したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

西洋史

1とはずがたり:2006/12/02(土) 18:08:31
地理的範囲:西洋人が開拓した新大陸アメリカや地中海世界として歴史を共有する中東史や西洋の植民地となったアフリカなどもここへ入れてしまって良かろう。
時間的範囲:余りに最近の話は各当該スレに。それ以前なら地球上が現在の陸地構成に成った以降ならいつでも可。

103とはずがたり:2019/01/06(日) 19:06:54
興味深いな。再配分とか公正とか論じる前に現在覆われて見えにくくなってる不公正をちゃんと見る為にも必要な議論である。

2018.11.10
「階級化」が進む日本は、今こそ“階級先進国”イギリスに学ぶべきだ
連載「イギリス階級物語」第1回・前編
河野 真太郎一橋大学准教授
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58286

「階級」を隠蔽する日本の問題点
「格差社会」という言葉がメディアに踊るようになってしばらく経った。この言葉は、社会学者山田昌弘の『希望格差社会』(2004年)が広めた言葉だとされる…

だが、なぜ「格差」なのだろうか。社会的な階層を表現するにはすでに別の言葉が存在してきた──「階級」である。

思うに、階級ではなく格差という言葉が選ばれるとき、そこには、社会はとりあえずひとまとまりのものとしてあって、その中に勝ち組・負け組が生じているようなイメージがあるのかもしれない。

では、「階級」という言葉についてはどうだろう。日本では、あまり一般的な言葉として階級という言葉は使われてこなかった(「身分」という言葉は使われてきたが)。

端的に言って、階級という言葉を使わないことは構造的な貧困を隠蔽する方法であってきたし、極端で正当化できない富者の存在を正当化する方法であった。

これと対照的に、階級という言葉が過剰に使われてきた国がある。イギリスである。

イギリスといえば階級社会だというイメージは日本でも強いだろう。それは事実である。だが、イギリスの社会構造が階級社会であるという以上に興味深いのは、階級についての意識がイギリス人の自己認識や社会の認識を大きく左右してきたことだ。

労働者階級は今やハッピーか?
イギリスの階級文化といえば一般的に語られるのはまずは中流・上流階級の文化(アフタヌーン・ティーであるとか王室であるとか)か、またはせいぜい「ポピュラー・カルチャー」(ビートルズ)である。だが、ここまで述べたような目的のために、本連載が軸とするのは労働者階級である。

そもそも、現代的な階級社会の誕生の根幹には、資本家階級と労働者階級の分割があった。

前近代的な身分(カースト:caste)ではなく近代的な階級(クラス:class)が生じた背景には産業資本主義の隆盛があったわけだが、その産業資本主義は、(マルクスの定義に従えば)生産手段を持たず、みずからの労働力を売る以外に生活の手段をもたない人びとを生み出し、またそういった人びとを必要とした。

そして、生産手段を独占して労働者階級の労働を買ったのが、資本家階級である。階級とはすなわち労働者階級だったと言ってもよいのだ。

本連載の階級の物語は、19世紀に始まって、主に20世紀を対象としていく。20世紀は確かに労働者階級の世紀であったと言える。イギリスだけを見ても、世紀の初めに労働党が結成され、「階級意識」とそれを束ねる政治組織が隆盛していった。

1926年のジェネラル・ストライキが代表するような労働者による運動は、世紀を通じて起こりつづけた。一方でカール・マルクスが青写真を描いた共産主義は、ソ連その他の共産主義国家の壮大な「実験」に結実した。

だがその一方で、20世紀の歴史は同時に、階級の解体の歴史でもあった。世紀の終わりにソ連が解体し、共産主義の実験に終止符が打たれたということだけではない。20世紀の階級をめぐる物語の多くは、階級からの逃走の物語だったのだ。(とは註:マルクス主義は力を失い,経済学は階級を扱うのを止め家計を扱うようになった。)
簡単にまとめてしまえば、これは、労働者階級の中流階級化ということになる。

1911年の国勢調査ではイギリスの労働者階級は就労人口の約75%を占めていた。ところが、イギリスの階級の代表的な調査である全国読者層調査(National Readership Survey)によれば、2015年段階で失年金受給者や業者も含めた労働者階級は45.8%である。

これを多いと見るか少ないと見るかは分かれるだろうが、いずれにせよ社会に対して、伝統的な労働者階級は過去のものになったという意識が強まっていった。

104とはずがたり:2019/01/06(日) 19:07:08

労働者階級はもはや中流なのではないか? そして、それでみなハッピーなのだから大いに結構ではないか?

だが、そのような単純で単線的な物語は、複数の意味で間違っている。それがなぜ間違っているのかを、ある映画からのやりとりを入り口に論じてみたい。

──「生まれの貧しさでは人生は決まらない」と言いたい。学ぶ意欲さえあれば、変われるんだ。
──「マイ・フェア・レディ」みたいに?
これは、映画『キングスマン』(2015年)での、コリン・ファース演じるジェントルマン・スパイのハリー・ハントと、タロン・エガートン演じる下層階級の青年エグジーとのあいだのやりとりである。

その原作はイギリス(アイルランド)の劇作家ジョージ・バーナード・ショー(1856年?1950年)の劇作品『ピグマリオン』(1913年初演)である。

『ピグマリオン』では、言語学者ヒギンズが、ロンドンの花売り娘であるイライザのひどいコックニー訛りを矯正してレディに仕立てられるかどうかを友人と賭け、みごと社交パーティーでイライザをレディとして通すことに成功する。

ピグマリオン物語とは、つまりは階級上昇物語である。

ただし『キングスマン』は、時代の刻印を帯びている。

二つ目は少し後で述べるとして、一つ目は、主人公のエグジーが「チャヴ」である、という点だ。

「チャヴ」とは何か。チャヴ(chav)という言葉は、2000年代からイギリスのメディアで盛んに使われるようになった言葉である。

この言葉が指しているのは、カウンシル・ハウスと呼ばれる低所得者向けの集合住宅に住み、トラックスーツ(ジャージ)を着て、バーバリーをはじめとするブランドもの(偽物である場合も多い)を好んで身につけ、ベースボールキャップをかぶり、金属アクセサリーをじゃらじゃらとたらした下層階級の不良たちである。


現代のピグマリオン物語が、チャヴの階級上昇物語となっていることにはどんな意味があるのだろうか? それを考えるために、チャヴという人物像(もしくは階級の名称?)がもてはやされた歴史的意味を確認しよう。

チャヴは、それまでの労働者階級とはかなり違う人物類型だ。それが表現するのは、2000年代以降のイギリスの新たな階級の政治であり、またそれが隠蔽するのは、階級と貧困をめぐる過酷な現実なのである。

イギリスのアンダークラス=チャヴの出現は「過酷な階級化」の序章だ

なぜ2000年代になってチャヴという人種がメディアを賑わせるようになったのだろうか。ひとつには、単に、労働者階級でさえない新たなアンダークラスがイギリスに生じているという事実があり、それをチャヴという類型が代表しているということであろう。

ただし、チャヴがアンダークラスであっても、アンダークラスがすべてチャヴであるわけではない。

では、なぜほかならぬチャヴがアンダークラスを代表したのか?その理由を考えるためには、この言葉の流行のもうひとつの側面を見なければならない。これについては、イギリスの若き社会評論家オーウェン・ジョーンズの著書『チャヴ──弱者を敵視する社会』(依田卓巳訳、海と月社、2017年)に詳しい。

ジョーンズによれば、チャヴという言葉はとりわけ2010年以降のイギリス保守党の緊縮政策(とりわけ福祉のカット)において利用された。保守党はチャヴと呼ばれる種類の人たちを、まじめに働きもせずに失業保険などの福祉を不当に享受している人びとだとした。

ともかくも、チャヴは、新自由主義的な競争社会となったイギリスで生じた負け組アンダークラスの名前であると同時に、まさにその新自由主義を押し進め、社会的な福祉をカットするのに利用されたのである。日本でも見たことのある光景である。

105とはずがたり:2019/01/06(日) 19:07:26
>>103-105
そのようなチャヴが、魔法のように転身してクールなスーツを身にまとったジェントルマン・スパイとなる『キングスマン』の物語は、どのような役割を果たしているだろうか。

これは、チャヴを「悪魔化」することのコインの裏側のようなものであろう。つまり、本来であればイギリス社会の現実の矛盾を表しているはずのチャヴを銀幕の上でだけ変身させることは、「現実の矛盾の想像上の解決」と呼ばれるべき行為なのである。

だとすれば、『キングスマン』のちょうど正反対に位置する映画は、ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)ということになる。

この映画が表現するのは、2013年に行われ、イギリスの階級を7つに分類した「イギリス階級調査(Great British Class Survey)」が「プレカリアート」と名づけた15%(!)の人びとである(プレカリアートとは、precarious(不安定な)とproletariat(労働者階級)を合成した言葉で、臨時雇い労働者および失業者の層のこと)。

その苦境は、保守党が「チャヴ」を利用しながら推進した緊縮財政の産物だ。そのような人びとの存在を、『キングスマン』は覆いかくす。

このように、『キングスマン』は一方では20世紀的な、ピグマリオン物語=階級上昇物語であり、中産階級化する労働者階級の物語なのであるが、そのような、「いまやわれわれはみな中流」という、一種の安心感に満ちた立場から語られる物語は、『わたしは、ダニエル・ブレイク』が描く、階級の固定化と貧困の現在の現実を糊塗してしまうものなのである。

さて、では、そうではない階級の物語はどのようにして語られうるのだろうか。本連載でひとつの軸としていきたいのは、ここまで述べたような階級からの離脱、もしくは労働者階級全体の中流階級化の物語とは逆行する階級についての物語である。

それは、ひと言で言えば、コミュニティとしての労働者階級の物語だ。そしてこの物語は、ピグマリオン的物語が主流である中で、なかなかに出会えず、理解しにくいものであろう。

それは、連帯の感情とも言い換えることができる。

いまだに、イギリスには、労働者階級同士のこのような連帯の感情が存在する。

すると当然に、次のような疑問が生じるだろう。それでは、労働者階級は労働者階級であることに誇りを持ち、労働者階級のままでいた方がいいというのか? 労働者階級の中流階級化というのは、一概に悪いことなのか? 賃金が上がり、豊かな生活が送れるようになったならそれでいいのではないか?

これらの疑問に対して、わたしは単なるイエス、また単なるノーの回答を持っていない。これらの疑問への答えは、本連載の全体を通じて出していきたい。ただ、今回の序論で言えることは、そのような「上昇」の単純な物語こそが、現在苛烈になりつつある階級の分化と貧困の問題の遠因になっている、ということである。

『キングスマン』が現実のチャヴを覆いかくしたように、「われわれはいまやハッピーな中流である」という物語は、その中流に仲間入りできなかった人びとを、努力不足の怠け者として排除しているのかもしれないのだ。
そして、20世紀の労働者階級の物語は、それが労働党という形で政治的な表現と力を得る物語であると同時に、逆説的にもその解体の物語となる。それは個人の階級上昇の物語であると同時に、集団としての労働者階級が中流階級化していくプロセスの問題でもある。

わたしはこの物語を通して、労働者階級をコミュニティとして保存すべきだ、もしくはそうではなく労働者階級は解体されるべきだと主張したいわけではない。そうではなく、この物語でわたしが示したいのは、労働者階級は、そして階級そのものは、つねに作りかえられてきたということだ。

その作りかえは、歴史的現実の問題であると同時に、わたしたちが階級をどのように物語り、認識するかという問題でもある。わたしたちの現代日本社会がどのような社会になっていくのかを考えるにあたって、そのような意味での階級の作りかえの問題は大きなヒントを与えてくれるはずだ。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板