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西洋史

105とはずがたり:2019/01/06(日) 19:07:26
>>103-105
そのようなチャヴが、魔法のように転身してクールなスーツを身にまとったジェントルマン・スパイとなる『キングスマン』の物語は、どのような役割を果たしているだろうか。

これは、チャヴを「悪魔化」することのコインの裏側のようなものであろう。つまり、本来であればイギリス社会の現実の矛盾を表しているはずのチャヴを銀幕の上でだけ変身させることは、「現実の矛盾の想像上の解決」と呼ばれるべき行為なのである。

だとすれば、『キングスマン』のちょうど正反対に位置する映画は、ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)ということになる。

この映画が表現するのは、2013年に行われ、イギリスの階級を7つに分類した「イギリス階級調査(Great British Class Survey)」が「プレカリアート」と名づけた15%(!)の人びとである(プレカリアートとは、precarious(不安定な)とproletariat(労働者階級)を合成した言葉で、臨時雇い労働者および失業者の層のこと)。

その苦境は、保守党が「チャヴ」を利用しながら推進した緊縮財政の産物だ。そのような人びとの存在を、『キングスマン』は覆いかくす。

このように、『キングスマン』は一方では20世紀的な、ピグマリオン物語=階級上昇物語であり、中産階級化する労働者階級の物語なのであるが、そのような、「いまやわれわれはみな中流」という、一種の安心感に満ちた立場から語られる物語は、『わたしは、ダニエル・ブレイク』が描く、階級の固定化と貧困の現在の現実を糊塗してしまうものなのである。

さて、では、そうではない階級の物語はどのようにして語られうるのだろうか。本連載でひとつの軸としていきたいのは、ここまで述べたような階級からの離脱、もしくは労働者階級全体の中流階級化の物語とは逆行する階級についての物語である。

それは、ひと言で言えば、コミュニティとしての労働者階級の物語だ。そしてこの物語は、ピグマリオン的物語が主流である中で、なかなかに出会えず、理解しにくいものであろう。

それは、連帯の感情とも言い換えることができる。

いまだに、イギリスには、労働者階級同士のこのような連帯の感情が存在する。

すると当然に、次のような疑問が生じるだろう。それでは、労働者階級は労働者階級であることに誇りを持ち、労働者階級のままでいた方がいいというのか? 労働者階級の中流階級化というのは、一概に悪いことなのか? 賃金が上がり、豊かな生活が送れるようになったならそれでいいのではないか?

これらの疑問に対して、わたしは単なるイエス、また単なるノーの回答を持っていない。これらの疑問への答えは、本連載の全体を通じて出していきたい。ただ、今回の序論で言えることは、そのような「上昇」の単純な物語こそが、現在苛烈になりつつある階級の分化と貧困の問題の遠因になっている、ということである。

『キングスマン』が現実のチャヴを覆いかくしたように、「われわれはいまやハッピーな中流である」という物語は、その中流に仲間入りできなかった人びとを、努力不足の怠け者として排除しているのかもしれないのだ。
そして、20世紀の労働者階級の物語は、それが労働党という形で政治的な表現と力を得る物語であると同時に、逆説的にもその解体の物語となる。それは個人の階級上昇の物語であると同時に、集団としての労働者階級が中流階級化していくプロセスの問題でもある。

わたしはこの物語を通して、労働者階級をコミュニティとして保存すべきだ、もしくはそうではなく労働者階級は解体されるべきだと主張したいわけではない。そうではなく、この物語でわたしが示したいのは、労働者階級は、そして階級そのものは、つねに作りかえられてきたということだ。

その作りかえは、歴史的現実の問題であると同時に、わたしたちが階級をどのように物語り、認識するかという問題でもある。わたしたちの現代日本社会がどのような社会になっていくのかを考えるにあたって、そのような意味での階級の作りかえの問題は大きなヒントを与えてくれるはずだ。


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