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「俳句ダービー」?
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王安石(儒教、南ユダ)、対、司馬光(北イ、既得権益)
以下、ウィキペディアから抜粋+私見
仁宗、在位1022年 - 1063年
西夏や遼に貢物を増やして有効を保とうとするが、
重税で一揆が多発。
改革を求める声が、権力争いのきっかけをつくる。
英宗、1063年 - 1067年
在位4年で病死、何もできず。
神宗、1067年 - 1085年
地主・豪商・皇族・官僚など特権階級の利権の切り崩しを狙い、
王安石を登用。
儒教家。おそらく南ユダ、ベニヤミンか漢人で、
北イ勢力と対立したのだろう。
唐宋八大家の一人であるが、八大家は儒学的文人観らしい。
改革反対派の急先鋒が資治通鑑の司馬光(苦笑)
通観記事に北イスラエルよりな論調の偏りが見られるが、
北宋は4代目まで、やはり北イスラエル系と推定できる。
第六代、神宗は儒教=南ユダ漢人の勢力と手を組み、
王安石は司馬光を閑職に追い込んでいる。
その時代に司馬光は、北イよりの資治通鑑を編纂。
神宗は改革を進めるが、それを後世継続させることができなかった。
この時代は、
北イよりの歴史書では、「新法派以外はすべて弾圧された暗黒時代」と描かれ、
南ユダか漢人よりの歴史書では、
世の中が息苦しくなるのは神宋が亡くなってから、とされるようだ(当たり前だ)。
神宗政権後半は、北宋の全盛期らしい。
自信を深めた神宗は西夏=タングート=北イに侵攻するが大敗。
改革の途上で神宗は病に倒れ死去する、
その過程で、既得権益により、改革法は全廃され、
北宋は衰退していく。
ただ、北イよりの歴史観では、王安石の改革が北宋滅亡の原因とみるらしい。
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