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神と科学は共存できるか

215NAN:2008/01/23(水) 17:39:11 ID:???
「信じる」こととは、言い換えると「呑み込むこと」だったり「その味に慣れること」でもあるのではないか?と私は思います。子供がさんざん発するあの「なんで?」を、私たちは年を経るごとに忘れ、「なんで?」をしないことがまるで大人であるかのように錯覚させられ、モノを買うことがシアワセであると思い込んだり、ビールの味を覚えたり、雑誌やテレビで紹介されることに名誉を感じたり、社会の一員であることが当たり前であると慣れてしまうのではないでしょうか。

このスレッドで皆さんの挙げる「宗教者」というプラカードを観察して見ると、その対象は「私たちとなにが違うのだろうか?」と思わざるを得ません。なぜなら、なにかを盲信していたり、自分に対する疑義を見失っているという点で、あらゆるジンルイはおんなじことをしているだけだ、と思うからです。また、これは根拠なく感じることですが「なぜ宗教者に対する見直しはしないのだろう?」とも思います。創造科学論者とか原理主義者とか教条主義に基づく威圧者だとか、「そんなの宗教者と云えるのか?」というダメダメなケースだけを取捨選択している、ということです。

「(一般に云う)仏教」ではなく、「釈迦(ブッダ)の言葉」として伝わるものの中には「信仰を捨てろ」とか「形而上学的領域の断定を知識として認めない」など、非常に合理的かつ科学的である教えが数多くあります。そうでなくても、世界宗教の原点には「偶像の拒否」など、皆さんが「宗教者のステレオタイプとしているモノ」とは、両極で対立するものが数多くあります。それら変化は各宗派が世俗化しスノッブと化し「ポピュラリズムという正当性」を身に付けていく過程において起きるのですが、まったく同じミーム論的現象が私たちの周りにはいくらでもあります。

このような視点に立って、私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。ところがまるで「宗教者というのはこういうおかしなヤツらで悪いことを平気で行う」という視点に立った批判しか見えて来ない。自分たちも十分狂っているのにそれはないんじゃないか?というのが私の主張なのですが、なかなかかみ合いませんね(笑。

「なぜ夕食の買い物をスーパーでするの?」
「どうして毎日仕事に行くの?」
「なぜ私の家族はこのひとたちなの?」
「私はどうやって生きていけばいいの?」

世間一般に云う「普通のひと」は、上記のような疑問を滅多に持たないでしょう。しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。私は間違っているかも知れませんが、もし私の主張が正しいのであれば、批判すべきは宗教でしょうか、それとも宗教の名を語った詐欺師でしょうか?こういうことをきちんと考えることは「不当な宗教の擁護や遠慮」なのでしょうか?私にはそうは思えません。むしろ当然行うべき配慮である、と強く思います。


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