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「俳句ダービー」?

80:2006/11/08(水) 23:09:56
安史の乱後の唐、概略1
以下、ウィキペディアから抜粋+私見

755年(天宝14載)11月安史の乱が勃発
7月、粛宗は、宦官李輔国の後押しで、皇帝に即位し、
玄宗を上皇に押しやった。

粛宗が宦官に擁立されたことが端緒となって、
これ以降の皇帝が宦官によって使命を制せられるようになったが、
唐代の宦官は、マナセ・エフライム族を指すように見える。
大まかに概略するので、細かい情報求む。

代宗
宦官
李輔国→程元振→魚朝恩
唐における宦官の権力が増大していく素地を築いてしまった。

徳宗
節度使の勢力を抑制しようとしたが、
反乱を起こされたため、784年に『己罪詔』を発して節度使の自由を認めた。
以後、節度使の勢力は強まり、唐の権力は弱体化。

節度使は、安史の乱において、唐の統制を受けず、
世襲で各地を治めていたが、

「李林甫により長城内節度使にも蕃将が任命されるようになった。当時、節度使は宰相へと登るエリートコースとされていた。政敵の現れることを恐れた李林甫は宰相になることは出来ない蕃将を節度使に就けるようにしたのである。」

宦官(マナセ・エフライム)と強い繋がりを持つのであろう。

順宗、805年
宦官・具文珍に迫られ、即位後七ヶ月で退位。

憲宗、805年−820年
宦官、節度使の抑制にある程度、成功。
儒者(南ユダ)と組み、
賢臣にも恵まれ、唐は一時的に立ち直り、安定する。

この時代、漢人が力を盛り返していたのだろう。
途中で仏教・道教を狂信するようになった憲宗に対して、
唐宋八大家の一人、韓愈が、論仏骨表で儒教の立場から反対している。
中国における排仏論を代表する内容として知られている「論仏骨表」。

憲宗は、820年に宦官の王守澄・陳弘志により暗殺。




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