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神と科学は共存できるか

176NAN:2008/01/08(火) 02:07:53 ID:???
後悔と懺悔さんの問題提起に対し、私がこのように反応している理由と動機について、少し書いておきたいと思います。(この掲示板に問題提起したのは地下猫氏なわけだが…)

宗教一般について包括的な批判を行うこと…実は私もそこに興味がないわけではありません。また、くり返し述べているように、「メリケンのバカクリ」に厳しい批判を行うのは当然だ、と思っているし、カルト宗教の嘘っぱちや底の浅さ、原理主義に基づく暴力を非難しないというのは、とても恥ずかしいことだ、と思います。それでは単に、私は後悔と懺悔さんの主張する「一部宗教に対する批判の一般化」について、そこだけを批判しているのでしょうか。一連の議論はそこに終始しますが、私の個人的な動機はもっと別の部分にあるようだ、と思えるのです。

>>102において『様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか』と、後悔と懺悔さんは述べています。ここで云う宗教とは、かなり包括的なものであるように私は捉えます。また、先の投稿(>>170)で示されるような、これから宗教者となるかも知れないひとびとに対する危惧や警鐘そのものが無意味であるとは、当然、私も思いません。

それではなぜ、宗教「一般」に対する批判を私がなかなかできずにいるのだろうか?そう考えるとき、私は「その先にあるモノ」を想起せずにいられないのだろう、という推論に辿り着くのです。
私は(もちろん自分を含めて)ニンゲンに対してさほど期待をしていません。理性とやらの確かさも、信用に値しない脆いものだ、としか思っていません。それはたとえば「軍事的抑止力」などに代表される、独善的で威圧的な「正しさの押し付け」をもってしか、ひと時の平和さえ維持できないヒトの浅はかさに対して、とうの昔に絶望しきっているからなのだろう、と思っています。つまり、百歩譲ってドーキンスや後悔と懺悔さんの主張を認めたとき、それもまた「正しさの押し付け」として広まり、歪められ、必ず差別的なムーブメントに繋がるだろう、と予測しているからです。(実際、ドーキンスは『知識人』に対して決起を要請している。非知識人はどうなるのだろう?)

あるいはこんな予測も私はしています。仮に後悔と懺悔さんが述べるような「自戒」をひとびとが行い、実践していったのなら、なるほど現在はびこる宗教的問題は解決していくでしょう。しかしそれこそ仏陀やその他の開祖が試みた「救い」なのではないのか?それはつまり現代という世の中におけるとても宗教的な行為ではないのだろうか、仮にそうであるのならば、救いの「線引き」はどこでなされるのだろうか、どこかで線引きを行うような救いが、果たして私に許容できるだろうか?などと考え始めてしまい、やはり容認できないものに見えてしまうのです。

宗教に対してなにか積極的なアプローチを行うのだとしたら、もしそれが革新的で、強い説得力を持ち、本当に世界を変えるほど力のあるものであれば、それは必ず宗教的な色合いを帯びたものにならざるを得ないのではないか?私はそう思います。


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