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「俳句ダービー」?
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武則天は崇山のマニ+ミトラ、浄土宗
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
武則天は、太宗の妾、高宗の女になるが、高宗の皇后の廃立させた。
長孫無忌(マナセ・エフライム)は武則天の台頭に反対。
皇后となった武則天は病気がちな高宗に代わり、垂簾政治を行った。
初唐は隋と同じく基本的に貴族政治であり、
関隴貴族集団と呼ばれる貴族たちが権力を握っていた。
武則天は関隴貴族集団を嫌い、新しい人材を積極的に登用した。
武則天は外事にも取り組み、660年(顕慶五年)に新羅(マナセ)の要請に応え、
百済(ベニヤミン)討伐の軍を起こす。百済(ベニヤミン)を滅ぼした後の
日本と百済の遺臣連合軍(倭人、北九州王朝)との白村江の戦いにも勝利し、
更にその五年後には孤立化した高句麗を滅ぼす。
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長孫と対立したので、新羅との繋がりは不可解だが、
「百済滅亡以来、その故地を占領していた唐と旧百済領の支配権をめぐって対立」
しているので、武則天と新羅との繋がりは流動的で、
強いものではないので納得。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/busyuukyou.htm
(688)六月、江南道巡撫大使、冬官侍郎狄仁傑は、呉、楚に淫祠が多いので、その千七百ヶ所を焚いたと上奏した。ただ、夏禹、呉太祖、季札、伍員の四祠だけは残した。
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老子を習わせることをやめ
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呉・楚などのモン族とは敵対。
老子も儒教と対立する、シュメールに近い思想。
百済−北九州のモン族、ベニヤミン連合と敵対していたからだろう。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/tengokaigi.htm
河内に年老いた尼がおり、神都の麟趾寺に住んでいた。彼女は嵩山の人韋什方等と共に妖術と広言で大衆を惑わした。
尼は自ら浄光如来と号し、未来を予知できると言った。什方は呉の赤鳥年間生まれたと言った。また、ある年老いた胡人は自称五百才。薛師に会ってから二百年経つと言っていたが、容貌はまだ若かった。太后は、彼等を大変重んじていた。
延載元年(694年)什方へ武氏の姓を賜下した。
秋、七月癸未。什方を正諫大夫、同平章事として、制を下した。
「黄帝の頃の廣成を凌ぎ、漢代の河上を越える(廣成子と河上公。共に仙人)。」
八月、什方が山へ帰ることを乞うたので、制にて官職をやめさせ、帰した。
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また、祟山を神嶽と改称し、その神を天中王へ封じ、太師・使持節・神嶽大都督として、
草を刈ったり放牧したりすることを禁じた。
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泰山ではなく、崇山派のようだ。崇山の意味は後に調べる。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/16-goteidensetu.htm
共工を幽陵に流して北狄に、驩兜を崇山に追放して南蛮に、
三苗を三危に遷して西戎に、鯀を羽山に熙(幽閉)して東夷に、それぞれ変えました。
↓
三苗は呉楚越で彼女の敵。共工は泰山。
驩兜は共工と組んだ南蛮だが、則天武后は南蛮勢力か?
河南省には、龍門洞窟。
先史時代の裴李崗文化や仰韶文化などの遺跡がある。
北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した494年(太和18年)に始まる。
孝文帝により、北魏の漢化が始まり、
「高宗時代に、龍門石窟は最盛期を迎えることとなる。
その絶頂期の石窟が、675年(上元2年)に完成した「奉先寺洞」である。
これは、高宗の発願になるもので、皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進している。」
から、
武則天も孝文帝の流れか?
嵩山少林寺は、孝文帝が西域沙門の仏陀禅師の住寺として、少室山陰に建立したとされる。
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やはり武則天は孝文帝と同勢力か?
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/kousakuritu.htm
太宗が崩御すると、武氏は他の側室達と共に感業寺にて尼となった。
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則天武后は仏教と強いつながりを持つ。
太后はかつての白馬寺を修復し、僧侶の懐義を寺主とした。
武則天は、自身の姿に似せたという大仏を龍門の奉先寺に造営し
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龍門は龍門洞窟。
奉先寺造営の責任者は、中国浄土教の祖の一人である善導であった。
仏教については殆ど何も知らないが、
浄土教は、弥勒菩薩が未来に世界に現れるので、
それにあわして世界を変えなければならないという、ミトラ教らしい。
中国における浄土教は、善導とは系統が違うが、
白蓮社とも近いようだ。
白蓮教はマニ教と弥勒信仰が習合したもの。
マニ教は3世紀から5世紀の間に中国に伝来したようだ。
武則天は仏教を偏重し、諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、
自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し
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弥勒菩薩はミトラ。イランとのつながりの可能性が浮かぶ。
マニ教、浄土教の勢力と崇山において、武則天は繋がっていたようだ。
東魏国寺の僧法明等が大雲経四巻を撰集して上納した。
http://homepage3.nifty.com/alacarte/hajimete-9.htm
懐義が、東魏国寺の僧法明ら洛陽の僧侶集団9人と共謀し、女帝出現の予告らしきものを仏典から探し出してきたとある。
中国では、過去に女帝の例はなく、さらに政治に女性が容喙することを戒めていたため、儒家経典や史書に典拠を求めることができなかった。
そこで、有名な、仏教の弥勒仏下生(みろくぶつげしょう。釈迦入滅後、弥勒仏が人間界に転生し一切の衆生を救うという説。ただし、弥勒仏は菩薩であり女性とは限定されない)と、北涼時代の『大雲経』(仏陀が浄光天女に「女身をもって、王位につき、天下をおさめよ」と予言する一節がある)とをミックスさせた。
武則天は、儒教(南ユダ)にも北イ(泰山)にも頼れない特殊な立場で、
崇山の浄土宗、マニ教と手を組んだ。
より細かい疑問は残るが、この辺りで次に移りたい。
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