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創価学会法華講正信会顕正会妙観講等はカルトっぽいか

1管理者:2002/09/29(日) 14:11

スレッドテーマの提案がありましたので、活発な議論を期待して、スレッドを立ち上げます。提案文は以下の通りです。

『富士門流団体の一部がまるでカルトまがいの勧誘などしていることに真剣ですが、独立スレの提案をしたところ、興味深い、との反応がありました。しかしこれらの団体を実名で指摘とかすると名誉毀損とか誹謗中傷とか出てきかねないと思うのです。また、教義とかの論争にもなってしまうのである程度ルールを設けてやりたいですけれども。』

なお、このスレッドについても、書き込みは当掲示板のルールに基づいて行って下さい。

2やーこ。:2002/09/29(日) 21:12
ツブヤキすれっどに引き続いて、、といきたいところですが、インターネット界で今、大変な所なので順番違いでレスします。
URLは携帯からなので後で載せますが、大御本尊様に信伏随従しよう、とホームページ、メーリングリストに訴えた今泉氏が、それらを元にしたげいか様への手紙が原因で破門になりました。
このホームページ、メーリングリストは実は多くの僧侶、様々な富士門流の方が注目していました。
最近、決定的な通知書が届きネットで公開されましたが、アクセス数が多いのかそれとも外部からの圧力なのか、見ることが出来ません。(続)

3やーこ。:2002/09/29(日) 21:21
げいか様に信伏随従しよう、という風潮があったので、今泉氏は手紙をしたのですが、何とげいか様本人から電話があり(笑)、あれからその風潮は止んだものの、ゾンビのように復活したらしく、その後も様々な指摘ややりとりがあり、今回の破門になりました。
その他三十万登山の重複についても二十 八日の指摘についても言葉は多少汚いものの、多いに盛り込まれました。
げいか様の支持者が反論のメールがあったものの、今泉氏の完璧な指摘に多くの支持がありました。
それだけにとどまらず、メールで数多くの人を入信させました。(続く)

4やーこ。:2002/09/29(日) 21:31
この今泉氏については、かなりの信憑性もあります。
最後の所属寺院の前に、かつて東京第二地方部のある寺院に所属し、ある日のこと、御講中に哲学の本を読んでいた青年部を叱った。その青年をのちに立派な信仰者に育てました。
その青年はこのことなどを地方部大会の体験発表で紹介しました。私もその場にいあわせたからです。
私の尊敬出来る方でありました。
今回の破門に、周囲は驚いているようです。
その後、この破門劇をネットで公開するという荒業をやってのけたので、こっそりと書きこんでいる僧侶が、(続く)

5匿名:2002/09/29(日) 21:31

通告書

日蓮正宗法運寺信徒 今泉秀彬

 今般、日蓮正宗宗規に基づき、貴殿を信徒除名処分に付したので、ここに通告す
る。
 貴殿は、平成八年頃より本宗管長日顕上人宛にたびたび書簡を送付してきた。
 本年も三回にわたって日顕上人宛に書簡を送付してきたが、八月一七日付書簡
及び同封添付のメーリングリスト(ML)の書面において、貴殿は、日顕上人を悪し
様に誹毀、讒謗し、かつ侮辱する言辞を繰り返した。
 貴殿の右行為は本宗宗規第二二八条第一項三号及び一〇号に該当するので、貴殿を
信徒除名処分に付すべきが相当と判断した。
 そこで、本宗宗規第二二九条第一項に基づき、当職宛に弁疏の書面を提出するよ
う、九月一六日付通知書をもって貴殿に通知したところ、貴殿から九月二五日付弁疏
書面が九月二六日に郵送されてきた。
 貴殿は、右書面の中で、「信仰観の相違」が「主観の相違を生んでいる」などと言
い訳を構えるが、貴殿の行為は、およそ「信仰観の相違」ないし教義上の疑義を真摯
に訴える類のものとは程遠く、徒に人を侮蔑・嘲笑することを主眼とするものであっ
て、仏法上はもちろん、社会常識の上からも、到底許されざるものである。
 しかして、当職より貴殿の誹毀、讒謗、侮辱の数々を指摘して、弁疏の機会を与え
たにもかかわらず、貴殿からの右書面には、何らの反省改悟の念もうかがえず、か
えって小賢しい理屈をこねての悪質な開き直りの態度が明白である。そこには、宗門
人としてはもとより、社会人としての常識、礼節の片鱗すら見出すことはできないの
であって、もはや、かような人物を本宗の信徒としてとどめ置く余地は皆無である。
 よって、本宗宗規第二二八条及び第二二九条に基づき、貴殿を信徒除名処分に付
し、本通告に及ぶものである。
 これにより、貴殿は、日蓮正宗信徒の地位を喪失し、今後、本宗信徒としての一切
の権利を行使できなくなったことを念告する。

平成一四年九月二八日

日蓮正宗宗務院 総監 藤本日潤 印

今泉秀彬 殿

付記 貴殿は、『宗規』が記載された書物を所持していないとのことであるが、本宗
の法規が改正されたときは、その都度、必ず院達をもって宗内一般に周知せしめてい
るとともに、これを機関誌『大日蓮』に掲載している。ちなみに、宗規二二八条及び
関連条規の改正については、平成九年一一月号の『大日蓮』に掲載済みであるから参
照されたい。

6やーこ。:2002/09/29(日) 21:38
その荒業に驚いて怒ったらしいげいか様が、御前会議なるものを開いているようだと感じて見て、カキコしたもよう。
さて、この破門劇どうなるのか、私はこっそり見ていきたいです。私は基本的に両方応援していますが今のところやや今泉氏側派ですね。
これ、多数の方が注目しています。富士門流系の少しカルト性があらわれ信者が去っていく中で宗門は一体どう出るのでしょうか。
現れつつあるカルト性に気付き破折し信者を導くことが出きるのでしょうか?
(今泉氏は自分でネット公開している為、実名でカキコ致しました。)

7匿名:2002/09/29(日) 21:40

この信徒除名に関する詳しい経過は、下記を参照の事。

http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageListForm/syousyu

8やーこ。:2002/09/29(日) 21:43
匿名さんありがとうございます。
リンクをクリックしたら見付かりませんと出ました。
ちなみにiモードです。

9やーこ。:2002/09/29(日) 21:46
と思って、ある人物からは、パソコンで出た、闍言われました。前言撤回します。

皆さん続きをどうぞ。匿名さんありがとうございました。

10moka:2002/09/30(月) 12:30
突然の書き込みをお許しくだされ。
このような掲示板に書き込みは、初めてのことですので、
もしマナーやルールに反しているならば、ご容赦を願います。

さて、昨晩深夜この掲示板にて、
単なる一信徒に過ぎない今泉秀彬氏(所属寺院は把握しておりません)に対する
信徒除名の処置を知りました。

余りにもむごい、バカげた、大人げのない処置に、ただただ驚くと共に
呆れるばかりであり、怒りを通り越し、どうしようもないやるせなさを感じておりま
す。
やや興奮しておりますが、
“やっぱり宗門はおかしい”というのが偽らざるをえない思いです。

信途除名に至った経緯や顛末の詳細は判りませんが、
今泉氏がホームページで展開していた論調は、以前より軽く一瞥していた限りでは、
多少過激な表現や毒を含んだ言い回しがあるとしても、また内容においても、
やや極端に走る傾向や挑戦的であっても、
骨格においては、多くの人が共鳴するところでもあろうし、
ましてや教義逸脱・異流儀を構えるといったものではないと思います。

池田名誉会長の信徒除名の場合は、
最初から“確信犯”であり、反抗・対抗(乗っ取りか独立か)を意図しており、
宗門サイドがリアクションをした後は、組織を挙げて凄まじい反抗行動を起こし、
かつ弁明の機会も無視し、明らかに除名処置を望んでいたのであって、
宗門の処置も妥当性があると思います。

が、今回の今泉氏の場合は、
大御本尊への信仰心や唯授一人の血脈付法に対する尊信は失っておらず、
ご本人は正宗信徒であることに誇りと確信を持ち、本分を尽くそうとしており、
大聖人の仏法を護らんがために、おそらくご本人なりに赤誠の想いで起こした
行動であると思います。
今泉氏の論文では、御法主上人猊下の御内証における「僧宝」は否定しておらず、
宗団のトップ=管長としての在り方や、出家たる僧侶の在り方、宗門行政について
質問をしたり、自身の主張を述べているに過ぎません(やや過激・極端であるとして
も)。

にもかかわらず、一片の通知書で信徒除名するとは何事でしょうか。
「本門戒壇の大御本尊様に連ならなければ成仏できない」というならば、
一信徒の成仏を、こうした一片の通知書で以って断ち切ってしまうのは、
余りにも無慈悲ではないでしょうか。
自分たちの教導・指導性・度量のなさを省みることなく、
“言うことを聞かないから”“信徒としての分を越えているから”では、
片手落ちといわざるをえません。
大聖人様が、法を求めている一信徒に対して、
このような処置をなさろうとうは、到底思えません。(つづく)

11moka:2002/09/30(月) 12:33
(つづき)さらに、現下の状況を鑑みれば、
このような除名処置は、今泉氏一人だけの問題に終わらず、多大な影響を与えると
推測いたします。
まず、創価学会を利するだけです。おそらく『創価新報』等で大きく取り上げるで
しょう。
宗門の狭量さ・無慈悲さを学会員だけではなく、法華講員にも印象づけすることにな
ります。
学会員の中には、いまだに正宗に戻りたい、登山したい、お寺に参詣したいと思って
いる
会員は数多くいます。しかし、こうした処置がその想いをどんどん失わせていきま
す。

また、法華講の中では、身近な指導教師の振る舞いや宗門・連合会の在り方に、ほと
ほと
嫌気をさしている人が少なからずおり、これらの人々の正宗に対する信頼性・信仰心

さらに揺らぐことになりかねません。教団としての存続性や行動力を減退させます。

その意味では、
今泉氏の問題は、宗門行政としては、放置しておけばいいのです。
ことさら信徒除名なんてことをしでかして、訳が分らない混乱を招く必要はないはず
です。
あくまで個々のレベルで教導していれば良かった事柄です。(つづく)

12moka:2002/09/30(月) 12:34
(続き③)
個人的なホームページの影響力なんてものは、基本的にはたかが知れております。
東芝の「クレーマー事件」は、東芝という日本を代表するメーカーが一人の消費者に
対して
非常識な対応を取ったから、マスコミが一つの社会的事件として大きく報道したので
あり、
それ故に一個人のホームページが注目されたのであって、
今回のような本山と一信徒の対立は、あくまで日蓮正宗内部の出来事であり、正宗の
信仰者以外には全く関係ない事柄であり、マスコミ等が報道することは、本来ありえ
ません。
したがって、
今泉氏のホームページは、知っている人は知っているといった極めて限定的な存在で
あり、
ましてや法華講員の中心は、じいさん・ばあさんの高齢者だけに、
今泉氏の言動が宗門・法華講全体に周知されることは、まず無かったことです。

猊下批判(今泉氏は、管長批判という立場)が、宗制宗規に抵触するとのことです
が、
上記に勢いのまま書き綴った通り、信徒除名の処置は、
後先を全く考えない短慮のまま、感情にまかせて、あるいは阿諛追従の結果として
なされたものなのかなと、やるせない寂しさを抱きます。(つづく)

13moka:2002/09/30(月) 12:39
(続き④)これまでの裁判への対応や様々な宗門の様相を踏まえれば、
御法主日顕上人猊下の個人的な資質はさておき、
宗務院の阿諛追従の結果として、このような事態を招いているとしたら、
“何をかいわんや”です。組織体としての体をなしていないと断言いたします。
また、
例えば箸の上げ下げ・鉛筆の一本を買うか否かといったことまで、
あらゆる全てが猊下(あるいは管長)に帰着するのであれば、
日蓮正宗は宗団として、甚だ不健全な有体を見せ付けていることになりましょう。
“先行きが暗いね”と、今さらながら感想を抱きました。
それでも正宗信徒として自分自身の領域において本分を尽くしたいとは思います。

以上、気持ちの整理が着かないまま書きなぐり、
かつ、このように突然乱入いたしことをお詫びいたします。
御容赦の程をお願い申し上げます。

14お暇庵:2002/09/30(月) 13:23
みなさん、初めまして。何だか恐ろしいスレッドになっていますね。

カルトというよりも不満爆発、体制批判という趣でしょうか、、。
信徒除名という問題とカルト性は同列に論じれませんので、ちょっ
と適当ではないと思います。しかし、問題は信徒(人)を救う立場
にある教団が、人を見捨てる行為に対する抗議であろうと思うので
すが、そのパラドックスをどうにも収まらぬ気持ちと、それ以外に
日頃の不満が触発されて爆発した感じでしょうか?

私は閉鎖的体質イコールカルト体質の現れとは性急な判断と思いま
す。宗教の持つ教義とは別に、執行的な体制は当然一元管理されて
いますのでその人が及ぼした被害性ないし影響度にも大きく関わり
ますので、実際の所、第三者がその事に関われるんでしょうか?

情報公開しているからと言ってもどちらかに偏向した情報に違いは
ないですからアメリカのように陪審制度で客観的に理性主体で審理
が尽くされるまで陪審員全員一切の情報を遮断して審理印象判断を
主とした実際的な判断は不可能ではないですか。

個人的にはこの手の問題は関わって有耶無耶になるのが落ちですか
ら、私はすこし、冷静に事の推移を眺めた方がいいと思います。
その方の信仰姿勢が本物かどうかは今後に関わっていると思います
し、まったく復帰が閉ざされた訳ではないのですから。しかし、こ
の手の問題は、従属しているか、させられているか、どうかは本人
の自覚に寄りますが、その意識の何かに触るのでしょうね。
ここには私は非常に興味があります。大衆の潜在的な本質感情と顕
在している抑圧された感情部分です。言葉足らずの傲慢な印象を与
えるかもしれませんが、ここは論じてみたいところですね。

ところで私は立場的には断を下した側、下された側。どちらにも興
味が無いことを附言しておきます。

15やーこ。:2002/09/30(月) 13:47
mokaさんはじめまして。
カキコについては大丈夫ですよ。
気持としてはmokaさんと全く同じですよ。うちの身内でもこの掲示板の方々も宗門おかしいって思ってます。一応、両方応援しているとかいたけど、本音は宗門の対応に「どっかーん!」ですよ。
おかしいとはいいつつも、支部の中では声を怖くて出せないんですよ。破門になったら困るから。
だからこっそり活動してます。今回の決定で、宗門に対する信頼失墜を恐れています。由緒正しき宗門がこんなのでいいのでしょうか!
(未来がこれでなくなるのを恐れる21歳法華講員より)

16問答迷人:2002/09/30(月) 13:54

moka さん
お暇庵 さん

初めまして よろしくお願いいたします。

今泉氏が日顕上人に対して、様々な角度から問題提起してこられたことは、知る人ぞ知る、かなり有名なことです。今回の除名処分に到るまでの、今泉氏の起こした行動の経過も、当然、宗門がそのような処分に及ぶであろう事を今泉氏は予測した上での行動で有ったと思っています。

氏が提起した問題は、宗務院としては、回答不能に属することであり、宗務院は、氏が指摘した内容に一切踏み込むことなく、『悪口が有った・無礼である』というレベルで処理するしか方法が無かったのだと思います。逆に言えば、一信徒からの問いかけに対して、回答不能に陥り、信徒除名にするしか選択肢持たない程度の宗務院のレベルであることを露呈してしまったわけです。宗務院の指導性の無さは誰の目にも明らかになってしまいました。実にお粗末だと思います。

17やーこ。:2002/09/30(月) 14:02
お暇庵さん。
確かに恐ろしいかもしれません。
カルト性を感じるのは直接破門されたことではありません。
今泉氏がホームページ等で訴えてきた内容です。重複三十万登山のおかしさ等はぴったりうちの支部に当てはまることですし十分信用出来ます。
それらを直接訴えた今泉氏をいきなり破門。口封じの為としか思えません。法華講員が似たような事を口に出すと信心がおかしい、と。本人がいないと悪口をいいまくり、としても恐ろしさを感じます。
私はこの今の宗門にカルトを感じてしまいます。逃げたいのです。闘わなくちゃ、、、。

18五月雨:2002/09/30(月) 14:18
宗門は今泉さんに対して、いままで何も言わないのは不思議でした。何故なら私の所属する布教区において、ある婦人部の方が「宗門は学会を許して、仲良くしてあげてほしい」と柳沢さんに直談判したら、すぐに信徒除名になってしまいました。住職の指導に従わなかったとの理由で。
この婦人部には善意があったと思いますが、今泉さんはもっと酷い言葉で宗門に対して物申していたから、破門にしない方が不思議だと思ったのです。今回は今泉さん自らがこの8月に今まで自分が主張してきたことを、宗門に送付して日顕さんの逆鱗に触れて起こったようですが、それさえしなければ今泉さんは、ずっと安泰だったのかもしれませんね。
今泉さんも、こんなにすぐに信徒除名通知書が送られてきて、あっと言う間に破門されるとは思っていなかった様子ですが、今泉さんも今回の経験から、少し頭を冷やして他の人の意見にも耳を貸されるようになれば、いいと思うのですが。



>従属しているか、させられているか、どうかは本人の自覚に寄りますが、その意識の何かに触るのでしょうね。ここには私は非常に興味があります。大衆の潜在的な本質感情と顕在している抑圧された感情部分です。言葉足らずの傲慢な印象を与えるかもしれませんが、ここは論じてみたいところですね。


お暇庵さん、とっても難しそうな視点ですね、「大衆の潜在的な本質感情と顕在している抑圧された感情部分」を信徒のどんなところに見ますか?

19moka:2002/09/30(月) 14:23
【10】の訂正
 4行目 掲示板→スレッド
 12行目 信途除名→信徒除名

ごめんなさい。
このスレッドにおいて、今泉氏の信徒除名の事実を知りましたので、
ついつい除名処置に対する個人的な感情を書き連ねてしまいました。
本スレッドの趣旨に相応しくありませんでした。反省いたします。

体制批判とご指摘されれば、その通りでしょうが、
閉鎖的体質=カルト的体質との判断で書き込みしたわけでありませんので、
本スレッドにおいて、私の書き込みは無視(削除)してください。

今回の信徒除名処置をカルト性との関連で述べるには、
まだまだ整理がついておりませんので、いずれ機会とさせていただきます。

20問答迷人:2002/09/30(月) 15:27

五月雨さん こんにちは

>柳沢さんに直談判したら、すぐに信徒除名になってしまいました。住職の指導に従わなかったとの理由で。

これは何かの間違いでしょう。宗制宗規によれば、そのような理由で信徒除名になることはあり得ません。信徒除名になったのは、池田大作氏と、今回の今泉氏の二人だけではないでしょうか。また、信徒を除名にするには、弁訴の機会を与えなくてはなりません。さらに、宗務院しか、除名処分は行えません。住職には信徒を除名する権限は与えられていません。

21お暇庵:2002/09/30(月) 17:00
五月雨さん、moka さん、問答名人さん、こんにちわ。

あまり深く考えないでください。ワタシ結構テキトーに書いてるんですから。
この手の問題は、信徒の日頃の鬱積や不満が投影されるので、傍観者にはたま
りませんね。いつも思うのですが、教団って統治者がいるのは当然ですよね。
あそこが平等でないとか、ここが我々の気持ちになっていないとか。良く聞く
のですが、そんなにイヤなら辞めればいいのにと思うのです。

カルト性のある教団は、教団に問題もあるでしょうが、そこに関わる方のカルト
性にも責任は有るとおもいますよ。教団が民意に基づいて運営していくのなら
それは宗教ではなく親睦団体です。信徒除名されたのならその方がどうするかが
問題であって、傍観者が次は私かもしれない、と考えるのは分からなくはないで
すが、ちょっと恐怖の先取りしすぎではないですか?

教団を理想化していたのなら、自省して「あぁ、そうじゃなかったんだ」と思え
ばいいし、カルトなら辞めればいい。大聖人の正流という言葉を疑うのなら、疑
いが晴れるまで、住職から辞めろと言われてもきけばいいし、研究すればいいん
じゃないですか。統治者がいるところに在籍して、その統治者が民主的ではないと
思えば、そこを去って本当の法門を求めていけばいいんじゃないですか。
カルトをカルト化していくのはそういう指向のある人々も共犯だと思いますね。
信者が集まらねばカルトも糞もないでしょう。この辺は延々繰り返されるマルチ
商法に関わる被害者の心理とよく似ていると思います。「自分はだまされない」と
という自分に誤解がある限り、騙され続けるんですよ。

22五月雨:2002/09/30(月) 17:23
問答迷人さん 

>これは何かの間違いでしょう。宗制宗規によれば、そのような理由で信徒除名になることはあり得ません。

かの婦人部は、連合会幹部の指導会の席上で質問という形を借りて直談判をしまして、次の月だったと思う僧俗協議会て゛、彼女の所属寺院の講頭が皆の前で、「前回の会合でうちの婦人部が質問という形であのような事態を引き起こしましたことをお詫びし、またあの婦人部をわか゛講から除名にしましたので、もう彼女とはお寺、講はなんら関係ありません、もし何か言ってきても相手にされないようにお願いします。」大体このように言いました。住職、講頭が何度注意しても、その考えを改めないのでそうした、と付け加えていましたよ。私ははっきりと「除名」という言葉を聞いた気がするのです、「破門」とか「ひん斥」という言葉ではありませんでした。

>住職には信徒を除名する権限は与えられていません。

それは知りませんでした。知っていたらその時に疑問として言えば良かったですが、でも誰も触れたがらない話題でした。

23五月雨:2002/09/30(月) 17:31
お暇庵さん

中々クールな見方をされていますね、お暇庵さんみたいに物事を冷静に分析して判断し行動出来れば、悩みはなさそうで、羨ましい限りです。

>教団を理想化していたのなら、自省して「あぁ、そうじゃなかったんだ」と思えばいいし、カルトなら辞めればいい。大聖人の正流という言葉を疑うのなら、疑いが晴れるまで、住職から辞めろと言われてもきけばいいし、研究すればいいんじゃないですか。統治者がいるところに在籍して、その統治者が民主的ではないと思えば、そこを去って本当の法門を求めていけばいいんじゃないですか。
カルトをカルト化していくのはそういう指向のある人々も共犯だと思いますね。

ははぁー申し訳ございませんと言いたいところですが、人の心はそう簡単に割り切れない部分もありまして、私なぞ、信じてきた教えの全てが、ガラガラと足元に崩れ落ちるのを感じて、精神不安定に陥ったりしています。21年に亘り信じてきたものを、」間違ってまっせ、そうだっか、捨てますわー」といかない、葛藤に苦しんだりするのです。お暇庵さんには無縁の苦しみかもしれませんね。

24お暇庵:2002/09/30(月) 18:21
五月雨さん、こんばんわ。

クールかどうかしれませんが、わたしも一応血は通っているみたいですので、いきなり
こうなったわけではございません。言い訳ながらこの手の問題には山ほどつきあってき
ました結果の心境です。

>ははぁー申し訳ございませんと言いたいところですが、人の心はそう簡単に割り切れ
>ない部分もありまして、私なぞ、信じてきた教えの全てが、ガラガラと足元に崩れ落
>ちるのを感じて、精神不安定に陥ったりしています。21年に亘り信じてきたものを、
>間違ってまっせ、そうだっか、捨てますわー」といかない、葛藤に苦しんだりするの
>です。

したがって、無縁であるかどうかは除名問題同様、第三者にはわかり得ない事柄です。
文章だけではその人間の人生や振る舞いは見えてきません。私は五月雨さんの信仰観を
否定するものではありません。不安に落ちたりするのは当然です。ただ、そこからしか
見えてくるものがあるんではないですか?ということも言いたいですね。
独歩さんが三疑ということを言っておられましたが、自分を疑わず法と師を疑うことは
大事なことです。カルトにするもしないも、そこからではないですか、、、?

足下から崩れたら、崩れるほどの脆弱な法か、信心かどうかを、確かめればいいんじゃ
ないですか。21年をどうしようと思うなら、21年で気づいたんだということも言えます。
30年よりはましですし、50年で気づいた人もいます。人それぞれです。
葛藤なんて私は数え切れないほどしてきました。だから、人の見逃した事柄に気づいた
こともあります。今も、葛藤してますよ。

25菊水護国:2002/09/30(月) 18:40
あえて、今回は敬体を避け、論文調で書きますから非礼御容赦ください。

カルトとは悪であろうか。
カルトに、安心観を感じる人もいる。
カルトの定義は、確定して無いが、ある方の定義から「熱狂狂信的、原理主義」と言う文を引いて、顕正会の浅井会長は「我が顕正会は正当なるカルトである。カルトは誉め言葉である」と、開き直りのような論を展開したことがある。

さて、カルトの一つとして指導者の独善性があるが、それを求める会員もいる事も事実である。
まさに法の華のように「頭を取る」事で、思考せずに済み楽なのである。
昔、顕正会員で「頭は先生に任せてある。私は頭の手足となって働くことこそ楽しみである。頭だけでも体だけでも、組織は生きない。」と言った方がいた。
このような方が、今度は法華講に来ると別の頭を求める信仰を始める。
もちろん学会にいっても同じであろう。
自らの頭を働かせる事が苦痛なのである。
こういう人は、自ら好んで、カルトに入るのである。まさにカルト希望者である。

さて、そもそもどこかの宗がカルトか否かを、考える事自体がナンセンスなのである。
たとえ、正しき仏法であろうと、信じる人が求めてカルトを好むとき、そしてそれらが増えたときカルトになるのである。
カルトは絶対的カリスマと、思考停止を好んで求める集団の心が合致したときに誕生する。
その集団がカルトになるか否かは、集団員にかかっているといっても過言ではない。
「支配される側が、支配者を支配者たらしめている。」
「教祖に嵌る側が、教祖を教祖たらしめている」

26菊水護国:2002/09/30(月) 18:55
しかし、このスレッドって名前が長いですね(笑)。

27お暇庵:2002/09/30(月) 20:27
菊水護国さん、初めまして。宜しくお願いいたします。

しかし、凄いこと言う人ですね。ここまで開き直れば逆にカルトのジメジメ感がなくていい
ですね、いや、お見それいたしました。

>「熱狂狂信的、原理主義」と言う文を引いて、顕正会の浅井会長は「我が顕正会は正当なる
>カルトである。カルトは誉め言葉である」と、開き直りのような論を展開したことがある。

恐るべし、K会ですね。それにしても菊水さんがうまくまとめて戴いて私の意見も要領を得ま
した。以下に有りますように私も同意見です。

>たとえ、正しき仏法であろうと、信じる人が求めてカルトを好むとき、そしてそれらが増え
>たときカルトになるのである。カルトは絶対的カリスマと、思考停止を好んで求める集団の
>心が合致したときに誕生する

信仰は極めて個人的な主観の問題です。客体を伴えば自ずから、主観の大事なところは要約
されてしまいます。信じるという行為は主観にとっての絶対的信頼でなければそれに足るも
のになり得ないはずです。これを客観としての学問や制度で話そうとするとややこしくなる
のではないかと思うんです。そこには沢山の主観の入れ物が在るわけですから、個々の100
%を入れるわけには行かなくなります。何%かは削がれるわけですから、当然規律や、制度
の中に組み込まれます。私は多かれ少なかれこの制度から落ちた部分の抑圧感情が、ああい
った問題の時に共感を呼ぶのではと思います。ただ、考えてみればどこにも制度や仕組み、
規律は有るわけですから、アウトロー指向で有ればそこに組みすること自体が間違いなのでは
ないでしょうか。あくまで制度内で主張するのであればあんな行為しますかね。

28五月雨:2002/09/30(月) 21:20
お暇庵さん

>文章だけではその人間の人生や振る舞いは見えてきません。

と言いながら、何だか決め付けて言って下さっているような気がするのは、気のせいでしょうか、ええ、きっと気のせいね、きっと。

>自分を疑わず法と師を疑うことは大事なことです。カルトにするもしないも、そこからではないですか、、、?

カルトにするもしないのも自分で出来るのですか?普通は信じてきた教えが実は「カルト」だったなんていう話はよく耳にしますし、実際自分の経験でも、やっぱりカルトだったんだと、21年経ってから認識したばかりですが、「する、しない」の話ではないような気がします、お暇庵さんの体験からはどのようなものだったか、お教え願えれば参考にしたいと思います。ひと言申しておきますが、けっしてお暇庵さんに難癖をつけようとか、そんな事は思っていません、真摯な気持ちで聞いていることをご理解下さい。

29犀角独歩:2002/09/30(月) 21:47

21 お暇庵さん:

こんばんは。
私はこの意見には大いに賛成です。

グループとメンバーにおけるいざこざは、たしかにメンバーにとっては大きな問題であるかも知れません。けれど、信仰していない第三者から見れば、その不満を懐くメンバーも“グループの一員”であるとしか見られないからです。

グループの存続は実はメンバーの存在が不可欠ですから、誤ったグループからメンバーが減少すること以上の打撃はないことになります。ひっくり返した言い方をすれば、以下にグループ・リーダーが間違ったからと言って、メンバーの現象がない限り、そのグループはいつまでも存続するでしょう。

批判して、そのグループを改革することができない場合、結局、メンバーであり続けるその数によって皮肉にもグループは存続されているという構図があるわけですね。端から見れば、その間違ったグループに居続けるメンバーは、結局はグループ・リーダーの賛同者、あるいは信奉者以外には映らないと言う現実は加味されるべきです。しかし、これは批判・不満を懐きながら、メンバーであり続ける方々を批判しているのではありません。客観的な視点と、冷静な判断を忘れないで頂きたいという意味から進言するところです。

なお、菊水護国さんが提示された浅井さんの名言には大いに嗤わせてもらいました。

ここで言われているカルトは、たしかに言語的な意味を充分に写したもので、その意味で間違った発言とは言えないでしょう。

しかし、カルという言葉は時代と共に変遷してきたのです。
ハッサン氏がこの言葉をもって議論ある団体を分析したとき、この言葉は飛躍的に意味を加味されました。正確に記述すれば「破壊的カルト・マインド・コントロールを弄するグループ」ということです。浅井さん、あるいは池田さん、あるいは顕師を希求する熱狂的な人々の心情はカルトというより、その一部をなすカリスマ崇拝でしょう。

21世紀を迎えた現在、私は個人的にはカリスマ崇拝は、前時代的な、もっと言えば霊長類進化の延長にある原始的な感情への先祖返りであると思えます。今後、私どもが目指すべき信仰の形態は各人の自律・自律を促すもの、各人の責任を持って考え、行動するものであるべきでしょう。その意味からカリスマ崇拝という人任せの愚案から進歩していくべきであろうと思います。

さて、現在、言われるところの破壊的カルト・マインド・コントロールを、私は個人的には第三者心理操作と呼び変えています。これはカリスマ崇拝と親和性を懐くものの、そのものではありません。むしろ、そのカリスマと、グループがメンバーを操作する心理技術を批判するものです。

たとえば、打ち出されたとおりに活動しないと罰が当たるとか、グループ・リーダーを批判すると地獄に堕ちる、あるいは供養をすると倍になって返ってくる、活動を一所懸命にすると幸せになるなどと鞭と飴を充分に使いこなし人心を操作する方法です。殊に重大な点、各人のための行動が、いつの間にかグループとリーダーを利することにすり替えてしまう心理操作を、特に破壊的カルト・マインド・コントロールというわけでしょう。

「一所懸命、活動し、供養すれば、幸せになって大金持ちになる」、かつてそのようなことが平然と言われたものでした。ところが一所懸命労働し、献金した人は時間と金銭を失い、人生そのものも失敗してしまう、それなのに、その労働と金銭提供を受けたグループとリーダーだけは社会的地位と金銭と獲得していくといった構図が典型的なモデルです。つまり、個人(メンバー)が目指した成功は、いつの間にかグループ・リーダーの成功にすり替えられてしまう仕組みです。

メンバーの純粋な信仰心、努力はメンバーのためにならず、ただグループとリーダーのためにしてしまう技術が第三者心理操作です。

このような視点から、各グループの煽動と活動目標を静観するとき、メンバーは利用されているだけであることはわかるはずです。しかし、信心強盛を証明することに躍起になり、さらにグループ・リーダーの代理状態になっている人には、たぶん、この仕組みは見えないことでしょう。

このスレッドは、以上のような視点から、グループ・リーダー(カリスマ)を見直し、さらに「自分に起きている問題がいったい何であるのか」を再考するために有効ものであろうかと、私は思います。

30お暇庵:2002/09/30(月) 22:44
独歩さん、ご意見有り難うございます。

独歩さんが現れてようやくテーマが絞られてきました。有り難うございます。
「カリスマ」というシンボルはカルトには欠かせません。また、「自分に起き
ている問題がいったい何であるのか」という事柄もカリスマとの関係性のなか
で切り離すことはできません。これは相関性のテーマかと思いますので十分に
議論してみたいです。その前に五月雨さんの質問にお答えいたします。

>カルトにするもしないのも自分で出来るのですか?普通は信じてきた教えが
>実は「カルト」だったなんていう話はよく耳にしますし、実際自分の経験で
>も、やっぱりカルトだったんだと、21年経ってから認識したばかりですが、
>「する、しない」の話ではないような気がします、

主体性を持って関われなかった方(例えば生まれたときからとか)以外に無批
判に体系を持った思想ないし宗教に関われるものでしょうか?逆に私はお聞き
したいです。すべて受け入れる前に何かそれまでの考えというのと入れ替えね
ばなりませんから、普通は葛藤があるんですけど、その時の懐疑というのを捨
てて、全く別の思考を無批判に受け入れる事、自体は私には考えられません。

どんな低級高級な考えも物の見方と受け止めに関係するのですから、事象に対
する印象を今日受け入れたから明日はハッピーだ、もう変わりました。という
ことはないと思いますよ。それは五月雨さんが入信する以前からの体験と密接
なはずです。地獄に堕ちると言われて、ハッピーな人はいませんが問題は体験
経験のない地獄の言語印象、記憶が何に結びついているかではないですか。そ
れが過剰な恐怖に結びつく方は、何かの過去の記憶や刷り込まれた語感が呼び
起こされるから恐怖に結びつく、破滅とか痛みとか苦しさとか闇とか個人差は
有るでしょうが、要は不快なんでしょう。その不快感が生理的に予知できない
未来に向けられたときに不安感を呼び、自動共起的に生存を脅かされる様な気
がする。ここまで想起できればマインドコントロールは楽です。アメとムチで
快と不快を繰り返し与えてやれば第三者心理操作は完璧です。

私はカルトに陥りやすい心情は普遍的にみんな有ると思います。ただ、システ
ムを疑うというか、カルト的な教えは有るけれども、よりカルトにしていく指
向を持った心情が磨きをかけていくのではないかと思うのです。
そこには必ず、個々の心情を写すシンボル的な人物像があれば完成です。その
人間は沢山の潜在的な抑圧感情のシンボルですから、少しずつ彼らや彼女達の
理想や自己解放を担っていると思います。だから、沢山の集団のカルト首長は
レベルが高ければダメなんです。1000000人の抑圧感情の一部一部分を満た
すことはその分レベルが低いはずです。言い換えれば世俗的です、しかもかな
り。大体、関わりのない人からみたら、なんであんなおっさんに(誰とは言い
ませんが、マハローやペロっと舐める人)と普通は思いますよ。
まぁ、いいかえれば恋愛みたいなモノですね。その相関性がなければ一人恋愛
なんてできません、と私は思うんです。言葉足らずでまた、ご批判ください。

>お暇庵さんの体験からはどのようなものだったか、お教え願えれば参考にし
>たいと思います。

個人的な体験は当事者にしか分からないものですから、共有できないと思いま
す。ただ、信徒除名直前なんてざらにあります。資格がどうとか言うよりも私
的にはきっと、表現が不器用なんでしょう。お互いの共通言語ができて初めて
理解なんですから、どちらかが壊れている者のトラブルの話をはさらっと話せ
ませんよ。機会が有ればまた、、。

31五月雨:2002/09/30(月) 23:08
お暇庵さん

>お互いの共通言語ができて初めて理解なんですから、どちらかが壊れている者のトラブルの話をはさらっと話せませんよ。機会が有ればまた、、。


共通言語ができていないみたいなので、私はこれ以上は何も言いません。ありがとうございました。

32菊水護国:2002/09/30(月) 23:34
私は独歩さんの言われるような、信仰形態の一部に「現世利益絶対主義」があるように思います。
罰論、功徳論は未入信者を入信に導くには方便として使用できます。
しかし特に、仏法の究極は「成仏」であり「解脱」であります。
現世利益も現世罰も信仰に対する、金剛心が付くまでの方便です。
題目は止観行の一環だったハズです。
止とは、驚き・怒り・嫉妬・悲しみ・高揚等の日常的な心を止めて、静かな状態、安定した心を持ち、本来の心の定位置に止め置く事ですよね。
これが「禅定」に当たる形になるとすると、「利益出ろ」等という利益勤行も「罰が当れ」という呪詛勤行も出来なくなります。
龍口の首の座での大聖人が「光物でろ」という思いで、題目を唱えていたとは思えません。

そして「観」とは、「止」が定まった時に自分自身が物事のあらゆる現象や動き、万物の全てを深く観察する事が出来る状態ですよね。
すると、学会がどう動こうと、世間がどう動こうと、一切が冷静に見通せるようになるはずです。

ところがカルトは逆に、一切の観が出来なくなります。少なくともカルトに止観行は出来ませんね。

33犀角独歩:2002/09/30(月) 23:37

32 菊水護国さん:

そのとおりです。重要な点ですね。

34アネモネ:2002/10/01(火) 00:28
流れを変えてしまっては申し訳ないのですが、横レス失礼いたします。
今泉さんの除名に関連して、レスしたいと思います。

今泉さんがこれまで書かれてきた内容というのは、たぶん一年半くらい前の私の心情と近いものだと思いました。それは宗門に対する強い思いを持った時期でもありました。ですから、今泉さんの宗門および猊下に対する批判の言葉の数々は、組織への愛着から発露したものであり、それが信心と直結したものだと思ってのことなのだと、かつての自分の心象と重ねてそう思います。また、除名された今泉さんに同情され、その姿勢に共感されている方々も同じなのでしょう。
方や私のほうは、この一年半ほどの間にその考えがすっかり変わってきました。一言で言えば、組織への愛着が消えたということでしょう。それは、同時に、組織活動が大聖人の仏法であり、それが信心だと思いこまされていたことが、まやかしだったのだと思うようになったことだと思います。
しかし、私はそれでも相変わらず、この掲示板を通してHNの匿名という立場で宗門への批判は続けてきました。また家庭訪問やお電話でも自分の考えを話してきました。最後には、「それでは日蓮正宗の信心ではない」と言われ、その言葉に対して私は「日蓮正宗を辞めてもいいと思っている」と言い、そして「地獄に落ちるよ」と言われて話は終わってました。「辞めてもいい」という言葉がどこまで組織の上に伝わっていくものなのかと、様子をみていますが、破門や除名の話はいまだに私のもとには来ません。私も敢えて脱講届を提出するということもしていませんが、愛着がなくなると、そういうこだわりさえも消えてしまうものなんだと思いました。
しかし、宗門という組織への愛着を持って堂々と実名を提示して行動を起した今泉さんのほうが、除名という結果になってしまったこと、匿名とはいえ散々批判の言葉を並べている私の状況と対比すると、まったく皮肉なことだと思いました。

それはともかく、今泉さんがどのような文面の書簡を猊下に送付されてきたのかは、詳細はわかりませんが、果たして今泉さんの真意というのは猊下に伝わったのだろうかと、頭をひねるところです。
宗門側からの文書に提示された、除名の原因とされる今泉さんの文言の数々を見る限りでは、どうももしかしたら、その真意は伝わっていないのではないかと思ってしまいました。相手を罵倒する言葉、なじる言葉、冒涜する言葉、そして人格攻撃する言葉、こういう言葉が並べられると、かえって訴えたいことというのは伝わりにくいのではないかと思うのです。そういう感情を示したいという気持ちはわかりますが、やはり文書を通して事を訴え、しかも、自分よりも立場の上の人に物申すという場合はなおさら、相応の言葉づかいを用いて礼節を示したほうが、真意を汲み取っていただけるものではないかと思います。礼を尽くすことにも、訴えたい思いの一念はこめられるものだと思います。

しかし、そもそも人はいったい、そうした礼節や礼儀といったことをどこで学んでいくものでしょう。家庭でしょうか、学校でしょうか、社会でしょうか‥。そんなことをよくよく考えてもみれば、実は、そういう人格形成にも関わるたしなみこそ、歴史的にも宗教が担ってきたことが大きいのではないかと思えてならないのです。
今泉さんの文言や語彙など、その気持ちはわかっても、行きすぎの表現が数多くある点がどうしても気になります。このような言葉の数々や言いまわしというのを、この方はどこで身につけられたのだろうかと考えてしまうのです。もしかするとそれこそ、日蓮正宗なのではないかと思うんですね。
もちろん、今泉さんだけのことではありません。今泉さんのMLを見てみますと、今泉さんに反論なさっている方も同じように暴言の連続なんですね。一体、このように相手を徹底的に貶めるような言葉や言いまわしを、この方たちはどこで身につけてしまったんだろう、ということにも注目すべきかと思います。
なにげなく口にしてしまう言葉というのは、自分の置かれた環境に大きく影響を受けていることが大きいものです。だからこそ除名理由として示された、猊下への誹謗の言葉や言い回しを教えこんできたのは、宗門そのものではないかと思えてならないのです。
お寺で耳にする学会批判の言葉の数々、僧侶の説法の中においてまでも冒涜の言葉が聞かされて久しいのではないでしょうか。宗門発行の新聞においては見出しからしてそうです。日々そのような言葉を目にし、聞かされ続けて知らず知らずに学習してしまった結果、礼節を忘れて、ただ人をののしるばかりの人格にしてしまったといえるのではないかと思います。自分の門弟の書簡を通して、まず、そのことに気付くべきだったのではないかと思います。

35アネモネ:2002/10/01(火) 00:29
(つづき)
視点を少し変えたいと思います。
今泉さんは、日顕上人への批判を続けてこられていました。私のお寺の方々をみると、住職への批判や幹部への批判は口にしても、猊下への批判は絶対と言っていいほど口にはしません。そんな中で、その文面はともかくとしても、今泉さんは猊下に直訴までしたのですから、それは勇気ある行動だったといえるでしょう。また、当然それは、除名や破門も覚悟の上のことだったはずです。組織の論理とはそういうものといえるでしょう。
では、その「組織の論理」というものが、果たして日蓮聖人の示した仏法なのかというと、それはきっと違うものだろうというのが、私の一年半の変化に至った思いなわけです。

実は、以前独歩さんが掲示板で推薦して下さった書籍、「日蓮−その行動と思想」高木豊著(太田出版刊)に興味を持ちまして、読み終えたところなのですが、その本に記されたことで参考になることがありました。
佐渡流罪の頃、日蓮聖人の門下の中には、懐疑の気持ちを抱く者もあったということで、その記述の箇所を抜粋しておきます。

「弾圧は日蓮の門弟の多くを転向させたばかりでなく、ふみとどまっ門弟にも動揺を与えた。断罪よりもこの動揺こそ、日蓮にとって危機の様態の一つとして受けとられたのである。外側からの日蓮への批判を肯定するものもあったろうが、とりわけ門弟にとって、なぜ法華経の行者たる師日蓮に対して、さらにいえば、その師説を信奉する門弟に対しても、諸天・善神の守護がなく、かかる弾圧に遭遇しなければならなかったのかの問いが生じた。」(104P)

この佐渡へ配流の時期、世間的にも日蓮批判は強まり、その言葉は門弟の耳にも届くものであり、そのために動揺している者も多くいたわけです。そのまま転向する者もいたほどですから、恐らく、日蓮聖人に直にその疑問をぶつける門弟もいたことでしょう。
その疑問をぶつける言葉がどんなものであったかはわかりませんが、しかし、少なくとも聖人は、そのような信徒のことを、自分の門弟から外すなどという振る舞いはなさっていないわけです。それよりは、その批判に対して論を立て答えなければならないと重大な責任を感じているわけですね。その結果の著述が、「開目抄」と「観心本尊抄」であったということ。今回読んだ本には、そのようなことが以下のようにまとめられています。

「こうした自己と門弟と外側からの懐疑と批判のなか、日蓮はこれに答え、氷解させねばならない問題状況のなかに追い込まれた。しかも、門弟の動揺をおさえ、疑惑をときほぐし、転向の雪崩現象をチェックするために、その解決をかれらに示さねばならなかった。かくて『開目抄』『観心本尊抄』を著述した。門弟に伝えられた『観心本尊抄』その他は、紙面の表裏に書かれているように、筆も墨も紙もとだえがちな流浪人生のなかでの著述であった。」

そして私は、開目抄下の有名な御文が思い出されます、
「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。」

今泉さんの四年間にも及ぶ、訴えの内容がどのようなものだったかを全ては知りませんが、その訴えに対して、つまり今泉さんの猊下への懐疑に対して、猊下や宗門がどれほど心を砕いて説明をしてきたのか、そこも疑わしいところです。説明責任を感じることすらなかったのではないかとさえ、想像してしまうところです。
仏の慈悲より、組織の論理が優先された教団といえるのではないでしょうか。

36アネモネ:2002/10/01(火) 00:30
(つづき)
長くなりますが、もう一点書き留めておきたいことがあります。北朝鮮の拉致問題で影をひそめた重大な報道がありました。
NTTドコモの関連会社「ドコモ・システムズ」(本社東京)の社員Kが知人の創価大学職員に頼まれて、通信記録を漏洩し、警視庁はKと創価大職員の2人の計3人を電気通信事業法違反(通信の秘密侵害)と盗みの疑いで逮捕したとのこと。この新聞報道に続いて、週刊新潮が詳細な記事を掲載していました。
当初、新聞報道では、何の目的で通信記録を漏洩したのかには触れてまてせんでした。しかし、週刊新潮の記事によると、創価大学剣道部監督であったTの浮気を巡る痴情のもつれによるものだったということです。Tはかねてより交際していた浮気相手の女性が、心変わりして他の男性と交際を始めたことに腹を立て、同僚である創価大学生課副課長Nに相談し、それを受けてNはドコモ・システムズに出向していた社員のKに話を持ちかけ、Tの浮気相手の女性の新しい交際相手の通話記録を盗み出すように指示したといいます。新聞には報道されていなかったことですが、ドコモ・システムズに出向していた社員Kも実は創価学会員で、しかも創価大の卒業生。通話記録を盗み出すよう指示したNとは先輩後輩の仲ということになります。つまり、逮捕された3人は創価学会トリオだったということでした。
この事件に対して創価学会は、9月14日付の聖教新聞で池田氏のこんな言葉を掲載しているそうです。
「わが友に贈る 社会に迷惑を、学会に迷惑を、かけゆく愚者は 我らの和合僧より 断じて追放せよ!」
その文面どおり読むならば、逮捕された3人は追放ということで除名されたのではないかと考えられます。
しかし、この報道を知る人は誰もこのような記事では納得はしないでしょう。逮捕された3人を追放することで創価学会組織の事件関与の潔白を示そうとしたところで、しかし世間においては、創価学会とはそのようなことをしかねない組織だと思われていることは、今に始ったことではありません。どこまで報道されてきたことかはわかりませんが、国家機密にも関わることが、学会員である官僚らによって学会組織へ漏洩されてきたことはよく聞くところです。国家へ忠誠を誓うはずの官僚の立場を弁えずに、学会もしくは池田さんへの忠誠を優先した結果だったことは言うまでもありません。
しかし、今回のドコモ・システムズの漏洩事件に関しては、報道されている限りでは、池田さんや学会組織の命令でしたことではないわけです。にも関わらず、学会の大幹部であるNの痴情の画策のために、学会組織の後輩2人は、反社会的な行為をいとも簡単に行ったわけです。
私は、ここがカルト的だと思うんですね。トップの命令などなくても、自動的に組織の論理が優先され、その結果、反社会的行動を起してしまうということ。最高指導者だけが絶対ではないんですね。最高責任者に連なる組織の縦系列全てが絶対なのだということ。これはとても恐ろしいマインドコントロールだと思います。
まして、そのようなマインドコントロールにかかって、学会組織に忠誠を誓っている人が国家機密に携わり、またこれからは企業内の情報はもちろんのこと、住基ネットによって個人情報をも簡単に漏洩できるポジションのいたるところにいるということです。そこには官僚としての倫理も、企業倫理も、社会倫理をも押しのけ、学会組織の論理が優先されているというわけです。それも、信仰が裏づけされたものですから、その信仰に敵対する人の個人情報はいとも簡単に漏洩操作するでしょうし、そのことができる大変な組織を日本は抱えているということですね。
しかもそれはトップの池田さんの命令などなくても、勝手に学会の為という強い連帯感のもとで、当然のごとくたった3人でも組織的に行える団体だと。これは、将来、池田さんが亡くなられてしまうことになっても、その組織力は衰えることはないなと考えたさせられるものだと思います。
もしかすると、それを取り締まる警察だって、学会組織に忠誠を誓っている人であるかもしれないわけですね。検事だって、弁護士だって、裁判官だってそうかもしれません。

37アネモネ:2002/10/01(火) 00:32
(つづき)
今回、この漏洩事件を小さな記事ながらも創価大という文言を入れて報道したのは、朝日新聞でした。個人情報保護という観点からすれば、非常に注目されるべき事件であるにも関わらず、他の新聞各社は報道に踏み切らなかった背景は、恐らく学会書籍の広告料の問題に絡んでのことと思われます。となると、国民にはなかなかその問題の重要性は伝わらないわけです。
日蓮聖人は信徒に、権力に屈することなく仏法を持って迫害に耐えることを教示されています。権力に屈することなくということ。この意図するところは、決して社会に反することをしても良いということではないはずです。ここを決して履き違えてはいけないと思ういます。その良心や理性が働かないほどマインドコントロールされている組織は、カルトといっていいのではないかと思います。

ところで、この逮捕された3人は、政教新聞の池田さんの言葉によると、除名されたように思われますが、これも先に書いた私の宗門批判と同じですね。そんなふうな人格に教化したのは、紛れもない学会組織なわけです。世間体を気にして門弟を切り捨てる前に、なぜそのような信徒の振舞いが起きたのかという自省のもとに立った分析があってしかるべきかと思います。それこそが社会に対する宗教団体の責任のはずです。ある意味で、私の目からみるとこの3人も被害者に思えます。
それにしても、池田さんの言葉には、「我らの和合僧より」という文言があるわけですが、この僧というのは、誰のことを指しているのかなと思いました。宗門の僧ではないでしょうから、よくよく突き詰めると、自分たちは僧侶の意識だったのかなとも思えます。それならそれで、宗門とのゴタゴタは、いつまでも下劣な言葉のなじり合いを続けるのは、信徒の教導上も良くないものですから、お互いに僧という高尚に意識で法論するなど、迅速に解決して頂きたかったものだと思います。

38犀角独歩:2002/10/01(火) 05:32

アネモネさん:

投げかけられた疑問点、賛同します。
事物を批判しようとするとき、人身攻撃、人格攻撃を伴わずにいられないのが、大石寺系グループの有様ですね。ご指摘のとおり、この性格はまさにグループから引き継がれたものですね。

この手の批判は不快感が伴います。当該のMLは私も読んでみましたが、主張する内容よりも、書かれている文章の感情的な側面ばかりが記になりました。また、賛成側も批判側も同一口調、人を貶め、侮辱する言辞を無意識に選んで使用していながら、その面についての反省もない点で共通しています。

「目的のためには手段を選ばない」という言葉がありますが、私は正当な目的のためには正当な手段を選ぶべきであると常々思っています。それは言辞についても同様でしょう。

大石寺系グループ・メンバーは法華経を依経とするのでしょう。ここに記述される菩薩像は、日蓮をはじめとする法華経信奉者の明鏡であったはずです。

本来、仏教の正義を貫くべき僧侶が間違っている、さらに多くの人々から非難を受け、石を投げつけられ、杖打たれ、斬りつけられ、所を追われる。そのような事例は法華経の中に説かれています。言うまでもなく勧持品二十行の偈がそれです。

 唯願不為慮 於仏滅度後 恐怖悪世中 我等当広説
 有諸無知人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍
 悪世中比丘 邪智心諂曲 未得謂為得 我慢心充満
 或有阿練若 納衣在空閑 自謂行真道 軽賎人間者
 貧著利養故 与白衣説法 為世所恭敬 如六通羅漢
 是人懐悪心 常念世俗事 仮名阿練若 好出我等過
 而作如是言 此諸比丘等 為貧利養故 説外道論議
 自作此経典 誑惑世間人 為求名聞故 分別説是経
 常在大衆中 欲毀我等故 向国王大臣 婆羅門居士
 及余比丘衆 誹謗説我悪 謂是邪見人 説外道論議
 我等敬仏故 悉忍是諸悪 謂斯所軽言 汝等皆是仏
 如此軽慢言 皆当忍受之 濁劫悪世中 多有諸恐怖
 悪鬼入其身 罵詈毀辱我 我等敬信仏 当著忍辱鎧
 為説是経故 忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道
 我等於来世 護持仏所嘱 世尊自当知 濁世悪比丘
 不知仏方便 随宜所説法 悪口而顰蹙 数数見擯出
 遠離於塔寺 如是等衆悪 念仏告勅故 皆当忍是事
 諸聚落城邑 其有求法者 我皆到其所 説仏所嘱法
 我是世尊使 処衆無所畏 我当善説法 願仏安穏住
 我於世尊前 諸来十方仏 発如是誓言 仏自知我心

三類の強敵(ごうてき)に遭ったとき、しかし、その菩薩の選ぶべきは、やり返すことでも、相手を詰ることでもない。堪え忍ぶこと、そして、少しも瞋ることなく、相手を憐憫すること、さらには、どのような相手でも、尊ぶことなのでしょう。それは二十四文字の法華経として昇華していきます。

我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。

この指標が、結局、今泉さんと、そこに連なる賛同者、あるいは批判者の文言からは少しも読み取れない、いわば、この論争と顛末は、少しも法華経の精神に基づいていないと私には思えるわけです。

法華経を依経とすると言いながら、その内容を読むことを禁じる大石寺系ならではの、結果であったとも思えるわけです。

39犀角独歩:2002/10/01(火) 07:13

勧持品二十行の偈の梵本直訳は以下のとおりです。


『絶えざる努力』の章

世尊よ、憂慮めさるな。あなたが入滅されたあとの非常に怖ろしい時世に、
そのときわれらはこの最高の経典を宜揚しましょう。
そしり罵り、おぴやかし、また捧を振り上げるのを、
愚かな輩のあらゆる追害を、指導者よ、われらは堪え忍ぷでありましょう。
愚かな理性の輩、不正直な輩、心の凶悪な輩、愚かで高慢な輩、
得ないものを得たと思う者は、後の怖ろしい時世に、
『森林に住み、また襤褸(ぼろ)をまとって、わたしは苦行をした』と、
愚か者はこのように語るでしょう。
美食にあこがれ心奪われて、在家の人々に教えを説く者が、
六神通をもつ者(仏)のように、敬われるでありましょう。
怖ろしい心の持主たち、邪悪な輩、家や財産のことのみ考える輩、
われらが修行する森の隠れ家にはいりこんで、われらを罵りそしる輩、
利得と人から崇められることに身を委ねる輩は、われらを誣(し)いて
『これらの僧たちは外道のごとし』と言い、おのれの智慧を誇示しましょう。
『利益と人から尊敬を受けるために、みずから諸経典を編述して、
集まった人々の真中て説く』とわれらを誹謗するでありましょう。
王者たちに、王子たちに、あるいはまた王の大臣たちに、
婆羅門たち、また長者たち、さらには他の宗教の僧たちに、
われらが外道の言葉を語ると、われらを非難するでありましょう。
偉大な聖仙(仏)たちを敬う心によって、われらはそのすべてを堪え忍ぴましょう。
如何なる邪悪な考えの持主がわれらを軽蔑しましょうと、
そのとき『これらの者も仏になるんだ』と、
われらは如何なる場合にも堪え忍ぴましょう。
時勢の堕落という怖ろしく物凄い大恐怖の際に、
ヤクシャの姿をした多くの僧たちが、われらを罵るでありましょう。
世間の主(仏)に対する尊敬の心によって、この世において、
われらは困難な仕事を耐え忍ぴましょう。
忍耐の鎧を身につけて、われらはこの経典を世に弘めましょう。
われらは、仏よ、身体も生命も惜しみませぬ。
あなたから委託されたものを奉じて、われらは「さとり」を求めるのです、
後の世には、無如でありながら深く微妙な意義のある言葉を、
如何なる邪悪な僧たちが語るか、世尊こそ知っていられましょう。
僧院から追われようと、数々の悪ロを色々言われようと、
われらは不平を言うことなく、顔をしかめながらも、幾度でもすぺてを忍ぴましょう。
あなたが入滅された後には、仏の命令を憶い出して、
われらは自信をもって会衆の真中で、この経典を語るでありましょう。
都市であれ、村落であれ、この世でこの経典を求める人がありますならば、
われらは何処にでも出向いて行って、指導者よ、
あなたから委託されたものを、その人に授けましょう。
あなたの命令を、この世の王者よ、われらは遂行しましょう。偉大な聖仙よ、
あなたは憂慮めさるな。安心して、心静かになされよ。
世間を輝かす者よ、われらはすべて十方から集まり来たって、
真実の言葉を語りましょう。われらの意向をよく知りたまえ。
(『法華経』岩波文庫/『正しい教えの白蓮』岩本裕訳 P237)

40やーこ。:2002/10/01(火) 18:20
横レス、遅レス失礼致します。
本日台風でパソコンに釘付けになった方もおいででしょう。
また、教学にいそしむ都立高校生、都市区町村立中学生信者もご覧かと思います。
今泉さん他の意見、論述をご覧になり、又、各富士門流団体内における「非社会的」なことにお気付き頂けたかと思います。
アネモネさん独歩さんご指摘の通り、私の組織でも、正しい事を主張しているのでさえ、気付かず平気で悪口を用いてます。
これは各団体だけにとどまるところだけでなく、富士門流団体全般に広がっていると思います。
それがどうも他の人に聞くと、(続)

41やーこ。:2002/10/01(火) 18:33
うさんくさい、嫌だと言われます。

理不尽だと思いませんか。(携帯入力で文章つながらなくて意味分からなかったらすみません)

42やーこ。:2002/10/01(火) 19:26
ちなみに、私はかつて創価学会員に囲まれて暮らしておりましたが、残念ながら普通か幸せに過ごせている人を見たことがありません。
自殺、転落死、ストーカー、家族内暴力、子供を使った選挙運動など。
宗門においても、過労や病気で倒れたお話しか聞きません。
これも一種のカルト性なのか、それとも私がいる地域だけのお話でしょうか。
ならば何の為に信仰をしているのでしょうか。

43いちりん:2002/10/01(火) 21:20
こないだのオフ会の時に、ある方が、
「信仰をしていたら不幸にならない。
不幸になるのは、信仰をしているんじゃなくて、活動をしているからだ」
と言っていましたが、なるほどなあと、思ったのです。

本人は、信仰と思っていても、じつは「活動」であり「営業」であったり。
宗教団体と思っていても、じつは、たんなる企業であったりしますね。
しかしまあ、それなりに、学びはあると思いますけども。

44犀角独歩:2002/10/01(火) 22:19

> しかしまあ、それなりに、学びはある

ここでしょうね、いちりんさんの智恵と魅力は。
まあ、どんなとところにいても、得ることを出来る人は得られるのですよね。それは地獄に釈迦という譬えでも仏教は指示しているのですね。

達人の域であると思います。大切ですね。

45顕正居士:2002/10/02(水) 22:40
檀徒、信徒、会員

ある団体のメンバーであるというのは、

1-団体の財産について権利を有し、団体の解散の際には出資額に応じる等の
規定により債権と及び債務を分有する。
2-総会等に出席し、直接に議決権を行使するか、間接に代議員を選出し、
団体の意思決定に参加する。

者をいう。わが国の仏教諸宗派の「檀徒」はこれに当たる。寺院の財産に
ついて権利を有し、寺院の意思決定に議決権を行使する。又、包括宗教法人の
宗会議員を選挙する。

「信徒」、「会員」は団体の財産について権利を有せず、議決権も持たない
から、これらは団体のメンバーではない。ファンクラブとかショッピングの
「会員」と同じことで、単なる「お客様」である。法律上のいかなる身分
でもないから、「除名」も「脱会」も意味は無い。「除名」はアクセス禁止
に過ぎず、取引を断る権利は誰にもあるのだから、「除名取消」等の活動は
迷惑行為となり得る。「脱会」の必要もまったく無い。有名な人で、まだ
その会員だとおもわれるのが迷惑なら、そう発言すればよい。団体の犯罪
行為を請け負えば、「会員」であってもなくても処罰されるし、でなければ
無問題である。創価学会の場合は「総務」が会のメンバーである。以外は
単に創価学会の消費者である。「信徒」、「会員」は何の意味も有たない。

46犀角独歩:2002/10/02(水) 23:25

顕正居士さんの言葉を返すわけではありません。私がメンバーと言うときは、以下の(2)ほどの意味で使っています。また、カルト問題を考える場合、信徒・信者を指してメンバーと言うこともあります。法律的な規定に基づくものではありません。

メンバー[member]
(1)団体の構成員。会員。「―に加わる」
(2)顔ぶれ。「いつもの―が集まる」

47ガンコ:2002/10/03(木) 02:16
皆さんはじめまして、ガンコともうします。顕正居士さんのご指摘にはハッとさせられました。わたくしの知り合いに創価学会からお金を返して貰ったという人がいます。なるほど、御供養の返還を求める運動なり訴訟は、「消費者」がメーカーやお店にクレームを発するのに似ているなぁと。

48アネモネ:2002/10/03(木) 10:12
>38 犀角独歩さん

早々にご賛同を頂いておりながら、レスが遅れまして失礼いたしました。
改めまして、ご賛同ありがとうございます。

お示し下さった勧持品二十行の偈の中で特に、

遠離於塔寺 如是等衆悪 念仏告勅故 皆当忍是事
「僧院から追われようと、数々の悪ロを色々言われようと、
われらは不平を言うことなく、顔をしかめながらも、幾度でもすべてを忍びましょう。」

今回のことでは、特にこの精神がとても大事なことだと思いました。

>法華経を依経とすると言いながら、その内容を読むことを禁じる大石寺系ならではの、結果であったとも思えるわけです。

そうなんですね。法華経を依経とした日蓮聖人の門下でありながら、法華経を学んでいなの。にもかかわらず僧侶たちは、この法を弘めよと折伏を信徒に煽っているわけですね。ところが信徒は学んでもいないのに、絶対だと大きな確信を持って人々を勧誘しているわけですね。実はここから信徒は、潜在的に精神不安を抱えるようになっているのではないかと思えます。言葉が一様に暴力的になってしまうのも、そうした潜在的な精神不安から起きているという側面もあるかもしれないですね。

49犀角独歩:2002/10/03(木) 11:09

48 アネモネさん:

> 信徒は、潜在的に精神不安

これはグループが用意した強迫観念ですよね。
「やれば功徳、やらなければ罰」「やれば浄土、やらなければ地獄」この罰功徳論・浄土地獄論に脅迫されているわけですよね。

「恐怖症は人々から選択の自由を奪ってしまう」

「カルトの恐怖症も人々の選択の自由を奪う。メンバーは、グループの安全圏を離れると自分は破滅してしまうのだと本気で信じる。自分が…成長する道はほかにないと考える。このマインド・コントロールの手法によって、彼らは事実上奴隷にされてしまっているのである」

「破壊的カルトは、メンバーがそもそもグループをやめること自体を怖がるように、恐怖症を心に植えつける。こうすることで彼らは、自由な選択の扉を閉ざしてしまう。人々は破壊的カルトに入る自由はもっていたのだが、やめる自由はない。実際、破壊的カルトの目には、だれかがそのグループをやめる『正当な』理由など存在しない」

今回の30万登山を煽った人々は

「私は、(略)教え込みの修練会でつくられた『幻想』に、身を捧げていたのだ。私はメシア、つまり戦争と飢餓と堕落を終わらせ、地上天国を打ち立てることのできる人物に従っているつもりだった。こういう崇高な目的のために、自分を犠牲にしてもかまわなかった。一人のメンバーとして、私は人々に愛と真理の究極的基準を教えているのだ−−そして模範的な生活をしているのだ、と思っていた。ところが恐ろしいことに、私は神の名において自分の誠実さをだめにしていたのだと気づいた。自分が組織の中で上昇して(略)私はますます憑かれた人間になっていった。権力がほとんど中毒になっていて、選択するときには、道徳的に正しいことより、自分の権力を守り増大させることを基準としはじめていた」

これを石山僧俗に置き換えれば、

「私は、(略)御講・会合でつくられた『幻想』に、身を捧げていたのだ。私は地涌の菩薩、つまり戦争と飢餓と堕落を終わらせ、仏国土を打ち立てることのできる人物に従っているつもりだった。こういう崇高な目的のために、自分を犠牲にしてもかまわなかった。一人の信徒として、私は人々に慈悲と真理の究極的基準を教えているのだ−−そして模範的な生活をしているのだ、と思っていた。ところが恐ろしいことに、私は仏の名において自分の誠実さをだめにしていたのだと気づいた。自分が組織の中で上昇して(略)私はますます憑かれた人間になっていった。権力がほとんど中毒になっていて、選択するときには、道徳的に正しいことより、自分の権力を守り増大させることを基準としはじめていた」

しかも、その選択肢はグループが用意するのだけれど、メンバーは必ず、自分で選択したと思い込むようにも仕組まれているわけですね。

「マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう」

どうして、かくも大石寺系グループ・メンバーは、統一協会を批判したはずの『マインド・コントロールの恐怖』の指摘に、かくも当て嵌まってしまうのでしょうか。

50ガンコ:2002/10/03(木) 15:04
わたくしは顕正会員なのですが、半年ばかり前にこの掲示板を知って驚きました。顕正会では教えてくれないようなことが次から次に出てきて頭がクラクラしています。なかでも戒壇の大御本尊の偽作説。まったく知らなかったわけではありませんが、当掲示板ではそれが有力視されているように思われます。もしこれが本当なら大変です。長年にわたって莫大な供養をしてきた人は「金返せ」と言いたいところでしょう。わたくしの場合は顕正会に返還を求めるべきなのか、それとも大石寺を訴えるべきなのか、あるいは無駄なことなのか、悩ましい話です。

51問答迷人:2002/10/03(木) 15:26

ガンコさん

書き込みありがとうございます。

>長年にわたって莫大な供養をしてきた人は「金返せ」と言いたいところでしょう。

それは、無駄なことだと思います。なぜなら、戒壇の大御本尊の偽作は、何百年も前のことであり、日蓮正宗としては、日蓮聖人の建立であるとの立場をとり続け、偽作も真作に関わらず、供養に返還義務はない、という事になるでしょう。しかも、これは宗教の教義の根幹に関わることであり、かりに裁判所に訴えても、『教義判断は裁判に馴染まない』として、門前払いされることになると思います。

52犀角独歩:2002/10/03(木) 16:42

ガンコさん:

はじめまして。

顕正会のように実際に戒壇之漫荼羅を見ることもなく、石山に足を運ぶことも、坊さんに会うこともない状況に置かれた方々は、自分のイメージのなかで、それぞれが肥大化していくでしょうね。

それが実際に戒壇之漫荼羅を担いだり、修理したり、写真を撮ったりした人は、魔法が解けてしまいます。

石山も「故郷は遠くにありて思うもの」、内部に接触の機会を持ち、さらにその教義資料を精査すれば「何だ、こんなものであったのか」となります。

殊に興師・目師に理想化され「下種僧宝」とまで高められたイメージは、実際の坊さんに会うと音を立てて崩れてしまいますね。

事実を事実として知ること、それは自分が自分に課す最大の命題であるわけでしょうね。。

53ガンコ:2002/10/03(木) 18:13
問答名人さん、独歩さん、ご教示ありがとうございます。わたくしは顕正居士さんの、信徒は単なるお客様に過ぎないとのお言葉を見て、考えたわけです。一般の消費者だったら、偽物をつかまされれば詐欺で訴えるなり、二度とその相手に近づかないとか、そのお店で絶対に買わないとかするでしょう。それが常識というものです。ところがわたくしを含めて、顕正会のみならず法華講も学会も中にいる人々は様々な矛盾を感じながらも歯をくいしばってしがみついている。こうした姿もマインドコントロールの為せる業なのでしょうか。 

54犀角独歩:2002/10/03(木) 18:27

ガンコさん:

> 矛盾を感じながらも歯をくいしばってしがみついている。こうした姿もマインドコントロールの為せる業なのでしょうか

と、私は思います。

何よりいちばん言えることは「やめたら罰が当たる、地獄に堕ちる」と言われるわけですが、私にしても、他の人にしても、ちっとも罰なんか当たりませんね。ここの掲示板だって、もう2年近くもやっています。言いたいこと、書いているのはご存じの通り。
この前のミニオフでは15人も集まりましたが、みんないい人で、元気いっぱいにこやかです。会ってみた、本場物の脱会者ですよ。なかには現役の人もいましたが(笑)

中にいたときに言われていたことと、外に出てみた現実は、まるで正反対の訳です。

でも、中にいる人は頑なに、罰が当たることを恐れ、功徳(御利益)が出るように必死になっているわけでしょう。ストレートに言えば、「嘘」があるわけです。その嘘を真実(まこと)であると信じ込まされているわけですね。これは何らかの心理操作(マインド・コントロール)があるということではないでしょうか。

たとえば顕正会の人、いま仮奉安殿に戒壇之本尊なるものが入っていると信じているでしょう。では、顕正会の何人の人がそれを実際に自分の目で見て確かめたのでしょうか。確かめもせず、「大石寺の正本堂から仮奉安殿に遷されたのは戒壇之本尊である」と信じているわけです。「何でそんなことが言えるのか」と会の中で聞いて、答えられる人はいないはずです。何故ならば、仮奉安伝に入った顕正会員はいないわけです。それなのに入っていると確信を持って語られていますね。これは信じ込まされていると言うことですね。こういう自分で確認もしないことを「確信を持って語られること」に、人は注意を払わなければいけないのでしょう。それが出来ずに、言われたことをまっすぐに信じる美徳が語られるところには、必ずマインド・コントロールの罠がひそんでいるのではないでしょうか。

55いちりん:2002/10/03(木) 21:25
そうですね。オフ会は、みんな明るい元気な方たちでした。

わたしも創価学会を辞めて、日蓮主義も離れまして、それこそ念仏もとなえたり、真言を唱えたり、坐禅くんだりしますけれども、そこそこ、元気であります。

頭も七つに割れませんし、病気にもなりませんし、不幸のどんぞこで喪有りません。顔が黒いのは自黒なので罰のためではありませんね。

たとえば、もしも体調がおかしくなったりするのは、間違った信仰だとか、間違った本尊だとか、組織を離れることにあるのではないようですね。

たとい「正しい信仰」をしていても、「過労」「睡眠不足」「不規則な生活」「バランスの悪い食事」で、まちがいなく体調はおかしくなります。

そして、大切なのは、ストレスですね。ストレスがたまると、心身にダメージを与えます。

たとい「正しい信仰」であっても、そのことに執着してしまったらおかしくなります。
たとえば、「うちが正しくて、あんたは間違い」という怒りの心に冒されると、それがストレスになって、体調は悪くなります。
そして、他宗派を、憎悪したり侮蔑したりすることも、ストレスになった体調を悪くしますね。

だから、本尊が正しいとか、教義が正しいといことの問題よりも、自分の心がどうかということですよね。心が、怒りやむさぼりや憎悪などに汚染されていると、人生は狂ってしまうんでしょう。わたしは、そう思います。

56ガンコ:2002/10/03(木) 22:10
独歩さん、レベルの低いわたくしのために大変わかりやすく説いて下さって、ありがとうございます。せっかくですから質問させていただきます。出世本懐成就御書=聖人御難事に「余は廿七年なり」とありますがこれは止めて置きます。この御書には他にも重要な御指南があります。すなわち罰です。むろん近年カルトと目されている教団が御書を悪用している可能性は否めませんが、いずれにしても大聖人が罰を御指南下さっているのは間違いないところです。大進房等の現罰をどのように考えればよろしいでしょうか。

57顕正居士:2002/10/04(金) 04:17
ガンコさんのおっしゃるように、

>御供養の返還を求める運動なり訴訟は、「消費者」がメーカーやお店に
>クレームを発するのに似ている

「本堂を修理する」と云い、檀徒から分担金を集め、車を買ったら、それは
「背任」であり、会社の株主に当たる檀徒は訴訟ができます。対して、
新興宗教(単立法人)と信者の関係は、企業と消費者のそれでありますから、
御供養金返還訴訟などは受理されます。この関係では、

予約金を払ったが、広告とは商品がぜんぜん違う、かつ、そのことが計画的
である場合、何事かを真実と錯誤させて集金する行為、「詐欺」になります。
「詐欺」の成立は、「真実と錯誤させる」ことが要件ですから、

1-ある物体を尊崇すると万福を将来する。
2-この株は来年かならず倍になる。
3-五年後に富士山が爆発する。

などは、真実と錯誤させないので、「詐欺」を構成しません。「ネズミ講」も
詐欺ではありません。ただし、著しく有害な活動であるゆえ、「無限連鎖講」
を禁止する特別の法律ができました。また、統一教会の「霊感商法」訴訟で、
とんでもないことを云い、脅迫的の言動をもってした集金は、返還され得る
という方向が出ました。が、基本的に、大多数の人が真実と錯誤しない事柄を
述べて集金しても、詐欺に当たらないし、脅迫などがなければ、犯罪を構成
しません。

58ガンコ:2002/10/04(金) 07:30
顕正居士さん、ありがとうごさいます。しかし難しい話です。大聖人の出世の御本懐と言っているんですから、違うのであればダマされたと思うわけです。まぁ、問答名人さんも御指摘のように裁判の対象にはならないかもしれませんが、そうであっても本物か偽物かの問題は残ります。なんとかしたいのですがどうしたらいいでしょう。独歩さんのおっしゃるように自分で勉強して自分で答えを出すしかないということなのでしょうか。

59犀角独歩:2002/10/04(金) 08:21

ガンコさん:

> 「余は廿七年なり」とありますがこれは止めて置きます。

まあ、留めることはないでしょう。
堀亨師はこの27年を戒壇之漫荼羅図示とは関係がないと明言されていました。
この点は以前、問答名人さんとも話し合った点です。27年は逢難成就を表したものでしょう。

> 大聖人が罰を御指南下さっているのは間違いないところです。大進房等の現罰をどのように考えればよろしいでしょうか

こう記せば、びっくりされるかも知れませんが、聖人が言ったからといって正しいとは限らないでしょう。先ず、この点は頭を柔軟にするべきだと進言しておきます。

しかし、日蓮の言が正しいという前提でも、今の罰論はおおよそ日蓮の意に反しているでしょう。

本尊に背くという意味は、法華経に背くと言うこと、その意味は正しい法=正法(妙法ですね)に背くと言うこと、では正しい教えとは何でしょうか。正しい生き方、正しい考え方ということでしょう。その正しさを妙法蓮華経というわけですね。

妙法蓮華経が正しいのではない、正しいことを妙法蓮華経(正法)というのでしょう。この違いが非常に重要なのです。

正しい教法(生き方)に背けば、悪い結末となる、これは当然のことです。これを罰ととらえることはできるでしょう。

では、この正しいと言うことをよく考えてください。
折伏といわれる行為は正しい。こう、よく言われます。しかし、これは短絡ですね。正しい折伏の仕方をしなければ、それは「正しくない」、つまり、これが正解です。ここに罰があるのではないでしょうか。

○○会でいうところが、本当に聖人の言う「正しいこと」と違っていたら、それは正しくない、こういうことになります。さすれば、そこに罰はあるでしょう。

罰とは正しくない結果を言うわけです。
組織は人間の作ったものです。指導者も絶対ではありません。その絶対でないものを絶対ということは正しいことではないでしょう。正しくなければ罰と言うことになるでしょう。

しかし、いま言われている罰とはぜんぜん違うでしょう。「○○会の言うとおりにしなければ罰が当たる。先生の指導に背くと罰が当たる。法華経を誹謗すると罰が当たる。御本尊に背けば罰が当たる。日蓮大聖人を謗ると罰が当たる」と特定の団体・個人・崇拝対象が罰を当てるという裁きの対象化してしまっています。

○○会が間違っていれば、それを正さなければ罰が当たる。先生の言うことでも間違ってることをすれば罰が当たる。法華経と雖も、その中にもし間違いがあればそれに随えば罰が当たる。御本尊を拝むのでも悪いことをしながらでは罰が当たる。つまり、基本は「正しい」ということです。

けれど、正しいという基準に悩みます。何がいったい正しいのかということです。
私はこの基本こそ、八正道であると思います。(1)正見(2)正思惟(3)正語(4)正業(5)正命(6)正精進(7)正念(8)正定の八つです。

ところが実際は、「自分は正しい法を保っているから」とか、「正しいことを勧めるんだから、ちょいと嘘を言って人を引っ張ってきても」とか、大善のためには小悪は許される如き愚案が横行します。こんな考え方(しかできないこと)事態が正に背いた罰なのではないでしょうか。

元より、私は「罰が当たる」などというのは組織のご都合、人心操作のかけ声以上の意味はないと思っています。

八正道に則らない法華経はないし、唱題もないでしょう。八正道の実践のところに罰はありません。それは仮に法華経を保たず、日蓮漫荼羅も信ぜず、唱題もしなくても八正道に生きる人には罰はないでしょう。

他の宗教の正しい実践者も意図せずして、この八正道を実践しているのでしょう。そのような人々は自身は浄く、知る人には尊敬の念を与えているでしょう。

膠着した建前論を捨てることは、ガンコさんが言う罰から逃れる最大の処方であると私は思いますよ。元より「死んで地獄に堕ちる」的罰論は、仏の無記に反します。聖人の言とて私は断じて採用いたしません。

60犀角独歩:2002/10/04(金) 08:32

―59からつづく―

さて、「大進房の現罰」ということですが、私はこれを罰であるか否か、そんなことはわからないと思います。もしかしたら、罰であったのかも知れません。罰でなかったのかも知れません。さして重要なことと私には思えません。

そんな私の余裕に対して、ガンコさんは、なぜ大進房に拘るのでしょうね。

「大進房のような罰が自分に当たる」、そんな恐怖の“刷り込み”を、いつ・どこで・なによってなされたのか、その自己分析をすることの法がよほど重要なことでしょうね。

心を澄まして、よおく考えてみてください。いつ・どこで・なにによって、誰によってと言い換えてもいいですよ。罰論が自分を支配するようになったかを、よろしければ、ここに披瀝してみてください。

61いちりん:2002/10/04(金) 10:10
独歩さん

>聖人が言ったからといって正しいとは限らないでしょう。先ず、この点は頭を柔軟にするべきだと進言しておきます。

至極、当然なことですけど、わたしなど、こんなあたりまえのことが、わかるまで、えらく年月がかかりましたですね。

>正しい生き方、正しい考え方ということでしょう。その正しさを妙法蓮華経というわけですね。妙法蓮華経が正しいのではない、正しいことを妙法蓮華経(正法)というのでしょう。この違いが非常に重要なのです。

ここは、とても重要だと思いますね。

『法華経』とは、『法華経』という経典のことではなくて、いわば宇宙の真理である。その宇宙の真理について書かれたのが『法華経』という経典だと思います。

それは、『法華経』を読めばわかります。『法華経』を説くのに、六十小劫もかかったとか(序品)二十千万億も偈がある(常不軽菩薩品)とか、書かれています。たんなるクマラジーヴァが翻訳してできたところの「妙法蓮華経」という経典のことだけではないということがわかります。

その宇宙の法則というものは、「すべての人が尊い」「すべての人が等しく価値がある」「すべての人が幸せになれる」というようなことだと思っています。ここのところを、端的にあらわしたのが、不軽菩薩の実践なのでしょう。

「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以はいかん、汝等皆菩薩の道を行じて、 当に作仏することを得べし」ということばです。

わたしは、あなたを敬います。どんな人でも、どんな立場の人でも、どんな思想や信条を持った人でも、差別することなく、等しく敬うわけです。そして、等しく、みんなが幸せになれる。そこには差別はないというわけです。

だから、「自分たちだけが正しい」「自分たちだけに価値がある」「自分たちだけが幸せになれる」という考えは、『法華経』に反しているわけですよね。

「自分たちと違う信仰をする人は、間違い」「自分たちと違う信仰をする人は、価値がない」「「自分たちと違う信仰をする人は、幸せになれない」
そういう考えは、『法華経』に反しているわけです。わたしは、そう思っています。

だから、「自分たちだけが正しい」として頑張って、信仰をしない人、他の信仰をする人を、憎悪したり悪口を言ったり軽蔑したりする、そういう心が、不幸を生んでいくともいえましょうか。

62いちりん:2002/10/04(金) 10:34

わたしは「功徳」とか「罰」とかって、なかなか一概には、いえないなあと思っています。

病気が治ること、大学に受かること、出世すること、家が建つことが、功徳であり幸せなのかなあと。
病気になること、死ぬこと、大学に落ちること、会社をクビになること、家が火事になること、それが罰であり不幸なのかなあと。

このあたりは、現象面で見たら、わたしたちの眼で見たら、それはわからないですよね。

病気になって、なおらなくても、そのまま幸せな人もいるし、健康になって不幸になることもあるし。大教団の会長になって、何千万人も信者がいて生き仏のように尊敬され、全世界から勲章や名誉をもらい、毎日、自分のことを誉める機関紙が何百万部も発行されていても、その人の人相やことばとか見てたら、ちっとも幸せそうじゃないなあと思ったり。

まあ、日蓮さんなどは、現象面で言えば、罰であり不幸ですよね。
生涯、流浪の身ですね。さだった住まいはない。そして、いつも貧しくて不自由している。
最後は、長期の下痢になって、いつもお腹が痛くて、いつもぴーぴーしている。常陸の湯で養生しようとして旅をしたら、辿り着けなくて、途中で死んでしまう。
そして、弟子たちは互いに反目して、分裂してしまう。

さらに、何百年後には、自分を信仰する大教団ができたけれども、みんな自分を本仏だとか勝手に崇めてしまったり、勝手に板曼荼羅などをこしらえて拝んだりして、本意を理解しない。そして、おなじ信仰をする人たちが、毎日のように、いがみあい罵り合い、憎しみあっている。
こうしたことをみれば、日蓮さんて人は、すごく不幸な人だといえるわけです。

まあ、いえることは、日蓮さんが幸福であったか、不幸であったか、それは本人にしかわからない。わたしたちには、わからない。

63犀角独歩:2002/10/04(金) 10:50

いちりんさんが書いてくださると、すっかり柔らかく、わかりやすくなります。さすがです(笑)

法華経というのは、こんなに「正しい法があるのだ」ということを記した“本”ですね。この法、つまり教え(教法)とは、実は一念三千なんかではなく、菩薩道ということですよね。菩薩の生き方を教えたのが法華経ですね。

おっしゃるとおり、それは不軽菩薩に端的に表現されています。私は不軽菩薩品が神力品の直前に置かれているのには大きな意義があると思うのです。不軽菩薩品で菩薩の在り方を語り、そして、神力品では、それを伝える重要さを嘆じるという順番が、です。

菩薩は自分たちが正しいとか、あなたは間違っているなんていうことは言わないわけです。ただ、堪え忍び、そして、相手を尊重することを実践するばかりですね。

渡部照宏さんだったと思いますが、法華経という経典そのものを神秘化して、崇拝の対象にするのは、ちょうど、薬の効能書きを読んで、薬そのものを飲まないようなものだと喩えていたと思います。まあ、そんな呪術性を促す側面が、では法華経の物語にないかといえば、ないとは言い切れませんが。だから、善い面をとって悪い面を捨てる知的作業はどうしても必要になるのだと思います。

> 62

この日蓮の実像分析も、ほんとにもっともであると思います。

64いちりん:2002/10/04(金) 10:52

だから、現象面をとらえて、それが功徳だとか、罰だとか、幸福だとか、不幸ということは、いえない。それは、わたしたちには、わからないことだとおもいます。

わたしたちは、人をみて「裁こうとする心」「価値があるとかないかと判断する心」が、出てきます。
「それみたことか」「だから、あの人はああなんだ」「ああやっぱりね」と言いたくなります。言わなくても、心に思いますね。

とくに、正しい信仰などという思いが強いと、あれやこれに対して、いろいろ文句を付けたくなってきます。なにしろ、自分が正しいから、自分たちは正しいから、間違っている人たちは許せないわけです。

そういう心が、こんどは、自分に対しても、裁きを行うわけですよね。
わたしはだめだ、わたしは足りない、わたしはいけない、と。

それで、「あるがまま」の自分ではいられなくて、いつも何かにせかされて、落ち着きがなくて、イライラしてしまう。そういうことが、まあ幸福とはいえないですよね。いるがままに、くつろげないのだから。

ある意味で、自分が正しいという思いを抱いたら、人生は、なかなかうまくいかないんじゃないかなあと思いますね。とくに「自分たちしか正しいものはない」「自分たちしか救われない」「この信仰でしか救われない」という思いを抱くと、それは、まったくうまくいかない。

だって、世の中は、自分が正しいと思うように、他の人も、自分が正しいと思っているわけだから。

自分は、これを正しいと思っているけど、だも他の人は、そうじゃないかもしれない。人それぞれで、いいんだなあ。
だからいちいち他を見て、間違っているとか、違うとかいって、怒って心を不穏にするよりも、人のことは構わないで、自分は自分の心を磨いていけばいい。自分が成長すれば、それでいんだから。
まずは、そういうことが、大きな前提だと思いますよね。

他人の過失をいちいちみるな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見なさい。大切なことは、心を浄めることだよ。そのように、お釈迦さまは言いました。

65犀角独歩:2002/10/04(金) 10:53

自己レスです。

> 薬の効能書きを読んで、薬そのものを飲まないようなものだと喩えていた

これはちょっと違いました。効能書きそのものに力があると、効能書きを拝むようなものだと喩えたのでした。要するに日蓮の漫荼羅信仰を揶揄したわけでしょうね。

66ガンコ:2002/10/04(金) 19:26
独歩さん、いちりんさん、どうも。
お二人とも大変リベラルでいらっしゃると思います。大石寺信徒は日蓮大聖人を
御本仏と仰ぐのですから、なかなか間違っているとは思わないですし、内心では
思っても口には出さないものです。
おそらく多くの大石寺信徒がこの掲示板を見ていて、あなた方の発言に注目して
いるのではないでしょうか。わたくしがその一人でした。小心者だから半年も前
からじっと息をひそめて見ていました。
大石寺の御法門は絶対である。と教わりましたし、少なくとも日蓮宗諸派の中で
は一番優れていると思っていましたので、いずれは誰かが独歩さんを倒すのでは
ないかとひそかに期待していたのですが、どうもそうはならないようです。
おそらく大多数の人々は、あなた方を謗法者と決めつけ親近しないようにしてい
るのでしょう。わたくしにはそうは思えません。むしろ自由な発想、柔軟な思考
に魅力を感じています。今しばらくお付き合い願いたく思います。

顕正会では大聖人の御金言として罰を重視していますが、独歩さんは軽視?して
いるということでしょうか。わたくしはまがりなりにも浅井に師事していますゆえ
浅井を支持したいという、無意識ではありますがそういう心理が働いているかも
しれないとは思います。ですが熱原の法難は門下最大の法難であり、大聖人の御
指示に従って日興上人は奔走されたと言います。その日興上人がのちに平左衛門
の一族滅亡を御覧になって罰と断定されたのではありませんか。これは相当なこ
とと思います。

むろん、独歩さんは罰を否定なさっているわけではありませんでした。
そうではなくて罰に怯えるわたくしの精神状態をご心配くださって、自己分析を
勧めてくだされたのだと思います。
これはなかなか難しいことです。しばらく考えさせて下さい。

廿七年に他意はありません。
出世の本懐と言って置きながら偽物では済まないではないかという、前の書き込み
の意味を含むだけです。
わたくしにそんな難しい法門を論じられるわけがないでしょう。

67犀角独歩:2002/10/04(金) 21:53

ガンコさん:

> いずれは誰かが独歩さんを倒す

心待ちにしておりますよ、そんな日を(笑)

> 熱原の法難は門下最大の法難

浄土門からすれば、念仏を謗じた罰と見られるでしょう。
しかし、こんなやり取りはナンセンスですね。

そもそも、苟もガンコさん日蓮の信徒というのであれば、罰即功徳という言葉はご存じのはずです。また、釈に「因謗堕悪必因得益」とある如くです。

> 平左衛門の一族滅亡を御覧になって罰…

これはたしかにそうでしょう。しかし興師はここで罰が当たって「ざまあ見ろ」と思ったのでしょうか。僧となることは菩薩戒を受けると言うことです。四弘誓願にの「衆生無辺誓願度」の衆生に平左衛門の一族は入らないのでしょうか。
『法蓮抄』に「然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おへざりしかば仏にならせ給はず」とあります。一切衆生に平左衛門の一族は入らないでしょうか。

罰は功徳の始まりあり、衆生済度の基ではないでしょうか。
罰をここまで考えず、罪人の処罰、恐怖の操作に利用するばかりである浅はかさを私は嘆くのです。

> 罰に怯えるわたくしの精神状態をご心配くださって、自己分析を勧めてくだされたのだと思います。これはなかなか難しいことです。しばらく考えさせて下さい。

私の考える罰の意義は以上の如く、自己分析に充て、お考えいただければと思います。

> わたくしにそんな難しい法門を論じられるわけがないでしょう。

これは奇妙なことを仰いますね。顕正会員は地涌菩薩の自覚、あるいは流類としての誉れはないのですか。先にも挙げた四弘誓願に「法門無尽誓願智」とあります。
真跡なくば、私はよくは引きませんが、顕正会なら引くでしょう『諸法実相抄』に

行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず

とあります。『開目抄』には

智者に我が義やぶられずば用ひじとなり

ともあります。
私に異論を述べるのであればよろしく教学を研鑽されるべきでしょう。

ただし、これは瞋って申し上げることではありません。
未来の竜象、精進を期待します。

68ガンコ:2002/10/06(日) 11:53
独歩さんへ。

慈悲、これがすべての大前提なのでしょう。罰を言いつのるあまり、かえって大事
なことを忘れてはいまいか、というご指摘かとおもいます。
はからずもスレッドテーマにふさわしい内容になってきた気がします。そのように
独歩さんが仕向けているのでしょうけど。

顕正会の強引な折伏が不評を買っていることは、内部の人間として大いに反省しな
ければならないと思います。
折伏において罰を言うのは大聖人の御意に適うことですが、その根底に慈悲がなけ
れば単なる悪口になってしまう。顕正会には慈悲の精神が欠落しているのかもしれ
ません。

しかし、これは浅井の意図するところではないし、浅井の本意でもないと思いま
す。わたくし達が先生の意にお応えできていないというのが本当のところです。
正直に言いまして誓願=ノルマに追われるあまり、折伏が雑になっている、正しい
折伏が行われていない、折伏の質が低下(悪化)している、と言えるでしょう。
指導者の責任ではないかと問われれば答えに窮しますが、今はまだ先生を責める気持ちは
ありません。
まだまだ魔法が解けていませんでしょう。こんなところです。

恐怖心がどのように植込まれるかの実体験ですが、どうも記憶があいまいです。
顕正会は洗脳教育などしていないと思います。あるいは洗脳というのは知らず知らず
のうちになされるものでしょうから、気がついていないだけかもしれませんが。

地涌の菩薩はたくさんいますから教学のできない人もいっぱいいるでしょう。
もちろん研鑽いたします。

ところで未来の竜象ってなんですか?

69犀角独歩:2002/10/06(日) 12:32

ガンコさん、こんにちは。

顕正会の折伏は折伏なんて言う代物じゃないですよ(笑)
この点については、以前も自分の体験を記したことがあります。
いまは、過去ロムから消えてしまったようなので控えから転載します。

*****
私が20代の時に創価学会の成果主義に嫌気がさして、石山末寺に、当時、私が尊敬していた僧侶を訪ねました。そのとき、どうしても折伏をしたい友人がいました。

「私はちゃんとした折伏をしたいのです。どうすればよいでしょうか」
「では、いま折伏をしようと思っている人と毎日、お寺の勤行にいらっしゃい。そして、1年経って、それでその人が信仰をしたいと言ったら御受戒を受けさせない」

私は、この言いつけを守り、1年間、雨の日も風の日もお寺に通いました。拒食症、極度の神経障害と闘っているときです。

1年後、本人の意志で御受戒を受けました。しかし、これでは折伏1人と言いません。
「家族の人は信心に同意しましたか。同意させることができたら、御本尊を下付しましょう」

そして、家族の承諾が取れて、御本尊下付、そして、この1人が次の折伏を成就したとき、ようやく、「折伏ができましたね」と言われるのです。
これが当時、石山が法華講に指導していた折伏の有様です。
*****

これは伝統的な石山の言う折伏ですから、顕正会がまだ妙信講と言っていたときは護られていたことでしょうね。浅井さんは、そんな律儀なところがありますからね。

> 地涌の菩薩はたくさんいますから教学のできない人もいっぱいいるでしょう

ガンコさんの文章は、最後でちくりと反論をして終えるという文章の成り立ちですね。
いないでしょうね、そんな人は菩薩とは言いませんから(笑)

竜象とは、今風に言えば、未来、人・社会の役に立つことになる人物を褒めて、期待して言う言い方ですよ。

70やーこ。:2002/10/07(月) 03:10
また横レス失礼しますが、過去にこのスレが出来る前に、うちの会社の人がトンデモ勧誘をした実態をかきこみしましたが、そのおまけです。
その人ではないのですが、私が別の同じエリアの人二人に聞いたのですが、やはり同じ会の違う会員に過去にやられたと聞きました。

改めて、その会のメンバーのすさまじさを感じました。

71菊水護国:2002/10/07(月) 23:14
私も折伏は数を競わす事では無いと思いますね。
私の知ってる方は10年折伏と言うのをしました。
すなわち、10年間、御講等につき合わせ、自分の家に来たときは勤行もつき合わせました。
その間、質問にも答えて、教学研鑽をしましたが、それでも自ら入信したいと言うまで待ちました。
そして、10年経った今年、自ら「御授戒を受けさせてくれ」と云って来たので入信させました。

また、我が寺院は簡単には御授戒を受けさせません。
住職面接で「不退転を確認して」御授戒を受けさせます。
心定まらない方は、寺院参詣は構いませんが、入信はさせません。
新しい寺院では難しいかな・・・。

72やーこ。:2002/10/08(火) 10:03
その通りですよね。みなさん。しゃくぶくはやはり、数を競わせることではありませんですよね。
私の会社他に(現在在籍のみ)被害をくわせた会のメンバーの行動はやはり、しゃくぶく「ノルマ」から来たのではないでしょうか。
かつての学会は数多くをしゃくぶくしましたが、たいてん者も多く、御ジュカイ後タクシーから御本尊をぽいっ! というのを聞いたことがあります。
ノルマ中心の信仰、考えただけでもぞーっとします。

73妙薬:2002/10/08(火) 10:38
 菊水護国さんのお寺は「特別」だと思います。現実には「簡単」に御授戒を受け
させています。「新しい寺院では難しい」という面もありますが、古い寺院でも難
しいですね。
 折伏は慈悲の発露ということが前提ですから、本来は「10年折伏」の精神が大事
だと思います。しかし、法華講連合会という組織(と僧侶の一部)が、結果として
「ノルマ」的なものを煽っているのも事実です。
 私も幾つかの寺院を知っていますが、数を競わせない(表面的な私の認識かも)
ところはありませんでした。
 「仏法は勝負」と言って、会員に折伏の数を競わせた創価学会と似てきたのが心
配です。私の杞憂なら良いのですが。菊水さんの寺院がうらやましい。

74ガンコ:2002/10/08(火) 16:23
皆さんこんにちは。
独歩さんこんにちは。いつもすぐにお返事を下さるので恐縮しています。

日曜日の晩にこんなことがありました。・・・その日は自家用車で遠くまで出かけた
のですが出先で車を盗まれてしまったのです。たいへん動揺し、右往左往している時
ふと思ったのです。これは罰だ、罰にちがいない。御本尊様を疑ったり、顕正会の
恥をさらすようなことを書いたからだ。大変なことをしてしまった。どうしよう。
・・・という夢をみたのです。

過去レスを見ていると、当掲示板でも顕正会員と思しき人が護法の論陣を、もちろん
顕正会の立場でのものですが、ともかく堂々たる論陣を張っているのです。
それに比して、わたくしは一体なにをやっているのだろう、顕正会のなかまに隠れて
こんなことをやっていていいのだろうか、もう掲示板を見ることも書き込むことも
止めたほうがいいのではないか。

このような葛藤が夢に反映したのでしょうか。

あるいは大聖人さまが警告を発して下さったのでは、とも考えたりしています。この
ままいくと大変なことになるよ、夢じゃ済まなくなるよ、と。

自分ではわかっていませんが「罰」の指導=洗脳?が効いているのかもしれません。

次回は逆のことを書く予定です。つまり護法の論陣(もどき)です。

75sunya:2002/10/09(水) 02:06

 ここのところすこし古い資料を整理していて、若かりし頃のわたしが書き散らしたメモ
が出てきました。昭和五十六年一月二十日の日付になっており、今から二十一年前のわた
しの幼い思考が記されています。
 わたし自身のちょっとした、「タイムカプセル」の感がしました。

 阿部師登座の二年後であり、わたしが組織の役職を辞して四年後の時期でした。これだ
け年月が経つと、ある意味もう他人のようなものでしょうか、ひとつのサンプルとしてこ
こに紹介してみましょう。

 「 国家諌暁を目前として、一講員の信仰態度の反省・総括、そして可能ならば今後の
展望 」と、< タイトル >を附しています。

 以下、箇条書きで...

 ◆ 教学という枠をはみ出して、教学の前提・暗黙の了解事項を明るみに出し、
  反省してみる。たとえば、絶対性、宗教批判等。
 ◆ 理論的・観念的な記述ではなく、現実の生活に基礎づける。
 ◆ 教学はひっきょう、自宗自派の正当性・絶対性を主張する論理。はたして
  教学は可能か。
 ◆ 何故、宗教を信ずるか、あるいは信じないか。
 ◆ 宗教と国家権力は、いかなる関係となるべきか。
 ◆ 折伏中心の組織の陥る欠陥は..。組織(信仰)のあり方。
 ◆ 仏法・信仰中心の人生と、世俗の人生の兼ね合い。

 うむむ、こうしてみるとなかなか他人事ではない、かもしれない。(^^;

 わたしの思考の方向性は、所詮こうした枠組みを出ていないかと、自ら反省するところで
した。了解し・解決し得たこともあれば、今だに引きずっている部分もあり...。
 
 ほんのお目汚し、お粗末さまでした。m(..)m

76やーこ。:2002/10/09(水) 06:42
sunyaさんへ
私はその記録と同じ21歳なので、立派な事はいえませんが(笑)、決して幼くはないと思いますよ。
過去の思考を振り返り、今考えてみると、組織の何処がおかしいか、とか見えてくるのではないか、組織の中と外の違いとか、何かの鍵になると思います。
私はつい、一年前迄はある支部の女子部として何も疑う事なく、ただ先輩についてきて、しゃくぶくやら行事などの啓蒙に集中していました。何故活動をやめたかといいますと、その先輩他の言動がおかしいのに気付いたからです。
今振り返ると、実はその相手の事を全く考えてなかった、と

77やーこ。:2002/10/09(水) 06:50
(続き)相手の家族の絆や、気持を破壊していたのにも気付かずに。
しかも、自称しゃくぶくとやらも、よく考えてみれば、あの会と変わらぬ勧誘だった、と。
そこから自分の組織が何となくカルトっぽいのに気付きました。
菊水護国さんみたいに、きちんとしたしゃくぶくしたいな、と思いました。

78妙薬:2002/10/09(水) 08:53
 ガンコさん初めまして
 自動車盗難の夢の話しを見て、ガンコさんは正直で真面目な考え方の人だなぁ
と感じ入りました。確かに、潜在的な罪(罰)の意識が見させた夢だと思います。
 ガンコさんに限らず、私にも同様な体験は何度もありました。ただ、私の立場
(石山派)からは、顕正会の「罰の指導=洗脳」教学?には疑問を持ちました。そ
こまでガンコさんを悩ます信仰とは何なのか、ということです。
 たまにしかネットを見れませんので、的外れな意見でしたらお詫びします。ガン
コさんの態度には好感を持ちましたので、今後も登場してくださいね。

79犀角独歩:2002/10/09(水) 10:29

ガンコさん:

護法ですか(笑)
私も「見壊法者」の観点から「護法」の為に、ここで書いているんですよ。

ガンコさんと私が違うのは、ガンコさんが護っている法は寛師から始まって戸田さんがまとめた現代石山教学を受け継ぐ浅井さんが言うことを何と法であると思っていること、私が護ろうとしているのはシャキャムニに始まって日蓮に至るところを(教)法としていることです。


さて、どちらが正解でしょう?という問いかけをしてきているわけです。わかりますかね。いまガンコさんが信じて罰を当てると思っているものが本当に日蓮聖人が説いたそのものであるか、自分の責任として、ちゃんと確認する作業は人に話す責任を果たすために是非とも必要な作業でしょう。「顕正会が言っていることは正しい」を信じて、その確認作業をしない無責任は、あとになって必ず自分に返ってきます。

なお、ガンコさんが見た夢は心理的な分析からすれば、PTSDを構成しかけているように思えます。危険な状態ですね。なんで、正しい信仰をしているのにこのような心的危険な状態にご自身が追い込まれているかを考えてみてください。しかし、ヒントです。これは「信仰」とか、「正しい」とかをキーワードにした瞬間、導き出される答えは100%間違いとなります。

80犀角独歩:2002/10/09(水) 10:33

75 sunyaさん:

さすがに元より問題意識は高かったのだ、と拝見しました。
「教学の前提・暗黙の了解事項を明るみに出し、反省してみる」という視点をお持ちの方であったと最初から存じ上げていれば、もう少し近距離の会話が出来たものを思いました。

81ガンコ:2002/10/09(水) 13:25
皆さんこんにちは。

sunyaさんの別のスレッドでのご論考をたいへん興味深く拝見しています。ですが、
このところやや浅井先生の著作に寄りかかり過ぎのように思えます。いや、すみません、
生意気でした。これからの展開をたのしみにしています。

やーこ。さん、こんにちは。遠慮せずに顕正会と仰っていいと思います。浅井は、
日蓮正宗の一講中にすぎなかった顕正会がいまや日本国のなかの顕正会になってき
た・・・というのです。「あの会」とか「〇〇会」というのはかえって変な気がし
ます。もちろんあなたの自由ですが。

妙薬さん、どうも。実は意識的に文体を変えて書いているのです。顕正会のなかま
にバレないようにです。ですから「正直・真面目」はウソかもしれませんよ。ただし
夢の話はほんとうです。いま顕正会教学の問題点について真剣に考えています。

独歩さんは、相変わらず挑発的でいらっしゃいますね。
わたくしの中で葛藤があるのです。顕正会の正しさをどのように伝えていくか、この
ことを真剣に考えている自分と同時に、上記のように顕正会の問題点をえぐり出そう
としている自分がいるのです。ところが独歩さんはふところが深いというか、二段構
え三段構えの陣立てでいらっしゃる。端折って書けば、顕正会がまちがっているのは
大石寺の法門に原因があり、大石寺教学に問題があるのは日寛上人に由来すると。そ
してその先もちゃんと用意していらっしゃる。勉強するのがたいへんです。

82菊水護国:2002/10/09(水) 14:00
ガンコさん、初めまして。
私は独歩さんとは、違いまして「シャキャムニに始まって日蓮に至るところを(教)法」とはせず、
「大聖人がシャキャムニの仏法を洗濯し、神道と融合し、寛師が体系化した、時代に併せて変貌可能な和国の法」を法としています。

なお、元顕正会ですから、浅井流仏法の問題点も存じております。
今後とも、よろしくお願いします。

83犀角独歩:2002/10/09(水) 20:02

ガンコさん:

> 相変わらず挑発的

そう感じるのは、ガンコさんの心の置き所に拠るかもしれませんよ(笑)
全然、そんなつもりはありません。

84犀角独歩:2002/10/09(水) 20:05

菊水護国さん:

おっと、こちらは本当に挑発的ですね。

> 時代に併せて変貌可能

ということは比叡山が途中から真言を入れたように、石山も時代相応で、これから南無阿弥陀仏もありと言ってもよいわけですか(笑)

まあ、冗談ですが、しかし、変貌可能とはそんなことも視野にはいることになりますね。

85ワラシナ:2002/10/09(水) 21:14
no71 菊水護国 さん こんばんわ。

「10年折伏」に思う事。

>私も折伏は数を競わす事では無いと思いますね。
>その間、質問にも答えて、教学研鑽をしましたが、それでも自ら入信したいと言うまで待ちました。
>そして、10年経った今年、自ら「御授戒を受けさせてくれ」と云って来たので入信させました。

0、信じられない。同じ正宗教団にこんな世界が有ったなんて!。自分もこんな寺院で青春を過ごしたかった。そうなっていたらここまで駄目な人生にはなっていなかった筈だ。やっと正宗信仰に光明を見出した思いである。

1ー0、それと上の現実は法華経典の原意に添っている、と思う。久保継成氏によれば、法華経原文では「バクティbhakti(信愛、ときに狂信)」より、「シュラッダーsraddhaa (信・信頼)」の方が多く使われているという。だが手元のサンスクリットHP辞典の信解品の信解の原語を確かめれば「アディムクティ(信解)」adhimukti 了達||| 信解||| 勝解」とあったが。

1ー1、久保夫妻によれば、シュラッダーは心が強固なバクティに発展する前段階の心理で「興味と関心をその対象に向けはじめる?(*ちょっと御夫妻の表現を忘れてしまった)」と意訳できるものを含んでいるとのことである。

86やーこ。:2002/10/09(水) 21:40
ガンコさんはじめまして。
こちらは現役会員に叩かれている、両親が元会員の者です。
いろいろ知りたいのでよろしくお願い致します。
ところでガンコさんは、平成に近い時期に入会された方でしょうか、それとも草創期に入会された方でしょうか。
また、今の若者のしゃくぶくについてどのようにお考えでしょうか、ぜひお聞かせください。

87ワラシナ:2002/10/09(水) 23:32
no75 sunya さん こんばんわ。
*「一顕正会員の二十一年前(s56/1)のメモ」

0、色々な意義を持つ大変貴重な記録だと思いました。それを以下述べてみます。

1、私には七項目のどれもが、その問題意識が顕正会組織の欠点への気づきから来ていると思えて、表立っての批判にはなっていないものの一種の体制批判、組織批判の消極的表現とも読める事でした。

2、s56/1は自分が妙信講入講二年目のころ。その組織に少々おかしい点があるのは感じていましたが、黙って没入することしか考えていなかった。その頃の私の心境と比較してsunya さんの早熟ぶりを感じます。元々性格的にクールだから当然ともいえますが。

3、思想遍歴、心境遍歴という点でもっとも注目されるのは、このメモの4年前の役職降板に至るまでに高ぶって行った思想信条の意味するものでしょう。それが何かはまだ明らかにされていませんから、私はあれこれ想像せざるを得ないのです。あのs’52年4月「法廷闘争大勝利の報に接した」大半の講員が、妙信講の正しさ、佛勅ここに下るの重いで感激に震え、大確信に立った、、、という中にあって、どういうわけか一人sunyaさんだけは、その心の中では、かって熱かったものが急速に消えかかって行った瞬間だった、というのですからね。いくら天の邪鬼とはいえ驚かざるを得ません。何故なんだろう、と。

3−1、恐らく入信(s’40?)以来の独自の思索、理想、思い、期待などが或る一つのまとまった形を採って姿を顕わし始め一つのピークをなしたのがs’52年頃の心境だったのではないだろうか。恐らく、それが、もはやこの組織では無理だ、と打ち砕かれた思いを味わったからではないだろうか、、、と、役職降板に至った心境を想像しているのです。

3−2、何故というに、普通入ったばかりの大半の講員の心理には共通のものがあり、個々人はそれぞれが浅井先生に対して勝手な期待を抱いてしまって「今度こそはこの講に対する自分のひそやかな願い理想をかなえてくれるに違いない、違いない、今度こそ、会体質の不合理面に善処してくださるに違いない、今度こそ、今日こそはその発表があるに違いない、、、。」と思って、毎回毎回の総幹部会に登壇される浅井講頭指導を拝聴するのが常でしたからね。またお話ぶりから拝される御人格にはいかにもそういう甘い期待を抱かせるようなものが感じられましたから。ところが何年待てども待てども、一講員の抱く理想像に近づけようとする気配が感じられない、逆に講の現実はその自分の理想から遠ざかって行く一方、、とその頃からお感じになられたのではあるまいか、と想像しているのです。(外れていたらご容赦願います。)

4、だけど、当時は周囲で組織信仰を疑うような人は微塵もいないような環境だった筈。その言論抑圧的な雰囲気の中にあって体制批判的思考を書き残す事自体、背信行為をあえてするときのような恐れおののきを伴うものであったろう事は容易に察せられました。でしたがこの作業は決して徒労とはならなかったと考えます。理想的な教団教学構築への前向きな土台となる思索がこのメモあたりから始まったのだろうと思うからです。

5、このメモ項目を見ると大半に「動詞、述語」が入っている。ここにも頭がしっかりしてらっしゃる事、早熟な事、思索が堅実なことが分かります。思想は名詞と述語で決まります。私のメモなんか「名詞の羅列」で終わって適切な動詞を探し損ねて思想として完結してないメモが多いのと比較してそう思います。

6、最後に、話題は飛びますが、このように自分の考えたことをメモに残しておく習慣は、常時ものを考えながら生きている人には特に大事な作業のようです。

88犀角独歩:2002/10/09(水) 23:42

85 ワラシナさん:

ここまで、法華経を原典から、細かい単語まで精査して読まれながら、いまだに戒壇之曼荼羅が日蓮の出世の本懐で、おまけに生きた日蓮、お肉牙も本物、現石山の体制になんら疑問も懐かないことには驚きを禁じ得ません。(粗飯・慶讃弁当の話はけっこうです)

ぜひとも、どこでそのように考えを整理することがが可能なのか、ご解説いただきたくお願い申し上げます。

89sunya:2002/10/10(木) 01:28
 > 81 ガンコさん、sunya です。

>> sunyaさんの別のスレッドでのご論考をたいへん興味深く拝見しています。

 ご覧いただき、有り難うございます。わたしは昭和四十四年から四十九年にかけて、講
中の「御遺命守護」のご奉公に於いてささやかながらその驥尾に付し得た者ですが、その
ことは今も誇りとし・喜びとし・幸せとするものです。
 言葉をかえれば、“いまだに引きずっている”ということ、になりますが。(^^;

>> このところやや浅井先生の著作に寄りかかり過ぎのように思えます。

 わたしがここで・こうして発言を続ける意図は、富士門徒にあって「正本堂の意義」の
変遷の<経緯>を事実に即してふり返ることはあってもよいことではないか、と思う故で
した。
 昭和五十二年以降の「諸問題」は、ネット上でも各方面で語られていることでしたが、
それ以前に於ける「正本堂の意義」の変遷については、詳細に言及されることがほとんど
なかったのではないだろうか..、と。

 そうした思いから、また当時のことを全く知らない世代の方もこのサイトには多いこと
ではないかと思われたことから、いささかしつこい言及であることは重々・承知の上で、
こうして「大石寺宗門と創価学会の戒壇論の変遷」について、述べ続けていることであり
ました。
 つまり・この言及は、今日の“顕正会”というひとつのセクトへの<護法>という小さ
な料簡などではなく、「富士門徒」という“共通基盤”を背景に“共通理解”を目指して
いるしていることだ、とガンコさんご了解いただければ、わたしとして幸いです。

 その上で、たとえば昭和四十五年四月二十二日の「臨時時局懇談会」にしてもそうです
が、その当事者たる創価学会・辻武寿総務室長をはじめとして、当時の宗門・創価学会の
代表幹部たちは、ありありとその<現場>に遭遇し目撃してたこと(はず)でした。
 しかし今日に至るまで、その事態に言及するのは浅井会長のみ。他の人々はただ黙すの
みにして、あえて浅井会長のその言及を<否定>する言辞とても、またないことでした。

 さて、歴史の<事実>とはなにか..というのは、プロパーの歴史学者たちにとっても相
当な「難題」なのであって、それはあくまで現在・現時点における「過去」への措定され
た“事実”と云うのほかはなく、将来においてそれが塗り替え・書き換えられることがあ
り得ることが、必然的にそこには孕まれているのでした。
 わたしはそうしたことを承知した上で、こうした「歴史的現場」に立ち会った人たちが
今は黙して語らないことを、いずれは(マインドコントロールが溶けて)表明する刻が来
ることだろう..そう思っているのです。

 そしていま、彼らがその立場上語れない「正本堂の意義」の変遷の<経緯>を、いま事
実に即して語っているのは、当事者たちの内にあってただ浅井会長一人であることではな
いだろうか..と。
 少なくともその<事実>や<経緯>において浅井会長は、「偽り」や「二言」を云う必
要がないのであって、自らが経験し立ち会ったその<事実>を“事実”として語っている
ことなのであろう。わたしはそう判断・了解をして、自らの発言の“責任”において今回
の<言及>を重ねていること、でありました。

 「正本堂の意義」の変遷の<経緯>を述べるに際して、顕正会の肩入れをする意図はわ
たしにないことでしたが、そうした変遷の<経緯>を語る資料において、宗門・創価学会・
正信会の関係諸氏にあっては、一連の<事実>において沈黙・隠蔽することがおそらくは
当面の利益・自己保身につながるのでありましょう。
 よって、現時点では「正本堂の意義」の変遷の<経緯>に言及する資料は顕正会サイド
の資料しかないこと、またその顕正会が述べる資料の詳細・事実関係をあえて疑う余地が
わたしにないこと、そうした事由からご指摘のように「浅井先生の著作に寄りかかり過ぎ」
に、わたしとして当面、依らざるを得ない現状があるのでした。

 これは幅広く資料の収集にこれ努めるわたしとしても、残念ながら選択の余地のない事
態であって、以てガンコさんへのささやかな“弁明”といたします。(^^;

90sunya:2002/10/10(木) 03:13
 > 87 ワラシナさん、sunya です。

>> 0、色々な意義を持つ大変貴重な記録だと思いました。それを以下述べてみます。

 <純粋・捨て身>、わたしなどでもそうした「行体」を少しは残していた時代の「戯れ
書き」でありました。過分なお言葉、畏れ入ります。

>> どういうわけか一人sunyaさんだけは、その心の中では、かって熱かったものが急速に消えかかって行った瞬間だった、というのですからね。いくら天の邪鬼とはいえ驚かざるを得ません。

 「この<法廷闘争>において必ず池田会長の邪義を打ち砕き、以て宗門に御遺命の正義
を回復・宣揚する」(取意)ことだったと、かつてわたしはたしかに浅井本部長の言葉を
「この耳」で聞きもし・記憶し・信頼していたことでした。
 しかるにこれは、いかなる“事態”なのか。「約束せし事」とは異なる、表面的な言い
訳に終始していることではないか。その幹部会の<現場>においてわたしの心は、周囲の
熱狂に反して<冷え>かえったことは、今に思い起こされます。いまこうしてワラシナさ
んにその当事の事態を指摘されてみれば、たしかにそのとうりだったかと、あらためて思
うところでした。(^^;

>> 逆に講の現実はその自分の理想から遠ざかって行く一方、、とその頃からお感じになられたのではあるまいか、と想像しているのです。(外れていたらご容赦願います)

 いまさらながら、ワラシナさんのご指摘の通り、と云うの他はありません。

>> 当時は周囲で組織信仰を疑うような人は微塵もいないような環境だった筈。その言論抑圧的な雰囲気の中にあって体制批判的思考を書き残す事自体、背信行為をあえてするときのような恐れおののきを伴うものであったろう事は容易に察せられました。

 またしても、ワラシナさんのご指摘の通り、でありました。そのように言い当てられる
ことこそ、それはまたワラシナさんご自身が、自らそうした<経験>を経られたからこそ
のゆえ、なのかもしれませんですね。
 わたしは、家庭や教師や親族や周囲の人々や友人に対しても、いつも「いい子」である
ことを、何故か自らに課し・演じて来たことでした。そして妙信講に縁したときも、そこ
においてもどこまでも「いい子」であり続けたいと、自ら思っていたのでしょう。

 しかし、まさに「言論抑圧装置」としての<組織>にあって、どこまでも「いい子」で
あり続けることには、「いい子」であり続けたいとの思いが強いほどに、自ずと「限界」
を来たすこと(現実)があるのでした。
 さて、そこでいろいろな<選択肢>があることでしょうが、わたしは「背信行為をあえ
てするときのような恐れおののき」を自ら抱きつつ・そしてそれをかろうじて抑えながら、
だったのかもしれません、その思いを「昇華」すべくたぶん、あらぬことを<思い>書き
綴ったことだったのでしょう。

>> このように自分の考えたことをメモに残しておく習慣は、常時ものを考えながら生きている人には特に大事な作業のようです

 うむむ、わたしはおそらく「自己への執着」がかなり強い、のかもしれません。そのと
きどきにおいて、つまらない「メモ」をなにやら残しているのですが、さしたる進歩・進
展がないことはただ、自らの暗愚を恥じ入るばかりです。

91ガンコ:2002/10/10(木) 08:12
菊水護国さん
顕正会は嫌われ者ですから、わたくしが現役会員であると名乗れば、さぞ攻撃的なレスが集中するだろうと思っていました。ところが案に相違して好意的なものが多いので驚いています。
過去レスをかなり読み込んでいますので、あなたが元会員であることも、今もわりと好意的に見て下さっていることも存じています。
今後ともよろしくお願いいたします。
それにしても右翼の大物にして直信徒とは、まったくすごいですね。

92犀角独歩:2002/10/10(木) 10:56

顕正会って嫌われ者なんですか。どうして嫌われているんでしょうかね。

94妙薬:2002/10/10(木) 14:29
 顕正会というと「国立戒壇論」が直ぐにイメージされ、民主主義とは
異質な全体主義=右翼的傾向の宗教団体ととらえています。
 それと顕正会青年部が石山系寺院を訪れ、高圧的(熱心?)な広宣活
動を展開しているのを何度も目撃しました。
 顕正会に言わせれば、敵対する妙観講などの活動に対し、厳しい批判を
すると思いますが、(不勉強な私個人としては、短絡的に)そんな理由か
ら嫌いなのです。

95ガンコ:2002/10/10(木) 15:01
やーこ。さん
わたくし自身については詳しくお話しすることができません。お許し下さい。ただし、sunyaさんとはだいぶ世代に隔たりがあるようです。
その他の問題については出来るかぎりお答えしたいと思います。
今日は時間がないので失礼します。  

96ガンコ:2002/10/11(金) 09:12
sunyaさんへ。

弁明だなんておっしゃられたら、わたくしはなんと申し開きしたら良いのでしょう。
わざわざ貴重な時間を充ててご説明下さいましてありがとうございました。

今の顕正会員は御遺命守護の時代を知らないのです。
ですから浅井先生の本を読んではじめて知るわけですが、正直に言えば,話を美化し
過ぎているのではないか、という感想もなくはないのです。
ネットを活用している者であれば多かれ少なかれ,先生とは逆の立場の者がどう言って
いるのか、気になって調べるものと思います。そうしてわたくしもこの掲示板にたど
り着いたのですが、ともかくsunyaさんのおっしゃるとおり,先生に対する正面からの
反論はほとんど見当たらないようです。
浅井先生の戦いは本当だったのだ,先生は凄い方なのだ、という想いを強くした次第
です。

97犀角独歩:2002/10/11(金) 15:23

> 96

sunyaさんほどの人が浅井さん翼賛のために文章を書いた、としか読めませんかね。
あ、これは挑発ではありませんよ。

私はsunyaさんは冷静だし、個人礼賛なんてことに留まるような人じゃないと思いますよ。ある面、これでは投稿に対する過小評価と言うことになってしまいますね。意義はそんなところにあるのではないでしょうね。

98三学無縁:2002/10/11(金) 18:04
横レス失礼します。
カルトっぽいのは、現今の大石寺・日蓮正宗なのではないでしょうか。
だから、そこから派生した創価学会・法華講・顕正会など、カルトっぽくても仕方ありませんね。
小野寺本尊小集団とか玉井本尊ミニ集団になると、これは論議の対象にすらなりませんね。

99三学無縁:2002/10/11(金) 19:40
明治からこっちの日蓮正宗の教義の柱は国立戒壇だったと思います。
それは昭和戦後もそうでした。
正本堂建立後も達師は、本山の教師指導会かなにかで凡そ次のように述べています。
「国立戒壇ということばを使わないとはいったが、内容に変わりはない」
これは昭和47か48年くらいだったと思いますが、大日蓮にも掲載されていました。
それがいつのまにか、ことばを使わないのではなく、意味を使わない、に摩り替わったわけです。
摩り替えた責任は時の法主にあります。
つまり、正本堂を「現時における事の戒壇」であるという教義の改変は、少なくとも明治以降の正宗教義への背反です。
日蓮正宗公称以降、国立戒壇以外の戒壇論はなかったわけで、国立戒壇を否定することは異流義となります。
達師は、時の法主として、近代の歴代による国立戒壇論を否定すればよかっただけなのに、それをしませんでした。
明治以前にどのような事壇建立思想があったかは、また別の問題です。
日蓮正宗公称以降の正宗大石寺にあっては国立戒壇論だけが正論だったのです。
したがって顕正会は正宗の正統的戒壇論を述べているといえます。
顕正会がカルトだというならば、それは正宗がカルトであったということにほかなりません。
まあ、現今の正宗大石寺はカルトだとは思いますが。
この問題はカルト論ではなく、セクト=チャーチ論で考えたほうがよいかもしれませんが、それは独歩さんにおまかせしたいと思います。


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