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掲示板が新しくなりました。
57
:
佐藤 公則
:2023/05/23(火) 21:57:22
nishiyanさんへ
投稿へのお礼、お知らせいただいたことへの当方の対処、反応などのご連絡が
遅くなったことに対して先ずはお詫び申し上げます。
錯覚から始まっています。投稿文に付く番号、今回は「56」番だったわけです
が、どういうわけかずっと既読済みと思い込んでいました。
文章をアップするたびに正しくアップされたかを確認します。その際、いつも
メインページにある掲示板をクリックして新規の投稿があるか確認します。自分
では番号を覚えているつもりでいて、同じ番号だったら既読と判断してメインに
戻ってしまいます。自分では「56」まで既読だと勘違いしていて結局今日までや
り過ごしてしまいました。申し訳ありません。
今日、ブログの方では画像の付いた詩が掲載されていたので、もしかするとこ
ちらにも転載してくれているかもと確認したところ、「56」が未読だったことが
判明したという訳です。遅ればせながら、おすすめの松岡祥男さんの文章も急ぎ
拝見させていただきました。
松岡さんの文章については何の文句のつけようもないと感じました。レベルの
違いはもちろんのこと、吉本さんの文章を精緻に辿って読み込んでいるのはすぐ
に分かりますし、吉本思想の理解という点でも広さといい深さといい随一だとい
う気がしました。なんと言いましょうか、ぼくなんかは吉本さんの数ある発言の
うちでも、「価値ある生き方はごくふつうに生きるところにある」という言葉に
すがって、そうしてそれを頼りにやってきたところがあります。吉本さんの一番
コアな部分は本人が切り開き、また多くのよき理解者たちがいて、その方たちが
さらに拡張していくのだろうと考えています。そうしてそういうところはぼくの
任ではないと、だいぶ以前から認識しているところです。ただ、それはそれで片
足は生活に、もう片方は知識にと、どっちつかずの中途半端さが悩みの種ではあ
ります。こんなぼくから見ると、皆さんすごいと思いますし、すごい人たちはい
っぱいいるんだなと思います。そこにはnishiyanさんもそんな人たちの中にいる
訳ですが、それぞれに極めて欲しいものだと心からそう思っています。
長くなりました。舌足らずで何も言い切れていない気もしますが、今日はこれ
くらいで終わりにしようと思います。
大変失礼しました。また貴重な情報をいただきありがとうございました。
それから、おいしいキーウィの実に育ちますように宮城から祈っております。
58
:
nishiyan
:2023/05/23(火) 23:10:17
わざわざgooコメントで知らせていただき、ありがとうございます。
松岡さんの切れ味をわたし以外の人にも味わっていただきたいと
思いお知らせしました。
人間世界の内では、評価してあれこれ優劣を付けたりすることは「普通」
になっていますが、人間界を超えた(大自然も含めた)視線からすれば、
わたしたちは誰もが極微小な明かり。人間界の内に日々あってもそのことは
忘れないでいたいと思っています。
以下は、朝日新聞2023.5.21に載った谷川俊太郎の「いのち」という詩です。
谷川俊太郎91歳の作品。帰りがけの詩になっていると思いました。
いのち
ある年齢を過ぎると
どこも痛くなくても
体がぎごちない
けつまずいて転んでから
それが分かり
体は自分が草木と
同じく枯れてゆくと知る
人間として
社会に参加した
忙(せわ)しない「時間」は
悠久の自然の「時」に
無条件降伏する
落ち葉とともに
大地に帰りたい
変わらぬ夜空のもと
言語で意味を与えられて
人生は素の生と異なる
己が獣とも魚とも鳥とも違う
生きものなのを
出自を共にしながら
人は誇り
人は恥じる
59
:
佐藤 公則
:2023/05/24(水) 21:50:27
谷川俊太郎さんの詩「いのち」転載していただきありがとうございます。読ませ
ていただきました。味わいがありよくできた詩だなあと感じます。3連ともそうで
すが、総じて、余計な一言を押さえているところがいいですね。そのことがかえっ
て詩の世界を大きくしているような気がします。
ちなみにぼくは谷川さんの詩はあまり読んだことがありません。昔から谷川さん
の詩は女の人がよく話題にしていて、嫉妬心から余計に遠ざけていたような気がし
ます。あるいは、なんか物足りなく感じるところがあったせいかもしれませんが、
それはたぶん変な生臭い倫理性を排除しているようなところに物足りなさを感じて
いたのだろうと思います。その頃からずいぶん月日が経ちまして、今回の谷川さん
の詩の言葉で言えば、
言語で意味を与えられて
人生は素の生と異なる
ことが少し理解できるようになりました。もちろんまだまだ浅いところで右往左往
しているようなものですが、自分なりに頑張ってみようと思っています。
今日はこの辺で失礼いたします。ありがとうございました。
60
:
nishiyan
:2023/06/03(土) 20:18:55
https://i.postimg.cc/mZPDd7YQ/tuchisi-21.jpg
土詩 #21
それでも人には
水栽培できないか 空気栽培はできないか
と踏み入り試みる者たちがいる
61
:
佐藤 公則
:2023/06/04(日) 07:35:15
〈土詩 #21〉の転載投稿ありがとうございます。
人は求めすぎ、考えすぎる気がします。誰かがそれをするとその影響を受けて、
また誰かが新しい何かを求め考える。よいことも悪いことも、その流れの中では
一緒くたに進んで行きます。月並みなことを言えば「運命的」ということになる
でしようか。
昆虫は環境に対応するのに、遺伝子レベルで対応するために幾世代もかかって
対応するんだそうです。人間はそれを頭で行う。早く対応するという利点がある
そうです。でも利点には欠点も伴うでしょうから、どっちがどうとは言えないで
すね。
今日はこんなところで失礼します。
62
:
nishiyan
:2023/07/01(土) 23:27:19
https://i.postimg.cc/4Nv97fHR/tuchisi-22.jpg
土詩 #22
この大地にいるかぎりは
土との付き合いが薄くなっても
土がなくなることはない
63
:
佐藤 公則
:2023/07/03(月) 21:13:55
nishiyanさんへ
〈土詩 #22〉の転載投稿ありがとうございます。
gooブログ(「回覧板」)での毎日の更新ご苦労様です。
たまたまですが、私も最近毎日更新するみたいな形になって、ただそうして
みるとどうしてもずさんになったり、その場しのぎになったりしてしまってい
る気がします。nishiyanさんは長くやっている訳ですが、そんな時の対策みた
いなことはあらかじめ考えて、何か実践していることなどあるのでしょうか。
差し支えなければ、その辺のことを教えていただくとありがたいです。ちなみ
に今の私は、毎日更新することを特に意識していませんで、なんとなくそうな
ってしまっているだけで、逆にここまで来ると止め時が難しくなったという感
じも生じてきています。なので、明日辞めてしまうかもしれませんので、本当
にさらっと言えそうな範囲のところでお願いできればと思います。もちろん時
間があればの話ですし、無理がなければの話です。
いつもお願いしてばかりで恐縮です。では今日はこれで失礼します。
64
:
nishiyan
:2023/07/04(火) 00:34:30
佐藤さんへ
別に大層な対策を持っているわけではありません。時には、これ少し気に入らないなと言うこともありますが、それでもそれでUPすることがあります。
一応のやり方は、一日前に書き上げて次の日にもう一度見直し手入れしてUPするようにしています。やっぱり、前日のそのままではなく手入れすることが多いです。時には、意識的にでもありますが、即興詩として、当日に書き上げたときも数回ありました。
それから、以前はあるテーマで何回か書いて、次には別のテーマで書くというようにしていたと思いますが、最近の「対話シリーズ」では連歌を意識して毎回ある程度のつながりを考えながら書いています。
参考になったかどうかわかりませんが、こんな感じで書いています。
2023.7.4 諫早より
65
:
佐藤 公則
:2023/07/04(火) 23:23:22
nishiyanへ
早速貴重なお話を伺えてうれしいです。ありがとうございます。
やっぱり手入れしてるんですね。そうですよね。それくらいの余裕がないと
駄目ですよね。私の場合は最近は特に即興になってしまって、見直しもせずア
ップしてしまっています。
一日前に書き上げて、次の日見直してアップする、そういう時もあったんで
す。それだとたしかに気分的に余裕もありました。nishiyanさんのやり方を参
考にしてやってみます。テーマについては少し先延ばしにします。
ありがとうございました。
66
:
nishiyan
:2023/08/02(水) 14:34:06
https://i.postimg.cc/j23hzcf8/tuchisi-23.jpg
土詩 #23
土と共に生きる人もあれば
土の物語を究明する人もいる
そして土とは無縁に見える大勢がいる
註.先日、藤井一至『大地の五億年』を興味深く読み終えた。
67
:
佐藤 公則
:2023/08/02(水) 20:56:00
「土詩 #23」の投稿ありがとうございます。
猛暑日が続いています。お体に気をつけてお過ごしください。
68
:
nishiyan
:2023/09/05(火) 11:35:25
https://i.postimg.cc/fknxtLTm/tuchisi-24.jpg
土詩 #24
土のことはほとんど考えない
それでも土と共に生きている
無関係の関係の席に座っている
69
:
佐藤公則
:2023/09/06(水) 00:25:52
投稿ありがとうございます。
はっとしましたけど、土のことはホントに考えないですね。
それでちょっと思いついたのが、宇宙の星々の球体を構成する物質、その内容は
まあまあほとんど地球と同様の元素からなると考えていいんでしょうかね。もちろ
ん差異はあると思いますが、基本の構成は相似的なんだと。ただ土自体は地球の表
層なので、以外に同じ表層を構成している天体は少ないのかも知れません。まあこ
んなことも知らなかったんだってちょっと思って、時間があるときに調べてみよう
かって思い立ちました。
安藤昌益は宇宙を構成している万物の元基、「土活真」なんて言葉で便利に言っ
てましたが、どうなんだろうって思います。ぼくには「土活真」でまとめちゃう方
が便利でいいなあと思えるんですが、物理学、天文学ではそうは行かないんでしょ
うね。
今日はこんなところで失礼します。ありがとうございました。
70
:
名無しさん
:2023/10/08(日) 11:27:19
https://i.postimg.cc/8P84d5ty/tuchisi-25.jpg
土詩 #25
小さな土のかたまりのドアを開けると
中にはまたひとつの宇宙があり
生きた星たちが瞬(またた)いている
71
:
佐藤公則
:2023/10/08(日) 14:20:19
nishiyanさんへ
「土詩 #25」の投稿ありがとうございます。
前回、星々の構成は同じだろうなというところから、調べてみますと言いましたが、その後結果を記載しないでしまいました。今日土詩を読んであっと思いました。今日の作はそのことも一緒に含んでいるんだと思いました。
それにしてもすごいですね。初期の頃は「短歌味体な」だったでしょうか、そこから今日(こんにち)の3行自由詩と言ってよいか、【詩『言葉の街から』対話シリーズ】にいたって、もう確立したな、確定したなという気持ちで読まさせてもらっています。もう言葉を操るに自由自在だなと半ば羨望の思いです。これを一冊の書物にしたらどうなんだ、的な話です。もちろん何冊かに分かれるでしょうね。たぶん、圧巻ですよ。どこかの出版社、編集者は見逃すべきじゃないですよ。読むに疲れるでしょうけれど、そうなればひとつの金字塔と言っていいのではないかとさえ思います。またそのように遇されることを影ながら応援したいと思います。
でも10年まであと一踏ん張り、体に気をつけ、健康に気をつけ、是が非でもやり遂げてください。もちろんやり遂げた後の変位というか転位というか、その後にどういくのか、どこへ向かうんだろうと言うことも気になりだしてきました。いろんな意味で楽しみはいっぱいです。僕もよたよたしていますが、まだまだ頑張れそうな気がしています。
今日はこれくらいにします。では、お元気でお過ごしください。
72
:
nishiyan
:2023/10/09(月) 13:59:07
読んでいただいて、感謝です。
佐藤さんもそうだと思いますが、表現はまずは自分との対話であり、それが中心だと思います。その残余というわけではないですが、人と人とか関わり合う世界の内に誰もが生きていますから、避けようもなく他者に反響もするのだと思います。そうして、誰かがこの自己対話の成果を発掘してくれたらうれしいなという思い(他者とのつながりの欲求)を抱くのも自然だろうと思います。こういう人間的本質については吉本さんが『言語にとって美とはなにか』の初めの方の言語の本質だったかで触れていたように思います。
もちろん、もっとも現在的な広告の言葉やイメージは、自己対話というよりは他者を多数を漁(すなど)ることが中心でしょうし、さらに勧誘や扇動の言葉まであります。だから、上記のは特に文学表現の本質と言えそうです。
詩(和歌、俳諧など)は古代から長らく文学表現の中心を占め、萩原朔太郎は、文学表現の第1位に詩を置きましたが、現在までのところ首位としての詩の存在感はなく、江戸後期当たりから始まり、現在は散文やコマーシャルの時代の隆盛のように見えます。詩は衰退の途上にあるように見えますが、しかし、その首位としての詩の存在を意識するなら、どんな対象も詩の対象になり、さらにことばの人の存在自体を問うことが、人とは何か、人間的な表現とは何かを問うことにつながるだろうという思いがあります。でも、あんまり力みすぎずにやっていきたいと思っています。
以前は、いろんなテーマを変えて書いていましたが、最近は「詩 言葉の街から 対話シリーズ」でいいかなと思って書き進めています。
ちょっと脇道に入って「マイ世界論シリーズ」もやりたいなと今年の初め頃から考えていますが、なかなか思うように行きません。
佐藤さんの詩を読んでいて時々おやと目を開かせられることがあります。お互い年ですから無理をせずになんとか歩いて行きましょうか。
73
:
佐藤公則
:2023/10/09(月) 23:06:05
こちらの方こそいろいろな意味で感謝です。
nishiyanさんの返信文に「力みすぎず」とありましたが、その言葉通り、最近の作品は平静時の呼吸のように力みなく、破綻なく、淡々と書き進められているなあと見えていました。
ぼくもそのへんは意識するところですが、いまなお破調、破綻、力みの繰り返しです。もう趣味の物書きとして限定し、居直って、何でもいいやと開き直っているところもあります。そうは言いながらも、しかし、本当のところは息を吸ったり吐いたりするのと同じように書くということが出来ることが理想だと思っています。ぼくとしてはnishiyanさんは先を行く人なので、いつも見習う対象なのです。まあ少しでも近づけたらなあと思っています。ただその思いとは別に最近は箍を無くす方に進んでいて、呼吸も乱れに乱れてという様相で、口で言うのとは逆方向にどんどん進んできている気がします。そうしたいのになかなかそうできない。そこに自分の個性があるならば、まあそこで楽しんでやっていこうかと、そんな心境でもいます。
取り留めのない話になってしまいました。nishiyanさんには「マイ世界論シリーズ」の構想もあるようですし、以前からコツコツ進められている「吉本隆明を読む」もあり、そのほか広角にゆっくりではありますが着実に進められていて、たいしたもんだなあという思いしきりです。これからもコツコツひたむきに、行けるところまで行ってほしいなあと願っております。ぼくもぼくなりに、行けるところまでがんばっていくつもりです。今日はこれで失礼します。
74
:
nishiyan
:2023/11/03(金) 00:29:56
https://i.postimg.cc/V6PX9dgZ/tuchisi-26.jpg
土詩 #26
ひとつの土塊(つちくれ)にも
遙かな大きな時間が詰まっており
それを背に現在の小さな時間の表情がある
75
:
佐藤公則
:2023/11/03(金) 11:59:00
nishiyanさんへ
投稿ありがとうございます。
宮沢賢治ですかね、優れて著名な小説作品を前にして、自分はこれを数行の詩で書き表せると言ったとかなんとかという、何かの記述を読んだ記憶があります。それから言うと、俳句や短歌、nishiyanさんの最近の3行詩を含めて、目指すところは同じなのでしょうね。世界を凝縮し、最も本質的なところを少ないことばで言い切ってしまう。とても日本的で、どちらかというと次々とことばを繰り出したたみかけてくる西洋的なものとは真逆な気がします。
今回のnishiyanさんの詩もそういう大きなスケールを背景に持ち、3行の中に凝縮していると感じます。普段の3行詩の連作というスタイルも、一つ一つの3行詩の緊密さを保持し、そして連作していますから、1回分の4連がとても密度の濃いものに仕上がっているという気がしています。ひとつの表現スタイルを確立したなと見えてうらやましくもあります。ますますのご健筆を、そしてご健康をお祈りいたしております。
今日はこれで失礼します。
76
:
nishiyan
:2023/12/06(水) 20:56:11
土詩 #27
土を掘り施肥して苗を植える
(根付いてくれよ)
手でぺたぺたと土を固める
佐藤さんへ
以前教えてもらった、画像を掲示板にUPする方法が、
その通りにやることができないようになっているようです。
③ 「したらば掲示板」のトップに行くので、右側に見えてくる青文字の「レスに【画
像表示】できるようになりました」・・・が見当たりません。
77
:
nishiyan
:2023/12/07(木) 11:00:31
https://i.postimg.cc/rpTLmqbr/tuchisi-27.jpg
78
:
nishiyan
:2023/12/07(木) 11:07:42
いろいろやってみました。
今までと違っていましたが、
1.左上の「したらば掲示板」をクリックした後の画面で、右端の「お知らせ」の
「2022.08.17
緊急メンテナンスに伴うサービスの停止について」があり
2.それをクリックすると
現れた画面の右端の「最新記事」の中に、
「レスに【画像表示】ができるようになりました」がありました。
3.それをクリックして、現れた画面でいつものようにアップロードしましたが、
以前のような「直接リンクの表示」が出てきません。
4.現れている画像にマウスを置き、マウスの右クリックのメニューで、「画像リンクをコピー」を
選択して実行しました。
5.掲示板に戻って、これを貼りつけるといつものようにアップできました。
79
:
佐藤公則
:2023/12/07(木) 11:22:25
nishiyanさんへ
「土詩 #27」の投稿ありがとうございます。
ご指摘のこと調べてみましたがよく分かりませんでした。で、しばらくして掲示板に戻ったらサムネイル表示が77として表示されていました。
nishiyanさんのほうで再度アップしてくれたのだろうと思いました。いろいろお手数かけて済みません。
こういう現象が度々起こることについて、ぼくもまったく分からなくて。管理ページの設定にはサムネイル表示がonのままになっていて、本来ならスムーズに貼り付けられてしかるべきと思いますが、まあホームページ自体も無料のレンタルですし、この掲示板もまた別のレンタルで多少のトラブルは覚悟の上ですが、nishiyanさんにはただただ申し訳なく思っています。すみません。
厚かましいことですが、これに懲りずにこれからもよろしくお願いします。ありがとうございました。
80
:
佐藤公則
:2023/12/07(木) 11:26:36
78読みました。79はこれを読む前に書き込みました。
本当に面倒な作業をさせてしまい、すみませんでした。そしてありがとうございます。
81
:
nishiyan
:2023/12/15(金) 12:06:26
本日の詩「跳ばずに歩いて行く」についての更新メモについて。
島尾敏雄はわかりませんが、伊東静雄にそんなフレーズがあったなと思って調べてみたら、第一詩集の『わがひとに与ふる哀歌』に、「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」という詩が収められています。以下、青空文庫『わがひとに与ふる哀歌』より。伊東静雄が、秧鶏の姿を自己像のように描写しています。
秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る
秧鶏(くひな)のゆく道の上に
匂ひのいい朝風は要いらない
レース雲もいらない
霧がためらつてゐるので
厨房(くりや)のやうに温(ぬ)くいことが知れた
栗の矮林を宿にした夜(よ)は
反(そり)落葉にたまつた美しい露を
秧鶏はね酒にして呑んでしまふ
波のとほい 白つぽい湖辺で
そ処(こ)がいかにもアツト・ホームな雁(がん)と
道づれになるのを秧鶏は好かない
強ひるやうに哀れげな昔語がたりは
ちぐはぐな相槌できくのは骨折れるので
まもなく秧鶏は僕の庭にくるだらう
そして この伝記作者を残して
来るときのやうに去るだらう
82
:
佐藤公則
:2023/12/16(土) 12:36:43
nishiyanさんへ
ご指摘ありがとうございます。不確かな記憶は本当に不確かでした。
「歩いて行く」ではなく「歩いて来る」で、「全路」が有ると無いとでもずいぶん印象が違います。
『わがひとに与ふる哀歌』は一度目にした気がしますが、「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」の詩としては記憶していなかったです。島尾敏雄は伊東静雄との接点があり、それについて述べた件の中に「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」の題名およびこれに関連する話が出ていたのかも知れません。
いずれにしても、ぼくはクイナという鳥を知らず、ただ、鳥なのに飛ばずに歩くという奇妙さや、クイナという聞き慣れぬ命名の鳥に強い印象を受けとったようです。で、言うほどのことでもないのですが、勝手に心の中にベ-ルに包んだような思いを膨らませていたんだろうと思います。ちょっと反省的になってみると、ぼくは言葉とは裏腹に面倒なことは飛ばしてますね。飛んでます。というか跳ねてます。
たぶん、全路を歩けるというのはぼくの願望で、憧れなのかも知れないです。全路を歩く、nishiyanさんにはそれが出来ているんじゃないでしょうか。それが魅力のひとつだとぼくは思ってきました。今日はこんなところで終わります。
83
:
nishiyan
:2023/12/17(日) 11:54:28
時々思うことがありますが、これは目立っていいなと思う詩に出会うことがあります。
最近のでは、「『初めて』に会う明日」(2023/12/10)です。たぶん、佐藤さん本人も
書いていて(あ、これは少しいい出来だな)と思う場合があるでしょう。それが読者と
一致する場合もあれば、そうじゃない場合もあるでしょう。
感想代わりのひと言です。
84
:
nishiyan
:2023/12/17(日) 11:56:05
時々思うことがありますが、これは目立っていいなと思う詩に出会うことがあります。
最近のでは、「『初めて』に会う明日」(2023/12/10)です。たぶん、佐藤さん本人も
書いていて(あ、これは少しいい出来だな)と思う場合があるでしょう。それが読者と
一致する場合もあれば、そうじゃない場合もあるでしょう。
感想代わりのひと言です。
85
:
nishiyan
:2023/12/17(日) 11:59:12
「書き込む」をクリックしても反応がなかったので、またクリックして、同じものをUPしてしまいました。すみません。
86
:
佐藤公則
:2023/12/17(日) 14:30:21
感想、ありがとうございます。
ここのところ毎日やっていますが、「いい出来だな」と思うのは直後の一瞬で、その後にこれも一瞬ですが、「ずるくなってる」というフレーズが浮かびますね。
自分には完成形に近づくことはあり得ないように思っていて、ただどの作でも深みへの指向が含みとして持ち得ていたら、いまのところはそれでいいということにしようと思ってきました。ただ自分ではなかなか判断はつきませんけど。ぼくの場合はそのへんが感じられたら「いい出来だ」と思う、その基準になっているかも知れないです。
「書き込み」の後、ちょっと時間がかかりますよね。これに懲りずにまたお願いします。
ありがとうございました。
87
:
名無しさん
:2024/02/03(土) 15:43:21
https://i.postimg.cc/wvFSbDWd/tuchisi-29.jpg
土詩 #29
例えば月の土は昼は110℃、夜は-170℃、
の自然を呼吸している
土は、人間との〈交換〉で輝き出す
※12月と1月の土詩は、上の掲示板にUPしていました。
こちらが新しい方になりますかね。
88
:
nishiyan
:2024/02/03(土) 15:45:58
※ 下の掲示板の所で、書き込んだつもりがまた上の方になってしまいました。
89
:
nishiyan
:2024/02/03(土) 15:53:21
先程までは、「1 : 感想など何でも掲示板 / 2 : 掲示板が新しくなりました。」
だったのが、上下が入れ替わって「1 : 掲示板が新しくなりました。(88) /
2 : 感想など何でも掲示板(315)」になってしまったように思われます。
※ 「掲示板が新しくなりました。」の方にUPすればいいですかね。
90
:
佐藤公則
:2024/02/04(日) 10:46:10
土詩 #28と29の投稿ありがとうございます。28はブログの方で読んでいました。そちらでは新年の挨拶もいただいていたのですね。
気がつかずにいてすみませんでした。こちら喪中ということも言っていたので、気を遣わせていたというくらいに考えていました。
掲示板の方、いろいろ手違いが起きていたようで申し訳ありません。そんなことが起こっていたとはまったく考えもしませんでした。日頃掲示板についてはまったく操作も管理も行き届いておらず、借りっぱなし状態で放りっぱなしにしています。無料レンタルなのであまり文句も言えず、ただただ申し訳ない限りです。
おっしゃる通り、「掲示板が新しくなりました。」の方にUPをお願いします。
さて、10年目突入ですね。おめでとうございます。もう少し残っているわけでしょうから、とにかく体に気をつけてやりきっていただきたいと思います。またそのことを心から願っております。
とりあえず今日はそのことだけお伝えして終わります。ありがとうございました。もう一踏ん張り頑張ってください。
91
:
nishiyan
:2024/03/01(金) 21:03:31
https://i.postimg.cc/ZK36mNWk/tuchisi-30.jpg
土詩 #30
土との付き合いもこれでお終い
ということはなく
生きてる限り土と生きる
※これで土詩を終わります。
92
:
佐藤公則
:2024/03/02(土) 17:10:42
nishiyanさんへ
土詩 #30の投稿ありがとうございます。
シリーズとしては最終なのですね。お疲れ様です。次のシリーズも楽しみにしています。
93
:
nishiyan
:2024/03/02(土) 20:32:13
最大30回位という目途は初めから持っていましたが、
もうこのあたりでいいかな、という思いがしてきたので、
終わりにしました。
次は、「水詩」の予定です。
94
:
佐藤公則
:2024/03/03(日) 22:04:29
次のシリーズは「水詩」。またまた面白そうです。
楽しみにしています。
95
:
nishiyan
:2024/04/02(火) 19:05:19
https://i.postimg.cc/KjFgR1QV/mizusi001.jpg
水詩(みずし) #1
(あ 水の音がする)
もちろん 音がしなくても
水は流れている
※ 土詩が終わり、水詩をはじめます。
96
:
佐藤公則
:2024/04/03(水) 12:52:40
「水詩(みずし) #1」の投稿ありがとうございます。
予告で知っていましたが、今回の「水詩」の背景画像が「土詩」に近かったので、思わず「おやっ」と思いました。
けっこうこのシリーズは背景画像に何を持ってくるのかという楽しみもあり、次は何かなと思ったりもしています。
カメラ歴、また画像に対する意気込みの様なものはどうでしょう。正直に言うと、一読者としては副次的にしか見てきていませんでした。
存外、本気の映写、だったりもしているのでしょうか。
ぼくは無意識的に、背景に小川の画像でも持ってくるのかと予測していましたが、それはある意味で見事に裏切られて、それで逆に俄然、背景画像の方にも興味が湧きました。
これ、面白い体験でした。
97
:
nishiyan
:2024/04/03(水) 19:47:13
別に「画像詩」として、言葉と固有の映像とが関わり合うものとして時々UPしているものがあります。この「水詩」に至るシリーズも、★現在が映像の時代であるのに合わせて構成しているのかもしれませんが、最初はたしか「Tシャツ詩」でした。これは誰かがそんなことをやっているのを目にして面白そうだと模倣したものです。書いている途中からは、どんな画像を持ってくるか意識するようになってきたと思います。「Tシャツ詩」や「傘立て詩」や「木詩」のようにシリーズ通して同じ画像というのもあります。
今回のは、川端の画像ですが、川が半分見えるのもあったのですが、あえて川が入っていない部分を持ってきました。
ところで、★「現在が映像の時代である」というのは、うまく言いにくいのですが、誰にとっても避けられない或るものとしてあるような気がしています。例えば、昔の歌手は直立して歌っていました。ところが、時とともに変貌して、今では歌は、激しいダンスや映像(照明)を伴わないと歌として成立しないのかなという印象を持っています。それは、歌が踊りや音楽と結び合っていただろう太古の新たな反復なのか、あるいは歌の衰弱なのか、見極めがたい感じの中にいます。でも、もはや直立して歌う時代には戻れないことは確かでしょう。
98
:
佐藤公則
:2024/04/04(木) 10:19:42
投稿ありがとうございます。
反復と衰弱、どちらもありそうですね。難しいですが、流行と、閉塞と、意識的なアップデートを交互に繰り返しながら、螺旋状に延びてきているのかなと言う気がします。
そこで、ユニットを組んでダンスしながら歌うというのが最近の流行で主流になっている気がしますが、いずれまた飽きが来て変わるんだろうとは思います。
こうした意味合いでは直立したままの歌謡法も、あるいは現代詩という様なものも、時代性と言うことで変わりゆくものなのでしょうね。詩は一時期、格闘形式で朗読さ
れたりしていましたけれども、ほどなく沈静化してしまいました。この先もいろんな試みが成されるんだろうと思います。そういうことを視野に入れながら、それでもぼくなんかは
相変わらずを繰り返すしかないので、それを続けていくことになるかと思います。
「吉本隆明を読む」の最新の文章も読ませてもらいました。面白かったです。ご健筆を。
99
:
nishiyan
:2024/04/05(金) 10:54:22
記事の紹介です。
「未来を生きる人たちへ
SNS、インターネット上に大量の言葉が飛び交ういま、
92歳の詩人は何を思うのか。
日本を代表する詩人・谷川俊太郎さんに、
「いきる」「はなす」「あいする」「きく」「つながる」
という五つのキーワードで話を聞いた。」(朝日新聞)
というのがネットで読めます。
ht★tps://www.asahi.com/special/tanikawashuntaro/?ref=culture_mail_top_20240404
(urlに★印を加えています。)
100
:
佐藤公則
:2024/04/05(金) 22:43:07
記事の紹介ありがとうございました。
一通り読みました。読みながら、吉本さんの谷川評も浮かんできました。
ここではふれていませんが、谷川さんの詩でぼくが一番衝撃を感じたのは「なんでもおまんこ」というタイトルの詩です。
こんな詩も書くのかという驚きで、いまも鮮烈に印象に残っています。こんなテーマを一流の詩に仕上げる力量はたいし
たものだなあと感服しました。むかし、「生きる」や「かっぱ」の詩を取り上げて子どもたちに紹介していた谷川ファンの女
性教員がいましたけれど、ベースはこっちに在るとその時ぼくは考えました。これでもって、ほかに詩はたくさん読みはしま
せんが谷川さんは超一流の詩人と納得しました。ただぼくはそれ以上ではありません。何となく言うことは分かるなあと
それくらいの感じです。すべてを網羅して読もうとするファンにはなり得ないようです。
ど、
101
:
佐藤公則
:2024/04/05(金) 22:44:57
文末最後の「ど、」は単純な消し忘れです。
102
:
nishiyan
:2024/04/07(日) 11:07:22
昔、鈴木志郎康のハチャメチャな「プアプア詩」にも驚きましたが、谷川俊太郎にも別の詩で「こんな詩も書くのかという驚き」を持った覚えがあります。わたしも谷川俊太郎の詩は少ししか読んでいませんが、あらゆる人間的なことに言葉を開いていると言うことでしょうか。だから、興味深いと思う一部の表現だけで谷川俊太郎という作者の全体像を捉えることはできないでしょうね。もちろん、それは一般にも言えることですが。
103
:
佐藤公則
:2024/04/07(日) 23:42:52
自然の事物や事象に関わる関わり方が、どこか宮沢賢治と似ていて、エロス的だって思います。
なんて言うか、自然が対立的なものではなくて、いつでもサッと友達関係、恋愛関係に入り込め
るみたいな、資質を持っている気がします。ぼくなんかは真逆で、いやだいやだと思いながら人事の
枠内にとどまって、狭苦しい中で翻弄されてしまうわけです。自然に対して精神が流れていかない、
溶けて広がっていかない。狭い中で汲汲としているわけです。意識も身体も自然も一体と見なせる
感受と、意識と意識以外と二別する感受と、その差異には興味があります。幼少期の育ち方の違
いかなあなんて思ったりします。
104
:
nishiyan
:2024/05/08(水) 19:20:56
https://i.postimg.cc/wBpw4f7C/mizusi002.jpg
水詩(みずし) #2
大災害時を除けば
今では水の心配が無用になり
地中を水は静かに流れ続けている
105
:
名無しさん
:2024/05/09(木) 14:15:31
水詩(みずし) #2の投稿ありがとうございます。
106
:
nishiyan
:2024/06/08(土) 16:41:26
https://i.postimg.cc/6QH8M6zF/mizusi003.jpg
水詩(みずし) #3
その感触とともに
誰もが 自分の
水物語を持っている
107
:
佐藤公則
:2024/06/08(土) 22:09:54
「水詩(みずし) #3」の投稿ありがとうございます。
ブログの方に毎日書かれている詩も読んでいます。共感したり、同じようなことを感じたり考えたりしてい
るなあと思ってみたり、問題意識が同じだなあと考えたりしながら読んでいます。
1年くらい言葉を出し続けて来ていますが、ここのところ、もう空っぽかなと思う時が無くもないです。
nishiyanさんは10年ですものね。
ぼくはさすがに体力気力の衰えをひしひしと感じています。向き合い方も、若い時に比べると、ずいぶん
省エネを心がけている気がします。どこかで手抜きしているぞという時もあり、まあ歳だから仕方がないかと
折り合ったりしながらやっています。
先を歩いているひと(nishiyanさん)がいますのでね、ぼくにとってはありがたいです。
ご健康とご健筆を祈っております。
これで失礼します。
108
:
nishiyan
:2024/07/01(月) 13:37:31
https://i.postimg.cc/BQG2V7YM/mizusi004.jpg
水詩(みずし) #4
水物語も ほとんど語り出されることはなく
うす暗がりに仕舞われて
ただ 知らぬ間にひとり味わっている
109
:
佐藤公則
:2024/07/02(火) 17:19:19
「水詩(みずし) #4」の投稿、ありがとうございます。
ひとり味わう「水物語」とはどんなだろうか。
確かに、そうした個の物語は言葉にして誰かに伝えようとしても、おそらくは届かないのでしょう。なので、
ひっそりと暗がりに仕舞われて、時折ふいと愛惜の念と一緒に意識に浮上する。
そうした内面の小さな出来事は、普段は切り捨ててしまって、気にもとめないと言うことが多々あります。
それはきっと傲慢さだと気づかされ、反省させられます。何の脈絡もなくですが、島尾敏雄さんの小説をよ
く読んでいた頃のことを思い出しました。
110
:
nishiyan
:2024/08/01(木) 18:19:14
https://i.postimg.cc/1XZCyLm0/mizusi005.jpg
水詩(みずし) #5
(あ 冷たい)
(水 みずだみずだ)
乾いた言葉の葉脈をみずが流れる
111
:
佐藤公則
:2024/08/02(金) 11:25:12
ありがとうございます。
田んぼに水が入り込んでいますね。
写真が先に撮られていて、しばらくして写真を見て言葉がひねり出された、あるいは湧いてでた、そんな
印象を持ちました。「みずだみずだ」が何とも言えずいいですね。
112
:
nishiyan
:2024/08/03(土) 19:56:53
すいません、はずれでした。詩が先にできて、写真を取りに行きました。大体、その順番の方が多いです。詩は、人間的な場面ですが、人間的な場面は面倒そうなので、植物にもそれに近いことがあるかなという思いでこの写真を付しました。
113
:
佐藤公則
:2024/08/04(日) 12:07:13
ありがとうございます。逆でしたね。詩が先で写真が後。
「水詩」になって、特に今回の作では、写真自体からも何かを語りかけてくる力を感じて、ああいう感想
になりました。誤読でしたが、読者としては面白い誤読体験でした。
114
:
nishiyan
:2024/08/28(水) 18:06:50
体調不良とのこと、お大事に。
115
:
佐藤公則
:2024/08/31(土) 15:07:18
ご心配いただき、ありがとうございます。
まだ喉が痛みますが、退屈の方が優ります。
116
:
nishiyan
:2024/09/05(木) 13:15:36
https://i.postimg.cc/T1GMy79t/mizusi006.jpg
水詩(みずし) #6
自然のあらゆるものに神が宿っていた (ふしぎ)
遙か遠く流れ下っても
どんなものにも収まる水のふしぎは残っている
117
:
佐藤公則
:2024/09/06(金) 10:05:06
「水詩 #6」の投稿ありがとうございます。
118
:
nishiyan
:2024/09/15(日) 10:48:39
今日の佐藤さんの更新のメモを読んで、吉本さんの「究極カメラ」のことを想い出しました。同じようなことが語られています。「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン」で気に入ったものはコピーして残しています。たぶん吉本さんと糸井重里の対話だったかなと思って、いろいろ「カメラ」で検索かけていたら、以下のものがありました。ほんとに「検索』には助かります。その時、関連で「文学A085 文芸雑感」の「講演のテキスト」より吉本さんの講演を抜粋していました。長いので、分けてUPします。
119
:
nishiyan
:2024/09/15(日) 10:49:54
1.
・1980年に「ミノルタX7」というカメラが発売された。
それは露出やシャッター速度だけでなく、
ピント調整まで自動でやってくれるというカメラだった。
ぼくはその製品のCMソングの作詞をしていた。
ピントを自動で合わせてくれるというのはすごい機能で、
シャッターチャンスを逃さずに、だれでもうまく撮れます、
ということが売りの商品だったのだけれど、
世の話題の中心はカメラの性能などのこと以上に、
CMのモデルになった宮崎美子さんのことだった。
それはそれで「当たった」ということで問題はない。
ここらへんまでが広告の仕事をしていたぼくの感想だが、
この話には続きがあった。
吉本隆明さんが、このカメラのことを例に出して、
「これはもう、いま流行のことばで言えば、
『究極の』カメラですよ、これ以上なにがあるっていう」
というような発言をしていたのだった。
資本主義社会のあちこちで「究極の」が見えてきていると。
論旨を無視してあげあしをとるなら
「オートフォーカス」のカメラが登場した後にも
次々と新製品は出ていると言えるが、それは部分部分が
「高級化した」とか「改良された」とかいうようなことだ。
カメラの「進化」の歴史ということを考えたら、
あの時代の「露出、シャッター、ピント」を
ぜんぶ自動化したカメラは、たしかに究極と言えただろう。
カメラの例をひとつ出したけれど、
社会のさまざまなモノゴトやしくみが、
「究極」と言えるようなところまできているのではないか。
そういうことを1980年代に言っていたのだ。
それを「究極がどんどん実現してるのか、すげぇなぁ」
とだけ思っているわけにもいかない。
「究極」とは言い方をかえれば「行き詰まり」であり、
「頭打ち」ということを意味している。
もう無制限に進化していくような未来はない、
という意味だし、そこからどうするという設問でもある。
あの発言から、さらに半世紀近くが過ぎて、
ほんとはとっくに「究極」だったことが目立ってきた。
無限に細分化したり組み替えたりしてはいるが、
ぼくらは「究極」の跡地で未来に向かっていく必要がある。
そういう時代に見る「希望」とは、どういうものだろうか。
(「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 2023/07/06」)
120
:
nishiyan
:2024/09/15(日) 10:50:47
2.
2 究極のイメージとしての文学とは何か
いまご紹介にあずかりました吉本です。いまご紹介いただいたことと少しずれてお話ししたいと思いますが、でもお話ししたい一番肝心なところは変わりませんから、そういうことで始めたいと思います。僕は長い間、文芸批評をやってきたのですが、現在、僕が一番関心を持っていることで、しかも文芸批評というものがいま当面しているのはどういう問題かという視点から、いま書かれている作品にも触れながら少しお話ししてみたいということです。
先ほどもプライベートにそういう話をしていたのですが、たとえば時計を考えてみると、究極時計というものがもうできているといえるのではないかと思います。ただ時を知るということのためだけならば、きわめて正確なものが現在できてしまっていて、それ以上のことはいらない。それは安くて、本当に簡単にどこでも売っているという感じです。あとは装飾的にどうするかとか、かたちをどうするかとか、軽くするにはどうするかとか、いろいろなことがあるでしょうけれども、しかし何秒ぐらいしか違わないというぐらいきわめて正確に時を正しく知るという意味合いの時計ならば、もう究極のものができて普及してしまっていると考えたほうがよろしいわけです。
また、たとえばミノルタα1600はほとんど究極カメラに近いのではないかと思われます。カメラの分野でもそれは専門家が当惑するような意味合いで、究極カメラがたぶんできてしまっているといえるのではないかと思われます。
それと同じように、文学、芸術の分野でまず究極な表現ができてしまっているなと思えるのは、映像の分野です。つまり映像の分野ではほとんど究極の映像がつくられてしまっていると僕は思います。僕はそれをもう十日ぐらいで終わるつくば万博の富士通館で見ました。
普通のコンピューターグラフィックの刻々に動いていく映像を見るわけですが、色差式のめがねでそれを見ると、映像が全部浮き上がってくる。それが全然すき間のない空間をつくって、円形ドームが全部スクリーンになっているところで見ると、ほとんど自分もその中で浮かんでいるような視点から、一種四次元の映像がちゃんと動いて見られてしまうようにしつらえてあります。たぶんそれが映像の究極的なかたちだろうと思われます。
ある分野、分野をたどっていくと、そこでだいたいにおいて、これでもうドン詰まりだろうといいましょうか、あるいは何かの始まりだろうといっても同じことですが、そういうものができてしまっているところがあります。ただ、いま僕らが文芸批評のところで何を考えているかというと、つまり究極のイメージとしての文学、あるいは究極のイメージから見られた文学とはどういうことなのだという、本当はそういうことの理論を築いてみたいわけです。
(「文学A085 文芸雑感」講演日時:1985年9月7日 「講演のテキスト」より」)
121
:
佐藤公則
:2024/09/16(月) 10:20:04
nishiyanさんへ
コメントとデータの提供ありがとうございます。「究極カメラ」については記憶になかったですが、吉本さんがそれらしいことを語っていたと
言うことは記憶にあります。糸井さんの文章では、吉本さんがそれを語っていたのは1980年代ということでしたので、かれこれ40年前と
言うことになるんですね。細部は忘れてますが、吉本さんがそんなことを言っていたというのは片隅に残っていたという気がします。
最近の社会の動きや在り様をつらつら考えるに、何となく全体的に煮詰まっているという実感が起きて、こういう表現になったかと
思います。昨年、糸井さんが「目立ってきた」と実感されたとは知りませんでしたが、ジワジワ実感するのはやはり時間がかかるものなん
ですね。もういちど吉本さんの講演を聴いてみようと思います。ありがとうございました。
122
:
名無しさん
:2024/10/04(金) 20:13:02
https://i.postimg.cc/sgKLRnNS/mizusi007.jpg
水詩(みずし) #7
日々水に触れている
冷たい 温(ぬる)い 熱い 色んな感触の
ただのH2Oに見える窓もあり
123
:
佐藤公則
:2024/10/04(金) 22:32:34
掲載ありがとうございます。
124
:
名無しさん
:2024/11/05(火) 11:45:19
https://i.postimg.cc/5tLscmm4/mizusi008.jpg
水詩(みずし) #8
(水も内なる音を立てているか 水も静かに眠るか)
人の能力を超えて 機器の助けから
水の音 水の振る舞いを もっと深く
耳や目にすることができるかもしれない
125
:
佐藤公則
:2024/11/05(火) 12:07:10
「水詩(みずし) #8」の掲載ありがとうございます。
今回の写真の情景、状況など、少しわかりにくかったですね。詩の方はよく分かります。
126
:
nishiyan
:2024/11/06(水) 10:48:32
画像・詩シリーズ 「14.はじまりの映像から」に用いた画像です。
今年田んぼの脇の河川工事をしていました。その川底がどういう意味があるのか
よくわからないけど凝った作りになっていました。その狭い川を上から撮ったものです。
文字の色をいろいろ変えたりしましたが、判読がきついですね。逆に、詩も添えているし、
よく判読できなくてもいいかなとも思いました。
127
:
佐藤公則
:2024/11/07(木) 11:02:20
ブログに飛んで見てきました。6まで振り返って見ました。覚えていた詩や写真と、初めて目にする感覚
の詩や写真とがありました。こんなにも記憶っていい加減かと感じてしまいました。詩も写真も、どうも
好みのようなところで、記憶に残る、残らないがあるのかなと思いました。それから意外性と言ったところ
なども。全体を通しては、しっとりとした情感が伝わってくる、よい表現だなという感想を持ちました。
128
:
nishiyan
:2024/12/05(木) 21:37:50
https://i.postimg.cc/3JsJ2Dm7/mizusi009.jpg
水詩(みずし) #9
ふだんは何気なく通り過ぎる水
(水がない ミズガナイ・・・)
雨乞いの言葉が激しく水を呼ぶ 時があった 地域があった
129
:
佐藤公則
:2024/12/06(金) 13:38:44
「水詩(みずし) #9」の投稿、ありがとうございます。
あっという間に12月ですね。こちらはぼちぼち最低気温マイナスが出始めています。
朝晩はストーブが大活躍です。
風邪などひかぬよう元気にお過ごしください。では、また。
130
:
nishiyan
:2025/01/01(水) 18:59:01
https://i.postimg.cc/rpm1p5Xc/nenga2025.jpg
131
:
佐藤公則
:2025/01/01(水) 20:38:07
「新年シリーズ」ありがとうございます。
ブログのコメントのほうも読みました。2月2日始まりだったんですね。
もうすぐですね。頑張ってください。
132
:
nishiyan
:2025/01/04(土) 19:43:43
UPがないのでどうかされたかなと思っていました。
無理はせずに頑張ってください。
キツい状況でのそれなりのやり方もありそうな気もしますが、先ずはお大事に。
133
:
nishiyan
:2025/01/05(日) 12:36:06
https://i.postimg.cc/wTk67Yf4/mizusi010.jpg
水詩(みずし) #10
(時に水は荒れ狂う)
遠く水くみに出かけた
自宅に井戸を掘り手でくみ上げた
ポンプになった
上下水道が来た
水と人との時間のドラマの中
水の神は消え水の表情が少し和らいだ
134
:
佐藤公則
:2025/01/05(日) 17:49:24
「水詩#10」の投稿ありがとうございます。
本年も順調な滑り出しのようですね。
とりあえずの通過点まではあと少し、頑張ってください。
135
:
nishiyan
:2025/02/02(日) 13:10:25
佐藤さんへ
ほぼ十年、完走しました。
少し、ほっとしています。
今後のことは、まだ走りながら、
考えたいと思います。
-----------------------------------------
ほぼ毎日詩10年を完走して
2015年2月2日から偶然に走り出してしまった毎日詩の、10年継続を完走した。途中で病気入院したから、10日ほど欠けている。したがって、ほぼ毎日詩の10年継続の完走ということになる。吉本さんが、自分の首をかけて、10年(しかも毎日欠かさず)やればいっちょ前と語っていた。途中から、そのことを意識して走り続けていた。
思えば、若い吉本さんが毎日詩を書き続けていたのに影響されてだったか、もうどこにやってしまったかはわからないが、わたしも若い頃4,5百篇の詩を書き続けたことがある。
しかし、今回のは初心者のつもりで走り出したと思う。さて、これでわたしも「いっちょ前」近くになったと思うが、「詩人」というのは気恥ずかしいので、詩を書く人、あるいは表現者と自認したいと思う。
10年目はゴールしたが、先のことはまだ考えていないので、とりあえずクールダウンで走り続けたいと思う。
2025年2月2日
136
:
佐藤公則
:2025/02/03(月) 12:45:35
nishiyanさんへ
もうお読みになったかと思いますが、2月2日のブログのコメント欄に短いコメントを残しておきました。
クールダウンしてとありますが、本当の気持ちでしょう。あらためてお疲れ様です。
137
:
nishiyan
:2025/02/03(月) 20:19:10
コメント、ありがとうございます。
ぱちぱちと拍手をもらったようで、
ほんとにうれしいです。
ブログの方に返信しました。
138
:
nishiyan
:2025/02/06(木) 20:24:14
https://i.postimg.cc/15C6dw60/mizusi011.jpg
水詩(みずし) #11
ひとの内にも出入りする
複雑な臓器の街を隅々まで
なにものか受け渡し受け取り
巡り巡る
水は
139
:
佐藤公則
:2025/02/06(木) 23:51:33
「水詩(みずし)#11」の転載ありがとうございます。
140
:
nishiyan
:2025/03/01(土) 20:52:55
https://i.postimg.cc/j249dsm1/mizusi012.jpg
水詩(みずし) #12
水そのものに向かうものと
水に映して帰ってくるものと
ひとつのイメージの中で溶け合っている
(ああいい感じに 自然に揺れている)
141
:
佐藤公則
:2025/03/02(日) 08:16:36
投稿ありがとうございます。
春の兆しを感じながらも寒さはまだ続きます。ご自愛ください。
142
:
nishiyan
:2025/03/11(火) 19:36:25
佐藤さんへ
こちらは少し春らしくなってきました。
月1回のペースでUPしている、以下のお知らせです。
『吉本さんのおくりもの』(旧名 データベース 吉本隆明を読む)
「言葉の吉本隆明 ②」に、
2025.3.11 新規項目763「例えば、ロシア革命をどう見るか」を新たに追加。
143
:
佐藤公則
:2025/03/12(水) 11:16:33
nishiyanさんへ
お知らせ、ありがとうございます。
宮城の方はまだ朝晩氷点下になることが多いです。日中はだいぶ暖かな日もありますが来週は3度
の日もあり、上がったり下がったりで推移するようです。
さて、お知らせにありました「言葉の吉本隆明 ②」、これから見に行こうと思います。では、今日はこれ
で失礼します。
144
:
佐藤公則
:2025/03/13(木) 11:01:19
nishiyanさんへ
追伸です。
「言葉の吉本隆明 ②」新規の文章を読ませていただきました。簡単に感想を述べると、吉本さんの解
析も層だし、nishiyanさんの見解も至極真っ当で、そうだよな、そうなんだろうなと思いました。それが正解
だと思った、ということです。
ただ、同じ事を思いながら、そう思う自分の中でひとつだけ疑問に思っていることがあります。上手く言
えるかどうか分かりませんが、それは人間の本質、人間性(理想を持つということを含めて)の部分につ
いてです。そこは自分でも人間にとっての最後の砦くらいに思うところなのですが、安藤昌益や三木成夫
さんはそこをそう捉えていなくて、どちらかと言うと否定的に投げかけています。つまり人間としてそこを評価
しないとやってられないというところを、両者は評価していないと思います。そこはぼくがいま一番直面して
いる問題で、とても悩ましく思っているところです。たぶん自分では結論が出せないと思っています。感想
としては、つい変なことを言ってしまった気がしますが、これについてもう少し先まで反芻して考えていきたい
と思っています。ありがとうございました。
145
:
nishiyan
:2025/04/02(水) 21:08:34
https://i.postimg.cc/QxgKnrwL/mizusi013.jpg
水詩(みずし) #13
見ず知らずにはじまり
喉(のど)も肌も触れ合い
時にみずみずしく 時にありふれて
生涯の付き合いとなる
146
:
佐藤公則
:2025/04/03(木) 11:48:33
「水詩(みずし) #13」の転載、ありがとうございます。
普段は気にすることのないところに向ける視線。
「時にありふれて」が好きです。いい働きをしていると思いました。
そこからの「生涯の付き合い」も。
147
:
nishiyan
:2025/05/06(火) 17:20:07
https://i.postimg.cc/85Yz39sv/mizusi014.jpg
水詩(みずし) #14
人は場面によって変面する
水もまた表情を変える
温(ぬる)くもなり
刺すように冷たくもなり
熱く沸騰もする
ただし水は 自然に相転移する
148
:
佐藤公則
:2025/05/08(木) 09:02:11
「水詩(みずし) #14」の投稿ありがとうございました。
「相転移」ということばを初めて知りました。知った上で読んでみると、こういう変化が明確にはっきり
分かるのは水だけかなと不思議に感じました。
goo blogが終了するようで気になっています。ぼくの無料ホームページも近々に終了して切り替わる
予定です。また無料の引っ越し先を見つけましたので、作業が終わったら移転先のお知らせをホームペ
ージ上に掲載しようと思っています。今後もよろしくお願いします。
149
:
nishiyan
:2025/05/10(土) 00:08:07
goo blogが終了とアナウンスが出て、びっくりしましたが、Amebaブログにも同じものを公表してきていますから、そちらの方に一本化したいと考えています。goo blogの終了が近くなったら、「お知らせ」しようかと考えています。
150
:
nishiyan
:2025/05/20(火) 20:59:01
佐藤さんのブログの掲示板での佐藤さんの発言(144 :佐藤公則 :2025/03/13)、「安藤昌益や三木成夫
さんはそこをそう捉えていなくて、どちらかと言うと否定的に投げかけています。つまり人間としてそこを評価
しないとやってられないというところを、両者は評価していないと思います。」に関してですが、
そういえば佐藤さんには三木成夫に触れた文章があったなと思い出して、
心の現在 1部
心の現在 2部
を読んでみました。
もう亡くなってしまった、「歩く浄土」を書き継いでいた森崎茂は、現在の世界の有り様を過誤の人類史というふうに見ていたと思います。安藤昌益もそれと似たものを感じます。しかし、いずれにしても、両者ともそれぞれの人や社会の理想のあり方のイメージはあったように思います。
三木成夫については、佐藤さんが「理念としての自然主義の主張があります」(心の現在 2部 5 あとがき)と述べているように、徹底した自然主義とともに、そこには何らかの理念的なイメージが感じられます。それを何々と捉えがたいですが、どこか村瀬学の世界イメージに通じような気もします。取りあえず、第1信として。
151
:
佐藤公則
:2025/05/23(金) 11:02:29
ぼくの発言を取り上げていただき、ありがとうございます。
すぐに返信や返答を促すような文意ではないように思いますので、とりあえずお礼だけを伝えさせていただきます。
ただ書かれてあるところは興味あるところですので、何度か読み返し、考えることの一助とさせていただこうと思います。その過程でまたぼくの方からnishi
yanさんに聞いていただきたいことが出た時点で、そのことを語らせていただきたいと思います。よろしくお願いします。
152
:
佐藤公則
:2025/05/26(月) 21:03:25
nishiyanさんへ
先日の投稿では、ぼくの発言の一部を取り上げてくださいました。それは安藤昌益や三木成夫さんへの一つの疑問のように語った部分で、二人は人間の人間的な本質、言っ
てしまえば人間性というものを評価していないんじゃないかということだったかと思います。
それに対してnishiyanさんは、そう見えるところはあるにせよ、安藤昌益にしろ三木成夫にしろ、人間や人間性への信頼、「人や社会の理想のあり方のイメージ」とか、「何らかの
理念的なイメージ」というものは奥に秘めて存在していると思う、と言う見解を示していらっしゃったように思います。そして全体としてその辺の考察をさらに深くするのには、森崎茂さん
と言う方の考えや、村瀬学さんの考察を参考にするとよいと教えてくださったように思います。
先に申し上げておきますと、ぼくが安藤や三木さんから受け取ったことで困るなあと思ったことは、人間が人間らしく理想の社会や世界をイメージとして作り上げたり、またをそれを
実現したいと望むこと、そのこと自体がすでに間違いなんだよ、誤解なんだよ、と主張しているように受け取ってしまったからです。nishiyanさんが言うように、彼らにも理想のイメージは
あっただろうし、日々、もっとよりよいものをと問い続けただろうとも思います。ですが、共時にそれを否定する大きなニヒリズムが内在する気がします。もちろんこれはぼくの勝手な思い
込みだし、根拠のない妄想の類いです。でも何かそういう人間理解の仕方をしているように思われてなりません。
それからもう一つ申し上げておきますと、nishiyanさんが暗に読むといいよと薦めておられる森崎茂さん、そして村瀬学さんですが、もうぼくは知的にキャパ不足に陥っていて、これま
でに読んだ人たちの考えを反芻するだけでも精一杯という状態です。逆に、どんどん整理していって、残ったものを手札としてそれだけで考えて行こうとしています。出来ればですが、熟
成させ、発酵するのを待ち、さらにそれを蒸留しようと言うことです。nishiyanさんはぼくとは違って知的にも貪欲で、深く広く、また前に向かって進んでいらっしゃるように思えます。森
崎さんのこと、村瀬さんのこと、nishiyanさんは理解して自身にも取り込んでいらっしゃると思いますし、表現の中にもきっと読み込みの内容は反映させているに違いないと思えます。
ぼくはnishiyanさんの文章からかすかにでもそれを受け取ることが出来ているとすれば、それでいいと思っています。直接自分でつかみに行くという力も元気も、もうぼくにはないと思っ
ていますし、そしてそれでいいよと自分を許容しています。知性的、知識的にはもう脱落しています。
先日のお便りから喚起された思い、考えというものは大雑把ですが以上のようなことだったかと思います。文意の受け止め方、理解の仕方にズレはないだろうかという不安はありま
すが、正直な受け応えだけを心がけますと以上のようなことになります。現実生活世界でもそうですが、文章上でもコミ症が露出していることになっているのかも知れません。もしそうで
あれば、他意はないと言うことでどうぞご容赦ください。
153
:
佐藤公則
:2025/05/26(月) 21:08:37
追伸
段組というか段落というか、変なことになって読みづらくなってしましました。申し訳ありません。
154
:
nishiyan
:2025/05/27(火) 20:40:01
佐藤さんへ
まず、佐藤さんの疑念というか悩ましく思っているということの内容に興味を引かれて第一信を投げかけてみました。ぼくは安藤昌益も三木成夫もまともに読み込んでいないので印象批評になりますが、安藤昌益に関しては、佐藤さんの安藤昌益についての文章をたどりながら感じたのは「人や社会の理想のあり方のイメージ」(ただし、人類史的な定型のそれではなく、安藤なりの形の)を持っていると見なせると思うのです。一方、三木成夫に関しては、どう捉えたら良いのかよくわからなかったから、佐藤さんの悩ましさの方へ投げかけてみました。森崎茂も村瀬学もその印象批評の手がかりに過ぎず、読むのを勧めているわけではありません。また、佐藤さんの毎日詩を読んでいますから、言われていることはよくわかります。
最初に佐藤さんに投げかけた時、二つの手がかりらしきものを感じていました。ひとつは、吉本さんの三木成夫評価です。もうひとつは、三木成夫がある宗教を評価していたのではなかったかな?ということです。
1.第1信後、吉本さんの「『海・呼吸・古代形象』解説」を読み直してみましたが、それに当たるものはなかったようです。
2.もう廃業されていますが、京都の三月書房のホームページに「三木成夫関係書」が掲載してあり、天理教に関わる講演や対談があります。
ht●tp://web.kyoto-inet.or.jp/people/sangatu/mikisigeo.htm
「元の理」の象徴学 1988年刊行
※講演集 吉野裕子・山折哲雄・荒俣宏・岩田慶治
河合雅夫・湯浅泰雄・ほか
三木成夫・講演「生命の記憶としての『元の理』」10頁
井上昭夫(天理教団)と対談「生命記憶と『元の理』」30頁
つまり、上の講演や対談を見ていないのですが、題名から判断して、三木成夫は、天理教の「元の理」(「この世の根本原理を記した天理教の神話」だそうで、ネットで読める短い文章です。)を評価しているように見えます。それを読みもしないで当てずっぽうのイメージで言えば、宇宙大の徹底した自然観、自然主義、それを突き詰めると大自然の中の自然の一部にすぎない極小の人間という概念やイメージにもなりますが、その還りがけとして宗教イメージにも通じるやわらかな人間観が三木成夫にはあったのではないかな?という思いがありました。佐藤さんは、上の講演や対談は読まれていませんか?
155
:
佐藤公則
:2025/05/28(水) 10:07:14
nishiyanさんへ
安藤昌益の思想、考えを遡ると、ぼくとしては易経、そして五行説に行き着くかなと考えています。五行説は「万物は火・水・木・金・土(七曜の命令)の5種類の元素からなるという説」。易経は「陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説」いたものになります。言うまでもなくこれらは孔子や釈迦よりも以前に起こった説であり、考えです。安藤は孔子や釈迦を批判するにあたって、より古い易経や五行説に依拠していたように思います。安藤の文章を追ってみますと、至る所にその片鱗がうかがえます。もちろん易経や五行説のそのままの受け売りではなく、そこで彼なりに格闘しています。五行からは火・水・木・金の四行の作用と土を別格に立てる工夫をし、易経の陰陽二つの元素の対立と統合からは、例えば男女二別の考えの否定と言った独創的な考えを作っていったように思います。安藤の思想が紡がれた出発点はそこが一つで、それからやはり町医者という人体に関わることを長年臨床的にやってきたところにあるのではないかなと考えいます。説明は省きましたが、人体、身体に関わったと言うことは本当はよく分かっていないのですが、三木成夫さんや養老孟司さんにも繋がって、やはり独特の見方考え方に投影されているんじゃないかなという気がしています。そこは、気がしている、だけです。
三木成夫さんについて言うと、ぼくには宗教との関わりという視点はなかったですね。nishiyanさんの指摘で初めて、天理教に関わる講演や対談をしていたと言うことを知りました。これも雑誌、あるいは書籍としては1988年とありますから、亡くなった1年後の刊行となり、教団からのオファーを受けてのことだったのじゃないかなと言う気がします。それ以前の特に三木さん自身の著作からは宗教的イメージは感じられなかったような気がします。ただ、生命の進化、そして系統的発生学を考えているところでは、原始の生命から今日の多様な多細胞生物までを視野に入れた歴史的な考察もなされていたのだろうと思います。そこでは脳の記憶ばかりではなく、当然細胞の記憶というような、現段階では計量不可の想像も入り込んで、一種科学を超えて宗教的な領域に考えがおよんでいたかも知れません。教団側からすれば、唯の物論学者ではないと言うことで、興味をかき立てられたんではないかと思います。
156
:
佐藤公則
:2025/05/28(水) 10:09:48
徹底して身体を、そして生命を辿っていきますと、細胞に、さらに辿ると物質に突き当たりますから、否応なく宗教的にならざるを得ないのだと思います。つまり神秘ですね。現在の段階では、突き詰めていくと、そうなると思います。三木さんが幾ばくか学者の世界で傍流として遇されたのは、科学と宗教の境界の所まで考えを詰めたからだという気がします。ですからnishiyanさんが「宗教イメージにも通じるやわらかな人間観」と評するのも、あり得ないことではないという気もします。実際三木さんが、「おもかげ」を多用して論ずるくだりなどは、ちょっと危なく感じました。ですからまったくそういう所が、宗教的要素が、ないとは言えないとは思います。ですがやはり解剖学者ですから、著述の方は徹底的に論理的だという印象をぼくは持っています。それを超えたところですね、それを超える先があって、そこでは宗教的なところを許容しなければならない。そういう「やわらかさ」、それは持っていたように思います。
もうひと言だけ付け加えますと、安藤と三木さん、それに養老さんも加えて考えたときに、ぼくは共通するのは頭の働きに対する危惧だと思っています。実に人間的な本質のところで、人間性という言い方も含めて、三者三様に、危ないもんだよと警告を発しているような気がしています。よいと考えること、理想とするところを考えると言うことは、文明が不可逆に進むように、人間にとっては単に不可避であって、結果的によいことかどうかは分からないことだ。そう言っている気がします。現に社会はよくなっているどころか、生きづらさが増して全体としては悪くなる一方ではないかと。これに関して言うと、他方、吉本さんが全幻想領域という、登る峰を別にして、登って行ったわけです。ぼくからすれば三人は深入りするなと言っているように思えますし、一方吉本さんは解明に向かって突き進むという方向性だったと思えます。三人は人間の考えを信じるなと言うことを考えていたし、吉本さんは、考えろ、だがすべてを疑えという考えだったと思います。ぼくはここでハタと立ち止まってしまいます。もちろんどちらも人間や人間社会の理想を念頭に置いて言っていることは間違いないと思います。その意味では同じとも言えましょう。
ぼくとしては、nishiyanさんもこういう所は視野に置かれているだろうという気はしています。そしてそれを上手く処理できているよということであれば、そこの所を伺ってみたいなと思います。
ずいぶん長々と書いてしまいました。ただ長いだけのとりとめのない文章になってしまったかも知れませんが、ご容赦ください。では、今日はこれで失礼します。
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