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鷹目遊里史板

338夕凪:2007/07/20(金) 07:09:59
朝から もうイッパツ! 伊豆長岡温泉
●バー

 バーが密集しているのは長岡銀座、上温泉街、狩野川ぞいの3ヵ所。
 穴場は長岡銀座から細い露地を入った中にある旧赤線だろう。
 ここは両側にしもたや風で店名もさだかでないバーが10数軒かたまっている。

 店内は10坪あるかなしの小さいもの。場末のバーといった感じは否定できない。
 型通りのカウンターとボックス席があって、ジュークボックスがやけに派手にエレキを奏でていた。

 奥のドアが開いて中からどてら姿の男とこの店のホステスらしい女がもつれるようにして出てきた。
 中は3畳くらいの小座敷。先の客が使ったらしいまだ温もりの残った布団がのべてあった。

 飲食代の方は、旧赤線内は概ねセット制になっていて、ワンセット700円、中瓶のビールが2本つく。
 これにボックスへ坐るとボックスチャージとサービス料が加算されるから最低1,000円は必要だ。
 ※相場は3,000円、オフシーズンで2,000円だそうです。

●ヌードスタジオ

 長岡くらいヌードの多いところはない。ざっと数えたところで10数軒。
 小さな町にこれだけあるんだからヌードだらけの錯覚に陥ってしまう。
 したがって客の多くは2、3軒をハシゴするのが常というが・・・・・。

●花柳界

 ここはまだステッキの進出はなく、花柳界は「伊豆長岡芸妓見番」一本に纏っている。
 その数は180人。シーズン中は需要をとてもまかないきれないから、
 熱海同様、バーのホステスがお酌にはせ参じたりする。
 若手のいい妓を確保しておこうと思えば、早くから旅館を通じて予約しておく事である。
 但し置屋が管理売春であげられたケースもあるが、持ちかけるのは難しく、
 相場とてないが最低1万円は包まねばなるまい。

                      1967年の新書版の夜のガイドブックの要約

339鷹目:2007/07/21(土) 10:49:57
おまけ 伊豆長岡温泉
 昭和27年の観光案内本によると「芸妓約85名、接客婦65名。花代は一時間200円」だそうです。

 長岡温泉発見、明治40年と伊豆温泉中、新しい温泉だそうですな。

340楽天地:2007/07/23(月) 00:02:18
伊豆
伊豆といえば下田へ行ったことがあります。観光地になっているペリーロードの近くに
「唐人お吉」が開いていた店が一般公開されていました。お吉に興味を持って本を読ん
でみようと思ったもののいまだに読めていません。資料館では愛知県知多半島の生まれ
とあったのですが、その説明だけではどこなのかよくわかりませんでした。

先日、内海へ行った際に偶然お吉の銅像と生家跡の碑を見つけました。
そのすぐ裏手には内海館があったはずですが、昭和40年頃に火事で焼けてしまったよ
うで現在は駐車場になっています。駐車場の中に灯篭と庭石のようなものがあり、
それが唯一の名残でしょうか・・。

341k_taii:2007/08/06(月) 00:11:29
石岡
今日は茨城県の石岡に行ってきました。石岡は土浦と水戸の間にあって土浦から
3っ目の駅でした。行ってみた理由は、幕末に8軒の妓楼からなる遊郭があった
からです。ちょうど民俗資料館があったので行ってみてみると8軒の名前とおそらく
昭和の30−40年代ぐらいまであった妓楼の白黒写真が1枚ありました。資料館
の方に場所を聞いてその場所に行ってみたところ、やはりなにも残ってはいません
でした。地元の方に聞いてみるとその場所に遊郭があったことは聞いたことはない
とのことでしたが、他の場所に遊郭はあったとのこと。よろこんで3箇所ほど教えて
もらった場所を訪ねたところ、1軒だけ建物が残っていました。建物を見てみると
赤線時代ぐらいの建物でしたが、言われなければ普通の建物で、何も装飾はなく見つけ
ることは100%不可能でした。でも赤線があったことはわかりましたのでOKです。
 結局、建物は1軒しか見つけられませんでしたが、町のなかにはすばらしい看板建築
の建物が山ほど残っていました。看板建築に興味のある方なら私はぜったいおすすめです。
300円でレンタサイクルがありますので、土浦や水戸に行く場合はぜひ、この石岡も
検討してみてください。

342MARU:2007/08/06(月) 06:25:57
え!石岡とは、、、
k_taii様、お暑い中お疲れ様です。石岡ですか
前回の越谷につづいて発見なさるご苦労、頭が下がります。
看板建築も多いようで楽しそうな場所ですね

343k_taii:2007/08/14(火) 00:21:57
急に温泉に行きたく
なりまして、群馬の前橋で途中下車して県立図書館に行ってきました。
結果、以下のことがわかりました。
 特殊飲食店 群馬県 昭和32年11月30日付
前橋 23軒、高崎 39軒、伊勢崎 11軒、富岡 5軒、大間々町 1軒
大胡町 1軒、榛名町 1軒、渋川 6軒、伊香保町 4軒、新町 9軒
安中 5軒、松井田町 1軒、桐生 23軒、太田 4軒、館林 6軒
沼田 14軒、藤岡 3軒、草津町 4軒、長野原町 2軒、水上 1軒
境町 4軒、大泉町 5軒
以上

344k_taii:2007/08/20(月) 22:40:02
こんばんは
炎天下の中また修行に行ってきました。今回は長野 鶴賀新地 ここは妓楼が1軒。
4−5年前来たときにあった建物がまだ残っていました。うれしい。でも手入れして
いない木が茂りすぎて写真はNGでした。次は高田。案内所で栄町遊郭よりもいい場所
があるとのとこで、炎天下歩いて行くも地図の縮尺が中心地と端では全然違うらしく
いくら歩いても着かない。残念ながらあきらめました。それから 直江津。
ここは古い遊郭のあったところで期待して訪問。中心地に広場があり、それを取り巻く
ように遊郭はあったそうで、現在残っていたのは1軒、ずいぶんお金がかかっていそうな
建物でした。近年になって取り壊された割烹が1軒、塀の一部だけ残っていました。
あと待合みたいな建物1軒、スナックや中華なども廓内にありました。道を聞いた方は
たまたま元経営者だったようで、かって平屋の妓楼を経営したそうでしたが、廓の外
でした。最後は戸倉温泉にあった赤線を探しましたが、上山田温泉の方とは異なり、
見つかりませんでした。上山田温泉の方は以前入り口が遊郭のような赤線の建物(意味は
入り口だけ立派で後は普通の民家)を探しましたが見つからず、しらみつぶしに歩いて
探すとサイデリア(?)化されて、特徴だった入り口は完璧に普通の民家となって
いました。ここを含めて4軒ぐらい残っているのでしょうか。こんどはもっと涼しくなって
からにします。

345ナカムラ:2007/08/23(木) 16:15:46
夕凪・港新地
こんにちは。天王寺にいます。

港新地では、古い旅館のほかは、目立った建物を見つけることが出来ませんでした。文化住宅なる特徴的なアパートがたくさんありましたが、あれは無関係ですか?

輪島・観音町の三味線通、宇出津・メンキチは、数軒の妓楼跡が残り見応えがありました。

珠洲・正院は、雰囲気は残っているものの、妓楼跡の建物か自信がありません。
穴水・稲荷町は春の地震で、予防的に三軒ほどが解体されたそうです。

346えもん:2007/08/29(水) 21:26:38
ご無沙汰しています。
お盆休みには佐渡の遊郭跡を見てきました
観光HPにも掲載されていたとおり、
本当に跡として観光案内の看板だけが残ってました(涙
年内にもう一度、佐渡へ行く予定があるので、何か収穫があればいいなぁと思います。

だーーーーいぶ、前に池田のことを聞いたときにみつけた
カフェー調?といっていたの建物は、
その後、みてみたのですが残念ながら全然関係なさそうでした(><))
最近、ネットで検索した情報を元に、町を散策してみたら、
いつも通っている道の路地に1軒あることがわかりました。。

最近は暑くてとても散策という気分になれませんが、涼しくなったら
また散策してみたいなぁと思います。

347嶋原道樂:2007/08/30(木) 12:41:06
博多一樂
福岡新柳町にかつてあった博多一樂の絵葉書袋裏表紙に、
『一樂小唄』『小女郎小唄』が、記載されていたので転載します。
どちらも作詞は吉井勇さんです。

         『一樂小唄』
行こうよ一樂戀(こい)しい夜の灯 伽羅の枕で夢をみに
門を入れば一樂ごのみ 阿房宮かよきらきらと
婀娜(あだ)な湯あがり檜風呂を出れば 髪(びん)の毛をふく春の風
廊下通るは小女郎ぢゃないか 腰がよう似た柳ごし
四方八方鏡の部屋で 寫(うつ)して見せたいわしの胸
宗七さまかと抱きつく小女郎 今もいるよな柳まち
朝の虹の間未練がのこる 忘れられよか深なさけ
戀(こい)は柳まち男は毛剃 夢をみるなら一樂へ
花の一樂いつでも春よ 夜風戀風(こいかぜ)そよそよと

        『小女郎小唄』
いとし小女郎のかたみの衣 いまも宗七は戀(こい)しかろ
      春は一樂ヤンレ花の夢
いまも小女郎の名残の情 博多をなごにや實(じつ)がある
      春は一樂ヤンレ花の夢
むかし小女郎の涙の小櫛 いまも梳(す)くぞえみだれ髪
      春は一樂ヤンレ花の夢

絵葉書を見る限り四方八方鏡の間や虹の間がありましたし、
百番を彷彿させるような装飾が施されてました。

348夕凪:2007/09/21(金) 00:31:11
池田新地 (大阪府池田市):旧赤線地帯
戦時中は、小料理屋に仲居風の女があり、売春が行われていたが、
昭和21年に進駐軍の要請もあって、にわかにしもたや風の家を改造し、
飛田、松島新地及び地元の者とで待合茶業の営業許可を受けて
開設するに至ったものである。

ここは他の新地と異なっていたことは、
略図に示すとおり娼家が一般商店、住宅の中に点在していたことで、
集娼地区とみなし難いところであった。

現在は料理店4軒のうち1件のみはセット式方法を用いているが、
他は普通料理店であり各店とも女給仲居を接客婦として2人から4人位雇っているが、
何れも25才から30才位の年輩者が多く頻繁に異動しているようである。

営業成績が最近芳しくなく完全廃業した9営業者の建物は、
現在何れも居宅に使用しているがこれらの業者の転業別は
会社に就転したもの2、他市で飲食店を経営しているもの1、
タクシー会社を経営しているもの1、映画館を経営しているもの1、死亡その他2であり、
一応完全廃業の形態をとり僅かに数営業者が料理屋としての命脈を保っているに過ぎず、
殊に最近隣接の川西市内に相当いかがわしい店が続出して、
従前とは反対に客筋はこの方面に流れている関係上、同新地は益々沈滞の傾向にある。

所轄警察においても、売春行為の風評を時たま聞知することもあるので、
その都度内偵取締りがなされているようであるが、
異動が頻繁なため内偵が困難を極め、未だに検挙された事例はない。

この新地に接続して小料理屋の密集地帯が数ヶ所あって相当の顧客を吸引しており、
売防法関係の対象はこの方面にあるようで、
38年以降売防法違反として数件検挙された事例がある。

?地域別:池田市 ?名称:綾羽 ?解散前の業者業態:待合 ?解散前の業者数:16
?移行業種別:
 35年8月31日現在=料理屋4、旅館1、下宿1、その他10、計16
 34年3月の解散1年後=料理屋4、カフェー1、旅館1、その他10、計16
?従業婦:32年12月20日81名、33年3月解散時72名、現在18名

※略図によると阪急池田駅の北側に17件(?)の店が、現在の今里新地以上に、点在しています。

                    1961年1月頃公機関発行の冊子より

349k_taii:2007/09/03(月) 00:09:50
こんばんは
 今日は青春18キップの残りを使うために沼津、三島に行って来ました。まずは沼津。
千本松原と浅間神社の側にあったとのことで、観光案内所で情報を貰いに行くと二つとも
知らないとのこと。その代わり市役所の側にそういう場所があったとのことでした。時間
のこともあったので、今回は浅間神社と市役所を歩いてみました。結果は2箇所とも
分かりませんでした。何人かの方に赤線のことを聞きましたが、誰も知らない。2時間
歩きました。帰りがけに沼津にあった海軍兵学校の碑を見て、三島に行きました。
 三島は駅前の芝町と新開地、あとは市内に分散ということで、また観光案内所で聞いて
みるとまったく分からないとのこと。新開地のあった旧名で三島広小路駅近くにあった
のでは、と言われたので歩きまわり、いいかげんみつからないので三島駅に帰る途中
ようやく新開地を知っている方に会い、場所を教えてもらいました。三島駅の近くに
新開地はありました。それは2本の通りにあって、現在はビジネス旅館やホテルが3軒も
ありましたので、まず間違いはないと思いました。残っている建物は昭和30−40年
ぐらいの連れ込み旅館が1つで、赤線時代かどうかは微妙でしたが出入り口が3箇所も
あり、それなりの雰囲気があるものでした。他にも単独で存在した赤線の場所も教えて
もらいましたが、こちらに土地勘がなくぜんぜんわかりませんでした。残念。

350えもん:2007/09/03(月) 23:01:29
ありがとうございます
>>夕凪さん
お久しぶりです、丁寧な情報をありがとうございます。
映画館というと、あの地域には1軒しかないので、
あの通り周辺かなぁ。。。となんとなくボンヤリと、想像しています。
あのあたりは、観光事業の為だいぶ、開発が進んでいるので
今後こういう建物はなくなる傾向にありますが、
ひっそりと名残ののこる建物にはノスタルジックを感じますね。

ちなみに、地名の綾羽はもうお調べになっているかもしれませんが、
池田には古くから残る、有名な織姫伝説があります。
その話にでてくる、綾羽姫からとった名前だそうです。
池田の地名にある呉服(ごふくではなく、「くれは」と読みます)>呉の服という意味で、
大陸からつれてこられた綾羽姫が機織の技術とともに伝えたといわれています。
(かといって、池田で織物産業が発達したわけではありませんが)
ご参考になれば幸いです。

351嶋原G:2007/09/27(木) 10:46:43
ある議事録?
 飛田という赤線区域がございまして、あの周囲に商店街が三方にあるそうですが、そこだけでなく、天王寺とか布施とか、あの周辺の商店街に対して――ここでは強制すると書いてございます。売春防止法を廃案にするか、これの実施を延期しようという運動が起っているのだそうです。
 それで、署名運動が起りまして、強制的に署名させられる、そうして、それをやらないと、そこから品物を買わないというような脅迫をしておるそうです。それで、大阪では、婦人団体なり或るいは取締り官庁で色々問題にしていらっしゃるということを承わりましたけれども、この脅迫してこれを延期させるというようなこと、これをほうっておおきになれば全国的に蔓延してくる運動になると思うのです。

記事文中に意味合いが不明の部分があるので後日調べます。
昭和32年衆議院議事録より抜粋

352夕凪:2007/10/21(日) 14:38:54
SANPO 下町通信
伝言板でチョット話題になっている「SANPO 下町通信」の既刊の特集記事について調べてみました。

01.駄菓子屋(1993.2.15)、????????????????????????02.西成あたり(1993.5.20)、
03.西成あたり その?(1993.8.15)、?????????????? 04.夏祭り(1993.11.1)、
05.新開地(1994.3.1)、????????   ??????????????06.特集無し(1994.6.25)、
07.京都(1994.10.10)、?????????????????????????? 08.震災特別号(1995.4.25)、
09.震災特別号?(1995.8.15)、????????????????????10.記念特別号(1995.12.1)、
11.特集無し(1996.3.10)、????????????????????????12.東京(1996.6.15)、
13.大阪生野区(1996.10.11)、???????????????????? 14.神戸立ち呑みあれこれ(1997.2.10)、
15.大阪福島区(1997.7.1)、?????????????????????? 16.A少年とその周辺(1997.11.25)、
17.奈良(1998.5.1)、???????????????????????????? 18.尼崎(1998.9.25)、
19.気になる市場(1999.2.5)、
20.阪神西大阪線、気になる市場その二、元町海岸通り界隈その一(1996.6.28)、
21.大阪九条、気になる市場その三(1999.11.10)、?? 22.大正区(2000.5.1)、
23.十三(2000.10.1)、            ????24.神戸高架下(2001.4.1)、
25.大衆食堂(2001.9.1)、???????????????????????? 26.大衆喫茶(2002.1.20)、
27.新開地と西・東出町(2002.7.1)、????????????????28.「二葉新地」とその界隈(2002.12.25)、
29.和田岬界隈(2003.4.4)、?????????????????????? 30.神戸平野界隈(2003.7.13)、
31.大阪七墓(2003.11.25)、?????????????????????? 32.竹島昌威知氏に聞く(2004.6.15)、
33.竹島昌威知氏に聞く?、軍艦アパート(2004.11.20)、
34.神戸・水道筋とその周辺(2005.6.25)、?????????? 35.新・大阪絵図(2005.12.25)、
36.神戸北野界隈/立ち飲み散歩(神戸)(2006.5.20)、 37.動物園前界隈(2007.5.20)、
※他に追悼特集等があります。

353鷹目:2007/10/21(日) 21:36:30
偶然
 『SANPO 下町通信』を見つけたのは本当に偶然でした。即売会でまたまた目に付いて面白そうなのいかな?と漁っていたら二葉新地の特集号があった訳です。
 あまり知られていないみたいですが、なかなかいいミニコミ誌です。他の地域にもこういうのあるんでしょうね。

354夕凪:2007/10/27(土) 17:52:37
今里土地株式会社
大阪市東成区片江町76、創立:昭和3年8月25日(1928年)、資本金:360万円

●藝妓居住指定地として、歓楽卿今里新地の出現を見て以来、今里、玉造、森の宮を一串する
 東大阪一帯の発展過程は、近来最も活気あるものゝ一つである。

 試みに市電今里終点にて電車を捨てよ。
 茲僅かに数年前まで沃野万里、春なれば麦穂秀でゝ雲雀謳ひ、
 秋なれば稲穂たわゝにイナゴ飛び交ひたるあたりは、一面大小商店櫛比し、

 南して新橋通に入ればジャズの音高らかに、劇場、映画館、料理店等軒を並べて、
 その殷賑絢爛の状、まことに時代の変遷に一驚を喫せしめる。
 之を過ぎて鉄路を横切り、左に進む数丁、弦歌なまめきて脂粉ほのかなるところ、
 即ち今里新地と呼ばれる。

 当社はこの廓内にあり、一般土地会社としての各種事業を経営する目的を以って、
 昭和3年8月25日を以って創立された。

 今日に於て藝妓数夙く一千名に垂んとし置屋、料理店又之に伴ふて増加し、
 一大不夜城を現出する事となったが当社経営地も亦漸く活気を呈する事となり、
 昭和7年4月末第8期に於ける売却土地累計は2,548坪9合8勺を計し、
 尚爾餘の所有土地6万8千7百15坪3合を有しているから、
 ただに土地経営のみを以ってするも、将来に多大の希望を繋ぎ得るわけである。

 ※尚、大阪電気軌道?の資本金は4,572万円、?大林組のそれは500万円でした。

                1932年の本より新地関係の箇所を抜粋

355夕凪:2007/11/03(土) 22:53:19
布施駅北口の お二階売春(1968)
北口に降りて近鉄線に沿って上六の方に歩くと
右側に愛染小路、寿三郎横丁の飲み屋街がある。
明美、大勝、南八、みやこ、三勝、ぶん、仔鹿、宴といった店があるが、
この中の2、3軒の店では女中さんが相手をしてくれると
いうことがあるということである。

この愛染小路から少し奥に入った飲屋街は、ここ以上におもしろい。
江戸川、白山、仲よし、ひばりといった店が並んでいるから、すぐわかるが、
この中の何軒かはズバリが楽しめる。
ビールでも飲みながら、「なんや、下の方がたまりすぎた感じや。
なんとかならへんか」といった調子で交渉する。
「たまり過ぎたんやて、ワー汚な、早よ出したらなあかんわ」と
いった調子で話がまとまればお二階へということになる。
2階は女の子たちの部屋になっているが部屋は狭く、
チョンの間を愉しむのが精一杯で泊まりは無理。
お値段は3千円が相場である。

                   1968年の成人雑誌より

356夕凪:2007/11/04(日) 13:20:50
堺の 小料理屋の お二階で お座布団 (1968)
最近は70年の万国博までに、いかがわしいところを失くそうと取締りが厳しくなった。
その1番大きな被害を受けたのが、チョンの間1,200円というバカ安値で営業していた初島新地。
この春あたりから大々的な取締りを受けている。
初島がダメになった現在、ズバリ地帯としては堺市の龍神新地が面白いと言われる。

龍神新地には赤線が廃止されるまでは数十軒を数える店があって繁盛していた。
一時はその灯も消えたが、すぐアルバイト料亭として再出発したのが、現在数十軒ある店である。

金亭、若の弥、さざなみ、川染、かほる、扇屋と言った店が面白いとされている。
料金はワンセット15分でビール1本におつまみが付いて千円が相場。
お付き合いの方は、座布団を枕にと言う形ではあるが、
そこでやるのはちょっとうるさいから、時間でつけて近くの旅館へ行く方がサービスもいい。

龍神新地とは反対側の山之口には女を世話する旅館もある。
場所は堺ミュージックの前を恵比寿の方にいったバー・ビルの近くである。
ここは有閑マダム、女子学生、ズベ公、グラマー、スマートと客の好みに応じた女を世話してくれる。
もっともこの女たちは龍神新地でお茶をひいた女やアルサロのホステスたちのアルバイト。
旅館備付けの衣裳でサッサッと化けるわけであるが、関西らしい趣向で結構受けている。
お値段は旅館代込みで時間5,000円
                        1968年の成人雑誌より

357夕凪:2007/11/05(月) 23:16:21
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●初島・神崎地区の実態

戦後、阪神電車尼崎駅周辺に、労働者等を対象とした飲食店が出現し、
このうち、出屋敷浮世小路、新天地、杭瀬地区、パーク街、庄下地区に
約150軒のいわゆる特殊飲食店街を形成し、ここに働く従業婦は約500人を超えた。

これら飲食店は、戦後のバラック建て店舗で、風紀上、また子女の教育上好ましくないとして、
昭和27年6月ごろ婦人団体等から反対の声が上がり、
これらの店舗を遠隔地に移転せよとの世論が高まった、
その結果、業者は市内の中心部を避けて空地を物色し、昭和29年9月ごろ、
現在の初島新地、神崎新地の用地を買収し、昭和30年3月ごろから移転を開始した。

昭和31年5月に、「売春防止法」が公布され、昭和33年4月1日から同法が施行されたが、
全国的に法の目をくぐって行なわれる街娼らによる勧誘事犯や、ポン引らによる
周旋事犯は跡を絶たず、また、集娼地の業者が、風俗営業、旅館業等に転業したこともあって、
これらの業者による飲食料金と売春料金を抱き合わせたセット売春が横行する状況となってきた。

初島・神崎地区において「売春防止法」全面施行後は料理屋、小料理店、旅館、飲食店に転向したが、
業者は接客業を下層してセット制で売春させていた。

昭和42年1月には、初島新地では業者149、従業婦564人、
神崎新地では業者144、従業婦537人を数え、
売春形態も、飲食物は提供せず、売春行為のみとなり、
いわゆる空セット制による売春が行なわれるようになった。

??????????????????????????????????????????????????????1985年の官公署の刊行物より

358夕凪:2007/11/05(月) 23:46:46
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●盛り上がる市民運動等

昭和42年5月28日未明に、神崎新地を根城とする暴力団井○組と暴力団日○塾員が、
売春婦の引き抜きをめぐり、けん銃を乱射するなどの抗争事件を発生したことから、
県議会警察常任委員会でも、強力な取締りを推進するよう要望があった。

更に尼崎市民運動推進本部(本部長尼崎市長)においても、環境浄化対策を検討するため、
同年7月31日尼崎市労働福祉会館において、尼崎市長、市議会議長、市民環境部局、防犯協会、
神戸地裁及び神戸地検各尼崎支部長、尼崎税務署、兵庫県尼崎財務事務所、
警察本部保安課防犯課、捜査第四課の各課長及び尼崎市内4警察署長等が会合し、
警察、検察、税務、その他関係機関が連携をいっそう緊密にして継続取締りを行なう一方、
尼崎市民運動推進本部も、市民運動として全面的に協力することを決議した。

                        1985年の官公署の刊行物より

359夕凪:2007/11/06(火) 22:41:01
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第1次売春事犯掃滅作戦(昭和42.12〜昭和43.4)

尼崎中央署及び尼崎北署では、数回にわたり、口頭若しくは書面によって、
両新地の容疑業者、家屋所有者に対し次のように警告した。

ア.新地内から、売春事犯を根絶するまで取締りを継続する方針であり、
  従来のような風俗営業などの偽装営業は許さない。
  したがって売春に関与する営業を考えている者は、
  検挙されて廃業するより、自発的に健全営業へ転廃業を考えてもらいたい。

イ.転・廃業については、組合役員らと相談し、最善の方法をとられたい。
  なお、家屋等は暴力団等には譲渡しないようにされたい。

ウ.環境を浄化するために、昭和43年5月から一層強力な取締りを実施する計画である。

警告後、新地内の業者は、たびたび会合を開き、転廃業についての打合せを行なった。
両新地の業者は、「土地、家屋が売却できれば転出する。」旨の意思表示をしたが、
一方では、脱法的に売春を続けるため、種々の偽装を行い、
取締り状況によっては売春業を続けようとする者もいた。

このため、警告を進める一方、売春契約、管理売春、資金等の提供並びに職業安定法、
児童福祉法違反の悪質事犯について反復して取締りと検挙を行なった。

                      1985年の官公署の刊行物より

360夕凪:2007/11/06(火) 23:11:41
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その1

容疑業者に対して警告を行なうとともに、風俗営業許可を規制したほか、
飲食店営業許可取扱いの慎重を、徴税の厳正等について協力を依頼した。

これら業者は、売春業を廃業し転出せんとする者もある反面、
いわゆる、しもた家を装って売春業を継続しようとする者、
また、取締りの状況をみて、売春業を再開する機会を持つ者も認められたところから、

昭和43年5月1日から第2次売春事犯掃滅作戦を展開すると同時に、
尼崎中央署に「初島新地売春特別取締本部」を、
尼崎北署に「神崎新地売春掃滅隊本部」を設置し、
連日、午後8時から翌日未明まで自動車検問、重点警ら、
立入調査による取締りを実施したが、

9月1日からは、「尼崎地区暴力犯罪特別取締本部」を尼崎中央署に、
同分室を尼崎北署、尼崎西署に設置し、両新地の売春事犯取締本部と連携を密にし、
売春事犯及び粗暴犯等の強力な取締りを推進した。

                     1985年の官公署の刊行物より

361嶋原G:2007/11/11(日) 00:25:34
変われば変わるものなり
こないだ、或る方の全集を読んでると面白い箇所があったので、抜粋しました。

『今の洲崎遊廓は明治21年に本郷の根津から移転したのであるが、根津遊廓であった数百軒の女郎屋中で第一の大店は大八幡楼であった。その門構えは立派で庭園の広い大八幡楼の建築物は取壊さずにあったので、その後幾分の造作を加えて、○○病院となった。

 かつては長夜の睦言に深さ契りを籠め、後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんで羽織を隠し、或いは手練手管の口説を尽くした活菩薩の部屋部屋は、顔色青き男女、気息奄々の病室に化かし去ったのであったが、如何なる事情か、先頃その○○病院も何処かへ失せて見えなくなり、暫くは空家となっていたのに、近頃通りかかって見ると「東京女子高等師範学校第一寄宿舎」という標札があった。

 女郎屋が女学生の寄宿舎になるとは、さても変われば変わるものなり。』

大正6年5月発行某書籍より

名古屋にも病院の看護師寮になってる元妓楼ありますね。外観は全く別な物なのに内装が昔のまんま。以前、扉ごしに見たとき内装が完全なるアールデコ調でした。

362夕凪:2007/11/24(土) 02:09:41
赤線跡を歩く【完結編】 〜続々・消えゆく夢の街を訪ねて〜
木村聡 写真・文、自由国民社発行

「昭和」に想いを馳せる!
懐かしくて切ないと老若男女問わず大人気の歴史散歩ガイドが完結。

レトロ建築・街並み散策の名著が集大成!全国をついに網羅し完結!
熱烈な愛好家の多い永井荷風の小説の舞台=玉の井を巻頭で特集!
遊廓ファン垂涎の巻末付録=「よるの女性街」完全掲載!

A5判 並製 148頁(カラー88頁)
2008年1月刊行予定、予価:本体2300円+税

                    某本屋さんより

363夕凪:2007/11/25(日) 23:58:12
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その2(初島新地)

このような取締りの強化に対して、初島新地内の対象外業者(八百屋、薬局、酒屋等)
有志20人は、連名で昭和43年5月8日、尼崎市長に対し、「遊客が減少し経営が困難になったため、
自動車検問と、遊客に対する職務質問を廃止されたい。」旨の嘆願書を提出。
6月18日には初島繁華街組合が、業者の減少により組合の運営が困難となって
事務員3名を解雇し、同組合事務所は廃止された。

昭和43年10月9日と11月6日には、新地内の業者代表が尼崎中央署長に対し、
「新地内の家屋は、会社又は工場の寮などに賃貸契約して体質を改善するため、
残存する違法営業者の取締りを強化されたい。」旨の要望書を提出した。


                       1985年の官公署の刊行物より

364夕凪:2007/11/26(月) 00:26:28
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その3(神崎新地)

一方、神崎新地では、昭和43年5月6日暴力団日○塾組長及び業者代表4名が尼崎北署に対し、
「健全な飲食店の開業を希望するものがいるので、自動車検問を一時廃止されたい。」旨の
陳情を行ったが、客観的にみて自動車検問の中止はできない旨を回答。

6月10日には新地内の業者代表5名が兵庫県民生部長に対し、「今回の取締り強化を機会に
健全営業に脱皮する。そのため『お茶屋』を経営したいが許可してもらえないか。」
との陳情を行ったが、県当局は、「警察の所管事務である。」旨を回答した。

また、7月15日新地内の対象外業者(理髪店、化粧品商、市場等)代表9名人から尼崎北署に対し、
「客が減少し、経営が困難となったので、自動車検問を中止されたい。
なお風俗営業についても許可されたい。」旨の陳情があったが、取締方針の変更はできない旨回答した。

                         1985年の官公署の刊行物より

365夕凪:2007/11/26(月) 23:33:40
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その4(初島新地)

連日にわたる自動車検問と取締りの強化によって、
初島新地では、昭和43年6月末現在で、休業、廃業及び転業した店舗は90店に及び、
また、売春婦も100〜150人に減少した。
7月になり容疑業者、売春婦は逐次、廃業又は転出したので空家が増加し、
7月末には風俗営業は皆無となり、残存していた飲食店も、ほとんど閉店したため、
初島繁華街組合も組合費の徴収が困難となって解散、
新地内の街灯を消したため、廃きょ同様の街と化した。

                      1985年の官公署の刊行物より

366夕凪:2007/11/26(月) 23:43:22
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その5(神崎新地)

神崎新地では、昭和43年11月6日に、新地を根城とする暴力団の抗争事件が発生した。
売春と暴力の追放を強く要望する世論が高まり、
抗争事件及び売春取締りの捜査体制を一層強化したため、閉店する店舗が増加し、
12月には、若干の容疑業者が、飲食店、しもた家を装い残存するのみとなった。

                     1985年の官公署の刊行物より

367夕凪:2007/11/27(火) 00:16:11
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その6(完結編)

昭和43年5月以来、8ヵ月の長期にわたって、第2次売春事犯掃滅作戦を展開した結果、
当初、容疑業者293、売春婦約1,000人であったのが、
昭和43年12月末には、
初島新地の廃業141、転業3、売春婦も20人となり、
神崎新地も廃業127、転業22、売春婦は25人を残すのみとなった。

                      1985年の官公署の刊行物より(完)

368夕凪:2007/11/27(火) 23:48:44
戸ノ内地区 特飲街の沿革
S27. 尼崎市売春等取締り条例の制定
S29. 市内の業者は尼崎全特飲業組合連合会をつくり、
    南初島町の日東紡績跡地を買収して集団移転した
S30. 初島新地として開業
    初島新地をつくった業者たちとは別に
    難波新地たちを主体とする一団が市の行政措置のかたちで
S30. 戸ノ内モスリン工場跡地に移転
S30. 神崎新地として開業
S31.5 売春防止法の成立
S33.4 売春防止法の実施
S33.4 解散式を挙げる
S37頃 新地解散後もなお業者150、接客婦500〜600人を数える
S42. 市は戸ノ内での特飲風俗営業を禁止する。
    その後、廃業する業者が相次ぎ、施設はその多くが貸工場に転用されている。
    しかし建物の老朽化はかなり進んでいる。

現在、風俗営業業者はなお若干名を残しており、それにともない
風紀・保安・教育環境などの点で多くの課題を提起している。
しかし、業者・接客婦たちの転業・更正については
新地形成の経緯からしても、別途の配慮が必要な問題となっている。


                 昭和50年の尼崎市の資料より(一部修正)

369夕凪:2007/12/06(木) 00:43:33
【 完結編 】 の 赤線跡
●自由国民社のHPによると【完結編】の目次は下記の通りです。

【巻頭特集】『濹東綺譚』を歩く
【巻頭グラフ】赤線残照
【北海道】函館/江差/札幌/小樽/室蘭/旭川/帯広/釧路
【東北】八戸/大湊/浅虫温泉/青森/弘前/鯵ヶ沢/能代/秋田/
????????角館・大曲・横手/湯沢/酒田/山形/福島/郡山/仙台/盛岡
【中部】三国/勝山/小浜/武生・鯖江/宮津・舞鶴/甲府
【瀬戸内紀行】福山…笠岡…鞆の浦…糸崎…因島…尾道…江田島
【特集】京都の赤線跡1983
【巻末付録】よるの女性街・全国案内板

 参考文献の紹介とあとがき
??????????????????????????????????????????以上148ページ


 ttp://www.jiyu.co.jp/BookDB/books.cgi?isbn=978-4-426-10419-1

370夕凪:2007/12/09(日) 01:51:00
市岡パラダイス跡に・・・・・
●大阪市教育委員会のHPによると、
 港新地に近接した、市岡パラダイスの跡地に、
 大阪市文化財顕彰の、建碑建立を検討してるそうです。

○市岡パラダイス跡 (港区)
 市岡土地株式会社が大正14年(1925年)に開業した一万二千坪の遊園地で
 劇場・温泉・動物園や東洋最大という飛行塔などがあった。
 昭和五年(1930年)に閉園したが周辺に商店街・歓楽街が営まれるきっかけとなった。
 ※港新地の指定地許可は昭和2年(1927年)
 ※他にも道頓堀五座跡(中央区)、立川文庫ゆかりの地(中央区)、
  カフェ・キサラギ跡(西区)の、3か所についても建碑建立可能か検討中だそうです。

結論はどうなったんやろ?
それにしても市岡パラダイスって、そんなええもんやったんやろか・・・・・?

371夕凪:2007/12/15(土) 23:53:34
全国遊廓案内
●『赤線跡を歩く(完結編)』の「参考文献の紹介とあとがき」の中で、
  木村聡さんは、『全国遊廓案内』を、下記ように紹介されています。

   発行後まもなく発禁処分を受けて、
   のちに「関東編」「関西編」の2冊に分けた
   改訂版が出たことが知られているが、
   これは貴重なオリジナル版。

●また、ご存知『近代庶民生活誌? 色街・遊廓?』の中で、
 編者の、お一人である林喜代弘さんは『全国遊廓案内』について
 下記の通り解説されています。

   しかし初版本は風俗壊乱で発禁となった。
???? 先日、上下2巻本を古書目録で見かけ、
???? 愛書家の知己に問い合わせたところ、
   それは改訂版との教示を受けた。

以上から、
『全国遊廓案内』は、当初1冊本で発行されたが、
発禁処分を受けた後、改訂版が「関西編」と「関東編」の2冊に分割して、
発行されたと読めるかと思います。


●しかし私の見た事のある、
 2冊本の『全国遊廓案内』の「関西編」「関東編」各々の、
 本文後の広告ページには、「関西編」、「関東編」と並んで、
 「合本(=1冊本)」の広告が掲載されていました。

そこで『全国遊廓案内』各編の発行年等について調べてみました。

 ?『全国遊廓案内』:昭和5年7月3日印刷、昭和5年7月3日発行、上製、定価1円30銭
   ↑『赤線跡を歩く(完結編)』に紹介されていた本

 ?『全国遊廓案内(関西編)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
   並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり

 ?『全国遊廓案内(関東編)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
   並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり

  ※??の箱入りセットあり。セット定価1円30銭

 ?『全国遊廓案内(関東・関西合本)』:上製、定価1円30銭
   ↑ 2冊本の本文後の広告頁より

●はたして?と?の関係はいかに?
 また、改訂版の合本(=?)は存在するのでしょうか?
 ※私は「改定後の合本(=?)」を見た事はありません。
  オリジナル版と言われる本(=?)は、数冊見た事があります。

372k_taii:2007/12/21(金) 21:44:44
こんばんは 1
今回は浜松と豊橋の中間にある新居町と浜松の近くにある磐田に行ってきました。
新居町の方は木造建築を絵で描かれている方のHPでどうも遊郭建築のような絵があったので
観光案内時所に遊郭だった建物があるかどうか確認した後行ってみました。昔、遊郭だった
建物として案内された 小松楼 という建物は日曜日ということもあり、運良く中をみせて
もらえました。でもここは遊郭ではなく料亭でした。なかには戦中、戦後の芸妓さんの写真
や当時の道具などが展示され興味深いものでした。(芸妓さんキレイ!!)しかし、HPの絵
と建物が全然違う。このことを聞いてみるとその建物は半年前に解体され、現在は駐車場
とのこと。残念。現存する関所のすぐ側にそれはありましたが、完全に跡形も残っていませ
んでした。半年前にはこのHPを知っていたのにスグ行かなかったことを後悔しました。

373k_taii:2007/12/21(金) 23:04:18
こんばんは 2
 磐田では、かつての代官屋敷あとに遊郭があったそうなので、観光案内所にその場所を
確認したところ、現在は地番がなく、立ち入り禁止になっているとのこと。地図で場所を
教えてもらい、駅から十分程歩くとその場所に着きました。そこはこんもりと林に覆われた
崖地でした。おそらくかつてはかなりの広さのある場所だったと思われましたが、そこだけ
残った感じでした。もちろん建物は残ってはいませんでしたが、手作りの案内板があり、
かつてそこには遊郭や料亭があり、古い遊郭の写真、赤線時代の建物の転業旅館の写真
(一部、そしておそらく2階の戸袋にあった3枚のコテ絵)があり、さらに遊郭の建物が
あった場所の現在の写真がありました。その写真によると現在残っているのは土台と
なっていた石垣しかありませんでしたが、ここまで見学者にかつての情報を与えてくれる
のはめずらしいと思いました。また磐田にはかつての見附宿(宿場だったところ)にも
遊郭や赤線があったようですが、時間不足(温泉に行ったので)で行くことが出来ず、
次回となりました。もしみなさんのなかに見附宿の赤線、掛川の十九首町、藤枝の赤線
の情報がありましたらヨロシクお願いします。
ですが、

374夕凪:2008/01/04(金) 01:59:28
静岡県中西部(浜松以外)
●料理・特殊カフエー

 相良料理組合(榛原郡相良町)
 藤枝料理組合(志太郡藤枝町登沢)清水楼
 金谷料理組合(榛原郡金谷町金谷河原)
 二俣料理組合(磐田郡二俣町)
 掛川料理組合(小笠郡掛川町小鷹町)叶家・萩の家・壽々喜家
 磐田中泉料理組合(磐田市中泉)
 中川楽園料理組合(磐田市見付中川町)豊本・大栄
 森料理組合(周知郡森町向天方)
 新居料理組合(浜名郡新居町中之郷)清月・み奈?登・錦福(鷲津)

            1950年の資料より

●芸妓関係

 掛川料理組合(掛川市緑町1138ノ※1)
 二俣芸妓芸妓屋組合(磐田郡二俣町吾妻町15※7)
 磐田市芸妓芸妓屋組合(磐田市二ノ宮)
 磐田市中央芸寮組合(磐田市中泉田町13※5ノ1)
 藤枝芸妓置屋組合(藤枝市益津4※8ノ2)

           1956年の資料より

※静岡県の地理に疎いもので、誤りがあるかと思いますが御容赦願います。

375夕凪:2008/01/05(土) 01:24:33
蛍ケ池駅周辺(大阪府豊中市)
豊中方面においては、終戦前までは売春問題は全くなかった。

同地方には伊丹飛行場があった関係より、
終戦後、占領軍はいち早く同飛行場を管理するとともに、
飛行場は勿論その周辺に多数の進駐軍兵士が駐留するようになったので、
これら兵士を相手とするオンリー的な婦女や、
売春婦俗にパンパンの姿が多くみられるようになった。

豊中方面を根城として生活していたオンリー的な婦女や、売春婦らは、
飛行場に近接の豊中市麻田の一帯、即ち京阪神急行宝塚線蛍ケ池停留所を中心として、
東西にある一般住宅や農家に相当高い家賃を支払って間借りし、
はなはだしきは住宅難のため農家の物置まで借りていたものすらあったようである。
こんな関係より一般住宅や農家においては、売春婦らに対して高額で間貸しをして
相当収益を得ていたものもあったようである。

全盛時の蛍ケ池停留所周辺は、進駐軍兵士と散策
またはたわむれる婦女の群れが多数見られるようになり、
なかには白昼露骨な行動に出るものもあり、
また間借りをあいている婦女が、兵士を引入れて売春を行ったり、
売春のために場所を提供する業者もあって、
全盛時は売春業者50軒、売春婦200人位であったようである。

一方また、飛行場の北方豊中市、池田市、兵庫県伊丹市との境界線付近には
進駐軍兵士を対象としてのキャバレー、飲食店などが急激に増設されたので、
ここで働く多くの女給らと兵士との間でも風教上好ましからざるものもあって
青少年に与える悪影響などをおそれ、地元住民の間でも問題となったことすらあった。

                         1961年の資料より

376夕凪:2008/01/06(日) 09:03:19
テキサス大通り(大阪府豊中市)
すべて横文字の看板、歩いているのはアメリカ兵、
しかしまぎれもない豊中市蛍池、戦後に出現した景観だ。

国道から米軍に接収されていた飛行場へ至る道である。
だれが名付けたかテキサス大通りという。

夜な夜な蛍池の街中にはいわゆるパンパンが出没した。
近くの蛍池小学校では、毎日学校長は早朝に出勤して、
あやしげな品物のの処置に努めた苦心談が伝えられている。

            昔の写真集の解説記事より

377夕凪:2008/01/06(日) 12:38:28
静岡県の料理・特殊カフェー
01.伊豆山料理組合(熱海市伊豆山)      02.下多賀料理組合(伊豆市下多賀町)
03.網代料理組合(伊豆市網代町)       04.泉料理組合(伊豆市泉町)
05.伊東料理組合(伊東市)          06.三島料理組合(三島市)
07.大場料理組合(大場)           08.古奈料理組合(伊豆長岡町古奈)
09.長岡料理組合(伊豆長岡町)        10.韮山料理組合(韮山村)
11.土肥料理組合(土肥町)          12.修善寺料理組合(修善寺町)
13.湯ヶ島料理組合(湯ヶ島)         14.下田料理組合(下田町)
15.沼津料理組合(沼津市)          16.冨士料理組合(冨士町)
17.吉原料理組合(吉原町)          18.冨士宮料理組合(冨士宮市)
19.清水料理組合(清水市)          20.清水港料理組合(清水市)
21.静岡料理組合(静岡市)          22.相良料理組合(相良町)
23.藤枝料理組合(藤枝町)          24.金谷料理組合(金谷町)
25.二俣料理組合(二俣町)          26.掛川料理組合(掛川町)
27.磐田中泉料理組合(磐田市)        28.二葉園料理組合(浜松市)
29.中川楽園料理組合(見付中川町)      30.浜松料理組合(浜松市)
31.森料理組合(森町)            32.新居料理組合(新居町)

                           1950年の資料より

378k_taii:2008/01/06(日) 22:46:02
夕凪さんへ
貴重な資料たいへんありがとうございます。ここにある場所を特定するのに1年以上
かかりそうです。東京から比較的近いのがなぐさめです。
 ところで、今回は群馬県の伊勢崎と太田にいってきました。
 伊勢崎は某雑誌で裏風俗の体験記に風俗地域は旧赤線地区に発生したと書かれていたので
駅の交番で風俗店舗のある場所を聞き訪ねてみました。その場所は国道から少し奥にあり、
軽いのから、重そうなものまで20−30軒ぐらいありましたが、その半分は閉鎖されて
いました。肝心の建物は当時のものは3−4軒ぐらいでした。1軒は豆タイルの柱が入り口
の脇にありましたが、グレーに塗りつぶされ目立たなくされていました。
 太田では、伊勢崎のように風俗地区にあると思いましたが、その気配はありません
でしたので、お昼に入ったラーメン屋で聞いたところ風俗地区は赤線があった当時は
田んぼばかりで開発されておらず、駅の出口さえもなかった、とのこと。かつて駐留軍が
いた当時、たくさんのバーがあったところがおそらく赤線のあった場所では、という
ことで、そこに行くと確かにバーが数軒ありましたが、雰囲気はありませんでした。
さらに奥に行くと旅館があり、古い建物が何軒かあるところに出ましたが、そちらの
方が雰囲気がありました。今回は正月で店がどこも開いてなく、詳しい話しを聞けなかった
ので、また再訪して確認したいと思います。

379嶋原G:2008/01/23(水) 14:51:12
或る城下町
 大和郡山は如何にも大和の国に相応しい町だ。柳沢氏15万石の面影を今も濃く残している。赤線地域もその例外ではない。赤線と言うより、旧遊廓という方がピッタリする。古風な三階建ての青楼が、細い路地を挟んで軒を連ね、店の門口には末広とか寿と彫った大きな木の扁額が飾られている。藍地に白で店の屋号を染め抜いた暖簾の影から今にも高尾太夫や八橋太夫が、現れそうなムードであった。

 夜になり、入り組んだ狭い町筋が闇に沈む頃、岡町は遊里の艶めかしさを見せ始める。関西のこうした店の常で女性は店の奥に並び、門口に立って客を引くのは遣手婆さんだが、気に入った女の子を当てようと店の中を覗き込む、その客を言葉巧みに誘い込む遣手、そうしたやりとりに遊びの町らしいスリルがある。10時半、どの店も泊まり客を呼び込むのにおおわらわである。泊まったのは旅館の看板の出た大きな店であった。泊まり¥4500というのを¥3000に値切ってのことだが、二階の部屋へ通され、思わず息をのんだ。三畳の間がついて、本部屋が八畳、床間には古風な掛軸がかかり、花がいけられてある。床柱は黒光りしてるし、天井の桟は漆塗り、時代を間違えたようなムードなのだ。「大したものだね・・・」私が感心するので、「うち、こういうの好きやないわ、なんや幽霊でも出てくるような感じでしょ?」明るい顔立ちの彼女はちょっと肩を竦めてみた。

 檜造り三階建ての建物である。部屋は20くらいあるだろうか。その店に女が4人しかいない。後で判ったことだが、¥4500のいい値をあっさり¥1500も値引きしたのは、部屋が多いため廻しをとれるかららしい。それにしても、建物の大きさに比べて女性が少ないので、シーンと静まり返っている。その上、飛田や松島、初島、神崎などと違って、余り知られていないためか客も少ない。翌朝、窓から射し込む光で目を覚ました時、私はふと目を凝らした。漆塗りの天井、黒ずんだ紅殻格子の窓、それから眠りから未だ完全に覚めきらない私を、大名になったような錯覚へ誘ったのである。

 3年前のことだが、或る週刊誌の取材で関西地方の旧赤線をまわったことがある。その時、奈良市の旧赤線で、「オリンピックがすんだら、売春防止法は撤廃になるんやてね」と、真顔に話す女と会ったことがある。オリンピックが終わっても売防法が撤廃にならなかったのは、御存知のとおりだ。「オリンピックがすんだら・・」と、合言葉のようになって囁かれていた。赤線廃止は外国に対しての見栄のようなものだから、オリンピック終了後は復活する。そして、その日のために既得権益を確保しておかねばならない。誰が言い出したのか、そんな理屈がまことしやかに流布し、取締に抗して、赤線復活の気運は遼原の火と燃え広がっていったのであった。

 大和郡山市は人口僅か4万、昭和29年に誕生した新しい市である。4万という人口も隣接の町を併せたからで、市の中心部は2万そこそこだろう。そんな小さな町であれば、警察が本気で取締まる気になれば、赤線やそこら一溜まりもない筈だが、にもかかわらず堂々と営業しているのは、関西地方一帯に広がった赤線復活の火が、想像以上に根強く根深いからに他ならない。


※「警察が本気で取締まる気になれば、赤線やそこら一溜まりもない筈だが」
と言う箇所について、その約20年後、摘発され壊滅した。

1966年発売の某雑誌より抜粋。

380夕凪:2008/01/27(日) 15:03:50
河内長野の季節仲居
ここには元赤線の長野新地があり、
川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。
“こつまなんきん”で知られたタコツボ女性が4・5人、
宵の口からキャアキャア嬌声を発している。

バーは『京美』『ますみ』『夕亀』『大陸』等があり、
飲屋では『想い出』『あづま』『一五夜』など。

どの店もイッパツ用のオンナが2・3人いて、マツタケ狩りに精を出している。
以前は店の2階へ誘っていたが、取締りがうるさいとかで
最近では店外デートの形をとっている。
ここで面白く遊ぼうと思ったら10時を過ぎて行くとよい。

河内長野はマツタケの産地としても有名で、マツタケ狩りのお客も多い、
そうしたお客を迎えるため、『八○』『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。

この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。
マツタケの季節には河内長野、牡丹のころは長谷寺というように、
季節によってあちこち渡り歩く女たちである。
こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら
季節仲居さんを口説いてごらん。
驚くほど簡単にOKする。

「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・・・・

                      1972年の成人雑誌より


※“河○長○の温泉街”で検索すると、チョットだけ雰囲気を味わえるかも・・・・・
※“こつまなんきん”は今東光原作の映画(1960年)のようです。

381旧赤線族:2008/01/27(日) 15:59:22
貴重な資料を
いつも見せていただいています。
なかなかいいですね。
どれもこれも。
いかんせん40台の人間にはその当時の
面影を垣間見るしかありませんが。
その当時20歳以上なら一度くらい利用したかったですね。

382夕凪:2008/01/27(日) 22:10:50
季節仲居
ジプシーのような季節仲居は、
4月の吉野(桜)→5月の長谷(牡丹)→夏の洞川(参拝)→秋の生駒(風光)
というコースで、観光客を追って移動する。

ところが年間30万人もの観光客がある初瀬だけはこの仲居の一部が土着している。

初瀬には、旅館が全部で13軒ある。生駒同様“料理旅館”と呼ばれているが、
ただ一見して旅館とわかる大づくりのものは4軒ぐらいで、
あとは昔のお茶屋仕立てのちいさな旅館ばかりである。
すべて長谷寺の門前に集中している。

仲居は、1軒の料理旅館に、ふだんで平均4〜5人。5、6月のシーズンに10人ぐらい。
20才台の若い女もいるが、土着化しているのは、がいして30才台以上の年増がおおい。

彼女たちは、ふだん1階の表座敷にたむろしている。
大旅館は別として、ちいさな旅館は土地の表現を借りるなら
「まるで遊郭仕立て」だから、さながら“顔見世”も同じで、
通りすがりの者には、なんとも奇異な感じをあたえる。

このへんの仲居はみな客の背中を流してくれる。
いまどきの観光地にはめずらしく人情が細やかである。
“女上位時代”など、彼女たちには無縁である。

ここには、門前町の古いたたずまい同様、
ふるきよき女の情緒がのこっているのだ。

                40年代の風俗記事より(一部要約)

※過去の書込みを、タイトルだけ変えて再掲しました。

383夕凪:2008/01/27(日) 22:23:06
長野新地 (河内長野市)
楠公遺跡に近く景勝の地であった為、観光料理屋が繁昌したのであるが、
戦後派料理屋、飲食店は政令のため寂れたこともあった。

業者は昔の夢を忘れられ得ず、
季節的の行楽客の多い時の収入によって
辛うじて経営を維持してきているようであるが
一方仲居は大阪、堺などで食い詰つめた三流どころが多く、
収入も少ないので自然に売春を行うようになっていった。

昭和31年初めから、料理屋営業のみに切替を警察の指導によって行われた、
泊り客は減少してきたので、同年11月より青線地帯のリストより除外されたが、
売春法の実施により大阪その他売春婦らが同新地に移行してくることも予想され、
監視は続けられていたようであった。

長野市内には料理店が25軒あって、そのうち「14軒」が点々とあるが、
このうち4軒では従来より売春は行われていないようであったので
売春は14軒中の10軒で、売春婦として働いていた者も約50人位であった。

売防法施行後、長野新地の業者は行楽客等を対象としてきた料理屋として
営業を継続して来たものであったが、
同地方は大阪市内を離れた閑静な地域である関係もあってか、
遊客を相手に売春は密かに行われていたようで、

所轄河内長野警察署では、
昭和31年にかっての売春(青線)地域から除外されている関係もあって、
同地域を売春のない明るい地域にせんと
極力業者並びに従業員を指導して来たようであった。

                   1961年発行の公機関の資料より

※これも過去の書込みの再掲です。

384夕凪:2008/01/28(月) 21:34:08
埼玉県の芸妓屋組合
01.埼玉県芸妓屋組合連合会・・・・・大宮市大門1-40**
02.秩父芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・秩父市本町15**
03.熊谷芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・熊谷市竹原町34**
04.東松山芸妓組合・・・・・・・・・・・・・東松山市大字松山
05.飯能芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・飯能市本町2
06.川越芸妓組合・・・・・・・・・・・・・・・川越市本町2*
07.所沢芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・所沢市本町59*
08.大宮芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・大宮市大門1
09.浦和芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・浦和市仲町1-**
10.小川芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・比企郡小川町
11.行田芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・行田市新町2**
12.加須芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・加須市
13.羽生芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・羽生市

                1956年の資料より

385yutaka:2008/02/01(金) 06:51:31
新刊本
ご無沙汰しております。
ご存じかと思いますが、「赤線跡を歩く・緑本」に続き、また遊所関係の本が発売されましたね。
花街・色街・艶な街 色街編
135p 21cm(A5)
街と暮らし社 (2008-01-31出版)
・上村 敏彦【著】
[A5 判]??販売価:\1,470(税込) (本体価:\1,400)

サイトより抜粋

吉原遊廓盛衰記―台東区
羽織芸者と深川の色街―江東区
品川遊廓と品川海岸三業地―品川区
板橋遊廓の盛衰―板橋区
千住遊廓宿場町と柳町―足立区
新宿二丁目物語―新宿区
根津岡場所から遊廓へ―文京区
洲崎遊廓盛衰記―江東区
迷路の玉の井カフェー街―墨田区
誰が名付けた鳩の街―墨田区:亀戸天神裏の花街と赤線跡―江東区
美人ぞろいの東京パレス―江戸川区
亀戸から移転した新小岩赤線跡―江戸川区
玉の井から流れた亀有の赤線跡―葛飾区
亀戸から移った立石特飲街―葛飾区
武蔵新田の赤線跡―大田区
府中の飯盛旅篭と東府中の歓楽街―府中市
最初に赤線の灯が消えた町調布―調布市
三鷹八丁目特飲街顛末記―三鷹市
基地の町立川の赤線跡―立川市
八王子の花街と田原遊郭―八王子市
赤線の町・福生―福生市

まだ全部は読んでおりませんが、当時の地図、屋号などが記載されていて興味深いです。

また、「荷風!」も今回は池袋、大塚特集。池袋の三業地の古今が特集されています。

386夕凪:2008/03/02(日) 03:55:25
神戸・福原遊廓の成立と展開 (兵庫歴史研究会 2月例会)
演 題 : 神戸・福原遊廓の成立と展開

講 師 : 人見佐知子 先生
     (注)神戸大学大学院人文学研究科地域連携センタースタッフ

日 時 : 平成20年2月10日(日) 13:30より15:00頃まで

場 所 : 兵庫県民会館 1202号室
     (JR・阪神「元町駅」の山側、徒歩7分。地下鉄「県庁前駅」1-2出口)

参加費 : 500円(申込み不要・自由参加)← 会員以外の方も参加OK

主 催 : 兵庫歴史研究会

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神戸で始めて公認の遊廓が誕生したのは、慶応4年(1868)5月1日のことである。
福原遊廓と名付けられたそれは、開港と居留地の開設を契機に設置されたものであった。

〈近代公娼制度〉の本格的な展開は、明治5年(1872)10月2日、太政官布告第295号、
いわゆる「芸娼妓解放令」の公布を契機としているといわれる。

「芸娼妓解放令」以前には、売春統制に対するまとまった法令はなかったが、
それ以後、売春に関する規則が体系的に整備されるようになるのである。

神戸においても同様に、明治5年以降、神田孝平県令のもとで、
福原遊廓を中心に、本格的な売春統制施策が展開されることとなる。

明治初年の神戸における売春統制のあり方は、
全国的にみても非常に特殊な「散娼」政策を実施したことで知られる。
(売春営業の区域を制限しないこと。逆に、売春の営業を特定の地域に隔離することを「集娼」という。)

これは、神戸が開港場であり、
居留地に加えて外国人と日本人が雑居する日本で唯一の雑居地を抱える特殊な空間であったこと、
それを統括していたのが、開明的な政治官僚として名高く、
その手腕を開港場・神戸の運営に発揮することを強く期待されていた
神田孝平という人物であったことと深く関わっている。

本報告では、神戸に初めて誕生した公許の遊廓である
福原遊廓をめぐる神田の政策を中心に考察することで、
開港場・神戸における明治初年の売春政策の特色を明らかにし、
さらに、それが日本の〈近代公娼制度〉の中でいかなる位置にあるかについて論及したい。

????????????????????????????????????????????????   ?? 同会のHPより

387:2008/03/02(日) 04:08:23
秩父の「花街」跡
鷹目さま、皆様、ご無沙汰しております。
もう2月になってしまいましたが、今年もよろしくお願いいたします。

>埼玉県の芸妓屋組合
>02.秩父芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・秩父市本町15**

私の故郷、秩父は、明治〜昭和戦前期に生糸・絹織物の生産・流通で栄えた街で、人口規模に比して、まずまずの規模の花街がありました。

市内を南北に通過する国道140号線(熊谷〜塩山線)の旧道の両側には、つい近年まで、広い間口の取次業者の建物が何軒も残ってましたが、いわゆる「花街」(芸者町)は、旧国道から一段下がった(秩父は河岸段丘上に発達した街)細い道路に沿って細長いエリアです。
私が子供の頃(1960年代まで)には、料亭も何軒かあり、そこそこ賑わっていたようです。
年末帰省したときに、ちょっと思い立ってそのエリアを歩いてみましたが、古い料亭の建物は1〜2軒残っているだけで、しかも廃屋に近づいていました。

ちょっとだけ、ご報告でした。

http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/

388夕凪:2008/03/06(木) 21:53:42
大津
冬は鴨料理で雄琴温泉が、夏は浜大津を基点に湖岸各地の海水浴場が賑わう。
一泊することも多い訳で、そんな時にお色気を求めようとしても、
地方都市のことだけに、一現で穴を掘り当てるのは至難の業といえよう。
雄琴、石山両温泉とも何もないから、夜は浜大津へ出てこなければならない。

トルコ、ヌードスタジオ、ステッキなど見当たらないし、
ストリートガールも立ってはいないから普通のお愉しみコースは、
まず浜町か柴屋町のバーで飲むことから始まる。

前者は新興バー街でいともたやすく夜のデイトに応じるホステスがいるし、
柴屋町にしても旧赤線だから、堅い一方ではない。
店によっては飲食を抜きにして、ホステスに肉体サービスをさせるところもあるという。
芸者はそうした要求にこたえてくれまいから、宴会でまず親しくなって
夜の街へ誘い出そうというのなら、やとなといった方がいい新検芸妓だろう。
これらは、とりたてて看板もあげていないから、旅館の番頭と相談してみるべしだ。

                  1967年の夜のお遊びガイドより

389夕凪:2008/03/09(日) 22:10:55
東の吉原、西の柴屋町 (大津駅)
宿場町、商業の町で栄えると、夜の町花街もにぎわうことになる。
今も健在の柴屋町だ。

柴屋町は俗称、正しくは馬場町(現在は長○三丁目)といった。
いつごろ花街になったかはわからないが、大津城ができ、宿場町になり、
旅籠が並んだころからではないだろうか。
大津には柴屋町のほか、四の宮(京○三丁目)、真野(長○一丁目)、稲荷新地(松○二丁目)と
傾城遊女の町があったが、当時から柴屋町は別格だった。

西鶴は『日本永代蔵』の中で「昼間から三味線のバチの音が聞こえて・・・・・」と書き、
『好色一代男』では、色男世之介がやぼったい格好をしていたため
「格式高い柴屋町で遊ぶ身分ではない」と軽く見くびられるくだりがある。
一時は、お江戸の吉原と肩を並べるほどだった。

『色道大鏡』という粋書によると、延宝4年(1676)の揚代は、天神(または格子)と呼ばれる
ハイクラスな遊女で銀26匁。塩3俵が21匁だった時代、
今流に換算するとウン万円は軽いというところか。

また文化15年(1818)に揚屋仲間・茶屋仲間から出された定書では、
「傾城揚代 金2朱(1朱金16枚で小判1両)局女郎 銭464文」とある。
当時、1両で米が1石7、8斗。塩が1升で32文だったのだから、
柴屋町での遊びは、かなり高くついたといえる。

柴屋町にも花街情話が残っている。「小稲・半兵衛情死」だ。
柴屋町遊廓に富永屋という置屋があり、小稲という遊女がいた。
その小稲に坂本村(大津市坂本)の呉服屋の手代、半兵衛がぞっこんほれ込んで、
商用で大津に来ると通いつめていた。

柴屋町の遊び代は高く、手代の給金では後が続かない、
小稲会いたさに、借金に借金を重ね、ついには店の金まで手をつけた。
進退きわまって、小稲に窮状を訴えたが、10両盗めば打ち首になる世の中、
「私のような物に入れ揚げたばっかりに」と、小稲・半兵衛は心中して果てた ――― 。

柴屋町の名の起こりは、古くから薪売りが多く住んでいたからとか、
花街の女にたきつくす慕情を、火を焚く柴にたとえてとかいわれている。
まだ格子が残る古い家並みをみると、慕情のロマンを採りたくなる。


                        1981年の鉄道旅行案内より

390yuu:2008/03/25(火) 19:14:55
歓楽荘とは??
いつも拝見させていただいております。
某掲示板の”東海地方の遊廓跡を歩く”で 愛知県の赤線跡に歓楽荘 宝飯郡とあります。
自分はどこにあるのか探しているのですがそれに関する記述を見たことがなく途方にくれております。
宝飯郡といえば御油や赤坂が思い当たるのですが。。
少しでもご存知の方がおられましたら、ご教授お願いします。

391夕凪:2008/03/25(火) 23:50:37
二つの觀樂莊
手許の資料では、「歓」ではなく「観」になっていますが、御紹介させて頂きます。

1.三谷觀樂莊(三谷町)
  事務所:宝飯郡三谷町二舗
  ?新高砂?鶴亀?寸樂?銀星?忍?いろは?玉家?一樂?登喜和

2.蒲郡觀樂莊(蒲郡町)
  事務所:宝飯郡蒲郡町大字小江字西梶前
  ?重乃家?久岡?光本?万徳?亀福?浜の家?岩本?浜岡?宝来?月盛

                       1950年の資料より

  ※二つの「觀樂莊」の関係や、存在した期間等はわかりません。
  ※某掲示板の”東海地方の遊廓跡を歩く?”では、
   歓楽荘(宝飯郡)の、組合長の屋号は「一楽」とあります。
  ??私の手許の資料にも「一樂」は存在しますので。
   「歓」は、1946年の資料からの、転記誤りかと思われます。


●蒲郡温泉郷(三河湾温泉郷)の、三谷と西浦の両温泉は、夜のお遊びも盛んで、
 1960年代後半には、なんでも揃うようになった。
 両方ともヌードスタジオがないのは残念だが、
 それにかわる三谷のストリップは豊橋から客がやってくるほど盛ん。
 トルコは西浦に1軒だが、これもまた満足させてくれるほど
 ピンクムードに満ちている。バーは両温泉とも数多いが、
 三谷にはキャバレーまで出現している。
 また、ここの芸者のピンク指数の高さは有名だったそうです。

                  1967年の夜のお遊びガイドより

 ※東海地方の事情に不案内なもので、見当違いでしたら御容赦下さい。
 ※愛知県の特殊カフェーに興味がおありでしたら、
 ??2007年1月27日の書き込みを御覧頂ければ幸いです。

392yuu:2008/03/26(水) 09:55:28
なんと!
夕凪 様
さっそくのお返事ありがとうございます。
なんと觀樂莊は蒲郡のことだっだのですね!!すっきりしました。蒲郡は昔は宝飯郡だったことを始めてしりました。自分は赤坂あたりの宿場町のことを指すのかな〜と早とちりしていました。
二つの觀樂莊とはまたまた驚き。貴重なお話をありがとうございます。

393yuu:2008/03/26(水) 14:35:19
(無題)
先日所用で豊橋に行きました。豊橋といえば有楽&東田仲の町が有名ですが今回は花園町(赤線跡?)を見てきました。愛知県といえばどちらかというと純和風な建物が多いのですが、ここで”魚○×”という懐石料理を専門とするお店を見つけました。この建物が見事なカフェ調様式(鮮やかなタイル&円柱)であり三河地方にもこのような建物があったんだと感動いたしました。その他にも軒灯の残る建物など数件当時のものと思われる建物がありました。
以上ご報告まで

394夕凪:2008/03/31(月) 00:33:24
赤線最後の日から50年
●決議(陳情書)

・・・・・戦争の惨禍は一朝にしてその全域を廃燼と化し
昔日の面影を偲ぶべくもない現状を見た吾々区民の痛惜は又言葉もなし。
然しながら焦土の中にいち早くその再建に着手し現在地に再現を見た松島新地は、
隣接せる九条商店街と互に因となり果となりなりつつ
著々繁栄の礎を築き西大阪復興の原動力としての訳ありを果して来たことは
何人も等しく首肯する処である。

然るに先の国会で通過を見た売春防止法の成立は
全松島をして一年有半の余命たらしめる結果、
其の後に来るもの即ち草茫々たる廃きょである。

今もし松島新地がかかる事態を招来せんか、
九条商店街の衰微は言うに及ばず
遂には西区をして繁栄の素因を失わしめる結果となり、
今後の西区は何を以てその繁栄を期せんとするのか。

ここに於いて我々区民は、かかる悲運を西区に招来するに忍びず、
西区の繁栄ひいては西大阪将来の発展のために、
松島新地をして新しく生きかえらしめ、
健全なる歓楽街として、その存置を希望するものである。

右決議する。

  昭和32年8月25日
   大阪市西区区民大会

 西区発展のために右の趣旨に同意する
   大阪市西区長 ○久○ 勇


●当時、売春防止法の完全実施を阻止せんとして集められた陳情書は400通あまり。
 その内訳は、市町村長63、府県議会長1、市町村会議長37、商工会議所151、周辺商人94、
 自民党支部長25など、陳情書への署名者は、4万名にのぼっていたそうです。


                      1957年の新聞社発行の雑誌より

395嶋原G:2008/03/31(月) 02:56:17
50年経過ということ
売防法実施から、4月1日で50年である。

旧赤線及び旧遊里にある、今も現存している、かつて妓楼であった建物は、
最低で築50年以上経過しているということでもある。

今年は時間があれば色々、探訪してこようと思います。

396夕凪:2008/03/31(月) 22:50:57
第三の歓楽荘
觀樂莊の「觀」の字が「觀」か「歓」かスッキリさせたくて、手元の資料資料を見てたら、
もう1つ「歓楽荘」が出てきました。
なお、漢字は、先の二つも合わせて、いずれも「歓」を使っていました。

  ※名称−業者数−従業婦数−位置 の順

   ?形原歓楽荘−09−26−宝飯郡形原町

   2.蒲郡歓楽荘−10−27−蒲郡市小江町
   3.三谷歓楽荘−10−29−蒲郡市三谷町

?????????????????????????????? 1975年の警察の資料より

  ※所轄はいずれも蒲郡警察署でした。
  ※蒲郡市は1954年4月1日に、蒲郡町・三谷町・塩津村が合併してが発足し、
   宝飯郡より離脱しました。
??????そして、1962年4月1日に、形原町と蒲郡市が合併したそうです。

●この3地域の、距離や位置関係、移動時間等は、どんなもんでしょうか?


 

397夕凪:2008/04/01(火) 23:59:00
売防法全面施行の日から50年
1958年4月から全面施行された売春防止法は、全国で1万5千人の赤線業者と
50万人の従業婦を転廃業せしめ、公認されていた日本の売春形態は「売笑3千年」の
古い歴史を残して終わりをつげたのである。

                   1961年発行の婦人相談員の著作より


それにしても50万人言うたら東大阪市or尼崎市の全人市民が売春婦 !?

それにしても売防法全面施行の日から百周年の時には、
松島、飛田、信太山、今里、滝井、かんなみ、天王等の新地は、あるんやろか?

398鷹目:2008/04/07(月) 00:06:48
インフォメーション
2008年4月6日(日) 第七回定例OFF会のお知らせ

下記日時、場所で開催を予定しております。
 2008年5月6日(火・祝日) 午後5時頃から(予定)。
 滋賀県大津市長等 「相撲料理 神雷」
http://www.geocities.jp/jinrai1961/index.htm

 会費は現在4000〜5000円を予定しております。
 また都合のより変更になる場合もありますのでご了承ください。 酒席の為、次の条件を満たさない方の参加はご遠慮ください。
  ?20歳未満の方

 参加希望の方はこちらからお申し込みください。申し込み番号と共にご返信いたします。?http://form1.fc2.com/form/?id=172867


 変更になった事柄は随時HP、掲示板等でお知らせいたします。また最終確認等のご連絡は、メールで御案内させていただきます。
 なにとぞご了承の程、宜しくお願い致します。

399夕凪:2008/04/12(土) 21:55:54
赤線跡に渦巻く引力 ?
◇全国400カ所を訪ね、建物や町並みをカメラに収める◇ 木村 聡

今年は「赤線」が消えてちょうど半世紀にあたる。
戦前の遊郭を引き継ぎ、戦後、事実上の公娼地区として機能した街は
1957年4月1日施行の売春防止法によって禁じられ、1年の猶予を経て完全に姿を消した。

私は20年ほど前からその跡を訪ね歩き、カメラで記録を残してきた。

▲ ▲ ▲??突き刺さる視線

56年生まれの私は、好きな文学の世界でしか赤線を知らなかった。
学生時代に読んだ野坂昭如、井上ひさし、吉行淳之介らの作品には、
彼らの文章を通し「今は無くなってしまった夢の街」の
イメージを抱いた程度だった。

現実に出合ったのは、ある取材で訪れた神奈川県横須賀市の安浦が最初だった。
足を踏み入れた瞬間、それまでに感じたことのない街の雰囲気に圧倒された。
窓や格子や屋根に飾りを施した、明らかに一般住宅と異なる家々の並び。
派手な街灯。入り組んだ路地。

人をひきつけるための細工を凝らした街は、
建物が旅館やアパートに用途を変えても、不思議と引力を失っていなかった。
これが赤線なのか、と衝撃を受け、資料、書籍を集め始めた。
ところが、全国におよそ千以上あったと推測される街の記録を
体系的に記した資料は一つもない。

働いた女性をはじめ、ある人々にとってはつらい、
忘れ去りたい土地であることを思えば当然だ。
だが、私は誰かが真剣に記録を残さなければならないと思った。
賛否の議論は脇において、存在したものを後世に伝える使命を感じた。

400夕凪:2008/04/13(日) 01:37:04
赤線跡に渦巻く引力 ?
「全国女性街ガイド」「全国花街めぐり」といった、戦前、戦後のガイド本を入手し、
各地に残る赤線跡を400カ所ほど歩いた。
東京・吉原や京都・島原のように有名な色町の取材は難しくないが、
ほとんどの場所では「よそ者」への突き刺すような視線にさらされた。
「何やってるんだ」と怒鳴られたのも一度や二度ではない。

住民の気持ちをふみにじることだけはすまい。
そう肝に銘じてきたから「受け入れてもらえない」と感じると、何も撮らずに立ち去った。
無理に話を聞きだすことも避けてきた。

401夕凪:2008/04/13(日) 22:51:43
赤線跡に渦巻く引力 ?
▲ ▲ ▲??金と性が支配した街

それぞれの妓楼は大きくなく、多い家でも抱えた女性は十人程度。
昼間は芸者が稽古する三味線の音が聞こえるくらいだったが、
夜になると一変して女性たちの嬌声に包まれた。
糸崎は貿易港だったので、外国船が着くと羽振りのよい外国人客に女性はみんなとられて、
日本人は相手にされなかったという。

この地域には、毎日夕方5時になると近所の男衆が「ばんこ」と呼ぶ縁台を持ち寄り、
会話を楽しむ習慣がある。
そんな集りの輪に、父の別の兄弟と幼なじみだった男性がいた。

やはり遊郭にうどん屋を開いていた家の子息で、
37件あった妓楼の名を全部そらんじていた。
港に入れない大型船に女性を運んだり、逆に客を港まで連れてきたりする
「おちょろ船」が糸崎からも出ていたことをその方から教わった。

402夕凪:2008/04/13(日) 23:10:16
赤線跡に渦巻く引力 ?
本物の恋も、欲得ずくの関係もからみあった花街は、数々の文学や映画を生んだ。
だが、行き着くところ全てを支配したのは色と金だ。

良くも悪くも人間にとって根源的な欲望が、ものすごいエネルギーで渦巻き、
消費されたからこそ、跡には一種の磁場が生じたのだろう。

それにいや応なく引き寄せられた、というのが
私が足を運び続けた本当の理由のような気がする。

しかし、その建物や街並みも、取材をしている20年間の間にどんどん壊された。
当初の3分の1は既にないだろう。
ひっそりと壊れつつあった過去の遺物を、私はともかくも記録した。
あとは未来の歴史家に委ねよう。

                 日本経済新聞 2007年3月21日 朝刊

※記事の一部を省略しました。

403楽天地:2008/04/14(月) 23:50:54
旭楽園
遅レスになりますが、蒲郡、形原、三谷は、現在同じ蒲郡市になっており、
それぞれ温泉街があります。

「名も旭楽園と改め」

内務省の風紀上取締策樹立の建前の下に愛知県は公娼廃止断行の決意をかため・・・
〜中省略〜
中村遊廓を全廃し、名称は「旭楽園」とし、娼妓は「園妓」と改め・・・

昭和9年の名古屋新聞記事より

「旭楽園」という呼び名は広まらなかったようですが、これが後の「名楽園」「歓楽荘」
など東海地方独特(?)である呼び名の原型かな、と思っています。

404夕凪:2008/04/16(水) 07:39:35
「歓楽荘」ブランド ― 本家 vs 元祖 vs 初代?
●楽天地さん、蒲郡、形原、三谷の3つの歓楽荘は、
 どんな繋がりがあったのか御存知ないでしょうか?

 あるいは「○○歓楽荘」を名乗る以前はどんな名前だったのでしょうか?

 なんらかの繋がりがないと、同じ「歓楽荘」ブランドを
 使用する事はないと思うのですが・・・・・



●また対抗心のある(?) 尾張と三河で、「○○園」とか「○○荘」とかの
 ネーミングの地域性ってあるんでしょうか?
 ※「○○連」もありますが。

もし御存知の方がいらっしゃいましたなら、よろしくお願い致します。

405楽天地:2008/04/18(金) 21:20:09
ネーミング
夕凪さん

●3つの歓楽荘の関係はよくわからないんです。
地理的に近いこともあり、なんらかの繋がりはあったと思うのですが・・・。

●尾張と三河では特にネーミングの地域性は感じていませんが、岐阜の飛騨地方まで
いくと「○○園」とかは使われていないように感じます。

「○○連」は花街に多かったので、その流れじゃないかと思います。
逆に「港楽園」という花街もあったそうですが・・・。

406夕凪:2008/04/22(火) 00:14:10
『 園 』 の 起こり
楽天地さん どうもありがとうございます。

●『中村遊廓を全廃し、名称は「旭楽園」とし、娼妓は「園妓」と改め・・・・・』と言う
  名古屋の新聞記事が1934年。

 1932年発行の『百万・名古屋』には
??「忽然と、下飯田の原っぱの中に、長屋が立ち並んだ。」との一文があり、
?? その中で「名古屋の玉の井」と言う表現はあっても、
??(他の女性街を含め)『○○園』の表現は見つけられませんでした。

  また一方、1937年発行の『歓楽の名古屋』には
 「東区下飯田町の一地域に城東園があります。」との記述が見られます。

?? やはり、仰られる通り「旭楽園」が『園』の始まりかもしれませんね。
  でも『園』は、どんな縁で登場したんでしょうかネ !?

  もちろん別口ですが、鳥取には『衆楽園』がありますよね !?

407:2008/04/22(火) 13:21:35
京都・五条楽園の現況
こんにちは。

日曜日、京都出張の折に五条楽園を再訪してきました。
東京の新吉原などでは、旧赤線時代の建物が、再開発で次々に姿を消しているので、
心配だったのですが、「浅とみ」の和装女性のステンドグラスも、
アールデコ調の大きな丸窓がある建物も、健在でした。

ご存知の方も多いと思いますが、一応、ご報告まで。

http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/

408夕凪:2008/04/24(木) 23:53:26
大阪の立ちんぼ 1959
【西成区】625人
 ?山王町1・2・3附近(125人)?東西入舟町附近(89人)?東田町附近(65人)
 ?地下鉄動物園前附近(40人)?飛田本通、今池町、甲岸町その他西成区内附近(306人)

【浪速区】411人
 ?市電動物園前及び霞町車庫前附近(30人)?新世界通天閣附近及び劇場前附近(145人)
 ?恵美須町交差点附近(31人)?霞町一帯附近(205人)

【阿倍野区】226人
 ?阿倍野橋々上附近(122人)?国鉄天王寺駅前及び近鉄阿倍野(ママ)駅前附近(64人)
 ?阿倍野市民病院(ママ)及びアポロ座附近(37人)?阿倍野区旭町附近(3人)

【南区】192人
 ?南海難波駅附近及び御堂筋附近(41人)?宗右ヱ門町附近及び難波新地附近(35人)
 ?美人座附近、三ツ寺町ニューパレス附近(39人)
 ?千日前デパート附近及び日本橋1.2.3丁目附近(43人)?歌舞伎座附近及び南区内(34人)

【天王寺区】194人
 ?近鉄上六駅前附近(30人)?天王寺公園内附近(141人)?上六映画館前附近(18人)
 ?天王寺西門前附近(5人)

【西区】26人
 ?松島新地附近(17人)?九条通り附近(9人)

【北区】316人
 ?曽根崎警察署附近(97人)?兎我野町附近(58人)?太融寺町附近(37人)
 ?梅田町4番地附近及び第一生命ビル附近(38人)?大阪駅前及び周辺附近(30人)
 ?読売新聞社附近(36人)?梅田新道附近及び堂山町附近(20人)

【大淀区】14人
 ?長柄国分寺町附近(7人)?新京阪天六駅前附近(4人)?長柄中通り附近(3人)

【その他の地区】31人
 ?市電京橋駅前附近(4人)?港区内附近(4人)?堺市栄橋通り附近(11人)
 ?東淀川十三附近(2人)?松原市内(1人)?吹田市内(1人)?不詳(8人)

 合計2,035人

                  公機関による『売春の勧誘場所別調』より

409楽天地:2008/04/25(金) 22:22:49
『園』の縁
夕凪さん

昭和9年の名古屋新聞には
「廓内廓外の境界を撤廃して名称を『旭楽園』とし、娼妓は園妓と改め
二枚鑑札どころか三枚、四枚で極めて自由で朗らかな享楽の極楽境がこ
こに誕生」
とあります。※要約してあります

・・・おそらく『廓』よりも『園』や『荘』のほうが、自由なイメージが
あったのではないでしょうか。

関西だと「新地」、関東では「パラダイス」や「パレス」など、ネーミング
にも地域性があって面白いですね。

410k_taii:2008/04/27(日) 20:32:04
こんばんは
 久しぶりに関西に出かけて来ました。1日目に篠山、福知山、宮津。2日目に
西舞鶴、東舞鶴、綾部でした。週刊誌で赤線終了50周年の記事がありましたが、
50年たっても一部の建物が残っていること自体、すごいことだと思っています。
 西舞鶴の朝代遊郭跡では、朝代神社から桂林寺まで建物があったみたいで、
千本格子の建物がずっと続いていたとお婆さんは教えてくれました。千野宮神社
をなんとなく歩いてみたところ昭和30年の玉垣(?)があり妓楼、呉服屋、
飲食店、旅館などの名前がありました。妓楼の名は胡蝶、三島屋、松竹、梅の家、
一文字、天橋楼、君の屋、いろは、中徳、藤ひさ、はなふさ、すみ家、国の家、
ふみ家、霞月などがありました。

411夕凪:2008/04/30(水) 00:21:48
想ひ大津の柴屋町 ?
●上柴遊廓(上馬場町)

揚屋の料理人と女郎とが情死したのを当時の作者によって小稲・半兵衛と美化され、
それが広告となって想い大津の柴屋町と謳はるるに到った履歴附きの遊廓で、
重なる茶屋は小島屋、大房、金繁で之についで大芳、富美久、北此、金君、などがある。

小島屋の構造は大阪城落城の当日元和元年5月7日に棟上をしたままのもので
大高源吾閑居の茶室が現存し、北此楼は所謂小稲半兵衛の情死した家である。

老妓としては、上方唄の巧い上田うた(52)、浄瑠璃は男優りの松室喜代助(56)、
長唄とチャリ舞で知られた若山榮吉(48)、踊の堪能な中村あい(42)があつて、
孰れも舞妓からの勤続者である。

名妓といえば年は若くとも谷口富子を推さねばならなぬ。

遊芸の師匠としては踊は藤間都壽、唄は長谷川はな、鳴物は田中忠次郎、
新曲技芸顧問池田百八である。

412夕凪:2008/04/30(水) 00:40:26
想ひ大津の柴屋町 ?
●下柴遊廓(下馬場町)

此廓は明治20年(1887)に上柴から分離したもので喧嘩繁昌すること
江州十一遊廓中の随一なれど芸者なり楼主なり品位に欠く所があって
何となく成金の全盛を見るような心地がする。

茶屋としては、四層楼の島屋、之に次ぐものは夷屋、一富士楼で、
その他は芝居の書割を見るような家ばかりで、

芸者は首を看板にする若い芸者ばかりのうち、唯一人二見あい(52)という老妓があって、
何くれとなく世話をやいて居る。

遊芸の師匠としては踊は岡本きく、唄は磯田きく、鳴物は田中忠次郎、
此廓は稽古が八釜しいので追々腕が出来、上柴の連中と立列べる者もあるようになった。

413夕凪:2008/04/30(水) 01:06:02
想ひ大津の柴屋町 ?
●眞町遊廓

明治初年には長等山麓の寂しい土地でチラホラある家の中に白首の鬼が棲み
順禮宿という名の下に遊里の形を造ったのがそもそもで、
次第に発達し今では上柴に次ぐ江州有数の遊廓となったのである。

大駒楼が飛放れて良く、次に千代の家、可祝楼、玉屋などあり。
其の他はお粗末なのも無いだけに立派なのもない。

芸者は40名以内で相当に芸もあり、老妓に、お人柄な木村八重(38)と、
喧ましやの服部小才(39)とがあって、重忠と岩永のように捌きが附く。

遊芸の師匠としては、踊は小谷はる、唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
此廓に歌舞会なるものが常設され時々月ざらいを演る。

414夕凪:2008/04/30(水) 01:14:35
想ひ大津の柴屋町 ?
●甚七町遊廓(稲荷新地)

大津の東部菊ヶ浜を拓き稲荷神社の附近に遊廓を置いたので稲荷新地という。

24・5名の芸者は隣接せる料亭魚善楼のお蔭で活きて居るようなもので、
茶屋では川上音二郎が久しく食客になって居た俵屋を始めとし、
木村屋、魚友楼など可なり立派なのがある。

芸者は可もなく不可もなき雁首が揃い、
黒田美代吉(38)という老妓が牛耳を取り、
芸に堪能な大辰楼の梅子が若手を引立てて居る。

遊芸の師匠としては唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
踊は当時欠員で、芸者梅子が代理を勤め得意な篠塚派の手振を教えて居る。

415夕凪:2008/05/01(木) 00:22:30
想ひ大津の柴屋町 ?
●花代と祝儀

花代は1本10銭で、1時間を5本とし、最初の1時間には送り込みと称して2本を附加する。
昼夜通し花は75本、之を細かに分けると、午前6時より同9時まで6本、
午前9時より正午まで6本、正午より前1時間を6本とし余は1時間4本の割で追うて行く。

茶屋の口銭は花1本に付2銭7厘、芸者の祝儀は客の意志次第で一定せず、
中には、知らぬ顔の半兵衛もある。

                           1919年の資料より

416夕凪:2008/05/11(日) 23:59:37
上馬場・下馬場の穴場
国鉄大津駅から北西に約1?“三井の晩鐘”で知られる三井寺の麓あたりに、
細くゆるやかな坂道に沿って、バーや小料理屋がぎっしりと並んでいる。

ネオンこそ華やかだが、どこかしっとりとしているのは、
この場所が、もとの遊郭で格子のある家の形そのままで
飲食店営業をしているからであろう。

古い造りの建物に、横文字のスナックやクラブの看板があるのは、
奇異なものだが、しかし慣れてしまえば、
それもまた大津独特の風情と感じられて面白い。

この街には、もう一つ結構な趣向がある。
T江姉さんから聞いたのだが、
大津ではお座敷に上がらなくても、芸者が呼べるのである。
ホステスよりも安くつき、その場の“自由恋愛”も腕次第でOKというから、
まさしく男性天国。

                     1970年の男性週刊誌より

417k_taii:2008/06/16(月) 23:06:38
こんばんわ
今回は韓国の釜山にあった牧島遊郭に行ってきました。現在の釜山市街の海をはさんで
反対側の影島にあった遊郭で、南浦洞駅から徒歩20分ぐらいの橋を渡ってすぐの場所
ありました。ある方のHPには50−60メートルの小道の両側に10数軒の建物が
あったなか、2軒の日本式家屋(つまり遊郭)が残っているとのことでしたが、現在は
1軒が取り壊され(より日本家屋の特徴が多い建物、ここ3ヶ月以内に取り壊された様子)
、通り側から見て日本式家屋の面影がまったく無い建物(裏側から見ると日本式家屋に
見れる)は残っていました。牧島遊郭は終戦後、日本人が引き上げた後も遊郭として
営業を続け400人前後の女性が働く私娼街(1948年?公娼制度廃止)として有名
でしたが、1960年末から1970年にかけて浄化され(?)現在は色町としての
痕跡はまったくありませんでした。ただ他の場所は区画整理されていたのに対して、細い
道が2本あり、色町の特色を残していました。牧島遊郭の周辺には軍慰安所があったとの
ことで、周りを歩きますと、何軒か日本家屋が残っていましたが、1本外れた通りに
それらしい建物は1軒だけでした。

418dai:2008/06/23(月) 22:03:51
北の都
はじめまして。
初めて書き込みさせていただきます。
以前から拝見はさせていただいておりました。

私は大阪在住で最近遊廓巡りに目覚め、関西をはじめウロウロしだしました。
なんとも情緒があり、建築のすばらしさや、近辺の雰囲気に酔いしれます。

一つお尋ねしたい事があります。
以前に竹内真理子さん著の「昭和遊女考」「鬼追い」などを購入し、昔遊女さん
がたの辛い物語に胸を痛めました。

この本に出てくる「北の都」なる遊廓は、あるサイトでは仙台と言う事を見た事
がありました。しかし他の遊廓の話もあるのでは、とも思うのです。
仙台は空襲で焼けた筈なので、なんか話が合わないとも思います。
勿論戦争以前の内容が多いのですが、戦後のアメリカさん相手の話も出てきます
ので、???と思うのです。

この「北の都」とは仙台の遊廓なのでしょうか?
よろしくお願いいたします。

419:2008/06/28(土) 01:08:17
Re.北の都
浅学な私が、お返事するのもどうかと思いますが・・・。

竹内さんの一連の著書の聞き取りは、
仙台市小田原にあった新常盤町遊郭がメインだと思います。

ただ、おっしゃるとおり、この遊廓は、戦災で全焼し、
一斉廃業したはずですので、
戦後の赤線時代の話は、別の場所かもしれません。

http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/

420:2008/06/28(土) 01:12:48
横須賀・皆ケ作、安浦近況
5月に横須賀に行く機会があり、皆ケ作、安浦の近況を見てきました。
皆ケ作は、部分的にですが、再開発が進行中です。

よろしかったら、下記のレポートをご覧くださりませ。

「旧赤線地区、横須賀・皆ケ作を訪ねる」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200805120000/
「旧赤線地区、横須賀・安浦を訪ねる」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200805120001/

http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/

421dai:2008/06/28(土) 21:22:01
Re.北の都
順子様、有難う御座いました。

やはりそうですよね、仙台は戦災で全滅状態だったと聞きました。
とすると福島県会津方面の話が濃厚と思えます。
物語は昔遊女さん方の語りで、本当に心が痛みます。
当方がどうのこうのと言う立場ではありませんが、ひどい時代だったと感じます。
今の風俗関係の女性方も、形は変われど同じ境遇なんでしょうか。

仙台の常盤町、小田原遊廓は、ネットで古写真を見かけますが、かなり豪華で大きい
遊廓だったんですね。




形が変わってますが、今でも風俗などではそんな感じなのでしょうか。

422夕凪:2008/07/03(木) 23:49:06
幻の 『 全国花街めぐり (後篇) 』 −出版予告より−
(前略)しかし後編の一大特色 ― 興味の中心は、なんと言っても、朝鮮・臺灣以下
植民地の新花街を収めんとするところにあるであろう。

日本の遠征美人に交じって活躍しつゝある朝鮮美人、支那美人、露西亜美人、臺灣美人
などの華やかさと、内地とは全く異なった花街風景及びその情緒である。

○後篇に入るべき主なる花街

 朝鮮:京城。平壌。釜山。新義州
 満州:大連。旅順。奉天。― ハルピン。
 臺灣:基隆。臺北。
 樺太:豊原。大泊。眞岡。
 支那:島。天津。北平。上海。

※後篇の予告から“外地”関係を抜粋しました。“内地”分も含め惜しいです。

423夕凪:2008/07/06(日) 01:20:10
むかしや三十石 今京阪電車
● 正調 橋本音頭

1.再興五十年 橋本くるわ
   祝ひましようよ 祝ひましようよ
  はれやかに ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

2.むかしや三十石 今京阪電車
   通う御客の 通う御客の
  氣はひとつ ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

3.一度おこしよ 橋本くるわ
   白い御手てが 白い御手てが
  ちよいとまねく ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

4.男だてなら あの淀川の
   水の流れを 水の流れを
  止めて見よ ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

5.水の流れは 止めよで止まる
   止めて止まらぬ 止めて止まらぬ
  はしもとへ ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

6.橋本見るよな 眼鏡があれば
   かわいお方に かわいお方に
  もたせたい ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン

7.空に神風 地に双葉山
   ともに人氣は ともに人氣は
  はしもとへ ドオコイショー
        キナヱ、アノヱー、ドンドン


  ※木曾節作り替
               1937年の資料より


(参考)ttp://www.kcat.zaq.ne.jp/akagawa/yawatasi/ondo/ondo.htm


※橋本遊廓については2006年12月頃の書込み等を御参照下さい。
※“正調”の語句は御愛嬌です!? もちろん歌詞はホンマモンです。

424夕凪:2008/07/06(日) 18:51:11
開港場・神戸と明治初年の売春統制策
●こんなんありました。

下記のサイトで、明治初期の福原遊廓の成立と展開に関する
人見佐知子さんの報告を見る事ができます。

ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000033.pdf

425黄線:2008/07/10(木) 01:06:26
雑居地・神田孝平知事
港町・神戸は明治初期、一時期といえど”散娼化制度”を採用した独特の街です。
下記リンクを読むと新開地・神戸の特異な空気が読めると思います。
http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont08/cont08.htm

426夕凪:2008/07/31(木) 23:52:12
住吉大社 夏越の祓(再掲)
●名越女の記念帳を成すにあたりて

 抑も我が住吉新地の開発は大正11年5月5日、
菖蒲帷子風薫り、浅沢沼の杜若ゆかりの色も類なき、
目出度き端午の日にそありける、

かくて年と共に発達し、席貸料理屋の数も加はり、
南大阪の人気を茲指定地の一角に集め、
芸妓舞妓に美人あり、妓昌の向上やむ時なき勢ひとなりたり、
これしかしながら挙廓一致の力とは云へ、
まさに驚異に値すと餘品たゝへも無理ならず、

されど新開の地なればこそと云ふ重き行事もなきに
占部寺岡正副取締以下議員役員の面々、
何をかふところの賑わひともなりぬべき事をこそと
思案し居たる折から昭和4年7月30日、
住吉大社にて名越の祓再興の事ありたり(以下略)

※本書には住吉新地の席貸料理屋、芸妓等の写真多数あり

427鬼塚ハム彦:2008/08/30(土) 15:36:56
なんとおいやしてもすきどすえ
●祇園
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=qsgQ2aJ0TIk
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=TCE7TNV1Hf4
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=ZvMpuAntnQo
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=gdPPTDqRAfI
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=2AzIQFzqy34

●祇園東
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=dMFlxJfxy3s
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=NuC1WZbtb6g
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=m3gd5K_TO80

●先斗町
祇園小唄〜鴨川小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=rebiXeM7h50

●宮川町
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=FRPRWZLXlI4
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=Stb2XWP2x70
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=BOQ2S2oXHkQ
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=q9Hn6Njp29o
祇園小唄(三人)
http://jp.youtube.com/watch?v=3kWUd4cvglk
祇園小唄(三人)
http://jp.youtube.com/watch?v=3gFV3yVlr58
祇園小唄〜宮川音頭(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=q_eyllj2blQ
宮川音頭(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=6cdUrDpLryE
宮川音頭(三人)
http://jp.youtube.com/watch?v=s0trQJdoKh0
宮川音頭(京おどり)
http://jp.youtube.com/watch?v=AV7gqIUtW6Y
宮川音頭(京おどり)
http://jp.youtube.com/watch?v=MbdVvZKGSXk
宮川小唄??
http://jp.youtube.com/watch?v=LL3PJSALK3c

この他にもいろいろおまっせ。

428k_taii:2008/09/07(日) 22:24:10
こんばんは
今年の夏は今日を含め3回、赤線跡を旅してきました。
1回目は宮城県 鳴子。鳴子温泉駅を出て右。仙台に米軍がいた時は繁盛し、店も
たくさんあったそうですが、撤退した後は寂れ、緑本では3軒。現在は名残なし。
2回目は広島から京都。特記するのは呉の音戸遊郭跡。廓の入り口に 開廓記念碑あり。
2軒残っている可能性あり。五代夏子の 風待ち湊 の舞台。確かに背伸びをすれば
音戸の瀬戸が見えそうでした。
3回目は埼玉県 秩父。場所は古い埼玉新聞におおまかな場所が書いてありましたが、
残っているとは思っていませんでしたので、探していませんでした。しかし某HPで
写真がありましたので速攻で調査。新聞にあった場所(おそらく)には名残はなし。
お稲荷さんがあって、芸妓組合と料理屋組合からの寄付の額はありました。すこし
離れた場所に妓楼1軒。入り口の上に色ガラスの組み合わせ飾り。屋根の上に猫の飾り
あり。道をはさんで隣に芸妓置屋か料亭の建物あり。この2軒はすばらしい。
昭和3、4年には埼玉でも1番繁盛していたそうですが、昭和5年にはカフェーが
大流行(なんと53軒出来た)し、客足はバッタリとおちたそうです。つまりカフェー
で遊郭と同じことが出来た(?)のか。

429ぼわぞー:2008/09/09(火) 12:48:09
秩父
k-takaさん、はじめまして(?)。
秩父の遊郭は私も3年ほど前に行ったことがあります。
事前に調べていなかったので、地元の人に聞きました。
繊細な造りの、うつくしい建物がありましたが、
K-takaさんがご覧になったものと同じでしょうか?
ゆるやかな坂の下にあり、夕暮れの家並みから三味の音が聞こえてきそうでした。

書き込みを見て懐かしく思い出しました。

430k_taii:2008/09/10(水) 22:40:34
ぼわぞー さんへ
たぶん同じ建物だと思いますよ。あの建物の屋根にまねき猫があったのに気づき
ましたでしょうか?大変かわいかったです。あのガラスもきれいでした。内側から
見てみたかったです。ちなみに秩父特飲街の歴史は(埼玉新聞によると)大正8年
開設、建物は25軒(従業婦80人)。最後は13軒(14人)だったそうです。

431夕凪:2008/11/01(土) 13:37:27
二葉新地の由来
昭和20年3月16日の米軍の大空襲により福原、新川の遊廓が廃燼と化し、
両遊廓の業者は当時県当局より

 1.神戸市灘区敏馬(みるめ)町
 2.神戸市長田区丸山町
 3.神戸市長田区二葉町5丁目

の 3地区に移転方指示を受け、敏馬に多数の業者が移転したが、
同年5月の空襲により再び焼夷弾の攻撃を受けたので、
神戸市葺合区春日野道地区が更に追加移転先として指定された。

敏馬地区の空襲時迄、長田区二葉町に移転するものは見受けられなかったが、
昭和20年5月中旬頃から焼出された福原新川(敏馬を含む)業者50余軒が
長田区二葉町5丁目の花街(御茶屋芸者雇仲居)に遊廓を移転開業したので、
戦前栄えた花街は衰微し、雇仲居倶楽部は解散、芸妓は減少の一途をたどった。

売春業者は移転後数年間は、相当栄えたが、地元の産業の経済的変動も手伝ってか、
一時三百数十名を数えた従業婦も昭和32年4月現在業者43軒、
従業婦百十名位に減少し昭和33年3月中旬業者は解散した。

                         昭和34年3月の資料より

432夕凪:2008/11/20(木) 00:12:10
春日野新地の由来
春日野附近の商店街は、戦前市の東部にある繁華街として隆盛を極めていたのであるが、
戦災によってその様相は一変し、同商店街の復興も交通機関その他、地理的条件など
特異性(※)が失われ遅々として発展せず、

それが為関係者にあっては
商店街の発展策について種々と具体的な検討を加え鋭意努力を続けていたのであるが、
其の後次第に区内の西方地区に奪われる状態となり、益々その必要を痛感し、
商店街有力者間にあって、同地の発展の為、客の吸収策として歓楽街の設置を考え、
特に、附近の川崎、神鋼その他工場の従業員を対象とした特飲店街を開設することを発議し
昭和27年7月1日料理屋営業の許可を受け、
業者9軒、従業婦40名を抱え青線地区として開業した。

開店当時は客の出入りが頻繁であり、商店街の発展に効果をもたらしたものであるが、
その後経済界の不況と売春防止法の施行により営業も逐次、衰微の一途をたどり
全業者の転廃業し新発足することになり、
昭和32年3月25日解散し26日一斉閉店の上従業婦の更生、
その他の処理に従事することとなり、この業界も終幕をつげることになったものである。

                           昭和34年3月の資料より

※阪急は、今では三宮まで乗り入れていますが、当時は王子公園駅のあたりから
 今の原田線にそって線路が伸び、「上筒井駅(神戸駅)」が終点となっていました。
 大阪方面からの客は当時ここまで伸びていた市電に乗り換え、市街地へ向かったのです。
                          (神戸市中央区のHPより)

※ttp://www.tokyo-kurenaidan.com/tanizaki-sasameyuki-5.htm

  神戸大学(旧神戸商業大学)の葺合から六甲台移転は1934年、
  関西学院の上ケ原移転は1929年でした。

433夕凪:2008/11/03(月) 13:09:15
春日野・二葉、そして福原 (過去の書込みより)
●青線 春日野新地 (神戸市) 2007年 6月16日(土)

 青線春日野新地は、昭和27年7月、戦災で大きく変容した春日野商店街の一隅に誕生した。

 当時、業者9人が、料理屋営業の許可を受けて、接客婦40人をかかえていた。
 この地域は附近に多くの大中工場をひかえ、その従業員を相手に、相当繁盛していた。

 こんな実情だったので、業者は、(売春防止)全面施行の直前まで売春を放棄せず、
 施行前夜の33年3月31日に至ってやっと閉鎖した。

 その結果、旅館・・・3、飲食店・・・3、料理屋・・・1、金融業・・・1、住宅・・・1、計・・・9の転廃業をした。
 なお転廃業に根強い執着をみせたので、取締当局はその後の動きを見守っていたが、
 現在まで売春事犯は1件も出ていない。


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●赤線 二葉新地 (神戸市) 2007年 6月26日

 ■戦災を受けた福原の業者の一部40余人が、昭和19年(1944)に移転し、
  この特飲街を開いたものである。

  この地の業者は、福原が戦後に新旧業者の混成であったのと異なり
  伝統を持つ業者の集合体として、組織も強固で、統制のとれた営業を続けていた。

 ■33年1月には、業者43人、売春婦102人、引き手44人がいたが、
  法全面施行前の3月15日、一斉に店を閉じた。

  そして料理屋・・・19、飲食店・・・8、旅館・・・4、間貸・・・4、住宅・・・4、カフェー・・・1、
  鉄工業・・・1、お好み焼・・・1、売却・・・1、計・・・43の転業を行なった。

  その後、株式会社機構のパレスモード会と称する派遣仲居制のようなものを始め
  一時は業績も上がっていたが、警察の取締を受けて2、3の業者が検挙されたため、
  自発的に解散する事になった模様である。


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●赤線 福原 (神戸市)2007年 6月28日

??■福原が遊郭として許可されたのは古く明治元年5月のことである。
  その頃は、現在の東川崎町宇治川尻にあり、
  明治3年6月鉄道敷設のため今の所に移転した。

  それ以来発展を続けたが、昭和19年3月17日の神戸大空襲で全焼し、
  この地域の業者は、長田区二葉町と丸山町方面に移った。

  戦後、福原復興が着手され。
  旧業者も帰り、また新しい業者も加わって、再び隆盛していった。
  ただ二葉町に移った業者は、そのまま残ってそこに新しい特飲街をつくった。

 ■昭和33年1月現在における福原の状況は、業者251人、売春婦685人、引き手290人の
  多きを数えていた。
  これを業態別にみると、料理屋145、旅館71のほか、無許可35があり、
  これも半ば公然と売春業を行なっていた。

  この地域は昭和33年3月15日、売春防止法の全面施行を見こして閉鎖された。
  その結果は、旅館・・・83、料理屋・・・66、住宅・・・32、カフェー・・・19、小料理店・・・18、
  飲食店・・・10、間貸・・・5、お好み焼・・・4、貸店舗・・・4、キャバレー・・・3、質屋・・・1、
  理髪店・・・1、遊技場・・・1、芸者置屋・・・1、トルコ温泉・・・1、ヌードスタジオ・・・1、
  家主へ返却・・・1、計・・・251で、きわめてバラエティに富んでいた。

 ■最近、福原が再び赤線化しているとか、暴力の町になっていると言った風評もあるが、
  実情はそれほど悪化してはいないようだ。
  ただ一部の悪質な業者があって強引な客引きをしたり、
  暴利を貪る行為をしているのは事実である。

  そこで、去る3月6日この地域の料理屋旅館、飲食店等の350人の業者が集って、
  汚名挽回の総決起大会を開いた。
  そして明るい町づくりに総力を結集する事になったので、今後の福原は、
  この努力によって次第に健全さを取戻す事だろう。


いずれも兵庫県発行の1959年の資料より(下記資料とは別の資料です)。


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>夕凪さん

 戦前から二葉町の花街のあったエリアに福原の業者が崩れ込んできたんでしょうか?
 そこのところがちょっと調べてみたいところです。


 下記資料を見る限り御推察の通りでしたね ・・・・・

434MARU:2008/11/06(木) 21:44:10
なんでしょうね、、、
最近は、こんなゲ-ムも出ているとは、、、
赤線街路 ~昭和33年の初雪~

435鷹目:2008/11/19(水) 14:23:15
RE:なんでしょうね、、、
>MARUさん
 お久です。タイトルをググッテみました。2007年の作品みたいですね。ゲームまで静かなブームが広がっているとは驚きです。

436MARU:2008/11/20(木) 20:47:47
どうも
鷹目さん、購入してみました。まだ終わらせていませんが、
ヒロインのお店のデザインは玉の井のメリヤス工場ですね。<赤本42ペ-ジ>
制作側はネットで「赤線」で検索して資料集めをしたようですから
こちらも覘かれたことでしょう。

437T-レッド:2008/11/20(木) 21:38:00
暴走
伝言板も覗かれたんでしょうか・・・・・ちょっと心配です。


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