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神と科学は共存できるか

138NAN:2007/12/18(火) 18:17:12 ID:???
>>131 その他:後悔と懺悔さん

あなたに対して私が批判的である主旨とは、宗教者vs無宗教者のような「枠」に基づいた議論そのものがナンセンスではないのか?という”私の”主観(もしくは基本的な考え方とかライフスタイル)に基づいてのものです。これに対し、

>「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします。

と返されても、宗教擁護者というものが何者なのか?それこそ虚像に過ぎないと私は考えているのでお答えのしようがありません。
たとえば私は「創造論者」と「創造科学論者」はきちんと区別しなければならない、と考えています。ですのでこのサイトにおいても創造論者とおおまかにくくった批判に対しては「それは大雑把過ぎないか?」と時折クレームをつけます。それが「宗教者」となると、たとえ前書きや注釈、その他の章立ての中でいくら断りをいれたとしても「失礼で浅はかに過ぎる」と私には見えます。
#ちなみに信仰者である知人が自らの過ちや自戒について述べる機会に接したことなどいくらでもありますが、なにしろリアルな会話ですので記録やソースを提示することはできません。
#ネット上の知人にも、自らがクリスチャンだけど研究機関に於いて古生物学の学術研究に従事している者がいます。しかしここに彼を引き吊り出すことが得策であるとは思えません。

>>129

>そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、その危惧を解消しておきたいわけです。

その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。
私はあなたの発言に批判的であるけれど、あなたの発言を禁止しないし、できない。それはほかの誰も同じことで、ある主張に対して別の主張の存在は常に許されています。すでに実現されているものに対して「危惧」を感じ、より上位の影響力を望む行為は、なんらかの「強制力の発動を欲しているのではないのか?」と思われるに値する、と私は考えます。

もちろん私も、原理主義者によるテロや、カルトによるマインドコントロール、集金装置と化した布教や集会、利権構造や政治的圧力団体へと変容している宗教団体について「個別の批判、時には強制力」は、あって然るべきだ、と考えています。しかしそれが「宗教者への無差別な批判(たとえどこかで断りを入れていても)」となると、配慮に欠けるだろうと思うのです。


>)、「宗教」を批判するのに、他人の家族や食事の好みを批判するとき以上の礼儀を要求するのは間違っていると、私は思います(この件について納得行く反論は寡聞にして知りません)。

これも同様です。私は宗教行為を個別に批判する際、まったく遠慮などしません。私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。私はこれまでも個別の信仰者に対し激しい批判や時には暴言さえ撒き散らしているけれど、相手の存在を否定したりはしていません。増してや「宗教」という大きなくくりで自分と他人を峻別したりしません。それで私は憎まれたり疎ましがられたりするだろうけれど、それも私が自由意思のもとに選んだ行動の結果であり、それを受け容れています。

まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。確かに宗教者そのものはいます。ほとんど大部分の日本人が法事に参加し、結婚式に出ています。もうそれだけでその人たちは「宗教者」なのではありませんか?違うというならそれも拒否すべきです。

あるいは、たとえば宗教法人というものの法人格を認める国家が宗教擁護者でしょうか?だとするなら、誰もが国家を批判し政権を「選ぶ」権利を我が国は有しています。これについて、いつまでも与党が変わらないことを批判するなら、それは国家に対してではなく、私たち自身についての自戒となるでしょう。


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