはニンゲンとニンゲンが引き合う「力」のことで「愛波動」が脳から出てるだとか、脳と脳の間で「愛中間子」のやりとりがあって等々と始まると「と」になっちゃうんだと思います。

242ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:30:53 ID:vUxNW.gI
おぢさんは怒った。
うちのガキが小学校で「The Pledge of Allegiance」なるものを斉唱させられているのら。毎朝。
話には聞いていたけど1〜2年生の時はガキがあんまし言わなかったから気にしてなかったのら。まぬけな話なのら。
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.なのら。
「one Nation under God」なのら。それも気に入らないけど、布っきれ(象徴なのはわかってるのら!)に忠誠を誓わされるのも全身に鳥肌が立つほど嫌いなのら。何に忠誠を誓うなどは誰かに強制されることではないのら。自分で決めるのら。うんこでもおしっこでも自分の決めたものならなんでもいいのら。(でも出来るだけ合理的に決めてね。)
おぢさんの怒りは当初、当該小学校のみに向けられていたのだが徐々にメリケンに対する怒り、ついには全世界に対する怒りに拡大され、凶暴な気持ちになって、「全人類の全文化をろーらーで踏み潰してでも、うちのガキにこれを言わせるのだけは勘弁してくで!」と、自暴自棄になっているのら。
「どいつもこいつもバカばかり」とおぢさんは見るもの聞くものをかたっぱしから痛罵しはじめたのである。(ウチん中で)
(以上東海林さだおさんの完全パクリでひた。)

243ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:35:39 ID:vUxNW.gI
ちゅうわけで、気分をすっかり切り替えて>NANさん(べつに怒りがNANさんに向いてるわけではないよ。)
レスあっちゃこっちゃ前後しますがご勘弁を。

>神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?
Wikiその他ネット上のソースによりますと、全世界の信仰者の数は:
キリスト教系:19億〜20億
イスラム教系:11億〜13億
ヒンドゥー教系:7.5億〜9億
仏教系:3億5,000〜6,000万

上記のトータルだけでも41億〜45.6億人が信仰者だということになります。
全世界人口が推計で66億人(Wikiによります。)だそうですから、上記だけで実に全世界人口の62%〜69%!
私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。(結果的に、現在自然科学的な意味で存在しているものの行動や思想に影響を及ぼす。)」と主張する人なりグループなりは、この中で相当な割合を占めていると思います。
(特にイスラムに多いのではないか。)

>しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、
>そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。

>宗教を受け容れる「とても強い理由」とは、貧困や差別、さまざまな障害や精神的薄弱性、さまざまな挫折や屈折、歪んだ愛情や倒錯、
>さらに強い母性や父性、もしくは科学的探究心や真理への渇望など、とても多岐にわたるだろう、と思います。

上に掲げた信じられないような数(私からすれば)の信仰者のうち多くは、NANさんの上記のケースに当てはまらないと思います。
両親を含む周囲、国家まるごとなどが信仰者の集団であった場合、「なんの疑いもいだかず」周囲同様になることは極めて自然なことではないでしょうか。(このあたりはドーキンスが強く批判するところでもあります。)
つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

続きます。

244ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:38:04 ID:vUxNW.gI
>増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、(以下略)

>お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?
>いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、
>そういうイキモノであることが明確なのだから。

信仰者の多くが「刷り込み」によって誕生することが事実であるとすれば、その中に社会的な抑圧により「信仰者」であることを多かれ少なかれ強制されている人が数多くいると思います。
また、その中には頭や心の中に大きな「?」を抱えながら生きている人たちも沢山いると思うのです。疑問を抱きつつも情報が届いてないケースも多いでしょう。
私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。
もし、現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。
また、かって幅を利かせていた「盲信されていたことや盲信を強制されていたこと」の「非合理性」、「根拠薄弱性」に人々が気づき、その「盲信されていたこと」の社会的な影響力が少なくなったり、その「盲信されていたこと」をいまだ信じている人たちの肩身が狭くなった例というのも歴史的に少なくはない、と思うのですが。

例:神風(うちの親父は吹く!と固く信じていたそうです。少なくとも、彼の周囲は同様であったとのこと。)、 優生思想、ルイセンコ学説、聖書の逐語解釈、等

>私は「宗教」が特に尊敬や遠慮を要求しているとは思いません。それは「宗教コンプレックス」ではないでしょうか。

少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

更につづきます。

245ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:38:45 ID:vUxNW.gI
>しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

>私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。
>理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。

「宗教」という一般化が容易でないこと、安易にすべきではない事などは、この掲示板の猫さんやリリスさん、そしてNANさんのご意見を拝読して私なりにも多くを学ばせていただきました。
しかし、「全ての主張は等価である」というある意味無敵の理論を振りかざされたら、個別にさえ批判することは不可能なのではないでしょうか。
メリケンのバカクリに対しても、NANさんが批判の投稿をなさった「カルト」に対しても。
また、「旧約」には暴力を是とするような記述がありますし、イスラムは異教徒に対し極めて不寛容=暴力的であると思います。(国家、宗派による温度差はありますが。)
それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

>そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。
>それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、

この部分、私は一時全面同意だったのですが、今回の息子の「The Pledge of Allegiance」の一件で少々考えが変わりました。
「宗教が権力者の道具の一つ」であることは全くその通りなのですが、それにプラス「権力者がマジでビリーバーである」という鬼に金棒みたいなケースも多いのではないかということに気づきました。(遅いっ、て)
例えばぶっしゅはそうなのではないか。周囲の優秀な連中は計算づくで宗教を道具として使おうとしてるのかも知れませんが、ぶっしゅは危ないかも。
それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。
また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか(それまで「創造科学者」との法廷での対決等、グールドは米国の権力からにらまれるようなことをやっていますから、周囲からの風当たりは強かったのではないか)、やはり「本音」は別のところにあったのではないか、そしてそのあたりをして、ドーキンスが「仲間」の一人として、(猫さんがおっしゃるような)より「厳しい目」で批判をしているのではないかと。
この辺は私の推測ですから当たっているかどうかはなんともわかりません。証拠のようなものもあることはあるのですが、それが書いてある本を、いま人に貸してしまっているので引用不可なのが残念です。

246AH1:2008/01/28(月) 11:49:43 ID:fKqeZx4M
1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?
 脳の機能として「『愛情を感じている』に相当する状態・機構」は存在するだろう
 「これが愛」として取りだせるような存在ではないだろう

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 ここでは「取りだせるような愛」が存在しないという意味だとして,

 A)ありえなくはないが,学問と呼びうる誠実な物になるかどうかは本人の態度によるだろう
 B)ごく普通に,心理学も文学もこれだろう
 C)裏返しの超・科学主義なのではないだろうか.存在したら現実との接点を持たない単なる妄想になると思う.
 D)これも超・科学主義的かつ極度なニヒリズムになるような気がする.どんなに否定したところで「愛と呼ばれて来たところのもの」は存在しちゃう筈だし.どっちにせよ現実を説明できるものではないんじゃないか.

247NAN:2008/01/28(月) 16:04:03 ID:???
>>243>>245
>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

あのぉ…私の指摘への反論ですか、それ?「とにかく存在する」ってのは「神を認める宗教」のテーゼなんだから当たり前でしょ…。

>つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

これもね、国家社会が「刷り込み」を行うってのは代表例なので書かなかったんだけど「強い理由のひとつ」です。無論それは政教分離への批判に繋がるけれど、政治と宗教を混同するのは権利者の「獲得利益」のひとつだよね。

>私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。

確かに、無駄、というのは勇み足だったと思います。あまり有効には見えないけれど、そういう方法論もあるだろう、くらいに訂正します。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

248NAN:2008/01/28(月) 16:04:23 ID:???
>それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

可能ですよ。その主張が相手に受け容れられるかどうか?はともかく、なにに対しても批判は可能です。また、この掲示板がそうであるように、議論を取り巻く「ジャッジ」にも、主張は届くでしょう。
私はさんざん「宗教一般への批判と見受けられる文節」に対して、宗教一般を擁護する視点から反論を続けているけれど、私には「不十分で有効性が感じられない批判」であっても、その主張そのものを禁止しようだとか排除しようなんて意図はありません。イスラム原理主義者とどのような対話が可能なのか私には今のところ分からないけれど、それは「批判の正当性」というよりも「政治の世界」になりそうですね。

>それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。

いやだからね…宗教的動機を持つのは「個人」でしょ。自己正当化のための道具として宗教との同一化を図るってのが宗教的動機だと思うけれど、それはニンゲンの性質なんだよ。宗教的規範も行政による立法も同じこと。「正しいヒト」たらんとする性質に適応しているのだろうね。宗教「だけが」規範への強い同一化を求めるだとか、教義に基づいた統制を求めるというなら話は別だけれど。

>また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか

読み直して見れば明確なのですが、私は「NOMA原理」なるものについて、今初めて言及しています。
そもそも私はNOMA原理なるものをよく知りません。あまり興味もないし、さして重要なことであるとも考えていません。NOMA原理などというチンプンカンプンな原理があろうがなかろうが、宗教と科学を両立させている優れた科学者が多数存在するのが歴史的事実である以上、なに云ってんの?くらいにしか私は捉えていません。

ちょちょんまげさんはアメリカ社会になにを期待し、希望しているのですか?
アメリカの政治は政教分離が正常に成されているとはとても云えない。そんなことはアメリカの外からいくらでも分かる。だから、きちんと政治と宗教を分離すべきだ…とは云えるけれど「どうやって?」それをしましょう。

全世界の文化をローラーで潰す前に、お子さんを別の学校に移すことはできるかも知れない。そもそもちょちょんまげさん一家がアメリカを去ることだってできるはずだ。その問題がそれほど重要なことであるならば、プライオリティは明らかだ、と私は思う。しかしなぜかそうはならない。それよりも「アメリカ社会が問題だ」とか「小学校が問題だ」となる。でもその状況を選択したのは誰なのですか?あなたの不満は激しく矛盾していると私は思うのだけれど、私は間違っているだろうか?

私はサバンナに赴いて、そこが荒野だったり草原だったりすることを不満と思わない。海に出て、周囲が海水であることを不服と思わない。
毎日のように雨が降る多湿な気候に住むことが不満であれば、より乾燥した土地に移住すれば良い。関西弁や東北弁がイヤなのであれば、標準語地域に住めば良い。「私は私自身を変えたり選択することができるけれど、あなたや彼を変えることはできない」それだけのことではないのですか?

249カクレクマノミ:2008/01/28(月) 21:12:07 ID:nWqwz./A
答える前に、いくつか確認を。

>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

そして、「自然科学」vs「人文科学・社会科学」という分類がいまいちよくわからないので、確認のためいくつか質問を。
以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?
・心理学   ・進化心理学
・動物心理学 ・認知科学
・動物行動学 ・行動主義心理学
・経済学   ・行動経済学

250ちょちょんまげ:2008/01/29(火) 13:29:20 ID:vUxNW.gI
>NANさん

>>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、
>>「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、
>>あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

上記の私の記述はマヌケでした。撤回します。
ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

>>それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

甘いと断定されてしまいましたが(苦笑。ですが、カーストの最下位にいた人たちの多くがそこから抜け出すためにイスラムに改宗したのをはじめとして、自分たちに有利(に思える)な新しい考え方に触れたときに旧来の信仰を棄てたり、改宗したりした例はいくらでもあるのでは?
単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」
>であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

>>え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
>>この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

ん?このサウジアラビア人は無宗教者なんですけど? ここの設定は「私(ちょちょんまげ)が実はサウジアラビア人であった」ということで、私は無宗教者である旨明らかにしてたように思うのですが。また、そこまでは書きませんでしたが自国で不当な扱いを受けていると思っているわけです。それでも意味通じませんか?

NOMAの話は申し訳ありません。特にNANさんあてではありませんでした。勢いで書いてしまいましたが、分けて書くべきでした。

そして、愚息の話ですが、まず>242の投稿が遊びのつもりでした。「トチ狂った男」を演じてみたかったので.....投稿したこと自体が愚かでした。また、耳の痛いご指摘でもありました。
で、本件の優先順位は私としては高い方ですが、最上位ではありません。何らかの措置は取るつもりではありますが。

で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

251AH1:2008/01/29(火) 14:14:16 ID:fKqeZx4M
横レスです.
ホメイニやブッシュがビリーバーでダメダメだったとして,
それは宗教のせいですか?ホメイニやブッシュのせいですか?

ちょちょんまげさんの御意見は
「もともとダメダメな奴が悪用したがる宗教なんかイラネ」
かな?と推測するのですが.

しかし,やっぱり
「暴走族がいるからバイク禁止」
「犯罪に走るからナイフ禁止」
と同じような気がする.
まあ,結局「宗教の有用性は有害性(悪用された時の,そして悪用される頻度)と比べてどうか」という話になり,
さらに「宗教の定義って?」になる,かな?
(漠然とお地蔵さん拝むのと産婦人科を爆破するのと,どっちも宗教に起因するけど有害性が同じってこたあるまい)

252NAN:2008/01/29(火) 16:20:30 ID:???
>>250
>ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

イエスが実在したかどうか?については、まぁ実在したとしてもよろしいんじゃないですか?
問題は、聖書に記述があるような数々の奇跡を起こしたかどうか?だと思いますよ。なお、私は「聖書逐語主義や原理主義者がいない」とは述べていません。いつも私が暴言を振りまいているように、そういう手合いは山ほどいます。いますが、それが大部分の宗教者であるかないか、というと少数派でしょう。ちなみに根拠はありません(笑。
#米国に於いてそれが多数だって?それは米国の問題だよね。

>単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

ない、とは言い切れませんね。確かに。

>それでも意味通じませんか?

あ〜、なるほどね。ていうかだったら簡単でしょ?そりゃぁ国家宗教という名の「法」が求めることだし、断罪するのは「宗教」ではなく政府もしくは司法だよね。信仰の名を騙った権力の代表じゃん。

>で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
>そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

ん〜、私自身も書くべきか書かざるべきか悩んだのです。でも、繰り返し書いておられるのでこれも議論のテーマにするおつもりなのかな?と思った次第です。正直、家族ネタに冷徹なレスを返すのは気がひけます。申し訳ありません。

さて、ご自身および一般化が可能なフォリナーについて、でしたらお答えできますね。
私は海外に長期滞在したことはありますが、居住するというほど長い期間、海外で生活した経験はありません。まぁそれでも、数ヶ月に及ぶ滞在ならしている、という説明にはなるでしょう。(ちなみに英国、フランス、そして中国です)
内的に答えるなら、ニンゲン、あらゆる事象に対してなにがしかの不満を持たないことなど出来ないでしょう。また、どんなに耐えるべきことであれ、時折愚痴をこぼすくらいは多めに見るのが人情だ、と私も思っています。
次に、外的に答えるなら、つまりこれは「タテマエ」ですが、一切不満を持たないことは不可能だけれど、彼の地においては自分こそがフォリナーでありストレンジャーであることは常に念頭に置くべきだ、と思います。これは海外であろうが内地であろうが同じことではないでしょうか。

また、もし仮に、そのひとが彼の地において永住するだとか、住民として地域社会に積極的に参加し、時にはその地域に対する影響力さえ発揮しようと云う「権利と義務」を志として担うのであれば、不満があればそれを改善すべく行動すればよろしいし、相応の社会参加をすれば良いのではないか?と思います。不満があり、社会への(とても大きな意味で)参加もせずに文句だけ云うということでないのであれば、いちいち尻尾を巻くことはないでしょう。さらに、積極的に孤立する、という戦略もアリだと思います。

253ちょちょんまげ:2008/01/30(水) 07:11:05 ID:vUxNW.gI
AH1さん

すんません、正直、私もうまく考えがまとまらないのです。

実は中学生ぐらいの時に、「エホバの証人」の訪問を受けたことがあり、生意気で理屈っぽかった私は相手を叩きのめしてやるつもりで玄関口で議論を始めた記憶があります。
その際、私は過去のキリスト教国がやってきた罪状やら戦争やら並べ立てたり、アダムとイブからニンゲンが始まったのなら、その後ずっと近親相姦ぢゃないかなどと攻め立てたつもりだったのですが、相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。
「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
その時は結局「興味がないのでお引取りください」、で事なきを得たので、今こうして、立派(?)な無神論者としての私がいるわけですが(笑)。
歴史は繰り返すで、数十年後、同じ質問をくらって「うっ」とつまっている自分がここにいるわけです。中学生から全く進歩していないことが証明されてしまった。

ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。

それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

254AH1:2008/01/30(水) 13:31:05 ID:fKqeZx4M
>相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。

あー,向こうも慣れているでしょうからねえ.
最初の答えは確かに「宗教そのものの罪じゃない」とも言えるでしょうね.キリスト教マンセー!な相手を冷やかすには使えるかもしれませんが.(あるいは「正しい」キリスト教ってのが実現された例はあるんかい?という突っ込みなら可かも)
後者は「だれが言ったんじゃ!」ですなあ(笑)

>「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
確かに「にょほほ〜」ではあります.


>ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

ええ,全くその通りです.恐らく,旅客機でビルに突っ込んではいけませんとか,ネクタイで他人の首を締めるのは危険だとか,包丁は料理に使いましょうとか,そういうのと(広い意味では)同じだと思います.
旅客機はライセンスを持ったパイロットしか運行しないから一応安全,ネクタイや包丁は生活に必須な道具として認知されてるから「なくなっても良い」とは言われないわけです.
バイクは趣味性が高くなるので「あんなもん無くてもいいから乗らせるな」という意見も出て来るし,ナイフに至っては「犯罪者にしか持ち歩く必要がない」に近い扱いを受けたりするわけです(私は登山やなんかで必携なんですが).
アメリカにお住まいでしたら,銃規制がこれに近いでしょうか.銃単体が人を殺すわけではない,しかし,悪用される場合はしょっちゅうあり,その結果も非常に重大である.それでもこの社会に銃が必要か?「必要である」とする派は規制に反対し,「いっそ無い方がいい」派は規制を求めるでしょう(NRAのロビー活動なんかはちょっと置きます).

そういう点を考えると,「宗教」と一括りにされているものが包丁やカッターナイフなのか,登山ナイフなのか,ピストルなのか,そういう見極めがいると思うのです.そして,その「有害性」の判断とは「宗教だから」という括りではなく,「あまりにムチャクチャで,同じ社会として共存できないようなもの」であるかどうかに委ねられると思うのですね.(宗教ないしそれに類するものが人類の文化と抜きがたく関わっているという点は同意頂けると思います・だから今すぐ全て無くなっていい,とは言えないという意見です)
つまり,まさに
>お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。
と仰っている判断そのものであると思います.私がドーキンスの「有害で侵略性の高いものだけを宗教と呼ぶ」という意見に同意できない,としたのはそういう事です.だってお地蔵さんに手をあわせるのだって(少なくとも私の感覚では)宗教がらみには違いないのだもの.排除したいものだけを「宗教」と認定して「宗教はダメだ」と言えば,それはつまり「ダメなものはダメ」という意見になって反論のしようがないのだけれども,それって「ナチスの指導者たちだけをドイツ人と呼ぶことにする.ドイツ人は犯罪者だ」と言ってるように聞こえるわけです.

>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

問いかけておいてなんなんですが,私もいい知恵がありません.どうすれば良いのでしょうねえ・・

255NAN:2008/01/30(水) 23:03:53 ID:???
バイクにせよ、ナイフにせよ、いやいやビニール袋だろうがヒモだろうが、ヒトを殺すことが出来るわけです。ただ、それらの道具は「能動的に」ヒトを殺せません。受動です。おそらくここがポイントなのだ、と私は思います。

ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。そういう議論が起きている最中に、ノコギリによる殺人事件が起きたりする。結局「刃物は全部悪者だ」みたいな論調にさえ、メディアと視聴者が狂っていると走りがちになる。私が危惧するのはそういうことです。

信仰・宗教に対する批判は、信仰・宗教に対する包括的で正しい知識に基づいた議論でなくてはならない。私はそう思います。これは「ナイフの使用法を正しく知ること」と同様です。私ごとき付け焼刃の宗教知識しかない者に「突っ込みどころ満載」に見えてしまうような論調では、お話にもなんにもならないだろう、ということでしょうか。また残念ながら、宗教に対する知識が私には足りません。だからこそきっと、有効な宗教批判が思いつかないのでしょう。

サッカーをやっていた子供時代に、ボールに座ってコーチから怒られたことがありました。神聖なボールを尻で踏むな、というわけです。料理人が包丁を大事にすることも、きっと似たような話でしょう。とても大きな括りをすれば、これらも信仰です。信仰の根本にあるものの、もうひとつの極として「大事にすべきもの」への敬愛があることを、私は疑いません。

さて、本題。
>>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。
もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。たとえばネットの掲示板には、書き込みをしないROMというジャッジがたくさんいます。たまたま「宗教」と検索をかけたひとが、そのソースに辿り着くだけでもいいと思います。

256NORTON3rd:2008/01/31(木) 10:40:09 ID:tQvpJqX6
まじめな議論の最中に、横道への茶々で申し訳ない

>ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。

これ、実際に俺がガキのころにありましてね
当時の社会党の浅沼稲次郎委員長が演説中、右翼の少年に刺殺されるという衝撃的な事件があったのですが、これを契機に『刃物を持たせない運動』が全国的に広がりました。その中にはご指摘のような『間抜けな議論』では実際になされましてね(国会でまで)・・・

んで、それまで、良い子の筆箱の中には必ずあった鉛筆削り用のペンナイフや切り出し、肥後之守追放され、各教室には鉛筆削り器が備えられるようになりました(刃物業者の中には売れ行き不振で自殺したヒトまでいたらしい)

まさしく『三ない運動』とおなじくお馬鹿な『一般化』の好例ですわ

257AH1:2008/01/31(木) 13:58:53 ID:fKqeZx4M
ガキの時に肥後守や切り出しで木を削る愉しみを覚えて以来,常に「鉛筆削り用に必要」と言い張って肥後守を持ち続けたのですが,教師も親も禁止しないでいてくれた事は幸せだったのだと思います.
とはいえ,田舎だから通ったのも事実.大都市に出て来たらいきなり職質され,ポケットナイフを没収されました(泣)
その辺りで刃物をちらつかせた事件が多発したため,警戒中だったらしい.私なんぞは格好のカモだったんでしょう.

258AH1:2008/01/31(木) 14:13:13 ID:fKqeZx4M
>テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。

より明確には「同じ土俵に上がらない相手」ということで,テーブルについたのに科学や論理学といった共通のコトバを持たない相手・・という事なんですけどね.例えば私とNANさん,ちょちょんまげさん,狡獪と懺悔さんは,意見は異なってもコトバは通じているし,「個人の意志や自由を尊重しよう」という立場も恐らく共通でしょう.
私が議論しようとしても,全く異なる立場,すなわち「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である」「神を知らぬ輩と話などしても得られるものはない」という立場の相手に対しては無力でしょう.しかし,今のところ

>もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。

と考えるしかなさそうです.少なくとも「個人の意志や自由を尊重しよう」と言ってしまった以上,明らかに他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である,と考える自由」も尊重せざるを得ないでしょう.言ってみれば,正義の味方を標榜した以上は卑怯な手は使ってはいけない,というようなジレンマですかね(笑) 
(他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,ってのも一種のコンセンサスにしか過ぎないんだろうけど)

259ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:16:29 ID:vUxNW.gI
下のブログの記事皆さんどう思われますか。ここで話していることとちょっと関連ありそうなんで。
NATROMさんのブログ1月11日付け「ニセ科学批判者は科学を絶対視しているか?」1月11日付けエントリへのトラックバックなんですけど。
ttp://blackshadow.seesaa.net/article/80989429.html
ちょっと抜粋すると:

ここから引用:

そして疑似科学批判は、彼らにとって、
・よく分からんモノサシを問答無用で押しつけられた揚句
・そのモノサシによって自分の信じたものを否定され、
・さらには自分のモノサシ(価値判断基準)まで否定された
に等しい暴挙なのである。
だからこそ彼らは、疑似科学批判者が「科学という絶対的モノサシ」を押し付けてくると感じるのである。

引用ここまで

私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。

260ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:32:29 ID:vUxNW.gI
すみません。ちょっと付け足し。

>私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。
そして、それ以上の配慮は基本的に必要ないと思いたがるほうなのです。

261AH1:2008/01/31(木) 14:42:47 ID:fKqeZx4M
疑似科学であるかどうか以前に,
「これは科学である」と称してやって来たものが全然科学でなければ
「おめー,それ科学になってねーじゃん」と批判されましょうし,当然しても良いでしょう.
また,「これは科学であるからして,**であることは科学的に証明されているのだ」と言い出せば
「んなことあるかよ,科学ならちゃんとこういう疑問に答えろやゴルァ」
と言われて当然かと思いますが.

262ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 03:42:24 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?
おぢさんはそこで混乱してまふ。

263diamonds8888x:2008/02/01(金) 06:02:48 ID:4jx.OKmA
259<< そのブログ記事はとっても正確な認識をしてますね。ではどうしたらビリーバーさんの「心に届く」のかという処方箋は、当の執筆者氏も提起していませんし、私にも絶望的に思えます。と、今はこれしか思いつきません。

264NAN:2008/02/01(金) 08:16:56 ID:???
>>262
>批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

二つの点に於いて批判されるべきです。
1:「水伝」という科学を装った疑似科学理論に対する検証という批判
2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

1については「間違いじゃないか!」という指摘、2については「けしからん!」という指摘ですね。

265ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 09:53:51 ID:EBvpLwTs
>NANさん

>2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

これが「水伝」のもともとの提唱者に向けられるのは良くわかるのですが、提唱者でなく提唱者にだまされているあるいは信じたがってる人達には?

266e10go:2008/02/01(金) 12:20:57 ID:5/V6R9W6
>>264
もう一つ付け加えるなら、

3:道徳教育に「水伝」という科学的実験結果を用いる事の批判

3は「人間の心のあり方に科学を持ち込むな!」でしょうね。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/mizuden_doutoku2.html

>>262
上の理由から、「水伝」も、それを肯定的に使う人も非難するべきでしょうね。

267NAN:2008/02/01(金) 13:47:39 ID:???
>>265
そもそもそれが科学でもなんでもなく、表現行為や信仰・信条(心情?)の一種であることを明確に主張できる相手であるのなら、「勝手にすれば?」で私は放置します。しかしそれが、客観的事実に基づく科学である、と主張するのであれば、提唱者であろうがビリーバーであろうが、科学のルールに則った批判に晒されるのは当然です。

ところで実際、ネットの議論であれば簡単に割り切れる話であっても、現実の知人や友人がこういうことを云いだして困ってしまうケースは多々あるでしょう。私自身も経験があります。

その際、これも先に書いたことですが、批判する、あるいは、批判される、というのは「それが科学である」のであれば当然のことであり、どんな理論も常に検証を繰り返し、批判に晒され続けていること、そこで間違いが判明したり理論を却下せざるを得ないことになったとしても、それが倫理的な「善悪」とは無関係であることなどを、相手に伝える段階がかなり難しいものです。

そして次の段階として、間違いであったり再検証不可能であったり、客観的事実とは云いがたい証拠の提出に基づく主張であることが明確になったのであれば、それを受け容れ、修正なり却下なりを「意地でもしない」ことは倫理的に問題であることを説明することになるのでしょう。大半の場合、これら2ステップを完了する前に会話は険悪になり(苦笑)、人間関係としてこじれます。はい、何度も何度もそれでこじれましたとも!(大笑。

だからといって私は曲げませんけどね。

268AH1:2008/02/01(金) 14:27:56 ID:fKqeZx4M
>「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

みなさまのお答えで全て言い尽くされてると思いますが,私からも重ねて.
多分,このような話の流れになると思います.
1 水伝が事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは事実かどうか疑わしいよ?
2 だって水伝は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう怪しい話を鵜のみにして事実であるかのように子供に教えるのはやっぱり問題があるな.道徳を教えるなら他にもっと適当な話を使うべきだ.

マジで信じてる人と話をしているなら,まず1の部分で言い争いになり(向こうは喧嘩売られたと思うだろう),2で決裂ですな.多分.
私が批判するのは,ド阿呆な話を科学であるかのように騙った水伝と,コロっとだまされた「大好きな人」の両方です.「大好きさん」については騙されること自体は本人の勝手ですが,学校の教材云々という所で他人への責任を持っています.また,「水伝は科学的に正しい」という部分に何らかの信頼を置いたのだとしたら,「その理解は科学として間違っている」と情報を正す意味もあります.

269ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 16:21:28 ID:vUxNW.gI
皆様、物分かりの悪いおやぢに辛抱強くお付き合いくださってありがとです。
それで、もうひとつだけお付き合いくださいませんか。

この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

270ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 16:24:07 ID:vUxNW.gI
diamonds8888xさん。

ご感想ありがとうございました。
やっぱり「絶望的」なんでしょうか。う〜む。

271AH1:2008/02/01(金) 16:48:12 ID:fKqeZx4M
水伝を「ペケ教」にしてみます.なお,水伝は最初から科学を謳っていましたが,今回は明確にするため「科学的に」などの補足を「」して若干入れています

1 ペケ教が「科学的にも」事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは「科学的な」事実かどうか疑わしいよ?
2 だってペケ教は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう「科学的には」怪しい話を「科学的に正しいから素晴らしいのだと」鵜のみにして「科学的にも事実であるかのように人に教えたり,「まして科学として教える」のは問題があるな.宗教ってそんな物じゃないんじゃないの?

となりましょうか.

272NAN:2008/02/01(金) 22:39:19 ID:???
>>269
この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

あの〜、自然科学の常識に反する内容を経典に含んでいるからと云って、すぐさまそれが疑似科学に繋がるとは思いませんけど?
なにかやはりとても失礼な疑義に感じてしまうんだよね。(無論、文脈から云って宗教的疑似科学のことを指しているのだろう、ということは参加者である私には察しがつくけれど)

ベースにあるものが宗教であろうとなんであろうと、科学を装い、証拠や実証を捏造したり、ただの迷信に過ぎないのにそれが事実だという強弁を振るうような行為が批判の対象とならないわけがありません。終末予言や末世〜来世信仰も然り。不可知であるはずの事象を可知であると断言してはばからず、なおかつ他者の危機感を煽るような扇動を批判することは積極的に行うべきでしょう。

ところで、そういう迷信に騙され、転びやすいヒトの体質が「日進月歩の科学技術」の中に生きる現代人の中でも、改善されるどころかさっぱり変化がないように見える原因はなんだろうね?それもまさか宗教のせい?そりゃぁ違うよね。もっと日常的で(この日本に於いてでさえ)誰でも触れていてほとんど空気のように存在感はないけれど確かにある「なにか」について、大半のヒトが考えようとしないからじゃないかな。

273:2008/02/02(土) 09:46:18 ID:QpQGFxc6
>テーブルにつかない相手………、

「テーブルにつかない相手」を「相手」にするのは、実際なかなか難しいでしょう。
ドーキンスも「神は妄想か」の中で、「宗教的な読者が、本を閉じるときには無神論者になっているだろう」と言う予想を「なんと言うあつかましくもずうずうしい楽天主義か!」と自嘲?しています(16ページ)。
非科学的ビリーバーやその「教祖様」には、時に「おたっしゃでー」と言うしかないと私も思います。

問題は結局、国民(…と言うか、特に国境を考えなくてもいいのですが)の科学的意識の問題になるんじゃないかと、私は思うんですよね。
ビリーバーをテーブルに付かせて、仮に批判し説得できたとしても、或いは犯罪になって取り締まっても、もぐら叩きみたいに次から次ですからね。
水伝に限らず、霊感商法、集団結婚、オウム、近いところではスピリチュアル等など。或いは振り込め詐欺も。
結局国民の問題意識、批判意識、要するに考える力を高めることが、疑似科学や霊感商法などの存在基盤を塞ぐことになると思う次第です。遠回りのようだけれどもこれしかないと言うか。

その点で、細木数子だの江原啓之だの、提灯持ちをしているマスコミは特に罪が深いと思う訳です。
そして、その批判を躊躇させたり傍観させたり、或いはマスコミ側が自分の破廉恥な行為を正当化する要因として、NOMA的な不可知論が少なからず「貢献」しているのではないか、と、No-218で述べたのですが。

「重複しない」と言う形で、科学とそれ以外の「教導権」を、明確に線引きしてしまえば、それ以上は考えてもムダ、考える必要なしということになりかねません。
ダーウィンは『種の起源』の中で、自分に未だ分かっていないこと、説明が付かないことを、隠さず誠実に列挙しています。「不可知」でなく「未知」として。
未知は科学の進歩によって既知に置き換わって行きます。ダーウィンのかっての未知は今、相当の部分が既知になっています。

しかし一旦不可知としてしまうと、そこから先の探求の道を塞ぎかねません。これは不可知論一般の弊害として言われていることです。不可知とは「知ることは出来ない」と言うことですから。
「何ごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の世界と紙一重になってしまう訳です。
不可知論は普通、科学的知識に迫られての、非科学陣営の恐れとして表明されることが多いものです。よりによってグールドがNOMAなどと言う不可知論を主張することに、同じ進化生物学陣営のドーキンスは我慢がならなかったのでしょう。

横道にそれちゃいましたが、考える力を養うと言う点で特に日本では、科学の「基礎と連関」を大事にしない教育も問題有りと思っています。
おかげで日本人はどんどん「理科離れ」をし、考える力も低下しているそうですから。

うがった言い方をすれば、国民があまり考えないほうが政治はやりやすい。
昔「3S」などと言われたことが有って、スポーツ、セックス、スクリーンに国民の目を向けさせておけば、政治は安泰と言うことでした(勿論その一つひとつのSに何の罪も無い訳ですが)。
今、その3つは何なんでしょうね。

疑似科学や「霊能者」であっても、行政的な権力で規制することには問題が有るでしょう。
しかし理性レベルでの科学的な批判は必要です。少なくとも科学に携わっている方々は、No-260のちょちょんまげさんの言われるように、疑似科学への批判に二の足を踏まないで頂きたいものだと思います。

274ちょちょんまげ:2008/02/03(日) 07:36:15 ID:vUxNW.gI
「水伝」のタイプ 提唱者への    「水伝」そのものへの  ビリーバータイプ1    ビリーバータイプ2 「道徳」に採用した学校
   ↓         科学からの批判   科学からの批判                            関係者への批判
                 ↓        ↓            ↓           ↓          ↓             

タイプ1:「科学」を標榜 「ゴルァ」    「ゴルァ」      提唱者の言い分通り    よいお話だからと    「ゴルァ」
                                   「科学」を主張     飛びつく。科学か
                                        ↓      どうかなぞど〜でも
                                   科学からの批判    よい。なんも考えてまへん。
                                     「ゴルァ」          ↓  
                                                  科学からの批判  
                                                   「ゴルァ」    
タイプ2:「科学」であるとは   「ゴルァ」?   「ゴルァ」?   提唱者の言い分通り                「ゴルァ」
     主張しないが、                       科学だとはいわないが
     そういうことがある                     そういうことが無いとは      上と同じ
     と主張。現在のタイプ                    科学では断定できない     違う前提は提唱者
     がこれに近いか。                       と主張。           が科学だとははっきり
                                        ↓          言っていないこと。
                                      科学からの批判            ↓
                                       「ゴルァ」?         科学からの批判
                                                      「ゴルァ」?


タイプ3:上のタイプが       「信仰」だから 「信仰」だから  「信仰」であると主張    上と同じ        こういう宗教
     「水伝教」なる      「放置プレイ」 「放置プレイ」    ↓           違う前提は提唱者が   もあるという
     宗教だと言い出した。                      「信仰」だから     信仰」だと言ってること。紹介の仕方なら
     結晶の現象は奇跡である。                   「放置プレイ」          ↓       「放置プレイ」
     非信仰者が実験すると                                 「信仰」だから「放置プレイ」 
     結果はランダムになると
     主張。



お願いだから投稿した時にずれないでおくんなまし。
まとめると上記のような感じになるのでしょうか。「?」の部分はご意見をうかがいたいです。
ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

275NAN:2008/02/03(日) 09:46:45 ID:???
>>274
私の主張とはちょいと違うかな。
『科学とは云わないが、そういうことがないとは科学では断定できないと主張』という文節は、とても曖昧で焦点をぼかしているように見えなくもないですが、科学ではないのであればなんなのだ?科学では断定できないのであれば、なにが断定するのだ?という疑問を生むことになります。つまり主張に欠陥があります。

明確に、それが「願望」であり、一種の信仰であると主張するのであれば「そりゃまた変わったお願いなんですね」で私は放置するでしょう。しかし「今現在の科学水準および技術では証明されていないが、将来的にそうした客観的事実が見つかるかも知れないじゃないか」という主張は、まさに科学的な問いかけですので、科学議論の議題になります。

「いただきます」と手を合わせたり、「ありがとう」と声を掛けることで気分が良くなるでしょ!みたいなのを科学的に批判するのはナンセンスですよね。でも、いただきます、と声を掛けると、米や味噌の「物質としての変質」が起こるかも知れないというのは、いくらでも批判することができますね。

276diamonds8888x:2008/02/04(月) 06:01:29 ID:jcR/Lf4.
 恥ずかしながらNOMAというのが何かわかりませんで、グーグルで検索しましたら、まじめな宗教団体とまじめな経営学団体なぞがヒットしまして・・・。
 ようやく正解にたどりつきました(~_~)

ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071129

この人もドーキンス本の書評を書いていますね。
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061201
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061215
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/archive?word=Delusion

277NAN:2008/02/04(月) 09:33:54 ID:???
>>276で紹介された書評を順に読んでみたのですが、とても丁寧かつ冷静に(ご自身が宗教&哲学リテラシーに乏しいことを告白しながら)読解を原書から書かれており、秀逸だな、と感じました。

さて、事前にわかっていたことですが、問題は「宗教」ではなく「キリスト教と、その鏡となってしまったイスラム」のようです。私はさらに、経済的繁栄度とキリスト教信者との相関や、石油利権に絡んだ中東対英米の構図の中で、二大宗教の間に何が起きたのか?(これはまさに中東危機というかテロリズムというか、そういう暴力と悲劇の根源ではないか?と思うのだけど)みたいなことに興味が沸きます。また、宗教議論の一般化には強い懸念を(さらに)深めましたが、米国のバカっぷり、バカをバカと批判できないどうしようもなさについては、「もう本当にああいうバカな国を相手にするの、やめれば?」と思う次第です。(てかそれもバカな一般化なんだけどね)

「なぜキリスト教なんだ?」それは、利権だからだ、との考えも(私の中で)さらに強まります。
それはつまり支配(あるいは侵略)構造であり、なにかに忠誠してくれた方が統制し易いという単純な理由なのだろう。

278diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:36:50 ID:jcR/Lf4.
雄さん218の以下を読んで思いついてしまいました。

> 「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、
>浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、
>教義と信者の頭の中にしか存在しません。

 多くの宗教にとってみたら、科学なんぞとの折り合いよりも、経済や政治との折り合いの方が深刻で実際的な難問であることが多かったのではないでしょうか?

277でNANさんの書いている宗教の混迷も、誠治との折り合いの問題という気がしますね。さりながら、古来より宗教と政治とは分かちがたく結びついていたことも事実です。

279diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:41:54 ID:jcR/Lf4.
 地下に眠るMさんの233,237の質問を考えて見ましたが、「愛」「妖精」とはどんなものをイメージしているのかが結構多様な可能性がありますので、どのイメージを想定するかで違ってきそうですね。質問1に対する私の回答と共に示します。

 a)愛というなにかしら物体的実在物 −>No
 b)人が何かを愛するという現象 −>Yes
 c)人が何かを愛するという心 −>Yes
 d)愛というなにかしら形而上学的もの −>No

 dはそもそも形而上学的なものとは自然科学的な意味では存在しないものでしょうから、いうまでもないかも知れません。
 b,cなら、人でなくても動物の一部にも存在しますし、その進化論的起源を考察することも可能です。おっと、「心というなにかしら物体的実在物」の実在をYesとは言いませんよ。
 aは、現在の科学の知見からはトンデモに近いのですが、本当はdだけどイメージとしてa、ということもあるのかも知れませんね。そのへんはよくわかりません。

 で、aは一般論としては自然科学における仮説となりえます。有名なのは燃焼におけるフロギストン説(燃素説)です。燃焼という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、燃素という物質的実在物の存在を提唱したのです。
 人が愛を抱くのは、アモールの金の矢がハートに刺さっているからだ、という仮説は、愛という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、なにかしら物体的実在物を仮定していることになりますね。(キューピッドの方がポピュラーだけど、アモールの方が「愛っ!!」という印象が強いから)
 生命という現象を説明するために生気や生命力を仮定するとか、意識という現象を説明するのに、なにかしら物質的実在物としての魂や脳の中の小人を仮定するとかも、似たような仮説ですね。いずれも反証可能であり、科学の遡上に載せられる仮説といってよいでしょう。
 物体が互いに引き合うという現象に重力場という実在物を仮定するのも、これと似ているかも知れません。

 さて「妖精」の場合は、はじめから、なにかしら物体的実在物イメージであるといって良いと思います。とすると、この場合にありうる意味は、私の想像力の範囲では次のようなものが考えられます。再び、これらが自然科学的な意味で存在すると思うかどうかについての、私の答えと共に示します。
 a)通常の物体と同じく、客観的な実在物 −>No、ただし妖精の定義による
 b)特定の人間にしか感知できない実在物 −>No、ただし感知の定義による
 c)妖精を見たと主張する人が存在するという事実 −>Yes

 aの場合、妖精がどんなものかを描写してもらえれば、それが客観的な実在物として存在するかどうかは自然科学の土俵に乗ります。それは、雪男やネッシーやツチノコと同じことです。調査の結果、実は新種の生物だったと判明するかも知れません。

 bの場合、感知というのが通常の五感という意味であれば、「特定の人間だけが妖精を感知するという現象」は自然科学の土俵に乗ります。それは「同じ状況で特定の人間だけが痛みを感じるという現象」とか「ある周波数の音を聞かせたら、特定の人間だけが反応したという現象」などと同じです。ただ、その人が意識的、無意識的に嘘をついている可能性も考慮しなくてはいけないのがつらいのですが。
 もっと広義に、ともかく特定の人間には妖精の存在がありありと感知できる(でもそれは結局、その人が五感で検知したと感じた、ということになりますよね)ということであっても、嘘でない限りは自然科学の土俵に乗ります。これはもうcの場合に近いかな。
 いや社会科学や民族学の領域だという話も出るかも知れませんが、私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

280diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:58:27 ID:jcR/Lf4.
 「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
 生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・。

 雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか?

281地下に眠るM:2008/02/05(火) 06:41:28 ID:MxpO/apg
あいかわらずだらだらと遅れてすまにゃーこってす(ぺこり

>カクレクマノミ

>>222

>>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

>同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

にゃっはっはっは(ぽりぽり
僕は精神年齢が低いので、一応、言い返しておくにゃ。
例えば「水からの伝言」を批判するのにあたって、当該著書を丁寧に読まなければ適切な批判ができにゃーと考える必要があるとは思えにゃーんだけど、どう? あれ、どうみたって明らかに馬鹿本だもんにゃ。「神は妄想である」は「水からの伝言」とたいしてレベルの違わにゃー本なので、僕の言動にそう問題があるとは思えにゃーのだが。実際に読んでみたら、思っていたよりもヒデエものでしたにゃ。
ま、ヒデエ本というものはたいてい「思っていたよりヒデエ」ものにゃんがな。


>>249

>>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

>この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
>どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

「流通」というところにポイントがありますにゃ。

>以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?

自然科学;動物行動学、動物心理学、行動主義心理学
人文・社会科学;経済学、行動経済学
学際分野;進化心理学、心理学
基礎論;認知科学

基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考えを採用しますにゃ。
ニンゲンの行動というものは、自然科学的に見ても実在する現象であり、社会的に実在(流通)する現象であり、内的な心的現実としても実在するので、それぞれの学問によるアプローチがありえるということにゃんね。

282地下に眠るM:2008/02/05(火) 06:42:18 ID:MxpO/apg
さて、ドーキンスがフロシキを広げすぎていることはカクレクマノミにもご同意いただけたようですにゃ。
いわば「不誠実なフロシキの広げ方」が「神は妄想である」の一番の問題点なんだけど、そこをつつき始めてみますかにゃ。

まずドーキンスは神というものは事実とされているのだから自然科学的な仮説だといっているけど、この前提が白痴的。この前提で「超越的」なものを否定できると思っているとしたら本当にアタマがワリイ。
もちろん、聖書は自然科学的な意味で事実だと思っているメリケンの馬鹿クリに対しては有効な論点であることは間違いありませんけどにゃ。例えば、あるアボリジニは自分たちの部族の伝誦する創世神話について「そのまんま事実だなんて思ってない」と発言しているにゃ(出典忘れた)。聖アウグスティヌスも聖書の逐語解釈を問答無用でダメだししているし、古代ギリシアの賢人がエジプト神話について逐語解釈はアホの所業だといっている記述もあったっけ。もちろん、江戸時代の国学者に日本の創世神話が事実そのものであったかと聞いたら「はあ? 君はアホかね?」という返答となることは受けあってもいいにゃ。

自然科学的仮説としての神、なんてものを主張する馬鹿クリは歴史的に見ても地理的に見ても、アホ中のアホなのだにゃ。アボリジニやインディオなどに比べるのも申し訳にゃーほど知能程度が低いウルトラ馬鹿軍団。
無論、何度も何度も書いているけれど、そのようなアホが政治的に幅を利かせている事実は困ったものだにゃ。アホに対する対抗言説は必要にゃんな。
しかしさ、アホへの対抗言説を一般化するってのはどうなんだろね? この一般化の過程において、ドーキンスはずいぶんと不誠実なことをしているにゃ。

例えばユングへの言及にゃんな。日本版79〜80P。
ユングは「私は神の存在を知っている」と述べたことは事実。しかし、その神は自然科学的な仮説としての神などでは断じてにゃー。ユングの知っている神は、いわば心的現実としての神だにゃ。
自然科学的仮説としての神、などという白痴対抗フィールドを設定し、そのフィールドに心的現実としての神を想定した論者(ユング)をひっぱりあげた揚げ句に「ユングのように、信じるべき適切な理由がなくとも信念を持ち続けることができるのが信仰の本質である(ユングは本棚の中の本が突然大きな音を立てて爆発することがある、と信じていた)。」などと書く卑劣。(ついでにいうと、ユングはシンクロニシティの具体例としてナイフの爆発的破断をあげているけれど、これはユング自身が体験したものであり「信じて」いたものではにゃー。この記述は捏造の疑いが濃い)

つまり、ドーキンスは神概念を恣意的に使い分けて他者を批判するという真似をしているにゃ。

神概念の恣意的使い分けの他の例として、「第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由」なんかも看板に偽りありだよにゃ。
確かに、自然淘汰によって複雑な生物が進化しえたということの証明にはなっているけれど、この論法で否定できるのは聖書逐語解釈による神概念だけだろ? 少なくとも理神論の神には傷一つつけることはできにゃーはず。進化を否定してにゃー教義に対してはまったく無意味だしにゃ。「創造論者の言う神がほとんど存在しない理由」とするならわかるんだけどにゃ。
ところがドーキンスは理神論的な噛みも否定すると以前の章ではっきりといっているにゃ。超越的存在を想定するすべての考え方を否定すると。
この理屈で超越的存在一般が否定されるなんて考えは、ほぼ創造論者並に白痴的な考えだにゃ。

宗教全般、超越的存在を想定した考え全般を否定すると威勢のいいことをいいながら、中身としてはアホへの対抗言説という特殊なものをもって恣意的で卑劣な一般化を行う白痴本、というのが「神は妄想である」への適切な評ではにゃーだろうか。

さて、次回はさらに卑劣で白痴的な一般化について踏み込んでみますにゃ。

283ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 11:23:38 ID:vUxNW.gI
>猫さん

一つ質問があるのですが、「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

284AH1:2008/02/05(火) 12:15:09 ID:fKqeZx4M
>>274

>ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

一つは本人がどの程度関わっているかという点じゃないでしょうか.主犯か従犯か,みたいな(いや,言葉が非常に悪いのは承知しています).その関わり方において「同じにゃ扱えないなあ」と思うか,「ンなもん,同罪同罪」と思うか,その辺の判断というか酌量の違いでは.

もう一つは「科学ではわからないが」という「仮説の確かさに対する理解および誠実さ」じゃないでしょうか.科学をちゃんとわかって,でも「そういうこともあるのかもしれないねえ」と考えるか,「そういうことってあるんだ」が先にたって「科学?・・・(ちょっと困ってる)・・・科学って完全じゃないでしょう?」と来るか.
ちょちょんまげさんが想定しておられる(というか,実際に遭遇されたのかな)タイプ2ビリーバーさんはほとんど後者なんでしょうけれど・・

285ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 12:26:46 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「後者」ですよね、ほとんど。うちのツレアイとか(笑)私がうるさいんで少々変わってきましたけど。
それで、「水伝教」はやっぱり放置が正解だと思われますか?

286AH1:2008/02/05(火) 13:19:50 ID:fKqeZx4M
「現在の科学としては考えられない」というのが一点ですね.
もちろん科学の進歩とは「あり得ないはずのことの発見」に他ならないので,「現在の科学では考えられないことの存在」を否定はしません.
しかしながら,「科学者は自分の見たものですら疑う」という鉄則があります.科学の誠実さはそこにあるわけです.
だからこそ,何かの間違いや偶然ではない事を確認するために条件を整え,あれこれ実験をし,統計計算をやり,ディスカッションし,論文を投稿すれば査読があり,それでやっと「単なる妄想ではない仮説として認めてもらえる」レベルなわけです.その後でさらに追試され,整合性や再現性が確かめられて「なるほど正しいようだ」と認めてもらえる.
その誠実さや厳しさを,「水伝」には感じることができない.私はそのようなものを科学と呼ぶことを拒否します.
水伝を「科学的な意味で『実際に観察された事』だと思って」信を置いている人がいれば,上のように言います.

287ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 13:34:51 ID:vUxNW.gI

>AH1さん
ん?「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。
こういう場合は信仰だから放置が正解なのかな、と。
私は批判したくなっちゃうのですが。

288NAN:2008/02/05(火) 13:57:43 ID:???
>>287
それは批判なのか、干渉なのか?がポイントだろうねぇ。
つまり、わざわざ相手のテリトリーに乗り込んで否定的言説を述べたりしないけれど、布教に来たとか友人や知人から相談を受けたなんて場合は徹底的に批判する、という感じかな。あと、表現活動の一環として自分のサイトとか作文の中で、水伝教を批判するってのはやるかも知れないなぁ。

289AH1:2008/02/05(火) 15:11:19 ID:fKqeZx4M
>「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
>その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。

ああ、なるほど。そうですねえ、私なら放置ですね。信じこんで「素晴らしい!」と言い出す友人でもいれば、「ありゃ科学っぽく見せてるだけにすぎないし、『美しい』の定義からしてサギみたいなもんだが、それでもいいか?」くらいは言うでしょう。科学だとか客観性・再現性のある事だとか言い出したらぶっ叩くと思います。

「非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまう」は「客観的な検証ができない事象」として扱うべきかと思います。観測者効果みたいなものではないかと。(例えば『霊は見える人にしか見えない』なんてのもこれに近いし、本当にそうである可能性をどうしても否定はできない)
それがわかってて利用してるなら、実に狡猾ではあります。

290地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:24:49 ID:cizMQ0FI
>>233 >>237の僕のへたくそなクイズにお答えくださった方々にお礼申し上げますにゃ。

diamonds8888xの緻密な答えは面白かったにゃ。
>私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

学際的な分野は確かにいくらでもあるけど、典型的な人文科学とか社会科学もやっぱりあるのではにゃーかと。人間社会に現実に存在する「価値」についての研究なんて自然科学には向かにゃーだろし。


僕がいいたかったのは、ある妄想の対象が自然科学的な意味で存在していると信じていようが信じていなかろうが、そのことと社会・人文系研究の学問的価値は基本的には分離しているということですにゃ。

例えば
>>237、3)C)の「ある特定の妄想」の持ち主として「イヴァン・カラマーゾフが実在の人物であると信じてしまっているけど、それ以外はいたってまともなドストエフスキー研究者」なんかを想定していただけますかにゃ。ある小説の主人公が実在していると信じちゃっているからといって、その研究者のしていることがダメになるということはにゃーわけだ。むしろ、面白いものを書いてくれることが期待できそうにゃんね、この設定なら。

もともとはドーキンスが「妖精学」と同様に「神学」が学問として成り立たないとかいうアタマのワリイ難癖をつけてきたことをとりあげただけですけどにゃ。イヴァン・カラマーゾフの実在を信じるドストエフスキー研究者のしていることを学問とみなすことのできる常識的な判断力の持ち主ならば、神学に対するドーキンスの難癖が意味のにゃーものであることはわかるだろにゃ。
まあ、ある特定の信念や世界観(ここでは自然科学的な意味で存在しているかどうかという判断)が、自然科学以外の分野における学問の判断基準となるというドーキンス先生の科学主義は唾棄唾棄唾棄で却下にゃんな。

291地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:25:23 ID:cizMQ0FI
ついでに
>>225 >雄

>>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>>特に 雄 の病状がヒデエ。

>骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。

>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。


>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
>多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー


そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。
僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど、例えばウィキペディアの「物自体」の記述を読んで「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」と思うヒトはいにゃーと思う。
ちなみに日本大百科の「物自体」の項のまとめ部分を引用すると
>物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であったともいえる。

また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。ソーカルもどっかでそんなこと書いていたにゃ。

292地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:25:45 ID:cizMQ0FI
>ちょちょんまげ
>>283

>「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

「すべてのものの90%は屑である」スタージョンの法則
ゆえに、クリスチャンもクリスチャニティも90%は屑。
しかし、ほとんどが屑であるという事実は、すべてが屑であるという推論を正当化できにゃー。

馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。
ドーキンスは党派的思考でガチガチだろね。

実際問題として、まともな宗派とか会派はあるんではにゃーかと思う。
メリケンの場合、反公権力・反国家権力の拠点として教会を中心とした共同体があったという事情も本来はあったのではにゃーかと思ったりもするのですにゃ。政教分離あるいは宗教と法の分離というのは、宗教保護のためという側面がたしかにあるはずなんだけど、そのあたりがマニュアル馬鹿にはわかんにゃーしね。
メリケンの国はいろいろとねじくれていてオモチロイよね。


それと
水伝が宗教を名乗ったらラッキーだろ?
理科教育現場から完全に駆逐できるじゃにゃーか。
教義としては面白みがまったくにゃー3流宗教にゃんな。

293地下に眠るM:2008/02/06(水) 00:04:28 ID:MxpO/apg
では、ドーキンスの程度の低い詐術をさらに指摘しますにゃ。

第2章 神がいるという仮説 NOMA P95
>この非干渉を貫くNOMA神は、確かにアブラハム神ほど暴力的でなく、がさつでもないが、こういうタイプの神の有無でさえ、公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う。

はあ?
グールドのいうNOMA原理の前提は、宗教は事実の領域に踏み込むべきではない(神は科学的仮説ではない)というものじゃなかったのかにゃ? もちろん、本当に両者を切り分けられるのかという批判があってももっともではあるけれど、ドーキンスはしかるべき手順をふむことなしにいきなり「公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う」とちっとも公明正大でにゃーことをいっているにゃ。

ドーキンスには事実の分野(科学の分野)において神を否定する論理を宗教にそのまま適用する悪しき科学主義の論理を振り回すしかにゃーので、必然的にこういう馬鹿理屈になると考えられますにゃ。ユングを否定した知的詐術と同じ論法だにゃ。
事実の領域における論難を、そのまま価値の領域に適用して宗教を否定するというのが、「神は妄想である」の基本論法だといえるでしょうにゃ。



第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? 信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか より
>穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している P443
>「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義者を差し招いているのである P448

ドーキンスは心底から侮蔑に値すると確信した1節だにゃ。

これまでドーキンスは超越的存在を肯定する思考すべてを否定すると大見えをきり、しかしやってきたことはメリケンの馬鹿クリ対抗言説でしたにゃ。メリケンのクリは馬鹿が多いって? 宗教が不当に優遇されてるって? はいはい、お説ごもっとも。しかしドーキンスから、馬鹿宗教批判から宗教一般を否定するところにつなげるロジックは聞いていなかったにゃ。
で、これだってさ・・・・・・・。なに、これ・・・・・・。

「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」だあ?
てめーはどこの3ない運動だ? どこの行かれPTAのエロ本禁止運動だ? どこの国防婦人会だ?

この理屈が通用するのなら
「開明的・進歩的な科学者集団でさえ、それ自身には軍事にかかわりなくとも、産軍複合体に協力していることになるのだ」
とか
「本人が例え疑似科学批判に注力していようとも、科学にかかわるというだけで科学主義を助長し、疑似科学を生み出しているのである」
とかいったたぐいの
「資本主義」だの「環境破壊」だの、その他諸々の政治的仮想敵をジッパヒトカラゲにまとめて否定する粗雑で粗くて馬鹿で白痴的でアホ相対主義的で最悪の意味で政治的なガキの決めつけ理屈はすべてオッケーにゃんな。

忘れてはならにゃーのだが、進化論裁判において科学者・教育者だけでなく「まともな」宗教者も創造論を理科で教えることに反対したという事実もグールドがNOMA原理を打ち出した理由のひとつにゃんね。で、NOMAを否定するドーキンスの出してきた中二病理屈は、誠実で知的でまともな信仰者、創造論を理科で教えることにはっきり反対した宗教者も「過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」から責任があるんだってよー。現代日本で言うと、馬鹿マスコミに躍らされたお歴々の医者や教師叩きみたいにゃんなあ(げらげら


ではまとめるにゃ
1)自然科学仮説としての神、という人類史的にみても馬鹿理屈への対抗言説がこの本の内容の大半。
2)ところが、自然科学仮説としての神という神概念をもってない者(ユング、グールド)を自分の措定したフィールドで批判しているなどの不当な言説。妖精学への嘲笑もこの関連。
3)自分が批判する対象についての明らかな無知と侮蔑
4)創造論的な神がいなくても進化は成り立つという言明が、直接的にすべての超越的存在を否定することになるという、それこそ超越した論法。
5)「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」ので穏健で誠実な宗教も否定するという、3ない運動というか国防婦人会というか、その程度のレベルの言明に支えられた超越的ロジック。

結論;「神は妄想である」は知性も誠実さもみられない白痴的駄本。

「神は妄想である」についてはだいたいこんなところにしておきますにゃ。細かいところをいえばまだまだいくらでもいえるにゃんが。
このあたりについては、ブログつくってそこにまとめるつもりですにゃ。

294地下に眠るM:2008/02/06(水) 00:49:11 ID:MxpO/apg
さて、とっても悪趣味な僕としては、雄クンの>>225
>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
この科学の定義をビール飲みながら考えてみたいにゃ。

雄クンによると、以下の発言を行うことは科学になるにゃんね
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ

うにゃ、雄ダイセンセイの科学の定義は僕なんかには計り知れにゃー深遠なものですにゃ。


そういえば、雄ダイセンセイはドーキンスの「3ない運動 もしくは国防婦人会」的批判と同様のロジックを>>218 >>273あたりでご開陳なされているようですにゃ。

あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、事実言明と価値言明の分離という欧米インテリの言論における作法をベースとしているのではにゃーかな? 対するドーキンスは明らかに事実一元論に近い立場にゃんな。ちゅうか、事実一元論に基づく詐術を行っているし。

295:2008/02/06(水) 07:21:33 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏
楽しく読ませて頂きました。

>>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

>空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。

仰っていることが分かりません。私はただ………、
>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ

と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。


>そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。

私は、No-225で、地下猫氏が引用されたフレーズに先立って「カントについても、その汲むべき内容が多い中で、………」と書いています。

読んでお分かりの通りカントを全否定している訳では有りません。特に「批判前期」と呼ばれる時期のカントは、有名な「カント・ラプラスの星雲説」を提唱するなど、後の弁証法的宇宙論に繋がる重要な業績を挙げています。ここで問題にしたのは「物自体」です。
何でもそうですが、新しい知見・業績と言うものは、それに先立つ先人のそれを土台に、批判的構築されるもので、カントもヘーゲルも観念論者だからと言って、私は一概に否定はしません。今の高みに立ってこき下ろすことは、そもそも私の本意では有りません。

そしてNo-230での、kaさんへのコメントの中にも「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので………」として、あくまでも私の個人的な見解表明であることを断って有ります。
「現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね」と付け加えながらね。地下猫氏のご批判はとっくに織り込み済みです。

その上で、あえて言わせて貰えば………、
「創造論」は進化生物学を中心とする自然科学陣営からは、完膚なきまでに論駁されて、自然科学的には決着が付いていると私は思っています。
しかし実際には多くの人たちの間で、創造論は生き残り、事実とされ、「省みられ」続けています。
同じように地下猫氏が「物自体」に対し、どのような信仰をお持ちになろうと、それは地下猫氏ご本人の自由に属する問題だと言うことです。

ただまあ、一言苦言を呈させて頂ければ………、
>僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど
として、確かにご本人の仰るとおり、議論の中身に関する具体的な反論は皆無でしたが、「聞かれても応えられにゃー」にしては、なかなかリキの入ったご批判でした。
しかし「力量がにゃー」分の埋め合わせにウィキペディアを持ち出している辺り、あまり感心しません。自分の確認に使う程度なら兎も角、論争の根拠にウィキを使うのは止めたほうが良いと思いますよ。それだけで程度が知れます。

>また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。

私の「物自体」批判に反論がお有りなら、No-231で提起したように「流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか」に応じて、実際に議論の内容で反論してみたら如何ですか?
ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

296:2008/02/06(水) 07:24:32 ID:QpQGFxc6
続きます。

>>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

>ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー

一寸寒くなりました。どうも天気のせいばかりではなさそうです。
折角の機会ですから、地下猫氏の提起された「愛」に関するクイズを素材にして、私の「少しばかり広い意味での科学」を使って考えて見ましょう。広いと言うのは私の理解が広いと言う意味じゃ有りませんよ。対象とする範囲が広いと言う意味です。

なお地下猫氏の設問自体余りに漠然としているのですが、私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。

>>237;
>「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?(地下猫氏の設問)
>1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない(ご本人の答えの一部)


「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

類人猿のオス・メスの間に「愛」の感情が有るかどうか、難しい問題ですが、ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です。チンプやボノボ、ゴリラ、オランウータン、全てそれぞれ配偶システムが異なり、ヒトはヒト特有な配偶システムを発達させて来ているからです。
その理解に、適応上の淘汰を含め、進化生物学の知見が関与できない筈は有りません。

文化人類学のジョージ・マードックによる有名な統計が有ります。世界中の849の民族社会を調べての結論として、ヒトの配偶システムは全体として、ゆるやかな一夫多妻を含めて基本的には一夫一妻だと言うことです。
これは体の大きさの性的二型からも概ね裏付けられます。

それに対し、ヒトのオスの精巣はチンパンジーに次いで巨大です。
チンパンジー、特にボノボは猛烈な乱婚で殆ど挨拶代わりにSexをするようです。必ずしもオス・メス間の交尾だけではないのですが、チンプやボノボの巨大な精巣は、この乱婚による精子間競争に対応して発達したものです。
ハーレムを作るゴリラのオスでは、精巣の大きさはチンプの5分の1に過ぎません。

ヒトの進化の過程で、チンプのような乱婚の時代が有ったとは考えられないことから、ヒトの精巣の巨大さは、おそらく結構頻繁に婚外交尾、つまり浮気が有っただろうことを推測させます。
ヒトのメスに発情期が無くなり、当のメス本人にさえ判らない程に排卵時期が隠されることになった理由が、婚外交尾に関係しての「子殺し」防止では無いかと言う説も有ります。

ヒトは直立二足歩行により、メスの難産を招きました。
又、脳の巨大化によりますます難産の傾向が強まり、結果的に生理的な早産を発達させました。その為ヒトの新生児はあまりにも無力で、ヒトの基本である直立二足歩行さえ、およそ生後10ヶ月を要する程になっています。更にその後も長い間の養育が必要です。

こう言う状況下で、他の哺乳類のようにメスだけの子育ては不可能となって来ました。
オスに取ってもメスに協力して、一緒に子育てに励む行動を発達させた個体が、結局は多く子供を残したのでしょう。
更にはその絆を強くする為、お互いの「愛」を発達させた個体同士が、厳しい環境下でより多くの子供を残し、その形質がヒトと言う群れに広がってきたのでしょう。
その合間に適当に浮気を挟みながら。

こう言った進化上の要因が、人間の「愛」の考察にどうして関係しないと言えるのか。
そもそもヒトの配偶システムが、ゴリラのようにハーレムを形成するもので有ったら、或いはボノボのように猛烈な乱婚であったら、オス、メス共に今の人間の「愛」の形は、ガラリと変わったものになっていたでしょう。
愛は確かに精神的なものですが、その形成の基礎に人間の進化の過程が反映されていることは、およそ常識と言えるでしょう。

297:2008/02/06(水) 07:25:29 ID:QpQGFxc6
さらに続きます。

或いは社会的な影響も有ります。
江戸時代、近松の浄瑠璃などで心中物が大当たりをしました。これは封建制の中で、身分の違いによる男女の結婚が厳しく制約されたことが背景に有ります。
武士と農民の間で結婚したら、その子供はどちらの階級に属するか、と言う深刻な問題が絡みます。そんなことを何回かやっていたら、身分制度などたちまち崩壊するでしょう。
その制約の中で男女は、心中をする主人公に自分の心を重ねたのでしょう。

こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

ここで述べたことは、ホンの一部です。
直接「愛」の感情を司っている脳の機能には触れていません。これも当然考慮されるべきでしょう。

私は精神的な「愛」も、或いは「神」と言う観念的な産物も、その寄って立つ現実的な基盤があり、当然自然科学、社会科学の対象になり得ると思うし、その意味で「私が想定している『科学』は、地下猫氏が定義する『科学』よりも広い意味で捉えています。」と言っている訳です。

それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。


>>294
>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

298NAN:2008/02/06(水) 09:20:23 ID:???
>>雄氏

>>233 >>234については?

299NAN:2008/02/06(水) 11:33:50 ID:BZb9Dt8w
正直枝葉なんだけど…あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。
というわけで>>297:雄氏

>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

誰もそんなことを云ってないよ?
「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を支持(注:引用者による修正)しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ」という指摘は、キミが発したドーキンス本に対する主張に内在する表現の曖昧さや雑さから来る誤解か語弊かあるいは、確かに「自然科学的に実在しないものは研究として意味がない」という無意識下の本音の吐露に対してなされた指摘でしょ。

>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。
自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。

それでね、
>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
勝手な解釈なんだから、勝手にすればいいんだけど、愛というのをラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)に見出すというのも…なんだかとってもげんなりというか、短絡的思考に見えるんだよね。(これは、見える、だけなので反論ってことじゃないけどさ)

そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。
で、これに遺伝や進化学的な要素を絡めると、ドーキンスの利己的遺伝子のガイネンが役に立つ。遺伝子は自分自身とそのコピーを守ろうとし、表現型が拡張されると「体外の事象を自己の財産として子孫に継承する」という複雑な進化が起き、文化や文明の理解にも役立つんだろうな、と私は納得している。血縁淘汰と遺産相続に伴う家庭内紛なんか相関してて面白いね。

地下猫氏によるテーマの提唱とはさっぱりかけ離れた議論になっちまったけど(その責任は私にもある)、もうちょっと『愛』について。(byスガシカオ…ってうまいんだかうまくないんだか良く分からないけどなにげに好きだ)

男女の愛ってのは自己愛の拡張で、配偶者を「獲得し、所有する」という行為に絡み、やがて「血縁者を保護する・共有する財産を保持する」という情動に繋がるのではないか。ヒトには社会性動物としての稀な特徴である「なにかを所有する」という行動があって、所有(獲得)することを欲望するという、さらに因果な行動動機を持ち…結果として報われない愛の方向性のひとつに破滅があるんだろうね。これはラヴアフェアだろうが経済行為だろうが消費行動だろうが同じ。羨望・妬み・嫉妬なども報われない愛のカタチの類型かな。こういう短絡的かつ還元主義的な「愛の説明」を突き詰めていくと「愛の結果=シアワセ=所有満足度」なのではないか?という結論も出てくるし、それなりの説得力もあると思う。

こういったことを論じるのは、生物学的なアプローチも出来るだろうし、心理学でもアリだと思う。実際、私の議論の大半はこの二つの知見から出発しているし。自己投影とか依存の関係なんかも遺伝子を絡めて考えることは可能だよね。(つまり、自然科学的な学問として有意と判断)

300NAN:2008/02/06(水) 11:34:16 ID:BZb9Dt8w
さて、せっかくなので議論を本筋に戻します。
>>272で私が述べた「なにか」について。実はそれは「依存」である、と私は考えています。

依存は、程度によって「依存症」とさえなるとても因果な性質ですが、親子の依存に代表されるように割とさまざまな生物に普遍的に備わる性質でもある、と私は思います。配偶者への依存、親への依存、職場への依存、金銭への依存、さらにはネット掲示板とかギャンブルにまでヒトは依存できるわけで、対象が実在するなにかであろうが仮想の存在であろうが、おかまいなしに依存することができます。こうした依存の各種は、パーソナリティを保持する上で必要なものもあれば、逆にパーソナリティに対して障害をもたらすものであるのに、依存してしまうという種類のものもあるでしょう。アルコール依存や薬物依存が典型ですが、男女の依存関係や金銭への依存も度が過ぎれば破滅を生みます。

一連の議論で問題となっているのは「宗教の弊害」ですが、これは極端な主義・主張による弊害と言い換えることができ、原理主義だとか根本主義などに傾倒するという側面には、それら信仰への極度の依存が間違いなくあることでしょう。ここで、依存の鍵となるのは快楽です。快楽には「興奮」と「沈静」の二種があり、これは自律神経の作用と相関します。
■死への不安や人生の不安→信仰により和らげられる=マイナス方向の興奮(不安)が沈静される快楽(ダウナー)
■日常への倦怠感や無気力→信仰により活力を得る=停滞した沈静から活動的興奮へ向かう快楽(アッパー)

上記のうち、問題行動と結びつき易いのは、恐らくアッパー方向への快楽を求めて「なにか」に走る機会に於いて、ではないでしょうか。これは、受験やその他試験に対する不安や対人不安、財産を失う不安や死後の不安が信仰によって癒され鎮静されたからといって、それが他者への迫害や威圧行動に繋がるとは考えにくいというのも私の中にあります。(無論、信仰者自身の中でそれが本来の問題解決になるかどうか?は分からない)

A:信仰は、獲得し、所有される。
B:信仰は、快楽である。
C:信仰は、依存である。
上記の3命題の「信仰」には「配偶者」「仕事」「カネ」「セックス」「技能」そして「愛」など、およそあらゆる対象を当てはめることができます。それだけ我々の誰もが、信仰と似たものに傾倒し、依存しているということです。また、依存の度合いが強すぎたり、歪んだものになれば、どんな対象を当てはめても弊害を生み、時には暴力にさえ繋がるでしょう。これが最近気付いた「宗教批判の難しさ」の大きな要因です。

信仰が上記3命題を満たすものである以上、一旦それを所有し依存しているひとがこれを捨てることは、私が自分のパーソナリティを捨てられないように難しいことでしょう。愛して(所有して)いるものをあなたは捨てられるのか?という問題です。(時に、信仰はそれを求めるけれど)少なくとも、自分はなにも捨てないのに、相手には捨てろと述べるというのには不公平感があり、容認されることはないでしょう。

それでは当初、後悔と懺悔さんが述べていた「これから宗教に触れるリスク回避」についてはどうでしょうか。
私はそれを「科学的方法論を浸透させていくしかない」と述べましたが、基本的には変わりません。ただ、相手が快楽を生むモノである以上、科学的方法論は甚だ抑制的で、禁欲的でさえあるため、有効に働きにくいことも想像に難くありません。しかし、宗教が悪者であることを殊更「悪い事例」ばかり列挙して説得を試みたり、間違った一般化によってその弊害を列挙したりという、詭弁的な方法論よりはマシだろう、と思うのです。

1:所有や獲得(達成)は依存に繋がる。
2:ヒトはなにかに依存するイキモノである。
3:依存の度合いが強いか間違っていると弊害を生む。
結論として、知識としての核を成すのは上記の3点ではないでしょうか。迷信や超越存在に対する強い依存が弊害を生むのは間違いないことですが、その他のあらゆるすべてに対してだって同じことが云えることを、私は強く自戒したいと思います。最後に、ブッダの原典にはこれら依存のリスクへの警鐘が強く込められていたことを、あらためて指摘します。

301:2008/02/06(水) 19:26:26 ID:QpQGFxc6
>あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。

私の表現の稚拙さをご指摘なのであれば、それは甘んじてお受けします。
……ただ、話の進め方やテーマの扱いはそれぞれの論者の問題意識と直接関連していて、つまりその辺は私の「教導権」に属する問題だと思っています。今読み返してみても本人には特に問題を感じません。
と言うことで、多分今後も直らないでしょう。悪しからず。

同時にNANさんが何を聞きたいのか、イマイチ理解できません。全体としてNANさんのご主張の展開のようで、私としては「それはそれで良いんじゃないの」と言う感じです。
そこに私の「教導権」を主張する積りも有りませんし。

>自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。(No-299)

読んで頂ければ分かりますが、私は別に地下猫氏からの「科学主義批判」に反論なんかしていませんってば。する積りも有りません。明確になっていないのは当たり前です。
No-297でも「それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。」と書いて有る筈ですが。

私はただ、地下猫氏が「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは………」と書いて来たから「そんなことは言っていませんよ」と、いわば事実関係を返しただけで、その裏に地下猫氏がどう言う思惑を込めたかなど、余計な推測をする積りはハナっから有りません。
「無意識下の本音の吐露」かなんか知りませんが、後になってあれこれ付け加えられても、
「そんなの知ったことか」ってのが本音です。だったら最初から書けばいいのに、ってね。

302:2008/02/06(水) 19:27:06 ID:QpQGFxc6
「愛」について言えば、NANさんの解釈は解釈として「それはそれで良いんじゃないの」に尽きるのですが、私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

>最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。

「自分の命を守ろうとしたり」の行動は、特に愛などと言わなくても、捕食者から反射的に身を守ったり、交通事故を咄嗟に回避するなど、ウイルスからナメクジ、コウモリやカラスまで全て、本能(最近この言葉は使わないようだ)として持っているものでしょう。いわば危機管理ですかね。ヒトにおいてもその延長として理解可能です。
勿論、NANさんがそこに「愛」を見出しても「それはそれで良いんじゃないの」なんですけどね。

生物が生物たる目的は、自己複製でしょう。単細胞から無性生殖、有性生殖を含め、全てね。
ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)と呼ぼうが何と呼ぼうが、生物は、適応度最大化の為に組織されたタンパク質だと言って、大きく間違いではないでしょう(なお、ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)が可能なのは、有性生物、つまり生物の一部です)。

実際生物の行動は全て、適応度(つまりは残した子供の数)最大化の為に特化されていると言えます(人間の場合、社会が絡みますので少し複雑になりますが、これも社会科学という科学の範疇です)。

その中で、ヒトのオスとメスは子育ての必然からペアボンドを発達させざるを得なかっし、ペアボンド強化の為に、つまりは絆を強化する為に「愛」と言う感情を発達させた個体が、オスもメスも結局適応的だった、と言うのが私の見解です。
だから人間の「愛」の契機・基本は、男女の愛からだったろうと………。
「ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です(No-237)」との、私の書き込みはその辺を歴史的に俯瞰したものです。

人間の「愛」の感情を全て、進化生物学で解釈できるとは言っていません。しかしその理解の基礎に進化生物学が関われることだけは確かです。
そしてこの掲示板で今問題になっていたのは、NOMAとの関係も含めて、そう言う「愛」とか、芸術とかを科学として扱えるかどうか?、と言うことだった筈です。

私は「扱えるんじゃないの」と言う立場で、幾つかの項目に渡って例を提示した訳です。若干中身に踏み込んでしまいましたが、兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

しかも私の「少しばかり広い意味での科学」に対する、地下猫氏の揶揄(と言うか、何というか)への反証として、丁度手ごろな教材としての意味合いも含めてのことです。

>>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。
>誰もそんなことを云ってないよ?

「愛」が科学の対象にはならない、とするどなたかの主張が有ったようなので、そのアンチテーゼとして言ってみた訳なんですがね。


>>233; は従ってコメント済みだと思います。NANさんの意には沿わないかもしれませんが。
>>234; についてはなるべくそのうちに。

303diamonds8888x:2008/02/08(金) 06:30:39 ID:jcR/Lf4.
>>302
>兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

 これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
 それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

 「基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考え(>>281)」ということでは全く異論はありません。ですが、その研究対象をどのようにして【自然科学的な意味で】の存在と【人文・社会科学的な意味で】の存在に区分けするのか、というところで、どうもしっくりこないのです。この点については考察中なので時間を下さい。


 雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。

>私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

 私の回答(>>279)では「何かを愛する」ということで、ここの何かは何でもよいと想定しています。異性愛については自然科学的研究も実際に進んでいるので例として挙げやすいことは確かです。ただ設問は「存在すると思うか?」であって、「実際に科学的に研究されているか?」ではありませんでしたから。

304:2008/02/08(金) 09:08:31 ID:QpQGFxc6
>これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
>それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

diamonds8888xさんの「突っ込み」の意図は充分理解できます。以下三点ほど言い訳です。

一つには地下猫氏の設問「「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?」が、私からすると色々な意味にとれて………。
だから一応私も、(>>296)で、「『愛』は精神的なものです。その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。」と書いては置いたのですが。つまり「愛」と言う固まりのようなものが有る訳では無いと。
だからモノとして直接「愛」を自然科学の対象には出来ないし、その意味では『自然科学的な意味で存在』しないのは当然な訳で、まさかそんな陳腐な意味での設問ではないだろうと思ってましたし。

二つ目として、元々私は地下猫氏のクイズに参加する意志は無かったのですが、猫氏から私の科学観(猫氏より少し広く、科学を見ている)について揶揄されましたので、その返答として、丁度手元に有った手頃な教材として「愛」を選んだってことで。
そんな訳で猫氏のクイズに「逐条的」に対応する形は取らなかったし、その積もりも無かった。

三つ目、このトピで一貫してNOMA的主張への適否と言うようなことが議論されていて、一部の方々は「愛」とか芸術とか、そう言ったものは科学の対象にならない旨主張されていたようなので、私はそうは思わない、と言う観点でコメントしました。
ですから「>ただ設問は存在すると思うか?」と言う枠をはみ出しました。と言うかそう言う枠は意識していなかったと言うことですね。
アプローチの仕方は異なっても、科学はどこにでも突っ込みどころは有る、と思っている訳です。
そして社会科学も又、立派な科学で有ることには、多分diamonds8888xさんと問題意識を共通にしています。


実はこれから出かけます。

>雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。
>異性愛については………、

これらについては後ほど書き込ませて頂きます。
「愛」の適応上の考察(私はそう言う問題意識で書き込んでいますが)は、非常に面白そう。
多分又、ずれまくると思うのですが、悪しからず。

305AH1:2008/02/08(金) 13:30:13 ID:zfjW98z.
「愛」と人が呼ぶ、あるいは感じる、であろうところのナニカに生物学的基盤は当然あると思いますが、
行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑

というような感じかなー、と漠然と思いました。

306:2008/02/09(土) 08:32:08 ID:QpQGFxc6
RE AH1さん
>行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑
というような感じかなー、と漠然と思いました。

どうしてどうして、感動モノですよ。
あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。

およそ15億年ほど前、性が初めて生まれたとき、それは繁殖とは全く関係なかったらしい。と言うより繁殖の効率から言うと有性は無性に勝てっこないし、利己的な自分の遺伝子を、それも繁殖に辿り着くまで勝ち抜いてきた優秀な遺伝子を、わざわざ半分他者に明け渡す行為だし。
普通なら有り得ない性が、淘汰をくぐり抜けてかくも発達したのは何故か?、とか。

遺伝情報の交換だけなら特にオスとメスに分かれる必要など無いのに、何故オス・メスか?、或いは何故、オスとメスしか無いのか?、とか。
そもそも、オスとメスの違いは何か?、とか。
何故オスとメスの性比が常にほぼ同じになるのか?

今では当たり前に理解出来ていることを、10年以上前に初めて読んで知ったオトコの子としては、一番興味のある分野での知的興奮で、その時多いに胸をドキドキさせたことを覚えています。
ハッキリ言えることは、性の始めに愛などと言うものは無かったということです。

………と言うことで、「愛(の感情)」の起源考です。
>>296;で私が、
>>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
………と書いたことへの言い訳でも有ります。


>>299;NANさん
>そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。

NANさんが「自己愛」を「愛」の感情の起源として主張しているのかどうか、或いは「愛」の発露として、基本として述べられているのか、イマイチ分からない所も有りますが、どちらにしても私は二つの意味で同意出来ません。

1)、NANさんが述べている内容は殆ど生物の行動一般と重なります。或いは生物の本能、生物そのものと言っていい。大腸菌がブドウ糖の濃度勾配を感じて移動する行為も自己愛と言うことになります。
それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

2)、自己を自己と認識するのは、相当高度で抽象的な意識の能力を必要とします。目の前に獲物が現れたのを反射的に感覚するのとは訳が違います。
鏡に映った自分の姿を自分だと理解できる動物は、類人猿でも限られているらしい。
その自己をさらに「愛する」と感情するには、多分又幾段かの意識の能力を必要としそう。
少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

307:2008/02/09(土) 08:36:58 ID:QpQGFxc6
「愛」の起源を考えるとき、やはり私は適応上の問題として考えるべきだと思います。

ヒトの近縁である類人猿にはテナガザル、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボがいますが、全て配偶関係が異なります。それはそれぞれが置かれた環境での、主に食料事情などの制約によるものでしょう。
ゴリラはハーレムを作るし、チンプ、ボノボは乱婚です。特にボノボはひどい。観察によると1日50数回のSexに励んだメスが居たそうです。尤もボノボのSexはオスとメスの交尾に限らず様々あるようですが。
テナガザルは生涯に渡る強固な一夫一婦制ですし、オランウータンは単独雄と、母子集団という形をとるようです。オランウータンのメスはヒトと同じく発情期が無く、オスによるレイプも有るらしい。

これら類人猿に「愛」の感情があるかどうか難しい問題ですが、ただ考えて直ぐ分かることは、若し人間がゴリラのようにハーレム型の配偶関係だったり、ボノボのように乱婚だったとしたら、「愛」の感情も今とはガラリと変わったものになっていただろうことだけは確かです。
現在の人間が持っている「愛」の感情の起源は従って、チンプなどとの共通祖先から分岐した後、ヒトとして進化してきた過程の中に見出されるのではないでしょうか。

ヒトはオス・メス共同して子育てをするという、実は類人猿の中でも珍しい動物です。その点ではツバメやミツユビカモメなど、鳥と共通点が有ります。浮気と言う点でも共通点が有るらしい。
哺乳類はその定義上、必ずメスによる子育てが有りますが、ペアを組んだオスがそれに関与すると言う種は多くないんですよね。

ヒトのメスは直立二足歩行により難産になりました。
直立することで骨盤が内臓の重みを真下で受けることになり、形もお椀型になったのですが、ここでメスにとっては宿命的な矛盾を負うことになります。
内臓を支える為には骨盤の開口部が狭いほど良い訳です。でないと臓器がその開口部からはみ出してヘルニアになってしまう。
しかし開口部が狭いと、出産のとき胎児の頭が通り抜けられなくなる。

そこに輪をかけてヒトの脳の増大と言う問題が出てきます。特にそれが顕著になったのは「賢い人」ホモ・ハビリス辺りからですかね。
この矛盾をヒトのメスは、生理的な早産と言う手段で解決しました(と言っても完全には解決される筈は無く、出産で死ぬ女性は珍しくなかったし、今でも産院に響き渡る程の叫び声で出産するのは人間の女性だけです。ゴクロー様です)。
つまり、胎児の頭が完全に成熟する前、本来の出産時期よりおよそ10ヶ月前に産み落とすことになった訳です。

その為ヒトの新生児は極端に無力です。牛や馬の子供が生まれて30分もすれば歩き出すことと比較して、ヒトの新生児はヒトの一番の特徴である直立二足歩行が出来るまで10ヶ月を要します。
又、そもそも脳の増大を招いたのは主に道具の作製・使用とコトバによるものですが、その習得の為にヒトの子供は産まれてからも長い教育訓練を必要とします。

アクア説啓蒙者のモーガン女史に言わせると、さらにヒトは無毛になった為、他のサルのように子供が自分で母親の毛をつかんでしがみつくことで、母親の両手を開放させることが出来なくなったと言うことです。
ヒトにあって子育ては、到底メスだけで手に負える仕事ではなくなってきました。

308:2008/02/09(土) 08:37:44 ID:QpQGFxc6
哺乳類はその定義上メスの子育ては必然です。若しそれだけで可能ならヒトのオスも子育てを全てメスに押し付けて、自分は次の配偶相手を探す行動を発達させたでしょう。ハーレムを巡ってオス同士争うか、チンプやボノボのように乱婚に走ったかも知れません。生物は適応度最大化に特化したシステムですから。

ヒトの場合、上記の事情でメスだけの子育ては困難になりました。オスが子育てをメスに押し付けて別の配偶相手を探したら、繁殖機会は増えるかも知れないが、生まれた子供は育たないことになるでしょう。
メスに協力して子育てに関与する行動を発達させたオスが、結局はより多くの子供を残した筈です。要するにそれがオスにとっても適応的な行動であった訳であり、更にはメスにとってもそう言うオスを選択すことがが適応的だった筈です。
類人猿の中でも、特異なヒトの一夫一妻制はこう言う背景で生じたものでしょう(テナガザルも一夫一妻ですが、これは主に食料確保の制約によるものです。多分)。

そして一夫一妻という配偶関係をより強化する為に、ペアボンドとしての「愛」の感情を発達させたオスとメスが、厳しい環境の中で協力し合い、より多くの子供を残したのではないか。その愛の感情は子供に引きつがれより強化されてきたのではないか。

私は人間の「愛」の感情の起源はこう言う経過を辿ったのだと思います。
そして何時のことか分からないけれども、そう言った感情(シニフィエ)に「愛」の語彙(シニフィアン)が割り振られ、全体で「愛」と言う言葉、概念が出来ていったのでしょう。

一旦概念が出来ると、その語彙の使い回しで、漠然とした同じような事象を同じ語彙で表現し、その範囲を他から切り分けることになります。ピン止め効果とでも言おうか。
自己愛にしろ隣人愛にしろ、物に対する愛でも何でも、私はそうした経過でその後に出来たことだと思います。
特に日本語のような膠着語は簡単に語彙を増やし易い。そしてその過程で語義の転化が起こります。愛、哀、合い、会い、相、遇いなどはおそらくそうしたものでしょう。


なお上記内容は「愛」の感情の"起源"についての私の見解です。
人間が社会を形成し、5000年程前から私有財産を持ち、階級に分かれてからは又それぞれの制約を受けることになります。
資産があって子の面倒を召使なり他人に任せられるオス、例えばオスマントルコのスルタンだったと思いますが、ムーレイ・イスマイルと言う男は多くの後宮を相手に888人の子供を成したそうですし、古代インカの皇帝も国中の処女を選別したとか。日本の大奥も同じようなものでしょう。
>>297;で述べた近松の心中物もそう言った文脈の中での例です。

「愛」の全てを進化人類学に還元することは勿論出来ないにしても、今の人間がおそらく共通に持っている愛の感情の基礎を理解するのに、進化の理論が役に立たないことは無い筈です。

309ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:47:18 ID:vUxNW.gI
AH1さん、NANさん

「水伝教」の件、くだらない仮定の話につきあってくださってありがとうございました。
雄さんの書き込みを読んで考えたのですが、「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

310ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:56:22 ID:vUxNW.gI
猫さん

レスありがとうございました。

>馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
>ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、
>敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、
>味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。

これは、耳がいたいですね。NANさんにも指摘されたことですが、確かに宗教批判するときに「最低」を基準にして「全体」を批判する傾向があります。まぁそれ以外にも「宗教全体」に対する疑問は疑問としてあり、ドーキンスを支持したくなる理由もあるのですが。

311NAN:2008/02/09(土) 19:41:37 ID:G81kGdtk
枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

>>306
>それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

>少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

自己を自己と意識する必要?キミは情緒における自己と個体認識としての自己を混同しているでしょう。愛の発現を生物学的に解明しようというのであれば、ヒトを見るよりもまず、その他の生物に普遍的に見られる行動的特徴から、我々が「愛してるっぽい」と感じる行為をピックアップし、それがどうヒトに共有され、変化したのか?を探るべきだよね。なぜなら、愛がヒトだけのものでなくてはならない理由などないのだから。
カメムシが自分の子供を背負っているのを見て、我々ジンルイは「母は子供を愛しているのだなぁ」とか云う。無論、カメムシが私たちヒトと同じ情緒的な意味で「子供を愛している」などと私は思わない。いやむしろ、子孫を守ろうとする激烈な行為の発現に於いては、彼らのそれの方が遥かにヒトを上回るだろう、と私は思う。

それでは、なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
雄クンがなにをもって「愛」と述べているのか、私にはいささかも理解できないけれど、愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。そう、なるほどヒトは複雑な情緒を持ち、さまざまな性癖を持っているけれど、なにかを守ろうとする激烈さに於いては、他の生物種に一歩も二歩も行動としては劣る。この点について私は、愛、と呼ばれる「なにか」の本来的な要求から、ヒトはむしろ離れているとさえ考えている。

さて、もう一歩議論に踏み込む前に、私から「愛」を定義してみよう。無論、私の個人的な定義なので反論も異議もあるだろう、と思う。
1:愛は平等なものである。
2:愛とは与えるものである。
3:愛は寛容である。
4:愛は普遍的なものである。

実はヒトほど「愛」からかけ離れている存在はないだろう、と私は思う。たとえば「男女間の愛」について述べるなら、ヒトは性行為を経済行為として「商品化」し、これを古代から受け継いでいる。また、所有する財産や社会的地位によってさえ、繁殖・婚姻の機会が大幅に変動し、差別的である。これは他の社会性動物にも云えないことではないが、ヒトの顕著さは目を見張るばかりだろう。これらによって「男女の愛はまやかしに過ぎない」とまで私は述べないけれど、愛に対する誠実さ・切実さに於いて、ヒトは他の動物種より劣る、と考えている。

312NAN:2008/02/09(土) 19:42:01 ID:G81kGdtk
それでは非常にチンプで破廉恥な、ヒトにおける愛とはなんだ?と考え出すと、自己愛以外のなにがあるんだ?と私は考える。先に述べたように、生物は自分の生命を守ろうとする。そのためにさまざまな防衛手段を発達させた。また、その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。これら他の生物種が行う利他的行動を、ヒトがもしも行ったのであれば(そういう実例は数多くあるけれど)、それを「愛」と賞賛しないだろうか?なぜ、ヒトと同じ情動や意識下にないものが「愛ではない」と断言できるのか?むしろヒトほど愛を理解できない生物はいないからではないか?と考えたほうがすっきりできるのではないか?さまざまな生物種が行う慈愛的だったり利他的だったりする行動を見て「いや、あれはただの本能だよ」というヒトの傲慢ぶりに、愛との断絶があるのではないのか?そう、彼らの脳裏にはヒトと同じ情緒もなければ意識もないだろう。だがなぜ「同じでなければならない?」と、私は繰り返し問おう。

次に、ヒト「だけが」持つと思われる「愛と呼んでいる不明瞭な情緒」について。
小学校に上がるか上がらないかくらいの児童でも、感動的な絵本や物語に触れて涙することがある。これは「物語の登場人物に自分を重ね合わせる」という自己投影の結果に起こる現象だろう、と私は思う。あるいは、母親が持つ、男女の愛など簡単に消し飛ぶほど激烈な子供への慈愛や寛容さは、なにに端を発するのだろう?それはやはり、自己を投影しているからではないだろうか?つまり、母親は自分を愛するのと同じか、それ以上に強い衝動的な情緒に突き動かされることがある。これが男女の愛の比ではないことは、経験して見れば誰でも理解できるはずだ。

つまり、ヒトにおける「愛とか云う情緒」は、基本的に自己とその拡張である。男女の恋愛感情などまったく発現する以前の児童でさえ、自己を投影して他人の感情や境遇を思ったり、慈しみに近い感情を持つことができる。ちなみに男女にあるのは依存関係であって、愛とは若干違うだろう、と私は考えている。

最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

313:2008/02/10(日) 11:07:10 ID:QpQGFxc6
>枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

NANさんも結構長いですよ。…まぁいいけど。
最初に事実関係を………、

>キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

私は置き換えていませんよ。
人間の「愛」の感情とその起源を理解する為に、ゴリラともチンプとも違う、ヒトだけが辿って来たであろう進化人類学的な事情を解明するのは必須です。
その事情として、直立二足歩行や難産、それに伴う新生児の無力化を挙げたのですが、これはNANさんご指摘の「ヒトの生態」です。NANさんはこれを「愛」に置き換えられると言うのですか?
多少なりとも唯物論をかじった私としては、感情である「愛」と、その実在的基盤(NANさんが言う生態)を混同するようなことは、絶対有り得ません。


既に水掛け論の様相を呈してきました。そろそろ収束の頃合いかも知れません。

>>311;>>312;でも、NANさんが延々と述べられている生物の「愛」の行動について、既に、>>306;で「生物」「生物の行動」の単なる置き換えに過ぎないと述べていますので、ここで繰り返しません。
今回気が付いたことに絞ってコメントさせて戴きます。

>なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
>愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。
>その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。

これなどドーキンスの「利己的な遺伝子」とどこがどう違うんですか?
「利己的な遺伝子」についての賛否、評価については人それぞれだろうけれども(地下猫氏も『利己的な遺伝子』に付いては一定の評価をしているようだ)、NANさんに拠ればこの本一冊、丸ごと「愛の物語」になりそうです。

ドーキンスが、或いは進化生物学全体が理論付けた内容を、愛の物語に仕立てるのはNANさんの思想信条の自由だとして、しかしそれで一体何が分かったことになるのですか?
「愛」などと言う概念を殊更に持ち込まなくても、NANさんが述べられた「自己保存」「自己防衛」「子孫の繁栄」「利他的行動」など、全て進化生物学的な適応で解釈できます。
産卵の為命を投げ出す(と言うか命を掛ける)動物などザラにいます。と言うか遺伝子を次世代に引き継ぐ、それ自体が生物の本質じゃないですか。その為に特化したシステムが生物です。
だからここでもNANさんの言う「愛」は、「生物」「生物の行動」の単なる置き換え、同義置換、トートロジーに過ぎません。

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
環境汚染や温暖化を受け入れて、ただそこに佇む、愛の存在などと詠嘆するのは結構だとして、酸素も石灰岩も鉄も、全て生物との共同制作物です。或いは温室効果ガスも然り。
大事なことはそう言う地球の危機を科学的に分析し、経済や生活と折り合いをつけながら、危機を回避する方向での自然科学的な対象として、人類の英知をそこに向けることでは無いのか?

尤もNANさんが、汎神論者を任じているのであれば、それはそれで一つの立場です。

遺伝子DNAを基礎とした(全てそれに還元される訳じゃないが)生物一般の行動様式は、当然類人猿やヒトの行動の土台です。それを「愛」と呼ぶかどうかは別として、そのことは当然私も認めます。
しかし人間の愛の感情をその生物一般の「愛」に還元することは出来ない。なぜかと言えば一番近縁な類人猿でさえ全て配偶関係が異なり、当然愛の感情(そう言うものが有るとしたら)も全て異なるだろう筈だからです。

人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、進化の歴史の過程でヒトだけが辿ってきたヒト特有の事情を、適応上の観点から見ること無しに、人間の愛の感情を理解することは絶対にできないと思う、「今日この頃」。

314:2008/02/10(日) 11:08:01 ID:QpQGFxc6
旧聞と言うことになりますが、何かのついでにと思っていた、>>229;の「妖精論議」についてもこの機会に少しばかり異議申し立てをさせて頂きますね。

>今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

本当に等価でしょうか?、妖精を神に置き換えても話の事情は同じですよね?
主にキリスト教系の神を念頭に考えて見ます。妖精で考えて貰っても同じことですが、神の方が話が分かりやすい。

私は無神論者です。精神的にも実践的にも神を必要としません。
こう言う罰当たりな者にとって、神の実在証明は勿論ですが、不在証明も実は全く必要無いのです。世界中の殆どの人が、スパゲッティモンスターの不在証明を必要としないのと同じことです。ですから殊更神の不在証明にエネルギーを割くことはしません。

しかし神を信じている人は事情が違います。
神の実在は、聖職者にとって死活問題だろうし、熱心な信者にとっても生きる支え、心のつっかい棒でしょう。バチカンや協会を頂点とする壮大なシステムが虚構となるかどうかの深刻な大問題です。
当然実在証明にも気合が入らざるを得ません。事実その為に多くの賢者と言われる人たちが、膨大なエネルギーを注いだことでしょう。

又、難易度と言う点でも雲泥の差が有ります。
実在証明は、たった一度それを示せれば良いのです。神でも妖精でも一度お出まし願って、記者会見でもテレビカメラの前でも、批判者の検証に晒せば実在を完全に証明できます。
しかし不在を証明するには、あらゆる実在の可能性をしらみつぶしに否定する必要が有ります。だからこそスパモンも不在を証明できないのです。

若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません。

必要度や投下エネルギー、難易度の点でこれだけの極端な勾配が有るとき、単に表面的な結果が同じだったとして、それで等価と言えるでしょうか? 私は神に対する、度外れて「不相応な敬意」だと思います。
事実の経過は、死活的な必要度に迫られて、神のグループが総出を挙げて、長い間膨大なエネルギーを投じたにも関わらず、こんな簡単なこと(不在証明と比較して)も証明できなかったと言うことです。

ここから論理的に導かれる結論は、神(或いは妖精など)の実在は限りなくゼロだということじゃ無いですか? ゼロと断定は絶対に出来ませんが。
その点ではスパモンと比較してさえ、神の実在は蓋然性が低いと言わざるを得ません。スパモン教はその実在証明にそれ程血道を挙げているようには思えませんからね。未だ見つかる余地を広く残していると言えます。

それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

315NAN:2008/02/11(月) 09:56:59 ID:G81kGdtk
>>313
つまり雄クンは「愛はヒトが独占的に持つ特性である」と述べているのだね。そして愛は男女間の愛に代表される、と。
>>314については特にコメントの必要なし。

316NAN:2008/02/11(月) 10:07:59 ID:G81kGdtk
ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。

差別的性向が適応度を高めるって云う議論は肯定するけれど、それを愛と呼ぶ傲慢は否定。
以上です。

317ちょちょんまげ:2008/02/11(月) 14:48:16 ID:vUxNW.gI
ちょっと酔っ払ってます。少々の失礼、トンチンカンがあってもご容赦。
まぁまぁお二人ともって、白黒つけたがる性格の私がこういうことは珍しいのですが、

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。
ニンゲンの言葉としての「愛」の定義はこれがぴったんこだと私も思う。

>地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
これはこれで素晴らしい。NANさんはあまり肯定しないかも知れませんが、私はこの「理性」部分が好きです。
(NANさんがおっしゃる「人間として良くあろう」の一つの側面として)

お二人は噛み合って無いように感じていらっしゃるかも知れませんが、少なくとも私には、お二方のご意見は極めて有意義です。

318e10go:2008/02/11(月) 19:59:29 ID:5/V6R9W6
雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

雄さんは「愛」を「異性愛」に限定して科学で説明を試みているけど、何故「異性愛」に限定するんでしょうね。
確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。
しかし、「愛」はもっと広い意味があるんだから、(現在の)科学で説明できる事とできない事があると思います。
人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。
「愛」の形には多様性があり、「セックス」と関係なく「感情」をともなう部分があり、「感情」の部分は現在の科学では解明できないものもあります。

私は、NANさんの >>312 の最後のコメントが気に入りました。
>最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
>たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

今の私は、「愛」について「Aセクシャル」の「無性愛」に興味があります。

319:2008/02/11(月) 23:21:43 ID:QpQGFxc6
>雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

錯覚では有りません。
科学によって直ぐに全てが解決できると思うほどノー天気でいる訳では無いし、科学の悪用も有るので、「科学万能主義」と言う呼び方が適切だとは思いませんが、真理への接近の道が有るとすれば、それは科学だろうと思っています。


>確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。

…ですよね。
でもこの板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、「存在しない」と言う見解が主流のようでした。
そうではないだろう、と言うのが私の主張であって、それによって『異性愛』に限定しただけにせよ「科学で研究は可能」と思って頂だけたら嬉しいことです。一角が崩れた訳ですね。


>人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。

私は「愛の感情」の起源について述べています。その点で若干問題意識のすれ違いが有るのだろうと思います。

確かにe10goさんが述べておられるように「愛」はたくさん有りますね。しかしいずれにしてもこう言った感情は人類の長い進化の過程の、どこかで獲得し発達したものである筈です。
e10goさんが挙げられた、それぞれの、似たような内容を持つ感情が、ヒトの歴史の中で全く独立に、平行してヒトの意識に発生してそれぞれ別個に発達し、それに対してたまたま「愛」と言う同じ語彙が割り振られたとは到底考えられません。

そうではなくて、ヒトが生き残る上でののっぴきならない事情によって、先ず最初に何らかの、そう言った漠然とした感情がヒトに芽生え、それが適応上有利であった為選択され、定着・発達するに従い、次第に輪郭のハッキリした感情となり、いつの頃かその感情に「愛」と言う語彙が与えられたのでしょう。

その感情を内包とし「愛」と言う語によって外延とされる、「愛」の概念が次第に形成されてきたのだと思います。
そしてその過程で、同じような内容をもつ様々な、漠然とした意識内容が、先行していた「愛」の概念に寄りかかる形で輪郭化され、同じ語で呼ばれるようになったのでしょう。それがe10goさんが挙げられた様々な「愛」のバリエーションだったのでしょうね。
私はそう思います。

問題はその最初の「愛」の感情を生み出した「のっぴきならない事情」とはなんだったか? と言うことです。それは適応度と直結したもので有る筈です。

ヒトが置かれた進化の過程で、我々の遥か祖先のオジイチャンが、パートナーと一緒に子育てすると言う行動を、若し発達させることがなかったら、その行動を強化するために「愛」の感情を発達させることがなかったら、今の我々はまず存在しなかったでしょう。とっくに人類は絶滅していたか、少なくとも今の複雑な社会を築くことは有り得なかったでしょう。

「同性愛」「無性愛」「親子愛」「隣人愛」「人類愛」「自己愛」「地球への愛」などは、その後に発達させても充分間に合うことだったでしょう。
私はそう思うのです。

320GB:2008/02/11(月) 23:40:09 ID:zXfK7pu6
>>319
たとえばドストエフスキーの言う「人類を愛するのはたやすいが、隣人を愛する
のは難しい」といった次元の愛という表現は、どう理解したらいいでしょうか。

321:2008/02/12(火) 00:02:59 ID:QpQGFxc6
>>320

繰り返し述べているように、319を含め、「愛」の感情の起源についての私の見解表明でした。
現在の既に確立した「愛」の概念を使って、それぞれの人がどう言うことを言ったかは、今度は文章の解釈、表現、或いはその人の思想とか、考えとかと言うことになるんでしょうね。

ドストエフスキーがどう言う状況で、どう言う意図で述べた言葉であるか、私には分かりかねます。

322GB:2008/02/12(火) 00:16:42 ID:zXfK7pu6
>>319
>この板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、(略

そもそも…ズレてません?

323NAN:2008/02/12(火) 03:48:32 ID:G81kGdtk
「愛について」はもうやめたつもりだったんだけど、撤回。だってさ…んなのあり得ないだろ?
生物学的議論と限定してでさえ、親子の愛が「後からでも間に合う」などと云う、バカとしか云いようがない主張まで出てきたからね。
適応度の概念を用いたとしても、配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?てめぇで書いてるよね。生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ。だったらなんで「親子の情」が配偶者の情より愛の起源として高いプライオリティになるんだ?子から親の情、親から子への情がどれほど深く永いものか、さっぱりワカランのかね。ヒトオスの愛情表現なんか、子から親への情の架け替えじゃんか。

つぅか「愛」ってなんだ?
愛の定義をおざなりにして「愛を科学で説明する」ってのがまず、ポンツクなの。だいたい想像がついてるけれど、愛のなんたるかを少しも熟慮しないで激しく偏狭な勘違いを愛と定義しているらしきところからダメダメ。オスメス共同の子育てや配偶者間の役割分担なんか他の動物種でもあるだろ。ニンゲン至上主義ってのは科学万能主義より始末の悪ぃバカ丸出しだよ。あ、ついでに男性至上主義も混ざってんのかな。愚の骨頂だぜ。

しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

324AH1:2008/02/12(火) 12:22:28 ID:sNMJ1V0Y
>どうしてどうして、感動モノですよ。
>あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。


いやそれは・・ 確かにそうなんですが、なんか話が違う。うまく言えないんだが。
漠然としたイメージだけを言えば、「知的理解や生物学的基盤は『愛を理解する』ことの一形態であろうが、それが全てじゃあるまい」という事、かな・・・ 私が感じているのは、それだけの事かもしれない。そして、生物学など何も知らない作家や詩人の、あるいは人々が日々の行動でもって描き出す「愛」に価値がないかといえば、そんな事はないと思うのだけれど。

325AH1:2008/02/12(火) 12:25:29 ID:sNMJ1V0Y
>「水伝教」の件、

いえいえ、こちらこそ。

>「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

余計なことは考えない、というのも適応的な戦略でしょうね。少なくとも節約的です。

326e10go:2008/02/12(火) 13:32:39 ID:5/V6R9W6
>>319
「愛」ってもっと広い意味がありますよ。
全ての「愛」についての「感情」の発現が同じとは限りません。
色々な「愛」に対する「感情」の発現機序を考えてみては如何でしょうか。
例として、「親子の情愛」、「ペットの愛犬を愛する」、「登山家が山に登る事を愛する」または「スキーヤーがスキースポーツを愛する」

327:2008/02/12(火) 16:41:13 ID:QpQGFxc6
>配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?

自分のコピーを守る為にこそ、ヒトは「愛」の感情を発達させたと言っているのです。その感情を発達させなかった個体は自分のコピーを残せなかったでしょう。つまりヒトにおいて、メスだけでは子育ては難しかったのです。
共同して子育てをするオスの行動、その行動を強化する為の「愛」の感情を発達させた個体が、そうでなかった個体より適応的だった、と言っているのです。
子供が残らないのに、「親子の愛」の感情が発達する筈もないでしょう。
「配偶者間の感情」と「自分のコピーを守る」ことを、何故対立させるのですか?

「親子の愛」の感情など一切抜きに、自分のコピーを残している生物など幾らでもいます。
大腸菌の細胞分裂、カビの胞子、タケノコ、イチョウの実、等など、etcエトセトラ。
そもそも自分のコピーを守ること自体は生物そのものの本質です。生物と言わば同義です。そこに「親子の愛」だの「感情」だのと別次元の問題でしょう。そんなものを特に持ち込まなくても、幾らでも理解は可能です。
NANさんはここでも、「利己的な遺伝子」を「親子の愛」に置き換えたに過ぎません。

ゴリラもチンプもボノボも、父親は子育てに関与しません。
そもそもチンプやボノボでは、子供の父性さえ特定できません。父性の混乱を目的にメスは乱婚を発達させたと言う説が有力です。主に子殺し防止の為に。
まして哺乳類一般では、その大半で、半分の性は「親子の愛」の感情など、殆ど発揮する余地が有りません。
NANさんが言う「親子の愛」の感情・行動など、それ程普遍的なものではないのです。

そもそも私は(>>313)で、
>>人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、

として、NANさんの「>生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ」は既に、私の主張に織り込み済みです。
更に繰り返し述べているように、私は人間の『愛』の起源を「メスの『子育て』に協力する行動を発達させたオスはそうでないオスより適応的だったし、その行動を強化するために『愛』の感情を発達させた個体同士が、そうでない個体より適応的だった」としています。
ここでも『子育て』はとっくに私の主張に織り込み済みです。


>しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

期待に背いて申し訳有りませんが、既に確立した概念としての「愛」は複雑で多岐に渡るでしょう。それを一言で言うことは出来ないし、その必要も有りません。それは言語学の分野でも有るでしょう。私が述べているのは非常に漠然とした、そう言った感情の「起源」についてです。
少なくとも私は、地球を「愛の定義」で理解しようとは思わないし、(>>306)でのNANさんの「愛の定義」に当てはまらない現象など、幾らでも挙げられます。


ところで………、
>ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。(No-316)
>314については特にコメントの必要なし。(No-315)

クゥー!!、スルーせずにコメントして欲しかったなあ!!!!

328:2008/02/12(火) 16:45:36 ID:QpQGFxc6
RE GBさん
>そもそも…ズレてません?

まあズレているのは有る程度確信犯なのですが、質問・批判・非難に応対する形なので、あの形以外今のところ考えられません。
若しズレていて興味に合わないのであれば、無視していただけると有りがたいのですが。

RE AH1さん
>なんか話が違う。うまく言えないんだが。

元々、「愛は自然科学的に存在するか?」と言った問題に対し、私は関与しうると言う見解で、その例として「愛の起源」を述べ始めたら、その中身が本論になってしまったと言う訳で。
内容はあくまでも私の個人的見解ですが、兎も角科学の俎上には乗ると思っています。


RE e10goさん
>「愛」ってもっと広い意味がありますよ。

ですから色々有るけれども、その似たような感情が人類の祖先の歴史の中で、全く独立に平行して発生、発達したとは考えられない。
最初はある一つの漠然とした感情が発達して、そのバリエーションとして広がったのだろう、と言うのが私の見解の訳で。それが>>319;です。

勿論e10goさんがそうでないと言うことなら、それはそれで結構ですけど。

329GB:2008/02/12(火) 19:56:08 ID:kYOag.zk
>>328
>まあズレているのは有る程度確信犯なのですが(略

あー、一言だけ質問を。

スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。
それぞれ個別に科学の対象になるかどうか、という話ではないですよね。

それが分かってて、なぜ愛の起原にこだわらなくてはならないんですか?
(いや、愛の起原の話自体は、興味深いし面白いですけど)

330:2008/02/12(火) 23:32:07 ID:QpQGFxc6
>スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。

うーん、
今一寸頭に浮かんだことを書いてみますね。だから今までの「愛」についての問題と違って、後で「訂正」と言うことが有り得ますので、その点、悪しからず。
それとGBさんの問題意識と噛み合うかどうか、それも自信は有りませんが。

愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、これら全ては「意識内容」です。そう言う点で実体ではない、つまり固まりのようなモノが有る訳ではない。
しかし愛と、妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想は明らかに違う。その違いはおそらく感覚器官を通しての意識への反映かどうか、の違いじゃないでしょうか。

唯物論の物質定義として、「意識の外にある客観的実在」と、単に言い切るだけでなく「感覚器官に与えられる」と言う条件が付きます。それは主に神に対する配慮です。
つまり、神(客観的観念論)の側は、「あなたがどう思おうが、神はあなたの意識の外に客観的に実在します」と主張する。
しかし神はどんなことをしても、どんなセンサーを持ってしても、感覚器官に与えられない。だから唯物論としては神を実在として認められない、と定義上判断・主張できるのです。

……んで、
愛の感情はその対象を、例えば恋人であろうが子供であろうが、犬であろうが物であろうが、感覚器官を通して意識に反映することで生じます。直接感覚せず頭の中で思い浮かべながら感じることも出来ますが、そのイメージは普通、過去において感覚した記憶に基づきます。
だから「愛」そのものは実体ではないが、その意識は実在的基盤を持ちます。
だから私も今まで、だらだらと人類の過去に遡って、進化人類学の知見や化石が示す実在的基盤に立ち戻って、「愛」を考察できたのです。それが正しいかどうかは又次の問題として。

勿論アプローチは色々有って、脳科学的に、ドーパミンがどうのこうのとか、心理学や様々な接近が有るでしょう。ただ私はそう言うことは全く無知で、多少知識のある進化人類学的な線から「愛」を考えてみたと言う訳で。

それは全ての自然科学の対象で共通のことではないでしょうか。
科学の仮説は全て意識内容だと言えます。しかしその対象が客観的な実在である限り、それとのすり合わせを通して真偽の検証が可能です。
唯物弁証法の「真理」の定義は、従って「客観的実在と一致した意識内容」と言うことになります。

しかし、妖精・ある特定の妄想(例えばカッパや座敷わらしなど)などは、どんなセンサーを持ってしても感覚されない。だからそれについての意識は実在的基盤を持たない。従って論じる人によって様々なバリエーションが、際限なく繰り広げられることになり、かつその検証が出来ません。

かと言ってでは妖精やカッパが全く科学の対象にならないかと言うと、民俗学や宗教学など、今私はその分野を列挙できないけれども、様々な人文科学、社会科学の対象として、例えば「そもそもそう言う意識内容は、どう言う背景の元に紡ぎ出されたのか」と言うようなことが研究されると思います。カッパの例は前に出しました。

例えば「霊」の起源は夢からだったろうと言う説が有ります。私もそれを支持します。
既に死んで肉体は無くなった筈の人、或いは遠くにいる筈の人が頻繁に「出現」する。脳や意識の働きについて全く無知だった原始時代に有って、それは肉体と同じような姿・形で、普段は肉体に付随しているが、時にそこから遊離して自由に動き回り、死んでも肉体と一緒に滅びることの無いモノとしての「霊」なるものを想定しないと、辻褄が合わなかったんでしょうね。

それは当時の人に非常な恐怖を与えたと想像されます。人は自分の与り知らぬところで、他人の夢に出てくる自分の「霊」の所業の責任を問われることになった筈だからです。
又、一度死んだ肉体との対意として考え出された霊は、その後更にもう一度死ぬとは考えられず、その霊の居場所として、冥界とか幽界とかが考案された訳です。

だから当時の人に在って霊は、決して死後のなぐさめと言うようなものではなく、逆に非常にみじめなものとして考えられていたようです。
それが古事記やギリシャ神話に共通に見られる、冥界の描写となっています。

同じように「神」についての意識も当然その背景が考えられます。これは哲学上の大きな問題でも有ります。
と言うことで、社会科学、人文科学も立派な科学だと思う私にとって、妖精や妄想であっても考察の対象にならないことはない、と言うことですね。

どうも直ぐ横道にそれてしまいます。GBさんの興味と又大きくズレてしまいましたかね。
それと上記は唯物論的な私の解釈です。哲学的立場が異なれば全く違った見解を持つでしょう。

331NAN:2008/02/12(火) 23:50:12 ID:G81kGdtk
うん、良く分かった。
アクア説議論の頃から感じていたことだけど、確定。
なにが確定したんだろうね(笑。

332GB:2008/02/13(水) 00:13:14 ID:zXfK7pu6
>>330
もう少し、じっくり考えて、ご自身で整理したうえでレスお願いします。
「実体」ではない「価値」をどう扱うか、がポイントですから。

333地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:29:41 ID:Y80wH3GM
さて、酒でも呑んでなければやってられにゃーレスでもするか(ためいき

>雄クン

>>295

>>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ

>と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。

言ってんだよ>馬鹿
僕の論点は、その(自然科学的な)実在を信じていようが信じていなかろうが関係にゃーというところだにゃ。チミのような馬鹿を相手に、「後出しのすり替え」をする必要なんてあるわけにゃーだろが>馬鹿

そもそも
「空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。」
という話は華麗にスルーにゃんな。もうこれでこの話を書くのは4回目にゃんがな。
都合のワリイところには決してレスしにゃーのは、「と」にゃんぜ(げらげら


>同じように地下猫氏が「物自体」に対し、どのような信仰をお持ちになろうと、それは地下猫氏ご本人の自由に属する問題だと言うことです。

だからカントの物自体概念が、完全に論駁され尽くしたことを根拠をもって示してみろよ>馬鹿


>>僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど
>として、確かにご本人の仰るとおり、議論の中身に関する具体的な反論は皆無でしたが、「聞かれても応えられにゃー」にしては、なかなかリキの入ったご批判でした。
>しかし「力量がにゃー」分の埋め合わせにウィキペディアを持ち出している辺り、あまり感心しません。自分の確認に使う程度なら兎も角、論争の根拠にウィキを使うのは止めたほうが良いと思いますよ。それだけで程度が知れます。

馬鹿を相手に謙遜すると、馬鹿はのぼせあがるものにゃんな。
僕がチミよりテツガクの知識が少ないということはにゃーから安心しろ>馬鹿
具体的な反論ができてにゃーのはどこの馬鹿だ?>馬鹿
日本大百科もひいているが、字が読めなかったか?>馬鹿
そもそも、そのウィキにすら反論できてにゃーのは誰だ?>馬鹿

>私の「物自体」批判に反論がお有りなら、No-231で提起したように「流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか」に応じて、実際に議論の内容で反論してみたら如何ですか?
>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

もうすでにNANが反論してるだろ。字が読めにゃー野か?>馬鹿
チミのような馬鹿には>>231

>○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係>においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。
>○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

こんなお笑いが馬鹿にとっては「見事な反論」になるといことはわかったよ>馬鹿
(ヘーゲルは本当にこんな馬鹿なことをいっているのか、典拠をしめしてほしいにゃ)
あのな>馬鹿
どこの世界に「現象を全て知る」者がいるんだ?>馬鹿
「現象を全て知る」ってなんのことだ?>馬鹿
逃げずに答えろよ>馬鹿

334地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:30:17 ID:Y80wH3GM
つづき
>>296

>「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

だからな>馬鹿
僕は自然科学的な意味で実在するかと聞いたんだにゃ>馬鹿
科学の対象になるかなんて聞いてにゃーだろが>馬鹿
聞いてもにゃーことを答えて何がしたいんだ?>馬鹿

ニンゲンは生物であり、生物の行動すべてに「生物学的・化学的・物理学的」な基盤があるなんて、ウルトラ観念論者でもにゃー限りは誰だって当然と見なすんだにゃ。
何を程度の低いねじ曲げをやってんだよ>馬鹿

ちゅうわけで、愛を「自然科学」で説明する雄ダイセンセイのおっしゃりようは、僕の質問とは関係にゃーです。


>>297

>>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

>地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
>ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
>なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

開いた口がふさがんにゃーよ>馬鹿
何度でもいうけど、物自体についてはチミに論証責任があることはわかるね? 力量がにゃーのなら、特定概念を批判しにゃーほうがいいよ。
それと、NOMA原理が不可知論だとしたら、NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになるけど、そんなはずにゃーことはチミのような馬鹿にはわかんにゃーのかな? 科学者としてグールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してるわけではにゃーんだよ。
アタマを振ると、頭蓋骨の中で干からびた脳みそがカラカラ音をたててにゃーかね?


とにかくな>馬鹿
チミはこちらの問いにまったく答えようとしにゃーな。
ねじ曲げて誤魔化すことしか脳がにゃーのだろうけど、それがことごとくバレバレってのは悲しいものにゃんぞ。
チミはアタマがわりいんだから、人前でものをしゃべるのはやめとけって。

335地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:33:14 ID:Y80wH3GM
>GB
>スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。
>それぞれ個別に科学の対象になるかどうか、という話ではないですよね。
>それが分かってて、なぜ愛の起原にこだわらなくてはならないんですか?

その質問には僕なりの答えがあるにゃ。
われらが雄クンが、「愛がカガクの対象か」という話に拘泥しはじめたのは>>296だにゃ
ここ前後でのやりとりに答えがあるのではにゃーかと

>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
>多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。
>>225 雄

>ほほう?
>勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
>チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー
>>291 地下猫

>一寸寒くなりました。どうも天気のせいばかりではなさそうです。
>折角の機会ですから、地下猫氏の提起された「愛」に関するクイズを素材にして、私の「少しばかり広い意味での科学」を使って考えて見ましょう。広いと言うのは私の理解が広いと言う意味じゃ有りませんよ。対象とする範囲が広いと言う意味です。
>>296 雄

と、ここからえんえんと雄くんの無意味なジャーゴンが続いているわけだにゃ。
これね、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」という雄ダイセンセイのカガクの定義に対して、「勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?」という突っ込みがはいり、そこに対して有効な反論ができにゃーから誤魔化しているだけのことなんですにゃ。
字の読める人なら誰でもわかることなんだけど、雄ダイセンセイの科学の定義では「おまえ、くさいよ」「ごめんなさい、この子はあなたの子ではないの」も科学になっちゃうという指摘に対し、「対象とする範囲が広い」ことを示しても何の反論にもならにゃーことはわかるよね。

そもそもさ、この出来の悪いクイズについてdiamonds8888xからの適切な突っ込みがあり、出題者である僕がその突っ込みを妥当なものと見なした上で、クイズの出題意図を明示した後に、なお後出しで突っ込むことに何の意味がある? しかも、雄クンの書いていることって、僕が明示した出題意図を完璧に無視してるもんにゃ。これ、誤魔化し以外にはありえにゃーですね。しかも、すんごく程度の低い誤魔化し。

とにかく、確認しよう
雄ダイセンセイの科学の定義では
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
といった言明は科学だにゃ。

あと、愛というコトバでインスパイアされて性欲・繁殖のことをえんえんと語るところから、
・雄は童貞ではないか
という仮説を僕の生活上の相棒が唱えておりますにゃ。

336地下に眠るM:2008/02/13(水) 02:03:21 ID:Y80wH3GM
さてさて、本丸の話は、ドーキンスの「神は妄想である」の書評と、神と科学との共存のお話だよにゃ。

書評については僕としては言いたいこと言ったので突っ込み待ち。

あと、「共存」のお題にゃんが、僕としてはすでに「愚行権」の話題で終わっているんだにゃ。
馬鹿であることは責められるべきことではにゃーよね。(もちろん、馬鹿なことを言ったりやったりしたら、突っ込まれるのは当然)
現実的な他害についてはきっちりとカタをつけなくてはならにゃーが、馬鹿とか気にくわないとかいう理由で他者を非難すべきではにゃーです。馬鹿宗教がおかしな真似をしてきたらそれを個別で叩くことはしなければならにゃーとして、それと宗教否定は別物にゃんね。
これは、科学の作法というよりは、自由民主主義の作法なのではにゃーでしょうか。

もっといえば、スタージョンの法則「すべてのものの90%は屑である」なのではにゃーかと大まじめにいいたいにゃんね。
宗教者「も」90%は屑だなんてことはアタリマエだにゃ。しかし、屑が目立つということをもって全否定することはできにゃー。
信仰者だろうが無神論者だろうが、90%は屑にきまってるだろ。屑ってのはあくまで屑なんだから、屑の言動でその思想や立場を判断しちゃダメだろ。雄クンの言動をみて唯物論者を判断してはならにゃーよ。

各人の思想や宗教的立場を理由とした非難は基本的に不当だと僕は思う。
他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。どう転んでもお互いに屑なんだから、実際の行動をもってしか他者を非難してはならにゃーでしょう。これこそが自由主義の作法だと僕は思うんだけどにゃ。

あ、そうそう。個人的な好き嫌いは表明しても構わにゃーかもね。
ただ、多数派とか権力者の好き嫌いのあからさまな表明はすんごく問題だけどにゃ。

337NAN:2008/02/13(水) 05:24:40 ID:G81kGdtk
2月はさぁ、やけに忙しいんだよね。忙しいとこんな時間にタイプしてて、疲れるとネットを徘徊するんだけど…一応、反論らしきことを述べてるバカ君に応じておくのも礼儀かも知れないので(実は気分転換をしたいだけという説、濃厚)、ちょっと書く。

>>327:雄クン
>「配偶者間の感情」と「自分のコピーを守る」ことを、何故対立させるのですか?

頭がおかしいのか?「親子の愛情など後付で十分」と述べたのはどこの誰だ?
親子の「愛情」なんだろ?どう考えてもそれはメスが先に発現させるのが道理だろ?それを愛の起源としない馬鹿説を披露してるのはキミ。
云っとくけどな、愛には必ず相手が必要だなんて定義は誰がしたんだ?そもそも普遍性があり恣意的でなおかつ広範囲な解釈があるであろう「愛」を勝手に限定しておき、さらにその具体的な「現象の特定」さえ行わない卑劣な議論を展開してるのもキミ。

>そもそも自分のコピーを守ること自体は生物そのものの本質です。生物と言わば同義です。そこに「親子の愛」だの「感情」だのと別次元の問題でしょう。そんなものを特に持ち込まなくても、幾らでも理解は可能です。

つくづくどうしようもない馬鹿。
じゃぁ生物の本質が「愛」なんだろ?愛の科学的定義ってのが存在するのか?「愛と呼ばれるヒトに占有される情緒活動について」なんて云う議題の限定は誰もしてないんだぞ?

>NANさんが言う「親子の愛」の感情・行動など、それ程普遍的なものではないのです。

脳が腐ってるに違いない>雄クン。
つまり私が述べる「愛」はそれほど普遍性がないものなので説得力に乏しい、と。するとオマエサンの主張する愛はもっと普遍性があるのか?より限定された現象を以って「愛の起源」とか馬鹿丸出しの疑似科学をひけらかしている馬鹿には分からないよね。

>私は人間の『愛』の起源を「メスの『子育て』に協力する行動を発達させたオスはそうでないオスより適応的だったし、その行動を強化するために『愛』の感情を発達させた個体同士が、そうでない個体より適応的だった」としています。

じゃぁ「親子の愛は後回し」じゃねぇだろうが、馬鹿。
ていうかキミさ、キミが論じてるのは「オスの育児参加と勃起の正当化」だけじゃん。キミの愛は中学生を庇護するには役に立つかもね。ああ、もしかしたらキミが中学生なのか。だったらゴメン。本当のことを云えばいいってもんぢゃないよね。そして中学生をなめたらいけない。きっと雄クンより頭がいいからね。

雄理論によると、愛の起源は「男女の愛」であり、しかも、オスがメスの子育てに参加する動機として適応的だった、という説だな。しかしそれ以前にメスは子育てをしていたし、子供を守ろうとさまざまな外敵や障害と闘っていたはずだが、それは自己愛とその拡張であり生物全般に共通する行動で珍しくないから「愛ではない」と否定しているのが雄説ってことだね。
そんな小学生でも分かるくらい馬鹿な話をして恥ずかしくないんだから尊敬に値するよ。

338NAN:2008/02/13(水) 05:25:19 ID:G81kGdtk
>ここでも『子育て』はとっくに私の主張に織り込み済みです。

ひどい詭弁だし、もちろん本人は自説が破綻してることに気付いていないし一生気付こうとしないことを予言。


>期待に背いて申し訳有りませんが、既に確立した概念としての「愛」は複雑で多岐に渡るでしょう。それを一言で言うことは出来ないし、その必要も有りません。それは言語学の分野でも有るでしょう。私が述べているのは非常に漠然とした、そう言った感情の「起源」についてです。

予想通りのドンピシャ!この卑怯で馬鹿な屑は絶対に自分から愛の定義なんかしないことを150%予想してたんだ。
あのなぁ「漠然とした感情の起源」を科学的に探るんだったら、愛なんて難しい情緒をパネルに出さなきゃ良かったの。だいたいお前が愛を知らないじゃん。知ってんの?子育ての経験や出産の経験や育児の経験や子供に死なれたり成長した子供を巣立たせた経験は?オムツにべったりついたウンチを処理した経験は?それが愛なんだろ?

いぢめてばかりでも仕方ないので、私と共通しているポイントだけ指摘しよう。「子供(育児・出産・繁殖)に対する情緒的反応」という点に於いてのみ、僅かに二つの主張は被る。また、私の視点はどちらかと云えばメス視点であり、雄クンの視点はオス限定の馬鹿視点。だがしかし、育児をキーとした情緒の発現について論じるのであれば、出産を担うメスが子供に持つ感情を先にプロットしない理由は、まともな思考回路を持つモノにはまったく理解できないだろうね。

>地球を「愛の定義」で理解しようとは思わないし、(>>306)でのNANさんの「愛の定義」に当てはまらない現象など、幾らでも挙げられます。

ぢゃぁ挙げろよ。具体的な論拠も提示しないでなにが反論だよ、屑。
っていうか文章おかしいぞ。私の「愛の定義」に当てはまらない現象なんかいくらでもあるだろ?先に述べたように、私は私個人の恣意的で勝手な「表現」として愛を「文学的に」述べたんだよ、ワカランか?で、それに当てはまらない現象があるからどうだって云うんだ?ロケットが飛ぶから愛じゃないとか云い出すのか?鼻から脳が垂れてるんじゃないのか?

メスを犯したくて仕方ないから、ヤらせてくれたら育児に参加するし外敵から守るぜ、ってのが雄クンの云う愛の起源だな。素晴らしいエレクチオン肯定理論だ。でもオマエサンがそんな馬鹿話をひねくり回してるから、段々正体がバレてじわじわ包囲されてきたのに気付いてないんだろうな。

339NAN:2008/02/13(水) 05:52:35 ID:G81kGdtk
馬鹿になにを云っても無駄だろうけど、本論と云えば本論なので
>>314

>神の実在は、聖職者にとって死活問題だろうし、熱心な信者にとっても生きる支え、心のつっかい棒でしょう。バチカンや協会を頂点とする壮大なシステムが虚構となるかどうかの深刻な大問題です。

鼻と耳から脳が垂れている馬鹿。
神の「自然科学的な実在」なんかとうの昔に聖職者が否定してるよ。神の自然科学的な実在ってのはつまり「創造科学」そのものぢゃぁねぇかよ。そんなもん主張してる教会は異端扱いされるさ。「超自然的な実在」がポイントなの。むしろ自然科学的に実在するような神じゃぁ、信仰の対象としてあまりに矮小だろ?んなことも分からないのか。

>若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません。

あのね、私は「自然科学的な意味における実在」と「ある個人または集団内における経験としての実在」を分けて考えろ、と何度も何度も書いてるだろう。無論、スパゲティモンスターが実在すると主張するヒトにとってそれは実在するんだよ。しかし、客観的実体の観測証明ができない、ということ。アニメキャラだろうがダースベイダーだろうがスクリーンの中に確かに実在するだろ?

>事実の経過は、死活的な必要度に迫られて、神のグループが総出を挙げて、長い間膨大なエネルギーを投じたにも関わらず、こんな簡単なこと(不在証明と比較して)も証明できなかったと言うことです。

本当に、本当に、本当にバカなんだなぁ>雄クン。
いい加減あまりの脳腐れが哀れに見えてきたよ。
まっとうな信仰を持つヒトはね、神の存在証明なんかしねぇよ。だって、彼らにとって神はいつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。
それを集団幻想だとか妄想だとか云うことだってできるかも知れない。しかし、彼らの『経験』を否定する論拠なんかどこにもないの。これがいわゆる自然科学の限界だろ。

科学万能主義のバカ屑に云わせれば、それは無論「幻覚」としか云いようがないかも知れない。
だからなに?って云えるのが信仰なんだぜ?

>それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

どんなまとめだよ(ゲラゲラ。
事実の矮小化を勝手にすんな、屑。ある時、ミジンコ大王(仮名)の脳裏に光が瞬いた!お前は井戸を掘れ!井戸を掘った結果、鉱脈を探り当てたミジンコ大王(仮名)は莫大な財を成した。ミジンコ大王(仮名)の脳裏に瞬いた光とそのことばを自然科学的な意味で実証することは不可能だ。んなもん嘘かも知れない。だが、ミジンコ大王(仮名)の経験した「なにか」を否定することは、どんな方法でもできねぇんだよ。云っとくけどこれは心理学の基本だぜ?(心理学を科学と呼ぶかどうかは保留。しかし学問であることは間違いなく、有用である)

340NAN:2008/02/13(水) 06:00:46 ID:G81kGdtk
>>339について

アクア説議論の足跡論しかり、愛の起源しかり、物自体しかり、ポイントはスルーしまくり論理は破綻しまくりで、科学的論拠を提示されても一向に認めようとしない「一貫したバカ」を繰り返している雄クンの>>314が、あまりに薄っぺらでバカ丸出しだったので放置していた次第です。しかしバカが執拗に馬鹿なことを述べているので「お前はバカだね」と優しく返したのが>>339です。

341diamonds8888x:2008/02/13(水) 06:06:18 ID:jcR/Lf4.
>>336
> 他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。

 おおっ、罪を憎んで人を憎まず、ですね。


 ところで雄さんは、自然科学的に存在するばかりか自然科学の対象ともなっている『愛』については詳細に立証してきましたが、それは「自然科学的には存在しない『愛』がある」という言明の否定にはなりませんし、「自然科学的には存在しない『愛』についての学問にも価値がある」という言明の否定にもなりません。ここがずれているポイントじゃないでしょうか?

342地下に眠るM:2008/02/13(水) 10:40:07 ID:cizMQ0FI
>> 他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。

> おおっ、罪を憎んで人を憎まず、ですね。

ちゅうよりも、「我が身かわいさ」ですにゃ。
基本的人権・自然権の理屈って、非常に普遍性・有用性のある相互安全保障ツールだと考えていますにゃ。
どんな反社会的な思想であっても、考えているだけでは罰せられない、というのは僕のようなロクでもにゃーことしか考えられにゃー屑にはありがたいお話でしてにゃ。

そもそも、ある特定のAというイデオロギーとかイズムを否定するのは、他のBというイデオロギーなりイズムになるはずだと思うのですにゃ。
信仰というイデオロギーを否定するのは、無神論という別のイデオロギーであるということにゃんね。
べつに、イデオロギー同士、イズム同士でケンカしたって構わにゃーのだけど、自然科学の名で特定のイデオロギーを否定するというのは、自然科学をイデオロギーと化してしまっていることにほかならにゃーと考えますにゃ。
で、この立場を「科学主義」というわけだろ? 科学にとって迷惑なイズムだよにゃ。

・宗教からの領域侵犯に対する各個撃破はバンバンやってくれ
・宗教そのものの否定になると、科学をイデオロギーと化すことになり、科学主義である

つまり、共存を前提としにゃー立場は科学主義だ、というところですにゃ。

343うに:2008/02/13(水) 11:31:32 ID:???
>あと、愛というコトバでインスパイア(中略)という仮説を僕の生活上の相棒が唱えておりますにゃ。

おいこらしばくぞ

344AH1:2008/02/13(水) 12:32:01 ID:sNMJ1V0Y
皆さんが既に述べておられますけれど、

>元々、「愛は自然科学的に存在するか?」と言った問題に対し、私は関与しうると言う見解で、

ええ、そりゃ関与し得ますよ。だって生物学的な基盤の無い事を生物ができるわけがないですから。
その事に感慨なり感動を覚えるのも当然、一つの読み方でしょう。
ですが、例えば「愛」はドーキンス以前にもあったし、表現されてきたし、人間は感動してきたわけでして。

というのも何となく本論からずれた話な気がしていて、結局、diamonds8888xさんの >>341 が要諦かと思います。

345ちょちょんまげ:2008/02/13(水) 16:51:04 ID:vUxNW.gI
猫さん

>信仰というイデオロギーを否定するのは、無神論という別のイデオロギーであるということにゃんね。

「否定」でなく「拒否」(お前さんは採用すればいい。でも俺には無用。)であるならばイズム同士の喧嘩には本来ならんわけですよね。
それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

・信仰そのものの否定を発言すれば科学主義者
・信仰そのものを拒否する理由がその否定を含んでいるならば、発言しなくても科学主義者

ですかね?
それとも後者は共存まで否定してるわけではないから、非・科学主義者でしょうか。

346地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:05:49 ID:Y80wH3GM
>ちょちょんまげ

各個人は価値中立を要請されるわけではにゃーんだ。
イデオロギーが問題となるのは「党派」においてですからにゃ。

最初にいっていた通り「馬鹿を禁止すること」はできにゃー。
だから、人種差別主義者であろうと性差別主義者であろうと、個人のもつ非合理な主義とか思想を禁止することはできにゃーよね。ちゅうか、国家権力がシステマティックに洗脳でもしにゃーかぎりは禁止しようがにゃーし。
個人が何らかのイデオロギーに染まっているなんて、アタリマエもいいところだし、それは何ら責められるべきようなことではにゃーわけだ。馬鹿なイデオロギーを奉じていても、馬鹿であることそのものを責めてはならにゃー。

問題は、価値中立が要請されるべき領域で特定価値の押し付けがなされることだにゃ。価値中立が要請されてしかるべき領域とは、司法・立法・行政などの公権力の発動、あるいは教育や医療などにゃんね。たとえば公教育における特定宗教の押し付けは基本的人権のコア中のコアである良心の自由の侵害だにゃ。公的領域においては、馬鹿が許容されてはならにゃーのはもちろん、特定のイデオロギーに偏ることはダメダメだにゃ。少なくとも自由民主主義政体においては。
で、
自然科学という社会資源にも、やはり価値中立が要請されてしかるべきだと僕は思う。自然科学の価値中立とは、自然科学のもつ属性というだけでなく、社会的に要請されるものでもあるのですにゃ。

ドーキンスのまずいところは、自然科学(進化生物学)の看板を背負って宗教否定をしているところだと思うにゃ。ドーキンスは自然科学(進化生物学)を、自分好みの特定の政治的党派にしてしまっているにゃんね。
宗教が気にくわにゃーのなら、自然科学の看板なんて背負わにゃーで、個人として反宗教の活動をすればいいと思うにゃ。自らの専門領域とは別個に、自らの良心にしたがって政治的な活動をする科学者はいくらでもいるにゃ。これはまったく問題にゃーのよ。ただ、専門領域に関連して政治的な発言をする場面においては、何よりも価値中立が要請されなければならにゃーはず。

あ、いっとくけど、個人に価値中立が要請されないというタテマエはタテマエとして、友人や家族に、自らの人格をかけて特定の価値を要請するというのはもちろんアリ。親の判断でガキに洗礼をすることを僕は否定できにゃーです。

347地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:39:26 ID:Y80wH3GM
ちょっとまとめなおすと

自然科学が特定宗教と同列にあるイデオロギーのひとつであるとすると、
「仏教の見地から言って聖書はまちがい」
「共産主義の見地からいって聖書はまちがい」
「自然科学の見地からいって聖書はまちがい」
これらの言明は、各党派の言い分としてすべてなりたつ。

自然科学が特定のイデオロギーではなく、価値中立を要請されるいわばメタレベルの何かであるのなら
「自然科学の見地から」特定のイデオロギーを批判することは失当になるにゃ。

自然科学においては、思考節約の原理から神(=超自然的存在)の存在を措定していにゃーだけであり、神の存在を否定しているわけではにゃー。
だから、自然科学の名において神(=超自然的存在)を否定するということは論理的に失当であるだけでなく、無神論という特定のイデオロギーを支持する発言となり、価値中立が成立しなくなってしまうにゃ。

さらにいいかえると
神を否定しないときのみ、自然科学はメタレベルの存在でいられるわけだにゃ。

つまり、
神との共存は自然科学に対して要請されるべき立場だということだにゃ。

この結論はNOMA原理とはだいぶことなるものにゃんね。NOMA原理においては宗教と科学は対等にゃんが、この「価値中立の要請」の理屈では、自然科学をメタレベルに位置づけているものですからにゃ。

348地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:46:03 ID:Y80wH3GM
あ、わすれてた
>>343

僕はウソいってないもーん

349NAN:2008/02/13(水) 20:12:11 ID:G81kGdtk
>>345
>・信仰そのものの否定を発言すれば科学主義者
>・信仰そのものを拒否する理由がその否定を含んでいるならば、発言しなくても科学主義者

「自然科学を利用して(=欺瞞)」というフレーズが頭につくかどうか、と、主張を行う発言者の社会的ニッチによって左右されることなんだろうね、多分。学者や研究者などが自身の成果をベースにして「…ゆえに宗教を否定する」と述べればまさに悪しき科学主義者の出来上がり。そういうことじゃぁないかな。

>それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

その辺が「ニンゲン社会」のムツカシイ有様なんでしょうね。「私」が「私自身」の主義信条を選択するにあたって、他者への害をもたらすものでないのであればどこの誰にも遠慮や謙譲など必要ないはずですが、その「意思」をひとたび発言した途端に党派を生む契機となり得る。そこまで想像できるまともなイマジネーションを持つヒトはいろいろと悩むのでしょう。また、そういう「悩み」があることに、実はヒトとして生きる意義があるのではないでしょうか。

また「すべての宗教は否定(批判)の対象である」とするのか、個別に、しらみつぶしに否定していった結果「90%かそれ以上の宗教は否定の対象となるけれど、残り10%以下については熟慮と検討の余地がある」という(以前にも出てきたフレーズですが)フェイルセーフを心に持つという、知的なゆとりにこそ相互理解の契機が隠されている気がします。要するに『不当な一般化→イクナイ!』ってことですが(笑。ちなみにこれは、真っ当な科学的探究心そのものだ、と思います。

350NAN:2008/02/13(水) 20:20:30 ID:G81kGdtk
>>347

参った(苦笑。素直に納得してしまった。地下猫氏を褒めることはしたくないのだが…(笑。
少なくともNOMA原理というチンプンカンプンな理屈よりも、科学が科学たる所以を的確に述べているなぁ。

>神を否定しないときのみ、自然科学はメタレベルの存在でいられるわけだにゃ。

なるほどね。言葉にはなってなかったんだけど、そういうモヤモヤした発想が私の頭の中のどっかに常にあったので、NOMAとか宗教議論に対して「なんか違うんだよね、基本的に」という思いが吹っ切れなかったらしい。

351AH1:2008/02/14(木) 15:03:11 ID:sNMJ1V0Y
>>345
>それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

あれこれ言っておいてなんなんですが(笑)、ちょちょんまげさんが「自分は宗教なんか否定したいね」と仰るのなら、それもやはり「ああ、そうですか」と言うべきものなんだろうと思います。
あとは・・・仰っていたフェイルセーフの感覚という奴で、自問してゆくよりないのではないでしょうか。余人があれこれ問いただしたり、ズカズカと批判するのも(それもまた自由ではあるのでしょうが)、大きなお世話であり野暮であるような気がします。
いや、こういう場で対話や議論をする場合には、言ったり聞いたりしないと始まんないんですけどね。あくまで普段の話。

352地下に眠るM:2008/02/15(金) 12:22:15 ID:Zuuc0PyM
>>347を補足

特定宗教と自然科学が同一レベルにあるイデオロギーであるのなら(つまり価値中立が要請されないのなら)、「神が存在すると主張する側に証明義務がある」という言明は正当だにゃ。
しかし
自然科学が価値中立を要請されるメタレベルにある知識体系であるとするのであれば、自然科学の側が特定宗教の教義を否定する場合はあくまで事実にもとづいて証明を行なう必要があるだろにゃ。つまり、神の不在証明をおこなう責任が自然科学の側にあることになるにゃんね。

自然科学が本当に価値中立といえるのかについては、いろいろと議論がありますにゃ。
ただ、ここで僕はその体系の属性として価値中立なのか否かではなく、価値中立が要請されるか否かという観点を導入いたしましたにゃ。
自然科学が価値中立を要請されることを是認したのなら、専守防衛に徹しなければならにゃーということも理解されるはずですにゃ。

353:2008/02/19(火) 07:25:26 ID:QpQGFxc6
既に撤収モードの様相で、今更ぶり返すのも気が引けるのですが、地下猫氏、NAN氏からスルーを激しく咎められ、レスを要求されています。
即レスが出来なかったことを詫びると共に(しばらくゲンナリして書き込む気にさえならなかった)、極力スルーの無いよう逐条的に対応してみようと思います。
おかげでえらく長くなってしまいました。その点も悪しからずご了承下さい(ホントに長くなりました。でも2人分ですし、勘弁して下さい)。

RE 地下猫氏

>>(「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明(>>219;)」…と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。

>言ってんだよ>馬鹿
僕の論点は、その(自然科学的な)実在を信じていようが信じていなかろうが関係にゃーというところだにゃ。チミのような馬鹿を相手に、「後出しのすり替え」をする必要なんてあるわけにゃーだろが>馬鹿
>そもそも
「空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。」
という話は華麗にスルーにゃんな。もうこれでこの話を書くのは4回目にゃんがな。

論より証拠、「自然科学的に『実在』しないものを対象にした研究に意味はない」等という、そんな「白痴的言明」が、若し有ると言うなら私の書き込みの中から提示してみて下さいな。
言っていないことを「言っていない」と事実関係を返しただけのこと。
「学問的価値には直結しにゃー」だの「研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは『イズム』である」だのと、猫氏の特異な「論点」を持ち出せば、私の言ってもいないことが言ったことになるらしい。

こちらこそ同じことを何度も言わせないで下さい。


>だからカントの物自体概念が、完全に論駁され尽くしたことを根拠をもって示してみろよ>馬鹿

私は(>>230;)で、kaさんの「よろしければソースください」へのコメントとして、
>>不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
>>「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

…と、小学生にも分かるように明確に書いておきました。「客観的なソースと言うものがある訳では有りません」とね。
更に「『完膚なきまでに論駁されている』と言うのは、私はそう思っている、と言うことです」と付け加えながら。
しかもわざわざ「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので」と、猫氏のような立場への配慮も忘れていません。

これ以上どう書けば良いんですか? ここでは自分の意見や判断を主張として述べることさえ出来ないのですか? クワバラクワバラ。

354:2008/02/19(火) 07:25:57 ID:QpQGFxc6
>>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。
>もうすでにNANが反論してるだろ。字が読めにゃー野か?>馬鹿

NANさんの「反論」が猫さんの反論の代用になるとは、初めて知りました。麗しき隣人愛ですが、だったら最初からそう言って下さいよ。ホントに。

猫氏は関係ないとして、NANさんの「反論」も、哲学と実証科学である物理学との混同が有るのですが、しかしそれでもNANさんの物理学的「反論」は気になってはいました。
同じような問題意識からだと思うのですが、(>>280;)の、diamonds8888x:さんの問題提起は、より興味深く受け止めていました。

>「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
 生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・
>雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか? (>>280;diamonds8888xさん)。

哲学と自然科学との関係は、私にとっても面白そうなテーマでした。
diamonds8888xさんは(>>279;)で、燃焼を例にとってフロギストン説を紹介されています。
同じように、モレスコットやビュヒナー、フォークトなど、俗流唯物論者による「肝臓が胆汁を分泌するように、脳髄は意識を分泌する」とする説が主張されたこともあり、これが「タダモノ論」として、唯物論の面目を多いに失墜させた時期が有った訳です。

不可知論を巡る環境も、私の印象では19世紀までと20世紀では大きく変わったような気がします。
いわゆる「観測問題」「不確定性原理」「からみ合い」或いは、「観測の地平」「ブラックホールの内側」「宇宙誕生以前」「他世界宇宙」等など。
本当はこれらのことについて、diamonds8888xさんなどからもお知恵を拝借しながら、どのように考えてゆけばいいのか、と言うのは私にとっても大きな興味でした。

しかし如何せん、「愛」の問題だけでもこれだけ物議をかもしており、更にこの上トピズレになるようなこの問題を提起することに多いに躊躇が有った訳です。かと言って中途半端な形で論じたくもないし。
…と言うことでこの件は、NANさんからの反論も含めスルーしたままです。それは率直に認めます。

355:2008/02/19(火) 07:27:23 ID:QpQGFxc6
>どこの世界に「現象を全て知る」者がいるんだ?>馬鹿
「現象を全て知る」ってなんのことだ?>馬鹿
逃げずに答えろよ>馬鹿

哲学的な認識論、つまり「考え方」の問題と、実証科学である、主に物理学での物質理解の混同に過ぎません。それと単に猫氏が理解できなかったに過ぎません。私が逃げていた訳では有りません。

猫氏お得意のWikipediaによれば(「イマヌエル・カント」の項)、
「意識は、その二種の形式(感性と悟性)に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念は、いわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。」とされています。

この「感性と悟性」によって認識されるものが、現象とか性質であると理解するのに何の不思議も有りません。それ以外に感性と悟性が何を認識するのですか?
そしてそれによって認識されない「理性的理念」をカントは『物自体』と呼んだのです。
この理解は元々猫氏が最初に持ち出したカント自身の主張ですよ。Wikiによってもね。これが哲学的立場の違いを超えたカントの「物自体」解釈です。

「僕がチミよりテツガクの知識が少ないということはにゃーから安心しろ>馬鹿」とする猫氏の、Wikiとは違う「物自体」解釈をお聞きしたいものです。
そしてヘーゲルはカントの主張を受けて、「若し現象を全て知ることが出来たら、」と問題を建てたのです。ここに哲学上何の問題が有りますか?
自然科学でもよくやるでしょうよ、思考実験というのを。「若し、光の速さで走ったらどうなるだろうか?」って言うアインシュタインの思考実験は、実際に光の速さで走らなければ成り立たないのですか?


>>「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。
>だからな>馬鹿
>僕は自然科学的な意味で実在するかと聞いたんだにゃ>馬鹿

猫氏が引用してくれた部分に、既にチャンと書いて有るじゃないですか。「その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません」と。この件、おしまい。

356:2008/02/19(火) 07:27:58 ID:QpQGFxc6
>科学の対象になるかなんて聞いてにゃーだろが>馬鹿

『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。
猫氏自身(>>21;)で、
>科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
>宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?

……と述べて、自分の判断を示しています。「科学は………ノータッチであり」と言っているのは猫氏自身ですよ。
私は「そうじゃないだろう。決してノータッチではないだろう」と言う立場で、重要な問いの一つとして想定されている「愛」について、進化人類学と言うアプローチを借りて見解を述べただけです。愛は猫氏のクイズにも題材として使われていますしね。

>ちゅうわけで、愛を「自然科学」で説明する雄ダイセンセイのおっしゃりようは、僕の質問とは関係にゃーです。

私の科学観「広く科学を捉えている云々」についての、「チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー」と言う猫氏からの揶揄に対し、その釈明の教材として述べたもので、私も猫氏のクイズと直接関係にゃーと既に述べています。単なるひとつの例としてです。一体どこが問題なんですか?
揶揄に対する反論でさえ、どこかで述べられている「僕の質問」の内容から一歩でも外れると、叱られる訳ですか?


>それと、NOMA原理が不可知論だとしたら、NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになるけど、そんなはずにゃーことはチミのような馬鹿にはわかんにゃーのかな? 科学者としてグールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してるわけではにゃーんだよ。

私のどこにそんな書き込みが有りました? わら人形はもういい加減にして下さい。

NOMAが、科学と神の間に「重複しない」と言う形で明確な線引きをし、その片方に「教導権が及ばない」とする点で、カントの物自体と同じだとする私の判断に、何の不自然が有るのですか? しかもグールド自身が自分のことを「不可知論者」だと、積極的に表明している、非常に強力な傍証もあってのことです。

不同意ならその内容に沿って、猫氏自身の見解を述べればそれでいいことじゃないですか?
猫氏は議論の中身には殆ど立ち入ることが出来ないのに、外形的なアレコレに重箱の隅的なクレームだけはお達者だ。しかしその殆どはわら人形、良くて見解の相違に過ぎない。

「NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになる」「グールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してる」等と、私は述べていないけれども、グールドが強制していようがいまいが、その線で書かれた著作を読んで支持する人は、当然その一定の影響力を受けるだろうことは、考えて分かりません?

私が考えるNOMAの一番の問題は、繰り返し述べているように、霊感商法やマスコミでの心霊現象、スピリチュアル等の取り上げに対する、科学の側からの批判の躊躇です。或いはマスコミや「霊能者」の開き直りの根拠としてです。
だからこそ私は(>>218;)で「グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが」と書いたのです。グールドを惜しめばこそです。

357:2008/02/19(火) 07:29:45 ID:QpQGFxc6
>とにかく、確認しよう
雄ダイセンセイの科学の定義では
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
といった言明は科学だにゃ。

私の方からも確認しましょう。
「王様」「あなたの子」「ブスの女性」「おまえの臭い」等など、実在的な事象に対し、ある問題が建てられ、それに対して何らかの判断が下されるとき、それを科学と言わない猫氏の感覚を逆に疑います。
その時「科学」と意識するかどうかの、要するに単純か複雑かと言った、或いは先人達の「科学的」業績による知見が有って、既に日常的な常識となっている、それだけの問題に過ぎないでしょう。単純だから科学でない訳では有りません。

○王様が裸であるかどうか、普通「見て」「判断」します。そこにいちいち「俺は科学している」などと意識はしないでしょう。でもね「見る」或いは「判断」と言う現象がどう言うことか、少し立ち入ってみれば立派な科学現象だと言うことが直ぐ分かりますよ。

長くなるので関係するであろう「科学的な」概念だけ列挙してみます。
太陽・月、或いは人工照明からの電磁波、そのごく僅かな領域である可視光線、対象(この場合王様)を形成している物質の吸収・反射特性、対象から反射された電磁波、センサーである視細胞、特に特定の波長に特異的に感応する三種類の錐体、ロドプシンの化学的な変性、それらの情報を演算処理する脳、等など。

そしてこの「見る」と言う現象は、考え方としてラザフォードのα線(粒子)照射による原子核の発見、或いは粒子加速器での様々な観測と同じことです。
ただ違うのは対象の大きさと、それに伴う照射の波長の短さ、つまりはエネルギーの大きさ、及びセンサーとしての網膜と、写真乾板、或いは霧箱などの違いだけです。
その対象の大きさ(小ささと言うべきか)と照射エネルギーの大きさの問題が、量子論の不確定性問題に関わって来るんでしょうけどね。

又、対象が王様であるかどうか、裸か着物を着ているかの判断も、それまでの脳内の記憶との検証でしょう。

○子供が猫氏の子供であるかどうか、若し問題になった場合、今ではDNA検診などで多分簡単に特定できる筈です。
私は幸いそう言うややこしい問題に巻き込まれたことがないので、詳しいことは知りませんが、これって科学じゃないんですか?

○嗅覚は充分に生化学的な問題でしょう。これもいちいちその過程に科学を意識しないだけです。
最近自分の臭いを気にする人が増えているようです。深刻に悩む人はお医者さんに相談するでしょうね。本当に臭いかどうか?、それはどう言う原因か?、対策は? 等など。
医学を含めた科学以外に一体何が対応できるのですか? おまじないですか?

○順序が前後しましたが、ブスか美人か、ぶ男かハンサムかは進化生物学の適応にも絡む問題だと思うので少し立ち入ってみます。

猫氏が或る女性に対し「ブス」だと感じるとき、そもそもどう言う判断基準でそう思うのですか? 個人個人の嗜好の問題も有るでしょう。これにも色々な科学が関与できるとは思いますがその前に、ブスとか美人とか言った場合、大方の(人種や時代によって基準は異なるにしても)人類で共通の判断基準がほぼ確立されています。猫氏が美人だと思う女性は、多分私も美人だと思うでしょう。

私が思うにこの判断基準はおそらく人類の歴史の中で形成された適応的なものでしょう。つまりはダーウィンが提唱し、トリヴァースなどが拡張した「性淘汰」が基礎になっている筈です。
足の長さやその真っ直ぐさ加減、顔や体のプロポーション、シンメトリーの程度、皮膚の滑らかさ等は、その個体や血統が、充分な栄養を確保できるだけの狩猟能力を持っていること、ウイルスや寄生虫などのパラサイトに強いこと、或いは相手がメスで有った場合、多産系であるかどうか、等などのシグナルとなった筈です。
遺伝子DNAそのものは見えないが、目に見える判断基準として配偶相手に示す指標としての機能を果たして来たのでしょう。

そしてそう言う配偶相手を選択したものが、結局はより多く子孫を残し、その子孫にその遺伝子を残すことが出来たのでしょう。その子供は同じような判断基準を親から受け継いで来ただろうし、我々はその子孫で有る訳です。
今、その歴史的な経過をいちいち意識することはないが、相手を見て直ぐに美人かどうか、ハンサムかどうかを判断するその基礎に、おそらく長い生物と人類の歴史が横たわっているのでしょうね。

358:2008/02/19(火) 07:31:12 ID:QpQGFxc6
私の考えが絶対正しいなどと断言する積もりは毛頭有りません。色々な考えが有るでしょう。
しかし、進化論掲示板の常連である猫氏に、こう言った適応的な視点が若し全く無いとしたら、そのこと自体私には信じられない驚きです。
他人に対し「科学主義の病状」などと揶揄するのも結構ですが、私の心配は猫氏の「非科学的蒙昧」です。


えーと、ここで猫氏の批判については一応逐条的に対応したことになるのかな。
まあ、正解かどうかは各位の世界観や問題意識にも拠ることだし、私はその部分にまで「教導権」を発揮する積もりは有りません。つまり「正しさを独占」する積もりは有りません。全て私の考えに過ぎません。
そうでない考え方について「それはそれで、いいんじゃないの」と思うだけです。猫氏がどのように思おうがそれはカラス、じゃ無くて猫氏の勝手です。

359:2008/02/19(火) 07:31:46 ID:QpQGFxc6
RE NAN氏

NAN氏との一番の問題は「人間の『愛』の感情」についてです。この件は最後にまとめておきます。その前に………、

>神の「自然科学的な実在」なんかとうの昔に聖職者が否定してるよ。
>まっとうな信仰を持つヒトはね、神の存在証明なんかしねぇよ。だって、彼らにとって神はいつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。

私は「自然科学的な実在」などとは言ってない筈ですがね。単に「神の実在は、」でした。
その意味で今の聖職者が「神の実在」を否定しているかどうか、それは多いに疑問です。
第一、教会が最初からそんなに物分りが良かった訳ではない。西暦の2000年間を通してみただけでもつい最近のことですよ。地動説を認めたり、かっての宗教裁判を自己批判したりしたのは。

およそ1000年間に及ぶ中世と呼ばれるヨーロッパで、何十万人もの人が、一方的な「魔女裁判」によって、考えられる限りの残酷な刑が処されましたが、それを躊躇しなかったのは、そこに神の実在と悪魔の実在を信じていたからじゃないですか? 或いはそれを煽った陣営が。
そうでなかったらとてもじゃないがそんなことを、普通の人が出来る訳がない、と私は逆に信じたいんですがね。

ガリレオの宗教裁判、ジョルダーノ・ブルーノの火刑もそんな遠い昔じゃないですよ。
そもそもダーウィンが「種の起源」の発表を延ばしたのは何故ですか? 教会への配慮でしょ?
そして今でさえアメリカ南部などでは、IDに姿を変えた「創造論」を、教育に持ち込もうとしている人が現実に大勢いるじゃないですか。

トマス・アクィナスの一生を知ってますか。
猫氏お得意のWikiに拠れば「カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の33人の教会博士のうちの1人」だそうです。至って「まっとうな信仰を持つヒト」ですが、彼の一生は神の実在証明に捧げたものでした。その他大勢の賢人がそれに携わったんですよ。

今はね、そんな努力をしても報われないことが分かっちゃったんでしょうね。「まっとうな信仰を持つヒト」は。神の存在証明なんか諦めて、科学との折り合いをつけることを自覚しているだけです。
かと言ってその人たちも「実在しない」と断言する訳には勿論行かない。そのギリギリの「折り合い」の付け所として、不可知論が機能する訳です。「本当のところは分からない」として。
私はそう思っています。

360:2008/02/19(火) 07:32:13 ID:QpQGFxc6
>>若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません(>>314;)。
>あのね、私は「自然科学的な意味における実在」と「ある個人または集団内における経験としての実在」を分けて考えろ、と何度も何度も書いてるだろう。無論、スパゲティモンスターが実在すると主張するヒトにとってそれは実在するんだよ。

元々はNAN氏の「妖精はいる、いないに付いての、どちらの主張も等価」に対する、私の異議申し立ての中で述べたものです。
神は反証できないし、スパモンも同じです。「自然科学的な意味における実在」であれ「ある個人または集団内における経験としての実在」であれ、その点でも両者は等価(NANさんお得意の)なんですよ。

予め言って置きますが、NANさんがどんな理屈を捏ねようと、神とスパモン、或いは空飛ぶティーポット、そして最近私が見た「化け猫に跨って空を飛ぶ生ゴミ妖精」の区別は出来ませんよ。
神もスパモンも、信者にとって「いつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。」と言う点で等価なんですよ。

現在スパモン教(FSM教)の信者は1000万人に上るそうです。私も最近入信しました。何しろ洗礼も会費も要らない。天国にはビール火山とストリッパー工場が有るそうです。祈りの言葉は私の大好物「ラーメン」ですし。
私はスパゲッティモンスターの実在性を、少なくとも神よりは根拠を持って説明できます。


>>それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

>どんなまとめだよ(ゲラゲラ。事実の矮小化を勝手にすんな

私の言う通りでしょうよ。
私は「神の不在証明」を宗教の側に向かって声高に叫んでいる訳では有りません。「私には必要ない」と言っているだけです。
私が神や宗教に対し容赦無いことを言うのは、ここが「科学系」の場だからです。宗教の座敷に上がり込んでこんな出しゃばりはしません。それは多いに失敬なことですからね。
私は科学の側に物申したいだけです。

逆に、意見の違いに対してさえ、あたかもヤクザの出入りを彷彿させるような言い回しで、血相変えて対応される御仁に、本当に「思想・信条の自由」の尊重を期待できるかどうか、私は大いに疑問です。

361:2008/02/19(火) 07:32:45 ID:QpQGFxc6
次に繰り返し問題になっている「愛」の問題です。

最初に事実関係だけ確認しておきます。私が論じているのは「人間の『愛の感情』の起源」の問題です。「人間の」「愛の感情の」「起源」です。308,313,319,321,327,330を見て貰えば分かりますが、このことは一貫しています。

既に繰り返し繰り返し述べていて、NAN氏との間でも殆ど水掛け論になっています。私はNAN氏がどのように主張されようとそれは「それでいいんじゃないの」と思っていますので、ここで特に争う積もりも有りません。
「自己愛」だか「親子の愛」だか知りませんが、そう言うものに突き動かされて大腸菌やゾウリムシが細胞分裂し、カビが胞子を作り、竹がタケノコをはやし、杉が花粉をばら撒くと理解されても、それはそれで結構です。
私はそんなものを持ち込まなくても、そのこと自体生物の本質、自然現象で、いわば利己的な遺伝子の仕業として解釈しています。

哺乳類はその定義上、全て例外なく母親の子育てが見られます。ネズミやコウモリの授乳に「母子の愛」の感情が有るかどうか、私は知りませんが、そんな感情が仮に無かったとしても、哺乳類なら必ず見られる、いわば生物としての「自然現象」です。

ゴリラやチンパンジー、ボノボに「母子の愛」の感情が有るかどうか、それは難しい問題です。しかし若しそう言う感情が有ったとしてたら、ゴリラとチンプ、ボノボでは、全く違った内容である筈です。
ゴリラはハーレムを作り、しばしばその主(ボス)が交代します。ボスの交代によって頻繁に「子殺し」が見られ、ある報告では新生児の37㌫がオスによる子殺しだとの観察が有るそうです。
ボスに子供を殺され授乳が途絶えたメスは途端に発情し、子供の仇であるオスを受け入れます。「母子の愛」が先行、優先していたら考えにくい現象です。いい悪いは別としてこれはゴリラの自然現象です。

チンプやボノボ、特にボノボは乱婚によって、子供の父親の特定が難しいでしょう。そもそも父性を混乱させて子殺しを防ぐことを目的に、メスは乱婚を発達させたと言う説が有る訳です。そしてそれに対応した「愛の感情」になる筈です。
ゴリラにしてもボノボにしても、その配偶関係は、それぞれ置かれた環境による自然的な適応であって、「母子の愛」「親子の愛」の感情が有るか無いかとは又別の問題です。

ヒトは直立二足歩行と脳の増大により、メスの難産、新生児の無力化、その後の長い子育てが必要となり、メスだけでの子育てが困難になりました。
適応上、ゴリラやチンプと又違う感情が発達したと考えるのは当然でしょう。そう言う「人間の『愛』の感情」を私は論じていたのです。
ペアボンド仮説と言うのが有って、ヒトの配偶関係とその絆の起源を、私の言うように説明する説と、もう一つ、メスだけでいるとオスからの暴力に晒されるので、特定のオスとペアを組むと言う説の二つが有るようです(「進化と人間行動」長谷川寿一・長谷川真理子−220ページ)。

本来、一夫一妻制はそれ程普通に見られる配偶関係と言う訳ではなく、どちらかと言うと特殊な形です。鳥に良く見られますが、それも抱卵、給餌、空を飛んで餌をとる訓練などなど、メスだけでの子育てが困難だからこそです。

繰り返しになりますので、これ以上は述べません。
配偶関係の研究は純粋に進化生物学的な分野だし、その中で「愛」の感情の起源を考えることは純粋に適応的考察です。
私に対し「メスを犯したくて仕方ないから」「ヤらせてくれたら育児に参加するし外敵から守るぜ」「素晴らしいエレクチオン肯定理論だ」などと揶揄するのは勝手ですが、私からするとゲスのかんぐりとしか言いようが有りません。

362:2008/02/19(火) 07:33:11 ID:QpQGFxc6
次にNAN氏から執拗に求められている「愛」の定義です。
大昔、仲間と恋愛論などをたたかわせていた頃は「相手を独占したいと思う持続的な感情」等と理解していました。
今なら、そうですね、ヒトだけでなく広く一般的な定義としては、例えば次のように言えるかも知れません。
○肉親への愛は「遺伝子を共有する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。
○配偶相手への愛は「遺伝子を折半する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。尤もこれだと、オランウータンなどに見られるレイプすら「愛」になってしまって………、中々難しいですね。
その他、犬に対する愛、モノに対する愛など、幾らでも有るでしょう。

人によっても解釈は違うだろうし、(>>327;)でも述べたように、既にここまで発達した人間の「愛の感情」は複雑多岐に渡っていて、それを全て定義しつくすことは私にも出来ません。
NAN氏が(>>338;)で述べている「子育ての経験や出産の経験や育児の経験や子供に死なれたり成長した子供を巣立たせた経験は?オムツにべったりついたウンチを処理した経験は?それが愛なんだろ?」これらも、確かに愛の発露でしょう。

問題はそれらの感情が、最初からヒトに備わっていた訳ではない、と言うことです。私はその芽生え「起源」を論じていたのです。
そしてその元々は漠然としたものから発達したであろう「愛の感情」の起源を考えるのに、現在の高度に複雑化し多岐に渡っている「愛」の全てを定義しつくさなければならないなどと言うことは有りません。
尤もNANさんが、それら愛を全て定義しつくした上で、自己愛なり親子の愛なりの起源を論じるのであれば、それはそれで結構なことです。


>>段々正体がバレてじわじわ包囲されてきたのに気付いてないんだろうな。 (>>338;)

包囲? 何か勘違いしていませんか? 私は別に勝ち負けでここに書き込んできた訳じゃ有りません。
NAN氏の「包囲」は殆ど参考になりませんでしたが、私の主張に対し、間違いを指摘してくれたり、教えてくれる「包囲」であれば、それは多いに歓迎するところです。その分自分の間違いを正し、利口になれることですからね。
「ヒト起源について」の中で、私の「前適応」についての間違いを地下猫氏、NAN氏から指摘してもらいました。私は自分の勘違いに気がついた時点で、直ぐに指摘を受け入れ、自説を撤回し、迷惑を謝罪した筈です。
私は勝ち負けや面子に拘って、間違いや勘違いしたまま突っぱねようとは思っていませんからね。

しかしいずれにしても既に水掛け論の様相であり、私も同じことの繰り返しです。
全体としても撤収モードのようでも有るし、ぶり返した私がこんなことを言うのもなんですが、今後同じことのやり取りは対応しかねる場合が有ります。勿論必要に応じてのコメントはしないでも有りませんが。

363NAN:2008/02/19(火) 19:59:04 ID:G81kGdtk
せっかく長々と書いたようなので、レス差し上げましょう>雄クン。

さて、ギャラリーにとっても水掛け論に見えるであろう部分は、必要に迫られるまで置いておいて、私から見てキミが決定的に間違っている、もしくは、間違い始めたポイントから指摘しよう。それは>>356が明確だ。

>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

重要な問いとは、云うまでもなくヒトがアイデンティティを確立したり失ったりという、人生において重要な岐路となるであろう様々な「問いかけ」を指すものだろう。こうした様々な問いかけは幾億通りも考えられるけれど、その代表的なものとして『私は、ヒトとして、正しく生きているだろうか?』というのがある。これは自己に問うだけではなく、社会からも常に問いかけられる。また、その答えも決して「正しいor間違っている」ではないだろう。視点、立場、思想信条、行為や動機、さまざまな状況によって変化するものでもある。

私が例示した「問いかけ」に同意しようがしまいが、それは構わない。ただ、重要な問いはおおよそ似たようなものであろう、と思う。
こうした問いに対し、科学がもしなにか答えるのだとしたら、その時点でそれは科学と云えるのだろうか?

>私は「そうじゃないだろう。決してノータッチではないだろう」と言う立場で、重要な問いの一つとして想定されている「愛」について、進化人類学と言うアプローチを借りて見解を述べただけです。愛は猫氏のクイズにも題材として使われていますしね。

つまりこれだね。
偉大なる雄クンは、愛の起源を科学的に解明した、と抜かしている。だがもしも万が一、それが一方的に雄クンによる正しい説明であったのだとしても、それが「問い」に答えたことになるのだろうか?「どっちの自動車を買うべきだろう?あの自動車の方が燃費もいいし価格も安いからこっちにしようか」くらいの「判断の材料」にはなる。またそれは地下猫氏も認めていることだし、私も認める。
いいかね?「判断の材料」になることくらいなら、誰もが最初から認めているのだ。ヒトの問いがすべてにおいて、いわゆる「合理」に従うのであれば、その判断材料の意義も大きいものになる「ことがある」かも知れない。しかしヒトは、すべてにおいて合理に従ったりしないし、時にはまったく勝ち目のない勝負にさえ打って出る。それは「間違い」だろうか?負けても、全力を尽くしたのであればそれで満足、という価値観だって尊重すべきだろう。これら「価値観」に対して科学はほとんど無力だ。また、無力であるべきものなのだ。(そう、その勝負にはきっと負けるだろう、という分析の手助けくらいにはなる。それだけのことだ)

364NAN:2008/02/19(火) 19:59:35 ID:G81kGdtk
■ポイント1:愛という価値観について
そして次に、再び「ヒトの愛の起源」について論じてくれたわけだけれど、私は>>311でも述べているが「ヒトは愛を持っているのか?それさえも疑問だ」と述べている。これも重要な問いだが、なにか雄クンは有効な判断材料を私にくれただろうか?雄クンが愛であると主張する情緒について、「血縁者を差別的に優遇したり配偶者を庇護したりする情緒的正当化であって愛ではない。ただしそれが適応的であることは認める」と私は述べているのだが、これにはどう答えるのだ?科学がなにか有効な知識を与えてくれるのか?「そんなの愛じゃないよ」という『価値観』を持つ相手に「愛の起源の科学的説明」をしたところで「それも価値観でしょ?」で終わりではないのか?さらに、愛はなぜ「他者に対しての感情」でなければならないのだ?

■ポイント2:愛の定義について
>>362
>○肉親への愛は「遺伝子を共有する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。
>○配偶相手への愛は「遺伝子を折半する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。

科学がもしもこれらを定義し、それを「正しい」と主張するのであれば、それはすでに科学ではない。なぜなら科学は思想や信条ではないのだから。しかしそれは「雄クンの価値観における愛」ではあるのかも知れない。であるのなら、雄クンは、自らの価値観を「科学的に正しい」と主張している。これは悪しき科学万能主義そのものではないのか?

■ポイント3:そうした情緒の起源にまつわる科学的説明について

それが「愛であるかどうか?」はペンディングしたとしよう。そこで、とにかく好意的な情緒や感情の起源を探るのだとして、なぜそれを「自己愛」に求めないのか、私にはいまだにさっぱり分からない。ヒトが最も苦しめられる感情は、他者に対してのものではない。自分に対してのものであることを雄クンは知らないのだろうか?所有欲や繁殖独占欲を愛だなんていわないよな?無論、それらは適応的だが、暴力の芽になる。それが愛か?

また、今では複雑多岐に亘った「愛と云う情動」の漠然とした起源を辿るのであれば、どんなに辿っても構わないはずだが、なぜそれはゴリラやチンプで留まらなければならないのだ?その科学的根拠はどこにあるのだ?また「今では愛として複雑に広がったが、それ以前の漠然としたもの」であるのならば、ただの好感情で良いのではないのか?情動・感情・情緒、どれも似たようなものだが、それらが「好悪」に大別されることは科学的に説明がつく。たとえば適温下に飼育される幼獣は好感情を発現する。飢えと満腹も想像がつくだろう。つまり生理的要求と基本的な情動は密接に相関していて、個体の生存本能を表現している。それはヒトだって同じことだが、こうした情動が「漠然とした好感情の起源ではない」という説明になにか少しでも説得力があるのか?

少なくとも私は「それを愛と宣言すること」に甚だしく慎重なのだよ。私にとっての愛は、他者にとってはまったく違うものかも知れない。また、それで良いと思う。雄クンの偏狭な愛について、私がひどく憤慨しているように見えるかい?違うよ。バカを無視できない自分の在り様に苦しんでいるのだよ。つまりそれが自己愛さ。

365AH1:2008/02/20(水) 18:31:51 ID:sNMJ1V0Y
またもKYなレスをば。

雄さんが愛の生物学的基盤を理由に科学的アプローチがあり得る、というのであれば、
妖精を見たという主張や、妖精の羽を何色とするか(何色に見えたか、何色がそれらしいと思うかetc.)についても脳科学的なアプローチはでもできるわけで・・

しかしそういう話じゃなかったと思うのですね。

366GB:2008/02/20(水) 22:28:29 ID:FIGS80us
>重要な問いとは、云うまでもなくヒトがアイデンティティを確立したり失ったりという、人生において重要な岐路となるであろう様々な「問いかけ」を指すものだろう。

で、それについてはサイエンスは直には口ださねーよっていうのがNOMAだと理解してますが。

367:2008/02/20(水) 23:41:59 ID:sUQ1SW32
RE AH1さん

>雄さんが愛の生物学的基盤を理由に科学的アプローチがあり得る、というのであれば、
>妖精を見たという主張や、妖精の羽を何色とするか(何色に見えたか、何色がそれらしいと思うかetc.)についても脳科学的なアプローチはでもできるわけで・・

まあ、後はAH1さんご自身がどう思うのか? と言う問題なんでしょうね。


「私は先日『化け猫に跨った生ゴミ妖精』を見ました。羽根はしょぼくれて今にも落ちそうでした。羽根の色はドドメ色でした。ホントですよ」

この私の、妖精を見たと言う主張に対する「脳科学的なアプローチ」と、人間の愛の感情の起源に対する「進化人類学的アプローチ」が、科学的考察として同等だとAH1さんが言われるなら、AH1さんの言う「そういう話」になるんでしょうね。

でもそう言うことになると、今度は………、
まっ、それはAH1さんのコメントが有ってから考えることにしましょうか。

368NAN:2008/02/21(木) 05:10:05 ID:Th2gBHro
さてさて、夕べは書きかけだったので、もう少し詰めておこうかな。
論点を戻そう。

>>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

昨日も書いたことだけれど、この「文脈の誤解and or曲解」が雄クンのステキな文章理解力を如実に表している。
>>3
>「では、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)に、我々はどのように答えれば・向き合えば良いのか」

これが、本スレッドにおける最大の論点なんだよね。「科学に答えられるか?」ではないのだ。
また、さらに、

>でも、これまで人類全体の学んできたことの蓄積と、それらの敷衍状況を鑑みれば、十分な理性と知性・教養を持った健全な人間ならば、もう、そんなモノに頼る必要もないだろう。

という後悔と懺悔さんの提示した主張に対して、私は反論したり考察したりしている。他の参加者も同様だと思う。

これほど簡単な読み違え、もしくは「本論のすり替え」を行い、自説を詭弁ではないと言い張れる心証というものを、私はまったく理解できない。これが分からないような論者を相手に礼儀など尽くす必要はない、というのが私の判断なのだ。そう「問い」は最初から「科学には答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)」であるのに、いや科学は答えられるand orノータッチではない!と言い張る雄クンの馬鹿脳ぶりにはまったく感服する。

つまり、雄クンの中心主張は「科学は重要な問いに答えられる」ということだよね。しかし、科学に答えられない問いに答えた段階でそれは科学と云えるのか?「私はどのような愛を信じ、思い描き、自らに課すのだろう?」というような問いかけに、適応的意義を説くという暴力的啓蒙主義(もしくは話にならない科学万能主義)を信奉する屑脳を相手に、もっと明確に簡潔に「屑さ加減」を指摘できない私は、自分の文章力にうんざりしている。あるいは知的限界の低さにね。

369NAN:2008/02/21(木) 05:14:56 ID:Th2gBHro
もしかしたら…雄クンはこんなことも分かっていない可能性が(如実に)あるので一応指摘しておこう。

科学が「価値中立」を放棄し、「価値に対する問いかけ」に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。
きっと分かっていないんだろうな。

370:2008/02/21(木) 09:28:31 ID:sUQ1SW32
>>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

>昨日も書いたことだけれど、この「文脈の誤解and or曲解」が雄クンのステキな文章理解力を如実に表している。
>「では、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)に、我々はどのように答えれば・向き合えば良いのか」
>これが、本スレッドにおける最大の論点なんだよね。「科学に答えられるか?」ではないのだ。

その文句は(>>21;)猫氏に言ってチョ。

「科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
>宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?(>>21;地下猫氏)」

それにそもそも私は私の科学観に対する猫氏の揶揄に応対しただけ。わざわざ(>>3;)に立ち返って直接それに見解を述べた訳じゃない。
自分でレスを求めておいて、その反論の内容がどこかで述べた自分の枠組みに当て嵌まらないからと文句を付ける。
ここにも「議論の中身には殆ど立ち入ることが出来ないのに、外形的なアレコレに重箱の隅的なクレームだけはお達者」な方が、約1名、いらっしゃるようだ。


>科学が「価値中立」を放棄し、「価値に対する問いかけ」に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。

上記の主張が科学に対する特定のイズムだと「こんなことも分かっていない可能性が(如実に)ある」御仁が、ここでも約2名いらっしゃるようだ。

「価値中立」を放棄するかしないか? 「価値に対する問いかけ」に答えるか否か? そもそもその時そこに「価値」が有るかどうかの、その「価値判断」は一体何時、何がするんですか? 神ですか? それともそれは先見的に、或いは生得的に人類に備わっていたモノですか? ん? NANさん。

この主張によれば科学が対象の「問いかけ」に答えるとき、まずそこに「価値」が有るか無いかの価値判断が事前に必要になってくる。そうでなかったら「価値中立」の放棄もなにも論理上成り立たない。ところがその「価値に対する問いかけ」に科学は答えてはいけないそうだ。

自分で科学の定義に「価値」を織り込んでおいて、「『価値に対する問いかけ』に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。」とする主張が、「それはもう科学ではなく思想や主義である」と言うことになってしまうことに、どうして分からないのか?
そんな論理矛盾の無力な「科学」だから、「王様」「誰の子」「ブスの女性」「臭い」、こんなことに対してさえ解答不能となってしまう。


科学が、対象に対する有りのままの像を意識に反映することと、そこに価値が有るかどうかは、全く次元の違うことなのに。
「この子」が猫氏の子供であるか、別の誰かの子供であるかは、純粋に事実関係の問題だ。それによってどんな悲喜劇が発生するか、それは又別の問題だ。


このような、毎度毎度のNAN氏のスコラ的アレコレに、逐一のお付き合いは致しかねるので、NAN氏がどのように思い、私を評価なさろうと「それはそれでいいんじゃないの」とだけ申し上げて置きます。
だんだん「おたっしゃでー」の世界になって来たようだ。

371ちょちょんまげ:2008/02/21(木) 11:50:10 ID:vUxNW.gI
えーっと、まず基本的に私は、雄さんの「どんな対象を考え、述べるに当たっても裏を取ろうとする態度」(証拠を求めたり合理的に考えようとすること、かな)に好意を持っています。(果たして的確に表現できたかどうかちょっと自信がないです。違ってたらごめんなさい。)
また、猫さんやNANさんが罵倒、侮蔑モードに入ってしまうことに批判的で、あまりうれしくありません。というのは、ここには私も末席を汚す他の参加者や恐らくギャラリーもいらしてる。そして、誰かが罵倒、侮蔑モードに入ってしまうと、おっそろしくて口も出せなくなってしまうからです。(特に私のように、ここで発言することに敷居の高さを感じているものには。)
批判は批判でかまいませんが、「ここがこう間違っとる!」にとどめてもらいたいなぁと、思っています。
私は、雄さんのご意見を読むのは楽しみですし、得るところも多いと思っていますので、雄さんが書き込みなさらなくなったら、やはり寂しく思います。

で、今回の書き込みなのですが、私の理解不足ゆえかも知れませんが、ちょっとよくわからないところがあったので、ご説明いただけたら幸いです。

>この主張によれば科学が対象の「問いかけ」に答えるとき、まずそこに「価値」が有るか無いかの価値判断が事前に必要になってくる。
>そうでなかったら「価値中立」の放棄もなにも論理上成り立たない。ところがその「価値に対する問いかけ」に科学は答えてはいけないそうだ。

NANさんがおっしゃっている「価値」とは「人生の意義とはなんぞや」とか、「A女とB女では、俺に取ってはB女がよりセクシーである」とか、「俺はあの音楽よりこれのが好きや」ってなことですよね?そこで、それに対する科学的なアプローチは、私はありうるとは思っており、どうしてそういう価値観が生まれてくるのか、という説明はいずれ可能になるかも知れませんが、「じゃぁ、客観的にはどっちが価値があるのか?」には答えられないと思うのです。
その上で、後悔と懺悔さんとか私とかは、「科学は個人個人の価値観には立ち入れない」というところでは同意はするものの、「あまりにもエキセントリックで危険に思える宗教・信仰という価値観」の根拠薄弱性を指摘しようとしているんだと思うんですよね。「根拠薄弱性」そのものを指摘することは、「立ち入る」とは違うと私は考えています。
ですから、科学は「価値観の由来」みたいなことはいずれ説明可能にしちゃうかも知れませんけど、その説明とこのスレッドの話はちょっと違うように思えるのです。
科学は「価値」の一側面については何かしらの解答が出来るかもしれませんが、「価値」は科学が解答不能の側面も持ち、それに解答できるとしたならば「科学」ではない、ということではないでしょうか。

蛇足ながら、「中立」については、科学以前に人が信じてきたことを、科学は多かれすくなかれ、好む好まざるに関わらず否定してきちゃってると思うので、私にはある意味疑問符ではあります。(まぁ、あえて中立を破るかどうかの話ではあるのでしょうが。)
雄さんの本意を理解していないマヌケな書き込みであったなら、容赦なくご批判ください。

あと、これがよくわかりませんでした。

>自分で科学の定義に「価値」を織り込んでおいて、

上記のような意味の「価値」を「科学の定義に織り込んだ」書き込みがどれのことだかわかりません。おせーてください。

372AH1:2008/02/21(木) 11:55:17 ID:sNMJ1V0Y
>「私は先日『化け猫に跨った生ゴミ妖精』を見ました。羽根はしょぼくれて今にも落ちそうでした。羽根の色はドドメ色でした。ホントですよ」

さて、この言明については様々なアプローチが可能かと思います。
幻覚であった可能性が高いと考え、脳が幻覚を見せる機序と進化的基盤を考えることもできましょう。脳科学がまさにこれをやるでしょう。未知のレセプターが作用すると、天使が見えたり宇宙人が見えたりゾンビが見えたりする・・・までいくとSFですが(ブレイン・ヴァレーですね)。
何故生ゴミ?何故化け猫?といった点については、「最近、猫と関わりがあったのか」「猫は何かのメタファーか」といった心理学的な考察も可能でしょう。「しょぼくれて落ちそうなドドメ色の羽」は何かの錯覚?雄さんの心理的な状態の投影?雄さんの育った文化の影響?個人的な経験によるイメージを視覚化したもの?
また、生ゴミ妖精の目撃談を科学的事実として扱う場合、「現在の科学では到底考えられないが、そういう証言がある以上は実在の可能性もゼロとは言えない」以上の事は言えないでしょう。前に何度も書いてますが、「まずあり得ないことは重々わかってるがゼロじゃない、自分は存在する可能性に賭けてみる」という人は必ずしも「イッちゃってる人」じゃありませんよ。

こういうように、様々な考察は可能だと思います。
しかしながら、元の話題はこういう話だったのでしょうか?私は違うと思うんですが。

例えばもっと文化史的に、「妖精を見たとする例」を集めるだけでも意味はあるんじゃないですか?例えば「宇宙人と出会った」という証言がアメリカに多く、かつ近年はみんなリトル・グレイみたいな姿である事についても、妖怪談のような「ある集団に共有される恐怖の対象の姿」という歴史・文化的な解釈も可能ですね(これもブレイン・ヴァレーですがね)。宇宙人の実在は関係ないし、生物学的基盤を直接考えなくても可能でしょう。
またこれが妖精という存在になると、歴史的な自然観、宗教観、土俗宗教との関連などなど、様々な分野において解釈可能であり、それぞれが「歴史学」「宗教学」「民族学」たり得るものでしょう。
そして、最初の問い・・自称妖精学者に聞くことは馬鹿げているか?についてですが、彼が「妖精学者」と言われるくらい妖精に入れ込んだ民俗学者であった場合、全く問題はないでしょう。もし自称「妖精学者」でありかつビリーバーであったとしても、その事「そのもの」に即座に問題がありましょうか?要は役に立つ情報を与えてくれれば良いわけでしょう。

ちなみに一番最初に戻って、妖精の羽の色を知りたいとします。雄さんの見た「生ゴミ妖精」は、その一般性の位置付けができてきるのであれば使える情報でしょう。一例しかないのでは妖精一般の羽の色かどうかわかりません。
(ビリーバーさん・・というか困った自称専門家がいるとすれば、「ワシの見たのはこうだった、だからそれが全てだ!」とか言い出す場合でしょうね)

373AH1:2008/02/21(木) 13:06:14 ID:sNMJ1V0Y
連続ですいませんが補足します。
なお、歴史学、民俗学などいかなる**学であれ、ヒトという生物が行うことですから、生物学的基盤を求めることは恐らく可能でしょう。その事について異論はありません。しかし、その事「だけ」をもって全てが科学の対象である、と述べるのは違和感を覚えます。
言ってみれば「生物体は化学物質でできており、化学反応によって作動するのだから生物の振るまいは化学によって記述できる。よって化学だ。」「生物体は物質でできており、その動きは物理法則に従うのだから物理学的に記述できる。よって物理学だ。」というような感じでしょうか。
そういうアプローチがあるのは当然だけど、他のアプローチだってあるじゃん、という事ですし、もともと議論されていたのは「他のアプローチもあるんじゃね?」の部分だったのではないかと思うのですが。

374NAN:2008/02/21(木) 16:43:11 ID:7MCnS5sU
>>371

悪い、ごめんね。
私は私の「善性」を否定しているのです。私は悪しきモノだし、自分に絶望している。それはこの議論で述べてきたような意味においての絶望なんだけど、私が罵倒することによって、私自身が無数の読者から罵倒されているのだ、ということを承知しています。まぁこれは私の主義信条のひとつで、決して自分の善性を肯定してはいけない、というルールを自分に与えている、ということかな。かといって無闇に誰でも彼でも侮蔑しませんが(笑。相手は慎重に選んでいます。

まだ地下猫氏から発言がないので指摘を保留していることもあります。実はそこが根本なんだけれど、私が先に云うべき事象ではないだろう、ということですかね。さてさて、そのうえで…

>蛇足ながら、「中立」については、科学以前に人が信じてきたことを、科学は多かれすくなかれ、好む好まざるに関わらず否定してきちゃってると思うので、私にはある意味疑問符ではあります。(まぁ、あえて中立を破るかどうかの話ではあるのでしょうが。)

これは一段階メタな議論です。つまり、科学とは倫理に代表される価値観を左右するものではない(=価値に対して中立)、というコンセンサスが通じるか通じないか、という話です。
アインシュタインが物質とエネルギーの基本原理を導き、原子爆弾のアイディアが生まれ、ヒロシマとナガサキに投下されたことについて、理論そのものを非難すべきかどうか?という点に繋がります。アインシュタインを非難することも、フォン・ノイマンを非難することも、オッペンハイマーを非難することも「アリ」と私は思いますが、E=mc^2を非難することは意味のないことだ、と思います。この数式は「物質は恐ろしいほどのエネルギーに変換できる」ことを示唆し、重要な判断材料として有効ですが、それを使用したらどうなるのか?その「有用性や倫理の判定」を科学に求めることは妥当なのかどうか?ということです。

もし科学が価値中立を守らない、あるいは価値判定を行い、なんらかの「重要な問いかけ」に対する答えそのものを支持したりするのであれば、優生学なども科学は支持していることになります。よくある進化論への誤解で、「より進化した個体は優れている」とか、そういう価値判断の支持を行うのが科学でしょうか?これは特定条件化における有利・不利という科学的示唆を、そのまま価値に当てはめた例ですが、妥当でしょうか?

375地下に眠るM:2008/02/22(金) 04:57:57 ID:QQh34wwI
>NAN
思っているところが同じかどうかはわかんにゃーけど、お好きに言っちゃってくださいにゃー。
雄くんの文を読むと頭が痛くなるので、ひまーな時にレスを返すつもりですにゃ。
しかしさ、ほとんど反論する必要はなさそうなんだけどね。


>ちょちょんまげ
えとさ、「はっきりいって、おまえ、くさいよ」といってしまうことが科学だと思うのかい?
僕は馬鹿以外を馬鹿にしたことはにゃーぜ。



ああ、そうそう、雄くんによれば以下の言明も科学だよねシリーズに追加
・「なぜ、ガルマ・ザビは死ななければならなかったのか?」(←重要な問い) 「坊やだからさ」

376:2008/02/22(金) 09:17:09 ID:sUQ1SW32
RE ちょちょんまげさん


>………雄さんのご意見を読むのは楽しみですし、得るところも多いと思っていますので、雄さんが書き込みなさらなくなったら、やはり寂しく思います。

どうもこの掲示板では珍しく好意的な評価を頂き、慣れないことで逆にすこし勝手が違って………。
私も出来れば、見解の違いは違いとして、自分と違う視点も参考にさせてもらい、少しばかり背伸びしたところでの知的興奮を味わいたいものだと、まあそう言う思いも有って書き込みに参加するのですが、どうもいつも袋叩きです。
でもおかげで最近は、議論の中身での知的興奮でなく、その人となりが透けて見えると言う「知的(痴的?遅的?恥的?蜘的?稚的?血的?乳的?)興奮」を味わっています。


RE 猫氏
>雄くんの文を読むと頭が痛くなるので、
…でしょうね。
健康の為お酒の飲みすぎには注意しましょう。


>ああ、そうそう、雄くんによれば以下の言明も科学だよねシリーズに追加
>・「なぜ、ガルマ・ザビは死ななければならなかったのか?」(←重要な問い)「坊やだからさ」
私には全然重要でも何でも無いのですが、(>>357;)で私は次のように述べています。
>>実在的な事象に対し、ある問題が建てられ、それに対して何らかの判断が下されるとき、それを科学と言わない猫氏の感覚を逆に疑います。
「実在的な事象に対し」とね、ハッキリ書いていますよ。
ガルマ・ザビが実在していて(そう言う名前の人も、世界には実際居るでしょうね)、不自然な死に方をしたら、当然検死の対象になるでしょう。「なぜ死ななければならなかったのか?」と。

でもホントーにこんなことも考えられなかったんですか? 信じられません。
ん? いやー若しかしたらマゾっけが有るのかな? 最初はサドか知らん?と思ったことも有ったんですが。
…って、あっ、ちょっと乳的になってしまいました。失言です。

>しかしさ、ほとんど反論する必要はなさそうなんだけどね。
出来ましたら、是非このまま捨て置いて下さいな。私ももういい加減に痴的、血的興奮からは開放されたいと思っている「今日この頃」。


実は今日から3日程、ネットから離れます。
ちょちょんまげさん、AH1さんへのコメントは、又帰ってからの仕切りなおしと言うことで、宜しくお願いします。

377ちょちょんまげ:2008/02/22(金) 10:43:40 ID:vUxNW.gI
>NANさん
こちらこそ恐縮です。これからもよろしくです。

>まぁこれは私の主義信条のひとつで、決して自分の善性を肯定してはいけない、というルールを自分に与えている、

ゴルゴ13みたいな方ですね。(笑 そういうハードボイルドの主人公を思わせる姿勢は、自分がなかなかできないだけに私もあこがれます。

>これは特定条件化における有利・不利という科学的示唆を、そのまま価値に当てはめた例ですが、妥当でしょうか?

無論、妥当だとは思いません。E=mc^2の例も「有用性や倫理の判定」を科学に求めることは妥当ではないと思います。
NANさんは私が何が言いたかったかお解りだと思いますが、これについてはまた改めて投稿してみます。

378ちょちょんまげ:2008/02/22(金) 10:49:48 ID:vUxNW.gI
>猫さん

>僕は馬鹿以外を馬鹿にしたことはにゃーぜ。
いや〜、私も「馬鹿」じゃ人後に落ちないので、猫さんに罵倒されたらトラウマになりそうでこわいんだもん。(笑)

379ちょちょんまげ:2008/02/22(金) 10:53:12 ID:vUxNW.gI
レス前後しますが、
>AH1さん

>ちょちょんまげさんが「自分は宗教なんか否定したいね」と仰るのなら、それもやはり「ああ、そうですか」と言うべきものなんだろうと思います。

そう言われっちゃうと、今度はなにやらさみしいんですよね。(笑)

380NAN:2008/02/22(金) 20:34:55 ID:tkzlrik6
ん〜、地下猫氏の書き込みもあったので、私もさらりと書いておこう。

繰り返しになるんだけどここ。
>>217:雄クン
>この掲示板でも例えば「音楽や絵画への評価・好みの問題」「道徳とか倫理」「どう生きるべきか」など『重要な問い』について、それは科学が口出し>できる領域ではない、或いは口出しすべき領域ではないと言うことを、何となく当然の前提として議論がなされているように感じます。
>しかし本当にそうだろうか?と言う疑問が私には有ります。科学は関与できないのだろうか?

上記の疑義を持ち出しているのはやはり雄クンなのだヨ。記憶に無いのか?
「科学に答えられない問い(しかも人にとって大切な問い)」=「重要な問いに科学は関与しない」などとは、誰も述べていない。この「どんなバカにも分かる甚だしい曲解」が雄クンの間抜け議論の始点にある。

それを>>370で恥ずかしげもなく
>その文句は(>>21;)猫氏に言ってチョ。

どういうすり替えなんだ?これは。
無論、口出しとか関与という言葉にも多義性がある。また、言語自体が情報として冗長性に富んでいるのでさまざまな理解や解釈が可能だよ。だがしかし、本スレッドの冒頭で「(重要な問いに対して)科学が判断の材料を提供できる」ことはとっくに宣言されているし、もしその程度の知識を私やほかの参加者が共有していないと雄クンが考えているならば、それはとんでもない侮蔑だ、ということさ。そう文字通り一切「重要な問いに対して科学はどんな干渉もしてはならない」なんてことは、誰も考えていないんだよ。

能天気な擬似科学万能主義のカタブツ君に問おう。
・夫婦に子供が生まれようとしている。しかし、出産の事前に胎児には身体的な欠損があることが分かっていた。だがそれは、致命的であるかどうかは分からない。可能性としては4割程度の確率ですぐに死亡し、7割程度の確率で無事に生まれても障害が出るであろうことが予想される。

このようなケースを科学的に想定したとき、夫婦は医師から告げられたEBMに基づき、インフォームド・コンセントを持たねばならない。さて、夫婦は生むべきか、生まざるべきか?
これこそまさに「ヒトとしてのアイデンティティに関わる重要な問いかけ」の代表なんだが、科学は十分に口出ししているよな?賢明な医師は科学的示唆として「生むことはリスクだ」と告げるだろう。夫婦はこの科学的言明について深く思い悩み、考えに考える。だがそれでもなお、実際の結論は「自由意志」に委ねられるべきだ、ということなのだが、もし科学「だけが」重要なのであれば、夫婦は決して生むという選択肢を持てないだろう。

上記のような「問いかけ」は常に私の中にある。恐らく、他の参加者の皆さんも同じだろう。まさかこういう想定ができないほど愚かな論者はいないだろう、と私はこの場を信頼している。だから礼儀を保つことができる。だがそれがかなわないときには、それこそ「議論とは関係ない重箱の隅突きに終始するウザいハエ」に対して、礼儀なんか保つのはバカらしい。

381NAN:2008/02/22(金) 20:35:40 ID:tkzlrik6
次。
>>354から>>355にかけて、主に哲学議論についていつもの逃げ口上を書き連ねる雄クンだが、>>231の原文によると
>○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

「現象をすべて知り尽くし、すべて汲みつくした」んであれば、論理的になにも残るわけないだろ?トートロジーじゃんか、これ。最初からそう思ってたんだが、まぁ雄クンだって(当時は)書き損じもするだろうし、私は哲学にさっぱり興味がないし、と放置していたのだが…猫氏がこれを指摘しても撤回どころか訂正の気配さえないのはどういうことなんだ?いまだラプラスの魔が有効だったような時代にはあり得る議論かも知れないが、こんな能天気な議論が高尚な哲学なわけないだろうな、と私は思っていたのだ。だがもしも万が一、ヘーゲルがこんなことを本気で述べたというソースがあるのなら、どうしようもないバカだってことになる。物質の存在自体が「現象」であることが知られていなかった時代の話だ、というなら譲歩できなくもないが、ならば雄クンの提示したヘーゲル(が云ったことになっている)の主張は現代において無意味だな。

>>355
>哲学的な認識論、つまり「考え方」の問題と、実証科学である、主に物理学での物質理解の混同に過ぎません。

あら、じゃぁ哲学なんか必要ないね。少なくとも雄クンの哲学はここでの議論にまったく有効性を発揮していないようだし。つぅかこぉいう卑怯極まりない逃げ口上を述べるのが哲学なのか?物について言及しておきながら、物理学じゃないからいいじゃん!ってんならそれこそ「不可侵原則」に守られた教条主義そのものだね。それともある種の宗教なのか?哲学って。ならそれは経典だな。

さて、話は哲学でも愛の起源でもない。
何度でも問おう。

・ここにスポーツ選手がいる。40代になった彼は定期診断で自分の脚に悪性の腫瘍があることを知らされる。生存を望むのであれば、右足を膝から切断するしかない、と医師から告げられた。数週間後、彼は自殺を遂げた。

こういう話だって想定できる。先と同様に科学は十分に関与し、彼の人生に口出ししているが、彼の自殺はどういう風に科学が価値判断するのだ?
無論彼は、医師に応じて脚を切断することもできた。あるいは、他の医師を探し別の治療法を見つけることだってできたかも知れない。彼の死に家族は悲しみ、苦しんだことだろう。また、死を決断した彼自身も、ひどく苦しみ悩んだことだろう。

科学万能主義全開こそ至上の道であるなら、彼の自殺は絶対にあり得ない。苦しむことも悩むこともない。それが雄クンの主張なんだよな?科学が倫理を左右するのであれば、彼の自殺は絶対悪だ。それでいいんだよな。同情の余地なんか少しもないよな。

382e10go:2008/02/22(金) 22:47:49 ID:5/V6R9W6
雄さん、もう答えてくれないかもしれないけど、地下ネコさんの質問に便乗して、また質問させてもらいます。

・王様は裸じゃないか!
質問.見間違いまたは勘違いの可能性はないの。
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
質問.DNA判定も血液型判定も拒む女が言った事を、どうやって証明するの。
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
質問.沢尻エリカの事を、その様に書き込んだ掲示板を見た事があるけど、これは科学的に正しいの。
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
質問.他の人が、「臭わない」と言ったら、どっちが正しいの。(しかも後から確かめようがなければ)

この質問は、現実にありえる(ある)事を想定しています。回答は期待してませんが、気が向いたらで良いです。

383diamonds8888x:2008/02/24(日) 06:09:00 ID:jcR/Lf4.
ちょちょんまげさんの発言(>>371)で、ふと思いつきました。

> ですから、科学は「価値観の由来」みたいなことはいずれ説明可能にしちゃうかも知れませんけど、
>その説明とこのスレッドの話はちょっと違うように思えるのです。

 価値観の由来の説明というと、自然科学じゃなくて社会学や民族学の最大のテーマのような。普段われわれが当然と思っている何気ない行動や慣習の中に、実はジェンダーが隠れていた、とかいう問題など。
 価値観との相克のきわどさでは社会科学はとっても厳しそう。確かに教科書検定でも世間で話題が大きくなるのは歴史や倫理社会の教科書ですからね。

384NAN:2008/02/24(日) 12:49:57 ID:CTE40lKg
>>377
>ゴルゴ13みたいな方ですね。(笑 そういうハードボイルドの主人公を思わせる姿勢は、自分がなかなかできないだけに私もあこがれます

ゴ、ゴルゴか…(涙。
極論するとそういうキャラ被りかも知れないんだけど、掲示板で発言していると、その弊害として「NANは信頼に値するまともな人物だ」と思われることがあります。しかし実像はあまりにも違う。フリーランスで働いているので、利害に対して比較的自由ではあるけれど、そういうことにさえ敏感にならざるを得ない局面は多々あります。(特定のクライアントを批判することができない、など)
ですので、恐らくそれは誰にでもある実像との乖離を「恥ずかしい」と感じる私の無節操な抵抗でしょう。むしろ、暴言、乱暴こそ私の実像そのものなので、恥ずかしげなく受け容れられるということでしょうか。

>無論、妥当だとは思いません。E=mc^2の例も「有用性や倫理の判定」を科学に求めることは妥当ではないと思います。

もっと分かりやすい喩えとして「生命は大切なものである」という倫理の根底を成す(と思われる)言明があります。倫理価値として得られる論理的解は「生命を大切にしない=悪」ですし「生命を大切にする=善」ということになります。しかし科学はそれをいささかも担保してくれません。生命とはどんなものか?地球上の生物だけが生命なのか?生命にはどんな定義が妥当なのか?生命の起源はなんだ?みたいな疑問に対してなら、著しく有効な科学なのに、それが「大切かどうか?」には答えない。せいぜいが「個体の生命を守るのは、その個体にとって適応的である」という示唆が得られる程度であって、善悪を判断する材料にさえならないでしょう。思考節約の原理に基づくとしたら、善悪の科学的考察を何百フレームにもわたって繰り返すよりも、直接的に立法や個別社会における道徳知識に従う方がずっとシンプルです。(メタな議論を個別事象に当てはめることの不適格さ)

あらゆる対象を採取し、それを吟味し、理解するためのツールが科学である、と私は思います。先に出た議論と同様に、包丁や切り出しナイフやバイクや銃と同様のものです。「なにかを大切とする倫理価値観の起源やシステム」を理解することは、知識として有効です。それはバイクやナイフのマニュアルが有効であることと同様です。しかし、バイクの行き先はマニュアルに書いてありません。また、書き記すべきでもないでしょう。

385NAN:2008/02/24(日) 12:50:33 ID:CTE40lKg
つづき…
先の議論に戻ると、「生命を無闇に滅ぼし続ければ、食物連鎖の鎖が途切れてしまい、すべての生命が途絶えてしまう可能性がある」という科学的示唆は求められます。これは倫理に対する起源の答えのひとつとして有効でしょう。しかしヒトは「それでも生命を根絶やしにしたい」とさえ考えることがあります。それが行使されるかされないかに関わらず、ヒトの思考や要求は本質的に自由であって、自らに不利益であるはずの行為でさえいくらでも選択可能なのです。また現実に、そうした行為はいくらでも観察できます。

こうしたヒトのもつ本質的な自由意志、奔放な行動力に対して抑制を司るのが倫理や道徳であるとするなら、無論、宗教にその教導権を一方的に委ねることになんら根拠の正当性はないでしょう。しかしそれが「まったくない」と主張するのも大変です。おそらく不可能でしょう。それはこれまでの議論にもあるように、倫理や道徳はそれぞれの社会が持つ歴史や文化に基づく知識ですから、宗教的歴史や民俗的歴史という「知識」との分離が甚だ難しいことに由来します。さらに、自由民主主義の原則に従うのだとしたら、特定の主義主張を無視したり排除することの正当性をどこかから導く必要性にも繋がり「発言権を一切認めない」わけにはどうしてもいかないわけです。これは「神の存在証明」だとか「経典の蒙昧さ」の議論とは本質的に異なる次元の議論です。また、本スレッドの本論を考えるときに重視すべきは、むしろこの面であり、特定宗教・教団の妄言をいくら指摘したところで、それらが存在し一定の「層」を形成している以上、発言力として無視するわけにはいかない原則が社会にある、ということです。

「ダーウィンが進化論の発表を見合わせていたのは宗教に遠慮したからだ」という主張は正しいものですが、当時の時代背景と照らし合わせれば妥当な判断です。また、これをもって「宗教の弊害」と主張し、今の宗教を批判することは明確に間違っています。なぜなら「昔はそうだが、今はそうではない」という歴史的変遷を無視したものだからです。これは過去の犯罪歴を繰り返し処罰できない原則に通じます。
ある学派の中心的主張もしくは指導者の利害に対して、その学派に所属する者が革新的理論を提唱することは、利害の不一致によって揉み消されたり、発表を遅延させられることがあるのは、時代背景に関わらずいつでもあり得る話です。大阪で阪神タイガースを批判することの弊害や、広島でカープを批判することにより生じる軋轢があるからと云って、プロ野球ファン全体を批判したり、球団を批判することは「間違った一般化」ですが、利害と利害が一致しないことによってなんらかの軋轢が生じるという事象は、さまざまな社会的属性に対して当てはめて考えることが可能です。

少し雑になりますが、無神論者と信仰者の問題も、マイノリティとマジョリティの問題と云えるでしょう。アメリカと日本では、両者の立場が逆転している、ということです。また、利害の不一致に敏感な社会と穏健な社会というセンシビティにも由来しているかも知れません。平等を原則とする社会でマイノリティに不利益があることは正しからぬことですが、残念ながら人間社会は理想にはほど遠いものです。だからといって改善を求めることは間違いではありませんが、対象を否定し敵視したような方法論では、議論(ディベート)で勝つことはできても、それがために反感を生んだり思いもよらぬ障害を生むことだって予測できてしまう。この問題(集団利害への言及)を適切に行うのは実に難しい問題ですね。

こうした考察を科学的に行うことの意義は大いにあるだろう、と私は思います。それは(たとえば)宗教の無根拠さや蒙昧さを指摘するためのものではなく、さまざまな「境界問題」がなぜ起きるのか?という大テーマを扱うのに有効だ、という意味です。また、それでもなお、結局ヒトはなにをするか分からないのですが、だからといって諦める必要はありませんね。

386AH1:2008/02/26(火) 13:45:25 ID:sNMJ1V0Y
ちょちょんまげさん
>そう言われっちゃうと、今度はなにやらさみしいんですよね。(笑)

あはは。いやまあ、私としてもそう言わないとダブスタなわけでして・・
でも全く放っておくつもりなら、ここで発言させてもらう事もないでしょうから。

387junsaan:2008/03/02(日) 16:35:44 ID:JxbYVj9s
はじめまして。
ほかの掲示板で書いたことでもあるのですが、科学に、神という存在を認めてしまうと「すべては神の御業」で終わってしまうと思います。
だから、なんというか、「この世」のしくみを詳しく解明するには、クリスチャンであろうとなかろうと、神の存在をストレートに導入してないのは、仕方ないのでは…

388junsaan:2008/03/02(日) 16:36:33 ID:JxbYVj9s
はじめまして。
ほかの掲示板で書いたことでもあるのですが、科学に、神という存在を認めてしまうと「すべては神の御業」で終わってしまうと思います。
だから、なんというか、「この世」のしくみを詳しく解明するには、クリスチャンであろうとなかろうと、神の存在をストレートに導入してないのは、仕方ないのでは…

389NAN:2008/03/03(月) 02:57:50 ID:CTE40lKg
>>383
『オッカムの剃刀(かみそり)』をご存知ですか?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80

思考節約の原理と云う場合もありますが、説明に不要なことは扱わない、という科学的方法論で広く浸透しています。
力学現象も宇宙創成も生物進化も「神の御業」である可能性はあります。しかし、立証の手立てがありません。立証の手立てがないということは、反証も出来ないということです。だったらそれは保留でいいじゃないか、ということです。

>「この世」のしくみを詳しく解明するには、クリスチャンであろうとなかろうと、神の存在をストレートに導入してないのは、仕方ないのでは…

この部分については、どこに、あるいは、誰に書かれたのでしょう?
ちょっとスレッドの内容とはズレているように見受けられます。

390junsaan:2008/03/03(月) 18:57:03 ID:SoFKphIY
>ちょっとスレッドの内容とはズレているように見受けられます。
たしかにそうでした。
題名見ただけで投稿してしまいました。すいません。

391ちょちょんまげ:2008/04/04(金) 13:18:05 ID:vUxNW.gI
NATROMさん、もう「親子丼」の#988じぃく氏の書き込み
      ↓
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/2092/1204816736/988
は、読まれたと思います。

あの人たちは、もうダメだ。
俺、もうちょっと人間信じてたんだけど。
ドーキンスはやっぱり間違ってるわ。理を尽くしたところで、わからんやつは、ほんとにわからんのですね。
NANさん、「科学と神」の議論、俺、白旗です。

392ちょちょんまげ:2008/04/04(金) 13:24:50 ID:vUxNW.gI
って、俺なんか読んでただけだけど、ずーっとつきあってた、NATROMさんのがよっぽど脱力ですよね。
お疲れ様でした。

393NAN:2008/04/05(土) 20:46:26 ID:QrHs74qA
>>391
なぜ私に「白旗宣言」を出されるのかは良く分かりませんが(笑。
ダブスタであることを立脚点にしている論者との議論は、自身がダブスタを知ろうとしない限り、永遠に水掛け論です。
また、当然のことですが、自身に対する批判を持つこともないでしょうね。

でもそれって、普通の世の中ですよ。

394名無しさん:2008/04/28(月) 12:36:43 ID:D2PZoWjk
燃料投下(笑)
「米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望」
ttp://macska.org/article/224

macska女史のページですが、反響が大きいようです。
結構この話題、興味がある人が多いんですかね?


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