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「俳句ダービー」?
伏儀の子とペテロの対決
ローマ帝国での宗教争いも興味深い課題なのですが、
○○さんなど、詳しそうな人が多そうなので私は追いませんが、
キリストは伏儀派の一派、ミトラ教により作られた飾り。
「伏儀さまの権威に従いなさい」という思考なのだが、
ヒクソスが伏儀に屈服するはずがない。
ローマ帝国にマナセ族が関与している可能性を平御幸が指摘していたが、
「この岩(ペテロ)の上の私は教会を築く」教会は、
キリストの権威を、
教会(伏儀と関係ない人)が勝手に判断して使用できるという思考から、
ヒクソスが作ったと仮定したい。
なぜ自由の女神(イナンナ)がアメリカ、日本にあるのか理解できないので、
ローマ、ヨーロッパ史も複雑そうです。
イナンナの子をエフライム、マナセと捏造したいのかもしれませんが、
よくわからないところなので、私は別の課題に移ります。
秋刀魚の雑談(根拠なし)
「北太平洋に広く生息し、日本海を含む日本近海からアメリカ大陸沿岸の
アラスカからメキシコに分布する。
季節によって広い範囲を回遊する魚として知られる。」
↓
やや海洋民族と活動範囲が違うようだ。
インド洋で釣れるだろうか。
「志摩では天岩戸の神饌の一つ。11月23日には岩戸の前で秋刀魚を焼いて食べる。」
↓
ヨセフの相手などしたくなくて、イナンナは引きこもった。
「岩戸隠れの前と後でアマテラスの性格が変わっている
(岩戸隠れの前は独断で物事を決めているが、後では高木神の指示を仰いでいる)」
↓
天照はヒクソスに屈服させられたわけですね。
でも渋って出てこないので、岩戸の前で天照の好物の秋刀魚を焼いて釣った(苦笑)
私は歴史で釣ることにします。
関係ないのですが、
狛犬は、穢貊の繋がりで、
「八」の字、バールかイナンナを指すのかもしれない。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002343M.png
サンマなぞ
・・魚群探知機と囲い網があればたやすく捕れる。あわれなものよ。
・・「魚影の群れ」の夏目雅子はよかった。
*
ところで、tomboのトンちゃん!!
画像掲示板のnesuさんが心配してますよ〜〜〜
(無題)
>・・女媧(?〜?)
姓は風。女希、女皇。人頭蛇身の神。伏羲の妹にして妻でもある。大地に大洪水が起こり伏羲とともに生き残った。泥をこねて人間を造ったという。共工と祝融が帝王の座を争ったことがあったが、帝王となることができなかった共工が、怒り心頭に発して天を支える柱の山(不周山)を崩したため天変地異が起こった。女媧は五色の石をこねて天の亀裂を繕い、巨大な亀の足で天の四隅を支えたという。三皇のひとりと数えられることもある。伏羲とともに古代苗族の兄妹神説話・洪水説話から成立したらしい。
・・伏羲がバアル、女媧がアナト、というのはたしからしい。
・・アナトは穴門。長門のこと。
http://www.246.ne.jp/~y-iwa/hikojimakodaimojiiwa.htm
*
・・バアルはba-alで、dig、excavate… (511x: ED IIIb, Old Akkadian, Lagash II, Ur III, Early Old Babylonian, Old Babylonian) wr. ba-al; bal; bal3; bal4; pe-el "to dig, excavate; to unload (a boat)" Akk. herû
…to unload (a boat)というのはおもしろい>^_^<
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002345M.png
(無題)
http://umbra.nascom.nasa.gov/comets/movies/SOHO_LASCO_C3_closeup.mpg
・・2つの彗星があいつで太陽に衝突 【1998年6月3日 NASA発】
トンちゃんも釣り糸を垂らしていたか…
>>・・伏羲がバアル、女媧がアナト、というのはたしからしい。
フェニキア神話では、バール=伏儀、アナト=女カか、了解。
どうも西にいくほど話が付け加わっているように見える。
長江−伏儀+女媧
印度−伏儀+女媧+神農
メソポタミア−エンメルアンナの二人+ウバル
フェニキア−伏儀と神農が合体(同一視された)でバアル+アナト(女媧)
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Moto.html
「モトは自分を神々の会議に招かなかった腹いせに、バアールを冥界へ呼び出し、死者の食事を与え、彼を殺してしまう。妹のアナトは、彼を殺した犯人を捜し回った。そして、遂にモトを見つけた彼女は、モトの体を切り刻み大地にばらまいた。すると、バアールは無事生き返ったのである。」
フェニキアでは、モト(セト神、ゼウス系)が冥界王で、
体が切り刻まれているが、
エジプトでは逆にオシリスが体を切り刻まれている。
バアル−オシリス−伏儀の復活を願う思考は一緒だが、
西にいくほど、伝言ゲームのようにずれていく。
ミタンニで、死んだ伏儀の精霊が子供に乗り移る、ミトラ思考誕生。
エジプトのイナンナ派が、ミトラをイナンナの子供として取り入れた結果、
アマルナ一神教に繋がったか?
東が夫妹神話の元だとすると、伏儀は中華出身か?
平御幸説のように前2344年ごろに中華に洪水がなかったか?
もしくは前2344年ごろにほろびた遺跡が長江にないか、興味深い。
俳句ダービーの裏事情も興味深い。
歴史餌を釣り針に。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=unload&kind=ej&mode=0&base=1&row=0
「un・load
━━ v. (積荷などを)おろす, (船・車などの)荷をおろす; (心などの)重荷をおろす ((on, onto)); 厄介払いする ((on)); (銃・砲の)弾丸[弾薬]を抜きとる; (持株を)処分する; 【コンピュータ】アンロードする.」
to unload (a boat)
↓
船の積荷を降ろす。
↓
バールが、ドラヴィダで、伏儀と女媧を船から降ろして留まらせたことを指すか?
「to dig, excavate」
↓
土を掘る、農耕→神農。
考えようによってはぴったりはまる。
ミタンニのフルリ語
http://www.lingua.tsukuba.ac.jp/ippan/JGL/2004/2004-Ninomiya.pdf
「フリ人が確実にいたと推察される地域は、ミタンニ、ヌジ、
アララハ、ウガリット、カトゥナである。」
同サイトによると、この時代の共通語はアッカド語で、
アッカドはヒクソス勢力の言語と推定したが、
ミタンニがイナンナ派、ミトラ教、穢貊に繋がるので、
フルリ語使用者は、シュメール勢力の可能性と仮定できる。
調べてみたい。
以下のサイトによると、
http://www.ism.ac.jp/editsec/toukei/pdf/53-2-285.pdf
ヌジは、イラクのキルクークにある青銅器遺跡。
アラプハという小国の都市。
大半がフルリ人。
「フルリ人はヒッタイトの歴史でも大きな役割を果たした。」
「現在知られている彼らの根拠地はスバル(Subar)の地であり、
ハブール川流域や後には北メソポタミアと歴史的シリアのいたるところで小国を形成した。」
ハブール川はユーフラテス河の支流、北シリア。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/03/030400.html
「ハブール川流域のテル・カシュカショクの発掘権を得た。この遺跡も四つのテルからなる遺跡群であり、われわれが掘ったのは二号丘と名づけた舌状の部分である(一九八七、八八年)[挿図5]。ここでは、土器新石器時代に集落が営まれていたが、ウバイド期からウルク期に至ると一号丘の住民の墓地とされた。」
カシュカショク遺跡はウバイド期に当たるようだ。
「知られている限り最初のフルリ人の王国は紀元前3千年紀の終わりに
ウルケシュ市の周辺に登場した。」
「紀元前25世紀頃から記録に登場する。」
「ウバイド文明は、ザグロス高原北西部付近に文化的根拠地」
ウバイド人は文字を持たない先−言語学的シュメール人。
そこへペルシア湾からエンメルとウバル(伏儀の一派)が現れて文字をもたらした。
ウガリットにもフルリ人がいて、後のミタンニの主勢力のフルリ人は、
北シリアなどフェニキアとの繋がりも仮定できる。
ミタンニが穢貊に繋がり、百越に繋がるのなら、
東の海洋民族との繋がりも仮定できる。
地図は以下のサイトから、ハブール川。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/03/030600.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002349.jpg
ザグロス山脈とフルリ人
「ザグロス山脈(Zagros Mountains、ペルシャ語で???????????? ?????)は、イランの南西部からイラク、トルコそれぞれの国境線となる山脈である。最高峰はトルコ領内のアララト山(Mt. Ararat:5,165m)で、イラン領内にはザルド・クーフ山(Zard Kūh:4,548m)が聳える。山脈内にはアケメネス朝の首都、ペルセポリスの遺跡がある。」
ウバイド、ウルリ人はザグロス山脈と関係が深いらしいが、
アララト山がある。
「ノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山」
「紀元前9世紀から紀元前585年までアナトリア東部に存在したウラルトゥ王国」は、
「ミタンニ王国を築いたフルリ人たちの言語、フルリ語と近い関係にあり、
両者をまとめてフルリ・ウラルトゥ語族と呼ぶ」が、
「「ウラルトゥ」の名はアララト山(Ararat)とも関係づけられる」。
ウラルトゥ、ミタンニ、フルリ人、ウバイド、アララト山、ノア、伏儀、
前2000年付近のシュメール勢力が多く関わっていて、興味深い。
ウバイド(フルリ人)のところへ、ドラヴィダの3人が、
ペルシア湾から文字を持ってやってきた、と推定されるが、
イランとイラクの中間のザグロス、
なかでもアララト山が彼らに神聖視されたか?
地図は以下のサイトから、ザグロス山脈。
http://junta-enviro.blog.ocn.ne.jp/seasons/2005/10/index.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002350M.jpg
ミタンニとインドの関わり
http://www.wdic.org/w/CUL/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%AA%E4%BA%BA
「ザグロス山脈からシリアに至る領土を支配したミタンニ王国」
「フルリ語はインド・ヨーロッパ語ではないが、」
「ミタンニの支配階級である戦士は自分たちをmaryannu(marya、勇士)と呼んだ。これらのことから戦士はインド・イラン系(おそらくインド系に近い)の出自を持つと考えられる。」
「(ミタンニ王の名は)いずれもサンスクリットで解釈できる名である」
同じくフルリ人や、秋魚によるとアナト派と強い関連を持つヒッタイトが、
「紀元前1350年頃にミタンニに攻め込み、トゥシュラッタを暗殺した」
のも、インドとの関わりからイナンナ派と対立した、という仮定もできる。
「フルリ人社会あるいはミタンニ王国における支配階級が
インド語派の出自を持つためと想像されている。」
問題の紀元前1300年前後ですが、
ヒッタイト、エジプト、アッシリア、バビロニアが関わる、
ガデシュの戦いは、勢力の特性を知るために大きな手がかりになりそうです。
紀元前1285ガデシュの闘いの時点で、
エジプトはアマルナ革命が終わった後、
第19王朝、ヒクソス。
バビロニアは、カッシート王朝(バビロン第3王朝)、恐らくヒクソス
アッシリアは中アッシリア時代。
「中アッシリア時代の初期にはアッシリアはミタンニ王国の勢力圏下に置かれていた。このためこの時期のアッシリアに関する史料は少ない。アッシリア史における転機となったのがアッシュール・ウバリト1世の治世である。彼の時代に、アッシリアはミタンニの影響力を完全に排除し、大国としての道を歩み始めることになった。このことは彼がエジプト王へ向けて送った外交文書アマルナ文書からも確認できる」
ミタンニ勢力を妥当して中アッシリアを起こした、
アッシュール・ウバリト1世は、【極めて興味深いことに!!!】、
アマルナ革命を起こしたエジプト王アメンホテプ4世(アクエンアテン)を、
「我が兄弟」と呼んだ外交文書を残している。
中アッシリアもアマルナ革命と深い関係を持つようだ。
ミタンニのミトラ教も、アマルナ革命の思考との近さを感じさせるが、
アッシリアとアマルナも近い。
紀元前1300年前後の、
ミタンニ、ヒッタイトがわからないので追ってみたい。
地図は以下のサイトから。
http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/war/bc13/bc13assyria.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002351.png
ヒッタイトはフェニキア海洋民族?
ヒッタイトは、
「通説では紀元前1190年に、民族分類が不明の「海の民」によって滅ぼされた」
とされているが、
アナト=イナンナ=海の民で、近い関係と推定できるので、通説は誤り。
「紀元前1595年頃、メソポタミアの古バビロニアを滅ぼす」
↓
ハンムラビなどのシュメール系楚を滅ぼすのは、
ヒッタイトが周辺海洋民族だからか?
中華とは近いが対立もする。
「紀元前1450年頃、ヒッタイト新王国の成立。フリ文化の色彩強まる」
↓
フルリはウラルトゥ、ミタンニと近い。
ヒッタイト古王国と新王国の違いの情報も欲しい。
「紀元前1330年頃、シュッピルリウマはミタンニを制圧する」
↓
ミタンニと対立。
アッシリアとも対立するミタンニは、フルリ人ながら、
単純なシュメールではなさそうだ。
その原因はインド系支配層か?
「紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。
ラムセス2世のエジプトを撃退する。」
↓
ヒッタイトの天敵はヒクソスのエジプトなので、
ヒッタイトはヒクソスではない。
トロイアの東に位置するヒッタイトは、
ヒクソスに滅ぼされたトロイア文明とも近かったようだ。
ヒッタイト新王国、中アッシリアにはシュメール色が強い。
http://homepage1.nifty.com/teruminasu/gaiyou.html
「なんと「ボアズキョイ文書」の中には、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、ルウィ語、パラ語、(原)ハッティ語、フルリ語、の7種類もの言語が使い分けられていたそうです。
そして、当時の国際語であったアッカド語とメソポタミアの古典語のシュメール語以外の5つの言語が、ヒッタイトの国内語として使用されていたことがわかって来たそうです。この事は、当時のヒッタイトの国内に、それらの言葉を使っていた5つつの異なる民族が住んでいた事を意味します。」
「ヒッタイト帝国と一時期覇を競ったミタンニ王国は、フルリ系の人々が打ち立てたもので、ヒッタイトは、この国からも各種の影響を受けているようです。」
ヒッタイトは、イナンナ派の強い、海洋交易国家で多言語他民族か?
海洋民族はフェニキア、倭人に当たる。
地図は以下のサイトから、
http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/war/bc13/bc13egypt-hitti.htm
ウガリット、ビュブロス、シドン、テュルスなど、
フェニキアの重要都市は、ガデシュの闘いのすぐ傍にあり、
ヒッタイトとフェニキアの関係の近さを仮定できる。
話題はずれますが、
フェニキアの重要都市は、後の南北イスラエルのやや北西。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002352.png
ガデシュ時代の諸勢力
フェニキア人は、
「紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃にティルス、シドン、ビュブロスなどの
都市国家を形成して海上交易に活躍」
↓
ガデシュの闘いと、戦場、時代が同じで、
ヒッタイトとフェニキアの近い関係を仮定できる。
ヒッタイトはフルリ人の関係で、ミタンニと関係が近いが、
(倭人・フェニキアで同族かもしれない。)
ガデシュの闘いに力を削がれ、アッシリア−ミタンニの対立に介入できなかった。
アッシリアはミタンニから独立し、さらにミタンニを従属させたので仲が悪い。
(アッシリア(漢)−ミタンニ(ミトラ化して中華文化を受容した匈奴、もしくは倭人))
このように仮定しておく。
ミタンニについては、インドを調べながら後に考察する。
ミタンニを叩きたいので、
ヒッタイトからの、ミタンニへの援助を防ぎたいアッシリアは、
ガデシュの闘いにおいて、エジプトに「小規模の」援軍。
小規模なのはアッシリアもヒクソスと仲が良くないから。
カッシートは、海の国を滅ぼしているので、ヒクソス系と以前に推定したが、
推定を取り下げる。
「カッシート人は外来の勢力であったが、バビロニア文化を極めて好み、バビロニアの神々を祭る神殿を盛んに建築し、公文書その他はほぼバビロニア語(アッカド語)を用いるなどし、早い段階で現地に同化した。」
「言葉は主にバビロニア語(アッカド語)が使用されたが、バビロニア文化を愛好するカッシート人達によって、バビロニア以前のシュメール文化も再興され、宗教文学にはシュメール語が使用される場合もあった。」
↓
アッカド語はヒクソスを思わせるが、シュメール語は逆の方向。
「紀元前1595年にヒッタイトのムルシリシュ1世がバビロンを攻め倒すと
バビロン第三王朝を開いた」ように、ヒッタイトとも関わりがありそうだし、
ヒクソスのように強く反シュメール的ではないので、
素朴な遊牧民なのかもしれない。
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_History_West.html
「カッシート人の数は非常に少なかったので、
数世代で完全にバビロニア人の中に溶け込んでしまった。」
↓
カッシート王国は、徐々に長江系シュメールに同化されたと理解しておく。
そのカッシートはヒッタイトと同盟を組んで、
アッシリアに対抗するが、それは隣接する中華内の対立で、
ヒッタイトが力を強めれば、ミタンニが盛り返し、
隣接するアッシリアの力が弱まるから、と推定。
マッティヴァザMattivaza 紀元前1350年 - 紀元前1320年頃
サットゥアラ1世Sattuara I 紀元前1320年 - 紀元前1300年頃
ヴァシャサッタVashasatta 紀元前1300年 - 紀元前1280年頃
サットゥアラ2世Sattuara II 紀元前1280年 - 紀元前1270年頃
の時点でミタンニはアッシリアに従属し、滅亡している。
ガデシュの闘いの後、エジプトと講和したヒッタイトは、
関係の近いミタンニを援助しようとしたが、
戦争で疲弊していたため、逆にアッシリアに負けてしまい、
ミタンニは滅亡したと推定。
エジプトはヒクソスだが、
ガデシュの闘い以外は、地理的に距離が遠いので、
勢力争いへの関係が比較的に薄いと仮定。
以下のサイトからヒッタイトの製鉄。
http://www.atomlt.com/06school/sc04/sc04_02.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002353M.png
ヤマの起源がわかったあるよ。
以下、ウィキペディア+私見
閻魔
ヤマ
本来はインド・イラン共通時代にまで遡る古い神格で、
アヴェスターの聖王イマ(伏儀)と同起源である。
リグ・ヴェーダでは人祖(人は言葉を持つから人、伏儀)ともされ、
ヤマ(伏儀)とその妹ヤミー(女媧)との間に人類が生まれたという。
人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王となった。
(オシリスは、エジプトで冥界の主。)
インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるヤマの国に行くとされた。
(天国の起源。)
しかし後には死者を裁いて地獄に落とす恐るべき神と考えられる様になり、
ついには単なる死神としても描かれる様になった。
(冥界の恐ろしさから。)
イエメン、オマーン、邪馬台国に連なる「ヤマ」は、閻魔=伏儀で、。
リグ・ヴェーダ時代のインドは、バールのシュメール、インダス文明。
「インドのサンスクリット語とは極めて近縁の言語で、
特にサンスクリットの最古層であるヴェーダ語(リグ・ヴェーダなどに用いられた言語)
とは文法的にも酷似している。」
「アヴェスター語は更に、開祖ザラスシュトラ自身の作と思われるガーサー(詩)
に用いられるガーサー語と、後年弟子や信者達によって付け加えられた部分に
用いられる新体アヴェスター語に分けられる。 」
↓
ゾロアスター教は、伏儀の白黒を元にしている。
「広義には、リグ=ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)に用いられていた言葉にまで溯り、後の時代の、仏典などが記された仏教混交サンスクリットをも含む。
そのように古典時代から広く使われて多くの文献を残しているため、サンスクリットは、ヨーロッパで古典学術用語として栄えたラテン語・ギリシア語とともに「三大古典印欧語」と称されることもある。 同じインド・イラン(アーリア)語派に属する古典語であるアヴェスター語とは非常に類似している。」
↓
サンスクリット最古層=アヴェスター=ゾロアスターは、
紀元前1500年の、インダス文明滅亡の前の文化を継承する、
シュメール=伏儀系の文化。
アーリア人(?)によりインダス文明は滅亡したが、
同じ紀元前1500年頃に起こった、
支配層がインド系のミタンニは、インダス文明の逃亡者と、
フルリ人のシュメール系国家か?
兄妹夫婦伝説を探せあるよ。
失礼、インダス文明は前1800年に衰退したが、
「その後、前1500年頃にアーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住した」
ように、
ミタンニは徐々にアーリア人によりインドから追い出された。
↓
「紀元前1700年〜1500年ごろ - フルリ人による征服」
前1500年にいたって、国家としてミタンニに繋がるようだ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002355M.png
ヴェーダにも濃い伏儀の痕跡
以下、ウィキペディア+私見
サンヒター(本集)
(ヴェーダの)中心的な部分で、マントラにより構成される。
リグ・ヴェーダ
ホートリ祭官に所属。神々の讃歌。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。
アタルヴァ・ヴェーダ
ブラフマン祭官に所属。呪文集。他の三つに比べて成立が新しい。後になってヴェーダとして加えられた。
「アタルヴァ・ヴェーダ(Atharva-Veda)は主にバラモン教の呪術的な儀式のしきたりが記されているものである。4ヴェーダ本集のひとつ。古い部分は紀元前1500年ころには成立し、時代とともに書き加えられていったと考えられる。当初は、ヴェーダとして認められていなかったが、紀元前500年ころから徐々に認められるようになり、現在では4ヴェーダのひとつと称されるようになった。たとえば、古い仏典でヴェーダといえば「3ヴェーダ(リグ・サーマ・ヤジュル)」のことで、アタルヴァ・ヴェーダは含まれていないことが多い。また、仏典には「わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。」(スッタニパータ)とかかれている。」
「紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、インダス文明などを構成した
先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる」
ので、バラモン教には階級固定の狙いが強いのだろうが、
釈迦はバラモンと距離を置いたと理解できる。
まずインダス文明に連なるリグ・ヴェーダがあった。
↓
次に征服者のアーリア人が階級支配の正当化のために、
アタルヴァ・ヴェーダを付け加えた。
↓
バラモン教と対立する仏教が広まった。
↓
仏教に対して、バラモンはヒンドゥー教を作った。
↓
ヒンドゥー教は現在でも盛んで、
同じヒクソスだからか、イスラエルの10氏族も、
ヒンドゥーにはそれほど入りこんでいないように見える。
その代わりに、反バラモン的な釈迦を勝手に仏像化して、思想的に殺した。
バラモンにとって「カースト制度の維持」が何よりの課題だったから、
土着勢力を諭すために、ヴェーダを使用したのだろう。
私は土着思想に興味がないが、
エフライム族が記紀で、列島の歴史に自分たちを繋げる過程をみても、
支配には土着信仰の取り込みが有効。
(関係のない人同士を、勝手に関係あるように捏造するのは、よくある手口)
(私もこの手の詐欺から自分を守らないといけないのです。)
(かわいこちゃん好きは事実なので、捏造ではないです。)
メソポタミア、中華とは別系統の、
インダス・エジプト系シュメールの思考は、
インダス→ミタンニ→アマルナ→エルサレム、などの路線で、
ミトラ教、ユダヤ教、原始キリスト教に繋がった。
大雑把だが、このように仮定しておく。
転生と復活の類似
インドも神が多くて複雑なので、
今は深く追わないが、一つ訂正と、少しだけ推定。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-62.htm
「リグ・ヴェーダの賛歌に明らかに示されているように、
カースト制度の基本的な形式は、誕生ではなく職業に依存していたらしい」
↓
「リグ=ヴェーダ」の成立はBC1200-1000年頃で、
インダス文明滅亡後、何百年間か経過しているが、
「ヤマ」は伏儀としか考えられない。
インダスの伏儀信仰を、階級支配を正当化するための教説に徐々に変更し、
リグ・ヴェーダとして、庶民に普及させたと推定する。
リグ・ヴェーダ編纂の時点で、既にカースト制度が狙いにされている。
ミトラ、オシリス、キリストに繋がる、
伏儀の「復活」という思考は、インドの「転生」思想と近い。
インダス−エジプト・シュメールの思考は継続していると推定。
中華・メソポタミアは、「復活」「転生」のないバージョンのシュメール文化。
インダス系は神話体系を構築し、
メソポタミア系は泥泥した思考を持つ、シュメールの二つの枝分かれ。
個人的には、私は私で誰の転生でも代理でもありません、という立場で、
どちらかといえばメソ・中華型に近い思考をするが、
私自身は誰とも何処とも関係ない、ことが信条なので、
繰り返しますが、私は私。
区別なくただ面白い書物を求めて、勉強しています。
インダス型では「カラマーゾフの兄弟」。
メソポタミア型では「史記」。
この2冊が今のところ、私にとって最も重要な本です。
阿修羅はインダス系シュメールか。
ウィキペディア+私見
アスラとは、インド神話・バラモン教・ヒンドゥー教における神族または魔族の総称。
リグ・ヴェーダに見られるように、古代インドにおいてアスラは悪役的な要素はなく、
(インダス文明の担い手、アスラ)
デーヴァ神族(ヒクソス系?)の王インドラに敵対することもある天空神・
司法神ヴァルナの眷属を指していたが、
その暗黒的・呪術的な側面が次第に強調されるようになり、
時代が下った古代インドではアスラを悪として扱うようになる。
(インドの支配者がインダス文明からバラモンに変わったから。)
インド神話がバラモン教からヒンドゥー教へと発展し、シヴァ・ヴィシュヌが
新しく主神となると、アスラはヴァルナの眷属という設定が薄くなる。
そのうち、デーヴァ族(ヒクソス?)に敵対する種族であれば、
何でもアスラと呼ばれるようになった。
アスラが仏教に伝わると、呼び名が「阿修羅」と変わった。
ヴァルナは、ミタンニ・ヒッタイト条約文にその名があげられ、
『リグ・ヴェーダ』では友愛と契約の神ミトラと密接に結びつき、
ミトラとともに太古のアスラ族(インダス文明)、アーディティヤ神群を代表した。
ヴァルナは、ゾロアスター教の、アフラ・マズダーと起源を同じくする。
アフラは語源的にはアスラ(阿修羅)と共通とされる。
アーディティヤ神群は、女神アディティ(女カ系?)の息子たちとされ、
ヴァルナ、ミトラ(伏儀)を首領とする一群。
シヴァ(伏儀)の妻はパールヴァティー(女カ)で、
その間の子供がガネーシャ(キリスト)である。
また、シヴァ神の乗物はナンディンと呼ばれる牛(バール)で、
ナンディン(バール)も神として崇拝されている。
ヴァルナとミトラは表裏一体(白黒八卦で一体の伏儀)。
インドの神話が分かりにくいのは、
同じ神(伏儀と水共の対立)が、転生、化身、表裏一体などで、
色々な名の神に分裂するためと考える。
大まかに言えば、伏儀と水共の対立の派生と考えられると仮定。
インダス・エジプトの特色として、転生、復活、化身があり、
それがミトラ・キリスト教に繋がったという推論は既に述べた。
個人的には、私は集団、チーム、教え、などとは永久に無縁です(苦笑)
私と他人との関わりは、
1、かわいこちゃんへのおさわり
2、引用
3、茶飲み話
この3点のみ、という事実はすでに述べました。
これは永久に変わりません。
○○はカタカムナでワワ♪(秋刀魚釣り)
明日も調べ物あるね。
文学書とかわいこたむ生活はいつになることやら。
ガンダーラ、マトゥラの仏像仏教とチベット、吐蕃王朝、
大同などの経路を追いたい。
地図を見ると、ガンダーラもインドからは離れていて、
アレクサンドロスの流れは南下していないように見える。
アフガニスタン・キルギスなどに失われた10氏族が見つけられるのも、
北イスラエルによる仏像仏教の制作説と平行で納得。
地図は以下からガンダーラ。
http://www.inokozaka.co.jp/gandhara/0tiri.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002359.png
インド史をさらっと調べる。
以下、ウィキペディア+私見
十六大国
紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけて古代インドに形成され
相互に争っていた諸国の総称。
アーリア人の指導者によって率いられパンジャーブ地方に勢力を築いたのは紀元前1500年頃であり、彼らは先住民を制圧して牧畜生活を始めた。この時期から500年間で、カースト制の原型が形成された。
紀元前1000年頃からの後期ヴェーダ時代にはいると、アーリア人達はガンジス川流域にも勢力を拡大し各地に定着していった。ラージャンが優位を確立していき、部族の足場が数多く形成されて行った。
その後、紀元前6世紀に16国時代にいたる。
マガダ国は、カースト制度がなく、バラモン勢力と対立した。
釈迦の釈迦族を征服したコーサラと、マガダ国は対立関係にあり、
「ビンビサーラはコーサラの内部撹乱を目的として釈迦に対し出家を思いとどまるように
説得し、戦象を提供して支援することを申し出ている。しかし釈迦はこの申し出を
拒絶した。後にビンビサーラは仏教に帰依し、釈迦に対し竹林精舎を寄進している。」
ように、
バラモンと対立したマガダ国は、釈迦とも関係が深く、
インダス文明の流れと推定できる。
バールハドラタ朝−シシュナーガ朝(釈迦を後押し)−
ナンダ朝(紀元前四世紀、シュードラ(奴隷)の王朝)と、
マガダの流れにはインダス文明が残ったようだ。
同じマガダの地で、ナンダ朝を滅ぼして起きたマウリヤ朝については、
後に調べたい。
ガンダーラ国
紀元前6世紀後半にはアケメネス朝ペルシアの支配下に入っていた。
こうした点において、インドの他の地域とは異なる運命に置かれた国である。
マツヤ国
伝説によれば、太陽神スーリヤの息子マヌ王(伏儀)に、
7日後に大洪水が起こり全ての命を破壊する事を予言した、
ヴィシュヌの第一の化身の大魚。
「彼(伏儀)に船を用意して七人の賢者と全ての種子を乗せるよう言うと
魚は姿を消した。やがて大洪水が起こり、マツヤは船にヴァースキを巻きつけて
ヒマラヤの山頂まで引張った。こうしてマヌは生き残り人類の始祖となり、
地上に生命を再生させた。」
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002360.png
チャンドラクプタはアレク3世の流れか?
マウリヤ朝の背後関係には裏があるかもしれないのですが、
わかる範囲でさらっと調べます。
紀元前317年頃 - 紀元前293年頃
チャンドラグプタが、シュードラ系のナンダ朝を滅ぼす。
ナンダ朝で「身分秩序が乱れていた」ことが背景と、ウィキには書かれている。
「なおギリシアのプルタルコスはチャンドラグプタが挙兵以前の青年時代に、
インドに侵入したアレクサンドロス大王と出会ったという
逸話を伝えているが確証はない」
↓
この記述が気になる。北西インド地方で彼は挙兵したが、
アレクサンドロス3世は、在位前336年 - 前323年で、
チャンドラクプタの挙兵と5,6年の差しかない。
「ペルシャ帝国を征服したアレクサンドロスは、次にインドへの遠征を目指した。
紀元前326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、ヒュダスペス河畔で
パウラヴァ族の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、
部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした」
わけだが、
その10年後に同じインド北西部から反乱を起こして、
インダス系王朝を倒したチャンドラクプタが、
プルタルコスによると、アレクサンドロスと会っていた、と記述している以上、
マウリヤ朝にアレクサンドロスの残党の関与の可能性は浮かぶ。
紀元前305年、セレウコス一世の侵入を撃退。
セレウコスもわかりにくい国だが、匈奴+南ユダと仮定しているので、
北イ系の可能性が高いマウリヤ朝との対立は納得。
ガンジス川流域とインダス川流域、更に中央インドの一部を含む
インド史上空前の巨大帝国を形成した。
ジャイナ教系の記録によればチャンドラグプタは晩年ジャイナ教を厚く信仰した。
ジャイナ教は、仏教の開祖釈迦とほぼ同時代のマハーヴィーラを祖師と仰ぎ、
特に不殺生の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られる
インドの宗教。
ヴァルダマーナは当時の自由思想家の一人として、バラモン教の供犠や祭祀を批判し、あわせてヴェーダの権威を否定して、合理主義的な立場から独自の教理・学説をうち立てた。
↓
バラモン(アーリア系インド上流階級)とヴェーダ(伏儀の痕跡が残る)を、
共に否定したジャイナ教は、アレクサンドロスの流れの、
チャンドラクプタには心地良かった、という仮定をしておく。
アショーカ王もアレクの流れか?
以下、ウィキペディア+私見
チャンドラクプタの孫、
アショーカ王が紀元前268年頃に即位。
紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征をおこなった。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。
カリンガ国は歩兵6万、騎兵1千、戦象7百を擁する一大勢力であったが、
恐らくインダス文明の流れであろう。
アショーカ王の石柱は、表面にサンスクリット語やギリシャ語が刻まれている。
↓
アレクサンドロスの残党の後押しがあったか?
彼は即位後、大量の兄弟や部下を殺しているが、
マウリヤ朝内にも、アレクサンドロス派、バラモン派など、
派閥争いがあったと仮定しておく。
「ある伝説ではビンドゥサーラの剃毛師をしていたダンマという女が
チャンパーのバラモンの娘であったことが発覚したため正妃とされ、
ビンドゥサーラとその女の間にアショーカが生まれた」
↓
このチャンパーが何処を指すのかわからないが、
始皇帝と同じような、出自の疑惑の可能性が浮かぶ。
その女がアレク派の手先だったなど。
「ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラで発生した反乱に際して
アショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせた」
↓
やはりアショーカを、
マウリヤ朝の内紛の一派が後押ししていた可能性を仮定しておく。
アショーカは仏教の庇護者として著名だが、
「仏教の教えを広めるためにヘレニズム諸国やスリランカに使節を派遣した」
↓
彼の仏教はヘレニズム=アレクサンドロスの流れを受けて、
北イスラエル化し始めた仏教である可能性を仮定しておく。
マイルストーンもアショーカ王によって設置された。
↓
マイルストーン(Milestone) とは、とは、
鉄道や道路等の起点よりの距離をマイルで表した距離標識の一つ。
ローマ帝国が、主要な街道に置いたのが始まり、
で、
紀元前3世紀のマイルストーンを置いたアショーカ王に、
ローマ帝国(マナセ族?)との関係の深さを仮定できる。
マウリヤ→ジュンガ
以下、ウィキペディア+私見
アショーカ王の死後、
王位継承の争いがあったことが知られているが、
王統をどのように再構築するかは容易に結論が出ない問題であり、
ともかくマウリヤ朝は分裂・縮小を続けた。
やがて北西インドで勢力を拡張するヤヴァナ(インド・ギリシア人)
の圧力を受けるようになった。
「…暴虐かつ勇猛なヤヴァナはサーケータを侵略し、パンチャーラ、マトゥラーも侵し花の都(パータリプトラ)にも到達するであろう。そして全土は確実に混乱するであろう。…
」
↓
このインド・ギリシア人が、チャンドラクプタ、アショーカを後押し、
その後、マウリヤ朝を分裂の原因となった、
アレクサンドロスの流れではないか、というのが私の仮定。
マウリヤ朝の将軍だったプシャヤミトラがギリシア人との戦いの中、
頭角を表し、マウリヤ朝を滅ぼしてジュンガ朝を起こす。
シュンガ朝はバラモン勢力
以下、ウィキペディア+私見
マウリヤ朝最後の王ブリハドラタに仕えたプシャヤミトラ・シュンガは
紀元前180年頃にブリハドラタを暗殺し自ら王位に付いてシュンガ朝を創設した。
インドの文献の多くによれば「シュンガ」はバラモン姓。
マウリヤ朝はその末期には分裂状態にあり、プシャヤミトラもかつてマウリヤ朝が支配した領域全てを制圧するには到底到らなかった。特に中央インドでは新たにウィダルパ国が創建されシュンガ朝の強力な敵となった他、北西インドにはギリシア人が勢力を持っていた。
↓
北西インドのギリシア人は、アレクの流れ。
ウィダルパ国については、情報が見付らない。
プシャヤミトラは仏教を手厚く保護したマウリヤ朝とは一線を画し、
仏教教団を弾圧してバラモン教の復興に努め、バラモン教的な儀式を好んで執り行った。
↓
前1500年にインドに侵入したバラモン系アーリア人と、
アレクでインドを狙い始めたヘレニズム仏教徒=北イ系の争い。
ジュンガ朝はバラモン系。
ヤヴァナ(ギリシア人)の王がサーケータ市とマディヤミカー市を包囲したとあり、
これはプシャヤミトラ治世下のことであったと考えられている。
このギリシア人はバクトリア系の集団であったと考えられている
↓
バクトリアはエフライム族、マナセ族と推定したが、
バラモン系アーリア人と対立してインド南下を狙ったようだが、
同じヒクソス同士で、バラモン系アーリア人も強いので、侵入しにくいようだ。
ジュンガ朝は部下に倒され、カーンヴァ朝が起こるが、
勢力は同じバラモンで、
実際にはカーンヴァ朝時代にもシュンガ家が何らかの影響力を保持していた。
サータヴァーハナ朝がカーンヴァ家を滅ぼすが、
北西部にはクシャーナ朝が起こっている。
一つずつ追いたい。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002364M.jpg
ベニヤミン系クシャーナ朝
以下、ウィキペディア+私見
クシャーナ朝は1世紀から3世紀頃まで栄えた王朝。
紀元前2世紀に匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民、月氏はバクトリアに定着した。
これを通例、大月氏(ベニヤミン)と呼ぶ。
このうち最も強大だったのは貴霜翕侯(クシャーナ)であった。
クジュラ・カドフィセスは、
アフガニスタン・バクトリアの北イ勢力と共同統治をする一方で、
これらを征服し、中央アジアにおける北イ系ギリシア人を叩いたが、
バクトリア地方の大部分は依然、北イ系の支配下にあった。
インドのパルティアと勢力争いをしていたが、
ガンダーラを奪取。
カブール周辺とガンダーラの支配は、後のクシャーナ朝の拡大の基盤になった。
その子、ヴィマ・タクトは、
北西インド、北部バクトリアを獲得した。
ヴィマ・タクトの発行したコインには、
ギリシア語で「ソテル・メガス(偉大なる救済者)」と言う称号が刻まれているが、
クシャーナ朝も南ユダ勢力なので、ギリシア語を使用したわけだ。
ヴィマ・タクトの孫(王朝交代説あり)
カニシカ王はガンダーラ仏教で著名。
ペシャワールに都を置いた。
カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラやネパールのカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。
ガンダーラ等を中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。
この時代に史上初めて仏像も登場している。
ガンダーラ仏像仏教は、ベニヤミンが作ったわけだ。
カニシカ王以降の記録は少ないが、
カニシカの3代後、
三ヴァースデーヴァ1世(波調)は魏に使節を派遣し、
親魏大月氏王の金印を贈られている。
倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印として有名。
↓
魏は匈奴+南ユダと推定。
倭国もフェニキアで南ユダ系。
クシャーナ朝もベニヤミンなので、
この三カ国の関係は納得がいく。
ガンダーラとマトゥラーの違いについては後に追いたいが、
自分の話をしますが、
文学者、思想家、そして一人の人間として、
私は仏像仏教は間違っていると考えています。
文学者、思想家は、文章のみを扱う仕事。
文学者、思想家が、像、映像、音声に結び付けられてしまうことは、
文章による作品のみを扱う文学者、思想家にとって、
無意味どころではなく、有害なのです。
少なくとも黒塗りあふぅの場合は、
私を像、映像、音声と結びつけることは、
まず、文学者、思想家の姿勢として禁じています。
次に、史上最も低俗な集団ストーカーに、犯罪を行なわれた個人としても、
プライバシーと自分の人生を守るために、
自分が像、映像、音声と結び付けられることを、禁じます。
黒塗りあふぅ、私は盗聴、盗撮の被害にあっていますが、
本人の意思として、永久にその音声、映像の使用を禁じます。
この決定は、誰にも、永久に変更できません。
私が禁じているからです。
俳句ダービーでの書き込みは、限定的に引用を許可していますが、
その条件については、既に書き込みましたので、そのルールに従ってください。
俳句ダービー以外の書き込みは、引用も禁止します。
サータヴァーハナ朝は、バラモン+ドラヴィダか?
以下、ウィキペディア+私見
サータヴァーハナ朝(前3c?前1c?〜後3c初頭)
パックス・ロマーナ期のローマ帝国と盛んに海上交易を行い、商業が発達した。
この時期の遺跡からは、ローマの貨幣が出土することで有名である。
王たちは、バラモン教を信仰したが、仏教やジャイナ教も発展した。
↓
クシャーナ朝もそうだが、サータヴァーハナ朝もローマとの交易で潤う。
バラモン教は前1500年からのアーリア系の可能性をしめすが、
ヴェーダ文献ではアーンドラ人はダスユ(夷狄 非アーリア人)と呼ばれており、
恐らくドラヴィダ系の集団であったといわれているので、私にはわからない。
前1世紀頃にカーンヴァ朝、ジュンガ家(バラモン勢力)を滅ぼして台頭する。
その後、2,3代のあいだに勢力を伸ばすが、
マウリヤ朝によって滅ぼされたドラヴィダ系カリンガの流れが、
マウリヤ朝の衰退をみて、チェーティ朝が起こされていて、
サータヴァーハナ朝はその攻撃を受け混乱。
1世紀頃まで歴史はほとんどわからなくなる。
サカ族(スキタイ?匈奴?)に圧迫されていたが、
ガウタミープトラ(106年頃 - 130年頃)が、
クシャーナの流れから中央インドを奪取、
更に西北インド方面に力を持っていたサカ人、ギリシア人、パルティア人に対抗して
これを抑え、デカン高原のほとんど全域を支配下に置いた。
↓
バラモン教を重視し、スキタイ、北イ、イラン、ベニヤミンと対立した、
サータヴァーハナ朝は、前1500年からのアーリア勢力と推定できる。
その後もクシャトラパ(クシャーナの流れ)と抗争を続けるが、
3世紀にに入ると中央政府の統制力は弱まり、
地方に派遣されていた王族や諸侯達が各地で自立して急速に崩壊した。
アーンドラ人は非アーリア系であると推定されているが、
サータヴァーハナ王家がドラヴィダ人の母系家族制の影響下にあったことも知られている。
バラモン教を基本としながら、仏教も保護されたのは、
アーリアとドラヴィダの妥協王朝だったためと仮定しておく。
地図は以下のサイトから、デカン高原。
http://www.saiyu.co.jp/osusume/110/india_dekan_ajanta_.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002366M.jpg
マガダ→カリンガ→チェーティ朝
以下、ウィキペディア+私見
マガダ→カリンガ→チェーティ朝は、
マウリヤ朝(アレクの流れ)、
ジュンガ朝(バラモン教アーリア)に対し、
インダス文明の流れを組む。
チェーティ朝がどのように権力を得て成立したのかは分かっていないが、
第3代の王と考えられているカーラヴェーラが、
バラモン系、サータヴァーハナ朝を攻撃、
ギリシア系のグレコ・バクトリア王国をも圧倒し、強勢を誇ったチェーティ朝は、
暫くの間、有力勢力として存続していたと考えられるが、
記録が少ないためによくわかっていない。
タミル系のチョーラ朝、パーンディア朝
以下、ウィキペディア+私見
チョーラ朝は、タミル政権で、
1〜3世紀頃にカーヴェリ河畔のタンジャーヴールよりやや上流のウライユールに首都をおき、全インドを征服したとかセイロン遠征をして多くの捕虜を連れ帰ったというカリカーラ王の伝承で知られている。
http://www16.plala.or.jp/vierzehn/P19_22.pdf
南端部にチョーラ朝,最南端部にパーンディア朝が存在→タミル語文学の発展
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/EurasiaBC2.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002368.jpg
サータヴァーハナ朝の分裂後
以下、ウィキペディア+私見
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/andhra.html
アーンドラ王国(=サータヴァーハナ朝)は、
「3世紀初め 西北のサカ族との争いが続き、王国は衰亡、分裂。
王国西部(ナーシク地方) → アービーラ朝
王国東部(アーンドラ地方) → チュートゥ朝
王国南部(クンタラ地方) → イクシュヴァーク朝……3世紀にアマラーヴァティを首都として仏教栄える。
これらの小王朝も長続きせず、デカン地方はヴァーカータカ朝の勢力下に入る。
また東南部海岸地方にはパッラヴァ朝が興隆。」
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/b/krsna.htm
「「クリシュナ」(kRSNa)は、もとは「黒」を意味する形容詞である。肌の色が黒いためこの名がある。クリシュナは、ヴィシュヌの化身のうちでも、ラーマとともに民衆にもっとも人気があり広く信仰されている。
クリシュナも、ヴィシュヌに劣らず多面的な神で、いくつかの異なる神が複合されて成立した。クリシュナ信仰の成立と発展の過程はきわめて複雑で、西インドのいくつかの部族の神々が合体して多様な相をもつに至ったと推定される。正確なところは不明であるが、クリシュナを構成する主な要素として、次のようなものがあげられる。(1)ヤーダヴァ族の英雄クリシュナ、(2)ヴリシュニ族の一神教的なヴァースデーヴァの信仰、 (3)アービーラ族の牧童(ゴーパーラ gopAla)の信仰、さらに、(4)正統バラモン思想の伝統との融合によるヴィシュヌの化身としての信仰である。
(3) アービーラ族の牧童(ゴーパーラ gopAla)の信仰は、マトゥラー周辺に広まっていたと考えられる。現在もマトゥラーの北には、クリシュナの生誕地とされる所があり、そこにはクリシュナ・ジャナム寺院が建てられている。また、マトゥラー西北のヤムナー河畔にあるヴリンダーヴァンは、クリシュナが牧女たちと遊び戯れた森のあったところとされる。そこには寺院が多く建ち並び、クリシュナ信仰の中心地となっている。」
「インドでのクリシュナ人気は、非ヒンドゥー教のさまざまな逸話を吸収したことが大きい。」
↓
クリシュナはインダス系の神のようですが、
アービーラ朝はクリシュナ信仰で、マトゥラ−にも関わるらしい。
以下のサイトによると、
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/syakanyoraino.htm
マトゥラ−坐像の、
「釈迦如来の両脇には脇侍、台座前面の中央、両脇には獅子が浮彫りされております。
この獅子が台座から独立して、中国、日本で変化したのが唐獅子、狛犬、獅子舞、
沖縄のシ−サだったりするのであります。」
↓
仏像はアレクの流れのギリシア彫刻を取り入れた物だが、
獅子は狛犬にも繋がるシュメールの流れと推定できるので、
マトゥラにはクリシュナ+狛犬というシュメールの痕跡も残る。
以下のサイトから抜粋しつつ、私見。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage18.htm
「汝、偶像を祀るなかれ、の戒めを与えたヤーウェ神の国である筈の大ユダが、
何故、偶像仏教の導入を許すことになったのでしょうか」
↓
ヤーウェはシュメールの神。大ユダは南ユダ系でイナンナ派の倭人。
「既に、太子の頃の大ユダでは、ミトラ神崇拝という偶像崇拝が蔓延っていたからです。
ミトラは、大ユダでは、「マトゥラ」と呼ばれていました。」
↓
インダス−ミタンニのミトラ教は、偶像崇拝に繋がり、
ベニヤミンなどはミトラをマトゥラを呼ぶ、と彼は論じているようだ。
「後に、マトゥラ神像は、天台宗の仏寺に安置されて残ることになりました。
延暦寺に祀られている「摩多羅神」や、京都太秦広隆寺の牛祭りの祭神ともされる摩多羅神の由来は不明と言われていますが、共に大ユダ時代のマトゥラ崇拝の名残りなのであります。」
↓
牛祭りはバール信仰、マトゥラ像には狛犬もいる。
仏教はよく知らないのだが、天台宗はマトゥラ系と彼は論じている。
摩多羅神はどうやら、ダビデ崇拝(イナンナ系救世主思考)であり、
「マトゥラ崇拝が戦勝祈願の為の軍人教であったから…
偶像崇拝を禁じた教えが説かれていた大ユダに、
マトゥラ偶像崇拝が蔓延るようになった…
卑弥呼の時代には隆盛を誇っていたのであります。」
↓
邪馬台国は親魏倭王で、南ユダと関係が深いと推定するが、
ベニヤミン系クシャーナ朝が、同じく親魏大月氏王の金印を贈られている。
クシャーナ朝のカニシカ王の時代に、
ガンダーラ、マトゥラーで初めて仏像が制作されているので、
マタラ、ミトラ、摩多羅の音が同じというだけでなく、
勢力の背景から、同一の物である可能性も仮定できる。
「「魏志倭人伝」に記されている「末櫨国」(末羅〔記〕、松浦〔紀〕)は
ヘブライの部族名ではないので、マトゥラに充てたものでありましょう…
大ユダの兵士の多くがマトゥラ崇拝者であったことがそうした命名、
或いは通称名に繋がったのでしょう。
九州の北部は対馬列島と並んで、防衛の拠点であったことが考えられますが、
大ユダはそれらに軍を置いて、朝鮮海峡から対馬海峡を経由した
大陸からの侵入者に対して備えていたのであります。」
↓
彼の言う大ユダを倭人と理解して、
同じ南ユダ系勢力のマトゥラで起こった偶像崇拝が、
倭人の北九州王朝の地名にも残ったという説は、
可能性としてはありうる。
ただ、インド−エジプト型のシュメールの流れには、既に推定したように、
ミトラ−キリストなど、メソポタミアや中華と比べて、
偶像崇拝にまで繋がる特徴的な側面があり、
アレクサンドロスの北イのギリシア彫刻など、
非シュメール的な発想が混じって、
仏像仏教が作られてしまった、と考える。
この仏像という発想は、北イスラエルから来たのではないか?
個人的には仏像という思考は嫌いです。
彫刻と思想は異質です。
画像は以下のサイトから、マトゥラ−坐像。下に狛犬の元がいる。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/syakanyoraino.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002369M.jpg
クシャーナが衰退した時代
以下、ウィキペディア+私見+以下のサイトから抜粋
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/gupta.html
グプタ朝
クシャーナ朝衰退後マガダ地方から興る。
西暦320年から550年頃まで栄えた王朝である。
チャンドラグプタ1世の基盤、マガダの地は、
かつてマウリヤ朝を建てたチャンドラグプタが基盤とした土地でもあり、
それを継ぐ者という意識を持っていたようである(ただし、
チャンドラグプタとチャンドラグプタ1世の間に血縁などの関係は全くない)。
2代目はデカンのヴァーカータカ朝と姻戚関係を結んで、
南インドにまで政治的影響を及ぼすこととなった。
3代目のチャンドラグプタ2世は、
イラン系のサカ朝(西クシャトラパ)を下し、
ヴァカタカ朝やパンジャーブ諸国を臣従させた。
この時期、東晋の僧、法顕が訪れている。
なお、この頃、ヒンドゥー教が台頭し、仏教文化は衰退を始めた。
第4代クマーラグプタ1世(位415年頃〜455年)の治世は、
玄奘や義浄も学ぶことになるナーランダー僧院が設立されたことで知られるが、
遊牧民エフタルの侵入によって衰退。
その後は分裂し550年に滅亡。
エフタルは、白いフン、白匈奴。
5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力を
滅ぼしてトハラ(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。
隣接するサーサーン朝と渡り合い、インドへと侵入してグプタ朝を脅かし、
グプタ朝の衰亡の原因を作った。
6世紀の前半には東はタミル盆地のホータン、
北ではテュルク系遊牧民の鉄勒、まで支配下においた。
しかし6世紀の中頃に、鉄勒諸部族を統合した突厥と、
サーサーン朝に挟撃されて滅ぼされた。
エフタルが単純に匈奴なのかどうかは、私にはまだ分からないので棚上げ。
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/ephthal.html
「= 起源 =
トルコ系 (モンゴル系) 説……元来トルコ系またはモンゴル系で、
天山・アルタイ山脈方面から興り、ソグディアナ・バクトリア地方へ南下。
イラン系説……クシャン族と類縁のイラン系で、アム・ダリヤ上流の
バダフシャン東方またはヒンドゥークシュ山脈方面から現れた。
高車説……中国文献は大月氏または高車の一種で、金山(アルタイ山脈?)
から南下しアム・ダリヤ上流に建国したと伝える。
いずれが正しいか、定説はないが、遺跡調査などからはイラン系説が有利。」
鉄勒、突厥については後に調べるが、
平御幸により突厥はベニヤミン。
クシャーナ朝の衰退によりガンダーラ文化は衰えて、
グプタ様式が盛んになる。
サンスクリット文学は最盛期の時代で、二大叙事詩である
「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」、カーリダーサの戯曲「シャクンタラー」
などが生まれる。マヌ法典も完成した。
アジャンター石窟はグプタ・ヴァーカータカ朝に再び活動を始めているが、
バラモン+ドラヴィダのサータヴァーハナ朝時代に開かれたもの。
グプタ朝は、
ヴィシュヌ神を信奉し、バラモン教を国教に、サンスクリット語を公用語にした。
↓
バラモンが支配層、インダス庶民をヴィシュヌ神で取り組みつつ、
アレクサンドロスの流れに対抗した王朝と仮定しておく。
その形式はサータヴァーハナ朝と同じ。
ただし、マウリヤ朝を意識していたように、
インダス勢力を好ましく思ってはいなかったように見え、
勢力の拡大と同時にヒンドゥー教が盛んになり、仏教は衰えている。
勢力が安定したので、インダス勢力の力を切り捨てたと仮定したい。
基本的には前1500年に侵入したアーリア系バラモンの王朝と推定。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/Eurasia4C.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002370.jpg
インドとチベットのエロスの起源
インドからチベットを調べようと思っていたのですが、
その時代の前に、パルティア、ササン朝という大国が隣接しているので、
先にパルティア、ササン朝を調べます。
雑談ですが、
ベニヤミンは聖母信仰のためか、ストイックに見え、
メソポタミア・中華もエロスは好きだが、
性にのめり込んで、堕落することを諌める論調が多い。
私にとっても、エロスは読書の次に大切ですが、
あくまでも動物的な欲求にすぎず、強い動物的欲求であることを認めつつ、
理念や文学、思想として追求する価値はないと考えます。
一方、北イ系の文化は、ストイックさ、文化への反抗から、
他人のプライバシーや性の明け透けさ、盗み撮りを好むように見える。
対して、インド・チベット文化には、官能の側面があるようにみえる。
「アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだサールナート派の仏像が知られる」
「マハーシャーナカ王子が世俗の快楽を捨て去る決心をして、妃シヴァリーが踊り子たちとともに出家を思いとどまらせようとするが、引き止めきれず、王子はゾウの背に乗って王宮を去り、残された妃は深く絶望し、奴隷たちに囲まれて快楽にうずもれてゆくという場面である。」
アジャンター石窟の壁画を見ても官能的。
チベットよりも先に、少なくとも四世紀の時点で既に、
官能への志向がみられる。
これは、シュメール、北イ系のヒクソスとも違う、
前1500年に侵入したが、インダス系の釈迦の勢力が抵抗する。
その釈迦の禁欲への、インド−バラモンによる対抗が起源なのだろうか?
これはまだわからないので仮定です。
仏教はよく知らないのですが、
ベニヤミン系の仏像仏教とインドの仏教絵画の雰囲気が全く違うことに、
驚いたことがあって、よくわからないので一つ雑談しました。
バクトリアの残党がクシャーナ朝に残って仏像に繋がる。
以下、ウィキペディア+私見
バクトリア(紀元前255年頃 - 紀元前139年頃)
ギリシア人王国でヘレニズム国家の代表。
紀元前228年頃、同じくセレウコス朝より独立した、パルティアと同盟を結び、
西方を固めた。この同盟は、紀元前189年まで続いた。
紀元前2世紀に入ると、ガンダーラを占拠し、
北西インド進入し、パンジャーブ地方支配した。
しかし、このときセレウコス朝の支援を受けた、エウクラティデス王が
バクトリア本国を奪い、パルティアのミトラダテス1世によって侵入される。
しかしインドに進出したデメトリオス王はインド侵略を続け、
バクトリア王国の最盛期を築いた。
メナンドロス王(〜紀元前145年)はバクトリアから分裂し、北西インドを支配した。
この王は哲学議論好きとして知られ、仏僧のナーガセーナと議論を交わし、
最後に仏教に帰依したと言われている。これは仏典『ミリンダ王の問い』。
パンジャーブ地方を拠点とし、ガンダーラ地方、マトゥーラまで支配し、
シュンガ朝を攻撃した。
その後、バクトリア本体は、この二つの分派を制圧し取り戻す。
しかしその後、トハラ族、サカ族、パルティアの侵入を受け弱体化し、
1世紀初めにクシャーナ朝の侵入によって滅ぼされる。
このとき、インドのギリシア王朝、バクトリアは滅びたが、
ギリシア人はその後もこの地域に住み続け、
クシャーナ朝期のガンダーラ美術に大きな影響を与えた。
↓
アレクの流れのバクトリアの残党が、ベニヤミン系クシャーナ朝において、
仏像仏教が生まれる一因となっているので、
仏像へのギリシア彫刻や北イスラエルの影響は間違いない。
地図は以下のサイトから、グレコ・バクトリア
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/hensen1.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002372M.png
パルティアの概略
以下、ウィキペディア+私見
パルティア(紀元前247年頃 - 226年)
紀元前3世紀なかごろにセレウコス朝の支配力が衰え、バクトリアが独立した。
これとほぼ同時にアルサケス1世と弟のティリダテス1世が指導者として独立。
この後、セレウコス、バクトリアとの勢力争いに入り、
ミトラダテス1世(前秦の符堅)が、
バクトリア、メディア地方、セレウコス朝の中核地帯であるバビロニアを攻略した。
しかし、この広い征服地域に、アレクサンドロスの残党、
ギリシアのマナセ族、エフライム族を抱え込み、
彼らは親セレウコス朝、親ローマの政治傾向が強く、
パルティア内部の親ローマ派(マナセ族)の勢力の支持母体となっていた。
↓
セレウコス朝はアレクサンドロスの部下から始まる匈奴系だが、
パルティアがローマ帝国(マナセ族)と対立する時点では、
北イ勢力と仲が良いようだ。
セレウコス朝は匈奴+南ユダと推定したが、
推定を取り下げて、未だ不明に戻す。
南ユダの勢力も入り込んでいるように見えるが、政権による変化があるのだろう。
ミトラダテス1世はその後、インド北西部までを制圧した後、没する。
その後、マナセ・エフライム族の支援を受けて、
セレウコスの「ギリシア人王」(セレウコスは北イ系に変わったのだろう。)
が、メディア地方、バビロニアを取り返すが、
パルティアはこれを鎮圧する。
ミトラダテス2世は、
サカ族、ギリシア人、トハラ族(大月氏)、セレウコスと争いつつ、
パルティアの最盛期を作る。
前53年、三頭政治のローマ帝国を、
カルラエの戦い(第1回パルティア戦争)で破るが、その後、
ローマ帝国、アラン人(?サルマタイ)との争いを続けるが、
紀元後、198年、第7回パルティア戦争に敗れたのちに内紛をおこし、
第8回パルティア戦争でローマを撃退するものの、
混乱はますます激しさを増し、全土に反乱が多発する。
220年、それに乗じたペルシア王アルダシール1世はパルティアを侵攻。
サーサーン朝を設立した。
パルティアは、トハラ(大月氏)と闘っているが、
ローマ帝国(マナセ族)と対立し続けた南ユダ勢力と仮定。
東で対応する前秦がチベット系、氐族なので、
パルティアも同じ民族と仮定。
インド−イランの南ユダ系シュメールのミトラ教の影響が強く見られそうで、
ミトラダテスの「ミトラ」は、ミトラ教で、南ユダ系だろう。
ミトラ教もわかりにくいが、ゆっくり時間がとれたら、
東條真人さんの研究に目を通して勉強しようと思っているが、今は棚上げ。
地図は以下のサイトから、前2世紀のミトラ教分布。赤丸はミトラ教の中心地。
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_History_West.html
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002373.jpg
スパルタクス、ベニヤミン
紀元前73年から紀元前71年にかけてイタリア半島で起きた、
ローマ帝国への反乱。
スパルタクスはトラキア人の剣闘士奴隷。
「シチリア島に渡ろうとしたものであるが、何らかの理由により船が現われず失敗した。
スパルタクスは以前にも奴隷の反乱が起きたこの島を
拠点にしようとしていたと考えられている。」
↓
スパルタクスはベニヤミンで、シチリア島は加羅に当たるからか?
「反乱軍に加わったおよそ6000人の奴隷が捕虜となり、カプアからローマに向かう
アッピア街道沿いに生きながら十字架に磔にされた(この刑罰は同時のローマの
非市民に対する極刑に値する。イエス・キリストも同じ刑を受けている)。」
↓
原始キリスト教の十字はカタカムナの十字と仮定したが、
ローマ帝国(マナセ族)にとって、対外勢力は伏儀、ということで、
十字架にかけたのだろう。
スパルタクスがベニヤミンだとすれば、十字は伏儀、
イエス・キリストは子供に当たるので、十字架に相応しい勢力。
以前、ドーリア人(ベニヤミン)の奴隷思考が強いと述べて、
タルムードの「ゴイム(家畜)」という発想からも、
その傾向は強いと考えるが、
スパルタにおいてドーリア人が奴隷にしたのは、
100年前に、ミュケナイ文明を壊滅させたアカイア人(ヒクソス)なので、
スパルタにおいては、復讐としての動機は理解できる。
興味深いことに、
「ドイツの左派マルクス主義者たちによる政治団体。
第一次世界大戦中に発足した。ドイツ共産党の前身」が、
スパルタクス団。
「1917年のロシア革命をスパルタクス団は熱烈に歓迎し、
世界大戦は世界革命に転化し始めた、と判断し、
ドイツに革命を普及させるべく、
「ドイツ共産党(スパルタクスブント}」を作った。
ロシア革命がユダヤ革命という飛鳥昭雄の情報は、
スパルタクス、ベニヤミンの繋がりからも納得できる。
スパルトイは、テーバイ人の始祖カドモスが、
牡牛をアテナ女神(イナンナ)に捧げる為、障害の竜を退治したが、そのアテナ女神に、
退治した竜の歯を大地に蒔く事を薦められ、薦めに従い歯を大地に蒔いたところ、
地中から武装した男達が現われた。アレス(伏儀)に怒られたものの、
スパルトイはイナンナ信仰の戦士であり、ベニヤミンにつながるのだろう。
ちなみに私は私、誰とも、どの集団とも、関係はありません。
魔王→閻魔→ヤマ→伏儀…
エラム人、アーリア人の対立を抜きに、
東西の対照時に、イラン人を匈奴と推定していましたが、
非イスラエル系の遊牧民の区別は、未だそれほど行なえていません。
ササン朝とローマ帝国を、ミトラ、キリスト教を調べつつ調べます。
以下の地図の、よくわからない勢力を順番に追っていこうと思います。
ストーカーから逃げ切るまでに、21世紀まで調べきれないといいのですが(苦笑)
逃げ切れば、首切り娘、魔王とデートあるよ…
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/Eurasia4C.htm
(無題)
…
BC2000頃 アブラハム(ヘブライ人の祖)がカナーンに定着
BC1900頃 エジプトの呪詛文書に「エルサレム」登場
BC1700頃 ヘブライ人の一部がエジプトへ移住
BC1250頃 モーセの出エジプト、ヤハウェより「十戒」を受ける
BC1200〜BC1020 ショフティム(士師)時代
BC1020〜BC928 王政時代(サウル、ダヴィデ、ソロモン)
BC1004 ダヴィデがエルサレムに遷都
BC958 ソロモンがエルサレム第一神殿起工
BC928頃 北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂
BC722 イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされる
BC586 ユダ王国が新バビロニア王国に滅ぼされる。バビロン捕囚。第一神殿崩壊
BC538 ペルシア皇帝キュロス2世がバビロンのユダヤ人にパレスチナ帰国を許す
BC515 エルサレム第二神殿完成
BC323〜BC200 プトレマイオス朝エジプトのパレスチナ支配
BC200〜BC143 セレウコス朝シリアのパレスチナ支配
BC142 マカベア戦争によりユダ王国再建、ハスモン朝時代(〜BC63)
BC64 ポンペイウスによりユダ王国はローマの属領となる
BC37 ヘロデ大王、ユダヤ人の王として即位。
BC20 ヘロデ大王、第二神殿を大々的に改築
AD6 ローマの直轄統治下に入る
30頃 イエス刑死
66〜70 第一次ユダヤ戦争
70 ティトゥスがエルサレムを破壊。第二神殿崩壊
132〜135 第二次ユダヤ戦争。ユダヤ人はローマによりパレスチナから追放される
395〜636 東ローマ(ビザンツ)帝国によるパレスチナ支配
610 ムハンマド、アッラーより啓示を受ける
622 ムハンマド、メッカからメディナに聖遷(イスラム暦元年)
632 ムハンマド、エルサレムのアル・アクサー寺院で昇天(コーランにはそう書いていない)
638 イスラム軍、エルサレム占領(1091年までイスラム支配)
691 ウマイヤ朝のカリフ、アブドゥル・マリクが、第二神殿があった丘に岩のドームを建設※1
715 ウマイヤ朝のカリフ、ワリード1世がアル・アクサー寺院を建設※2
1091 十字軍がエルサレム占領
1099 フランスの十字軍参加貴族ゴトフロワ4世が、「聖地の守護者」としてエルサレムを支配。アル・アクサー寺院を王宮とする
1189 アイユーブ朝のサラディンがエルサレムを奪回
1228〜1229 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が一時エルサレムを奪回
1229〜1250 アイユーブ朝のパレスチナ支配
1250〜1517 マムルーク朝のパレスチナ支配
1517〜1920 オスマン=トルコのパレスチナ支配
1920〜1948 イギリスがパレスチナを委任統治領とする
以下保留
※1 第二神殿があった丘、つまり「神殿の丘」に岩のドームが建設されたのであって、第二神殿の跡地のすぐ上に建てられたわけではないらしい。岩のドームの中には、アブラハムが子のイサクを神に捧げようと横たえた岩がある。それは世界が築かれた「基礎石」と呼ばれ、元々、神殿の丘はモリヤ山の山頂であったといわれている。その岩の上からムハンマドが大天使ガブリエル(イスラム教ではジブリール)に連れられて昇天したとイスラム教ではいわれ、その岩にムハンマドの足跡とガブリエルの手の跡なるものが残っているらしい。
・・66〜70 第一次ユダヤ戦争 このあとの・・70 ティトゥスがエルサレムを破壊。第二神殿崩壊 ・・ユダの拡散ということではこの辺が決定的ではなかったか。
132〜135 第二次ユダヤ戦争。ユダヤ人はローマによりパレスチナから追放される
(無題)
>・・ベニヤミンの都市、ギブアでの蛮行(19:1-28)。イスラエルの四十万人の戦士がミツパに集結し、ギベアを攻め滅ぼすことを決定する(19:29-20:11)。ベニヤミンの他の都市の者たちはギブアを滅ぼすことに同意せず、二万六千人の戦士がギブアを救うために集結する(20:12-16)。最初の二日間はベニヤミンが優位に戦い、イスラエルの四万人が戦死する(20:17-29)。三日目に、ベニヤミンの二万五千百人が戦死し、六百人の戦士がリモンの岩場に逃れる(20:30-47)。ベニヤミンの全ての都市が滅ぼされる(20:48, 21:16)。ベニヤミン族に対する救済(21章)。
・・ベニヤミン族はイスラエル族と戦った。わずか六百人まで落ち込んでいるから勢力的にどうか。
・・ベニ、というのは鉄(金属?)にかかわるのでは?
かわいこたむだと良いのだが…
>>必ず、運命の絆とは、いくら離れても必ず引き合ってしまうほど
不思議な力があるそうでございます。
>>いくら出逢いを避けてもあっという間にひきつけられて、
離れられなくなってしまうそうでございます。
運命、ソウルメイトという発想は神話的。
マルクスの魅力、同時に間違いは、歴史に必然的な法則がある、などの、
インダス−エジプト型の神話を持ち込んだことで、
マルクスの哲学者、思想家としての価値は世界史でも屈指と認めつつ、
運命という発想は、私は退けます。
救世主信仰と、プロレタリアート必勝思想は、似てる。
もちろん階級問題は、社会の根幹に関わります。
私にとってドストエフスキー、司馬遷など幾人かの文学者を特別に重視するのは、
彼らの作品が、私の人生にとって最も大きものだからで、だから私は文学者になった。
ワワが今時珍しく風流なので、茶のみ話とか面白そうだな、
というのは、相対的な楽しみですね。
私の思想の根幹に関わるほどの存在ではないけど、
一緒にいて心地は良さそうだな、という程度の。
女性で、彼氏なしならなお良い…
>>赤文字、桃文字
個人的なことをいうと、文学は色彩とは無縁です。
視覚も、かわいこたんにしか、じっくり使用しません。
私はベニヤミンでもないし、聖書も読んだことはないのですが、
バビロン捕囚から、ローマでのキリスト教公認までは興味深いですね。
インダス、ゾロアスター、ネストリウス
以下のサイトから抜粋+私見
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/33-iran.html
「ミトリダテス1世の治世の前半に鋳造された貨幣には「ギリシア文化の愛好者」
の銘がある。しかし後1世紀頃からはイランの伝統文化の復活の風が強くなった。 」
↓
パルティアにはミトラ教とともに、
ミトリダテス1世の前半にも、マナセ・エフライムが関わっている可能性がある。
カルラエの戦いで、ローマ帝国との争いになってから、
パルティアはイランの伝統=ミトラ教に傾倒したか?
「「ササン朝ペルシア(226〜651)の創始者であるアルデシール1世(位226〜241)は、
アケメネス朝の都であったペルセポリス付近の貴族から次第に勢力を拡大し」
↓
アケメネスは匈奴+南ユダ。ササン朝もこの勢力か?
「ササン朝は、イランの伝統文化の復興を図り、イラン民族文化を確立した。このことはイランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教としたことによく現れている。ゾロアスター教の経典である「アヴェスター」の成立年代は不明であるが、現存の経典はササン朝の時代に編集された。 」
↓
アヴェスター語は、
「サンスクリットの最古層であるヴェーダ語(リグ・ヴェーダなどに用いられた言語)
とは文法的にも酷似している。 」
ように、インダス文明とササン朝の繋がりは強そうだ。
ゾロアスター教もインダス文明から発生と考える。
「特にネストリウス派キリスト教は比較的自由な活動が許されて発展し、
中国にも伝播し、唐代の中国では景教と呼ばれ一時栄えた。」
↓
ネストリウス派は、ゾロアスター教と仲は悪くない。
景教はイラン系?
キリスト教の異端とイラン系信仰の繋がりについてよく知らないので、
少しずつ調べていきます。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
カトリック・東方正教会・プロテスタント等、キリスト教主流派では、
ネストリウス派は異端とされる。
↓
異端キリスト教は、イラン系信仰に近いのではないか?
キリストを生んだ「マリア」が神の母であることを否定する。
↓
景教は、イナンナ派とは別なんですかね。
唐の王朝は景教を保護した。
モンゴル帝国のチンギス・ハーン家の一部家系などに、
熱心に信仰する遊牧集団が多かったため、元の時代に一時中国本土でも復活した。
↓
以前、チンギス・ハーンを北イ系と推定したが、取り下げる。
唐→モンゴルの景教信仰は何を意味するか?
景教とは中国語で光の信仰という意味であり、
景教の教会を唐の時代、大秦寺という名称で呼んでいた。
↓
光の信仰は、ゾロアスター教か?
大秦寺は、イラン系か?
ササン、大まかな概略
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
サーサーン朝の起源については不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのは
アルダシール1世であるが、彼の出自は謎に包まれている。
まず王朝の名に用いられているサーサーンと言う人物が何者であるのかもはっきりしない。
↓
サーサーンという名はインダス文明からミタンニに関係ないか?情報求む。
サーサーン朝とローマ帝国(東ローマ帝国)はサーサーン朝が滅亡するまで
断続的に衝突を繰り返した。
↓
ミトラ−イラン、と、マナセ−ローマ帝国、
という対立の図式が、後期パルティアからササン朝に見られそうだ。
宗教的には、バチカン教皇対イランの光の宗教。
ゾロアスター教の祭司、カルティールは権力を握り、
マニ教や仏教、ユダヤ教、ネストリウス派キリスト教を排斥した。
↓
これはササン朝の態度というより、ゾロアスター教の権力志向のためと仮定したい。
シリアやアナトリアがフン族に攻撃されるものの、
サーサーン朝の領土が攻撃を受けることはなかった。
↓
匈奴=フン族はイラン系と推定したが、
ササン朝もイラン系なので、激しく敵対しなかったと仮定。
ヤズデギルド1世には、キリスト教徒の医師が友人にいたために、
キリスト教に改宗したと勘違いされ、「罪人」のあだ名で呼ばれたとされる。
↓
この時代のキリスト教は、マナセ族の宗教。
東方からエフタルの侵入があった。
以後エフタルはサーサーン朝にとって悩みの種となっていく。
↓
エフタルの特定はまだできていない。
ササン(イラン系)、クシャーナ(ベニヤミン系)、グプタ朝(バラモン系)と対立、
突厥(ベニヤミン)と、サーサーン朝に挟撃されて滅ぼされたのをみると、
エフタルには、北イ系の可能性をみたい。
東ローマ帝国ではキリスト教学問の発達に伴って異教的学問の排除が進み、
529年にはアテネのアカデミアが閉鎖された。このために学者がサーサーン朝に移住し、
この結果ギリシア語やラテン語の文献が多数翻訳された。
↓
キリスト教公認後のキリスト教は、アテネ(マナセ系)とも違うのか?
ローマ帝国は後に調べたい。
エフタルに対し突厥と同盟を結んで攻撃をかけ、エフタルを滅ぼすことに成功したが、
今度は突厥の脅威に対抗しなければならなくなった。
↓
エフタルが北イ系、突厥がベニヤミンだとすると、
ササンはイランで、インダスの流れなので、南ユダともやや違う。
インダス−ミタンニ−アナトリア−エジプトという救世主信仰の流れにおいて、
西はイナンナ的、東はゾロアスター的、になったと仮定しておく。
サーサーン朝はアヴァール人と共同で、皇帝が不在な東ローマを攻撃。
↓
アヴァール、柔然も特定できていないが、
突厥との微妙な違いは、柔然(イラン)、突厥(ベニヤミン)の、
インダス−エジプト系の東西2派の違い、と仮定しておく。
それで、アヴァールはササンと組む。
642年にイスラム帝国に敗北、サーサーン朝は事実上崩壊した。
661年 ヤズダギルド3世の子、ペーローズ、唐王朝に亡命。
↓
景教の繋がりもあり、ササン朝と唐の繋がりが気になる。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/eurasia3.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002381.jpg
マニ教
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
マニ教
ササン朝ペルシャのマニ(210年 - 275年ごろ)を開祖とする宗教。
マニ教の教義は、ユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、グノーシス主義、
仏教、道教からも影響を受けている。
マニがサーサーン朝のシャープール1世に重用されると、ペルシャを中心に信者を増やしたが、その後ササン朝がゾロアスター教を国教と定めるとともに迫害された。
ローマがキリスト教を国教とする前は、マニ教はローマ帝国全域にまで拡大していた。また、アジアにも拡大し、ウイグルではマニ教が国教となった。
唐においては694年に伝来して「摩尼教」と称し、景教・ゾロアスター教と共に、三夷教と呼ばれた。843年に唐の武帝によって禁止されたが、その後もマニ教は「明教」とも呼ばれ、仏教や道教の一派として流布し続けた。
明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、朱元璋が建てた明の国号は明教に由来したものだと言われている
マニ教の宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、預言者の印璽、断食月)は、後にムハンマドのイスラム教の成立に影響を与えた。
マニ教は、西方伝道においてはイエス・キリストの福音を、東方への布教には仏陀の悟りを前面にするなど、各地域毎に布教目的で柔軟に変相したため、東西に発展した世界宗教となった反面、教義・経典が混乱気味となった。
スペインから中国まで大陸を横断する世界宗教であった。
↓
マニ教の神話では、ヒクソスと伏儀が混乱している。
原初の世界で光(伏儀)と闇(ヒクソス)の戦いが開始された。
光の勢力によって原人(カタカムナ)が創生されたが、
原人は敗北して闇によって吸収された。
その後、光の勢力は太陽神ミスラ(伏儀)を派遣して、
闇に奪われた光を部分的に取り返すことに成功した。
闇は手元に残された光を閉じ込めるために、
人祖アダムとエバ(伏儀と女カ)を創造した。
元は、アダムもミトラも伏儀なのに、マニの教義で対立しているのは、
新旧聖書で、伏儀信仰が、教会の正当化によってヒクソスに利用されたからか?
ユダヤ教の起源は、伏儀のイナンナ信仰で、
ヤーウェがシュメールの神だという事実が忘れられた。
このように、伏儀とヒクソスの両勢力がミトラを信仰するので、
エフライム族が、イナンナ像を祭り、
インダス文明の末裔がアダム(伏儀)を攻撃する(苦笑)
ゾロアスター教
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
宇宙の法たる神(光明神)アフラ・マズダーを主神とし、アフラ・マズダーに従う善神スプンタ・マンユに代表される善の勢力と、アフラ・マズダーに背く悪神(暗黒神)アンラ・マンユに代表される悪の勢力の二つの原理により、世界は成立しているとする。このため、火や光を崇拝する。
↓
アフラ・マズダーの起源は、
ミタンニ・ヒッタイト条約文にその名があげられるヴァルナ、
アフラは語源的にはアスラ(阿修羅)と共通とされているので、
ヒクソスの敵。
光と闇が争い、神は真理を教えるため、人間に救済者・預言者を定期的に送り出し、
人間に救いを齎すという教えは、後のユダヤ教の宗教思想に継承される。
↓
ユダヤ教に継承される、というより、
インダス−エジプトの線、例えばミタンニ−ヒッタイトなどで、
元は同族だった。
イスラム教もまた、ザラスシュトラの教え、すなわちゾロアスター教の影響のもとにある。「隠れイマーム思想」は、サオシュヤント思想に多大な影響を受けている。
↓
スンニー、シーアの違いは、
イナンナとゾロアスターという、インダス−エジプト線の、
東西の違いも強く関わる。
やや先の時代の話題だが、イスラムの急激な発達は、武力よりも、
伏儀勢力を正当化しつつ、各勢力の違いを抱擁できる良いルールだったから、
と仮定しておく。
イベリア半島がイスラムになったのは、
イナンナ派(カタルーニャ)、バスクからポルトガル(伏儀)など、
元々、伏儀派だったからだろう。
アケメネス朝ペルシアの歴代の大王たちが、ザラスシュトラの教え、すなわちゾロアスター教に帰依していたことは事実である。ユダヤ人のバビロン捕囚に対する解放者として、キュロス大王が登場する。
↓
アケメネスは、匈奴+南ユダと推定した。
アレクサンドロス(マナセ族)と対立し滅ぼされたアケメネス朝から、
パルティア−ササンというペルシアの流れは、ローマ帝国と対立し続けた。
その宗教はミトラ−ゾロアスター教。
中華(メソポタミア)に漢、モンの政権は作られなくなったが、
変わって、インダス勢力が台頭した。
南ユダは、ローマ(マナセ)とは聖書で繋がり、イランとはミトラで繋がり、
バビロニアは元夫という、微妙な立場。
マニは、イラン系ユダヤ。ゾロアスターとしては、
マニ教の、マナセに繋がる要素を排除せざるを得なかったのだろう。
マニ教は逆に、ローマ帝国からは、そのイラン的な要素のために追放された。
唐では、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教と総称して三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市であった長安を中心に盛んであった。
↓
唐の李淵は鮮卑出身らしいが、三夷教はイラン的。
太宗が東西対照でムハンマドに当たる可能性を考えていて、
唐の初期はイラン系の可能性も浮かぶ(適当な仮定)。
北魏から隋唐はまた後に調べる。
ジャーヒリーヤ時代
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/jahiriya.html
後世のアラビアの史家が、イスラム出現前夜の4〜6世紀のアラビア半島を呼ぶ言葉。
この時代は定住から遊牧の時代へと移り変わる激変の時代だった。
特に南アラビア(イェメン)では砂漠化の進行が著しく、
ヘレニズム経済圏との交通路を途絶されて経済は破綻した。
→ 農耕民の遊牧化、北方への大移動開始
南アラブ族の北方移動の結果、次のような勢力が中央〜北アラビアに出現した。
ガッサーン族……イェメンから北上し、4世紀末にナバタエ族の故地
ペトラを占めて王国を築く。王国は636年イスラム軍に滅ぼされる。
ラフム族……同じくイェメンから北上し、
ユーフラテス川河口に近いヒーラに王国を建設。
http://pathfind.motion.ne.jp/isram.htm
実はイスラム誕生のきっかけを作ったのは、
東ローマ帝国とササン朝ペルシャの間で続いていた戦争だった。
戦争がない平和な状態であれば、この両国の国境付近、
シリアからメソポタミアのあたりというのはちょうど東西世界の通商の十字路となり、
世界の富が集まってくる地域に相当していた。
ところが戦争によってこのあたりが通れなくなってしまった。そのため
通商ルートが大きくまとまって南へ迂回を始めたのである。
そしてそのちょうど中継点に当たる場所こそがメッカだった。
キリスト教系アラブ人のガッサーン朝のペトラは南ユダの地。
紅海の傍、エジプトとシリアの間にあり、
イエメンはシバの女王、原始キリスト教とイナンナ派と推定される。
ローマ(マナセ)、ササン(イラン)の対立の隙間、
ガッサーン朝、ラフム朝で、南ユダ勢力はフェニキアから続く、
交易をしていた可能性を仮定しておく。
「ムハンマドの5代前ハーシムの時代ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の抗争が激化し始めた。危険を回避するためアラビア半島を南に迂回し、イエメンからマッカを経てシリアにいたる交易路が栄え始めた。」
「アブー・ラルブはムハンマドの保護を取りやめ、ムハンマドは仕方なく信者達をエチオピアのキリスト教の国アクスム王国やヤスリブに脱出させなければならなかった(ヒジュラ)。」
クライシュ族内部でのムハンマドの闘いの背景はよくわからない。
627年クライシュ族はユダヤ教徒と組んでムハンマドと戦っていて、
ムハンマドを後押ししたのも、イナンナ派原始キリスト教。
クライシュ族の多神教の情報求む。
近い勢力同士の勢力争いと仮定する。
どうして急激にササン朝に勝てたのかは、後の課題にしたい。
地図は以下のサイトから。
http://pathfind.motion.ne.jp/isram.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002384.jpg
北周はガド+南ユダか?
以下、エフライム工房から抜粋しつつ、
ウィキペディア+私見
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/yamataikoku8.htm
北魏は代(君が代)に続く、拓跋、エフライムだったが、
6代目から漢人化、皇帝も拓跋から元に変わる。
儒教的礼制を採用→南ユダが漢人と組んだか?
北魏は、西魏、東魏に分裂。
西魏→北周
は宇文部(私は自信なくガド族と推定している。)
「ライバルの北周は仏教と道教を禁止したという事です(エフ工)」
「すると、禁止されなかった宗教は儒教ですか…(エフ工)」
↓
北周のガド族線は、南ユダ、漢人とも手を組んでいたのではないか?
宇文部は元は匈奴で、後漢末に鮮卑に加わり、
マナセ・エフライムのような北イの中核ではないので、
南ユダ系とも手を組める。
東魏→北斉
この線は、鮮卑高市で、エフライム工房によると、
原始キリスト教、「北斉はベースが呉」コーカサス系
↓
仏教は原始キリスト教と結びつくらしいが、
このあたり私はまだよく分からないので棚上げ。
この高市系キリスト教は、儒教と対立するのか。
よくわからない。
西魏→北周の線が、東魏→北斉の線を降し、
高氏が立てた北斉を滅ぼして華北を統一した。
北周、3代の武帝は廃仏をおこなったことで知られる。(三武一宗の廃仏の第2)
この北周はガド族、南ユダ、漢人の連合と自信なく推定。
4代目の時に、楊堅が台頭。
5代目の時に禅譲させている。
楊堅は女に弱いか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
前の書き込みで北周が漢人とつながりがあると仮定してが訂正。
「隋唐帝国との大きな違いとして、鮮卑復古主義がある。儒教の経典である周礼に基づく官制をとり、また周という古代に通じる国号を用いながらも、西魏・北周は、北魏の孝文帝以来の漢化政策に逆行する鮮卑固有の習俗への回帰を標榜していた。」
↓
北周はガド族+南ユダで、漢人とは対立と仮定。
五代静帝は楊堅に禅譲し、隋が建てられて、北周は滅亡した。
やがて北周の皇族の宇文氏は前皇帝の静帝を初めとして多くが
楊堅によって皆殺しにされて途絶えたという。
↓
隋は北周の鮮卑、ガド族、匈奴+南ユダ路線とは対立。
楊堅は、鮮卑の名門貴族である普六茹部の末裔。
「『隋書』の「本紀」には、楊堅の誕生に関して非常に興味深い話を載せている。それは、楊堅が生まれたのは、西魏の大統7年6月13日であり、生まれた場所は、馮翊(陝西省大茘県)の般若寺という仏寺であったというものである。しかも、その幼名は金剛力士をあらわす那羅延であったというのである。ただ、この時代、それほどの仏教信者でなくとも、名前に仏教語を使用するのは、ごくごく一般的なことではあった。しかし、楊堅の場合は、それだけに滞まらず、乳母役を引き受け、彼を養育した女性は、智仙という尼僧であったという。
また、初唐の護法僧、法琳の『弁正論』によると、その般若寺は、北周武帝の廃仏によって廃毀されてしまったが、楊堅は即位後の585年に出生地を懐かしんだのと、父母への追善供養の意味も込めて、その場所に後の日本の国分寺に相当する大興国寺を建立し、華麗な荘厳を施された堂塔伽藍を建立したと記している。」
楊堅は、『周礼』と鮮卑回帰政策を進めた北周の路線を改めて北斉の制度も参照しつつ改革を行った。
↓
楊堅は、仏教との結びつき、北斉との繋がりが伺える。
「文帝皇后の独狐皇后は非常に強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独狐皇后は文帝の周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近づくことを警戒していた。」
↓
独狐皇后は、武川鎮軍閥、八柱国の独孤信の娘。
楊堅は女に弱かったのではないか?
最初は独狐皇后の武川鎮軍閥に取り入られたが、
「楊堅は正妻の独孤皇后が病没してからは一気に女漁りに奔走し」
↓
「陳の皇室に対してはその正反対に手厚く厚遇したという。
これは楊堅が寵愛する妃の宣華後主が兄の後主らを助命する
嘆願が積み重ねたからともいう」
↓
宣華後主により、南朝の陳の勢力に取り入られた。
この陳は、呉、東晋の流れだが、
南朝系の漢人化した北イスラエルと組んだか?
これがエフライム工房のいう高市の線か?
北斉の高市の線は、北周に滅ぼされた後に、
楊堅と組んで、北周を滅ぼした。
その後、武川鎮軍閥から、南朝+北斉に以降。
漢人はこの時代、実力を持たなかったが、南朝の隋に加担か?
「楊堅は寵愛する宣華後主の介助で病床の床に伏し、宣華後主が別室で休息している間に先手を打った太子の楊広に命じられた楊素・張衡らよって毒殺されたという説も有力として残っているという。」
↓
宣華後主=陳を排除すべく、楊堅を暗殺。
隋と並んで、突厥(ベニヤミン)が大勢力なので、
隋は南ユダではないのだろう。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/eurasia6C.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002386.jpg
隋唐を追う。
ササン朝と唐のつながりから、唐をイラン系と適当に仮定したが、
唐は基本的には武川鎮軍閥のようだ。
則天武后など、反武川鎮軍閥の時に、
外交も変化しているはずなので、唐とイランの繋がりは後に追いたい。
以下、通鑑記事+私見
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuikenn.htm
「臣の位は徐廣程ではありませんが、想いは楊彪と同じです。」
楊堅は怒って言った。
「朕は、それ程書物に詳しくないが、卿のその台詞が不遜だとゆうことくらいは見当が付くぞ!」
(徐廣は、東晋から宋にかけて出仕していた。東晋から宋への禅譲の際に参列して、
辺りをはばからずに泣き濡れた。楊彪は魏の頃の人間。)
上柱国竇毅の娘は、隋の受禅を聞くと、悔しがって言った。
「私が男じゃなくて舅氏の患を救えなかったのが恨めしい!」
竇毅と襄陽公主は、慌てて彼女の口を押さえた。
「滅多なことを言うな。一族が滅亡してしまうぞ!」
だが、竇毅は、これ以来彼女を特別に見ていた。やがて、彼女が長じると、
唐公の李淵へ嫁いだ。
↓
北周から隋への禅譲を司馬光は否定的に描き、
この記述から、唐の李淵が、北周に繋がるように見える。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuibunn.htm
宮中では文帝と独孤皇后を併せて「二聖」と呼んだ。
この後の記述において、独孤皇后が絶賛されているが、
司馬光は北イ系であり、武川鎮軍閥を賛美したい可能性を仮定しておく。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuiyoukenn.htm
蘇威失脚
↓
蘇威は武川鎮軍閥の有力者に見えるが、
失脚したことを見ても、隋の勢力が入れ替わりつつあるか?
これも武川鎮軍閥を賛美する司馬光の片よりと仮定したい。
猜疑心が強く、讒言はすぐに信じ込んだ。
↓
これも、武川鎮軍閥から陳に味方を変えたことへの記述とみる。
蘇威失脚後の楊堅は愚かに記述されている。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuikou.htm
高潁は独孤后の父親の知り合いだったので、彼女は高潁を礼遇していた。
↓
蘇威と並ぶ権力者、高潁は独孤后と親しく、武川鎮軍閥との繋がりをうかがわせる。
文帝は、仁寿宮で尉遅迥の孫娘を一目見て夢中になり、手を付けた。
これを知った独孤后は嫉妬に狂い、文帝が朝廷へ出ている隙に、彼女を殺してしまった。
これを知った文帝は、半狂乱になり、馬に乗ってメチャメチャに駆け、
山の中へ入り込んだ。高潁と楊素がこれに追いつき、文帝の馬を抑えて苦諫した。
文帝は言う。
「朕は皇帝となったのに、ちっとも自由がない!」
高潁は言った。
「陛下、たかか一婦人のために、どうして天下を軽視なさるのですか!」
↓
楊堅に力はなく、高潁や独孤后に逆らえなかった。
その後、高潁と独孤后は仲違い。楊堅は独孤后に従う。
高潁は牢獄へぶち込まれた。
↓
このあたり、司馬光は気に入らないのではないか?
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/zuihaicha.htm
楊堅の皇太子は独孤后に嫌われて、謀略で廃立される。
文帝は、元皇太子の楊勇を東宮に幽閉し、楊廣(後の煬帝)に監視させた。
元皇太子の楊勇は、でっち上げの罪で廃立されたので、冤罪を訴えようと
文帝への謁見を求めたが、楊廣はこれを全て握りつぶした。とうとう楊勇は、木に登って大声で叫ぶようになった。その声か文帝へ聞こえて謁見が叶うかことをこいねがったのだ。だが、楊廣は、これを文帝へ奏上して言った。
「兄上は、錯乱なさいました。癲鬼のせいでしょうか。もはや恢復しないでしょう。」
文帝も同意し、遂に謁見しなかった。
↓
煬帝は独孤后の勢力。
ウィキより、
「彼(楊堅)はかつて廃した長男の楊勇を再び太子に戻し、とんだ喰わせ物だった
次男の楊広(後の煬帝)を廃嫡する動向を見せたといわれる。」
↓
楊勇についた勢力は陳の宣華後主なのだろう。
陳を排除したい楊広(後の煬帝)と武川鎮軍閥は、
宣華後主が別室で休息している間に楊堅を毒殺した。
隋から唐はわかりにくいので、通鑑記事で、
勢力の移り変わりを追ってみたい。
明日は煬帝から調べる。
(無題)
・・大神島、wowokami-sima …ベニヤミンの島。
煬帝は南朝+突厥
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/youdai1.htm
楚公楊素は大功があったが、煬帝から猜疑されており、上辺は重んじられていたが、実権はなかった。
↓
+
ウィキ
楊素は、601年には行軍元帥として突厥の達頭可汗(西可汗)の騎馬隊を撃破して、文帝(楊堅)の信頼をますます高めたという。
↓
楊堅と武川鎮軍閥と近いように見える楊素を追いやり、
楊堅が敵対した突厥が入貢していることから、
煬帝は、楊堅時代の勢力と手を切ったようだ。
煬帝の嫁は、
蕭皇后(後梁の公主、蕭?(後主)の姉)
蕭嬪(蕭皇后の族妹)
で、二人とも南朝。
煬帝自身も北斉を好むような記述が見られる。
やがて煬帝の時代になり、突厥の啓民可汗が入朝することになると、
↓
煬帝の時点で突厥と組んだか?
煬帝は、晩年の楊堅と同じように、女で南朝派に取り込まれ、
南朝仏教(エフ工の言う高市の線)と突厥と手を組んだ。
それで、中華史上最悪の暴君とされているが、
ウィキペディアにもあるように、誇張と考えられる。
南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。
↓
やはり、煬帝は南朝仏教の線と組んだ。
この南朝仏教勢力について、私はまだ理解できていないので、後に調べる。
李淵は突厥→漢人
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
隋の滅亡に繋がる反乱は、李密が中心。
武川鎮軍閥中の名家の一つである李氏を出自とする。
煬帝の首をとった宇文化及は、
代郡武川鎮の出身でやはり武川鎮軍閥か?
後に化及の首は突厥に嫁いだ煬帝の娘である義成公主に送られた。
李淵は北周の八柱国の家系で、隋の楊堅の外甥でもある。
煬帝の失政で国内が騒然となると突厥より兵を借りて隋に対して反乱を起こした。
↓
隋の滅亡には武川鎮の力が大きそうだが、李淵は突厥から兵を借りているのは、
どういうことか?
統一戦に著しい戦功を上げた李世民とその取り巻き達が皇太子の座を狙って策謀するようになった。これを止めるために高祖は世民の謀将房玄齢・杜如晦の二人を引き離し、天策上将の称号を与える事で世民の不満をなだめようとした。
しかしこれらの策は成らず、626年に玄武門の変により皇太子李建成と三男の斉王李元吉は李世民により殺され、高祖も軟禁され、その後李世民に対して譲位して上皇となった。その後も半軟禁状態で635年に死去した。
↓
李淵と太宗で勢力が入れ替わっている可能性がある。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rienkekki.htm
劉文静は、突厥と同盟を結ぶよう李淵へ勧めた。李淵はこれに従い自ら書状を書き、
腰を低く賜を厚くして始畢可汗のもとへ使者を派遣した。
突厥は唐と交易しようと、柱国の康鞘利等へ千頭の馬を与えて晋陽へ派遣した。
そして、李淵が入関の為に出陣する時には、援軍を出すと許諾した。
↓
李淵は突厥と組んだ。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rien1.htm
独孤懐恩は、
ある時、彼は腕を振るって言った。
「我が家で尊いのは、どうして女性だけだろうか。
(周の明帝の皇后、隋の文帝の皇后、そして上の母は、全て独孤氏だった。)」
遂に、麾下の元君寶と共に、造反を考えた。
李淵は、独孤懐恩を呼び付けた。独孤懐恩は、まだ事が露見したとは思わずに
軽舟でやって来たところを捕らえて獄吏へ引き渡し、党与を捕まえた。
↓
独孤は武川鎮軍閥。李淵は武川鎮軍閥と対立したのではないか?
隋滅亡後、李淵の好敵手で、中華統一を争った李密も武川鎮軍閥。
夏、四月。庚子朔、天下へ恩赦を下す。この日、新しい律令を頒布した。
これは開皇の旧制と比べて新格が五十三條増えていた。
六月、辛丑。上が仁智宮へ避暑に行った。その後、国内では楊文幹が造反し、
国外では突厥や吐谷渾が屡々侵略した。
↓
後に調べるが、中華が安定し始めたので、
李淵は突厥と手を切り、新しい律令を定めたか?
まだ太宗に乗っ取られていない。
四月、太史令傅奕が上疏して、仏法排除を請うた。
↓
この次の次の月に玄武門の変で李淵は、太宗に位を譲るのだが、
この仏教排除の記述が長く、極めて興味深いので長いがそのまま引用する。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rien2.htm
「仏は西域にあり、その言葉は妖しく、路は遠うございます。漢代に胡書が翻訳されましたが、今ではそれが都合の良いように解釈されています。彼等は不忠不孝にも髪を剃って君親を見捨て、働きもしないで衣食に満ちて、租税を逃れます。三塗(地獄、餓鬼、畜生)や六道(三途+修羅、人、天)のようなでっち上げを広めて愚夫を恐喝し、凡庸を騙す。過去の罪を妄りに赦し将来の福の空手形を与えるので、民は一万倍の報酬を求めて萬銭の布施を行い、百日の糧食を欲して一日の斎を差し出す。こうして功徳を妄りに約束された愚迷達は、法律を憚らなくなり、憲章を犯すようになるのです。そして遂には悪逆を行い、牢屋へぶち込まれるに至っても、彼等は獄中で仏を礼拝し、罪を免れるよう希うのです。
それに、生死や長命夭折は自然の力、刑徳威福は人主が与えるもの、そして貧富貴賤は功業が招くものなのに、愚僧達は、事実を歪曲して全て仏の力だと説いています。彼等が人主の権威を盗み、造化の力に仮託することで、政治がどれ程害されましょうか。まことに悲しむべき事です!
伏ギ、神農から漢代へ至るまで、仏法とゆうものはありませんでしたが、主君は賢明で臣下は忠義、王朝は長く栄えました。漢の明帝が始めて胡神を立て、西域の桑門からその法が伝来しました。西晋の頃は国に厳しい法律があり、中国の人が簡単に髪を剃るなど許しませんでした。苻、石、キョウ、胡が中華を乱す頃は、主君は凡庸で臣下は奸佞。政治は残虐で王朝は短命となったのです。梁の武帝や斉の文襄は、明白な鏡ですぞ。
今、天下の尼僧は十万を数え、そのような無為徒食の人間の贅沢の為に多くの繪綏が浪費され、萬姓を苦しめております。彼等を還俗させれば十万余戸となります。彼等へ子供を産育させて、十年養った後教えれば、兵とすることができます。そうなれば四海は無駄飯食いの殃がなくなり、百姓は権威を持ち福を与える者が誰か思い知ります。そうすれば妖惑の風潮は自然になくなり、純朴な風俗が戻ってきます。
北斉の頃、章仇子佗が『僧尼が多くなれば国家は疲弊し、寺塔が奢侈になれば金帛が浪費される。』と言ったところ、諸僧や諸尼が宰相や妃・主へ取り入って誹謗讒言した為、子佗は捕らえられ、都市にて処刑されました。北周の武帝は、斉を平定すると、彼の墓へ封戸を付けてやりました。臣は不敏ではありますが、北周の武帝の業績を慕っているのです。」
上は、百官を集めて、これについて協議させた。すると、ただ太僕卿の張道源だけが奕の言葉が理に叶っていると称した。対して、蕭禹が言った。
「仏は聖人です。奕は、これを非難しました。聖人を非難するのは無法者です。その罪を窮治めするべきでございます。」
奕は言った。
「君父は人の大倫です。それなのに仏は、世嫡のくせに父親に叛して出家し、匹夫のくせに天子へ逆らいます(釈氏の法として、君親へ拝礼しないことを指す)。蕭禹は木石から生まれたわけでもないのに、父親を無視する教えを尊んでいます。『孝にあらざる者は親無し(非孝者無親。孝経の一節)とは、彼のことです!」
禹は言い返すことができず、手を合わせて言った。
「地獄は、こんな奴のために造られたのだ!」
上は、沙門や道士が戒律も守らないくせに戦役を逃れていることを憎んでいたが、それは奕の言葉通りだった。また、寺観が邸宅に隣接すると、(あたりが汚れきってしまう?)。辛巳、役人達へ詔を下して命じた。
「天下の僧、尼、道士、女冠のうち勤行に励んでいる者は大寺観へ移して衣食を給与して不自由させないように。また、勤行を怠けている者は全て還俗させて郷里へ返還させよ。」
京師にはただ寺を三ヶ所、観を二ヶ所、諸州には各々一ヶ所だけ留め、残りは全て壊させた。
傅奕は謹密な性格。占候の職務にあった時から交遊を途絶し、災異を奏上すると、すぐに文書を焼き払ったので、人々は彼の功績を知らなかった。」
↓
突厥と手を組み、武川鎮軍閥を押さえ込んだ李淵は、
まず突厥と距離をとって、武徳律令 - 624年で漢人と手を組んだか?
儒教と対立する南朝仏教はエフライム工房の高市の線で、南北イスラエル。
上の仏教排除の記述に伏儀、神農な名が見えるが、
これは漢人による勢力奪取だった可能性を仮定したい。
この二月後に太宗により、李淵は強引に位を譲らされているが、
その背後を追いたい。
太宗、高宗はマナセ・エフライム
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rien2.htm
626年6月 玄武門の変
貞観八年、太宗皇帝は、しばしば上皇へ、九成宮へ避暑へ行くよう勧めたが、上皇は、隋の文帝がそこで崩御したので縁起が悪いとして行かなかった。そこで、冬、十月、上皇の避暑の為に大明宮を造営する。だが、完成前に上皇は病気に伏してしまい、住むことができなかった。
上皇はそのまま回復せず、九年、五月庚子、垂拱殿にて崩御した。
十一月、庚戌、太原へ高祖廟を立てることについて議論するよう詔が降りた。
↓
玄武門の変後、李淵は直ちに疑惑の病死。
その後、太原へ墓を作ろうとしている。
「唐の李淵は太原から唐を興した」という理由だろうが、
中止されたものの、太原は、大同とともに、
東西対照でシェケムに辺り、東の北イスラエルの中心地の一つ。
李淵自身は北イ勢力と敵対したが、
太宗の背後勢力に、太原(マナセかエフライム)の可能性を仮定したい。
太宗は、皇帝になる以前は、秦王。
秦は南北イスラエルのどちらかの地ではないだろうか?
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/taisooyzi.htm
上(李淵)は遂に怒りを発して世民を責めた。
「我が手敕が、お前の教より劣るのか!」
他日、左僕射裴寂へ言った。
「あいつは長い間、外で戦争をしていた。その間に書生からあれこれ吹き込まれ、
すっかり別人になってしまった。」
↓
太宗を「すっかり別人」にした、この書生たちは、
李淵と敵対した武川鎮軍閥、もしくは南朝勢力ではなかろうか?
世民は李淵の嫁達と対立したが、
嫁達は李淵を動かした漢人勢力で、
イスラエル勢力の世民と対立したと仮定。
上は皇太子を替える気がなくなり、建成や元吉を寵愛し、世民を疎んじるようになった。
↓
漢人勢力の李淵に遠ざけられた世民は、別勢力。
「突厥が屡々関中へ来寇するのは、子女玉帛が全て長安にあるからです。もしも長安を焼き払って、ここを都にしなければ、胡の来寇は自然と止むでしょう。」
上は、同意した。そこで中書侍郎宇文士及へ南山を越えて樊・登(「登/里」)の地へ行かせ、ここへ遷都しようと考えた。
太子建成、斉王元吉、裴寂は皆、その策に賛成した。蕭禹(「王/禹」)等は、それが不可だと判っていたが、敢えて諫めなかった。秦王世民は、諫めて言った。
↓
長安は、「前漢、新、前趙、前秦、後秦、西魏、北周の時代に首都がおかれた」
唐の長安城は、平安京、平城京のモデルにされているので、
この時代、イスラエルの勢力が強かった可能性が浮かぶ。
李淵が狙い、世民が反対した、「樊・登(「登/里」)の地」
の情報が見付らないのだが、漢かモン族に馴染みのある土地ではなかろうか?
情報求む。
上の怒りは解けなかった。すると、そこに役人がやって来て突厥の入寇を告げたので、
上は顔つきを改め、世民を慰労して冠をつけさせ、彼と突厥について謀った。
↓
世民を遠ざけつつも、突厥と手を切って漢化を狙う李淵は、
世民のイスラエル勢力を保留しなければ、突厥を撃退できなかったと仮定。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/taihouzen.htm
十一年、三月。群臣が再び封禅を請うた。
上は、秘書監顔師古等へその礼を議論させ、房玄齢へ裁定させた。
十一月丙子、百官が再び封禅を請願し、詔してこれを許し、
更に緒儒に儀式の詳細を定めるよう命じた。太常卿韋挺等を封禅使とする。
十五年、四月辛卯朔。来年二月に泰山を祀ると詔した。
五月、壬申。并州の父老が闕を詣で、泰山にて封禅を行うよう上へ請願した。
二十年、十二月己丑。群臣が封禅するよう何度も請願したので、これに従った。羽衞を造って洛陽宮へ送るよう詔する。
二十一年、正月丁酉、明年の仲春に泰山を祀ると詔した。社首を禅するなど、全て十五年の時の朝議の結果に従うことになった。
八月、壬戌、薛延陀が降伏したばかりで、土木工事も屡々起こし、加えて河北に水害が起こったので、明年の封禅を中止する、と、詔が降りた。
↓
結局、封禅しなかったようだが、度重なる論議は、
太宗が泰山に近い勢力だったことの証明。
次の皇帝、高宗は鮮卑賀跋部(北イのいずれか)の政治工作で皇帝になったが、
泰山に封禅している。
太宗、高宗について細かく追わないが、
二人とも泰山の勢力で、鮮卑の後押しを受けた、
それは、則天武后が対立した武川鎮軍閥と同一勢力であろう。
太宗の皇后である長孫氏は、
「一説には、北魏の拓跋氏(元氏)を改姓した姓氏とも言われるが、実際は鮮卑大野部だった唐の皇室の姻戚である鮮卑の有力部族の賀跋部だったようである。関隴集団中においても、貴顕中の貴顕とされる門地であった」
↓
鮮卑賀跋部はマナセ+エフライムと推定。
北イ、武川鎮軍閥が太宗、高宗を後押しした。
長孫無忌は玄武門の変で房玄齢らと太宗を補けているから、
玄武門の変へのマナセ・エフライムの関与も確実。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E8%B3%80%E8%B7%8B%E9%83%A8&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
高歓は漢語の姓名だが 、 賀 六 渾 という 鮮卑 語 と 思われる > 字 ( あざな ) を持っていた 。 これ を 見る と 高 歓 の 鮮卑 姓 は 賀 跋 部 ( 氏族 ) といったところでしょうか ? まだ 、 特定とまではいえませんが … ...
高歓が「賀六渾」でマナセだとすると、
北魏→東魏→北斉、の線はマナセで、
隋では武川鎮軍閥、唐では長孫氏として、勢力争いをしていたと仮定。
北斉はエフライム工房によると、コーカサス、北斉の高市の線で、
これもマナセか?
呉は西のリビア王朝に当たると仮定したが、高市はマナセか?
リビア王朝もマナセか?(違っていたらエフライム。)
西魏→北周
は宇文部でガド族、奚は宇文部に吸収されたルベン族と仮定。
「ライバルの北周は仏教と道教を禁止したという事です(エフ工)」
宇文部の線は仏教と対立。
「北魏の拓跋珪が幼少時に、武将の賀抜斤(または賀若斤)(漢姓では長孫氏)
の謀反で、代(エフライム、北魏の前称)の単于であった父が敗死すると、
代の弱体化を衝いた奚の各部族長は謀反人の長孫斤と共に前秦の苻堅と結んで、
代を滅ぼしたという。」
↓
長孫姓は賀に当たるのか?それが代(君が代のエフライム)を滅ぼしているので、
長孫=賀はマナセ。
「賀跋部」は「賀」のマナセ+「跋」のエフライムで、
エフライム・マナセの連合隊と推定。
下の系図を見ると、
李淵は宇文部との繋がりを持ち、西魏→北周とも組んだか?
太宗、高宗には長孫氏から皇后、擁立の関係があり、
ライバルの北斉の流れ、マナセ・エフライム。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002392M.png
武則天は崇山のマニ+ミトラ、浄土宗
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
武則天は、太宗の妾、高宗の女になるが、高宗の皇后の廃立させた。
長孫無忌(マナセ・エフライム)は武則天の台頭に反対。
皇后となった武則天は病気がちな高宗に代わり、垂簾政治を行った。
初唐は隋と同じく基本的に貴族政治であり、
関隴貴族集団と呼ばれる貴族たちが権力を握っていた。
武則天は関隴貴族集団を嫌い、新しい人材を積極的に登用した。
武則天は外事にも取り組み、660年(顕慶五年)に新羅(マナセ)の要請に応え、
百済(ベニヤミン)討伐の軍を起こす。百済(ベニヤミン)を滅ぼした後の
日本と百済の遺臣連合軍(倭人、北九州王朝)との白村江の戦いにも勝利し、
更にその五年後には孤立化した高句麗を滅ぼす。
↓
長孫と対立したので、新羅との繋がりは不可解だが、
「百済滅亡以来、その故地を占領していた唐と旧百済領の支配権をめぐって対立」
しているので、武則天と新羅との繋がりは流動的で、
強いものではないので納得。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/busyuukyou.htm
(688)六月、江南道巡撫大使、冬官侍郎狄仁傑は、呉、楚に淫祠が多いので、その千七百ヶ所を焚いたと上奏した。ただ、夏禹、呉太祖、季札、伍員の四祠だけは残した。
+
老子を習わせることをやめ
↓
呉・楚などのモン族とは敵対。
老子も儒教と対立する、シュメールに近い思想。
百済−北九州のモン族、ベニヤミン連合と敵対していたからだろう。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/tengokaigi.htm
河内に年老いた尼がおり、神都の麟趾寺に住んでいた。彼女は嵩山の人韋什方等と共に妖術と広言で大衆を惑わした。
尼は自ら浄光如来と号し、未来を予知できると言った。什方は呉の赤鳥年間生まれたと言った。また、ある年老いた胡人は自称五百才。薛師に会ってから二百年経つと言っていたが、容貌はまだ若かった。太后は、彼等を大変重んじていた。
延載元年(694年)什方へ武氏の姓を賜下した。
秋、七月癸未。什方を正諫大夫、同平章事として、制を下した。
「黄帝の頃の廣成を凌ぎ、漢代の河上を越える(廣成子と河上公。共に仙人)。」
八月、什方が山へ帰ることを乞うたので、制にて官職をやめさせ、帰した。
+
また、祟山を神嶽と改称し、その神を天中王へ封じ、太師・使持節・神嶽大都督として、
草を刈ったり放牧したりすることを禁じた。
↓
泰山ではなく、崇山派のようだ。崇山の意味は後に調べる。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/16-goteidensetu.htm
共工を幽陵に流して北狄に、驩兜を崇山に追放して南蛮に、
三苗を三危に遷して西戎に、鯀を羽山に熙(幽閉)して東夷に、それぞれ変えました。
↓
三苗は呉楚越で彼女の敵。共工は泰山。
驩兜は共工と組んだ南蛮だが、則天武后は南蛮勢力か?
河南省には、龍門洞窟。
先史時代の裴李崗文化や仰韶文化などの遺跡がある。
北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した494年(太和18年)に始まる。
孝文帝により、北魏の漢化が始まり、
「高宗時代に、龍門石窟は最盛期を迎えることとなる。
その絶頂期の石窟が、675年(上元2年)に完成した「奉先寺洞」である。
これは、高宗の発願になるもので、皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進している。」
から、
武則天も孝文帝の流れか?
嵩山少林寺は、孝文帝が西域沙門の仏陀禅師の住寺として、少室山陰に建立したとされる。
↓
やはり武則天は孝文帝と同勢力か?
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/kousakuritu.htm
太宗が崩御すると、武氏は他の側室達と共に感業寺にて尼となった。
↓
則天武后は仏教と強いつながりを持つ。
太后はかつての白馬寺を修復し、僧侶の懐義を寺主とした。
武則天は、自身の姿に似せたという大仏を龍門の奉先寺に造営し
↓
龍門は龍門洞窟。
奉先寺造営の責任者は、中国浄土教の祖の一人である善導であった。
仏教については殆ど何も知らないが、
浄土教は、弥勒菩薩が未来に世界に現れるので、
それにあわして世界を変えなければならないという、ミトラ教らしい。
中国における浄土教は、善導とは系統が違うが、
白蓮社とも近いようだ。
白蓮教はマニ教と弥勒信仰が習合したもの。
マニ教は3世紀から5世紀の間に中国に伝来したようだ。
武則天は仏教を偏重し、諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、
自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し
↓
弥勒菩薩はミトラ。イランとのつながりの可能性が浮かぶ。
マニ教、浄土教の勢力と崇山において、武則天は繋がっていたようだ。
東魏国寺の僧法明等が大雲経四巻を撰集して上納した。
http://homepage3.nifty.com/alacarte/hajimete-9.htm
懐義が、東魏国寺の僧法明ら洛陽の僧侶集団9人と共謀し、女帝出現の予告らしきものを仏典から探し出してきたとある。
中国では、過去に女帝の例はなく、さらに政治に女性が容喙することを戒めていたため、儒家経典や史書に典拠を求めることができなかった。
そこで、有名な、仏教の弥勒仏下生(みろくぶつげしょう。釈迦入滅後、弥勒仏が人間界に転生し一切の衆生を救うという説。ただし、弥勒仏は菩薩であり女性とは限定されない)と、北涼時代の『大雲経』(仏陀が浄光天女に「女身をもって、王位につき、天下をおさめよ」と予言する一節がある)とをミックスさせた。
武則天は、儒教(南ユダ)にも北イ(泰山)にも頼れない特殊な立場で、
崇山の浄土宗、マニ教と手を組んだ。
より細かい疑問は残るが、この辺りで次に移りたい。
武則天、楊貴妃。かわいこたんと政治
歴史を見るとルールを勝手に変更すると乱れる。
「これだけは守らなければ、根幹が崩れる」というルールがあると思う。
ルールの重要さの理解と、それを守るための行動は、
ルールを共有する人間の義務。
一つのルールが破られれば、他のルールも破られる。
ムハンマドやマルクスのような世界史屈指の思想家でさえ、
良い社会をもたらし得なかった。
良い社会を構築することの困難さを認識し、
ルールを破るものは許さない、という態度を徹底すること。
そうでなくては、ルールは狙い通りの社会を提供できないでしょう。
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
この書き込みは仮定です。
中宗−睿宗は武則天の傀儡で、無意味。
玄宗は武則天後の権力争いを制する。
開元の治は、武則天が見出した姚崇、宋?の両宰相により担われた。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/kaigenn3.htm
九月丁未、梁文献公姚祟が卒した。遺言で命じる。
「仏は、清浄慈悲を本分とする。それなのに愚か者は写経や仏像を造ることで、福をこいねがう。昔、周と斉が天下を争った時、周は仏像を殺して武器を整備した。斉は塔廟を崇め刑罰や政治は弛緩した。そして一朝合戦の時、斉は滅亡して周は勃興したのだ。最近では諸武、諸韋は数え切れぬほどの寺を造り出家させた。それでも、一族誅滅を救えなかったではないか。児女が殺されてもまだ悟らず冥福を祈っているような真似を、お前達は絶対にするな!道士は僧侶が利益を得ているのを見てそのやり方を見習っているが、お前達はこれを我が家へ持ち込んではいけない。これを、永く我が家法とせよ!」
十二月、蒲津橋を作り直す。鉄を溶かして牛を造り、これを繋ぎ合わせる。この時、八頭の牛を鋳造した。牛の下には山があり、全て鉄でできていた。
↓
武則天と違い仏教を遠ざけている。
そして八頭の牛は、八卦のバアル信仰か?
通観記事にも片寄りはあるが、
歴史を理解するための情報が、忠実に微細なところに記述されていることが多く、
無意味に八頭の牛のことなど書かないのではないか?
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/kaigenn4.htm
壬子、河南、北平の地にて、日時計と極星を測定するよう、太史監南宮説等へ命じた。夏至の日中に八尺の表を立てて同時に測定するのである。
陽城では、影の長さが一尺四寸八分弱だった。夜、北極星を見ると、地面から三十四度と十分の四の高さだった。浚儀岳台では、影の長さが一尺五寸より僅かに長かった。極高は三十四度八分。南方の朗州へ至ったら、影の長さが七寸七分。極高は二十九度半。北方の尉(「草/尉」州では、影の長さが二尺二寸九分、極高は四十度。
南北で三千六百八十八里九十歩離れると、影の長さは一尺五寸二分、極高は十度半違った。
又、南の交州では、影は表の南へ三寸三分出た。
八月、海中から老人星の下を望めば、多くの星が燦然と輝いていたが、皆、昔から名が付いていない星である。南極から、おおよそ二十度以上離れた星は、皆、見えた。
十三年の十月癸丑、作らせていた水運渾天(たぶん、天文関係のからくりです。水の力で自転する地球儀でしょうか?)が完成した。
↓
ここの天文の記述も、他では見当たらないので、深読みすると、
「世界ではじめて月と太陽の運行周期を体系化したのは、メソポタミアである」
伏儀のカタカムナは天文の記録、
バールと合わせて、玄宗が伏儀信仰だったことを意味しているのではないか?
ちなみに、
「イマヌエル・カント、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
(惑星軌道論)など有名哲学者の専門は理論天文学者であった」
など天文と思想は起源が近い。
天地の理を理解する。それは伏儀、シュメール的な姿勢に近い。
思想も、理系に食らい付いていかなければならないと考えます。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/kaigenn5.htm
乙丑、裴光庭へ吏部尚書を兼任させる。
従来は、司や官の人選は、ただ人間の能力のみを見たので、ある者はまるで出世しなかったり、あるいは老年になっても下位のままだったり、出仕して二十余年になるのにいまだに禄を貰えない者などが居た。また、州県には等級がなかったので、ある者は大から小へ行かされたり、都近辺から僻地へ行かされたりなど、定まった制度がなかった。
光庭が始めて資格を遵守するよう上奏した。各々任期が終わった後、経歴の多少で序列を決め、吏部に集める。官位が高い者は次の任務にあまり選ばれず、低いものを中心に選任する。能力のあるなしに関わらず、任期を終了したらそれを記録し、年期が来たら昇給する。官位の序列は越えることが無く、譴責された者でなければ皆、昇級して降格はない。
この上奏に、能力が無くて出世できない者は皆喜び、これを「聖書」と呼んだ。しかし、俊才達は怨嘆しない者はいなかった。宋?はこれを不可として争ったけれども、裁可された。
+
この時、上は宦官を非常に寵任しており、往々にして三品将軍となり、門には赤い油を縫った戟が掛けられていた。天子の使者となって諸州を行き過ぎれば、官吏は恐々としてご奉仕した。この時に贈られる賄賂は、少ないときでさえ千緡をくだらない。これによって京城近郊の田園は、ほぼ半分が宦官のものとなった。宦官では、楊思助と高力士が特に貴くなった。
↓
で、無駄な情報をあまりのせない記事通観が「聖書(原文は知りませんが同じでしょう)」
という言葉を使い、能力がある者が遠ざけられ、宦官が力をつけた、
と記述しているのを見ると、
姚崇が死んだ後、この時期に玄宗は宦官に取り入れられ、
その宦官は「聖書」と関係ある勢力だったのではないか、とう仮定もできる。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/ririnbo.htm
吏部侍郎李林甫は柔佞で狡猾、悪智恵が働く人間。宦官や妃嬪の家と深く結託し、
上の動静を窺って全て知り尽くしていた。
群臣が、「聖文」の尊号を加えるよう請うた。
二月己巳、これを許す。そして天下へ恩赦を下し、百姓へは今年の田租を免除する。
四月癸酉、敕が降る。
「諸々の陰陽術数は、婚姻や葬礼、占い以外、これを禁じる。」
明日は、玄宗と宦官の繋がり、
楊思助と高力士から楊貴妃、安史の乱からチベットを調べます。
地図は以下のサイトから、
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/Eurasia7C.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002394.jpg
(無題)
・・楊貴妃はミトラではないか?
ローマ→景教→太宗→楊、高?
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
高力士
武則天の時代宮廷から追放され、宦官の高延福の養子となり、以降、高姓を名乗る。
↓
寵愛された宦官とはいえ、権力を握るには後ろ盾が必要で、
この「高」はエフライム工房の高市の線と関係はないか?情報求む。
武則天との対立は北イの可能性がある。
宮廷に復帰後、李隆基に仕える。
先天2年(713年) 玄宗に対する太平公主派のクーデターを鎮圧する。
+
http://www.toride.com/~fengchu/kaisetu03.html
太平公主 人名。?〜713。唐の高宗と武則天との間の娘
武則天は自分に似ているとして頗る寵愛した。
唐隆元年(710)、李隆基(玄宗)と共に韋后と安楽公主を誅殺して睿宗を擁立すると、その勢力は益々強まり、時の宰相7人の内5人を一門の中から輩出し、三人の子は全て王となり、その党派は禁兵を掌握し朝政を左右するようになった。後、玄宗が即位すると政変を謀るが事前に漏れて死を賜った。
↓
太平公主は、武則天の勢力で、玄宗がそれと対立した時に、
北イ派は玄宗に加担したのではないか?
玄宗の初期は、姚崇、宋?により漢の勢力が力を持ったが、
裏で宦官(ここでは北イ)が玄宗を狙っていた。
姚崇の死後、「聖書」に関わる勢力が台頭し、
そのときの権力者が楊思助と高力士。
唐代の三夷教は、
マニ教、ゾロアスター教、景教だが、
聖書と関係あるのは景教のみ。
「中国への景教の伝来は、635年にネストリウス派宣教団が長安に到着したことから始まる。このとき太宗の命により、宣教団の団長阿羅本(アラホン、アロベン)を宰相の房玄齢による出迎えを受けたことが、『唐会要』に見える。時の宰相が出向いていることを考えると、少なくとも朝廷に対する何らかの働きかけを行った者が、既に長安で活動していた可能性が高い。これほどの高官の歓待を受けたことより、宣教団には西域の何処かの国(サザン朝ペルシアが有力か)からの外交使節的な意味合いが含まれていたとも考えられている。」
↓
太宗はマナセ・エフライムで景教につながる。
ササン朝に聖書はないので、敵対するローマ帝国と繋がっていたのではないか?
ローマ帝国には平御幸によると、マナセ族が関与していた。
玄宗を堕落させた宦官の聖書勢力も太宗の景教と繋がる可能性がある。
「カトリック・東方正教会・プロテスタント等、キリスト教主流派では、
ネストリウス派は異端とされる。」
ので、ローマ帝国と景教は関係ない、という考えもあるだろうが、
ローマ帝国で重要だったのは、教会、ペテロの正当化。
逆に、マナセ・エフライムにとって重要なのは、
マリアの子として自分たちを正当化すること。
自分たちを子供と認めなかったマリアを神聖視しないネストリウス派は、
マナセ・エフライムの気に入りそうな教義。
だから景教はローマでは異端でも、住み分ければ対立はない。
大秦寺の「秦」は、エフライム・マナセ族が、
イナンナの正当な子供であり、イナンナの夫はヨセフである、という教義か?
楊氏、高氏について細かい部分は飛ばしますが、
高市の線が景教と重なったのか?
中国−朝鮮半島−日本の仏教、キリスト教の諸派の区別は、
私にはまだできていないのですが、詳しい解説求む。
玄宗後期は北イ(景教)とイナンナ(道教)の対立か?
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
玄宗は楊貴妃との愛欲の生活に溺れたため、まったく政治を顧みなくなり、
彼女を喜ばすために楊一族の位を高くした。その結果、楊貴妃の従兄の
楊国忠の専横を許すこととなった。
http://s.z-z.jp/thbbs.cgi?id=gikg&th=53&p3=
楊貴妃と楊国忠は当初は昵懇の仲でしたが!?…楊国忠が権力を握ると関係は疎遠になり 危機感(飼い犬に手を噛まれる)を抱いた楊貴妃がとんでもない化け物である安禄山を頼るようになる分けです
楊貴妃と楊家一族の奢侈逸楽ぶりにより 都の長安の財と言う財は楊家一族に収奪され その財が安禄山に流れ安禄山の私兵軍団を肥え太らせた分けでもあります
自分で自分の首を絞めてしまい…楊貴妃は玄宗を道連れに唐王朝を衰亡させて行く分けでした
安禄山は元々宰相李林甫の引き立てを持ってここまで出世してきたが、
楊貴妃の従兄楊国忠と結んで李林甫を追い落とした。
その後、後任の宰相となった楊国忠と安禄山による主導権争いになる。
↓
李林甫−安禄山(ソグド)−武惠妃−壽王−イナンナ−道教?と、
楊国忠−高力士−太子與−マナセ・エフライム?
楊貴妃は最初はマナセ・エフライムだが、
途中で安録山の側に変更。
康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。
「禄山」はソグド語の「ロクシャン(明るい・光の意味)」の音訳。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/ririnbo.htm
この頃、武惠妃への寵愛は後宮を傾けており、子息の壽王清は他の太子よりも断然愛され、太子への愛情が次第に薄くなっていった。そこで林甫は、“壽王の保護に全力を尽くさせて下さい、”と、宦官を介して惠妃へ申し入れた。惠妃はこれを徳として、ひそかに内側から助けたので、林甫は黄門侍郎に抜擢された。
この頃の上は、鬼神を祀る事をとても好んでいた。
だから、與は祠祭の礼だけを学んで進言した。上はこれを悦び、侍御史、領祠祭使とした。
與の祈祷は、あるいは紙銭を焚いたりするもので、巫事の類だった。
だから、礼を習った者はこれを羞じた。
↓
http://www.kitakami.ne.jp/~ksa/oni/bunrui/kishin.html
摩多羅神(まだらしん)
大陸からの渡米神ともいわれている摩多羅神は、作神として信仰を集める一方、
異貌の神として赤、青の鬼を従える鬼神です。
http://www.pref.ibaraki.jp/discover/festival/west/01.html
鬼が登場するという変わった祭。住職が赤鬼・青鬼を連れて登場すると、
マダラ鬼神と呼ばれる古代インド神が馬に乗り現れる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-1.htm
巫鬼道は、道教の先駆け的存在
鬼神もよく知らないのですが、少し眺めた限りでは、
ミトラ−巫女で卑弥呼、マトゥラの線のイナンナ系に見える。
十一月、庚戌、司空の分(「分/里」)王守禮が卒した。
守禮は、凡庸な人間で学識はなかったが、雨が降ったり晴れたりするときには、必ずこれを予言し、それがまたピタリと当たった。
岐、薛諸王は、上へ言った。
「分兄は、不思議な術を持っています。」
そこで上が尋ねてみたところ、
守禮は答えた。
「臣は不思議な術など持っていません。ただ、則天武后の頃、章懐の一件で宮中へ十余年幽閉され、毎年杖で四回打たれたのです。その傷跡が背中に瘡蓋となって厚く残っております。雨が降ろうとするときにはそれが重くのしかかってきますし、晴れようとした時には、軽爽になるのです。ですから、臣は天気を予測できるだけです。」
↓
かつ、この予言が鬼神勢力だとしたら、武則天(マニ教、浄土宗)とも対立する。
楊国忠は北イ系で鬼神と対立すると考えられるので、
イラン、北イとも別のイナンナ系と仮定しておく。
安録山の流れが南ユダ系か?
ソグドにイナンナ派との繋がりがないかは、後に追いたい。
上が、夢で玄元皇帝から告げられた。
「京城の西南百余里に、吾が像がある。汝は使者を派遣してこれを求めよ。吾は、興慶宮にて汝とまみえよう。」
上が使者を派遣したら、楼観山の中でこれを得た。
↓
玄元皇帝は老子で道教勢力が関わっているらしい。
「道教の発生は、中国古来の巫術もしくは鬼道の教を基盤としている。」
下は台湾の道教の寺ですが、
狛犬のようなものがいるので、シュメール系。
巫女がイナンナの派生で、道教は南ユダ、イナンナ派と仮定しておく。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002397M.jpg
ソグド突厥(ベニヤミン)、ウイグル(イラン、バール)、唐(乱後は北イ)?
>>・・楊貴妃はミトラではないか?
26、27、28の芋娘…
秋刀魚はフェニキア海洋民族。ワワはソグド突厥の情報通。
ムントゥーは語源的にバントゥー族。
竹→長江+華南、でバール信仰。
N子は、林→楚人の鬼子で、鬼神…
以下のサイトの論文が面白いので殆ど抜粋します。
http://homepage3.nifty.com/liaojinxixia/yousi4/nakata.htm
唐代ソグド系突厥の反乱−通商ルートの支配権をめぐって
唐代では突厥、またその後の五代諸王朝時代においては沙陀突厥と混血した
「ソグド系武人」と呼ぶべき集団が存在したことが明らかにされている 。
安史の乱を引き起こした安禄山と史思明が、そのような集団に属していたこと、
また、そのおよそ30年前にも、ソグド系突厥の康待賓が反乱を起こしており、
この二つの反乱は全く別個のものではなく、実は密接な関係を持っていたと結論付けた。
康・安・何・石など、ソグド人特有の姓を保持し続けており、
彼らがソグド系突厥である可能性を指摘できよう。
実は、六胡州の地をふくむオルドスの地では馬が飼育され売買されていた。
康待賓の乱が起こる前から、唐王朝所有の馬は減少する一方であり、唐にとって、
ソグド系突厥が保持する馬やその牧場は魅力的なものであったであろう。
六胡州のソグド系突厥たちは、その地で馬の飼育・売買を行っており、所有する馬の減少に窮した唐王朝がその利権を求め、彼らに圧迫を加え始めたのではないか。康待賓の乱は、そのような施策に反発したソグド系突厥たちの反乱であったと考えられよう。
安禄山の母は突厥の巫女、父は康というソグド姓をもつ「雑胡」、
すなわち突厥・ソグドの混血児であり、
安史の乱の構成員に目を転じてみると、ソグド系突厥の他に、
突厥・奚・契丹・同羅が見える。
744年に突厥がウイグルを中心とするトクズオグズ(九姓鉄勒)連合によって滅ぼされた後、通商は完全にウイグルの支配下に陥った。もともとはソグド系突厥・突厥によって、この地の馬の売買を中心とした通商が支配されていたと考えられ、この時点で彼らの通商ルートへのコントロールは失われたことになる。ソグド系突厥たちは手痛い打撃をこうむることになった。また、安禄山の本拠地であった幽州の北辺には奚・契丹の存在があり、彼らも通商ルートの利権に絡むことを望んだことは十分考えられる。それ故、安史の乱には契丹や奚なども加担し、ソグド系突厥による通商路の支配権の回復が計られたのである。
↓
↓
「安禄山の母は突厥の巫女」で道教、突厥はベニヤミンでイナンナ派。
「契丹は民族の神話によると、白馬に乗ってきた神人と青い牛の牛車に乗ってきた天女が結婚して八人の子供を設けた。これが後の契丹八部の祖先になったといわれる。この伝説は中国の歴史教科書にも紹介されている。」
↓
神話を見ると、伏儀、バール、イナンナの組み合わせに「八」人の子供なので、
契丹もシュメール系なのだろうか?これはまだわからないが、
突厥と組んでマナセ・エフライムと闘っているので、
少なくとも北イの中枢ではないようだ。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/keiminn.htm
鉄勒は、匈奴の末裔である。鉄勒に属する部族は多く、僕骨、同羅、契必、薛延陀
などがあり、その酋長達は俟斤と号した。その風俗は突厥とほぼ等しく、
鉄勒全体を治める大酋長がいなかったので、彼等は各部族毎に東西の突厥へ臣従していた。
↓
匈奴=イラン系の鉄勒、同羅とベニヤミンの突厥の風習がほぼ等しいのは、
同じ元シュメールだから。
「この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、ウイグルの援軍を得て乱を鎮圧した(実質的にウイグルの援軍なしには乱の平定はありえなかった)ために、外交上および通商においてウイグルの優位が確定的になり、対ウイグルの貿易は大幅な赤字となり、国家財政をも圧迫するにいたった。」
↓
ウイグル
「その体制が九部族の連合体だったので、「九姓鉄勒」(鉄勒九姓、トクズオグス、Toquz Ögüz)とも呼ばれる。745年突厥を滅ぼして遊牧ウイグル帝国を打ち立て、帝国自体は100年程で崩壊し、一部はのちに中央アジアに移住して天山ウイグル王国を築き、イスラム世界から「トゥグズグズ」(Tughuzghuz)と呼ばれた。が、その後のイスラム化の波に飲み込まれて消滅した。ソグド人の影響でマニ教を尊崇したことで有名だが、中央アジアに入った者は仏教も信仰していた。」
↓
ウイグルは匈奴、鉄勒でイラン系と仮定。マニ教の信仰は筋が通る。
突厥もウイグルも可汗を名乗っているが、ミトラ系の称号の可能性が浮かぶ。
ウイグルの地を巡って、イラン系鉄勒とイナンナ系突厥が対立。
安史の乱では、ウイグルはソグド突厥に対抗して、唐を助けているが、
交易戦争の延長なのだろう。
乱後、ウイグルは立場的に唐を威圧し、交易で潤うことになる。
安史の乱自体は、馬なども原因だろうが、
李林甫−安禄山(ソグド)−武惠妃−壽王−イナンナ−道教−突厥と、
楊国忠−高力士−太子與−マナセ・エフライム、による、
勢力争いが大きいと推定。
「楊貴妃は兵士に楊国忠と同罪であるとしてその殺害が玄宗に対して要求され、
やむなく玄宗の意を受けた高力士によって絞殺された。」
↓
高力士は楊国忠派というより、背後勢力を持たない、玄宗の側近とみたほうがよいか?
http://home.t02.itscom.net/izn/chu10.html
宇文融・李林甫・楊国忠・安禄山らはいずれも力士と結んで権勢を得た。
↓
力士は、玄宗を左右できる立場にあって、南北の両方を行き来したか?
安史の乱の中、玄宗の子、粛宗が、
「宦官李輔国の説得もあって皇帝に即位することになり、至徳と改元した。
これは玄宗の了解を得たわけではなかったが、事後承諾させて上皇に押しやった。」
↓
http://www.toride.com/~fengchu/retu03f2003.html
安史の乱の時、玄宗に従い逃亡するが、馬嵬駅で陳玄礼が楊国忠を殺す謀に加わった。
この後、玄宗と太子(李亨:後の粛宗)とが別れると、太子に朔方に行き、
河・隴の兵を収めて復興を図るよう進言し、霊武に落ち着いた太子に即位するよう勧めた。
宮廷内の粛宗派と上皇(玄宗)派との対立の中で、
上皇派の首席宦官である高力士を巫州へ流し、上皇を幽閉同然に宮中に閉じこめた。
粛宗の死後に代宗(李予)が即位すると、定策の功(皇帝を輔け位に立てた功績)
によりますます傲慢に振る舞うようになり、
程元振を李輔国の対抗馬として重用し始めた代宗によって、禁軍を初めとする実権を持った官職を次々と遷されたため、実権を失った李輔国は代宗の放った刺客により暗殺された。
↓
玄宗(高力士)と李輔国(粛宗)の対立の勢力がわかりにくい。
http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu09a.html
粛宗の妻の張皇后と李輔国という宦官が権力争い。
李輔国は先手を打って張皇后を殺害。その李輔国は、代宗が別の宦官である程元振に誅殺を命じたことから、殺害されることになります。もっともこの程元振は、李輔国に輪をかけて皇帝など何とも思っておらず、絶大な権力を握り、ますます代宗の力が弱まってしまいました。
安史の乱後の唐は150年も続くらしいが、
わかりにくいのでひとまず棚上げして、違う方向を調べる。
突厥=イナンナ、ウイグル=イラン、で、
唐には北イスラエルが残った、と適当に仮定しておく。
詳しい解説求む。
グプタ以降のインド、概観
吐蕃がわかりにくいので、
南のインドの諸王朝を調べて、インドとチベットの繋がりを追いたい。
以下、ウィキペディア+私見
グプタ朝
第4代クマーラグプタ1世(位415年頃〜455年)の治世は、
玄奘や義浄も学ぶことになるナーランダー僧院が設立されたことで知られるが、
遊牧民エフタルの侵入によって衰退。
その後は分裂し550年に滅亡。
マウカリ朝 6世紀半ば〜7世紀初め ヒンドゥー王朝
ヴァルダナ朝(606〜647)
↓
ヒンドゥー教(仏教保護もあり)
マイトラカ朝 5世紀末〜8世紀中頃
サウラーシュトラ地方を支配した古代インド王朝。
首都名にちなんで「ヴァラビー朝」とも。
ヒンドゥー教シヴァ信仰が中心だが、
首都ヴァラビーは仏教・ジャイナ教の中心地でもあった。
チャールキヤ朝は、
ササン朝ペルシャのホスロー2世との間に使節や贈物の交換。
ヒンドゥー寺院を建設した。
↓
イラン系と組んだヒンドゥー系と推定。
パラヴァ朝は、タミル系王朝である。
パーンディヤ朝は、ヒンドゥー系だが、
プトレマイオス朝エジプトと交易関係があって、
プトレマイオス朝滅亡後はエジプトを経由してローマと通交があった。
↓
パーンディヤ朝はマナセと組んだバラモン王朝と仮定。
チョーラ朝はタミル系のヒンドゥー王朝。
パッラヴァ朝の封臣であったヴィジャヤラーヤが起こした。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/eurasia6C.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002399.jpg
アメタリシヒコ疑惑1
以下、ウィキペディア+私見
面白いので、以下のサイトから殆ど抜粋。
http://murashita.que.jp/asu4.htm
さて、推古天皇践祚の翌年に皇太子聖徳太子が初の摂政として政務を総攬することと
なりました。?? 遣隋使や十七条憲法、冠位十二階とかで有名ですよね。
あとは何と言っても「日出づる処の天子」。
「隋の煬帝に対して送ったと言われる文書は有名ですよね。「日出づる処の天子、
書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々」中華思想の国に対して対等外交と
言うか半ば「こっちの方が上なんだぞ」みたいな挨拶をしたとか言う。
また隋書倭国伝によれば当時の倭国王は「アメタリシヒコ」と言う男性となっています。
これはどうやら聖徳太子を指すようです。」
ちょっとね、「アメタリシヒコ」が聖徳太子だったと言うのはわかんないんだぞ。
でも中国の本に出てるじゃないですかー。
じゃ聞くけどあれだけ聖徳太子を礼賛する「記紀」にこのことについての記述が全く
無いのは何故なんだ?この事実を書き残す文献っていうのは隋書倭国伝にしか無いのよ。
太子礼賛の為にも国威発揚の為にもこの「アメタリシヒコ」が聖徳太子だったなら
書かないわけが無いって思わないか?
書いてないんですか?日本の書物に。じゃぁ「アメタリシヒコ」って誰なんです?
当時の天皇って誰よ。
推古です。
おかしいじゃん。つじつま会わないじゃん。
だからそれは摂政である聖徳太子を日本の首長と隋の役人が勘違いして・・・
国書だよ、国を代表するんだぞ。なんで摂政ごときの名前で出す?ここは当然推古の
名前で出すのがあたりまえなはずじゃないのさ。実権を握ってるのが誰であれ「卑弥呼」
の例を見るまでもなくトップの人間の名前で出すに決まってるでしょ。
それに聖徳太子が厩戸皇子だったにせよ豊聡耳皇子だったにせよどこをどう読んだら
「アメタリシヒコ」になる?
うーむ。。。
さらにこの後の608年に日本を訪れた隋の文林郎裴世清が会ったという倭国王は
男だったんだよ。仮に推古天皇の摂政としての聖徳太子に会ったとしてそれを
国王と勘違いするようなそんなバカだったのか?裴世清。とにかく「記紀」に
このお話を書けばもっともっと聖徳太子を顕彰できたはずなのに書かなかった。
いや、書けなかった。
どういうことです?
書こうにもその事実を知らないんじゃ書けないでしょ。
だって聖徳太子はそんな国書なんて出してないんだもん。
出た!アヤシゲ説!!
失敬な。
なら誰が出したんです?あの国書。
村下説ではまだこの頃はいわゆる大和朝廷ってローカルなものでしかなかった
って思うのね。ここで隋書倭国伝を信用するとしたら、
ちょっと面白い記述があるんだけど。
隋書倭国伝で日本の地形に関して書いた行っていうのは航路の他にはこれだけなのよ。
「阿蘇山あり。その石、故無くして火起こり天に接する者、
俗以て異と為し因って祷祭を行う」
え?阿蘇山?
阿蘇山って熊本県だよねぇ。飛鳥に行くのに仮に北九州に上陸して中国地方を
陸行するなり瀬戸内海を海行するなりどちらにしてもなーんで熊本県の阿蘇山が
出てくるんだ?裴世清が日本で最も印象に残ったのが阿蘇山だったっていうのは
何を意味してるんだろーねぇ。
なんか含んだ言い方しますねぇ。
「アメタリシヒコ」は聖徳太子では無かったのではないか?
この疑問は九州に王朝があったとしてそこに裴世清が行ったのだとしたら
全てのことに合点が行く、なんて思ってしまうワケさ。
ソンツェンガンボ→聖徳太子
以下、ウィキペディア+私見
面白いので、以下のサイトから殆ど抜粋。続き。
http://murashita.que.jp/asu4.htm
かっかっか。「創り出された」聖徳太子像にはもう勘弁して欲しいってのあるんだよね。
でもね、畿内の勢力は何もやってなかったって言ってるんじゃないんだよ。
裴世清は九州王朝を訪問した後に畿内にも行ったって考えたいんだな。
それについては知られている通りだと思うのよ。
ただ「日出づる処〜」を書いたのは聖徳太子でも無いし畿内政権の誰でも無いと。
じゃ十七条憲法とか冠位十二階なんかはどうなるんです?
十七条憲法って「憲法」なんて大げさな名前が付いてるけど「和を以て貴とし」
だからねぇ。基本的に十七条憲法は「仏教をあつく信じてお上にはさからいなさんな」
って主張なんだけど大したものじゃないよ。
ですかねぇ。それまではそういうものすらなかったわけで内容云々はともかくとも
評価されるべきものじゃないのかな〜って思いますけどねぇ。
んじゃ内容はそれでもいいとしましょう。では文中第12条に「国司」、
4,8,14条に「群卿百寮」って語句があるんだけど、「国司」の名称が
使われるようになったのは大宝律令後で「群卿百寮」って語句が合致するのは
天武朝以後であるってあたりについてはどう説明しましょうかねぇ。
なんか意地悪ですね。
奈良時代の「明一伝」だとか「七代記」あたりの聖徳太子の資料にも
一切この十七条憲法の記述が見えないのはどう考えても「日本書紀」
の創作と思わざるを得ない。
この時期のチベットに「十六条憲法」が制定されたって事実があんのよ。
ソンツェンガンボ王によって制定されていますね。かなり仏教に熱心な国王
だったようです。それ以前でもインドでアソカ王が似たようなものを出してますね。
仏教に熱心なところではそういうことをやってんのよね。
で、このソンツェンガンボは「観音菩薩」の化身なんだってさ。
たしか聖徳太子って・・・
聖徳太子は「如意輪観音」の化身だよねぇ。似てるよねぇ。
またまた含みますねぇ。
冠位十二階についても推古天皇に冠位が無いのはいいさ、与える方だもんね。
でも聖徳太子にも無いんだなー。おかしくない?
聖徳太子も与える方だったとか。
百歩譲って聖徳太子も与える側だったとしましょう。さて、そこでもう一つ、
実は蘇我馬子にも無かったんだなー。どうしましょうねぇ。
馬子も与える側だったとしましょうかねぇ。
言いますねぇ。
馬子が与える側だったとすれば冠位十二階の制定に馬子もかなり関わっていたって
見るべきよねぇ。でね、この冠位十二階って当時の百済の冠位と似てるのよ。
百済系渡来人と非常に近かった蘇我氏が関わってないって思う方が無理があるって
感じなんだな。冠位十二階は聖徳太子が作ったってよか蘇我氏中心でできあがった
って説を村下としては支持したいと。
まぁ「聖徳太子」って名前は後世の作なのははっきりしてるんだけどね。
でも厩戸しかり、豊聡耳皇子しかり、なんか作為を感じてしまうんだねぇ。
厩戸とくればキリストでしょうか?でもそんな昔にキリスト教の事が
わかっていたのかなー?ザビエルが来たのって戦国時代ですよー。
ちょうど「記紀」の編纂された頃って言うのは遣唐使が唐の文化を持ち帰っていた
時期なんだよね。当時の唐は世界文化の一大博覧会的な土地だったんだよ。
中国では景教って呼んでたんだけどネストリウス派キリスト教はしっかりと
入ってきてたんだな、これが。
高市の線は突厥
ここで平御幸から大量に抜粋。
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji12.htm
第12章 聖徳太子の正体〜アルメニア教会
今回は法隆寺の謎に迫るという目的で始まった講義だが、倭国とは何かという命題を避けては通ることが出来なかった。それは、『隋書』に安毎多利思比狐(アマタリシヒコ)と記される倭王こそ、聖徳太子の年代にピッタリ重なるが故の必然でもある。
「タリシヒコは、イスラエルのユダ族と血縁があった突厥なのです」
西突厥の王である可汗(ハーン)の達頭(タルドゥ)が聖徳太子である、
というのが小林説である。
「じゃ、ター、タル、タリ、が付くものはトルコに関係してるんだ…」
「それで、タリシヒコもタリでしょ。これは、
トルコの王子という意味に捉えることができるのです。
「聖徳太子の出現時期と、秦氏の活動の時期が一致しています。
ですから、突厥と秦氏のバックアップを得て、タリシヒコは隋と交渉できたのです。
『古代遊牧帝国』によれば、ブグト遺跡の碑文はソグド文字で書かれていた。そして、この碑が建てられたのは570〜580年頃だと考えられるという。奇しくもこの時代には、日本では蘇我氏が台頭していたのである。
「じゃ、先生は蘇我氏がソグドだと考える訳ですか…?」瞳は半信半疑である。
「先生、分かりました!かき裂く狼です。ヨセフの弟のベニヤミンです!」
「そうです!ベニヤミンこそ突厥の正体だったのです!
だから、狛犬とは高麗狗で、ベニヤミンの狼そのものとなるのです。
そういう視点で突厥と秦氏の関係を捉えると、突厥王自身が倭王を
名乗る理由も分かりますね」
高市と聖徳太子は繋がらないのです。
高市はカフカスことアルメニアのイスラエルですか?
アルメニアはキリスト教と切り離すことはできません。そこから考えると、
イスラエル連合の中でも、ユダやベニヤミンと密接であったと考えるべきでしょう
法隆寺には、景教とは違う形でキリスト教の痕跡が遺された訳ですね
長屋親王を抹殺するために、聖武と藤原氏は真っ先に鈴鹿の関所を固め、
長屋親王が甲賀に逃げられないように計ったのです。山背皇子の子がコーカサス系と
いうことからも、山背皇子のモデルとなった長屋親王と父の高市がコーカサス系で
あると分かります。でも、実は蘇我氏もコーカサス系みたいです」
蘇我氏は娘がトルコで、出身がコーカサスで、ペルシャ系のソグドと繋がりがあった…」
蘇我氏の祖先はペルシャに滅ぼされた旧アッシリアに住んでいた人達で、アッシリアが分裂して出来たバクトリアなどに居住していたと考えられるのです。バクトリアはゾロアスター教の初期伝道地とも言われていますから、ペルシャやゾロアスターというキーワードに符合します」
6.キリスト単性論
単性論の代表的な教会は、コプト教会、エチオピア教会、そしてアルメニア教会である。
実際には高市はアルメニア教会派で、ネストリウス派の景教とは異なります
高市と長屋親王が抹殺されたのは、何が原因なんてすか?やはり、カフカや突厥が問題とされた…」
「そうじゃなくて、南ユダと北イスラエルの主導権争いにあったと思います。秦氏はユダの代表として平安京を建てますが、それはエルサレムの意訳であることから分かるように、南ユダ王国の再現なのです。ここでは南北が入れ替わっていますが、エフライムの平城京に対抗するものであったはずです。
マナセの藤原氏は、何が何でも、エフライムの子孫としての皇統を聖武に託したかったのです。エフライムの皇統は北イスラエル王国の伝統であり、南ユダ王国のユダとベニヤミン族とは相容れないものなのです。天武は海外で育てられたエフライムの子孫なのだとしたら、突厥ラインの天智や高市と衝突が起きるのは当然となります。
アメタリシヒコ−蘇我−トルコ−突厥−ソグド−アルメニア−コプト−エチオピアはベニヤミンか
三つの引用の平御幸説、村下説から考える。
アメタリシヒコは九州王朝の倭国王。
聖徳太子が重ねられたアメタリシヒコ−蘇我の線は、
トルコ−突厥−ソグド−アルメニア−コプト−エチオピアの正教に繋がり、
イナンナ派のベニヤミン。
アメタリシヒコが隋の煬帝に親書を送った時代に、
大和王権は小勢力でしかなく、もちろん隋にも使者を出していない。
北九州王朝の後には、突厥など南ユダ勢力がいたので、隋とも交流ができた。
これは、景教(ローマの分派)の流れとは異なり、
マナセ族の藤原氏は、白村江の戦いの後、
日本列島に侵入する前の歴史を、倭国の歴史を重ねなければ、
自分たちが侵略者であることを隠蔽できなかった。
それで、
南ユダ系のアメタリシヒコの歴史を、
吐蕃のソンツェンガンボの事跡に重ねて聖徳太子を作り上げたり、
新羅でのできごとから大化改新を捏造し、
アレクサンドロスから五胡までの歴史を、欠史八代として記述した。
吐蕃にも勢力の入れ替わりがあるだろうが、
ガンポが南ユダ勢力なのかどうかは後に追いたい。
法隆寺は北九州の再興南ユダ王国のシンボル
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji.index.htm
法隆寺は、突厥のベニヤミン族と秦氏を代表とするユダ族が、
原始アルメニア教会の終着点として建設した、再興南ユダ王国のシンボルである。
以下のサイトから全部、引用
http://www.geocities.jp/waikoku/
奈良の「日本国」王朝の前に、九州の太宰府に「 倭国 いこく 」王朝が存在していた。
米田良三著 『法隆寺は移築された』 は、
すばらしくも゛超″画期的・革命的!な解明だ。
法隆寺は、゛『移築』″されていた。
元々は、九州王朝『倭国』の都だった大宰府の
『観世音寺』(左図は当時をしのぶ絵図) に建っていたもの。
以前私は、古田武彦氏の著書で九州王朝『倭国』の存在が確かである、と思いつつも、それらを証明する手がかり・物証なるものが得られず、いま一つすっきりしてませんでした。
本書に出会い「法隆寺が九州からの移築である」と知ったときは飛び上がるほどびっくりしました。
その後彼は、『藥師寺』・『東大寺』が、宇佐八幡宮にほど近い 倭国の聖地・ 『小倉山』 より移築されたもの。『東大寺』の正式名称『金光明四天王護国の寺』の『金光』は 『倭国』の元号 であり、『金光元年(西暦570年)』に完成していると言い。
また、「これまで世界最古の木造建築とされていた法隆寺の創建は607年であり、これより73年前の534年に造られた『薬師寺東塔』が、これから世界最古の木造建築とされよう。」とも述べている。
米田良三氏は、その著書で「今に残る、法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺はいうにおよばず、三十三間堂・桂離宮等々、これらあまたの建物が、九州倭国より移築されたものである。」と述べておられます。確かに北部九州の、特に大宰府から宇佐、更に吉野ヶ里にかけて「虚空蔵寺・法鏡寺・相原・垂水・椿市・木山・上坂・天台寺・大分・塔之原・井上・観興寺・塔之塚・大願寺・晴気」などの『…廃寺跡』が数珠のごとく連なって残されてます、ごっそり゛移築″されたのでしょう。
さらに信じられないとお思いでしょうが、平安時代を代表する「『源氏物語』はもともと九州『倭国』における作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たものといえます。『源氏物語』の舞台の本来の中心は京都ではなく、九州王朝の嘗ての都・太宰府都城であり、時空的には観世音寺創建の西暦607年以降で、倭国が滅亡する672年までの間と限定できる。」とものべています。 したがって従来よりささやかれているように、『飛鳥時代』での出来事である 『大化の改新』 ・法隆寺を舞台にした 『聖徳太子』 等々の話は、作り話と言うことになります。
隋・及び初唐期の中国政権と交渉したのは、九州太宰府の『倭国』政権だったことになります。『旧唐書』で言う 『倭国』 である。
ただ、『同書には土地には、女が多く男が少ない。たくさん文字があり、習俗は仏法を敬う。』とあります。このことは何を意味するか、(もう少し細かく書いておいてほしかったものだが…、)。
女が多いってことは、男は半島での戦争に狩り出され戦死者多く、内地では女・子供ばかりだと言っているのでしょうね。
すこぶる文字多しとは、当時既にカタカナ・ひらがな・サンカ文字・アビル文字・漢字などがあったということでしょうし、またその上習俗は、仏法を敬うとある。このことは、西暦650年頃の九州は、寺・寺院が町にあふれ市民のそれぞれがお経を唱えていたこととなりましょう。
当時の九州のイメージがわかりましょうか…?。すなわち源氏物語の世界ということになりましょうか。
いっぽう、同書『旧唐書』には 『日本国』 は倭国の別種なり、…或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたりともある。即ち『秦国』から脱皮した奈良王朝の初見である。
このことが、何を意味するか?。今の今まで奈良や京都の文化の証しと信じられていた重要文化財のほとんどが、九州王朝『倭国』からの文化であり、文物であったということです。
すなわち『九州』 の北部一帯には、交易によると思われる非常に豊かで、華美で、贅を尽くした夢のような王朝『倭国』があったこととなります。
邪馬壹国(邪馬臺国)・漢委奴国・親魏倭国・倭国・大倭国・俀国はどこか?しかも、この科学の時代に今もなお何故わからないのでしょう? それは九州王朝『倭国』の主だった史実を、『日本書記』が抹殺し・隠しているからでしょう。とてもまともな史書とはいえませんね、いわゆる偽書の類でしょう。
九州王朝『倭国』は 『白村江の戦い』(西暦663年) に敗れる迄、九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・葛城(秦)・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家で、日本列島及び半島最南部を代表する政権だった。
政権交代の時期は、そんなに古くない!。『倭国』が白村江の敗戦の、およそ10年后 『壬申の乱』(西暦672年) がその時期である、この時期に九州『倭国』は滅亡した。
替わって登場したのが『新羅』指示のもと、九州『倭国』と飛鳥『秦国』とを解体・改組し成立した、奈良の中央集権国家『日本国』王朝である。
なお、この王朝は弱体(新羅・唐のかいらい政権?)で、更に100年後、京都の『桓武王朝』へと引き継がれることとなる。現王朝・天皇家のはじまりである。
今の日本人には『倭国』と『日本国』とが、同じものとして受け止められているが、全くの別物と云えましょう。
日本人は戦前のある時期より『万世一系の皇統譜』 を教え、信じ込まされてきましたが、この広い世界中のどこにそんな国がありましょう。皆さんは疑問に思われないのでしょうか、日本だけは特別なのでしょうか?。
日本書記は大きな史実『九州王朝』を抹殺し・無視し・隠している。そしてそれと知りつつ、日本の歴史学者・奈良京都の遺跡管理者はそれに加担している。先の東北の偽の石器のたぐいとはかけ離れた、とんでもない“ワル”と云えましょう。
画像は以下のサイトから。
法隆寺の元。元々は、九州王朝『倭国』の都だった大宰府の
『観世音寺』(左図は当時をしのぶ絵図) に建っていたもの。
http://www.geocities.jp/waikoku/
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002404.jpg
ミタンニのフルリから、リカミタ「フリ」=アメタリシヒコ…鼻自ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
北西、北周、南朝の勢力理解がまだできなくて、
昨日の東魏、西魏の考察は見当はずれかもしれません。
エフライム工房にはまだ理解しきれない内容が多いので、
抜粋しつつ理解しようと思います。
ミタンニのフリ、フルリが北九州王朝に繋がるとすると、
インダスからミトラ教、エジプト、イナンナ派に繋がり、倭人につながる。
フリプシメの「フリ」もフルリ人のことで、八角形は八卦か。
フリプシメは推古天皇とか、この辺りの研究も鼻血が止まらねえぇぇっぇぇえl
足利氏などがベニヤミンだとすると、
倭人の流れもそれなりに政権をとっていたわけか。
秦氏や秦の字の真相を知っていたら、ぜひ解説してほしいです。
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji13.htm
先生は、随に使いを出した倭王はタリシヒコと考えているが、
聖徳太子のモデルは子のリカミタフリであるとする。
「エジプトの謎解きで、レウデジアトの出身地がミタンニ王国と言いましたよね」
「はい、アブラハムの出身地の…」
「そう、そのミタンニ王国の一部がフリの国らしいのです」
「えー、イスラエル12部族にとっての故郷のような場所がフリですかー!」
「正確にはフルリ人やフリ人と呼ばれる人々で、国というよりは民という感じでしょうか。遊牧民ならば国境がありませんからね」
「先生、ミタンニ王国はメソポタミアでも北方で、コーカサスに近いですよね」
「フルリ人の祖先は、セムの孫であるホルと考えられています。セムからアラムを経てホルへと続きますが、ホルの兄弟にウヅがいるのです」
「太秦(うずまさ)だっ!」瞳が秦氏との関係を連想した。
「イエスの時代の公用語はアラム語ですからね、ユダ族やベニヤミン族がウヅの子孫と関係を保っていても不思議ではありません。それに、フルリ人の言語は、インド・ヨーロッパ語族でもなく、セム・ハム語族でもない、独特のものだと考えられています」
「それって、日本語にも言える特徴ですね…」
「じゃ先生は、そのフリ人と、リカミタフリが関係していると睨んでる訳ですか」
「実は、吉川弘文館の『平城京・長屋王邸と木簡(p98)』によると、若翁と書いてワカミタフリと読むようです。意味は王子ですから、フリ人の王子かな」
「あっ、聖徳太子の未然に知ろしめす…」
「そう、日本書紀の中に出てくる聖徳太子の姿です。兼ねて未然を知ろしめす。ですから、リカミタフリの名は古楽府を踏襲しつつ、未来を知る先見者であることを示しているのです」
法隆寺に残される謎は、四天王寺様式の若草伽藍と、百済大寺様式の法隆寺の違いである。何故に、様式が異なる必要があったのだろうか。
「先生、四天王寺様式は、ソロモン神殿にもっとも近い伽藍配置なのですか?」
「それは、高句麗や新羅など、秦氏が辿ったルートに残された様式ではないかと思います」
「秦氏はユダ族だから、ソロモン神殿の様式にこだわった伽藍を、行く先々に残して来たという意味ですね。じゃ、新羅様式と限定する必要はありませんね」
「それで、百済大寺様式は、ベニヤミンの象徴に思えますね」
「フリプシメ教会…」
「それって、リカミタフリのフリ…」
「あるいはね。というのも、フリプシメは女性の名前ですが、ローマから追放されたキリスト教以前の説教者と言われています。フリプシメは、ここの地下に眠っているのです。すると、ユダヤ教、あるいは最も原始的なキリスト教だった可能性が出てきます。スペルはhripsimeですから、日本語では発音できませんが。それで、もしかしたら、ここから推古の名前が考えられたのかも…」
「推古ですか…?」私は首を捻った。
「フリプシメは、フリとシメオンのシメの合成とも捉えることができます。シメは、逆読みする隠語ではメシでしょ。それで、推古は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)…」
「あっ、炊屋(カシキヤ)は神様のご飯を炊く場所…」
「飯炊きババーが推古!」瞳が笑いながら明答した。
「考えてみれば、実に変な名前だよね。炊くはターキーでトルコだし」と先生。
「そう言えば。すると、ここにも突厥が隠されていましたね。推古が女性なのは、フリプシメが女性だったからですね…」
秦氏のユダ族を通して、突厥の本隊、すなわちベニヤミン族とアルメニアが結んだ象徴が、百済大寺や斑鳩なのではないでしょうか。ベニヤミンが日本へ合流すると、突厥は急に求心力を失って滅亡に至ります。これは、イスラエルの集合が完成したので、突厥の役割が終わったことを意味するのではないでしょうか。また、カフカスや突厥が日本に来るルートは、新羅ではなくて百済経由の可能性があります」
それで、日本では、足利尊氏と楠木正成が支えた南北朝がありました。足利はタリですから突厥のベニヤミンとなります。楠は南の木で南ユダ王国を意味しますが、ベニヤミンの詳細な意味は、“東を向くと手が南を指す”ですから、ミンには南の意味があるのです。ここから、楠もベニヤミンとなりそうですが、実は楠木正成は熊野の出自らしく、ベニヤミン系ではありません」
「すると…」
「菊の御紋の次に珍重された桐の紋ですが、足利氏も賜っています。桐は、パウロなのでベニヤミンです。要するに、菊の紋のイエスの弟子扱いだから桐の紋なのです」
「じゃ、足利氏は、名前と桐の紋で突厥のベニヤミンを標榜していたんだ…」瞳は妙に納得した。
金堂の金の文字はソロモン神殿の象形文字…鼻血ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下、ウィキペディア+私見
トゥルナン寺
内部には多くのマニ車を備えた回廊があり、コルラすることが出来る。
本尊は、ソンツェン・ガンポに嫁した唐の玄宗皇帝の娘、文成公主
が中国から持参したとされる釈迦牟尼像である。
玄宗は伏儀信仰、イナンナ派道教の皇帝。
彼の娘の仏教も、アルメニア系の可能性が浮かぶ
法隆寺金堂も釈迦牟尼像らしいが繋がるか?
前秦−高句麗の仏教はイラン系ではないか?
前秦は燕(マナセ族)と対立しているし、北イに見えにくい。
高句麗はミトラ系。前秦の符堅はミトラダテスかもしれない。
「百済の仏教は東晋からもたらされています。」
↓
南朝系仏教はベニヤミンか。
ただし、東晋自体に山東半島の勢力が強く見えるので、よくわからない。
北朝には前秦からのイラン系、マナセ・エフライムの北イ系があり、
北周、北斉に分かれたのではないか?
「黎明期の仏教寺院は、一塔三金堂様式の高句麗系から始まり、
四天王寺様式の新羅系に進化し、
法隆寺様式の百済系が台頭したことになる。」
↓
高句麗→イラン、新羅→マナセ、百済→ベニヤミン
「観音菩薩立像(百済観音)(国宝)-飛鳥時代、木造。
もとは金堂内陣の裏側に安置されていた。」
↓
金堂は百済−ベニヤミン。
玄宗皇帝−文成公主−ソンツェン・ガンポ−法隆寺金堂に、
ベニヤミンの繋がりがないか?
エフライム工房より抜粋
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji2.htm
3.金堂の謎
先の移築説によると、移築に当たって金堂の向きは90度回転させられたという。
先生の仮説によると、聖徳太子は一人ではない。歴史上の複数の人物を投影された
聖人なのである。ある時はイエス、ある時は高市皇子、ある時は倭王リカミタフリ。
「先生、金堂って、どうして金堂って言うんですか?」例によって瞳の質問である。
「仏教の説では調べていないけど、金の文字はソロモン神殿の象形文字です」
私は、法隆寺の寸法に、ギザ、ウル、エルサレム、斑鳩の太陽角度が隠されていたことを
奇跡のように感じた。しかも、ノアの洪水の数字までも隠されているのだ。
ここからも、古代大和民族は地球の大きさを知っていたと考えることができます。それから、塔の基壇の周囲と、金堂下層の柱間で計った周囲は約49.6mで等しいのですが、これは620?の8倍です。偶然かもしれませんが、聖徳太子が亡くなったとされる西暦621年に近い数字となります。また、塔の内側の面積は36平方メートルですから、三角数で666を暗示します」
仏陀の故郷は、ネパールのティラウラーコットと、インドのピプラハワが候補として上げられる。ティラウラーコットには原始的な塔と言うべきストゥーパがあるが、これは径が15.6mと7.8mである。どちらも、“直角−エルサレムの緯度32度×2=26度”から作られた26?尺で、それぞれ60尺と30尺ピッタリとなる。ここから、このストゥーパがエルサレムを記念したものと考えられるのである。
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji8.htm
「それに、百済大寺を建てたのは斉明の夫である舒明天皇とされています。
天智は、斉明と舒明の間の子なのです…」
「そして、百済大寺は吉備池に建てられた…」私が続けた。
「吉備姫王、吉備池、吉備内親王…、吉備に始まって吉備に終わる構図ですね…」
瞳が締め括った。
3.法隆寺様式の本質
法隆寺が百済大寺のスケールダウンした寺であったのなら、
ここには様式的な一致が見られることになる。
新羅の仏教は高句麗からもたらされたものです。瞳ちゃん、日本の仏教は?」
「それは百済の聖明王が仏像などを贈ってますから、百済経由です」瞳がきっぱりと答えた。
「でも、法興寺の法興って、新羅の法興王の名前なんだよね。新羅が公式に仏教を受け入れたのが西暦528年ですが、これは法興王の15年とされています」
「すると、法興寺は新羅系ですか?」
「もしかしたら、百済系と思われている蘇我氏もね…」
「先生、朝鮮半島は狭いから、百済も新羅も一緒くただったんじゃないですかー」瞳が日本人的な疑問を口にした。
「実は、新羅に影響を与えた高句麗の仏教は、四世紀半ばに北部中国を統一した前秦からもたらされています。対して、百済の仏教は東晋からもたらされています。後に、前秦は北魏を中心とした北朝、東晋は南朝に吸収されますから、朝鮮半島の仏教は最初から分かれていたのです」
「法隆寺の仏像は北魏様式ですよね。新羅と同じように高句麗経由ですか…」
「だから、若草伽藍が四天王寺様式なのです。四天王寺様式は、新羅と日本に見られる様式と解釈すると、百済大寺や法隆寺の様式と差別できるのです」
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji13.htm
「それで、百済大寺様式は、ベニヤミンの象徴に思えますね」
「それはどうしてですか?」
「ベニヤミンは右手の子という意味ですから、右側に大事なものを配置するでしょう」
「それが金堂ですか」
「おそらく。また、法隆寺の西円堂はアルメニア系と思われる高市皇子の象徴です。
以下は金堂。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002406.jpg
トゥルナン寺も少なくともシュメール系に見える。
下に文成公主の建てたトゥルナン寺(ジョカン、大昭寺) の画像。
双塔か?
「双塔をエフライムの象徴と考えている。」エフライム工房
あら?
トゥルナン寺は双塔というより、バールの角か?
「狛犬とは高麗狗で、ベニヤミンの狼そのもの」エフライム工房。
中心に向かい合う狛犬(ベニヤミン?)が太陽を囲んでいる。
中心したの模様も八つで八卦を思わせる。
吐蕃を追いながら、唐との対立を追いたい。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002407.jpg
クルクル(@_@;)
・・wはウズラの雛
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002408M.jpg
呉→墳丘墓、前趙→新羅→前方後円墳?
唐古遺跡は古墳時代と共に衰退し、前方後円墳が作られたようだが、
古墳時代とは、3世紀中葉から6世紀末葉。
クルクル(@_@;)(かわいげに萌え)は海洋民族系なのか?
「4世紀後半から6世紀にかけての慶州新羅古墳からは金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する。この頃の新羅は中国文化より、北方遊牧民族(匈奴・鮮卑など)の影響が強かったことを示している。このため奈忽王以後の金氏は、北方民族のひとつである鮮卑系ではないかとの説もある。」
↓
4世紀から新羅はローマ帝国と繋がり力をつける。
「304年 - 匈奴の劉淵が大単于を自称。中国北部は五胡十六国時代の戦乱に入る。 」
↓
以前、東西対照で劉淵はマケドニアのフィリッポス、
劉聡がアレクサンドロス3世に当たると推定したが、
もしかしたら劉聡の勢力も東征し、その流れが新羅、奈良の前方後円墳に繋がったか?
劉淵、劉聡も天皇かもしれない。
新羅とローマの繋がり、前方後円墳が作られ始める時代が一致する。
「3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓
(首長墓)が現れる。」
↓
この特殊な勢力の流入は時代的に、北イ系の三国時代の呉の流れか。
呉は280年に滅亡。
奈良=平城京なので北イ系だろうけど、
平安京=エルサラーム→イナンナ系海洋民族で、
唐古古墳も海洋民族の拠点であった線が可能性としては浮かぶか。
そうだとすると、
稲作と共にやってきた新モンゴロイドは、イナンナ系か。
呉と前趙、新羅はマナセ・エフライム。
新モンゴロイドと一括りにすると、
イナンナとエフライムを同一視してしまう可能性がある。
始皇帝の秦と、五胡以前の辰韓を、
物証的に詳しく追って、秦の実態を知りたい。
画像は
http://homepage2.nifty.com/rea-archi/kioku18.htm から、
トゥルナン寺の屋根の鳥だけど鶉?
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002409M.jpg
ラマ教はベニヤミン、ボン教はミトラ系か?
チベット仏教はベニヤミン系。
ラマをトゥルクと呼ぶらしいが、トルコか?
ブータン、チベットでは、
7世紀にベニヤミン系の仏教が流入、
ソンツェン・ガンポはベニヤミン系仏教勢力なので、玄宗と繋がれた。
アルメニア−吐蕃−百済−北九州王朝−高市の線。
ボン教(卍、ヒトラーアーリアにも繋がるミトラ系?)とベニヤミン仏教の対立が、
チベットには残り、勢力争いが続く。
http://tirtablog.jugem.jp/?eid=130
ボン教はまた「ユントゥン・ボン(永遠の智恵の伝統)」として知られ、精神の解放(解脱)の道程についての教えは「ボンの9つの道」と呼ばれます。チベット仏教の「究極の教え」とされるゾクチェンも、もともとボン教の教えであったとされます。
ボン教の伝統は、今では仏教の影になっていますが、それでもさまざまな場所に見ることができます。例えば、日本では卍を寺院を示す印として用いますが、チベットでは仏教徒は卍を用いることはありません。卍は実はボン教のシンボルであり、ここから、シャンシュン王国の頃に日本にもボン教の伝播があったことがうかがわれます。
「(ボン教は)イランから伝来したと称し、独特の教義・神々の体系・教団組織
などを有する諸宗派を指す。チベット人は仏教徒であっても、
自らの仏教に由来しない民俗・信仰をボンとして認識する。」
↓
http://www.fukyo.co.jp/02-naiyo/ISBN4-938718-90-1.html
「ボン教は紀元前5世紀の頃、西チベット出身の、シェンラブミーボによってはじめられたと伝えられている。初期のボン教は、印度のバラモン教の強い影響を受けて生まれたとされている」
http://www.accu.or.jp/ich/jp/policies/C_BTN.html
8世紀における仏教伝来以前のブータンの宗教は、広い意味でアニミズムのカテゴリーに属するボンであり、それは自然崇拝に基づいたものでした。ボン教には、人類に惨事と病気をもたらす悪魔と悪霊の殲滅を期した固有の儀式がありました。
↓
ちらっと見た限り、ボン教はヴェーダとミトラ教の流れに見える。
「少林寺拳法は1947年の創設以来、シンボルマークや胸章に卍を使用してきた」
↓
崇山もミトラ系に見えるが卍はミトラ教か?
「武則天の長寿2年(693年)、「卍」字を「万」と読むことが定められた。
意味は「吉祥万徳の集まる所」である。」
↓
武則天はミトラ。卍への拘りはミトラとの繋がりをうかがわせる。
「卍 - 青森県弘前市(旧市:2006年2月まで)の市章として採用されている。
青森県西部を領地としていた津軽氏の旗印として採用されていたため、
それを採用したようである。」
↓
青森はアイヌか越人で、ミトラ教と関係があるか?
「第二次大戦の直後、いくつかのアメリカインディアンの種族は、
美術品に卍を使用しないとする法令に署名した。」
↓
ミトラ教の流れがインディアンで、インダスの末裔か?
そうだとすればインディアンは適切な名だ。
ヒトラーの逆十字は、ひっくりかえした卍。
どういう意味だ?
インダス−エジプトのフルリの別れは、
ミトラ教−ベニヤミンに分かれたが、どういう関係なのか?
以下、吐蕃ツェンポ家(スプ氏)の系図。
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/genealogy/spu.htm
画像は20世紀初頭のナバホ族の織物
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002410.jpg
ヴァルダナ朝は北イ→バラモンか?
http://sengna.hustle.ne.jp/sb/log/eid18.html
→アムシュバルマン…というか、アンシュ・ヴァルマーの在位は605〜621年ですから、隋の煬帝とか唐の高祖と同じ世代の人物です。なので、唐の太宗が即位した627年には王位にはいなかった人物です。時代は合いませんが、ブリクティの親とされる王様の中の一人です。
では、この頃のネパール王は?と言うと、在位643〜679年のナレーンドラ・ディーバと言うことになります。新旧《唐書》で言うところの那陵提婆ですね。
この人物も面白い人物で、叔父・ドルヴァ・ディーバに父王・ウダヤ・ディーバを殺されてチベットに亡命し、ソンツェン・ガンポの協力を得てネパールの王に返り咲きます。この頃のネパールとチベットの関係が濃厚なのはそのためで、別に政略結婚のためではなかったわけです。もっとシビアに言うと、新旧《唐書》ではネパールはチベットの属国とされています。しかしナーレンドラ・ディーバは同時に北インド諸侯などとも修好を保ち、ソンツェン・ガンポ死後はチベットの影響下を離れていたと考えられます。控えめに言っても名君だったようですね。
http://shupla.w-jp.net/datas/tibet.html
7世紀以前には、王、貴族、庶民ともにボン教を信仰していた。ボン教は王家と密接な関係にあった。 これに変わり、ソンツェン・ガンポとその後継者は仏教を好み、国教にも採用した。 これにより、従来のボン教信者の反感を買うことにもなり、権威の統一が取れず、帝国の力を弱める原因となった。
先に挙げたラルパチェン王が仏教を後押しする一方で、これをよしと思わない一向が、王の兄、ランダルマの元に集まってきていた。 そして、ラルパチェン王は暗殺される。 この王には子供がいなかった為、兄のランダルマ(836−843)が後を継いだ。 そして、その治世の間に仏教を迫害し、中央チベットからほとんど姿を消すまでに至った。 だが、彼自身も暗殺されてしまう。
以下のサイトから抜粋+私見
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/column14.html
北インドを制覇した戒日王ハルシャ・ヴァルダナ(中国史書では尸羅逸多)は、玄奘三蔵を通じて唐の太宗(李世民)の英雄ぶりを知っていました。玄奘と会う以前から「秦王破陣楽」(ありし日の秦王李世民が劉武周の陣を破る英雄ぶりを讃えた雅楽のこと)を聞き知っていたともいいます。貞観十五年(641)、戒日王は唐と好を通じようと太宗のもとに使者を送ってきます。太宗の命を受けて梁懷?がこの使者の応対接遇にあたり、太宗の詔が戒日王に下されます。
↓
太宗は北イ系と推定したが、ハルシャ・ヴァルダナも北イと関わるか?
この李義表の遣天竺使節は、途中で泥婆羅国(ネパール)に立ち寄って、その王の那陵提婆と面会しています。このとき那陵提婆は大喜びで、阿耆婆?池なるものを見せたといいます。
↓
那陵提婆はガンポの嫁の父。ただ北イ系ではないと、仮定している。
貞観二十一年(647)、本作のメインテーマである王玄策の天竺行第二回
王玄策は吐蕃に立ち寄ります。
このころの吐蕃は、はじめてチベットを統一したソンツェンガンポ王の時代
王玄策がインドに入ろうとしたころ、ときに戒日王は亡くなっており、ティラブクティ王アルジュナ(『資治通鑑』では帝那伏帝王阿羅那順、両唐書では那伏帝阿羅那順)が王位を簒奪していました。アルジュナは兵を発して王玄策をはばみます。王玄策は三十騎を従えて戦い、衆寡敵せず、矢が尽きてことごとく捕らえられ、諸国の貢物を奪われてしまいます。小説ではこのとき戦いらしい戦いをしていないのですが、両唐書ではしっかり戦っているようです。王玄策の従えた騎兵は、『旧唐書』や『資治通鑑』では「悉被擒」(ことごとく捕らわる)と書かれているのですが、『新唐書』では「皆沒」(みな没す)とあり、後者を取ると全員亡くなったようにも読めます。
王玄策は吐蕃の西辺に逃れ、檄(触れ文)を発して隣国の兵を召集します。吐蕃が兵千二百人をよこし、泥婆羅が七千騎をつかわしてきました。
※梵文『龍喜記』によると、王玄策は泥婆羅に逃れたことになっています。それ以外の史料(両唐書や通鑑など)では、すべて吐蕃に逃れたことになっています。
↓
ティラブクティ王アルジュナと唐の使節、王玄策の対立では、
ネパールとソンツェンガンポは、王玄策に加担。
この唐とチベットの繋がりの意味はまだ理解できない。
アルジュナを調べてから判断する。
茶鎛和羅城で戦う
貞観二十二年(648)五月、王玄策は二カ国の兵を率いて、茶鎛和羅城に進軍し、三日してアルジュナの軍を破り、斬首三千級、溺死一万余という勝利を挙げます。ちなみに史書では茶鎛和羅城は中天竺の都城あつかいされています。茶鎛和羅イコール曲女城(カナウジ)と考えるべきでしょう。
王玄策の帰国は貞観二十二年(648)十月ごろと推測されています。王玄策は帰国すると、捕らえたアルジュナ(阿羅那順)を太宗に献上しました。太宗は「アルジュナが夫人の耳目を声色で楽しませ、口鼻を香りや味にふけらせたのが、このたびの敗徳の原因である。婆羅門(アルジュナ)がわが使者(王玄策)を抑留しなければ、かえって捕虜になるようなことがあったろうか?」
↓
アルジュナはバラモンか。
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/column10.html
「王玄策」という人物がいる。 かれは唐の太宗・高宗に仕えた。
貞観二十一年(647)には、こんどは正使としてインドに赴いたが、
すでに尸羅逸多は没しており、宰相の阿羅那順が自立してヴァルダナ朝の専権を握っていた。
↓
ヴァルダナ朝は北イ系で、太宗と交流していたが、
宰相のアルジュナな権力を奪い、唐(北イ)と対立。
アルジュナがバラモン勢力とすれば、
ベニヤミンのチベット、ネパールは、どちらと闘ってもおかしくはない。
http://72.14.253.104/search?q=cache:eoC4EVSI5VEJ:www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/2004bulletin/p164.pdf+%E9%98%BF%E7%BE%85%E9%82%A3%E9%A0%86&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=9
王玄策はまたインドへ行くのに、幹線であったシルクロードを経由しない、いわゆる吐蕃道・ネパール道という路線を開拓し、中国インド間の交通を促進した。
第一回のインド行のルートはシルクロード経由であったのか或いは最初から吐蕃道を利用したのかなど、王玄策のインド往還の実体を出来る限り明らかにしてみたいと考えている。王玄策が辿った吐蕃道はまた吐蕃に嫁した文成公主の歩んだ道でもあり、是非確実なことを知りたいところだが、佚文には一切言及がない。
↓
太宗(北イ)と吐蕃(ベニヤミン)に強い繋がりがあったとすれば、
理解しがたい。
玄宗とガンポの繋がりは理解しやすいのだが、
王玄策と吐蕃と関係の情報求む。
吐蕃はまだよくわからない。
地理雑談を一つ
この話題は適当な仮定ですよ。
北九州−カルタゴ
京都−エルサレム
静岡−邪馬台国(平御幸説)
とすると、
神戸、大阪がシドン、ティルスのフェニキア都市か。
神戸も人工地震を起こされてるので、可能性がないわけでもない。
静岡はフォッサマグナ以前の一番下で、
エチオピア−イエメンのシバの女王。
名古屋も八の字で同じ勢力圏か?
(無題)
>・・エジプトの他の神々と同様にセトもまた動物の頭を持つ半人半獣の神である。
犬や狐のような四本足の動物の鼻を、鳥のくちばしのように引き延ばしたような長く尖った花づらをしていて、兎の耳を途中からはさみで切ったような角ばった耳をしている。しかし、セトの頭にある動物がなんなのかは今でも定説がなく、一般にセトの動物と呼ばれている。
・・セトはバアルか? …ベニヤミンか?
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002413M.jpg
セトの表面はバアル、中身はヒクソス
ヒトラーは伏儀になりたくて「十字の反対」→ギルガメッシュを掲げて、
項羽=楚人の伏儀のように振舞ったけど、
結局、キリストのようになってしまった。
私には、私が誰かである、という発想もない。私は私。
ヌト(天空神、妹、妻、女カ)−ゲブ(大地、兄、夫、伏儀)
↓
↓交配
↓
オシリス(伏儀)、イシス(地上の女カ)、
セト(ヒクソス?)、ネフティス(冥界の女カ)
セト(エフライム)は、
「王権獲得のため、ヌート(母親)の産道を通らず、子宮を破って生まれ出てきた」
↓
女カ=イナンナは、エフライム=セトを子供と認めなかったが、
エフライム・マナセは無理やり、イナンナの子供になるために子宮を破った。
「嵐の神である事からウガリット神話のバアルとも同一視され
アスタルトおよびアナトが妻であるともされた。」
↓
東→西と同一神話の伝言が伝わるが、
ヒクソスとバアルが同一視されたのは、パレスチナ周辺か?
本来、北イがヒクソスならば、金の子牛が祭られるのは奇妙なことなのだけれど、
乗っ取った子牛なら構わない。
以下、仮定ともいえない、可能性だけど、
思い切り穿った見方をすると、
ダビデ−ソロモンの時点では、
イスラエルに北イスラエル人などいなくて、
バール派とベニヤミン派が住んでいただけだったが、
ソロモンの死後、ヒクソスがバール派を扇動して、
イスラエルを分割し、北側を乗っ取ったか?
もっと穿った可能性を追うと、
北イスラエルにはバール派しかいなかったけど、
後世、聖書を作る時に、記紀パターンで、
それをヒクソスに重ねたとか。
この辺、どこまでが聖書の記述どおりで、どこからが捏造なのかは、
実証で追ってみてほしい。
セト(ヒクソス)とバアルのパレスチナ、エジプトでの合体がいつの時代か知らないが、
ともかくセトは、ヒクソスが、バアル−ベニヤミンの対立を扇動して乗っ取ったもの。
持統−藤原−アマルナ−伊勢−ベニヤミンか
日本史はあまり勉強してないけど、
天武から桓武までは、面白そうな課題に見える。
このあたり、ダービーさん詳しそうなので、簡単にすます。
今日はチベットエロスの起源を追う予定…
天武の次の持統天皇は天武の嫁で、
天智天皇の娘、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。
蘇我がソグド、突厥のベニヤミンとすると、
天武=新羅から、持統の一代で百済系統に変わってる?
藤原京が平御幸説にようにアマルナに当たるなら、
持統・文武・元明の三代は、イナンナ派、ベニヤミンか?
高松塚古墳、キトラ古墳を始めてちらっと見ましたが、
道教−東のイナンナ宗教ですかね。
「「高天原廣野姫天皇」
『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは
冒頭の第4の一書とこの箇所のみである」
↓
高天原はイナンナの都、アマルナなんですか?
「690年、伊勢神宮の外宮で第一回の式年遷宮を行った。」
↓
平御幸によると伊勢はアセテナで、イナンナになる。
アマルナの持統天皇が第一回の伊勢の式年遷宮を行なったのも納得。
「天皇としては初めて火葬された。」
+
「日本で一定の力を持っている仏教では、仏陀が火葬されたことにちなみ、火葬が尊ばれること(特に浄土真宗などでは火葬を強く推進している)。 」
↓
ベニヤミン系の仏教、アルメニア−高市の線か?
「地上の人間が住む世界である葦原之中津国や、
地中にあるとされる根の国・黄泉に対し、一般に天上にある」
↓
天上(ホルスを守るアマルナのイシス)−黄泉(冥界のオシリス)
という発想はエジプト的に見える。
「高天原山(群馬県上野村) JAL123便墜落地点。」
↓
飛行機と言えば、ネットを見ていても、
911事件をアメリカの自作自演と考える人は多く、説得力がある。
JAL123便墜落についても、疑惑が多いですよね。
地名が「高天原」…
藤原京から平城京。
天智から桓武まで、私は追う気はしないけど、
わかりやすく解明してほしい課題ではありますね。
画像は以下のサイトから。
http://astro.ysc.go.jp/izumo/kitorazu.jpg
藤原=アマルナに絡む古墳はベニヤミン系か?
「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに
韓国とのゆかりを感じています」
↓
韓国−新羅=マナセ、日本天皇=エフライムのはずなのだが、
このあたり、よく分からない発言で、
百済=ベニヤミンになりたいという欲求か?
このあたりの事情には機密が多そうで、わかりにくいですね。
http://www.google.com/search?hl=ja&ie=Shift_JIS&q=site%3Awww.asyura2.com&q=%89%EB%8Eq
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002415M.jpg
初期吐蕃はグプタ朝の流れの影響か?階級とエロス。
吐蕃の情報を集めたい。
以下のサイトとウィキペディアから抜粋+私見
http://zhuling.cool.ne.jp/xiangbala/wcgz/tubo_ls.htm
633年唐・太宗貞観 7年
松贊干布(ソンツェンガムポ)王、蘇毘(スピ:スムパ)諸族を平定。
都を邏娑(ラサ)に定め、吐蕃王朝を開く。
↓
「ナクチュ地区で最古の記録に残る政権は象雄政権であり漢文の資料で羊同と称されるものである。チベット語の史籍ではこの地区は「卓岱」と呼ばれていて「遊牧部落」を意味する。この地域の住民は遊牧民を意味する「卓巴」または北の人を意味する「羌巴」または北の部落を意味する「羌日」と呼ばれていた。」
↓
「卓岱」=「羊同」=「遊牧部落」=「卓巴」=「羌巴」=「羌日」で、
羊=ヤコブ?、遊牧民、北の人、北の部落で、羌がヒクソスという推定を裏付ける。
http://www.chinese-tours.com/chinatravel/travel/1067.shtml
「大昔は西羌(ヒクソス)の地であったが、隋代にはスムパ(蘇毘)とドミ(多弥)国の
一部分となり、唐代になると吐蕃王国に属した。」
スムパ(蘇毘)とドミ(多弥)国については追わないが、情報求む。
大まかに、チベットはヒクソスからバラモンへ。
「呑米桑布扎(トゥミ・サンポタ)らを西域インドに遣わして文字を学ばせ、
帰国して数年後、チベット文字が創られる。」
↓
トゥミ・サンポタ −呑巴(トゥンパ)村−チベット文字
http://www.tibethouse.jp/culture/language_literature.html
「ソンツェン・ガムポ王(在位西暦629-49)が大臣トゥンミ・サムボータと数名の学徒をインドに送り、グプタ文字を学ばせた時をもってチベット文字の誕生とみなしている。」
↓
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトの見解なので、
吐蕃−ラマ教−チベットの自己同一性にはグプタ朝も入っているか?
呑米桑布扎(トゥミ・サンポタ)がどこの国で学んだか、情報求む。
グプタ朝と言えば、バラモン系で、アジャンター石窟寺院。
「アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだサールナート派の仏像が知られる」
「マハーシャーナカ王子が世俗の快楽を捨て去る決心をして、妃シヴァリーが踊り子たちとともに出家を思いとどまらせようとするが、引き止めきれず、王子はゾウの背に乗って王宮を去り、残された妃は深く絶望し、奴隷たちに囲まれて快楽にうずもれてゆくという場面である。」
↓
チベット仏教のエロスは、バラモンのヒンドゥー教の繋がりか?
中国側から見ると、
http://www.mnaito.com/magazine/backnumber/068.html
「ところがチベット族の方から直接話しを伺うと、それとは全く異なる側面が浮かび上がってきます。つまり『チベット教は厳格な階級社会をつくりあげ、ダライ・ラマ氏を頂点とする5%の僧侶や官僚が全チベット族を支配している。被支配者の大半は農奴として名前を持つことも許されず、毎日最低レベルの生活を強いられてきた。』とのこと。」
+
http://www.gesanmedo.or.jp/uli139.html
貴族階級を等級別にすると、第一等がダライ5世を出した家、チベット文字を創作したトンミサンプダを出した家、など四家である。第二等はダライ7世から14世を出した各家、第三等は政府大臣を出した家で、以上17家が大貴族とされ、第四等は大貴族家庭の分家などの小貴族が入っていた。1940年には大貴族が175家、1959年時には大小貴族合わせて約400家があった。これには荘園領主、寺院、大小活仏、千戸、百戸、土官、富商、頭人、大戸、大テーバ(納税)、富裕農奴が含まれていた。しかし荘園制廃止後も190家余りが残り、しかも民主改革後、新しく貴族を申請した者もいた。旧支配階級家庭出身の者は現在も姓名を保持している。貴族階級とされた者は、1951年時チベット自治区全人口の約一割で、残りの大多数のチベット人は庶民であり、姓はもたず、名だけを名のっている。
↓
ソンツェンガムポや呑米桑布扎(トゥミ・サンポタ)の流れが、特権階級を形成した。
だから初期吐蕃はグプタ朝のカースト制度とエロスか?
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002416.png
文成公主でベニヤミン化した?
以下のサイトとウィキペディアから抜粋+私見
http://zhuling.cool.ne.jp/xiangbala/wcgz/tubo_ls.htm
634年 唐・太宗 貞観 8年
吐蕃と唐は相互に使臣を遣わし、礼物を贈りあう。
635年 唐・太宗 貞観 9年
松贊干布(ソンツェンガムポ)王、ネパールに使者を遣わし、
尊公主(ティツィン王女)を妃に迎える。
636年 唐・太宗 貞観10年
松贊干布(ソンツェンガムポ)王、唐の公主を妃に迎えるため
太宗のもとへ使者を遣わすが、太宗に拒絶される。
松贊干布(ソンツェンガムポ)王、20万の兵を率いて吐谷渾(とよくこん)に出兵、白蘭(バイラン)等、羌族の部落を攻め落とし、松州(四川省アバ・チベット族・羌族自治州内の松潘県)に迫るが、唐軍に敗れる。その後、再び太宗のもとへ求婚の使者を送り、さらに大臣爾東贊(ガル・ドンツェン)を遣わし、金五千両を結納として贈る。
↓
630年にガンポ即位。
この時点で吐蕃にはグプタのバラモンという自己同一性しかなく、
636年にいたってもチベットに住んでいた羌族(ヒクソス)と闘っていた。
太宗も北イ系なので、同盟は組めず、唐と闘っている。
この時点ではバラモン教と羌族の戦い。
640年 唐・太宗 貞観14年
太宗、宗室(皇族)の娘である文成公主を松贊干布(ソンツェンガムポ)
王に嫁がせることを承諾。
↓
トゥルナン寺はベニヤミン系に見えた。
太宗は649年までだが、最初は北イ系の寺を作ったのだろうか?
それとも、唐から離れたことを利用して、
玄宗の、伏儀、女カ派の寺を勝手に作ってしまったのだろうか?
ともかく、文成公主の繋がりで、吐蕃と太宗の唐は同盟を組み、
648年の王玄策のアルジュナ打倒に繋がる関係が生まれた。
この時点で、吐蕃はバラモンより唐との繋がりが強く浸透したか?
「641年
松贊干布(ソンツェンガムポ)王、公主が赭面(しゃめん:顔に赤土を塗る)の風習を嫌ったためこれを禁じた他、貴族の子弟を長安へ留学させ、吐蕃の軍事・行政制度を整え、法律を制定する。 」
↓
641年の時点、公主の影響による、バラモンから唐への移り変わりがわかる。
641年から649年、太宗の死去まで、
玄宗(伏儀、ベニヤミン)の娘の公主が、
北イとベニヤミン、どちらよりに吐蕃を変えようとしたか、詳しい情報が欲しい。
649年 唐・太宗 貞観23年 太宗、逝去。
高宗が即位し、松贊干布(ソンツェンガムポ)王を馬都尉(公主の夫が受ける官位)
及び西海郡王の官位を多数の礼物とともに贈る。
650年 唐・高宗 永微元年 松贊干布(ソンツェンガムポ)王、病のため逝去。
↓
649年、650年。太宗とガンポ死去。
玄宗と公主により、唐と吐蕃は本格的にベニヤミン化したと推定される。
チベットの国旗は、狛犬、八卦、
太陽はエフライムでないのなら、ラマの観音を指すか?
今のところ、チベットはバラモン+ベニヤミンに見える。
ボン教はミトラにシヴァ+マニ
以下のサイトから抜粋。
http://home2.highway.ne.jp/miiboat/HP_Mithraism_Modern_Sects.html #Bon
ポン教Bonは、仏教以前のチベット土着の宗教であり、古代パミール高原(タジキスタン)の宗教つまりミトラ教がチベットにもちこまれたものである。カシミール地方では、ミトラとシヴァが習合しており、その影響もある。東方ミトラ教の大マニの神智学も流れ込んでいる(エリアーデ,ミルチア『世界宗教史?』平凡社、1991/原1983、p317)。七世紀以降は、新たに入ってきた仏教と融合した。ポン教の創始者シェンラプ・ミウShenrab Miwo――《卓越した祭司》の意――はミトラのことで、その名ミウはミトラの変形であり、ポン教の神話はミトラ神話そのものである。(ヒネルズ,ジョン『世界宗教事典』青土社、1991/原1984;エリアーデ,ミルチア『世界宗教史?』筑摩書房、1991/原1983)
*タジク語は、イラン系の言語でタジキスタンの公用語で、現在もパミール高原を中心に使われている。クルド語やイラン本土のペルシア語がアラビア語の強い影響を受けているのに対し、タジク語は影響を受けていない。タジキスタン(パミール高原)は終始一貫してミトラ教・ミトラ崇拝の地であり、一度としてマズダー教(ゾロアスター教)を受け入れたことがないことで知られる。中国にミトラ教を伝えたのは、このような筋金入りのタジク人マギたちであった。
ポン教とチベット仏教の関係
ポン教側はチベット仏教を身内ととらえている。神智学がチベット仏教を身内ととらえているのと同じ認識である。
訂正。文成公主は出自不明。
失礼…文成公主は玄宗の娘ではないですね。
寺がベニヤミンに見えたので間違った。訂正します。
http://zhuling.cool.ne.jp/xiangbala/wcgz/pingjia.htm
「文成公主その人については事績以外の記録がほとんどなく、
唐側の史料からは"宗室女"(皇族の娘)であることが知られるのみ
伝承はまた、ティツィン王女の相談を受けて、文成公主が占い(八卦)
によって建設地を選定した」
↓
八卦から文成公主が伏儀−女カ勢力であることは間違いないと考える。
以下のサイトとウィキペディアから抜粋+私見
http://zhuling.cool.ne.jp/xiangbala/wcgz/tubo_ls.htm
http://www002.upp.so-net.ne.jp/zhuling/luyou_1/qinghai.htm
唐の皇帝のもとへガル・ドンツェンという宰相が派遣され、数年後にこの縁談はめでたくまとまりました。
宰相ガル・ドンツェンは公主(皇帝の娘のこと)を王の妃として迎えるためにいくつかの難問を課されましたが、その英知によってことごとくそれらを解きあかし唐の皇帝を喜ばせたと言われています。このお話は彼の英明さを伝えているとともに、唐王朝がいかに人選に苦慮したかを物語っているようでもあります。
チベットといえば今でさえ“神秘のベールに包まれた雪の国”、“別世界”というイメージがあるほどです。中華以外はすべて蛮族の地と考えていた人々にとって、そんな地の果てで生涯生活するということは想像を絶することであったに違いありません。しかも唐とチベット王国の間に平和を取り持つという大役を担うのです。身分はもとよりのこと、才知、人品、容貌のいずれも欠けることは許されなかったでしょう。
白羽の矢を立てられたのは皇室に連なる16歳の姫君でした。彼女は皇帝から“公主”に封じられ“文成公主”という名を与えられて、遠い遠いチベットの地へと嫁いで行くことになりました。641年のことです。 」
650年からガル・ドンツェンが宰相として国政をしきり、
唐の制度を参考に吐蕃の行政・軍事・租税登録・徴発制度を改めて整備しているが、
彼は文成公主をつれてきた本人なので、ベニヤミン派と仮定する。
663年 吐谷渾を攻め落としているが、
吐谷渾は鮮卑慕容部=マナセ族から分かれた部族。
「太宗 (唐)も635年に李靖を大総管とする大軍を吐谷渾に遠征させた」
のは不可解。情報求む。
吐谷渾(マナセ族の分派)とガル・ドンツェンの対立は納得。
667年 唐・高宗 乾封 2年 吐蕃の宰相 爾東贊(ガル・ドンツェン)没す。
670年 唐・高宗 咸享元年
爾東贊(ガル・ドンツェン)の子爾欽陵(ガル・ティンディン)、宰相の位を継ぎ、
軍政を掌握。兵を率いて唐の西域安西鎮を攻め落とす。
唐側の右衛大将軍 薛仁貴(シュエ・レングイ)、10万の大軍を率いて吐蕃に攻め入り、
吐谷渾の王を帰国させるが、爾欽陵(ガル・ティンディン)の40万の大軍に、
青海湖南の大非川にて大敗する
↓
ガル・ドンツェンからガル・ティンディンへ、ベニヤミン権力継承。
高宗は賀跋部によって擁立されたマナセ・エフライム勢力だが、
670年の時点で、武則天のミトラ−マニ勢力。
文成公主−ガル・ティンディンの線は、ミトラ−マニと対立か?
太宗−高宗の賀跋部(マナセ・エフライム)と文成公主−ガル・ティンディンは、
同盟を組んでいたようだ。
武則天が権力を握り、激しく対立するか。
私は今のところ、吐蕃に北イを見つけていないのだが、
気付かないだけで、エフライムが入ってるのか?
吐蕃には確実に、バラモン、ベニヤミンが見えるが、
賀跋部との同盟の理由はわからない。この辺り、情報求む。
678年にも武則天の唐と対立。
680年に文成公主が逝去するが、
698年まで吐蕃に勢力の変更も大きな動きもないようだ。
バラモン、ベニヤミン、ボンの勢力争い
以下のサイトとウィキペディアから抜粋+私見
http://zhuling.cool.ne.jp/xiangbala/wcgz/tubo_ls.htm
699年 唐・武則天 聖暦 2年
都松贊(ティ・ドゥーソン)王、爾(ガル)一族の勢力を抑えるため、これを討伐、欽陵(ティンディン)は自尽、その弟(実は兄)の賛婆(ツェンニャ・ドムブ)は唐に亡命し、爾(ガル)一族滅びる。
ここでベニヤミン系ガル一族から、都松贊(ティ・ドゥーソン)王に勢力が変わる。
この松贊の字が、松贊干布(ソンツェンガムポ)王と同じだ。
この王族とガル一族の権力争いから考えると、
文成公主とガル一族(恐らくベニヤミン)が吐蕃を乗っ取った、とも考えられる。
王族はグプタ朝に近いバラモンか?
704年 唐・武則天 長安 4年
から
713年 唐・玄宗 開元元年
まで唐と吐蕃は近い関係。
玄宗は712年に太平公主(ミトラ派)を鎮圧した直後。
722年 唐・玄宗 開元10年
吐蕃、小勃律(プルシャ:現パキスタンのギルギット)を占領、そこを拠点に
唐の安西四鎮(亀茲:キジル、焉耆 ヤルカンド、于:ホータン、疏勒:カシュガル)
を攻略する。
↓
玄宗(伏儀、ベニヤミン)と対立。
吐蕃王族(バラモン?)と伏儀、ベニヤミンは対立。
玄宗は730年代に、宦官=マナセ・エフライムに取り入られ、
756年から763年にかけて、ベニヤミンによる安史の乱。
755年 唐・玄宗 天宝14年
徳祖贊(ティデ・ツクツェン)逝去。その子 松徳贊(ティソン・デツェン)
が王位を継ぐ。
大臣 瑪尚仲巴結(マシャンチョンバチェ)らが権力を掌握し、仏教を禁じる。
吐蕃、安史の乱に乗じて唐西部の河西、隴右地区(青海東部と甘粛)を占領。
↓
瑪尚仲巴結(マシャンチョンバチェ)による仏教の禁止は、
761年にインドから高僧を招くことで解かれるが、
反観音=反バラモンを意味するか?
瑪尚仲巴結がどこの勢力か不明だが、
安史の乱=対北イで、バラモンでないので、ベニヤミン系と仮定してみたい。
http://www.pacificresorts.com/china/info/point/tibet/hyakka/
仏教の国教化は八世紀、ソンツェン・カンボの四代後、ティソン・デツェン王による。彼の時代は、古代チベットの黄金時代であった。安史の乱に乗じ唐の長安を一時占拠したり、敦煌を半世紀以上にわたり支配しシルクロードの交易を押さえるのもこの時期である。
ティソン・デツェン王は、仏教を積極的に擁護し、インドから密教行者パドマサンバヴァを招聘しチベット初の僧院サムイエ寺を建立する。このことは、インド仏教の、中国仏教との争いにおける勝利、同時に、チベット土着の信仰との争いにおける勝利を意味する。
ところが、九世紀になると事態は一変する。時の王、ダルマ王は土着のボン教を支持し、仏教を弾圧する。僧は還俗させられ、経典は焚書される。以後二百年、仏教は暗黒の時代を経ることになる。
このダルマ王以前の仏教を前伝仏教と呼ぶ。
安史の乱のなか、
755年からインド仏教=バラモン教解放の761年までに、
大臣(ベニヤミン?)からティソン・デツェンが権力を奪い返したか?
「このことは、インド仏教の、中国仏教との争いにおける勝利、
同時に、チベット土着の信仰との争いにおける勝利を意味する。」
↓
はバラモン仏教による、ベニヤミン仏教、ボン教への勝利、と理解できる。
画像は以下のサイトから。
http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/07/
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002420.png
サムイエ寺でバラモン優位。ボン教のランダルマ以降、吐蕃は勢力争いで混乱し滅亡。
今、吐蕃、最後まで概観したのに、
間違って書き込み消してしまった…
安史の乱の唐の衰退の原因には、
タラス合戦において唐がアッバース朝に敗れたことも大きい。
安史の乱後、吐蕃はバラモン勢力が力を握り続ける。
ティデ・ソンツェンは、サムイエ寺を作り、
バラモン教が、ボン、ベニヤミン勢力を抑えるが、
841年ボン教のランダルマが、仏教を激しく弾圧。
勢力争いで分裂した吐蕃は877年に滅亡。
822年の唐と吐蕃の和解、唐蕃会盟碑が大昭寺(ジョカン)前に建てられているのが、
ベニヤミンの勢力の台頭があったのかどうか、わからない。棚上げ。
先に安史の乱後の唐の勢力を概観したい。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/eurasia4.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002421.jpg
安史の乱後の唐、概略1
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
755年(天宝14載)11月安史の乱が勃発
7月、粛宗は、宦官李輔国の後押しで、皇帝に即位し、
玄宗を上皇に押しやった。
粛宗が宦官に擁立されたことが端緒となって、
これ以降の皇帝が宦官によって使命を制せられるようになったが、
唐代の宦官は、マナセ・エフライム族を指すように見える。
大まかに概略するので、細かい情報求む。
代宗
宦官
李輔国→程元振→魚朝恩
唐における宦官の権力が増大していく素地を築いてしまった。
徳宗
節度使の勢力を抑制しようとしたが、
反乱を起こされたため、784年に『己罪詔』を発して節度使の自由を認めた。
以後、節度使の勢力は強まり、唐の権力は弱体化。
節度使は、安史の乱において、唐の統制を受けず、
世襲で各地を治めていたが、
「李林甫により長城内節度使にも蕃将が任命されるようになった。当時、節度使は宰相へと登るエリートコースとされていた。政敵の現れることを恐れた李林甫は宰相になることは出来ない蕃将を節度使に就けるようにしたのである。」
↓
宦官(マナセ・エフライム)と強い繋がりを持つのであろう。
順宗、805年
宦官・具文珍に迫られ、即位後七ヶ月で退位。
憲宗、805年−820年
宦官、節度使の抑制にある程度、成功。
儒者(南ユダ)と組み、
賢臣にも恵まれ、唐は一時的に立ち直り、安定する。
この時代、漢人が力を盛り返していたのだろう。
途中で仏教・道教を狂信するようになった憲宗に対して、
唐宋八大家の一人、韓愈が、論仏骨表で儒教の立場から反対している。
中国における排仏論を代表する内容として知られている「論仏骨表」。
憲宗は、820年に宦官の王守澄・陳弘志により暗殺。
安史の乱後の唐、概略2
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
穆宗、820年- 824年
宦官による専横
敬宗、824年−826年
宦官・劉克明により殺害。
文宗、826年−840年
2回の宦官の撲滅を狙い、王守澄を自殺に追いこんだが、
宦官皆殺し計画が事前に発覚してしまい、幽閉された。
この事件を、甘露の変という。
武宗、840年−846年
道教(ベニヤミン?)の立場から、会昌の廃仏。
宦官勢力の抑制に努めた。
仏教・マニ教・ゾロアスター教・景教(ネストリウス派)を廃止。
三武一宗の廃仏の1つ。
「寺院4,600ヶ所余り、招提・蘭若40,000ヶ所余りが廃止され、
還俗させられた僧尼は260,500人、没収寺田は数千万頃、
寺の奴婢を民に編入した数が150,000人」
「モンゴル高原のウイグル、チベットの吐蕃などの分裂が起こっており、
対外勢力の動揺も弾圧を後押ししたと考えられている。」
「武宗の権威が及ばない所謂河朔三鎮(旧安史軍)の節度使の支配地域では、
節度使たちが熱心な仏教信者であったこともあって、
廃仏が行なわれる事はなかったという。」
宣宗、846年−859年
儒教官僚、裴休を起用。
廃仏令(会昌の廃仏)を棄却。
宦官に対しては穏健な抑制政策。
懿宗、859年−873年
宦官に全てを一任。
農民の大反乱・黄巣の乱がおきる。
この乱が事実上、唐を滅亡させた。
(無題)
・・百済は山東半島あたりから種種雑多な流れを受け留めたのではないか。kudaraならkudaka、kutakaで久高島にも流れる。ベニヤミン=エフライムで母性コンプレクスは根深い。
・・テーベの構成文字。Iwnw-Shmaw。Iwnwはヘリオポリスことオンを表す。(エフライム工房)
…w、o この流れはオキナワにも来てるか?オンは宮古で御嶽、ウタキのこと。ゴーヤも蔓科でクルクルがある。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002424M.jpg
トゥーラン娘もベニヤミンか。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
唐の西域経営は8世紀前半にはトランスオクシアナにまで及ぶ
↓
トランスオクシアナ=「トゥーラーン」は、アムダリヤの北、
現在ではウズベキスタンとカザフスタン・トルクメニスタン・タジキスタン
のそれぞれ一部に該当する。中心都市はサマルカンド。
シルクロードが発達し、テュルク人やソグド人などが交易などを通じて東西を結んだ。
↓
首切り娘、西方踊り娘。
751年のタラス河畔の敗戦によって、中央アジアの支配権はイスラム帝国に移る。
さらに吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠し、
その後も、吐蕃は甘粛(敦煌)、安西・北庭を奪取する。
しかし、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから、
勢力の問題で、822年に唐と和睦した。
9世紀、吐蕃が衰退し、天山ウイグル王国、甘州ウイグル、タングート(後の西夏)勃興。
↓
天山ウイグル王国
ゾロアスター教、マニ教、仏教・景教(ネストリウス派)なども信仰。
天山ウイグル王国の仏教は、マニ教を基本に、
トカラ仏教・敦煌仏教・ソグド仏教(ベニヤミン)など東西を混在させた独特のもの。
この時期のウイグルはトゥルク−ベニヤミンとミトラの混合か?
後に調べたい。
タングートの前身は羌である。
平夏部の王族は拓跋を名乗っていたが、
吐蕃によりチベットから追い出された羌族(ヒクソス)で、
北イ系の小部族のようだ。
「黄巣の乱が起きた際に長の拓跋思恭は唐を援助」
↓
宦官(マナセ・エフライム)とも近く、
羌=ヒクソス=北イ系という線を裏付ける。
8世紀以降、ムスリム商人が広州に来航し、ムスリム−唐の商人の南海交易が盛んになる。
↓
広州は現在の香港、マカオ。
アラル海とアムダリヤ川(下)、シルダリヤ川(上)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002425M.png
ウイグル(ベニ、ミトラ)対キルギス(マナセ)
時代による中華政権の勢力の移り変わりを特定しておくと、
四方の諸勢力も特定しやすい。
中華の通史を追う予定なので、やや簡略な追い方になる。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
「8世紀にキルギスの攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は
高原を統一する勢力は消滅する。」
+
「叙事詩『マナス』がキルギス民族の文化遺産としてよく知られている。」
↓
キルギスはマナセ族。
ウイグルは商業民で混濁していて理解しにくいが、基本的にベニとミトラ。
マナセとベニ、ミトラの対立。
高句麗に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送る
↓
太宗・高宗はマナセ・エフライム。
高句麗はミトラ系と仮定している。
しかし新羅と連合して660年にまず南の百済を滅ぼし、
668年には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功。
↓
武則天はミトラ系なので、百済−倭との対立は理解できるし、
後に新羅とも対立しているので、一時的な同盟だろう。
ただ高句麗との対立は理解しがたい。
高句麗、武則天初期の東征の両方とも、まだ実態がわからない。棚上げ。
高句麗の遺民たちが中心となって震国(のち渤海)を立て、唐から独立。
渤海(ミトラ系?)と新羅(マナセ)はお互いを仮想敵国とみなし、
日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、それぞれが唐への朝貢を続けた。
5代10国、契丹−華北の五代(混乱で南に手を出せず)−華南は商業小勢力の乱立
5代10国時代は、
黄巣の乱から約100年後、北宋に統一されるまでの期間。
南方には、唐時代からの交易により力をつけた小勢力が乱立。
華北では、
契丹=遼という遊牧民が力をつける。
契丹はまだ特定できていないのだが、
安史の乱にも加わっており、少なくとも北イ系ではないようだ。
移り変わりが激しく100年間なので、ここでは細かく追わない。
北部を安定させた後周→北宋が、南部商業勢力を統一した。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
五代十国 907年 - 960年の簡単な概略
華北の五代
華中・華南の十国
黄巣の乱で長安が陥落するが、
裏切って唐側についた朱全忠により、唐は長安を取り戻す。
唐朝廷を掌握した朱全忠は皇帝を傀儡とし、
907年に禅譲させ、後梁を建て、唐は滅亡した。
朱全忠の宿敵、テュルク(突厥)系沙陀族の李克用は908年に死去。
子の李存勗が後を継ぎ、後梁を攻撃。
後継者争いで内紛する後梁を横目に、燕の劉仁恭を滅ぼし勢力を拡大。
後唐を名乗り、その後、後梁も滅亡させた。
次に後唐は、四川の前蜀を滅ぼす。
しかし、洛陽への遷都、宦官制度復活が、不満を買い、
この不満が926年、李嗣源(後の明宗)の擁立、後唐の滅亡につながる。
しかし名君と言われた明宗は在位わずか6年(933年)で死去。
養子の李従珂によって簒奪される。
危機感を持った明宗の女婿、石敬瑭は、
燕雲十六州の割譲と引き換えに、契丹に対して援助を求め、権力を取り戻した。
936年、石敬瑭(高祖)は後晋を建てるが、ほぼ遼(契丹)の属国であり、
地方勢力の離反が相次いだ。
後晋は、遼に対する強硬派が政権を握るが、
946年、遼に滅ぼされた。
しかし遊牧民の遼による中国の支配は難しく、頓挫した。
石敬瑭の元側近の劉知遠は太原で947年に即位して後漢を建てたが、
勢力争いで内紛、分裂。
ここから後周、北漢が建てられた。
南方の十国
豊かな地帯に拠った呉は強国。
強盗出身の勢力だが、唐の後継を自称した。南唐。
その南には、塩の密売人、銭鏐が呉越を起こし、南唐に対抗。
その南、福建では節度使・王審知が閩を起こすが、
内紛を南唐に付け込まれ、945年に滅亡。
湖北には荊南(南平)→小国だが交易の中継点。
湖南には楚→茶の貿易で栄えるが、951年に南唐に滅ぼされる。
広東には南漢→アラブ系。
四川には前蜀→925年に後唐に滅ぼされる。
その後、後唐の部下が自立、文化振興に力を入れる。
華北の5代王朝は不安定で、契丹も強力。
南方の10国に手を出せる状況ではなかったが、
高周により、その均衡が崩れる。
後周は内政に成功。
954年に即位した柴栄(世宗)は、
自立性の強い節度使などの軍人の力を削ぎ、
自前の軍で、南唐・後蜀・北漢・遼などを攻め領土を拡大。
塩の産地を手に入れたことが極めて重要。
三武一宗の法難と言われる廃仏運動の一宗は、
世宗による廃仏である。
世宗は、959年に統一への道の途上で病死する。
跡継ぎは7歳。
北漢が遼の後押しを受けて侵攻してくるが、
世宗の側近、趙匡胤が討伐に向かう。
その後、趙匡胤は7歳の柴宗訓から禅譲を受け、北宋を建てた。
北宋は「文治主義」。
内政を固め、世宗の路線を引き継ぎ、統一を目指す。
その後、南方の諸国を滅ぼし、二代皇帝が979年に遂に統一。
唐の滅亡から約70年。
地図は以下のサイトから。
http://sodo.cool.ne.jp/data/godai.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002427.jpg
北宋の3代目が封禅。北宋はエフライム・マナセ?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
柴栄、後周の第2代皇帝、世宗。
五代で随一の名君とされる。
節度使に対して、皇帝直属軍を作った。
世宗の廃仏令は三武と違って、
道教からの動機ではなく、経済、統制が目的であった。
趙匡胤、宋の太祖、960年-976年
後周の世宗の配下であったが、
世宗の死後、陳橋の変でクーデターを起こし宋を起こす。
976年、天下統一を目指し他の国を征服し呉越、北漢を残した所で
統一前に50歳で急死したが、
弟の太宗により殺害された可能性が濃厚らしい。
趙匡胤により、
節度使は力を削がれ、名誉職にまで弱められた。
科挙による文治主義が打ち立てるが、
科挙が実質的に機能し始めたのは宋から。
ただし強まる文民統制は、軍事力の低下と官僚の派閥争いを招き、
北宋、南宋の弱体化の要因となったらしい。
太宗、976年 - 997年
疑惑のクーデターで帝位につくが、
能力はあったようで、979年、中国を統一した。
文民統制を強める。
真宗、997年 - 1022年
文治主義を推し進めたが、軍事力が弱体化。
999年に西のタングートと手を結んだ、遼による攻撃を受ける。
↓
タングートは羌で、拓跋を名乗る北イ系。
遼は契丹で、まだ不明。
ここで遼と宋は戦うものの、澶淵の盟で和平。
宋は遼に大量の絹と銀を送り続けねばならなくなったが、
100年以上の安定した関係ができる。
この安定の中、遼は西夏=タングートを服属させているので、
タングートと遼、契丹の同盟も一時的なものと仮定できる。
契丹はまだよくわからない。
地図を見ると、華北で三国が接しているので、
勢力争いのなか、遼が上手に立ち回ったと仮定しておく。
遼、タングートと手を組み宋と有利な和平を結び、今度はタングートを服属させる。
宋、西にタングートを抱えての、遼との戦いに耐え切れず、不利な和平を結ぶ。
タングート、遼と結ぶが、宋遼の和平後、独力で宋に対抗できず、宋とも和睦。
後に遼に服属させられている。
1008年、泰山で封禅の儀式を執り行う。
↓
北宋の三代目は北イ系か?
北宋の初代、二代は、権力獲得の過程で疑惑を持つが、
北イによる後押しを受けた勢力なのだろうか?
この点、追ってみたい。情報求む。
対立するタングートも北イ系らしいが、
封禅の北宋がマナセ・エフライム。
タングートはその他の北イスラエルの何れかか?
遼、契丹は、ミトラかベニヤミンという線を仮定しておく。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/eurasia11.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002428.jpg
王安石(儒教、南ユダ)、対、司馬光(北イ、既得権益)
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
仁宗、在位1022年 - 1063年
西夏や遼に貢物を増やして有効を保とうとするが、
重税で一揆が多発。
改革を求める声が、権力争いのきっかけをつくる。
英宗、1063年 - 1067年
在位4年で病死、何もできず。
神宗、1067年 - 1085年
地主・豪商・皇族・官僚など特権階級の利権の切り崩しを狙い、
王安石を登用。
儒教家。おそらく南ユダ、ベニヤミンか漢人で、
北イ勢力と対立したのだろう。
唐宋八大家の一人であるが、八大家は儒学的文人観らしい。
改革反対派の急先鋒が資治通鑑の司馬光(苦笑)
通観記事に北イスラエルよりな論調の偏りが見られるが、
北宋は4代目まで、やはり北イスラエル系と推定できる。
第六代、神宗は儒教=南ユダ漢人の勢力と手を組み、
王安石は司馬光を閑職に追い込んでいる。
その時代に司馬光は、北イよりの資治通鑑を編纂。
神宗は改革を進めるが、それを後世継続させることができなかった。
この時代は、
北イよりの歴史書では、「新法派以外はすべて弾圧された暗黒時代」と描かれ、
南ユダか漢人よりの歴史書では、
世の中が息苦しくなるのは神宋が亡くなってから、とされるようだ(当たり前だ)。
神宗政権後半は、北宋の全盛期らしい。
自信を深めた神宗は西夏=タングート=北イに侵攻するが大敗。
改革の途上で神宗は病に倒れ死去する、
その過程で、既得権益により、改革法は全廃され、
北宋は衰退していく。
ただ、北イよりの歴史観では、王安石の改革が北宋滅亡の原因とみるらしい。
歴史の評価。プライバシー犯罪を受けた被害者の当然の権利。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
哲宗、1085年 - 1100年
新法・旧法の争いが続いた。
前期は旧法派(北イ)の時代であり、後期は新法派(儒教漢人)の時代
二党の争いが激化して政治的に安定しなかったが、
新法党・章惇政権の後半期には、ようやく政治的・経済的にも安定しはじめ、
国庫も潤っていたらしい。
以下、ウィキペディアからそのまま引用。
「なお、この時代の問題点として、評者の立場によって評価が正反対になるという点がある。儒学的思想が支配的であった時代は、元祐時代は祖宗の美風を取り戻した君子の時代であるとされ、逆に哲宗親政、章惇政権の時代(紹聖の紹述)は小人の跋扈し、世の中を破壊した時代であるとも言われていた。しかし近代以後、王安石の評価が高まることに連動して評価は逆転した。
つまり、旧法派は守旧派の元凶と見做され、元祐時代は反動政権の時代であると退けられる一方、逆に紹述の時代は新法を実施した評価さるべき時代であると見做されるに至ったのである。このように、哲宗朝の評価は立場によって評価が大きく異なるため、この時代の歴史を知ろうとする場合は、予め評者の立場を知っておく必要がある。」
私に関しても、相手のストーカーが、極めて悪質な犯罪集団なので、
嘘、捏造、自作自演の連続。
この4年ほどの地獄で受けた、犯罪のいちいちに、
まともな説明が付くものは殆どないくらいで、
彼らは、自分たちに靡かない相手については、捏造するのがいつものこと、
という犯罪集団なので、この日本の権力層は、
他人のうんこ盗撮するのも、犯罪じゃないって言い出しますよ(苦笑)
だから私に関しては、自分への言及、映画化、永久に一切禁止しているのです。
これは、プライバシーに関わる、下劣な犯罪を受けた被害者の当然の権利ですよね。
ただ、相手の犯罪集団が、ごみ漁り、24時間、何年でも盗聴、盗撮、
住居不法侵入、個人情報のコピー、バイト先での嫌がらせ、
暴力をふるいながら、精神衛生法といって無理やり精神病院に入れて解決しようとする。
これらは受けた犯罪の一部ですが、
どんな悪質な犯罪でも行なう集団なので、
繰り返し、繰り返し、私に関する情報の映画化などは禁止すると、断っているのです。
歴史書を見ても、好き勝手に評価し、捏造するのは簡単なわけで、
盗聴、盗撮の被害者が、プライバシー情報の使用を永久に禁止する、
という意思を明確にしているのに、勝手に映画化されたら、
どんな盗聴、盗撮でも正当化され、
どんな盗聴、盗撮映像でも映画化できますが、
そんなことは許されないのです。
被害者の権利は永久に守られなければならないのです。
盗聴、盗撮ストーカーの犯罪を肯定しないために。
犯罪集団のもう一つの手口は、簒奪(苦笑)
私は永久に孤独です。
私には後継者も仲間もいません。
私たちが共有するのはルールだけであり、
ルールだけは絶対なのです。
金(満州の女真族)を侮って、北宋は滅亡。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
徽宗、1100年 - 1125年
文人、画人としての徽宗はまさしく天才で、宋代最高の一人であるらしい。
芸術活動の資金作りのために蔡京や宦官の童貫らを登用して民衆に重税をかけた。
神宗、哲宗期の新法と違い、自らの贅沢のためだけの重税だった。
蔡京は権力奪取のために、悪辣な手口を使ったのか、
同じ新法派に属する政治家までが彼を告発している。
この悪政への反乱の指導者が明代の小説『水滸伝』のモデル。
方臘の乱はマニ教の主導で起こされている。
後に蔡京政権は、
満州の女真族(後の清に繋がる)と手を組み、
遼から燕雲十六州のうち6州を奪還している。
さらに1125年、宋は残りの州を金(女真族)から奪おうと考え、
遼の敗残軍と手を組むが、金に露見。
徽宗は「自らを罪する詔」を出し、帝位を欽宗に譲り上皇となった。
欽宗、1125年 - 1127年
賠償金と領土割譲する事で金と和約したが、
その後、約束を反故に。
激怒した金は再び開封を攻め、今度は陥落させ、徽宗と欽宗を捕虜とした。
1127年、欽宗の弟・趙構が南宋を興し高宗となったが、
内紛を恐れたためか、高宗は欽宗の返還を断る意向をしめしたため、
欽宗はその後、30年以上も東北に監禁され、北宋は滅亡した。
地図は以下のサイトから。
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/eurasia12.htm
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002431.jpg
東晋−百済、老荘、アルメニア
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
宋は前半は北イ、
神宗の時代に王安石が奮闘。
その後は権力争い、というように見えるのだが、
唐までとは異なる、要素がいくつか見える。
唐の末期から、香港周辺での交易の規模が拡大したようだ。
アラビア−香港の交易拡大は、
東南アジア諸勢力の拡大も引き起こしているのではないか?後に追いたい。
五代十国から戦争においても、塩の産地を押さえることの重要さなど、
交易の拡大の影響が見える。
唐宋八大家の一人目の韓愈は、
宦官(マナセ・エフライム)の力を削ごうとする唐の中興の名君とされる憲宗に、
儒教の立場から「論仏骨表」を示した、廃仏論者。
「中華の聖天子である黄帝は在位が100年、年寿が110歳、少昊は80年、100歳、顓頊は79年、98歳、帝嚳は70年、105歳、帝堯は98年、118歳、帝舜と禹王は100歳でした。しかも、この時、天下は太平であって、人民は平和に寿を得ていました。しかしながら、そんな中国にはまだ仏は居なかったのです。その後、殷の湯王もまた100歳、湯王の孫の太戊は在位75年、武丁は50年でした。周の文王は97歳、武王は93歳、穆王は在位100年でした。やはり、この時も仏法は中国に到達しておらず、仏に仕えて年寿を得たのではなかったのです。」
↓
この儒教は、司馬遷的な、よって中華シュメール復古主義に見える。
司馬光と対立した王安石も含めて、
唐宋八大家の系統の勢力は、唐宋ともに北イ勢力と激しく勢力争いをしている。
現代にまで繋がる中国の泥臭い現実主義、といわれる思考は、この勢力の系統に見える。
三国時代からの南六朝については勉強不足だが、
http://www.coara.or.jp/~mieko/koreahistory/koreahistory11.htm
「百済は384年に東晋の僧侶である魔羅難陀(マラナンタ)
が仏教を伝えたといわれます。」
↓
呉は北イとして、東晋は百済と繋がるのでベニヤミン系か?
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/yamataikoku8.htm
「先生、呉汁の分布状況は、熊本以外は先生が唱える邪馬台国に属さない地域と一致しますね《
「偶然かもしれませんし、偶然でないとしたら、弥生人も呉と同じルーツを持つ系統があったという事になります《
「それは、邪馬台国とは違う弥生人ですね《
三国の呉−北イ。邪馬台国−魏−ベニヤミン。
六朝といっても、呉と東晋で、北イからベニヤミンへ変更。
少なくとも東晋以降、南朝はベニヤミン系で、道教に繋がるので、
六朝文化は「隠逸を尊ぶ老荘趣味的な文人の嗜好」となる。
これはアルメニア−高市の線(エフライム工房)とも重なるのだろう。
老荘(ベニヤミン)に対して、
唐宋八大家(伏儀)の儒教。
儒教も秦漢の時代と唐宋では、政治的な意味合いが逆になっているのではないか?
司馬遷の時点では、儒教と中華シュメールは敵対していて、
孔子も泰山を訪れるなど、儒教は漢の武帝など北イ勢力とも結びついている。
唐宋八大家の時点では、司馬線的な中華シュメールと儒教が同一視されているが、
聖書、仏教、ミトラ系の流入により、儒教も古いので中華に加えられた、と仮定しておく。
ただ韓愈が儒教を唱えても、
王安石は科挙改革で『孟子』を挙げているので、
中華古文復興主義にも、様々な思考の分類があるようだ。
http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/suttanipata13.htm
不義なる者を見て、悪い友を避けよ。
貪欲に耽り怠る者と、進んで親しむな。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。
真理を弁える、聡明な法友と交われ。
有益な事柄を学び、疑念を拭い去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。
遊戯や娯楽や快楽に、喜びを感じず、
心惹かれず、着飾らず、真実のみ語り、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。
妻子、父母、財宝、穀物も、親族も、
そのほか、あらゆる欲望を捨て去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。
今の人々は、自分の利益のため、
交わりを結び、或は、人に仕える。
今日、利益を求めない友は得がたい。
己の利益のみ求めるものは、汚らしい。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。
この辺りの釈迦の言葉など、司馬遷に似ている。
http://www.daitouryu.com/japanese/column/gihoukousei/col_hyouhou01.html
趙の将軍・廉頗(れんぱ)は、将軍としての在職中多くの取り巻に取り囲まれて、有頂天になり、屋敷は毎日多くの来賓客で溢れていたが、彼が将軍職を解任されると、来賓客は一人も来なくなった。
しかし再び廉頗が将軍職に返り咲くと、来賓客は再び集まってきた。廉頗はこうした事に腹を立て、賓客に対して、「直ぐさま、ここから立ち去れ」という命令を下した。
しかしこうした廉頗の命令に対して、一人の狡猾(こうかつ)な来賓客の一人は、 「将軍様は血の巡りが悪うございます。およそ世間の交わりというのは、利益があれば貢ぎ物を持って遣ってくるし、利益がなければ、誰が貢ぎ物を携えて遣ってくるでしょうか。あなたに権勢があれば、私達はあなたの所に遣ってくるし、権勢がなければ立ち去るのは当り前のこと。あなたに権勢がなくなった時に立ち去ったからといって、それを恨みに思うのは、全くの見当違いでございます」と、この賓客は廉頗を諌めた。
同じ廉頗と藺相如の刎頸の交わりに対比すると、
司馬遷にも釈迦に似た純粋さが見える。
釈迦の孤独は、最も的確な孤独についての理解と個人的に考えていて、
私も孤独を抱えていなければならない、と考えます。
社会的には、
http://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/sengen4.html
「最後に、共産主義者は、いたるところで、すべての国の民主主義的政党の提携と強調とに努力する。
共産主義者は、自分の見解や意図をかくすことを恥とする。共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアはこの革命によって鉄鎖のほかにうしなうなにものもない。彼らの得るものは全世界である。
万国のプロレタリア団結せよ!」
というマルクスの見解は、社会的な次元。
プロレタリアは民族的な思考なので、
何かしらの理念を重視すべきだ、と考えています。
(無題)
・・ヴェトナム、ラオス、バングラ、マレーシア、ミャンマー、ネパール …ミャンマーは強烈なエロスがある。(個人的なもの)
・・エジプト、サウジ、イエメン、パレスチナ、レバノン、ヨルダン、イラン …レバノンは手製のパンケーキを馳走になった。原料の小麦は滋味なもの。サハラのオアシスで馳走になったパンとハーブティーも忘れがたい美味なもの。
・・ヤムというのかも。
*
・・エジプト神話のセトはバアルよりもモトに近い。冥府の深層へ。 …キリマンジャロへの面白い指摘があった。
...
キリマンジャロの火口・・・・・上空から「目」に見える?
http://adam.olug.gr.jp/~nesu/img-box//img20060502162503.jpg
ホルスの目(ウジャト・アイ)
http://www.ne.jp/asahi/fuse/abraham/africa/egypt/eg-hols/eg-holss.html
フリーメイソンのシンボル=ピラミッド(山?)目(光?) …
・・ホルスはセトを撃つ。
http://bbs5.cgiboy.com/p/54/02899/
*
・・大神島 大はオキナワ読みならウフ。オオカミなら狼でベニヤミンの島。大神島の由来は(久高島と同じく)北方の山東半島か百済であろう。・・本島の斎場御嶽(セーファ)も山東の斉が由来か?
・・あふvsうふ というのは面白いテーマだ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002433M.jpg
渋フェロモン配合
ケフィールも渋いがクワスにも匂いが…
赤出汁はロ…略
http://rus.jp/ev/EURASIA11/kb.html
ロシアの伝統的な飲料に「クワス」がある。夏の喉の渇きをいやし、気持ちを落ち着かせてくれる発酵飲料である。独特な風味があり、初めて口にする人はまず「ウッ!」と思うだろう。しかし飲むほどに癖になり好きになる。夏には欠かせない飲料なのだ。
http://byeryoza.com/topic/log1/kuvas.htm
どんな飲み物かというと、コーラよりももう少し黒っぽく、赤ワインにも近い色合いです。麦茶を苦くなるまでに詰めたような味で、二十数年前に日本で流行ったホッピーのような気がいないでもない奇妙な味わいです。
クワスを知らずに街を歩いていると、子供がビールのようなものを飲んでいるので、驚きます。
炭酸は入っていませんが、暑い夏にはただ単に苦くて、さわやかな飲み物です。日本的味覚からすれば、おいしくないと感じるより、まずいと感じるでしょう。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
南宋、1127年 - 1279年
高宗、1127年−1162年
北宋の欽宗が金に抑留され、即位するが、
欽宗の帰国を断るなど、疑問を持つ配下も多く、安定しなかった。
金との抗争を避け、
1138年、和平派の秦檜が宰相となり、金と和睦条約を締結することになった。
主戦派である岳飛は処刑された。
秦檜の死後に、金の四代皇帝海陵王が侵攻してくる。
海陵王の金も安定しておらず、途上で反乱がおき、海陵王は殺される。
即位した完顔雍(金の世宗)は宋と和平を結んだ。
同年、高宗は上皇となった。
孝宗、1162年-1189年
内政が充実。金との争いもない繁栄期。
光宗、1189年-1194年
慶元の党禁。
皇后の李氏の言いなり。
宰相趙汝愚・韓侂冑などにより光宗は退位させられた。
二人の権力争いは韓侂冑が勝利。
趙汝愚の一派、また朱熹の朱子学も弾圧された。
タタールの侵入に悩まされる金を攻撃するが、失敗。
和平の条件として金は韓侂冑の首を要求し、
史弥遠が韓侂冑を殺し、塩漬けの首を送った。
史弥遠は独裁するが、重税と文治主義による軍事力の低下で、
南宋滅亡の原因が作られた。
史弥遠が死去した翌年の1234年に、モンゴルにより金は滅びた。
孟珙の構築した防衛線が機能し、
宋はモンゴルを拒み続けるが、
1276年、臨安を占領されて事実上宋は滅亡した。
日宋貿易が盛んで、禅宗も伝えられる。
平清盛は貿易を本格化させる。
鎌倉幕府は民間貿易を認めつつ、国交は持っていない。
以下、エフ工より引用。
http://blog.goo.ne.jp/efraym/m/200603
新羅三郎源義光と言うくらいですから、源氏は新羅系とも考えられます。
しかし、新羅自体のルーツを探ると、源氏のシンボルから見て
古代イスラエル12部族のマナセ族と考えられるのです。
ところで、源氏に対する平氏は何系なのでしょう。平氏は伊勢から出ていますが、伊勢は天武天皇と深い関わりがあります。そして、天武こそが、北イスラエル王国の初代王と同じエフライム族なのです。また、エフライムはヨセフが父ですが、兄にマナセがいたので、これが日本で源平という兄弟関係を形成します。
平氏がエフライム(下エジプトの赤)、
源氏がマナセ(上エジプトの白)とすると、
南宋はエフライムか?
女真、渤海は蝦夷と同族。扶余の高句麗、百済はイナンナ。契丹は未決。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
ツングース・シュメール系
粛慎(蝦夷と同じ)、挹婁→勿吉→靺鞨→女真(金)
→渤海(名目上はイナンナ系高句麗の後継)
扶余
百済王家も扶余系→ベニヤミン?高句麗もベニヤミン?
「神気に感じて妊娠、王が殺させようとしても獣が命を守る、王が勇猛を恐れて殺そうとする、逃亡の際に川に阻まれるが魚鼈が集まって橋を作る、渡り終わると橋は消えて追手を振り切る)」
↓
夫余、高句麗の建国神話も処女懐妊(イナンナ)なので、
イナンナ系シュメールか。
それで武則天(ミトラ系)と高句麗(イナンナ)は対立で納得。
推定しなおし。高句麗、扶余はイナンナ派。
契丹−遼−西遼(カラ−キタイ)もシュメール系に見えるので、
「白馬に乗ってきた神人と青い牛の牛車に乗ってきた天女が結婚して
八人の子供を設けた。これが後の契丹八部の祖先になった」
契丹はまだわからないのだが、
女真と対立しているので、イナンナ系ではないと仮定しておく。
「えー、勝海舟の勝や加賀藩の加賀もコーヘン!」
http://www.kumanolife.com/guestbook/200510251755.htm
ちょっと八切さんの本をひっぱり出してきました。
サンカの逃亡生活というのは五家族単位が五組で一つとして形成されていたようで、
一家族が先発隊として、その後に四家族が同行していて常に一単位の家族と見せかけていたらしい。その後の五家族との間にツナギという連絡係で緊密に結ばれていたらしい。契丹国章の「梅鉢」が五点形成なので、それがまた五つで
一伍とされ、また五伍形成という具合に、雪の結晶みたいに繋がり合って防衛隊形になってゆき、瀬降りの最低単位の一家族が害にあっても、他の家族は迅速に逃げられる仕組みになっていた。(八切さん)
彼等が持っていた武器「梅ガイ」は、この「梅鉢」の紋章からきているのでしょうか?
http://kirisai.hp.infoseek.co.jp/kamon13.html
古代日本人に愛された梅ですが、最も梅を愛した日本人として有名なのが
「菅原道真」公だと思います。
彼は藤原氏の陰謀によって晩年を太宰府で過ごさなければならなかった不遇の
人で、そのことで多くの人の同情を集め、その後の天災を道真公のたたりと恐
れ、天満宮に神として祭ったという逸話があります。
学問の神としても有名な道真公を祭る「天満宮」の神紋はもちろん、「梅鉢紋」です。
どのくらい道真公が梅を愛したかといえば、
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春なわすれそ
という有名な歌を残しているくらいです。
なので、そんな道真公を祭った天満宮が梅鉢を紋に使うのは当然といえば当然ですね。
また、道真公の子孫も梅鉢紋を使用しています。
菅原道真公の子孫を称する前田家も使用している梅鉢紋
以下、ウィキ+私見
宇多天皇に重用され右大臣にまで昇るが、左大臣藤原時平に讒訴され、
大宰府へ権帥として左遷され、そこで没した。
天穂日命(土師氏、出雲系)の子孫−大伴氏
↓
菅原道真
昌泰の変で藤原時平に敗れる。
天満宮
道真を「天神」として祀る信仰を天神信仰という。
また道真と牛にまつわる様々な伝承から、天満宮では牛を神使(祭神の使い)としている。
「道真は901年に藤原氏の陰謀によってこの地に流され、903年に死去した。その遺骸を都まで送ろうとしたが、大宰府から外れた所で牛車を曳いていた牛が動かなくなった。それはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、そこに墓が作られた。」
+
カドモス
「カドモスの姉妹であるエウロペをゼウスがさらったとき、…
カドモスはデルポイまで赴いて今後の方針について神託を伺った。神託のお告げは「エウロペを探すことはあきらめ、一頭の雌牛のあとをついてゆき、その牛が倒れたところに都を立てよ」というものだった。
カドモスは左右の脇腹に白い満月の印のある雌牛を彼らから買い取り、一度も休ませずに追い立て、そのあとをついていった。雌牛はやがて疲れ果てて倒れたので、カドモスはその地にアテナの像を建て、牛を生贄にするために配下の者を近くの泉に水汲みに行かせた。」
大宰府は北九州王朝にも絡み、
牛が止まったところに、神を祭るところが道真、ガドモス同じです。
ガドモスはイナンナ系。
道真は牛を祭るのでバール派か?
サンカ(楚人、ウメガイ)−道真(梅−牛)−ガドモス(牛−イナンナ)−契丹(五角形の梅)
この辺りは全部、シュメール系の枝分かれで、
部分的に近い信仰を持つので、重なるのでしょう。
契丹は、西遼(カラーキタイ)がマニ教を取り入れているので、バール系か?
以下、エフ工より抜粋。
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/yamataikoku9.htm
「…実は、韓の本質はコーヘンなのです」
「コーヘンって、アロン直系の祭司ですよね。…でも、どうしてですか?」
「突厥の可汗、韓国の韓、人名の勝、韓国人名の金(コン)、地名の加賀、
これらは全てコーヘンの異体なのです」
「えー、勝海舟の勝や加賀藩の加賀もコーヘン!」
私と瞳は歴史の裏を垣間見て背筋が寒くなった。
「瞳ちゃん、三韓時代はコーヘンが支配したユダヤ教の時代なのです。
対して、百済や新羅は原始キリスト教の時代なのです」
アロンはモーセの兄で、金の子牛を作ったバール信仰。
道真の末裔、前田氏の加賀藩の加賀は平御幸によると「コーヘン」で南ユダ。
韓国姓の金も、女真の金の流れで、シュメールなので繋がる。
ツングース系の女真もバールなのか?
それに対立した遼は別系統のシュメール。ミトラ?イナンナ?まだ特定できず。
バール、イナンナ、伏儀、北イ、という分類以外に、
エフ工によると、
ユダヤ教(三韓時代)と原始キリスト教徒(百済、新羅時代)の分類も必要ですか。
始皇帝の泰山は原始キリスト教で、儒教(ユダヤ教)を叩いた、ということか?
それで後世、中華復古主義には儒教も混じる。
司馬遷中華=伏儀
南ユダ儒教=まだわからないが、これがエフ工でいうコーヘンで、バールか?
景教派=マナセ・エフライム
アルメニア系=イナンナ派。
崇山のマニ教は、イラン系。
まだ、間違いも多いと思うが、確実な特定に少しずつ近づいてはいるだろう。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002436M.jpg
モンゴル帝国は、イナンナ+ミトラか?
モンゴル帝国を少しずつ調べていく。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
カガンの語源は明らかではないが、高句麗の王族の尊称「加」、百済の王族の尊称「瑕」、任那(加羅)の王の称号「旱岐」などと同じ語源と考え、アルタイ諸語系統の王族を示す古い語彙に由来し、韓国の「韓(han)」も同系統の名であるとする説がある。
↓
高句麗、百済、加羅はイナンナ系。
ウイグルもハーンを名乗るので、ミトラ系も使うのではないかと仮定している。
トゥルク(突厥)とモンゴル(柔然もモンゴル系)の微妙な違いは、
イナンナとミトラの違いか、と仮定している。
例えば、柔然は高車と対立。
高車は、丁零(トルコ)→鉄勒→突厥でベニヤミン。
柔然、モンゴル系は匈奴で、イラン系ミトラ、と仮定。
イナンナの子とチベットの観音は同じ人。
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/yamataikoku12.htm
でも、この時の柔然は族長が社崙(しゃろん)でしたから、柔然もイスラエルなのです」
「社崙は平安を意味するシャロームですね」
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柔然もベニヤミン系かもしれませんが、ミトラの線も保留。
狼トーテムの柔然は、ボルテ・チノ(「灰色斑模様の狼」と近い、
モンゴル・ミトラの線の可能性を仮定しておく。
モンゴルの国章は、
八卦、太陽を支える牛の角。馬。
三色松明はチベット国旗にもある。
下部の舵は、
チベットのトゥルナン寺の上部中心にあり、太陽か?
太陽を左右から囲みこむ形は、インド国章にも見られるが、
モンゴルの主な宗教はチベット仏教。
インド−チベット−モンゴル。
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/pyramid3.htm
「ジェセル王はヨセフを指す」
後の時代の、ラムセス2世やツタンカーメン像でも、耳には穴が開いているのです。だから、耳に穴の開いていない像は、エジプトのファッションから逸脱しているのです」
「先生、ジェセルが耳輪をしないのには理由があるのですか?」
「それは聖書に書かれています。瞳ちゃん、創世記の35章4節を朗読してください」瞳は黙って聖書を開いた。
「そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレピンの木の下に埋めた」
「瞳ちゃん、ありがとう。石井さん、分かりましたね」
「はい、耳輪をしないのは、イスラエルの神への忠誠心です。そう言えば、日本人もずっと耳輪をする習慣がありませんでした」
「ということは、前18世紀のエジプト時代のイスラエルの民は、すでに耳輪を放棄していたのです。逆に言うと、イスラエル以外の人達は、耳輪をする習慣があったということになります」
↓
耳輪はマナセ・エフライムではないらしい。
チンギス・ハーンは、ハーンだし、
耳輪をつけているので、少なくともマナセ・エフライムではない?
チンギス・ハーンという名は、
ココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。
↓
シャーマニズムは道教、ベニヤミン系に近いか?
チンギス・ハーンは、
西夏(北イ傍流)
西遼(契丹、五角形の梅鉢。まだ特定できず。)
金(女真、ツングース系)
ホラズム・シャー朝(テュルク系のマムルーク(奴隷軍人))
を攻撃、ほぼ壊滅。
突厥の勢力はかなりモンゴル帝国に入っている。
モンゴルやカザフでは、20世紀の初頭まで
貴族階層のほとんどがチンギス・ハーンの男系子孫によって占められていた
↓
カザフスタンも太陽を、左右で動物が支える国章。
14世紀に入ると、モンゴル人たちは次第に東方では
チベット仏教、西方ではイスラム教を受け入れていく
↓
バラモン教、イスラム(イナンナ、ミトラ)に抵抗がない。
歴史はパズルに近い。文学とかわいこたん生活のほうが好い。
マラング・ルート(別名コカ・コーラルート)は露骨な名。
マラング・ゲートのは、フリーメーソンのコンパスと、ホルスの眼?
キリマンジャロはピラミッドで、上の模様がホルスの眼?
眼が掘られた時代を特定できないか?
フリーメーソンは、
青ナイルの原始キリスト教やピラミッドに強い拘りを持つのか。
ただホルスはセトの宿敵で、
ヨセフ−マナセ−エフライムにとって最大の邪魔者ですから、
アメリカの一ドル札にホルスの眼があったり、
太陽(ミトラ、イナンナの子)を左右から支える紋章を掲げたり、
自由の女神(マナセを子供と認めないイシス)が飾るのは、変です。
もしかしたら、景教に近い原始キリスト教か?
イナンナの子は、ホルスでなくて、マナセとエフライム。
そういう教義なのかもしれない。
大神島のピラミッド形。
秘祭「祖神祭」(ウヤガン)とか何かあるんですかね?
狼はベニヤミンか。
灰色斑模様の狼→チンギスの片側は、ベニヤミンか。
白い鹿→わからない。情報求む。白い鹿がミトラ系ならぴったりはまる。
画像は以下のサイトから。ナディール・ディヴァンベキ・メドレセ
太陽を囲む鳳凰が、白い鹿をつかんで飛んでいる?
http://www.geocities.jp/excellent_g/uz.html
モンゴル帝国はわかりにくく、じっくり攻略あるよ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002438.jpg
テングリ雑談
坂本龍一−売野雅勇の「美貌の青空」好きですけど、
インダス−エジプト型の思考なので、思考的には受け付けない。
エフ工によるとマナは瞳だったか愛だったか、マナカイは愛の交換。
エジプト的なんでしょうね。
フェニキアの紫。チベット踊り。バルセロナ。
ベニヤミン。
インダス的な陶酔。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
「元来シャーマニズムを信仰してきたモンゴルは、
チンギス・ハーンの時代より多宗教の共存を許し、
いずれもひとつの天神(テングリ)を祀るものとして保護してきた」
↓
この天神がミトラ、すなわちモンゴルのハーン、というモンゴル帝国の教義と仮定。
「テングリ」は中国史における「天」概念と非常に類似しており、天上世界を指すとともに運命神であることも共通している。ただし中国史において天の人格神である天帝が北極星と同一視されているのに対し、テングリは澄みきった青空のことであると考えられており、その点で相違する。「テングリ」崇拝は匈奴の時代から確認されている。
テングリは男性神であり、女性神である大地に対応する。
↓
モンゴル信仰はエジプトの天地がひっくり返った、
ホルス信仰かもしれない。
ベニヤミン系か?
ただモンゴル帝国で母が重視されているようには見えないので、
ミトラの線を保留。
元々、イナンナ派とミトラ派はフルリ人で同族。
天(そら、あめ、てん)の定義
空。ただし、空をより抽象的、哲学的、宗教的にとらえた語。
中国思想における天。この項目で記述。
日本の天。高天原を参照。例:天津神。
キリスト教の天。天 (キリスト教)を参照。
中国語では「天」、または「天神」とも書く、モンゴルのシャーマニズムのテングリ。
天はヌト、イナンナの子供、という信仰か?
個人的な味方ですが、
ホルス−ミトラのインダス−エジプト型シュメールは、
ホルス−ミトラであれば権力を握れる、という、
権威の形を作ってしまうので、あまり好きでないです。
ホルスの代弁者になれれば、
教会として、正しい存在になれてしまう。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002439M.png
訂正ついでに雑談を
訂正、個人的な味方→個人的な見方
「愛おしさで瞳は傷口と知る 魂の」
魂は天国や地獄などに送られる。
黄泉のような霊魂の住まう世界は、オシリスの世界。
魂信仰は、エジプトのオシリスが起源ではないか?
そこに善悪が絡むとキリスト教。
エジプトの末裔、平安時代は霊の飛び交う世界。
「モンゴル部族の伝来の宗教は素朴な天に対する信仰を基礎としたシャーマニズム」
もエジプトの流れ。
インダス−エジプト型で強烈なのは、太宰治の斜陽。
14年前に読んで、かず子に埋没(苦笑)
自分はインダス−エジプト型ではないんですけどね。
(無題)
・・久高島のイザイホー、宮古(大神島)のウヤガン、八重山のアカマタクルマタ。
・・沖縄の三つの秘祭
・・大神島・妹(ウタキ)、沖合いの八重干瀬・兄(ウタキ)ともいう。…一年のうち満月の大潮の頃に八重干瀬(ヤビシ)はサンゴ礁の島として海上に現れる。大陸の殷の末裔などがここに宝貝を採りに来ていたのではないか、と柳田は考える。兄・バアル、妹・アナトでバアルの再生譚と重ならないか。五穀や稲もこのときもたらされたか?
・・月、月読み、…憑き黄泉。
沈黙を舌で味わう芥子のように
>>・・大神島・妹(ウタキ)、沖合いの八重干瀬・兄(ウタキ)ともいう。
八重、などはシュメールを思わせる。
亡くなってしまった兄=夫の再生。フェニキア系統っぽい。
史記は兄=夫勢力が書いてるから、
項羽と一緒に虞は死んじゃってるけど、
アナト勢力は、死なずに子供を生んだ物語にした(苦笑)
>>五穀や稲
島の歴史の始まりの時代を特定できると面白い。
http://www.hana300.com/hinage.html
虞美人草
雛罌粟 (ひなげし)
罌粟(芥子:けし)科。
「罌粟」は「芥子」とも書く。
・別名??「虞美人草」(ぐびじんそう)
中国歴史上の絶世の美女である虞美人にたとえた。
★<古代中国のお話−「虞美人草」>
項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の
最期の戦いのとき、項羽は愛する虞妃(ぐき)と
ともに劉邦の大軍にまわりを包囲された。
項羽は別れの宴を開いてから最後の出撃をし、
虞妃も自刃して殉じたが、
彼女のあとにヒナゲシの美しい花が咲いた。
そのため人々はこの花を
「虞美人草(ぐびじんそう)」と呼んだ。
>>・・月、月読み、…憑き黄泉。
今、以下のサイトをちらっと見たのですが、
http://blog.so-net.ne.jp/lapis/2005-04-20
鎖の先に燃える柘榴石(ガーネット)は、蒔絵の蘆雁(ろがん)を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。(夏目漱石『虞美人草』 八)
このように〈金時計〉=〈蛇〉というイメージが成立し、しかもこの時計は藤尾に取り憑いているのである。吉野裕子によると、蛇目(カカメ)から鏡(カガミ)がきており、御神体等の鏡は、蛇の目の象徴であると言う。(ちなみに、しめ縄は、絡み合った二匹の蛇である。)
すべてが美くしい。美くしいもののなかに横わる人の顔も美くしい。驕る眼は長(とこしな)えに閉じた。驕る眼を眠った藤尾の眉は、額は、黒髪は、天女のごとく美くしい。
(夏目漱石『虞美人草』十九)」
と、蛇にとり天女に取り憑かれた天女の小説で、題名が「虞美人草」。
こういう象徴の思考自体、私は文学としては、本質から外れていると考えていて、
漱石では明暗が好きです。
美しく死ぬより、しぶとく生きのびて、読書しながら、
花の様にかわいい娘たちをかわいがる人生を私は取るあるよ!
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