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鷹目遊里史板

1鷹目:2006/03/12(日) 14:04:22
一流への道
≫活魚料理店の水槽を撮らずして一流とは言えないでしょう。

 道は険しいな・・・。

>bananaさん
 情報ありがとうございます。そちらも次回候補に入れておきます。会場選定が一番悩みます(笑)。

601夕凪:2010/10/21(木) 17:44:47
幻の花街新地 (須磨)
要約前の記述を『須磨』で確認してみました。

●須磨神戸市編入50周年記念誌編集委員著『須磨』(1970年)より

??  戦前妙法寺川東の古川町あたりにあった「花街新地」というのは

   所謂「やとなくらぶ」という組織のもので
???? 検番とは全く関係がないけれども、

???? そこには、別のファンがあって安いという評判だったが
??  須磨検番も神戸市内ではいつも線香代がたとえ10銭でも安いと
??  いうようにしていた。(中略)

   昭和戦前期で2円ぐらいで遊べたように聞いている。
   現在の地形は当時と全く一変してどこに「花街新地」が
   あったのかわからない。(中略)

   幻の「花街新地」として胸に覚えのある方々のみの
   思い出の地であろう。


 とあります。「花街新地」は、少なくとも私娼窟ではなく、
 組織的な雇仲居倶楽部であったと書かれています。
 もっとも雇仲居倶楽部も私娼窟と言えば私娼窟なのかもしれませんが・・・・

602夕凪:2010/10/23(土) 22:33:06
港新地へ行ってみた ♪
港新地に残る、2軒の内、貴重な1軒である、

『都旅館』が、近々解体されるようです。


入り口のまえに、不動産屋さんの建て売りの広告が ・・・・・・


ttp://www.taiyo-jyutaku.co.jp/detail/index.php?act=detail&bn=1081#detaildata

603鷹目:2010/10/27(水) 23:02:12
訂正
 天の声にて間違いを発見。

 芦原新地の位置、大型店舗の処ではなく、雄松町付近。大型店舗の処は新天地。

 昭和10年の地図に新天地の名称有るも、芦原新地の名称なし。

 仮説-新天地→戦災→移転→芦原新地 かもとの事です。

 スマソ。

 またそのうち、自転車で確認に行って来ます。

604夕凪:2010/10/28(木) 08:13:41
地の声
人の声(鷹目さん)どうもありがとうございます。

近々『地の声』を聞きに行ってみたいと思います。

やっぱり芦原新地って、あそこだったんですかね!?

でも、新天地って ・・・・・

605鷹目:2010/11/01(月) 22:55:38
奈良町方面
 昨日、所要で奈良に行きましたのでついでに元林院周辺を歩いてきました。

 遷都記念祭の影響なのか、ぱらぱらっと新しい飲食店が増えていました。

 そしてあのスターミュージックの跡地は、おしゃれなカフェに建て変わっていましたw。

 旧検番、まんぎょくは、幸いなことに変わり無しでした。

606夕凪:2010/11/07(日) 22:51:12
島原貸席お茶屋業組合
●こんなんありました。


 ?読売新聞 ttp://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20101107-OYO1T00147.htm?from=main3

 ?京都新聞 ttp://www.kyoto-np.jp/sightseeing/article/20101104000030


○記事の内容は、いずれも“ 島原貸席お茶屋業組合 ”が解散に当り、
 その精算金を利用して、島原の6町内の道(全長約900m)を石畳風に舗装した。
 と言うモノです。

 しかし、記事の中で“ 島原貸席お茶屋業組合 ”の解散時期が異なっています。

 具体的に言うと、?読売新聞では「近く解散する」となっていますが、
 ?京都新聞では「1994年に解散した」となっています。


○どっちが正しいのかと思い、角屋保存会の公式HPを見てみたら、

 ?角屋保存会 ttp://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/page/literature.html#2

「平成8年(1996)同組合の解散に・・・・」とありました。


はたして、真実はいかに !?

607鷹目:2010/11/07(日) 23:25:02
歴史は作り変えられる
 言っちゃあ何ですが、あそこの歴史は公的な歴史ではなく、悪い意味での私的な歴史ですからね〜w。

 別のソース探した方が、正しい答えが見つかるのではないでしょうか?

608遊楽:2010/11/13(土) 01:29:21
京の花街「輪違屋」物語
高橋利樹(輪違屋十代目当主)・・・を読みましたが、

「最後のお茶屋」P68より

大正の調べでは、島原も一番多いときでお茶屋さんも百軒以上あった
といいます。それに遊女屋さん、女郎屋さんや料理屋さんがあって、
一軒も廓関係以外のお店はなかったのです。

ですからお客さんは島原に来て、食事をして一日中、翌日の朝まで
遊べたわけです。でも芸妓さんが一人もいなくなって、歌舞練場も
平成八年(一九九六)に「島原貸座敷お茶屋業組合」が解散すると
壊されて、百二十年ほどの歴史が閉じられました。


・・・という記述をみつけました。基本的に元は置屋でそこからお茶屋
に移行した輪違屋さんの当主。文章のあちこちに自分のところより
規模の大きい「角屋」さんへの遠慮や気遣いが見受けられる文章で
団長がおっしゃるように協調があるのかもしれませんが、この
くだりに関しては、新聞より「角屋」の年度の方に信憑性を感じますね。

609夕凪:2010/11/13(土) 21:30:16
芦原新地へ行ってみた ♪ 
● 本日の行動

  午前中:○ニス(大阪市内) → 午後:MY自転車かついで和歌山へ

 ??→ じゃんじゃん横丁 → 喫茶店で聞く(ストリップ劇場はあったが飲み屋街らしい)

????→ 近所の八百屋さん(?)で聞くが、やっぱり違うらしい。

  → 近所の酒屋さんのおじいさんに聞く(芦原新地をご存知でした !! )

  → 教えて頂いた場所へ行く → そこのお好みやさんに聞く

  → “ この裏一帯がそうやで ”って証言get(置屋さんもあったそうです。)

 ??→ 一帯を散策 → 橋を渡って川向こうの大規模小売店舗へ

  → 昔、大規模小売店舗のとこは紡績工場やったって聞く(新天地は確認できず !? )

  → 芦原新地の道路を挟んだ反対側は屠畜場やったって教えて頂く(少し離れてます)。


 “ 芦原新地は川より内側で、お城側の一番外れやからできたんちゃう。”

  って言うてはった。


● ちなみに、芦原新地跡は、住宅や、お寺の駐車場とかになってました ・・・・・

?? すでに周囲は暗くなってて痕跡は確認してません。


  お土産にみかんを千円分買うて来ました( 大阪で買う倍ありました !! )

610夕凪:2010/11/22(月) 00:00:05
S●NDAY NIK■EI  読書 より
● 赤線奇譚 木村 聡著

 戦前の遊郭の名残である「赤線」が消えてから半世紀あまり。
 その町並みや建物が今、次々と姿を消している。

 本書は1990年代から各地の赤線地域を歩いた著者の初の写真集だ。

 色タイルやステンドグラスに彩られた建物、
 レトロなネオンサインの映画館、
 木造長屋の飲み屋街 ――― 。

 小説や映画に登場した地域もある。

 歴史を刻んだ盛り場の記憶が一斉に失われるのは惜しい。

 (ミリオン出版・3200円)


               2010年11月21日掲載

611遊楽:2010/11/25(木) 00:10:14
年表
「近代岡山の女たち」の年表より、関連事項のみ抜粋してみました。
近代における女性解放史をメインにした本なので、本文における記述はほんの少し
ですが、ラストにもってこられてるところがちょっと心憎いですね・・・

明治 2(1869)年「人ヲ売買スルコトヲ禁スヘキ議」津田真道建議※一般
明治 4(1871)年 津山藩庁、追廻を集娼地と定める(03/12)
明治 5(1872)年 北条県、芸者の身売り売女に関する布達(09/04)
        小田県布達、芸娼妓開放令(10/22)
        人身売買禁止を布告、芸娼妓を開放(11/02)※一般
明治 9(1876)年 岡山県「娼妓並貸座敷規則」公布(04/--)
       (13歳以上、営業は許可地に限る、月2回梅毒検査)
        岡山西中島に女子手芸学校設立(06/06)
        天瀬可真町に市立芸娼妓女紅場設立(07/06)
明治10(1877)年 岡山西中島町に貸座敷営業を許可(02/02)
        駆梅院、岡山公立病院内に設置(04/--)
        貸座敷・娼妓規則により営業免許地設定(10/08)
       (備前14ヶ所、備中9ヶ所、美作4ヶ所)
明治19(1886)年 貸座敷並娼妓取締規則改定(03/12)
       (娼妓営業貸座敷内に限る、15歳以上の者)
明治22(1889)年 大日本帝国憲法配布(02/11)※一般
        群馬県会、廃娼案を可決(11/26・1991/09/12実施)※一般
明治23(1890)年 全国廃娼同盟会結成(05/24)※一般
        岡山県会へ女子有志総代、中村静子ら廃娼建議(08/--)
明治27(1894)年 日清戦争勃発(08/01)※一般
明治33(1900)年 救世軍の廃娼運動起こる(09/05)※一般
        内務省、娼妓取締規則公布(10/02)※一般
       (娼妓の自由廃業認める、18歳未満の就業禁止など)
明治37(1904)年 日露戦争勃発(02/10)※一般
        福田英子『妾の半生涯』(10/23)
明治39(1906)年 津山追廻遊郭内に錦水女紅場設立(09/05)
明治41(1911)年 廓清会結成(07/08)※一般
大正12(1923)年 関東大震災(09/01)※一般
        西中島遊郭娼妓代表、県知事に待遇改善を要請(07/23)
        全国公娼廃止期成同盟結成(11/03)※一般
昭和 3(1928)年 三・一五事件(03/15)※一般
昭和 6(1931)年 満州事変勃発(09/18)※一般
昭和11(1936)年 二・二六事件(02/26)※一般
昭和16(1941)年 太平洋戦争勃発(12/08)※一般
昭和20(1945)年 終戦(08/15)※一般

四 元遊郭楼主の証言から−遊女たち 「近代岡山の女たち」P268〜

津山遊郭

県北に位置する津山市は、森忠政の築城により十七世紀につくられた城下町である。
街並みは吉井川に沿って東西にひらけ、城の東側には天然の堀となる宮川が流れ、
吉井川にそそいでいる。この宮川にかかる宮川大橋を西へしばらくいくと、
菓子店「港屋」の古い看板が目につく。この店に沿った細い路地を十数歩いくと、
かつての津山遊郭の入口である思案橋のたもとに立つ。正面に本琳寺、そこから
鍵の手に廓はひらけ、その遺構は、アパートに、旅館に、料亭にと姿を変えながらも
当時のようすをしのばせている。

幕末から維新にかけてこのあたりでも、不作と重税に苦しむ農民の一揆が頻繁に
おきている。当時、津山藩の農民人口およそ六万人のうち、その八割が飢えに
苦しんでいたとも伝えらている。城下では職を失った士族、下級武士とその奉公人も
農民と同じように困窮していた。町筋に船着場に身を売る女たちの姿が多くみられた
のである。〜後略〜

※一般としてるのは全国的な事項。それ以外は岡山での出来事です。

612鷹目:2010/11/26(金) 00:31:06
『写真展 色里奇譚―夢のまちを訪ねて―』
 伝言板で話題になっているのでご存知の方も多いかと思いますが、縁あって宣伝します。

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『写真展 色里奇譚―夢のまちを訪ねて―』

「京都島原にある「きんせ旅館」さんをお借りして、写真展を開催することになりました。ささやか
な写真展ではありますが、異空間のような雰囲気の中で、宝石のように輝いた色里を感じていただけ
れば幸いです。」

・木村聡氏、青山均氏と遊廓研究班共催

・開催日時
2010年12月21日(火)〜27日(月)
12:00〜22:00 *最終日は18:00まで

・特別イベント
rimacona LIVE
2010年12月24日(金)18:30 OPEN、19:00 start ¥800(要1ドリンクオーダー)
 柳本奈都子と原摩利彦によるユニット。2004年より京都を拠点に活動する。2010年10月に初のオリジナルフルアルバムとなる『黄昏とピアノ』(Parade)をリリースした。
 HP:http://www.rimacona-lab.com/

・開催場所
 きんせ旅館
 京都市下京区西新屋敷太夫町
 HP:http://www.kinse-kyoto.com/

・アクセス
 JR丹波口より徒歩約五分
 市バス「島原口」または「梅小路公園前」から徒歩約五分
 *専用駐車場はございません。


 みなさん是非お越しください。

613ドーラク:2010/11/27(土) 02:41:19
廓讀本
『廓讀本』くるわどくほん
昭和11(1936)年発刊。著者は熊本二本木遊廓の貸座敷業者。
松・竹・梅と三冊に分かれてる。当時の業者向き指導書。発禁本。

『松之巻 目次』
【1】廓
【2】貸座敷   ?家屋の構造設備 ?営業の統一
【3】貸座敷組合 ?娼妓慰安と共済 ?消費組合 ?共同炊事 ?診療所
         ?貯金奨励 ?功労表彰 ?娼妓の訓育
【4】席主    ?席主の勤 ?娼妓抱の手順 ?抱娼妓の選択 ?紹介業者
         ?雇傭人の選択 ?娼妓の待遇 ?雇傭人待遇 ?遊客の待遇
【5】對客の心得
  ?訪問客 取次の仕方、案内の仕方、見送の仕方
  ?對客の心得 客の応接、言葉の使い方、言葉の混用、談話の妙諦、人の長短、
         人の秘密、他人の談話、謙遜と自慢、對話中の中座、火鉢の使方、
         搾りタオル、茶菓の接待、喫煙と茶菓、お客の退出
【6】通信  ?信書の心得 ?電報の心得 ?航空郵便の心得 ?船舶の信書
       ?電話の心得 電話の掛け違い ?使者の心得

取り敢えず、現在『松の巻』読書中。
特筆すべき事項があれば、時々書き込んでいきます。

614鷹目:2010/12/07(火) 14:46:39
無題
>遊楽さん
 岡山年表ご苦労様です。
 たしかに最後に持ってくるとは心憎いというか意図的にやっているのでしょうね。少しの記述での記載されているというのは最近の傾向としては貴重かと思います。

>ドーラクさん
 『廓読本』読破頑張ってください。何か面白い記述があればカキコお願い致します。

615夕凪:2010/12/07(火) 16:50:46
発禁本のヤマ場 : 娼妓の心得 『廓読本』
●<さて、この洗滌に行くということについて、もっとも注意すべきことがあります。
 ・・・・・ 洗滌にかこつけて、廊下などで他のお客と立ち話をしたり、
 もっとも大切な肝心な時機にはずされて見れば、その不快はひととおりでなく、
 お客によりては、焼け気味を起こすこともあり・・・・・

  そこで、お客さまや家業が大事と思うならば、洗滌がすんだら、早く部屋に帰って、
 「お待ち遠さま」と一礼して、静かにお客さまの左方、やや斜めに坐し、
 手をつき微笑しながら、「お邪魔いたします」とか「やすましていただきます」とか
 挨拶して、床にはいるのでありますが、なにごとにも一心がこもらないと、
 そこには妙味がないのであります。

  その勤めぶりにも、巧拙もありましょう。またお客さまのそぶりなどに
 注意することもありましょう。たとえばぜひ用いねばならぬサック、
 または予防薬を使用するにしても、お客さまの気持を悪くさせないように、
 程よくもちかけるのであります。また眠たくても我慢する必要もありましょう。>


 これが当局にマークされた箇所の一つである。ご期待に添えなくて残念でした。


                   ??別冊太陽『発禁本』(1999年) より


○<ベッドに案内し、お床をのべます>、<腰部の清潔上、もっとも必要である>、
 <サックその他、予備薬使用を忘れぬこと> 等の営業上の注意書きの文章まで、
 赤鉛筆でチェックが入ってたそうです。

616鷹目:2010/12/09(木) 22:45:37
余談色々
 まずは返信。

>夕凪さん
 今ならそれぐらいで発禁になることはないのに時代ですかね。

余談その一
 中之島天王町が由来だとは知りませんでした。どこのことか判りますよねw。

余談そのニ
 遊里史研究会MIXI支部の人って、本家本元、本部がここって知らないのですかね。

 木村さんの写真展のイベントトピより、閉鎖のトピが伸びるなんてなんか複雑。逆なら継続考えても良かったのですが・・・。

 まあ、何年も支部の管理人等が見つからなかったし(オフ会出てる人はご存知ですよね)、申し訳ないですがスパッと閉鎖しますので宜しく。

 その代わり、サボっていたこっちの更新に専念していきたいです。

 ウィキの方はどういう書式で書いていくか検討中。

 溜めている資料も読んで、提供を受けた分もきちんと整理していきます。

 あと勉強会に関しては、どういう形がいいか自分でもまだまとまっていないのでご意見ご要望がればお願いします。

 一応予定は未定ですけどね。

617鷹目:2010/12/09(木) 23:02:07
余談追補(愚痴と反省)
 更新が滞っていた原因の一つは、馬鹿やって馬鹿みたいな仕事量をしていたから。

 昼6、夜4、週10なんてやっていたら体重が50kgきってましたw。

 それとこのサイトを取り巻く現状、与える影響、ブログ・HPを持っていて、ここをROMっている人に対する批判があったので維持をどうするかというのもありました。

 それを踏まえて、他サイトの差別化、ステップアップを念頭にリアルでの活動模索をしていたのも事実です。

 写真展もやりましたし、他体験企画なんかもその一環です。勉強会等もそうですが、こちらは継続してい仕掛けていきたいです。

 本当は年に何回か日帰り散策会をやりたいのですが、良い所は大体一通り行ったのでそれなりのボリュームがあって日帰りできる所の選定が難しい・・・。

 支部の方は私の無レスが停滞原因の一つですが、余り介入しなくても交流が活発になればと控えていたのも仇になった気がします。

 停滞にかんしてはこの掲示板もそうでしたw。すみません。

 で結局、どっちつかずになった結果です。

 その点は大いに反省すべき点でもあります。

 という事でとりあえずぼちぼちやって行きやす。

 そのうちと言うかすでになってますが、MIXIは多分アプリのゲームやるだけの場となりますんで御用の方は【メール】【メッセージ】でお願いします。きちんと情報・内容の重要度を良く考えた上で媒体を考え、連絡ください。

618鷹目:2010/12/13(月) 13:25:17
貝塚
 先日、所要で貝塚駅方面に行きました。

 時間があったので旧貝塚遊廓へ。

 商店街側にあった半ばは依拠に使い状態のある意味雰囲気のある建物が一軒取り壊されておりました。

 帰宅して6年前に撮った写真と比較しても、それ以外は余り変わっていない感じです。

 深川も健在です。ここを利用する機会、今後くるのかなぁ・・・。

619鷹目:2010/12/15(水) 16:30:41
貝塚追補
 駅で周辺のガイドチラシを取ってきて、アジトでみていたら寺内町MAPに部分に「新地の町並み」の文字が!

 それ以上の言及はマップには無かったですが、少しずつでも文化遺産としての認識があるということですかね?

620T-レッド:2010/12/19(日) 03:46:37
大和郡山では
ちなみに、駅に置いてた大和郡山のガイドマップでは、洞泉寺については「遊廓の面影が残る…」と、少し触れてましたが、東岡町には一切触れてませんでした。

箕山は問題外(?)です。

621鷹目:2010/12/19(日) 18:17:56
東京下町では
 数年前、東京玉の井・鳩の街に行った時、一枚モノのガイドマップに『墨東奇綺譚』『原色の街』の舞台となった場所と言う風な書き方で紹介されていたような。

 そういえば松島新地も大人の料亭街と言う風に紹介されてましたね。

 他にも遊里跡だとは紹介されずにその他の事柄、趣のある町並みとして何気に紹介されている場所も多いはず。

 和歌山にそういう事例がありました。

622鷹目:2011/01/07(金) 22:04:07
今年はどこへ行こうかな?
 さて、今年は何処へ行こうか年頭から思案中。

 再訪予定は、天王、神崎、初島、住吉。確認は芦原。

 初見でちょっと遠出して関辺りか、夜行バスで熊谷あたりかな・・・。

623夕凪:2011/01/26(水) 09:29:43
花街めぐり ◎ 住吉 
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(南海線住吉公園下車5分)

??この新地は閑静な雰囲気で都塵を避けて のんびり遊べるのが特色

 約85軒の待合、200人あまりの芸妓がいるがいわゆる二枚鑑札である。

 花代は800円から1,000円、泊まりは10時頃から3,000円
 そこへ一杯となるとどうしてもサラリーマンではしんどい。
 と言うワケで若い客が少ないせいか若い人が行けばもてるのは受合、
 少々ムリしても出掛けるべしである。

 待合は何れも甲乙付け難いがまず 杉の家、さかえ、友楽、本五色、
 中京、笑家、堀江、夕立荘、永楽等が一流処として挙げられる。


 < 掲載広告より >

  お遊びは静かで優雅な 催し物は舞台完備した住吉演舞場を御利用下さい

                          住吉新地

624夕凪:2011/01/26(水) 09:42:56
花街めぐり ◎ 堀江 
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(市電、堀江筋下車3分西)

 今を遡る450年前、長堀川の船着場に発着する船客を相手にひらけた花街で
 その後幾多の変遷を経て茶屋に変わったという ―――

 戦前は義太夫芸者の名で通り150軒のお茶屋 夜な夜なさんざめく盛況振りだったが
 現在は待合数が35軒、芸者数が60人と 復興未だしの感が深い。

 よその新地と変わっているのは茶屋、検番それに芸妓の三者が一体となって
 堀江新地株式会社を組織していることだ。

 有力な待合としては、みますや、とよはる、笹の家、丸玉、霞村等がある。
 花代は450円ポッキリ、2時間で700円程度。

625夕凪:2011/01/26(水) 09:59:17
花街めぐり ◎ 今里 
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(近鉄線今里駅下車 市電今里終点下車)

 今里新地は他の花街に較べて その歴史も浅く 従っていわゆる 万人向のシステムを
 とっている様で 花代も700円から1,000円と サラリーマンでも結構遊べる。

 戦前には600軒の待合を数え その規模においては随一を誇っていたが 戦災で消失
 現在は250軒 その内 社交喫茶が25軒、芸妓350人対しても女給も350人と
 和洋とりまぜて あくまでも万人受けを狙っている。
 が言うなれば 数でコナす?方で 必ずしも美人揃いではない様だ。

 一流処の待合として、勝浦、春元、三日月、雲平、寿らが挙げられるが
 花代も一流で 多少お高いのは止むを得ない その変りサービスの方も・・・・
 と言うワケだが?

 ここの盆踊りは浪華名物の一ツといってよく、
 5日間にわたり綺麗どころが艶を競う。


 

626T-レッド:2011/01/27(木) 10:03:04
今も残る今里"本芸妓"
かねてから、その存在については知っていたものの、現状については全く把握しておりませんでした。


"昭和生まれの新興花街で、どんなお茶屋遊びが出来るんだろうか?"


というわけで…
今里新地のお茶屋にて、今では残り少なくなった本芸妓さんをお呼びして、お座敷遊びをしてきました。

現在、今里新地において、本芸妓を呼べるお茶屋さんは、一軒しか残っていないそうです。

宴会の内容は…
唄(替唄)・都々逸・踊り・ゲーム等、やはり今里新地ならではの特色がありました。

また、女将さんから昔の新地の様子等、大変興味深いお話も伺え、約三時間の宴会時間が短く感じられるほど、楽しい時間を過ごせました。

今里の本芸妓さんは後継者不足で、「若い子・きれいな子は居りまへん」とのこと。
しかし、「お座敷を楽しませることには自信がありますよ」と、まさに言葉通りの楽しい宴会でした。

難しいことではありますが、この今里独自のお座敷芸を、なんとか伝承していって欲しいものだと思います。


※ちなみに、本芸妓さんを呼べるお茶屋さんは、「一見さんお断り」です。
※料金・システム等、今里新地へのお問い合わせは、お控え願います。

627鷹目:2011/01/30(日) 22:52:37
関係者各位
 お世話になります。鷹目です。


 本日付で正式に某氏を管理人権限により遊里史研究会への出入り禁止処分に致し、本人にもその旨、メール致しました。

 理由は、日頃より他人に不愉快を与える言動が多く、特にここ最近人間性を疑うような言動が続いておりました。

 本人に自覚及び内省並びに改善の気配が全く感じられない為、これ以上関係を続けることは当会並びに当会会員の皆様に不快感を与え続け、不利益をもたらすのみと判断したためです。

 今後、氏と当会は無関係です。私も交わることはございません。

 なお、今まで不愉快な思いをされた方々、今回の件でとばっちり(二次被害)を受けた方々に心より深くお詫び申し上げます。

 誠に申し訳ございませんでした。

628夕凪:2011/02/01(火) 19:47:03
花街めぐり ◎ 宗右衛門町
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より

 上方の宗右衛門町と言えば泣く子もダマる天下の花街である。

 戦前は宗右衛門町の芸者は左ヅマ、なんば新地は右ヅマと
 格式の差がはっきり別れていたと言うが戦後は一体となって
 その数400名、客も当代第一線の名士以外は寄りつけない。

 それにも関わらず現在我が世の春を謳歌しているところを見ると、
 名士即鼻下長族と言うコトになる?

 お出先の一流は先ず大和家、とにかく大和芸妓学校を持つドエライ所で
 一軒で花街のあらゆる組織を網羅しており国内広告はオフリミット、
 専ら外国向け宣伝すると言うからたいしたもんである。

 そのほかまりや、つるい、暫、かすがが有名。

 ここ2.3年中絶されているが「大阪おどり」は大阪名物の一つである。


 

629夕凪:2011/02/01(火) 20:23:38
花街めぐり ◎ 曽根崎
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(市電梅田新道、桜橋下車)

 近松門左衛門ものするところの曽根崎心中でその名を残す曽根崎新地は
 遠く宝永5年にひらかれたものであるが、明治末期よりすでに南地に
 繁昌を奪われていたと言う。

 現在250人の芸妓を抱えているがその数は戦前の約半分にも満たず
 花で2千円から3千円と宗右衛門町並、加えて格式も戦前並ときているので
 戦前からのオナジミさんと社用族以外は二の足を踏むと言うのが現状らしい。

 一流の待合としては平鹿、伊東、泉谷、蓬莱等がある。

 毎年5月にキレイ処を集めて行われる浪速おどりは大阪名ずつの一つとして有名
 踊りの流儀は花柳流と西川流。

630新今里X:2011/02/01(火) 22:45:45
佐衛門小路
今から30年近く昔の話、K鉄I里あたりをウロついたときのこと、ガード下の市場を抜けたところが川で、ガードに沿って歩道橋ほどの橋がかかってました。
記憶ではその橋に店名の並んだ小さいアーチがかかっていて、渡った向こうはガード下に怪しげなスタンドやスナックが20軒ほど密集した飲食店街になっていました。
あとで佐衛門小路という名前を知りました。

先週、50代半ばの知人から興味深い話を聞きました。
K鉄I里の市場を抜けたあたりに、川沿いのホテルへ連れ出しできる店が30年ほど前にはあったとのこと。
飲み代以外に10000円で遊べたそうです。
それが佐衛門小路の中の店とは限らないけど、そういう店が紛れ込んでてもおかしくない場所だったなぁと…

またボチボチやっていきます。

631鷹目:2011/02/02(水) 16:08:47
五條楽園
 非常に残念で哀しいお知らせです。

 昨年秋以来休業中だった五條楽園。

 先月末総会にて解散を決定したそうです。五條楽園関係者にとっては身を切るような苦渋の選択であったこと、その心中お察しいたします。

 数年前、歌舞練場をお借りした関係で、お付き合いをさせて頂き、装いも新たに再出発の方法を模索奔走していたのを聞いていただけに非常に残念であります。

 研究会主催者として、五條楽園を皆さんの心に、記憶と記録に残して頂ければ幸いかと思います。

632夕凪:2011/02/02(水) 22:59:21
花街めぐり ◎ 新町
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(市電、四ツ橋下車)

 宝永年間、伏見の木村亦次郎と言う浪人が居て
 諸所の遊女を集めて開いた大阪最古の花街である。

 戦前は遊廓として全盛を誇ったが、戦後は純無たる一枚鑑札を
 掲げており待合数は46軒、約80名の芸妓がいる。

 市電湊町線の西側にあり「ミナミ」に近いとはいうものの
 地理的には恵まれず事務所では「もうサッパリわやですワ」と
 おっしゃる。

 客筋は専ら社用族・・・・・古い花街だけに由緒ある待合が多く
 歌舞伎で名高い夕霧太夫の茨木家と吉田家は
 共に300年の歴史を持っている。

 そのほか松春、しず家、あらせ、葉津家らが著名である。

633Tーレッド:2011/02/02(水) 23:19:41
ウホッ♪超リーズナブル!
たまには飲食ネタということで…

近鉄I里駅のガード脇に、気になるお寿司屋さんがあったので、新今里Xさんと二人で行ってみました。

『あ●●寿し』というお店なんですが、超リーズナブルな価格にウホッ♪

・寿司(四皿:一皿2〜3貫)
・瓶ビール(大瓶一本)
・熱燗(一合)

以上で\2,060 でした♪

やはり遊所近くの飲食店は雰囲気があり、興味深いです。

634夕凪:2011/02/02(水) 23:27:40
遊廓タイル貼りの嚆矢
● 国産タイル勃興の牽引力(大正初年〜大正12年)

 この頃の最大のお得意先に、銭湯や温泉の浴槽・流し場があった。
 それらは木造りが多かったが、衛生観念の発達による実利性と、
 美しい装飾性が買われ、タイルが大いに使われた。

 さらに、その後、思わぬタイルの大口需要が起こった。

 大阪府議会が「遊廓の便所と消毒場をタイル張りにすべし」と
 決議したのがきっかけで、東京・吉原、京都・島原、福岡・柳原の“新地三原”をはじめ、
 名古屋・中村、大阪・飛田・松島、金沢・石坂、長崎・丸山など、
 全国各地の遊廓へタイル販売外交員が殺到する。

 そして、各地の遊廓の便所と消毒場は、たちまち五寸角白タイルで覆われる。
 工事のついでに浴室、玄関口もと需要は急増した。

 この遊廓との結びつきは、第2次大戦後、遊廓が廃止になるまで続く。
 のちには、店の外観のすべてをタイルにする店も少なくなかった。


               1976年のタイル関係の資料より


 

635新今里X:2011/02/03(木) 22:56:33
桜新地
10年ぶりに枚方の桜新地に行ってきました。
かなりの変貌は予想してたけど、想像以上に建て替わりが進んでました。
民家となってる2,3軒と検番の建物は残ってますが、記憶にある鏡面のタイルを使った店や転業旅館などは取り壊されて新築の住宅が並んでました。
平成22年で桜町100年とのこと、ということは明治43年?、明治42年や明治41年などいろいろあるようですね。

636鷹目:2011/02/05(土) 00:11:22
(無題)
>夕凪さん

 いつもありがとうございます。
 書かれた記事を見ると、今の大阪がかなり味気なくなったのが分かりますね。それこそ、今も残る花街には気を吐いてがんばってもらわないといけないですね。

>レッドさん

 新規点開拓ですか?
 またオフ会で利用できそうなお店があれば、教えてください。

>新今里Xさん
 数年前、みんなで散策しましたね、桜町。
 あれよりもひどくなったと言うことですか。100年と言っていると言うことは何かイベント開催するのでしょうか?

 もっと遊里のタイル建築、評価されても良いと思うのですが。あんまりそんな動きはなさそうですね〜。

637新今里X:2011/02/05(土) 00:38:54
微妙な内容のアレ
えっ?枚方散策したの憶えてない、ちゅうのも橋本から合流したと思います、レッドさんと入れ替わりで。
そして微妙なアレを御土産でもらった記憶が…

638鷹目:2011/02/05(土) 01:00:49
最中
 そうそう、枚方でレッドさんと別れて、橋本で今里さんと合流。その後、中書島でしたっけ。

 あの時、風邪で腹がやばかったんですよね、私w。

 で、あれは太夫の・・・でしたっけ?

639新今里X:2011/02/05(土) 01:34:47
ウホッ!アレの最中
アレの最中は奈良か篠山では?

枚方・橋本・中書島のときの微妙な内容のDVDはレッドさんの手土産だったと…

640鷹目:2011/02/05(土) 01:38:58
アレ?
 DVD?

641T-レッド:2011/02/05(土) 01:41:27
何のDVD?
確か、"●屋を探せツアー"というサブタイトルが付いた散策だったと思います。

参加者は当初5人で、夕凪さんやtadaさんが参加されてたと思います。

仕事の都合で私は先に帰りましたが、その後、皆さんは『王〇』に行かれたとか?

まだ旅館『玉光』が残っていた時でした。

廃業された『〇湯』、どうなったんでしょうか・・・

642新今里X:2011/02/05(土) 02:02:50
わんわん?
昨日お風呂屋さんの建物はありましたよ。
あの日ぼくが合流したのはやをりきの前やったと思います。

643鷹目:2011/02/05(土) 02:26:37
回り回って
姐さんとこ行ったやつですな。

644新今里X:2011/02/07(月) 15:14:59
枚方櫻新地協同組合
大和屋・政乃屋・竹乃屋・玉屋・玉光・鶴の屋・第二竹の屋・玉房・淀川・津の國屋・玉よし・上田屋・奥村屋・大梅・大芳・新大和屋・若松・第三玉房・奥野・住吉屋・?野・山下・大喜久・玉?・松和・春の家・馬野・松月・蔦屋・第二玉房・?屋 計31名 昭和28年12月

つたない記憶で間違いもあるかもしれませんが、以前にネット上のどこかで読んだ記憶では、蔦屋さんは枚方公園菊人形の造園の報奨金をもとに櫻新地で貸座敷を始められたそうで、もともとは現在の東大阪で造園業をされてたという話でした。
枚方の宿場の流れをくむ組合員さんが多いなか比較的新参だったために後ろの方の掲載なのかなぁなどと想像しています。
それにしても、造園・貸座敷・レンタルビデオと娯楽に関してすごく商才のあるお家柄のようですね。

645膳所裏:2011/02/08(火) 16:09:13
岐阜 手力園と国際園
 先日、加藤政洋さんの“敗戦と赤線”に書かれている岐阜の手力園を訪れました。
 名鉄の手力(てじから)で下車、踏み切りを渡って10分ほどで定規で線を引いたような区画(手力14〜36番地)に出会いました。本書によれば大戦中、柳ヶ瀬を当局に渡す形で、金津園の業者が移った為、時局をにらんで一般住宅への転用も見込んだため所謂妓楼建築はしなかったという経緯があるようです。
 成程、遊廓跡と思える意匠は何もなく、それでも近所のひとに長屋と表現して教えて頂いた当時の建物が7〜8棟ありました。

 手力園は娼妓さんだけの街で芸者さんはいなかったようです。

 その後矢張り、同書に詳しい説明がある、同じような経緯で短い花をさかせた駅前の国際園を探したのですがまったく場所が分りませんでした。

 現在の高砂町とのことで1丁目から4丁目までくまなく探し、地元の人にも尋ねたのですが全く分りませんでした。

 ご存知の方いらっしゃったら情報お願いします。



 

646:2011/02/08(火) 21:19:01
国際園について
 膳所裏さんへ。国際園は,JR岐阜駅のすぐ北側(岐阜シティタワー43から北西)の西問屋町,花園町,日ノ本町の辺りだと思います。以前,歩いていてそのような雰囲気を感じました。

647夕凪:2011/02/08(火) 21:48:04
疎開移転した「手力」を訪ねる
ご存知かもしれませんが、こちらのサイトも参考になるかと思います。

 ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/blog-entry-5.html

648膳所裏:2011/02/09(水) 17:44:44
園、荘、連
 彷徨人さん、夕凪さん、早速情報頂き感謝しています。
 近々岐阜は情報を元に再訪しようと思っています。
 手力園には見るべき物は無かったのですが、園内の理容店に、赤線跡を巡るにも載っていた三国の貸し座敷の玄関のチューリップと良く似た彫りがあり郷愁をそそります。

 それにしても東海地区の園、荘、連は面白いですね。

 田原の共楽園にも二階の出窓一面に月や梅や雲やら一面の彫り物の中にチューリップが有る当時の建物がありますし、津島の新天地にも細かいタイルの円柱を含むタイルだらけ“昭和”の字を掲げた、素人さんのお宅では考えられない建物があったりしますし・・・色々興味はつきません。

649新今里X:2011/02/10(木) 15:21:08
京都にも
五條楽園とか寛■園とかありますね。(■は木偏に遊)
ちょっと違うか…(笑)

650ぼわぞー:2011/02/10(木) 16:29:09
岐阜駅
>膳所裏さま
岐阜駅北側エリアは繊維問屋街もあっておもしろいですね。
ハルピン会館などの名称が、岐阜の戦後の歴史を思わせます。
昭和40年〜50年頃は岐阜は日本一の繊維街であったそうですから、
歓楽街もたいそう賑わったことでしょう。

私もかつて出張帰りに駅近くの第一浴場で汗を流したことを思い出しました。

651膳所裏:2011/02/10(木) 19:04:17
ハルピン会館
 ぼわぞーさま、

 確か戦後に大陸からの引き上げ者が金神社辺りで通称ハルピン街という闇市に青線を形成したのですが、時局も落ちつき、何時までも不当占拠と云うわけにもいかず、業者が市長を抱きこんで名鉄車庫跡に土地をもとめたのが国際園だったいうのが“敗戦と赤線”での説明だったと思います。

 それにしてもハルピン会館てちょっとすごく無いですか?

 実は、岐阜で手力園、国際園の次に訪れたのが柳ヶ瀬近くの高岩町で、昨年18年ぶりに舞妓さんが店出しをされたと何かの記事を読んだからです。

 ビルの一室ながら岐阜検番の看板も上がり、年季の入ったお茶屋風の建物もあり、それなりに花街の雰囲気を醸し出しているのですが、驚いたのは現役のお茶屋さんと思われるお店に、鍾馗と先客万来の注連縄が有ったことです。

 鍾馗さんは今まで祇園や嶋原中心の京都市、橋本、今里、住吉新地、元院林と三重の旭遊廓で確認したのですが岐阜では始めてです。

 千客万来と笑門の注連縄を年中掲げる風習は祇園と三重県だけだと聞いていたのですがまさか岐阜でお目にかかるとは思いもしませんでした。

652新今里X:2011/02/10(木) 19:16:46
線香代の貼り紙のある
有楽荘も年中注連縄したような…

653ぼわぞー:2011/02/10(木) 19:49:59
ハルピンと橋本
>膳所裏さま
確かにハルピン会館の看板を見たときは「なんで岐阜でハルピン?」と思いました。
岐阜検番も興味深いですね。
次回は岐阜遠征でいかがでしょうか。>鷹目さん

すみません、ちと話はそれますが、遊里史関連情報をご紹介しておきます。

***

京阪電車を利用される方にはおなじみの、
水津俊和さんの作品展が今年も開催されます。
駅貼りポスターでは橋本遊廓の絵が大きく扱われており興味津々。

「京阪沿線の建築物50選 水津俊和展」
場所:朝日新聞大阪本社アサコムホール
入場無料
日時:2月21日〜3月4日 10時〜18時(最終日は15時まで)
休館:土・日曜
http://www.okeihan.net/nakanoshima/(サイトの右下に紹介文あり)
この方、京阪の社員さんやったんですね。初めて知りました。

橋本の風情は画家の絵ごころを誘うのか、
若手の日本画家の作品展でも歌舞練場や妓楼を
描いたものを見たことがあります。私も久々に訪れたくなりました。

654楽天地:2011/02/10(木) 23:57:50
(無題)
膳所裏さんへ
・・・加藤さんの本を読んでいないので、重複している部分もあるかもしれませんが
現在わかっている範囲で・・・

国際園はもともと別の場所にあったものが、昭和31年に移転され、移転後は実質1年
くらいしか営業をしていないそうです。その後、敷地内に従業婦がポッポ横丁という
おでん屋街をつくったものの、これもうまくいかなかったようです。

昭和32年時点で、赤線として金津園、青線として国際園、共栄街、ハルピン街、手力園
の4か所があったみたいです。

655膳所裏:2011/02/11(金) 16:03:49
年中注連縄
新今里Xさま

 え〜有楽荘ですか・・・今まで祇園以外では古市、新古市、二見、関宿、つまり伊勢街道か東海道でしか見たこと無く、私なりにかつて尾張宗春公が名古屋に伊勢古市、祇園、大阪新町の大楼を集めた時、三重と祇園が有機的に結びついたと妄想していたのですが・・・都をどりのルーツも古市の亀の子おどりに有りますしね・・・岐阜までは中山道を通ってと勝手に辻褄をあわせたのですが豊橋だと説明つきません。

 見なかった事にして頂けませんでしょうか?


ぼわぞーさま

 橋本の歌舞錬場は廓の規模の割りに立派なのは驚かせられます。芸本位の町をめざした涙ぐましい努力の結晶だと思います。

 以前近所の人に聞いた時も、京の花街にもひけを取らない建築と大変誇りに思っていらしゃいました。

 中には医療施設もあったらしく、又当然舞台もあるはずで是非中を拝見したいと思いました。

 現在は大阪の建設業者の資材置き場になっているとの事、

 向のお店の人に尋ねたら、「中を見てもいいでしょう」と勝手に許可を出されたのですがやっぱり遠慮しました。


楽天地さま

 ひょっとすると高砂町は候補にあがっただけで金神社からハルピン会館のあたりに移転したのかもしれませんね。
 国際園は色んな国からの引き上げ者が集まったのが名前の由来だそうです。

 いずれにせよ岐阜は面白い町ですね。昔岐阜の近鉄百貨店を訪れた時、各階段の踊り場に痰壺の様なポットがあり、一体何を捨てるのかと驚いた記憶があります。

656新今里X:2011/02/11(金) 18:01:49
逆方向
有楽荘はシンプルな一本の注連縄で大きさや全体の造りが1軒1軒微妙に違ってたりします。
何度も見かけてますので年中飾ってるようです。
これはこの地域だけの風習かも知れません。
豊橋の遊里は吉田宿が発祥ですが東海道とはいえ逆方向ですから。

ところで、千客万来や笑門の注連縄って京都で売ってるんでしょうか?

657楽天地:2011/02/12(土) 00:02:51
岐阜
>膳所裏さま
当時の資料をみると、移転場所は福住公園の敷地内とされていますが線路からも近く
やはり加藤さんの本の記述通り元々は名鉄電車の車庫だったのかもしれません。
公園内は露天商が占拠しており、それで移転が遅れたようです。

国際園の由来はそういうことだったのですね。
さっそく加藤さんの本注文してみます。ありがとうございました。

658膳所裏:2011/02/12(土) 19:15:01
夏でも注連縄
新今里X様

 旧街道と遊里の関係も面白いですね。先日、御油〜赤坂間(五十三次で一番短い、徒歩15分ぐらい)を歩いたのですが、御油宿に飯盛女の墓が4基(これに纏わる涙、涙の話がありました。)、赤坂宿にも大橋屋さん(当時は鯉屋)という江戸時代から続く飯盛旅籠があり、現在もほぼ当時の姿のまま宿として営業されています。
 僅かの見学料で2階(当時は飯盛女の部屋?)も見せてもらいました。

 庄野、石薬寺間(2番目に短い、徒歩40分程)も広重の浮世絵に思いを馳せ歩きましたが、たまたま石薬寺で伺ったお宅が、榮楼と名乗った昔5軒あった妓楼うちの1軒で、ご主人によれば当時の建物は雨漏りが激しく昭和の後半に立て替えられたとの事でした。
 また、石薬寺の業者自体もいつしか鈴鹿の神戸(かんべ)の遊廓に移ったそうです。

 たぶん笑門は京都で売って居ないと思います。神具屋の多い伏見ならあるかもしれませんね。

楽天地さま

 売防法が成立したのが31年の5月、施行まで2年あるとしても随分短い命ですね。
高度成長前夜、移転のごたごたを含め人々の記憶から薄れていったのでしょうか。

659新今里X:2011/02/13(日) 16:48:47

膳所裏さんの注連縄の話を聞かせてもらって、ぼくがふと思ったのはお伊勢講のことです。
遊里は共同体意識と義理堅さで、伊勢講・高野講・金毘羅講など比較的最近まで、あるいは今でも続いてるんやないかなぁと。
千客万来・笑門などの注連縄もお伊勢参りのおりに買ってくるのではないでしょうか。
それはそれとして年中飾るという伊勢の風習は宗春公名古屋サミット(笑)のときに伝わったのかも知れませんね。

660膳所裏:2011/02/13(日) 18:49:58
年賀
 おっしゃる通りだと思います。

 渡会恵介さんの“京の花街”に先斗町には伊勢講である丸寿組と高野山に詣でる鴨川組の記述があり、実際二見ヶ浦(夫婦石の少し手前)に先斗町が送った実に立派な一対の灯篭が、そして高野山にも苔むした納骨堂があります。。

 30年前に書かれた本なので、いまさら講でもないだろうと思いつつも先斗町の歌舞錬場に恐る恐る聞いたことが有るのですが、何と今でも続いているそうです。

 その昔、先斗町の芸妓さんや舞妓さんの後ろで、男衆さんが背中に大きな笑門を背負って歩く姿が目に浮かびます。

 猶、高野山の奥の院には南地に大和屋帝国を築き上げた阪口祐三郎(すけさぶろう)の立派な像も有りますが、足を止める人は少ないようでした。


 さて、宗春失脚の後、名古屋サミットは解散して長い暗闇の時代を迎えたわけですが、それが後年、鬱憤をはらす形で旭廓が誕生したのではないのでしょうか。

 

661鷹目:2011/02/13(日) 22:10:03
ハルピン街
 あんまり遊里には関係ない話ですが、岐阜関係の本があったので補足がてら。

 ハルピン街は、闇市が発送ですが、そこで統制品と知りつつも洋服や洋反物を店先に出すものが現れました。

 そのうちミシン等で反物を加工し既製服をつくり、北海道などで現金売りするものも出始めたそうです。

 そこで警察が取り締まろうとするのですが、一部行政有力者からヤミで流すことは悪い事だが、既製服を売ると言うことはアメリカ式で面白いと言う事、復興途上であり、商業行政の行く方へ協力してほしいと懇請し、警察のほうも黙認してくれました。

 これにより岐阜の既製服が有名となり、ハルピン街にいた既製服業者は今日の問屋町へと
移転し、岐阜が繊維王国と呼ばれる所以となったそうです。

 ちなみにハルピン街は当時駅前にありましたが、のちに駅西の広場に第二ハルピン街というのも出来たそうです。こっちはどんな職種が中心だったのか不明です。



 そういえば注連縄って神社によって形や作り方違ったんじゃなかったでしたっけ??

662膳所裏:2011/02/14(月) 19:06:54
注連縄博士
 しめなわ百科という本が注連縄研究所(あると思った!)から出ているようですが、私が調べた限りでは国学院大学の図書館に1冊あるのみです。

 この幻の本さえ手にいれれば注連縄博士を名乗っていいですよね。

 遊女を宗教と絡ませると、その昔、高級遊女が仏門に帰依したとか、あるいは新町、島之内、島原、祇園などの“ねりもの”、さらには室津、鳥羽、八王子、小松の串茶屋など数え切れないほどの神事、祭と遊女の関係があるようです。

 また、周知の様に遊郭、花街に神社はつきものです。
 妓楼、御茶屋の経営者や比較的恵まれていた芸妓が神に手を合わすのは分かるのですが、女郎さんは、普段から牛馬の扱いを受け、年季前に死ねば恩知らずと投げ込み寺に薦に巻かれ捨てられ、この世に神も仏も在るものかと思っていたとしても不思議ではありません。

 遊郭跡をたずねると、時に神社やお寺に混じってある宗教の教会に出会うことがあります。
 この土に関係のある宗教がその隙間を埋め、彼女たちの心のよりどころになった・・・という様な内容をどこかで読んだことがあり気になっていたのですが、それが何の本だったのか、残念ながら思い出せません。

663:2011/02/16(水) 22:46:13
五条楽園のこと
鷹目様、お久し振りです。

五条楽園の解散、まさかと思いました。
昨年10月、京都新聞の朝刊であるお茶屋さんが売春防止法違反で検挙された事件の記事を読んで驚きました。

五条楽園を知りましたのは渡会恵介氏著の『京の花街』という本です。娼妓本位だった七条新地が芸妓本位の花街に転換された内容を読んで信じられない気分を抱きました。

それからこの町を歩き嶋原や五番町では失った遊廓の建築物が多く残され、旅館に転業されている建物も見て嬉しさも混じって感動しました。

一昨年はひと・まち交流館主催の街づくり調査の報告会の会場として使われた五条楽園歌舞練場の中を初めて入りました。ご存知でしょうが他の花街の歌舞練場に比べて古い形態を残しているのが貴重です。

この五条の花街と町並みが保存、修復、再生していくことを願います。

664膳所裏:2011/02/19(土) 17:39:22
横断歩道
 昨秋始めてオフ会に参加させて頂き、楽しく過ごさせて頂いた帰りの電車でご一緒させて頂いた五条楽園の方(うかつにもお名前をお伺いしておりませんでした)に一本の横断歩道のお話をお伺いしました。

 かつて木屋町通りと楽園を結ぶ1本の横断歩道が五条通りに有った事、そしてこの横断歩道を取り外すことにより木屋町から下がる人は河原町通りに流れ、五条楽園は陸の孤島になった事。

 つまり五条楽園が最近まで存続し得たのは一本の横断歩道の有無かもしれないと云うお話です。

 “旦那はん おいでやす ええとこどすえ 芸者ワルツで ステップか

  五条楽園 花えくぼ 柳並木と ぼんぼりが ほのかに浮かぶ 恋の道”

 かつて秀吉が灯したかもれないぼんぼりの火が、恋の道を照らすことももう無いでしょう。

665T-レッド:2011/02/20(日) 20:41:21
『〇和会』 〜ワンワン吠えられる〜
近いのに、なかなか行けてない所ってありますよね。

大阪・天王寺区で、唯一(?)かもしれない芸妓置屋『〇和会』さんを訪ねてみました。

谷町筋から少し入った所にあり、一般人ならおそらく誰もその存在に気付かないと思われます。
(ワンワン吠えられました!)

近くには、南地『大和屋』の分家であり、普茶料理で有名な料亭『阪口楼』がありますが、なんでこんな所に芸妓置屋が必要なんでしょうか?
(やはり阪口楼専属…?)

谷町筋沿いは、古くから遊所として有名ですが、この辺り一画も、ホテル街に混じって連格子の和風建築があったり、石畳が残ってたり、フリーランスの立ちんぼが立ってたりで・・・脈々と受け継がれている歓楽色を感じます。


※私は特に、宴会係ではないのですが・・・
阪口楼は、オフ会々場候補の一つだと思っております。

実は小学生の頃、茶臼山古墳の河底池で、よく釣りをしてまして、「何や、あの建物は?」と、子供ながらに思ったものですワン。
阪口楼には、茶臼山を臨む席もあるらしく、個人的には非常に興味がありますワン。

それより、貝塚『深川』のほうが先ですかね!

666:2011/02/20(日) 23:04:54
続 五条楽園のこと
今日、ひと・まち交流館の帰りに五条楽園を通りましたら、唯一残っていた三階建てのお茶屋『A』の建物が解体されて更地になっていました! ついでにあのステンドグラスの建物も運命をともに・・・・・
その有様を見て悲しみました。ほかの建物は丁寧に修復されているになぜ、そうなったのでしょう。所有者が建物の維持が出来ずにそうしたのは致し方ございませんがこれはもったいない事です。これで歴史の生き証人が消えました。

いつか、花街、遊廓の建築物が復元(復原)、活用する機会が訪れることを願います。そうするべきです。悲哀に満ちた遊女たちの歴史が封印され、葬り去られ、滅ぼされる前に!

趣旨からそれてしまい申し訳ありません。この状況を見て感情を抑えられずにはいられませんので投稿いたします。

667掛川のすずもと:2011/02/24(木) 19:36:33
掛川の遊廓
一年前旧遊廓の旅館すずもとが解体された民間の住宅ができるそうで向かいにある元旅館萩の家のみが十九首遊廓の面影を残しています 旧遊廓の後地だけあっていまでも細い路地裏路や狭い曲がりくねった路地が当時を偲ばせます隣の菊川市の初咲新地にも古い遊廓の建物が残っているみたいそれとその当時まだ遊廓が現役だった頃の旅館すずもとにあった絵がきれいに修復され掛川市二の丸美術館に寄贈されその当時遊廓が華やかだった昔を偲ばせますもし掛川市にくる機会があったら一度御覧になられる事をおすすめします

668膳所裏:2011/02/27(日) 18:58:51
片山津検番
 少し前ですが、片山津温泉で大正九年に建てられた検番にお邪魔しました。
 紅柄格子の建物の中にあったのは大正ロマン香るホール、芸妓の名が入った稲荷提灯、温泉マークを形どったガラス障子、中でも目を見張ったのが芸妓札で、赤表、黒裏の名札をひっくり返して各芸妓のお座敷状況を確かめるという板組で、見盤が検番の語源では無いかと思える程合理的な物でした。
 その後、かつての置屋さんも訪れ、かつて鴨と呼ばれた温泉芸者の話を聞くこともできました。

 現役の鴨はもういないのですが、ご当地グルメの片山津バーガーの具に鴨肉を使ったものが有るそうです。

 が、どうしても食べる気にはなりませんでした。
 

669膳所裏:2011/02/27(日) 19:41:38
温泉こんにゃく芸者
 この片山津を舞台にして昭和四十五年に封切られたのが「温泉こんにゃく芸者」です。
 女屋実和子が役する球枝が、勤めていたコンドーム工場が倒産したので片山津温泉でひょんな所から芸者となるが、瞬く間に超売れっ子になったのであれよあれよという間に関東、関西のスカウトマンによる引き抜き合戦。
 優しい球枝はこんにゃく風呂を作るのに一生を捧げる養父の殿山泰司!!に親孝行をするため小松方正演ずるヌカ六(抜かずに六発撃てるという化け物)とセックス三番勝負!というすさまじい物語りです。

 この設定を小気味良いテンポで展開する中島貞夫監督の職人技が冴えに冴えます。

 さらに脇役陣がすごい。大泉晃、上田吉二郎、常田冨士男、小池朝雄、荒木一郎そして
片山由美子!

 プレイガールに出ていた片山由美子、若い人は知らんでしょうな〜

670T-レッド:2011/02/28(月) 15:08:36
コンニャク男
飛田に、"コンニャク男"というのが徘徊してましたよね?

今でも目撃情報はあるんでしょうか・・・

671鷹目:2011/03/02(水) 22:11:33
鍋の材料
>膳所裏さん
 先日、その一本の横断歩道を見てきました。

 駅や線路の変更、道の変更などで客の流れが変わったと言うのは聞きますが、あの一本横断歩道が明暗を分けたかもしれないとは本当に寂しい限りです。

 片山津で「温泉こんにゃく芸者」と言うのも凄いですね。小池朝雄や常田冨士男、味のあるいい役者さんですね。

 『全国花街めぐり』では片山津の芸者についてはこう書かれています。

 「鴨」というは元湯女の異名で、宿屋の仲居が客の酒の相手もし枕席にも侍ったのだが、 最近それが芸者に変りつつあるあるのである。

 さてこんにゃくは芸妓や娼妓の異名で使われていたかというと実際、根室で私娼の異名で使われていたそうです。

 ちなみに呉でも引っ張りの別名で鴨という異名が使われていました。



>今紫さん
 件のA、個人宅かマンションなのか分かりませんが、更地に基礎の墨だしがありました。

 ただ歌舞練場はしばらく大丈夫のようで怪談会や創作舞踊のイベントが催されるようです。

 機会があれば何度でも足を運んであげてください。

>掛川のすずもとさん

 はじめまして。貴重な静岡情報ありがとうございます。

 2011年3月27日まで静岡にガンダムがいるようなので都合がつくようなら(現時点では厳しい状況ですが)、十九首遊廓、初咲新地、掛川市二の丸美術館共に見に行きたいと思います。

>T-レッドさん

 5、6年うわさ聞かないですね。ゴム人間と同じく都市伝説??

672膳所裏:2011/03/05(土) 17:22:00
大阪六遊廓
 秀吉の肝いりで、五条〜七条間の遊廓の歴史が始まったと五条楽園の廓内では密かに伝え続けられてきたそうです。

 これを裏付けるものは何もないのですが、あの辺りは新日吉神社(いまひえじんじゃ)の氏子ですのでひょっとするとひょっとすればひょっとするかもしれません。

 秀吉の幼名の日吉丸は後年創作されたものらしいのですが何か裏が有りそうです。

 この新日吉神社より豊国廟にいたる参道に明治三十一年、大阪の六遊廓が寄贈した一対の大灯篭があり、新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部の名が台座に彫られています、南甲部は南地五花街として、乙部は明治末の焼失を受け、すったもんだのあげく飛田に移った難波新地のことなのでしょうか?
 調べたのですが分りませんでした。

 新町のフォーラムでパネリストの人見佐知子先生もこの事に触れられましたが、どうしても豊国廟と六遊廓を結びつけることが出来ないとの事でした。

 実はここには秀吉=朝鮮出兵の先駆者=大陸進出を目論む軍部が豊国神社を再建=それに乗っかり海外での遊廓権益を目指すむ大阪の業者という図式がありました。

 人見先生に是非このことをお伝えしたかったのですが、生憎その後ずーと立ち代りお爺さん連中が先生をブロックしていたので、とうとうその機会を逸しました。

 私の人生で佐和子先生とお近ずきになれた、たった一つのチャンスだったはずなので、今思い起こしてもあのお爺さんたちがうらめしい・・・

 ところで、温泉芸者シリーズには、温泉スッポン芸者、温泉みみず芸者、温泉ポン引き女中(白浜舞台)などがありましたが私は見ておりません。

 

673夕凪:2011/03/07(月) 01:02:52
南五花街遊廓組合
1932年の南五花街遊廓組合規約に下記の条項がありました。

 本組合ハ組合員ヲ左ノ通リニ分チ事務ヲ処理スルモノトス

  第一部 特殊料理屋、芸妓扱席(検番)、芸妓置屋、芸妓
  第二部 呼揚貸座敷、娼妓扱所貸座敷、娼妓小方貸座敷

一つの組合を、芸妓関係の組合と、娼妓関係の組合に分けてたそうです。

膳所裏さんの書かれている、南甲部、南乙部と言う名称について、
直接触れた資料は見当たりませんでしたが
おそらくは、芸妓と娼妓関係の業者が各々寄贈したのではないでしょうか。



(参考)ttp://tenyusinjo.web.fc2.com/sinmatiyukaku/8meijigeigikaihou/meijigeigikaihou.html

674膳所裏:2011/03/08(火) 16:27:41
羊羹色の羽織男は要注意
さすが夕凪さん。昨日気になって調べなおしたら日本遊里史(465ページ)にこの件に関する記述がありました。

 私の推測とはうらはらに難波新地乙部遊廓は南甲乙部とは別に存在していました。

 ご推察の様に南地甲部は芸妓中心で乙部は娼妓と見てよいのですが、厳密に云うと、甲は送り込み、乙は居稼店(てらしみせ)として当局が区別をつけた事です。

 つまり南地甲部にも送り込みの娼妓がいたことになります。

 さて、大阪の六遊廓が灯篭を贈ったころから娼妓が自由廃業を求めた訴訟沙汰が盛んになったので、これに対する大阪の遊廓側の防御策も載っていました。

 “先づ、南地甲部遊廓では事務所と置屋との内意を受けて娼妓は、

第一 客人の人相を見極むる事、
第二 言葉づかいに注意すること、
第三 羊羹色の羽織と古洋服を着し口ひげを蓄へたる者には最も注意すること、
第四 客人が寝所に入りたる時は娼妓との談話を立ち聞きすること、
第五 以上は一々事務所に届出ること を命じた、

 同乙部遊廓(居稼店)では到底外面的の手段では不可能と諦め専ら自己反省を求むるために時々僧侶を聘して因果応報の道理を言ひ含めることゝし、又松島遊廓なる某楼では廃業の意思のあるものを密告したものには甲一円、乙五十銭、丙二十五銭賞与を出し・・・”

 これではとても根本的な解決にはならなかったでしょうね。

 ところで次の日曜に私も愛知の蒲郡を徘徊しようと思っています。

 勿論、古着に羊羹色のジャケットを羽織り、無精ひげで・・・

 

675鷹目:2011/03/21(月) 20:32:27
生駒にて
 さて前日、遊楽さんからお聞きした情報を元にオフの段取りで生駒新地の旅館へお話に行ってきました。

 まずは生駒新地関連のお話。

 ・宝山寺の旅館街は、船場の旦那衆が聖天さんにお参りに来た時の宿としてが始まり。
 ・新地の芸妓は最盛期は200人ほどのいた。
 ・温習会も行っていたが、お稽古や着物代にお金がかかるので辞めた。
 ・いまはコンパニオン芸妓というべき感じ。
 ・自分ところで料理を作っている店は2軒ぐらい(うろおぼえです)。大体は仕出し。
 ・宴会からの予約花、泊まりもOK。
 ・旅館組合ではずれたこと(派手な営業活動のこと?)をしないよう申し合わせているとか。

 で、次はオフの内容。

 ・開催日は日曜。時間は夕方5時ごろから3時間程度。
 ・料理は特製すき焼き(鍋+おつくり一品+漬物+ごはん)。飲み代入れて会費6000〜7000円程度。ただし、人数によって先方と相談いたします。
 ・遠隔地からの方には、そこで宿泊も可能です。朝食つきお一人様7000円。

 今からの段取りだと5月開催が余裕ももててベターかと思います。

 後は皆さんからの意見(メール、MIXI、伝言板などから)を考慮してまとめたいと思います。

 平日の夕方からで急に冷え込んだ日だったからかもしれないが、むちゃくちゃ繁盛している印象はなかったです。

676夕凪:2011/03/26(土) 21:16:14
新千日歓楽街 (鶴橋)
大正9年(1920年)の天王寺、玉造間市電開通と、城東線桃谷駅の発展につれて、
郷土鶴橋の大阪市に接する地区を有望視する実業家があらわれ、
東大阪にこれといって歓楽街が無い点に着目、

市電細工谷停留所より鶴橋町の中央部に入る道路以前の沼地を埋め、
先ず土地の発展を期する為に大正11年ごろ(1922年)
アメリカ某サーカス団を呼び興行を行いました。

又今の野球場に当る一帯に納涼博覧会を2ヶ月にわたって開催し、
衛生、犯罪等の参考館や八幡のやぶしらず(化物屋敷、仕掛によって幽霊を出す)等
涼味をさそう催し物を行って好評を博しました。

又北部一帯は新千日と名づけ、劇場、温泉劇場を
新世界のラジウム温泉に対抗して建設に取りかゝり、常設映画館2ヶ所等も計画し
先ず東大阪隋一を誇る鶴橋劇場を完成しました。

     (中略)

これと同時に、飲食店、呉服屋、月賦販売百貨店、カフェー等が立ちならび、
中でもカフェー富士軒、鰻まむし出雲屋支店等一流商人の進出を見たので、
東大阪隋一の歓楽街はこゝに完成するかに見られました。

しかし大正末期の産業界の不振により不景気の訪れるとことなり、
資金の行きづまりがあったものか、温泉劇場の建設は基礎工事を行ったのみで、
工事中止の止むなきに至ってしまいました。


??????????????????????????????????????????????   1956年の資料より

677夕凪:2011/03/27(日) 21:01:51
新千日歓楽街の計画と鶴橋公園
温泉市場が開設せられて、
その後此の方面の盛況は持ちこたえるかとも思われましたが、
次第に衰微しはじめ太平洋戦争の開始と進展につれて、
疎開地帯に指定されたので
ついにあとかたも無くなってしまいました。

空き地は、当時戦争による食料不足から、
近隣の人々が自家農園に利用するところとなりましたが、

戦後は市の公園設置計画により
昭和23年(1948年)地元有志の努力によって、
公園及野球場の完成を見るに至り、
さらに北側には大阪府立聾学校が建設され、
道をへだたてゝ日本理容専門学校が設立せられるに至りました。

678新今里X:2011/03/29(火) 00:16:15
奈良新風土記 生駒
1982年の新聞に生駒を取材した記事があり、花街に関する部分を資料として少し転載させてもらいます。

『この町には、花街の風習がいまも根強く生きている。例えば「花代」。線香一本で時間を計っていた時代の名残か、いまも三十分きざみが守られている。三十分は一本と呼ばれ、夕方六時から十一時まで、一人の芸者さんを五時間拘束すると十本となる。
ところが、単純計算できない約束ごとがある。その一つが「入り花」。最初の一時間に限って二本を三本と計算する。さらに、六時から九時までの三時間に、他の客から指名がかかり、居残ろうとすると「もらい」「かえし」といって、六本が十二本にはね上がる。』

679膳所裏:2011/03/30(水) 14:50:40
生駒ぞめき
 生駒市誌によりますと、生駒新地の誕生は大正三年、大軌鉄道(現近鉄)が生駒鉄道を設けたことが発端で、花街の歴史も大正四年に大阪南地の巴席がここに置屋をおいたことから始まりました。

 この巴席の芸妓は「不破」や「呂之助」など、赤穂浪士にちなんで芸名をつけたそうです。

 当初は大阪出身の業者大阪党と生駒出身の料理屋側の生駒党で何事も対立していましたが、松川生駒分署長のもとで、置屋側と料理屋側が共同出資して「生駒芸妓株式会社」が生まれました。

 大正十年には旧新町演舞場の建物をそのままこの地に移転し、生駒座として新な生を受け、温習会もここで行われました。(現在は跡形もありません。)

 昭和に入ると、洋式の舞踏場の建設が大阪府で許可されなかったこともあり、牧山と云う人が洋館のスマートなダンスホール「生駒舞踏場」を作ると、最盛期にはダンサーも百人を数え、大阪の会社の重役連中が連日押しかけたそうです。

 戦後は生活環境の変化に加え、涼しい生駒もキャッチフレーズも冷房装置の普及でその意味を失いだんだん勢いを失いました。それでも昭和四十八年に芸妓はまだ百五十人もいたそうです。

 現在の生駒で私がお勧めするのが元旅館を改装され雑貨屋&カフェとして若きご主人が営むナイヤビンギさんです。

 2階の客室を利用した個室空間の窓際でコーヒーを啜りながら、浪花の恋の寅次郎の中で寅さんが松阪慶子扮する大阪芸者ふみと仲睦まじく歩いた宝山寺に続く参道を片肘ついて眺めれば、

     “生駒新地は気楽なところ
        三味や太鼓で日を暮らす”

 野口雨情が作詞した「生駒新地流し」で歌われたかつての賑わいに思いを馳せるのも、そう難しくは無いようです。

680夕凪:2011/04/03(日) 22:24:59
和歌山の娯楽
●花柳界

 和歌山市:東廓、番廓、新和歌検、不老園(芸妓224)、
      カフェー街(元寺町、築地、その他を合せ女給593)
      酌婦検番、天王新地、阪和新地、手平新地(その他を合せ397)

 新 宮 市:大王地検番芸妓105、浮島遊廓娼妓95ほかに酌婦40、女給100

 海 南 市:旭検番、寶検番、日の出検番(芸妓44、酌婦157)
      歓楽街 黒江新地、名草新地、東新地

                       1936年の資料より


●ひょっとして、上記の手平新地が、例の“ 新天地 ”では ・・・・ !?

(参考)ttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:VdW08hzvbgoJ:www.nwn.jp/screen/waga1/text1/2.html+%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1+%E3%80%80+%E6%96%B0%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E3%80%80%E6%89%8B%E5%B9%B3&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp

681夕凪:2011/04/04(月) 00:00:58
尼崎の娯楽
●花柳界

 尼崎検番(芸妓40)

 西本町北通、神田新地はカフェー街として有名である。


               1936年の資料より


 

682膳所裏:2011/04/04(月) 16:50:51
どうにもとまらない
 又聞きの又聞きですが、岡山の西大寺に裸祭りの日にだけ遊廓になった建物が一軒現存しているとの噂を手がかりに、日本三大奇祭の一つが行なわれる瀬戸内の門前町を訪れました。

 阪口祐三郎伝の全国花街所在地にも載る三業地の方は、色々お話を聞くことができた西大寺文化史料館の裏の新町通りにあり、今でもかすかにその色香を感じることができました。

 遊廓の方はそこから3キロほど離れた大井川の河口の九蟠(くばん)にあったとの事なので行ってみました。

 かつて新田開発の為、この辺りを一蟠から十蟠まで区画し互いに競わせることよりお上が開発を進めたらしいのですが、現在はこの九蟠と三蟠のみが地名として残っています。

 実際建物の有った場所は地元のタクシーの無線ネットワークでも分からず、漸くお話し頂いたの九蟠の古老に記憶の隅をさぐって頂き、遊廓は土手下の住居地でなく、最上稲荷神社の辺りの川に入り込んだかつての舟付き場にあったという情報を得ましたが、当時の建物はどこにも見当たりませんでした。

 どうも、西大寺にかつて遊廓があった。裸祭りの日にも男どもが押しかけた。

 “遊廓で弁天様を拝めるのでわざわざ祭りにいかなくてもここで充分御利益いただける”

 という様な話が何でも自分に都合よく聴いてしまう私の耳には今でも遊廓の建物が残っているというように響いたようです。

 九蟠を後にするタクシーの中で、昔何気なく聞いたあの人の歌が頭の中に聞こえてきました。

        うわさを信じちゃいけないよ

        私のこころはうぶなのさ

        いつでもでも楽しい夢をみて

        生きていくのが好きなのさ

683新今里X:2011/04/04(月) 22:23:07
昭和42年のイコマ
昭和42年の雑誌記事より転載(伏字にて自主規制アリ)させてもらいます。

『聖天様を祭っている生駒は知る人ぞ知る大阪の××××の聖地である。これがまたいい。近鉄奈良線の生駒駅下車、ケーブルであがると紅燈の段々道に出るね。ここにいるのが生駒の芸者衆である。料理旅館の門をたたき、女将に依頼すればいいのである。
芸者の花代とか線香代とかは、いくら聞いてもさっぱり見当がつかないものだ。こういう時には食べて飲んでイクラ、と大ざっぱなとろを、総額でまとめてたのんでしまうほうがいい。
(中略)
芸者さんを午前零時以降に呼ぶようにアレンジしてもらえば料理ともで一万円ですむ。早くから来させるとやはりチト高いのが難といえば難。
やってきたのがポチャポチャとした芸者であった。いくら×××芸者とはいえ、一応はスソを引いてコンバンワー。差しつ差されつ、コタツのなかで指を握ったり、×の×に×を入れたり、はては×を××て××××××× (以下略)』

684新今里X:2011/04/05(火) 17:00:45
九蟠ストリートビュー
九蟠にもgoogleの魔の手がおよび昨年あたりにストリートビューが公開されてしまいました。(笑)
土手(防潮堤かな?)から撮影したらしき俯瞰気味の古写真と照らし合わせて見ると当時の建物は現存していない状態でした。
古写真をストリートビューで確認しただけなので自信はなかったのですが、膳所裏さんが書き込みしていただいた場所と合っているので確信できました。
常夜燈や稲荷神社の玉垣などには何か書かれてましたでしょうか?

西大寺の方は地名だけなら西大寺新地が気になるところです。(笑)
昭和37年に廃線になったそうで町並みから昭和のニオイが…というか時間が止まった感じですね。
ぼくの場合はロケ地めぐりをしてました。

685新今里X:2011/04/05(火) 21:15:20
廃娼県は新地だらけ!
昭和9年の市街地図で新天地となってるところは手平なので夕凪さんが書いてくれた昭和11年の手平新地と同一の可能性はありそうですね。
地図上では新天地の地名と都市計画道路の点線が隣接してて、現在では新天地の文字のところにちょうど国体道路があります。
都市計画は戦争をはさんでも受け継がれてますから、もし新天地が手平新地なら国体道路完成よりもかなり早い時期に立ち退きで姿を消したのでないかと思います。

名草新地は初耳ですが名草山からすれば紀三井寺あたりかな?
昭和15年に和歌山市に編入されたそうなので、昭和11年なら海南市に含めて書かれててもおかしくないです。
それとも、海南の歓楽街は大正初期まで市内に散在してたそうなので、その一箇所が名草郡から名草新地を名乗って残ってたとしてもおかしくないです。
後に海南検番組合になる「旭検番、寶検番、日の出検番」で、旭検番は黒江新地、日の出検番は東新地というのは分かってますが、そういえば寶検番はどこか、黒江新地だったような気もするけど、ちょっと記憶にないです。
検番の次に歓楽街として「黒江新地、名草新地、東新地」と書かれてるので書き順から寶検番が名草新地かな…と想像してしまいました。

686新今里X:2011/04/05(火) 22:07:50
尼崎は兵庫県ではないと思う
>夕凪さん
尼崎検番(芸妓40)が西本町北通ということですか?
神田新地は西本町北通ではないですよね。

だいぶ前に古地図を頼りに尼崎の検番か芸妓組合だったかを見に行ったのは大物の方でした。
そこから西本町北通に移転したのか、別にもあったのか…
西本町北通あたりも何もなかったような。

687膳所裏:2011/04/06(水) 20:00:06
はらたいらに1000点
>新今里Xさん

 まさに常夜燈の辺りが遊廓だったのですが、常夜燈には何も刻まれてはいませんでした。
 玉垣には寄贈した青楼や芸妓の名が彫られていることが有るので私も注意して見る方なのですが、何も無かったと思います。

 ただ、最上稲荷神社の記念碑に

 “この地は元禄五年岡山藩主池田綱政が時の郡代津田永忠に命じて干拓した沖新田の一部であり地名は干拓工事の番号を以って当初沖新田九番と呼ばれ今日の九蟠に至っている
 九蟠港は吉井川河口という地の利を得て岡山藩の商港として江戸や大坂方面との往来も盛んに行なわれ繁栄を極めた”

 とあり、この地が港型と開発造成型を併せ持った複合型遊廓であったことが窺い知れます。

 ところで、日本遊里史の遊廓一覧に九蟠も載っているのですが、貸座敷二軒に対し娼妓数も二人になっています。

 これは何を物語っているのでしょうか?

 ここで三択です。

 ? 一つの貸座敷に一人ずつ鬼の様に客をとる伝説の二人の娼妓がいた。

 ? 鑑札を持つ娼妓は二人だが、何人もの芸妓がいて娼妓の仕事の分野にも入り込んでいた

 ? 昭和の始めには、大井川を高瀬舟で物資を輸送する時代は過ぎ、賑わいは失われ、遊廓渡世は風前の灯であった。

    う〜ん ?を選んだ竹下景子に1000点!

688新今里X:2011/04/07(木) 22:58:07
どんな二人だったか気になる…
三択なら三蟠wですね。
ただ繁栄を「極めた!」ことがあったのかどうかは疑問です。
番付などに名前が出たことないのでは…?

689新今里X:2011/04/07(木) 23:41:09
尼崎の遊廓設置出願
明治29年9月、尼崎町内別所村字小役人町
 大阪や西宮の遊廓に対抗するためと町中の私娼を撲滅するために出願
明治32年6月、尼崎町字築地町
 尼崎町字築地町に限定するは不可なるにつき他の地域を撰定すべし
明治32年7月、大物村字田町

結局遊廓設置の出願は全部却下されたようですが、大物には昭和10年ごろの地図に尼崎芸妓共同組合や立花楼など料理屋らしい建物がありました。
先日、夕凪さんが書いてくれてた尼崎検番とは同じ年代なので、別の花街になるのかもしれません。

余談ですが駅前のジャンボって元トルコですよね。(笑)

690膳所裏:2011/04/10(日) 17:58:04
九蟠の番付
 日本遊里史の遊郭一覧を基に廓番付を作ってみました。

 まずこの遊郭一覧を見て思うのは娼妓側からのみ廓をみていることで、東京でも名古屋でも芸者のみの三業地は一切載っていません。

 ところが関西には祇園甲部にもそこそこの娼妓が在籍しており、有名処の花街は殆ど名前を見ることができ、西と東の廓の仕組みの違いがわかります。

 また、上七軒の貸座敷33軒に対し娼妓2人を見ればこの表にいわゆる芸妓のみの本茶屋が含まれているのは明らかです。

 ですから順位のつけ方は一覧に載っていない芸者数を推測する為に、貸座敷数を娼妓数で割ったその指数が高いものから花街度が高いとしました。

 もちろん無茶苦茶な論理なので突っ込まないでくださいね。

 では、昭和の初めごろ、娼妓が在籍した花街の番付です()内指数。

東大関、上七軒(16.5) 西大関、金沢北廓(9,7) 東関脇、堺乳守(6) 西関脇、堺竜神(5.9)
東小結、先斗町(5.1) 西小結、祇園甲部(4.7) 東前頭一、金沢東廓(4.7) 西前頭一、四日市南町(2.2) 東前頭二、堀江(2.1) 西前頭二、金沢西(2)

 なんとなくそれらしい名前が並ぶのが不気味です。

 ちなみに飛田は0.1で洲崎は0.09でした。

 尚、貸座敷数プラス娼妓数の合計が10を切った箇所は異常値が出る為対象外にしたので残念ながら番付に九蟠は載りませんでした。

691鷹目:2011/04/11(月) 16:14:45
オフ会の日時アンケートです。
 春オフの日時アンケートです。

 日時はスケジュール調整サービス伝助(下記URL)よりお願いします。伝言板からでもOKです。

 オフの概略は以下の通りです。

 ・開催時間 未定 (候補日 2011年5月8日(日)、22日(日)、29日(日)
       午後5時より3時間程度
 ・会場 生駒宝山寺 某旅館
 ・料理 特製すき焼きセット
 ・会費 約7000円

 お願いします。

http://densuke.biz/list?cd=TErzu6e9Tz3gzscn

692鷹目:2011/04/20(水) 17:23:51
遊里史研究会、2011年恒例春のオフ会案内
春オフ会の案内です。

・開催場所:奈良県生駒市門前町宝山寺新地内 料理旅館古賀
・アクセス:近鉄生駒駅から生駒ケーブルに乗り換え宝山寺駅下車。徒歩約5分
・開催日時:2011年5月22日(日) 午後5時より3時間程度
・料理:特製すき焼きセット
・会費 約7000円

備考:宿泊される方は宿泊料(朝食つき)7000円

 いつものメンバーには近日中にメールしますが、連絡先が変っていない方は下記出欠等幹事長の出欠登録のみ、この日記へのコメントだけでも結構です。
http://kanji.kodama.com/note.aspx?ac=duz501blo1ffgpyv

初めての方は、必ず下記よりお申し込みください。
http://form1.fc2.com/form/?id=172867

皆様のご参加をお待ちしております。

693夕凪:2011/04/24(日) 10:44:03
行こうか灘町帰ろうか茶町こゝは思案の道笑町
●米子花街

 と云はれるだけあって、米子市灘町は米子市におけるたった一つの色街だ。
 と云へば恐らく人間に性欲に自覚あるものは、
 遊廓か、それとも芸妓が居る一角だと思うだろう。
 いや御想像の通り灘町は公許された私娼窟だ。


○灘町遊廓

 世間で一般には遊廓と呼んでいる。しかし形式的は私娼窟たるを失はない。
 何故なら灘町30有余の遊廓に働く女性は娼妓としての鑑札でなくて
 酌婦として許されているだけだ。だから公娼でなくて私娼だ。

 しかし、灘町に遊ばれる人々達よ、私娼だとて軽蔑したり、危険がる必要は更にない。
 安心して通ひつめるなり、一夜の享楽に耽るも御随意だ、
 決してそのために警察の御厄介になる必要はない。
 名称は私娼であっても実質は公娼の設備になって居り許されているのだ。


                         1936年の資料より

694膳所裏:2011/04/24(日) 19:49:52
米子
 二年前に花園町遊廓(旧灘町遊廓)を訪れました。
 町外れにかなり広めの胴筋をもつほぼ長方形の区画・・・典型的な新地様式です。
 蝙蝠をかたどった壁がある印象的な料亭?をふくめ数件の当時の建物が寂しげに佇んでいました。
 福の神の役瓦を持つ別の棟もありました。
 そういえば福知山の猪崎でも同じ役瓦を見たことがあります。

 明日は三重の田丸遊廓に行ってきます。

 鬼が出るか蛇がでるか、 ちょっとワクワクしています。

695夕凪:2011/04/25(月) 07:33:53
神社三業組合の料理・特殊カフェー
・神社三業組合(宇治山田市神社湊):引本屋、真砂屋、丸万、小田屋、美咲家、愛国楼

・田丸支部(渡会郡田丸町):いろは

・尾鷲支部(北牟婁郡尾鷲町):嘯月、光月


                    1950年の資料より

696膳所裏:2011/04/26(火) 16:29:57
田丸
田丸は有りや無しやと問われれば・・・有りでした。
ネットで何も掛かってこないのであんまり期待はしていなかったのですが、実際行って見ると・・・これが大有りでした。

手がかりは全国遊廓案内の田丸駅西南二丁だけでしたが、下車後五分程ですんなりと勝田町にかつての色里を認めることが出来ました。

土地の人に現存する いろは、山一、小林、ナルセの各妓楼やかつての芸者置屋の位置を教えていただき、ここは値段の高い古市からあぶれた遊客がお値ごろ感で利用された事なども教えて頂きました。


その足で図書館に行き玉城町史に遊廓の1ページを見つけました。町史によれば、もともと新田町(シンデマチ)に文政二年、町奉行が客屋(茶屋ではありません)を許したことから遊廓の歴史がはじまり、幕末には常磐屋、川崎屋、大西屋、堺屋、瓦屋(新玉屋)、駒屋の妓楼と中井屋、二葉屋の揚屋があり、この辺りでは古市、松阪に次ぐ規模を誇ったそうです。勝田町の記述は町史全四巻の内“明治七年に、勝田町に姿を変え、貸し座敷として再開された。”のみ・・・遊廓の存在を隠そうとする意図がヒシヒシと伝わります。

その後、町史に詳しい人がいることを図書館の人に教えて頂き、連絡まで取って頂き公民館まで出向きました。迎えてくれた、皆が先生と呼ぶお爺さんがが膨大な史料から探すこと小一時間、とうとう大正から昭和初期の勝田町の全てのお店が書かれた地図を頂くことが出来たので再び現地に戻り地図を右手に再確認。

現存しないのが、遊廓…美よし楼、銀波、金波、丸一 旅館…登喜和楼、川合屋、山本旅館
        置屋…お福屋、鈴の屋、丸屋、かじや、山田屋

ほぼそのまま残るのが妙見側から入ると

        遊廓いろは(妙見の向かい、屋根下壁の紅がらと緑が印象的)
        遊廓山一(クランクを曲がり右側路地手前Pの手前)
        遊廓銀花(その路地かど、近所の人がナルセと呼んでいた店、見ごたえ有り)
        旅館小林亭(銀花の斜め前、今は民家、二階の窓の前に松、笹、梅?の彫り)

そして外城田川にかかる大橋(現在架け替え)に至ります。

帰路伊勢市の神具店で火打ち石を買いました。家に帰りカチカチすれば、成程閃光が飛び銭形平次気分が味わえます。

ところが厄除けの切り火としては有りですが、発火装置としてはこっちの方は無しですね。

697膳所裏:2011/04/28(木) 16:15:17
お知らせ
“京都 舞妓芸妓の奥座敷”などでお馴染みの相原恭子さんが5月3日に京都駅ポルタプラザに於いてお話会を催します。

タイトル:「京都花街」格子戸うらのおはなし会

時間: 第一部 13:00〜13:40

    第二部 15:00〜15:40

内容  舞の披露、おはなし会、記念撮影会

698鷹目:2011/05/02(月) 18:41:54
お知らせ 2
 試験的にですが、心ある学生グループが中心になって大和郡山洞泉遊廓旧川本邸が一般に無料公開されます。

日時:2011年5月5日(木) 10:00〜16:00

 ただ試験的な実施なので突然中止になる場合、今後どうなるかわかりませんが、お時間のある方は是非行ってみてください。


詳しくは下記ブログにてご確認ください。

*ttp://kmachi.narasaku.jp/

699膳所裏:2011/05/05(木) 16:26:50
町名変更
以前、福井市の足羽公園の近くに有ったといわれる遊廓跡を探し回ったことがあります。

渡辺寛によれば榮新地は(旧、畑方西・東と長居町)
全国遊廓案内では石場畑方(旧桃園)
上村行彰は玉井町(旧伊勢町、大将軍町)を挙げています。

この玉井町も今は無く、現在は、つくも2丁目、足羽3丁目、桃園1丁目、有楽町、左内町と毛矢3丁目に当ります。

情報は錯綜、私自身は福井市史も読んでいないので、上の遊廓が同じ場所なのか、移転したのか今でも分りません。

ただ、明治以降この地で複数以上の町名変更があったのは確かで、これが混乱の元であるのは間違いの無い所です。

結局、その日、寡黙で親切なお蕎麦屋のご主人に教えて頂き、更に車で送っていただき、現在の有楽町に丸窓で紅がらの貸し座敷とパッチワークの様なトタンで覆われた当時の建物を確認することが出来ました。

町名は歴史であり、そこに住む人の誇りです。ビルが乱立する都会ならまだしも、地方都市までそれに倣うのは文化の自殺行為と言えます。

ある市が町名変更の理由をホームページに載せています。

?もしもの時に、救急車、消防車等がすぐに来られない。(生命にかかわる場合がある。)
?郵便物、荷物がなかなか届かない場合がある。(時間や経費の無駄。)
?来客者がお宅をさがしたり、あなたがお宅の場所を伝える場合に苦労する。
?役所等の公簿の整理が煩雑になり、住民サービスに影響がでる場合がある


??は理由にすら成りません。慣れ親しんだ町名のほうが分かり易いのに決まってます。
?は手数かけて調べさせて、その為の郵便番号でしょうが。

そして一番最後に本当の理由をもってくるのが小賢しいというかズルイというか・・・

そんなに仕事を減らしたいのなら、いっそ町名を全て廃止して記号と数字にしたらどうか?

それは出来ない?

いや、あなた達がやってきたのはそれと同じことなのですよ。

何故こんなに怒っているかというと・・・洞泉寺に今日行けなかったからなのです。

700膳所裏:2011/05/06(金) 16:56:00
待合 津の国屋
>夕凪さん 有難うございます。まさか榮新地の絵葉書が存在するとは・・・数日前に新吉原の仮宅の内部の絵葉書がヤフーのオークションにあったのですが、入札が五千円なので迷っている内に終了したようです。 旧川本邸の動画も拝見しました。おかげさまで今日からゆっくり寝れそうです。

実は鳥羽の遊廓、津の国屋の内部を見せて頂いた事があります。商工会議所が管理されているのですが、内部の保存状態は大変悪く、自己責任ということで何とか二階に上がりましたがいつ床がぬけるかヒヤヒヤしながら、それでも荒れ放題の庭も含め一応拝見しました。
印象的だったのは二階上がり口の手すりに掘られていたJ、Q、Kとクラブ、ハート、スペードの彫りで、ダイヤだけが有りません。これはお金をもって登楼する客がダイヤという洒落ですかねー。

角屋に似せた外観は整備され状態は良く、楓をあしらった玄関はここでしか見たことがありません。

津の国屋の正面に建つ鳥羽みなとまち文化館は船上遊女“志摩のはしりかね”の筆者で知られる風俗研究家の岩田準一の家で、彼が師匠でもある竹久夢二のタッチで描いたハシリガネが津の国屋の二階で船を待つ様子を描いた屏風もあります。

その他、渡鹿野島がモデルといわれるパノラマ島奇譚を書いた江戸川乱歩の展示もあり結構楽しめます。私も始めて知ったのですが、岸本水府もこの辺りの人だった様です。

鳥羽の遊廓跡にはその他、立派な三層楼で現在スナックである旧白子屋やかつて海が三階から望めたという旧料亭、太平楽などの建物も有りました。

鳥羽の商工会議所としても、かつての遊廓の建物を街中の地図で示したり、津の国屋の内部修理の見積もりを考えたりされていた様なのですが、どうも“負の遺産として”という修飾句が付きまとい今ひとつ踏み込めないようでした。

しかし鳥羽はまだまだ理解がある方で

「これでは家族の為身を売って死んでいった遊女達も浮かばれぬわ!」

私が海原雄山なら目をかっと見開き、箸を置きその場を立ち去りたくなるような時もありました。


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