したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

西洋史

1とはずがたり:2006/12/02(土) 18:08:31
地理的範囲:西洋人が開拓した新大陸アメリカや地中海世界として歴史を共有する中東史や西洋の植民地となったアフリカなどもここへ入れてしまって良かろう。
時間的範囲:余りに最近の話は各当該スレに。それ以前なら地球上が現在の陸地構成に成った以降ならいつでも可。

73とはずがたり:2017/02/14(火) 12:29:25
チョコレートが結ぶガーナとベルギー
ベルギーでは1894年に「カカオが成分の35パーセント以上を占めること」を定めた法律ができ、産業としてのチョコレート生産がほぼ確立されました。その後、1912年には、現在ベルギーを代表するチョコレート企業の一つであるノイハウスが、焙煎したナッツ類を混合させたプラリネを初めて世に送り出すなど、花形となる企業や商品も誕生。ベルギーは一躍チョコレート王国となったのです。

ただし、ベルギーは国力が小さく、英仏などとの植民地獲得競争にも出遅れたため、アフリカでの植民地はルワンダやコンゴなど、ごく少数にとどまりました。また、これらの土地は、カカオ豆生産に必ずしも適しません。そのため、ベルギーは英仏などの植民地からカカオ豆を輸入することで、チョコレート生産を活発化させたのです。

ベルギーのカカオ豆の輸入元の一つが、英国の植民地だったガーナ(英国人の当初の目的は金の採掘だったため、植民地名は「ゴールドコースト(黄金海岸)」というミもフタもないものだった)でした。ガーナでのカカオ豆生産も、やはり19世紀からの英国による植民地支配のもとで本格化しました。逆に言えば、それ以前のガーナの人々にとって、カカオ豆は全くといっていいほど馴染みのないものでした。

外から持ち込んだカカオ豆を生産させるため、英国は巧妙な仕組みを作り出しました。まず、現地人に人頭税などの税金を課します。しかし、植民地化以前のアフリカでは貨幣がほとんど使用されていなかったため、現地人は税金の支払いに困ります。払わなければ、逮捕・投獄されるのは、目に見えています。そのなかで英国人はカカオの苗木などを現地人に提供し、生産されたカカオ豆を買い上げることで、現地社会に貨幣を流通させていきました。これによって、英国は税金を集める一方で、カカオ豆の生産を促していきました。そして、現地人が生産したカカオ豆は、英国が設立した専売公社(マーケティング・ボード)が独占的に買い上げ、輸出していったのです。

こうしてガーナでは、現地人がカカオ豆をほとんど消費しないままに、その生産だけを行い、しかし利益の多くを英国が吸い上げる仕組みが完成しました。これはガーナ以外のアフリカの国でも、カカオ豆以外の農産物でも、ほとんど同様でした。

こうしてみたとき、チョコレート生産が植民地主義の遺産の象徴であることは確かで、そこには数多くの人々の苦難が凝縮されています。チョコレートは、それ自体に負けず劣らず、黒い歴史を背負っているといえるでしょう。

チョコレートと現代の「奴隷制」
現代でも、チョコレートには黒い話がつきまといます。なかでも、チョコレート産業は児童労働と人身取引の温床として、しばしば取り上げられます。

2014年段階で、コートジボワールとガーナのカカオ豆生産は、世界全体約60パーセントを占めます。しかし、これらの国のカカオ栽培の現場では15歳以下の子どもが数多く働いており、そういった子どものうちコートジボワールでは40パーセントが、ガーナでは10パーセントが、それぞれ学校に通っていないとILO(国際労働機関)は報告しています。

そのなかには、親の仕事を手伝っている子どもだけでなく、親の借金のカタとして、あるいは誘拐されて、売り飛ばされてきた子どもも含まれます。とりわけ、世界最大のカカオ生産国であるコートジボワールでのそれは深刻で、米国務省は同国のカカオ産業で10万人以上が無給労働や性的虐待などをともなう「最悪の形態の児童労働」のもとにあり、このうち約1万人を人身取引の犠牲者と試算しています。その「調達先」は国内だけでなく、マリやブルキナファソなどの周辺国からも、日本円に換算して一人当たり5000円ほどで売られてきているとみられます。アフリカはかつて白人により奴隷貿易の憂き目に遭いましたが、現代ではむしろアフリカ自身によって人間の商業取引が盛んに行われているのです。

ただし、外部もこれと無縁ではありません。2015年、スイスに本社のある世界的な食品メーカー、ネスレの系列に属する、コートジボワールの260のカカオ農園で、18歳未満の労働者が56名いることが発覚し、このうち27名は15歳未満でした。

カカオ栽培はもともと人手が頼りで、児童労働が蔓延しやすい環境にあります。そのため、ネスレをはじめとする世界のチョコレートメーカーは、米国議会の呼びかけに応じる形で、2001年に「最悪の形態の児童労働」をなくすために努力することを申し合わせました。しかし、申し合わせに法的拘束力はないため、その後もチョコレート産業では児童児童がしばしば報告されており、ネスレの件は一つの例に過ぎません。また、現地政府がこれに加担する、あるいは少なくとも見て見ぬ振りをすることも稀でなく、コートジボワールでは2010年にカカオ産業をめぐる汚職を報じた3人のジャーナリストが当局に逮捕されています。

74とはずがたり:2017/02/14(火) 12:29:45
>>72-74
矛盾を「断つ」のではなく「ほぐす」忍耐
こうしてみた時、チョコレートは世界の矛盾の縮図とさえ映るかもしれません。

ただし、チョコレートそのものを忌避しても、拒絶しても、その暗い歴史が覆ることは決してありません。また、目立つ特定の企業や業界の商品をボイコットしたとしても、それは必ずしもチョコレートにまつわる問題を解決するとは限りません。開発途上国に蔓延する貧困や政府の汚職、企業活動に対する規制などの問題がそのままであるなら、人身取引や児童労働の現場が他の企業・業界に移動するだけで終わりかねないのです。つまり、複雑に入り組んだ問題に直面するなかで、万能の特効薬はないと言えるでしょう。

そのなかで重要なのは、言い古されたことではありますが、まず知ることしかありません。逆に、問題の複雑さにしびれを切らして、一気呵成に問題を解決しようとすれば、副作用だけが大きくなりがちです。フランス革命で「反革命的」とみなされた人々が「貧者に対する哀れみのために」相次いで断頭台の露と消えたことも、世界のあらゆる問題を一刀両断に解決する方法として「イスラーム国家の樹立」という処方箋を示した「イスラーム国」も、そして「安全のためなら何をしても許される」と豪語するトランプ氏も、この点では同じです。

「一刀両断」を目指す人々に欠けているのは、「万能でない人間が考えることに100パーセントの正解がない」ことを認める謙虚さと言えるでしょう。人間社会につきものの矛盾と向き合うためには、無理やり「断つ」のではなく、「ほぐす」努力が必要なことを、甘くてほろ苦いチョコレートは語っているのかもしれません。

六辻彰二
国際政治学者
博士(国際関係)。アフリカをメインフィールドに、米中関係から食糧問題、宗教対立に至るまで、分野にとらわれず、国際情勢を幅広く、深く、分かりやすく解説します。

75とはずがたり:2017/03/27(月) 22:59:37
「中間層の没落」とともに国家は衰退に向かう
トランプは「歴史の教訓」に逆らっている
http://toyokeizai.net/articles/-/161616?utm_source=goo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&utm_content=related
中原 圭介 :経営コンサルタント、経済アナリスト 2017年03月09日

古代ギリシャ以来の歴史は、中間層が疲弊すれば国家の衰退は避けられないことを教えてくれる(写真:Pakhnyushchyy / PIXTA)
歴史を振り返ってみると、かつて軍事・経済・文化で隆盛を誇った国々の多くが、中間層の没落をきっかけとして衰退し、最後には滅んでいきました。そこで今回は、歴史から中間層の重要性を学ぶために、都市国家として栄えた古代ギリシャの事例を見ていきたいと思います。

ギリシャの気候は、夏は暑く乾燥し、冬には少量の雨しか降らない地中海性気候に属しています。おまけに陸地には山が多く、大河や平野に恵まれていないため、穀物の生産には適していません。しかし、この地理的特性は、オリーブ・ブドウなどの果樹栽培や羊の牧畜には適していました。

ブドウ酒やオリーブ油は、作るのに特別な風土と技術を必要としただけでなく、貯蔵がとても簡単だったので、瓶に入れて長期のあいだ保存することができました。そのまま遠く離れた国や地域に運搬することができたため、ギリシャの特産物として高価な貿易品となり得たというわけです。

古代において、ギリシャの諸都市でブドウ酒とオリーブ油が特産物として作られ始めると、ユーラシアの内陸に住む人々、特に貴族や富裕な人々がこぞってそれらを求めるようになりました。ギリシャ産のブドウ酒とオリーブ油は貿易船が運航する地中海沿岸だけでなく、遠くロシアや中央アジアまで運ばれ、大量の穀物や貨幣と交換されるようになったのです。

貿易で利益を得た農民が繁栄を支えた

そのようにして、ブドウやオリーブを栽培する農民は、内陸部との貿易で莫大な利益を得られるようになりました。内陸部からギリシャへ穀物や金銭が大量に流入し、それに比例するようにギリシャの各々の都市国家(ポリス)の人口は増えていき、その後の繁栄の基礎を築いていったというわけです。

ブドウ酒やオリーブ油を生産する中小農民は、当時のポリス社会では理想的な市民として評価されていましたし、彼ら自身もそのように自覚していました。彼らは内陸部との貿易に積極的に参入して豊かになっただけでなく、忙しくない時期にはポリスの政治や行事にも奉仕者として参加していたからです。

そのうえで、中小農民は農産物の売り手としてだけでなく、生活必需品の買い手としても経済活動に参加するようになり、ポリス社会に経済的な豊かさを広めていく役割を果たしていました。そのような姿は、かつての米国の豊かな中間層に重なるところがあるように思われます。

鋳造貨幣が発明されて間もない紀元前650年頃、ポリス間における戦争の手法に重大な変化が起こることになります。武装した歩兵(重装歩兵)の密集軍団による新しい戦法、すなわち密集隊形(ファランクス)戦法が発明されたのです。それは、青銅製の兜(よろい)、鎧(かぶと)、すね当てを身に着け、青銅製の盾と鉄製の槍(やり)を持った重装歩兵が横一列に並んで突撃するというものでした。数千の重装歩兵が一団となって一斉攻撃を加えれば、たとえ貴族による屈強な騎兵隊であったとしても、あっという間に蹴散らされてしまったのです。

76とはずがたり:2017/03/27(月) 22:59:49

それまでの戦争の主力は騎馬を利用する貴族でしたが、重装歩兵による戦法が圧倒的に有利であると知れ渡るようになると、ギリシャの各ポリスは市民からの徴兵を行い、できるだけ大規模な重装歩兵部隊をつくって訓練しなければなりませんでした。そのような環境下で、自費で武具を買いそろえて兵隊として活躍できる資質を持っていたのは、遠隔地との貿易で富裕になった農民、すなわち中小農民と呼ばれる人々だったのです。

彼らこそ、現代でいうところの「中間層」に位置する人々でした。彼らはギリシャの外から金銭を稼いでポリスへ税金を支払っていたうえに、それまで騎馬で戦っていた貴族に代わり、市民としてポリスの軍隊の主力となっていったからです。富裕な中小農民がポリスの財政・経済・軍事の中心となって、ポリス社会の隆盛を支えていたというわけです。

戦闘における連帯感が民主制を生んだ

興味深いことには、新しい戦法の発明は、各ポリスのギリシャ人に強い連帯意識を芽生えさせるというメリットまでもたらすようになりました。なぜなら、重装歩兵が密集して戦うための技術を身に付けるには、集団が連帯感を持って長い時間の訓練をしなければならなかったからです。

ギリシャの各ポリスが戦争で強かったのは、また、文明的にも経済的にも栄えたのは、そのような強い連帯感を基礎として、各々が自分たちのポリスに奉仕するという気持ちにあふれていたからです。それは、国家としても、社会としても、そこに住む人々の気持ちが一体感を保っていたということを意味しています。

高校の世界史の教科書などでは、市民(農民)が戦争で重要な役割を果たし政治的発言力が高まったため、歴史上で初めて、民主政という考え方が誕生することとなったと述べられていますが、私は民主政が誕生したもうひとつの大きな理由は、ポリスでの市民の連帯感にあったのではないかと考えています。古代アテネの政治家ペリクレスが当時の民主政について語った有名な演説がありますので、その一節をご紹介しましょう。

「私は敢ていうが、ポリス全体が安泰でさえあれば、個人にも益するところがあり、その益は、全体を犠牲にして得られる個人の幸福よりも大である。なぜならば、己れ一人盛運を誇っても己れの祖国が潰えれば、個人の仕合せも共に失せる」

「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる」(トゥーキュディデース、久保正彰訳『戦史』岩波文庫より)

その当時のアテネ、ひいてはギリシャの民主政治の特徴とは、成年男性市民の全体集会である民会が多数決で国家の政策を決定し、できるだけ多くの市民が政治に参加することを求められたということです。そのような政治制度の誕生によって、ギリシャの各ポリスでは宗教に縛られない自由な考え方が生まれ、文化面では合理主義的な哲学や数学などが発達しました。その後、ギリシャの文化は、ローマの文化や14世紀のイタリアから始まるルネサンスの規範となっていくことになります。

紀元前500年〜紀元前480年の間に3回にもわたる大国ペルシャとの戦争に勝利したギリシャの諸都市国家は、当時の世界で最も繁栄を極めていた文明であるといえるでしょう。しかしながら、その繁栄は50年余りしか続きませんでした。アテネを中心とするポリスの連合であるデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟のあいだで、紀元前431年に植民地をめぐって悲惨な戦争が勃発してしまったのです。

長年にわたる従軍で農民が経済的に疲弊した

ペロポネソス戦争はギリシャ域内で30年近くも続いたため、ギリシャの各々のポリスは衰退していくのが避けることができませんでした。というのも、中小農民が長年にわたって従軍せざるをえず、そのあいだに農地が荒廃してしまったからです。農産物収入を失った農民は、生活のために金銭を必要としたので、借金に借金を重ね、最後には土地までも失ってしまったのです。

77とはずがたり:2017/03/27(月) 23:00:03
>>75-77
貨幣経済が発達するにつれて、没落した農民は小作人や奴隷といった身分に転落していくかたわら、富裕な貴族や一部の大商人は農民が手放した土地を買い取り、ポリスの人々のあいだでは絶望的なまで経済的な格差が拡大していきました。その結果として、富裕な貴族や一部の大商人は大土地所有者となり、政治・経済の支配者として君臨していく一方で、小作人や貧民は不満を募らせて大土地所有者に強く対抗していくようになったのです。富裕な人々が支持する党派と貧民層が支持する党派の争いに発展し、裏切りや暗殺、追放などが横行することになり、ポリス社会の強みであった「国家のもとに奉仕する」という人々の心やまとまりは、ペロポネソス戦争が終わる頃には見事に失われてしまったというわけです。

国防の要であった豊かな中小農民が経済的に疲弊して従軍できなくなると、重装歩兵の密集集団による戦法は使えなくなりました。そこで各々のポリスは兵隊として傭兵を雇うようになったのですが、主として雇われたのは異民族や土地を失った没落農民などでした。当然のことながら、傭兵では強い連帯感やポリスへの忠誠心を持って戦うのは困難であり、ポリスの軍事力はかつてと比べると著しく弱まってしまいました。

そのような折の紀元前4世紀後半に、ポリスをつくらなかったギリシャ人の一派である北方のマケドニア王国では、フィリッポス2世のもとで財政と軍政の改革を進めます。そしてとうとう紀元前338年には、マケドニアはカイロネイアの戦いでギリシャ連合軍に圧倒的な勝利を収め、ギリシャ全域を支配することに成功したのです。戦意の低い傭兵を主力とするポリスの軍隊は、自国民で組織したマケドニア軍の敵ではなかったというわけです。

このように歴史を振り返ってみると、古代ギリシャの黄金時代は豊かな中間層の出現とともに生まれ、中間層の喪失によって終わりを迎えたということがわかります。豊かな中間層の喪失は、貧富の格差を拡大させ、国家の分断を引き起こし、国力を衰退させていったのです。

古代ギリシャは歴史上で初めて、豊かな中間層が失われると、軍事的にも政治的にも経済的にも国力が衰退していくという教訓を、後世の人々に如実に示した事例であるといえるでしょう。中間層が失われた国は滅びる。現代においては滅びるということはなくても、衰退は避けられない。それが歴史の教えるところなのです。

分断するアメリカは歴史的な危機を迎えた

昨今のアメリカでは、グローバル経済の進展や金融危機の後遺症などを経て、豊かな中間層から貧困層および貧困層予備軍に転落する人々が増える一方で、富が一部の支配者階級に集中するという傾向が強まってきています。2011年に「ウォール街を占拠せよ」をスローガンとして全米各地で行われた反格差デモ活動に象徴されるように、アメリカではすでに国家の分断が起こり始めているといえるでしょう。

さらに悲惨なことに、トランプ政権が誕生したことによって、人種による差別や対立という新たな国家の分断も起こってしまっています。トランプ大統領は移民・難民の入国を制限・停止するという方針をテロの危険性を和らげるための措置だと強弁していますが、それよりもヘイトクライムが横行していることのほうが、アメリカ社会の分断をいっそう促しているので大問題であると思われます。

歴史的な見地から判断すれば、経済格差と人種差別という複合的な国家の分断にさらされているアメリカの現状は、国家としての歴史的な危機を迎えているといっても過言ではないでしょう。アメリカが20年後、30年後に繁栄を享受できているか否かは、まさに国家の分断を回避できるかどうかにかかっているというわけです。

78とはずがたり:2017/11/01(水) 12:30:16

宗教改革500年で式典=メルケル独首相、多様性尊重訴え
時事通信社 2017年11月1日 06時01分 (2017年11月1日 12時15分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20171101/Jiji_20171101X183.html

 【ベルリン時事】ドイツの神学者マルティン・ルター(1483?1546年)の宗教改革の始まりから500年となる10月31日、ゆかりの地、独東部ウィッテンベルクで記念式典が開かれた。出席者らは世界を大きく変えた歴史的節目を振り返った。
 地元メディアによると、父が牧師だったメルケル首相は式典で演説し、「われわれは寛容であることが欧州の精神だと学んだ」と述べ、宗教の自由や多様性を認めていく重要性を改めて強調した。

79とはずがたり:2017/11/16(木) 15:07:26
もしも七年戦争でフランスが勝っていたら……――学校では学べない世界近現代史入門
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171115-00004732-bunshun-int&pos=1
11/15(水) 11:00配信 文春オンライン

北米、インドでの植民地戦争でイギリスが敗れていたら
大英帝国ではなく大仏帝国ができていたかもしれない

◆◆◆

 1984年に在外研修でパリ第三大学のマックス・ミルネール教授のゼミに出ていたときのこと。完璧なフランス語で発表するインド人の女子学生と親しくなり、なんでそんなにフランス語がうまいのかと尋ねてみると「だって、私、ポンディシェリー出身だから。フランス語は母国語(マザー・タング)なのよ」という答えが返ってきたので驚いた。インド史はおろか世界史にも疎かった私は1947年のインド独立までポンディシェリーを始めとするフランス植民地がインド亜大陸に数カ所残っていたことを知らなかったのである。

 このときの驚きが大きかったので、フランス領インドというものに興味を持つと同時にインドの領有を巡って英仏で18世紀に戦われたカーナティック(カルナータカ)戦争について調べ始め、さらには北米での英仏植民地戦争であるフレンチ・インディアン(正式にはフレンチ・アンド・インディアン)戦争、およびそれらと連動して行われたヨーロッパ大陸での七年戦争そのものにも強い関心を抱くようになった。そして、これら18世紀の英仏植民地戦争の勝敗が、その後の英仏の運命を大きく変えたことが見えてきた。

ルイ14世、植民地経営に乗り出す
 フランスが新大陸やインドにおける植民地貿易に本格的に参入したのはポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスに比べるとずいぶんと遅く、ルイ14世の親政開始4年目の1664年のことである。財務長官コルベールが重商主義に基づき、1604年に創設されながら機能していなかった「フランス東インド会社」を国策会社として改組・再建し、英蘭との競争に乗り出したのである。

 コルベールは重商主義を強力に推し進めるために、原料(綿糸)の供給地として、またフランス製の贅沢(ぜいたく)品の消費地としてインドを開拓するしかないと信じて、「東インド会社」に莫大な資金を注ぎ込んだのである。

 その結果、フランス東インド会社は後発であるにもかかわらず、イギリス東インド会社、オランダ東インド会社の牙城に食い込むことに成功し、これらの有力な対抗馬にまで成長した。国策会社として豊かな資金を用いてインド洋に浮かぶブルボン島(現レユニオン島)、フランス島(現モーリシャス島)を中継基地として整備できたことが大きかった。さらに、インドの拠点として藩王からインド東海岸のポンディシェリーを買い取り、ベンガル地方にもシャンデルナゴルを確保することができた。幹部に元オランダ東インド会社平戸商館長だったフランソワ・カロンを迎え、ポンディシェリー商館長にフランソワ・マルタンなど貿易実務に長けた人材を配置したこともあり、貿易量は急速に拡大した。

 ところが1682年にヴェルサイユ宮殿がほぼ完成し、宮廷の移転が完了したころから風向きが変わる。財政逼迫(ひっぱく)を理由にヴェルサイユの追加工事に首を縦に振らないコルベールに対して大王が不満を募(つの)らせ、彼のライバルである陸軍大臣ルーヴォワに寵愛(ちょうあい)を移したのである。コルベールがそのショックで1683年に死ぬと、「東インド会社」は総会で清算され、新会社として再出発することとなった。

 しかし、東インド会社が立ちいかなくなった最大の原因は1680年代からフランスの野心が海洋覇権ではなく大陸覇権へとシフトしたことである。いいかえると、ルイ14世のアドヴァイザーがコルベールからルーヴォワに変わったことにより、ルイ14世の自己表現対象が築城から戦争に移り、海外覇権は関心の埒外(らちがい)に置かれてしまうのだ。

 さらに事態を悪くしたのは、秘密結婚していたカトリック過激派マントノン夫人の差し金でルイ14世が信教の自由を保障したナントの勅令を1685年に廃止してしまったことである。これにより、コルベールが育成した産業の担い手であったプロテスタントが国外に追放され、フランスは貴重な人的資源を失うことになる。

 1715年にルイ15世がわずか5歳で即位すると、摂政となったオルレアン公は財政再建のためスコットランドから流れてきた元銀行家で殺人犯のアヴァンチュリエ(山師)ジョン・ローが勧める「システム」を採用する。

80とはずがたり:2017/11/16(木) 15:07:53

 すなわち、ローは兌換(だかん)銀行券の発券銀行として「バンク・ジェネラル」を設立し、次にそれを中央銀行に組織替えすると、金保有量をはるかに超えた銀行券(紙幣)を大量に発行する。ついで、「東インド会社」を再建して、これを他の国策会社と合併してインド貿易と北米貿易を連結させた「フランス両インド会社」へと改組する。それと並行して、北米のフランス植民地ルイジアナに河口港ヌヴェル・オルレアン(ニュー・オーリンズ)を建設し、ミシシッピー開発を業務とするミシシッピー会社(「西インド会社」)を設立、その株式を大々的に売り出すことにする。しかも、株式は額面価格の国債による株式転換が可能としたため、人気が沸騰(ふっとう)。目先の欲にくらんだ人々は政府に償還義務のある国債を償還義務のない株式に転換したので、政府の負債(国債)は大幅に減少した。ミシシッピー会社の株券は額面の20倍となり、フランスの歴史初のバブルが発生、証券取引所だったカンカンポワ通りは押すな押すなの大賑(にぎ)わいとなった。ローは財務長官の座に上りつめ、銀行券を安倍首相と同じく「ジャンジャン」刷りまくったから、通貨供給量は4倍となり、フランス人は急にみんな金持ちになったかのような多幸感に酔いしれた。

 だが、夢はいつかは覚める。ミシシッピー会社が幽霊会社だという噂が流れると、売りが売りを呼び、人々は銀行の窓口に殺到して兌換を要求したから、たちまちフランス初の取り付け騒ぎが起きる。かくて一瞬のうちにバブルは崩壊し、ジョン・ローは財務長官を辞任すると国外に逃亡、最後は尾羽打ち枯らしてヴェネチアで死んだ。

 このバブル崩壊で、民衆はなけなしの財産を失ったが、逆に国債がほとんど償還されて収支が改善されたフランス国家は1720年代後半にはかつてないほどの元気を取り戻していた。つまり国家デフォルトにより財政再建が成ったのである。

 そして、財政が元気を取り戻すと、フランスは自らが海洋国家でもあったことを突然に思い出すらしく、1720年代後半から海洋覇権の奪取に再挑戦することになる。ヨーロッパでの七年戦争終結まで続く、インドと北米における英仏戦争はこうして準備されたのである。

フランスの北米進出
 フランス植民地として先行していたのは北米である。起源は、北米の北側を抜けるアジア航路の存在を信じたサン・マロ出身の探検家ジャック・カルティエがフランソワ1世の保護を受けて1534年から探検に出発、現在のモントリオールまで到達して、フランスによるケベック領有の道を開いたことに求められる。

 フランスは1603年、アンリ4世に交易独占権を与えられたピエール・デュ・グァ・ド・モンがサミュエル・ド・シャンプランとともにセントローレンス川の水路が狭くなる地点にビーヴァーの毛皮を交易する都市ケベックを建設する。これが北米最大のフランス植民地ヌヴェル・フランスの始まりである。しかし、ケベック建設で一気に入植者が増えたかというと、そうはならなかった。

「先住民の手を借りることのできた毛皮交易は、ヨーロッパ人の人手を多くは必要とせず、加えてヴァージニア植民地のタバコのような魅力ある商品作物がなかったため、ヌーヴェル・フランスは入植者を引きつけることができなかったのである」(木村和男編『カナダ史』山川出版社)

 ヌヴェル・フランスの入植者は1645年の時点でも600人、年季奉公人を入れても1000人足らずで近隣のイギリス植民地とは比べ物にならないくらい少なかった。理由はイギリス植民地が本国に居場所のないプロテスタントを積極的に受け入れたのに対し、ヌヴェル・フランスではルイ13世の宰相リシュリューが植民会社の特許状条項によってプロテスタント信仰を禁止したため、本国で住みづらくなったプロテスタントの受け皿とはならなかったことである。これが後々、フレンチ・インディアン戦争の敗因となる。

 コルベールは重商主義政策の一環として植民の増加を図ったがヌヴェル・フランスでは極端に男女比が偏っていたので、「国王の娘たち」と呼ばれる770人の独身女性をヌヴェル・フランスに送ることにした。その大半はパリの孤児院の出身者で中には刈り込みにあって逮捕された娼婦もいた。アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』では詐欺容疑で逮捕されたマノンはアメリカに送られることになり、シュヴァリエ・デ・グリュがそれに同行するが、マノンはまさにこうした「国王の娘たち」の1人だったのである。

 このようにコルベールはヌヴェル・フランスの植民の増加に心を砕いたが、換金性商品が毛皮に限られていたため人口は拡大しなかった。ヌヴェル・フランスの発展が始まるのは、1720年代以降、毛皮交易に代わって小麦取引が中心になってからである。だが、農業と商業が発展の兆しを見せはじめたころ、北米のフランス植民地全体に悲劇が襲う。ヨーロッパの戦争を反映したイギリス植民地との戦争である。

81とはずがたり:2017/11/16(木) 15:08:47
 七年戦争よりも早く1754年に始まったフレンチ・インディアン戦争で、真っ先に被害を受けたのは、ヌヴェル・フランスとは別に形成されたフランス植民地アカディア(現在のノヴァスコシア、ニューブランズウィック、プリンスエドワード諸島など)である。アカディアには1633年頃からラ・ロシェル出身者300人が入植し、沼沢地を埋め立てて苦心のすえに開拓地を築いた。イギリス植民地ジェイムズタウンと隣接していたこともあり、ヨーロッパで戦争が起きるたびに支配者が目まぐるしく交替したため、住民は自らをアカディア人と名乗り、英仏どちらにも属さない自主独立路線を歩むことにしたが、フレンチ・インディアン戦争が始まるとこうした中立路線も意味をなさなくなる。

「彼ら(イギリス軍)は一七五五年ボセジュールなどシグネット地峡にある砦を攻略したが、この成功を契機に、彼らがこれまで腐心してきたアカディア人の処遇の最終的決着に踏み切った。同年八月ノヴァスコシア総督チャールズ・ローレンスは約一万五〇〇〇人のアカディア人にたいして強制追放を命じたのである。その結果、同年中に三〇〇〇人以上が土地や財産を没収されて十三植民地に離散した」(前掲『カナダ史』)

 ロングフェローの『エヴァンジェリン――アカディアの恋物語』が伝えるこのディアスポラにより、アカディア人たちはヌヴェル・フランスやフランス本国、あるいはルイジアナ植民地に散っていった。ルイジアナに移ったアカディア人たちは現在アケイディアナと呼ばれる土地に定着し、ケイジャンという独特の料理を生み出した。

 フレンチ・インディアン戦争はというと、こちらは前半はモンカルム将軍率いるフランス軍優位で推移した。フランス軍が軍事顧問団方式でインディアンの部隊を組織し、圧倒的に少数の自軍と同盟させて奇跡的勝利を勝ち得たのである。

 ところが、大敗北の知らせがイギリス本国に届くと、ホイッグ党のウィリアム・ピット(大ピット)の強硬外交派がニューカッスル内閣を組織し、1758年に大規模な正規軍を北米に送り込むと同時に、フランス艦隊が出撃できないように大陸封鎖を行った。

 これに対し、ヨーロッパの戦いに戦力を集中したいフランスはヌヴェル・フランスを救うために増援軍を送るのに消極的だった。

 結局、この本国政府の姿勢の差がもろに北米での戦闘に影響を与えることになった。1758年、難攻不落のルイブール砦が陥落、翌年にはヌヴェル・フランスの中心都市であるケベックの砦が陥落して勝敗は決した。1760年9月に総督ヴォドリュイユ侯が降伏文書にサインしてヌヴェル・フランスはイギリスの軍政下に置かれることとなった。そして1763年のパリ条約でフランスはミシシッピー以東の北米植民地をイギリスに割譲、ミシシッピー以西のルイジアナもスペインに譲渡し、北米植民地をすべて失うことになったのである。

インドの運命を決めた英仏決戦
 それでは、七年戦争に連動した植民地の戦いのもう一方の極であるインドでの戦争はどのように展開していたのだろうか?

 フランスはジョン・ローのデフォルトで国債が帳消しになり、国力が回復すると1730年代からポンディシェリーを拠点にイギリスの「東インド会社」と激しい鍔(つば)ぜり合いを演じるようになる。

 英仏の東インド会社の違いは、イギリスのそれがあくまで民営であったのに対し、フランスのそれは国策会社の色彩が強かったことに尽きる。そのため、フランス東インド会社の軍隊はフランス本国から派遣されたフランス領インド総督の指揮下に置かれ、実態的にはフランス植民地軍と同じだった。

 このフランス・インド総督軍とイギリスの東インド会社の軍隊がインドの地方の太守国の内紛に介入して三次にわたって戦ったのがカーナティック戦争である。

 カーナティック戦争では、第二次の戦争までは、フランス領インド総督ジョゼフ=フランソワ・デュプレックスの総指揮によりイギリスの東インド会社軍に対して有利に戦いを進めていた。

 デュプレックスはフランス東インド会社の総書記をつとめた父親の勧めで1720年に「フランス両インド会社」に就職、ポンディシェリーに赴任すると、たちまち頭角を現し、1742年にはフランス領インド総督に任命された。

 デュプレックスが採用した軍事方針は、軍事顧問団方式でインド人歩兵にフランス式の操銃訓練を施して、フランス人将校の指揮下に置くというものである。こうして組織化された現地軍は騎兵中心のインド諸侯軍を撃破し、これを配下においたり、同盟を組んだりして、イギリスとの対決に備えた。

82とはずがたり:2017/11/16(木) 15:09:27

 具体的には第一次カーナティック戦争(1744〜1748)ではマドラスの戦いでイギリス軍を撃破してマドラスを占領、第二次カーナティック戦争(1749〜1754)でも、ニザーム王国やカルナータカ太守国の内紛に介入して、ロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社軍と互角の戦いを展開したが、1754年に突如、デュプレックスが本国政府によって召喚(しょうかん)されたことで情勢は混沌としてくる。

 本国政府は、出先機関であるインド総督府と東インド会社が戦線を拡大し、膨大な資金をつぎ込んで戦争を継続していることを憂慮し、戦争よりも貿易と判断して、独断専行の廉(かど)でデュプレックスを本国に召喚したのである。

 このデュプレックス召喚はインド戦争に破局的影響を及ぼした。それは七年戦争と連動して起こった第三次カーナティック戦争(1758〜1763)で鮮明となる。

 もっとも、デュプレックスが召喚された後でも、フランス・インド総督軍はなお大きな戦力を保持しており、勢力圏はイギリスと拮抗していた。ところが、1757年に起こったプラッシーの戦いで勢力バランスが大きく崩れる。フランス・インド総督軍が支援したベンガル太守軍がクライヴ率いる東インド会社軍に完敗し、ベンガル地方は完全にイギリスの勢力下に置かれてしまったからである。とはいえ、教科書の記述にあるようにプラッシーの戦い1つでインドにおける英仏の戦いに決着がついたわけではない。プラッシーの戦いではフランス・インド総督軍の損害は軽微で、いまだに多くの領土と軍隊を保持していたからだ。

 インドにおける英仏の戦いに決着がついたのは第三次カーナティック戦争後半の1760年、本国政府海軍からの大増援を受けたイギリス東インド会社軍がヴァンディヴァッシュの戦いでフランス・インド総督軍を完膚(かんぷ)なきまでに破ったときのことである。この戦いでもヨーロッパ戦線で苦戦を強いられていたフランス本国政府が増援部隊を派遣できなかったことが運命の分かれ目となった。

 1763年2月にパリ条約が締結され、フランスはポンディシェリーとシャンデルナゴルを除くインド領をすべて失った。その後、フランス領インドは両都市を拠点に細々と貿易活動を続けたが、1947年のインド独立を機にインドに返還されたのである。

83とはずがたり:2017/11/16(木) 15:09:39
>>79-83
大仏帝国を夢想する
 と、このように、ヨーロッパの七年戦争と連動して北米とインドで繰り広げられた英仏の戦いを概観してみると、海洋国家として首尾一貫していたイギリスに比べ、大陸国家と海洋国家という2つの側面で逡巡が繰り返されたフランスは不利だったことがわかる。フランスは2つの植民地戦で負けるべくして負けたのである。

 ただ、そうはいうものの、パリ条約でイギリスが北米とインドの覇権を得たことは、その後の世界史に非常に大きな影響を及ぼした。

 それは、もし七年戦争でフランスが勝利していたらと歴史にイフをかけてみればすぐに明らかになる。北米とインドにおけるフランスの勝利により、フランスは余剰人口のはけ口を北米とインドに見出すことができたので、パリへの人口集中は起こらず、したがってフランス革命も起こらなかったはずである。ブルボン王朝がいまも続き、フランスは王国のままであったろう。

 反対にイギリスは17世紀にエンクロージャー・ムーブメントなどでマルクスのいう原始的蓄積(農民が土地から切り離され、労働力しかもたないプロレタリアとなること)が行われているにもかかわらず、植民地を失ったため余剰人口のはけ口がなくなり、プロレタリアがロンドンに溢れ、イギリス革命が起こったかもしれない。さらにマルクスの予言したとおりに、イギリスに初の共産主義政権が誕生していた可能性もある。となると、スコットランド、アイルランドは独立し、イギリス連合王国は空中分解していた可能性が強い。優秀なインド木綿の輸入超過に苦しんだイギリスが一計を案じて、綿花をアメリカに運んで安価な原料供給地とし、自国の綿織物工業の育成につとめるというようなことはなかっただろう。アメリカ綿花がなかったらイギリスに産業革命は起こらなかったはずだし、インドの綿織物工業が解体されることもなかったにちがいない。従って大英帝国も成立せず、19世紀はパクス・ブリタニカならぬパクス・フランカの世紀となっていたと思われる。

 また、中国茶のこれまた輸入超過に業を煮やしたイギリスがインドのダージリンやアッサムなどの土地を選んで茶を栽培し、中国からの輸入を減らすと同時に、インド茶を北米への重要な輸出商品とすることができたのも2つの植民地を領有していた賜物(たまもの)である。

 さらにいえば、インドを失ったフランスが紅茶消費国とならなかったことも七年戦争の影響だし、フランスがわずかに残された西インド諸島産のコーヒーに依存するコーヒー愛飲国となったのもパリ条約の結果なのである。そればかりではない。インドと北米がフランス植民地にとどまった場合、まちがいなく世界の共通語はフランス語になっていたものと思われる。となると、天の邪鬼(あまのじゃく)な私は専攻としてフランス文学ではなく英文学を選んでいたかもしれない。

 と、このようにパラレル・ワールドが簡単に描けるのだから、七年戦争こそは現在に至る世界史の分水嶺であり、18世紀から21世紀にかけての世界史を完全に変えたのである。

鹿島 茂

84とはずがたり:2017/11/27(月) 20:01:47

英海軍がバッキンガム宮殿の警護に、衛兵交代式357年の歴史で初
AFPBBNews 2017年11月27日 14時20分 (2017年11月27日 16時00分 更新)
https://www.excite.co.jp/News/world_g/20171127/Afpbbnews_112055.html

【11月27日 AFP】英ロンドンにあるエリザベス女王(Queen Elizabeth II)の公邸、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)で26日、名物の衛兵交代式に英国海軍(Royal Navy)が登場し、357年に及ぶ交代式の歴史上初めて警護任務を引き継いだ。

 世界中から訪れる観光客に人気の衛兵交代式は通常、赤い制服がトレードマークの近衛歩兵連隊が行う。交代式の歴史は1660年にチャールズ2世(Charles II)が王政復古をとげた際にさかのぼるが、海軍が警護任務を引き継ぐのは今回が初。海軍兵士が王宮の警護を担当するのは実に400年以上ぶりとなる。

 英国は2017年を「海軍の年(Year of the Navy)」と位置付けており、今回、海軍は祝賀行事の一環としてバッキンガム宮殿の警護任務を一時的に引き継いだ。

 交代式では、選抜された48人の水兵らが海軍伝統の紺色の制服を身にまとって初めての行進に臨んだ。海軍本部で1か月にわたって複雑な交代式の手順を訓練してきたという。

 27日には、この48人を含む86人の海軍兵士が初めてウインザー城(Windsor Castle)の護衛任務を担うほか、今後数週間かけてロンドン塔(The Tower of London)やセント・ジェームズ宮殿(St James's Palace)でも護衛を担当する。(c) AFP/AFPBB News

85とはずがたり:2018/01/18(木) 08:59:58


この件に関して俺はギリシャに批判的で国号ぐらい好きに名告らせてやれやと思ってたけど「アレクサンダー大王の唯一の後継者という主張」なことしてたんか(;´Д`)

マケドニア国名論争にピリオド? ギリシャと作業部会/国連も仲介再開
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180117-00000067-san-eurp
1/17(水) 7:55配信 産経新聞

 【ベルリン=宮下日出男】「マケドニア」の国名を採用するマケドニア共和国に対し、国内に同様の名の地方を持つ隣国ギリシャが反発してきた対立をめぐり、両政府間で解決に向けた機運が高まってきた。双方は今年に入り、作業部会の設置を決めたほか、国連による仲介交渉も17日に再開する。約四半世紀に及ぶ“論争”に終止符が打たれるのか注目される。

 問題はマケドニアが1991年の旧ユーゴスラビアからの独立時、アレクサンダー大王が大帝国を築いた古代王国に由来する「マケドニア共和国」を国名としたことが発端。北部に「マケドニア地方」を抱えるギリシャは領土的な野心を示すものだと猛反発し、マケドニアは国連に加盟した際に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という暫定名称の使用を迫られた。

 両政府が解決に向けて動き出したのはマケドニアで昨年5月、ザエフ首相率いる左派政権が誕生したのが契機。ギリシャの反対で阻止されてきた北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)への加盟を目指すザエフ氏は「アレクサンダー大王の唯一の後継者という主張は放棄する」などとし、柔軟姿勢を示しはじめた。

 ギリシャも「(マケドニア政府が)極端な立場を捨てた」(政府報道官)と歓迎。今月11日には両国外相が会談し、解決に向け作業部会の設置を決めたほか、17日に米国で始まる国連仲介交渉などを通じて積極的に取り組むことを確認。国連のニミッツ特別代表も15日、「双方に前向きな機運がある」と期待感を示した。

 マケドニア側は今夏までの決着を目指し、新たな国名案がメディアで取り沙汰されるが、国内では国名変更への抵抗は強い。一方のギリシャでも、どんな形であれ「マケドニア」の表記が使われることに反対する世論が7割近くを占め、政府間で合意できても解決までは曲折が予想される。

86とはずがたり:2018/01/18(木) 14:02:21
2018年01月16日 18:46短縮 URL139
フランス市民、40万人がロマノフ王朝時代の未払いの国債の支払いをロシアに求めている。未支払い額は総額300億ユーロにのぼる。
https://jp.sputniknews.com/russia/201801164476049/
スプートニク日本

1867年、ロシアの複数の鉄道会社は、金を担保とした国債の市場公開を開始。その後30年にわたり、フランスの投資家たちはロシアの鉄道敷設プロジェクトに総額150億フラン(現在の換算で530億ユーロ)を注いだ。

出資者らは一部を除いて利益は得られなかった。理由は、社会革命の翌年の1918年、ロシア政権についたウラジーミル・レーニンがロマノフ王朝の負債を放棄する布告に署名したため。1997年、ロシアはフランスとの間に、ロシアは帝政時代の負債をすべて支払ったとする合意を結んだものの、当時の債権者の後継者約40万人はこれに納得せず、支払いを求めている。

扇動ポスターに見るソ連史
c 写真:
扇動ポスターに見るソ連史
ある債権所有者の友人のクリスチアンヌ・ルドワイヤン氏は、ラジオ・フランス・アンテルナショナル局(RFI)からのインタビューに次のように語っている。
「従祖父が私たちにたくさんの書類が入ったファイルを私たちに手渡したのは1974年。その時、聞かされた話はこれはいつか必ず全額支払われる。すべての利益が君たちのものになるということだった。」
国債は総額は300億ユーロに達する可能性がある。RFI放送は、「1997年、仏露で結ばれた合意に基づき、ロシアが3億3千万ユーロを超える国家債務を支払った後となっては、こうした希望(支払いをとりつけること)は一切持てない」との見方を示している。ところがフランス人債権者のほうは、この問題を解決済みとは見なしていない。

国際ロシア公債所有者協会のサニタス会長は、「ロシアは破産宣告をしていないし、そうした状況では全くない。国債には有効期限はなく、ロシアは支払わなければならない。それがルールだ」と強調している。

関連ニュース

87とはずがたり:2018/04/01(日) 19:45:17
なんか無理無理だけど面白いw

連載
鈴木貴博「経済を読む目玉」
数千万円の預金を使わない日本の高齢者たち…経済停滞の原因に関する歴史的考察
http://biz-journal.jp/2018/02/post_22284.html
文=鈴木貴博/百年コンサルティング代表取締役

 若い方はご存じないかもしれないが、1980年代に「イギリス病」という言葉が流行したことがある。60年代ぐらいまで安定した経済発展を遂げ世界の大国だったイギリスが、70年代以降経済的に停滞したことを憂いてつけられた病名だ。アメリカのみならず日本にも経済的に抜かれ、慢性的な不況に悩まされたイギリス国民は自らの経済を「イギリス病に罹っている」と嘆いたのだ。

 それと同じ意味で日本もその後「日本病」にかかり、中国にも経済的に追い抜かれてしまった。その間、イギリスはイギリス病から抜け出して再び経済発展に転換できたことから、日本の経済再生のヒントはイギリスにあるのではないかといわれている。

 そのような視点で私もイギリスの近代経済の歴史について研究しているのだが、今回のコラムはそのひとつのトピックとして、16世紀から19世紀の絶好調だった当時のイギリス社会の話をしてみたい。最後まで読んでいただくと現代の日本と関係する話だと謎が解けるはずだ。

ジェントルマン

 さて、イギリスという国は基本的に階級社会で、今でも王族の下に貴族の階級があってそれなりに高い地位を占め、それなりに社会から尊敬されている。16世紀から19世紀までそのさらにひとつ下の階級として力を持っていたのが地主などの階級であるジェントリで、貴族の称号を持つ領主とともにジェントルマンと呼ばれた。日本やアメリカではジェントルマンといえば一般男性(ただしきちんとした人)のことを指すが、イギリスではジェントルマンは上流階級のことを指すのである。

 さて、この伝統的なジェントルマンにはひとつの社会的ルールがあった。ジェントルマンたるものは、働いてはいけないのだ。ここが現代の支配階級との大きな違いである。

 現代社会の上流階級はたとえ数百億円の資産を持っていたとしても、企業経営者として働いたり、政治家に転身したりして身を粉にして働くのが常である。その理由は、現代社会では「権力は資産だけからは得られない」からである。金融資産が100億円あるから支配階級にとどまれるわけではなく、オーナー経営者だったり有力政治家だったりするからこそ社会を支配できる。これが第2次世界大戦後の民主主義というものである。

 そうではなく、生まれながらにして支配階級だったという時代のジェントルマンは、権力を保持するために領主として「働く」必要はなかった。逆に「働いている者はジェントルマンではない」とみなされたのである。

88とはずがたり:2018/04/01(日) 19:45:27

 この時代、農作物を生産するのは領民である小作人であり、そこから年貢を徴収するのは領主の手下たちである。家の中のこまごまとしたことは執事以下の屋敷内のスタッフがすべて行ってくれる。となると、ジェントルマンは意外と暇である。
 とにかく仕事は領民がすべてやってくれるし、生活に困ることもない。「もし自分がそうなったら?」と考えてみると、暇を持て余しそうである。

 そこで近代のジェントルマンたちが何をしていたかというと、2つあり、ひとつはとにかくお金を使って消費する。もうひとつが投資話に花を咲かせることになる。

 イギリスにはノブレスオブリッジ(貴族の責務)という言葉があって、財産を持つものはきちんとお金を使わなければならない。夏は避暑地の別荘に家族だけでなく使用人を引き連れて移動し、そこでたくさんお金を使う。ロンドンにも頻繁に出かけ馬車や宿などの旅費でたくさんお金を使う。身なりもきちんとして高価な毛織物を購入する。

 イギリスではパブなども階級別になっていて、ジェントルマンはジェントルマン階級が入るべきお店でしかビールを飲むことはできない。庶民のパブなら5分の1の値段でビールジョッキを注文できるからといって、安いお店に入ることは許されず、わざわざ高いお店でビールをたしなまなければいけないのだ。

 ちなみにこの名残が高級ホテルに完備されているミニバーである。われわれ日本人は「なぜ缶コーラ1本が500円もするのか!」と憤慨して、ミニバーを使わずにコンビニで購入したコーラのペットボトルを部屋に持ち込むのであるが、イギリスのジェントルマンはそんなことはしない。ザ・ペニンシュラやザ・リッツ・カールトンといった格のホテルに泊まるのがノブレスオブリッジであり、そこに置いてある500円のコーラを飲むのもノブレスオブリッジとして当然の習慣として振る舞うわけである。

ジェントルマンのポストがなくなった

 話を戻すと、ジェントルマンの経済社会におけるひとつめの役割が、消費することでイギリス経済を循環させることにある。そしてもうひとつの役割が投資である。近代になるとジェントルマンの間では海外投資話が活発になる。

 この時代、ジェントルマンたちはロンドンのコーヒーハウスに集って投資話に花を咲かせる。海外に向かう商船に投資して、貿易で儲けることがジェントルマンの財産運用として重要になってくるのである。世界最大の損害保険会社ロイズは、このコーヒーハウスで貿易保険が考案されたことに発祥している。

 このようにジェントルマンたちが「植民地経営」を始めたことは、現代的視点から見るとその是非が問われる論点ではあるが、のちのちジェントルマン階層の変質をもたらした。
 というのは、ジェントルマンの家庭でも次男以下の兄弟については、その地位をどうするかという問題がついてまわっていたからだ。最初は家を継ぐことができないジェントルマンの次男は弁護士や医者といった知的職業に就くことでジェントルマンに準じた地位を得ることができた。ところがそういった職業が世襲されていくと、新しいジェントルマンの次男や三男のポストがなくなってくる。

89とはずがたり:2018/04/01(日) 19:45:40
>>87-89

 それと植民地経営が結びついて、ジェントルマンの次男たちはアメリカやインドなどの植民地の管理者として赴任するようになる。

 最終的に大英帝国の植民地が全部独立してジェントルマンのポストがなくなっていくのと機を同じくしてイギリス社会はイギリス病にかかっていくわけだが、それはさておき、今の日本がこの歴史から学べることはなんだろうか?

日本のジェントルマン

 現代社会の日本で、大英帝国のジェントルマンのように「働かなくてもよくて財産を持っている階層」とは、ひとことで言えば豊かな高齢者である。実際、日本の個人金融資産の大半は高齢者が所有している。

 よく「日本人の平均預金額が1000万円だ」というようなニュースがあって、「誰がそんなに持っているんだ!」と話題になるが、あれは大半の日本人が数百万円か数十万円の預金しか持っていない一方で、高齢者が数千万円の預金を持っているからだ。

 その日本のジェントルマンである高齢者には未来に不安がある。だからお金を節約してなるべく預金を使わないようにしている。せっかく数千万円持っている金融資産についても、フィナンシャルプランナーの勧めで、60歳を超えたらリスク資産である投資には回さずに、安定資産である銀行預金にしておくのがいいと教えられる。

 だから日本のジェントルマンは近代イギリスのジェントルマンと違い、お金も使わないし、投資もしない。ここに日本が1990年代以降、イギリス病から抜け出せないひとつの理由があるように思えるのだが、みなさんはどう思われるだろうか?
(文=鈴木貴博/百年コンサルティング代表取締役)

●鈴木貴博(すずき・たかひろ)
事業戦略コンサルタント。百年コンサルティング代表取締役。1986年、ボストンコンサルティンググループ入社。持ち前の分析力と洞察力を武器に、企業間の複雑な競争原理を解明する専門家として13年にわたり活躍。伝説のコンサルタントと呼ばれる。ネットイヤーグループ(東証マザーズ上場)の起業に参画後、03年に独立し、百年コンサルティングを創業。以来、最も創造的でかつ「がつん!」とインパクトのある事業戦略作りができるアドバイザーとして大企業からの注文が途絶えたことがない。主な著書に『ぼくらの戦略思考研究部』(朝日新聞出版)、『戦略思考トレーニング 経済クイズ王』(日本経済新聞出版社)、『仕事消滅』(講談社)などがある。

90とはずがたり:2018/09/25(火) 09:58:20
なんとリヒテンシュタイン城がカリオストロの城のモデルとなったそうな。
で,しかもこれはリヒテンシュタインにはないらしいw

で,カリオストロはモールスブラウンの小説にも登場してたけどもともと実在の詐欺師だそうな

で,脚本に矛盾は俺も直ぐに気付いたけどまあ演出完璧だしだからああだこおだいわないけどな。

リヒテンシュタイン城
https://www.google.co.jp/search?biw=1905&bih=1544&tbm=isch&sa=1&ei=AQV4W7ySKJDs-Qab7YmACQ&q=%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%9F%8E&oq=%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%9F%8E&gs_l=img.3..0l3j0i30k1j0i24k1l6.1012464.1018505.0.1018941.25.25.0.0.0.0.135.2378.16j8.24.0....0...1c.1j4.64.img..5.16.1649.0..0i4k1j0i4i10k1j0i4i24k1.0.QU-BoWr2s2o#imgrc=xhBw2YdpzKf8BM:

リヒテンシュタイン家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%AE%B6

カリオストロ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD

2016-10-15 なぜ『ルパン三世 カリオストロの城』の話は矛盾しているのか?
http://d.hatena.ne.jp/type-r/20161015

92とはずがたり:2018/10/15(月) 23:24:47

■合理的、人道的な共同体を形成したイスラム教

岡本隆司・京都府立大教授

 ――イスラム教には今日、原理主義や過激派が繰り返すテロ行為で、他者を排斥する非寛容な宗教というイメージが強いです。聖戦(ジハード)を唱え、武力で勢力を拡大しました。

 しかしイスラム教は「偶像崇拝」を否定し、「奇跡」を説かないなど、当時では最も合理的な宗教でもありました。唯一神(アラー)の前では平等な同胞で、聖俗・位階の区別もありませんでした。人道的な共同体を形成して、既存の諸宗教をしのぐ魅力があったのです。

 歴史的にみて、後のオスマン帝国などイスラム教の政権は法制度上、異教徒を抱合することを前提にしていました。オスマン帝国のケースでは、イスラム教の普遍性に加え、東ローマ帝国やギリシャ正教など在地の正統性も兼ね備えて、多数派ではないトルコ系の支配を可能にしました。欧米中心の歴史観からだけでは、史上の本質的なイスラム像は見えてきません。

 ――東アジアにも普遍性を持った政権が誕生しました。

 中国では人口の多い農耕の「漢民族」と軍事力で勝る遊牧の「胡族」が融合し、胡漢一体政権の「唐」が成立しました。事実上の建国者、太宗李世民は胡族の鮮卑の血統を引いていました。漢人向けには名門貴族「李氏」を名乗る一方、胡族に対しては「天可汗(テングリ・カガン)」でした。

 遊牧民と定住民は生態系・慣習の違いから互いに補完しあう関係にあります。その仲立ちをするのが商業です。唐は中央アジアのソグド商人の交易活動もコントロールして、広域の経済圏と支配圏を確立しました。

 ――アジア史的には遊牧、農耕の両民族に商業を抱き合わせた政権がグローバルな普遍性を帯びるのですね。13世紀に誕生したモンゴル帝国も同じ構図です。

モンゴル帝国は史上初めて、本格的なグローバリズムを達成した政権ともいえます。このときは石炭の大規模な活用という一種のエネルギー革命をはじめ、「唐宋変革」という一大技術革新も経て、新たな段階に達していました。ユーラシア大陸の大部分を覆った版図の広さだけではありません。行政や経済の分野でも世界的な基準を示して実施しました。

 初代のチンギス・カンが率いたのは、ほぼ純粋な遊牧軍事集団でした。しかし急激な版図の拡大を支えたのは、シルクロード東方のソグド系ウイグル商人と西方のイラン系ムスリム商人といった、いわば当時の国際資本です。税務・文書を扱うウイグル人や契丹人が行政を担い、ムスリム商人が経済改革を進めました。

 ソグド系とイラン系は、自らの通商圏を東西に拡大させていっそう大きな利潤を得る一方、モンゴル帝国も商人資本の資金力や情報力を利用して、征服統治をすすめていったのです。そのためそうしたソグド系・イラン系の使うペルシャ語が国際共通語でした。

 ――モンゴル帝国のグローバリズムは、具体的にどんな内容だったのでしょうか。

 まず「首都圏」の建設があります。1つの都城ではなく、圏域を広げて城郭都市を互いに有機的に結合させました。遊牧民の移動と都市機能の組み合わせですね。その中間一帯に生産施設や軍事拠点を設け、統治の中枢機能を集中させました。

 経済面では商業の流通過程からの徴税システムを確立しました。モンゴル政権の保護下にあった数多くの商業資本がそのまま官庁化し、商業利潤の一部を税収として上納しました。政権に近い大手企業に一括して徴税を担当させることが、政権側にも商人側にもコスト最小の簡便な方法だったのです。

 通貨政策では銀建て紙幣の発行です。銅銭や絹布に代わる通貨としての紙幣発行は以前から始まっていましたが、問題は発行した紙幣の信用維持でした。モンゴル政権では財政・政務を取り仕切る国際資本が、銀を裏づけとしつつ紙幣の発行・回収を調整し、需給の均衡を保つことで、紙幣の価値を維持したのです。

93とはずがたり:2018/10/15(月) 23:24:59
>>91-93
■多元的・重層的な支配構造を求めたアジア政権

 ――世界的な寒冷化に伴う「14世紀の危機」で、モンゴル帝国は崩壊しますが、後世にどんな影響を与えたのでしょうか。

 「ポスト・モンゴル」の時代に入ってもティム―ル朝やムガル朝、清朝、オスマン帝国などの統治は、モンゴル帝国と共通しています。主として軍事・政治を担う草原遊牧起源の支配者、経済・文化の中心となる在地の農耕定住民、双方の事情に通じたエリートが両者をつないで統治を成立させるのです。

 アジアのように乾燥と湿潤、遊牧と定住が交錯する環境では、異なる慣習の中で多元的に共存せざるを得ません。円滑な統治をすすめるには、複数の正統性と普遍性を組み合わせた重層的な体制が必要だったのです。

 ――対照的なのが西欧、とりわけその西端の英国ですね。自然環境としてはユーラシア大陸のような広大な草原がなく、騎馬を駆使して長距離移動が可能とする機動的な遊牧民族も存在しません。基本的には農耕と定住が中心です。

 モンゴル帝国の時代、英国で成立していたのは「アンジュー帝国」ですが、領域は今の日本よりもやや広いにすぎません。英国の王権は矮小(わいしょう)な領地をくまなく巡回して、戦争と課税の協力を仰がねばなりませんでした。それを制度化して、治者と被治者をともに縛るシステムが「法の支配」です。上が下を治め、下が上を制する議会制も生まれました。治者と被治者の上下一体、双方向のシステムです。

 常に軍事費の捻出に悩まされていた英国は、国債を発行し、中央銀行を創設しました。官民一体のシステムで財政金融が巨大化しました。さらに潤沢にマネーを動かすために信用制度が確立し、背任に対する制裁が実行できる「法の支配」が不可欠になりました。狭い領土の中で政治・軍事・財政・金融が密接に結びついて一体化し、産業革命を迎えたのです。

■「法の支配」の解釈が根本的に異なる西欧とアジア

 ――「法の支配」に対する考えが英国など西欧とアジアでは根本的に異なるのですね。

 アジアの政権は重層的で、政治・経済をそれぞれ多元的な主体が分担していました。厳密な意味で官民一体の「法の支配」が機能しないのです。法律的諸制度がないために金融的な「信用」も手近な仲間内にしか行き届かず、貸借はあっても事業投資という概念は育ちませんでした。かつて世界史の主流だったアジアが西欧の勃興を許すことにつながりました。

 ――東端の日本はどういう位置づけになりますか。

 カール・マルクスの「資本論」には幕末日本が「忠実なヨーロッパの中世像を示してくれる」として登場します。日本列島には遊牧・農耕の二元世界は存在せず、農業生産優位の一元社会でした。一方で東アジアに近接し漢語圏に属する特異な立ち位置にあります。

 それなのに日本人は「欧米中心」の観念に従順で、なおかつ安易に日本を東アジアと見なす既成概念から抜け切っていません。日本は東西のアジア史とは異なる経験をしてきたという認識からスタートしないと、アジアと欧米との間の緊張も、アジアと日本と認識のズレもうまく制御できないことになるでしょう

 (聞き手は松本治人)

94名無しさん:2018/10/17(水) 00:25:01
http://ki-topo-ka.com/impact/11143/

黒人が「人間だと思われてなかった時代」の画像がヤバすぎると話題に・・・・・(画像あり)


sssp://img.5ch.net/ico/nida.gif
アフリカの黒人が「奴隷」であった時代の、ヤバすぎる ”輸送方法” をまとめたギャラリー。まるでモノのように敷き詰め、積み重ねられた人間たち・・・。[8]images

http://ki-topo-ka.com/wp-content/uploads/2017/10/1-1.jpeg
http://ki-topo-ka.com/wp-content/uploads/2017/10/2-1.jpeg
http://ki-topo-ka.com/wp-content/uploads/2017/10/3-1.jpeg
http://ki-topo-ka.com/wp-content/uploads/2017/10/4-1.jpeg
http://ki-topo-ka.com/wp-content/uploads/2017/10/5-1.jpeg
http://ki-topo-ka.com/wp-content/uploads/2017/10/6-1.jpeg
http://ki-topo-ka.com/wp-content/uploads/2017/10/7-1.jpeg
http://ki-topo-ka.com/wp-content/uploads/2017/10/8-1.jpeg

95とはずがたり:2018/10/19(金) 16:58:41
https://twitter.com/pishi12a/status/1052445496487358464
ぴし。
@pishi12a

ドイツ文学専攻の友人に、「新大陸発見以前のドイツ人は何食ってたんだ? 麦とか支配階級しか食えんだろ?」と聞いたところ

「そら豆」が主食だったらしい

『だから「ジャックと豆の木」って昔のドイツ辺りを知るための重要な童話なんだぜ』
とのこと

23:25 - 2018年10月16日

96とはずがたり:2018/10/22(月) 22:43:04
桜田一家って何?ってずっと思ってたw

サグラダ・ファミリア 133年ぶりに「建設許可」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181020/k10011679301000.html?utm_int=all_side_ranking-access_002
2018年10月20日 18時36分

スペインのバルセロナで建設が続くサグラダ・ファミリア教会は世界的な観光名所として知られますが、実は、133年間にもわたってバルセロナ市から建設許可を得ていない状態でした。このほど、教会が日本円にして46億円余りを市に支払うことでようやく許可が下りる運びとなりました。

アントニオ・ガウディの代表作「サグラダ・ファミリア教会」は、136年前の1882年に着工し今なお建設が続けられていますが、スペインのメディアによりますと、133年前にはバルセロナ市から建設許可を得ていない状態になり、そのまま現在に至ります。

理由は、教会の建設場所が着工当時は別の自治体で、その後バルセロナ市に合併された際どういうわけか建設許可が更新されなかったためだということです。

「無許可建設」という指摘に対し、教会は「バルセロナ市から連絡がなかった」と説明していましたが、市と2年間にわたって協議した結果、このほど、市に3600万ユーロ、日本円にして46億円余りを支払うことで市から建設許可が下りる運びとなりました。

教会が支払うのは、長年にわたって滞納する結果になった税金などに当たりますが、市は、それを教会に隣接する道路の補修や地下鉄から教会への新たな出口の整備など教会建設への支援に充てるとしています。

97とはずがたり:2018/11/09(金) 12:01:09
一寸強引に云えば今はチュニジアの首都チュニスになっている訳か。それにしても北方のバンダル族なんてのがこんな所迄進出してきてるんだな。

カルタゴ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigationJump to search

「カルタゴを建設するディド」(ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画)
カルタゴ(ラテン語: Carth?g? または Karth?g?[1] カルターゴー、アラビア語: ?????? Qar??j、英語: Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家。地中海貿易で栄え、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市として首都圏の一部を成す。

「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するとされる。
カルタゴが建設された地形は、水深が浅く、錨を下ろしやすい入江があり、突き出した岬がある。これはフェニキアが港の建設をする条件に沿っている。カルタゴは地中海の東西のほぼ中央にあり、前8世紀頃にはイベリア半島のガデスからフェニキア本土のテュロス等へと貴金属を運ぶ航路の中間にあった。この位置が、カルタゴが繁栄する一因となった[2]。

フェニキア人の地中海の航路は反時計回りであり、イベリア半島から東へ向かう船は北アフリカの海岸沿いに進み、テュロスなどフェニキア本土から西に向かう船はキプロス、ギリシア、シチリア、イビサなどの島々を経由した[3]。

紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。カルタゴは、フェニキア人の古代都市や古代リビュアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。地中海においては、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配。イベリア半島に植民都市を建設した。

ポエニ戦争
ローマ軍が、メッシーナのカルタゴ軍を攻撃したことで、約1世紀にも渡るポエニ戦争が始まった。西地中海におけるローマの覇権を確定し、西ヨーロッパの命運を決めることになったこの戦いは、3つの大きな戦争からなる。

ポエニ戦争では、第二次ポエニ戦争でカルタゴの将軍ハンニバル・バルカがイタリア半島に侵攻し卓越した指揮能力を発揮し、ローマ陥落の一歩手前まで陥らせるなどの事態もあったものの、最終的にはローマが常にカルタゴに勝利した。第三次ポエニ戦争のカルタゴの戦い(英語版)によって、カルタゴは滅亡し、ローマの政治家・軍人であるスキピオ・アエミリアヌスの指示のもと、度重なるカルタゴの侵略への報復として、市民は徹底して虐殺され都市は完全に破壊された。このカルタゴ陥落の際にスキピオはカルタゴの運命を自国ローマの未来に重ね見たといわれている。再三災いをもたらしたカルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊された。陥落時にローマが虐殺した市民は15万人に上り、捕虜とした者も5万人にも上ったとされる。カルタゴの土地には雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたという。

98とはずがたり:2018/11/09(金) 12:01:22
>>97
ローマによる征服後

古代ローマ時代のカルタゴのヴィラ
地味豊かで交易の要所でもあったカルタゴの故地には、カルタゴを滅亡させたローマによって併合されアフリカ属州となり、また都市カルタゴの有った場所には新たな植民市が造られた。最初の植民は紀元前122年に護民官ガイウス・グラックスによって企画された。この計画はローマにおいてグラックスの進めていた改革の支持票を獲得するための人気取りの意味合いも強かった。この計画の結果コロニア・ユノニア(ユノ植民市)として新たな都市が造られたが、ローマでのグラックスの失脚に伴いその後大規模な植民が行なわれることはなかった。

2度目はガイウス・ユリウス・カエサルによって計画され、アウグストゥスによって実行された。ユリウス・カルタゴ植民市として再建された都市は、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、ローマ帝国の西方でローマに次ぐ第2の都市となった。ローマの再建した植民市は2度ともカルタゴとは異なった名がつけられたが常にカルタゴの名で呼ばれつづけた。現在にまで残るカルタゴの遺跡のほとんどはこのローマ時代のものである。

ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回
5世紀、ヴァンダル族(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E6%97%8F:古代末期にゲルマニアから北アフリカに移住した民族。ローマ領外の蛮族による民族移動時代にローマ領内へ侵入して北アフリカにまで進軍し、カルタゴを首都とするヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)や、破壊行為を意味するヴァンダリズムの語源ともなっている。近代まではゲルマン系の部族と考えられていたが、現代ではポーランド地方のプシェヴォルスク文化に起源を持つスラブ系あるいはイリュリア系民族であったと考えられている。)の王ガイセリックがカルタゴを占領してこの地方にヴァンダル王国を建国。カルタゴはその首都となった。カルタゴの西ローマ帝国艦隊を拿捕したヴァンダル王国は、シチリア島、サルディニア島、コルシカ島などを征服。地中海における一大勢力となった。更にガイセリックは442年にはイタリアへ上陸しローマへ侵攻。ガイセリックはローマ教皇レオ1世の申し出を受け、ローマの破壊こそしなかったが、カルタゴより襲来したヴァンダル族によってローマは占領され、略奪を受けた。468年にはバシリスクス率いる東ローマ帝国艦隊を壊滅させた。

東ローマ帝国によるカルタゴ奪回の試みは何度か失敗したのち、ようやく6世紀になって征服に成功した。ローマ帝国の復興を企図していた東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、533年に西ローマ帝国の皇女の血を引くヒルデリック王がその遠いいとこであるゲリメルによって廃位されたことを口実として、ベリサリウスを将軍とする軍隊を派遣した(アド・デキムムの戦い)。ヴァンダル王国の軍隊はあっけなく敗北し、553年10月15日日曜日(9月14日という説もある)、東ローマ帝国軍は、カルタゴに入城した。略奪や虐殺は行わなかった。

こうしてカルタゴは再びローマ帝国の領土となったが、ムーア人の反乱が多発したため皇帝マウリキウスの時代に、カルタゴに総督府(英語版)が置かれ、イタリア半島のラヴェンナ総督府と並んで、帝国の西方における重要拠点として組み込まれた。

しかし、東ローマ帝国は、アラブ人の侵入を防ぐことができなかった。647年、ウマイヤ朝勢力がカルタゴを攻撃した。これは辛うじて退けたものの670年から683年にかけて、再び攻撃を受け、陥落した。698年には、アフリカ大陸にあった東ローマ帝国最後の拠点もウマイヤ朝が占領した(カルタゴの戦い(英語版))。そして、イスラム勢力の占領したこの時期よりカルタゴの荒廃は急速に進行し、ウマイヤ朝によってカルタゴの衛星都市であったチェニェスの跡にチュニスが築かれると、カルタゴは完全に放棄された。

99とはずがたり:2018/11/09(金) 12:05:03
なかなか素敵なフェニキアの宗教の様であるw

フェニキア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2
フェニキア(古代ギリシャ語: Φοιν?κη、Phoinik?、ポイニーケー、羅: Phoenices、Poeni、ポエニ、英: Phoenicia)は、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。

フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍する。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。

レバノンからカルタゴ等へ進出

紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリア(メソポタミア北部→ペルシャ)の攻撃を受けて服属

紀元前9世紀に北アフリカに建設された植民都市カルタゴは、フェニキア本土の衰退をよそに繁栄を続けていたが、3度にわたるポエニ戦争の結果、共和政ローマに併合されて滅んだ。

言語
フェニキア人は系統的には様々な民族と混交していたが、アフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、現存する言語ではヘブライ語と同じカナン諸語(英語版)に属する。先祖はセム系のアモリ人の一派が小アジアから北シリアに移住したことに始まるといわれている[5]。

彼らがフェニキア語を書き表すために発明したフェニキア文字は、古ヘブライ文字・アラム文字・ヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる起源となった。 ギリシア文字がフェニキア文字を元とすることから、フェニキア文字はアルファベットのルーツとされる。

カルタゴの人々(en:Punics)の話していたフェニキア語はポエニ語(英語版)と呼ばれてローマ時代にも存続したが、やがてベルベル人のベルベル語や、イスラム教とともにやってきたアラビア語に飲み込まれ、消滅していった。

2015年06月20日
フェニキア、カルタゴに蔓延した悪魔崇拝
http://jesusadvent.net/archives/1031609494.html

フェニキア人は、悪魔崇拝の歴史の流れを追っていく上で非常に重要な民族です。神から呪いを受けたカナン→フェニキア→カルタゴというように、悪魔崇拝が引き継がれていっているためです。フェニキアの当時の記録を見ながら、悪魔崇拝について確認していきましょう。

紀元前1500年頃、地中海東岸を支配した「フェニキア人」という民族がいました。彼らは海辺の町として発展し、海上交易で栄えた商人たちであり、港や都市を建設する職人たちでもありました。その商品や職人たちの作品は王侯貴族の垂涎の的だったのです。今日にアルファベットを伝えたのはフェニキア人でした。旧約聖書の中では彼らの町の名前である、ツロ(ティルス)やシドンがたびたび登場します。

100とはずがたり:2018/11/09(金) 12:05:19
>>99
レバノン杉の商いで栄える
フェニキア人は、レバノン杉の交易によって栄えました。レバノン杉は名前に「スギ」が付いていますがマツ科の木です。この木は「香柏」と呼ばれ、すばらしい香りを放ちました。古代のレバノン地方に産したいろいろな硬材の中でも、レバノン杉はその耐久力と芳香によってとびきりの最高級品でした。古代の神殿の内装材として、これにまさるものはありませんでした。現在でも「レバノン」の国旗にはこのレバノン杉が用いられています。

旧約聖書によれば、栄華を極めたイスラエルのソロモン王は、フェニキアのツロの王ヒラムに相当な量の小麦とオリーブオイルを与えるかわりに、レバノン杉を手に入れたのです。このレバノン杉で、彼はエルサレム神殿を作りました。宮の内側の壁から床、そして天井にいたるまで、香柏の板を貼りめぐらし、その上を純金で覆ったのです。フェニキアの中でもツロは、森林の力を背景に、さかんにエジプトやイスラエルと交易し、繁栄を誇りました。

また、染色した贅沢な紫の布地も有名です。貴金属に鉱物、象牙、スパイス、ウールなど、様々な品物を取引きし、栄えました。

フェニキアの宗教
フェニキアの宗教では、男神バアルとその妻のアシュタルテを拝んでいました。フェニキアの王の名前にはたいてい「バアル」がつき、アドニバアル(わが主はバアルなり)、アビバアル(わが父はバアルなり)、バアルバザル(バアルの下僕)、アブダシュタルト(アシュタルテの下僕)といった名を名乗るほど、バアル信仰と結びついていました。

バアルに仕える人々はどのように神に求めていたのか、旧約聖書に書かれています。イスラエルの預言者エリヤとバアルの預言者がカルメル山で競い合いました。バアルの預言者たちは「剣や槍で自らの体を傷つけ、血を流し、激しく飛び回り、狂ったように叫び続けて」神にしるしを乞うた、とあります。

その「神」は、豊穣や海の平穏、安産などを約束する代わりに、幼児の生贄や神官との売春などを求める、神の仮面をかぶった悪魔の使いでした。つまり、フェニキアではバアル神、アシュタルテ神の偶像崇拝という「悪魔崇拝」を行っていたと言えます。

フェニキアに古くからあった宗教慣習に神殿での売春がある。とくにアシュタルテ信仰と結びついていた。キュプロス島キティオンで発見された前5世紀の碑文では、売春を行う男女の両方がアシュタルテ神殿の職員として列挙されている。ギリシアの歴史家ヘロドトスもキュプロス島にこの習わしがあったことを遠まわしに述べており、地元の女性たちが願掛けや神へのお礼のために自ら申し出たとしている。若い未婚の処女も参加していたとされるこの習わしは、キティオン、アマトゥス、パポスなどにみられるキュプロス島のアシュタルテ信仰の大きな特色だったようだ。

アシュタルテが身近な信仰の対象だったことは、他のタイプの裸体の女性の座像や立像からも知られている。フェニキア領内では、天然の洞窟や岩屋にもアシュタルテが祀られた。アドゥルンの南、ワスタの岩屋の壁は女性性器を表した落書きで飾られており、この女神の民間信仰のかたちをありありと伝えている。アシュタルテを祀ったたくさんの洞窟が、のちに聖母マリアの神殿に発展した。
聖母マリアの像を拝むことは、もともとこのような悪魔崇拝が元になっていることを忘れてはいけません。

フェニキアの宗教を引き継いだカルタゴ
カルタゴの経済にはもう一つ重要な産業がありました。奴隷の売買です。この人間の労働力の商いはフェニキア人から受け継がれました。

海賊行為も奴隷売買の有力な商路になった。フェニキア人は悪名高い人さらいだった。古い文献によると、不運な女性と子供がよくねらわれた。

101名無しさん:2018/11/22(木) 21:22:17
https://gigazine.net/news/20180822-burial-shows-herders-community-spirit/

2018年08月22日 16時00分 メモ
5000年前の共同墓地から「社会階層のないコミュニティ」が存在した痕跡が見つかる

by Carla Klehm

ある程度の人間が寄り集まってコミュニティを作るようになると、コミュニティ内における貧富や能力の差によって社会階層が形成されるようになるもの。権力の有無や性別、年齢による格差は、紀元前の社会においても生み出されていました。大がかりな共同作業を行う上では一定のヒエラルキーが存在しているほうが有利かもしれませんが、東アフリカのケニアで見つかった5000年前の共同墓地からは、「社会階層を持たないものの大規模な共同作業を行うコミュニティ」が存在した痕跡が発見されています。

Kenya burial site shows community spirit of herders 5,000 years ago | Science | The Guardian
https://www.theguardian.com/science/2018/aug/20/kenya-burial-site-shows-community-spirit-of-herders-5000-years-ago

ケニアの北西部に位置するトゥルカナ湖は、水鳥の大規模な生息地である上に数百万年前の人類の化石も発見される場所であり、トゥルカナ湖一帯を含むトゥルカナ湖国立公園群は世界遺産にも登録されています。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の准教授を務める人類学者のエリザベス・ヒルデブランド氏は、そんなトゥルカナ湖の近くにあるロサガム北柱遺跡で10年以上にわたって発掘調査を行っています。

102名無しさん:2018/11/22(木) 21:23:10
>>101

ロサガム北柱遺跡には4000〜5000年ほど昔の人々が建造した、巨石によって示された直径30mほどの広場が存在しています。広場の中央には空洞が作られており、その中には少なくとも580体以上の遺体が寄せ集まって埋葬されており、共同墓地として使用されていたと考えられているそうです。

農耕社会では共通の歴史や文化にもとづいて大きなモニュメントが建造され、家族を超えたコミュニティ全体の結束を強めていました。より大規模なコミュニティを作ることで、人々は技術や文化を大きく発展させることができますが、同時にコミュニティ内での格差が生まれやすくなるのも事実です。

by Katherine Grillo

ところが、ロサガム北柱遺跡で発見された広場を作ったのは農耕民族ではなく、移動しながら牧畜を行う遊牧民だったとのこと。農耕民族以外がコミュニティを作り、大規模なモニュメントを建造していること自体も珍しいそうですが、ヒルデブランド氏らは「埋葬された遺体の状況からして、このコミュニティには社会階層らしきものが存在していた痕跡がない」ことに注目しています。

遺体はいずれも密接に寄せ集められた状態で空洞の中に収められていて、権力者らしき遺体だけが隔離された場所に納められているということもないそうです。また、大人や子ども、男性も女性も等しく手の込んだ装身具に身を包まれており、特定の遺体だけが華美に飾られている痕跡もありませんでした。

トゥルカナ湖周辺を含む東アフリカでは、メソポタミアやエジプト、アジアで組織的な農業が行われるようになった時代でも、人々が十分な食料を得るためには牧畜が最も適していたため、農耕社会が発達しなかったとのこと。ヒルデブランド氏は、「農耕社会が発達するに従って社会階層が形成され、特定の人々が権力を握って富を増やし、貧富の差や健康状態にも差が現れるようになりました。一方で、遊牧民が形成した社会にも同様の変化が現れたのかどうかは、非常に大きな謎です」と述べており、ロサガム北柱遺跡はこの謎を解くヒントになるかもしれないとしています。

by aocrane

ロサガム北柱遺跡で発見された広場がどのような役割を果たしていたのか、詳しいところは判明していませんが、遊牧民が集合してお互いの持つ情報を交換する場として使われていたのではないかと考えられています。周辺地域の情報をコミュニティに属するほかの遊牧民から仕入れることは、自分自身が食べるものを探すためにも、家畜を養うためにもとても重要なことでした。

また、共同墓地が作られて使用されていた時代、トゥルカナ湖周辺では降水量が減少し、トゥルカナ湖自体が小さくなっていくという環境の変化に遊牧民は直面していた可能性があるとのこと。それにもかかわらず、幼い子どもまで丁寧に装身具で飾られてから埋葬されていることから、コミュニティの構成員は末端まで大切にされていたことがわかります。

最終的にこの広場や共同墓地を作った遊牧民のコミュニティがどうなったのか、詳しいことは判明していません。共同墓地の使用は突然終了してしまいましたが、それは予期せぬことではなく、コミュニティによって予定されたものでした。コミュニティの構成員は遠くから石を何度も往復して運んできて、フタをするように共同墓地の上に敷き詰めていったとのこと。「その後にコミュニティがどうなったのかはわかりません」と、発掘調査に参加しているフロリダ大学の考古学者であるキャサリン・グリロ氏は語りました。

103とはずがたり:2019/01/06(日) 19:06:54
興味深いな。再配分とか公正とか論じる前に現在覆われて見えにくくなってる不公正をちゃんと見る為にも必要な議論である。

2018.11.10
「階級化」が進む日本は、今こそ“階級先進国”イギリスに学ぶべきだ
連載「イギリス階級物語」第1回・前編
河野 真太郎一橋大学准教授
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58286

「階級」を隠蔽する日本の問題点
「格差社会」という言葉がメディアに踊るようになってしばらく経った。この言葉は、社会学者山田昌弘の『希望格差社会』(2004年)が広めた言葉だとされる…

だが、なぜ「格差」なのだろうか。社会的な階層を表現するにはすでに別の言葉が存在してきた──「階級」である。

思うに、階級ではなく格差という言葉が選ばれるとき、そこには、社会はとりあえずひとまとまりのものとしてあって、その中に勝ち組・負け組が生じているようなイメージがあるのかもしれない。

では、「階級」という言葉についてはどうだろう。日本では、あまり一般的な言葉として階級という言葉は使われてこなかった(「身分」という言葉は使われてきたが)。

端的に言って、階級という言葉を使わないことは構造的な貧困を隠蔽する方法であってきたし、極端で正当化できない富者の存在を正当化する方法であった。

これと対照的に、階級という言葉が過剰に使われてきた国がある。イギリスである。

イギリスといえば階級社会だというイメージは日本でも強いだろう。それは事実である。だが、イギリスの社会構造が階級社会であるという以上に興味深いのは、階級についての意識がイギリス人の自己認識や社会の認識を大きく左右してきたことだ。

労働者階級は今やハッピーか?
イギリスの階級文化といえば一般的に語られるのはまずは中流・上流階級の文化(アフタヌーン・ティーであるとか王室であるとか)か、またはせいぜい「ポピュラー・カルチャー」(ビートルズ)である。だが、ここまで述べたような目的のために、本連載が軸とするのは労働者階級である。

そもそも、現代的な階級社会の誕生の根幹には、資本家階級と労働者階級の分割があった。

前近代的な身分(カースト:caste)ではなく近代的な階級(クラス:class)が生じた背景には産業資本主義の隆盛があったわけだが、その産業資本主義は、(マルクスの定義に従えば)生産手段を持たず、みずからの労働力を売る以外に生活の手段をもたない人びとを生み出し、またそういった人びとを必要とした。

そして、生産手段を独占して労働者階級の労働を買ったのが、資本家階級である。階級とはすなわち労働者階級だったと言ってもよいのだ。

本連載の階級の物語は、19世紀に始まって、主に20世紀を対象としていく。20世紀は確かに労働者階級の世紀であったと言える。イギリスだけを見ても、世紀の初めに労働党が結成され、「階級意識」とそれを束ねる政治組織が隆盛していった。

1926年のジェネラル・ストライキが代表するような労働者による運動は、世紀を通じて起こりつづけた。一方でカール・マルクスが青写真を描いた共産主義は、ソ連その他の共産主義国家の壮大な「実験」に結実した。

だがその一方で、20世紀の歴史は同時に、階級の解体の歴史でもあった。世紀の終わりにソ連が解体し、共産主義の実験に終止符が打たれたということだけではない。20世紀の階級をめぐる物語の多くは、階級からの逃走の物語だったのだ。(とは註:マルクス主義は力を失い,経済学は階級を扱うのを止め家計を扱うようになった。)
簡単にまとめてしまえば、これは、労働者階級の中流階級化ということになる。

1911年の国勢調査ではイギリスの労働者階級は就労人口の約75%を占めていた。ところが、イギリスの階級の代表的な調査である全国読者層調査(National Readership Survey)によれば、2015年段階で失年金受給者や業者も含めた労働者階級は45.8%である。

これを多いと見るか少ないと見るかは分かれるだろうが、いずれにせよ社会に対して、伝統的な労働者階級は過去のものになったという意識が強まっていった。

104とはずがたり:2019/01/06(日) 19:07:08

労働者階級はもはや中流なのではないか? そして、それでみなハッピーなのだから大いに結構ではないか?

だが、そのような単純で単線的な物語は、複数の意味で間違っている。それがなぜ間違っているのかを、ある映画からのやりとりを入り口に論じてみたい。

──「生まれの貧しさでは人生は決まらない」と言いたい。学ぶ意欲さえあれば、変われるんだ。
──「マイ・フェア・レディ」みたいに?
これは、映画『キングスマン』(2015年)での、コリン・ファース演じるジェントルマン・スパイのハリー・ハントと、タロン・エガートン演じる下層階級の青年エグジーとのあいだのやりとりである。

その原作はイギリス(アイルランド)の劇作家ジョージ・バーナード・ショー(1856年?1950年)の劇作品『ピグマリオン』(1913年初演)である。

『ピグマリオン』では、言語学者ヒギンズが、ロンドンの花売り娘であるイライザのひどいコックニー訛りを矯正してレディに仕立てられるかどうかを友人と賭け、みごと社交パーティーでイライザをレディとして通すことに成功する。

ピグマリオン物語とは、つまりは階級上昇物語である。

ただし『キングスマン』は、時代の刻印を帯びている。

二つ目は少し後で述べるとして、一つ目は、主人公のエグジーが「チャヴ」である、という点だ。

「チャヴ」とは何か。チャヴ(chav)という言葉は、2000年代からイギリスのメディアで盛んに使われるようになった言葉である。

この言葉が指しているのは、カウンシル・ハウスと呼ばれる低所得者向けの集合住宅に住み、トラックスーツ(ジャージ)を着て、バーバリーをはじめとするブランドもの(偽物である場合も多い)を好んで身につけ、ベースボールキャップをかぶり、金属アクセサリーをじゃらじゃらとたらした下層階級の不良たちである。


現代のピグマリオン物語が、チャヴの階級上昇物語となっていることにはどんな意味があるのだろうか? それを考えるために、チャヴという人物像(もしくは階級の名称?)がもてはやされた歴史的意味を確認しよう。

チャヴは、それまでの労働者階級とはかなり違う人物類型だ。それが表現するのは、2000年代以降のイギリスの新たな階級の政治であり、またそれが隠蔽するのは、階級と貧困をめぐる過酷な現実なのである。

イギリスのアンダークラス=チャヴの出現は「過酷な階級化」の序章だ

なぜ2000年代になってチャヴという人種がメディアを賑わせるようになったのだろうか。ひとつには、単に、労働者階級でさえない新たなアンダークラスがイギリスに生じているという事実があり、それをチャヴという類型が代表しているということであろう。

ただし、チャヴがアンダークラスであっても、アンダークラスがすべてチャヴであるわけではない。

では、なぜほかならぬチャヴがアンダークラスを代表したのか?その理由を考えるためには、この言葉の流行のもうひとつの側面を見なければならない。これについては、イギリスの若き社会評論家オーウェン・ジョーンズの著書『チャヴ──弱者を敵視する社会』(依田卓巳訳、海と月社、2017年)に詳しい。

ジョーンズによれば、チャヴという言葉はとりわけ2010年以降のイギリス保守党の緊縮政策(とりわけ福祉のカット)において利用された。保守党はチャヴと呼ばれる種類の人たちを、まじめに働きもせずに失業保険などの福祉を不当に享受している人びとだとした。

ともかくも、チャヴは、新自由主義的な競争社会となったイギリスで生じた負け組アンダークラスの名前であると同時に、まさにその新自由主義を押し進め、社会的な福祉をカットするのに利用されたのである。日本でも見たことのある光景である。

105とはずがたり:2019/01/06(日) 19:07:26
>>103-105
そのようなチャヴが、魔法のように転身してクールなスーツを身にまとったジェントルマン・スパイとなる『キングスマン』の物語は、どのような役割を果たしているだろうか。

これは、チャヴを「悪魔化」することのコインの裏側のようなものであろう。つまり、本来であればイギリス社会の現実の矛盾を表しているはずのチャヴを銀幕の上でだけ変身させることは、「現実の矛盾の想像上の解決」と呼ばれるべき行為なのである。

だとすれば、『キングスマン』のちょうど正反対に位置する映画は、ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)ということになる。

この映画が表現するのは、2013年に行われ、イギリスの階級を7つに分類した「イギリス階級調査(Great British Class Survey)」が「プレカリアート」と名づけた15%(!)の人びとである(プレカリアートとは、precarious(不安定な)とproletariat(労働者階級)を合成した言葉で、臨時雇い労働者および失業者の層のこと)。

その苦境は、保守党が「チャヴ」を利用しながら推進した緊縮財政の産物だ。そのような人びとの存在を、『キングスマン』は覆いかくす。

このように、『キングスマン』は一方では20世紀的な、ピグマリオン物語=階級上昇物語であり、中産階級化する労働者階級の物語なのであるが、そのような、「いまやわれわれはみな中流」という、一種の安心感に満ちた立場から語られる物語は、『わたしは、ダニエル・ブレイク』が描く、階級の固定化と貧困の現在の現実を糊塗してしまうものなのである。

さて、では、そうではない階級の物語はどのようにして語られうるのだろうか。本連載でひとつの軸としていきたいのは、ここまで述べたような階級からの離脱、もしくは労働者階級全体の中流階級化の物語とは逆行する階級についての物語である。

それは、ひと言で言えば、コミュニティとしての労働者階級の物語だ。そしてこの物語は、ピグマリオン的物語が主流である中で、なかなかに出会えず、理解しにくいものであろう。

それは、連帯の感情とも言い換えることができる。

いまだに、イギリスには、労働者階級同士のこのような連帯の感情が存在する。

すると当然に、次のような疑問が生じるだろう。それでは、労働者階級は労働者階級であることに誇りを持ち、労働者階級のままでいた方がいいというのか? 労働者階級の中流階級化というのは、一概に悪いことなのか? 賃金が上がり、豊かな生活が送れるようになったならそれでいいのではないか?

これらの疑問に対して、わたしは単なるイエス、また単なるノーの回答を持っていない。これらの疑問への答えは、本連載の全体を通じて出していきたい。ただ、今回の序論で言えることは、そのような「上昇」の単純な物語こそが、現在苛烈になりつつある階級の分化と貧困の問題の遠因になっている、ということである。

『キングスマン』が現実のチャヴを覆いかくしたように、「われわれはいまやハッピーな中流である」という物語は、その中流に仲間入りできなかった人びとを、努力不足の怠け者として排除しているのかもしれないのだ。
そして、20世紀の労働者階級の物語は、それが労働党という形で政治的な表現と力を得る物語であると同時に、逆説的にもその解体の物語となる。それは個人の階級上昇の物語であると同時に、集団としての労働者階級が中流階級化していくプロセスの問題でもある。

わたしはこの物語を通して、労働者階級をコミュニティとして保存すべきだ、もしくはそうではなく労働者階級は解体されるべきだと主張したいわけではない。そうではなく、この物語でわたしが示したいのは、労働者階級は、そして階級そのものは、つねに作りかえられてきたということだ。

その作りかえは、歴史的現実の問題であると同時に、わたしたちが階級をどのように物語り、認識するかという問題でもある。わたしたちの現代日本社会がどのような社会になっていくのかを考えるにあたって、そのような意味での階級の作りかえの問題は大きなヒントを与えてくれるはずだ。

106とはずがたり:2019/01/06(日) 19:11:34

2019.01.05
なぜイギリス人の「階級への執着」は産業革命後に生まれたのか
オーウェルは「上層中流階級の下の方」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59177
河野 真太郎 一橋大学准教授
1974年、山口県生まれ。専門は英文学、イギリスの文化と社会。東京大学大学院人文社会系研究科欧米系文化研究専攻博士課程単位取得満期退学。著書に『〈田舎と都会〉の系譜学??二〇世紀イギリスと「文化」の地図』、『戦う姫、働く少女』。

ジョージ・オーウェルといえば、スターリニズムを風刺した『動物農場』(1945年)や、全体主義国家と化した近未来のイギリスを舞台とする『1984年』(1949年)で知られるイギリスの作家である。

一方、これらの作品から反全体主義のリベラルな(とは註:リベラルと思うか??左右のイデオロギーの中で反共のゴリゴリの右翼の作家だと思ってたw)作家だと思われがちなオーウェルが、戦前の1930年代には「階級」をテーマとするさまざまな作品を書いていることは、愛好家や専門家以外には意外と知られていないかもしれない。

ところで、そのオーウェル自身はどのような階級の出身だったのだろうか。…彼は自分の出身階級は「ロウワー・アッパー・ミドル(lower-upper-middle)」だと述べている。訳せば、「上層中流階級の下の方」ということになる。

いったいオーウェルがこのような細かい階級の説明で意味しているのはどのようなことなのだろうか。今回は、オーウェルのこのような階級意識が形成された背景となるイギリスの階級のあり方、その形成過程の歴史を概観したい。

二階級モデルと三階級モデル
歴史家のデイヴィッド・キャナダインは、『イギリスの階級社会』(平田雅博・吉田正広訳、日本経済評論社)で、イギリスにおける階級の認識を「二層モデル」と「三層モデル」に分けて論じている。

この二モデルは必ずしもキャナダインのオリジナルではない … 二層モデル、もしくは二階級モデルを代表するのはマルクスとエンゲルスの『共産主義宣言』(1848年)であろう。マルクスとエンゲルスはこの宣言の中で、ブルジョワとプロレタリアという二階級の存在を指摘し、歴史がこの二つの階級のあいだの闘争によって進んで行くという歴史観を提示した。

プロレタリアとは、マルクスが『資本論』で述べることになるように、自らの労働力という商品以外に売るものをもたない労働者階級のことであり、ブルジョワとは生産手段(工場や機械など)を所有し、プロレタリアの労働を(基本的には安く)買う中産階級である。

ここからより一般的な「社会のイメージ」が生まれる。単に貧しい者たちと富める者たちによって構成された社会のイメージだ。そこまで一般化すれば、あらゆる資本主義社会、さらには資本主義以外の社会にも適用できるイメージとなるだろうし、イギリスの歴史上のほとんどの社会にも適用できるだろう。

だが指摘しておきたいのは、イギリスの労働者階級の自己意識の源となってきたとされる「われわれとやつら(us and them)」という、敵対関係で自分たちの階級を定義する感情は、このような社会のイメージから生じたということである。

翻訳の出たオーウェン・ジョーンズ(前回紹介した『チャヴ』の著者)の『エスタブリッシュメント』(佐田卓巳訳、海と月社)のタイトルが、ある意味翻訳を放棄してカタカナのままにされたのは理由なきことではない。イギリスで「エスタブリッシュメント」という時には、この「われわれとやつら」の「やつら」(上流階級、支配層、金持ち)に対する敵対心が込められているのだ。

三階級モデルと中流階級の時代
そのような二階級モデルに対する三階級モデルとは、二階級モデルの否定というよりはその細分化と捉えた方がいいだろう。その際に細分化されるのは、二階級モデルのうちの、ブルジョワ階級の方である。

三階級モデルとは、上流階級(貴族階級)、中流階級(中産階級)、下層階級(労働者階級)という三階級のモデルである。だが重要なのは、中流階級がさらに細分化され、アッパー・ミドル(上層中流階級)とロウワー・ミドル(下層中流階級)に、さらにはその間にミドル・ミドル(中層中流階級)を設定するような階級の区分が増殖していくことである。

107とはずがたり:2019/01/06(日) 19:11:48
>>106
アッパー・ミドルの「条件」
階級を考える際に気をつけなければならないのは、ここまで強調したような収入だけで全てが語れないということである。

…小説『ハワーズ・エンド』には、従来的なアッパー・ミドルであるシュレーゲル姉妹と、どうやら植民地における商売で財をなしているウィルコックス家が登場する … ウィルコックス家は桁外れ(おそらく数万ポンド)の収入を得ていると考えられる。

ところが、それでもあくまで、社会的な階級という意味ではシュレーゲル家の方が「上」なのである。それは彼女たちが音楽や文学といった文化資本をもっている(ドイツ系であることがそれを強調する)というだけではなく、彼女たちが「商売」に従事せず、遺産から生じる利子や株の配当で生活する、「金利生活者」であることに由来するのだ。



階級は変化する
ここまでは、階級社会を、絵を描くようにして示すことができるものとして語ってきた。だが、実は、ある時代(この場合は20世紀初頭)の階級社会をいわば輪切りにして図解することは、それはそれで社会を理解することにつながるけれども、決定的に社会を見えなくもする。つまり、前回の終わりに示唆したように、階級社会は変化しつづけるものであり、その変化をとらえる方法を私たちは学ばなければならない。

というのも、階級は歴史的に変化していくのだという当たり前のことを超えて、「変化すること」そのものが近代の階級の重要な構成要件なのである。どういうことだろうか?

イギリスの文学批評家・小説家で、カルチュラル・スタディーズ(文化研究)の始祖であるとされるレイモンド・ウィリアムズに『キーワード辞典』(1976年)という著作がある。これは、社会を客観的に記述するための専門用語集ではなく、社会の中に存在する重要な言葉=キーワードとそれをとりまく社会との関係を論じる著作である。

ある言葉の意味の変化が重要な形で社会の変化と関係している──このウィリアムズの発想は、階級を考える上でも重要だ。「階級(class)」の項目で、ウィリアムズは以下のように述べている。

「『階級』という言葉は、社会的分割を表すより古いさまざまな名称に取って代わるであろう言葉として導入されたのだが、その導入の本質的な歴史は、社会的な地位は単に相続されるものなのではなく、作られるものだ、という意識の増大に関連するものだ」



オーウェルと階級からの疎外
最後に、自らを「ロウワー・アッパー・ミドル」と定義したオーウェルに立ち戻りたい。オーウェルが自分の階級をこのように細かく分類したことには、単なる階級への執着だとか、同時代の階級を図として正確に記述したいという以上の意図があったのではなかろうか。その意図とは、「変化」の表現である。

オーウェルの父はインド勤務の政府役人で、年収500ポンド、アッパー・ミドルとして一家を養うにはぎりぎりの収入であった。『ハワーズ・エンド』で独身女性のマーガレット・シュレーゲルが600ポンドを得ていたことを想起されたい。そのような中、オーウェルはイギリスの「エスタブリッシュメント」の中核ともいうべき、パブリック・スクールのイートン校に奨学生として通う。

そこで、金持ち学生たちに囲まれて一種のスクール・カーストのトラウマ的な経験をしたオーウェルは、アッパー・ミドルの基本的な進路であるオクスフォードまたはケンブリッジ大学に進学するために必要な奨学金を得ることができず、政府の官吏となり、ビルマで警官となる。だがそこで帝国主義の暴力の現実を目にした彼は、職を捨ててパリとロンドンの貧民街に身を投じ、その体験を書く物書きとなったのである。

オーウェルの人生は、ヴィクトリア朝期に隆盛を誇った旧来的なアッパー・ミドルの没落のタイミングにあたっている。オーウェルの家族自体、時代が時代ならもう少し余裕をもってオーウェルに教育をほどこせたかもしれない。だが彼は奨学生となってパブリック・スクールで他の金持ち学生との格差を痛感し、しかも最終的にアッパー・ミドルの道を踏み外していく。

オーウェルが、自分はロウワー・アッパー・ミドルだと言うとき、そこにはそのような経験のすべてが込められている。…

108とはずがたり:2019/01/26(土) 21:51:12
スチャイルド家、200年の栄華に幕-オーストリア最後の土地手放す
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-01-25/PLWH2Q6VDKHS01
Matthias Wabl
2019年1月26日 4:26 JST
NYセントラルパークの20倍の森林、包装材メーカーに売却
かつてナチスが接収、戦後に返却-分家で2分割し保有していた
興隆と衰亡、戦争を経験したロスチャイルド家の歴史が、200年を経て終わりを迎える。

  フランクフルトを拠点に活動した銀行家、マイヤー・アムシェル・ロートシルト(英語読みでロスチャイルド)は、19世紀初頭に5人の息子を欧州各都市に送った。その1人、ザロモンはウィーンで1815年に事業を開始。ロスチャイルド家は鉄道や製鉄所などへの投資で成功を収め、ハプスブルク帝国で最強の銀行家にのし上がった。

Salomon M. v.Rothschild / Gemlde - Salomon M. v. Rothschild / Painting -
ザロモン・ロートシルト; 1774-1855出所: Rothschild Archive
  ロスチャイルドの分家は約7000ヘクタール(ニューヨーク、セントラルパークの20倍に相当)に及ぶニーダーエスターライヒ州の森を保有する2つの信託を、ウィーンを拠点とする包装材会社プリンツホルン・ホールディングスに売却することで合意したと、匿名の関係者が明らかにした。登記の移転はまだだという。


  これは一族のアルベルト・フォン・ロートシルト男爵が1875年に取得した土地の一部。ナチス・ドイツが1938年にオーストリアを併合した際に接収された。第2次大戦後に一部が返還され、一族の跡取りであるベッティーナ・ルーラム氏が2012年の死去まで住んでいた。死去後に2つの分家が土地を分割したが、いずれも今回、プリンツホルンに売却することにしたという。
  

原題:Rothschilds Sell Last Piece of Austrian Empire After 200 Years(抜粋)

109とはずがたり:2019/08/09(金) 23:41:25
実は先史時代から人種のるつぼ 欧州人のルーツを探る
日経ナショナル ジオグラフィック社
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO47918940Z20C19A7000000/?n_cid=SNSTW001
2019/8/4

110とはずがたり:2019/10/06(日) 20:15:05
謎の吸い口付き土器、哺乳瓶だった ドイツなど欧州で出土
有料記事
https://www.asahi.com/articles/DA3S14199640.html
2019年9月30日16時30分

111とはずがたり:2019/11/12(火) 15:42:17
南北戦争で南部の奴隷所有者達は奴隷制を守る為に自らも武器を取ったのか?
https://togetter.com/li/1408029

112とはずがたり:2019/11/18(月) 14:33:45
これhttp://www014.upp.so-net.ne.jp/van/my_work/report20101029.pdfを読んでて
>筆者は経済史家ドゥ・フリースの「勤勉革命」に注目しています。ドゥ・フリースはプロト工業化論など多様な変化を近世革命と呼べるような一連の地域史的変化として整理した上で勤勉革命をその中心に位置付けています。しかしドゥ・フリース説に対応するような家族史の実証研究はないのが現状です。
という文章に突き当たる。

一寸今興味持ってる事象である。このドゥ・フリースとやら,誰やねんと思って調べてみたら,なんとこの人じゃねーか!!

最初の近代経済―オランダ経済の成功・失敗と持続力1500‐1815
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784815806163

この本持ってるわ。まあさらっとしら目を通してないけど。

で,勤勉革命と云えば勿論速見先生だけど,速見先生の講演に触発されてフリースは提唱したみたい。
しかも岡田さんと親戚とわ,,

Wikiwand
速水融
https://www.wikiwand.com/ja/%E9%80%9F%E6%B0%B4%E8%9E%8D

勤勉革命

西欧の産業革命 (industrial revolution) に対し、速水は日本の江戸時代にも高い経済成長と経済の高度化が見られることを指摘した。西欧の産業革命では、労働資本比率において資本分が増加し、労働が節約される形を取った。すなわち人力を節約するために、たとえば農業では家畜を、工業では動力機関を使用する方向に変化した。一方日本の江戸期、農村における労働力としての家畜の使用は、時代が進むにつれ減っていたことを速水は明らかにした。すなわち労働資本比率において、江戸期の農村では資本比率分が減り、労働比率分、すなわちマンパワーが増加していったのであり、西欧の変化とは逆の動きである。このような変化にも関わらず、江戸期の農業生産は増加して行った。これは前述のように農民がより勤勉に働くようになったために起こった現象であるため、速水はそれを「勤勉革命」(industrious revolution) と名づけた[4]。1986年(昭和61年)に、講演で速水の話を聞いたヤン・ド・フリース (Jan de Vries) は、後にヨーロッパにおいても、産業革命に先立つ勤勉革命があったとしてThe Industrious Revolutionを書いた[5]。ド・フリースの勤勉革命論(Industrious revolution)は、その後、賛否を含む大きな反響を生んでいる。

親族

國學院大学元教授速水敬二の長男。敬二は京都大学哲学科の先輩にあたる哲学者三木清の義兄で、東畑精一の弟。三木の娘永積洋子東京大学名誉教授は従姉妹。融の伯父である東畑も、融同様、文化勲章を受章し学士院会員でもあった。なお東畑の長男・隆介は慶應義塾大学文学部教授であったので、従兄弟同士が慶應義塾大学の教授を務めていたことになる。また、岡田元也イオン社長、岡田克也衆議院議員は従甥。

113とはずがたり:2019/11/18(月) 14:37:37

『社会経済史学会』70-5(2005年1月)
「前近代経済成長の2つのパターン」
斉藤 修
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/13639/2/0100703801.pdf

Discussion Paper
土地希少化と勤勉革命の比較史-経済史上の近世-
大島真理夫(大阪市立大学大学院経済学研究科)
https://core.ac.uk/download/pdf/35260831.pdf

114とはずがたり:2020/09/14(月) 19:53:01
スイスと植民地主義
このコンテンツは 2020/07/14 14:002020/07/14 14:00
David Eugster (文), Corinna Staffe (イラスト)
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%A8%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%BE%A9/46026658?utm_content=o&utm_source=twitter&utm_campaign=own-posts&utm_medium=socialflow

115名無しさん:2020/11/20(金) 00:09:42
英ストーンヘンジ付近にトンネル建設 政府が承認、来年着工へ
AFPBB News / 2020年11月16日 21時8分
https://news.infoseek.co.jp/article/afpbb_3316218/

【AFP=時事】英国は、古代遺跡「ストーンヘンジ(Stonehenge)」付近に道路トンネルを建設する計画を承認した。交通渋滞の緩和が目的とされ、考古学者らなどからの強い抗議を押し切る形となった。


 イングランド南西部ウィルトシャー(Wiltshire)にある、5000年前に建てられたとされる新石器時代のこの環状列石は、国連教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)の世界遺産(World Heritage)に登録されており、英国で大きな人気を誇る観光名所の一つ。昨年は160万人の観光客が訪れた。


 グラント・シャップス(Grant Shapps)運輸相は12日、交通量の多い道路の代替となるトンネルの建設計画を承認。現在の道路はストーンヘンジから165メートル以内の場所を通っており、通行車の運転手は遺跡を見ることができるが、観光客にとっては騒音源となっていた。


 考古学者らや複数のNGOが構成する「ストーンヘンジ連盟(Stonehenge Alliance)」の代表で、作家のトム・ホランド(Tom Holland)氏は、計画の承認は「衝撃的で、恥ずべき決断」だと非難。トンネルは「英国の最も貴重な先史時代の景観に、大量のコンクリートとアスファルトを注入することになる」と指摘している。


 一方で、同遺跡を管理する慈善団体「イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)」は「歴史的」な判断だとたたえ、騒々しい道路が無くなることで「ストーンヘンジはようやく、周囲に広がる先史時代の景色と再びつながる」とツイッター(Twitter)に投稿した。


 英政府は2017年に、全長約3.2キロとなる予定のこのトンネルの建設計画を最初に承認していた。今回17億ポンド(約2350億円)の予算が割り当てられ、道路管理当局ハイウエーズ・イングランド(Highways England)によれば、来年着工予定だという。

116名無しさん:2021/02/13(土) 08:22:18
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4b6bb40ab55f78e86704964a223d0ea08a0b544
犬ぞりは誤り、観光業が作った間違いだらけの北欧サーミ文化
2/12(金) 18:19配信
ナショナル ジオグラフィック日本版

文=KAREN GARDINER/訳=稲永浩子

117とはずがたり:2021/09/24(金) 21:31:31
フェニキア人が歴史上いかに重要だったか説明しよう
【連載】ビジネスに効く! 世界史最前線(第3回)
2018.8.15(水)
玉木 俊明
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53774

118とはずがたり:2021/09/24(金) 21:32:13
2021/08/10

【クイズ】「プレミア」と「プレミアム」 違いはなに?
https://apprev.smt.docomo.ne.jp/article/006ecc1/?utm_source=twitter&utm_medium=display&utm_campaign=2021_08&twclid=11437081428127141895


日常会話で使ったり、雑誌やポスターなどでよく見かけたりする「プレミア」と「プレミアム」という言葉。さて、この2つの違いはなんでしょう?


【問題】「プレミア」と「プレミアム」 違いはなに?

【答】 A:意味が違う
同じ言葉と思って使っていたという人も多いようですが、実はそもそもの意味が違います。「プレミアム(premium)」は、上位の、高級なという意味があり一般的なものより高価なものを指すときに使います。一方、「プレミア(premier)」は最初の、首位のという意味があり、多くは「希少価値」という表現で使われています。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板