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「俳句ダービー」?
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ローマ→景教→太宗→楊、高?
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
高力士
武則天の時代宮廷から追放され、宦官の高延福の養子となり、以降、高姓を名乗る。
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寵愛された宦官とはいえ、権力を握るには後ろ盾が必要で、
この「高」はエフライム工房の高市の線と関係はないか?情報求む。
武則天との対立は北イの可能性がある。
宮廷に復帰後、李隆基に仕える。
先天2年(713年) 玄宗に対する太平公主派のクーデターを鎮圧する。
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http://www.toride.com/~fengchu/kaisetu03.html
太平公主 人名。?〜713。唐の高宗と武則天との間の娘
武則天は自分に似ているとして頗る寵愛した。
唐隆元年(710)、李隆基(玄宗)と共に韋后と安楽公主を誅殺して睿宗を擁立すると、その勢力は益々強まり、時の宰相7人の内5人を一門の中から輩出し、三人の子は全て王となり、その党派は禁兵を掌握し朝政を左右するようになった。後、玄宗が即位すると政変を謀るが事前に漏れて死を賜った。
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太平公主は、武則天の勢力で、玄宗がそれと対立した時に、
北イ派は玄宗に加担したのではないか?
玄宗の初期は、姚崇、宋?により漢の勢力が力を持ったが、
裏で宦官(ここでは北イ)が玄宗を狙っていた。
姚崇の死後、「聖書」に関わる勢力が台頭し、
そのときの権力者が楊思助と高力士。
唐代の三夷教は、
マニ教、ゾロアスター教、景教だが、
聖書と関係あるのは景教のみ。
「中国への景教の伝来は、635年にネストリウス派宣教団が長安に到着したことから始まる。このとき太宗の命により、宣教団の団長阿羅本(アラホン、アロベン)を宰相の房玄齢による出迎えを受けたことが、『唐会要』に見える。時の宰相が出向いていることを考えると、少なくとも朝廷に対する何らかの働きかけを行った者が、既に長安で活動していた可能性が高い。これほどの高官の歓待を受けたことより、宣教団には西域の何処かの国(サザン朝ペルシアが有力か)からの外交使節的な意味合いが含まれていたとも考えられている。」
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太宗はマナセ・エフライムで景教につながる。
ササン朝に聖書はないので、敵対するローマ帝国と繋がっていたのではないか?
ローマ帝国には平御幸によると、マナセ族が関与していた。
玄宗を堕落させた宦官の聖書勢力も太宗の景教と繋がる可能性がある。
「カトリック・東方正教会・プロテスタント等、キリスト教主流派では、
ネストリウス派は異端とされる。」
ので、ローマ帝国と景教は関係ない、という考えもあるだろうが、
ローマ帝国で重要だったのは、教会、ペテロの正当化。
逆に、マナセ・エフライムにとって重要なのは、
マリアの子として自分たちを正当化すること。
自分たちを子供と認めなかったマリアを神聖視しないネストリウス派は、
マナセ・エフライムの気に入りそうな教義。
だから景教はローマでは異端でも、住み分ければ対立はない。
大秦寺の「秦」は、エフライム・マナセ族が、
イナンナの正当な子供であり、イナンナの夫はヨセフである、という教義か?
楊氏、高氏について細かい部分は飛ばしますが、
高市の線が景教と重なったのか?
中国−朝鮮半島−日本の仏教、キリスト教の諸派の区別は、
私にはまだできていないのですが、詳しい解説求む。
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