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「俳句ダービー」?
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法隆寺は北九州の再興南ユダ王国のシンボル
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji.index.htm
法隆寺は、突厥のベニヤミン族と秦氏を代表とするユダ族が、
原始アルメニア教会の終着点として建設した、再興南ユダ王国のシンボルである。
以下のサイトから全部、引用
http://www.geocities.jp/waikoku/
奈良の「日本国」王朝の前に、九州の太宰府に「 倭国 いこく 」王朝が存在していた。
米田良三著 『法隆寺は移築された』 は、
すばらしくも゛超″画期的・革命的!な解明だ。
法隆寺は、゛『移築』″されていた。
元々は、九州王朝『倭国』の都だった大宰府の
『観世音寺』(左図は当時をしのぶ絵図) に建っていたもの。
以前私は、古田武彦氏の著書で九州王朝『倭国』の存在が確かである、と思いつつも、それらを証明する手がかり・物証なるものが得られず、いま一つすっきりしてませんでした。
本書に出会い「法隆寺が九州からの移築である」と知ったときは飛び上がるほどびっくりしました。
その後彼は、『藥師寺』・『東大寺』が、宇佐八幡宮にほど近い 倭国の聖地・ 『小倉山』 より移築されたもの。『東大寺』の正式名称『金光明四天王護国の寺』の『金光』は 『倭国』の元号 であり、『金光元年(西暦570年)』に完成していると言い。
また、「これまで世界最古の木造建築とされていた法隆寺の創建は607年であり、これより73年前の534年に造られた『薬師寺東塔』が、これから世界最古の木造建築とされよう。」とも述べている。
米田良三氏は、その著書で「今に残る、法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺はいうにおよばず、三十三間堂・桂離宮等々、これらあまたの建物が、九州倭国より移築されたものである。」と述べておられます。確かに北部九州の、特に大宰府から宇佐、更に吉野ヶ里にかけて「虚空蔵寺・法鏡寺・相原・垂水・椿市・木山・上坂・天台寺・大分・塔之原・井上・観興寺・塔之塚・大願寺・晴気」などの『…廃寺跡』が数珠のごとく連なって残されてます、ごっそり゛移築″されたのでしょう。
さらに信じられないとお思いでしょうが、平安時代を代表する「『源氏物語』はもともと九州『倭国』における作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たものといえます。『源氏物語』の舞台の本来の中心は京都ではなく、九州王朝の嘗ての都・太宰府都城であり、時空的には観世音寺創建の西暦607年以降で、倭国が滅亡する672年までの間と限定できる。」とものべています。 したがって従来よりささやかれているように、『飛鳥時代』での出来事である 『大化の改新』 ・法隆寺を舞台にした 『聖徳太子』 等々の話は、作り話と言うことになります。
隋・及び初唐期の中国政権と交渉したのは、九州太宰府の『倭国』政権だったことになります。『旧唐書』で言う 『倭国』 である。
ただ、『同書には土地には、女が多く男が少ない。たくさん文字があり、習俗は仏法を敬う。』とあります。このことは何を意味するか、(もう少し細かく書いておいてほしかったものだが…、)。
女が多いってことは、男は半島での戦争に狩り出され戦死者多く、内地では女・子供ばかりだと言っているのでしょうね。
すこぶる文字多しとは、当時既にカタカナ・ひらがな・サンカ文字・アビル文字・漢字などがあったということでしょうし、またその上習俗は、仏法を敬うとある。このことは、西暦650年頃の九州は、寺・寺院が町にあふれ市民のそれぞれがお経を唱えていたこととなりましょう。
当時の九州のイメージがわかりましょうか…?。すなわち源氏物語の世界ということになりましょうか。
いっぽう、同書『旧唐書』には 『日本国』 は倭国の別種なり、…或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたりともある。即ち『秦国』から脱皮した奈良王朝の初見である。
このことが、何を意味するか?。今の今まで奈良や京都の文化の証しと信じられていた重要文化財のほとんどが、九州王朝『倭国』からの文化であり、文物であったということです。
すなわち『九州』 の北部一帯には、交易によると思われる非常に豊かで、華美で、贅を尽くした夢のような王朝『倭国』があったこととなります。
邪馬壹国(邪馬臺国)・漢委奴国・親魏倭国・倭国・大倭国・俀国はどこか?しかも、この科学の時代に今もなお何故わからないのでしょう? それは九州王朝『倭国』の主だった史実を、『日本書記』が抹殺し・隠しているからでしょう。とてもまともな史書とはいえませんね、いわゆる偽書の類でしょう。
九州王朝『倭国』は 『白村江の戦い』(西暦663年) に敗れる迄、九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・葛城(秦)・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家で、日本列島及び半島最南部を代表する政権だった。
政権交代の時期は、そんなに古くない!。『倭国』が白村江の敗戦の、およそ10年后 『壬申の乱』(西暦672年) がその時期である、この時期に九州『倭国』は滅亡した。
替わって登場したのが『新羅』指示のもと、九州『倭国』と飛鳥『秦国』とを解体・改組し成立した、奈良の中央集権国家『日本国』王朝である。
なお、この王朝は弱体(新羅・唐のかいらい政権?)で、更に100年後、京都の『桓武王朝』へと引き継がれることとなる。現王朝・天皇家のはじまりである。
今の日本人には『倭国』と『日本国』とが、同じものとして受け止められているが、全くの別物と云えましょう。
日本人は戦前のある時期より『万世一系の皇統譜』 を教え、信じ込まされてきましたが、この広い世界中のどこにそんな国がありましょう。皆さんは疑問に思われないのでしょうか、日本だけは特別なのでしょうか?。
日本書記は大きな史実『九州王朝』を抹殺し・無視し・隠している。そしてそれと知りつつ、日本の歴史学者・奈良京都の遺跡管理者はそれに加担している。先の東北の偽の石器のたぐいとはかけ離れた、とんでもない“ワル”と云えましょう。
画像は以下のサイトから。
法隆寺の元。元々は、九州王朝『倭国』の都だった大宰府の
『観世音寺』(左図は当時をしのぶ絵図) に建っていたもの。
http://www.geocities.jp/waikoku/
https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002404.jpg
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