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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板
60
:
やす
:2005/08/01(月) 22:44:28
『保田與重郎の維新文学』
『保田與重郎の維新文学 私の述志案内』古木春哉著--白河書院, 2005.1, 193p.非売
先達て中村一仁氏を通じてご恵送頂いた本書は、著者が一期の決算として、自ら旧著(『わびしい来歴』1976)に増補改題を施したものが、そのまま遺稿集として刊行されることとなった、非売品の一冊である。
跋文で、谷崎昭男氏が在りし日の著者について、日本浪曼派の研究者ではなく「あくまでそれを恢復といふかたちで行為しようとしたひと」であったと偲び、また「厄介な氏の稟質」が凝ったやうなその文章に至っては、「読者はその難解をむしろ労はるのがつとめである」とまで書かれたのは、四十年来の友情に応へて最も本書の意義を伝へるくだりであらう。それほどにも著者が信奉した保田與重郎の文体に擬へた本文は、しかし述志の気迫が含羞の韜晦をともなひ、たいへんに読みづらい。日本浪曼派へのオマージュであったればこその「姿勢」なのだが、けだし「研究者ではなく、あくまでそれを恢復といふかたちで行為」するとは、作家を分析するのではなく、作家とともに世間の俗を暴き立てるといふ、日本浪曼派独特の批評流儀のことを指すのであらう。ならば、保田與重郎のやうな述志と韜晦を極めた批評それ自身に対するオマージュとは、同じ方法によってはあり得なく、むしろ師の自らに対する架空の批評に鼓舞されつつ、歌なり詩なりの実作によって鬱屈を昇華させるのが素直な発露ではなかったかと、その文章から立ちのぼる人となりを思って惜しんだのである。ひとから「日本浪曼派運動史」を書くやうにすすめられて憤ってみせるところ、清貧の私小説家の父を持つといふ運命のもとに出発した非職業文筆家(ディレッタント)たる著者において、確かにいろいろなことが秘匿・優遇・免責されるかもしれないところに、一種の「甘え」はなかったらうか。
と、云ふは易いが、翻って私にとっても切実な課題が横たわってゐるから敢へて云ふ。「日本浪曼派」を「四季派」なり「戦前抒情詩派」とすれば、かうした批判はそっくり自分に突き刺さるからである。
もっとも私かに歌集や詩集はおもちだったかもしれない。
著者が自らの中学校時代を振り返り、戦中は自分のことを戦争協力に協力的でない要注意人物と刻印したやうな校長のことを、戦後、数を恃んで押し寄せてきた同級生達から弾劾されようとした時に、反対に擁護に働いた、といふエピソードを興味深く読んだ。ここには「より公共的な戦争協力を当為と感じてゐるやうな狷介年少の詩人」――いつでも多数派の中に俗悪を見出さざるを得ない宿命としての「天の邪鬼」たる著者の面目が躍如してゐる。彼が味ははなくてはならなかった失意、天性の浪曼派ゆゑに陥らざるを得ない敗者の誇りとその結末について、もっともっと身近の言葉で語って頂きたかった気がする。
御冥福をお祈りします。
>中村一仁さま
といふわけで、北海道より帰還しました。入れ替り、ウニ丼食べに出発されたでせうか。私もおいしいもの食べすぎてたいへんなことになってゐます。「札幌の印刷所」…とは、青磁社などのことですね。
弘南堂書店には『山羊の歌』函付90万円也が飾ってありました。
「かつては全く見ない本だったのに、ここ何年かで十冊ほど出たんですよ」とは御店主のお話。函欠瑕物ながら今年我が蔵儲に帰することとなった一本も、そのどさくさのおこぼれに与ったといふわけであります(♪)。
仕事や受贈の御礼などひとつひとつ片付けてゆきます。暑くて死にさうです。
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