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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

1康@博多:2005/02/12(土) 10:26:52
ありがとうございます
ただいま旅行先にて、帰還後に訂正致します。

昨日は廣瀬淡窓が開塾した咸宜園を訪問、今日は福岡の古本屋さんの散策です。

「中洲なんかにたちよっちゃだめだよ」U^ェ^U

2やす:2005/02/17(木) 22:33:31
新岐阜古書展初日
本日新岐阜古書展の初日。毎年お休みを貰って開店に備へるのだが、今年は野暮用でお休みをいろいろ頂いてしまってゐるのでアフター5に直行。

『梁川星巌詩集選釋』吉村勝治著1944年博文堂書店(岐阜)1000部 \1500
『湘夢遺稿(明治4年刊本の複製、和装2冊)』1960年大垣市文化財協会200部 \3000

など収穫しました。

また「日本古書通信」2月号も落手。連載「続署名本の世界」では、人魚の嘆き様が神保町の高橋書店主を回顧してをられる。
われは所載の目録から注文した詩集を先ほどキャンセル。既に送付済みの由にて本当にゴメンナサイ。往復送料負担でお許し下さいませ。<(_ _;)>

また詩人index、遅ればせながら訂正致しました。こちらも申し訳ございませんでした。編集済

3やす:2005/02/19(土) 22:41:00
日録
 終日家居、昨日今日、何ぞ悒せき。
『湘夢遺稿』復刻、門玲子氏訳注傍らに五十篇読んで熄む。

4波江究一:2005/02/22(火) 15:59:51
淡窓
廣瀬淡窓は「淡窓詩話」くらゐしか読んでゐないのですが、手に入りよい詩集等ありますかね。



5やす:2005/02/22(火) 20:49:22
七釜温泉より@携帯
波江究一さま
出張先からこんばんは〜。よぱらてをります(笑)。岩波の「江戸詩人選集」なんて如何でせう。簡単なのは日田のお土産に小生も買ってきた「廣瀬淡窓・旭荘名詩選釈」(廣瀬資料館発行97P)の新書版です。400円だったかな。
廣瀬資料館前の骨董屋さんに吊り下がってゐた淡窓の軸、まだ気になってます。やっぱり本物だったのかなー。欲しかったなー。

6波江究一:2005/02/23(水) 16:30:43
パソコンから吟詠
早速のレスをどうも。意外に安く手に入るものですね。〒で取り寄せてもよいかも。
レスを見てふと思ひたち検索してみれば、吟詠も聞けるには驚きました。なかなか故郷で大事にされ愛好されて居る人のやうです。吟詠聴きながら小生も呑むとしませうか。
http://iris.hita.net/~city/tanok/tanatcl.htm

7やす:2005/02/23(水) 19:25:48
姫路より@携帯
 さうですか。吟詠がパソコンで聞けるのですか。実は漢詩は好きなのですが、詩吟は苦手です。 私にとっての漢詩って、つきつめると、やっぱり詩集、その版木の字面、なんでせうね。酒や音曲は必要ないんです。
 地元から愛されてゐるのはわかりましたよ。咸宜園近辺の地名がまんま「淡窓」ですから(笑)。

8やす:2005/02/28(月) 18:57:40
「昧爽」第七号
 「昧爽」第七号をご恵送頂きました。ここにても厚く御礼を申し上げます。特集にあげられた福田恆存については知るところ無きに等しいですが、『私の國語教室』は自分のかな遣ひを改める契機となった本です。前田嘉則氏が、年長の人からネット上で使用してゐる歴史的かな遣ひを注意されたエピソードを語ってをられますが、私もむかし職場でポカをやったとき(ずーと大昔のはなしですよ 笑)、講師への詫び状に歴史的仮名遣ひを使用して火に油を注いだ経験があります(やっぱり笑へる)。年配ったって戦前を知ってる訳ぢゃなし、その講師が担当してた国文学史だって戦後と切り離したところの知識にすぎない。歴史的かな遣ひは、今や普段に着てたら変人扱ひされかねない和服とおんなじなのですねー。ただ前田氏は「私たちの歴史はかうであると断定的に「教育」する必要はさらさらない」とも書いてをられますが、私は歴史教育なんて所詮、頭ごなしのものではないかとも思ひます。私らは生物学的に進化した人類の一匹であるとともに、歴史教育の中では、連続した民族の端っこに連なる一人であることを、その共同体の起源に遡ってお勉強する義務がある。それは単なる科学的断定や或ひはきな臭い政治的断定ともちがふのですが、先人に対する敬意であるべきで、やっぱり一種の断定、「なんかしらん大昔の偉い先生だからとりあへず敬へ!」だと思ふんですね。またつまらんこと書きました。
 ともあれ取り急ぎの御礼を申し述べます。ありがたうございました。

「昧爽」第七号 特集:福田恆存(200521発行 76p \600)
    連絡先(発行人:山本直人氏)nahoto@wf7.so-net.ne.jp編集済

9サンヤマ:2005/02/28(月) 15:21:30
(無題)
 「福田恒存」ではありません。「福田恆存」です。念のため。老爺心ながら。

10やす:2005/02/28(月) 18:58:31
訂正
人名を勝手に変へてはいけませんね。サンヤマさまありがたうございます。

11やす@モダニズム防衛隊:2005/02/28(月) 19:08:18
metal tower
盟友kiku隊員の ホームページです。よろしく。

12やす:2005/02/28(月) 21:17:40
風信子忌
立原道造記念館より本年の風信子忌の御案内を頂きました。が、わたくし事が忙しくてちょっと出られさうもありません。
参加者は原則として 会員と記念館へのご協力者を対象の由。編集済

13波江究一:2005/03/03(木) 15:59:08
多元語訳いろは歌映示確認ご協力をお願ひ
翻訳エンジンも発達しまして英訳からなら欧州語の主な物に訳せるやうになつて居ます。各掲示板での映示確認かたがた紹介まで。仮名遣扱ひの不当性を国際間に隠れなく示す為にも有効かと思いひます。現在独仏西葡伊露希まで愚サイトに載せて居ます。エンジンはライブドアのポータルと下記。エクスプローラーの最新バージョンならドイツ語の特殊符号は映ると思ふのですがどうでせうか。
http://babelfish.altavista.com/


周遊       去聲翰韻畔喚半   abba    

塔の巡りに花咲いて         
うねる岡邊や甘き声         
笑ひ燃え搖れとろけ居ぬ       
星落ち澄む身寄せん津ぞ       

たふのめくりにはなさいてうねるをかへやあまきこゑ
わらひもえゆれとろけゐぬほしおちすむみよせんつそ

晩春     入聲沃韻緑獨屋韻屋 ababc

新緑定まる頃  
娘を嫁がせて
親父腑拔けな笑み
「ワレもはあ居ねえのき」
香ひ搖らう家ぞ        

しんりよくさたまるころむすめをとつかせておやちふぬけ
なゑみわれもはあゐねえのきにほひゆらういへそ


Late Spring

At the time of new green revive newly
After the bridal party of his daughter
Fatherthe widower smiled feebly.
"Really you left here nowoh my dear!
The scent of seasonfilled around his house.

Spanish

El fin Primaveral

Es el tiempo de nuevo verde reavive
Despues de la fiesta nupcial de su hija
El Padre de viudo sonrio debilmente.
"!Realmente usted salio aqui eloh mi estimado!
El olor de season alrededor del su casa.


German

Später Frühling

Es ist die Zeit neuen Grünes.
Nach der bräutlichen Partei seiner Tochter.
Vater-Witwer gelächelt schwach.
Wirklich verließen Sie nowoh mein geehrtes hier.
Der Duft von season gefüllt sein Haus.



14kiku@モダ隊幽霊隊員:2005/03/04(金) 00:53:33
お礼
ご無沙汰しております。
拙サイトをご紹介いただき、ありがとうございまます。
今後とも、よろしくお願いいたします。

では、また。

15:2005/03/05(土) 23:58:19
ご無沙汰しています。
ご無沙汰しています。お元気ですか? 息子は2月末で、2年間の岐阜生活に区切りをつけて神戸に戻って来ました。2月半ばにWeb Siteを立ち上げました。お暇な折には遊びに来て下さいませ。アドレス記入させて頂きます。
  

http://www.takesada.co.jp/~shinok/

16西岡勝彦:2005/03/07(月) 12:11:35
田園漢詩選
お久しぶりです。
こんな本が出てました。池澤一郎「江戸時代田園漢詩選」農文協
ちっちゃいペーパーバックですが、\2000也。
最近は若い国文学者で江戸の漢詩をやる人が増えているみたいですね。

17やす:2005/03/07(月) 18:39:23
どたばた中。
 紫野さま、こちらにては初めまして。御無沙汰してをります。さらなるフィールドをひろげての御活躍の様子を拝見、ますますの健筆をお祈り申上げます。『季』の皆様方にもよろしくお伝へくださいませ。矢野さんもパソコン買ったみたいですがインターネットどうなったんでせう。一向にメール参りません(笑)。
 序でながらわからぬ方に御説明しますと、『季』といふのは第四次『四季』の解散後、その投稿者だった人々を中心に東西二手に分かれて旗揚げした同人誌の、関西地区の方の誌名で、(同人ではありませんが)精神的支柱に杉山平一先生を戴いてゐる抒情詩の雑誌です。ちなみに関東地区の方は『四季』の『四』の方を採って『詩』としたらしいのですが、音が縁起悪いんで『東京四季』にしたとのことです。どちらも私の参加した第五次の『四季』とは関係ないですが、第五次『四季』を廃刊するときに主宰の田中先生が、杉山先生を通じて私に『季』に参加するよう話をつけて下さり、紫野さんはじめ、矢野敏行さん、舟山逸子さん、小林重樹さんといった諸先輩方から、短い間でしたけれども極めて生意気な新人を自由に甘やかして下さいました。自分の詩集はあの同人誌に参加してゐなかったらば、おそらく数も溜まらず刊行には至らなかったでせう。まことにありがたいことであります。

 西岡さまにも、おしさしぶりです。なあんだ、『江戸時代田園漢詩選』。もちろん持ってますよ(笑)。刊行時に鯨さんに教へて頂きました(書き込みはしなかったかも)。しかしながら漢詩の関連書はどんどん増へてゆくのに読むペースが遅すぎるのです。近々生活のペースもあらたまって、漢詩愛好癖に凝り固まった孤独な老人といふ、我が覚悟せる将来像の変更も強いられるかもしれません。まことにたいへんなことであります(笑)。
しかしウェブ逍遥で紹介されてゐる国土地理院のHPや、全国パノラマ展望図集(パノラママガジン)は、すごいですね。早速図書館HPのリンク集にも、メモメモφ(._.)、と。

18西岡勝彦:2005/03/09(水) 08:49:23
RE:どたばた
>もちろん持ってますよ(笑)
釈迦に説法でしたね。失礼しました。
少し読んだだけですが、もう少し頑張って解釈してよ、と
言いたくなるところがあるような…。
>近々生活のペースもあらたまって
何かおめでたい便りでも聞けるのでしょうか。この掲示板
から目が離せない?

19やす:2005/03/25(金) 12:23:00
『湘夢遺稿』
『湘夢遺稿』二冊揃旧蔵箋貼極少虫の由 \38,000(和洋会) 微妙な価格。状態がみたいけど。
 復刻も持ってるし、物入りの時期に、今回は諦めよう・・・。

20やす:2005/03/27(日) 21:04:29
御礼
立原道造記念館より館報と特別展「立原道造が求めた形象」の御案内をお送り頂きました。ありがたうございます。館報の今号は、巻頭を杉山平一先生の回想が飾ってをります。
また語気鍛隊隊長、JIN隊長、葵の家隊員ほかのみなさまよりも沢山のお祝ひの品々を頂戴致しました。
ありがたうございます。しつこい風邪は治ってきたのですが、花粉症にひき続いてもうひと月位は頭が読書に向きさうもありません。こまったことであります。

21やす:2005/03/28(月) 21:29:21
『朔』155号
八戸の圓子哲雄様より『朔』155号をお送り頂きました。創刊33周年をお慶び申し上げます。ありがたうございました。今号特集の一戸謙三といふ詩人については、稀覯詩集『ねぷた』の全ページを画像情報として拙ホームページ内に公開しておいたのですが、著作権のことがお留守になってゐるのに気がつきました。差し障りがあるといけませんので、諒解の頂けるまでしばらくホームページからのLINKを外させて頂くことに致しました。

22やす:2005/03/30(水) 12:10:43
一去十三年
故郷に帰ってまるっと十三年、本日もって四十四歳、このたび好き好んで塵網の中に落ちました。
拙を守って、しかし今後は俗韻に塗れて生きてゆく所存とかや・・・今月はずーとかみさんとかわりばんこに風邪ひいて死んでをりましたが、治ったと思ったら早速、黒崎書店の目録から『黄葉夕陽村舎詩』の十三冊揃ひ(\40.000)を注文。(なんて言ってる時点で病膏肓ですね。売切れで残念やら内心ホッとしたり 苦笑)。

23:2005/04/12(火) 02:42:46
遅れてきましたが
ネットにある東洋琴学研究所の管理人です。遅れてきましたがよろしく。大垣の星巌について昔、記念館で講演したこともあり、星巌および江蘭の七絃琴については、20年位前から調べていて、一部は共同で研究していた故岸辺成雄先生(東大名誉教授)の「江戸時代の琴士物語」に紹介されていますが、語りたい事が山ほどあります。FUUさんの立原道造の系統と(道造が信じる)立原翠軒は水戸琴学でも中心でした。なお私は保田与重郎門下の西村公晴先生(伴林光平研究で著名)の不肖の弟子です。京大の長尾先生の話が1年前の書き込みにありましたが、先生とも一緒に
高台寺で宴会したことがあります。
 かっては琴を弾ける(レベルの高低はあるにせよ)人は、私を含めて五指に満たなかったのですが、今は中国の音楽学院に学んだ演奏者(?)を含めて、多少とも弾ける人間は20人は下らない状態です。女子十二楽坊の女の子も七絃琴を弾くくらいですから。もっとも日本で七絃琴を弾く殆どの人も(研究者を含め)、女子十二楽坊の女の子とそれほど違いません。
 琴も古書も玩物喪志になりやすいようで、琴でも中国の古いものを求めたがりますが、私は呉文光氏(中国音楽学院教授、漢詩も相当つくります。米国で民族音楽学の博士号、演奏者としても世界の代表者でしょう)の監修した現在のものを愛用しています。
 やすさんの岐阜の詩人の研究は敬意を表します。ちなみに岐阜県の文人の何人もが琴を好みました。今度、お知らせします。
なお老龍琴は星巌記念館にあり、星巌の詩にある唐琴は大阪のある所有となっています。いずれも国宝級の名品です。

24やす:2005/04/12(火) 23:33:25
(無題)
>凌霄山人さま
 はじめまして。漢詩初学者のサイトに書き込みを賜りうれしく存じます。
初めて訪れた梁川星巌記念館はショーケースの展示物に埃が積もってをり、私立資料館の運営の難しさを思ひました。
理解者の少なくなった分野の文化財をいかに守り伝へてゆくかは、琴でも漢詩集でもさうですが、これからますます大変なことになりさうですね。
洒落云ってる場合ではありませんけれども、ことにも琴は木製楽器ですから湿度等の管理も、老龍琴なんかは本来はストラスバリばりにしなけあいけないんだと思ひます。
また保田與重郎の学統を継がれる方との由、今後ともよろしくお願ひを申上げます。


 生活のリズムが変はって、このまま本を読まない人間になるんぢゃないかと内心恐れてをりますが(笑)、
目が暗闇になれるやうに少しづつ物も見えてくるんだと思ひます。
古本仲間の皆様をはじめ、御無沙汰を決め込んでゐる今日この頃ですが、しばらくは御免下さい。
手始めに再び漢字の修養をはじめました。

25:2005/04/13(水) 02:08:56
漢詩は難しくて
やすさん。早速恐縮です。「保田與重郎の学統を継がれる方」というのは誉めすぎで、実体はもっとあやふやですのでよろしく。
前に進藤虚籟先生(眼医者でした)はじめ土屋竹雨門下の方からも漢詩を作るのを進められましたが気が進まないのは中国語ができないためで、まだ作った経験がありません。
また西村公晴先生は和歌でしたが、これも私はまだ一首も作ったことがありません。
己の力量を知る不肖の弟子です。
 読むのは好きで、宋人の詩文集(別集)は静嘉堂文庫で北宋など相当量を「斜め読み」しました。その感覚から言えば、江戸の職業文人の詩にはイライラさせられます。命がけであった宋代文人官僚と、殆ど、添え物であった江戸の雇われ学者・文人では違いは当然です(勿論、中には、例えば庄内の菅孝伯など、はっとする詩もありますね)。
 厳しい批評は置いて江戸詩集からは当時の姿が浮かび上がるので興味深いものです。
琴はどちらかというと扱いが雑で、千年前のものも現在演奏に使っています。バイオリンよりも年月がたっていますが。日本にも多くの名琴がありますが、皆さんの近くでは徳川美術館に星巌と同じ名の「老龍」という名の琴があります(藩祖ゆかりの品です)。
 名品もいいですが、それよりも座右においた琴を静かな夜などに弾くほうがいいですね。

26やす:2005/04/14(木) 22:40:23
日本古書通信909号
 日本古書通信909号本日落手。人魚の嘆き様の連載「続署名本の世界」は、新著の予告とともに、『在りし日の歌』(刊行)世話人からの中島健蔵宛献呈本、『愛する神の歌』立原道造宛献呈本、高森文夫詩集『浚渫船』の中原中也宛献呈本の紹介が。人魚の嘆き様は「生前の著作は中也より少ないが、トータルの署名本の現存部数は確実に立原のほうが多いであろう。」と書いてをられるが、数多くの現物に当られてゐるひとの言葉だけに留意したい。
 ただ文中最後にふれられてゐる「中原中也研究」創刊号(1996.3)所載の高森文夫に関するエピソード(福田百合子 中原中也『山羊の歌』初版の周辺―高森文夫訪問を機に)を、恥ずかしながら私はまだ読んでゐない。高森文夫氏自身が書き残したパッションあふれる好エッセイ(過ぎし夏の日の事ども―中原中也全集月報?1967.11)を、もう少しときほぐしたものだらうか。高森氏とは一度田中先生宅まで御案内したことがあるけれど、阿佐ヶ谷駅までの行きかえり、たうとう中原中也のことは訊けず終ひに了った。たまたまネット上でお孫さんが想ひ出を書いてをられるのをみつけたが、“シリアス系のキャラ”といふか、初対面から飛び込んでゆける詩人ならではのキャラといふ訳ではなかったことが残念であった。その後、『舷灯』といふ全詩集をお送り頂いたが、それならもっと強引にお話を伺っておくべきだったのだ。


>凌霄山人さま
「江戸の職業文人の詩にはイライラさせられます。」とありますが、たとへば「婆娑たり」なんて言葉、よく出てきますがたしかに実感沸きませんね。もちろん私の修行が足りないせゐでせうが、実際の刊行物としての詩集が手許になかったら、江戸時代の漢詩にこんなに入れ込んでゐたものかどうか。「原質の意義」なんて嘯いてゐますが所詮は玩物喪志の類ひかもわかりません。

ではでは。ごん太のおなかの具合が心配です。

27:2005/04/21(木) 03:39:22
はじめまして
小山正孝氏の記事からこのサイトに入ってきました。すると驚いたことに藤澤清造氏の記事があるではありませんか。この人のことを十数年間知りたいと思いながら果たせぬままでいたのです。小山氏と同じ四季の仲間であった大木実氏が藤澤清造氏の詩を書いていたことをご存知だったでしょうか?(詩の中に藤澤清造という名前は出てこないのですが。)もし、ご存知なければ私のホームページを是非ご覧になっていただきたいと思っております。私のホームページは次の通りです。http://www1.ttcn.ne.jp/~nangoなお、このあとすぐ、亀鳴屋さんのほうにも同じようなメールを送るつもりでいます。

http://www1.ttcn.ne.jp/~nango

28やす:2005/04/22(金) 12:17:28
(無題)
どらぽえ様、はじめまして。
藤澤清造といふのは私小説界の極北を自ら歩んだ人物として有名な小説家ですが、私はこの本しか読んでゐません。唯一の生前刊行本にして長編の『根津権現裏』の初版本は“稀覯本の世界”サイトでも懸賞品の目玉になりましたし、古書界でも人気の珍本らしいですね。
第10詩集『冬の支度』中の「夾竹桃」という作品に関する内輪話に類することは、『文学館(潮流社刊)』所載の対談記事でも触れられてをらず、初耳でした。詩人が砂子屋書房に勤めてをられたことと関係するのでせうか。
今後ともよろしくお願ひを申し上げます。


犬の食欲が一向に回復しないので、大木実の詩にうたはれた柿若葉の美しい季節になっても気持ちがはずみません。 U=ェ=;U

29:2005/04/25(月) 03:04:56
ご返信ありがとうございました。
藤澤清造氏がお亡くなりになったのは1932年、大木氏が20歳くらいの頃であり、砂小屋書房に勤務し始めたのは26歳くらいだから、砂小屋書房とは無関係のように思われます。20歳前後の大木氏は勤務先が休みのときには関谷忠雄とか杉江長英とか木山捷平だとかいう先輩の文学者のお宅をなかば強引に訪れていたようです。(大木氏といえば控えめなことで有名らしいのですが、私はそんな大木氏も人間くさくて大好きです。)藤澤清造氏を訪れたのも不思議なことではありません。(大木氏は当時小説家希望でもあったのですから。)藤澤氏は赤貧あらうがごとき貧乏をおくびにも出さず大木氏を近所の食堂に誘い、何でも好きなものを食べるようにと言った。ところが、大木氏は後日藤澤氏が行き倒れになったことを知る。大木氏の胸中やいかに!煮魚の味が涙とともに甘くしょっぱくよみがえってきたのではないでしょうか。「夾竹桃」という作品は大木氏が書かれた作品のなかでも極めて完成度の高い作品であると思われますが、どうしてもこれだけは言いたいというやむにやまれぬ真情がそれを可能にしたのではないでしょうか。ところで、やすさんのこのホームページ、四季の詩人についての情報が満載。私の知らないことだらけで、とても勉強になります。四季の抒情こそ日本抒情詩の正統的伝統です。戦争責任という大義名分のもとにそれを抹殺し自分たちの党派の伸長をはかった党派抗争的グループ。(詩は政治なんですか?)またそのあとに登場した言語遊戯的グループ。(さすがですね、言葉の使い方のうまさ、かないませんよ。サーカスの曲芸を見る思いです。でも、それがどうしたんですか?詩って言葉のサーカスなんですかねえ?)ストリップ的女性詩のグループ(女性がセックスのことを書けば、たいていの男はそれだけで喜ぶんですよ)みんなみんな仇花なのではないかと思われます。文学史に残っていくのは、四季の伝統を踏まえた櫂グループの詩人たちおよびごく少数の詩人たちのみ。(たぶん)その意味でも、やすさんのこのホームページは貴重です。エールを贈らずにはいられません。がんばってください!

http://www1.ttcn.ne.jp/~nango

30やす:2005/04/25(月) 21:07:36
(無題)
>先輩の文学者のお宅をなかば強引に訪れていたようです。(大木氏といえば控えめなことで有名らしいのですが、私はそんな大木氏も人間くさくて大好きです。)

とのくだり、とても大切で貴重なことと思ひます。
私も、暮らしの厳しかった当時の詩人の、無心の類にまつはる噂は聞いたことがありましたが、やはり文学的野心も持ち合わせてのことであったかと合点致しました。

土崩魚爛状態の戦後現代詩詩人については、むしろ悪口も何も語らぬがよい、といへるほどの情勢となって参りました。後世の愛書家に敬愛されぬ詩人に向けて、これ以上目くじらを立てて鞭打つ必要はないかもしれません。エールのお言葉をありがたうございます。


【近況】郵送古書目録より『詩集西康省』(題簽欠シミ有)の津村信夫宛署名本\4,000、ならびに『井口蕉花詩集』(函欠痛み有)\30,000を注文しました。ひたすら愛犬の回復を願ふ日々。

31やす:2005/05/04(水) 10:26:54
国民の休日に
 このホームページの公開をはじめてまもなく6年にもなりますが、ずっとふしぎに思ってゐることがあります。それは、このサイトがやってゐること、やらうとしてゐることは、おそらくよその人たちによって次々になされ、こんな中途半端なへなちょこサイトは直にインターネット検索結果にもかかりづらくなるだらうと思ってゐたのに、そのやうな状況になかなかならないことでした。尤も、ここが中途半端な書誌公開を中心とするへなちょこ論考サイトであることは的はづれでない。しかし四季派をはじめとして昭和初期の抒情詩人達をテーマに据えて顕彰・研究をはかるホームページの数が、日本の大学で近代文学の研究をしてゐるだらう先生方、院生、学生達の数のことを思ふと、あまりにも少ない気がしたのであります。大学における研究成果の一般公開はこれから先どんどん進むものと考へられます。 CiNiiから検索をかければ題目名だけでなく、リンクされた論文本体に直接たどりつく機会も、今後ますます増えてゆくことでせう。しかしそれはあくまでも一度印刷に付されたものが著者の許可を得て公開されてゐるのであって、つまりそれを書かなければゐられなかった著者に即した理由が、直接彼の手を通じてインターネット上で公衆に対して問はれてゐるわけではありません。私にはそこのところがなんとももどかしく感じられてなりません。一般に研究者業績としてインターネット上の論考が参入されることはないのでせうし、ホームページ掲示板といった、顔の見えない相手とのインタラクティブな交流の場を設けてあげく筆禍に遭ふより、上下関係にある学生相手に直接持論を吹聴してゐる方が楽なのには相違ない。また、論文対象について云っても、思想的に攻究できないやうな戦前抒情詩人たちの文業は、詩史的、書誌的、統計学的に追っかけてゆかなくては研究成果とはなりにくいものだし、それを誰でも閲覧できるところに逐次的に公開してゐたのでは、学術的な実績にもならない訳でせう。逆に云へば、インターネットにおける好事家・アマチュアの出番がそんなところにあるわけで、以前古書店主のあらわした書誌学的な著書が掲示板上で研究者と思しき人たちから散々に叩かれたことがありましたが、あの内容もインターネット上に無料で閲覧できるやうな形で公開されてゐたのだったら何も問題にはならなかったに違ひありません。ことほど左様に「印刷に付す」といふことの権威・権益といふものは大変なものなのであります。

 九州地方の文学資産データベースをめざして「スカラベの会」をたちあげられた亡き花田俊典さんが、御自身のサイトを「ゆるやかに相互連携しあう情報収集と発信のシステム」と位置づけられてをられますが、そのやうな不文律として成り立つ、当初のインターネットの理念であったらうところの連合に寄せる信頼を私もまた共有できたらと思ひます。

「(前略)それならいっそ情報上の架空の図書館をつくろうというのである。つまり、判明している限りの情報(人名・雑誌名・その他各分野の項目に及ぶ)を網羅し、その現物の所蔵場所なり人名の詳細文献リストなりを各項目に逐一付記していくのである。将来的にはこのデータを各地の公共図書館で閲覧に供し、同時にインターネットでも公開する。いずれかの方法でアクセスし、現物が見たかったら、その所蔵者(公共図書館、あるいは閲覧に応じる個人)に申し出て、それを手にしたらいいのである。これが全国各地のブロックで実現したら、どんなにわくわくすることだろう。とくに珍しい資料は、(中略)著作権とか版権とかの問題がクリアできるなら、インターネット上のホームページで写真版公開すればいいのである(後略)」(スカラベの思想より)

 今後の私は、いろいろな理由から古書を買ひ足すことは少なくなってゆくのぢゃないか。ただ現在手持ちの戦前の詩集については、江戸時代の漢詩読書と並行して、著作権にも配慮しながら書誌と抄出の公開を再開してゆきたいと思ひます。職場〜日本〜地球にいたるまで、なんだか日々すべてが世知辛く生き難くなってゆく環境のなかで、この連休、少しく正気と初心をとりもどした頭をゆっくり休めてゐるところ。おかげさまでワン公も無事恢復しました。U^ェ^Uゞ「ご心配お掛け致しました〜。」

32中村一仁:2005/05/09(月) 20:36:58
「昧爽」第8号について
やす様へ

大変ご無沙汰致してをります。御健勝のこととお慶び申し上げます。

「昧爽」第8号が本日入稿になりました。今月25日ごろにはお手元にお送りできるかと思ひます。今回は、明治の特集です。山本直人君の田山花袋論などが収録される予定です。また、淺野晃についての拙稿や山本君の西田・倉田論など、今回は新しいものも含めて、連載も多くなつてをります。何卒ご叱正賜りたく存じます。

さて、先日神保町の古書店で、中国大陸から帰還した頃の保田與重郎が大鹿卓・淺野晃・牧野吉晴の三人に宛てて書いた一枚の葉書を発見。敗戦後の保田の心情と感慨、再起にかける思ひが短い文面から強く伝はり、胸の底から揺さぶられるやうな感動を覚えました。迷はず購入するとともに、新学社から刊行が予定されてゐる『保田與重郎書簡集』の編集を手がけてをられる谷崎昭男先生に、コピーを提供する所存です。書簡集収録の暁には、書簡集の目玉の一つとなるだけでなく、今後保田の伝記などが書かれた時、敗戦後の心情を伝へるものとして、必ず執筆者に引用されること間違ひなしの資料だと確信してをります。著作権の関係で、その文面を紹介できないのは残念ですが、三人(揃つて尾崎士郎主宰の「文藝日本」の同人だつたはずです)の行方が分からなかつたためか、あて先は大鹿の住所となつてをり、発信地は「大和国桜井町」となつてゐます。

末筆ながら、どうぞ御自愛ください。

33やす:2005/05/10(火) 09:01:38
『保田與重郎書簡集』
 中村一仁さま、こんにちは。
 浅野晃の連載順調の由、また『保田與重郎書簡集』といふ嬉しい企画を聞かされて喜んでをります。
 膨大な量が遺されてゐると思しき保田與重郎の書簡については、若い頃の書簡、ことにも戦争や事件について言及した書簡、女性や少年に宛てた書簡など、興味つきませんが、いったいどれだけの分量がどのやうな人々から集まる目算のたつものか、御本人は文学者の書簡を発表することに対し、至って慎重といふか自他にわたり否定的であった訳ですが、おそらく書簡集があの全集に収められなかった一番の障礙となった原因は、収集作業が茫漠・多岐にわたる困難な事業であることが、編輯に携はったどなたにも容易に見渡せたからぢゃなかったかと憶測されます。
 もっとも雑誌「イロニア(新学社)」においてまとまって公開された平林英子宛の書簡が、彼の著書の文体から一般に想起される人間性を、(期待通り)嬉し く裏切ってくれる内容と書きぶりだっただけに、この度の谷崎昭男氏の企画が同じい意向を踏んだ、かゆいところに手が届くやうな配慮をもって実現すれば、 (例へば伊東静雄の日記・書簡集とは違った切り口から)日本浪曼派の生成の現場を伝へる、文学史上の第一級の文献となるのに相違ありません。といふか、当節、日本のアイデンティティに対して外からの誤解、内からの暴発が懸念されるなか、もっとも柔軟性がもとめられる言論界における“慶賀すべき事件”となってほしいものです。ほんたうに待ち遠しいですね。

34やす:2005/05/11(水) 07:29:15
TNX FR UR QSL
昨日、フランスから届いたぐれむん様の
絵葉書。だれだらう。あ、このひとだ。知らないや(笑)。
道中お気をつけて。メッセージ有難うございます。

35やす:2005/05/14(土) 21:19:29
(無題)
【日本古書通信 Vol.70 No.5】
人魚の嘆き様の連載は次回が最終回の由(残念、でもおつかれさまでした)。
また目録のページからは、新村堂から長戸得齋の『得齋詩文鈔』が\42,000とな…(タメイキ)。

【高円寺西部古書展】
『定本 木下夕爾詩集』1966函帯が\10.000で出てゐます(星野書店:03-3398-3150)。でも“署名入り”って誰の? 私はふくやま文学館の『在郷の詩人木下夕爾』\500といふパンフレットをネット検索でみつけて興味津々。

【近況など】
今週は津村信夫宛の『詩集西康省』と、かつての宿願(?)だった『井口蕉花詩集』を入手。
競合したひとたち御覧になってたらゴメンナサイ。

36やす:2005/05/15(日) 20:05:19
『得齋詩文鈔』
県立図書館でどんなだか実見。扉、序跋、「上内贈村瀬士錦」(七絶)、「藤城書屋記」(文)などコピーして帰還。所有欲歇めり。


 上内(こうずち)村瀬士錦(村瀬藤城)に贈る。

赭圻蒼壁鬱成環 中有騒人掩草關 日夕唯親賢聖籍 匹如蘇子在眉山

赭き圻(さかい)、蒼き壁、鬱として環となる。 中に騒人(詩人)の草関を掩ふ有り。
日夕、ただ親しむ、賢聖の籍(書籍)に。 たぐふに蘇子(蘇軾)が眉山に在るが如し。

37やす:2005/05/16(月) 20:24:01
(無題)
続いて福地書店の目録から『五山堂詩話』8冊揃 \28,000 むむむ・・・(汗)。

38やす:2005/05/25(水) 21:59:16
『昧爽』第8号
 中村一仁・山本直人さま共同編輯同人誌『昧爽』第8号をお送り頂きました。厚く御礼申し上げます。
「特集 遥かなる明治」「追悼古木春哉」の各寄稿文のほか「浅野晃ノート」連載もはや4回を数へ、雑誌の充実ぶりに目を瞠るばかりです。ここにても皆様の御健筆をお祈り申し上げます。ありがたうございました。

 先週は私事にて青森まで一っ飛び。むかし恐山や斜陽館を旅した学生時代から実に20余年ぶりのことにて、もう感無量。
 宿で「トゲクリガニ」といふ蟹を食べさしてもらひました。こぶりの毛ガニみたいので、この時期にしか採れないらしく、「ははん、太宰治が『津軽』の中で山盛り堪能したと書いてた”蟹田のカニ”だな。」と直感。あとは近代文学館や棟方志功記念館、寺山修司記念館など、ブンガク的な見所は一切パスしてのとんぼ返りでした。圓子哲雄さん、お会ひしたかったなあ。今村どの、どうしてるかなあ。

最後に【江戸漢詩情報】
『江戸の儒学』(うーん、またもやペリカン社。高いなあ・・・思案中です。)

39やす:2005/05/28(土) 12:25:36
鈴木伸治の評伝
本日図書館宛に岩手出版より「廃業に伴う書籍の販売について」なるダイレクトメールが着。
裁断処分される本の案内である。なかに東北の詩人、鈴木伸治の 評伝を発見、
\4000→\700(〒\300)とのことなのでここにお知らせいたします(在庫は只今23冊。私も注文しました 笑)。ははん、こんな本が出てるせゐもあって詩集がバカ高くなっただな。
ほかに啄木の文学編年資料集(\5,300→\1,600 残部13冊)も。

岩手出版(〒023-0889 岩手県水沢市高屋敷89-7 Tel:0197-23-8485)

40やす:2005/05/30(月) 20:57:21
(無題)
【江戸漢詩情報】
図書館に毎月送られてくる「創文」といふ広報誌に、日本漢詩人紀行(林田愼之助)といふのが連載中です。
 これまでの細目は以下のとほり。単行本になるのかな。

1.「淡窓の筑遊」(No.469,2004.10 ,p1-4)
2.「蘇峰の碑」(No.470,2004.11 ,p12-15)
3.「菊舎と費晴湖」(No.471,2004.12 ,p11-14)
4.「光圀と六地蔵寺」(No.474,2005.4 ,p15-18)
5.「茶山の紅葉夕陽村舎」(No.475,2005.5 ,p15-18)

41やす:2005/06/01(水) 23:29:24
思ひ違ひ
本日「岩手の農民詩人の状況」到着。あれれ、鈴木伸治と鈴木信治は別人なるべし。
『傾斜ある感情』もってるけど、穏和な抒情詩なので、をかしいと思った。
・・・恥ずかしい。

42やす:2005/06/03(金) 17:57:34
(無題)
図書館に毎月送られてくる広報誌は、目次には目を通すやうにしてゐる。

「學鐙」Vol.102(2) 18-21p「立原道造と建築」鈴木博之氏は今度の新全集の編集に係ってをられる一人。
例の「ヒアシンスハウス」のことを、“とてもとても純粋ではあるけれど、少年らしい欠点だらけの小屋”で“隠者の庵ではなく、少年の秘密基地に近い”と記されてゐる。云ひ得て妙なり。

43やす:2005/06/07(火) 07:51:05
新村堂書店古書目録
新村堂書店古書目録到着。
相変はらず手の出ない美濃の漢詩集に加へ、この度は新顔に北條霞亭の詩集が写真入で登場(『嵯峨樵歌』\89,250)。また『雲嶺樵響』は、以前読んだ『月瀬幻影』(大室幹雄著、中公叢書2002)冒頭で、一章を割いて紹介されてゐる静岡・藤枝の“御隠居ポエット”の詩集だ。岐阜でいふなら山田鼎石のやうな詩人かな。
近代詩では再びあらはれた『詩集西康省』の署名本(今度は三好達治宛 \29,400)にドッキリ。 報告をはり。

44岡部悦子:2005/06/08(水) 15:57:32
壷田花子作「夏河」についてお尋ねします
詩の出典と、詩の表記について教えて下さい。
故中田喜直氏が女声合唱に作曲されています。
花根(かこん)が辞書に見当たらず、仮根(かこん)ではないかとの
疑問を持っています。よろしくお願い申し上げます。

「夏河」
水の底なる
オフェリャ様
お優しい姿が映ります
摘みとられ
流されてゆく
水ヒヤシンス

川上では
蛇が首を持ちあげて
上手に泳ぎます
裸の黒い天使が
水音を立てて
浮ぶ花根(かこん)を
じゃまがります
小さな魚を
掬うために

http://www.ongakunotomo.co.jp

45:2005/06/08(水) 16:05:28
アドレスを書き忘れました
メールアドレスを後送致します。

46やす:2005/06/08(水) 19:59:42
(無題)
岡部さま、はじめまして。
おたづねの作品は
『水浴する少女』壺田花子 第三詩集(昭和22年12月10日 須磨書房刊) 23-24p
に歴史的仮名遣ひで載ってゐました。
御指摘の部分は「花根」(ルビなし)となってをります。
とりいそぎ御報告まで。レファレンスありがたうございました。

47やす:2005/06/09(木) 21:16:57
(無題)
購入の漢詩集、本日到着。
“御隠居ポエット”の詩集、表紙裏は“三都書林発兌(天保庚子=11年春新鐫)”となってゐて、『月瀬幻影』で紹介されてゐる“天均堂蔵(天保10年)”とは異なる後刷りと思しきもの。目録には天保10年と記載されてゐたから、てっきり紹介通りの地方の私家版と思って注文したんだけどちとガッカリ。
『柳湾漁唱』は、以前かわほり堂から売って頂いた端本と合はせて、三冊揃ふのを夢見るやうになりました(♪)。

48やす:2005/06/17(金) 22:45:30
(無題)
日本古書通信No911号到着。人魚の微笑様の予告通り「続署名本の世界」は今月をもって最終回。年内に単行本化される「署名本は語る」は100部限定で\8,000(販売は50部のみ)。抽選応募は一人一枚往復葉書で人魚書房まで。(〒171-0022東京都豊島区南池袋3-9-5-912)

石神井書林目録No.66号到着。
『山上療養館』昭和14年コギト発行所\15,750、『校註祝詞』昭和19年私家版\73,500、『岩魚』カバー欠昭和39年「陽炎」発行所\4,200、『浚渫船』見返欠昭和12年由利耶書店 \8,400などなど。

「絨毯」主宰者平野幸雄氏消息不明の由、中村一仁様のお便りにて知る。氏と通行が無くなって久しいが、私に代はって中村様のやうな浪曼派の血脈を継いだ若い友を得たことを知って、かげながら安心してゐたことでもあった。以前、文通の当時にも連絡が途切れたことがあって、そのときはしばらくして「実は入院してたんです」などと電話口で大笑された翁であったが、独居に加へすでに宿痾を薬で抑へる身であった。「絨毯」もその後何号まで刊行されたかを詳らかにしない。まずもって無事を祈る次第にて、皆様からの情報提供を募ります。

49やす:2005/06/20(月) 12:27:36
業務連絡
今週から三週間断続的に出張に入ります。レス遅れましたらあしからず御海容ください。

50やす:2005/06/22(水) 22:56:29
出張先より
今夜より姫路はゆかた祭とか、屋台で大変な賑はひでした。浮かれた勢ひでせうか(笑)骨董屋さんの店先で星巌の軸を発見、破格だったので買っちゃひました。印譜照合の結果は帰宅後発表。乞ふ御期待。皆で笑ひませう。

51やす:2005/06/24(金) 23:34:01
【今週の受贈書目】
『保田與重郎の維新文学 私の述志案内』古木春哉著、平成17.1白河書院刊、非売品(中村一仁様より)
「近代文学・資料と試論」4号(碓井雄一様より)
 中村さま、碓井さま、ありがたうございました。
ほかに明治古典会七夕大入札会目録、扶桑書房目録など。
古木春哉氏の遺著については、追って思ふこと書きたいです。

 さて購入の掛軸。箱はもちろん風帯・一文字もなければ軸先すら欠けてる逸品です(\8,500だもの 笑)。
関防印が合致してホッとしたものの、残りの印は真贋をどうかういふ前に印譜には未掲載(!)載ってない!うーん、困った。けだし“西征”中には、方々の止宿先で揮毫してゐる間に失はれて伝はらない落款の一、二顆があっても不思議ではない。こりゃ世紀の発見だ、わあい。などと都合のよい想像。ともあれ150年ぶりかに“里帰り”した掛軸を眺めては、ひとり北叟笑んでをります。実に、その、良い・・・「なんとか瞢騰ゴニョゴニョ水晶の燈」読めない(爆)。県立図書館に行って全集を見てきます。

52やす:2005/06/25(土) 21:51:47
掛軸の解読
吟愁和(帶)酔半瞢騰

時(坐)待林梢殘月昇

一陣飛香竹(春)影閃

風花亂撲水晶燈

??吟愁、酔ひに和して半ば瞢騰(ぼうとう)
??時に待つ、林梢、殘月の昇るを
??一陣の飛香、竹影の閃めく
??風花乱れ撲つ、水晶の燈

( )は版本(『黄葉山房集』:嘉永元年12月〜2年8月)所載時の字
『梁川星巌全集』第二巻 94-95p:伊東信編著、昭和32年刊より

53やす:2005/06/30(木) 22:39:49
「立原道造賞」
立原道造記念館から館報34号と企画展の御案内をお送り頂きました。ありがたうございました。企画展では来簡として保田與重郎や田中先生(全集未収録)も展示されるとか。とまれ館報の誌面後半を飾り、本草書誌学的薀蓄を全開するりょくと様の一文「詩集の彩り 風信子追録」に瞠目です(書影があったらなほ楽しめるものになったでせう)。また日経アーキテクチュア主催の「立原道造賞」はすぐれた意匠の設計を応募した若手建築士に与へられる新設の賞。職場の大学の住居学の学生およびOGの皆さんには是非チャレンジしてほしいですね。

54やす:2005/07/10(日) 16:50:29
追悼
 串田孫一氏の訃報(8日)を新聞で知り、昔頂いた詩集の礼状を取り出してながめる。
 最初の詩集はいろいろな詩人に献呈したが、現在高名にして、温かいメッセージを添へて励まして下さった先輩はすくなく、封筒が再生手作りのものだったことも含めて、とてもカンゲキしたことだった。思ふに二十代のみぎり、わたしが霧が峰高原や那須岳周辺まで足繁く散策に通ったのは、すでに信濃追分では感じられなくなった戦前の四季派的山麓風景を、戦後の山岳地帯の自然に置き換へて、その詩情の開拓者であった串田氏や尾崎喜八の著書を通じて索め、慕ったからではなかったか。それは未知なる追体験といふより、かつて幼年時代、父の持ち物だったスキーの革靴やチクチクするセーターやの、ワックスの匂ひがする想ひ出にまで繋がる。謂はばいみじくもこの手でつかみ得た四季派詩情の尻尾でもあったのである。
慎んで哀悼の意を表します。

55やす:2005/07/11(月) 12:24:28
(無題)
梁川星巌の掛軸。例の、 『梁川星巖先生印譜』未掲載の二顆を捺したものが、Yahooオークションに出てるのを発見。
印の組み合わせやサインの筆跡までそっくり。
こんなの見てるとオークションに参加したくなります。

http://page10.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m16358227

56やす:2005/07/14(木) 23:03:48
日本古書通信912号
日本古書通信912号本日落手。人魚の嘆き様連載「続署名本の世界」の余談として、近来の“大発見”について詳細が報ぜらる。偶々オークションで手に入れた『一握の砂』並本の、何故か糊付けされてゐた見返しをはがしたら、なな何と、啄木の尾崎行雄宛とおぼしき署名が現はれたといふもの。前の所蔵者は気がつかなかったのかしら? それとも由来に曰く付きの本?? 当の人魚の嘆き様は「いーや、曰くがつくなら此度の連載をミューズに嘉せられた我に付くべし」などと(笑)。しかしこんなこともあるんですね〜。ますますオークションに参加したくな・・・我慢がまん(汗)。

目録では新村堂書店からコギト1〜131号(123号欠)130冊の合冊が \136,000。
また新岐阜百貨店からも古書目録届いたけど・・・今回はみるべきものなし。しかも会場の新岐阜百貨店は今年で廃業。近鉄に続き、岐阜で古書展をするデパートが潰れてゆく。来年からどこでやるのかな。

57やす:2005/07/22(金) 11:41:44
業務連絡
小山正孝氏の御遺族より『未刊ソネット集』小山正孝著 -- 潮流社, 2005.7, 451p.
をお送り頂いた。本日よりしばらく家を留守にするので、帰還後には感想を記したい。取急ぎ御礼を申し上げます。ありがたうございました。

58やす:2005/07/27(水) 00:09:17
北海道より
本日、札幌弘南堂書店をめぐる。収穫『近世儒林編年志』昭和18年ほか。にこにこ。

59中村一仁:2005/07/27(水) 23:35:34
思ひ出の弘南堂書店
やす様

ご無沙汰致してをります。北海道旅行の最中でせうか。どうぞよいご旅行とならんことをお祈り申し上げます。

北大前の弘南堂書店、本当になつかしいですね。学生時代、毎日のように店を冷やかしてゐたのが思ひ出されます。正門近くの南陽堂書店とはご主人同士が兄弟といふ、北海道を代表する古書店ですね。私は昔、弘南堂で角川の『丸山薫全集』を購入しました。桶谷秀昭氏の『中野重治 自責の文学』や『保田與重郎』を、当時としてはずいぶん高い値段で買ったのもここでした。

もし時間があるなら、札幌の石川書店や並木書店など、丹念に廻られることをお勧めします。敗戦後、東京の印刷所が焼けてしまつたため、札幌の印刷所で刷られた文学書が少なくないせゐもあり、黒つぽい本に意外な拾ひ物があるかもしれません。それと、北海道は淺野晃の友人知人が多い場所だつたせゐもあり、歌集『廣原』や詩集『光の中に歩む』など、淺野の稀覯本が信じられない廉価で売られてゐたりします。『幻想詩集』なんかも、どこかに転がつてゐるかもしれないですね。

私は8月上旬に、北海道に足を伸ばして小樽で寿司やウニ丼、海賊蒸しなんかをたくさん食べてくるつもりです。淺野晃宛書簡翻刻のことは「昧爽」に書くつもりです。ではまた。

60やす:2005/08/01(月) 22:44:28
『保田與重郎の維新文学』
『保田與重郎の維新文学 私の述志案内』古木春哉著--白河書院, 2005.1, 193p.非売

 先達て中村一仁氏を通じてご恵送頂いた本書は、著者が一期の決算として、自ら旧著(『わびしい来歴』1976)に増補改題を施したものが、そのまま遺稿集として刊行されることとなった、非売品の一冊である。
 跋文で、谷崎昭男氏が在りし日の著者について、日本浪曼派の研究者ではなく「あくまでそれを恢復といふかたちで行為しようとしたひと」であったと偲び、また「厄介な氏の稟質」が凝ったやうなその文章に至っては、「読者はその難解をむしろ労はるのがつとめである」とまで書かれたのは、四十年来の友情に応へて最も本書の意義を伝へるくだりであらう。それほどにも著者が信奉した保田與重郎の文体に擬へた本文は、しかし述志の気迫が含羞の韜晦をともなひ、たいへんに読みづらい。日本浪曼派へのオマージュであったればこその「姿勢」なのだが、けだし「研究者ではなく、あくまでそれを恢復といふかたちで行為」するとは、作家を分析するのではなく、作家とともに世間の俗を暴き立てるといふ、日本浪曼派独特の批評流儀のことを指すのであらう。ならば、保田與重郎のやうな述志と韜晦を極めた批評それ自身に対するオマージュとは、同じ方法によってはあり得なく、むしろ師の自らに対する架空の批評に鼓舞されつつ、歌なり詩なりの実作によって鬱屈を昇華させるのが素直な発露ではなかったかと、その文章から立ちのぼる人となりを思って惜しんだのである。ひとから「日本浪曼派運動史」を書くやうにすすめられて憤ってみせるところ、清貧の私小説家の父を持つといふ運命のもとに出発した非職業文筆家(ディレッタント)たる著者において、確かにいろいろなことが秘匿・優遇・免責されるかもしれないところに、一種の「甘え」はなかったらうか。
 と、云ふは易いが、翻って私にとっても切実な課題が横たわってゐるから敢へて云ふ。「日本浪曼派」を「四季派」なり「戦前抒情詩派」とすれば、かうした批判はそっくり自分に突き刺さるからである。
 もっとも私かに歌集や詩集はおもちだったかもしれない。
 著者が自らの中学校時代を振り返り、戦中は自分のことを戦争協力に協力的でない要注意人物と刻印したやうな校長のことを、戦後、数を恃んで押し寄せてきた同級生達から弾劾されようとした時に、反対に擁護に働いた、といふエピソードを興味深く読んだ。ここには「より公共的な戦争協力を当為と感じてゐるやうな狷介年少の詩人」――いつでも多数派の中に俗悪を見出さざるを得ない宿命としての「天の邪鬼」たる著者の面目が躍如してゐる。彼が味ははなくてはならなかった失意、天性の浪曼派ゆゑに陥らざるを得ない敗者の誇りとその結末について、もっともっと身近の言葉で語って頂きたかった気がする。
 御冥福をお祈りします。


>中村一仁さま
 といふわけで、北海道より帰還しました。入れ替り、ウニ丼食べに出発されたでせうか。私もおいしいもの食べすぎてたいへんなことになってゐます。「札幌の印刷所」…とは、青磁社などのことですね。
  弘南堂書店には『山羊の歌』函付90万円也が飾ってありました。
「かつては全く見ない本だったのに、ここ何年かで十冊ほど出たんですよ」とは御店主のお話。函欠瑕物ながら今年我が蔵儲に帰することとなった一本も、そのどさくさのおこぼれに与ったといふわけであります(♪)。

 仕事や受贈の御礼などひとつひとつ片付けてゆきます。暑くて死にさうです。

61やす:2005/08/03(水) 19:25:00
『朔』156号
八戸の圓子哲雄様より『朔』156号をお送り頂きました。前号につづいて、特輯は青森の郷土詩人一戸謙三(筆名:一戸玲太郎)。「もはや忘れたい過去」として「詩人自らの手で葬られた」初期の未刊詩篇の数々。『ねぷた』の郷土詩と『詩鈔』におけるモダニズム詩しか知らぬ私にとって、もうひとつの(そしてもっともなじみやすい)横顔でありました。言及されることが少ないマイナーポエットの詩史上における位置や意義について、新出資料に基づき坂口昌明氏が解説される手際に敬服します。ありがたうございました。

後記にて平野幸雄氏の訃を知りました。いつ亡くなられどのやうに伝はったのか、圓子様にお聞きしたいと思ひます。

62やす:2005/08/04(木) 12:47:41
(無題)
新宿京王古書展の均一台(?)に拙詩集あらはるとの彭城矯介様よりの情報。
出品は関西の古書店で・・・ほかにも「詩集歌集句集がかなり沢山」といふことは・・・平野翁の蔵書が処分されたのかもしれない。

63やす:2005/08/09(火) 20:13:17
山上銷夏
今夜は信州鉢伏山の山荘にて一泊。むかし詩を書きに来た山に十余年ぶりの来訪です。食事どきには鹿の親子に窓から覗かれ大喜び。しかのみならず(笑)山小屋のワンちゃんとはお友達になったりして。

64やす:2005/08/14(日) 23:10:42
平野幸雄氏と「絨毯」のこと
 京都の平野幸雄氏がなくなられた。日にちについてさへ今つまびらかにしない。音信が途絶して二年近くなるが、その後中村一仁様より消息を仄聞して秘かに安堵してゐたことでもあった。追悼の意を表するとともに、茲にあらためて思ひ出されることを書いてとりとめもなく偲ぶこととしたい。
??13年前の平成4年、東京から帰郷して間もない頃にさかのぼる。「自分の雑誌でぜひ田中克己先生の追悼号を出したい、ついては師の晩年に一番近くあった者としてあなたにも何か回想を書いてほしい。自由に、何枚でも構はないから。」との趣旨で、ある日突然、未知のひとから手紙が届いた。電話だったかもしれない。その際自己紹介代はりに送られてきた雑誌(?)は、定型封筒に収まるやうレイアウトされた片々たる縦長のパンフレットで、であるにも拘らず、小高根二郎、浅野晃とすでに刊行された追悼号への寄稿者が、中河與一、森亮、中谷孝雄といった錚々たる人たちであったこと。またたった100部余りを年に1,2冊のペースですでに30号余りも出してゐるなんて、なんと息の細い長い雑誌なんだらう、と、ライフワークであるその風変はりなリトルマガジンの存在に驚いた。そして当時「田中克己追悼」と銘打って全特集を組む気配のなかった巷の詩誌に慊らぬ思ひを抱いてゐた私は、迎へて下さるところがあるなら一度思ひの丈をすべて吐き出してみよう、といふ気になり喜んで書かせて頂いたのだった。この寄稿は結局連載となって四回続き、以後文のみならず詩の依頼も受け、おだてられた私は、浪曼派作家および戦中派世代の不遇を切々と喞つ手紙とともに、この奇特な非売雑誌「絨毯:じゅうたん」の寄贈に与る「若い客人」待遇となったのである(序でながらいふと、印刷所だった文童社も、かつて詩誌「果樹園」を印刷してゐた浪曼派と縁深い印刷社であった)。
??それから平野さんは、私が担当することとなった『田中克己詩集』編輯の際に、短歌をどうして収めないのか、自費で印刷するから既刊分だけでも「栞」として綴込ませて頂けないか、と態々申し出され、詩以外を他日に期すつもりだった私の方針をゆさぶった。この御厚意に甘えることで結局、全歌集について中途半端に已んでしまった責任は、お世話になった刊行元潮流社の八木社長が不快の意をもらされるまでもなく、全て編者の私に帰するものであって、亡き先生、御遺族のみならず平野さんにもお詫びしなくてはならぬ不明についてあらためて記しておきたい。
??しかしながらこのリトルマガジンに寄せた文章が、その後拙サイトを立ち上げる際にはコンテンツの核となったのである。二冊の詩集を出しても反応は続かず、同人誌の参加にも意欲がもてなくなってゐた私に対して、さらなる作品を求めて下さったのも実に平野さんだけであり、寄稿詩に恥じぬものを選り抜き掲載して頂くことでピリオドを打ち、私は自らを孤独な詩作から解放させる方途としてその後インターネットにひらかれていったのである。パソコンとは無縁の方だったが、その際にも平野さんは「ホームページを宣伝しませう」とて「絨毯」の裏表紙に大きく紹介文を載せて下さったのだった…。
??平野さんとの通行が途絶えたのは52号を出された平成14年の春以降のことである。微々たる小額の借用と律儀な返済を何度も繰り返されるので、私がこれで終りにしませう、今までお世話になってゐるのですから返却はお気遣ひなく、との返書を認めたからであった。古書価の暴落がはじまりいろいろな全集が安くなって古書店の店頭に出てゐると、矢も盾もたまらなく買ってしまはれるらしかった。さりとて物に執着される風はなく、「この新刊まだ御存知ないでせう」と、浪曼派関連の恵贈本を突然送って下さったりする。だから無心のことも、或は手紙を寄せる口実だったのかもしれない。その以前にも一度、半年ほどのブランクの後に電話で、しばらく入院してゐたことや、「実はガンなんですけど歳だから薬で抑へてをれば平気なんです」と明るく笑って話される平野さんだったから、中村一仁さんから、その後も「絨毯」が刊行されてゐる事とともに、平野さんが相変らず元気である様子を知らされる機会を持つやうになると、私は平野さんとの疎隔にはじめて気付くとともに、しかしむしろこれを汐に、後は新しい若い友に頼むこととして、私はホームページで広がり始めた新しい繋がりのなかへ進んで、深刻に気遣ふこともなくなってしまった。平野さんの好きな話題について書けることが少なくなったので、自分は用済みとなりそれでよかったのだと一人合点したのである。
??二度も直接お会ひして話し込む機会があっにも拘らず(一度は京都駅で、一度は岐阜まで来られ、山寺の庵にご案内したかと思ふ)、家庭の事情に立ち入ることをしなかったから、御家族のことは存じ上げない。一兵卒として帰還された後、戦後は京都撮影所関係のお仕事に就かれ、今は年金暮らしの気楽な独居であることをお聞きしたが、その遺志と蔵書の行方を知るすべは無く、長らく「編輯中」と予告されてゐた御自身の歌集『マレオテイスの野』もどうなってしまったかわからない。先達て古書展で関西の古本屋さんから大量の詩集歌集句集が出て、なかに私の詩集を発見したと報じて下さる方があり、もしや平野さんの蔵書では、とも案じられたが、いったい何を案じたものか理由も資格もわからぬままに、今は御冥福をお祈りするばかりとなった。明日は毎年のやうに手紙で平野さんが不満をもらされた「大東亜戦争」の「敗戦記念日」である。

65中村一仁:2005/08/15(月) 00:37:14
哀悼 平野幸雄氏
やす様

平野さんへの追悼文、謹んで拝読致しました。本当に、あの方こそ現代の畸人であつたと今にして思ひます。「昧爽」の第9号には間に合ひませんが、第10号あたりで追悼文を書かうかと考へてをります。保田與重郎の高弟で新学社元社長の高鳥賢司さんの一年祭の前日、JR京都駅で目印の保田文庫の『日本に祈る』を持つた私を迎へてくださつた、あの小柄で痩身の平野さんの姿が今も忘れられません。駅の隣のホテルのロビーで伺つた、伊東静雄夫人の花さんが保田を偲ぶ「?火忌」に数年前まで参列してゐたといふ氏の証言を、今日に到るまで自分の手で明らかにしてはゐませんが、淺野晃を批判する梅原猛氏への反感などは、戦後といふ時代を耐へて生きてきた人の言葉と受け取つたものです。「日本及日本人」に日本浪曼派論あるいは保田論を書かれてゐるので、できればそれを「昧爽」に再録する形で追悼したいものと考へてをります。それにしても、こんな言ひ方は失礼かもしれませんが、亡くなつた日にちすら明らかでないといふのは、実に謎の多い人であつた平野さんらしい御最期と思はれます。

話は変はりますが、穂別町の淺野晃資料室に、やすさんが昭和末に淺野に書き送つた葉書がありました。その他にも、芳賀檀や清水文雄、蔵原惟人や門屋博からの書簡に興味深いものがありました。次はまた冬に行つてくるつもりです。勇払時代の苦渋と悲哀がしみこんだやうな詩稿ノートには言葉もありませんでした。これらもやはり翻刻せねばと思ひました。乱筆乱文ご容赦ください。

66高林ゆきよ:2005/08/18(木) 11:14:59
(無題)
中嶋さま

はじまして!突然の書き込み、失礼いたします。

本日、祖父の名前で検索をかけましたところ、貴サイトの
http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/library/00/toukaishishu3.html
「東海詩集」にて、私の祖父「高林清一」の詩が掲載されていることを
発見しました。

私の祖父は、昭和のごく始め、若いときに上京して佐藤春夫の主催する詩の会に
入門したようです。
貧しさのため尋常小学校しか出ていない祖父にとって、高校生、大学生が闊歩する
東京はヒリヒリするほど刺激的でもありながら、同時に劣等感と対峙せざるを得ない
場所だったようです。

その後故郷の富山に帰って公職につき立身出世し、富山で同人活動をしておりました。

祖父は私が8歳のとき(1984年)に他界しましたが、死ぬまで文芸、とりわけ詩への
情熱を失いませんでした。74歳でした。
祖母は非常に嘆き悲しみ、見るのも辛いと手書き原稿などを祖父の衣服や私物とともに
処分してしまったそうです。

私が成長して祖父の詩が掲載されている同人誌や、原稿、ノートなどを見たいと
思ったときに、ほとんど残っていないと聞かされて非常に残念な思いをしました。

「おじいちゃん子」だったためか、今でも時々、思い出したように祖父の名前を
検索しているのですが、祖父の詩がのっている同人誌(しかも初期の物)の存在を
知っただけでなく、実際の詩まで読むことができて本当にうれしく思っております!

現在私の手元にある祖父の作品といえば、有志の皆様に出していただいた遺稿集と晩年
富山で出されていた同人誌への寄稿分ぐらいしかありません。

晩年の祖父の作風は、郷土愛あふれる落ち着いた叙景詩ですが、遺稿集で読む限り、
若いときの作風はかなり屈折した「朔太郎風」です。
「東海詩人」での詩も、そういう若者くささが滲みでていていました。
優しい人格者の祖父、昔話や世界の童話を読んでくれた祖父、という記憶しかない私
にとって祖父の青春の屈託を垣間見ることができるのは、非常に感慨深いのです。

長文になりましたが、本当にありがとうございました!
これからも、お邪魔させてください。

mayamaya6@excite.co.jp

67やす:2005/08/18(木) 18:04:05
『東海詩集』と「東海詩人」
>高林ゆきよ様
 はじめまして。管理人の中嶋康博@【やす】です。
 戦前の東海詩集(東海詩人協会刊行 第三集)所載詩人、高林清一氏の御遺族であられます由、ここにあらためて掲載につきまして事後承諾をお願ひ申し上げますとともに、このたびはホームページの管理者冥利につきます御挨拶を賜り、現在閲覧が難しいこのアンソロジーを公開してよかったと、たいへん喜んでをります。今後ともなにとぞよろしくお願ひを申し上げます。
 巻末を見ますに、富山県からはこの第三集刊行時のただひとりの新会員として紹介されてゐますが、住所は氷見のままですね。この後、詩心やまず単身上京されたものでせうか。当時の東京が“ヒリヒリするほど刺激的でもありながら、同時に劣等感と対峙せざるを得ない場所”だった、といふのは世代を超えて、(出身は岐阜ですが)卒業後あてもなく同じく富山から上京した私にとっても、切ない実感です。お祖父様もまた、思ひつめて先生の門を敲かれたのかもしれませんね(それ私でした 笑)。
 ありがたうございました。


>中村一仁さま
 淺野先生に書き送つた葉書・・・。うう。そんなもの捨てられずに残ってゐたんですか。たしか封書も『随聞日本浪曼派』の感想を、対話者とのちぐはぐなやりとりを、小賢しく論って認めた覚えもあります(赧顔)。


 さきに“モダ隊隊長” JINさまより、貴重な岐阜市の戦前詩誌「東海詩人」をお送り頂きました。御礼とともにここに謹んで公開致します。ありがたうございました。尤も詩誌は、東海詩集・東海詩人協会とは縁もゆかりもありません。・・・過去の栄光にあやかったのかな。モダニズム系の吉川則比古(高山)や杉浦伊作(愛知)を招待詩人に迎へ、またこれも同人に名を連ねてゐないのに、瀬尾貞男が後記のトップで「さて何を書かう」なんて格好つけてるけど、結局2号以降は出たのだらうか。ともあれ岐阜詩壇の特徴である歌謡調、を脱しようと「まーんまかまか・・・♪」表紙のカットがいしいひさいち風でかわいい(笑)。

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/library/gifu/tokaishijin1.html

68高林ゆきよ:2005/08/19(金) 09:47:07
高林清一について
>やす様
お返事ありがとうございます!やす様も富山ご出身とは!私は氷見出身(現在は東京です)
なので、あまり岐阜に行くことはなかったのですが、実は近いんですよね。岐阜と富山。

昨日祖父の年譜を見てみますと、東海詩集に投稿したまさに翌年、上京している
ようです。14歳ぐらいから地元で詩や文芸の同人をやっていたよう。

昔の子は早熟なんですねぇ。それとも、詩というのは現代の「バンド活動」みたいに
若者の間ではカウンターカルチャーの一つとして捉えられていたのでしょうか?

市役所の書記をしつつ詩を書いていたようです。東京に来てからは都庁の小使い(?)
をやりながら、詩人で身を立てることを目指していたようですが。
しかし、様々な挫折感からか2年足らずで京都に行き、東本願寺に勤めたそうです。
小僧さんか何かでもやっていたのでしょうか・・・。謎です。

昨日のわたしめの書き込みに、大きな誤りがありました(汗)

×佐藤春夫門下に
○佐藤惣之助門下に

です。惣之助は学校に行けなかったような若者に「詩の家」という同人会を作って
作品を発表させていたようで、祖父もそこに参加したそうです。
祖父が富山に帰ってきてからは、惣之助が2回訪問しています。

69やす:2005/08/19(金) 20:04:39
詩人高林清一について 2
>高林ゆきよ様
 さうですか、佐藤惣之助門下!
 この掲示板を覗いてゐるひとで「詩の家」と聞けば俄然モゾモゾし始める御仁が何人もゐるんですよ(笑)。失はれた資料は実に惜しいことをされました。詩集こそ出てゐませんが、当時の雑誌「詩之家」にはかなりの作品と文章が載ってゐるやうですね。昨日のレスで触れた吉川則比古、瀬尾貞男といった詩人たちと、まさに毎月作品を競ひ合ってゐた仲間であったことも今更ながら気づきました。
 『現代詩誌総覧』(日外アソシエーツ刊)索引をもとに、確認できる収録詩文を拾ってみました。お祖父さまの足跡を探索される際の御参考になれば幸ひです。

「詩之家」より
第3年第4輯(1927.4)「父と子」18p
第3年第4輯(1927.4)「入家の言葉(『詩之家』壁書)」18p
第3年第7号(1927.7)「上庄川畔にて」24-25p
第4年第1号(1928.1)「水上の影」25-26p
第4年第1号(1928.1)「蟹」26p
第4年第1号(1928.1)「新しい生活者(壁画)」46-47p
第4年第4号(1928.4)「百姓」33p
第4年第4号(1928.4)「跪く者」33-34p
第4年第6号(1928.7)「一つの円の中へ」13p
第4年第6号(1928.7)「春の景色」13p
第4年第6号(1928.7)「展望」13p
第4年第9輯(1928.10)「美映」20-21p
第4年第9輯(1928.10)「美映」20-21p
第4年第10輯(1928.11)「半獣神」34-35p
第5年第1輯(1929.1)「半獣神(『詩之家』十一月号寸評)」42p
第5年第1輯(1929.1)「感動思情集」48-49p
第5年第1輯(1929.1)「扇子と蝿と少女」49-50p
第5年第7号(1929.7)「氷見鰯」5p
第5年第7号(1929.7)「オレンヂ色の風景」5p
第6年第4号(1930.4)「西方・丸亀市にて」9p
第7年第1号(1931.1)「上野の風景」66p
第7年第1号(1931.1)「首振り人形」66p
第7年第1号(1931.1)「秋」66p
第7年第4号(1931.4)「小卒男の歌☆失業する宗教 血の火花」34p

「詩神」より
第3巻第8輯(1927.8)「空・雲」55p

「椎の木」より
第3年第4号(1934.4)「春」55p

 残念ながら復刻が未だ無い雑誌なので、どんなものか知るためには所蔵の 神奈川近代文学館まで出向くかコピー依頼をする必要があります。しかし東京にお住まひでしたら近いですね(私は出身は岐阜(出生のみ名古屋)なのですが富山の大学を経由して上京、再び故郷へ戻ってきた「変形Uターン組」です)。
 また、当時の同人誌活動が“現代の「バンド活動」みたいに若者の間ではカウンターカルチャーの一つとして捉えられていた”とは、云ひ得たりです。富山時代には「裏日本」といふ雑誌を編集され、2輯までは出てゐたやうですが(「詩之家」第3年第3輯(1927.3)、および「詩魔」10輯(1927.9) 掲載広告より)、昭和2年3年の発表活動をみるに、実にはじけてます。もっとも上京してからは失意も経験されたとのこと、役所勤めを通じて、たとへばシャルル・ルイ・フィリップにあこがれた詩人大木実のやうに、詩風も順次落ち着かれて行ったものでありませうか。ともあれ経歴に謎のあるお祖父さんをもってるのは、一寸した優越感でもありますね。失はれた資料は実に惜しいことをされましたが(くどい 笑)、お祖母様の苦労も偲ばれるやうです。それでは。

70やす:2005/08/25(木) 22:50:44
詩人山川弘至について
 今年は戦後60年、つまり敗戦間際に無念の死を遂げた詩人たちの60回忌でもある。
 郷土出身の日本浪曼派詩人、山川弘至もそのひとりで、今年になって遺歌集・詩集が刊行された由、未見の方からメールにてお知らせ頂いた。さきに書簡集を刊行した桃の会からといふことで、続いて遺文集も出るらしい。
 奥美濃の郡上郡高鷲村には 記念館もでき、遺品資料が公開されてゐるといふ。
 書誌など詳細が分り次第、また紹介したいと思ひます。

71中村一仁:2005/08/28(日) 04:06:01
ご存じかもしれませんが…
やす様

時下ご清祥のこととお慶び申し上げます。
もう少し、終戦が早ければ、この人は生きて戦後、その才能を開花させてゐたであらうに…と思はせる人の一人に、山川弘至がゐます。折口信夫門下であるとともに、保田與重郎に傾倒した彼の文業が、書物の形で少しでも多くの人に知られるのは喜ばしいことだと思ひます。

ご存じかもしれませんが、この夭逝した詩人の御令室が歌人の山川京子氏です。「桃の会」の主宰者として、淺野晃とも交流のあつた成田れん子に短歌を指導した方でもあります。敗戦後、その山川京子氏のもとを一人の青年が訪れます。青年は「保田與重郎先生に活動していただくために雑誌を出します」と告げました。占領下であり、言論は抑圧されてゐる上、費用はどうするのか。山川氏がそのことを尋ねると、青年はひるむことなく「石鹸を売ります」と答へたさうです。保田與重郎のためなら、そして祖国のためなら何でもするといふ覚悟をこの青年から受けた山川氏は「(雑誌は)何冊でも引き受けます」と即座に回答したとのことです。山川氏を訪ねたこの青年こそ、後年、奥西保氏とともに保田を支へて新学社を創立した高鳥賢司さんであり、その「雑誌」がかの「祖國」でした。平成13年8月、高鳥さんの葬儀に山川京子氏が参列してゐたことが、名状しがたい感慨とともに思ひ起こされます。山川氏は戦前から保田と交流があり、これまで断片的に何度か、保田についての思ひ出を書かれてゐますが、女史御本人による本格的な保田論を、特に歌人の立場から書かれた単行本の形で、いつか拝読したいものです。「昧爽」の定期購読者の女性に山川氏のお弟子さんがをり、その方のご紹介状をいただいた上でお許しが得られたら、山川氏に保田や淺野のこと、そして若くして逝かれた御夫君のことについて、インタビューをさせてもらひたいとも考へてをります。

末筆ながら、残暑やら台風やらで体がをかしくなりさうですが、御自愛専一に願ひ上げます。

72やす:2005/08/29(月) 23:02:27
山川弘至の遺稿集について
 中村一仁さま
 残暑も当地ではひと段落してやうやく秋の気配です。フォローをありがたうございます。
 本日山川京子様より、山川弘至の遺稿歌集『山川の音』および遺稿詩集『こだま』をお送り頂きました。和歌の良し悪しが判定できない凡骨ゆゑ、桃の会をめぐる歌壇の現況等についても詳しくありませんが、さきに同会より刊行された『書簡集』では、詩人の最後の手紙に滲んだ無念に、粛然と息を飲む思ひ致しました。
 このたびも、特に郷土とのつながりにおいてどのやうに美濃の自然を心のふるさととして享けてゐるのか、といったところを興味の中心に、ゆっくり時間を割いて繙きたく(実はまだ小山正孝遺稿集について感想を書いてる最中。汗)、また紹介だけでなく一言なりとも感想が書けましたらここに掲げ、パソコンをされないと仰言る京子様にもお知らせ申上げたく存じます。

【照会先】 桃の会:〒167-0051東京都杉並区荻窪3-29-16
ヤマカワヒロシ【山川弘至】『山川弘至書簡集』1991/桃の会/351p/17.6×10.5cm/非売
ヤマカワヒロシ【山川弘至】『山川の音(遺稿歌集)』2005/桃の会 /182p/17.6×10.5cm/非売
ヤマカワヒロシ【山川弘至】『こだま(遺稿詩集)』2005/桃の会/281p/17.6×10.5cm/非売

73やす:2005/09/01(木) 21:24:19
中原中也の写真
もうご存知の人には失礼。高森文夫氏の遺品からみつかった 初公開写真。
全集が新しく出ると必ずこんな風にあとから出てくる。ぼくは知らなかったなあ。
消えないうちにとりこんでおきませう。
しかし詩人の顔を下から写真撮ると(立原道造もさうだけど)、幸うすく写るね。


四季派の外縁を散歩する(第8回) updateしました。

74やす:2005/09/05(月) 22:34:32
古書・古本フェア
今週名古屋駅のJR高島屋10階催事場で古書展がひらかれるさうです(9/7〜9/12)。目録もなにもなく本日いきなり(緊急案内)の葉書が舞ひ込んで来たんだけど、どこの本屋が参加するとかも不明。土曜日にあそびにゆくかな。

75やす:2005/09/12(月) 12:43:53
(無題)
日曜日に覗いた古本フェアは、すでに売れてしまったといふより肩透かしの感じでした。

先週は扶桑書房さん(〒162-0837東京都東京都新宿区納戸町7LM納戸町104)の古書目録から詩集を買ふことを得、戦前の尾崎喜八の詩集を揃へることができました(記念に詩集の書影をupしておきましたので御覧下さい)。
以前にも何度かふれましたが、戦前の文学書、詩集、雑誌のバックナンバーを、ありがたい価格で、安定して供給して下さる、地方の愛書家には一番に御紹介したい目録の古本屋さんです。ここにても御礼を(笑)。

76やす:2005/09/15(木) 21:55:49
『反響』復刻版
本日図書館に届いた宣伝から。
http://homepage2.nifty.com/TIKURINKAN/86000-090-0.html

77やす:2005/09/21(水) 17:54:03
古書目録より
趣味の古書展 木本書店 No.2173 『館柳湾』巻町双書16集 渡辺秀訃英 \4,000
古書里艸55 No.2998 『海鴎詩刺』菱田海鴎 \15,000

古書里艸は戦前詩集が載らなくなったけど江戸漢詩文がいろいろ。

78やす:2005/09/26(月) 19:50:51
(無題)
立原道造記念館から館報35号と企画展の御案内をお送り頂きました。ありがたうございました。
企画展2005.10.1-12.25 秋季企画展「立原道造・建築家への志向?“立原道造賞”創設を記念して」

この連休は漢詩文に親しみ、明日から出張です。

79やす:2005/10/06(木) 21:48:04
東京より
明日の出張用務に備へて上京、春以来の懸案だった田中克己先生の展墓を終へてホッとしてをります・・・。

80やす:2005/10/07(金) 23:15:56
只今帰還
今回の上京、やれやれ良い本は買へたけれど、新旧の友人とは久闊を叙す能はず。お茶飲んで閑談したかったのになあ。うーん、へこまないくさらない。

81やす:2005/10/14(金) 18:22:06
今週の古書目録から
今月の「日本古書通信」No915、新村堂書店出品の『嚶鳴館詩集』三冊が \60,900とか。
続いて神田古本まつりの目録も到着、巻頭写真版ではかわほり堂(kawahoridou@r2.dion.ne.jp 03-3292-1623)から、『黒衣聖母』1921函少痛印 \12,000『若いコロニイ』1953函署名入 \25,000などが、超破格で紹介されてゐます。
ことにも統治下朝鮮で刊行された稀覯詩集『幽鬱なる信號』上田忠男,1927年)なんてのは、どんな本なんでせう(\36,000)。同じ150部の稀覯詩集でもこちらはこのたび公開〜♪。

82やす:2005/10/15(土) 00:36:05
『昧爽』第9号
 今週はまた『昧爽』第9号を落掌。
 一番の読み物は中村一仁様の「伊藤千代子書簡の公開への感想」でした。「浅野晃ノート」の「番外編」とうたってあるやうに、これは浅野晃の最初の妻にして、夫の転向に錯乱し精神病棟で非業の死を遂げたといはれる伊藤千代子について、昨今の顕彰事業にまつはる政治的な思惑に対する感想(不快感)が述べられてあります。さうして彼女を論じた文献や、詩人が彼女のことを偲んで歌った『幻想詩集』を引き合ひに出しながら、結局彼女が「官憲の弾圧によってではなく、かつて自分が指導したマルクス主義のイデオロギーの呪縛によって死に追ひやられ」たこと、もっといへば「自分が指導したマルクス主義のせゐで千代子を死なせてしまったといふ強い自責の念」といふ、些かも転向に関しては恥じるところの無い、それ故に贖罪のかなはぬ詩人の胸中を、代弁して記してゐます。伊藤千代子の顕彰事業は、検索すればネット上でも簡単に見ることが出来るわけですが、その趣旨をそっくり覆してなほ彼女の姿を傷つけず、むしろ彼女ひとりの無念に対して打たれるがままになりたいといふ真心が、日本浪曼派なんだと云へるでせう。そして実は今回のテーマこそ、「人間浅野晃論」を描く際には最も大切な公私の勘所、つまり戦争で逝った者達への「鎮魂」と共に、もう一方の衷心に秘すべき「詩人の想ひ」であるのかもしれません。中村様はさらにこの問題について、再婚以来永年の苦楽をともにしてきた妻に即して、詩人の「現実」にもしっかり触れてをりますが、この真心がメソメソにみえてしまふ「オチ」を含めて(笑)今後もっと書いて欲しい、読みたい気持がしたことであります。
 ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。

『昧爽』第9号特集「戦争と藝術」2005,9,28 84p \700 編集部(nahoto@wf7.so-net.ne.jp)

83やす:2005/10/19(水) 22:31:04
石神井書林目録67号
本日、石神井書林目録67号到着。
ずーと欲しかった半谷三郎の 『發足』が出てゐます。・・・・・・(涙)あきらめませう。
今週はすでに『漢文学者総覧』『近世藩校に於ける学統学派の研究(上)』と、また訳のわからないものを顰蹙とともに買ってをります(タメイキ)。

84やす:2005/10/20(木) 20:18:30
最後の古書の市
前に新岐阜百貨店の閉鎖のことを記しましたが、本日到着の第7回古書展目録にはなるへそ「最後の古書の市」と銘打ってある。ああーあ。
なんか軸もでるとか。初日は祝日なので太乙と星巌の印譜をもって馳せ参ずる予定。

また先程ゆくりなくもぐれむん様より、福山市鞆の浦歴史民俗資料館の企画展示についてお報せいただく。実におしさしぶりであります。観にはゆけませんけれども図録はどんな感じなんでせうね。楽しみです。

85やす:2005/10/30(日) 15:50:11
只今帰宅
行楽日和の一日、車を飛ばして高鷲の山川弘至記念館を訪問、庵主不在にて見学はできませんでしたが、歌碑を拝み、まだ少し早い奥美濃の紅葉を満喫して参りました。郡上の常盤町には生家も残ってゐる由、またの機会に合せて訪問できたらと思ひます。

86やす:2005/11/03(木) 19:51:41
山川弘至記念館
 行楽日和・・・とはいへなかった一日でしたが、車を飛ばして再び高鷲の山川弘至記念館を訪問、新設される展示室の地鎮祭に30分も遅れて推参仕り候。
 音吐朗々と祝詞が読み上げられるなか、着席の皆さんに分け入り、同じく神妙な面持ちとなって一堂を見回すに…、中央が詩人の弟君、清至氏であることは直ぐにわかったのですが隣の御婦人がてっきり京子未亡人と思ひきや、詩人の妹君とは。それでは東京からおみえになると伺った京子氏の姿は何処…御欠席?え?神主さん?うわあ失礼致しました!(笑) 国学者詩人の妻にして歌人の京子様には、祝詞を奏上するなど何でもないことだったのでした。式後は詩人の御実家にて野生の自然薯を配したお昼を御馳走になり、先日見られなかった展示品の数々もみせて頂き、念願遂げて辞去。
 清至さまを始め御親族の皆様には、厚きおもてなしをまことに有難うございました。
 取り急ぎ茲の場にても“かしこみ畏こみマオス〜”であります。

 新岐阜の「最後の古書展」には帰還後あらためて馳せ参じるも収穫はなし。掛軸屋さんが参加してなかったのも寂しかったです。

87やす:2005/11/18(金) 12:41:03
『和本入門』
今月の「日本古書通信」で知って早速近所の本屋さんへ買ひにゆきました。神田白山通りの古書店、誠心堂の御店主著すところの『和本入門』。古典籍のみを扱ふ高尚なこれまでの書誌学の入門書と違って、とても親切で読みやすいし、現在の参考市場価格なんかが書いてあるのも楽しい。ことにも江戸漢詩に手厚いところに、類書新刊では『江戸の蔵書家たち』以来の充実した読後感を覚えてをります。難は表紙デザインのみ!

88やす:2005/11/23(水) 20:19:53
新村堂書店古書目録81
毎度たのしみな新村堂さんの目録到着。
おお、写真版で『東海詩集 第一輯』(にっこり)、江戸漢詩もどっちゃり。
特筆は、『梁川星巌全集』5冊揃\68,250でせうか。すでに4冊を端本でこつこつ集めてきた人間は、ショックで言葉が出ません…できることなら図書館で買ってあげたいが…たとい岐阜県史上一等偉大な文学者であらうと、国文学科がなくなってしまった今となっては…うう…(何とかならんかなあ)寔に残念であります(涙)。

ともあれ和本の方は実物をみないと納得して買へない代物なので、新村堂・誠心堂級の上物だと近代の無名詩集同様なかなか手の出しづらいところです。むしろ最近はヤフーオークションの掛軸なんかを見てる方が楽しいのですが…これもつらつら眺めてる内にのめり込み、知らぬ間に貴重な休日を過ごしてしまひます。
折角物欲を断つべくこの世界に目覚めたのに・・・これでは修養にならないなあ。

89やす:2005/11/25(金) 12:30:12
扶桑書房古書目録
黒崎書店、扶桑書房、古書里艸、和洋会・・・
年末にむけてこのところいろいろやって参ります。
『青猫』『定本青猫』函付各\15000『随筆山居読書人』袋付\13000。扶桑書房さんの目録は相変らずものすごい品揃へです。でも今回は我慢。といふのも某目録に○○○○や○○○○○が登場、棒給前倒しで購ふつもりです。
舌の根も乾かぬうちにこれはもう物欲のかたまりであります。

90やす:2005/12/04(日) 19:50:22
「近代文学 資料と試論」第5号
 碓井雄一様より個人誌「近代文学 資料と試論」第5号をお送り頂きました。
あつく御礼を申し上げます。碓井氏のライフワーク:このたびは林富士馬の戦後の活動動向を追った『新現実』『三角帽子』『プシケ』の解題目録のほか、米倉巌氏の吉田一穂論考などを併載。
 ありがたうございました。

「近代文学 資料と試論」第5号
         2005.11.30「近代文学 資料と試論」の会刊行  \700

『舞姫』における「虚構」と「現実」            小平 克 1-24p
吉田一穂の白秋観                     米倉 巌 25-36p
芥川龍之介「明治」とその周辺               乾英治郎 37-51p
佐藤春夫『美しき町』論(一)               山中千春 52-64p
林富士馬・資料と考察(二)『新現実』『三角帽子』『プシケ』碓井雄一 65-88p
編集後記 [89p]

91碓井雄一:2005/12/04(日) 22:43:14
(無題)
メールアドレス、消していただきますようお願い申し上げます。

92やす:2005/12/04(日) 23:37:30
お詫び
大変失礼致しました。過去ログもすみやかに対処させて頂きます。御礼は別便にてまた。とりいそぎのお詫びまで。

93碓井雄一:2005/12/06(火) 10:27:37
(無題)
いえ、お速やかな御処置を賜り有り難うございました。勿論、やす様に対する信頼は揺るぎないものでございますが、パソコン初心者ゆえの臆病で、インターネットを、真にご信頼申し上げる方々との間のツールに限って活用したいと思うに至った次第でございます。掲示板、時折楽しく拝見致しております。山川弘至記念館のことなど嬉しく憧れつつ。何卒、今後とも宜しくお願い申し上げます。

94やす:2005/12/07(水) 22:48:45
『湘夢遺稿』と『蘘荷溪詩集』
 碓井雄一さま、今後とも宜しくお願ひ申し上げます。

 本日『湘夢遺稿二冊』と『蘘荷溪詩集五冊』の揃が到着、一足早いクリスマスプレゼントとなりました。『湘夢遺稿』は奥付無し、江馬金粟の跋文が書き改められた再版と思しきもの。大垣市文化財協会による復刻版(昭和35年)の見返しは「湘夢遺稾 春齡庵藏版」であるのに、手許のものは「湘夢遺稿 春齡菴藏梓」となってゐます。序でにいふとこの復刻版、18.7×12.7cmと小さいです。縮小されて復刻されたものか。届いた本は25.1×17.2cmで、方々の図書館を検索して調べたのもこの「美濃本」型である。以前に古本屋の店頭で帙入りを見かけたのはさては復刻だったのかな。
 さてもう一方の『蘘荷溪詩集:じょうかけいししゅう』は、『三野風雅』『南宮詩鈔』に続いて入手が叶った郷土の稀覯本漢詩集です。「袋付き」といふこともあってか大変な出費となりましたが、この杉岡暾桑といふ不遇な詩人、実力を称せられながら、都落ちとも呼ぶべき奥美濃に聘せられて僅か2年で病没、墓誌も子孫も分らず終ひになってしまった先賢の、わが故郷の地名※を冠した遺稿詩集を手にとれば、180年前の姿にもう感無量であります。。
(※山川弘至の故郷、郡上を流れる吉田川はそのむかし茗荷谷とよばれ、読み仮名は「明方みょうがた(現:明宝)」に引き継がれてゐます)

95やす:2005/12/14(水) 12:03:57
初版本はどっち?
 先日御報告の奥付無し『湘夢遺稿』、あれから色々考へてみたのですが、自分の買ったこちらこそ私家版の初刷だった、といふ可能性はないかしらん。といふのも、跋文の江馬金粟の署名は 「姪江馬桂」となってゐるけれど、復刻版では「姪金粟江馬桂」となってゐる。書体も端正である。一体に版を刷り直す際、原版をゾンザイに書き直すものであらうか。版木は遺族所有のままなのに、である。見返しも亦然り、これは市販することになるにあたって丁寧に書き直されたとみることもできるのではないか。それなら見返しがないのも当然(『柳湾漁唱』だって初版の私家版には奥付は存在しないらしい)、などと手前味噌のことを喋繰ってみました。裏をとらなきゃ。

 扨、それはともあれ念願の文机を購入致し、ひとり悦に入ってをります(にこにこ)。

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/saiko/saiko-shoumuiko-fukkoku.html

96やす:2005/12/15(木) 20:35:13
『朔』157号
 八戸の圓子哲雄様より『朔』157号をお送り頂きました。前号、前々号につづいて、特輯は青森の郷土詩人一戸謙三(筆名:一戸玲太郎)。今回は詩人のドイツ近代詩訳出について紹介(1,7-19p)。坂口昌明氏の改題(4-6p)、小笠原茂介氏の考察(2-3p)。
 また類家夕二氏による「小山正孝『未刊ソネット集』から(44-45p)」は、作品解釈の試みと共に、浩瀚な未刊ソネット群からさて何を選び出すかといふ選択をめぐって、今後の後続論文にも資する一石を投じたものです。
 この場にても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
     (朔社:〒031-0003 八戸市吹上3−5−32)

97やす:2005/12/22(木) 12:05:06
新刊二冊
1960年生まれの敬愛すべき二先輩が、時を同じくしてクリスマスに新刊を上梓されます。
当ホームページにまつはる関連書籍として、ともに今年最大の収穫であることを疑ひません。
すでにこの掲示板でも度々紹介して参りました雑誌連載や紀要論文を中心にまとめられたものの由ですが、訂正補筆を含め感興はふたたびよみがへります。明日からの休暇のひとときを、これらの本と共にのんびりすごしたいと存じます(にこにこ)。

『署名本は語る』川島幸希 著 2005.12.25 人魚書房刊行 22.3cm, 307p \8000 限定100部(予約頒布・絶版)
『三好達治と立原道造 感受性の森』國中 治 著 2005.12.25 至文堂刊行 19.5cm, 315p \3238(ISBN 4784302573)

國中さま、昨日御著落掌につき取り急ぎこの場にても御礼もうしあげます。有難うございました。


また鯨さんほか目録も色々。ことにも森井書店の目録 No.30は、額にでも入れて飾っておきたいやうな感じの色づかひとレイアウトです。

98やす:2005/12/23(金) 19:24:28
「昧爽」10号
「昧爽」10号をお送りいただきました。いつもながら誠に忝く厚くお礼申し上げます。
このたびの特集は「わが愛誦の詩歌」。中村様の御文章「敗戦国の詩人たち──『ナチス詩集』/西川青濤の歌集」は、「もう誤解を気にせず、詩歌に関して思ふことをこの場ではつきり書きたい」との書き出しですが、誤解はやはり恐れて、思ふところをもっともっと開陳されたらよかったかもしれません。『ナチス詩集』については古くはこの掲示板でもなんやかやありましたが(誤解がなくても恐いですよ 笑)、Book Review 『蝶の生活』
のところでちょこっと触れておきました。
しかしもう10号になるのですね。これからも御健筆お祈りいたします(浅野晃ノート書きついで下さいませ)。

同人誌「昧爽」10号 平成15年12月20日 中村一仁・山本直人共同編集 64p

特集「わが愛誦の詩歌」
「心の眼」岩崎文子
「橋田邦彦先生の歌」薮井竹菴
「『沖縄の歳月』のこと」宮里立士
「前田夕暮素描」山本直人
「敗戦国の詩人たち──『ナチス詩集』/西川青濤の歌集」中村一仁
  ほか

問合せ先 〒340-0011 埼玉県草加市栄町3-1-31-406(中村一仁氏)

99やす:2005/12/24(土) 21:35:39
立原道造記念館館報36号
 立原道造記念館から館報36号ならびに新春企画展「立原道造が描いた世界 パステル画を中心として」の御案内をお送り頂きました。ありがたうございました。
 館報には、さきに新刊を御紹介した國中治氏の「第二次四季の構想」、また前回の休みをおいて再び立原道造を揺さぶらんと試みた?島亘氏の「詩集の彩り」が、それぞれ次号継続分に含みをもたせ誌面をいろどってゐます。二氏は立原道造記念館の懐刀であります。
 冗談はさておき、國中治氏の論文にみられる精緻な論証は、すでに定評をもって知られてゐる通りですが、その論理の背景に在るものが、たとへばこの文章において「四季座談会」の記事について述べてゐるくだり、
“一見孤高で分が悪いように見える萩原朔太郎が、実は三好達治や丸山薫が主張する詩作の次元を凌駕している”だとか、
或は此度の新著のなかでも、三好達治の木下夕爾への羨望を嗅ぎ取ってみせたり、沢西健が示した“立原道造がもし生きていたら再び物語の世界へ帰っていったのではないか”、といった大胆な推論への言及とか、つまり従来の研究者が見過ごしてゐた当事者的着眼点とともに、詩人的な直感を強く感じさせるあたりが、単なる紀要論文とは似て非なる、研究者らしからぬ魅力なのだと思ひます。
 一方、?島氏の一文ですが、氏が云ふとほり、自分の詩集の製作解説を「あとがき」に入れずに同人誌に掲載した“立原流の一種の衒いと含羞み”といふのは、確かにその通りなのでありませう。加へて彼が詩集を刊行する際に、堀辰雄や室生犀星に序文を乞はなかったことを正当化するためにも、資金不足を逆手に取ったあの楽譜型詩集の体裁が、おそらく好都合であったのだと、そこまで私は邪推してをります(笑)。装幀の特異さに表れた彼の矜持からは、「一体に名詩集には前書きも後書きもないものなんだ」といふ、愛書家ならではの一家言をも感じます。そして氏が続けて、
“彼の言葉を理解するときに気をつけなければいけないのは、柔らかな言い回しの中に隠された包み込むような一面的な見方であり、それがともすれば真実に見えてしまった時点で立原という罠に嵌ってしまうことになる。この一面性とは背後に様々な国の詩人たちの言葉を蔵す技巧と換言することができるかも知れない。”
と語るとき、“一面性”“技巧”とは、つまり高度な教養を背景に蔵した表現上の“単純”を指してゐるのだと思はれるけれど、貧しい語彙がそれ故に純粋に凝った秘密は、やはり技術の次元ではなく、文学と生活が一緒になってしまふ詩人の一途さの上に表れてゐるのだといふ気持が私には強い。それを承知で敢へて技巧に換言して、詩人の抽斗を探ろうとする氏の、“衒いと含羞み”をはらんだ続編の行方に期待したい。

100やす:2005/12/27(火) 21:28:49
【業務連絡】
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あしからず御諒解下さいませ。


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