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(続) 大石寺の歴史
1
:
管理者
:2002/03/08(金) 16:40
ここから、このスレッドの過去レスを見る事が出来ます。
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rekisi2.htm
『大石寺の歴史について』スレッドが 300レスを越えましたので、こちらに続編を作成しました。よろしく御願い致します。
2
:
問答迷人
:2002/03/15(金) 10:03
お伺いします。何方かお答え戴けると幸いです。平成版御書1883頁の『日興跡条々事』の冒頭の一節、
『 一、本門寺建立の時、新田�Q阿闍梨(にいだきょうあじゃり)日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子(ちゃくし)分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌(りょうしょう)すべし。』
これは、如何なる意味なのでしょうか。『何か、「あがり」の分配の取り決めの様だ、そんな事を日興上人が本当に仰るだろうか』と疑問を呈する向きがあります。よろしくお願い致します。
3
:
いちりん
:2002/03/15(金) 11:20
ちと関連文献を調べてみました。
「有師談諸聞書」富要集2巻 139 頁あたり。
---------------------------------------
一、日蓮聖人も武家に奏したまふ日興も只武家に訟へたまふ、爰に日目上人元めて国王に奏したまふ、
去る間だ日興上人大石寺の御置文に云く天下崇敬の時は日目を座主として日本乃至一閻浮提の山寺半分は日目之を配領すべし、其の余分自余の大衆是れを配領すべしと云へり、
日興の遺跡は新田の宮内卿阿闍梨日目最前上奏の人たれば大石寺の別当と定む、
異本に云く寺と云ひ御本尊と云ひ墓所と云ひと遊ばし置きたまひ畢りぬ、末法万年未来永々まで大石寺の別当日目で御座す事を人知らずして、上代に流布あらばこそ左様にも有らめ末代に天下御信用あらば座主誰にてか有らんずらんと、
此の自讃により洛陽辺土の弘通者達日々夜々に弘通責伏有り、但し智慧の弘通なれば迹門なり迹門の時は高租日蓮聖人の御本懐に非らず必ず元三より歎已上、
日目独り出世の本意にまかせて愚者の責伏・患者の上の弘通なり、当時教義時国相応の本門なり、只偏に兵者のみ乱を待つて運を開く道理に任せて爾なりと已上。
---------------------------------------
「天下崇敬の時は日目を座主として」
「末法万年未来永々まで大石寺の別当日目で御座す」
などという表現は、日目さんは、広宣流布のときに出現するという考えがあるんでしょうかね。
4
:
独歩
:2002/03/15(金) 11:31
問答名人さん:
> …半分は日目嫡子(ちゃくし)分として管領せしむべし。…残る所の半分『何か、「あがり」の分配の取り決めの様だ
これは以前にも問題したことがありますが、原則的には封建制に基づく取り決めであろうかと思うのです。つまり、天皇と武家が国家を二分して領していることから、来るのではないでしょうか。この点については霑師の説に私は賛成です。
目師は公卿の出身ですから、そちらのほうを、のこる大衆分は武家とその管領地ということでしょうか。
しかし、このようなことを本当に興氏が考えていたかとなると、どうにも納得できないところは、たしかにあります。
5
:
いちりん
:2002/03/15(金) 11:41
そもそも、日興さんの次は、日目さんとすんなり決定されていたのでしょうか?
いろいろもめたりは、しなかつたのですか?
日目さんの次は、いろいろもめましたよね。
6
:
独歩
:2002/03/15(金) 11:44
いちりんさん:
> 日目さんは、広宣流布のときに出現する…
この伝説は保田妙本寺・我師の申状見聞に見られますね。
此の申状奏せずして終に臨終す此の土の受生雖も無しと所用今一度人間に生れ此の状を奏可しす、若し此の状奏間の人於て未来に有ら之れ者日目か再来と知る可し
石山も、この一文をもって、一閻浮提御座主目師説を立てるわけです。しかし、石山の言い分は完全な切り文解釈ですよ。なぜならば、上の文章は
然る処に正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人無し…爰に日要奏す争か之れを疑ふ可けん乎
と続いているのです。つまり、妙本寺・要師こそ、目師の再来であると言うのが、この文章の意味するとことです。
まあ、石山の言うところは、一種のパクリであると私は考えているんです。あるいは我師がパクったのかも知れませんが。
いずれにしても、臨終に立ち会った郷師が「伝えた」というのしょうが、実際にそんな遺言があったのかどうか、どうなのでしょうか。
7
:
問答迷人
:2002/04/11(木) 08:21
立宗宣言について
日蓮正宗では、三月二十八日に立宗法要を実施とし、四月二十八日にも、もう一度法要を実施するそうです。このことに関連して、日道上人の御伝土代の記述について皆さんの御意見をお伺いしたいと存じます。
御伝土代 『八十八代一院の御宇・建長五年みつのとのうし三月二十八日・清澄寺道善房持仏堂の南面にして浄円房並に大衆等少々会合なして念仏無間地獄 南無妙法蓮華経と唱ひ始給ひ畢ぬ、然る間其日清澄寺を擯出せられ給ひ畢、』(富士宗学要集第五巻1頁)
と、立宗宣言が三月二十八日に行われたと書かれています。所が、真蹟御書を拝しますと、以下の通りです。
清澄寺大衆中 『建長五年四月二十八日、安房国(あわのくに)東条郷(とうじょうのごう)清澄寺(せいちょうじ)道善(どうぜん)の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。』(平成版御書946頁)
聖人御難事 『去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡(ながさのこおり)の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御(み)くりや(厨)、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや(御厨)、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。』(同1396頁)
この違いは、どう考えれば良いのでしょうか。単なる、日道上人の記憶まちがいの様に思えるのですが、如何でしょう。御存知の方、御教示をお願い致します。
8
:
川蝉
:2002/04/11(木) 11:40
問答迷人さん今日は。
開宗の月について。
「本門宗要抄」にも、三月二十八日とあるそうですね。
ただし、「本門宗要抄」は真蹟無く、興門の日代師は「聖作に非らず。偽書なり」(日蓮宗宗学全集第二巻・229頁)と評しています。
日道師の「御伝土代」(宗学全集第二巻237頁)の他には、日進師(身延三世、宗祖にも直接師事)の「日蓮聖人御弘通次第」(宗全第一巻・339頁)にも「三月二十八日」となっています。
宮崎英修師が「日蓮とその弟子」に、三月としているのは、真蹟遺文に四月二十八日とあるからには、訛伝・写誤と見るべきであろうと指摘しています。
昔は四の字を二
二
と縦に並べる場合があるそうで、この二を縦にならべて書かれたものを三と写誤や読み間違いしたものであろうと推測されているわけです。
(四の字を表すに他に、二を横に二つ並べたものと、もう一つありますが、キーボードで打てません)
現存の日道師の「御伝土代」と日進師の「日蓮聖人御弘通次第」が間違いなく正本であるなら、専門家にもう一度、読みを確かめて欲しいものですね。
9
:
五月雨
:2002/04/11(木) 16:17
はじめまして。とりあえず法華講員をしている者です。皆さんに教えて頂きたい事があります。開宣大法要が二度も行われるそうです。つまり、立宗の日が二回あるという事ですよね。どんな解釈をしたとしても、今から一宗を立ち上げますという事を
何ゆえに大聖人様は、二度も宣言されたと言うのでしょう。どう考えても理解不能です。皆さんは、どのように納得されているのでしょうか。教学力の無いバカな私に、分かり易くご教示お願いします。
10
:
川蝉
:2002/04/11(木) 16:51
2 問答迷人 さんへ。
文字通り読めば、
日本国を始め世界中が同帰した時には、日目が戒壇のある本門寺の座主になって、日本と世界中の寺の半分を管理しなさい。あとの半分の寺院は、その他の人が責任を持ち管理するようにしなさい。
と云う意味ですね。
「分配の取り決めの様だ」と、感じる人は、意地悪く読み過ぎではないかなと思います。
元徳二年は、日目師は72歳、興師は86歳ぐらいですね。
両師の入滅は1,3年後だそうですね。
すでに相当老年であった日目師の生存中に、日本をはじめ世界の国々が妙法に帰依する高い可能性があると、興師が考えていたことになるが、そんな誇大妄想的な事など興師が考える筈はない。
で、この文章は興師のものとは思えない。
第一条は理想実現の時を仮定して云ったものであると弁明しても、日目師生存中には現実的に実現不可能な事などを譲り状に記する必要などまったく無いはず。
「弘安八年より元徳二年に至る五十年の間」
とあるが、実際は四十五年間である。
譲り状であるのに、「十一月十日」とあるだけで年が記されていない。本文が何時書かれても例えば二三年後にでも、年月日と署名印が記された時点で、正式な文書としての価値が生じるものである。
元徳二年説、元徳四年三月説(要法寺日辰師の祖師伝には、書写したとき「元徳四年三月 日興在判」と有ったとしている)
このように、譲り状であるのに、年月日がしっかり記されてない。
等とうの理由から、信憑性はきわめて疑わしいと云う見解が出されてします。
12
:
問答迷人
:2002/04/11(木) 17:37
川蝉さん
私も、日興上人の御真筆とは思えないのです。ご指摘の通り、内容が変ですし、そんな遺言をされたとは思えない。恐らく、後世の作。両山問答における北山の言に従えば、日有上人が作ったとか、そんなところではないかと思っています。ありがとう御座いました。(御真筆とされている、なお、條々事を以下のアドレスにupして有ります。)
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_28.htm
13
:
独歩
:2002/04/11(木) 17:46
問答名人さん:
川蝉さん:
五月雨さん(はじめまして):
3月28日・4月28日ということについて、顕師は「第7回慶祝記念局委員会で、以下のような発言をしているようですね。
現在、創価学会が使っておる『御書全集』は「3月28日の宗旨建立」ということが示されておるところの、『御義口伝』『大白牛車書』『清澄寺大衆中』等を全部、4月に変更してしまっております。本来、それらの文書は3月と伝わっておったのであります。…
さらにこのことは、大聖人様が御入滅あそばされる直前に池上において『立正安国論』を御講義あそばされた時の解釈内容を、日興上人が『安国論問答』としてお書きになっておりまして、これは御真筆として残っておりますが、実はこの中に宗旨建立のことが3月28日とあるのです(歴代法主全書1巻10頁)。…
『安国論問答』という文書が日興上人の御真筆として残っておりますが、そのなかに日興上人の御正筆として、宗旨建立の日が建長5年3月28日ということがあるのであります(歴代法主全書1−10ページ)。そのほかに、いわゆる門下全体で最も古い史伝書と考えられる日道上人の『御伝土代』においても3月28日となっております(歴代法主全書1−53ページ)。
この趣旨については31世日因上人の『三四会合抄(さんしえごうしょう)』という抄がありまして、この抄のなかに宗旨建立が2回にわたって行われた意味と、さらに教義的に色々な面から広く述べられておる次第であります。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/paper.html
14
:
独歩
:2002/04/11(木) 18:46
―13のつづき―
御義口伝「建長五年三月廿八日に始めて唱ヘ出だす処の題目を指して…」
大白牛車書「日蓮は建長五年三月二十八日、初めて此の大白牛車の一乗法華の相伝…」
清澄寺大衆中「建長五年太歳癸丑四月二十八日に、房国東条郷清澄寺…」
で、たしかに石山版では、「原文のとおり」ということのようです。
しかしながら、真蹟である『清澄寺大衆中』は4月28日になっています。
また、その他、真蹟では、『聖人御難事』も4月、『諌暁八幡抄』も4月となっているのは、いかがなものでしょうか。
それにしても、またもや、編集の段階で“変更”、まったく重要な点で、創価学会に係る資料は恣意的な改竄が多く、それが常識として定着するという恐ろしい事態が各所で見られることに改めて憤慨を禁じ得ません。
15
:
モモ
:2002/04/11(木) 21:16
3月に立宗法要を行うのは日顕上人の思い付きで、今回御虫払いを無くしたのは
けしからん、という意見があります。
私は今のところ意見はありません。
16
:
川蝉
:2002/04/12(金) 09:19
13 独歩 さんへ。
顕師が
「現在、創価学会が使っておる『御書全集』は「3月28日の宗旨建立」ということが示されておるところの、『御義口伝』『大白牛車書』『清澄寺大衆中』等を全部、4月に変更してしまっております。本来、それらの文書は3月と伝わっておったのであります。」
と説法しているとの事ですが、大石寺56世日応師校閲の佐藤慈豊師編纂「日蓮大聖人御書新集」では、『御義口伝』『大白牛車書』とも四月になっています。
創価学会『御書全集』以前に、すでに『御義口伝』『大白牛車書』とも四月とされていたようですね。
「『清澄寺大衆中』も4月に変更(趣旨)」
と語っているのは、説法とは云え、顕師はちょと荒っぽいですね。
日蓮宗の「霊艮閣版」も『御義口伝』『大白牛車書』とも四月になっていますので、『大白牛車書』は、録外版も四月であるようです。
昭和定本の『御義口伝』は、清水梁山師校訂平楽寺版を元にしたようです。下段に諸本対校が注記されていますが、『御義口伝』は大阪妙徳寺本、元亀本(堀日享師蔵)、京都要法寺版、金沢妙覚寺本と対校されています。
下段注記によると、妙徳寺本のみ三月となっているようです。
日興上人の『安国論問答』と日道上人の『御伝土代』とも、正本が有るとすると、編纂者の読み違いでないならば、なぜ宗祖真蹟と違う3月と記されているのか謎が残りますね。
17
:
独歩
:2002/04/12(金) 10:40
16 川蝉さん:
丁重な解説有り難うございます。
いずれにしても3月28日説、興師門下の言うところということになるのでしょうか。
安国論問答が本当に真筆であるとすれば、それなりに何らかの根拠はあったのであろうと思います。少なくとも『聖人御難事』は興師布教の熱原のことを記す書で、この記述を興師が知らなかったとは思えない節があります。また『諌暁八幡抄』も石山に伝わる真蹟なのであって、これを道師が閲していないなどということがあるのだろうかという疑問も残ります。
31代因師『三四会合抄』に何が記されているのやら、興味が惹かれるところです。
18
:
顕正居士
:2002/04/12(金) 13:43
暦
本朝の太陽太陰暦は持統帝6年の元嘉暦以後、8回改められ、明治5年太政官布告
により太陽暦が施行、明治31年勅令により置閏法が制定され今日に至る。
釈尊の降誕、出家、成道、入滅。いづれも第2の月の満月の日と伝承し、之に基いて
各の法会の日にちを決めたというが異な話である。暦の換算をいかに行おうが、どれ
も同じ日になるはずでないか。
「釈尊は、二月八日の明星の出ずる時、霍燃と大悟したまう」
-堅樹日寛・開目抄愚記
http://kanazawa.cool.ne.jp/bn/kaimokusyougukige.html
二月八日は「仏祖統紀」の説であるが、今日、何宗も成道会は十二月八日である。
19
:
五月雨
:2002/04/12(金) 21:40
沢山のご教示を有難うございました。皆様方の教学力の深さ、鋭さには驚くばかりです。教学が苦手な私には、皆様方のお話に付いていくのは中々大変です。
大白法の猊下の甚深の御説法を読みましたが、始めに結論有りきの、理由はこじつけの様に感じました。七百五十年にわたり、立宗の日は四月二十八日だったのが、
急に三月二十八日もその意義があると言い出すなんて、どういう事なのかと不審に思うのです。
時の猊下だったら、何を言い出してもいいのでしょうか゛。日興遺誡置文の「時の貫主といへども・・・」の御文を思い出します。こうして教義は曲がっていくのでしょうか。
顕正居士さまの様に、暦の換算ではどれも同じ日になるはずとの解釈は、簡単で良いなと思います。もう少し詳しく教えて頂ければ幸いです。
20
:
独歩
:2002/04/13(土) 01:29
私は、3月28日という根拠について、まじめに考え様と考えています。しかし、それにしても以下の創価学会の文章を読んで、本当にこの団体の、中学生・高校生の悪口程度の程度の低さに呆れ果てました。Libraさんや、宮本さんがこの団体に一員であると信じがたいものがあります。
「 杉山(男子部長) 先月の末に、また日顕(上人)が、バカバカしい説法をしたそうだ。
林(関西女子部長) またですか!(笑い)今度は、何を言い出したんですか?
迫本(青年部長) 一月三十一日に大石寺で、突然、〝今まで『立宗の日』は四月二十八日とされてきたが、実は三月二十八日である〟と言い出したんだ。
林 エエーッ!『三月二十八日』?(大笑い)
館野(副女子部長) とうとう、『本当に』狂っちゃいましたね。(爆笑)
迫本 それで日顕(上人)は〝三月二十八日にも大法要をやる〟なんて言っている。
橋本(学生部長) なんだ、なんだ。立宗の法要を二回もやるのか(爆笑)。
迫本 しかも日顕(上人)は、〝御書の記述も三月二十八日に変える〟と言い出したそうだ。 (中略)
館野 日顕(上人)は、いったい、何を根拠に、こんな呆(あき)れた『妄説』を言い始めたんですか?
杉山 日興上人が書かれた『安国論問答』と、第四世の日道上人が書いた大聖人の伝記『御伝土代』のようだ。 そこには、『三月二十八日』という記述がある。
迫本 それで日顕(上人)は、〝『三月二十八日』をおろそかにしてはいけない。このことは三月二十八日の法要の時に話をする〟なんて、もったいぶって言い始めたようだ。
中野(青年部総主事) なんだ、そんなことか。 日興上人の仰せに『三月二十八日』という記述があることくらい、我々は、とっくに知ってるよ(笑い)。
日興上人の『安国論問答』や、日道上人の『御伝土代』に書かれているのは、知っていたよ。それを偉ぶって(大笑い)。
佐藤(総合青年部長) その上で、堀日亨上人も、日淳上人も、日達法主も、『四月二十八日』と言われてきたのではないか(後略)」
21
:
Libra
:2002/04/13(土) 03:20
独歩さん:
> しかし、それにしても以下の創価学会の文章を読んで、本当にこの団体の、中学生・高校
> 生の悪口程度の程度の低さに呆れ果てました。
全く、お恥ずかしい限りです。
この問題については、東哲の小林正博氏がある御著書の中で、『安国論問答』や『三師
御伝土代』などを引用した後に次のように言われています。
──────────────────────────────────────
これらから三月二十八日説は一概に否定されるべきではないと思われる。ただ、確
実な日蓮大聖人の御真筆によれば立教開宗はまちがいなく四月二十八日である。「諌
暁八幡抄」には「今日蓮は去ぬる建長五年四月二十八日より今年弘安三年……」(五
八五頁)とある。「諌暁八幡抄」の御真筆は大石寺に現存するが、「三師御伝土代」
を書いた日道は、これを知らなかったのか三月二十八日としている。さらに「聖人御
難事」(真筆は中山法華経寺蔵)では「去ぬる建長五年四月二十八日に……」(一一
八九頁)とあるが、こちらのほうは日蓮大聖人でない他の者がわざわざ四月を消して
三月と書き変えているのである。
(佐藤弘夫・小林正博・小島信泰『日蓮大聖人の思想と生涯』、第三文明社、1997年、
pp. 55-56)
──────────────────────────────────────
「聖人御難事」が書き変えられているというのは本当でしょうか。
22
:
独歩
:2002/04/13(土) 09:51
Libraさん:
20はけっしてLibraさん、宮本さん、もっと言えば善良な学会員の人を貶そうという意図によるものではないのです。けれど、こんな出版物をどんどん、出している以上、外部の認識は、よいもので…勲章を取ったとか、NGOの活動をしたとか…などではなく、最低のところを基準にして判断するのが世の中というものだと思うわけです。
理由はどうあれ、若い青年がいくら幹部であるとは言え、80歳に手が届く老僧を呼び捨てにして笑い者にする、さらにそれを公然と報道する、これが結局、偽らざる創価学会の真の姿であると人々は思うでしょう。
私は、どんなLibraさんが正当なことを論じて「あの人は、あの団体の人だから…」と評価されることになることを哀しく思います。しかも、それは、20に載せるような実に低俗な独善的な他者攻撃が招いた結果であるわけです。
つまり、創価学会にしても、法華講にしても、また顕正会などにしても、他者蔑視、独善性を、カリスマ崇拝に起因して行っているのであり、その行動原理は“憎悪”なのでしょう。それは「リーダーの悪口を言うものは許さない」という口コミによって形成されていくグループ・ダイナミクス、わかりやすく言えば集団浅慮の扇動に基づくわけなのであろうと分析します。この段階では日蓮、法華経は見失われています。
延々と繰り返される20のごとき愚考は、もとより、池田氏の名を地に堕とすと共に、引いては日蓮、そして、法華経に対する人々の認識を低下させるいままでと同様の結果が永続することになるでしょう。
教義の見直し以上に、この信者の行動原理に奥底にある“憎悪による操作”の本質を、各人が見極め、法華経の常不軽等に見られる菩薩精神を復興させることが、もっとも重要な課題であると私が思う所以です。
23
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 10:00
お久しぶりです。
とんちきちゃんと言います。
三四会合抄は、31世日因上人の御抄です。
内容の一端
内証と外用に付いて解説し内証が深秘で外用は、浅権であると説き立宗宣言の3月を
内証とし4月を外用と解説した。
大石寺版の日蓮大聖人正伝や夏期講習会のテキストも3月に宗祖が内証宣旨と言う様
に書かれています。
そして、4月に立宗宣言と書かれています。
私としての見解もありますが、この場であえて述べません。
中古天台本覚思想のスレッドも私は、拝見しましたが立正大学の浅井要麟氏の日蓮聖
人教学の研究の影響を強く感じた次第です。
ある研究者は、三十四箇事の成立時期を宗祖御誕生前と推論し清澄寺を東密系の寺院
と推察しています。
日蓮本仏論に付いても色々ありますが、開山上人の御抄から御供養を釈尊の御宝前に
供えると記されたものが無いのは、なぜなのでしょうか?
五人所破抄見聞にも興味があります。
脱線してしまい申し訳ありません。
24
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 10:13
上記の書き込みは、出鱈目かもしれませんので、とんちきちゃんの言う事を簡単に
信じないで下さい。
では、バイナラ!!
25
:
独歩
:2002/04/13(土) 10:23
> 浅井要麟氏の日蓮聖人教学の研究の影響を強く感じた次第です。
以前、ワラシナさんから美濃周人の影響みたいなことを言われたよりは、ずいぶんとましなご意見です(笑)
しかし、私、個人のことを申し上げれば、あまり学者の意見は重要視していません。
あくまで原典主義です。
> ある研究者は、三十四箇事の成立時期を宗祖御誕生前と推論し清澄寺を東密系の寺院
と推察しています。
たしかに、このような説はありますが、となると、どのようなことを言えるのでしょうか。
> 日蓮本仏論に付いても色々ありますが、開山上人の御抄から御供養を釈尊の御宝前に
供えると記されたものが無いのは、なぜなのでしょうか
興師の記述は、「仏(釈尊)聖人(御影)の御前」に供養を捧げたという表現なのであって、仏は当然、釈尊を指すものでしょう。
なにより、この点を問題にするとすれば、「本尊(曼荼羅)の前」というより御影像に、とするところを注しすべであろうかと思います。しかし、これは日蓮を本仏と仰ぐ、結果と言うより、木像を日蓮と見なす御影信仰の側面から考えるべきことであろうと、私は思います。聖人の義に釈迦立像の随身・礼拝は見られても、御影信仰は確認できないからです。
26
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 10:54
親愛なる独歩様へ
丁寧な回答ありがとうございました。
とんちきちゃんは、御経日蓮聖人や先師宝前とは、日蓮大聖人の事だと思いますので
上記の説にやや疑問を感じています。
しかも御書には、教主釈尊と記載しているのに開山上人が釈尊と記載しないのは、疑
問があります。
27
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 12:12
とんちきちゃんの出鱈目な見解
「仏(日蓮)聖人」だと開山上人は、御教示されたのでは、ないのかなと思いました。
28
:
独歩
:2002/04/13(土) 14:07
とんちきちゃんさん:
親愛なるとは恐悦至極です(笑)
> 御書には、教主釈尊と記載しているのに開山上人が釈尊と記載…
からかわないでくださいよ〈笑)
『原殿御返事』に
日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像
『佐渡法華講衆御返事』には
上下万人しよほちしん(初発心)のしやか〈釈迦)ほとけ(仏)をすてまいらせてあるいハあミた(阿弥陀)ほとけ〈仏)あるいハ大日によらい〈如来)あるいハやくし(薬師)ほとけ〈仏)をし〈師)とたのミてほんし(本師)しやか(釈迦)によらい〈如来)にそむきまいらせ候
とあるではありませんか。
私は興師が「仏・聖人」というのは、仏=釈迦仏・御影=日蓮=上行菩薩、すなわち、興師の義である一尊(久遠実成釈尊)四士(上行を筆頭)を現す言説であると考えます。
【25の訂正】
誤)美濃周人
正)美濃周人さん
29
:
川蝉
:2002/04/13(土) 16:12
とんちきちゃさん、独歩さん横から失礼します。
興師は曼荼羅本尊の前に祖像を安置していたのでは。
私自身、供物を具えるときには、心情的には「お祖師さま、どうぞ」と云う気持ちですね。
興師は宗祖に御給仕・報恩の気持ちが強く、常に照覧されていると云う意識を持っていたのでしょう。
そこで、ご消息状に「法華聖人の見参に」とか「聖人御影の見参に入れまいらせ候」等との言葉を、自然と書かれたのでしょうね。
宗祖を本仏とし本尊と考えて、そうした言葉を書かれたと云うわけではないと思います。
「与由比氏書」(宗全第二巻188頁)
にある「仏聖人」の意味するところを、
とんちきちゃさんは、「仏(日蓮)聖人」の意と思うとのことですが、興師が宗祖を本仏とし本尊としていたと云う考えからの読み方ですね。
独歩さんの、「「仏(釈尊)聖人(御影)の御前」に供養を捧げたという表現なのであって、仏は当然、釈尊を指すものでしょう。」との解釈のほうが、独歩さんが28に挙げた『原殿御返事』や『佐渡法華講衆御返事』の文により真意に近いと思います。
道師の「日興上人御伝草案」に
「日蓮聖人云はく本地は寂光地涌大士上行菩薩・・
本門教主は久遠実成・・
法を云えば・・南無妙法蓮華経なり。
弘通を申せば後五百歳中末法一万年の導師なり(略抄)」
(宗全第二巻253頁)
とあって、仏宝は釈尊、法宝は妙法五字、僧宝は宗祖としています。
この仏法僧の配当の考えから云っても、興師が宗祖を本仏とし本尊としていたとは云えないでしょうね。
ですから「仏(日蓮)聖人」の意と見るのは如何と思います。
さらに別な読み方も考えられるのではと思います。
「与由比氏書」のはお盆の供養料としての供物に対する礼状ですね。
「この程は仏の御施餓鬼絶え候処に」
とありますね。興師の用語を調べたわけでないので、確信を持って云えないですが、この「仏」とは故人(精霊)を指しているようにも思えます。釈尊や宗祖には施餓鬼供養など必要ないわけですから。
とすると、前にある「仏聖人の御座候座に」とは、「供養の対象である故人と宗祖とが影現されている法座に」と云う意味にも取れるかなと思うのです。
ただし、この文の後の「盆の謝日十五日寮迚候堂有り」の意味が不明なのと、興師が故人(精霊)を「仏」と表現することがあったかどうか分からないし、故人(精霊)を聖人の前に置く言葉も変かな?と思うので、確信のある解釈ではありません。
30
:
独歩
:2002/04/13(土) 17:06
29 川蝉さん:
ほぼ仰るところ、賛同いたします。
> 故人(精霊)を「仏」と表現することがあったかどうか…
たしか、この説は石山ですら依用していましたが、失念して、該当資料を思い出せません。私は、この点は、川蝉さん同様、やや疑問が残ります。
なお、「仏」の用法について、釈迦仏像の可能性は私は否定できないと思っています。
川蝉さんが仰るように、たぶん安置の形式は曼荼羅・御影であったと見るのは至当ですが、引用されている道師三宝義を是とするとき、安置において僧宝(日蓮=上行)、法宝(妙法曼荼羅)ばかりをおいて、肝心の仏宝を廃するというのは、興門義以外では、かなり常軌を逸したものであるわけですね。本来であれば、形像に結べない法宝を略し、仏・脇士をもって示すことはあれ、仏そのものを略した奉安など考えも及ばないところではないのか、と私は考えてきました。
聖人在世は常に釈迦立像一体仏を随身され、読経唱題に必ずや取り出して礼拝供養されていたと想像されます。その在世往時を偲べば、曼荼羅を懸け、その前に釈迦像が置かれ、そこに聖人を導師として読経唱題の儀式が営まれていたのであろうと思います。
その聖人の往古を偲ぶ御影であれば、曼荼羅・仏像・御影の順位に安置をなし、さらに、そこに三宝義を拝することは、少しも不自然ではないことになります。
しかし、ここで問題になるのは当の釈迦像ですが、これは聖人滅後、持ち去られたという史実があるわけです。されに興師は、その複製を製作しようとした円入道と異轍を生じることになるわけですね。
この点で、以前、問答名人さんとも論じ合ったのですが、この聖人随身仏についてです。
現代、日蓮門下一般の認識として釈迦立像は漁の網にかかったものを聖人に献上したとなっているわけですが、重須資料に拠れば、網にかかったのは仏像ではなく、仏像の材料とされた浮木であったとも考えられるわけです。私は、ここから仏像は聖人が自ら刻まれたものか、あるいは刻ませたものであると類推しているわけですが、いずれにしても、お筆の曼荼羅同様、聖人の手にかかるものであった、故に、それが持ち去られたからといって、易々と複製を作り、代わりに充てることに興師は難渋を示したのであろうと思えるわけです。
つまり、本来の安置は曼荼羅・仏像・御影であったけれども、失した仏像は、その返還を待つ意味で略されていたのではないだろうか、それが、いわゆる御影式と後世、称されるように奉安の形式の始まりであったのではないかと、私は考えています。そして、終には曼荼羅正意が形成され、富士では仏像は撤廃されていったのではないのかと思うのです。
また、この点は重須ばかりではなく、大石寺にあっても同様で興師の筆で確認できる「持仏堂」の仏とは、当時はまさに仏像を指したのであり、その仏像の後ろに懸けられたのが曼荼羅であったのであろうと思えるわけです。
そもそも日蓮本仏義が後世の思いであれば、曼荼羅、あるいは御影を仏と拝するなどということは考える余地はなく、となれば、持仏堂の仏は仏像以外に契当するものなど、あるはずはないからです。
なお、以上、記したことは、Libraさんのように、偉い先生方の説に順ずるものではなく、私自身が思惟したところに過ぎません。叱正をいただければ有り難く存じます。
31
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 18:33
とんちきちゃんです。
レスどうもありがとうございます。
私は、やはり釈尊の御宝前や釈尊にまいらせなどの御供養に関する記述が無いのが非常に不思議な感じがします。
現在伝えられる日興上人の御手紙は、90通を数えるが、これらの中に一遍として釈迦本仏という語を見つけることが出来ない。
信徒から御供養は、御宝前にお供えするが、釈迦仏にそなえるということがないのである。
ところで御供養に関して次のように御書に示されています。
「仏を一劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給ふ。」
長くなりましたので続きは、次のレスで!!
32
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 19:06
続きです。
「末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。」
これらの御文は、沢山あるが、特に佐後に見られる。
ここに劣釈迦勝宗祖の思想がみえないであろうか。
さらに宗祖は、次の様に御教示されています。
「今末法に入りぬ。 人毎に重病あり。 阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難し。」
病と薬に譬えて釈尊では、末法の人々を救済できないと述べられて続いて
「上行菩薩の出現して弘めさせ給ふべき妙法蓮華経の五字を、先立ちてねごとの様に、心にもあらず、南無妙法蓮華経と申し初めて候ひし程に唱ふるなり。」
とて、上行菩薩に先立ちて題目を唱えたと述べられています。
続く!!
33
:
とんちきちゃん
:2002/04/13(土) 19:23
さらに重須の日順師には、次の様な記述もあります。
「久遠元始自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元始の自受用身と取り定め申すべきなりと。」
ここには、日蓮本仏論が示されていると思われます。
では、バイバイ!!
34
:
川蝉
:2002/04/13(土) 20:55
30 独歩 さんへ。
「本尊抄」においては、大曼荼羅を仏像として表現すれば、一尊四士像であると日蓮宗の宗学者たちが指摘しています。
本化妙宗でも一尊四士像は大曼荼羅の妙略であり、仏像として表現する場合は一尊四士像であると云う見解です。
仏智を表する中央題目は釈尊の証悟であるから、釈尊像の内容とし、本仏であることを表する為に四菩薩を脇士にすれば、仏法僧の三を具えた本尊であるとしています。
顕本の中川日史師は、一尊四士像は法宝が欠けるので、一塔両尊四士像の方が三宝具足するので良い、としていたと思います。
中川日史師は大曼荼羅の肝要部分(中心)は三宝尊であるとしています。
また、本尊抄によれば、大曼荼羅全体をもって釈尊の証悟(身・土)が表されていると云えますね。
形は文字で現しているので法本尊と理解する人達もいますが、単純なる法本尊ではなく、三宝を体としています。
私などは、大曼荼羅を拝するときには、霊山虚空会のままの諸尊が影現している想像しながら拝します。
中央題目も単なる法でなく、成仏せしめてくれる釈尊の慈悲の結晶であり、題目に即して釈尊が影現していると想像します。
私の所は、大曼荼羅とその前に祖像を安置していますが、仏祖三宝を拝していると云う実感です。
興師の心情を私が如き者の気持ちで推し量るのはどうかと思いますが、興師が、大曼荼羅本尊の前に祖像を奉安する御宝前を拝していたとしても、「仏・聖人」と観じられていたであろうと推測できると思います。
>聖人在世は常に釈迦立像一体仏を随身され、・・その聖人の往古
>を偲ぶ御影であれば、曼荼羅・仏像・御影の順位に安置をなし、
>さらに、そこに三宝義を拝することは、少しも不自然ではないこ
>とになります。
その通りと思います。
日蓮宗では中山法華経寺に宗祖当時の一尊四士像が残っています。宗祖の直弟子や信徒が本尊としていた一尊四士像や釈尊像は他に残っているものが無いようですね。
>大石寺にあっても同様で興師の筆で確認できる「持仏堂」の仏と
>は、当時はまさに仏像を指したのであり、その仏像の後ろに懸け
>られたのが曼荼羅であったのであろうと思えるわけです。
「持仏堂」と有るのですか。興師が、造立するなら四菩薩を添えなければいけないと云っていますし(仏像形式造立反対ではなかった)、充分推測は出来ますね。
35
:
独歩
:2002/04/13(土) 21:40
とんちきちゃんさん:
> 日興上人の御手紙は、90通を数えるが、これらの中に一遍として釈迦本仏という語を見つけることが出来ない
それは日蓮本仏も同様でしょう。日蓮が本仏であると書かれているところもないわけですね。
引かれる順師の文は本因妙口決、偽書濃厚とされる書です。
また、「劣釈迦勝宗祖の思想」というのは、つまり、その原形は「天台勝釈迦劣」という中古天台本覚恵心流口伝の焼き直しである点は、何度も記したとおりです。
どうぞ、他をご参考ください(笑)
36
:
独歩
:2002/04/13(土) 21:58
川蝉さん:
> 興師…(仏像形式造立反対ではなかった)、充分推測は出来ますね。
この点については、私は富士門流の言い分をそのままにしても(ここは富士門流の掲示板なのでその点から考えるわけですが)、たった二つの仮定で簡単に説明できると思っています。
仮定1 もし朗師が釈迦立像を持ち去らなかったとしたら
仮定2 もし波木井円師が終生、興師の弟子であり続けたとしたら
という二つの仮定です。
朗師が釈迦立像を持ち去らず、波木井円師と興師がずっとうまくいっていれば、聖人の遺言のとおり、釈迦立像は、いまでも聖人の墓所の横に立っており、そして、身延は興師が二祖ということになったでしょう。とすると、聖人の教えを忠実に継いだ興師とその門弟は墓所と仏像を守り続けたことになったでしょう。
つまり、墓であれどこであれ、“興師の寺には仏像があり続けた”ことになったわけですね。否定の仕様もない点です。
いずれにしても川蝉さんがおっしゃるとおり、本尊において三宝を拝することは常道でしょう。当然のことであろうかと存じます。
ただ、私は個人的に曼荼羅一体に三宝義を拝することは是としても、その形式において、美を尽くしているようには思えないわけです。つまり、本尊(釈尊)と脇士(四菩薩)、そして法(妙法蓮華経)の関係が、仏像で一塔二尊四師、あるいは一尊四士とするような整然とした配列を示していないということです。ですから、曼荼羅一幅に御影を安置するだけでは、聖人の御立の三宝は必ずしも尽くしきれない、仏像の像立は必要であったろうと思うわけです。
しかし、仏・脇士をもって教説を表現することが可能であったように、曼荼羅をもって仏を表現することもまた、可能ではあろうかと存じます。案外、曼荼羅正意論の展開は、そんな点に対する“気づき”に由来するのではないかと思えます。
37
:
宮本
:2002/04/14(日) 02:58
独歩さん、並びに皆さん:
今晩は。
>私は、3月28日という根拠について、・・・。
原文は、拝見しておりませんが、御指摘の内容の出版物は、良くないですね。
恥じ入るばかりです。(ちなみに、私個人としては、現在、新聞啓蒙は
全てストップしております。正常化次第再開しますが)
理由の一つは、発言者の方々の端からみると狂気じみた多忙さ故と、
編集方針決定者の御認識、等々といった所が原因かと思います。
結局、長い視点でみると、自分で自分の首を締めてしまったり、将来、自分が
同じ目にあうのが、怒りの感情もあって見えないのだろうと思います。
阿部日顕氏の命の中の仏性を見てとるとは、中々、いかないのでしょうね。
おそらく、発言者(出席者)の方か、校閲した方は、善いと思っているでしょうから
始末の悪い話です。(御存知とは、思いますが)
ただ、これと関連してですが、多くの学会員の方々が
阿部日顕氏や御僧侶等の諸先生方々と法華講の皆様とが
全て同じの考えをもち、行動しておられると固定観念をもってしまうことの方が
危惧を感じます。
「蘭室の交わり」のような状態は、いつのことやら・・。
38
:
宮本
:2002/04/14(日) 03:02
訂正致します。
御認識--->誤認識です。
39
:
宮本
:2002/04/14(日) 03:15
川蝉さんへ:
宮本と申します。今晩は。
川蝉さんの仏法に関する御発言(書き込み)は、いろいろなサイトで拝見しています。
当方が、一方的に教えて頂くばかりで、本当に申し訳なく思っております。
今後とも、よろしくお願い致します。
40
:
一字三礼
:2002/04/14(日) 09:37
独歩さん:
川蝉さん:
大曼荼羅の諸尊の配座を見ると、四菩薩を添える事に少々疑問があるのですが。
この大曼荼羅を空間的にとらえ、その位置関係を考えた時に、以下の優先順位といいますか、上下関係があるように思います。
太字>細字 上>下 左>右 中央>周辺
この中で、太字>細字、上>下、中央>周辺は、蓮祖聖人の地位や、教主釈尊との関係を御自身が、象徴的に表されたものとして面白い考察が、幾つも出来そうですが、長くなりますので、左>右、のみに限定します。
まず、首題を挟んで、左に「釈迦」、右に「多宝」があります。ここでは左側が優先されます。つまり、釈迦の方が多宝より偉いとします。それは曼荼羅がシンボルとして機能するには、それが常にある程度の普遍的適応性を含むと考えた場合です。また、蓮祖聖人の筆記順でも、中国的表記方法でも、慣例的に左方(釈迦仏)が優先されます。
ここまでの推論を是としますと、曼荼羅上では、上行菩薩以下の諸尊が、首題を挟んで、二仏と対面している虚空会座になります。
この形については、優陀那日輝師、宮崎英修氏も言及してたと記憶してますが。
つまり、一尊四士が大曼荼羅の妙略であるなら、四菩薩は礼拝者に背を向けて、釈尊と対面していることになります。ここから考えれば、一塔両尊は妙略だと思いますが、一尊四士はどうかと思いまして。
41
:
一字三礼
:2002/04/14(日) 09:43
言葉が足りませんでした。
釈迦仏、多宝仏、及びほぼ首題の下に位置する日蓮を除いて、上行菩薩以下、全ての尊名は逆に配されている、ということに注目しての疑問です。
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