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「俳句ダービー」?
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太宗、高宗はマナセ・エフライム
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rien2.htm
626年6月 玄武門の変
貞観八年、太宗皇帝は、しばしば上皇へ、九成宮へ避暑へ行くよう勧めたが、上皇は、隋の文帝がそこで崩御したので縁起が悪いとして行かなかった。そこで、冬、十月、上皇の避暑の為に大明宮を造営する。だが、完成前に上皇は病気に伏してしまい、住むことができなかった。
上皇はそのまま回復せず、九年、五月庚子、垂拱殿にて崩御した。
十一月、庚戌、太原へ高祖廟を立てることについて議論するよう詔が降りた。
↓
玄武門の変後、李淵は直ちに疑惑の病死。
その後、太原へ墓を作ろうとしている。
「唐の李淵は太原から唐を興した」という理由だろうが、
中止されたものの、太原は、大同とともに、
東西対照でシェケムに辺り、東の北イスラエルの中心地の一つ。
李淵自身は北イ勢力と敵対したが、
太宗の背後勢力に、太原(マナセかエフライム)の可能性を仮定したい。
太宗は、皇帝になる以前は、秦王。
秦は南北イスラエルのどちらかの地ではないだろうか?
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/taisooyzi.htm
上(李淵)は遂に怒りを発して世民を責めた。
「我が手敕が、お前の教より劣るのか!」
他日、左僕射裴寂へ言った。
「あいつは長い間、外で戦争をしていた。その間に書生からあれこれ吹き込まれ、
すっかり別人になってしまった。」
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太宗を「すっかり別人」にした、この書生たちは、
李淵と敵対した武川鎮軍閥、もしくは南朝勢力ではなかろうか?
世民は李淵の嫁達と対立したが、
嫁達は李淵を動かした漢人勢力で、
イスラエル勢力の世民と対立したと仮定。
上は皇太子を替える気がなくなり、建成や元吉を寵愛し、世民を疎んじるようになった。
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漢人勢力の李淵に遠ざけられた世民は、別勢力。
「突厥が屡々関中へ来寇するのは、子女玉帛が全て長安にあるからです。もしも長安を焼き払って、ここを都にしなければ、胡の来寇は自然と止むでしょう。」
上は、同意した。そこで中書侍郎宇文士及へ南山を越えて樊・登(「登/里」)の地へ行かせ、ここへ遷都しようと考えた。
太子建成、斉王元吉、裴寂は皆、その策に賛成した。蕭禹(「王/禹」)等は、それが不可だと判っていたが、敢えて諫めなかった。秦王世民は、諫めて言った。
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長安は、「前漢、新、前趙、前秦、後秦、西魏、北周の時代に首都がおかれた」
唐の長安城は、平安京、平城京のモデルにされているので、
この時代、イスラエルの勢力が強かった可能性が浮かぶ。
李淵が狙い、世民が反対した、「樊・登(「登/里」)の地」
の情報が見付らないのだが、漢かモン族に馴染みのある土地ではなかろうか?
情報求む。
上の怒りは解けなかった。すると、そこに役人がやって来て突厥の入寇を告げたので、
上は顔つきを改め、世民を慰労して冠をつけさせ、彼と突厥について謀った。
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世民を遠ざけつつも、突厥と手を切って漢化を狙う李淵は、
世民のイスラエル勢力を保留しなければ、突厥を撃退できなかったと仮定。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/taihouzen.htm
十一年、三月。群臣が再び封禅を請うた。
上は、秘書監顔師古等へその礼を議論させ、房玄齢へ裁定させた。
十一月丙子、百官が再び封禅を請願し、詔してこれを許し、
更に緒儒に儀式の詳細を定めるよう命じた。太常卿韋挺等を封禅使とする。
十五年、四月辛卯朔。来年二月に泰山を祀ると詔した。
五月、壬申。并州の父老が闕を詣で、泰山にて封禅を行うよう上へ請願した。
二十年、十二月己丑。群臣が封禅するよう何度も請願したので、これに従った。羽衞を造って洛陽宮へ送るよう詔する。
二十一年、正月丁酉、明年の仲春に泰山を祀ると詔した。社首を禅するなど、全て十五年の時の朝議の結果に従うことになった。
八月、壬戌、薛延陀が降伏したばかりで、土木工事も屡々起こし、加えて河北に水害が起こったので、明年の封禅を中止する、と、詔が降りた。
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結局、封禅しなかったようだが、度重なる論議は、
太宗が泰山に近い勢力だったことの証明。
次の皇帝、高宗は鮮卑賀跋部(北イのいずれか)の政治工作で皇帝になったが、
泰山に封禅している。
太宗、高宗について細かく追わないが、
二人とも泰山の勢力で、鮮卑の後押しを受けた、
それは、則天武后が対立した武川鎮軍閥と同一勢力であろう。
太宗の皇后である長孫氏は、
「一説には、北魏の拓跋氏(元氏)を改姓した姓氏とも言われるが、実際は鮮卑大野部だった唐の皇室の姻戚である鮮卑の有力部族の賀跋部だったようである。関隴集団中においても、貴顕中の貴顕とされる門地であった」
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鮮卑賀跋部はマナセ+エフライムと推定。
北イ、武川鎮軍閥が太宗、高宗を後押しした。
長孫無忌は玄武門の変で房玄齢らと太宗を補けているから、
玄武門の変へのマナセ・エフライムの関与も確実。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E8%B3%80%E8%B7%8B%E9%83%A8&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
高歓は漢語の姓名だが 、 賀 六 渾 という 鮮卑 語 と 思われる > 字 ( あざな ) を持っていた 。 これ を 見る と 高 歓 の 鮮卑 姓 は 賀 跋 部 ( 氏族 ) といったところでしょうか ? まだ 、 特定とまではいえませんが … ...
高歓が「賀六渾」でマナセだとすると、
北魏→東魏→北斉、の線はマナセで、
隋では武川鎮軍閥、唐では長孫氏として、勢力争いをしていたと仮定。
北斉はエフライム工房によると、コーカサス、北斉の高市の線で、
これもマナセか?
呉は西のリビア王朝に当たると仮定したが、高市はマナセか?
リビア王朝もマナセか?(違っていたらエフライム。)
西魏→北周
は宇文部でガド族、奚は宇文部に吸収されたルベン族と仮定。
「ライバルの北周は仏教と道教を禁止したという事です(エフ工)」
宇文部の線は仏教と対立。
「北魏の拓跋珪が幼少時に、武将の賀抜斤(または賀若斤)(漢姓では長孫氏)
の謀反で、代(エフライム、北魏の前称)の単于であった父が敗死すると、
代の弱体化を衝いた奚の各部族長は謀反人の長孫斤と共に前秦の苻堅と結んで、
代を滅ぼしたという。」
↓
長孫姓は賀に当たるのか?それが代(君が代のエフライム)を滅ぼしているので、
長孫=賀はマナセ。
「賀跋部」は「賀」のマナセ+「跋」のエフライムで、
エフライム・マナセの連合隊と推定。
下の系図を見ると、
李淵は宇文部との繋がりを持ち、西魏→北周とも組んだか?
太宗、高宗には長孫氏から皇后、擁立の関係があり、
ライバルの北斉の流れ、マナセ・エフライム。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002392M.png
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