[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
つぶやきすれっど2
274
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/12(日) 21:35
>今里さん
今里さんのサイトは「成仏しようぜ」だったと思いますが、
今里さんにとって成仏ってなんでしょうか。
あと、成仏した人って現在や過去にいると思われますか。
いるとしたら誰ですか。
>>264
あんまり恐縮しないで下さい。
あんまり他人に振り回されなくても良いと思いますよ。
自信満々なところと、過剰に恐縮するところがあって、
他人からはとても不安定に見えます。
>>268-269
さて
> 法然や空海のように法門の海の中で溺れず
法然や空海の著書は読まれましたか?
日蓮が法華経を選択したのも、「法門の海の中で溺れ」た
ことになると思いませんか?
> 妙法の珠
これは、一言で言って、なんでしょう。
今里さんの「危うい」ところは、仏教一般や
日蓮一般についての知識がなく、創価学会や
宗門や石田次男からの知識のみで、
仏教一般や日蓮について語るところだと思います
よ。(的はずれであればごめんなさい)
とりあえず、仏教一般や日蓮については、次の三冊
だけは読んでから議論していただけませんでしょうか。
中村・三枝『バウッダ 佛教』(小学館ライブラリー)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094600809/
末木『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101489114/
末木『日蓮入門』(ちくま新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480058559/
275
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/12(日) 21:40
>>273
今里さん
独歩さんの指摘は揚げ足取りでは全然ないですよ。
あなたの日蓮本仏理解が根本的に不十分であるということです。
わたしもその点は指摘しようと思いましたが、
独歩さんが既に指摘していたので指摘しませんでした。
あなたは、外部から与えられたイデオロギーとして
日蓮本仏というものに執着していますが、自分の主張として
日蓮本仏論を組み立てられていません。
ですので、あなたは「日蓮本仏主義者」と呼ばれるべき存在であって、
「日蓮本仏論者」ではありません。論じていないし、理解していないからです。
「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、
日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまうのです。
なぜなら日蓮は垂迹に成ってしまうからです。垂迹は当体とは根本的に
違います。
276
:
犀角独歩
:2003/01/12(日) 21:46
祐二さん:
(1)〜(3)について、辞典の記述など、どうでもよいのです。
日蓮はなんと言っていますか。
> 揚げ足の取り
揚げ足取り?
本地に対する語は垂迹です。
“本地・自受用報身如来 / 垂迹・上行菩薩=凡夫・日蓮”というのが『産湯相承事』の記述であれば、日蓮を垂迹仏というのが、なぜ揚げ足取りなのでしょうか。
(笑)などで誤魔化さないでください。
日蓮が本仏であるというのは、いかなる証拠によるのでしょうか。
277
:
犀角独歩
:2003/01/12(日) 22:13
> 276
補足です。日蓮垂迹仏と記しましたが、これはもちろん日蓮本仏という語を受けてのことです。
実際は“本地・仏(如来) / 垂迹・菩薩(謙下で凡夫)です。
みかんさんも書き込まれていましたか。
そう、この点が、追って、当体に置換されていくわけですね。
278
:
らん♪あらため蘭
:2003/01/12(日) 22:51
わぁ!菱村さんこともヤッホさ〜〜〜 ん!! また「いちりんさん」とこ
来て下さいよ〜〜〜っっっ!!!!待ってますね〜〜っっっ!!!!
(o・・o)/~
279
:
蘭
:2003/01/12(日) 22:53
菱村さんへ
http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/
280
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒)
:2003/01/12(日) 22:57
いきておったか糞爺(藁)
281
:
蘭
:2003/01/13(月) 01:23
ドモドモ\(^_^ )( ^_^)/ドモドモ
なにしろ、いちりんさんところでは、みんなで「一体ヤッホさんは、どうしたん
だろう」って心配してました。それでね、ヤッホさん。ヤッホさんから言われた
「君は病院に行きなさい」という発言ですが、それが他の病院に診てもら
ったけれど「病気じゃない」って言われてしまいました(。-_-。)・・とほほ。
それで私は、ヤッホさんに対しては、それほどの憎しみというものは持って
いないのです。まわりはヒヤヒヤしていた面がありましたけれども、私は、
本当の「悪」というものを貴方には感じないのです。本当の悪というものは、
男性にはいないんじゃないかなって最近思うのです。「女」のほうが(自分
含めて)本当にやっかいです。だから私は、女人成仏というものを一度はして
みたいけれども、どうやらちょっと最近感情に走ってしまいがちです。
それにしても、ヤッホさん。ほんとお帰りなさい。またいろいろ口喧嘩しましょう
ね〜♪
282
:
sat
:2003/01/13(月) 06:46
>270 無徳さん:
>現役の創価学会員とのことですが、学会内部においてどんな思いを抱かれておいででしょうか?
私の体内において、無徳さんのご指摘するところの「共同幻想」は崩れつつありますが、学会員の飾り気のない庶民として見せる素顔は大好きですし、この人たちのためならという素朴な気持ちが失せているわけでもありません。なので、上記のご質問に対するシンプルな答えが用意できるかと言いますと、言葉ではなかなか尽くせない複雑なものがあるというのが偽らざる心情です。正直申し上げまして、カオスの真っ只中にあります。
>今の学会は開かれた許容領域が在りますでしょうか?
これまでに色々ありましたが、確かに、あまり居心地がいいとはいえませんね。
>池田大作氏に対する絶対的信奉といった側面は、総本山と袂を分けてからますます強化されたのではありませんでしょうか?
ご存知のように、現在の学会は、①戦後草創期時代の入会世代、②昭和50年代以降のマス路線による入会者、③学会員子弟(二世・三世)に分布が分かれています。その三層構造による世代意識やモチベーションがコンデンスされている点を見誤ると読めない点が多くなります。
昭和54年4月24日の勇退問題は有る意味で内部クーデターでもあったのでしょうが、事実上失敗しましたし、宗創問題により破門されたことは、むしろ池田名誉会長を絶対視するには好都合に働いたことになります。今般の会則変更の淵源はこの辺からあったと思います。
現在は、かつての池田本仏論をそのまま踏襲する形ではありませんが、「池田名誉会長に対する絶対的信奉」は、「強化された」というよりは、「それしか残っていない」といったところではないでしょうか。①専従者(本部職員や外郭団体勤務者)や、②組織風土に違和感を感じている人にとりましては、自らの信仰の正当性とか確信を語ろうとした場合、「池田名誉会長に対する絶対的信奉」に問題を帰着させなければ説明がつかないということでもあろうかと思います。しかし、末端においての日常風景では、外部が思うほど大きな問題として顕在化していませんし、会合でそういった言葉をことさらアジテーショーンする幹部は逆に見かけなくなっています。むしろ、その沈黙の意味するところを考えたほうがいいような気がします。末端の沈黙は異論を挟まずとも、決して是認でも容認でもないと・・
もっとありていに言えば、学会は、池田名誉会長、或いは本部職員を始めとする専従者によってコントロールされているとの見方もあるでしょうが、構成員はもっとしたたかなような気もします。コントロールする側の論理と、される側の論理を人々は有る意味で肌で知っており、是非はともかくとして、そこに集う人々の意思なのだとする(したい)・・その一点で暗黙の了解を得、二極が交差しているような気もします。
283
:
sat
:2003/01/13(月) 06:46
>270 無徳さん(続き):
話が逸脱してしまいますが、エリック・ホッファーが「あらゆる『大衆運動』は、宗教運動にその原型があり、欲求不満に苛まれた人間が、その状態から脱出して、自己存在の不安を救おうとするところにある」と記していたかと思います。同氏は、大衆運動の背景として①潜在的回心、②共同行動、③自己犠牲について論じていますが、創価学会の戦後における運動もこのことと無縁ではないような気がしますし、運動体としてはマスムーブメントとモッブの往還をしなやかに繰り返して巨大化してきたのではないでしょうか。
集団活動の魅力とか、集団所属の魅力が人を惹きよせ、この感情が集団内親和性と相まって顕著になれば、集団を超越的で絶対的な価値とし、それはやがて一体化を目指すことにつながり、自己犠牲や狂信的行動が発現されてきますよね。しかし、学会員の中には、それが組織の延命にとって命取りになることを知っている層もいます。
池田本仏論の蒸し返しとか、創価仏とか創価菩薩みたいな路線に発展させ、財務を中心により独善的・排他的集団となっていくのか・・それとも宗教的権威から世法的権威にターニングした時点から、宗教団体的色彩を脱し、出版事業や教育事業を中心に平和団体、教育団体、文化団体、政治団体的な色彩を強めていくのか・・議論の分かれるところですが、在家集団である以上、ソフトランディングとして、後者の道を選ばざるを得ないのではないでしょうか。
「七つの鐘」とか「正本堂建立」といった具体的かつ明確な組織目標が終了してしまった今、市場原理に基づいた「生き残り戦略」にシフトしたことは否定できない事実であり、国家権力にとって、はなはだ好都合な存在として機能をし始めたような気がします。組織が未完成で急進的かつ過激的な目標を掲げ、外に敵を意識し、上昇志向にあるとき、矛盾など問題ではありませんが、世界平和などという曖昧模糊とした抽象的概念に至っては、到底組織の凝集性を高める集団意思としての目標などになり得ているとは思えません。なり得ているとすれば、それは学会の巨大さであり、財力であり、人的ネットワークであり、そこに身を置くという所属と承認欲求への満足なのかもしれません。
安定飛行に入った段階から、具体的な目標を提示できなくなった巨大集団としての学会は、国家と対立軸にあったわけではなく、国家意思(保守的勢力)の補完作用として機能してきたということであり、違った意味で保守勢力との政教一致路線を展開し、現在も拡大継続しているということになります。宗教政党から国民政党への転換とか、他宗との融和路線の加速化といった事実が正直にそれを物語っているのであり、学会の指針とする「境涯革命五原則(①他人に言ったら愚痴になり、御本尊に訴えれば祈りになる、②世法で苦労すれば苦しみが残る、信心で苦労すれば喜びと福運が残る、③感情をぶつけると怨嫉となる、題目で包容すれば成長できる、④方法ばかり考えると迷いになる、決意して祈ると智慧がわく、⑤出来ないと決めると出来なくなる、やろうと決めて祈ると力がでる)」など、国家権力にとって誠に都合のよい謳い文句以外の何ものでもないような気がします。
かつて差別問題の中心にあった水平社を取り込む形で翼賛運動が完結した歴史を想い、国家権力にとって創価学会が極めて都合のよいガス抜き機能を有し始めたということを考えますと・・もしもそれが大衆の意思だと言うのであれば・・社会への積極関与としての国家諌暁が成就し得ず、身延で晩年を過ごされた日蓮はどのように感ぜられるのでしょうか・・
284
:
今里祐二
:2003/01/13(月) 12:59
独歩さん、みかんさんへ
>>232
の僕のつぶやきに対して、独歩さんより
>>237
>>238
>>242
の無礼とも取れる発言があったので、僕も少しカチンと来て
>>250
で、単純で幼稚な罠を仕掛けてみました。
そうしたら
>>254
でまんまと引っかかってくれたので、
>>255
>>268
で、独歩さんのスタンスの根本的な矛盾点を指摘してみました。
日蓮が仏であるかどうかはともかくとして、日蓮が用いた法華経が仏の金口でなければ、
日蓮の所論はすべて崩壊します。
このことは、誰にでも解るような簡単なことではないでしょうか?
独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわりを見せますが、
日蓮が仏でなければ、そのようなこだわりはナンセンスです。
>>272
あたりから、お得意のグラウンド勝負に持ち込もうとされているようです。
寝技に持ち込まれたら僕など秒殺されてしまいそうなので、その手には乗りません。
日蓮が仏ではなく、法華経が仏の金口でないのなら、
そんなものにいつまでもとらわれているのは時間の無駄です。
すでに40年も無駄にされたとの事ですので、こんなところでカキコなどしている暇はないはずです。
原始仏典を研究し、シャキャムニの真意をつかんでください。ご健闘をお祈りします。
みかんさんの
>>127
に賛同したのは、僕自身にそのような『信』の自覚があるからです。
>自信満々なところと、過剰に恐縮するところがあって、
ご指摘の通り、僕に仏教一般や日蓮一般の知識が不足しているからだと思います。
紹介していただいた本も読んでみたいと思います。ありがとうございました。
285
:
アネモネ
:2003/01/13(月) 15:15
今里さん
少し気になりましたので、失礼ながら横から意見させて頂きたいと思いました。
オフ会のときにも言ったことですが、ご自分の言葉に責任を持つべきだと思うんですね。
まず日蓮本仏論者と自称する以上、論者ですからしっかり「論」を展開して頂きたいです。
250>において、
>ほかのスレッドだと独歩さんに突っ込まれて恐そうなので『つぶやき』にしたのですが…学会を追い出され、法華講からも追い出されてしまって、友達いなくて淋しいので、
あまりいぢめないで下さい(^^)
この時点で、今里さんは独歩さんからの突っ込みを回避するために「論」を捨てたことになるのではないでしょうか。それが証拠に、HNから「@日蓮本仏論者」が消えているわけです。既に、議論から降りて「私の個人的信仰に突っ込みを入れてくれるな」といったところでしょう。要するに、自分の個人的世界観の中での日蓮本仏論だったことを自ら露呈されたわけですね。しかしそのことは、とっくに独歩さんは指摘していて、確かに棘のある言い回しでしたが、237>のレスでそのことを示したということでしょう。
そして見抜かれた今里さんは、255>において、
>僕は「之」を「仏様の御意(みこころ)」と受け取っておりました。僕にとっての仏様は大聖人様ですから「大聖人様の御意」です。まぁ、僕の勝手な解釈に過ぎないので、どうだっていいことですが。
ちゃんと、「僕の勝手な解釈」と断りを入れてあるわけですね。今里さんの日蓮本仏論は、論ではなくて、単に今里さん的勝手な解釈と明示したとなるでしょう。
しかしです、私はここで一言言いたいことは、オフ会のときにもやんわりと申し上げましたが、信仰を人に語り広めるときには、自分の言葉に責任を持って頂きたいのです。個人的な信仰観の域を超えないないなら、そのことを断ってほしいと思うのです。
宗教や信仰は、人の人生を大きく左右するからです。この重大な問題を軽く考えてはいないでしょうか。
少なくとも、日蓮は自分の言葉に社会的責任をどこまで負おうとした人であり、そのために多くの書を残してもいるわけですね。言いっ放しではないわけです。
今里さんが、個人的信仰で日蓮を本仏と崇め続けること、これは個人の自由ですから、論が展開でないからといって、今里さんの信仰する内心には誰も立ち入れません。構わないことでしょう。
しかし、今里さんは「成仏しようぜ!」というサイトを管理し、ネットを通して信仰を広めている立場のはずです。この時点で社会的責任が伴うわけです。その社会的責任の上からも、しっかり日蓮本仏論を展開しなければならない立場にあるのではないでしょうか。
また組織から追い出され、お友達欲しさを感じているならば、尚更ご自分の言葉には最後まで責任を持つことが肝要だと思います。
286
:
アネモネ
:2003/01/13(月) 15:15
(つづき)
オフ会で成仏ということについてお尋ねしたとき、今里さんは自分が死ぬときまでこの信心で本当に成仏できるか否かはわからないことだと言われました。私は正直なところ、無責任さを感じたものです。しかし、その無責任さの体質は、恐らく「信伏随従」の組織信仰の影響だろうと思っていました。今里さんだけを責められることではないでしょう。ですから、それ以上のことは言わなかったのです。
だけど、掲示板での一連のご発言を見ながら、やはりなんかおかしい気がして意見したくなりました。
世の中に向けて「成仏しようぜ!」と誘いかけていることに、今里さんはどれだけの社会的責任を感じていらっしゃるのでしょう。宗教への勧誘とは、人の人生を左右することですから、厳しい発言になりますが、そのことを一度しっかりご自分に問い掛けて考えて頂きたいと思います。生意気を言うようですが、それこそ「観心」ということにもつながっていくことではないかと思います。恐らく、ご自身はまったく責任を伴わないところに位置して発言しているのではないでしょうか。恐らく、誰かの言葉に依存したところでのご発言でしょう。
布教の自由はもちろん、言論も自由です。しかし、その自由には重大な責任が伴うという意識、抜け落ちてはいないかと感じられるところです。
最後にもう一言、
269>僕からみれば「身の程知らず」という言葉しか思い浮かびませんが……、
自分は、「論」を展開できずに、突っ込みを入れないでほしいと議論を回避しておきながら、人に対しては「身のほど知らず」と言って、その理由が「単純で幼稚な罠を仕掛けてみました」という。
成仏を目差す人の発言とは思えないのが正直なところです。
しかも、「身のほど知らず」はレスの流から言えば、今里さん的勝手な解釈のうえからのご発言。勝手解釈を認めた時点で、人のことをそんな風には言えないのではないでしょうか。
そもそも罵倒されようと、中傷すれようと、誹謗されようと、自分が絶対的信を傾ける「日蓮本仏論」を徹底的に展開していくのが、今里さんが本仏と崇める日蓮のやり方ではないでしょうか。恐らく自分は仏ではないから、そんなことは出来ないなどとはぐらかされるところかもしれませんが…。
日蓮本仏論など日蓮は言ってないそうですが、それでも日蓮本仏論をどうしても捨てきれないならば、反論するだけの知識と理論武装をして出直せば良いだけのことです。
それにしても、今里さんが本仏と崇める日蓮の気質とは、幼稚な罠を仕掛けるようなことを最も嫌うお方ではなかったかと思います。私はもはや本仏とは思っていませんが、それでもかつては信じていたのです。それは、そこを信じさこませるほどに、まさに仏のように潔く堂々とした人格者であったからであろうと思われます。その点における日蓮への敬慕と信頼は、私は今も変っていません。
今でも日蓮を本仏として崇め勧める立場ならば、幼稚な罠を仕掛けるといった姑息な手段などとらず、潔く堂々とした姿勢を目指して真剣に議論に挑んで頂きたいものです。本仏・日蓮はおろか、人間・日蓮をもおとしめる言論行為ではなかったでしょうか。
287
:
犀角独歩
:2003/01/13(月) 15:26
祐二さん:
まず、第一に、あなたは276の私の質問に何も答えず、まったく見当外れのことを記してきましたね。感情論に陥ることなく、質問に答えてください。
また、自分が仕掛けた罠に私が引っかかったことのような言いぐさですが、それは答えに窮した自分をひた隠しにするまさに“罠”でしょう(爆)
さらに質問を続けます。
> 日蓮が用いた法華経
日蓮が用いた法華経とは何ですか。
> 独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわり
これまた、学問を知らないまったくの浅はかな発言なのであって、祖書学において、日蓮の真筆を基準にすることなど、基本中の基本、原則中の原則です。
この言は私を批判するに似て、自らの無知からこの学問的姿勢を批判しています。真筆にこだわりを見せることが異常なのではなくて、なにが真筆か、何が真偽未決か、偽書かすら考えずに、あなたのように放言することのほうがよほど異常なことです。
> 日蓮が仏ではなく、法華経が仏の金口でないのなら、
そんなものにいつまでもとらわれているのは時間の無駄です。
これは二極思考でしかものを考えられない、日蓮本仏主義者ならではの発言です。
時間の無駄なのは、まじめに学ぼうともせず、自分の考えに執着し、形勢不利と見るや、如何にも自分が優位に立っているような見苦しい書き込みをして、さらに自分の考えに執着し、時間を無駄にするあなたの信仰人生にこそ言えることです。
日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。
さらに執着を増し、自己弁明を計り、時間を無駄にされないことを祈るばかりです。
いずれにしても、不遜な発言を投げかけた以上、こちらの質問にはお答えいただきたいものです。
288
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒)
:2003/01/13(月) 19:48
>>283
>身延で晩年を過ごされた日蓮はどのように感ぜられるのでしょうか・・
蒙古の王を折伏するんだって息巻いていたのサ。
289
:
今里祐二
:2003/01/14(火) 02:24
アネモネさんへ
僕のオリジナルの「日蓮本仏論」などありません。
オフ会の時もお話したと思いますが、僕は日寛教学全面肯定という立場です。
290
:
今里祐二
:2003/01/14(火) 03:43
独歩さんへ
伝言ゲームの一番最後でシャキャムニの最初の言葉とはすっかり変わってしまった漢訳の法華経を真に受けて、
頭カチ割られ、腕を折られ、首を切られそうになり、島流しにされた愚かでおっちょこちょいの「変なおじさん」
などに、いつまで未練がましくこだわっているのですか?
独歩さんは原典を重視されるお方だと思っていますが、そうであるならば、歴史の流れの中で不純物をいっぱい
抱え込んだ経典をもとに論を立てた日蓮の研究など無意味なのではありませんか?
スッパ・ニパータとかですか? 僕はよく知りませんけど、そういうシャキャムニの直説と考えられるような
経典を原語でスラスラ読めるほどに研鑽されることの方が先ではないでしょうか?
僕は大聖人様を仏様と信じるという立場から、
「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作であり、羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい、などということは
つい最近知りました。しかし、もしそうであったとしても、仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として
羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、
大聖人様は身をもって教え示されたと思います。」と述べました。
独歩さんは
>それにしても、実用上の成仏なんていうのが本仏論だとは、嗤わせますね。
などと暴言を吐くのみで、その根拠を示していません。実用上問題があるのならその根拠をお示し下さい。
また、日蓮は仏ではない、法華経は後世の創作であるなどと、妄言を吐きながら
それでも日蓮にこだわり続けるという、摩訶不思議な態度で、ネット発言を続けています。
独歩さんが日蓮にこだわる理由は何なのですか?
法華経が後世の創作で、日蓮が仏でないのなら、独歩さんにとって日蓮などどうでもよい存在なのではないですか?
「うなぎの理論」ではなく、明快な答えを期待しています。
291
:
今里祐二
:2003/01/14(火) 03:59
独歩さんへ
>日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。
何を根拠にこんなことを言ってるんですか?
292
:
アネモネ
:2003/01/14(火) 08:58
今里祐二さん
>289
僕は日寛教学全面肯定という立場です。
ならば、なぜ日寛教学を全面肯定する立場をとられているのか。まずは、そこのところを説明していただけませんでしょうか。
独歩さんはかつてこの掲示板を通して、日寛教学の理論的な矛盾を突いたことはご存知のことと思います。そのことで私も本仏論への信をやめたわけです。
ですから、今里さんはその矛盾に対して反論すべきではないかと思いますね。
291>
>日蓮は仏ではない、法華経は後世の創作であるなどと、妄言を吐きながら
このことは理論的に何度も説明されてきていることなのに、なぜ今里さんはこのことを妄言と言うのでしょうか。それを説明するためにも、この掲示板で矛盾崩壊した日寛教学をなぜ全面肯定しているのかを説明するところから入って頂きたいと思います。
今里さんの説明如何によっては、私だって再び本仏論を信じることだってあるかもしれません。
293
:
犀角独歩
:2003/01/14(火) 09:00
祐二さん:
○質問に答えなさい
わたしは272において
(1)久遠元初とは何ですか。
(2)自受用報身如来とは何ですか
(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか。
という三つの質問を立て、さらに276において、日蓮の言をもって、その証拠を上げてくださいといい、さらに、あなたのは本仏論ではなく、日蓮垂迹論になっている点を指摘ししました。つまり、そこから同じく267に
(4)日蓮本仏何故言えますか。証拠を上げてください。
という質問を足しました。しかし、まったくあなたは答えないのでこの点を287に指摘しました。そこでもさらに
(5)日蓮が用いた法華経とは何ですか
と質問を加えています。さらに今回の暴言について、質問を加えておきます。
(6)「変なおじさん」
変なおじさんとは誰ですか。
もう一度、言います。日蓮の言をもってその証拠を上げてください。
294
:
犀角独歩
:2003/01/14(火) 09:00
さらに、祐二さん:
○暴言に応じます
さて、以下に私に投げかけた暴言について、
> 伝言ゲームの一番最後でシャキャムニの最初の言葉とはすっかり変わってしまった漢訳の法華経を真に受けて、頭カチ割られ、腕を折られ、首を切られそうになり、島流しにされた愚かでおっちょこちょいの「変なおじさん」などに、いつまで未練がましくこだわっているのですか?
仏教の伝播が私は伝言ゲームであると思っていません。しかし、あなたはそう決めつけています。おっちょこちょいの変なおじさんとは誰のことでしょうか。こんな一方的な決めつけには答えようがありません。既に私は265において「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と言っております。
> …歴史の流れの中で不純物をいっぱい抱え込んだ経典をもとに論を立てた日蓮の研究など無意味なのではありませんか?
これは研究の方法を根本的にあなたは取り違えているのでしょう。
「不純物」というのはあなたの言であって私はこの言葉を使いません。まず、これを断ります。何が後世、言われるようになったことなのか、原型はどのようなものなのかを考えなければ、釈尊にしても、日蓮にしても「本当は何を言ったのか」がわからないので、そのための研究でしょう。これはあなたがいうような「無意味」なことではありません。
> スッパ・ニパータとかですか? 僕はよく知りません…
自分が知らないのであれば何も言えないでしょう。知ってから言いなさい。
> 僕は…仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)…実用上は何の問題もない
この言葉は他のあなたの言葉と完全に矛盾しています。あなたは289で、アネモネさんに対して、「僕のオリジナルの「日蓮本仏論」などありません。僕は日寛教学全面肯定」と書いていますが、ならば、全面肯定する寛師はどこで、「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作であり、羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい」という前提で論を説いているのでしょうか。また、後世の創作、怪しい漢訳を元に“道具”として論を立てたと言ったのでしょう。もし、寛師がどこにも言っていないとすれば、この「実用」という一言こそ、あなたのオリジナル本仏論にほかなりませんが、この点はどうですか。
>> それにしても、実用上の成仏なんていうのが本仏論だとは、嗤わせますね。
などと暴言を吐くのみで、その根拠を示していません
前節に書いたことがあなたに向けた批判の根拠です。
> 日蓮は仏ではない、法華経は後世の創作であるなどと、妄言
「妄言」などと言われる筋合いはありません。また、これは数百万人しかいないごくわずかな日蓮を本仏と信じるマイナリティとは違い、ごく一般的な学問を基礎にするマジョリティな考え方です。その大多数から見れば日蓮本仏こそ、妄言以外の何ものでもありません。なぜか、日蓮は自分を本仏であるといっていませんし、何度も記してきたことですが、真跡中に「本仏」という語彙は一カ所にしか使用されないのであって、日蓮の教学に採り入れられた考えではないからです。
> それでも日蓮にこだわり続ける
自分が40年間、本仏だと騙されてきた日蓮とは、本当はいかなる人物であるのか、それをこの場で問答名人さんその他の方々と議論をしてきたのです。しかし、その場合、あなたのようにただの思いつきで発言するのではなく、証拠を上げています。まさか「難しい文章は呼び飛ばす」などということをしていないでしょう。過去のログをちゃんと見たうえで責任ある発言をしてもらいたいものです。
> 独歩さんが日蓮にこだわる理由は何なのですか?
理由は前項に書いたとおりです。
> 法華経が後世の創作で、日蓮が仏でないのなら、独歩さんにとって日蓮などどうでもよい存在なのではないですか?
これも前項に書いたとおりです。
> 「うなぎの理論」ではなく、明快な答えを期待しています。
うなぎの理論とは、あなたのように証拠も上げることもできず、自分に寄せられた質問に答えもせずに、人に難癖を付ける態度を言うのです。別名を異問異答と言います。異なった問いに異なった問いです。まさにあなたの態度そのものです。
>> 日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。
> 何を根拠にこんなことを言ってるんですか?
いみじくも290のあなたの書き込みがこの問いについて、自分で露呈して見せているではないですか。
295
:
今里祐二
:2003/01/14(火) 12:05
独歩さんへ
>○質問に答えなさい
>>273
において(1)(2)(3)はすでにお答えしています。
(4)は(3)と重複しています。
(5)経典という意味で、主に羅什訳の「妙法蓮華経」です。
「正法華経」「添品妙法蓮華経」も助用されています。
(6)「変なおじさん」とは日蓮のことです。
独歩さんの立場だと、「そうならざるを得ないだろう」という意味で書きました。
>もう一度、言います。日蓮の言をもってその証拠を上げてください。
ここが独歩さんの「仏法を信仰する者」として根本的におかしい所です。
日蓮が仏でないのなら、日蓮がどのような言を残そうと、何の証明にもならないのではないですか?
>>290
で質問したこともその意は同じ事です。
>これは研究の方法を根本的にあなたは取り違えているのでしょう。…
>原型はどのようなものなのかを考えなければ、釈尊にしても、日蓮にしても「本当は何を言ったのか」がわからないので、そのための研究でしょう。これはあなたがいうような「無意味」なことではありません。
これは「研究」という言葉を使った僕のミスでした。僕は「信仰」という言葉を使うべきであり、
「研究」ということでは、独歩さんの仰るとおりだと思います。
>> …歴史の流れの中で不純物をいっぱい抱え込んだ経典をもとに論を立てた日蓮の研究など無意味なのではありませんか?
この質問は取り消します。申し訳ありませんでした。
>>スッパ・ニパータとかですか? 僕はよく知りませんけど、そういうシャキャムニの直説と考えられるような
>>経典を原語でスラスラ読めるほどに研鑽されることの方が先ではないでしょうか?
>自分が知らないのであれば何も言えないでしょう。知ってから言いなさい。
僕の質問と独歩さんの答えとが、チグハグですね。
僕はいつでも「信仰者」として考え、質問したり答えたりしています。
それに対し独歩さんは「研究者」として、答えたり質問したりしています。
やはりこれではいつまでたっても平行線でしょう。
>…なぜか、日蓮は自分を本仏であるといっていませんし、何度も記してきたことですが、真跡中に「本仏」という語彙は一カ所にしか使用されないのであって、日蓮の教学に採り入れられた考えではないからです。
本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています。
>> それでも日蓮にこだわり続ける
>自分が40年間、本仏だと騙されてきた日蓮とは、本当はいかなる人物であるのか、…
僕は独歩さんに「騙されてた訳じゃないよ、大聖人様は仏様だよ…」と言いたいですが、
「独歩さん」が納得できるような根拠を示すことは出来ません。
>うなぎの理論とは、あなたのように証拠も上げることもできず、自分に寄せられた質問に答えもせずに、人に難癖を付ける態度を言うのです。別名を異問異答と言います。異なった問いに異なった問いです。まさにあなたの態度そのものです。
僕の「信仰者」としての問いに「研究者」としてしか答えようとしない独歩さんの態度に対し「うなぎの理論」と言ったまでです。
>>> 日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。
僕は「信仰者」として、日蓮が仏であり、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなければ
「人を功利せしめる源泉」などないと考えています。
独歩さんの研究で「源泉」が発見できたなら、その時は教えてください。
>>242
での独歩さんの過剰な反応には少し驚きましたが、もう一度あげておきます。
『十八円満抄』
『総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為ても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。』
「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。」
日蓮が仏でないのなら、必ずしも日蓮がごとく修行する必要はないと思います。
良い所は取り入れ参考にし、悪い所は受け取らないというのが正しい態度でしょう。
日蓮が仏であるならば「師弟子をただす」という態度が必要になると考えます。
「智者・学匠の身と為ても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。」
これは「道理」を述べてあるところです。
仏の言葉であれ凡夫の言葉であれ「真実」です。
296
:
犀角独歩
:2003/01/14(火) 14:09
祐二さん:
>
>>273
において(1)(2)(3)はすでにお答えしています
私は「日蓮の言をもって」と言ったのです。
あなたの273の答えは
(1)手持ちの辞典を引いたら「五百塵点劫に成道した釈尊の本因の時」と書いてありました。
久遠即末法とも言われますが、今現在のことです。
(2)三世諸仏に対しても主師親である根本の仏、です。
(3)法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断することが適当と考えます
です。これのどこが日蓮の言なのですか。
答えたことになっていません。
もう一度、記します。日蓮本仏、寛師全面肯定の立場のあなたでしょう。
日蓮の言でお答えください。
> (4)は(3)と重複しています
私の質問、「(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか」であり「(4)日蓮本仏何故言えますか。証拠を上げてください」は重複していません。
日蓮の言をもってお答えください。
> (5)経典という意味で、主に羅什訳の「妙法蓮華経」です。
「正法華経」「添品妙法蓮華経」も助用されています。
(5)' では「南無妙法蓮華経」と日蓮が言うとき、この妙法蓮華経は経典であるというわけですか。
> (6)「変なおじさん」とは日蓮のことです。
独歩さんの立場だと、「そうならざるを得ないだろう」という意味で書きました。
先にも記したとおり、「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と申し上げてきました。恰も私が日蓮を「変なおじさん」と考えている如き誘導…あなたの言葉で言えば“罠”…ともとれることは、あなたの自信の品格を下げることになります。おやめになるべきでしょう。この議論は本仏義が日蓮の教えといえるかどうかを考える厳粛かつ公正、そして、証拠主義に基づく議論でなければならない。あなたは日蓮本仏の信徒の自覚、私は人間日蓮を敬愛する自覚、この相違する自覚に立つ2人のどちらが、忠実に日蓮の言に基づき、責任ある発言をしているかを問う議論であるべきです。お互い姑息な罠、仕掛けなどはせず、アネモネさんが指摘くださったよう正々堂々と論じ合いましょう。
> 僕はいつでも「信仰者」として考え、質問したり答えたりしています。
それに対し独歩さんは「研究者」として、答えたり質問したりしています。
やはりこれではいつまでたっても平行線でしょう。
あなたは、信仰と研究が別々のものであると考えているようですね。
かつて研究の成果をまとめた書籍を「論」と言ったのではないですか。
日蓮において、果たして信仰と研究が別のものであったのでしょうか。私は而二不二としてとらえていたと思います。
すなわち、あなたと私が信仰・研究と言うとき、その食い違いがあるのではなくて、日蓮が信仰・研究を別に見ていたか、一つのものに見ていたかの違いである点は留意されるべきです。日蓮は研究は研究、信仰は信仰などといった現在の僧学の如き姿勢は微塵もなかったと私は拝しています。
> 本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています
これは池田さんの「私は謙虚な人間です」発言を想起するような記述ですが、まあ、それは置きましょう。このあなたの言葉は日蓮は本仏であるけれど、謙虚だから自分では仏などと言わなかった、こんな意味合いでしょうか。これで合っているとすれば、仏は自分で仏とは言わない、言うと謙虚じゃないという伏線を指示することになりますね。
しかし、これは勝手な固定観念です。例えば妙法蓮華経・寿量品に「今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たり」とあります。つまり、仏は自らを常に仏であると宣言するのは通常、少しもおかしなことではありません。となれば、日蓮が仏であれば、その宣言をすることは仏教の常道と言うことになるでしょう。
297
:
犀角独歩
:2003/01/14(火) 14:09
―296からつづく―
> 日蓮本仏…納得できるような根拠を示すことは出来ません。
そうですね。ここで過去2年間、議論をしてきましたが、結局、証拠を示す人はいませんでした。ですから、私は「日蓮が本仏であるという証拠はない」と言ってきたのです。
また、本仏とは言い難い証拠については、過去のログのとおりです。
残念な結果であると私自身、思います。しかし、日蓮の真実の姿は人間であっても、学ぶところは多いのです。この点については、あなた自身、
> 日蓮が仏でないのなら、必ずしも日蓮がごとく修行する必要はないと思います。
良い所は取り入れ参考にし、悪い所は受け取らないというのが正しい態度でしょう。
と記すとおりです。これは『十八円満抄』の真偽の問題ではなくて、私の考えです。
しかし、「日蓮が本仏である」というのに、何ら証拠も示せず、さらに学問的に否定されたことを見て見ぬふりをして、成仏しよう、地獄に堕ちるなどということを私は無責任というのです。
故に冒頭の質問の如く、日蓮が本仏であるというのであれば、その証拠を示すべき、本仏と信じれば成仏するというのであればその証拠を示すべき、地獄に堕ちるなどと脅しの言説を述べるのであれば尚更のことであると、その挙証義務を果たすことを強く求めてきたのです。しかし、結局、あなたはそれができないという。しかし、証明できないという事実が事実でないことを語るととらえるのは取られる側の問題ではなく、それを証明できない側の問題です。
なお、同抄をはじめ、真偽未決をその真偽を決せずして、また、断りもせず、引用することを私は無責任というのです。なぜ、特にこの点について、私が口うるさく言うかと言えば、日蓮本仏論というのはまさに真偽未決書を拠り所にして、成り立っているからです。
> 僕は「信仰者」として、日蓮が仏であり、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなければ「人を功利せしめる源泉」などないと考えています。
これはあなたの思い込みであると申し上げるわけです。
何度も記してきたように、菩薩思想は、後天的な仏教思想です。それをモチーフにして出来上がったのが法華経でした。釈尊は菩薩思想を説くことはなかったでしょう。しかし、この思想は、人類にとって大きな精神的な財産です。このような人類の財産たり得る教えは数多あります。それを釈迦の真説でないという理由だけで、捨て去ることは実に愚かな短絡です。また、日蓮が本仏でなければ、その教えは無駄であるというのも同様です。艱難辛苦を生きた日蓮の一生は、信徒ならずとも学ぶところは大であり、人間であればこそ、病み、老い、そして、死んでいったその苦しみの相克を示した姿は多くの教訓を700年間、与え続けてきました。
> 独歩さんの研究で「源泉」が発見できたなら、その時は教えてください。
私は研究者ではありません。また研究と信仰は而二不二であるという日蓮の精神を指示します。
この掲示板では過去2年間、それこそ膨大な議論がされてきました。本仏論者も否定論者もそれは真剣に挙証義務を果たしながら、論じ合ってきたのです。
そこにあなたは「説明できない」ことを当然のように本仏論肯定を論じたことです。
これは過去2年間の議論に対する冒涜であり、軽視であると私は受け止めた。
あなたは237、238の私の発言を無礼とも取れると言った。
しかし、私からすれば、過去皆が真剣に論じてきたことをまるでなかった如く「@日蓮本仏論者」などと名をして、証拠も上げられない、説明もできないと語るあなたの、その姿勢を、無責任とも、無礼とも見たからこそ、論難を強いたのです。
しかしながら、あなたは、私の問うた(1)〜(5)を日蓮の言として何一つ証明できなかった。これこそ、日蓮本仏の実態をさらに示したものであったと私は思うわけです。もし、違うと言われるのであれば、もう一度、真摯に私の質問に答えてください。
298
:
今里祐二
:2003/01/14(火) 15:17
独歩さんへ
>日蓮の言でお答えください。
僕が、自分の手帳や友人への手紙に「実は僕こそ、末法の本仏なんだ」という言葉を書いたとします。
独歩さんはその言葉をもって、僕が「末法の本仏」であると認めますか?当然、認めませんよね。
このような場合、言葉など無意味です。
大聖人様にとっても、このことは同じです。
大聖人様が「自分が末法の本仏である」という言葉を残されていたとしても、
そんな言葉は無意味です。何の証拠にもなりません。
であるが故に、経文通りの大難にあわれるという「現証」で示されたのではないですか?
そして僕はその「現証」だけで充分ではないか、と言っているのです。
>この掲示板では過去2年間、それこそ膨大な議論がされてきました。本仏論者も否定論者もそれは真剣に挙証義務を果たしながら、論じ合ってきたのです。
そこにあなたは「説明できない」ことを当然のように本仏論肯定を論じたことです。
これは過去2年間の議論に対する冒涜であり、軽視であると私は受け止めた。
「挙証」とは主に「文証」のことですね。
大聖人様のお考えでは、三証の重み付けは、現証>理証>文証、ですよね。
この掲示板での議論が「文証偏重」に傾いていったため、
「日蓮本仏否定」という誤った結論になっているのだと思います。
功徳の大きさという事で仏の位を計るなら、日蓮本仏で何も問題ありません。
『法蓮抄』
『是れ程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間掌を合せ両眼を仏の御顔にあて、頭を低て他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ、飢ゑて食を思ふがごとく、間無く供養し奉る功徳よりも、
戯論に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。
これを妙楽大師は福過十号とは書れて候なり。十号と申すは仏の十の御名なり。
十号を供養せんよりも、末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかかれたり。
妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり。
已上、上の二つの法門は仏説にては候へども心えられぬ事なり。争か仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや。
而れども是を妄語と云はんとすれば釈迦如来の金言を疑ひ、多宝仏の証明を軽しめ、十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし。
若し爾らば現身に阿鼻地獄に堕つべし。巌石にのぼりてあら馬を走らするが如し。心肝しづかならず。
又信ぜば妙覚の仏にもなりぬべし。如何してか今度法華経に信心をとるべき。
信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し。』
299
:
犀角独歩
:2003/01/14(火) 15:34
祐二さん:
> このような場合、言葉など無意味です。
だとしたら、『十八円満抄』を引くことも、以下に『法蓮抄』を引くことも無駄ですね。もっと言えば、日蓮の御書、経典もすべて無駄と言うことになりますね。
これが本仏という言葉に限れば、言葉を引くことは無駄で、他は無駄でないという有様はおかしいですね。
要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。
> 経文通りの大難にあわれるという「現証」で示されたのではないですか?
日蓮の遺文で見る限り、経文通りの難に遭うことによって自分が法華経の行者であると言っています。しかし、本仏であると言っていません。
あなたが書いている現証は法華経の行者たる自覚をもったことのみしか書かれていません。それが何故、本仏たる証明として十分といえるのですか。
> この掲示板での議論が「文証偏重」に傾いていったため、
「日蓮本仏否定」という誤った結論になっているのだと思います。
それは日蓮本仏に固執するあなたの勝手な考えです。
上述の通り、現証から見ても日蓮が本仏であることにはなりません。
法華経の通り、難に遭うと本仏なのだとはどのような根拠で言っているのですか。
もし、この掲示板が偏重なのだという批判の現を奪って言えば、あなたは日蓮本仏偏重に傾いているために、何でも自分の都合のいいように解釈しているのに過ぎないでしょう。
> 功徳の大きさという事で仏の位を計るなら、日蓮本仏で何も問題ありません。
これまた、何ら証拠を示さない口から出任せの放言としか映りません。
最後に『法蓮抄』を引いていますが、あなたの言に従えば、現証のほうが大事なのでしょう。何の意味があるのですか。
300
:
無徳
:2003/01/14(火) 15:36
satさん今日は:
現在の創価学会に対する内部からの、まことに冷静かつ客観的な分析に感銘し
ました。satさんのような方が内部おられる創価学会にはまだまだ救いがある
と言うべきかも知れません。
しかし、私は池田大作氏や創価学会の幹部連中には創価学会としての歴史的
総括をなすべきではないかと訴えたいと思います。satさんも取り上げられた
>「七つの鐘」とか「正本堂建立」といった具体的かつ明確な組織目標が
>終了してしまった今、
に関して言えば、総本山側も創価学会も全くの虚言を弄し、創価学会員や正宗
信徒を欺き続けた結果が、現在のごとき有様に至った根本原因である事は明瞭
な事実と言わざるを得ません。したがって<具体的かつ明確な組織目標が終了
してしまった>のではなく、これらの事実を全く総括せずに、なし崩しに再び
会員を欺き続けようとしているのではないかと思わざるを得ません。
正本堂に関して言えば総本山側も明確に総括をし、全信徒に文書をもって詫び
てから正本堂を破壊などせず、名称を変えるなり用途を変更するなりして存続
させるべきでありましょう。いくら維持費が掛かるからとは言え解体し跡地に
奉安堂なる巨大な建築物を建てるとは、私にはとうてい理解が出来ません。
どちらにしても総本山側も創価学会も、どこに軸足を置いて信仰というものを
立てようとしているのかが本当に解っているとは思えません。
日蓮仏法は僧侶の為や創価学会という組織の為にあるのではないことは明瞭で
す。全て末法と言う現在に生きる凡夫としての庶民大衆の為にあることは多言
を要しません。したがって我々はあくまで自らの足で立ってネット社会と言う
利点をフルに活用して、現代的サンガを形成し我々の手に日蓮仏法を取り戻す
べきではないかと考えますが如何なものでしょう。
301
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/14(火) 23:23
>今里さん こんばんは
大変ですね。
あのですね、すぐに返事を付けるようですが、おそらく、今里さんは他の発言者がどういう意味を込めて言葉を使っているかよく分からずに、返事をしているように見えます。
それはなぜかというと、元信仰者には信仰者がどういう気持ちであるかはよく分かります。しかし、信仰者には、無信仰者や元信仰者がどういう気持ちであり、どういう意図で言語を使用しているかがさっぱり分からないからです。
なぜならば、元信仰者には信仰者の使用する言語のルールが分かるが、信仰者には元信仰者の使用する言語のルールが分からないからです。
という訳なので、相手がどういう意図で言語を使用しているか自分なりに了解がつくまで、時間をかけて返事をする癖を付けた方が良いです。
という上記の提言と矛盾するようですが、次の質問にできればわりと急いでお答えいただきたいのですが。
一部は既出の質問ですが、お答え頂けておりません。
1)今里さんのHPは「成仏しようぜ!」ですが、今里さんがお考えになる成仏とはどういう事ですか。
2)成仏した人に会ったことがありますか。あるいは、過去または現在に成仏した人は誰ですか。
3)本仏とはどのような仏ですか。
4)本仏以外の仏とはどのような仏ですか。
5)本仏と、本仏以外の仏の違いはなんですか。
以上、お答えいただけると大変うれしいです。
===
>無徳さん
『共同幻想論』について拝見しましたが、そのような問題関心であれば、次の本も興味深いと思います。
笠井潔『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080694/
田川建三『宗教とは何か』(大和書房 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479730206/
島田弘巳『イニシエーションとしての宗教学』(筑摩書房 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480051848/
なお、現代的サンガはむずかしいと思います。人が寄り集まると必ず偏りが生ずるからです。
また、不要なのではないかと思います。仏道修行は自分一人でするものだからです。
善友ができることはありますが、それはたまたまのことです。
302
:
五月雨
:2003/01/15(水) 00:12
今里さん
独歩さんとの対話はものの見事に噛み合っていませんね。独歩さんが言われた「外教
のサンジャヤ・ベーラティプッタ鰻の論理(異問異答)」の実演を見ているようで
す。
どうして、今里さんは独歩さんの理論が分からないのかと考えてみました。オフ会で
お会いした時に、私が言った言葉を覚えておいでですか。『今里さんは思考停止して
いる』と言いましたよね、今もそうみたいですよ。日蓮本仏論に拘っていて、独歩さ
んの言われることを考えようともしていませんね。それゆえに反論の基となる根拠を
示すことも出来ず、問いと違う答えにすり替えながら、ついには人を貶める言葉を書
き連ねています。
結局「日蓮本仏論」は日蓮本仏論者(みかんさんに言わせれば、論じていないから論者にもならないみたいですが)にも証明出来ないことが、証明されたのでしょう。
こんな事、今里さんおひとりが信じているのなら、ほんの物笑いになる程度です。今
の世にあって天動説を信じるようなものです。
だけど、今里さんはインターネットの世界でご自分のサイトを持ち、ご自分のお考え
を世に知らしめていますよね。成仏しようぜ、なんてまるで成仏が出来るようなタイトルで。その上成仏出来るか出来ないかは、博打なんですってね。御自分でもどうなるかは死んでしまわないと分からないという無責任ぶりです。今里さんのサイトを見て真に受けてしまった方への責任は、信じてしまった方にあると無責任の上塗りをされていましたね。
だけど、いい大人が自分の言葉に責任も感じず、証明されないことを世に垂れ流している姿は、傍から見ると酷いとしか映りません。
私は、この掲示板で仏教全般から聖人の教えを見るということを学びました。聖人の教えは絶対だから、他に目を向けなくてもよいと学会で石山で教え込まれてきましたが、聖人の本当の教えを知ろうと思った時には、この視点はとても大切でした。
そこで、みかんさんがとりあえず、仏教一般や日蓮については、次の三冊だけは読んでから議論していただけませんでしょうかと挙げられた三冊の本ですが、きっとすぐには読めないと思います。そこで今里さんが敬愛されている小林よしりんさんがいまSAPIOで連載されている『古寺記』をお薦めします。聖人とも関係のある密教について詳しく書かれていますよ。ゴーマニストの今里さんは読まれているとは思いますが、社会一般から見た仏教という視点から、見えなかった何かが見えてくる筈です。
どうぞよしりん先生に仏教とは何かを学んでから、日蓮本仏論の理論武装を出来るものならして下さい。そして独歩さんと議論をして貰ってください。
今里さんは、人間性はとても好い方なのに、石山教学と石田さんの考えでしか話が出来ないのが残念です。
303
:
アネモネ
:2003/01/15(水) 01:36
うーん、なんだか、今里さんがお答えにならない質問というのは、かなり核心的な部分なんでしょうね。それを答えると、どういう反論がかえってくるか、今里さん自身わかっていて、つまりそれこそ罠に嵌ってなるものかと、避けておられるのでしょうか。
だとすると、とっくに今里さんは、ご自分が全面肯定の立場をとってこられた寛師教学の本仏論が崩れていること、わかっているんでしょうね。
寛師教学全面肯定としての論は最後まで展開をみることが出来なかったのは、誠に残念ですが、それが現実ということでしょう。
むしろ、今里さんのレスを通して、本仏論の弊害をみる思いがしました。
>本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています。
本人が言わなかったことは、謙虚だからという捉え方だけではないはずですね。そのまま、本当に本仏ではなかったから当然言わなかったという、ごく自然な捉え方が一番にあるはずです。ところが今里さんは、この場合のことについての思考は、まるで意識にないよう。
恐らく本仏であっていてほしい、あつていてもらわなくては困るという、今里さんの切なる願望が、そのことを考えなくさせているのでしょう。
だから、信は信でも、盲信ということになるのではないかと思われます。
304
:
今里祐二
:2003/01/15(水) 02:19
五月雨さん、アネモネさん
独歩さんへのレスだけでいっぱいいっぱいなので、しばらくお返事できません。
ごめんなさい。
305
:
今里祐二
:2003/01/15(水) 02:27
みかんさん
1)お釈迦様のような仏様に成ること
2)ありません。
3)日蓮大聖人
4)お釈迦様のような仏様
5)本仏=本仏以外の仏の師、本仏以外の仏=本仏の弟子
以上です。
306
:
今里祐二
:2003/01/15(水) 03:16
独歩さん
>要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。
『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。』(開目抄)
僕はこれだけで充分信じられるのですが、独歩さんには不足なのでしょうね。
>あなたが書いている現証は法華経の行者たる自覚をもったことのみしか書かれていません。それが何故、本仏たる証明として十分といえるのですか。
>>298
であげた『法蓮抄』の中に
『心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。』とあります。
功徳の大きさの違いを示すことにより、暗に「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様なんだよ、という事を示していると考えます。
独歩さんの、疑いを尽くして、真偽・正邪を見極めていく姿勢は大変素晴らしい事だと思います。
しかし、過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?
独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては
「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない問いだと思います。
もし「そのような発言はしたことがない」と仰るのであれば、釈尊の事は「仏」と信じていらっしゃるのでしょうか?
釈尊の事を仏と信じているのなら、釈尊が間違いなく仏だという根拠は何でしょうか?
釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません。
>>298
で論じた通りです。
証拠を挙げて、具体的にお答えいただけるとうれしいです。
307
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/15(水) 03:16
>今里さん
お答えいただきありがとうございました。
今里さんが仏や成仏についてどう考えているのか今ひとつわかりにくいのです。
すいませんが、もうすこしだけ質問させて下さい。
6)日蓮と釈迦以外に成仏した人はいますか?
7)いるとしたらそれは誰ですか?
8)「成仏」が「お釈迦さまのような仏様になること」だとしたら、具体的には人間は成仏するとどうなると思いますか。
9)「3)」の答えが「日蓮大聖人」ですが、それは鎌倉時代の日蓮なんですか。
10)鎌倉時代に生きた日蓮は、人生のなかでいつ成仏したと思いますか。
11)鎌倉時代の日蓮と、久遠元初自受用報身如来はどういう関係でしょうか。
12)本仏と、本仏以外の仏の、覚りや力に違いはありますか。
13)石田次男氏は成仏していたと思いますか。
14)今里さんがもし成仏したら、ご自分がどう変化すると予想されますか。
308
:
今里祐二
:2003/01/15(水) 04:25
>>307
みかんさん
6)判りません。
7)日興上人とか熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。
8)判りません。
9)そうです。
10)判りません。
11)不一不異
12)うーん、どうなんでしょう。判りません。
13)そうあってほしいと思いますが、断言できません。
14)僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています。その後どうなるのかは判りません。
309
:
今里祐二
:2003/01/15(水) 04:29
>308 の訂正
6)判りません。
7)日興上人とか熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。
↓
6)日興上人
7)熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。
310
:
今里祐二
:2003/01/15(水) 05:48
>308の訂正
13)そうあってほしいと思いますが、断言できません。
↓
13)していません。
>13)石田次男氏は成仏していたと思いますか。
を
>13)石田次男氏は成仏したと思いますか。
と、勘違いしていました。
311
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/15(水) 06:26
すいません。また疑問が増えてしまいましたので、恐縮ですがもうふたつだけ聞かせて下さい。
15)成仏とは臨終に際して起こることなのですか? 生前に開悟することはないのですか?
16)釈迦は、30歳もしくは35歳で成仏したとされていますが、それと「僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています」というのは、どう整合性がつくのですか。
312
:
アネモネ
:2003/01/15(水) 09:20
今里さん
私の書き込みは、お読み下さるだけで構わないです。気が向けば、お返事ください。
284>原始仏典を研究し、シャキャムニの真意をつかんでください。ご健闘をお祈りします。
と嫌味のようなことを言われた方が、成仏とはどういう事ですかという質問に対して、
1)お釈迦様のような仏様に成ること
と答えられるのは何か、矛盾してますね。お釈迦様のような仏様になることが成仏であると考え、成仏を目差しているならば、それこそご自分が原始仏典を研究をすることに行き着かなければならないはずですし、先にそのような研究をなさっている方の言葉には耳を傾けるものだと思います。
だいたい、日蓮が本仏ならば、日蓮のような仏様になることというのが道理ではないでしょうか。どうしてここでお答えがお釈迦様となるのかそれこそ疑問ですね。
284>独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわりを見せますが、日蓮が仏でなければ、そのようなこだわりはナンセンスです。
逆に日蓮を本仏だと思う方が、真筆以外の真偽未決の書に対して無頓着であるほうが問題ではないかと感じます。
今里さんは偽書が書かれる中世の宗教を取り巻く時代背景という認識が欠けているのではないでしょうか。日蓮が本仏だと考える方のほうが、真筆以外の書に対して慎重になるものではないかと思うほどです。
たとえば、好きな人から届いたラブレターが、実は別人の創作だったとあっては、好きな人の心の内の真意を取り違えることになるでしょう。また本人が書いたものだと思い込んで大事にしていることも滑稽なわけです。しかし、疑わしき場合は、確認をするでしょう。そこに書かれていることと違っていたら怖いと思って、信じていたいと思っているのが、今の今里さんではないかと感じます。
真剣に日蓮の真意を求めるならば、文献の信憑性には厳格になり、疑問も生じ、慎重になるのは当然のことだと思います。それを異常だと思う神経が、無責任さでありカルト性であるのかもしれません。
楽な道を選んで、日蓮の真意を求めることに怠慢なだけではないかと思います。
313
:
アネモネ
:2003/01/15(水) 09:21
(つづき)
305>しかし、過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?
逆も真で、過ぎたる信は何も生まず、かえって害になるものではないかと思いますね。掲示板でみかんさんと独歩さんが、「信」について幾度となく書き記して下さっているわけですが、お釈迦様の教えをもとに発生した仏教が説くところの本来の「信」と、今里さんが思っている「信」とは違うものかもしれないということにも、問題意識を持ってほしいと思います。
>独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない問いだと思います。
答えを見出せるかどうかはともかくとして、そういう疑問を持つことは、宗教を求め広める信仰者の社会的責任のうえで、非常に重要なことだと思います。
ごく当たり前のように、「神や仏」と、お釈迦様を神格化したものとして今日に伝えられ、教えられ、それが当然のことのように私たちは身についているわけですが、実はその固定観念こそ、後世につくられたものかもしれないわけですね。
いちりんさんや独歩さんがよく書かれていましたが、お釈迦様だって私たちと同じ人間だったんだということ、当然、日蓮も同じで、そのうえで仏に成るとはどういうことを意味するのか、そこを考え抜くことこそ、本当の「信」に通じていくものではないかと思います。
歴代の方々の言葉に依存するうえで「信」を訴えるだけで、それ以外のことを考えることを害だと言い切る。
それが宗教のカルト的な思考であり、それが人々を不幸に導いているという社会的側面にも目を向けてほしいです。それが宗教を広めようとする人の最低限の責任でしょう。
今里さんの主張は、オウムとなんら変らないということに気がついてほしいです。
314
:
犀角独歩
:2003/01/15(水) 09:51
祐二さん
>>要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。
>『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。』(開目抄)
> 僕はこれだけで充分信じられるのですが、独歩さんには不足
不足であるとか何とかいう憶測を一々書き付ける必要はありません。
私はそんなに粘着質ではありませんし、「ああ思うだろう、こう思うだろう」という他人の感情を探るような言葉を一々挟むとそれでなくても長くなる文章がもっと長くなるでしょう。今後、ご無用に願います。
さて、「しうし父母」だとなぜ、本仏なんでしょうか。
> 「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様
この“解釈”には賛成しかねます。これは衆生側の功徳を論ずることであって、仏の優劣を論じるものではありません。それはそれとして、
(7)仮に法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いとしても、なんでそれが本仏であると言えるのですか。
また、あなたの記述によると法華経の行者(本仏)、お釈迦様(権仏)として、その優劣を論じ、さらにこのお二方を別体の如き口ぶりですね。これは如何なることでしょうか。たしかあなたは寛師全面肯定論者と言うことでした。以下はご存じの寛記雑々「蓮祖は即ち是れ釈尊の事」というのです。
また、先にも寛師とまったく本地・垂迹説を展開していました。
この本地・垂迹(もちろん、本門・迹門とは別)に就き、寛師は『蓮祖の本地内証外用の事』に
「凡そ蓮祖大聖人は若し外用を論ぜば本化上行菩薩の再誕、諸抄の中に或は仏の御使と云ひ、或は霊山相伝等と云ふが如き是れなり。若し内証を論ずれば、久遠元初の本因妙の教主釈尊なり」
といい、石山の同体異名の相伝を論じます。まさか寛師全面肯定のあなたが知らないわけもないでしょう。となれば、
(8)「「法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様」などと別体の如く論じることは寛師の跡を冒涜し、石山の相伝を蔑ろにするものではありませんか。
もちろん、私は寛師の実否を問い、相伝の是非も論じます。しかし、ここにおいて、寛師全面をうたい文句にするあなたが寛師とまったく違う“解釈”をもって論じられてはますます話はわかりづらくなります。
(9)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
> 過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?
確かに疑わなければ自分のぬくぬくとした考えのなかで一生を終えることができるでしょう。しかし、この信・疑については既にみかんさんも加わってくださり、論じたことです。私は疑うことを少しも恐れません。あなたは疑うことが怖いのでしょう。
315
:
犀角独歩
:2003/01/15(水) 09:52
―314からつづく―
> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果て…
これはあなたの勝手な想像です。
人の心配より自分の心配するべきでしょう。
学んだ経験のないあなたには学んだ結果が々であるかは畏怖からしか想像がつかないのかもしれませんが、あなたが恐れおののいている結果とはまったく違うのです。あなたは学ぶことに臆病なのでしょう。何故ならば、自分に不都合の結果が出ることが怖いからでしょう。
> 釈尊の事は「仏」と信じていらっしゃるのでしょうか?
質問には質問に答えてから答えるのが礼儀です。
私はあなたに聖人が本仏であるという聖人の言を挙げるように言いました。
しかし、あなたは言を挙げる必要がないなどと言葉を巧みにする変え、いまだに答えていません。まず、こちらの質問に答えるべきでしょう。異問異答にまた逃げ込むあなたの罠には引っかかりません。
> 釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません。
>>298
で論じた通りです
論じた?、これが論のつもりなのですか。
言葉は根拠にならないのであれば、ここであなたが書いていることはなんなのですか。
また、私はこの298に対しても
「だとしたら、『十八円満抄』を引くことも、以下に『法蓮抄』を引くことも無駄ですね。もっと言えば、日蓮の御書、経典もすべて無駄と言うことになりますね。
これが本仏という言葉に限れば、言葉を引くことは無駄で、他は無駄でないという有様はおかしい」と、その過ちを指摘しています。それにはまったく答えもせず、論とは、まったく、あなたという人は。
呆れてものを言う記も失せますが、たしか、あなたは石田次男さんを尊敬しているんでしたね。石田さんは『現代諸学と仏法』に
「『像法決疑経』には言う「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」と。「若し文字を離れば何を以ってか仏事とせん」である。この意図の下、虚妄性不可避の分別ではあるが、常に非著亦用の方便として闊達に駆使される。
我々もこの意図の万分の一をも見習いたい」
> 釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません
仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。
316
:
犀角独歩
:2003/01/15(水) 10:33
答えがない質問が溜まってきました。
ナンバーを付け忘れたものなどもありますので、以下、整理しておきます。
お答えください。異答はおやめください。また、異問は答えてから。
本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。
(a)久遠元初とは何ですか。
(b)自受用報身如来とは何ですか
(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
(d)日蓮が本仏と何故言えますか
(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか
文字では表せないなどという言い逃れを続けるのであれば、以下の日蓮の言も用いないのでしょう。しかし、あなたはここに書き連ねている。すなわち、つまり、あなたの日蓮本仏“論”とは日蓮の言に拠らない己義荘厳の夢想であると考えるほかありません。あの石田さんでさえ「天台が言う様に「文字は三世諸仏の気命なり」…言語・概念・文字(記号)は仏様の自行と化他のとについての気命なのです。…ですから、「仏は文字に依って衆生を度し給うなり」」と記しています。あなたは石田さんを尊敬しているのではなかったのですか。尊敬表明をするだけで書いたことも話していたことも覚えていないのですか。それとも読んですらいないのですか。
「仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり」
誤解がないように言っておきますが、私はあなたの本仏“論”を聞いているのではありません。日蓮が本仏であるというのが日蓮の教えであるというのであれば、日蓮の言を挙げて論じるのが筋だと言っているのです。
お答えください。
317
:
sat
:2003/01/15(水) 15:54
>>300
無徳さん
>内部からの、まことに冷静かつ客観的な分析に・・
過分なお言葉頂戴していますが、創価学会の立場を代弁して書いているわけでなく、あくまで私個人が感じることを書いているまでです。正しいかどうかわかりません。独歩さんや無徳さんを始めとして本掲示板に書き込まれる方から多くの事を教えて頂いている・・そして学ばせて頂いている一人の創価学会員であるというだけに過ぎません。その点ご理解賜ればと思います。
>私は池田大作氏や創価学会の幹部連中には創価学会としての歴史的総括をなすべきではないかと訴えたいと思います。
仰るとおりだと思います。学会は過去幾度となく対外的に問題が発生しそうになると、事実を封印し葬ろうとしてきました。今も、体質が変っているとは思えません。池田名誉会長のスピーチや書籍は、過去の出来事を修正し、理想化するための作業だったのでしょうし、三代会長を永遠の指導者と会則改変したことから見ましても、残念ですが過去の路線をドラスティックに総括するということは当面考えにくいものと思われます。
組織の諸矛盾とか信仰のあり方に懐疑を持った人々・・信仰自体は間違っていないはずだとする人々は・・その後脱会して様々な人生の軌跡を描いておられるかと思います。逆に今も学会に所属する人々の中にも、ご指摘の問題を総括し「負の遺産」を背負うことが自身のクライシスにつながることを動物的嗅覚として知っている人も数多く存在します。言い換えれば「それを望まない」とういうことと、歴史的総括を為さないという事は、表裏一体なのだと思います。日本人的感情の側面と言うのでしょうか・・宗創戦争の意味づけとして、負の遺産を全て宗門に帰そうとする方向に向かったことは当然の帰結だったような気がします。
「現世超越」モデルの持つ強烈な思想性は、「事実」の面でいくら「誤謬」を指摘されたところで容易に崩れるものではないという側面があるかと思います。「事実」などは無限にあるため、指摘しうる「事実」はたえず部分的であるほかないのに対し、思想性が描き出すのは先験的に「全体」像であるという主張がまかり通ってしまうのが実情ではないでしょうか。
学会幹部のスピーチが、次第に空疎な言葉で埋められていき、やがて論理性の無い学会の肯定演説に行き着くという日常風景になって久しいですが・・異分子をはじき、より純粋性に向かって組織が形成されていくと、かたやそれがボディーブローとなって崩壊の道を早めることは充分に予想されることです。後はしなやかに変身していくしか学会には残された道はないと存じます。
318
:
sat
:2003/01/15(水) 15:55
>>300
無徳さん(続き)
>日蓮仏法は僧侶の為や創価学会という組織の為にあるのではないことは明瞭です。
これも仰るとおりだと思います。全く異論はありません。その上に立って、「学会は池田教に堕した」という巷の通説批判は果たして正鵠を得ているのでしょうか。私は現在、池田名誉会長に絶対権限が一極集中しているとは必ずしも思えないのです。むしろ、独裁化から官僚化へ、ベクトルは既に転換済みと見たほうが宜しいのではないでしょうか。
学会が方面制へと組織を移行強化して、今に至っている事は、無徳さんもよくご存知の事であろうと思われます。方面制への移行により管理システムは高度に完結され、本部職員や方面長を始めとする支配の複層化が進展し、権力の分散的存在というセクショナリズムが存在しています。都市から農村へ、そして農村から都市へという路線が昭和50年代以降の戦略でもありました。セクショナリズムは中央集権化の必須条件であり、その欠くことのできない補正手段として機能しうる・・つまり本部職員や方面長によって分散された権力構造とか、セクショナリズムは、自主性や創意性や個性を圧殺するものではなく、ガス抜きとして機能し、更には構成員によって一致して承認された枠内で行われる限り、必要機能として積極的に作用しているというのが実態ではないでしょうか。
これからの生き残りを考えれば、大衆が何を求めているか、オールラウンドにそのニーズを拾っていかなければならず、独裁化から官僚化への移行、そして市場原理化へのシフトに向けたソフトランディングしか方法はないと感じます。それが事実上の解体なのかもしれませんし、歴史の審判を待つということなのかもしれません。
>総本山側も創価学会も、どこに軸足を置いて信仰というものを立てようとしているのかが本当に解っているとは思えません。
創価学会が存在しなければ、大石寺も静かな風情で代々法華講の方を中心として信仰を維持継続していたかもしれませんね。
>我々はあくまで自らの足で立ってネット社会と言う利点をフルに活用して、現代的サンガを形成し我々の手に日蓮仏法を取り戻すべきではないかと考えますが如何なものでしょう。
サンガと言えば、タイあたりで黄色の衣をまとった人たちが集まっている姿みたいなものを想像してしまうような未熟な私ですから、サンガそのものの意味を本質的にはわかっていないのかもしれません。しかし、所属組織を代表するがごとき妄想的かつ感情的な主張をもってバトルを繰り広げ、勝った負けたみたいなものに一喜一憂する掲示板が多い中、今一度見つめなおしてみようといった本掲示板のようなものが出現していること自体、現代的サンガの萌芽かもしれませんね。
ネットのもつ匿名性は、節度さえあれば自由に発言はできますし、自分にとって意味を為さないと思えば去ればいいのですし、意味があると思えばオフ会等に出席して実際にお会いしてみることも可能なのですから、組織論理に拘束されない、場に拘束されないという点では有効に働くかと思います。
319
:
今里祐二
:2003/01/16(木) 02:21
独歩さん
(a)久遠元初とは何ですか。
釈尊の本因の時
(b)自受用報身如来とは何ですか
日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事
(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)
(d)日蓮が本仏と何故言えますか
法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。
(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。
本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
『祈祷抄』
『袋きたなしとて金を捨る事なかれ、伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取らざるべし。行者を嫌ひ給はば誓を破り給ひなん。』
(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
否定などしていませんが、もしかしたら、僕は日寛教学を一歩進めたと言えるかもしれません。
「私が(他人より)遠くを見ることが出来たとすれば、それは私が巨人達の肩の上に乗っているからだ。」
とは、物理学者アイザック・ニュートンの言葉ですが、そんな感じで受け取ってください。
(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
>(f)の答えと同じです。
(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
「仏である」だけで何故「本仏」と言えるか?については(i)で答えます。
(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
『法蓮抄』の中に
『心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。』とあります。
功徳の大きさの違いを示すことにより、暗に「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様なんだよ、という事を示していると考えます。
>この“解釈”には賛成しかねます。これは衆生側の功徳を論ずることであって、仏の優劣を論じるものではありません。
との事でしたが、「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。
小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。
(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか
これに対する答えは(e)の答えと同じです。
以上、お答えしました。
>本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。
独歩さんの質問は、平成の今現在の時代状況の中で、大聖人様に直接お伺いしなければ判らない類のものが多く
答えに窮します。
鎌倉時代の、大聖人様の直接の対告衆へのお言葉の中に、適当なものが見つからないからといって
相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?
「文証」ばかりにとらわれず、「道理」を考えていただきたいものです。
『女人往生抄』(真偽未決)
『問うて云はく、内外典の詮を承るに道理には過ぎず。されば天台釈して云はく「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。』
320
:
今里祐二
:2003/01/16(木) 02:23
独歩さんへ
ご質問します。
1)インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか。
2)釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠とするならば、
下記に挙げる事例と、どこがどう違うのか証明して下さい。
<事例1>
今里祐二は、自分のノートに「我れこそは末法の本仏なり」と書き記していた。
故に、今里祐二は「末法の本仏」である。
<事例2>
創価学会員は、創価学会名誉会長・池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録に残している。
故に、池田大作氏は「偉大な仏法指導者」である。
以上です。お答え下さい。
321
:
今里祐二
:2003/01/16(木) 02:38
みかんさんへ
>15)成仏とは臨終に際して起こることなのですか? 生前に開悟することはないのですか?
「成仏とは臨終に際して起こること」と聞かれると答えにくいです。
「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。
>16)釈迦は、30歳もしくは35歳で成仏したとされていますが、それと「僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています」というのは、どう整合性がつくのですか。
「因位」と「果位」という事を考えてもらえば判ると思います。それで整合性はつきます。
322
:
今里祐二
:2003/01/16(木) 03:28
>>319
訂正
誤) 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
正) 仏身を離れて南無妙法蓮華経はありません。
323
:
犀角独歩
:2003/01/16(木) 09:45
祐二さん:
これだけ、衆目に恥を晒す人も珍しい。
「僕は日寛教学を一歩進めた」とは、それはよほど。寛師の文献を精査、読了されたのでしょうか。誇大妄想という言葉以外、思いつきません。
(a)久遠元初とは何ですか。
> 釈尊の本因の時
日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。
(b)自受用報身如来とは何ですか
> 日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事
日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。
(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)
これは要山の相伝です。
日蓮の御書と相伝の区別も付かないようですね。
また、ここでは上行と日蓮を迹といっていますが、なぜこの文が答えになるのでしょうか。勘違いしているのでしょうか。
(d)日蓮が本仏と何故言えますか
> 法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。
日寛をより一歩進んだと自称するあなたの考えを聞いているのではありません。
日蓮の言を聞いているのです。
(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
> 本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。
なぜ、差し支えないのですか。
> 本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
では、阿弥陀も、大日その他の仏と日蓮本仏も分けられないと?。
あなたは阿弥陀・大日とも実際に分けられず、それらを信仰し、拝んでいるわけですか。
> 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
仏身とは何ですか。
(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
> …僕は日寛教学を一歩進めた…そんな感じで受け取ってください。
受け取れません。
寛師教学どころか、あなたの述べていることは異問異答の鰻理論、いわゆる外道の論議としか映りません。
だいたい、また、訳のわからないことを言って煙に巻いています。
では、あなたは日蓮が釈迦であると考えているわけですか。
そうではないのであれば、その「一歩進んだ考え」とやらでは、どのようになるわけですか。
324
:
犀角独歩
:2003/01/16(木) 09:46
―323からつづく―
(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
> (f)の答えと同じです。
「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」という発言が答えなわけですか。
(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
> 「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
日蓮は「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる」と記しています。つまり、この本仏とは釈迦=日蓮という意味でしょうか。
(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
>「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。
これは勝手に道理と決めつけているだけですね。
あなたのいう道理とは自分が正しいと考えることという意味で使われています。
これは道理から外れています。なぜならば、あなたが考えが正しいとは限らないからです。
> 小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。
これは説明になっていません。
日蓮は「教弥実位弥下の六字に心を留めて案ずべし」と言っています。
この言とあなたの説明は食い違っていると見えます。
(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか
> これに対する答えは(e)の答えと同じです。
答えになっていません。
> 以上、お答えしました。
私は日蓮の言で、と言ったのです。
それを自分の言葉で答えたと言うことは、あなたは日蓮なのですか。
>> 本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。
> 相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?
まず、日蓮正宗は大正元年からしか存在しません。その限定で言っているわけですか。
また、私がいつ全否定しましたか。また、勝手に想像・憶測で、恰も私が言ったように記して罠を仕掛けるのはやめてください。
> 相伝
では、日蓮が本仏であるという相伝を挙げてください。
> 「文証」ばかりにとらわれず、「道理」を考えていただきたいものです。
道理を表にすることを私は否定するわけではありません。
では聞きますが、700年も前の日蓮の事跡、文字(文証)で書かれたこと以外で、いったい、何で知ることができるのですか。言うところの道理は、文証を基礎にしない限り、知ることも考えることもできないはずです。だから、文証が重要なのでしょう。それとも、あなたは文証を離れて、日蓮の事跡を知り、ただちに道理によれると言うわけです。まさか夢や幻想に基づいているわけではないでしょう。
故に、引用される『女人往生抄』、また天台釈は、まず文証の正しい選定を基礎にして道理を考えるものであるはずです。しかし、あなたは文証は答えられない、けれど、道理だという。ここでいう「道理」は文証によらないわけですから、単にあなたの想像憶測で、そうあって欲しいという願望の賜物に過ぎません。そんなものは道理とは言いません。
以上、11の質問に就き、相も変わらず、聖人の言を引いていません。
道理という単語に名を借りたあなたの考えを書き連ねたばかりです。
もはや、これ以上、繰り返しても同じことでしょう。
要は、あなたの日蓮本仏という考えは、日蓮の言に依れない、夢想・想像の願望を「道理」という言葉でカモフラージュして肯定したものであると、私は考えるざるを得ない。なぜならば、日蓮の言に拠っていないので、日蓮の教えに従っているとは言えないからです
325
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/16(木) 09:49
>今里さん
一仏一土、仏の三身(法身・報身・応化身)、本地垂迹、久遠実成、本仏・迹仏、これらの概念は了解されているでしょうか。
「久遠」「元初」「自受用」「報身」「如来」。それぞれを理解されているでしょうか。
伝統的な天台法華宗の教理、そして伝統的な日蓮法華宗の教理を理解しないと、それの大胆な読替としての日寛の日蓮本仏説は了解がつかないと思いますよ。
あと、だれかが仏であることを証明できるのは、仏だけです。
他人が開悟したかどうかは、開悟した人にしかわからないからです。
それ故、禅門では、印可は師家しか与えられないのです。
326
:
犀角独歩
:2003/01/16(木) 10:02
祐二さん:
> 320
なんですか、これは?
また、「簡単な罠」という奴ですか(爆)
先にも、あなたが「日蓮を変なおじさんと言った」ときにも記したことです。
私は自分の言っていることに対しては責任は負いますので、自分の発言に就き質問されるのはわかりますが、自分が言ったことでないことを、“恰も私が言ったことのように”仕掛けて質問される“罠”には答えかねます。質問するのであれば、私が言っていることに就き質問してください。
320質問の構成は、実に誘導尋問の性格を帯びています。
的確な、私の過去の発言に基づくものに変えてください。
先に「罠を仕掛けた」と公言して憚らないあなたです。
ここは、私も用心してかからせていただきます。
しかし、それにしても、(2)の質問を読んで思ったのですが、先には「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」と記していましたが、今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。
327
:
今里祐二
:2003/01/16(木) 12:58
>今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。
不正な事の代表事例として挙げているのです。
独歩さんのお考えは以下のようなものですね。
>>42
>戒壇之漫荼羅は疑わしいと言われれば、真筆である証拠を示せばよいのです。
>唯授一人は疑わしと言われれば、事実である証拠を示せばよいのです。
>真偽未決・相伝書が日蓮の教えでない言われば、その証拠を示せばよいのです。
>法華経は後世の創作であると言われれば、釈尊の真説である証拠を示せばよいのです。
>>306
で、初めて質問した時の反応はこうでした。
>仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。
独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。
再度質問します。
1)インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか。
2)釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠とするならば、
下記に挙げる事例と、どこがどう違うのか証明して下さい。
<事例1>
今里祐二は、自分のノートに「我れこそは末法の本仏なり」と書き記していた。
故に、今里祐二は「末法の本仏」である。
<事例2>
創価学会員は、創価学会名誉会長・池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録に残している。
故に、池田大作氏は「偉大な仏法指導者」である。
以上です。お答え下さい。
328
:
犀角独歩
:2003/01/16(木) 14:42
祐二さん:
>> 仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。
> 独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。
何の証拠をですか。
言いがかりはやめてもらいたいですね。
あなたは仏徒ではないと言ったまでです。
そして、あなたが言う「道理」は、日蓮の言を挙げない自分自身の考えに基づくものであるわけです。そして、さらにそれは寛師よりも優れたものであるそうですね。たしか、日寛教学全面肯定であったはずが、いつの間にか自分の考えのほうが優れている変わってしまいました。これから、どんなふうに変わるんでしょうかね。
再度の質問とのことですが、あなた、日本語がわかりませんか。
私に対する質問の形に変えてくださいといったのです。
329
:
犀角独歩
:2003/01/16(木) 14:43
質問を変える理由については、既に326に記したとおりです。
330
:
無徳
:2003/01/16(木) 15:23
satさん今日は:
>三代会長を永遠の指導者と会則改変したことから見ましても、残念で
>すが過去の路線をドラスティックに総括するということは当面考えに
>くいものと思われます
>言い換えれば「それを望まない」とういうことと、歴史的総括を為さ
>ないという事は、表裏一体なのだと思います。
とのことその通りでしょうね、私も決して創価学会も総本山側も歴史的
総括をすることなど有り得ないと思っていますし期待もしていません。
ただ言うべきことは言って置かないと私の気が済まないだけの事です。
>私は現在、池田名誉会長に絶対権限が一極集中しているとは必ずしも
>思えないのです。むしろ、独裁化から官僚化へ、ベクトルは既に転換
>済みと見たほうが宜しいのではないでしょうか
とのこと、おそらく創価学会内部におられる方々はsatさんとほぼ同様
な感じを抱いているであろうことは想像されます。何故かならば現在の
鵺的な日本社会においては、独裁的権力があからさまな形で現前する事
は有り得ないと思われるからです。(国家権力そのものが鵺的)その為に
何処をどう攻めたら変革が可能になるのかさえ判りません。
したがって、権力側を持つ側も自らが権力者たることを気付かず結果と
して官僚化し制度として自己正当化を図ってしまうという最悪の状況と
言えます。このことは現在の日本の若者達が自らのレゾンデートルを得
られない為に、そのエネルギーの捌け口が見つからないところから来る
フラストレーションが溜まってしまう状況とパラレルであるかも知れま
せん。
>しかし、所属組織を代表するがごとき妄想的かつ感情的な主張をもっ
>てバトルを繰り広げ、勝った負けたみたいなものに一喜一憂する掲示
>板が多い中、今一度見つめなおしてみようといった本掲示板のような
>ものが出現していること自体、現代的サンガの萌芽かもしれませんね。
本当にそうですよね!問答名人さんが別のスレッドでこの掲示板の存在
そのものが富士門流の再構築に繋がっているとの趣旨の発言をされてい
ましたが同感です。更にこの掲示板の在り方そのものが現代的サンガの
萌芽であると私も感じています。大いなる期待を込めて私も参加させて
いただいております。
331
:
犀角独歩
:2003/01/16(木) 21:27
なぜ、私は今里さんの質問に答えないかを、ちょっと補足しておきます。
すぐ前で言えば、327において、今里さんは私に対して、
> インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか
と、再度、こう問うた。多分、ここだけ、読んだ人は、犀角独歩は「インド応誕の釈尊を覚者・仏であると言った」と思われることでしょう。しかし、これが今里さんの巧妙なところです。
この(1)の質問は、実は私の言葉ではなくて、質問者今里さん本人が言った言葉なのです。すなわち、306に
> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては
「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない
このように私に問いかけているわけです。私はこれに対して、315において
> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果て…
「これはあなたの勝手な想像です。
人の心配より自分の心配するべきでしょう。
学んだ経験のないあなたには学んだ結果が々であるかは畏怖からしか想像がつかないのかもしれませんが、あなたが恐れおののいている結果とはまったく違うのです。あなたは学ぶことに臆病なのでしょう。何故ならば、自分に不都合の結果が出ることが怖いからでしょう」
と応じています。ところがこの今里さん自身が言い出した言葉は、恰も私が言った言葉の如くに扱い、320において、私への質問と姿を変えます。そして、その質問はまた327において繰り返されています。それが(1)の質問です。
自分の言った言葉の意味を相手に問うという、この異常な在り方に、私は何度となく、「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と記してきたのにも拘わらず、自分が言った言葉の意味を私に問うという通常ではあり得ない質問を投げかけたわけです。
自分が言った言葉です。自分が答えればよろしいのです。なぜ、あなたが言った言葉について、私が答えなければいけないのですか。
あなたのこのような狡猾な罠を仕掛けては、自分に有利なように議論を運ぼうとする。先には日蓮を「変なおじさん」と言い、恰も私がそのように考え言っている如き印象をロムの人々に与えようとするあくどい手段も取っています。私はこのような不正直な態度は日蓮本仏を真面目に考える人々に対する裏切り行為であると指摘しておきます。
そして、自分が言った言葉を恰も私の言葉のように繕いながら、自分の言葉である「釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠」を「今里祐二は末法の本仏」・「池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録」とどこが違うのかという質問を投げかけています。ここで実に不誠実であるのは「今里祐二は末法の本仏」という自分の言葉に就き、327において「不正な事の代表事例として挙げている」と言っている点です。つまり、この質問はどのように答えても、答えた相手は不正な事を弁明したように仕組まれていることがわかります。
このスレッドは213に管理人自ら「当掲示板のルールに則って正々堂々と論線を張られることを要望」と仰っている。私も、今里さんとの議論が始まったのち、296において、「正々堂々と論じ合いましょう」と私は呼びかけた。それにも関わらず、あなたは実に卑劣な罠を仕掛けてきた。。
自分で言った事を恰も私が言ったようにして質問し、その誘導は間違いなく不正な弁明とレッテルが貼れるように仕組まれた狡猾な質問。私は、この在り方を公然と批判するものです。あなたの態度は日蓮本仏論者の面汚しです。
332
:
今里祐二
:2003/01/17(金) 12:14
独歩さんへ
>自分が言った言葉です。自分が答えればよろしいのです。
なるほど。
ところが僕は、
>>232
において、ほぼ、この質問に対する答えと呼んで差し支えない発言をしています。
この考え方に立てば、誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます。
この
>>232
の発言に対し、独歩さんは
>>237-238
のような反応をされ、僕の発言を否定しています。
誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せる考え方・信心のあり方を、
独歩さんは否定されているのだから、独歩さんには「対案」を示す義務があると思うのです。
>あなたは仏徒ではないと言ったまでです。
僕の事を「仏徒ではない」と断言できる独歩さんは、さぞかしご立派な「仏徒」なのでしょう。
釈尊の名誉を守るためにも
>> インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか
>と、再度、こう問うた。多分、ここだけ、読んだ人は、犀角独歩は「インド応誕の釈尊を覚者・仏であると言った」と思われることでしょう。しかし、これが今里さんの巧妙なところです。
などと逃げ回らずに、質問に答えていただけませんか?
333
:
sat
:2003/01/17(金) 14:07
>>330
無徳さん:
いつもご示唆ありがとうございます。
>私も決して創価学会も総本山側も歴史的総括をすることなど有り得ないと思っていますし期待もしていません。ただ言うべきことは言って置かないと私の気が済まないだけの事です。
お気持ち大変よくわかるような気がします。「歴史的総括」を為さないならば再構築を目指す人々の手によって明らかにしていくしかありませんね。正本堂問題のみならず・・だと思います。学会は一貫して唯一無二の反戦平和団体だと標榜し、その根拠を「三代会長の収監」に依拠し歴史付けています。しかし、往事、総体において学会が戦争賛美していたことは紛れもない事実ですし、宗教弾圧などと言うならば、大本教の第二次弾圧でも同じく治安維持法と不敬罪が摘要され、信徒3000余人の検挙、拷問などで16人を死に至らしめ、活動拠点はことごとく破壊されたとされているのですから、学会の比ではありません。
戦後、いずれの新興宗教も多かれ少なかれ権力構造の下支えとして機能しているかと思いますが、そういった欺瞞性もより明らかにされ、歴史の審判を待つべきだろうと思います。本掲示板では教義に関して、様々な視点から史実考証が為されていますが、戦中戦後の新興宗教の史実考証もきっちりとしておいた方がいいかもしれませんね。集団は凝固したものではなく、誕生し、発達し、持続し、分解する・・つまり、集団はそれ自体の歴史を持っているのですから。
>権力側を持つ側も自らが権力者たることを気付かず・・フラストレーションが溜まってしまう状況とパラレルであるかも知れません。
フラストレーションが持続して緊張が高まると、攻撃的な行動をとることによって緊張を一時的に解消する場面がよくあります。学会においても、被害者意識がそのまま加害者意識になっていると思える光景は日常良く目にします。集合的場面に特有の、ある種の内部圧力から直接生じているこれらの行動は、その圧力を強化し集団を結晶化を助けますし、同調傾向、逸脱に対する抵抗、部外者に対する攻撃につながっているかと思います。
学会は集団全体としての強い親和性を素地とした統合性に特徴がありますが、そこには、言語的コミュニケーションを超えた強固な連帯感が認められ、そうした統合性をもって機能し、下位集団としての指導者群と従属者群の地位が分化しているかと思います。また攻撃を通じて組織を強化し、再び全体として社会に反抗する構えをとっているかのようにも見えます。
問題は、その抵抗なり反社会的行動が、しばしば「みせかけ」に過ぎず、組織維持手段と組織目標としての欺瞞性を有していることであり、それは単なる位相として現れたものではないということでしょうか。
334
:
犀角独歩
:2003/01/17(金) 16:54
今里さん:
自分の言葉でないものに答える義務はありません。この点については331に記しました。
ちゃんと読みましたか。
逃げ回っているとかなんとか、人の書いたことを全然、読まないで勝手なことを言っていますね(爆)
そうやって煽れば、怒って、「簡単な罠」に引っかかけようと、まだやっているんですか。331に記したとおりです。
姑息な手段はやめなさい。なんだか観ていて恥ずかしくなります。
いま、ここであなたが記し続けていることは、日蓮本仏ではなくて、あなた自身の人格は如何なるものであるのかを暴露し続けているようなものですよ。
また、あなたは日蓮本仏を何一つ、証明することはできなかった。
この点については何も触れていないけれど、どうしたのでしょうか。
私が立てた(a)〜(j)に対して、あなたの答えになっていない言い訳に就き、323、324に再度、答えになっていない点を言い、質問をしています。あなたはそれに答えていない。解答はどうなっていますか。
こちらに自分の言葉で質問をかけて、自分にかかった火の粉を払うような真似はやめるべきでしょう。
ところで
> 232 において、ほぼ、この質問に対する答えと呼んで差し支えない発言をしています。この考え方に立てば、誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます。
あの寛師より一歩進んだとあなたが自画自賛するのはこのことですか。
これで、釈尊が覚者・仏であると根拠づけられると、どんなふうにして日蓮が本仏と言うことになるんですか。ちょっと、文章をもう一度、記しましょうか。
> お釈迦様の教えの正しさは大聖人様に依存している
この文を次の文章と整合性が取れていませんね。次のところで「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作…羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい…もしそうであったとしても」と法華経が釈尊の直説でないことを認めているのに、その直説でないものの正しさ?は日蓮に依存しているとは如何なる意味なのでしょうか。
> お釈迦様には、未来に大聖人様が出現されるという大確信
どんな証拠があるんですか。
> 法華経…お釈迦様…羅什三蔵…仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、大聖人様は身をもって教え示されたと思います。
ここでいう妙法蓮華教はまあ妙法蓮華経の打ち間違いでしょうが、それにしても、何を言っているんだかさっぱりわかりません。
だいたい、石山で使う真偽未決書では
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし」
と法華経を斥けて、ただ題目の五字七字であるというのに、あなたの場合はその題目を取らず、“実用上”羅什訳「妙法蓮華教」を取るそうですが、これまた御書とも、寛師とも違いますね。これも「日寛教学より一歩進んだ」、成仏しようぜ、今里教というヤツですか。
先にも記しましたが寛師教学は同体異名の相伝を以て釈尊=日蓮を説明します。
この点から、あなたは「日寛教学より一歩進んだ」と先に記しましたね。どんなふうに進んだんですか。自分の言葉なんですから、ちゃんと説明してもらえませんか。
しかし、今回のあなたの書き込みでは「釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます」というわけですから、まるで日蓮本仏なんか関係ないような口ぶりになってきましたね(笑)
335
:
犀角独歩
:2003/01/17(金) 17:19
今里さんへの323、324の未回答の質問
(a)久遠元初とは何ですか。
> 釈尊の本因の時
【問】日蓮の言と言っているのです。
(b)自受用報身如来とは何ですか
>日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事
【問】日蓮の言と言っているのです。
(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
>『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)
【問】ここでは上行と日蓮を迹といっていますが、なぜこの文が答えになるのでしょうか。
(d)日蓮が本仏と何故言えますか
> 法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。
【問】日寛をより一歩進んだと自称するあなたの考えを聞いているのではありません。日蓮の言を聞いているのです。
(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
> 本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。
【問】なぜ、差し支えないのですか。
> 本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
【問】では、阿弥陀も、大日その他の仏と日蓮本仏も分けられないと?。
あなたは阿弥陀・大日とも実際に分けられず、それらを信仰し、拝んでいるわけですか。
> 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
【問】仏身とは何ですか。
(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
> …僕は日寛教学を一歩進めた…そんな感じで受け取ってください。
【問】「一歩進んだ考え」とやらでは、どのようになるわけですか。
(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
> (f)の答えと同じです。
【問】「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」という発言が答えなわけですか。
(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
> 「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
【問】日蓮は「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる」と記しています。つまり、この本仏とは釈迦=日蓮という意味でしょうか。
(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
>「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。
(独歩)これは勝手に道理と決めつけているだけですね。
あなたのいう道理とは自分が正しいと考えることという意味で使われています。
これは道理から外れています。なぜならば、あなたが考えが正しいとは限らないからです。
【問】↑反論がないということは認めわけですか
> 小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。
これは説明になっていません。
日蓮は「教弥実位弥下の六字に心を留めて案ずべし」と言っています。
この言とあなたの説明は食い違っていると見えます。
【問】↑反論がないということは認めわけですか
(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか
> これに対する答えは(e)の答えと同じです。
答えになっていません。
【問】答えてください。
> 以上、お答えしました。
【問】私は日蓮の言で、と言ったのです。それを自分の言葉で答えたと言うことは、あなたは日蓮なのですか。
> 相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?
【問】日蓮正宗は大正元年からしか存在しません。その限定で言っているわけですか。
> 相伝
【問】日蓮が本仏であるという相伝を挙げてください。
336
:
ガンコ(冬眠中)
:2003/01/17(金) 19:09
将棋には千日手というのがあるそうです。
お互いに同じ手ばかりを三回だか四回くりかえすと、これはもういつまで経っても終わらないとみなされ、はじめからやりなおすのだそうです。
議論なんかでも確認のために同じことを繰り返し問うたり答えたりすることはあるでしょうけど、それが三回も四回も続くとねえ・・・
しかもつぶやきすれっどなんですよ、ここは。
管理人さん、なんとかしてちょうだい。
337
:
犀角独歩
:2003/01/17(金) 21:09
問われても、答えない専門のガンコさんならではの、いい提案しますね(笑)
今里さん風日蓮本仏主義は、
・日蓮の遺文には全然よらない
・文章は要らない。道理があればいい
・道理の基準は自分が決める
・自分の考えは寛師より一歩進んだものだ
議論の仕方は
・簡単な罠を仕掛けて相手を引っかける
・自分が言ったことを相手のせいにする
という特徴によっていると私には見えます。
有師とも、寛師とも、福重師とも、もちろん、応師とも違い、さらには現石山教学とも違う、固有の自己主張であることはわかりました。これは石山とは無縁の考えですね。
これ以上、議論を続けても、まあ時間の無駄であることは確かと思います。
もちろん、ガンコさんが私に塩を送るわけはないでしょうが、この申し出には一理あります。
ほら、ガンコさん、こういうときは「大先輩」を呼んでこなくちゃ(笑)
338
:
五月雨
:2003/01/17(金) 21:26
ガンコさん
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
ガンコさんは趣向をかえるそうですので、楽しみにしておりましたが、はや今日は十七日ですね。いつになったら趣向を変えたお話をお聞かせ下さるのかと、首を長くしてお待ちしておりました。ここに御出現とは思いませんでしたよ、「…カルトっぽいか」のスレッドに早くお出ましをお願いします。冬眠から早く目覚めて、顕正会のタメにもならないお話をまたお聞かせ下さい。
今里さんと独歩さんのお話し合いは、独歩さんの気の長いお付き合いに感心しておりましたが、独歩さんも今里さんが早くご自身の過ちに気付かれることを願っておられるのではないでしょうか。(間違っていたらゴメンなさい)
明日は今里さんも、独歩さんのご質問に正々堂々とお答えになられるでしょう。
もう一日待って差し上げたらいかがでしょうか、ガンコさん。
339
:
今里祐二
:2003/01/18(土) 03:59
独歩さんへ
>また、あなたは日蓮本仏を何一つ、証明することはできなかった。
仰るとおり、証明することは出来ていません。相伝書の類を「真偽未決」と否定されたら誰も出来ません。
「信解」出来るか、出来ないかという所でしょうね。
>「簡単な罠」に引っかかけようと、まだやっているんですか。
これは独歩さんがいつも使っている手口を真似してみただけです。「証拠を出せ、証拠を!」というやり方です。
結局、独歩さんも出せませんでしたね(^^)
ガンコさんから「千日手」というご指摘もありますし、まぁ、この辺で終わりにしましょう。
340
:
問答迷人
:2003/01/18(土) 08:29
今里さん
横レス失礼しますね。
>結局、独歩さんも出せませんでしたね(^^)
それは違うと思いますよ。今の議論は、今里さんが「日蓮本仏」を主張されたことから始まっています。だから、釈迦が仏である事の証明は、この議論には直接の関係はないし、その上、独歩さんは釈迦が仏であると主張しているわけではありませんから、元々、独歩さんには、根拠を出す義務なんか無いですよ。
あたかも、独歩さんにも、根拠を示す責任があるようにこじつけて、ご自分が日蓮本仏の根拠を示せなかったことをチャラにしようとしても、単に、往生際が悪いだけだと思います。しかも、「ガンコさんから「千日手」というご指摘もありますし、まぁ、この辺で終わりにしましょう。」等と、逃げを打つのは、いかにも不誠実で卑怯だと思います。お会いした今里さんの御印象からは想像出来ませんでした。残念です。
341
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/18(土) 09:00
>今里さん
これは千日手とはちょっと違いますね。独歩さんが囲碁のルールで戦っているのに、今里さんが連珠(五目並べ)のルールで戦っている、そういう議論でした。ようするに、議論になっていないのです。
そして、投了を宣言しないかぎり、試合が終わらないのです。囲碁の試合は、双方が「もう良いですよね」と終局に同意するか、片方が「負けました」と言って投了しない限り終わりません。どんなに傍目から見て勝ち負けの形成が明かであってもです。まして、囲碁対連珠の試合なのですから、「負けました」と投了しない限り、決して負けませんよね。
わたしがいくつか、今里さんに質問しましたが、あれは、今里さんが、どの程度、仏、成仏、本仏について理解しているか、具体的なイメージを持っているかを確かめるためです。私の感想は、今里さんは、なんら具体的なイメージを持っていないと言うことです。今里さんのお答えは、すべて断片的で、ひとことでした。また「判りません」という答えもいくつかありました。
本当にものごとが分かっているのなら、そのものごとについて饒舌に語らざるを得ないのです。それが仏教というものの持つ宿命です。なぜなら、仏教が指し示していることがらは、言葉では語り尽くせないからです。決して伝えられないからです。しかしもしある人が仏教についてなにか分かっているなら、言葉を尽くして、条理を尽くして相手に伝えようとするのです。それ故、饒舌に成らざるを得ません。しかし饒舌に仏教について語る人は、それが決して相手に伝わらないことを知っています。それは仏教とは、同じ気づきを気づいたもの同士、同じ境涯の者同士にしか分からないことだからです。言語は、必ず誤解されます。それでも語らなければならないというあきらめと絶望の上に語られる言葉、それが仏教の言葉です。
禅門が、「不立文字」といいながら、あれだけ膨大な禅籍を残しているのは、そういう事情からです。彼らは言語に絶望していたが、それでも言語以外のメディアを持たなかったのです。
日蓮だってそうでしょう。本尊抄を富木常忍をはじめとする門下が本当の意味で理解するとおもって発語していたとは思えません。なぜなら、本尊抄は日蓮の覚りそのものの表明だからです。それでも何万分の一の可能性を信じて発語する、それが仏教の言葉の持つ性格です。
「成仏しようぜ!」とHPで呼びかけている今里さんが、成仏について、自分なりにでも具体的なイメージを持っていないという事態は、かなり問題のあることだと思います。すくなくともあのHPのタイトルは変えた方が良い方と思います。今里さんには、あの呼びかけに責任はもてないでしょう?(あとトップページに「成仏しようぜ!」という文字列が入っていないので、googleでトップページがヒットしません。TITLEタグとALTタグを使って、ソースに「成仏しようぜ!」という文字列を入れたほうが良いと思いますが)
342
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/18(土) 09:01
(つづき)
とりわけ、321の今里さんの発言、
> 「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。
これは何が言いたいのですか? すいませんが説明してくださると大変助かります。誰かが考えてくれるのですか? あなたは法華講から籍がなくなったと聞いています。あなたを指導してくれる、指導教師なんてもはやいないのでしょう? あなたは一人で考えるしかないんですよ。
今里さんは、即身成仏ということが分からないのだと思います。そして即身成仏と言うことが、この身の上に起こりうると、考えられていないのでしょう? ちがいますか。
一般論ですが、これは、日蓮正宗(含む、創価学会、顕正会)の人全般に言えることです。即身成仏といいながら、彼らはこの人生に於いて、この身で成仏するとは本気では思っていません。それが端的に表れているのは、「仏界の生命が湧現する」という言い方です。あれは、自分は成仏していないが、ときどきは仏界の生命が出ていることもあるのだと言い訳する機能を果たしています。そして、即身成仏が、ほんとうに今世・現信に開覚することであるというあたりまえのことを隠蔽する機能を果たしています。
さらに一般論ですが、これは現在の日本仏教の他宗派でも同じです。開悟が現身に可能であるとは、彼らは本気では思っていません。たとえば、現在の曹洞宗では悟りについて語ることはタブーであるそうです。もしそうであるなら、それはあそこまで悟りをとりつめて考えた道元に対する裏切り行為です。
今里さんは、仏教についての基礎教養がないと思います。こまごまとした指摘はとりあえずしませんが。
先日紹介した三冊の本は、ぜひ読んで欲しいです。あの程度の基礎教養もなしに、仏教一般や日蓮一般について語るのは、おかしな事です。あれで十分ではありませんが、最低限度です。あの三冊は新書や文庫です。安いですし、大学生や高校生レベルで読める内容の本ですので、ぜひ読んでください。
それと、今里さんがどの程度、日蓮遺文や六巻抄や文段に親しんでいるのか知りませんが、すくなくとも真跡現存と曽存の日蓮遺文は繰り返し読んでください。そして、「日寛教学全面肯定」と言うのであれば、日寛教学を理解していないとおかしいでしょう。そのためには六巻抄や文段も繰り返し読む必要があります。
343
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/18(土) 09:01
(つづき)
そしてそれらを理解するためには、天台法華宗と日蓮法華宗の教理を理解する必要があります。そのために何を読んだらいいかは、今日はご紹介しません。もし必要になったら言ってください。いくらでも文献をご紹介しますから。
デカルトを読まずにフッサールを理解することができないように、またフッサールを読まずにハイデガーを理解することができないように、日蓮を理解するためには日蓮が読んだ文献、日蓮の思想形成の礎となった文献はできるだけ読まないと理解できないのです。また日寛もそうです。彼らは、他宗を含む広汎な仏教に関する教養があるのです。当時の学僧ならどの宗派に所属していても、当然読んでいる文献というのがあったのです。そういう教養を共有することを抜きにして、彼らの文献だけ読んでも、彼らが何を言っているのか分かるはずがないのです。前提となる教養が欠けているのですから。
284
> みかんさんの
>>127
に賛同したのは、僕自身にそのような『信』の自覚があるからです。
よくわかりません。その自覚の根拠はなんですか。わたしは127で「「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。 」と言いました。それに対し、今里さんは259で「開目抄や本尊抄をよく理解できる、などという大それたことを言ったわけではありませんです」と言ったのにもかかわらず、284で「僕自身にそのような『信』の自覚がある」とおっしゃる理由が分かりません。260で私は「智慧の眼の一分が開いていたら、開目抄なり本尊抄が理解できるというのは、日蓮が菩薩であり智慧の眼の一分を開いているからです。唯仏与仏であるから、お互いにわかるのです。わからないなら、智慧の眼の一分が開いていません」と申し上げました。今里さんは、日蓮の言葉の意味がわからくても、智慧の眼の一分が開いていることがあり、ご自身がそうだ、とおっしゃっているのでしょうか。
あともう一つ繰り返しますが、だれかが仏であるかどうかを判断できるのは仏だけです。それは他人の境涯は、同じ境涯か上の境涯の人にしか分からないという、仏教の基本的な原理があるからです。だから、われわれ凡夫には、日蓮や釈迦が仏であったかどうかは、原理的には判断できません。
また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。
今里さんが今なさるべき事は、自分が何が分かっていないかを了解することです。何が分かっていないかを了解すれば、何を学べばいいか分かるからです。とにかく、最低、先日紹介した三冊を読んでください。すべてはそれからです。
344
:
菱村正敏
:2003/01/18(土) 09:05
釈迦を仏とたてるのは、仏教のお約束だからそもそも証拠をだして証明す
る云々というお話、この際はなじまないかなと思います。まぁ宗派によって
は他仏を本尊としてあがめ優劣関係はあるのでしょうが、さりとて釈迦を仏
とする思考は捨てられていないと存じます。
「江戸のカタキを長崎で」という次元ならば、今里氏の反論も益なしとは
言えませんがね。ちょいとズレてるかもしれません。ただ、日蓮本仏云々は
当時の日蓮の脳裏に何度かよぎったかもしれない。それも夢のある話です。
また、信仰は個人の自由ですし、霊感商法まがいの勧誘でなければ、
わたしは掲示板などで無責任ととられかねない発言を書き込んでも「可」だ
と思います。ここにおられる脱会者?の方々、つまり日蓮本仏などを吹聴して
第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任を
とったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。
つぶやきでした。
345
:
五月雨
:2003/01/18(土) 10:00
> また、信仰は個人の自由ですし、霊感商法まがいの勧誘でなければ、
わたしは掲示板などで無責任ととられかねない発言を書き込んでも「可」だ
と思います。
自分の言葉に責任などいらへんと言うてんのかなぁ、このお方。
>ここにおられる脱会者?の方々、つまり日蓮本仏などを吹聴して
第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任を
とったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。
なのに、脱会者は勧誘した責任をどう取ったかなんて、上の言葉と矛盾してるんと違うの。
脱会者は責任を感じているから、自分の言葉には責任を持って書き込んでいるのに、ホンマになに言うてんねん、と思うわ。アキレルわ。
関西弁でつぶやいてみました。
346
:
五月雨
:2003/01/18(土) 10:41
今里さん
問答迷人さんが仰ったように、私も今里さんの態度は不誠実だと思います。
オフ会で「証明出来ないからといって正しくないとは限らない」と今里さんはお話されていましたが、「証明出来ないものは正しくない」のではないですか。
ここの掲示板は、正しさを証明するのが目的のひとつだと思います。証明出来ないのが分かっていながら、議論を始められた今里さんの本当の目的はなんだったのでしょう。
吉本新喜劇で、コテンパンにやられた人がむっくり起き上がって「今日はこれくらいにしとってやるわ」と言うのと、今の今里さんは同じ状態です。
きっとロムされている方全員がズッコケたでしょう。
独歩さんとの議論?は終了されたようですから、質問をさせて頂きます。
今里さんはご自分の主張されることに、何の責任も感じないのは何故ですか。今里さんのサイト「成仏しようぜ!」に書いた事柄を読んだ人が真に受けて、死ぬ時に成仏しなかったら今里さんに責任はないのでしょうか。
今までの今里さんのレスを読んでいたら、今里さんの『無責任』さばかりしか感じられませんでした。
今里さんにとってのご本仏日蓮大聖人様も、今里さんの心得違いを悲しんでおられることだと思います。
344の菱村さんが(初めましてですね、ご挨拶が遅れました)書いておられるように、
>つまり日蓮本仏などを吹聴して第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任をとったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。
このご指摘の責任を感じなくてはいけないと思うのですが。いかがですか。
347
:
菱村正敏
:2003/01/18(土) 11:59
五月雨さん。どこの誰だか存じませんが・・・。
> 自分の言葉に責任などいらへんと言うてんのかなぁ、このお方。
ちょいと意味が通じてませんでしたか。わたしが申し上げたいのは
相手に対して「無責任」と求める姿勢は結構ですが、いわば脱会された
ご自身たちは当時折伏をとおして第三者に対していくらかの「無責任」な
行為をされたんじゃありません?平たく言えば日蓮本仏なる言を基本に
して宗教勧誘されたんでしょ?今と過去とは違うと言われるかもしれま
せんがね。過去の「無責任」な言動をもちいた宗教勧誘を自らの目が
開いたからといって過去の問題を案外とさらりと流してませんか?それとも
折伏した人たちに対して「俺は無責任なことをした」などとと謝罪して
まわったとでも?
349
:
犀角独歩
:2003/01/18(土) 12:20
既に問答名人さんが総括をされたので、私は敢えて、この既述については屋上屋を重ねることはしないことにします。
みかんさんが記されたことは、特定個人における批判などという狭隘さとは格段の階梯をなすのであって、日蓮仏教を、否、通じて仏教を志す人々の道標とたり得る重要なものであると思います。
私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」からです。ハッサン氏は以下のように言っています。
「カルトのいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできない』教義である。それは非常に複雑なため、解くのに何年もの努力が必要だということになっている…
教義は受け入れるべきものであって理解すべきものではない(という)。それゆえ、教義は、漠然としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければいけない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる」
また、さらに言えば証明できない“確信”とは如何なるものであるのかという問題もあるでしょう。よく上げますが、ヤスパースの妄想の定義 (1)間違った考え (2)強い確信 (3)訂正不能 という指標に就き、その考えが間違ったものであるかどうかを判定するのは証明にかかっています。
証明を重要視する必要性はここにあります。罠を仕掛けた本人が言う、証明を迫ることが罠であるなどと言う類とは次元を異にしています。
また、日蓮に限定してみれば、日蓮もまた、それまでの系譜に従い、この文献的に証明に非常に熱心な人でした。その点はまた寛師もそうであったでしょう。ただし後者は、その教義体系の基礎に相伝・口伝を採り入れた点で、日蓮とは趣を変えていると私は思っています。しかし、たぶん、寛師には現代における祖書学その他の科学的な手法とは無縁であったろうし、そもそも精師の説法を聞いてこの道に入ったという人物でもあり、さらに天台檀林能化という地位からも相伝の文献的成否を問う位置にはいなかったのでしょう。さして、彼ができたことは中古天台・恵心流口伝を批判し、けれど、そのモチーフに則って新たな体系を虚構することであったのでしょう。
350
:
犀角独歩
:2003/01/18(土) 12:38
> 344 菱村正敏さん:
私、五月雨さんが示した違和感、ちょっとわかる気がするんですね。
これは批判などということではないのですが、要するに「皆さまは折伏された方たちにどのような責任をとった」という問いかけを読んで直ちに思うのは、「だったら、菱村さんはどうなの?」という疑問が生じるからです。まあ、菱村さんご自身に転教体験がなければ、該当しないのかも知れませんが、その辺の事情が見えないので、自分のことだけを棚上げにして語っていないかという疑問が生じるわけです。
以前、実は問答名人さんご自身が、この点については書かれています。
―― 今まで多くの方に、間違った事を伝えてしまった、その罪滅ぼしのためにも、益々、聖人の祖意を明らかにすべく、懸命に努力して参りますので、今後ともよろしくお願い申し上げます ――
むしろ、この掲示板を管理される理由も、このお気持ちにあると拝察しております。
そして、この言葉を受けて私も記しました。
―― 私もかつて問答名人さまのように、折伏をした相手に謝って歩いたものです。その中で3歳からの幼馴染がいるのです。親が牧師さんであったことから、徹底した論争をしていました。私は勢い込んで、「もし、日蓮正宗・創価学会が間違っていたら、俺の命をやる」とまで言ったのです。その友人に、脱会したとき、私は頭を下げに行きました。彼は「お前、間違っていたら、命をくれるといったよな」私は黙って頷きました。「本当だったら、さあ、ここで死んでもらおう……と言いたいことだけれど、これからの人生、命をくれてやるから、自分の罪滅ぼしに使ってくれ。まあ、キリスト教が正しいってきまったわけじゃないしな」と、そう言ってくれたのです。
考えてみれば、本気で仏教を考え直そうと思ったのは、この時からでした。――
さらに、一つの紹介もしました。
―― オウム真理教であったという私の友人は、300人もオウムに入れました。脱会後、その300件の家族を訪問し、脱会を進め、謝罪して歩いたといいます。もちろん、すべての脱会に成功はしませんでした。家族や本人から罵倒され、蔑まれ、恨み言を投げつけられながら、それでも彼は自己責任を果たし続けたのです。
私は彼に心から敬意を表しています ――
私の折伏は40年の長きに亘りましたので、この尊敬する友人のように、その全員に歩き回ること自体、物理的に不可能な状態にあります。ですから、かつての知人に会うとき、私はまず、脱会の事実を告げ、謝罪し、許しを請うてから、新たな人間関係を構築するように努めてきました。もちろん、それで贖罪になったということではありません。
いずれにしても、以上のように、既に自己責任に基づく既述がなされておりますので、菱村さんのご発言は、それを知る五月雨さんに、むしろ、私にとっても違和感を以て受け止められた次第があるのであろうと思います。
351
:
犀角独歩
:2003/01/18(土) 12:43
私は今回のやり取りのなかでもっとも心に響いた既述は、実はアネモネさんが292に記したことでした。
「今里さんの説明如何によっては、私だって再び本仏論を信じることだってあるかもしれません」
この真摯な叫びに、誠実、正々堂々と応えるべきであったのではないのかという点が、いちばん惜しまれます。
352
:
今里祐二
:2003/01/18(土) 12:59
みかんさんへ
>「成仏しようぜ!」とHPで呼びかけている今里さんが、成仏について、自分なりにでも具体的なイメージを持っていないという事態は、かなり問題のあることだと思います。
お釈迦様のような仏に成りたい……、ではダメですか?
>> 「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。
これは何が言いたいのですか? すいませんが説明してくださると大変助かります。誰かが考えてくれるのですか? あなたは法華講から籍がなくなったと聞いています。あなたを指導してくれる、指導教師なんてもはやいないのでしょう? あなたは一人で考えるしかないんですよ。
僕が生きている間に、僕自身がお釈迦様のような立場になることは有り得ない、ということです。
>今里さんは、仏教についての基礎教養がないと思います。こまごまとした指摘はとりあえずしませんが。
知識量が少ない事は何度も認めていますので、あんまり突っ込まないで下さい(^^)
ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。
僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。
>今里さんは、日蓮の言葉の意味がわからくても、智慧の眼の一分が開いていることがあり、ご自身がそうだ、とおっしゃっているのでしょうか。
そうです。
「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です。
また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。
これは「お互い様」という気がしますが(^^)
353
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/18(土) 14:37
>>352
今里さん
> これは「お互い様」という気がしますが(^^)
>>301
を参照。
301 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2003/01/14(火) 23:23
>今里さん こんばんは
大変ですね。
あのですね、すぐに返事を付けるようですが、おそらく、今里さんは他の発言者がどういう意味を込めて言葉を使っているかよく分からずに、返事をしているように見えます。
それはなぜかというと、元信仰者には信仰者がどういう気持ちであるかはよく分かります。しかし、信仰者には、無信仰者や元信仰者がどういう気持ちであり、どういう意図で言語を使用しているかがさっぱり分からないからです。
なぜならば、元信仰者には信仰者の使用する言語のルールが分かるが、信仰者には元信仰者の使用する言語のルールが分からないからです。
という訳なので、相手がどういう意図で言語を使用しているか自分なりに了解がつくまで、時間をかけて返事をする癖を付けた方が良いです。
(後略)
> 「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です
そんなことは、盲信の人でも思います。なぜ絶対の確信だと言えますか。わたしだってかつてはそう思っていましたよ。
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1029381997&START=639&END=639&NOFIRST=TRUE
639 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2003/01/13(月) 01:12
具体的に説明します。
我(アートマン)という概念自体が日本にはないので、わかりにくいのです。我とは、あるものがあるものであることの確実な根拠あり固定的な性質です。それが確実にあり、しかも過去から未来まで永遠にあるというのが、我の思想です。
(略)
もう一つ例を出します。日顕書写の本尊は破門前は創価学会員にも、尊いものに見えた。ところが、破門後は忌み嫌われるようになり、尊いものに見えない。。
逆に、日寛書写の本尊は、創価学会員には尊いものに見える。ところが、法華講の人にはコピー本尊として尊いものに見えない。
ところが、信仰心のない人には、ただの掛け軸に見えるでしょう。
さらに、シロアリやシミにとっては餌でしかないかもしれません。
そのように、見る立場、見る視点、見る時期によって、同じものがまったく違うように見える。本尊それ自体には、尊いという実体はない。それが無我(アナートマン)ということです。
354
:
今里祐二
:2003/01/18(土) 15:26
問答名人さんへ
僕が言いたかったのは
「お釈迦様を供養する功徳よりも大聖人様を供養する功徳の方が百千万億倍大きいのだから「日蓮本仏」でいいじゃん、あんまり細かいこと気にすんなよ」ということです。ども、お騒がせしました。
五月雨さんへ
>証明出来ないのが分かっていながら、議論を始められた今里さんの本当の目的はなんだったのでしょう。
>吉本新喜劇で、コテンパンにやられた人がむっくり起き上がって「今日はこれくらいにしとってやるわ」と言うのと、今の今里さんは同じ状態です。
「大聖人様を御本仏と信じるのは当たり前」と思っている人としか議論したことがなかったので、ここでは随分ズッコケてしまったみたいですね。ウケてもらえただけで満足です(^^)
アネモネさんへ
>そもそも罵倒されようと、中傷すれようと、誹謗されようと、自分が絶対的信を傾ける「日蓮本仏論」を徹底的に展開していくのが、今里さんが本仏と崇める日蓮のやり方ではないでしょうか。
大聖人様は果位の立場にある仏様ですが、お釈迦様を絶対に信じるという因位の立場を表にして法を説かれました。ですから鎌倉時代の文献的な証拠をいくら集めても「日蓮本仏論」など出てこないのだと思っています。
オフ会の時も「思考停止」という言葉が出ていましたが、僕は「釈尊が何故仏と言えるのか?」という所まで疑問を持って考えていました。「釈尊だって俺と同じ人間だし、子供も作ってるし…」って。
「釈尊は何を悟ったんだろう?」ってずーっと考えてて、ある日気付いたんです。
「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
時系列的に逆転しているところがスゴイんですが(笑)。まぁ、らせんの様なイメージで理解しました。
そう考えたら、もう、何もかもが納得出来るようになりました。
法華経には内容などほとんどなくて褒め言葉ばかりしか書かれてない事、釈尊が器物崇拝を禁じた事、一念三千の事……。
御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした。
そういう僕自身の宗教体験を元に、HPを作ったり掲示板に出てきたりしています。
教義の細かい所など、僕にとってはもうどうでもいいことですが、他人を説得する時は中々そういうわけにはいきませんね。
それでは。
355
:
アネモネ
:2003/01/18(土) 15:33
菱村正敏さん
恐らく、今回の今里さんへ対するレスにおいて、私アネモネが一番「責任」という言葉を投げかけたと思っております。また過去のレスにおいても、「責任」という言葉を多く書いてきたと自覚しておりますので、その立場から少し書き込みたいと思います。
>相手に対して「無責任」と求める姿勢は結構ですが、いわば脱会されたご自身たちは当時折伏をとおして第三者に対していくらかの「無責任」な行為をされたんじゃありません?
その通りでしょう。その過去の行為をもっとも痛感し苦しみ、そして自分の振る舞いが果たして本当に正しいと言い切れる行為だったのかどうかを、厳しく自己に問いかけ追及した結果、組織を離れているものだと思います。少なくとも、私に関してはそうです。自分の無責任な言動を棚上げしているのではありません、自分の言葉に責任をもつべきだ主張するのは、他人事として書いているのではないのです。過去の自らの行為を悔悟した結果の主張なのです。
今里さんへのレスにも書きましたが、信仰を語ることにおいて、掲示板のレスだろうが個人のサイトだろうが、多くの人の目に触れる公の場ですから、このことは、軽く考えないでほしいのです。繰り返しになりますが、宗教を語るということは、場合によっては読む人の人生を変えてしまうことが往々にしてあるからです。このことは、重く考えなければならないということを、理解して頂きたいです。
仮に、掲示板だから、無責任な発言も「可」と許されるとしても、最低限、責任の持てない自分の憶測や思い込みであることを言い回しにおいて慎重にあってほしいのです。科学的分析で証明できないことを、最もらしく断定して記述することが、どれだけ人を惑わすものなのかという問題認識、大切ではないでしょうか。
しかし、このことは、今里さんだけが責められることではないのです。組織を上げて煽動してきた宗教教団の持つ体質なわけです。それがこの掲示板の意図する、問題提議でもあったわけです。
356
:
アネモネ
:2003/01/18(土) 15:34
(つづき)
>平たく言えば日蓮本仏なる言を基本にして宗教勧誘されたんでしょ?今と過去とは違うと言われるかもしれませんがね。過去の「無責任」な言動をもちいた宗教勧誘を自らの目が開いたからといって過去の問題を案外とさらりと流してませんか?それとも折伏した人たちに対して「俺は無責任なことをした」などとと謝罪してまわったとでも?
謝罪をして回ることはひとつの方法でしょう。しかし、謝罪をしてまわっても、過去の無責任な発言が撤回され責任がとれるというものではないでしょう。大袈裟でもなんでもなく、人の人生を変えてしまっていることだってあるわけですから、ここで組織を離れる決断をした人の内心としては、取り返しのつかないことをしてきたと苦しい思いを抱えているのです。そのくらい、自己を追求しているわけです。自分に対して厳しさを課しているというわけです。それが同時に社会への責任にも通じるものでもあるわけです。
いったん発した過去の言葉の完全な責任をとることは、残念ながら出来ません。だから、言葉には慎重ですし、このことにまさに気づいたところで、今できることは何かといえば、たとえ掲示板の投稿といえども、自分の言葉に責任をもっていく姿勢を崩さないということが先行されるわけです。
それが、宗教を語るものの姿勢として求められること。当然のことではないでしょうか。
あまりにもそのことに対して、みんなが無神経であったということに気づいてほしいものです。
そのような観点から今回の議論において、自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、宗教に対する誠実さははっきり目に見えていたと私は思います。
多くのカルト性の強い教団は、世の中を救うと称しながら、実は証明できないことを最もらしい言葉で信じ込ませ、世の中の人々を惑わしているのが現状なのではないでしょうか。
証明できないことにも真理はあるという。しかし、単純に真理でない確立のほうが遥かに高いはずです。にも関わらず、そちらに対する意識はまるで抜けおちているわけです。
さらにそこには、証明できないけれども、信じる者は救われ、信じない者は地獄行きと、二極論で強迫し脅していくのが常套手段なわけです。
今里さんは、そういう手法のカルト性や危険性に無神経なわけですね。なぜ無神経でいられるのかというと、自分が無責任であることに甘んじているからではないでしょうか。人々を救うはずの宗教が、実は救いを求める人々を惑わし不幸に導いている現実的側面があることに目が向いていない。現証というなら、そのことこそ現証ではないかと言いたいくらいです。
しかも、宗教が原因で不幸になった人に対してすら、信心が足りないからとか、過去世の業だとか、またまた証明できないことでもってさらに苦しめているのも事実です。全て言葉に対して無責任だから、発せられる無神経な言葉なのです。
みかんさんが、痛快なレスをなさっていました。まさに宗教を語る者は、文献に対する研鑚と自己への追及、そして社会への洞察を怠ってはならないと思います。そんなこともせず、それどころかそのような自分の姿勢に開き直るばかりか、真摯な姿勢で臨んでいる人を簡単に見下しながら、自分の言動には責任を全く回避するような人の言葉こそ、私は信用できないと判断し、そしてそのような人の言葉こそ世間を惑わすものではないかと公然と批判します。
357
:
アネモネ
:2003/01/18(土) 15:43
今里さん
>ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。
その結論が正しいか否かの議論をしているわけです。そのことをみんなが指摘しているのに、なぜその意味が理解できないのでしょう。
それが正しいことのように断定して話す以上は、証明しなければならない立場に立つということです。それが出来ないことがわかった以上は、言葉の表現に慎重にならなければならないわけです。そういう責任を感じるようになることも、仏教徒の振る舞いとして求められることではないでしょうか。今里さんには、そういう姿勢が微塵も感じられないのです。
このような指摘や忠告は、うるさいだけなのかもしれませんね。
しかし、今里さんの語る言葉は、どれもこれも信用できないというのが私感想です。
>「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です。
井の中の蛙大海を知らずとは、まさに今里さんのことだと思います。
開き直っておられるようですが、決して誉められたことではないでしょう。しかも浅学だったことを自ら認めながら、なんら自己批判を持たない。それどころか、教義研鑚に対して真摯な姿勢の人に対して、見下す姿勢さえ改めないわけです。それが成仏を目差すという今里さんの振る舞いなわけです。
>僕が生きている間に、僕自身がお釈迦様のような立場になることは有り得ない、ということです。
とのことですが、「成仏しようぜ!」と呼びかけることこそ、釈迦のような立場で人々を煽動する言葉ではないでしょうか。今里さんのことの言葉を問題にする人は、皆そのことを指摘しているのだといえます。なのに、なぜその指摘をどこまでも交わし続けることができるのか、私にはわかりません。本当に今里さんは、成仏を目差しているのでしょうか。心の底から目差しているならば、この指摘に対して真剣に自己を追求するものではないかと思います。
>また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。
これは「お互い様」という気がしますが(^^)
立証できない結論を今里さんは理屈抜きで信じている。その心情をわかってもらえないことを、「理解されない」ととっているのかもしれませんが、そうではないと思います。今里さんの信じたい気持ちはわかるのです。なぜならば、みんな過去は信じていたからです。しかし、そういう議論ではないということを今里さんは理解していないのです。そういう「思い」は、どうしたって議論にはならないのです。議論になっていないことすら気がついていないようですが。今里さんの本仏論は、「鰯の頭」だったというところでしょうか。
>「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。…御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした。
そういうのを、鰯の頭というのだと思います。自己の探求、追及、そして自己批判にまったく欠けているものだと思います。今里さんの個人的信仰観とみなされるものだということです。そのことをもって、これが真理なんだわかってくれということの危うさにも目を向けてください。
単に、自分の都合のいいように解釈して自己陶酔しているだけだと感じます。そういうのは「信」でもなければ、覚りでもないでしょう。自己への厳しさを捨てた、ただの盲信だと感じます。
私は。そのような宗教観からは、卒業したつもりでいます。
359
:
エド
:2003/01/18(土) 16:53
はじめまして。
とても興味深く拝見させていただいております。
一寸ご教示願いたく、質問させて頂きます。
独歩様。
>私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」
>からです。ハッサン氏は以下のように言っています。(略)
では、証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなものがありましょうか?
360
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/18(土) 23:26
>>354
今里さん
> 「釈尊は何を悟ったんだろう?」ってずーっと考えてて、ある日気付いたんです。
> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
> 時系列的に逆転しているところがスゴイんですが(笑)。まぁ、らせんの様なイメージで理解しました。
「釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」という時の、「御本尊様」って何ですか?
361
:
今里祐二
:2003/01/18(土) 23:49
アネモネさんへ
>>ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。
>その結論が正しいか否かの議論をしているわけです。
僕は正しいと信じています。
まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。
「責任」について色々言われていますが、アネモネさんは御本尊様を否定している事がどういう事か解っていないようです。
これまで、そして現在も多くの人達が「御本尊様を信じていれば成仏できる」と信じています。
それを否定するのであれば「対案」を出すべきです。
たとえば「鰯の頭を信じれば成仏できる」「大黒様を拝めば成仏できる」「マニアにしか解らんような教学話をゴチャゴチャやってれば成仏できる」等々です。
否定するだけで「対案」を示さないのは無責任な態度ではないですか?
>自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、
独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません。
自らリスクを負って「こうすれば成仏できる」と言わない限り、無責任なのは独歩さんの方です。
>>359
エドさん
ナイスです♪
362
:
今里祐二
:2003/01/18(土) 23:50
みかんさんへ
>「釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」という時の、「御本尊様」って何ですか?
みかんさんが「不一不異」という事を理解されているという前提で答えます。
大聖人様が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊様です。
363
:
無徳
:2003/01/18(土) 23:56
Satさん今晩は:
>「歴史的総括」を為さないならば再構築を目指す人々の手によって
>明らかにしていくしかありませんね。正本堂問題のみならず・・だ
>と思います。
その通りですね。創価学会に限らず顕正会も法華講も更には正信会も
その組織を構成する人々が、我こそ正しく他が間違っていると言った
正当意識を払拭し、それぞれが富士門流の再構築という視点で日蓮仏
法の原点に帰るべきでしょうね。
その為にも、我々がそれぞれの組織の指導者達が紡ぎ出す共同幻想と
も言うべき迷妄を打ち砕く事が何より先決と思います。兎にも角にも
それぞれの組織の指導者たちがお山の大将意識ではお話になりません。
その意味でもリゾーム的な現代的サンガの形成がなにより要請される
と思います。ネットに集う一人一人が中心であり尚且つ周辺を担う事
が何より大切な変革の起爆剤となり得ることでしょう。
satさんのご活躍を心より期待いたします。今後ともお互により良き情報を
交換してまいりましょう。
364
:
さかなこ
:2003/01/19(日) 01:37
みかんさん>
日蓮さんの御書をよりよく理解するための前提としてこれだけは
覚えておかないとだめーな基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて
安い本があったら教えてくださいm(__)m
がっかーいんさんに御書難しい。。というとみんな読みやすいといふ。。
日蓮さんは後世のことを考えて現代人にも読みやすく書いてくれたといふ。。
読みにくいとおもうているのはあたしだけなのだらうか。。。
365
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/19(日) 12:16
>>364
さかなこさん
> がっかーいんさんに御書難しい。。というとみんな読みやすいといふ。。
論文は読みにくいです。手紙は比較的読みやすいと思います。論文も空海や親鸞や道元に較べれば読みやすいとは思います。
> 日蓮さんは後世のことを考えて現代人にも読みやすく書いてくれたといふ。。
それはでたらめです。
> 基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて安い本
そういう概説書みたいなのはちょっと心当たりがないです。それに習うより慣れろだと思うし。
日蓮の遺文を読む場合、現代語訳か注釈のついたもので読みはじめるのがよいです。堀日亨編の御書全集(いわゆる創価学会版の御書)をいきなり読もうとしても、挫折します。あるいは誤読します。それに堀日亨の御書全集は句読点が極端に少ないし、字も小さいし、配列も独特なので、使いにくいです。(もちろん現代語訳や注釈が間違っていることもありますけどね)創価学会版の御書講義の本は、日蓮正宗独特の文底読みを採用していて、日蓮の原意を損なっているのでお薦めしません。
増谷文雄『日蓮 書簡を通してみる人と思想』(筑摩叢書78 筑摩書房 品切れ)
『日蓮文集』(岩波文庫、書き下しおよび古文 注釈付き 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/400333051X/
『中公クラシックス 日蓮』(中央公論新社 現代語訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121600150/
辞典は創価学会版の『日蓮大聖人御書辞典』(絶版)が、一番良いと思います。サイズが小さい割に、項目が多いし、しかも出典も明記されているからです。ただ、これも日蓮正宗教学や創価学会教学独特の解説をしている箇所がありますが、それさえ気を付ければ、役に立つ辞典です。
あと日蓮の概説書はいっぱりありますが、次の二冊が良いかも。
佐藤・小島・小林『日蓮大聖人の生涯と思想』(第三文明社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476061265/
末木文美士『日蓮入門―現世を撃つ思想』(ちくま新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480058559/
あと、大石寺門流と他門流一般で、読み方が違う重要箇所があります。それも気を付けた方が良いです。
「開目抄」(真跡焼失)
一般「したし父母」
大石寺「しうし父母(主・師・父母)」
「本尊抄」
原漢文「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
一般「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊をこの国に立つべし。」
大石寺「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」
どちらが正しいかは解釈に依ります。私の考えでは、「開目抄」は「したし父母」が読みとして自然だと思います。「本尊抄」は「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」が漢文訓読上、自然だと思います。
366
:
山の王
:2003/01/19(日) 12:28
また、話がずれていますね。
日蓮が本物であるかを文献的に証明できなければ、普遍性がないという話をしていたんじゃないの。
成仏でいる対案がなければ無責任というのは一見すると筋が通っていると思えるけれど、けれど、今里の言っていることが成仏できることが証明できないんだから、まるで反論になっていないんじゃないの。
367
:
山の王
:2003/01/19(日) 12:53
それにまた、ぜんぜん、質問に答えない上、自分で「この辺で終わりにしましょう」と言っておきながら、まだ独歩さんの悪口を書き連ねている。
別に独歩さんの味方しようと思わない。しかし、ひどいね。端で見ていて気分悪い。
366の「今里」は、さん忘れ。
368
:
山の王
:2003/01/19(日) 13:10
だいたい、なんで日蓮さんが本仏のわけ?
日蓮さんはお釈迦さんに帰命しているからこそ、自分の書いた御本尊に「南無釈迦牟尼仏」って書いているわけでしょう。
それで釈迦=日蓮だというのが日寛さんの言葉にあったって、それは日寛さんの言葉でしょう。
あと、本仏ってなんなの。
それで成仏できるって言われても、ぜんぜんわかんないよね。
369
:
アネモネ
:2003/01/19(日) 14:09
今里さん
>「御本尊様を信じていれば成仏できる」と信じています。
それは今里さんの内心の自由ですから、よろしいのではないでしょうか。そのことについては、私はなんら立ち入っているつもりはないです。ただし「成仏しようぜ!」と誘いかけている以上、個人的信仰の領域を超えていることなので、誘いかける言葉に責任を持ってほしいと意見させて頂きました。信じているの一点張りでは、なんら責任を持っていないのです。正しさを証明しなければならないのです。そのことが文献から立証できないのなら、自ら実際に成仏してから世間に誘いかけて頂きたいものです。その場合には、成仏とはどのようになることなのかまで、人々に語り連ねるところまで説明が出来なければならないのです。お釈迦様のような仏様では、説明になっていません。
>アネモネさんは御本尊様を否定している事がどういう事か解っていないようです。
私がいつ否定したのでしょうか。曲解されては困りますが、私は一度たりとも御本尊様を否定などした覚えはありません。今里さんの信心が、鰯の頭的信心だと感想を述べたまでです。それを「御本尊を否定した」などと曲解してレッテルを貼られては迷惑です。
だいたい御本尊とは何なのでしょうか
>それを否定するのであれば「対案」を出すべきです。
何の対案でしょう。私は御本尊様を否定した覚えはありませんので、対案の出しようがありません。
>否定するだけで「対案」を示さないのは無責任な態度ではないですか?
繰り返しますが、否定などしていないのですから、対案を出すことなど要求される覚えはありませんし、無責任呼ばわりされる筋合いもありません。
>独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません。
自らリスクを負って「こうすれば成仏できる」と言わない限り、無責任なのは独歩さんの方です。
今里さんは、私がいうところの責任における認識が全然わかっていないようです。私が何度も言っていることは、自分が発する言葉、つまり今里さん自身が発言している言葉に責任を持ってほしいと言っているのです。今里さんはご自分が信じている、「御本尊様を信じていれば成仏できる」ということで「成仏しようぜ!」と世間に誘いかけているわけです。この「御本尊様を信じていれば成仏できる」ということに対してどのような責任を今里さんが持つのかです。その責任の持ちようこそ、証明しかないのではないでしょうか。信じているだけでは、証明になっていないわけで、今里さんの「成仏しようぜ!」はどうしたって無責任な誘いであることは免れないということ、理解できませんか?
そもそも、成仏の方法を「案」として提示すべきなどという今里さんの言葉は、仏教にはそぐわないような違和感を感じます。
私は、正しいことが証明されないことを、あたかも正しいと断定して誘いかけるような無責任なことに慎重な立場をとっているのです。そのような責任の持ち方が、今里さんには理解できないということでしょうか。
それから、人の投稿を正しく理解せずに曲解してとらえ、あたかも「御本尊様を否定した」というレッテルを勝手に貼るのは卑怯です。言葉を正確に理解して頂きたいですし、理解できないのであれば、自分には理解できないと誠実にお答え頂きたいと思います。
370
:
五月雨
:2003/01/19(日) 16:50
今里さんに、アネモネさんの言葉が届かないのはどうしてなんでしょうね。
日本語が通じないなんてことはないでしょう、ご自身に都合の悪くない返事は返されていますもの。ところが一番肝心な「日蓮本仏論」についての問い掛けにはだんまりを決め込むか「あまりいじめないで下さい」などと逃げ回り、あげくに自分の言葉を他者が言ったかのような“罠”を張る。
オフ会でお会いした時に受けた今里さんの人間性から、掲示板における今里さんのお振る舞いはちょっと信じられない思いがしています。
ご自分でご自分の人間としての品性を、ここまで貶めなくてもいいように思うのですが。
それにしても、この鰻の論理に挟まれた無徳さんとSatさんの意義ある議論が霞んでしまったように思います。勿体無い限りです。
371
:
今里祐二
:2003/01/19(日) 17:20
アネモネさん
>私は一度たりとも御本尊様を否定などした覚えはありません。
これは大変失礼しました。申し訳ありませんでした。
でも、それだったら、独歩さんではなく僕の意見を支持して下さい。
>だいたい御本尊とは何なのでしょうか
日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。
>信じているだけでは、証明になっていないわけで、今里さんの「成仏しようぜ!」はどうしたって無責任な誘いであることは免れないということ、理解できませんか?
前回「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」と言いました。
無責任と言われても、それ以上の責任は取れないわけで、…困りましたね(^^)
>正しいことが証明されないことを、あたかも正しいと断定して誘いかけるような
宗教って、そういうもんじゃないですか。
>無責任なことに慎重な立場をとっているのです。
そんなに慎重にならなくても、臨終の時にはキッチリ清算されると思いますよ。
また、そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです。
http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html
372
:
犀角独歩
:2003/01/19(日) 17:30
今里さん:
ちょっと待った。
いったい何なのだね。
山の王さん(はじめまして)も書いてくれたが、339に「まぁ、この辺で終わりにしましょう」と書いた故に、こちらとしては、335に整理したように質問に何ら答えないこともさらに追究をしなかったのです。それにも関わらず、「独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません…無責任なのは独歩さんの方」と、おわりにしたはずが、質問されたことを応えない卑怯な態度を取っておいて、批判するとはいったい、どういうつもりなのかね。
まずはこの点について、弁明を聞かせてもらいましょうか。
373
:
犀角独歩
:2003/01/19(日) 17:45
エドさん:
> 証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなものがありましょうか?
できる限り、仰る意を正確にお聞きし、お答えしたいと思います。
この「宗教」とは、どのような意味でお使いになっていらっしゃいますか。
宗教教団の意味ですか、それとも分類上の意味…たとえばキリスト教、仏教といった…、それとも、教えの意味ででしょうか。
エドさんが引用された、349において「のいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできない』教義である」というハッサン氏の言葉を引いたわけですが、ここで言われていることは「教義」ということです。ですから、上述、仮に私が記したなかで言えば「教え」に該当します。
それなのに、「証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなもの」と「宗教」という言葉に代わって質問がなされていますね。これはそのような批判の対象にならない教義を持つ宗教(団体、分類)はなにかというご質問なのでしょうか。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板