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「俳句ダービー」?
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アメタリシヒコ疑惑1
以下、ウィキペディア+私見
面白いので、以下のサイトから殆ど抜粋。
http://murashita.que.jp/asu4.htm
さて、推古天皇践祚の翌年に皇太子聖徳太子が初の摂政として政務を総攬することと
なりました。?? 遣隋使や十七条憲法、冠位十二階とかで有名ですよね。
あとは何と言っても「日出づる処の天子」。
「隋の煬帝に対して送ったと言われる文書は有名ですよね。「日出づる処の天子、
書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々」中華思想の国に対して対等外交と
言うか半ば「こっちの方が上なんだぞ」みたいな挨拶をしたとか言う。
また隋書倭国伝によれば当時の倭国王は「アメタリシヒコ」と言う男性となっています。
これはどうやら聖徳太子を指すようです。」
ちょっとね、「アメタリシヒコ」が聖徳太子だったと言うのはわかんないんだぞ。
でも中国の本に出てるじゃないですかー。
じゃ聞くけどあれだけ聖徳太子を礼賛する「記紀」にこのことについての記述が全く
無いのは何故なんだ?この事実を書き残す文献っていうのは隋書倭国伝にしか無いのよ。
太子礼賛の為にも国威発揚の為にもこの「アメタリシヒコ」が聖徳太子だったなら
書かないわけが無いって思わないか?
書いてないんですか?日本の書物に。じゃぁ「アメタリシヒコ」って誰なんです?
当時の天皇って誰よ。
推古です。
おかしいじゃん。つじつま会わないじゃん。
だからそれは摂政である聖徳太子を日本の首長と隋の役人が勘違いして・・・
国書だよ、国を代表するんだぞ。なんで摂政ごときの名前で出す?ここは当然推古の
名前で出すのがあたりまえなはずじゃないのさ。実権を握ってるのが誰であれ「卑弥呼」
の例を見るまでもなくトップの人間の名前で出すに決まってるでしょ。
それに聖徳太子が厩戸皇子だったにせよ豊聡耳皇子だったにせよどこをどう読んだら
「アメタリシヒコ」になる?
うーむ。。。
さらにこの後の608年に日本を訪れた隋の文林郎裴世清が会ったという倭国王は
男だったんだよ。仮に推古天皇の摂政としての聖徳太子に会ったとしてそれを
国王と勘違いするようなそんなバカだったのか?裴世清。とにかく「記紀」に
このお話を書けばもっともっと聖徳太子を顕彰できたはずなのに書かなかった。
いや、書けなかった。
どういうことです?
書こうにもその事実を知らないんじゃ書けないでしょ。
だって聖徳太子はそんな国書なんて出してないんだもん。
出た!アヤシゲ説!!
失敬な。
なら誰が出したんです?あの国書。
村下説ではまだこの頃はいわゆる大和朝廷ってローカルなものでしかなかった
って思うのね。ここで隋書倭国伝を信用するとしたら、
ちょっと面白い記述があるんだけど。
隋書倭国伝で日本の地形に関して書いた行っていうのは航路の他にはこれだけなのよ。
「阿蘇山あり。その石、故無くして火起こり天に接する者、
俗以て異と為し因って祷祭を行う」
え?阿蘇山?
阿蘇山って熊本県だよねぇ。飛鳥に行くのに仮に北九州に上陸して中国地方を
陸行するなり瀬戸内海を海行するなりどちらにしてもなーんで熊本県の阿蘇山が
出てくるんだ?裴世清が日本で最も印象に残ったのが阿蘇山だったっていうのは
何を意味してるんだろーねぇ。
なんか含んだ言い方しますねぇ。
「アメタリシヒコ」は聖徳太子では無かったのではないか?
この疑問は九州に王朝があったとしてそこに裴世清が行ったのだとしたら
全てのことに合点が行く、なんて思ってしまうワケさ。
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