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神と科学は共存できるか

41chochonmage:2007/11/19(月) 05:36:22 ID:Qhwn4442
「啓蒙」の部分ですが、そもそもドーキンス氏は「フィクションとしての宗教」を否定していません。
例えば彼は「西洋人」としての文化的素養としての聖書理解はむしろ重要であるという認識です。
それは、シェークスピアの「物語」を「西洋人」の常識として身につけるのが重要であると考えることと
同様の認識だと思われます。

彼が批判しているのは、「宗教というフィクション」をそれこそ「逐語的」に取り入れ、その内容に「懐疑的」に接せず
「盲信」してしまうことだと思います。(それを信仰と呼ぶのでしょうが)
そして、信仰者がその奉じる宗教の内容をフィクションでないと主張することと、シェークスピアの物語が
フィクションでないと主張することの差異が、私には見えません。

>聖書の相互に矛盾するように見える記述について厖大な解釈がなされているのは僕だってしっているにゃ。

私は聖書学、神学等に全く無知でありますので、ご批判は甘受いたしますが、
ここの部分なんかは、私には「フィクションであるストーリーの矛盾部分の厖大なつじつま合わせ」に思われてしまいます。
(歴史学的な証拠に基づいて検証できる部分は除いて)
ラブクラフト氏のクトゥルフ神話を同時代、後世の人たちが様々に解釈、世界観の構築に励んだことに似ているように
思えます。
その研究過程で新たな重要な思想が生まれ、蓄積されてきたであろうことは容易に想像でき、かつ錬金術が科学を
大いに発展させたのと同様に有意義であったのであろうとは思いますが。

で、ドーキンス氏が「啓蒙」しようとしているのは、
「フィクションと現実をごっちゃにするなよ」=「クトゥルフの世界をほんとの世界だと思うなよ。(マニアには多いらしいっす。)」
レベルの話だと思うんです。
そのぐらい言ってもいいじゃん、と私なんぞは思ってしまうのは、やはり危険なのでしょうか。

さらに、「逐語解釈」について、読者が宗教文献を読むときにどこを逐語解釈し、どこを比喩的に捉えるかというのは
誰が決めるのでしょう。そこに神学のキモがあるのでしょうが、いずれにしても決める人の脳内の話になってしまうのでは
ないでしょうか。
私が例えばキリスト教に入信したいと思ったときに、極力「逐語解釈」から遠い宗派を選ぶのが安全なのでしょうか。
イエスが「神の子」である、「復活した」ひいては「神の存在」さえ逐語解釈していない宗派はあるのでしょうか。


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