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(続) 大石寺の歴史
30
:
独歩
:2002/04/13(土) 17:06
29 川蝉さん:
ほぼ仰るところ、賛同いたします。
> 故人(精霊)を「仏」と表現することがあったかどうか…
たしか、この説は石山ですら依用していましたが、失念して、該当資料を思い出せません。私は、この点は、川蝉さん同様、やや疑問が残ります。
なお、「仏」の用法について、釈迦仏像の可能性は私は否定できないと思っています。
川蝉さんが仰るように、たぶん安置の形式は曼荼羅・御影であったと見るのは至当ですが、引用されている道師三宝義を是とするとき、安置において僧宝(日蓮=上行)、法宝(妙法曼荼羅)ばかりをおいて、肝心の仏宝を廃するというのは、興門義以外では、かなり常軌を逸したものであるわけですね。本来であれば、形像に結べない法宝を略し、仏・脇士をもって示すことはあれ、仏そのものを略した奉安など考えも及ばないところではないのか、と私は考えてきました。
聖人在世は常に釈迦立像一体仏を随身され、読経唱題に必ずや取り出して礼拝供養されていたと想像されます。その在世往時を偲べば、曼荼羅を懸け、その前に釈迦像が置かれ、そこに聖人を導師として読経唱題の儀式が営まれていたのであろうと思います。
その聖人の往古を偲ぶ御影であれば、曼荼羅・仏像・御影の順位に安置をなし、さらに、そこに三宝義を拝することは、少しも不自然ではないことになります。
しかし、ここで問題になるのは当の釈迦像ですが、これは聖人滅後、持ち去られたという史実があるわけです。されに興師は、その複製を製作しようとした円入道と異轍を生じることになるわけですね。
この点で、以前、問答名人さんとも論じ合ったのですが、この聖人随身仏についてです。
現代、日蓮門下一般の認識として釈迦立像は漁の網にかかったものを聖人に献上したとなっているわけですが、重須資料に拠れば、網にかかったのは仏像ではなく、仏像の材料とされた浮木であったとも考えられるわけです。私は、ここから仏像は聖人が自ら刻まれたものか、あるいは刻ませたものであると類推しているわけですが、いずれにしても、お筆の曼荼羅同様、聖人の手にかかるものであった、故に、それが持ち去られたからといって、易々と複製を作り、代わりに充てることに興師は難渋を示したのであろうと思えるわけです。
つまり、本来の安置は曼荼羅・仏像・御影であったけれども、失した仏像は、その返還を待つ意味で略されていたのではないだろうか、それが、いわゆる御影式と後世、称されるように奉安の形式の始まりであったのではないかと、私は考えています。そして、終には曼荼羅正意が形成され、富士では仏像は撤廃されていったのではないのかと思うのです。
また、この点は重須ばかりではなく、大石寺にあっても同様で興師の筆で確認できる「持仏堂」の仏とは、当時はまさに仏像を指したのであり、その仏像の後ろに懸けられたのが曼荼羅であったのであろうと思えるわけです。
そもそも日蓮本仏義が後世の思いであれば、曼荼羅、あるいは御影を仏と拝するなどということは考える余地はなく、となれば、持仏堂の仏は仏像以外に契当するものなど、あるはずはないからです。
なお、以上、記したことは、Libraさんのように、偉い先生方の説に順ずるものではなく、私自身が思惟したところに過ぎません。叱正をいただければ有り難く存じます。
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