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つぶやきすれっど2

374みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/19(日) 17:49
>今里さん。
>> 362
> みかんさんが「不一不異」という事を理解されているという前提で答えます。

「不一不異」というのは仏教一般で使用される言葉ですので、それだけでは何と何の「不一不異」を言っているのか分かりません。
1-1)何と何の「不一不異」ですか?
1-2)そしてそれはどういうことがらを示していますか?

> 大聖人様が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊様です。

2)それは、「日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。」と言われるところのあの木製の物質ですか? それともそれが関わる何かですか?


>>354
> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。

3)それは、一体どういう事ですか? 釈迦が何をどのように悟ったのですか? その悟りの内容はどういうことですか?

> そう考えたら、もう、何もかもが納得出来るようになりました。

4)何がどのように納得がいきましたか。それは具体的にどのようなことですか?


>>305
> お釈迦様のような仏様に成ること

5)「お釈迦様のような仏様に成ること」とは具体的にどのようなことですか?

375犀角独歩:2003/01/19(日) 17:52

今里さん:

あなたはアネモネさんに対して、

> そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです

などと言っています。
出てきても意味がないのはあなたのほうでしょう。その点について、私は237、238に

「あなた、こんな所に出てきても意味がないんじゃないのかな。
自分の本仏論を抱きしめて悦に入っていれば好いんだから。
言葉をやり取りすること自体、意味ないでしょう、あなたには(笑)

まあ、本仏論なんて看板背負って出てきても、説明も何も出来ないかけ声だけじゃ、退屈ですね。
独りよがりの好い気分、聞いたって、何の参考にもならないし、本仏論というのはただの思いこみなのかと。
思い込んでいる人とは会話は成り立たず、ただ、説明も出来ないことを押しつけられるだけでは、公開の議論の場にはふさわしくないでしょうね」

と嗤ったわけです。結果はまさにそのとおりなのであって、何一つ説明できないばかりではなく、それぞれ問いを投げかけた人々を軽蔑し、不誠実、卑怯の限りを尽くしたうえで、ついにはアネモネさんに斯様な言辞を投げつけている。

私は、もう一度、237、238に記したことを告げるものです。

376犀角独歩:2003/01/19(日) 18:18

みかんさん:

鰻と鰯頭のは横に置いて、少し真面目に質問をさせてください。

『開目抄』の「しうし父母」は「終始父母」の可能性は、どのようにお考えですか。

『本尊抄』の「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」につき、私は、みかんさんとは考えを異にし一般の読みのほうではないかと考えてきました。その理由は、『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」との整合性です。ここが同じく三つの法門となる本門本尊について同じく論じているとすれば、整合性がなければならない、となれば、『本尊抄』「釈尊為脇士」は「釈尊の脇士と為(な)り」でなければ、辻褄が合わないと思えるわけです。この点は、どのようにお考えになられますか。

377ワラシナ:2003/01/19(日) 18:52
「上野国立博物館の大日蓮展を見てきた。」

1、臨滅度時の御本尊の大きさに驚いた。
2、「観心本尊抄」「立正安国論」の御真蹟を拝し得た有難さ。
3、2時間半かかってみた。どうしてもその位の時間が必要になる。
4、入り口の券売機で1300円入れる時は500円硬貨が使えない。
5、一度は実物を見ておくと色々と着想が湧いてくる。あの展示物に限って宗祖の筆記された文字のサイズを見れば、宗祖はやはり大き目の字の方を好んでお書きになっているとしか思えなかった。

378今里祐二:2003/01/19(日) 19:51
>>372 独歩さん

>まずはこの点について、弁明を聞かせてもらいましょうか。

アネモネさんより
>自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、

と、独歩さんと比較した質問をされたので、それに対する反論です。

僕は「文証」を出せないし、これ以上独歩さんとやり合う気もありません。
無礼に感じられた点がありましたらお詫びします。申し訳ありませんでした。

379今里祐二:2003/01/19(日) 20:13
>>374みかんさん

1-1)何と何の「不一不異」ですか?

釈尊が凡夫であった時に拝んでいた御本尊様と、僕が現在拝んでいる御本尊様とが不一不異という事です。

1-2)そしてそれはどういうことがらを示していますか?

質問の意味がよく理解できません。

2)それは、「日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。」と言われるところのあの木製の物質ですか? それともそれが関わる何かですか?

そうですが、御本尊様の事を「木製の物質」と見ている間は、信心が成立していないと思います。

>> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
3)それは、一体どういう事ですか? 釈迦が何をどのように悟ったのですか? その悟りの内容はどういうことですか?

これは釈尊の悟った内容を言ったのではなく、僕がそのように感じたという事です。

4)何がどのように納得がいきましたか。それは具体的にどのようなことですか?

一言では言えないのでHPの方で、みかんさんご自身が判断してください。
http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

5)「お釈迦様のような仏様に成ること」とは具体的にどのようなことですか?

具体的には、なってみなければ判らないと思います。

380エド:2003/01/19(日) 20:47
独歩様。

他意はありません。宗教としたのは、ただ単純に「教義とは特定の宗教の教え」と考えたからです。

>私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」からです。

との引用をされたことから、「“証明”できる教義」の存在も認めていらっしゃると推察申しあげました。
あらためてお伺い致します。
“証明”できる「教義」(教え)とは、どのようなものでしょうか?

蛇足ですが、“教義”については広辞苑には次のように記載されております。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【教義】
特定の宗教や宗派の信仰内容が真理として公認され、信仰上の教えとして言い表されたもの。
教理。ドグマ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

381アネモネ:2003/01/19(日) 23:05
今里さん

>それだったら、独歩さんではなく僕の意見を支持して下さい。

支持を得たいのならば、最低限、議論に対する姿勢を改めて頂きたいと思います。内容はもちろんのこと、議論に対する姿勢からして、私は今里さんを支持する気になれないのです。

>そうですが、御本尊様の事を「木製の物質」と見ている間は、信心が成立していないと思います。

木製の物質ではないのですか?とすると、何なのでしょうか。

>前回「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」と言いました。
無責任と言われても、それ以上の責任は取れないわけで、…困りましたね(^^)

オフ会のときにも、「困りましたね」とつぶやいておられました。この歳、とことん困って追求して頂きたいと思います。
しかし、「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」とのご発言から察するに、今里さんは地獄に落ちるかもしれないことをそんなに重大には考えてはいないような印象を受けますね。それは裏を返せば、成仏するということもそんなに重くは考えてはいないということでしょうか。
なのに、「御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした」と感涙に浸っている。成仏と地獄をさして重く考えているとも思えないのに、何をそんなに感涙することがあるのか、まるでピンとこないです。

>宗教って、そういうもんじゃないですか。

私はそうは思いません。
今里さんはそれで納得して済ませているかもしれませんが、私は宗教を求めるものとして、それで宗教とはそういうものだと納得して済むことは出来ないと思っております。あくまでそこを探求し、追求していく自分でありたいと思っています。また、その点においては、文献などの研鑚に努力を惜しまず長年の思索を経てきている方に対しては、敬意を持って耳を傾け、学ばせて頂きたいと思っています。そして、自らの思索や社会への洞察も怠らない。それが今の宗教を求める私に出来る、責任をもった姿勢と振る舞いに通じるものと考えるからです。

>そんなに慎重にならなくても、臨終の時にはキッチリ清算されると思いますよ。

ご自分のことはそれで済むでしょう。しかし、今里さんの誘いに乗って信心を始めた人はどうなのでしょう。一緒に清算されても、自分には責任はないよと思っているということですか。宗教とはそんなもんだよと言って、終るのでしょうか。救われないとはこのことかと感じます。

>また、そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです。

私がですか?
冗談じゃない。今里さんのように無責任でいい加減な態度のロムを読むと、黙ってはいられないのです。そのような姿勢に甘んじている人の無責任な言動に対して、批判的に意見する私の言葉は、自ら責任を持って書き込んでいます。
今里さんに限りませんが、大御本尊様さえ信じていれば人間としての振る舞いは二の次、三の次という方、組織の中でも多く見てきました。
それが本当の仏教なのかといつも疑問に思ってきたのです。組織に疑問を持ったのもそんなことからでした。そのような問題提起もこめて、私は掲示板に参加してきたつもりです。
責任を感じるからこそ、この場で問題提起をしてきたともいえるのです。私の掲示板参加の意識は、根本的に今里さんの意識とは根本的に違うものだと思います。

382みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/20(月) 09:09
>>376 独歩さん

「終始父母」という読みははじめて見ました。そのような説を唱えている方がいらっしゃるのですか。もしよろしければ、お名前とか、何という本に出てくるかとか教えて頂ければ幸いです。

 報恩抄との整合性については、考えてみたいので、時間を下さい。


「本尊抄」の読みについては、

「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊をこの国に立つべし。」
と読むためには、漢文はたとえば、
「此時地涌千界出現為本門釈尊之脇士可立一閻浮提第一本尊於此国」
のような語順でなければならないという理由からです。(漢文を読むことはある程度できますが、書く訓練は受けていないので、間違っているかもしれません。)

原文が「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
であるので、
「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」
としか読めない、ということです。

また、「本尊抄」の中の二つの記述の間で整合性が取れていると考えるからです。つまり「一閻浮提第一本尊」=「南無妙法蓮華経の主題」の脇に「南無釈迦牟尼仏」=「本門釈尊為脇士」が書かれている、ということを表している文章だと、私は読むわけです。
かつて(1997年)わたしはとある文章で以下のように書きました。
以下引用
===
「その本尊の為体、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。文殊・弥勒等の四菩薩は、眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は、万民の大地に処して雲閣・月卿を見るがごとし。十方の諸仏は、大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表するが故なり。かくのごとき本尊は、在世五十余年にこれなし。八年の間、ただ八品に限る。」
「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿。十方諸仏処大地上。表迹仏迹土故也。如是本尊在世五十余年無之。八年之間但限八品。」

「この時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇土と為す一閻浮提第一の本尊この国に立つべし。」
「此時地涌千界出現本門釈尊為脇土一閻浮提第一本尊可立此国。」

 これらの記述は、中央に「南無妙法蓮華経」と大書きされ、その向かって左脇に「南無釈迦牟尼仏」、右に「南無多宝如来」とあり、さらにその右脇に「南無上行菩薩」「南無無辺行菩薩」、左脇に「南無浄行菩薩」「南無安立行菩薩」とあり、下方には諸々の菩薩・天・人など十界の衆生が描かれる日蓮の本尊の構成を顕している。
 下方にどの尊格が書かれているかなどの、本尊全体の構成は必ずしも一定ではないが、中心部分はほとんど変わらない。その中心部分を略記するなら次のようになる。

  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多宝如来
南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩

385犀角独歩:2003/01/20(月) 13:19

380 エドさん:
(この掲示板では「さん」付けとなっていますので、そのようにさせていただきます。私にもそのようにお願いいたします)

> 「“証明”できる教義」の存在も認めていらっしゃると推察申しあげました。

この点については、存在の否定・肯定といった二極思考として考えているのではなくて、「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように語っている」のがカルト理論であるという意味です。

少し言葉を継げば、「証明できない教義」とは「証明できないことによって組み立てられている教義」という意味です。

その意味において、証明できる事実の積み重ねによって教義は構築されているべきであるという考えはあります。

しかし、証明できない教義に対して、証明できる教義があるという二者択一を言っているわけではありません。

> “証明”できる「教義」(教え)とは、どのようなものでしょうか?

ここで議論されていることであれば、日蓮の真跡か否か、日蓮が実際に説いた教義であるかどうかという証明に基づく限定を設定して、日蓮本仏論については考えるべきだということです。

386さかなこ@暇なOL:2003/01/20(月) 13:36
>>365

みかんさんどうもありがとうございました(^o^)丿
でも絶版になってるものが多いのですね(´・ω・`)
「あなたの大きさに気付いたときににあなたはいない。。」人生って
上手くいかないものなのですね(´・ω・`)
我が家にある本は御書講義全集はがっかーい版のなので
ちと問題がありそうです。

質問したいなあ。。と思っていた個所を独歩さんが訊いて下さったので
このままお話をロムいたしましゅる。

387犀角独歩:2003/01/20(月) 13:36

みかんさん:

有り難うございます。

実は私自身、自然な訓読としては石山読みであると個人的には思っています。
しかし、日蓮は先に挙げたとおり『報恩抄』において三つの法門中、本門本尊を「本門の教主釈尊」と定義しています。題目の(南無)妙法蓮華経、つまり、漫荼羅中尊に等しい言については「日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし」であるといいます。(蛇足ですが、本門戒壇については何ら説明もありません)

故に自然な訓読と思える「本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊」では『報恩抄』にいう“本門本尊・教主釈尊が脇士にもなる”不都合が生じてしまうと思えるわけです。実際、『報恩抄』では「上行等の四菩薩脇士となるべし」と明確に脇士についても定義されています。そのことから見れば、「本門の釈尊を脇士と為(な)す」では脇士の定義が異なるという不都合も生じることになります。

これはけっして、みかんさんを批判してなどと言うことではなく、一つの難問を、ここに考えてみる試論と言うことで、ぜひ『報恩抄』との整合性のご賢察をお聞かせいただきたいと願うものです。

388犀角独歩:2003/01/20(月) 14:27

―387からつづく―

一つ記し落としました。

> 「終始父母」…説を唱えている方…お名前…本

申し訳ありません。これは私の勝手な想像を記したまでのことです。
焼失した『開目抄』真跡、該当部分が「しうし」か「したし」か、今となっては憶測の域を出ませんが、「しうし」という仮名書きであったとすれば、他にも様々な可能性が考えられるのではないのかと思って記したことでした。

389犀角独歩:2003/01/20(月) 14:40

みかんさん:

もう1点、ご意見をお聞かせいただきたいのです。

『本尊抄』の「其本尊為体本師娑婆上」の文につき、この本尊に掛かるのは、その前文「但召地涌千界説八品付嘱之」にということになります。それで、ここでいう「之」はさらに前文の「本門肝心於南無妙法蓮華経五字」です。となると、本尊は南無妙法蓮華経と見えます。たしかにここまで読むと本尊は「南無妙法蓮華経」であると思えます。

ここで目を引くのは「本師」の二字です。「其本尊」は「本師娑婆上」というわけです。さらに前を見れば、「我等己心釈尊五百塵點乃至所顕三身無始古仏」であり、その仏は寿量説法の次第の如く娑婆にあって「仏既過去不滅未来不生」であるというわけです。その仏が本師であるとなりましょうか。

私にはここの文「其本尊」に始まる部分の結論は「来入末法始此仏像令出現歟」にこそあるのではないのかと思うわけです。

前文ばかり読めば、言われるところの本尊は字像を漫荼羅として座配、図示すれば事足りるように思えます。けれど、ここには確かに「仏像」の二文字があります。

「南無妙法蓮華経」が「仏像」かといえば、これは苦しい。つまり、この仏像とは本師・本尊の仏像という意味にならないでしょうか。そうなると、本尊とは図示漫荼羅というより、寿量仏、『報恩抄』にいう「本門の教主釈尊を本尊」であり、その仏像ということにならないのかと私には思えるわけです。

ここで「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空」の件は本尊を南無妙法蓮華経としてしまうと、本尊・本師・宝塔ともに南無妙法蓮華経となってしまいます。そうなると「仏像」の二文字の意味がまったく取れなくなります。

この点を、みかんさんは、どのようにお考えになりますか。
ご賢察をお聞かせいただければ有り難く存じます。

390犀角独歩:2003/01/20(月) 16:45

つぶやきです。

「来入末法始此仏像令出現歟」の文の後には「本門壽量品本尊竝四大菩薩」の文が来るわけですから、本尊を漫荼羅とすると漫荼羅の横とは別として、さらに四大菩薩を置くという配置になります。しかし、本門壽量品本尊を寿量仏・教主釈尊仏像と見做せば、いわゆる一尊四士の奉安となります。この場合、やはり、本門壽量品本尊を仏像と見做すほうが自然であると私には感じられます。

一つの可能性として、よく言われることですが、本尊=教主釈尊=妙法蓮華経ということは、もちろん、考えられます。しかし、この説明は「仏像」の説明には少しもなっていないように思えます。

では、「為体」と示されるところは何事かとなります。

「宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿十方諸仏処大地上表迹仏迹土故也」の「釈尊脇士上行等四菩薩」を、先より取り沙汰している「地涌千界出現本門釈尊為脇士」の石山読み「本門の釈尊の脇士と為し」と対校して読めば、「釈尊は上行等四菩薩の脇士」とせざるを得なくなります。しかし、もちろん、釈尊の脇士=上行等四菩薩であることは「本門壽量品本尊竝四大菩薩」の文との整合性からも明らかなように思います。

この文を読んで着目するのは「塔中」の二文字です。前文の「宝塔」を受けているのでしょうから、塔中とは「宝塔の中」の意であることは疑う余地はありません。この「中」はどこまでの範囲を言うのでしょうか。宝塔品の文で勘えれば、涌出の宝塔の中には元より多宝如来が在り、そこに釈迦牟尼仏が並座するとなります。そして、神力をもって衆をして虚空の上げるというわけです。「塔中妙法蓮華経」の文を取り敢えず依用すれば、宝塔の中には妙法蓮華経の五字が掛かりそこに多宝如来が元より在り、次いで釈迦牟尼仏が並座したということになります。その他の衆は虚空にあり、他方迹仏は大地からこれを仰ぎ見ているという記述です。

文字で書かれているので、宝塔が漫荼羅には書き込まれていないけれど、宝塔品の記述に従えば、塔中には他方如来と釈迦牟尼仏しか在らず、さらに本尊抄の記述を足せば、その塔中に妙法蓮華経の五字もありということになるのでしょうか。

ところでこの塔とは、他方如来の為の宝塔であるという点があまり取り沙汰されていないように私は思います。『開目抄』でも、この点は明瞭に「多宝如来、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じ」とあり、この塔は多宝如来塔であることは、はっきりしています。

もし、日蓮漫荼羅がこの宝塔を図したものであるというのであれば、多宝如来塔を図したというに異ならないことになるわけです。ここでこの宝塔=漫荼羅が末法の為の本尊であるというのであれば、それは取りも直さず、多宝如来塔信仰確立になってしまわないのかという疑問が私にはあります。

以上はあくまでつぶやきですが。

391菱村正敏:2003/01/20(月) 16:47
横レス失礼。

 日蓮の本尊観あるいは本尊定義には整合しており矛盾があるまいという
前提にたつと「本尊抄」の当該漢文の読みを、本来しない苦しい読み方を
しないと不都合になりますね。それはココでたまに言われているところの
坊主の学問・教養になっちゃうんではないでしょうか?

 ですから、独歩さんのような立場のかたは、このような順逆の読み方を
認知していく手段としては、当時に書かれた誰かの書物で同例をさがして
示すことも必要ではないでしょうかね。

 ここの読みについては本尊論資料(臨川書店)404頁・549頁あた
りを、もし見ていなければどうぞ。

392今里祐二:2003/01/20(月) 18:47
アネモネさん

>木製の物質ではないのですか?とすると、何なのでしょうか。

僕は「木製の物質」であることを否定などしていませんが…。もう少し落ち着いてよく読んでみてください。

戒壇の大御本尊様は、大聖人様が滅後の衆生の為に御自身の御身代りとして残されたもので、
自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束です。

ところで仏教には「色心不ニ」という教えがあります。
初歩的な事なので説明は省きますが、「色」を離れて「心」はありません。
「色」を離れて「心」を立てるのが外道の特徴で、「宇宙根源の法則」などがその代表事例です。
つまり「木製の物質」である所の戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はないのです。

>「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」とのご発言から察するに(略)

僕は自分が地獄に落ちることはないと確信を持っています。

>>宗教って、そういうもんじゃないですか。
>私はそうは思いません。

それでは宗教って、どういうものなのですか?

>ご自分のことはそれで済むでしょう。しかし、今里さんの誘いに乗って信心を始めた人はどうなのでしょう。

成仏できると信じています。

>今里さんのように無責任でいい加減な態度のロムを読むと、黙ってはいられないのです。
>今里さんに限りませんが、大御本尊様さえ信じていれば人間としての振る舞いは二の次、三の次という方、

これは「必ず文証を示す」という、この板のローカルルールのようなものを破った、という事ですか?
僕は大聖人様の御真筆だけを文上のままで読んでいけば独歩さんのような結論に成らざるを得ないだろうという事は解っていたので、
「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」という事を言いたかったのです。
僕の文章力が未熟で、不快な思いをさせてしまったようです。申し訳ありませんでした。

それにしても、ここ数日間では、誰よりもたくさん謝っているんですけど…。

393犀角独歩:2003/01/20(月) 19:26

菱村正敏さん:

ここで私が問いを設けたのは、みかんさんがどのようにお考えになるのか、という興味に基づくものです。これは私が個人的にみかんさんのお考えに興味があるからです。

395犀角独歩:2003/01/20(月) 19:45

今里さん:

また、勝手に私の考えを曲解して載せています。
このように私が言っていないことを記すことを何度も抗議してきたはずです。
いい加減にしてください。

> 独歩…「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」
私はこんなことは一度たりとも言っていません。エドさんに答えた如く「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように語る」ことは無責任である言っているのです。
あなたの392の記述の如くに、です。

それにしても「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

396犀角独歩:2003/01/20(月) 19:52

【390の訂正】

誤)宝塔品の記述に従えば、塔中には他方如来と釈迦牟尼仏しか在らず
正)宝塔品の記述に従えば、塔中には多宝如来と釈迦牟尼仏しか在らず

誤)ところでこの塔とは、他方如来の為の宝塔である
正)ところでこの塔とは、多宝如来の為の宝塔である

397犀角独歩:2003/01/20(月) 20:03

今里さん:

395の、私の記述は撤回し、以下のように書き換えます。

「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

398犀角独歩:2003/01/20(月) 20:41

みかんさん:

私は宗派教義から文を読み解くことを不謹慎であると思います。
ですから、日蓮本仏義に否定的でありながら、しかし、純粋に、漢文読みとしてのみ、石山読みを採り、しかし、本佛義を採らないみかんさんの在り方に深く賛同するものです。

しかし、何か非常に重い質問を寄せさせていただきました。
いつもご賢察を載せられるみかんさんのご意見を伺ってみたいという気持ちからです。
それ以上の意味はありません。
読み直してみて、過去にもこの掲示板でもやや論じあったことですが、一長一短に答えを書き連ねられるほど、簡単なことでないことは理解しております。
お暇な折にでも、お記しいただければ有り難く存じます。

399エド:2003/01/20(月) 21:12
独歩さん

>ここで議論されていることであれば、日蓮の真跡か否か、日蓮が実際に説いた教義であるかどうか
>という証明に基づく限定を設定して、日蓮本仏論については考えるべきだということです。

その教義が日蓮の真跡か否か、日蓮の実際に説いた教義であるかどうかを証明できるのか否か、それを
精査検証されているという意味ですね。するとそれは文献学的な証明の範疇で、日蓮の教義(おしえ)
そのものが証明できるか否かという問題とは異なる、ということになりましょう。了解いたしました。

>「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、
>それを逆手にとって真>理のように語っている」のがカルト理論であるという意味です。

ハッサン述べるところの「カルトは証明できない教義によって成り立っている」という“教義”(doctrine)
は、いわゆる教義(教え)の内容に対しての言及であり、限定された条件による史学的ないし文献学的論証
に限られたことではないと考えます。
極論ですが、独歩さんの言葉を借りるならば、世にあまたある宗教の教義はすべて「証明できないことを、
さも証明できることとして論じ」「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように
語っている」と言えるのではないかと。その是非、その意図的であるかどうかは別として。
そこで独歩さんの見解をお聞きしてみたかったわけです。独歩さんを決して批判するつもりではありません。 

宗教の教義は科学のように合理的論証によって証明されるものではなく、信者も、教義そのものに証明を
求めてはいない、というのが現実ではないでしょうか。そこにカルト付け入るる隙もあるのでしょう。
現在、カルトに対しては世界共通認識としての定義が定まっておらず、ハッサンのカルト定義をそのまま
鵜呑みにし、文節を取り出してそれにあて嵌めることにのみ熱心である傾向を随所で見かけているのですが、
それに少々抵抗を感じておりました。それで、先のぶしつけな質問になった次第です。

独歩さん、飛び入りトピずれにお相手して頂きましてありがとうございました。

400困ったという字:2003/01/20(月) 21:32
つぶやきスレッドということなので挨拶は省略させてもらいます

今里サン、過去ログをしっかり読んでから書き込むようにしなさいな。
本仏論も血脈論も本尊論も、あなたは過去ログをなにひとつまともに読んでいないとしか思えないよ。
あなたの書き込みに真摯さを感じているロム者はほとんどいないんじゃないかな。

過去ログというのは、基礎的な知識、ということなんですよ。
あなたの発言は俗にいう「唐人の寝言」以下に思えます。
あなたの書き込みを読んでいると、あなたの信じている宗教はなんと無力な宗教だろうという気がします。

この掲示板は宗教ゴッコの場ではありません。
もちろん自分の信仰を宣伝したり勧誘したり押し付けたりする場でもありません。

401犀角独歩:2003/01/20(月) 21:38

エドさん:

非常にご賢察をお示しくださり、有り難うございます。
私自身、いわゆる破壊的カルト・マインド・コントロール論を無謬に扱うわけでなく、今後、蓄積されるデータによって逐一、書き換えられていく前提で引用しています。これは当然のことです。近日では、専門家から Abuse という視点を加味し、破壊的カルトの心理操作は Abuse の下部構造として機能しているという興味深い仮定も示されています。

「世にあまたある宗教の教義はすべて」以降の記述はまさに私の懐く疑問なのです。ただし、証明ができない故にその教義による宗教を捨て去るという極論を言うのではなくて、社会的批判の俎上に立ちながら、修正されるべき点は修正されて然るべきと考えています。

また、ご質問のみならず、ご賢察をさらにお聞かせ願えれば有り難く存じます。

402今里祐二:2003/01/20(月) 21:39
独歩さん

>「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

僕のような信徒の立場からすれば「御相伝」という事になるのですが、大石寺自体に「御相伝」と呼べるべきものがないそうですし…
日有上人の頃からそのような考えが現れたとするなら、日有上人が「大聖人様が本仏だ」と悟られたという事になります。そして日寛上人の代で教義としてほぼ完成したのでしょうね。
仏様の悟りとまではいかなくても、信徒としての分々の悟りはあると思いますし、そういうものの積み重ねが「日蓮本仏論」ではないかと思っています。

その考えが正しいか間違いかは、客観的に判断できるものではなく、正しいと思える人は信じ、そう思えない人は信じない、という事になるかと思います。

>戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

これは独歩さんの仰るとおりだと思います。証拠があれば皆が安心できます。でも証拠は無い…。
証拠が無いから偽者だ、と言う事も出来ないわけで、これも、正しいと思える人は信じ、そう思えない人は信じない、という事になるかと思います。

だた、これは僕の考えなのですが、「戒壇の大御本尊」を否定してしまったら、もう後は「日蓮仏法の混乱」という事態しか待っていないと思います。「戒壇の大御本尊」の代わりになるものを出せる人は誰もいないのですから。

ですので、僕は「信じるしかない」という立場に立っています。

403困ったという字:2003/01/20(月) 21:47
>、「戒壇の大御本尊」を否定してしまったら、もう後は「日蓮仏法の混乱」という事態しか待っていないと思います

具体的にその理由を述べてもらいたいと思いますが、つぶやきスレッドではなく、新たなスレッドか本尊スレッドでお願いしたいです。


>戒壇の大御本尊」の代わりになるものを出せる人は誰もいないのですから。

代わりになるものが必要なのですか?
必要だとしたらそれは何故ですか?

404犀角独歩:2003/01/20(月) 21:51

○色心不二

「色心不二」は著名なところでは湛然著『法華玄義釋籤卷第十四』十不二門に挙がります。決して「初歩的な事」などではありません。

一色心不二門者。且十如境乃至無諦。一一皆有總別二意。總在一念別分色心。何者。初十如中相唯在色性唯在心體力作縁義兼心色。因果唯心。報唯約色。…

(手許に訓読テキストがないので、雑駁に読み下しますが)
一に色心不二門とは、且く十如境乃至無諦、一々に皆総別の二意あり。総じて一念は分別して色心あり。何者ば。初めに十如の中、相は唯色に在り、性は唯心に在り、体力作縁の義は色心を兼ねる。因果は唯心、報は唯色に約す…

と説明は延々と続きます。日蓮はこの義を踏襲するのは至極当然のことなのですが、真跡中「色心不二」は『木絵二像開眼事』に一カ所見えるのみです。ここでは

「仏滅後は木画の二像あり。是三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」

とまず生きておわした三十二相の仏に対して、仏の木像・画像は梵音声とを欠く(故に三十一相)で、心も欠くので天地雲泥の相違があるといいます。
けれど、

「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり」

といい、仏像・画像の前に法華経を置けば純円の仏となるといいます。すなわち、これは法華経が梵音声を不可見無対色で仏像・画像に書けないところを法華経を仏の梵音声なので、置くことによって三十二相を具足することになると言うほどの意味合いでしょう。すなわち、ここに色不二を説明として使用し、

「意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕はすなり。色心不二なるが故に而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。」

というのです。(梵音)声は色法。仏の心より色(梵音声)をあらわす。また、(梵音)声を聞いて心を知る。色(梵音声)が心(仏の御意)を顕すのである。色(梵音声)心(仏御意)不二なるが而二とあらわれて、仏の御意はあらわれて法華の文字となる。文字は変じてまた仏の御意となる、と言います。

これが日蓮の釈です。故に392に今里さんが言う「色心不ニ…戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はない」などという説明は日蓮とはまったく関係のないものです。

もちろんのこと、戒壇之漫荼羅を日蓮が身代わりに残した証拠ありません。

なお、今里さんは269において「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だった」と記していたのに、275のみかんさんが「「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまう」という批判によって修正したようで、ここでは「自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束」と言うに至っています。
つまり、今里さんが269に記した言葉は「日蓮正宗のお約束」とは違っていることを自ら示した結果となっています。

405犀角独歩:2003/01/20(月) 22:00

402 今里さん:

このような記述のされ方で在れば、議論の余地があると思います。
また、記された日蓮本仏確定の過程は類推として、説得性はあると思います。

> 戒壇之漫荼羅…でも証拠は無い

かつて、ワラシナさんが科学的に放射性炭素による年代測定を提案されたことがあったと記憶します。

もし戒壇之漫荼羅が750年前に実際に作られたものであるとすれば、これは国宝であると見てよいはずです。ですから、是非ともその真偽を科学的に調査するべきであると私は思います。

> 「戒壇の大御本尊」を否定…「日蓮仏法の混乱」という事態しか待っていない

私はこのようには思いません。
また、実際、混乱するとしても、否定されるべきが否定され混乱するのは致し方のないことであると思うばかりです。

ただ、そうなると信じる立場は道標を喪うという危惧はそのとおりでしょう。
しかし、実際、その危惧は始まっています。故に事実認定に基づく新たな信仰の確立がそれを信じ勧めてきたものの責務ではないのかと私は考えているわけです。

406犀角独歩:2003/01/21(火) 12:02

○有師・化儀抄に見る「本尊」観

有師の本尊観はたしかに際だった特徴を示します。

(1) 当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし…未断惑の導師を本尊
(2) 釈尊の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人
  …四依弘経の人師…地涌菩薩
(3) 只十界所具の遊ばされたる所の所図の本尊を用うべきなり、是れ則ち法華経
  …法華経計りに限りて本尊とする

この(1)(2)は共に日蓮を本尊とすることを言います。
しかし、ここでは実は日蓮本仏義は展開されていません。(1)に「未断惑の導師」といい、(2)に「人師」という如く、有師の日蓮観は日蓮=人師という枠組みから出ていません。ただし、「四依弘経の人師」とはその次下に「末法四依の人師、地涌菩薩にて在す」といい、すなわち地涌菩薩であるといいます。この菩薩道の人師は釈尊の因行、すなわち「我本行菩薩道」、同じく菩薩行を本尊としているのが有師の本尊観です。もちろん、ここでは釈尊・日蓮同体論は見えません。

そして、もう一面(3)には「十界所具・所図・本尊…法華経・本尊」という別立ての本尊観を示します。これは興師古写本?を遺す『本尊問答抄』以来の法華経題目本尊論の系譜でしょう。しかし、有師に人法一個思想は見られません。

この人法一個という思想は、恰も石山独一の論の如く石山信徒で思っている人があるようですが、文献で見る限り、この考えは房州我師が先行するのであって、郷門の系譜であることが指摘できます。

では、有師における日蓮と漫荼羅のこの対象はいったい、何を意味するのか。「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」というときの日蓮は、おそらくは日蓮御影本尊を指しているのではないかと私は考えます。重須より、日蓮御影像の背に十界漫荼羅を置く奉安が定まっていた興門において御影・漫荼羅奉安形式に基づいて説明されるのが、日蓮・漫荼羅本尊観なのではないのかと私は読みます。

そして、重要な点、この奉安は人(仏)・法一体を示すものではなく、人=菩薩−因行・法をそれぞれ示すのが本来の意義であったということです。因行−日蓮、文字通りの「人」と漫荼羅という法を示す奉安形式であったのだと、有師の記述からは考えられます。

有師の発想は人師・菩薩本尊、法華経本尊の二本立てであったと知れるわけです。

407犀角独歩:2003/01/21(火) 13:21

○「日蓮本仏」の初出

日蓮本仏論を初めて述べるのも、実は石山ではありません。
文献では『五人所破抄見聞』であるというのが一致した意見です。
ここに

「不軽ト日蓮トハ本仏也。威音王仏と釈迦仏とは三十二相八十種好の無常の仏陀、不軽と上行とは唯名字初信の常住の本仏也」(富要4-1)

とあります。

著述は妙蓮寺5代眼師の著述と言われてきましたが、現在、これを直ちに鵜呑みにする学者はおりませんでしょう。著述年代は富要の文末で見る限り、

「伝写本云
 康暦二庚申年六月四日書畢
 本化末弟日眼在御判」

とあるので、西暦にして、1379年の書と見られると思いしや、この点は実に疑わしい。その理由はまず「康暦二」という年はなく、「天授三」とすべきであるけれど、この年は「庚申」ではなく「己未」です。また、伝写本で、真筆を見ません。

しかしながら、『五人所破抄見聞』というこの書は、誰が一体、いつ記したものかは日蓮本仏義発生の大きな鍵を握っているのは事実であろうかと思います。

なお、伝眼師述のこの書においても、いわゆる人法一個は論じられず、漫荼羅についても独自の見解を示しています。すなわち、

「本仏ヲ貴ム人ハ本国土妙の大曼荼羅ヲ信仰シ奉ル也」

と言います。いわば、本因の菩薩行・日蓮、本国土妙・漫荼羅を以て本箇妙、仏果を合論して得るという伏線があるようにも受け取れます。

いずれにしても、ここに「妙蓮寺・日限」の名を残す以上、この思想系譜を同寺に見ることはさほど蛮勇とは思えません。

となれば、日蓮本仏義は妙蓮寺に緒を見、人法一個は保田妙本寺、そして、一大秘法開合六秘の人法本尊の展開は寛師に、徐々に前説を当宗、批正しながら形成されていったのでしょう。もちろん、これは雑駁な記述であって、実際はさらに詳細な事情がありますが、大まかに言えば、そのように概観できます。

日蓮本仏義は、少しも石山のオリジナルではなく、また、他山に見られる故に唯授一人の相伝でもないことは、しかし、概観できようかと思います。

408犀角独歩:2003/01/21(火) 13:23

【407の訂正】

誤)徐々に前説を当宗、批正しながら形成
正)徐々に前説を踏襲、批正しながら形成

409犀角独歩:2003/01/21(火) 13:26

すみません、もう1カ所訂正

誤)本因の菩薩行・日蓮、本国土妙・漫荼羅を以て本箇妙
正)本因の菩薩行・日蓮、本国土妙・漫荼羅を以て本果妙

410犀角独歩:2003/01/21(火) 15:00

○そもそも本仏とは何か

私は本仏という言葉について、そもそも非常に違和感があります。
この言葉の意味するところがあまりに曖昧であり、かつ石山教学では少なくとも二つの本仏論が混在し、論者がどちらを以て語っているのか不明瞭であることが多いからです。

二つの本仏論とは現石山などで言われる、一つは本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊、もう一つは本仏=釈尊=日蓮の二つです。寛師を学んだ人であれば、寛師教学の至極は後者であることを了解しているでしょうが、現在流通しているいわゆる教学入門書などでしか読んでいない人は前者であると思っているはずです。

次に、そもそも本仏とは何でしょうか。この語彙は既に文句、玄義に見られます。ここでは「本仏・迹仏」の対句で見られ、次いで釋籤では「開權顯實即識迹佛之所從生。開迹顯本即識本佛之所從生」と記されます。誤解がないように記しますが、この場合の本仏・迹仏は同体なのであって、ただ、開顕顕実を迹仏・開迹顕本を本仏といい、通じて釈尊一仏における「顕」れの相違を論じるのみです。

寛師が、こんな基礎を知らないわけはありませんから、いわば、釈尊・日蓮の同体を基本にして、開迹顕本を迹仏・開脱顕種を本仏ほどの意味で論を立てたのであろうと推測されます。いわゆる本種迹脱の伏線です。(断るまでもありませんが「開脱顕種」は意を示すためにここに造語した言葉です)

しかしながら、現行、言われる日蓮本仏というのは、この点とまったく趣を変えているように窺えるわけです。

一体、台学でいうような迹仏を簡んで本仏というのか、あるいは垂迹仏を簡んで本(地)仏をいうのか、あるいは権仏を簡んで本仏というのか、はたまた非仏を簡んで本仏というのは、あるいはそれ以外なのか、釈然としません。時には根本仏を本仏という如く言も見られますが、これでは「心実相・我一切本初」の如くであり、あるいは全知全能の神の如く、本来の仏陀−覚者という本来の意味からも脱線し、聖書の如き絶対者に日蓮を仕立てる如きは、まさに石山歴代の言とも相違するところとなります。

日蓮本仏論を語るのであれば、まずはこの点を整理し、人に披露し、整然と論を宣べるべきであると私は思います。

411犀角独歩:2003/01/21(火) 17:17

石山系譜における「本仏」を探っていたところ、道師の『御伝土代』にその語彙の使用がありました。

「日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の“本仏”なり」

 日蓮聖人の仰ったこと。本地は寂光である地涌の大士上行菩薩は六万恒河沙の上首である。久遠実成釈尊の、最初に結縁し道心を発(おこ)せしめた第一の御弟子である。
 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常に在って滅せず、我れ本(もと)菩薩の道を行じて成ずる所の寿命、今猶未だ尽きず復(また)上の数に倍する本仏である。

先文は上行菩薩を嘆じ、後文は本門教主を嘆じています。ここに「本仏」語が見えます。言うまでもなく、「我本行菩薩道」の引文は寿量品三妙合論中、本因妙を顕すとする文ですから、この「本門教主」本仏は、疑いなく寿量仏・釈尊を指しています。

ところがこれは、いまは日蓮本仏を言う石山にとって、まことに都合の悪い文章であるわけです。それ故、『日蓮正宗要義』では、あろうことか

「久遠実成無作三身 乃至 我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり」(聖典600)
と本因妙の仏といわれるのは、文底観心の重では上行菩薩が久遠実成の三身であることを暗示されるもので、もし教相の本果仏をとるならば「我本行」以下は“必要がない”文となる。(要義251頁)

と、目師から唯授一人の血脈付法の正師と持ち上げる石山4代の文章を添削し、「必要がない」と言い切っています。これが石山がいう唯授一人の正体かと呆れ果てます。
要は歴代の言であっても、現行の教学からして都合悪ければ、「必要ない」と切り捨てることによって成り立っているのが日蓮本仏論である好見本として、ここに提示しておきます。

(注:六万恒河沙は正しくは六万 [河-可*亘] 河沙です)

412犀角独歩:2003/01/21(火) 18:16

さて、もう少しだけ『御伝土代』を。

「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや」

ここに「三身即一の有縁の釈尊」と明確に釈尊の名前が見られます。411に挙がった本仏です。
ここを『日蓮正宗要義』で見ると、

「釈尊が表現として三大秘法抄の人本尊を受けるもので、大曼荼羅能弘能顕の仏、日蓮大聖人を指されている。文によってのみ義を判ぜず、義をもって文を見なければならない。日興上人日目上人日道上人と相伝して御影を仏と拝し、大曼荼羅即日蓮大聖人と拝する信条の本義の上から文を見極めることが大切であろう」(同251頁)

これまた曲解の限りを尽くしています。

そもそも、この文は前文の「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす」を受けるのであって、もし、この「釈尊…日蓮大聖人」と読み替えてしまえば、「法華本門の日蓮は日蓮等の四菩薩を脇士となす」となってしまい、まるで意味をなさなくなります。
それに「日興上人日目上人日道上人と相伝」した血脈付法の“法主”の言を本義の上から読み替える必要が、どこにあるのでしょうか。この本の著述は宗務院であって、歴代ではい。つまり、付法にあらざるものが付法の言を読み替えろと言っているのに等しいことになります。
いったい、道師とは如何なる人物であるというのでしょうか。末の不付僧が読み替えなければならない文章を書いたとは、よくぞ言ったものだと、ここでも呆れものです。

なお、この著述のなかで「御影を仏と拝」すると明言されています。石山僧俗の中には御影を仏像と拝することに異議を唱える人がいますが、少なくとも、ここでの記述ではこのようになっている点は記憶されるべきでしょう。

もう一点。「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」と、道師もまた「二千二百三十余年」であることを記しています。しかしながら、戒壇之漫荼羅は「二千二百二十余年」です。
たしか石山では目師から道師が戒壇之漫荼羅を別付されたとするのですから、道師はなんと、その戒壇之漫荼羅を無視して、他の「二千二百三十余年」と記された漫荼羅を取り沙汰していることになるわけです。

文を「必要ない」と切り捨てたり、「読み替え」たりしなければ、辻褄が合わない教義であると道師を物笑いにしているのが、この『日蓮正宗要義』の該当の記述と見えます。

413犀角独歩:2003/01/21(火) 19:09

昨日、今日と2日間。時間が空きましたので、まとめて少し投稿させていただきました。
が、気が付いたら、こちらはつぶやきすれっどでした。
今後は、それぞれの項目に投稿させていただきます。
管理人さん、すみません。

414今里祐二:2003/01/21(火) 19:38
独歩さん

>>404
>これが日蓮の釈です。故に392に今里さんが言う「色心不ニ…戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はない」などという説明は日蓮とはまったく関係のないものです。

ここは独歩さんと意見を異にしますので、以下理由を述べます。

第一点は『木絵二像開眼事』は木絵二像についての御指南で、大聖人様が顕された御本尊様に対しての記述ではないという事。

第二点は、大聖人様は『日蓮は広略を捨てて肝要を好む』(法華取要抄)と言われるように、肝要を好まれたお方です。
『木絵二像開眼事』の冒頭に『仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。』
とありますが、大聖人様御自身は、可見有対色の三十一相を省略して、肝要である梵音声を御本尊様の文字として顕すことにより、御本尊様を直ちに三十二相具足の純円の仏とされたのではないかと推察しています。
『仏に三十二相有り、皆色法なり。』という事ですので、戒壇の大御本尊様を「色法」と見る考えも成り立つのではないかと考えています。

>もちろんのこと、戒壇之漫荼羅を日蓮が身代わりに残した証拠ありません。

この点はご指摘の通りです。ただ「そうではない」という証拠も無い訳で…。

>なお、今里さんは269において「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だった」と記していたのに、275のみかんさんが「「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまう」という批判によって修正したようで、ここでは「自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束」と言うに至っています。
>つまり、今里さんが269に記した言葉は「日蓮正宗のお約束」とは違っていることを自ら示した結果となっています。

これは、みかんさんからご指摘を受けた時は僕自身まだよく解っていませんでした。ご教示ありがとうございました。その後自分なりに考えた事があるので記してみます。

『下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

「自受用身は本、上行日蓮は迹」と優劣を論じる場合と「自受用報身如来の御當體」と大聖人様を直ちに「自受用報身如来の御當體」と論じる二種類があるのは、大聖人様の御生涯の中での優劣を判じる為ではないかと考えました。
御幼少の頃、蓮長と名乗られていた頃、あるいは立宗宣言された後も、御食事を召し上がっておられる時、用を足しておられる時、等々、いわゆる普通の人間として生活しておられる時は「自受用身は本、上行日蓮は迹」。

それに相対して、出世の本懐を遂げられた時、つまり戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様の大慈大悲の御一念は「自受用報身如来の御當體」そのものであるのではないか、という事から、その時の大聖人様の御一念をそのまま顕した「戒壇の大御本尊」を「自受用報身如来の御當體」というのではないかと考えました。

415今里祐二:2003/01/21(火) 19:38
(つづき)
つまり僕達信徒が帰命しているのは、いわゆる普通の人間として生活しておられる時の大聖人様ではなく、出世の本懐の時・戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様である、ということです。
ただ、出世の本懐の時の大聖人様は、普通の人間として生活しておられる時の大聖人様に依存してしか存立し得ないので、分別として分ける事は出来ても、実際には分ける事は出来ないと考えています。

戒壇の大御本尊様をお顕しになった時の大聖人様の御一念が、本当に「自受用報身如来の御當體そのもの」であったかどうかは、他人にはうかがい知る事の出来ない事であり、証明は不可能です。
またこの事は、いわゆる物質としての戒壇の大御本尊様が「100%大聖人様の御真筆である」という事が証明されても、その戒壇の大御本尊様が「自受用報身如来の御當體である」という事は証明されない、証明不可能という結論になると思います。

ここまで考えて「やはり仏法とは信に始まり信に終わるのだなぁ」と思いました。
もちろん、これは信徒としての僕の考えであり、他人に押し付けるものではありません。

>二つの本仏論とは現石山などで言われる、一つは本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊、もう一つは本仏=釈尊=日蓮の二つです。

僕はこの際、少し強引なこじ付けでもいいので、本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべきだと考えています。
一番肝心な所の師弟子の筋目をあいまいにしている事が、「法主本仏論」と揶揄されかねない宗門・法華講の混迷を招いている原因の一つになっていると思います。
(まぁ、独歩さんのされている提案に比べれば、ずいぶんカワイイものですが…)
大聖人様の事を釈尊に相対し百千万億倍勝れた仏と立てれば「不ニの尊体」と称し管長を大聖人様のごとく拝する悪弊も少なくなると思いますし、また、そのことによって血脈の尊貴が損なわれる事も無いと考えています。

困ったという字さん(はじめまして)、からのご提案もありますので、重ねての議論はスレッドを移動したいと思いますのでよろしくお願いします。

最後に、僕の不徳により、本来楽しいつぶやきの場であったこのスレッドが論争の場のようになってしまったことを謹んでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。

416犀角独歩:2003/01/21(火) 20:23

今里さん:

うん。まあ、一所懸命に頭を捻ったのはわかります(笑)
ここはつぶやきなので端的に2点だけ。

> 戒壇の大御本尊様を「色法」と見る考えも成り立つ

考えは何でも成り立つでしょう。でも、その考えが日蓮によるからこそ、日蓮(正)宗というわけでしょう。今里さんの考えであれば、今里宗になってしまう。日蓮の正しい宗であれば、日蓮に根拠を求めるべきであると言ってきたわけです
私は文を挙げているのだから、今里さんも文を挙げればよいわけです。
例えば私だって自分の考えを延々と記すことが可能ですよ。でも、それじゃ、ジャッジのしようがなくなります。

ちなみに『木絵二像開眼事』では「三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏」という記述があります。これは明快ですね。日蓮が仏像を否定しているなどと少しも見えません。

ですから、同じように、どうすれば、日蓮漫荼羅が日蓮本仏であるか、その根拠を示せば、皆が納得するということになります。

> 本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべき

これは要するに寛師教学全面肯定を覆したと取っていいわけですね。

私は、この掲示板で書いてきて、いつも言っていることですが、前言を覆すことは恥ずかしいことではないと思います。みかんさんのご指摘を受けて考えを変えた、私は立派なことであると思いますよ。

いずれにしても今里さんが日蓮本仏義を宣揚したいと考えたいのであれば、どのような方法が最も効果的か、と言うことです。
自分の考えを書き連ねることなのか、それとも日蓮の言をもって説明することなのか、どちらが説得性性があるか、私は自明であると思うわけです。

まあ、ご健闘をお祈りします。
ここはつぶやきなので、これ以上、突っ込むことはしないことにします。

417アネモネ:2003/01/21(火) 20:37
今里さん

>戒壇の大御本尊様は、大聖人様が滅後の衆生の為に御自身の御身代りとして残されたもので、自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束です。

もはや私には、日蓮正宗のお約束だから、それが正しいんだと信じることはできないところに来ています。そういう思考が組織の論理であり、そのような論理や思考が、果たして本当に教祖の示す教えだったのだろうか、というのがこの掲示板で長く考えてきたところであると思うんですね。
このことはおわかり頂けるでしょうか。
また、何度も書いていることですが、絶対に日蓮正宗は正しいとアナウンスを受け指導されながら、実際にその組織の中で活動をしている人たちの姿に目を向けると、僧俗ともに仏教徒とは思えない心無い姿ばかりがどうしても目につきます。今里さんはお感じになられたことはないでしょうか。私は、そのことが掲示板に参加するキッカケとなり、また私の大きな問題意識でもあるのです。それは日蓮正宗に限らず、現代宗教が抱える最大の問題ではないだろうかとさえ思い、自分に問い掛けてきました。それは同時に、社会問題でもあるとも思うからです。

そしてそのことを、私が意識するよりももっと前から意識を持って取り組まれ、しかも、ただ思索にふけるだけではなくて、体系的に文献を深く研鑚されてこられた方々が、この掲示板に貴重な内容を記して下さってきているわけです。
これまでの掲示板の流れの中で、日蓮正宗のお約束として教えられてきたことが、長い歴史の中、解釈や他門の流儀なども加えられながら、教団の都合でかなり変遷し教祖の教えからおよそかけ離れたものとして、今日に伝えられてきている可能性もあるということがわかってきたわけです。
またその変遷の内実こそ、私が問い掛けてきた組織の論理そのものだったのではないかということにも気づかされます。

つまり日蓮正宗の歴史をひもとくことは、即現代宗教の抱える問題にも通じることだったともいえるわけです。

しかし、そんなはずはないという思いで信じ続ける人もいるでしょう。でも私はその道は選びません。感情的に信じたいという思いに固執して、立証されてわかってきたことに目を背けることは止めました。なぜならば、信じるべきものが教えられていることとは違っているかもしれないからです。そのことを、重大に受け止めようと思いました。もちろん間違っていないかもしれない。その可能性も残っていますが、それだけでは私はもはや絶対に信じるという気にはなれないですし、当然、そのわずかな可能性に賭けて、これが成仏の道だと断定して人に語ったりはしません。「信じている」という感情論でもって、人の大事な人生を左右することはしたくないと思っているからです。

組織の中では、お約束が絶対ということで通ることでしょう。しかし、この掲示板ではその言葉だけでは何の意味も力も持たないわけです。その言葉に納得させるだけの力を持たせたいならば、なぜそれが絶対と言い切れることなのかの根拠を示さなければならないという、非常に厳格なところにまで議論はきているわけです。
もちろん、これは掲示板で明文化されているルールなどではありません。今里さん流に自由に書いてかまわないのです。しかし、証明できないことを断定する表現で記された場合は、どうしても突っ込みが入ってしまうのは避けられません。突っ込みを回避しようとつぶやきスレッドに書いても、それを黙って見過ごすわけにはいかない人はたくさんいると思われます。

418アネモネ:2003/01/21(火) 20:37
(つづき)

>つまり「木製の物質」である所の戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はないのです。

この一文はとても理解できないのです。あの戒壇の大御本尊様と称している板曼荼羅を離れて、大聖人の心はないということでしょうか。そう指導されているとしても、私はそれをそのまま信じませんし、疑問に思うところでもあります。あの板曼荼羅に固執して離れない多くの人たちの人としての振る舞いそのものが、真偽を証明しているようなものだという見方だつて出来ようかと思われます。
しかし、この板曼荼羅については、菊水護国さんが記されている

383>当宗は本来、器物・物質信仰ではありません。その根本に有る法を拝しているのです。

こういうことであるならば、私も受け入ることは出来るでしょう。
しかし、あの板曼荼羅でなければならないという日蓮正宗の教義に関しては、それが本当に日蓮の意図したところなのかどうか、疑問を抱いています。


>僕は自分が地獄に落ちることはないと確信を持っています。

この点については、個人的な信仰観でしょうから、私の意見はこれ以上は挟まないことにします。

>それでは宗教って、どういうものなのですか?

私の宗教との関わりは、小学校2年生のときからですから、人生の大半の時間の流れの中に、信仰があったわけですね。オフ会でもお話した通り、キリスト教でしたから、今里さんから言えば外道の信仰です。しかし、絶対を理屈抜きで信じるという行為は、どちらも同じでした。だからこそ今里さんは、「宗教とはそんなもんでしょう」という言葉も出たものでしょう。しかしこの発言、日蓮正宗だけが正しいと言いながら、宗教とはそんなものだと、外道となんら変らないことを認めていることにもなりはしないでしょうか。この時点で今里さんは、潜在的には日蓮正宗といえども、結局は外道と同じだと思っていることになるかといえます。
まあ、それはそれとしても、ともかく私は、その当たり前に思ってきた「宗教とは」というそのあり方が、果たしてそれが本当にそうなのかということを、掲示板に参加した頃から考え続けてきています。
考えているところですので、こういうものですというお答えはできません。

宗教は支配者によって、常に利用されてきた歴史の側面もありますね。そのことが本当の教祖の教えを捻じ曲げられ違ったものになって今日に伝えられてきている側面があるわけです。日蓮正宗は750年間正しく教義を伝えてきたということからして、疑わしいわけです。だからこそ教祖の真の教えとは何だっただろうかという探求が、いま求められることであり、その探求の先にようやく、宗教とは、また仏教とは、ということが言えるのではないでしょうか。

419アネモネ:2003/01/21(火) 20:38
(つづき)

>成仏できると信じています。

お気持ちはわかりますが、しかし「信じている」では人の人生に対して責任を持っているとはいえないですね。感情論に逃げているだけです。
「宗教とはそんなものだよ」と納得してその先は一切考えない。証明できない真理もあるからと納得してその先は一切考えない。この一切考えないというところが、今里さんのいう「信心」ということになっているわけですね。ところが、かつて、みかんさんと独歩さんが仏教における「信」について、貴重なことを記している箇所がありました。そこでは仏教の「信」とは、私たちが今日当たり前に思っている「信」とは、かなり違っているものかもしれないということが示唆されていたかと思われます。
成仏を求めて「信じている」を通そうと思うならば、まずは仏教における「信」とは何かという問題を自分に問い掛けてみられることも大事ではないでしょうか。わかっているつもりのことが、実は全然わかっていなかったということ、よくあることです

>これは「必ず文証を示す」という、この板のローカルルールのようなものを破った、という事ですか?

いいえ、私はそのようなルールで意見を挟んでいるのではありません。自由に発言なさるのは構わないと思っています。しかし私は、自分の持つ問題意識において、そこに記されている内容に問題ありと判断したら、レスとして意見を挟ませて頂きます。そして今里さんの考え方、そして私の考え方がたとえ平行線であっても、その違いにおいてどちらがどうかということは、個々のロムされている方々のの内心の自由なご判断にお任せするところです。

>僕は大聖人様の御真筆だけを文上のままで読んでいけば独歩さんのような結論に成らざるを得ないだろうという事は解っていたので、
「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」という事を言いたかったのです。

結局今里さんは、目先の議論の展開のみに囚われたところで、レスを繰り返してきたということでしょう。つまり大局的にものごとを捉えておられなかったのだと思います。
今里さんは、まず結論ありきで自らを縛り、そのことだけのために、突っ込みを避けたり、質問を交わしたり、罠を仕掛けたり、言い訳をしたりとしてきたといえるのではないでしょうか。しかしそれでは、議論は堂々巡りになるばかりでした。
考えてもみて下さい。この場で大事なことは、真実は何であるかの探求だと思います。証明されない結論は、この場では真実の結論だとはみなされないわけです。つまり、今里さんの信じている動かし難い結論が、必ずしも日蓮聖人の真の教えであるとは言い切れないということです。そのことをどのように自分の中に受け入れるかは、それは個々の自由です。感情的にそれでも信じると受け止める人もいるでしょう。しかし、議論の場にその思いを持ち出されても、いつまでも堂々巡りする不毛な議論になるだけなのです。
「信じている」は感情論だということ、そこをまず認識して、感情論に逃げないところで議論をして頂きたいと思います。感情論に入ると、真実が見えてこない場合が多いということ、おわかりいただきたいと思います。
しかし、内心において感情的に信じつづけるということ、これは自由なんです。そのことまでは私は立ち入らないつもりです。

420アネモネ:2003/01/21(火) 20:40
(つづき)

ここではロムの方も含めて、みんな真実を求めているといえます。真実を求めているが故に、科学的な分析から証明されてしまったことからは目を反らさない姿勢を大事にしているのでしょう。そうした過程においても、正しいと信じていたものと辻褄が合わなくなってきているわけです。
ですから、まず今里さんの信じる結論は、否定するのではなくて横に置いておいて、なぜ独歩さんが御真筆にこだわるのかということを、とことん追求して考えてみられてはどうでしょうか。そのための質問ならばどんどんなさっていいと思います。ロムの方々にも再認識のうえでも大変勉強になることと思われますね。
くれぐれも目先の感情論のために、相手を罠にかけようとする行為は、ご自分が損をするだけですから、止められたほうが良いでしょう。

>僕の文章力が未熟で、不快な思いをさせてしまったようです。申し訳ありませんでした。

考えを文章に著すということは、これは本当に大変なことです。またここの掲示板には文筆業を生業としている方も多くロムされていますから、どうしても言葉の言い回しには厳格になります。言い回しひとつが、死活問題になることを心得て書き記しているわけです。
ですから、そのような人から今里さんの文章を見るならば、「信じている」思いだけで断定して記述することの危険性がどうしても目についてしまうのです。それは見逃すことが出来ないのです。
ネット社会において趣味であれ仕事であれ、文章を公表するということはもう立派な言論活動を意味します。そこにはプロも素人もなく、言葉ひとつが命取りにもなるというわけです。素人だから見逃されるということにはならないのです。それが開かれたネット社会の危険性でもあるわけです。ですから、今里さんご自身のためにも、くれぐれもこのことは心得ておかれることを申し上げたいと思います。

>僕はこの際、少し強引なこじ付けでもいいので、本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべきだと考えています。

要するに、これが今里さんの「案」というものですね。しかし教義が信徒の思いから出る「案」で決まっていくというのもおかしなものかなと思いますが。

>一番肝心な所の師弟子の筋目をあいまいにしている事が、「法主本仏論」と揶揄されかねない宗門・法華講の混迷を招いている原因の一つになっていると思います。

まさにこのように宗門組織の秩序のために、教祖の教えを超えて、教義は変遷してきたのでしょう。そのように個々の人間の幸福よりも、組織の秩序が優先され、それを守ることがあたかも仏法を守ることのように教えられて、大胆な新しい解釈を教祖の教えとして正当化する必要が生じ、偽書が生まれてきた。
偽書成立のシュミレーションを、わざわざ今里さんが示されたようなものではないかと感じます。

スレッドを変えるというご提案ですが、仏教における「信」について議論するスレッドを立て、そこで論じ合うことが良いのではないかとご提案いたします。

421犀角独歩:2003/01/21(火) 21:00

416のちょっと、補足です。

『法華取要抄』の引用がありましたが、その少し前を

広略を捨てヽ要を取るや。答へて曰く、玄奘三蔵は略を捨てヽ広を好む、四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什三蔵は広を捨てヽ略を好む、千巻の大論を百巻と成せり。日蓮は広略を捨てヽ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり

つまり、

広・玄奘・四十巻の大品経を六百巻
略・羅什・千巻の大論を百巻
要・日蓮・上行菩薩所伝の妙法蓮華経

しかし、これは本尊について論じるところではありません。なぜならば、この『法華取要抄』に「本門の本尊と戒壇と題目の五字となり…本門の三つの法門之を建立」の明文が見られます。この三つの法門については、より具体的に、『報恩抄』に

「三つあり…一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし」

とあり、「本門の教主釈尊を本尊」は日蓮の取り定めるところです。殊、本尊に限って言えば、この明文ははずせません。『法華取要抄』の述作は文永11年(1274)5月24日53歳、『報恩抄』は建治2年(1276)7月21日55歳です。

少なくともこの時期に日蓮は本尊・教主釈尊、題目・妙法蓮華経を分別して論じるのであって、引用されるところの(肝)要は、この題目を論じたと以外は読めません。

ですから、「三十一相を省略して、肝要である梵音声を御本尊様の文字として顕す」という想像は残念ながら、日蓮の真跡が指示しないことになります。

422犀角独歩:2003/01/21(火) 22:03

アネモネさんの提案の「信」について、新スレッドを立てていただくことに賛成です。
あと、

日蓮本仏論は 49の『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
現石山教学は 27の現在の日蓮正宗の教義について
板漫荼羅は  4の本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

と分散しましょう。まあ、できたら、過去ログは読んでもらうと話はスムーズなんですが、たいへんでしょうかね。

403の困ったという字さん(はじめまして)のご提案は4に入るかと。
なお、みかんさんへの私の質問はちょっと個人的ですから、メールで返信をいただくということで(笑)

マインド・コントロール問題も取り上げたいのですが、議論が止まっているので、続くようなら管理人さんにお願いする、こんな感じでどうでしょうか。

まあ、実りある議論をいたしましょう。

423犀角独歩:2003/01/21(火) 22:05

あと、無徳さんとsatさんの議論をなんだか、邪魔してしまったようで申し訳ありません。この件については、ご当人に案を出していただくのがよいと思います。

424無徳:2003/01/22(水) 00:04
独歩さんお気遣いありがとうございます。

ちっとも気にしておりません。satさんと有意義な意見交換が出来ました事を
感謝しています、ありがとうございました。

尚、私も日蓮本仏論者としては今里さんに引けを取らない心算であります(笑)

だた、日蓮本仏論に関しては別スレッドで意見を出し合いましょう。

と言いながら、一寸だけ意見を言わせていただきますと、私の想像ですが独歩
さんが日蓮本仏論に否定的な拘りを持たれる大きな理由として、法華講時代の
苦い経験が有る為ではないかと思われますが、もし間違っていましたらご寛恕
ください。

特に総本山内における僧侶方の権威主義的な在り方に強く反発なされたのでは
ないかとも想像されます。私も総本山において日顕猊下への御目通りと称する
儀式みたいなものに列座したことがあります。

なんと大時代的な所業であろうと呆れた経験があります。さらには一般僧侶の
信徒に対する見下したような態度にも苛つかされました。全ての僧侶がそのよ
うな態度とは言いませんが昔から登山の折々に感じたことでした。

もし、日蓮本仏や唯授一人と言った信仰に於ける「信」の置き処とも言うべき
確信が、権威主義に繋がっているとしたらそれは悪しき共同幻想であり迷妄と
言わざるを得ません。

私は日蓮本仏論が絶対の真理のように解釈されているとしたら、それは間違い
であり誤謬であろうと思います。そもそも、仏教に限らず宗教上の教理は所謂
科学的な真理観とは位相を別にするものであり、基本的なパラダイムの違いを
考慮に入れなくては論議が噛み合いません。

もっとも、こんな事は独歩さんにとっては百も承知のことであり「仏に説法」
と言えましょう。

しかし、独歩さんが日蓮御坊の遺文に日蓮本仏論の根拠(証拠)の全てを求め
ようとする在り方は、確かに一つの正当なる道ではありますが文献学的な方法
論との差異が明確でない感じがしますが如何なものでしょう。

後日別スレッドにて、私にとっての日蓮本仏論として試論を述べてみたいと思
います。

425犀角独歩:2003/01/22(水) 01:01

無徳さん:

お言葉、たいへんに嬉しく存じます。

> 私も日蓮本仏論者としては今里さんに引けを取らない心算であります(笑)

ええ、承知しております(笑)

> 特に総本山内における僧侶方の権威主義的な在り方に強く反発

もちろん、その気持ちはありますが、これと本佛義批判は別です。
私は、日蓮が心の底から釈尊を思う熱い心に胸打たれているのです。

> 私は日蓮本仏論が絶対の真理のように解釈されているとしたら、それは間違い

なるほど。さすがのご賢察と拝します。

> 独歩さんが日蓮御坊の遺文に日蓮本仏論の根拠(証拠)の全てを求め
ようとする在り方は、確かに一つの正当なる道ではありますが文献学的な方法
論との差異が明確でない感じがしますが如何なものでしょう。

ええ、仰るとおりです。
実は私ほど、相伝文大好き人間もいないと自負しております(笑)
しかし、この事実に気がつかれる御仁は少ないのです。
真跡遺文に基づく追究など、初歩の初歩、始まりの始まりであることは百も承知しております。私とて、それほど、馬鹿ではありません。

> 後日別スレッドにて、私にとっての日蓮本仏論として試論

楽しみにお待ち申し上げております。

今回のやり取りに就き、決して言葉を挟まず、見守ってくださった懐の深さに深く感謝申し上げます。

428菊水護国:2003/01/22(水) 12:56
第156回国会開会式(平成15年1月20日(月)(国会議事堂)
「本日,第156回国会の開会式に当たり,この席に親しく臨めないことを,誠に残念に思います。 国会が,永年にわたり,国民生活の安定と向上,世界の平和と繁栄のため,たゆみない努力を続けていることを,うれしく思います。国会が,国権の最高機関として,当面する内外の諸問題に対処するに当たり,その使命を十分に果たし,国民の信託にこたえることを切に希望します。」
以上の言葉を皇太子殿下が御代読されました。殿下が摂政になられる可能性もあるそうです。さて今上の帝におかせられましては、何時までも御身、御大切に御健勝であられることをお祈り申し上げます。菊水護国。

429問答迷人:2003/01/22(水) 20:14
124686 ゲットしました。

430問答迷人:2003/01/23(木) 14:00

125030 ゲットしました。

432問答迷人:2003/01/24(金) 20:58

125567 ゲットしました。

433問答迷人:2003/01/25(土) 22:49

Leoさん

お久しぶりです。どうぞごゆっくりなされて下さい。

125926 ゲットしました。

434Leo:2003/01/25(土) 23:13
問答迷人さん

ありがとうございます。よろしくお願いします。

435モモ:2003/01/27(月) 01:39
上野博物館の大日蓮展に行ってきました。正宗内ではあまり今回の展示については何もコメントがありませんでしたが、
立正安国論と観心本尊抄(両方とも千葉の中山法華経寺にある)の真筆が拝見できたのはとても良かったと思いました。
貞観政要の真筆もありましたが混んでて良く見れませんでした。あと日蓮大聖人真筆の大きな曼荼羅(名前は失念しました)も印象に残っています。
一塔二尊四士の仏像も拝見できました。あと金文字の法華経など。以上の展示が印象に残っています。

しかし、今回は日興門流の展示はなかったようです。日興門流以外の上人さん達の絵像もありましたが、正直言ってあまり興味がありませんでした。
あと日蓮大聖人の年表もちょっと見てみましたが、大事な弘安2年10月12日の本門戒壇大御本尊建立が書いてありませんでした。世間的な大聖人の見方はこんなものかな、というのが正直な感想です。
大石寺からの出品もなにもなかったようです。もっとも大石寺では大講堂の展示で諫暁八幡抄の真筆(のレプリカ)があったのでそれはそれで良かったと思います。

436問答迷人:2003/01/27(月) 09:51

126506 ゲットしました。

438困ったという字:2003/01/27(月) 20:20
>435のモモさん
>大石寺では大講堂の展示で諫暁八幡抄の真筆(のレプリカ)があった

花押はありましたか、それともなかったですか?

439:2003/01/28(火) 13:53
127000ゲット!

440モモ:2003/01/29(水) 02:40
そうです。文字曼荼羅の名前は「臨滅度時」です。

諌暁八幡抄の花押まではちょっとわかりません。たぶん巻物の中に隠れていたと思います。

441問答迷人:2003/01/29(水) 22:21

127514 ゲットしました。

442問答迷人:2003/01/31(金) 10:20

128000 GET!

443一等:2003/02/02(日) 03:15
壊れてませんか?

445問答迷人:2003/02/02(日) 09:09

一等さん

>壊れてませんか?

何か、不都合がありましたでしょうか?


128616 ゲットしました。

447問答迷人:2003/02/03(月) 17:14

129060 ゲットしました。

448一等:2003/02/04(火) 17:06
>>445問答迷人さん
2/1に、ほとんど投稿がなかったのでそう思いました。大変失礼しました。
(こちらのPCが調子悪かったのかもしれません)

449犀角独歩:2003/02/05(水) 21:49

私もやっと大日蓮展を見てきました。
感想としては「つぶやきすれっど2」にワラシナさんがお書きになっている点を「なるほど」と思ったものです

臨滅度漫荼羅の前に小一時間おりました。
何度も表装されたのでしょう。周囲が損なわれているのは、むしろ、大切に表装を繰り返されたためなのかと思いました。

しかし、それにしても、真筆の漫荼羅の何とも優美なことか。

あと、『立正安国論』をあれだけの量を展示していたのを、少なくとも私は初めて見ました。ここだけでも1時間以上はいました。『本尊抄』が少ししか拝せなかったのは残念でした。

日蓮の文字の迫力の前には、それ以降の作品など、どんな著名な芸術家でも色褪せていました。

私は個人的に感慨を懐いたのは、あれほど大きな釈迦涅槃図を見ても、墨一色の日蓮入滅図のほうがはるかに胸を打ったことでした。やはり、自分は日蓮を崇敬しているのだと改めて再認識しました。

あと、余談。
先のガンダーラ・マトゥラー仏像展の時も同じ光景を見たのですが、国立博物館の手前の公園で、上野よみがえり会というキリスト教の一派がホームレスを集めて賛美歌を歌っていました。ざっと数えて400名以上いました。礼拝のあとに食事でも配るのでしょうか。
閲覧を終えて、その場所に戻ると3人の床屋さんがホームレスの髪を刈っていました。
その前を形ばかりの袈裟、毛糸の帽子をかぶり、スニーカを履いた坊さん?が何事も見えないように通り過ぎていきました。ボランティアと目する人たちと残っているホームレスの人がにこやかに話している横を、です。

それと展示との対比、私は複雑な思いを抱きながら、その場を去りました。

450みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/07(金) 07:24
>>364 さかなこさん
> 基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて安い本

御書の概説書みたいのがあるのを忘れてました。

『御書を学ぶ人のために』(第三文明社 2000年 1000円)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476061648/

小林・河合『御書と鎌倉時代 上・下』(第三文明社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476060838/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476060846/

『御書と鎌倉時代』の方が内容的には、良い本だと思いますが、『御書を学ぶ人のために』のほうが、安いし読みやすいとは思います。んが、御本仏がどうのとか、ウソもいっぱい書いているので、そこは自分で判断する必要があります。
あと、偽書とか真偽未決について明記していないので、そこも自分で注意する必要があります。

451タロウ:2003/02/07(金) 17:38
こんにちは。
偽書・真偽未決御書について、たとえばこの御書は、身延に真蹟がある」など
詳しくわかるHPをご存知でしたら、教えていただけませんか?
以前は有ったのですが閉鎖され困っています。よろしくお願いします。

452さかなこ:2003/02/07(金) 23:03
みかんさん>

どうも。ウソが見ぬけない私にはちと難しい本かもしれませぬ。。汗

そういえば以前、ご紹介して頂いた「日蓮大聖人御書辞典」が家にありました。

453みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/08(土) 14:46
>>451
タロウさん
「詳しくわかるHP」というのは、どこのことでしょうか。日蓮正宗法華堂にあった、各遺文集・御書全集の目次を校合したcsvファイルのことでしょうか。あれなら私は保存しています。

さて、そういうHPはちょっと知らないのですが、基本的には、遺文集の目次を見れば(どの遺文集でも)、真跡・古写本がどこにあるかは書いてあるので、それを参考にしてください。

たしか小林正博氏の本に、御書の信頼性を、A,B,C,Dにランク分けしたものが載っていたような気がしますが、どの本かちょっと覚えていません。たぶん、『日蓮大聖人の「御書」をよむ』(第三文明社)だったような気がします。手元にないので、確認できません。

454タロウ:2003/02/09(日) 12:26
みかんさん こんにちは
膨大な量の、「御書」。全ては読めないかも。しかし真蹟だけでも読もうと思っています。
>遺文集の目次を見れば(どの遺文集でも)、真跡・古写本がどこにあるかは書いてある
そうですか。過去ログに、確か「昭和なんとか定本」と言う本のことが書いてありましたが
ちょっといまあたれません。この本でも良いでしょうか。

455みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/10(月) 18:02
>タロウさん
『御書』は何をお持ちですか。学会版の『御書全集』『編年体』、大石寺版の『平成新編』のいずれかをお持ちで有れば、それで良いと思います。
本当は注釈付きとか、現代語訳つきの奴の方が、最初は良いです。

『昭和定本日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺)は、3万5000円ぐらいしますし、市販してないし、漢文は書き下してないし、日蓮研究者以外には必要有りません。日蓮研究者はこれ持ってないとまずいですが。
もし『昭和定本』がどうしても欲しいなら、日蓮宗新聞社に電話すれば買えます。(03-3755-5271)

456タロウ:2003/02/10(月) 18:24
みかんさん
3万5000円じゃない方のを買ってみます。(笑)
どうもありがとうございました。

457犀角独歩:2003/02/12(水) 05:35

学会を含む石山系心というのは奇妙であると思う。漢文を難しいという。教学といいながら、漢文原典をオミットするからだ。

ところが、朝晩、漢文のお経を唱えているのである。そして、その意味もわからないのだろう。学会を含む石山系信徒には、漢文は唱えるには唱えるが意味のわからないお呪いなのだろうか。

その意味のわからないお呪いを、これまた、漢文だけで書かれた漫荼羅本尊に向かって唱え続けている。題目の「南無妙法蓮華経」にしても漢文である。それなのに、漢文はわからない、意味がわからないと言う。たぶん、私が引用する漢原文など、多くの人は読み飛ばしていることであろう。それが信仰の根幹をなす一念三千なるものに係るものであっても、漢文となれば途端に拒絶反応が起こるのだろうか。

意味がわからないけれど、信じることが大切だというわけなのだろうか。
私は意味のわからないものは信じない。信じることと覚ることは同時であると思うからだ。各人が勝手に信仰と思っていることは“わからないことを思い込むことを信じること”と錯誤しているのに過ぎないと思うのだ。

…日はまだ昇らない眠れない朝を迎えて、私はそんな有様を思っていた。

458犀角独歩:2003/02/12(水) 05:50

「意味のわからないものは信じない」
こういうと、学会を含む石山系信徒は、こういうだろう。

「そんなはずはない。今、目の前に、コップにつがれた水がある。それを疑わず、飲むのはそれが毒でないと信じているからだ」

折伏と言われる勧誘でよく使われるトーク・テクニックだ。
けれど、私はそのコップの水を毒でないと信じているから飲むのではない。経験から、そのコップの中の液体が安全であると思うから飲むに過ぎない。この経験の蓄積から得る安全認識もまた、「信」の結果とすり替えられる。人間は信じなくとも行動することも、生きていくこともできる。仏・法の崇敬も元来、直接的に信仰と呼ぶものではなかった。そんなことを考えようとしたのが「仏教における信」のスレッドであった。しかし、無条件で信じ込ませることによって利益(りえき、りやくではない)を挙げてきた集団と指導者にとって、斯くなる考えは眉を顰める被支配者の雑念ととらえたいであろう。

漢文の意味がわからなくても有り難がって支配され、言われたとおり行動する烏合の衆であるほうが都合が好いからだ。意味のわからない漢文を日々唱え、有り難がっている人々が、漢文原典に振り向きもせずに、自信満々でいられるのは、そんな支配者の罠に易々とはまり続けているからに他ならない。何故ならば、原典から理解されて、いちばん困るのは常に集団とその指導者であるからだ。

459犀角独歩:2003/02/12(水) 11:46

漢訳仏典教学は終焉を迎えた。これは間違いのない事実である。
ただ、現在もそのような信仰が可能なのは、偏に隔離対策が成功しているからに他ならない。恐怖と功徳、選民思想で糊塗すれば、肉の付いた歯が700年以上も生き続け、今も成長しているなどという嘘も罷り通る。

梵本原文と漢訳経典が違っていようと、その漢訳経典によって組み立てられた教義の絶対性にしがみつく。しかし、しがみついているのは自分自身の執着へ、だろう。

そして、梵本原典は、というと、これまた、シャキャムニの直説とは言い難いようだ。では、シャキャムニの直説探しに時間を費やすことが賢明なのであろうか。ここで言う直説とは真理とか、法とか言われるものだ。

結局のところ、シャキャムニはそんな真理だ、法だと言われるものを言語化してはいないのだと思う、「正しい教え」、「真理」に類する発言はあったろう。それはシャキャムニが実感した、いわゆる悟りというものをそのようが語彙を以て説明したのに過ぎない。真理という語彙はしかし、真理そのものではない。

そんな言葉の限界をシャキャムニは知っていたろうと思う。そこで示せたのは、ではどうすれば、その真理にいたれるかという方法の提示であったろう。それが修行方法の提示ということであった。修行方法を語った言葉・経典に霊力があって願いを叶えるわけではない。その方法に則って修行をするから成果として真理、法にいたる悟りを得られる可能性があったのに過ぎない。

偶像崇拝というキリスト教側の批判があるが、つまるところ、言語化されたものでさえ、言語という偶像である。言語化されたものは言語であって、そのものではないからだ。その意味では聖書も偶像ならば、経典も偶像である。だから、捨て去るというのではない、限界を知るということだ。

生を得ることは天文学的な確率で、胎内では、生物数十億年の進化を追体験し、そして、わずか100年に満たない時間を与えられる。火花の煌めきよりもさらに短い一刹那の出来事である。

その間に、人間は生まれ苦しみ、老いて苦しみ、病んで苦しみ、死に苦しむ。
愛するものとはやがて別れ、憎みものと会うこともある。四苦の限界を持つ生物は叶った願いもやがて潰え、考えあぐねる身心はむしろ苦しみを生じさせる。

しかし、私はいま生きていることを奇跡であると思う。
この奇跡からすれば、宗教団体が提供する奇跡物語など、一切は色褪せて見える。
奇跡は自分が今生きている現実そのものであるからだ。

460いちりん:2003/02/12(水) 11:55
独歩さん 
まことにもって同感です。

461さかなこ:2003/02/12(水) 13:11
>>458

>「そんなはずはない。今、目の前に、コップにつがれた水がある。
>それを疑わず、飲むのはそれが毒でないと信じているからだ」

私はよく「構造を知らなくてもテレビを見ることができる。テレビを
見るためにはいちいち難しい構造を知る必要はない。信心もそれと一緒だ」
と言われます(笑)

463五月雨:2003/02/12(水) 14:19

>考えあぐねる身心はむしろ苦しみを生じさせる。

そうなのでしょうね、考えあぐねている今の私の状態です。
苦しみしか生じないものであれば、それは人生の無駄になるのでしょうね。
宗教が無くても生きていけます。もしかしたら、その方が楽なのかもしれません。

464いちりん:2003/02/12(水) 14:24
>神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、
 自分に変えられることは変える勇気と、
 そしてそのちがいがわかるだけの知恵をお与えください」

ほんと、いいことばですね。
智慧というのは、「変えられることと、変えられないこと」を識別する力をいんだなあとも思いました。
わたしたちは、変えられないことをなんとかしようと頑張って、そうして苦労してしまうわけですけど。いや、苦労することも意味があるわけだけど。

でも、ああ、これは受け入れればいいんだなあ、ああこれは勇気を持って変えていけばいいんだなあと、穏やかにものごとに対処できること、それがひとつの宗教的な境地なのかもしれませんね。

そうして、わたしが尊敬するフランチェスコというキリスト教の聖者がいますが、その方の祈りのことばです。これもすばらしいです。有名なので、皆さんご存じだとは思いますが。。


平和を求める祈り 

主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい

憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを

分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を

誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を

闇に光りを
悲しみのあるところによろこびをもたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを

わたしが求めますように
わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ

自分を捨てて死に
永遠の命をいただくのですから

465五月雨:2003/02/12(水) 14:38

>平和を求める祈り 

主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい・・・

このことばはところどころ知ってはいましたが、全文を読んだのは初めてです。
いい祈りのことばですね、感動しました。

意味の分からない勤行要点で21年勤行してましたが、こんな感動を感じたことは無かったです。

意味を知る、分かるということは大事ですね。
勤行要点の意味することが分かっていれば、感動もあったかもしれないです。

いちりんさん、素敵なことばを有り難うございました。

466犀角独歩:2003/02/12(水) 15:55

マイケル・J・フォックスが書いた言葉は仏教であると私は思いません。
仏教であれば、神などに祈ったりはしないからです。ひたすら、自分の精進のなかで、しかし、獲得されるところが、ややフォックスと見かけばかりが似通っているように見えるだけでしょう。

しかし、仏教がもたらすものは平静ではなく平安であり、それは神と言った絶対者に与えられるのではなく、自らが至る結論です。仏教は絶対者の介在など必要としません。そして、絶対者へ何ものも期待しません。それだけにフォックスの言葉以上に徹底されているのだと私は思います。

467五月雨:2003/02/12(水) 16:04

言葉足らずでしたね、神様の部分はなんでもいいと思います。
そして仏教に通じると訂正致します。

468犀角独歩:2003/02/12(水) 16:22

絶対者も期待しない、死後の世界も望まない、もはや、救済すら不要の、あるがままのすべてを受け入れる境地には、何ものも、遠く及ばないと思えます。

469五月雨:2003/02/12(水) 16:34
>468

私は元より神など信じていませんから、仏教を学ぶ者として
マイケルの言葉を仰る通りに受け止めました。

470みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/12(水) 16:37
にょ。

独歩さん、五月雨さんにマイケルの「平安の祈り The Serenity Prayer」(アルコホリックアノニマスが使用)を紹介したのは私ですし、これが仏教で、これ以上何も要らないと言ったのも私なので、あとでレスします。

わたしは神は要らないですけどね。仏も要りません。本尊も要りません。

おっしゃるように、あれになったら何も要らないんですよね。仏も要りません。ただあるようにあればいい。
あのあとは、そういうザッハリッヒ(Sachlich)なありさまです。それが仏教です。

そうなったら、ただ生きれば良いんです。

471五月雨:2003/02/12(水) 16:46

>470

みかんさんに教えては貰いましたが、それを読んでの感想は私の感想です。
どんな感想を持とうと自由でしょう。

472犀角独歩:2003/02/12(水) 16:50

みかんさん:

私の言いたかったのは457〜459です。
フォックスのことはどうでもよいのです。

ただ、いちおう記したのは、神に与えられることを望み、死後の昇天を望む人たちが、受け入れる・平安などということは、まだ不徹底であり、解脱、涅槃には遠く及ばないとだけ言いたかっただけです。その手前のものと混同されては誤解が生じると思ったので、敢えて付言したまでです。

473犀角独歩:2003/02/12(水) 16:51

最後に近づきながら、また間違えました。

誤)受け入れる・平安などということ
正)受け入れる・平静などということ


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