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「俳句ダービー」?
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李淵は突厥→漢人
以下、通鑑記事+ウィキペディア+私見
隋の滅亡に繋がる反乱は、李密が中心。
武川鎮軍閥中の名家の一つである李氏を出自とする。
煬帝の首をとった宇文化及は、
代郡武川鎮の出身でやはり武川鎮軍閥か?
後に化及の首は突厥に嫁いだ煬帝の娘である義成公主に送られた。
李淵は北周の八柱国の家系で、隋の楊堅の外甥でもある。
煬帝の失政で国内が騒然となると突厥より兵を借りて隋に対して反乱を起こした。
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隋の滅亡には武川鎮の力が大きそうだが、李淵は突厥から兵を借りているのは、
どういうことか?
統一戦に著しい戦功を上げた李世民とその取り巻き達が皇太子の座を狙って策謀するようになった。これを止めるために高祖は世民の謀将房玄齢・杜如晦の二人を引き離し、天策上将の称号を与える事で世民の不満をなだめようとした。
しかしこれらの策は成らず、626年に玄武門の変により皇太子李建成と三男の斉王李元吉は李世民により殺され、高祖も軟禁され、その後李世民に対して譲位して上皇となった。その後も半軟禁状態で635年に死去した。
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李淵と太宗で勢力が入れ替わっている可能性がある。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rienkekki.htm
劉文静は、突厥と同盟を結ぶよう李淵へ勧めた。李淵はこれに従い自ら書状を書き、
腰を低く賜を厚くして始畢可汗のもとへ使者を派遣した。
突厥は唐と交易しようと、柱国の康鞘利等へ千頭の馬を与えて晋陽へ派遣した。
そして、李淵が入関の為に出陣する時には、援軍を出すと許諾した。
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李淵は突厥と組んだ。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rien1.htm
独孤懐恩は、
ある時、彼は腕を振るって言った。
「我が家で尊いのは、どうして女性だけだろうか。
(周の明帝の皇后、隋の文帝の皇后、そして上の母は、全て独孤氏だった。)」
遂に、麾下の元君寶と共に、造反を考えた。
李淵は、独孤懐恩を呼び付けた。独孤懐恩は、まだ事が露見したとは思わずに
軽舟でやって来たところを捕らえて獄吏へ引き渡し、党与を捕まえた。
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独孤は武川鎮軍閥。李淵は武川鎮軍閥と対立したのではないか?
隋滅亡後、李淵の好敵手で、中華統一を争った李密も武川鎮軍閥。
夏、四月。庚子朔、天下へ恩赦を下す。この日、新しい律令を頒布した。
これは開皇の旧制と比べて新格が五十三條増えていた。
六月、辛丑。上が仁智宮へ避暑に行った。その後、国内では楊文幹が造反し、
国外では突厥や吐谷渾が屡々侵略した。
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後に調べるが、中華が安定し始めたので、
李淵は突厥と手を切り、新しい律令を定めたか?
まだ太宗に乗っ取られていない。
四月、太史令傅奕が上疏して、仏法排除を請うた。
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この次の次の月に玄武門の変で李淵は、太宗に位を譲るのだが、
この仏教排除の記述が長く、極めて興味深いので長いがそのまま引用する。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/rien2.htm
「仏は西域にあり、その言葉は妖しく、路は遠うございます。漢代に胡書が翻訳されましたが、今ではそれが都合の良いように解釈されています。彼等は不忠不孝にも髪を剃って君親を見捨て、働きもしないで衣食に満ちて、租税を逃れます。三塗(地獄、餓鬼、畜生)や六道(三途+修羅、人、天)のようなでっち上げを広めて愚夫を恐喝し、凡庸を騙す。過去の罪を妄りに赦し将来の福の空手形を与えるので、民は一万倍の報酬を求めて萬銭の布施を行い、百日の糧食を欲して一日の斎を差し出す。こうして功徳を妄りに約束された愚迷達は、法律を憚らなくなり、憲章を犯すようになるのです。そして遂には悪逆を行い、牢屋へぶち込まれるに至っても、彼等は獄中で仏を礼拝し、罪を免れるよう希うのです。
それに、生死や長命夭折は自然の力、刑徳威福は人主が与えるもの、そして貧富貴賤は功業が招くものなのに、愚僧達は、事実を歪曲して全て仏の力だと説いています。彼等が人主の権威を盗み、造化の力に仮託することで、政治がどれ程害されましょうか。まことに悲しむべき事です!
伏ギ、神農から漢代へ至るまで、仏法とゆうものはありませんでしたが、主君は賢明で臣下は忠義、王朝は長く栄えました。漢の明帝が始めて胡神を立て、西域の桑門からその法が伝来しました。西晋の頃は国に厳しい法律があり、中国の人が簡単に髪を剃るなど許しませんでした。苻、石、キョウ、胡が中華を乱す頃は、主君は凡庸で臣下は奸佞。政治は残虐で王朝は短命となったのです。梁の武帝や斉の文襄は、明白な鏡ですぞ。
今、天下の尼僧は十万を数え、そのような無為徒食の人間の贅沢の為に多くの繪綏が浪費され、萬姓を苦しめております。彼等を還俗させれば十万余戸となります。彼等へ子供を産育させて、十年養った後教えれば、兵とすることができます。そうなれば四海は無駄飯食いの殃がなくなり、百姓は権威を持ち福を与える者が誰か思い知ります。そうすれば妖惑の風潮は自然になくなり、純朴な風俗が戻ってきます。
北斉の頃、章仇子佗が『僧尼が多くなれば国家は疲弊し、寺塔が奢侈になれば金帛が浪費される。』と言ったところ、諸僧や諸尼が宰相や妃・主へ取り入って誹謗讒言した為、子佗は捕らえられ、都市にて処刑されました。北周の武帝は、斉を平定すると、彼の墓へ封戸を付けてやりました。臣は不敏ではありますが、北周の武帝の業績を慕っているのです。」
上は、百官を集めて、これについて協議させた。すると、ただ太僕卿の張道源だけが奕の言葉が理に叶っていると称した。対して、蕭禹が言った。
「仏は聖人です。奕は、これを非難しました。聖人を非難するのは無法者です。その罪を窮治めするべきでございます。」
奕は言った。
「君父は人の大倫です。それなのに仏は、世嫡のくせに父親に叛して出家し、匹夫のくせに天子へ逆らいます(釈氏の法として、君親へ拝礼しないことを指す)。蕭禹は木石から生まれたわけでもないのに、父親を無視する教えを尊んでいます。『孝にあらざる者は親無し(非孝者無親。孝経の一節)とは、彼のことです!」
禹は言い返すことができず、手を合わせて言った。
「地獄は、こんな奴のために造られたのだ!」
上は、沙門や道士が戒律も守らないくせに戦役を逃れていることを憎んでいたが、それは奕の言葉通りだった。また、寺観が邸宅に隣接すると、(あたりが汚れきってしまう?)。辛巳、役人達へ詔を下して命じた。
「天下の僧、尼、道士、女冠のうち勤行に励んでいる者は大寺観へ移して衣食を給与して不自由させないように。また、勤行を怠けている者は全て還俗させて郷里へ返還させよ。」
京師にはただ寺を三ヶ所、観を二ヶ所、諸州には各々一ヶ所だけ留め、残りは全て壊させた。
傅奕は謹密な性格。占候の職務にあった時から交遊を途絶し、災異を奏上すると、すぐに文書を焼き払ったので、人々は彼の功績を知らなかった。」
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突厥と手を組み、武川鎮軍閥を押さえ込んだ李淵は、
まず突厥と距離をとって、武徳律令 - 624年で漢人と手を組んだか?
儒教と対立する南朝仏教はエフライム工房の高市の線で、南北イスラエル。
上の仏教排除の記述に伏儀、神農な名が見えるが、
これは漢人による勢力奪取だった可能性を仮定したい。
この二月後に太宗により、李淵は強引に位を譲らされているが、
その背後を追いたい。
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