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120
:
nishiyan
:2024/09/15(日) 10:50:47
2.
2 究極のイメージとしての文学とは何か
いまご紹介にあずかりました吉本です。いまご紹介いただいたことと少しずれてお話ししたいと思いますが、でもお話ししたい一番肝心なところは変わりませんから、そういうことで始めたいと思います。僕は長い間、文芸批評をやってきたのですが、現在、僕が一番関心を持っていることで、しかも文芸批評というものがいま当面しているのはどういう問題かという視点から、いま書かれている作品にも触れながら少しお話ししてみたいということです。
先ほどもプライベートにそういう話をしていたのですが、たとえば時計を考えてみると、究極時計というものがもうできているといえるのではないかと思います。ただ時を知るということのためだけならば、きわめて正確なものが現在できてしまっていて、それ以上のことはいらない。それは安くて、本当に簡単にどこでも売っているという感じです。あとは装飾的にどうするかとか、かたちをどうするかとか、軽くするにはどうするかとか、いろいろなことがあるでしょうけれども、しかし何秒ぐらいしか違わないというぐらいきわめて正確に時を正しく知るという意味合いの時計ならば、もう究極のものができて普及してしまっていると考えたほうがよろしいわけです。
また、たとえばミノルタα1600はほとんど究極カメラに近いのではないかと思われます。カメラの分野でもそれは専門家が当惑するような意味合いで、究極カメラがたぶんできてしまっているといえるのではないかと思われます。
それと同じように、文学、芸術の分野でまず究極な表現ができてしまっているなと思えるのは、映像の分野です。つまり映像の分野ではほとんど究極の映像がつくられてしまっていると僕は思います。僕はそれをもう十日ぐらいで終わるつくば万博の富士通館で見ました。
普通のコンピューターグラフィックの刻々に動いていく映像を見るわけですが、色差式のめがねでそれを見ると、映像が全部浮き上がってくる。それが全然すき間のない空間をつくって、円形ドームが全部スクリーンになっているところで見ると、ほとんど自分もその中で浮かんでいるような視点から、一種四次元の映像がちゃんと動いて見られてしまうようにしつらえてあります。たぶんそれが映像の究極的なかたちだろうと思われます。
ある分野、分野をたどっていくと、そこでだいたいにおいて、これでもうドン詰まりだろうといいましょうか、あるいは何かの始まりだろうといっても同じことですが、そういうものができてしまっているところがあります。ただ、いま僕らが文芸批評のところで何を考えているかというと、つまり究極のイメージとしての文学、あるいは究極のイメージから見られた文学とはどういうことなのだという、本当はそういうことの理論を築いてみたいわけです。
(「文学A085 文芸雑感」講演日時:1985年9月7日 「講演のテキスト」より」)
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