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聖典引用 板
696
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:07:53 ID:84pogn5s
『生命の實相』第一巻(總説篇)より <13>
ところがこの擬殺(ぎさつ)療法によってまず平癒した神経病的症状も、さらに本人を駆り立てて無理おしにも戦争をやらせると、こんどはさらに、前よりもいっそう悪い症状が生じて来ました。それは身体(からだ)が衰弱して消極的に食事がとれなくなるとか、囈言(うわごと)をいうとか、或いはぜんぜん死んだもののように昏睡状態になってきたのであります。これでは単なるヒステリー患者ではなく、医者に名前をつけさせれば早発性痴呆症の最もすすんだ症状といわねばならぬのでありまして、在来の医学では決して治療法がないのであります。死んだように昏睡状態になっている者に対して鉄砲の筒先を擬(ぎ)して威(おど)すわけにもゆかないのであります。
われわれの存在の奥底に隠れている心はなかなか巧みな工夫をするものでありまして、とうとうこの方法によって戦場へ出たくない希望をどこまでも押しとおして満足することができたのであります。ところが戦争が終結して、もはや病気になっている必要がなくなってきますと、多勢のこの種の病気がケロリと治ってしまったのであります。
以上は病気の話でありますが、人生のその他の不幸もまた同じような関係から起こるので、これは本書を読んでいられるうちにだんだんわかってまいります。人間の生命は縦には過去世の因果関係から、横には環境に対する自衛手段として、いろいろの病気や不幸をつくって、それによって、病気そのものや不幸そのものを一種の手段として生命の自由すなわち救いをもとめているものであります。ですから、将来この世界に病気その他の不幸をなくするには、縦には、未来世に病気、その他の不幸の芽を出す業因(たね)を蒔かない工夫をしなければならない。すなわち罪を犯さないでもこの世に生きられる工夫をしなければならないのであります。横には現在われわれが接触する環境を浄めて、「生命」が苦痛や病気という手段を使って自衛を講ずる必要のない天国浄土のような環境をつくるようにしなければならないのであります。ところがこの環境というものが一方においては自身の念(こころ)の影なれども、同時にまた念は環境の影であって、二つ向い合わせた鏡のように環境と念とは互いに影響しあうものであります。毅然とした強い念は環境の方を征服しますが、弱い、発達の程度の低い念(こころ)は環境に征服せられるのであります。
人間の念(こころ)は幼ければ幼いほど、まだ一定の習慣性を備えていませんから、善い方へでも悪い方へでも環境に感化せられやすいのであります。これを悪い環境のうちに放(ほ)っておけば不良少年少女となるべき者も、幼いときから生長の家式に、愛と信と讃嘆との環境において感化を受け、事物の明るい方面に心が向くようになっていれば、彼らのたましいは健やかに伸び伸びと発達しまして、ひねくれた厭味(いやみ)な性格や、人を苦しめることで自分の快感や利益をえようとするような卑劣な性格は影を潜め、これらの少年少女が成長して社会の中堅となって行くころには、人類がこの世界でつくる悪業もよほど減ってゆき、地上に天国建設の理想実現にだんだん近づいてくるに相違ないのであります。
<つづく>
697
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:08:31 ID:84pogn5s
『生命の實相』第一巻(總説篇)より <14>
生長の家が、聖典の實相篇、光明篇、生命篇、觀行篇等によって人間の肉体を健康化する道を説き、「生長の家の生き方」によって生活を光明化する方法を指導するほか、さらに「生長の家の教育法」によって人間を若芽のうちから、その神性を発揮せしめ、天才を伸ばさしめようとしているのは、地上の天国建設を子供の生長とともに生長せしめたいと念願しているからであります。存在(ものみな)の実相を円満完全なりと認むるこの「生長の家」の人生観と、生活法(生長の家の生き方)と、児童教育法(生長の家の教育法)とが全世界を風靡するようになれば、その時こそ地上天国の成就せるときであります。そのときにはメタフィジカル・ヒーリングによってこの世に病なく「生長の家の生き方」によってこの世に苦悩なく、「生長の家の教育法」によってすべての人間はその子供の時から神性の発達を妨げられないで、皆そのもって生まれた天才を発揮することになるのであります。
こんな世界がいつ来るかは初期に「生長の家」に集まってくださった熱心な同志または誌友の尽力にまつところが多いのであります。しかし何事も生長は徐々でありますから今はその第一歩からはじめてゆかねばなりません。「生長の家」で最初に天国建設事業として手を出そうとするのは、やはり正しい人生観と、正しい生活法と、正しい教育法とを出版物によって人類に知らせることであります。本書が出版されたのも、地上天国建設事業の一端でありますが、この人生観、生活法、教育法を実地に教える学校のようなものも、「生長の家」の誌友たちによって生まれて来るに相違ないのであります。すでにその芽生えは所々(しょしょ)に生えかかっています。ああ、人生はなんという喜ばしさだ! わたしは諸君とともに手をたずさえて、この善き事業が大きくひろがる日のために尽したいとの念願で一杯です。
○われらはやがて「心」というものが使い方によれば非常な強壮剤となり、薬用葡萄酒にもまさる興奮剤ともなるのであって、われらの「心」を正しく活きるときは、心それ自体が栄養剤とも若返り薬ともなって物質的薬剤は決して要らぬものだということを知る時代が到達するにちがいないのである。これは心を正しく活かすこと、心を調和せしめて少しも摩擦の起こらない状態におくこと、明るい思想、深切な思想、愛の思想を常に心に充たしておくだけでよいのである。光の満つるところに闇は存在しえないと同じように、かくのごとき生命と光明と愛との思想を心に充ち満ちさせるとき、その反対のものはすべて破砕され、滅ぼされて存在することができないのである。一日中生活のために労苦し焦慮した心のみだれも、就寝前十分間の「神想観」の修行によって神の愛と生命と光明とを心にみたせば苦慮の雲霧(うんむ)たちまち消散して新しい明日の活力がめぐまれる。これ自性円満(じしょうえんまん)の生命の実相が自覚されるからである。
<『生命の實相』第一巻「總説篇」 完>
698
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:09:32 ID:84pogn5s
顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <1>
《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)
あなたの中に太陽が昇る
K やあやあ遅くなりました。きょうは午前中ある後輩が弁理士の事務所開きをするので、その潔めのお祭りをしてくれというので行って来たんですよ。神職の方にたのめばいいといったら、神職の方は職業上、形式ばかりのことをするような気がする、それより素人でも心のこもった祭りの方がというので、行って来たんだけれどね。
日本人は本来、家を建ててもそれは自分の家を建てるんじゃなく、神さまの宮を建てて、神の宮に住まわせていただくんだという気持だったんですね。だから入口にしめなわを張って、おまつりをするんですよ。
食事だって、天照大御神の御いのちをいただく神事であるし、寝るのだって、単に疲れたから寝るというのじゃなくて、マドコオウフスマに入ってお籠りをする神事なんです。すべてこれ顕斎ですよ。
O すばらしい話ですね。住吉大神の顕斎ということは、他人事(ひとごと)ではなく、私たちのいのちのことなんだということですね。
K そう。顕斎(まつり)というのはね、まずみそぎをしますが、これは霊注(みそそぎ)ぎで、神さまが霊止(ひと)にお生れになるというのが、まつりの根本的意義なんですよ。
天照大御神が天皇さまにお生れになるというのが御即位のときの大嘗祭(だいじょうさい)、そして毎年十一月二十三日の新嘗祭(にいなめさい)です。その新嘗祭の前の日である十一月二十二日に、天照大御神の前の霊(ひ)である住吉大神が、谷口雅春先生をはじめとして、われわれ信徒一人一人に御誕生になるんですよ。ですから大変なことであるわけです。谷口雅春先生の御誕生日が十一月二十二日だということは偶然じゃない、宇宙的な大経綸が秘められているという気がしますね。
O たいへんなことですねえ。
K 一般に知られている祭りというのは、神さまがここに人のいのちとして生れて、何とありがたいことか、嬉しくて楽しくてたまらないというのが神楽となり、舞となり、踊りとなり、とそういった神遊びで、氏子の地域一帯を神のいのちで充満させるためにお神輿(みこし)をかついでねり歩いたり、神船に乗ってお渡りになるとか、山車(だし)を引いて舞うとかするわけです。
その、神さまがお生れになって、なんとありがたいことか、たのしいことかという「神遊び」の行事だけが、一般のお祭りとなって残っているわけですが、本当はその前に禊という「幽斎」がある。ところが顕斎だけに世の中の人の眼が向いているので、現在の神道界では、幽斎に向けて熱心になっているんです。生長の家はもともと顕幽一如、幽斎即顕斎だったのですが、今までどちらかといえば「祈ればいい」という幽斎の方が強かったので、今、神さまを形に顕わして行く顕斎の方に向いて来たんですね。
で「顕斎」というのはお宮を建てて神事を行うということも一つですが、同時に生活の一つ一つに神さまを顕わして行く、生活のすべてを「神遊び」にするということなんですね。
O うれしくなってきますね。食事も、睡眠さえもが神の祭りであるというのは……
生活のすべてが「神遊び」である
K そう、われわれが何の気なしに毎日寝んでいる寝床も、これは日々新生するための神聖な真床追衾(まどこおうふすま)ですよ。寝床に入ることは、いったん今までの自分は死んで、また神のいのちを宿して新たに生まれる、「籠り」の行事なんです。それは人間の誕生だって、胎内に宿ってから十ヵ月のお籠りの期間があるでしょう。それは熟成の期間なんです。紙だって、機械から出て来たナマの紙をすぐ印刷にかけると、あまりかんばしくない。お習字に使う紙だって、半年か一年ねかせておくといいんです。それは何でもそうです、アイディアだってしばらくねかせておくと熟成してくる。神想観していったん死に切って寝むと、またお籠りの期間を経て、「只今誕生」と、新しいいのちが生れてくる、というのが、われわれが日常、寝床に入り、朝起きるという行事なんですね。こういう神事を、日本人はずっとやってきたんですよ。
<つづく>
699
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:10:28 ID:84pogn5s
顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <2>
《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)
食事は人類共通の顕斎
食事をいただくのも、これは「大調和の神示」以前に、「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」という神示で教えられている通り、たいへんなお祭りですよ。日本古来の言葉でいえば、「贄(にえ)の祭り」または「饗(あえ)の祭り」と言いますが、食事が祭りだというのは日本だけのことじゃないんです。
われわれ、人類光明化運動と言いますが、その人類共通の祭りは何かといったら、食事ですよ。それから音楽ですね。アイヌの熊祭りというのも、食事によって神と一体になる祭りだし、ヨーロッパでも、ゲルマンをはじめいろんな諸民族で、キリスト教のために自分の民族にうけつがれてきた祭りが抹殺されて今は稀薄になっているけれども、諸民族の祭りの根源をたどって行くと、全部神さまと一体になる、食事によって神さまのいのちをいただいて生れ変るというのが、全人類共通の祭り、全人類共通の顕斎なんですよ。
その全人類共通の顕斎が、日本に、最も純粋に深く伝えられてきているんです。そのいちばんいいサンプルが、天皇さまのお祭り(大嘗祭・新嘗祭)なんです。そこに、日本の世界的使命というものが感じられるんです。
だから、現在意識ではそのことをみんな忘れていても、日中条約を結ぶとかなんとか、しち面倒くさい外交交渉なんかの前には、必ず食事の宴がはられるでしょ。それは、全人類共通の顕斎は食事であるということが、深い潜在意識の底にあるからですよ。だからいっしょに一つのテーブルについて飲食を共にするという食事の席では、ケンカをしないでしょう。
ヨーロッパ人などが未開民族のところへはいって行っても、まず、持っているものを交換したり、いっしょに食事をしたり、というところからやって行くと、警戒心を解いてしまう。
全く言語も、歴史、伝統、風俗習慣もちがう者同士が会ってもね、一つテーブルについて飲食を共にする行事でもって、お互い一ついのちに生かされているんですよという、つながりを思い出させている……
O おもしろいですね。
K だから、世界の、コトバもちがい風俗習慣もちがういろんな諸民族が、長崎の住吉本宮に参拝に来ても、全然不自然なことはないんです。
<つづく>
700
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:11:13 ID:84pogn5s
顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <3>
《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)
神のいのちが顕われると
E 木間さんの「祭りの形と心」には、日本の古代の村の長老というような人は、いつも神に祈り神と対話することが日常の会話のようになっていたということが書かれていましたね。なにか、それが現代にも行なわれる時が来ているんだなあと、顕斎の時代の意味するものが迫って来るような気がします。すべての人に、それがいのちの底からよみがえってくる……
K 幽斎・顕斎というのがこう一致してくると、私なるものがかわって来るんですね。生れかわりが行なわれるというか、自我をスパッと死に切って行くと、いろいろと具体的に変化が顕われてきます。
私は最近、自然にたばこを喫(の)まなくなったんです。たばこをやめようと考えたこともなかったんだけど……実は私は戦時中、戦地に行ったとき、ある先輩が、「君はこれから大勢の部下を持つようになるんだから、兵隊の気持をわかるためには、たばこを喫め。たばこの味がわからなければ兵隊の気持もわからないよ」と言われたんです。当時は、「上官の命令は朕(天皇陛下)が命令と心得よ」ということだったので、私はその先輩の命令のような言葉を忠実に守って三十数年たばこを吸いつづけてきて、やめる気は全然なかった。それはあの、小野田少尉が上官の命令を忠実に守って、上官が命令を解除するというまでフィリピンのミンダナオ島のジャングルから出て来なかったのと同じだなと思ったんですがね。ところが、「顕斎」について書いているうちに、私自身が非常に変ってきて、私の体の中からたばこなるものがフワフワ、フワフワと抜け出して行って、私とたばことがずれてしまったような感じなんですね。そうして全然たばこを吸わなくなってしまった。
それから、二十何年もつれそった、四十幾歳の家内が、非常にかわいくなって……(笑)
E いやあ、すばらしいですね。
F 私も、最近変ってきたんです。子供を見ていて、嬉しくてしようがないんです。女房を見ても、以前は子供の教育のしかたが不満で小言を言ったりしていたりしたんですが、それが全然なくなって、ただ嬉しい。庭の草花を見ても、ひじょうに嬉しい。何が嬉しいというのでもなく……あらゆるものが神なんですね。
E なるほど。自分の奥さんを神さまと観て拝むことも顕斎ですよね。
すべての人に、いのちの底から、そういう甦りが起ってくる。それは、生長の家に入っているとかいないとかの形の問題ではなく、空気も水も火も、花も草も木も甦ってしまう。
F 住吉大神の“顕斎の気” が、大気の中に満ちてきて、それに包まれたというようなことなんでしょうか。
O これは本当に、おどろくべきことだな。こうして人類全体が、なんとなくお互い同士いとおしくなり、なつかしくなって来るとしたら……どんなことになって行くんでしょうね。
<つづく>
701
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:11:50 ID:84pogn5s
顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <4>
《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)
住吉大神、宇宙を浄めたまう
F 住吉大神は、古事記神話では、天照大御神がお生れになる前、イザナミの命のみそぎはらいの完成のときにお生れになった神さまですが、それは地上の人間ばかりでなしに、神々をも、一切を浄化される。住吉大神は浄化の神で、浄化とは秩序を正すということである。中心を中心として、中心に帰一した神々の世界がだから、神界においても浄化が行なわれる、つまり住吉大神が住吉大神として正しく祭られることによって、天照大御神以後の神々がみんな秩序あらしめられて、その御働きを及ぼされる。そうすると、八百万の神々、日本のいたるところ、津々浦々にある神社の神々も復活するんですね。生長の家は万教帰一で、一切の宗教を生かし、すべての教祖のいのちを現代に生かしてきた。聖書のコトバが生活に生きてきたとか、法華経の本当の意味がわかったとか……それは教えの復活、神々の復活ですね。
E 万教帰一というのは、すべての教えが一つに帰るという意味がありますが、顕斎ということからいうと、つまり実相の側からいうと、すべての教えは一つから展開しているという宇宙の創造のすがたをいい表わした真理のコトバだと思います。そうして私たちは、その中心なる天照大御神のふところに抱かれて私たちのいのちがあるんですから、すべては自分のいのちの展開であると言える。
自分の中に宇宙がある
ぼくはね、以前はベートーヴェンの音楽をきいても、バッハの音楽をきいても、「これはベートーヴェンという人の体験した、ある生命体験を描写したものだ」あるいは「バッハの世界を表現したのもだ」と思っていました。それは他人事(ひとごと)だったんです。そして、ベートーヴェンの能力に嫉妬心を起していたんです。ところが、そうではなかった。これは、ベートーヴェンが、ぼくのいのちをまつってくれて、ぼくのいのちをたたえて、こうして顕斎してくれているんだ、という気持になってきたんです。ベートーヴェンが他人事じゃなくなったんですね。こういった大天才たちが自分のいのちの延長として出て来て、自分のいのちをたたえてくれている、という感じになってきたんです。そしたらもう、うれしくてうれしくて……
O ベートーヴェンが自分のいのちの延長……すばらしい。
E ぼくはね、住吉大神が宇宙浄化をされるというのは、浄化とは秩序だてること、秩序の回復だとおっしゃる、それはどういうふうに秩序づけるかというと、まず、自分のいのちの中に宇宙があると自覚して、自分が自覚的に宇宙にひろがって、宇宙というものを自分のいのちの中に秩序づけるということではないかと思っているんです。
木間さんは、「祭りの形と心」(本誌七月号)の中で、時間・空間の発する一点、その一点を透過したすみ切りの妙境ということをお書きになっていますね。そこのところに尊師のいのちがあり、そこから尊師のおコトバが発せられて来ているんですね。そこは大調和にすみ切った世界ですね。私はそこを“聖なる今”と言ってもよいと思うんです。そこから「大調和の神示」が鳴り出している。その大調和の神示に、“汝が天地一切のものと和解したとき、そこに吾れは顕われる”と書かれていますが、ここに顕斎の道が示されているんですね。
<つづく>
702
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:12:29 ID:84pogn5s
顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <5>
《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)
神に無条件降伏して
三月一日の立教記念日の祝賀式での谷口雅春先生のお話に、神に無条件降伏して天地一切のものと和解する、ここに住吉世界をもちきたす極意があると言われました。神に無条件降伏したとき、“もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにあって生くるなり”で、もはや、そこに神が生きていられる、神が顕われているんですね。
神が顕われるとは、ある限られた、五官とか六感とかの感覚にふれるような限定されたすがたでとらえられるということではなく、実に全相をもってわがいのちと合一するということ。顕斎的にいうと――つまり、神の側からいうと、神がわが姿となって顕われるということですね。“人間神の子”から“神の子人間”への自覚だ。
K 「神の子人間」の自覚から顛落して、実相の側に立たないで現象の側から自分を中心に教えを受けとって、「俺は今までこういう功績をあげた」とかね、あたかも自分が自分の力で光明化したような、とんでもない不遜の気を起すことがある。それで谷口先生は今、「顕斎」ということを言われるようになったと思うんです。人間が人間を指導したり、育成したりすることはできないと思うんですよ。神様のおはたらきで光明化ということは行われるんですねえ。
だから、いろいろ奇蹟的なことが起きたりすると、癒された本人よりも、指導にたずさわったこちらの方がありがたくなるんですね。
E 「吾が業は吾が為すにあらず」ですね。
K そう。それでその時は、ただありがたいという素晴しい感動なんだけれども、しばらくたつと、「あれは俺が指導したんだ」とか、「自分が救ってやった」「自分が成績を上げた」と、そういった意識が残る……。
本当は、バイブルの言葉じゃないけど、自分の力で身長一センチ伸ばせるわけじゃない。自分がしているわけじゃない、全部神様のおはたらきでしょ。それを、自分が何をしたというような功をほこる意識が残る、そんな未熟な、救いがたい、ニセモノの自分を去って、本来の神の子の姿にかえらしめ給え――と、そこで自分が死ぬわけだ。そういうことでないと、神のみもとへ行けない、ぼくは神想観できないですよ。
神想観というのはね、吾々が祈るんじゃないんですよ。住吉大神が祈られる。それには、自分を捨て切らないと、祈りが始まらないんですよ。
E 神想観というのが、神を想い観るのではなくて、もう一つ、生長の家の大神がここに坐し給うてなし給うのですから、神が想い観るということになるんですね。そうして、非常に強い神の光の放射する中に坐しているというような……それが顕斎ということなんですかねえ。
K それは言葉で言ってしまえば簡単なことですけれども、大変なことで、死に切れるかどうかということによって、祈りに入らせていただけるかどうか、本当の顕斎に入らせていただけるかどうかということがきまる。
<つづく>
703
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:13:20 ID:84pogn5s
顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <6>
《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)
両刃(もろは)の剣(つるぎ)をうちふるえば
E 住吉本宮の御神体は「護国の神剣」で「両刃の剣」になっているわけですが、「両刃の剣」というのは、相手がまちがっていれば相手も切るけれどこっちがまちがってればこっちも切るんだというところにすばらしい魅力があると思うんですね。ところが、今は「こっちに切るべきものがあったら切るけれども、今はない」というような感じになっていないかどうか。
F 今年の青年大会のときの谷口雅春先生の最後の御講話で、「神の子無限力の真理」という題だったと思いますが、「どんなに神想観をしても、たとえば食膳で人の悪口を言ったりしている限り、無眼力は出ません」ということを言われましたね。私は自分自身をふり返ってみて、ショックを受けたんですがね。
悪口をいうということは、物質の世界を見ているわけですね。自分自身も物の世界からしか物を言っていない。そこからは、限定された力しか出ないですよね。
「奇蹟の時は今」の「今」、感謝合掌礼拝して、物を観て、感じて、行動する。先生は最近、ラジオ放送でもそういうお話ばかりされていますよ。
頭だけで教えを聞いていることがある、その姿勢が問題だと思います。頭だけで教義を理解してわかった気になっていると、いのちが無くなってしまう。それが、「顕斎」となると、神の子が神そのものの御姿をあらわす、そういう自覚の生れ変りが行なわれて来るんだと思うんです。「両刃の剣」ですから、まず自分が正しいすがたをあらわす――そうして、全世界が、神さまのつくりたもうた世界のすがたをあらわして来る……
E 「三界は唯心の所現」と最初にスパッと説かれたときに、全宇宙は自分の心の影なんだという、これはすごい宇宙をひらく言葉だったんです。それが今は、「自分の心も影もあるけど、ほかの国の心の影もある」というふうに、なにか切れ味がニブくなってきたんじゃないか。つまり、世界を変えるには、自分だけが変ればよいということを忘れているのではないか。「自分の心が変れば世界が変る」これをひっくり返して、「世界を変えるには自分の心を変えるだけでよい」というところまで徹底することができなくて、いささかニブっていて、そのニブった部分、その誤差の部分に光明化運動論を成立せしめているようなまちがいをおかしていないか……
O うーん、それは痛烈な反省ですね。
E 運動が、「実相独在」の否定から始まってはいないか――両刃の剣で「切る」としたら、まずその辺がいちばん先に切られるべきこととして、あるんじゃないか。
早い話が、神想観して「光明一元」と言っちゃったら、光明化運動の意義づけができなくなるというような――それでは、祈ろうとしても本当にすっと祈ることができない。神想観が、おかしな神想観になってしまう。
O こわい、こわい。
<つづく>
704
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:14:00 ID:84pogn5s
顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <7>
《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)
「神ながら」の運動を展開しよう
K 先日私の知合いが、「北方領土返還要求」ということで、九州の南端から北海道の現地まで日本全国縦断のキャンペーンをやるんだという連絡が来て、もうスタートしちゃったそうだけれども、ぼくは「ちょっと待て、出発する前に話し合おう」と言いたかったところです。この北方領土の問題は。「それは日本のものだ、返せ」と言えば、向うはすでに自分のものとして基地を作ったりして、地図にもソ連領として書かれているとなると、「何を言ってるか」ということになる。そうすると今度は、力づくで取り戻さないと戻って来ないことになる。今、こういう状態では、戻る可能性は百パーセントないと言っていいですよ。「戻せ」というと戻さない。「何を言うか」とひとひねりされたら、もうしようがない。では、どうすればいいか。私は、エトロフ、クナシリや千島の島の神様をお祭りすればいいと思うんです。それは日本書紀に書かれてあるんですよね。島の国魂神の顕斎を、本当に心を合わせてやるようになったら必ず返ってきますよ。ソ連の居心地が悪くなって、いられなくなってきますよ。それは、一人や二人が祈ったのではだめだけれども、日本人の百人に一人が真剣に祈ったら、筒単に実現すると思うんです。
ところが、「返せ、戻せ」と言ったら、現象の次元での衝突になってしまう。それではかえって、「何をいうか」ということになって、憎まれて、反動が来るだけで、どうしようもないと思うんだね。
E 一番確実な方法は何かということですね。
F ぼくは、『生長の家』誌の「明窓浄机」等に谷口雅春先生が九州本山についてお書きになったものを最初から今日にいたるまでの全部をコピーして綴じて持っているんですが、さっきそれを最初からずっと読みかえしてみましたら、先生は実に「神ながら」なんですねえ。九州本山には百万坪の土地があるわけですが、最初はあまりに広大で、山は雑木ばかりで、いろんな構想はあっても、ちょっと手がつけられないでしょう、まあ孫の代のいい遺産になるのでは――というようなことをいう人もいた、その時に先生は、「人間の力ではほとんど手のつけようがない。しかし、神なら、これをすみやかに開拓して、本山にふさわしい土地つくり、道つくりもできる」とおっしゃっているんです。そうして、なさっていることが、あとで振り返ってみると、全然無駄がなく、みんな見事にぴしっとはまっているんですね。それは驚くべきことですよ。
だから、私思いますのに、元号法制化でも憲法復元でも、神ならそれを実現する方法をちゃんと知っていらっしゃる。いや、憲法復元もすでに御心に成っている世界があるわけです。それを、み心のままに、最もふさわしい時に、最もふさわしいあり方で、それを神の子なる私にお授け下さいと祈る、そういうところから神ながらの働きかけが出てくる。
K そうして、神ながらの運動をして行くには、青年会運動にも先輩からの継承がなくてはいけない。生長の家は「汝の父母に感謝せよ」が基本なんですから。一つには、今まで青年会運動の中で志半ばにして斃れた同志が全国では相当な数に上っていると思うので、その同志たちの顕彰感謝祭を行なうといいと思うんです。そうして、お祭りというのは全員参加、“村は総出の大祭り”で、みんなが一つ心になっておみこしをかつぐというところに大きな意義があるんですから、この顕斎を機会に、過去を捨ててみんな一つになって力を出し合うということが必要だと思う。今がそのチャンスなんです。
ぼくは、これからおどろくべきすばらしいすがたが顕われてくると思う。
<完>
705
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:28:52 ID:84pogn5s
『生命の實相』第一巻(總説篇)より <4−1>
(<お詫び>これは<<688に入るべきものでしたが、うっかりミスで抜けておりましたので、ここに入れさせて頂きます。)
三、吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。
このようにわれわれの「生命(たましい)」は死んでも死なない。ただ「無限生長の道」をあゆませていただいているのでありますから、どんな苦しみが来ようともただ安心して恐れる必要がないのであります。しかし何もわれわれは苦しみをことさらに来るように自分で招いて作るにはおよばないのであります。聖フランシスは「悪魔は主のつかわしたまえる獄吏である」と申されました。また神道の諸派では苦しみとか病気とかいうものを魂のけがれをきよめるために神から与えられた修祓(きよめ)とかお気づけ(注意)とか解釈してありがたくお受けしているのであります。婆羅門(ばらもん)教では苦行はさとりに達する唯一の方法だとして断食水行はもちろんいろいろの苦行の方法が案出されていました。釈尊も結局はただいまの「生長の家」と同じように、苦行は必ずしもさとり(大自在境)に達するために必要ではない、心の向き方を変えればよいのだとて、苦行をやめて尼連禅(ナイランジャナー)河に水浴して、施される一杯の牛乳を飲んでさとりを開かれたのでありますが、最初は婆羅門の教えにしたがって六年間苦行をされたのでありました。
このように、苦しみはある期間にわれわれの魂の生長に必要なものでありますので、敬虔なキリスト教信者などのうちには「主の模倣」と申しまして、十字架にかかられたイエス・キリストの苦しみを自分の身にも受けて苦しむことを唯一の歓びにしているような方までできているのであります。しかし、それはイエス・キリストの御心を知らないものといわねばなりません。
イエス・キリストが十字架にはりつけられて死の苦しみを受け給うたのは、われらのたましいの苦しみを救わんがために身代わりとなられたのでありまして、われわれを今後そんなに苦しませるためではないのであります。ふつう徒歩で行けば長時日苦しみなやんで東海道を往復しなければならぬのに、ここに偉大な発明家があって苦心惨憺の結果汽車が発明されたために、実に短時間でわれわれは東海道を往復することができると同じようにわれわれはあたり前ならば長期の苦しみを重ねて、やっとある段階の魂の生長がえられますところを大生命の親さまがその子イエス・キリストをわれわれの苦しみの身代わりに与え給うてそれから後はそんな苦しみもなしに魂の生長がえられるようにくださったのであります。それは仏教でも同じことでありまして自分の力だでの修行で再びわれわれの生命がこの地上に出て来ないでもよいほどに立派な十分の生長をするには、なかなか生命としての一代や二代の修行ではできないのであります。輪廻(りんね)と申しましていくたびも輪のめぐるように死んでは生まれかわって来なければならないのであります。それを大生命の親様はそのひとり子を法蔵菩薩としてこの世に遣わし給い、法蔵菩薩がわれわれに代わって数えきれぬほどの苦労と修行をなさった結果、ついに正覚(さとり)を得たまうて阿弥陀仏(あみだぶつ)となりたまい、ここに、阿弥陀仏におすがりさえしておれば、われわれの生命がそんなに苦しまなくとも、楽々と生長することができるようになって来たのであります。
<つづく>
706
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:29:29 ID:84pogn5s
『生命の實相』第一巻(總説篇)より <4−2>
このようにキリストも阿弥陀仏も、結局は大生命なる親さまからわれわれがそんなに苦しまないでも救われうるようにつかわし給うた救い主であって、あらわれは二つでありますが、元は一つなのであります。
大生命なる親さまが耶蘇(やそ)キリストや、阿弥陀仏をわれわれの救い主としてつかわし給うたことから考えましても、親さまはわれわれ子供の苦しみや病を与え給うのでありますが、できるだけえ苦しまずに生長してくれることが、親さまの子に対する慈悲ぶかい親心に相違ないのであります。
そこでこの大生命なる親様のみこころ、イエス・キリストのみこころ、阿弥陀仏のみこころを「生長の家」は受けつぎまして、人間の生命(たましい)が「生長の本道」を真っ直に向いて進んで行くならば、何もそんなに苦しみや病気で大生命(おやさま)から反省やお気づけを与えられなくとも楽しくいきいきと生活しながら自己の生命を生長させうるということを気づかせていただき、われわれが「生長の本道」をあゆむべき方法を研究しまして、(研究といいましても、実はわたしがペンをとる時に霊感的に教えられて自分の予想もしない真理がパッとわかってくる場合が多いのでありますが、)これを皆さまにお取り次ぎしまして、できるだけ病気や苦痛(くるしみ)等の、迷いの自壊過程をへずにわれらの生命の生長する道を皆さまにお伝えしたいと思うのであります。霊感的に真理を知るということについては、本書全体をお読みになっているうちに解ってきますが、当時『生長の家』第一集第三号の表紙裏にわたしが書いた一文がありますから、とりあえずその概念を得られるために、左(さ)にそれを収録します。
<つづく>
707
:
復興G
:2012/05/22(火) 23:36:48 ID:84pogn5s
<『生命の實相』第一巻(總説篇)より>は、すでに前にアップされていますので、以上で終わりです。
感謝 合掌 拝
708
:
ハマナス
:2012/05/23(水) 00:01:47 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
悲しみはこらえず、これを転換せよ (『新版 生活の智慧365章』P.161)
悲しみの感情から脱却すると云うことと、悲しみの感情をこらえて内部へ押し込んで
しまうこととは異なるのである。こらえて内部へ押し込んでしまった感情は、それが消え
ないで、所謂る「抑圧感情」と称せられるところのものとなって、それがある程度以上
蓄積されると具象化して病気を引き起こす原因となるのである。
そこで悲しみの感情は、単にこらえて押し込むだけではなく、その感情を他の方向へ
誘導し光明化したものとしなければならない。即ち不幸が起こって来たときに、「この
不幸は不幸ではないのであって、幸福に到達するための途中の踏み石である」と思い返
すか、「この不幸は過去の業が形にあらわれて消え行く姿である。過去の業が消えたあと
には幸福が来るほかはないから有り難いのである」と念ずるがよいのである。
感謝合掌
709
:
金木犀
:2012/05/23(水) 06:39:19 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生
君民同治の神示講義(5)
では、神とは何であるかというと、
「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である」とあります。従って神の生命を分かち有つところの「神の子・人間」も「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者」でなければならない。その「久遠の主宰者」たる自覚を「生命の外延の世界(社会及び国家)に於いても持つことを要請する」主義が民主主義なのであります。
そこで、その民主主義なるものは天皇制と背反するものであるかの如く説く人もありますが、天皇制そのものが、「久遠の中心者」又は「久遠の主宰者」を要請する「人民の心」の反映として、日本民族の「生命の外延」として存在することを此の神示には次の如く示されているのであります。
「身體も國も共に、観る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。観る心の要請が身體に於いては脳髄の存在となり、國に於いては永遠の元首なる、無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る……」
この神示によりますと、観られる対象は、「観る心」の反映であり、その感情想念又は自覚が、対象に移入されて、対象をそのように感ずるのでありますから、吾々が国家に於いても、「変わらざる永遠の中心者」を要請するのは、人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念があるからであります。人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がやどっているのは、人間生命をつくった「大生命」(神)御自身に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する根本要求があるためであって、そのためにすべての造られたる物には「変わらざる永遠の中心」が備わっているのであります。即ち原子には原子核があり、細胞には細胞核があり、樹木には幹があり、人間及び高等動物には脳神経中枢があり、太陽系統には太陽という「永遠に変わらざる中心」があるのであります。
このような宇宙万物を造った「大生命」の生命を宿し生れている人間の心の中に「変わらざる永遠の中心者」を求める要請が宿っているのは当然のことであります。だから、「観る心の要請が、身體に於いては脳髄の存在となり、國に於いては永遠の元首なる、無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである」と示されているのであります。(つづく)
710
:
金木犀
:2012/05/23(水) 06:40:51 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生
君民同治の神示講義(6)
この神示に於いて注目すべき点は「無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇」とあることであります。天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、「無にして絕對」なのであります。他の国の色々な人間団体にも中心者や主宰者はあります。しかし「無にして絶對」なる中心者は殆ど全く存在しないのであります。だから常に権力争いが付き物であり、権力候補が選任争いをするか、実力闘争によって中心者の座を占めようとするのであります。ところが日本天皇に限り、権力争いというようなことがない。自己を主張しようとはせられないし、対立がないのであります。だから「無」なのであります。天皇は自分自身の幸福や利益を求められない。だから「無」なのであります。ただ全体の福祉と祥運を願われるばかりであります。それは脳髄及び脳神経系統が脳髄自身の幸福や利益を願うことなく、全身の、そして全細胞の健康のために奉仕しているのと同じであります。
この天皇が「無にして絶対者」であられるということは大東亜戦争の開始に際しても、その重職にある者の多数決に対して抗争することなく「無」の立場であられたことにも現れていますし、終戦直前の御前会議において阿南陸相と梅津参謀総長と豊田軍令部総長とが戦争継続を主張したのに対し東郷外相、米内海相、平沼枢相が戦争終結を述べたほかは、重臣ことごとく自己の意見を述べることが出来ないから、多数決で国事を決することができなくなり、ついに天皇の御聖断を請うしか道はないということになったのであります。
「無にして絕對なる神」は、人間が迷っていても、御自分の意見を出して、それを止め給うことはない。しかし謙虚なる心になって「無」なる神に相対すれば其処に實相無限の智慧と愛とが呼び出され、その智慧と愛との導きに従うとき、一切の不幸が消滅し實相大調和の状態が実現することになるのであります。
それと同じく「無にして絕對なる天皇」は吾々が天皇に対して振り向くことなく、天皇をただ看板にして、「虎の威をかる狐」のように天皇をただ利用して軍閥が自分の権力の増大をはかっている限りは、天皇は神と同じく別に罰を与えられることもないが、その迷いを制せられることなく、その迷いの行くがままにそのまま委せていられるのでありますが、その迷いが行き詰まって、謙虚でいるしか仕方がなくなって天皇の方へ振り向くとき、其処に天皇の御心があらわれるのであります。日本の歴史は、常に時の権力階級が我の力が行き詰まっては、天皇の方に振り向き、そこから神智が実現して正しき道に帰るということが繰り返されているのであります。それですから、大東亜戦争の末期に於ける御前会議に於いて、誰も意見をのべる者がなくなった時、ついに天皇は「ほかに誰も意見を述べる者がないならば、私の意見を述べよう。私の身体はどうなってもよいから、この上国民を戦争の惨禍の中に苦しめるのは見るに忍びないからポツダム宣言を受諾して戦争をやめる」と仰せられ、その後、天皇はマッカーサー元帥を訪問せられて、
「戦争の責任は皆私にある。国民には責任はない。私は絞首刑をも覚悟している。皇室財産は司令部の処置にまかせる。私の一身はどうなってもよいから、国民をどうぞこれ以上苦しめないで頂きたい」と仰せられたのである。「無にして絕對であり、一切の主である」ということは、「無」でありながらも、責任を回避するということではない。「一切の主である」とは「一切の責任は自分にある」との自覚である。「無」であるがゆえに神聖であり、一切の責任を自己に背負って自己が一切の者に代って苦しもうとする愛の深さゆえに天皇は神聖であるのである。
711
:
金木犀
:2012/05/23(水) 06:42:30 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生
君民同治の神示講義(7)
しかし、そのような天皇の神聖性は、人民自身が「無」になって謙虚に天皇に対して回帰しない限りはあらわれない。傲慢に天皇を批判している者にとって、天皇の神聖性が理解されないのは当然のことである。だから、「観る主體(民)の神聖性が包まれて蔽はれて混濁するとき、天皇の神聖性は蔽はれて撥現しなくなるのは其のためである。今の状態がそれである」と示されているのである。紅緑色盲に於いては、紅や緑の色彩が実際そこにあっても、自己自身に内在する紅緑の感覚が目覚めていないために、其処に紅緑の色彩をみとめることが出来ない。それと同じく自己に内在する「神聖性」が包まれ蔽われて混濁している場合には、天皇の神聖性は蔽われて発現しない。それ故に、「天皇の皇位を剥奪し、皇室費を停止して、天皇を唯のサラリーマン又は文教労働者となすべし」というような唯物論者の議論も生じて来るのであります。唯物論者にとっては、人間はただの“物質の塊”以上のものではないから、その価値や尊さを、その能率的エネルギーの量に一般化して、それを平等に取り扱おうとするのは無理もないことであるけれども、自己の内に「神聖性」が発現し、その「神聖性」を観る眼をもって、国家を観、天皇を観るとき、其処に、自己の神聖自覚の投影としての、神聖国家及び神聖天皇を観ることができるのであります。
だからこの神示には、
「人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が、天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり、君は客である」と時代に適応したところの民主主義に背反することなき、天皇神聖論をお諭しになっていられるのであります。
しかし、「民が主であり、君は客である」という表現をつかうと誤解を招くおそれがあり、「人民のほうが君主より偉いんだぞ、天皇は吾々の得た月給から納めた税金で養っているんだぞ」などというような間違った考えを懐くものも出て来る恐れがあるから、神示は更にこれを綜合的立場から説明を加えて、「是を主客合一の立場に於いて把握すれば主客一體であり、君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む」と説かれ、天皇の「治」を民を拝みたまう行事として、次のように示されているのである。
「民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝みたまふ“治”は君を拝むところの“事”と一體である。治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。……」
このように神示によれば、政治とは権力階級が非権力階級を圧えつつ治めることではなく、「民は君を拝み、君は民を拝む」――すなわち「君と民との拝み合い」ひいては「政府と国民との拝み合い」が本当の政治なのであります。近頃の政治を観ると、政府と国民とは「拝み合い」どころか、「憎み合い」又は「争い合い」の様相を呈しているので、このような政府の要員や国民の代表にとってはこの神示は誠に好箇の反省資料だと思われるのであります。併し現在の日本の状態は、天皇の神聖性などを観ることが出来る者は残念ながらきわめて少ないのであります。それは人民自身が自己の神聖性をみとめないで、自己をただの「物質なる肉塊だ」と観じている。そしてこの肉体なる化学物質の反応の如き本能満足の要求を「基本人権」だなどと信じているのですから、「人民自身の絕對性の把握」など殆どない。そして、“観られる世界”は“観る心”の反映であるから、天皇の絶対性など観得る人も殆ど無いのであります。そのことを此の神示には、
「天皇は絕對者にましますとは、観る主體たる人間(民)の絕對性より來る。民が自身の絕對性の把握が破れるとき、その反映として國の絕對性と天皇の絕對性とは破れるのである。打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである」という風に諭されているのであります。(完)
712
:
うのはな
:2012/05/23(水) 16:12:01 ID:???
私たちは神の守りの中に包まれている
神は普遍の霊であるから到る処に満ちみちていたまうのである。
私たちが何処にいようとも、常に私たちは神の普遍霊の中にいて生活しているのである。
だから私たちは常に神にまもられ、神から守護を受けることができるのである。
若し神からの守りがなく、守護を得けていないで不幸に見舞われたと見えるようなことがあるならば、
それは守護がなくなったのではなく、自分の心が神に振り向かず「心そこにあらざれば見れども見えず、
聴けども聴えず」式に、神と波長が合わなくなって、神の導きから、波長が外れてしまった結果にほかならないのである。
若し自分が神の方へ心を振向け、神の導きに心の波長を同調するようにするならば、たちまち
神の導きに触れることが出来、運命が好転してくるのである。
『真理』 実相篇 第10巻 谷口雅春 先生著
713
:
うのはな
:2012/05/23(水) 17:45:14 ID:???
生長の家はそれが地上に発祥したのは昭和四年十二月三十一日に『生長の家』
といふ雑誌が製本完成したときであり、その處は唯今、神戸市内に編入されていますが、
当時は兵庫県武庫郡住吉村八甲田と称された處で其処にささやかな家の門柱に“生長の家出版部”
といふ竪看板のような大きな檜の問標がその翌年掲げられたのであります。
その雑誌の創刊号の奥附けに昭和五年三月一日発行としてありまして、創刊号がひろまるのに、次の第二号発行まで
の間隔がひろまるのに、次の第二号発行までの間隔を三ヶ月間とってあったのであります。
第三号から第三種郵便物の認可がおりました。奥附の三月一日発行を、公式的な生長の家発祥の春の記念日としてあるのは、
時候が人々の集り易い陽春を選んだのであります。
しかし、生長の家は地上に発祥したときに始まったのではなく、「久遠の昔」からあるとこの神示に示されている通り、久遠の
昔から實在の世界にあって、時期が熟して、地上人類救済の瞬刻限に地上に出現したのであります。
それだから、既に何処かで書いて置きました通り、昭和十年のこと、天理中学の国語の先生、山村楢次郎氏は、
『生命の實相』の初版(註・黒布表紙の雲に三本金線のある装丁の本)を書店で求められたとき、突然十八年前に夢の中で白髪の神様から
黒いドッシリとした黒表紙金銭図案の本を頂いて、荘厳な感じがして有りがたさに目が覚めたことを思出だし、「この本だ!!」
という感じを受けられたのであります。
昭和十年の十八年前にはまだ生長の家は地上に出現していない。
それなのに既に十八年前に夢の中で見えたのは地上出現以前にそれが存在した証拠であります。
山村楢次郎さんは既に故人でありますがお嬢さんは現在非常に熱心な誌友でありまして、先般、
生長の家本部の白鳩会に出席して体験談をお述べになったのであります。
『到彼岸の神示』 神示講義・自覚の巻 谷口雅春 先生著 P70
( 投稿者 現代漢字に変更書写)
714
:
SAKURA
:2012/05/23(水) 19:44:18 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは
昨日から【〜♫ come on! come on!♫〜】と、強い言葉が流れて来ます…?
「生長の家」私も【come on!】と…私も自然と“口ずさんで〜♫”いましたが?
さて“今日の言葉”は…【合掌します。幸福なる“道印!〜〜〜ごま〜〜開け〜〜”】
今日の言葉は……
■【幸福を招く365章】
――――此処に天国浄土が実現するには――――
今日は人に是非とも深切を尽して見る一日としようではないか。何か人のために
させて頂くことを心掛けて一生懸命にやって見ようではありませんか。
それを真に実行して見たときにあなたの心に平和と感謝とが訪れるでしょう。
本当の悦びは人からして貰ったときよりも、人に対してしてあげた時の方に
それがあると云うことが体験として分かるのであります。
更に今まで何の気にもかけなかった風のそよぎを、樹々の緑を、小鳥の囀りを、
神の愛の表現であるとしてきいて見ようではありませんか。
あなたの周囲に別の幸福な世界が訪れます。
なるほど此処が神の国だとわかってまいります。そして、
あなたの周囲にある家族のよろこばしそうな笑顔を御覧なさい。
まだ笑顔があらわれていませんでしたら、笑顔があらわれているとして
優しい言葉をかけてやんなさい。本当に笑顔があらわれてまいります。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
“朝のめざめ”其の瞬間…一番に思い浮かんだのは“徳上の笑顔”にしなさいと…
めざめる瞬間の【夢…】でした?これって「正夢」なのでしょうか?
何のことか分からず〜〜〜“ボ〜〜〜ッ”としていますと…私の“ブレイン”が…
ようやく軌道し始めました…。ウフフ
■日本と海外の違いですが……日本の場合は、女性の方を例えますと…
若い時は“精神面”に拘らず、唯!“若さ”でしょうか〜〜〜?
海外の女性の方の場合は、もう〜〜〜〜〜〜〜大変!の様に見受けられます。
若い時の“感情”を〜〜“動作”を〜〜表現を訓練するのですが……><
どうしても、“感情表現”が……でも!“訓練”しながら、大人になっていきます…。
■逆に、日本の女性の方の場合は、若い時の“習慣?慣習?…そのままで大人“に
なり“50歳過ぎ”ても自覚がなく、そのままです〜〜〜ョネ!
それを“比較論” していきますと、やはり!【精神面…】でしょうかしら〜〜〜ン!
どんな時でも【表情を豊かにする】・【ボディティブに行動する】事が、
他人に対しての“深切”と今日は思えて来ました…。
今日の私は、どんないやな人??とすれ違っても【我が身の精神進歩向上】の為に
誰に対しても〜〜〜〜〜“特上の笑顔”を進呈しようと…
今日は、バカみたいに「笑顔の筋肉運動」再スタ−トしてきましたら、
今のこの時間でも、気持ちよく持続しています…。【ハイ!ニコ!ポン!!】
これなら、ズ〜〜〜ッと、がんばりがいが出来そうな感じなのですが〜〜〜?
「三日坊主にならない…」ように“精神集中”で〜〜〜す。
これも?もしかしますと“年”をとらない“秘訣”でしょうか?
■最後に!!【素敵な“笑顔”は、人様に“小さな深切”でしょうかしら〜〜〜ン】
再合掌
PS:
トキ様の“笑顔”は、素敵そう〜〜〜♫に、見えますが…
“文章”から、その様な「イメ−ジ」が致しますが……どうでしょうかしら〜〜〜ン?
「笑顔も小さな深切」なのです〜〜〜ョネ!唯今!!“鏡とニラメッコ〜〜〜☆”
トキ様は、女性の“笑顔”??リクエストありますか??
716
:
SAKURA
:2012/05/23(水) 23:38:32 ID:V.pKl3yA
管理人「トキ様」へ
大変恐縮ですが…間違って“投稿”してしまいましたので
(「WEB 誌友会」投稿ボ−ド…と間違いました…。ごめんなさい…。)
■715 『削除…』御願い申し上げます。
717
:
a hope
:2012/05/24(木) 08:37:12 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
金貨よりも時間は大切
ところが、この時間ぐらい目に見えないものはない。
目に見えないためにどうも粗末にされ易く、失われ易いのであります。
金はなくしたら人から借りる事もできますが、時間をなくしたら人から借りる事はできません。
仮りに金貨を握ってそれを捨ててあるいたら、
「ああもったいない」と言って拾って歩く人はありますけれども、
時間を捨てて歩く人の後ろからついて往って、
「ああったいない」と言って時間を拾って歩く人はないのであります。
時間は目に見えないから拾って歩くわけにはゆかないし、
時計で測って見て、眼に見えたからといって、時計の捻子(ねじ)を逆に廻して、
針を逆さまに廻してみても、時間そのものは後へ戻って来るものでもなく、
「あんた時間を落としてますよ」と言って拾って上げるわけにもゆかないのであります。
このように時間と言うものは生命(いのち)から二番目の金よりも大切で、
一番の一番の生命そのものでして、時間を失ってしまったらどうにも仕方がないのでありますから、
皆さんどうぞ一分間でも時間を生かして、良い事に、勉強に、仕事に、人に喜ばれることに、
自分をよくする事に、人をよくすることに、人のためになることに、使うことにいたしましょう。
(つづく)
718
:
SAKURA
:2012/05/24(木) 20:55:01 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
毎日の“聖典板…”への投稿を、もう少し早く投稿しましたら〜〜〜(微笑)
そのように思いつつ〜〜〜「time is money〜♫〜」ですもの〜ネ!
この頃“時間”のたつのが、早く感じる次第です…。さて!今から〜〜〜♫
今日の課題は????
■【幸福を招く365章】
=====天地一切のものを祝福せよ=====
朝めざめたならば、神想観を行い、
「神の生命われに流れ入りて、わが生命を健かならしめ給う」
念じつつ呼吸を整え、さらに「神の愛われに流れ入りて、光明燦然と輝き給い、
われを通して天地一切のものを祝福したまう」と
云う思念を繰返すことは、天地一切のものと和解することを如実に
実践する上にきわめて善き方法善き方法である。
一切の不幸と病は、自己が天地一切のものと和解していないで、ある程度
又は或る意味に於いて敵対状態にあるから生ずるのである。
然るに上記のような思念をおこなうときには心の中に、こちらから積極的に
天地一切のものと和解する以上に、天地一切のものを祝福することになるのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■「祈り」ます時は、“大調和の精神”です〜〜〜ョネ! ウフフ
これが【集中〜〜〜!集中〜〜〜“力”です〜〜〜ョネ!】
そして何度も「祈り」ながら、気が付きますと、もう〜〜〜【希望成就】!!
その気になりまして、成就したかのような気持ちに、
これがいけない様にも思います〜♫“継続する心”が必要でしょうかしら〜〜〜ン?
唯!「神様と一体…大調和の世界」に突入していく内に、【希望成就】が〜〜〜
叶えられますのでしょうかしら〜〜〜ン??
此処が?最近の私の“迷い心”でしょうか〜〜〜♫
つまり…
先ず!【希望成就】を先にして…【天地一切に和解】なんです〜〜〜ネ!〜〜〜
そうしますと{焦りの??祈り???}
【天地一切に和解…】が?此処に私の“心”が引っかかりまして、
これから先が〜〜〜><いつまでも〜いつまでも〜前に進めなく…><
「精神統一」がいつの間にか、ふらつき状態なのですモノ??
此の様な状態でしたので…出来なかったのが現状ですが……
■「イメ−ジトレ−ニング」で“瞑想”していきますと、
そうなのですョ〜〜〜ネ!もう〜〜〜【天地一切と和解】しているのです…。
【天地一切は“感謝”からの“スタ−ト”……“感謝”は、既に〜〜〜
和解!和解!−−−−−−−>和解!の“大調和”ですから…
“心”も“リフレッシュ”になり【和解=若い精神===>老化防止】でしょうか?
「神に祈る事」とは、【天地一切に感謝=若さの精神=神想観】です〜〜〜ネ!
再合掌
PS:トキ様 へ
本日の言葉…にての「天地一切への和解…」が先なのか?それとも…
「希望成就への祈り」が先なのでしょうか?…この頃悩みますのですが???
“アドバイス”頂きますと、幸いに存じますが…???
「卵が先???それとも鶏が先???」なのでしょうかしら〜〜〜ン!
719
:
トキ
:2012/05/24(木) 20:57:34 ID:glP3dfpk
>>718
個人的には、和解の祈りが先だと思いますが、他の皆様、どうお考えでしょうか?
720
:
SAKURA
:2012/05/24(木) 22:24:37 ID:V.pKl3yA
>>719
トキ様 へ
“お返事”ありがとうございます…。「和解が…先?」なのです〜〜ネ!
“鶏”・“卵”〜〜〜〜〜どっちかしらん??考えこんでしまい〜〜〜><
今!私事なのですが?起きています…目の前の“大きな〜〜〜壁?”
“私も”“パ−トナ−も”…兄弟・姉妹の問題もありまして…?
そうなのです〜〜ネ!
「和解……神想観」させて頂きま〜〜〜す。ありがとうございます…。 再合掌
721
:
a hope
:2012/05/25(金) 07:09:17 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
一度失われた時間は帰らぬ
いつも午前八時には時計の針は一定の8の字を所を指しますけれども、
今日この「八時」という時間は永遠にやって来ないのであります。
午前八時というのは何回でもやってきますけれども、今日のこの時間、
自分の生きるこの時間という同じ時間はやって来ないのであります。
今日のこの自分の「生きるこの時間」というものを生かさなければ、
この私達の有する自分の生命(いのち)というものが全然ないわけであります。
ですから、いつでも、「今」が自分の生きるか死ぬかの正念場なのであります。
私達自身を生かすか殺すかの重大な時期、それが時々刻々の時間であります。
(つづく)
722
:
ハマナス
:2012/05/25(金) 18:07:42 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。今週は仕事で毎晩遅く、投稿できませんでしたので、続けて謹写させて
頂きます。
難有り、有り難し (『新版 生活の智慧365章』P.162より)
不幸が来るごとに、これで過去の業が消滅し、今後好転の運命を刻む自分になったのであり、
謂わば、この不幸は、幸福への曲がり角だと観ずることができれば、どんな不幸がやって来ても、
失望落胆することはなくなる筈である。このように考えを転ずることに成功するならば、どんな
不幸や困難がやって来ても、もう大丈夫である。
これは悲しみの感情を抑圧することではなく、その感情を方向をかえて光明の方へ誘導する
のであるから、もう悲しみが悲しみではなく、悲しみが光明に変質してしまっているのであるから、
それは将来、不幸を現象化する原因が消えたことになっているのである。だから黒住教祖は
「難有り、有り難し」という風に漢字をまじえて解り易く説明されているのである。
感謝合掌
723
:
ハマナス
:2012/05/25(金) 18:12:03 ID:u5mC.eb2
幸福の鍵は何処にあるか (『新版 生活の智慧365章』P.163より)
若しあなたに「どんな幸福の扉でも開く鍵があるのですが、あなたはそれを欲しくありませんか」と
言われるならば屹度あなたは「本当にそんなものがあるならば、それを得たいものだ」と思われる
でしょう。その鍵は決して金属でできているものでも、楠(くすのき)や檜(ひのき)の板で出来
ているものではありません。そんな物質で出来ているものは結局はこわれるものであります。虫食い
錆びくさるものに幸福を求めてはならないと教えられました。
その鍵は“霊的なもの”で出来ているのです。そして他物にそれを求めても得られるものではなく、
自分自身の内にその鍵があるのです。その鍵を『生命の實相』と呼ぶのです。それは必ずしも書籍の
名前ではありません。『生命の實相』の本はその鍵の在所(ありか)を示した本ですからそのように
名づけたのです。
その鍵は全ての人が自己の内にもっている万人具有の鍵であります。人間の生命のうちには「無限」
が宿っているのです。その無限に気がついたとき、その人はその鍵を発見したのです。自分自身の
生命のうちに「無限」が宿っている、何という素晴らしい事でしょう。
感謝合掌
724
:
SAKURA
:2012/05/25(金) 19:14:09 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
【幸福を招く365章】は、発行が“最近版”なのです〜〜〜ネ!
「谷口雅春先生の晩年の御言葉」は、最近?深みを感じますのですが〜〜♫
先生の創立当時からの前半の“書籍”も、又!それなりに、グ−!!ですモノ〜〜!
やはり、私でも“ライティング・思考力”は???
若い時より多少?進歩しているのです〜〜〜ョネ
「人間は進歩向上!!」の過程で……「生長=成長」するのではと思います???
今日の“タイトル”は??神様からの“メッセ−ジ”にてオ−プン!!
■【幸福を招く365章】
====愛の想念を手紙に凝めよ====
あなたが手紙をかくときに唯、事務的に書かないで、
「この手紙を通して神が貴方を祝福したまう」と祝福の想念を
ペンに含ませながら書くときは、それを受け取った人の心に愛念を沸き立たせ、
著しくあなたに対する好感を起さしめるものである。
それに反して腹立ちながら書いた手紙は、どんなに丁寧に書いたつもりでも、
何処かに相手を憎む雰囲気が伴っているものであって、
屹度相手を不快にしてしまうのである。愛の想念は凡ゆるものに調和を惹起し、
憎しみの想念は凡ゆるものに不調和を惹起す。
愛は朗かさを招きよせ、憎しみは暗黒を惹起す。愛なるかな。愛なるかな。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
最近?思うのですが〜〜〜〜〜><
或る人が“パソコン”を、打った“投稿文”を、どうかしますと……??
スム−ズに?読めなくなる事が、あります…。「雅春先生の本」を“スル―”して、
そのまま“key ボ−ド”を打つていますが…
不思議なのです〜〜〜ョネ!
「同じ言葉」なのに?此方からな〜〜〜の?どうかしますと、いつの間にか
“心”の中で“拒否反応”が、生じてしまう事もあるのですが……?
これは?本能?【念の法則…】かしら〜〜〜ンと、思っていましたが???
今日!さっそく「雅春先生の言葉」から、私なりに理解しました…。
■その人の“心が〜〜形に〜〜”あらわれた事なのです〜〜〜ョネ???
私も“感情”が入りますと…【ポジティブ?ネガティブ?】この感情の相違により、
【ライティングのアイデア…】も?出来なくなる事も〜〜〜><
これではいけないのです〜〜〜ョネ!
「雅春先生のお言葉」を、投稿する為に、打ちこみます時は…
此の“感情”は、なるべく?いえ!!冷静なる!そして、相手に対しての“愛念”…
其の厳粛なる感情にて“打ち込む”その様に本日は、気持ちの上で…
切り替えて“行”ずる事を…決めた次第です。今!!此の事が“勉強”なのです〜ョネ!
■そして“反省”の自覚にて“心が洗われる…自分自身”に気づきまして???
本当に【自分の心の影?】そのものの”感情“が、“文章に移入”される事…
それならば…「今日の言葉」より〜〜〜♫♫
モット〜モット〜【大調和の精神での…ライティング!!】させて頂きます…。
当に!!今から〜〜〜【実践…のみ】
■本当に【念の世界!!!!!!】なのです〜〜〜ョネ!!
再合掌
PS:
トキ様へ
今日の言葉【手紙…】一つでも、相手に対しての“念の具象?”なのです〜ョネ?
トキ様はライティグされます時は、“此の感情移入…”どのように対処?
されますのでしょうか??何か、具体的な事が、ありますでしょうか?
“アドバイス”頂きますと幸いです…。
例えば…此の“服”を来ますと〜〜♪♪“ラッキ−“な事が多いとか?
確か「生命の実相」の中にも“セ−タ−のお話”がありましたです〜〜ョネ!
725
:
トキ
:2012/05/25(金) 22:25:17 ID:BQ0WW5TQ
>>724
念の問題は確かにありますね。いつまでも他人に恨み、つらみの念を持っていると
自分にかえってきますから、要注意です。逆に言うと、仕事等で会う相手の幸せを祈るのも、
愛行だと信じます。小さな事から始めたいです。
726
:
a hope
:2012/05/26(土) 08:01:13 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
この境遇にこの時間
さて、すべての人は単なる「時間」という目に見えない流れの中に生きているだけではなしに、
ある具体的の境遇というものの中に住んでおります。
この具体的な境遇というものが、いわば横の広がりであります、時間という縦に続いているものと、
遇という横に続いているものとが交叉した十文字の一点に私達は生きているのであります。
時間は無形で形がありませんから、どの時間でもよく似たように見えておりますけれども、
この境遇、この自分の置かれた横の位置というものは、常に変わっているのであります。
たとえば昨日の午前八時、今日の午前八時、また明日の午前八時、時間は皆午前八時であっても、
自分のいる位置が変って、自分の生命(いのち)の波がかわっているのであります。
時々刻々私達は自分の生命が変っているのでありますから、いつも異う新しい自分であります。
常に新しい自分が、常に新しい境遇に於いて、常に新しい時間の流れに生きるというのが、
私達の時々刻々生きているところの生命であります。
ですから、常に私達は、「今」の時間と境遇とをできるだけ十分生きて、新しき生長をしなければならない。
そうしなければ私達は「今」の自分の生命がを捨てているわけであります。
「今」の自分の生命を捨てては、単に自分の生命が生長しない事になってしまうと同時に、
ニ度と掴む事の出来な千載一遇(せんざいいちぐう)尊い境遇機会というものを逃してしまう事になるのであります。
(つづく)
727
:
a hope
:2012/05/26(土) 08:08:03 ID:kcv2QXTk
訂正
>>721
タイトル
一度失われた時間は帰らぬ → 一度失われた時間は復(かえ)らぬ
726本文の上から4行目
遇という横に続いているものとが → 境遇という横に続いているものとが
728
:
金木犀
:2012/05/26(土) 15:37:22 ID:L0Ei6.zw
碧巌録解釈 (第五十六回) 谷口雅春先生
第五十六則 欽山一鏃三關を破す
[垂示] 垂示に云く。諸佛嘗て出世せず、亦一法の人に與ふるなし。祖師嘗て西來せず、未だ嘗て“心(しん)”を以って傅授せず。自ら是れ時人了せず、外に向って馳求(ちぐ)す。殊に知らず、自己脚跟(きゃっこん)下、一段の大事因縁、千聖も亦模索不著なることを、只如今、見不見、聞不聞、説不説、知不知、なんの処よりか得來る。若し洞達すること能はずんば、且(しばら)く葛藤窟裡に向って會取(えしゅ)せよ、試みに擧(こ)す看(み)よ。
[解釈] この垂示は「諸仏嘗て出世せず」「祖師嘗て西来せず」という風に、一般に歴史的にあったと信じられている釈尊が出興せられた事実や、祖師達磨大師が天竺から支那へ仏心宗を弘めるために渡来せられた事実を正面から否定する“反語”であって、そういう歴史的事実は無かったということを主張するために書かれているのではないのである。
この垂示の中心は、真理は自己の脚跟(きゃっこん)下すなわち自分の今立っている脚の下にあるのに、「自ら是れ時人了せず、外に向って馳求する」愚を指摘せんがための反語であるのである。
「一段の大事因縁」という語は法華経に「吾一大事因縁を以ての故に世に出興せり」とあるのを引用したのであって、何も釈迦だけが一大事因縁を以ての故にこの世に生まれて来られたのではないのである。すべての人間各自が、みな“神の子”として神の万徳を具(そな)えて神の最高の自己実現として、この世に生まれて来たこと其の事が“一段の一大事因縁”なのである。
それなのに、その“一大事因縁”は釈迦のような、また達磨大師のような天才的な真理の達人にのみ付与されている特権であって、自分のような凡夫には、そんな天分は付与されていないのだと自己劣等感をもってはならないのだと、この垂示は指摘しているのである。
真理というものは釈尊や達磨大師のような特殊な宗教的天才にのみ与えられているのではなく、各人の脚跟下(きゃっこんか)に、各自の“生命の實相”そのものの中に、今現にあ’る’のである。それを外に向って諸仏にもとめたり、達磨大師に求めたりするものだから、そんなもとめ方をしていては、「千聖(せんしょう)もまた模索不著」で、どんな聖者があらわれても、彼らが外に真理を求めているようなことでは“模索不著”すなわち探し求めても、ついにその真理に到達することは出来ないのだ。
だから、そんな「真理は諸仏のサトリの中にある」とかいって外に真理を求める対象となる諸仏や祖師を抹殺してしまわねば、自己のうちにある仏性をさとることができないのだ。
それだから、吾々が外に真理を求める対象となる諸仏や祖師を抹殺するために、この垂示は、「諸仏嘗てこの世に出でず」だから、そんな諸仏から真理を授かろうと思っても、外にそれを求めたのでは「一法の人に與ふるなし」と、そんな諸仏から真理の一片を期待しても、決してそんな諸仏からは一つの真理も出て来ないぞと否定したのである。
また自己の脚跟下(きゃっこんか)にある真理を、天竺から西来した祖師達磨に求めても、未だ嘗てそんな外にある祖師から心をもって真理を伝えてもらえるなどと期待しても駄目だぞ、それなのに「時人」すなわち近頃の人間は、この事を了知せずして、釈尊や達磨に、外に向って真理を求めていて、自己内在の実相に気がつかないぞ、と指摘しているのである。
この人間各自が釈迦達磨とひとしくその実相は、“神の最高の自己実現である”という実相を知るには、只今のところ一般の人間には見不見、聞不聞、説不説、知不知であって、見て見ること能わず、聞くも聞えず、説いて説くこと能わず、“覚知”の知によっては知って知ること能わずである。何処からその真理を得たらよいか。
若しいまだその真理に洞然と到達することが出来なければ且(しばら)く先輩の人生の葛藤及び、その葛藤を描き出した本則について参究を重ねて会得して頂きたい、試みに本則に実例を擧げるから看よといって、愈々(いよいよ)本則に移るのである。
729
:
SAKURA
:2012/05/26(土) 19:59:56 ID:V.pKl3yA
>>725
拝読させて頂きまして
トキ様 へ
“お返事”ありがとうございます…。
■>いつまでも他人に恨み、つらみの念を持っていると
自分にかえってきますから、要注意です。逆に言うと、仕事等で会う相手の幸せを祈るのも、愛行だと信じます。小さな事から始めたいです。<
そうなのです〜〜〜ョネ!“要注意〜〜〜〜〜”ですョネ!
“念…ネガティブな感情”これは、確かに?自分自身に戻ってきますよ〜〜ネ!
唯!悲惨な事ですが…その“想念”が〜〜〜“病気”を【引き寄せる!】事にもと…?
「雅春先生…」が…おっしゃつていらっしゃいました事を、思い出しました。
■>われわれの心の状態は肉体のみ反映するのあって、事業やら運命には
反映しないと思っているとまちがいであります。
多くの商店会社の不繁盛の原因は従業員の心の不調和であります。内部に働く人の
心が不調和になってきますと、繁栄の雰囲気は逃れ去り、繁栄の雰囲気が逃れ去れば、
注文は激減し、外部の注文が激減すれば不安は募り、内部の不安が募れば外部の
注文はさらに激減し、その商社の没落に拍車をかけることになるのであります。<
「雅春先生の言葉…一部抜粋」
仕事にも影響し…最悪状態になりますもの〜〜ネ!
「相手の幸せ」…祈れる“素直な自分…”…
このように“ネガティブ感情”を持つぐらいなら【神を想い…】
“光明思念”を繰り返し〜〜繰り返し〜〜思念しながら【大調和の世界!!】
日常生活に取り入れていきま〜〜〜す。ありがとうございます…。
■【小さな事から始め〜〜♫〜〜】そうなのです〜〜ョネ?
大きくふくらんで〜〜♫〜〜「トキ様の言葉」より〜〜〜
只今…行動に〜〜〜♫〜〜〜(微笑)
再合掌
730
:
SAKURA
:2012/05/26(土) 20:36:02 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
「阪急のメガネコ−ナ−」に行きまして、“パ−トナ−のメガネレンズ”が〜〜><
外れていましたので、その「修理…」その間に、私のメガネまで“クリ−ニング!!”
して下さり、いろんな“レンズの知識”…頂きましたが…
更に!最近の最新情報内容…etc話している内に。【タイム・オ−バ−!!】なの?
あわてて“事務所”に戻り…ホット!!
此の様に「知識」を知らずにの“買い物”と……?「知識豊富な人」の買い物は??
かなりの隔たりがあります〜〜〜ネ!
“買い物”でも、この様な事が言えますから、ましてや〜〜〜><
【真理…】の勉強でも、豊富に受け入れて行く人の方が、早く!【大成…】します、
その様に、改めて思いました…。
【SAKURA…】も今から、新たに“モット〜モット〜”いろんな角度で読書…です。
その“第一歩”は〜〜〜“今日の言葉”から参りましょう!!
■【幸福を招く365章】
====相手の幸福のために祈れ=====
何か問題が起こって来ても、すぐ、「それは何某が悪いのだ」とその人を
呪うような考えを思い浮かべてはならない。
人を呪うような考えを起せば、その呪いの精神波動があなたを中心として
宇宙の中に必ず何等かの攪乱作用をおこすのである。すると、その派長に合う
乱れた精神波動があなたを中心として集まって来る。
それは結局、あなたの不幸を惹起することになるのである。
それよりも、その人を赦す思念をすべきである――「私はあなたを赦しました。
私はあなたを愛しております。幸福になるようにいのります」と静かに相手を
祝福する言葉をねんずるのである。すると神の秩序は回復されるのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■「問題」が発生しますと…直ぐ!他人に“責任転嫁”される方が多いです〜ョネ?
そう云います??“私…?? ウフフ ”私“もその仲間かしら〜〜〜ン!
今!思いますと…“精神面??”正直申しますと“弱い”〜〜のでしょうか?
でも〜〜〜でも〜〜〜今回、初めて“観覧する立場”で見ていますと…
気が付きました事は、第三者から見ても「気持ちのいい会話?」は、
見ていても、此方も楽しいです〜〜〜ョネ!
今回!私もおおいに“反省”です…。先ず!他人に“責任転換”する前に、
私自身に“心”を振り向ける事でしょう〜〜〜かしらン?
自分自身を磨く……【プロ並みの人間!!!】でしょうかしら〜〜ン!
更に!相手を赦す【祈り…】をします事が…【心の向上…】に繋がるのです〜ョネ!
いろんな形でのいやな事が起きてますので……><
今日から〜〜更に“いやな人達への愛のメッセ−ジ”を投げかけます????
■今日から〜〜この瞬間から〜〜【SAKURA ===>wink!!】
此処は「生長の家〜〜〜〜〜家〜〜〜〜〜」
ネガティブ感情派??「アウト・サイド〜〜〜〜〜♫〜〜〜〜〜」
ポジティブ感情派??「イン・サイド〜〜〜〜〜♫〜〜〜〜〜」
再合掌
PS:s
トキ様へ
「人を呪うような考え方」つまりネガティブ感情…此の“感情のコントロ−ル”
どうかしますと“弱い自分自身”此の時は、ややもしますと
生じやすいモノと思いますが…?
「此の“感情コントロ−ル”そうです〜〜ネ!平常心を持つ…常に!常に!
何か“秘策??”トキ様に取りまして、ありますでしょうか??
731
:
トキ
:2012/05/26(土) 21:01:48 ID:48pxKCfs
>>730
あんまり詳しい事を書くと身元が確定されるので、漠然と書きますが、ある時期、結構、意地悪をされた事がありました。
その時に思案をしたのですが、結論として「神様にお任せしよう」と決めました。つまり、相手が正しいか、自分が正しい
かは今は分からないので、神様がそのうち、教えてくれるであろう、と決めたのです。で、喧嘩はしないが、逆らいもせず、
自分の良心と信仰に任せて過ごしました。結果、意地悪をした偉い人は途中でどこかにいってしまいました。
これが、小生のやり方でしたが、正しいか、どうかは不明です。
732
:
ハマナス
:2012/05/26(土) 21:27:59 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
「コトバの力」の正しい使い方 (『新版 生活の智慧365章』P.164)
自己の内に「幸福を開く鍵」が宿っていることを知っても、その鍵をどのように使えば
本当に「幸福の扉」が開くか、その使い道を知らなければ、鍵はありと知りながらも、
その扉を開くことができないでしょう。その鍵を動かす力は“コトバの力”によるものです。
その力をどちらへ回転するか、どの方向へ向けて動かすかによって、どのような大きな
幸福がおとずれるか、小さな幸福しか与えられないかの相違がでて来るのである。
時には“コトバの力”を逆回転させると、そこから不幸が飛び出して来ることもあります。
“コトバの力”は諸刃の剣であり、自己が間違えば自己が斬られ、敵が間違えば敵が斬られ
るのです。それは十字であり、×(ななめ)となる時は「必殺」であり、正しく構えるとき
「復活」である。“コトバの力”を順に廻すということは、人を称(ほ)め讃(たた)える
称賛の言葉を使うことでり、自己の受けたる恩恵を感謝する言葉を使うことである。
称讃と感謝の方向に鍵を廻転する事が大切である。
感謝合掌
733
:
金木犀
:2012/05/27(日) 14:43:00 ID:6XLEmIgs
碧巌録解釈 (第五十六回) 谷口雅春先生
第五十六則 欽山一鏃三關を破す(2)
[本則] 擧す、良禅客、欽山に問ふ。一鏃破三關の時如何。山曰く、關中の主を放出せよ看ん。良曰く、恁麼(いんも)ならば則ち過(あやまち)を知りて必ず改めん。山曰く、更に何の時をか待たん。良曰く、好箭(こうせん)放ちて所在を着けずと云いて便(すなわ)ち出づ。山曰く、且(しばら)く來れ闍黎(じゃり)。良首(かうべ)を囘(めぐら)す。山曰く、一鏃破三關は即ち且く止(お)く、試みに欽山が與(ため)に箭を發せよ看ん。良擬議す。山打つこと七棒して曰く、且く聽(ゆる)す這(こ)の漢、疑ふこと三十年ならん。
[解釈] 鏃は矢尻である。良禅客という僧が欽山和尚に問うた。「一矢を放って三関をを射貫いてこれを降伏するという語(一鏃破三關)がありますが、私は一本の悟りの箭(や)で以って貪瞋癡(とんじんち)の三つの関所を打ち破ることが出来ると思いますが、そのとき、本当に貪瞋癡の三関を打ち破れたということは如何にして、知ることが出来ますか」
「関中の主を放出せよ看ん」(関所には関所の司令官たる大将がいるであろう。それを探し出して見せよ。それを引きずり出して見せたならば本当に貪瞋癡の三つの関所を打ち破ったことがわかるであろう。貪瞋癡を部下にして人間をまどわしているその迷いの主将たる“根本無明”という奴の首実見(くびじっけん)をするから、その者を引出して見せよ)
と欽山和尚は追求する。良禅客は、一本の悟りの箭(や)をもって貪瞋癡の三関を打ち破ることが出来ると言って見たものの、その三つの関所を支配している司令官たる“根本無明”が何者であるかを知らず、それを射殺すことが出来ていなかったら、三つの関所を打ち破ったなどといっても、本当は打ち破ってはいないのである。そこを欽山和尚は追求して行ったのである。
だいたい貪瞋癡の三毒の兵隊に命令を下して、人間が悟りを得る道を遮蔽している司令官たる“根本無明”とは何者であるか、それを見つけ出して覘(ねら)い撃ちして倒さなければ、三関を破ったということはできないのである。だから、その関所の司令をここへ出して来いと欽山和尚はいうのである。
良禅客は『傳燈録』にもその名が出ている相当立派な僧で巨良和尚という名の人だそうだが、貪瞋癡の根元になっている“根本無明”を今直ぐ考え出そうとしたが、どうしても思い出せないので、「三関を一鏃で美事に破ったなどと軽率な事を申し上げて申し訳ございません。まことに過ちを犯しまして済みません。必ずこの過ちを改めまして本当の答えをそのうちに出しますから暫くお待ち下さいませ」といったのである。
欽山和尚は「それには何の時をか待たん」(どれほどの時を待ったら可いのか)と言う。
すると、良禅客は「好箭放ちて所在を着けず」(いくら好い覘(ねら)いをつけて箭を放っても、思う的に当たりそうにありませんから止めましょう)といって「便(すなわ)ち出づ」大急ぎで出て行こうとするのである。
「ちょっと待った、阿闍黎(あじゃり)よ」と欽山和尚は彼を呼び戻す。良禅客が振り返って戻って来ると、欽山は、
「一箭(いっせん)よく三関を破るという問題はまあ且く後のことにして、この拙衲(わし)の欽山を的にして一箭を放って見たらどうか、そのお手前を拝見したい。何とか汝言句を吐くとか、喝するとか、打つとか」と言った。
突然のことで「良擬議す」(良禅客は、“こうでもない、ああでもない”とまごまごしている)そこで「山打つこと七棒」(欽山は良禅客に七棒を食らわして)、
「しばらく聽(ゆる)す這漢(こいつめ)。こいつ、これでは三十年間もまごまごしているだろうよ」と歎息したというのである。これで本則は終っている。
734
:
SAKURA
:2012/05/27(日) 21:27:32 ID:JC2fkQZo
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA…】で〜〜〜す。五月晴れ??の一日でしたが〜〜♫
今日は“自宅”からの“メッセ−ジ”です…「空気清掃機の掃除!!」……
話は変わりますが“メ−カ−”によって「掃除のやり方」が?色々ですモノ?
今回「新しく買った品物…」なのですが……
“フイルタ−”が、“1年保証??”持つはずなのに〜〜♫〜〜><
も〜〜〜〜〜〜〜〜う!【真黒…黒?黒?〜〜〜苦労?】です…。
【掃除に〜〜掃除に〜〜と】次々と増えて行く【SAKURA】でした…。
そうなのです〜〜〜ョネ!!【灰かぶり〜〜〜♫〜〜〜の“私”】
“時計の針”が〜〜【キンコ〜〜〜カ〜〜ン〜♫〜】となり、気がつきますと?
【シンデレラ姫?=>なりそこねた“靴”もはけず…“お昼”抜き??><
さて!!「今日の言葉」を〜〜〜“本を両手”にはさんで…“神”に〜♫〜
「吾此の“書”を開き給いて〜〜〜☆〜〜」ペ−ジを“オ−プン”!
■【栄える生活365章】
――――真に幸福を得る言葉――――
真に幸福となるためには、自己の欲望を正しき方向に制御しなければならない。
制御なき欲望の飽くなき充足を求めるのは、恰もゴ―・ストップの信号なしに
十字街頭に無数の自動車を勝手に気儘に走らすようなものであって、
必ず自分自身が傷つくのである。“肉体的自己”の利己的欲望を適当に
制御した者のみ、“本当の自己”の自由を得るのである。
真に幸福となるためには謙遜で下の位置につかなければならない。
自己の現在の力量以上に高き位置につこうとするならば常に下に落とされる
危険を感じてその人は幸福になることはできないのである。
真に幸福になるためには寛大な心をもたなければならない。
人を憎んだり恨んだりしている限りに於て、その人は常に自分自身の心を
切りさいなんでいなければならない。本当に人を赦したとき、
あらゆる事件と事物とを感謝をもって受け取ったとき、
人は魂の解放を得るのである。 (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■人は“幸福を探し〜求めて〜♫〜”【青い鳥…探しに??】
勿論!!私も“幸福”になりたいです〜〜〜ョネ!過去を振り返ってみますと…?
思い当たる節が、多々ありま〜〜〜すデショ? ><
やはり【 心の法則 】ですから…
間違った【法則…】に、そして、その方向に行った時は、矢張りそれなりの事が、
“時間・空間”を隔てて、それなりの事物が、必ず生じますモノ〜〜ネ?
■【感情…】の赴くままにての“行動”は、確かにその【瞬間…】は、良いかも??
しれませんが〜〜〜〜〜><
「良い種」を、蒔いていませんから…><「悪い種」が発芽して……><
結果は【幸福の種】を果たして?頂く事ができますでしょうかしら〜〜ン?
かの「ステラ・テリルマン女史」が、おっしゃいました様に…
必ず!必ず!〜〜〜〜【円環の法則…】私自身も身近な人で…その”円環“が…><
現在来ている人を知っております…。■【14年間の円環…】
「悪の種」を招いて【不幸…】になっていくのでしょうかしら〜〜〜ン!
■人を怨んだり!人をさげずんだり!は…“ネガティブ感情”ですから…><
私の【マインドコントロ−ルで“ボディティブ”モ−ドに切り替え……】
ここが〜〜〜〜〜そうなのです〜〜ョネ!【一押し?????】ウ・フ・フ!
私の【意志の強さ…】をと、思いますが〜〜〜?
やはり【祈り…】で“簡単”に行きます〜〜〜ョネ!
【簡単=最高】でしょうか???
■最高・最高〜〜〜〜〜〜〜〜最高!と唱えていましたら、本当に!
此の“現象世界=現実世界”に投影されまして…
本当に〜〜【最高の形〜〜!!】が現れてきますでしょうかしら〜〜〜ン?
最後は【心の世界】が、大事だと思います…。
■■【祈り…】は、“人の魂”を最高!最高!に導く【羅針盤…】です〜〜〜ョネ!
再合掌
PS:トキ様へ
本日は“神様からのメッセ−ジ”頂きまし時〜〜♫〜〜
【心の世界…心の法則】全てが作るものと思いますが…その時の“問題…”が?
「意志の強さ…思念」フラリ〜フラリ〜☆の時も、あります。〜〜><
トキ様は、失礼ですが、如何でしょうか??
735
:
SAKURA
:2012/05/27(日) 21:50:06 ID:MaFB3F2o
>>731
トキ様へ
ありがとうございます…。
ロ−マ字の【SAKURA】です。“メッセ−ジ”拝読させて頂きまして…
【力強いものを感じ〜〜〜〜〜!】させて頂きました…。
「トキ様」…大変でしたです〜〜〜ョネ!やはり!やはり!ですョ〜〜〜ネ?
どんな“境遇”に置かれても?「耐える精神」も大事なのでしょうか??
ここが【金剛心=精神状態】なんでしょうか〜〜〜〜〜♫
つかまえずに〜とらわれずに〜ただ【神様の御心を信じて“行”ずる事】です〜ネ!
私も“神様のアンテナ”に、方向を向けまして、その“電波受信”しました以上…
「神様」が必ず!私なりの“処遇”をして頂けるまで…【神の声】が〜〜
私の“心の中…メッセ−ジ”届くまで、頑張ります…。
■もしも?もしも?〜〜〜♫〜聞こえない様でしたら……「やまびこ」の様に…?
【大きな“声”で〜〜〜一人静かに“神様”に、届け〜〜〜♫〜〜】と
【送受信…】します…。――>【スイッチ・オン…】
きっと〜〜〜きっと〜〜〜“キャッチ”出来ます〜〜〜〜〜ョネ!
再合掌
736
:
ハマナス
:2012/05/27(日) 23:00:30 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
人の功績を認めよ (『新版 生活の智慧365章』P.165)
現象的には、まだ其の人が色々の善き徳や行いや善き性質をあらわしていないように見える時にも、
その人の生命の実相には無限の善徳や善き性質や善き行為が宿っているのである。それを引き出す
のが称讃の言葉の力である。讃められれば讃められた方向に、その人の行動力が動き出して活動を
始めるのである。それゆえに子供を教育する場合などには、特にその子供に欠けていると思われる
徳目が既に本当にあるかのように讃める言葉を使うならば、その子供にやどる実相の完全さが、
その讃められた方向に浮かび上がって来て、その子供が本当に立派になって来るのである。
しかし子供ばかりではない。無数の大人が如何に称(ほ)められることを欲しているかは、文化
勲章や藍綬褒章(らんじゅほうしょう)や、黄綬(おうじゅ)褒章を貰うことを如何に光栄に考え
られているかで明らかである。人を使う秘訣も、従業員各員の功績をみとめて称める言葉を如何に
巧みに使うかにかかっているとも言い得るのである。
感謝合掌
737
:
a hope
:2012/05/28(月) 07:29:13 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
無限の値打の生み出し方
私達が、もし自分のすべての時間を本当に生かすという事ができますれば、
私達は恐らく、今生きている何倍、否、何十倍も生きられることになるでしょう。
単に時間的に考えると、一日に四時間雑談に使うところを、その四時間だけ何か勉強すれば、
ただそれだけでも、一つの事柄の大学者になることができるのであります。
人が出世できないのは時間の利用法を知らないからです。
その上、四時間を勉強すればその四時間だけ助かると思いますけれども、
それはそんな小さな問題ではないのであります。
そ四時間の時の流れの時々刻々を本当に生きてゆく事にしましたならば、
その四時間の中の時々刻々、一分一秒一瞬が又おのおの無限の価値をもってくるのであります。
そうなりますと、私達の時間の生かし方によっては、
計算のできない無限の価値がそこから生まれてくるのであります。
(つづく)
738
:
金木犀
:2012/05/28(月) 10:51:31 ID:6XLEmIgs
碧巌録解釈 (第五十六回) 谷口雅春先生
第五十六則 欽山一鏃三關を破す(3)
[頌(じゅ)] 頌に云く。君が與(ため)に放出す關中の主。放箭の徒、莾鹵(ぼうろ)なること莫(なか)れ。箇の眼を取れば耳必ず聾す。箇の耳を捨つれば、目雙(ふたつ)ながら瞽(こ)す。憐れむべし一鏃破三關。的々分明なり箭後の路。君見ずや、玄沙言へること有り。大丈夫天に先だちて心の祖と爲る。
[解釈] 「君が與(ため)に放出す」という句の“君”というのは、この頌を書いた雪竇禅師が読者全体に対して呼びかけた語である。「さあ諸賢のために三関の司令官をしている“関中の主人公”をここに放り出して見せるぞ」というのである。「箭を放つ人よ、射損じないように箭を放つのじゃよ」というのが、「放箭の徒、莾鹵(ぼうろ)なること莫(なか)れ」である。眼で見る物質をそのままあると思い、耳で聞く“人々の言うもの”をその通りあると思う、そうして物質はあ’る’と思い、物質をあ’る’と思うから“貧”という関所に人から税をとり立ててたくさん我楽多(がらくた)を積んでいながら、“まだ足らぬ”などと思うのである。そして物質の奪い合いや、領土の侵略などに腹を立てて痴(おろ)かにも喧嘩は勿論のこと戦争までも惹き起こすのである。
この貪瞋癡の三関は人間に無限の税を課し、人間からすべての幸福を奪い去る税関の官吏であるが、その司令官たる「根本無明」は何処から生じたものであろうか。『大乗起信論』には「忽然念起」と示されているが、“忽然”とは“忽ち”ということではなくヒョッコリという意味である。ヒョッコリ出て来るというのは何処から出て来たのか判らないままにそこに姿をあらわすという意味である。
しかし唯物論が貪瞋癡の三関を生ずる根元たる最高司令であることはたしかである。人間が地上に生を享(う)けて、赤ん坊として出現したとき、彼は自分の存在及び他者の存在を、感覚を媒介として直感的に錯覚するのである。すなわち「触れる」ということを通して自分の存在が「肉体」という物質であると錯覚し、外界に存在するものも、母親の乳房をはじめとして物質であると錯覚する。つまり“触れ合う”という偶然の出来事を通して忽然ヒョッコリ「自分」も物質であり、母親の乳房をはじめとする外界の万物も物質であると錯覚的に認知する、そして大抵の初歩の人間・原始的人間は素朴的唯物論に陥る。そして物質をかき集めることが“得”だと思い、“貧”が生じ、物の争奪が起り、“瞋”即ち“怒り”が生じ、諸々の白痴的な愚行が全人類を餓鬼道的、修羅道的、地獄的な騒乱の断層に人類ぜんたいを陥れるのである。この三関の収税官吏を指揮している総司令は、こうして探査して行くと、たしかに、“唯物論将軍”なのである。人類解放のために箭を放つ者は、何より先づ、この“唯物論将軍”を斃(たお)さなければならないのである。
この唯物論将軍が出生したそもそもの根因は、眼耳鼻舌身の錯覚的認識を否定しなければならない。即ち『般若心経』がいみじくも説いているように、[無゜眼耳鼻舌身意」と宣告を下し、「五蘊」を引っ捕らえて「皆空」と判決を下し、これらを“無”と“空”との牢獄に閉じ込めて再びと出られないように封印をほどこさなければならないのである。放箭の徒よ、五官の眼にだまされて、ボンヤリするな。イエス・キリストは「汝らは“見ゆ”と言う罪は残れり」と肉の眼の存在を弾劾しているのである。「箇の眼を取れば耳必ず聾す。箇の耳を捨つれば、目雙(ふたつ)ながら瞽(こ)す。憐れむべし一鏃破三關。的々分明なり箭後の路」とはこの事である。敵将を斃(たお)すには、その箭がどっち向いて行くか、先づ放たれた箭の描く路線をハッキリ見なければならないのである。玄沙の岑(しん)和尚が言った言葉に「大丈夫、天に立って心の祖となる」というのがあるが、「祖師嘗て西せず、未だ嘗て“心”を以て傅授せず」と、垂示にある通りであるから、大丈夫たる者は、天が吾々にこの真理を示してくれるよりも、天に先立って、自分みずから“心”の眼をひらいて“心の祖師”となる自己に宿る“生命の實相”を知る位でなければならないのである。
739
:
復興G
:2012/05/28(月) 18:41:05 ID:84pogn5s
『光明道中記』(谷口雅春先生著)より
一月二十二日〜一月三十一日の金言を謹写投稿させていただきます。合掌 拝
○
一月二十二日 九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日
吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)
金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。凡夫のはからいが「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、凡夫が如来になるのではない証拠である。仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると道元は『正法眼蔵』で喝破している。たとい吾等が汚れたように見えようとも、人間は本来汚れているものではあり得ないのである。
発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、人間はその仏なる実相を露呈する。
そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、打てばそれがあらわれる。
打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
生長の家は「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」と言って打つ。どちらが効果があるかは既に実証済である。
○
一月二十三日 寒菊競(きそ)い開く日
十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするが日本の使命である。(『秘められたる神示―神示講義〈秘の巻〉』「久遠天上理想国実現の神示」)
全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇(はっこういう)の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇の御天職である。此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。全世界は天皇に於て一宇(ひとつのいえ)である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用に過ぎない。天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、真理の中には病気不幸は存在しないが故に、病気不幸が消えるのは当然のことである。病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。省みて真理に載(の)るものは幸である。
<つづく>
740
:
復興G
:2012/05/28(月) 18:42:05 ID:84pogn5s
<つづき>
『光明道中記』(谷口雅春先生著)より
○
一月二十四日 妙音囀(てん)ずる日
「汝(な)と我(あ)と天(あめ)の御柱(みはしら)を行きめぐりて国生みなさんと思うは如何に?」と如何にも天地のいのちの交流の厳かさが見えるようではありませんか。これを誰も卑猥に感ずる者はない。(『生命の實相』第二十巻)
鶯(うぐいす)が啼(な)いている。実に澄んだ声で啼いている。玲朧(れいろう)たる声だ。どこにも汚れの感じられない声である。それは雌雄呼び交す声であるのに何の卑猥も感じない。天地そのものの讃歌のように聞えるのは何故であろう。それは鶯には我が無いからだ。天地の生命と一枚になっているからだ。
梅の花が香っている。清浄そのものの匂いよ! その一輪一輪の浄潔とでも、浄厳とでも言いたいような花びら、雌蕊雄蕊(めしべおしべ)の美しきには何らの卑猥の影もとどめない。
それだのに植物学者はその花はやはり雌雄呼び交すための装(よそおい)でしかないと教える。
人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずると云うのは、人間には我があって、天地の生命と一枚にならないからである。エデンの楽園を追放せられたのは、アダムとイヴとが智慧の樹の果を食べたからだと云う。
天地の生命と一枚になり切らないで、色々と人間の理窟で考える、打算で考える、欲で考える。そこに純潔であるべき筈の恋愛が不浄なものとして感じられて来る。
○
一月二十五日 光明充満する日
自分の利益のために楽しもうと思って性欲を扱いますと、性欲が汚れたものに見えて来るのです。(『生命の實相』第二十巻)
「高天原(たかあまはら)に神詰ります」と実に朗々とした声で祝詞が響いて来る。朝の空気を動かし、霧を動かし、「高天原なる大宇宙に神が充満している」と云う観念が天地を動かす、実に荘厳だ。それを古代日本人は知っていた。常に古代日本人は「大宇宙に神遍在す」と誦(とな)え念じ、邪気を祓(はら)っていたのである。神が充満しているから、悪の存在はあり得ない。尽天尽地ただ神のみである。神光遍満、邪気不在である。その大宇宙を「家」と見たのが古代日本人である。吾々はそれを生長の家と名附けた。「生」の縦に生びる神漏伎(かむロギー)と、「長」の横に長びる神漏美(かむロミー)と、一つの中心普遍的神漏皇(かむロゴス)が陽陰の対偶と分化しあらわれて、陽陰の偉大な素晴しき交流となった家が「生長の家」である。私の家が生長の家ではない。大宇宙が「家」であり、生長の家の理で充たされている。生長の家の理を隠蔽することなく生きた時に、其の人が生長の人となり、其の人の家が生長の家となり、国家が生長の国家(いえ)となる。組合(クミ)と云う意味での国々は世界到るところにあるが、国家すなわち国がそのまま家族であるのは日本のみである。全世界を家族となし全世界動乱の因を断つのが日本の使命である。
<つづく>
741
:
復興G
:2012/05/28(月) 18:42:58 ID:84pogn5s
<つづき>
『光明道中記』(谷口雅春先生著)より
○
一月二十六日 万事和する日
生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。(『一流の人・妻・子を作るには』)
生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに深い意味が蔵されているのである。生長の家は個人主義ではないのである。「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。肉体のないところに個人はあり得ないからである。個人は無いが全体は有る! 今までの医学は個人医学であったゆえに此の世界から病人を少くすることが出来なかったのである。過去の政治は個人を目標とする政治、又は対立国家を目標とする政治であったが故に全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、その全体とは神に在(ま)しますことを知り、その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、生命のひとつ流れを把握すべきである。
○
一月二十七日 久遠皇位を胆(きも)に銘ずる日
火にも焼けざる皇位の久遠無窮性を立証せんが為に、火を着けて皇子をお生みになったのです。(『驀進日本の心と力』)
生命(いのち)のひとつ流れの実相を把握するとき、眼の色は異り、皮膚の色は異るとも、八紘は一宇であり、一家庭であり、すべての人種ことごとく天皇の徳に帰一し奉ることが出来るのである。
ナチスの血の哲学、民族の哲学はゲルマン民族の栄えのために把握されたる哲学であった。日本の哲学はそんな狭い精神でないのである。東洋民族よ聯合せよ! と云う東洋民族の哲学でもないのである。それはまだ血を見ている。血を見るのは皮膚の色を見ることであり、骨格を見ることであり、人種の差別を見ることである。人と人とを分割することである。
外国の哲学はどんなに優れていても結局は分割に落着く。日本の哲学は包容帰一である。ヒトとは霊止(ひと)であり「理念止まる」である。全世界が一家庭たる理念降下し、義に於て君臣、理念に於て陛下の赤子である実相を知るとき、何人種と言えども既に日本人である。「日本を守る会」は他国と対立して、小さい現象日本国を守るのではない。天皇を中心に全世界が一家庭となる包容帰一の日本の理想を守る有志の懇談会である。
<つづく>
742
:
復興G
:2012/05/28(月) 18:43:40 ID:84pogn5s
<つづき>
『光明道中記』(谷口雅春先生著)より
○
一月二十八日 一切人間を礼拝する日
既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)
善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。吾々の生命の本性が善なのである。吾々の生命の本性が善であるが故に、善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、吾々をして善を為すように強制する。この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。
病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。
すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。
○
一月二十九日 心朗かなる日
病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。(『生命の實相』第五巻)
心朗かなれば病はない。他を憎まなければ病はない。悲しまなければ病はない。物思いに沈むことなければ病はない。怒ることなければ病はない。気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。不平に思うことなければ病はない。呟くことなければ病はない。ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。病気になって都合よしと思うことなければ病はない。家に争いなければ病はない。仕事を嫌うことなければ病はない。隠す心なければ病はない。羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。
心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。心暗ければ本当に善の資格はないのである。人を愛すれば病はない。すべての事物を愛すれば病はない。愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。
心顛倒するは智慧が欠けているのである。智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。
<つづく>
743
:
復興G
:2012/05/28(月) 18:44:54 ID:84pogn5s
<つづき>
『光明道中記』(谷口雅春先生著)より
○
一月三十日 美点を見る日
憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。(『生命の實相』第十一巻)
心朗かになる道は、世の中に悪と云うものが決して存在せぬことを根本に知ることである。一局部だけを見ずに大局を見る。短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。冬のうちに春の兆していることを知ることである。陰極は必ず陽転することを知ることである。
心朗かになる道はすべての人を赦すことである。憎しみを放ち去ること、憤りを含まぬこと。すべての人の美点を見ること。相手の立場に自分を置いて考えること。気にくわぬことは忘れること。呟(つぶや)かぬこと。罵(ののし)らぬこと。みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。
人生の戦いはその人の執る生活の角度で最初にきまるのである。負ける人は常に負ける角度から出発し、既に負けているかの如く呟き、既に負けているかの如く左顧右眄(さこ うべん)し、既に負けているかの如く人に依頼し、依頼心を裏切られたと言って嘆き悲しみ呪い呟く。呟くひまに、呪うひまに、悲しむひまに、嘆くひまに、日に日に進歩する者はついに勝利するものである。
○
一月三十一日 絶対善を悟る日
善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。(『生命の實相』第七巻)
すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのはそれは五官が見るのであり、五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって真相が歪められたる相(すがた)を見るに過ぎない。されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。吾が親または子を信ずること。吾が夫または妻を信ずること。兄弟姉妹の美しさを信ずること。すべて人の善さを信ずること。形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。
阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。子を信ずるとは放って置くことではない。「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。
744
:
SAKURA
:2012/05/28(月) 20:56:26 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜〜す。
“不穏な空気”でしょうか??【知らざるモノ〜あたわらずモノは〜】
先程“パソコン”を開いて見ますと“ビックリ・マ−ク”私の心模様は??
【騒ぐ…?】ようなもの???なのでしょうか???
先ず!【現象で物事…】を、見ているように、感じますが…
先生の本を開きます……【今日は!何と【法則】で〜〜す。】では……「スタ−ト!」
■【幸福を招く365章】
――――「法則」が全てを成就する――――
「私は健康である。私はけんこうである。私は健康である・・・・」
病人はこの言葉を暇のある毎に唱えよ。但し、その回数多きによって自分の言葉の力で、
健康になるのだと考えてはならないのである。そう引っかかると、唱える回数や、
思念の力の薄弱さなどを考えて、結局こんなことで祈りがきかれるだろうかと云う
不安と疑いとに導かれ、そのため効果がなくなってしまうのである。
吾々が善き言葉、健康の言葉を自分から出すことは、ビルディングのルーフから手を
突き出して風呂敷包を自分に手から放つと同じである。
あとは「法則」がその風呂敷を地上に必ず落下せしめる。汝の言葉が汝を健康に
するのではなく、汝の言葉が種となって、後は法則がそれを成就するのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■【すべて法則…】で、成り立っているんでしょ〜〜〜ネ!
【宇宙〜〜〜〜〜は?“甘露の法雨でも…
”五感“を超越して…“六感”さへも超越…つまり二次元・三次元・四次元の世界へ…
全て!〜〜〜〜〜〜〜“宇宙…”に、生きんです〜〜〜ョネ!
さて【甘露の法雨…】を、もっと分かりやすくしたのが〜〜〜今回!
【雅宣先生の示されました“お経”…】その様にも思えますのです。
■■【奇蹟…】と云うのも、その人の【心の法則…】でショ!!
振り返りますと【成功された方達】を見ますと……
ほとんどの方は【信念・哲学…】があります…。
そして【法則…】に従がった方達ですが……!!
但し「成功も、少なくとも“15年以上”の方達…」を、私は指しています…。
■■話は“ブレイク”しますが……
あの「堀江貴文さん」は、確かに!“財…”を作られましたが〜〜〜><
【法則…法則!】に従わない!!そうですョ〜〜ネ!
神の御心にあった【法則】に!従わなかったのではないでしょうか??
■【法則に従った、正しい“理念”が必要です!!!!】…【成功の条件でしょうか】
“言葉の力”で唱える事は……【宇宙の潜在意識】に導いていくのです〜〜ョネ!
つまり!つまり!
【唱えるながら〜〜〜“宇宙に貫く事!宇宙に行かせる思い!此の事は”法則“】
なんです〜〜〜ョネ!!!その様に思います…。
それで「雅春先生」は【法則…】が…
■“風呂敷を地上に必ず落下せしめる”私自身の心“の奥に入る事!
これが落下せしめる……宇宙の法則に従うことが「成功のマイロ−ド」…!
私は此の様に“把握…”出来ましたが……今回!
【新聖経…??】と申しますか、今までの〜〜「聖経…」を分かりやすく“解説”
していますのでは〜〜〜?
今から「若い方達」を導いていく上では、「御教え」はすばらし〜〜イ !!
さて!これを一般の方々に広めるには?ついて行ける“内容=言葉”では?
又それが必要ではないのでしょうか〜〜〜〜??
再合掌
PS:トキ様へ
今回【新・聖・経…】と申しますか??正直話しなのですが……
聖経の唱えられている“言葉”現代人に取りまして?或いは、又!
若者達に取りまして【理解度…】如何なものでしょうか?
例えば…全くの「信仰心」のない方々であるならば…少し反発する?点もあるのでは?
そう云います私も?勉強中!!!!!ウフフ
今回の「新・聖・経…」と申しますか?先ず!!!【イメ―ジ】としては、
分かりやすいのではないでしょうか?どの様に思われますか…?
【害…】?とは別にして…“白紙”で唱えられました時〜♫〜どうでしょうか?
745
:
ハマナス
:2012/05/28(月) 23:10:38 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。ありがとうございます。
実相を礼拝して賞めよ (『新版 生活の智慧365章』P.166より)
しかし、人を称(ほ)めるにしても、その人から善き行為や性質を引き出す方便又は
技術として称めるのでは効果も薄いし、また本当ではないのである。実際にすべての
人間には実相として「神の善徳」が宿っていることを信じ且つ知り、その実相を礼拝して、
誠心(まごころ)で賞め称えるのでなければ本当ではないのである。これを『法華経』に
於て常不経菩薩(じょうふぎょうぼさつ)がその模範を示し給うて、その相互礼拝によって、
人々が仏の実相をあらわして成仏することを釈尊が示し給うたのである。
生長の家の教えは、「汝ら天地一切のものと和解せよ・・・和解するとは怺(こら)え
合っていることではなく、感謝し合ったとき本当の和解が成立する」との根本的教示によって
出発するのである。相互礼拝、相互称賛も、本当にそれが手段や技術でなくなるためには、
互いに感謝し合う心境になることが必要なのである。天地一切のものに感謝するとき、
天地一切のものの美点が自然にあらわれて来て其人を取り囲むようになるのである。
感謝合掌
746
:
a hope
:2012/05/29(火) 07:50:10 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
時間を拝んで使え
ですから私達は常に時間をどう使ったらよろしいかというと、
拝んで使うようにするとよいのであります。
時間を拝む気持ちになるのであります。
私達は常になんでも拝む事を忘れてはならないのであります。
生長の家は人間を神の子として拝み合うのでありますが、
時間もやはり神の生命(いのち)の流れだと考えて拝むように使うのがいいのであります。
とにかく、時間は尊ばなければならない。
単に利益だけを考えて、「これだけ捨てたら惜しいものである」と思って、
時間を大切に使うのも結構ではありますが、もっと深く考えますと、
ここにこういう時間に生きているという事は、
これは神様の生命の流れの中に一日一日をこうして生かされているということで、
実にありがたい事である、と、こう思う事によって、私達は今この生きている事実に、
本当に掌(て)を合わして拝む気持ちが出てくるのであります。
そうして今までここにこうしてこの位置に生かされているという事、
それ自体が実にありがたい事であると拝めるようになりますと、
本当に時々刻々が捨てられないところの一つの尊いものになってきて、
自然に時間を無駄にしなくなるのであります。
(つづく)
747
:
金木犀
:2012/05/29(火) 13:12:34 ID:6XLEmIgs
復興G様、光明道中記謹写、有難うございます。素晴らしいご文章の力、
読んでいて、まさに心に響くような言葉の芸術と仰った通りの
霊感にあふれた言葉の力です。
748
:
金木犀
:2012/05/29(火) 13:17:44 ID:6XLEmIgs
>>747
宛名のあと行を空けずに、すぐに文を続けてしまい申しわけございませんでした。
『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より
二十二日の法語 宗教的「悟り」の本質について
この時に、今まで物質の世界に住んでおられたお釈迦さんが、別の次元の世界に出られたのです。物質の奥に、肉体の奥に霊妙きわまりなき存在がある――その別の次元の存在の世界に超入することが“悟り”というものでして、唯「頭でわかった」というような次元の低い単なる「知」ではないのですね。
『甘露の法雨』のお経の中に“物質にて成るものひとつもなし”と書かれておりますが、“山川草木国土”というような、そういう肉眼で視たら“物質”に見えておるものが、実は仏のいのちの現成であって、物質というものは一つもないのであると、如実に、そういう悟りに、お釈迦さんはお入りになったわけであります。この「如実に」ということが必要なのでして、これが実相世界にそのまま超入することなんです。
これは人間の生命の本質、存在の本質について釈尊が悟られた一部分でありますけれども、釈尊の悟りはですね、もっと大いなる“宇宙的悟り”にまでひろがっておられた。そしてその悟りを得られてから、二、七日目、十四日目、という時点になって、その“宇宙的悟り”を初めて演説されたのであります。
演説されたといっても、そこに立派なお寺があって、そのお寺に拝聴に信者がやって来たというわけではないのであってですね。だからこれは、誰かをこの説法で救ってやろうという意図で方便説法をなさったんじゃなくて、釈尊のその時の次元の高い“悟り”そのままをズバリぶちまけて、それを表現されたそのお経、これが『華厳経』と略称されているお経であります。詳しくは、『大方広仏華厳経』というお経であります。
二十三日の法語 “宇宙的悟り”を説かれた華厳経
「大方広仏」とは、“大”は無限に広いことを意味します。“方”は方角であります。“広”は“ひろがる”ことですから、「大方広仏」とは、あらゆる方角に、広がっている仏様ということであります。
それですから、「大方広仏華厳経」というのは、仏様すなわち如来の御生命が蓮華の荘厳なる姿に展開しているのが、この宇宙であるという、そういう宇宙的な悟りを得られた、その釈尊のさとられた真理を、方便説法ではなく、そのままズバリと演説されたお経なんであります。
本日のテキストになった生長の家家族必携の経典『聖光録』のなかに“万教帰一要典”という項がありまして、その要典には、色々の宗教の中心真理になっているその一節を、詳しく全部書いてしまったら、もうこの一冊に一つしか書けないということになるので、そうでなしに、その真理を憶い出す為のヒントになる重要な数行ずつを引用して並べてあるのが、この“万教帰一要典”であります。
その中に『華厳経』の事も書かれているのであります。
さて「大方向仏」というのは、あらゆる方角に広がっている如来さまということで、宇宙に満ち給う普遍的仏様という意味であります。宇宙の普遍的仏様だから、これはキリスト教的に言えば普遍神です。あらいは“遍一切所”というように翻訳している仏教学者もあるのであります。
749
:
SAKURA
:2012/05/29(火) 22:49:21 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……
今日は本当に“物凄〜〜〜〜イ!意志!!”を持っていかない〜〜〜と〜〜♫!
朝!目覚めてから、私は前以上に………“頭…力んでいますが…?”
本当に「生長の家」は、
現在!殆どが“70代〜〜〜80歳代”ばかりではないでしょうか……?
或る人がいいますには、まるで〜まるで〜【老人ホ−ム】の様に見えるそうです。
本当に今から「生長の家」は…「新しいイメ−ジ」にならないと……
さて「雅春先生」の“今日の言葉”より……
■【幸福を招く365章】
――――不快になった時には――――
人生が退屈になって来たとき、心が憂鬱になって来たとき、
その退屈と憂鬱さの中へ溺れてはならないのである。
新しき興味を見出し、その方へ心を一転することが必要である。
心を新たに刺激する善き修養書を読んで、兎も角、心が明るくなる事が必要である。
身体のどこかが悪いと思ったときには、神様に訴えることだ。眼を瞑じ、静かに
「自分の内に宿りたまう神よ。私の心の中に何か間違いがあったらお赦し下さい。
そして中から自然療能によってこれをお癒し下さい。私も亦、私と不調和になって
いる全ての人々を赦します。有り難うございます」と繰り返し思念して、
自己の全存在自己の全存在を神に委せ切るがよい。 (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■若い時は、どんな状態でも“精神状態はフル回転!”しかも…私の場合は?
たまに“落ち込む時”は、“スパット横〜〜”になり、眠ります…。
その後、“脳の思考力”の“切り替えモ−ド”が自由自在に出来ていましたが〜〜?
■現在の私は、その様には、ならないのですが〜〜〜唯今!他の問題が発生!
……昨日の疲れを、まるで“引きづったように〜♫〜”
【疲れの原因?】は、いつものように【念の法則…】でしょうか???
そうなのです〜〜〜ョネ!噂の【吸血鬼・ゾンビ軍団…そして黒幕】なのです…。
見るたびに確かに“良い影響”は全く“ゼロ”と言っていいでしょう?
本当に、私にとっては“マイナス要素”なのです…。
いろんな“感情”が…山あり〜♫〜谷あり〜♫〜で押し寄せて来ますが……
そのような時!気分転換に、昔は“書物”を読んで、
気持ちの切り替えが起きていましたが〜〜〜><かなりの【身心力…】ですから?
でも?それでも?ダメなら〜〜〜【祈り…】です〜〜〜ョネ!
■100メ−トル競泳する様な“気持ち”で【神と一体】になるまで…
【宇宙遊泳…】なのです…。毎日!毎日!…「神様」に導かれるまで…
“今日の言葉”を唱えてみま〜〜〜す。
■更に!他のボ−ドで【うのはな様が日露戦争の借金…】が、昭和の終わりに完納!!
そうしますと〜〜〜〜〜〜〜?
【現代の借金?はほぼ同じ〜〜〜><】これ?どうなるのでしょうか…
「生長の家」どころでは無いです〜〜〜ネ!
ある日!!ロスチャイルドに売られる日とか〜〜〜?書いていました【ブログ…】!
これも今!!【日本国・日本人としての経済機能…】は?果たされていないのでは?
これも原因はやはり「和田和夫…さん」も?でしょうか〜〜〜?
いくら【営利に走る“商魂”は、素晴らしい〜〜のかもしれませんが…?】
それが【原因で日本経済が機能?】を果たしていない様に感じてしまいます。
どれだけの当時としては【中小企業が犠牲…】に、しかも【製造部門の崩壊】を、
招いた事は、事実と言っても過言では無いモノと?
もう〜〜〜〜〜!或る人は「和田和夫は…“守銭奴”」と言っていましたが?
更に!創価学会の動きも“日本経済”に対して“不能状態”の原因要素です〜〜〜ョネ!
■■今日は、本当に【不快指数が〜〜〜〜〜倍!倍!】になり…
此の時程、本当に【祈り…】に撤する事でしょうか〜〜〜??
本当に【日本経済は、それでも…“明治”から乗り切っている事は…
そうなのですョ〜〜〜ネ!!■■【神の国…】だからでしょうか〜〜〜?
■【日出づる国…天照大神】なのでしょう!!!
今日は、いつもより〜〜更に!いつも以上に〜〜「先生の言葉」を唱えて行きます?
再合掌
PS:トキ様へ
“ネガティブ感情”が起きました時は?どの様に対処されますでしょうか?
“アドバイス”頂きますと…幸いに思います…。
750
:
ハマナス
:2012/05/29(火) 23:56:27 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
あなたは神の善徳の噴出口 (『新版 生活の智慧365章』P.167)
あなたは自己をもっと尊敬しなければならない。天地を創造した無限の力の噴出口――
又は表出口が自分自身であるということを知らねばならない。それを知ることによって、
あなたは、はじめて他に頼ることなくして自ら完全に他に自分自身を発見することができる
のである。みずから立つ自分自身を発見し、神が善徳の表出口であると知った時に、あなたは
神の如く、人々を救おうという意欲が生れ、且つ救う力が本当に湧き出てくるのである。
あなたが人を救うために立ち上るまでは、『生命の實相』を読んで概念的に「人間は神の
子だ」と知っていても、それは頭脳の表層でそれを理解しただけのことであって、本当に魂の
底から、その真理を理解したとは言い難いのである。「われ人類の救世主イエス・キリストと
一体なり」「われ人類の救世主釈迦牟尼世尊と一体なり」「最早(もは)やわれ生くるに非ず、
天照大御神の生命この身にあって生くるなり」の自覚が本当に得られるならば、人類の危機
迫る現代に、ひっとしていられる筈はないのである。
感謝合掌
751
:
a hope
:2012/05/30(水) 08:07:01 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
小さな時間を利用せよ
時間を利用して勉強するには、大きな暇な時間が来るのを待っていては駄目です。
大きくつづいた暇な時間は却って海水浴に往ったり、
見物に往ったりするために費やされて勉強にならないことが多いものです。
だから偉くなりたい人は、短い切れ切れの時間を上手に利用しなければなりません。
短い切れ切れの時間は、参考書を探しに往ったり、鉛筆を出したりしている間に、
すぐ失(な)くなってしまうものですから、そんな下手な時間の使い方をしていたら、
あなたは偉くなることはできません。
偉くなるには、ちょっとした時間でもすぐ勉強できるように、
常に小さな手頃の良い本をポケットに入れて置き、
十分間でも十五分間でも暇があれば、その本を披(ひら)いて覚えるようにすることです。
良いことは書き抜くように小さな鉛筆のついた手帳も一緒に持っていると一層よろしい。
たった十五分しかないから何もできないというようでは偉くなれません。
(つづく)
752
:
金木犀
:2012/05/30(水) 13:52:27 ID:QivWtXos
『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より(2)
二十四日の法語 華厳経に説かれている重現無礙の霊々妙々の真理
華厳経には、宇宙の中心に、ベーローシャナ仏(Varocana)という如来さまがいられて説法していらせられることが書かれているのであります。
ベーローシャナというのは、「光明遍く照らす」という意味のインドの古い標準語即ちサンスクリット語でありまして、それを漢字に訳すると、“遍一切所の光明”という文字が当てはまります。そして、そのベーローシャナ仏というサンスクリット語の発音の漢字に並べて表現したのが、毘盧遮那仏ということになっているのであります。
その仏名の最初の“毘”を略して盧舎那仏とも書き、また単に舎那というように漢字では書くこともあります。
宇宙の中心に、ベーローシャナ仏(毘盧遮那仏)が在(いま)して説法していられることを華厳経は、
「彼の一切所の盧舎那仏は衆海の中に於て正法を演説したまう。一塵(いちじん)の内に微細(みさい)の国土ありて、悉くその中に盧舎那仏住し給う。一切の塵(じん)悉く等しく、一々の塵の中に一切の刹(せつ)を現ず」と書いています。塵というのはチリという意味ではなく、微粒子とか素粒子とかいう世界構成の小粒子の中にも、この毘盧遮那仏は重現無礙に在し給うところの“宇宙遍き光明の如来さま”という意味なので、そういう意味から大日如来とも訳されているのであります。
『日本書紀』によりますと、天照大御神が生まれ給いし時、「此の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるわしく)、六合(りくごう)に照り徹らせり」とありますので、此の大日如来――大いなる日の大神なる如来はその生命的意義に於いて、天照大御神に一致しますので、大日如来を更に日本的に訳したら天照大御神ということになるのであります。
二十五日の法語 蓮華日宝王地に依りて大宇宙は支えられている
その天照大御神の御生命(おいのち)の実現として日本天皇がましましているということになるとですね、天皇が毘盧遮那如来の御顕現として宇宙の中心座にましまして、その御生命の展開が蓮華蔵荘厳世界として顕れている、これが宇宙の実相であるということになります。(谷口雅春著『無門関解釈』の序文参照)この宇宙的真理を釈尊は直観せられまして、それをそのままズバリと演説されたのが、『大方広仏華厳経』であるわけであります。すなわち“蓮華蔵荘厳世界”(略して蓮華蔵世界)に“すめらみこと”在(ましま)して宇宙はその存在を支えられているのであります。そのことを釈尊は『華厳経』の“盧舎那仏品(るしゃなぶつほん)”に次の如く説いていられるのであります。「仏子よ、当(まさ)に知るべし、此の蓮華蔵世界海の金剛囲山(こんごういせん)は蓮華日宝王地に依りて住せり。彼(かしこ)に一切の香水海あり、一切の衆宝あまねく其地に布き、金剛の厚地(こうち)にして破壊すべからず、一切の衆法を出生し、又能く明かに一切の世界を照せり」これは『聖光録』の286頁に採録してあります。
753
:
ハマナス
:2012/05/30(水) 23:09:41 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
あなたは宇宙神霊と一体である (『新版 生活の智慧365章』P.168より)
「あなたは偉大なる存在である! あなたは最も祝福されたる存在である。不滅なる
存在である。あなたは光輝燦然たる至福の存在、普遍の神性である。あなたは史上の
真理である。真理とは如何なるものか。それは言詮不及(ごんぜんふぎゅう)、不立文字
の存在である。それを書きあらわすことはどんなペンにもできない。それを言い現わす
ことのできる人は此世にひとりもない。それはただ存在する全てのもの-―物質に至るまで
の全てのものを含むすべてのものだ。それを表現せんとする凡(あら)ゆる努力は却って
その偉大さを限定する試みとなるに過ぎない。」
これは印度現代の聖者シヴァナンダの言葉である。これは真に真理をよく表現している。
諸君はこの語(ことば)に表現されているような実に偉大な存在であるのである。彼は又
言う。「人生の根本的目的は、宇宙神霊と永遠に一体なるところの自己の実現を自覚せんが
ためである」と。(デイヴァイン・ライフ誌一九六〇年一〇月号)まことに其の通りである。
感謝合掌
754
:
a hope
:2012/05/31(木) 07:52:39 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
この吾が「いのち」―――神の生命
時間を大切にいたしまするのも、ここにこうして生かされている生命、
それが神の生命である、あありがたい、何かしなければならない、
無駄にしてはならないという―――この何とも言えない心の奥底から出る自然の自覚で、
ありがたくて自然と動かずにはおられない働きになってこなければならないのであります。
そういう心持で時々刻々を生きてゆく事にしますと、
一分一分一瞬一瞬が無限の価値を持ってきまして、どんな時にも、
どんな境遇にも、凡(あら)ゆる事に対して不平もなく、
みんなありがたい神様の生命を生かさせていただく瞬間である。
今、神様の生き通し生命を生きている。
「久遠(いきとおし)の今」を生きている、
神の永遠(ほろびない)生命をこの瞬間に生きているとういう
ありがたい心持になってくるのであります。
これが「生長の家」の生き方であります。
(つづく)
755
:
金木犀
:2012/05/31(木) 11:04:37 ID:cELyeFjs
『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より(3)
二十六日の法語 普賢菩薩のみ、釈尊の説法の真意を理解す
けれども、なんの素養もなく、準備教育もなんにもなしに、而も、日本人に対してではなく、古代のインドの人に対して、こういう重大な問題を対機説法でなしに、そのままズバリと演説されたのでは、どんな頭のいい人でも、訳がわからないで呆然としているほかはないの無理がないのであります。だから聴衆のうちたった一人だけ、普賢菩薩一人だけ、お釈迦さんの演説の意味がわかったと伝えられています。
他の聴聞せる大衆はただ茫漠として、何のことだかわからなかった。それでお釈迦さんは、この『華厳経』の演説を――わたしは仮に現代人にアッピールするために、“演説”という現代語を使うけれど、実は“説法”されたのであります。――普賢菩薩以外の誰にも意味のわからない話をしても無駄でありますので、釈尊は此の重大な説法を今後話さないことにして、そのとき説かれたる真理の説法である『華厳経』を竜宮海に秘めておかれたのであります。
二十七日の法語 “竜宮”の象徴的意義について
“竜宮”というのは、住吉大神の本地のまします実相世界のことを象徴的神話の形で表現された語であるわけです。という理由は、“竜宮”というのは、“海の底”―― 一切の物を産゜み゜出゜す゜根゜底゜の゜世゜界゜すなわち言いかえると実相世界です。実相世界へ宇宙の中心座に毘盧遮那如来が在すという真理を極秘に宝蔵せしめることになったわけです。これを称して「華厳経は久しく竜宮海に秘められておった」というのであります。
では、その竜宮海に秘められていた『華厳経』というお経は、どのくらいの語数が書かれている大部のお経であるかというと、『聖光録』の283頁に次の如く書かれてあります。
「華厳経の言葉の数は、華厳蔵世界海の言葉の数に等し、無限数なり」
と、これは上本、中本、下本と分冊されていまして、下本は略本であります。竜宮に秘沈されている真理を略さずに一番詳しく書いたのが華厳経の上本で、いくらか圧縮してあるが、半ば詳しく書いてあるのが中本であります。
下本とか、略本とかいうのが、簡略本ですが、これらの華厳経は創造(うみ)の根底世界なる竜宮に、ある時代まで秘められておったのであります。
756
:
ハマナス
:2012/05/31(木) 17:41:02 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。早いもので明日から6月始まります。
生きているから変化する (『新版 生活の智慧365章』P.168より)
行き詰ったときに道が開かれる。行き詰りに恐怖することはないのである。人知の行き詰まりに
神智がひらかれるのである。八方ふさがりの時に人は、ふさがっていない青空を見るのである。
変化を無常と見たのは暗黒にとらわれた小乗仏教者のことである。大乗の仏教者はもっと明るく
なければならない。
変化があるので生長があるのである。生命が生きているから変化を生ずるのである。銅像や
乾物(ひもの)やミイラはあまり変化しないが、それは生命が生きていないからである。変化
を通して「無限」が表現されつつあるのである。それ故に、無常と見ゆる一点一面の生命の
動きの中にも久遠の生命を直観することができるのである。“無常”の中に“常恆”(じょう
こう)があり一瞬の中に永遠を孕(はら)んでおり、「今」即「久遠」の生命を生きている
のである。その理由を日々の一瞬一瞬の生活にも忘れないで生きるとき、一瞬一瞬が祝福され
たるものとなり意識深きものとなるのである。
感謝合掌
757
:
SAKURA
:2012/05/31(木) 22:20:22 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
■“今日の言葉”は…何と“不思議”なのです。いつも思いますが…
本当に「神様のお導き」でしょうか?“本”を開く前に……
■「此の書を、開き給いて、なすべき道を示し給え〜〜」と唱えて、開きます。
これは「雅春先生」がおっしゃてますし…更に【他の365章にも掲載】されています。
■【幸福を招く365章】
――――悪しき噂 話をやめよ――――
人のアラさがしや、悪口や、同情のない冷酷な噂話(ゴシップ)などは相手の人を
傷つける以上に自分自身を傷つけるのである。吾々の言葉に人の悪が出るのは
自分の心のうちに愛が足らず、冷たい心があるからだと反省し、出来るだけ愛ふかき、
欠点を見ないで美点のみを見る心を養うように努力すべきである。
欠点が見えているのに見ないでいるなどと云うことは大変難しいようだが、全ての
人に「神」が宿っていることを知り、表面に何か現われていようともその人に宿る
「神」のみを心に見ているのである。
人の欠点を見ている限り、人間の心は楽しくなれないのである。
吾々の心は自由であるから美点を見ることも出来るし、欠点を見ることも出来るが、点を見ることによって自己処罰されて、自分が苦しくなるのである。
「あいつ悪い奴じゃ」と思うことは一種の攻撃精神であるから、他に対する「攻撃精神」は自分の方へ反転して来て、自分を害することになるのである。
弾丸は先ずみずから薬莢を破壊してから相手に到達する。人の悪事を見たとき、
語ったとき既に自己は罰せられているのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■いろんな方の意見…拝読しまして、改めまして“いろんな方”がいるのです〜〜ネ!
“文章一つ!”とっても、【その人の個性!】でしょうから…?
【文章も“マイウエイ!”ですが…】
相手をけなす前に、本人の“文章”も、どれだけの“レベル”があるのかも?
検討されたら…?つい〜つい〜思ってしまいますが…!
いつもの私?何処かで〜〜此処かで〜〜でしょうかしら〜〜〜ン!
【オンリ−・ワン!】にて頑張ります〜〜〜。
■【悪口?】…人間で或る以上“避難・中傷”は、誰でもあり得ますでしょうか?
ある以上は、“乗り越えないといけない課題”です〜〜ネ!
私も“気に入らない時”更に“相手の欠点を見つけます時”とか?若い頃は、
それを人に伝えます時「正当化!!」して、これは正しい事なのだから〜〜と、
その様に自分に言い聞かせながらの“錯覚”に陥り…
時として、友人に話しますが〜〜><後で後!…実に“後味の悪い気持ち”に
なる事の方が多かったです。が…それでも“変に力んで正当化!”しておりました。
■そして、振り返りますと、今まで?その繰り返し〜繰り返し〜でしたかと?
今回【2チャンネル…でも?初めて…“村八分”】的存在でしょうか…?
“文章”も一人一人の“理解度=知識レベル”でしょうか〜〜?
先ず相手を“けなす!アラを見て云う事!”それはそれなりの【類の仲間…】
■【類の法則】…同じ“人格の仲間”でいるのでしょうか〜〜♫
相手に云う前に?逆に!その人もそう見られていると云う事位は…?
つまり【類の仲間以外から?】逆に申しますと…その様な考えもあるのです。
大人になれば分かる事でしょうかと〜〜!
■今回!さっそく「嫌味文章…」が入り、
私自身の知識レベルでは、どう〜〜も「理解が出来ない!」
それなりの「脳…が働いていない」のではと先生の文章を拝読しながら〜♫〜
…これも!【類の仲間同士!!】です。
今回!私も“一歩”人に伝える場合は“十歩”考えて、相手に伝達しなくてはと、
思う次第です。改めまして【今日の先生の言葉】より、益々【反省!反省!】
■【弾丸は先ずみずから薬莢を破壊してから相手に到達する。人の悪事を見た時、
語ったとき既に自己は罰せられているのである。】 (雅春先生の言葉)
本当に!そう〜〜〜〜〜思います!!! 再合掌
PS:トキ様へ
やはり“ポジティブな言葉”は人の視線が、スム−ズにそこに“目”にとまりますが…
勿論“ポジティブ感情”も含めまして…「今日の言葉」反省!!
必ず!“ネガティブ言葉?”攻撃精神ですから最終的に自己を害する!!
つくづくそう思いますが?「トキ様」は、此処のところはどの様にお考えですか?
758
:
神の子さん
:2012/06/01(金) 07:35:09 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
何とも言えない尊さありがたさ
この何とも言えない心の底から出るありがたさが最も尊いのであります。
この内から湧き出て来るありがたさの心で何事でもおやりになったならば、
どんな事をしても必ず巧く成功するのであります。
たとえばお針をなさるにしましても、神戸の山田さんという洋服屋さんは、
「洋服を縫うときには、これを着てくれる人が必ず幸福に健康になりますように」
と一針ごとに念ずるようにして縫えと、職人たちに教えられたのでありますが、
そういう尊い深切な心持になられますと、自然とその裁縫も上達してくるのであります。
その洋服屋さんは神戸の人でありましたが、仕立が上手でありましたので、
神戸にいながら、姫路とか、広島辺の注文が来るというほどの洋服屋さんでありました。
注文者が遠方にいるのですから、いちいち仮縫いの寸法を合わしに出張していましたら
往復の汽車賃なども大変ですので、仮縫いはしないでも郵便で注文がくる。
それは大体これほどの体格で、和服は何寸ぐらい着る人だということさえ通知すれば、
全然仮縫いしないでいて、ちゃんとその身体にぴったりと合うような洋服ができるのです。
それだから、どんな遠い所からでも通信で注文がくる。
仮縫いをしないでも、その洋服の着手にピッタリ寸法のあうような仕立ができるというのは、
やはり、「この洋服を着る人が幸福になりますように」というような、拝む心で仕立をせられますから、
この深切な心持が、この拝む心持が、愛の心持が、自他一体の天地を貫くところの気持ちでありますから、
天地を貫いて神戸から姫路や広島まで離れておっても、
そこに心と心でちゃんと相手の欲するような洋服ができるという事になるのであります。
そういうふうになって来ますと、何をしても皆に喜ばれるようになってくるのであります。
仕事が上手になり、勉強が上手になるのも、そういう深切心からであります。
(つづく)
759
:
うのはな
:2012/06/01(金) 10:49:10 ID:???
奉祝特別随想 生長の家総本山幹事長 八日市屋 ニ三雄
生長の家総本山 御顕斎の喜びの日を迎えるまで
長崎県知事の認証を受けて、「宗教法人生長の家九州別格本山」が登記されたのは、昭和四十七年四月十一日である。
総裁谷口雅春先生は、「昭和五十三年十一月の鎮座大祭を期とし、生長の家の教化及び祭祀、祈願の中心として“龍宮住吉本宮”に
住吉大神を勧請され、大神の鎮座ましますと同時に九州と別格をはずして、この地を“生長の家総本山”とする」
と宣言された。
そして今、それがついに現実のものとなった。宇宙を浄化し、日本を世界を浄化され給う、「住吉大神」の御出御を仰がれた総裁先生の
御悲願が成就して、人類光明化運動の飛躍の第一歩がいよいよ進められたのである。
古来より九州の地は、「筑紫嶋」と称され、筑紫の国と呼ばれていた。
ここ総本山の敷地は八十五万坪。筑紫の西端にある“日向の地”に、生長の家大神のみ心を
うけられた総裁先生は、「われ自らにては何事もなし得ず、わがうちに天の父いまして、み業をなさしめ給う」
と、その栄光を直に神に帰されているが、先生の御企画は、神ながら自然法爾にして聖なる総本山が、正に「実相の
天に成るが如く地に顕われ」来たったのである。
つづく
760
:
a hope
:2012/06/01(金) 12:47:11 ID:kcv2QXTk
>>758
a hopeです。
761
:
うのはな
:2012/06/01(金) 13:29:27 ID:???
>759 つづき
当時、生長の家用地として、阿蘇山中十七万坪の土地の話があったが、調査の結果不適当ということになった。
清都理之先生が総裁先生に対して、「阿蘇の土地も生長の家用地としては不適当と思われました」と、その土地を
つぶさに調査した結果を報告申し上げた御返答の最後の一行に、たまたま常松商事から聞いていた
「長崎に今、六十万坪の土地があるようです」と付け加えられたのである。
総裁先生から、「すぐ、その長崎の土地を見て来なさい」と御指示があった。
私は、その長崎の現地に入り、くまなく見て廻った。その土地は中央に殿井手川が流れている。川を遡り、
道もない藪を最後の一滴になる個所まで登り、山に入り谷を渡り、尾根を超え、各所の峯の木の上へ攀じ登って、遠く
大村湾や全山一望の写真を撮した。大村湾が入り込んだ対岸からも撮影して来た。
山また山で岩が多く、生えているのは主に雑木であり、ガスやプロパンの普及しなかった昔、炭に焼く木や、たきぎを伐採
していた山林、原野で、金を掘った跡、硅石が産出した跡などあるが、地質が痩せているので桧の植林位しか利用できぬ地域であった。
第一に山が多くて平地が少いこと、大きな木もほとんどないことなど、清都先生より総裁先生に御返事を呈上した。
「生長の家の用地としては不適当と存ぜられます。土地も痩せていて、桧の植林くらいしか出来ないところであります」
これに対しての総裁先生の御指示には驚いた。
「植林すれば、百年後の子孫が喜びましょう。すぐにその土地を購入して下さい」
理事会の席上、撮影して来た写真と地図などをお見せして、山又山の土地であることなど御説明申上げたが、既に購入の御決意は堅かった。
私たちは、総裁先生の意を承けて早速始動した。ところが、三十万坪程購入が進んだ時点で、色々と障碍が出て来た。例えば、所有者十数名による
共有地の場合、ほとんどの人が売りたくともその内のただ一人が反対すると、その土地はなかなか購入は不可能である。
しかもこの購入予定地全域の土地所有者は四百数十名に及んでいたのである。
つづく
762
:
金木犀
:2012/06/01(金) 16:25:44 ID:jQ6HeCrg
『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より(4)
二十八日の法語 龍樹菩薩、竜宮界に超入して華厳経を閻浮提に持ち帰る
ところが、龍樹菩薩という神通力者が、お釈迦さんが亡くなられてから四百年程後に(八百年程後だという説もあるんですけれども)インドに生れてこられました。
この人は神話中の人物で本当に歴史的には、釈迦滅後幾百年後に出生した人だかよくわからないんですけれども、龍樹菩薩は、まことに素晴らしい霊的天才で、四歳にして、神通力で当時インドにあったベダンタのお経を全部読破したという。
それから続いて、地球上にある総ての仏教の経典をそれを皆、読破した、読み尽くしたというのであります。
「閻浮提上に遍く大乗の経典を探(たず)ぬるに大乗の経典なし」と龍樹は歎いたということでありますが、閻浮提というのは地球のことですから、地球上にある仏典をあまねく渉猟(しょうりょう)したけれども大乗の経典は見当たらないというわけで、龍樹菩薩は神通力で竜宮界に超入して竜宮秘沈の『華厳経』の原本を見出したと伝えられています。
二十九日の法語 “大乗”といい“彼岸”という語の意味について
大乗というのは小乗に対する言葉で、衆生を“こちらの岸”から“彼方(かなた)の岸”へ渡す乗物という意で“乗”という字を使います。
“こちらの岸”というのは現象世界のことです。“彼方(かなた)の岸”というのは現象の彼方側(あちらがわ)の岸に実相世界がある。実相世界のことを“彼方の岸”即ち「彼岸(ひがん)」というんです。仏供養をして祖先の霊を実相の彼方へ成仏させるための年中行事の期間を、お彼岸というでしょう。“済度する”という語がありますが、“済”は“救う”という意味で、“度”は“度(わた)す”という意味で、彼岸とは成仏得脱(じょうぶつとくだつ)の境地に喩えたのです。現象世界の迷いの心境の此岸から、実相世界の得脱した悟りの“彼岸”に度(わた)すのです。(度も渡も、どちらもワタスと読みます)彼岸に渡れば仏の悟りを得て、実相世界へ超入したということになるわけであります。
さて、龍樹菩薩は神通力で竜宮界に超入して、お釈迦さんが竜宮界にその最初の説法を秘めておかれた『華厳経』を見出してそれを読んで来てから伝えるところによると、その『華厳経』にどれ程の語数があるかというと、“上本”という省略なしに詳しく書いた『華厳経』に収まっている語数は十三千大千世微塵数(じゅうさんぜんだいせんせみじんじゅ)の語数があるというんですから、これは到底一生涯読み尽くすことはできません。
763
:
うのはな
:2012/06/01(金) 20:24:53 ID:???
>761 つづき
ある日町役場へ赴いた。丁度議会の開催中であった。特に時間を三十分程、割いて頂き、
議場で町三役や議員全員に、生長の家に就いてお話しし、現在土地購入中であり、この町にお世話になりたい旨を
お願いして応接室へ帰った。
しばらくして町長である堀内繁松氏が走ってきた。
「唯今緊急動議で議決しました。それは、生長の家さんに、是非この町へ来て頂きたいから、“生長の家誘致委員会”をつくることを、
委員も委員長も併せて、全員一致の賛成で決定しました」という知らせであった。嬉しかった。本当に嬉しかった。
委員の人々の説得によって、その日から土地の購入は目に見えて進んで行った。
腰の曲った老婆が一人、ゆっくりと山へ登っている。訊いてみると、「生長の家さんにお渡しする前に、うちの土地を、生きているうち最後に
見て置きたい」
毎日奔走してお世話下さった誘致委員をはじめ、土地所有者の方達のうち、既に亡き人もまことに多い。
土地には、その所有者も知らなかった瑕疵や、考えも及ばない種々の事案が、時に潜在しているものである。
しかし、多くの人々の御努力や、まごころのお陰で、実に順調に購入が進んで行ったのである。
その年の九月二十八日、総裁先生が現地にお越しになった。しかしその翌日は、宇治の「入龍宮幽斎殿」の上棟式のため充分な時間がなく、
国道沿いと県道を、自動車を走らせつつ中から用地を御覧になっただけである。
総裁先生に是非御挨拶したいと、町長や議員など、町の役職員が全部随行していた。
昼食時であったので、総裁先生にドライブインで御食事をお摂り頂いた。
先生はお書きになっていられる。
『この土地の地名を書くことを忘れていたが、“西彼町”と書いて、この町が西方の彼岸に渡る
悟りの町であることをあらわしている。正午前に町長及び町の役員さんたちが私の昼食のために休憩した
大村湾に面するドライブインに訪問して来られて、「生長の家さんがこの町に来て下さったら、セイチョウが発展しますので
生長の家誘致委員会というのが町の役員で組織せられて応援することになっています」と
言われるのである。
「いいえ、吾々のところは単にセイチョウではなく、生長の家と称うんです」と答えると、
「セイチョウというのはこの町の名前です」と言われるのである。
この町の人は西彼町の“彼”を“ヒ”と発音しないで“彼イ”と発音せられるから“セイチョウ”と
耳にきこえるのである。その町名が漢字では西方の彼岸にわたる悟りの町である上に、発音では“生長の家”
そのままに“セイチョウ”と読むのだから神縁深く既に計画された土地だということがわかるのである』と。
つづく
764
:
ハマナス
:2012/06/01(金) 21:40:32 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。こんばんは。
祝福すべきかな変化無常 (『新版 生活の智慧365章』P.169)
この世は無常の世界であり、変化の世界である。その変化無常を、好転の方へ変化せしめるか、
凶転の方に変化せしめるかの鍵を握っているのはあなた自身なのである。若し変化無常の世界で
なかったならば、吾々は日本の景色に春夏秋冬の異なる美を楽しむことができなかったであろうし、
幼児から少年少女への生長の悦び、そして青年期の元気溌剌とした活動と進展の悦び、そして家族を
つくって家族相和す悦び、老いて孫をいだく歓びなど色々異なる悦びなどの境涯を体験することが
できなかったに相違ないのである。
朝を迎えて東天に太陽はさし昇る、そして落日は黄金色に西海に沈むのだ。何という荘厳!
何という変化の美ぞ。落日の反映を受けて、刻々、紫から淡紅(うすべに)に、淡紅から淡紫に変化
し行く富士の嶺。そして紅のような暈(くま)をもつ雲海によってその麓をかこまれている富士の嶺。
私は刻々その位置を変化する飛行機上からこの秀麗きわまりなき富士の山容を見て感嘆した。若し富士に
この変化がなかったらそれは唯、死灰(しかい)の堆積。ああ変化無常こそ神の生きた芸術である!
感謝合掌
765
:
SAKURA
:2012/06/01(金) 22:48:35 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】です。
此処しばらくかなりの睡眠不足です。若い時は何ともないぐらい〜〜〜
回復力が〜〜〜昨日は特に!きつかったのですが〜〜「雅春先生の言葉」は神なりと、
思うぐらい自然に、体力回復してきました〜〜〜が!
さて!「今日の言葉」は???ぺ〜〜ジを開きます。
■【幸福を招く365章】
――――真理は実践しなければならぬ―――――
「人間本来完全」の真理を教えられて知ったならば、如何なる問題でも起こって
来たときに、その問題が、自分の問題であろうと、家族の問題であろうと、
友人の問題であろうと、どんな小さな問題であろうと、大きな問題であろうと、
「あの人は完全だ、善い人だ、不親切な人ではない」と云う風に、相手の心の
うちで拝んで、その実相の完全さを常に念ずるようにすることです。
そうすると念じた通りにその完全さがあらわれて来るのです。先ず小さな問題から
始めることです。そしてその効果を体験することによって、自信を増し、更に段々
ほかの大きな問題を念ずるようにするのも好い方法である。併し、最初から
「世界平和」を念ずるようにすることは、結果はすぐあらわれないでも自己の魂の
向上にだけでなく健康増進のためにも大いに役にたつのである。
(谷口雅春著)
私も、現在「大きな問題」を抱えています…。「祈る!」時は、やはり【実相礼拝】
「大きな問題」がありますから、そこから順次かたずけて行くより〜〜><
出来る事から〜始めましょう〜〜〜!そうした方がいいです〜〜〜ョネ!
今回!あちらの集団の方々?には、ほとほと〜〜><あきれるばかりなのですが…?
今回「葉書問題…」が、発生!!!【緊急事態!!】
実は私の“住所”を勝手に使用して、“第一教区の練成とか?”…><
いろんな“行事”に“参加”していたのでしょうか??
今回!教区からの“案内はがき”の名前が……
私の姓ではなく?別の人の姓?です…。何度も〜何度も〜舞い込んで来ていまして、
その度に、TELしていましたが…
今回!変!と思うようになり、これが【外部の動き?】でしょうか…
今回!或る突っ込みで分かり、これは“ダイレクト葉書”をかなり悪用している事が、
分かりました…。更に?ある時は、名前の方を使い…
今回幾ら【正義…】と言っても、これは行きすぎではな〜〜い?と思います。
■…でしょうか??
更に!【真理…】は、いつも一方通行で“セット期間が、ゼロに近い…ブル−カラ−”
教区の友人は、今の総裁先生で“十分”と言っていますし、
“心”がフラ〜フラ〜何処に行っても「向こうの方々」は、同じ繰り返しで〜ショ!
先ずは「良い種」を…
今回は「現総裁先生…」勇気を持っての“行動”…その様に思います。
信者は、“ブログ”etc拝読しながら、総裁先生の人格を 認め出しておりますし、
「種を蒔く」これからの「芽が発芽」致しますまでは、気〜〜長に行こうと思います。
■【心の法則】ですから、心が念じた通りになるのが、今の「現象世界」なのです。
更に!今「芽…」が現実として現れなくとも、何か別の形で出ているのでは?と
思います。
今回!此処至り【真理の勉強】が、前以上に“進歩”しています。
今の私には、とるにたらない“エッセンス”と、言える位…
【真理=>心の中はクリスタル?】なのです…。
とても“自由自在”なのでしょうか……?今のままでは……?
例え!!「小さき生長の家」として「現象=現実世界」に投影されても、
そこに集まる【集団…人!・人!】で、助け合っていこうと思います…。
更に!私もTYOに,戻れば…【私の本格的活動のペ―ジ】の始まりでもありますネ!
再合掌
トキ様 へ
【真理…】本当に“行”じなければ、「から念仏」と同じ事ですョ〜〜ネ!
昨日は“小さき愛行”を、させて頂きました…。「ノ―ミ−ト運動」実践!
少しは理解して頂いたものと思いますが…!これも【環境問題…】に入りますモノ!
本日の言葉…【真理=実践】どのように受け止められていらっしゃいますでしょうか?
766
:
a hope
:2012/06/02(土) 08:32:06 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
時事々刻々千載一遇(せんざいいちぐう)
一日のお料理をいたしますにも、今、この時間にお料理をする事その事が千載一遇の機会であります。
別の時は別の機会であって、「今」は「今」しかないのであります。
私達は常に時々刻々が千載一遇の好機会であるという事を知らなければならないのであります。
或いは難しいお姑さんのところにお嫁に行ったという事がありましても、
こんな尊い経験は又とないのでありますから、
それは実に千載一遇の機会であると喜ばなければならないのであります。
そういう口喧(くちやかま)しい姑さんの家に嫁に行って生活するという経験は、
他の処へ嫁に行っては味わうことのできない又とない尊い経験なのであります。
これが千載一遇の機会で、その機会を失ったら、又同じ機会は来ないのであります。
又厳しい工場監督さんの下に雇われて働くにしましても、
厳しい先生に叱られつつなにか勉強するにしましても、
厳しい監督さんや厳しい先生に逢わしていただくのも、
それでなければ得られないところの千載一遇の機会を恵まれて、
神さまが私にここにこいいう経験をさせてくださるのだと思えば、
その難しい監督さん、その難しい先生をありがたく拝みたくなるのが当たり前であります。
(つづく)
767
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:28:08 ID:84pogn5s
『菩薩は何を為すべきか』(谷口雅春先生・谷口清超先生共著)の第1章 「菩薩の正しき生き方について――人類光明化運動指針の解義」より、特にその中核と思われる第5条および第9条の全文を、ここに謹写投稿させていただきます。ありがとうございます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
<人類光明化運動指針>
第五条 生長の家の各員は、人間神の子の自覚が、日本民族が悠久の昔より世々代々承け継ぎ語り継いで来た「命(みこと)」の自覚にほかならず、生長の家立教の使命が同時に日本建国の理念の現成にほかならない事を明らかにすべきである。日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)として把握し、その「中(みなか)」への帰一とその「中」の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、天皇の権威は権力をもって思うがままにこの国を支配する権利にあるのではなく、この理念の継承実現にまします事、従って天皇を中心と仰ぐ日本国家の発展は、天皇の人民支配の手段としての国家の発展と云うが如き専制的な性格のものでは微塵もなく、宇宙真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の形体としての日本国家の発展である事これが日本神話の理念であり日本民族の理想であり日本建国の精神である。この真理現成の大まつりごとに、神の子として命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。単に自分の祖国たるのみの理由にて日本を愛するのではなく、東洋と西洋との中間に位して一切を生かす大乗の真理国家たる事が日本の理念であるからこそこの国の国体を鑽仰してやまず、この国の神の子国民として生を享けしめられた所以の深さに感泣し、わが一身もわが家庭もわが生活もすべてこの理念現成に捧げられてはじめて存在の意義を持ち得るものなることを、各自互に明確に自覚し合い、その行動の根拠となし合うべきである。
○
ここは非常に重大な一節であります。民主主義かぶれのしている人には解するのに難しいところであります。生長の家は「人類光明化運動」と云うから人類を愛したらいいのであって、日本の国なんかどうだっていいじゃあないか、と考える人があるかも知れませぬが、決してそうじゃあないのであります。皆さんは日本民族の一員として日本人として生れた。その事実に立脚して生きている以上、日本民族と云うものは如何なる自覚を持ち如何なる使命を持って此の地上に誕生したのであるかと云うことほど重大な問題はないのであります。古代の日本人は全て何某の命、何某日子、何某日女と云うように自分自身をも呼び、他の人をも尊称して居りました。日子とは即ち天照大御神の御子と云う意味であり、日女とは即ち天照大御神の女(むすめ)と云う意味であり、すべての人間は命(みこと)であったのであります――命とは即ち「神の生命」そのもの、それが天降って来たのが人間であると云う、そう云う魂の自覚の伝統をもって日本人は日本民族の歴史を作って来たのであります。
こう云う歴史を背負ってその歴史的現実として具象化して、今皆さんが此処に生きておると云うことは誠に荘厳な事実なのであります。他の国の民族の中には、そう云う自覚を持って生れて来た民族はない。その独特の伝承を私たちは尊ばなくてはならない。西洋では人類はアダムとイブの子孫であり「罪の子」の子孫である、と云う様に説かれて来て、彼らは「罪の子」の子孫であると云う、あまり芳しからぬ自覚を伝承しているのですけれども、日本人だけは「神の子」として、「命(みこと)」としてこの地上に生れて来、そして世々代々その伝統を承け継いで来て、「われは命(みこと)なり」の自覚のもとに生きて来たのであります。そして神の子が天降って、地に平和をもたらすために此処に日本民族が大和と云う国号の国を建てたという光栄ある自覚を尊重しなければならぬわけであります。
<つづく>
768
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:28:54 ID:84pogn5s
<つづき 2>
その神の子とは如何なるものかと申しますと、爰(ここ)に書かれておりますように、「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神として把握」したのであります。日本民族はみずからを「命」と呼び、日子(ひこ)、日女(ひめ)と称するけれども、決して一人の有限な肉体を持った神様から誕生したと云う意味での「神の子」ではない。日本書紀或いは古事記の神話にあるところの天之御中主神の「中(みなか)」の本源より発したる基本生命の自覚である。天之御中主神とは、一個の人格神の固有名詞ではないのであって、「天」の次に「之」と云う接続の詞がついて居る所に注目をしなければならないのであって、これが固有名詞ではない証拠であります。古事記は、その後記述の人格神としての天宇受売命(あめのうずめのみこと)とか天児屋根命(あめのこやねのみこと)とか天菩日命(あめのほひのみこと)とか云う場合には決して「天」の下に「之」の接続詞を使っていないのであります。「之」がついているのは、固有名詞ではなく、説明のための接続詞としてついているのであります。何を説明しようとしているかと云いますと、「天」即ち「天球」即ち「大宇宙」の「中(みなか)」にして主なるところの神様と云う意味を説明しているのであります。私たちはその「中」の「主」なるところの神様から生れて来たのであって、その中のいのちより出でて中に帰る。吾々は中に帰一しなければならない。「神の子」とは天之御中主神の生命が此処に出現して、「中」の理念を実現する為に此処に生きて居ると云うことであります。「中」と云うのは、『中庸』と云う支那の書物に、「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と云う」とありますが、この「中」と云う字は、○(宇宙の象徴)に一本貫いた様につくられたのが本来の字形なのであります。四角に一本棒を挿したのじゃなくて、○(うちゅう)を貫く象(かたち)を表わした「中」であります。この「○」は宇宙であって、宇宙を貫く処の真理がφなのであります。真中だけを貫いて居るのではないのであって、これはただ「宇宙を貫く」と云う意味を象形的に書かれているのです。宇宙の一切の物を貫く所の原理に在ますところの神様が天之御中主神であります。
その「中(みなか)」の原理と云うものは何処にでも現れて居る◎(ス)の原理であって、それは一切のものには一つの中心があると云うことであります。つまり太陽系統には太陽と云う中心がある。そして周囲に遊星が廻って居る。存在の最小単位である原子にも原子核と云う中心があって、その周囲に電子が廻っている。人体を形成して居る所の細胞にも真中に細胞核と云うものがあって、そして周囲に原形質がある。鶏卵にもちゃんと黄身と云う中心がある。中心がなくなったら、細胞もなくなり、卵は死んでしまうのであります。白色レグホーンの鶏の卵の白身だけを抜いて、プリムスロック種の鶏の卵の白身と入れ替える実験をソ連でやったら、それを孵化させるとプリムスロックの雛が産れたと云う話もあるが、白身は他のものと取替られるけれども「中心」なる黄身を取り替えたらもうその鶏卵は生命を失ってしまうのであります。このように中心は一番大切であります。原子でも、原子核を破壊したら、原子は崩壊して飛び散ってしまう。吾々の肉体を構成している細胞も、その中心であるところの細胞核を殺してしまったら、細胞は死んでしまう。植物にも幹と云う中心がある。幹を殺したら植物は枯れてしまう。太陽系統も真中にある太陽が放射能を出しつくして冷えてしまうようなことがあったら、太陽系統には生物がなくなる、結局吾々の地球も冷えてしまって人類もその他の生物も死ななければならない。どうしても◎(ス)をもって表象する「中(みなか)」の理念と云うものに一致したときそこに生命があらわれるのであり、「中」の理念によって宇宙の「切のものは生かされて支えられて居るのであります。
<つづく>
769
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:29:48 ID:84pogn5s
<つづき 3>
此の一切存在の基本原理なる「中」の理念を体現した国家、換言すれば「真理国家」の現成が日本国家なのであります。日本国家は西洋の国家の様にバラバラの個人が民主主義の精神によって、ただ個人の幸福を得るための機関又は道具として、個人が代表者を立てて契約して、国家を形成したと云うような国家ではないのであります。外国の国家は、“State”(ステイト)と云う。「ステイト」と云うのは、「状態」と云うことである。人間と人間とが生活をするのに、ただ個人ひとりずつでは淋しいし、或いは敵が攻めて来たり、或いは猛獣が襲って来たりする場合に、それを防ぐためには個人では都合が悪いから団結をして護ろうじゃないか、と互いに約束して、そこに或る集団状態があらわれた。これが、“State”(ステイト)であって、訳せば契約国家とでも申しますか、そう云う単なる状態とは、日本国家は異るのであります。この日本国家は個人の利害関係の集団ではなくして「真理」を体現したところの「真理国家」なのであります。日本の建国は“天孫降臨”にはじまると云うのは「天之御中」の理念の降臨にはじまると云うそれであります。日本民族と云うのは、天之御中主神の理念を承け継いで、その生命を出発さした、即ち「命」の自覚に依って生まれた特殊の存在を保つ。その「命」即ち「命」の本質は何処から出て来たかと云うと、天之御中主神なるところの、○(うちゅう)を貫くところの、宇宙普遍の真理――其処から生れたところの生命であるのであります。そして其の宇宙を貫くところの原理は◎(ス)の原理であり、中心帰一の原理でありますから、その原理の体現としての日本国は、中心帰一の理念が天降って来て、“中心帰一国家”と云うものを其処に形成することになったのであります、理念が先きにあって、理念が形として現成して国家となったのでありまして、人間の個々別々のバラバラが契約をして自分の都合のよいように拵えた「道具」や「機関」としての国家ではないのであります。
<つづく>
770
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:30:21 ID:84pogn5s
<つづき 4>
天之御中主神の「中」の理念が天降って、天孫降臨(理念の降臨)となり、それが具体化して神武天皇の“八紘を宇(いえ)と為す”(八方の国々を一家庭的邦とする)即ち世界連邦の基礎国家としての「大和」の国の建国となったのであります。
大和(ヤマト)の国は「大和の国」であると共に、単なる集団の国ではない、天津日嗣(あまつひつぎ)の国であ、る。天津日嗣とは、天之御中主神の「中」の理念が天降って来ることを言うのであります。日嗣の「日」は「霊(ヒ)」であって「霊的理念」のことであります。「中」の理念をさながらに承け継いで、そしてその姿が国家として顕れたのが、「天皇を中心とするところの国家」である、其処にある天皇の権威と云うものは、真理の体現者としての権威であって、決して個人が強いから天皇になって、その権力に依って人民を圧えているのではないのであります。そして、その天之御中主神の理念の継承実現としての真理国家たる日本国の中心核体として其処に天皇が顕れていられるのであります。随って天皇を中心と仰ぐ日本国家の形態は、天皇の人民支配の手段としての国家形態というようなものではないのであります。
だから日本国は「天皇国家」であると云っても専制君主的なところは微塵もなく、宇宙の真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の理想形態としての日本国家の形成であります。天皇あるがゆえに人民あり、人民あるが故に天皇あり、天皇と人民とはその生命の本源に於て一体であり、それが、天之御中主神の理念に随って所を得ているのです。どんな細胞にも、どんな電子にも、どんな太陽系統にも、みんな「中心帰一理念」と云うものが現れているのであります。国家だけが中心のないバラバラの存在であると云うことは宇宙意志の自然の発現にそむくわけであります。その「中心帰一理念」と云うものが、現象界に天降ってきて自然に中心帰一国家を最も理想的に形成したのが日本国でありますから、日本の国家は「宇宙真理」即ち「神様の御心」の地上顕現の最も純粋であり、最も高き形態としての国家であるといい得るのであります。
国家を単に国民が幸福になるための施設であると見て、個人が幸福になれないような日本国家ならつぶしてしまって、ソ連の様になった方が都合がよいじゃあないか。アメリカのように大統領でもいいじゃあないかと言う人もあるそうで、鈴木茂三郎氏のことを或る党員は「大統領、大統領」と言って居たともききましたけれども、日本国家は大統領や書記長で治めようと思っても、それはいけないのです。仮りにアメリカが大統領でうまく治って行ったとしても、ソ連が書記長でうまく行っておるとしても、そんな事はまた別の建国の歴史をもった他の国のことであって、日本には日本としての抜きさしならぬ歴史を背負った特殊性があるのであります。日本民族というものが如何に何処から如何なる自覚を持って生れて来たか。古事記に表れたような民族神話をつくり「命」の自覚を代々継承して今日に至る、そう云う霊的歴史的伝統のすべてを背負って、今此処に出現しているところの日本民族の特殊性というものを知らなければならないのです。
<つづく>
771
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:31:10 ID:84pogn5s
<つづき 5>
民族の特殊性を強調しますと、それは偏狭であって、人類的で無くなるように思う人もありますけれども、実は決してそうじゃあないのであります。どの民族でも、その民族固有の特殊性を完全に発揮することに依って、却って全人類が幸福になるのであります。
それは何故かと申しますと、吾々人間でも、頭脳は頭脳としての特殊性を持って、その特殊性が「考える働き」であるとするなら其の「考える働き」という特殊性を頭脳が完全に発揮する時にはじめて人体が最も完全に、その生理機能を営むことが出来るのと同じであります。手として生れたものは、手としての特殊性を完全に発揮することに依って人体全体が幸福になるのであります。全ての世界各国の民族も、民族各々の特殊性をよく自覚して、その特殊性を発揮することに依って人類全体が本当に幸福になるのであります。
そう云う訳で、日本の国家にも其の個性的な特殊性がある。即ちそれは上述の如き真理国家であって、天之御中主神の理念そのものが実現している万邦無比の国体であると云うことである。今の中学生や高等学校の生徒に「国体」と言ったら、「国民体育」の略称かと思って、「真理国家としての国体」などと云うと何の意味かわからぬ人がある。まことに残念な事でありますが、解り易く言いますと、其の“国”の本来の在り方として内在する「国家理想」と言うものが国体であります。「日本国の実相」と云ってもよろしい。日本のそうした「国の本来の在り方」というものはまことに素晴しいものなのであります。即ち大和国(ヤマトのくに)を基礎国家として、「六合を兼ねて都をひらき、八紘を掩いて宇と為し」世界の国々をこわすことなく一つの家族的つながりの国とする使命を内在する国家なのであります。私たちがこのような国に生れたことは実に有難いことであると云う自覚を持たなければならない。その自覚は自分だけが持っていたら、それで足れりとするようなものではない。この箇条の最後に書いてありますように、各自互に明確に自覚し合わなければならない。「自覚し合う」のであって、互いにその自覚を研き合い、「その行動の根拠となし合う」べきであると示されているのであります。
<つづく>
772
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:31:49 ID:84pogn5s
<つづき 6>
<人類光明化運動指針>
第九条 生長の家の各員は、如何に運動の分野が多岐にわたり組織が複雑化すると難も、光明化運動の中心が何であるかを常に見失うことなく明らかに自覚して行動すべきである。
生長の家大神――総裁・副総裁――御教。この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である事を、生長の家人たるものは一瞬たりとも忘れてはならない。如何にその人が有力者であろうと長年光明化運動に献身して来ようと、素晴らしき体験をもつ指導者であろうと、断じてその人を中心にしてはならない。若しも人を中心とすれば、その人が理解し把握している以上の運動の展開は不可能となり、歪んでいれば運動も歪むほかなく、その人とそりの合わぬ者、反対意見の者は身を引くか、対立して禍根を残すであろうし、若し或る人が情熱的な信仰を持つ場合、その人が真に中心を明らかに自覚している場合はよいが、唯熱心であるだけならば、何時かその人に頼り過ぎ、その人が転任或は他界した場合は、忽ち火の消えた様に衰微してしまった如き事例は往々にしてある。すべて皆中心を誤っていることに気がつかなかった為である。光明化運動に於いては人は中心ではない、神意が中心である。その神意現成の組織に於ける自己の部署と役割とを誤りなく遂行して、始めて人はその使命を果たし得るのである事をよくよく銘記して行動すべきである。
○
さて、此の条では、生長の家の各員、即ち生長の家の人類光明化運動に参加している全ての菩薩たちは、これは幹部でなくとも、単なる誌友であっても、今日入信した人でも、一ヶ月前に入信した人でも、皆含まれているわけでありますが、その運動が色々広般に亘って、その分野も複雑に岐れておりましても、光明化運動の中心体と云うものが何であるかを見失ってはならない、即ち――功徳の由って来る本体が何処にあるかと云うことを忘れてはならないと云うことが書かれているのであります。この生長の家の人類光明化運動というのは、谷口雅春個人が始めたのではないと云うことであります。此の文章にありますように、「生長の家大神――」と棒が引いてあって、「総裁・副総裁――御教」とあります。此の棒は教えが其の本源から流れて通過して出るパイプの系列を示しているのであります。生長の家の本部は“実相の世界”にあるということが『生命の實相』総説篇の冒頭に宣言しているのでありまして地上の生長の家本部が事務を執っている所の建物の如きは、地上で仕事をする為の中央事務所に過ぎないのであります。そしてまた私を生長の家の総裁と云うけれども、総裁と云うのは一体何かと言いますと、要するに爰に「生長の家大神――総裁・副総裁――御教」と書いてありますように、総裁・副総裁を通して生長の家大神の御教えが流れ出ている其のパイプ的役割が総裁・副総裁であります。即ちこの運動は宇宙の創造神に在しますところの生長の家大神が或る時期に住吉大神と顕れてコトバの力によって御禊祓をなしたまうところの運動であります。
古事記によりますと、西洋的物質文化を代表する伊邪那美神の軍隊に東洋の霊的文化を代表する伊邪那岐神が追いまくられて、ついに「吾はいな醜め醜めき穢き国に到りてありけり」と仰せられて御身の祓をせられた其の伊邪那岐大神の宇宙潔めの働きとして、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命と云う風に上・中・底と秩序整然とあらわれて出て来ておられるのでありますが、この三柱の神様を総称して潮筒之男神即ち塩椎神と申上げ、別名を住吉大神、又は「すみのえの大神」と申上げるのであります。愈々此の住吉大神の宇宙浄化の働きが起って宇宙の浄化が完成されると、やがて伊邪那岐大神の左の眼から天照大御神がお生れになると云う段取になるのでありまして、この順序は古事記に記載されているのであります。第一回の天照大御神の御誕生は「実相の世界」に既にあったのでありますが、第二の天照大御神の御誕生とはこの現象世界に光明無量が誕生することであり、第二の天之岩戸開きが行われるのであります。新しき天と地とが天降る(黙示録)のであります。新しき世界秩序が発現するのであります。
<つづく>
773
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:32:27 ID:84pogn5s
<つづき 7>
今までは贋物の世界の発現でありました。贋物の世界と云うのは、アダムとイブとが土の塵をもってつくられ蛇の知恵にだまされて知恵の樹の果を食べた結果、エデンの楽園から追出されて「汝は苦しみて子を生まん……額に汗して食を得ん、土は薊(あざみ)と棘(いばら)とを生ずべし」と宣言せられた世界であります。ところが今度再び、光明遍照のエデンの楽園が地上に生れて来るのが、この天照大御神様の第二の御誕生であり、ついで第二の地上の「天之岩戸びらき」が実現するのであります。その前駆として、宇宙浄化の働きが始まっているのであります。
ところが、一方に於て此の宇宙浄化の働きは、一種の自壊作用を伴って出て来るのでありますけれども、他方に於て、住吉大神即ち仏教では観世音菩薩の慈悲によって、人類の霊的目覚めの運動と云うのが起され、宇宙浄化の働きによる自壊作用に伴う人類の悲惨を出来るだけ緩和するための人類光明化運動として現れているのであります。即ち私たちの人類光明化運動とはこの世界の自壊作用の悲惨の程度が、それほど悲惨でなしに人類が通過出来る様に、まず人類の心を潔める運動として起っているわけであります。人類の心が潔められていたならば、それだけ汚れが少く、潔められるべき業が少いから、洗濯をするのに酷い振動を与えないでも、楽にその汚れや業が消えて行くと云うことになるのでありますけれども、その宇宙浄化の自壊作用が起るまでに若し魂の浄まりが少いようでしたら、余り汚れの酷い洗濯物は、これを只一寸ゆすぐだけでは汚れが除れないから、うんと強力に叩きつけるか、劇い苛性ソーダでも使って、布地が破れるほどに洗わなければ綺麗にならんのと同じ様に、この世界の自壊作用が非常に強烈なものとなり、その悲惨な状態が非常に耐えがたいものとなるのであります。随ってその自壊洗濯作用というものを出来るだけ少くする為には、あらかじめ人類の魂を浄めて置かなければならないと云うので、人間霊魂の浄化運動を行い地上に於ける精神波動を浄めると云う方面を分担しているのがこの生長の家の魂の自覚運動即ち「人類光明化運動」と云うことになっているのであります。
<つづく>
774
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:33:03 ID:84pogn5s
<つづき 8>
そう云う訳で、宇宙の創造神の慈悲の御はたらきが、人格化して現れているのが生長の家大神であります。その大神の御旨を受けて、各々の役割に随って、沢山の高級霊が協同運動をしているのであります。谷口雅春と云う一個の人間が其の「思い附き」で運動をしているのじゃあないのであります。住吉大神の御旨を受けて沢山の高級霊や、準高級霊が白色スピリットからブリュー・スピリットに至るまで其の能力に随って夫々分相応の色々の役割を分担して総動員されているのであります。これは国家総動員じゃなくて、謂わば、「地球世界非常事態宣言」にもとづいて宇宙の高級霊総動員と云うわけで協力運動を推進しているのであります。そして其の教えや事務を地上で遂行する機関として、総裁・副総裁というものが出来、生長の家本部の理事長・理事・局長以下本部講師であるとか地方教化部の幹事長・幹事であるとか、或いは地方講師会長及び地方講師であるとか、青年会の支部執行委員長であるとか、白鳩会・誌友相愛会の県連会長であるとか、皆夫々この光明化運動に於て役職がつきますと、その役職に従って霊界の高級霊のうちから、夫々の能力と役割とをもったところの高級霊が、其の役職に関する守護霊として、その人たちに一々配属されると云うことになるのであります。そしてその役職に随って人をインスピレーション式に指導したり、組織活動を遂行する上に色々の良きアイディアを与えたりするのであります。
それぞれ配属された守護霊は、その役目にしたがって、“これはこうしたらよかろう”“これはああしたらよかろう”と云うヒントをインスピレーション式に与えるようになっています。例えば、地方講師なら地方講師の辞令を頂くと、その地方講師たるに相応しい守護霊が其人に配属されまして、その講師を指導すると云うことになるのであります。だから自分は、自分自身だけでは、大して力が無くとも、人を指導する場合に、素晴しい智慧が自ら湧き出て来て、自分はそんな体験も知識もないのに、夫婦調和をさせるにはこう云う話をしたらよかろうと云うようなことが、インスピレーション式にスラスラと話すことができ、その指導の通りにすると好結果が得られると云うような実例が出て来ます。或る講師の体験談では、自分はそう云う経験がないのに、夫婦仲がどうしても好くなれないのをどうしたらよいかと相談に来た婦人に、「あなたは結婚する前に好きな人があったんだろう」と指摘したらその通り当っていた。「その相手の男がやはり思いつめていてその念波が来て、現在の結婚を不仲にしているのだから、その男の念波を成仏さすために、その男の名前を書いて『甘露の法雨』を読んでこうこうしなさい」と思わず、そう言って指導したら、その教えられた通りにやったら、それ切り夫婦仲がよくなってしまったと云うような実例もありますが、そう云う適当な指導が、フッと思い浮ぶのは、自分が自分の頭に自分の力で思い浮べたようでありますけれども、実はそうじゃないのであってその講師に配属されている高級霊が指導して、一寸、常識では思いつかないような、そう云う巧みな指導を与える事になるのであります。
そう云う訳で、この人類光明化運動というものは、実は宇宙の創造神の御心を受けた高級霊界に於ける一大救済運動であって、その霊界に於ける救済運動の写しが地上に顕れて居るのであります。だから、この人類光明化運動に現実に参加している「肉体の人間」と云うものは、それぞれその指導霊に導かれて、人々を救済するのでありますから、色々と奇蹟的なことがあらわれるのであります。
<つづく>
775
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:33:57 ID:84pogn5s
<つづき 9>
昨年三月、宇治修練道場に於て体験談をされた京都の人は、道場の浴場へ行くと体中皮膚病で腐っている醜しい人が、その皮膚病のきたない身体を風呂の中でゴシゴシ洗っているのを見て突然怒鳴りたくなって、口をついて自分の思いもかけない言葉で、其の不心得を諭した。そして「其の皮膚病が治りたいか。治りたければ斯う斯うせよ!」と思わず言ってしまった。すると、その全身の皮膚病が数日のうちに痊(い)えてしまっていたと云うのであります。
このような事が起るのは、宇治の修練道場を守護して居る霊が、其処に適当にやって来て、その人は単にその守護霊の放送のマイクロホンの如く、スピーカーの如くなって、その人を指導したのであります。イエスの仰せられた通り「われみずからにては何事をも為し得ず、天の父われにいまして御業を為さしめ給うなり」と云うようになっているからこそ、そのような不可思議な奇蹟的治癒と云うものが現れて来たのであります。
このような機構によって現実界の人々は救われるのでありますから、或る講師や先輩の信者に救われたら、「私はあの人を媒介として救われたのである」と大いに感銘して感謝をするのはいいのですけれども、その講師や先輩が何かの心境変化で生長の家の役職を辞めたら、「私はあの人に救われたのだから、あの人が辞めたら、私が生長の家にいてはあの人に義理が立たぬから、私も生長の家をやめます」なんて云うのは、大変な心得ちがいであります。夫々の講師や先輩は神様から見れば一つのスピーカーとして働いて、そのスピーカーから出る教えによって相手の人は指導されて救われたのでありますから、救いの本尊は高級霊界にあり、その奥に創造神の大慈悲があるのであります。だからある講師とか役職の人が辞めることになったら、スピーカーの取替が行われたと云うことになるのであり、又かわりの人はおのずから次ぎにちゃんと用意されると云うことになるのであります。
例えば先般生長の家のさきの婦人部長が或る事情で退職なさいました時の如き、その退職を申出られた丁度其の翌日に、実にその翌日にです。前に長崎大学の学長をしておられた高瀬清博士とその夫人の高瀬不二子さんが私の宅へやって来られて、高瀬博士は、千葉県の或る病院と、八王子の或る病院と、もう一つ東京の或る病院と、此の三つの病院から掛け持ちで来て呉れと云うので、広島から東京に移住することになったので挨拶に来ましたと言われる。そして当分、博士の方は、千葉の病院の公宅に住むことになっていて、其処でちゃんと食事の世話もして呉れるし、日常生活の色々の世話も係りの人たちがして呉れることになっているから、夫人の方は暇だから、何か生長の家の用事があったら使って下さいとこう言われたのであります。私が「千葉から本部へお通いになるのは遠いですな」と言うと、「いや、東京の板橋に妹の家がありまして、そして何時でも出て来られるのですから、毎日でも本部へ出て来られます」と言われる。それで高瀬夫人なら、在来の御経歴から、生長の家に深い御体験のある上から、適当な方であるので、丁度今椅子が空いている本部の婦人部長に就任して頂くようお願いした訳であります。必要な役職の人員が一人辞められるとちゃんとその次ぎに後任が出来ていると云う此の事実は、この運動が、人間だけの運動ではなくして、高級霊界からの運動であって霊界の運動が地上に投影しているのであるから、霊界の影として、其処に必要な人物は登場して来ることになるのです。だから霊界に人類光明化の運動があるかぎり、スクリーンが幾ら変っても、其処には、やはりその通りの影が映って来る訳であります。
<つづく>
776
:
復興G
:2012/06/02(土) 09:34:36 ID:84pogn5s
<つづき 10>
そんな訳でありますから、或る講師や先輩を媒介として救われたら、その講師や先輩に感謝するのは無論いい事でありますけれども、その先輩その人が彼を救ったのであると考えると間違いでありまして、真実は高級霊界からの人類救済運動が地上に映って、それに指導されて救われたのであると云うことを知らなければならないのであります。
だから、「生長の家大神――総裁・副総裁――御教」と云う教えの通過する系列のうち、その総裁でも、現在の総裁たる私が死んだら生長の家も駄目になるであろうと考えるのは間違であります。私が死んでも、私は一種のパイプでありスピーカーに過ぎないから、又次ぎに私に嗣いでスピーカーとなる総裁と云うのが出来まして、その人が私と同じょうな役目につき、一層新型の素晴らしい良質のスピーカーになって、私よりも上手に教えを宣べつたえ教化の体制を整備すると云うことになるのでありますから、そのことについては心配がいらないのであります。既に清超先生が私に劣らず教化の力を発揮しておられまして、今後ついに私を凌駕するようになることは必然であります。
<第9条の解義・完>
777
:
金木犀
:2012/06/02(土) 12:22:32 ID:j28jHRaM
復興G様
『菩薩は何をなすべきか』の素晴らしい謹写有難うございます。
拝読させて頂きました。改めて、感銘を深くしました。
信徒として、人類光明化運動指針は何度も繰り返して読んで心得るべきですね。
778
:
金木犀
:2012/06/02(土) 12:24:24 ID:j28jHRaM
『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より(5)
三十日の法語 “十三千大千世微塵数(じゅうさんぜんだいせんせみじんじゅ)”の意味するもの
「十三千大千世微塵数」と、わたしは数(すう)と普通に訓(よ)む字を“じゅ”と読みましたが、仏教では数という字を「じゅ」と読む慣例になっているからであります。
それは念珠のことを「じゅず」と言う時にも、数(じゅ)と珠(じゅ)と書いて「じゅず」と読みます。
大千というのは千を二乗した数です。つまり千に千をかけた数です。千を三乗した(千を三べんかけ合した)数であるという説もありますが、ともかく“大千”というのは千の二乗又は三乗の数です。そしてその数を十三千倍したのが十三千大千でありまして、その次に“世”とありますのは“世界”の事で、これは“蓮華蔵世界”の如く、中心に須弥山のある太陽系統みたいなものを、一“世界”と当時のインドの人は考えたのです。一つの太陽系統が一世界、その太陽系統を千の二乗した数を十三千倍した実に多数の太陽系世界を微塵にすりつぶして歯磨き粉のような微粒子にして、その歯磨き粉の微粒子の数一個を一つの言葉であるとして数えただけの文字又は用語が、竜宮に秘められてあった。『華厳経』の“上本”に書いてあったと言うんですから、『華厳経』のコトバの数は無限の数なんですね。
何しろ太陽系統一つを、すりつぶして歯磨き粉みたいな微粉末にしただけでもその微粉末の数は大変なもんだけれども、十三千大千という多数の世界をすりつぶして、微粉末にした、その粉末のひとつひとつが竜宮界に秘められている華厳経に書かれている文字の数であるなんていうことになると、もうこれは数えようがないということになるわけなんです。
このことは何を意味するかというと、華厳経というのは、そんな紙や竹篇に書いた経文ではない、“海の底”即ち「創造の本源世界(うみのそこにあるせかい)」にある所のあらゆる真理のコトバそのものが華厳経である。この“あらゆる”真理のコトバという意味が、この無限数の文字で綴られた経典が華厳経であるんだと、いうようにこの神話は解釈できるわけであります。
さてお釈迦さんは、この驚くべき真理のコトバを、華厳経に於いてそのものズバリとお説きになったのですが、先刻(さっき)言いましたように、お釈迦さんが亡くなって四百年か八百年経って龍樹菩薩という霊的天才が現れて、神通力によって「創造の本源世界(うみのそこ)」なる竜宮に渡って『華厳経』を読破し、その簡略本を地球上へ持ち上がって来た。それが、今地球に伝わっているところの『華厳経』であると、こういうことになっているんです。
三十一日の法語 華厳経の描いた大宇宙の霊的構造
その『華厳経』はどういうことが書いてあるかというと、この大宇宙の霊的構造が書いてある。すなわち、宇宙の中心座にベローシャナ仏、毘盧遮那如来、盧舎那仏、大日如来、天照大御神、その具体的、人格的、顕現として天皇が中心にまします、こういう霊的構造の世界がこの宇宙であり、この霊的構造は毘盧遮那如来が「正法を演説し給うた」そのコトバの展開として出現した世界であるから、「金剛の厚地にして永遠に破壊(はえ)されない実相」である。それは、“常”の世界であって、無常の世界ではない。それはイエス・キリストが「主の祈り」に於いて「神意(みこころ)の天に成れる世界」と説いた世界であり、従って“苦”の世界でなくて天国的“楽”の世界であり、それは“神意(みこころ)”という“大我”が中心にまします“浄”の世界である。すなわち“常楽我浄”の金波羅華の実相世界を釈尊は成道の最初の説法に於いてお説きになったが、その真理は時期尚早として秘められていたのでありますが、今や時節到来、この荘厳なる宇宙構造が開示されんとしつつあるのであります。
【この法語は9月号に続くことになっていますが、9月号を所持していないためここで終わらせて頂きます。】
779
:
SAKURA
:2012/06/02(土) 12:59:14 ID:pTRr5CN6
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
ロ−マ字の【SAKURA】です。
此処しばらくかなりの睡眠不足です。若い時は何ともないぐらい〜〜〜
回復力が〜〜〜昨日は特に!きつかったのですが〜〜「雅春先生の言葉」は神なりと、
思うぐらい自然に、体力回復してきました〜〜〜が!
さて!「今日の言葉」は???ぺ〜〜ジを開きます。
■【幸福を招く365章】
――――真理は実践しなければならぬ―――――
「人間本来完全」の真理を教えられて知ったならば、如何なる問題でも起こって
来たときに、その問題が、自分の問題であろうと、家族の問題であろうと、
友人の問題であろうと、どんな小さな問題であろうと、大きな問題であろうと、
「あの人は完全だ、善い人だ、不親切な人ではない」と云う風に、相手の心の
うちで拝んで、その実相の完全さを常に念ずるようにすることです。
そうすると念じた通りにその完全さがあらわれて来るのです。先ず小さな問題から
始めることです。そしてその効果を体験することによって、自信を増し、更に段々
ほかの大きな問題を念ずるようにするのも好い方法である。併し、最初から
「世界平和」を念ずるようにすることは、結果はすぐあらわれないでも自己の魂の
向上にだけでなく健康増進のためにも大いに役にたつのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私も、現在「大きな問題」を抱えています…。「祈る!」時は、やはり【実相礼拝】
「大きな問題」がありますから、そこから順次かたずけて行くより〜〜><
出来る事から〜始めましょう〜〜〜!そうした方がいいです〜〜〜ョネ!
今回!あちらの集団の方々?には、ほとほと〜〜><あきれるばかりなのですが…?
今回「葉書問題…」が、発生!!!【緊急事態!!】
実は私の“住所”を勝手に使用して、“第一教区の練成とか?”…><
いろんな“行事”に“参加”していたのでしょうか??
今回!教区からの“案内はがき”の名前が……
私の姓ではなく?別の人の姓?です…。何度も〜何度も〜舞い込んで来ていまして、
その度に、TELしていましたが…
今回!変!と思うようになり、これが【外部の動き?】でしょうか…
今回!或る突っ込みで分かり、これは“ダイレクト葉書”をかなり悪用している事が、
分かりました…。更に?ある時は、名前の方を使い…
今回幾ら【正義…】と言っても、これは行きすぎではな〜〜い?と思います。
■…でしょうか??
更に!【真理…】は、いつも一方通行で“セット期間が、ゼロに近い…ブル−カラ−”
教区の友人は、今の総裁先生で“十分”と言っていますし、
“心”がフラ〜フラ〜何処に行っても「向こうの方々」は、同じ繰り返しで〜ショ!
先ずは「良い種」を…
今回は「現総裁先生…」勇気を持っての“行動”…その様に思います。
信者は、“ブログ”etc拝読しながら、総裁先生の人格を 認め出しておりますし、
「種を蒔く」これからの「芽が発芽」致しますまでは、気〜〜長に行こうと思います。
■【心の法則】ですから、心が念じた通りになるのが、今の「現象世界」なのです。
更に!今「芽…」が現実として現れなくとも、何か別の形で出ているのでは?と
思います。
今回!此処至り【真理の勉強】が、前以上に“進歩”しています。
今の私には、とるにたらない“エッセンス”と、言える位…
【真理=>心の中はクリスタル?】なのです…。
とても“自由自在”なのでしょうか……?今のままでは……?
例え!!「小さき生長の家」として「現象=現実世界」に投影されても、
そこに集まる【集団…人!・人!】で、助け合っていこうと思います…。
更に!私もTYOに,戻れば…【私の本格的活動のペ―ジ】の始まりでもありますネ!
再合掌
トキ様 へ
【真理…】本当に“行”じなければ、「から念仏」と同じ事ですョ〜〜ネ!
昨日は“小さき愛行”を、させて頂きました…。「ノ―ミ−ト運動」実践!
少しは理解して頂いたものと思いますが…!これも【環境問題…】に入りますモノ!
本日の言葉…【真理=実践】どのように受け止められていらっしゃいますでしょうか?
780
:
SAKURA
:2012/06/02(土) 22:24:43 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です…。
毎日“パソコン”を打ち込んでいますと、やはり良いです〜〜ネ!
“スル―”して流すより、私の考えの根本は“ず〜〜〜と価値”もあり、
更にKEY ボ−ドを打つことで【真理】が身につきますので…
【SAKURA】は、がんばって“パソコン…”と“にらめっこ”です?
今から…“祈り”ま〜〜す。…“スタ―ト”
■【幸福を招く365章】
―――――人から誤解された場合――――――(谷口雅春著)
他人から誤解されたからと云って失望してはならない。自分も多くの人々の美点
の総てを見ることに失敗し、時々誤解によって人々を悪しざまに思ったことが
あるからである。肉体の人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うこと
を知って、誤解した人を宥さねばならない。又どんなに偉い人でも、釈迦でも、
キリストでも、親鸞でも、日蓮でも、誤解されてその時代に容れられなかった時が
あるのだと云うことを知って、自分が受けた批難くらいは何でもないことだ、
と心から捨ててしまうことが必要である。そして「すべての人は神の子であるから、
互いに愛し合い理解し合っていて誤解し合っている人は一人もない」と
実相調和の有様を心に描くことがひつようである。
■今日は“各提示版”でも、いろんな事?が、発生しています〰〜ョネ!
不思議なのです〜〜ョネ!本当に…“本…”を開きますと?
神様の“メッセ−ジ”が、私の「心の修行」でしょうか…?
『ピッタリ〜〜”心“にフィット!』です〜〜〜ネ!
他人はそれぞれ“捉え方”が違いまし、“能力・知識・思想・理念…etc”も〜〜><
違いますでしょ〜〜!若い時は、人は誰も同じ様な気持ちに、必ず!
なれると信じていました…。
■これが若さの“甘さ”でしたのでしょうか?過去最大の“失敗”!!!!!
私の「聴覚喪失」も失なったわけです〜〜〜ョネ!
此の様に「誤解」は、いつもつきもの?なのですが…?
「今日の雅春先生の言葉」から、相手を悪く見る“好悪観”が【100%の場合】は、
人間は“念の波動”があります。ですから…いやな観念が相手に【伝染】します。
良い意味でならば、いいのでしょうが…><悪い“念の波動”は、早いのです〜〜ョネ!
なので「祈り」に、私の波動を調整して、前に行ってる処なのですが…?
今回は“楽しんでいました〜♫”から〜〜〜“いやみな文章”でも…
相手の“レベル…”を見ながらでしたが…
更に!貴方に云ってます〜〜ョと、深切に教えてくれる人も…いらっしゃいまして
複雑な気分でした。世の中不思議〜まか不思議〜〜☆異国のひびきにて不思議〜〜☆
色々な「考え・捉え方」を、改めて勉強させて頂きました…。
■……此処で“ブレイク”しますが…?
【赦す…】を、「雅春先生」は…【宥す事…】此の“漢字”を使われています…。
【宥…の意味】は????果たしてどの様な“感情・感覚”なのでしょうか?
■なだめる===>軽く受け流すこと!中国の方が“まぁ〜〜まぁ〜〜”と、
云いますでしょ・・・!つまり!
脳に入れ込まない==>潜在意識に受け入れない……此の様に考えますと…
【人間性=信仰=祈り(イメ−ジ・トレ−ニング)実相調和の世界観】です〜〜ネ!
今!今!私も〜〜〜“心をオ−プン”に!モット〜モット〜広げて行きます…?
私も“モット〜〜かる〜〜い感覚”で理解出来るようにと、思っていますが…?
今日の先生の“言葉”より更に!【心でつくる世界…総てをつくる】のですネ!
■「われは好悪を捨て 私心を去り 我の判断を捨て 心を空しくして
神の叡智に一体ならんことを期す 神の叡智我に流れ入り給いて
御心の如く導き給うのである」 今日も“祈り”に徹します。
再合掌
PS:トキ様へ…【前回・今回の“雅春先生の言葉“】先生の“漢字・カナ遣い”
つまり!日本語の素晴らしさ!思います。反面「英訳」の難しさ?…><
此の点は、如何お考えでしょうか???
781
:
金木犀
:2012/06/03(日) 00:57:22 ID:j28jHRaM
『生長の家』誌昭和52年8月号より
実相研鑽会「生命の進軍」から
諸田浩幸講師(武蔵野市・地方講師)の体験談
有難うございます。私は東京第二教区、武蔵野市吉祥寺の駅前で診療所を開設いたしておりますが、今日私がこの座に立たして頂けるのも、生長の家あればこそでございます。この御教え無かりせば、私の今日は無いのです。
と申しますのは、私は肺癌という業病にとりつかれ、もう十年以上も昔のことになりますが、尊敬する医学の恩師沖中博士から、「君はもうあと一ヶ月保たないねえ」と宣告されたのでした。そう言われた時には、正直申しまして、目の前が真暗になる思いがしました。生長の家の真理を説かして頂いている立場でありながら、何とみじめなことであろうと、本当にそう思いました。
けれども皆さん、信仰は有難いものでございまして、沖中先生からそう言われたけれども、一瞬目の前が暗くはなりましたが、“ああ、天下の大家と言われる先生から、これほどハッキリ太鼓判をおされて、本当に有難うございます。これ以上何も申すことはございません”と思わず合掌させてもらいました。
吾にまだ使命あるなら
さあ、そうなると、あと三十日、私もまだまだやり残したこと、お約束させてもらっておることなど、山ほどございます。
「先生、今日はこのまま入院治療させて頂くわけにはいかないのですが、まことに申し訳ありませんがこのまま帰していただけますでしょうか」
と、御無理をお願いして帰らせてもらいました。そして車にとび乗り、約束の時間に間に合うべく急いで講演会場に駆けつけました。当時、医学講演会、そして生長の家の地方講師としての活動も熱心にやっておりましたので会場に駆けつけさせて頂き、三時間、四時間という長講の講演を致しまして、しかし皆さん、これが心の法則ですが、そういう長い講演を済ませて帰る途中で車の中で、大量の喀血を致したのでございます。“神よ吾にまだ使命あるならば、御心の如くならしめ給え、私の全てはあなたに捧げます。お托(まか)せ致します”と言って、それは命がけで祈りました。本当に真剣に祈らせてもらいました。
その後も各所からの講演の要請があり色々なところへ出向かせて頂き、その途次、高崎市の観音山の白衣観音のあの胴体の中を登り、頭部のところに座しまして、神想観を行じました。真剣に行じておりますと、“お前は肉体ではないのだ!!”現象は無いのだ!!実相そ’の’も’の’がお前ではないのか!!と、内なる神の声の激励を受けたのです。そしてその真理が深く自覚できたのでした。見るものきくものすべてが御光であり、神の祝福であり、唯々、触れるもの感ずるものが皆有難く、感謝感謝の気持がむくむくと起こって参りました。
すると、過去におきまして、事業を経営しておりました時に、二十一億数千万円という大損害を与えられた、部下であるところの私の会社の重役が浮かんで来ました。二十一億数千万円という、大きなどえらい穴をあけられて、そのために私は家屋敷まで売り払い、すべての損害の穴うめをしたのでしたが、そんなものも現象であり、実相(ほんとう)の姿ではなかったのだということを悟らして頂いたのです。今まで恨み、怒り、不愉快な思いをしていたその気持ちが、いっぺんに晴れやかな爽やかな素晴らしい気持ちにならせて頂いたのでございます。これ即ちみんな神の御教えのお陰でございまして、本当にこの気持にならせて頂いたお陰をもって、病気は一昼にして忽然と吹き飛んでしまいました。(拍手)
(つづく)
782
:
金木犀
:2012/06/03(日) 00:58:15 ID:j28jHRaM
(つづき)
『光』一元の世界観
さて、本日頂いておりますお題は、“いのちの進軍”でございます。『生命の實相』第十一巻の八頁から九頁にわたって、こうお示し頂いております。
『神が天地を造り給うには材料にも手段にも別に物質というものをお使いにはならなかったのであって、霊を実質とし、また霊を創造(つく)る力とせられたのであります。物質というものは本来定形(かたち)のないものであります。それは本来空(むな)しきものである。空である。それは積極的な存在ではない。それは光を非在にした状態である。光が無゜い゜ということの別名が暗゜黒゜であるということであって、暗黒(やみ)そのものには積極的に実在を主張する力はないのであります。それはただ受身的に消極的に存在するのであります。此処にはその消極的原理を「淵(わだ)」とか「水」とかの言葉で言いあらわしてあります。霊感によりますと、人生とは暗゜の中を厳(おごそ)かに進軍して行く光であるとも、「死」の中を進軍して行く「生命」であるとも教えられております。「神の霊、水の面を覆う」というのは、「水」を以て表した「消極的存在」即ち「無」「仮相」「暗」「死」「無明(まよい)」の中を「積極(プラス)的存在」たる「神の霊」即ち「有」「実在」「光」「生命」「智慧」が、厳かに圧倒的勢いをもって進軍して行くことを言ったのであります。ここに是非とも注意しなければならないのは「無」と「有」との対立、「仮相」と「実相」との対立、「暗」と「光」との対立、「死」と「生命」との対立、「無明」と「智慧」との対立は本当の対立ではなく、これを対立と考えるのは人間の「思考の形式」の誤りであるということであります。「無」と「有」と対立すると言いましても、一方は無゜い゜のでありますから、対立のしようがない訳で、本当は「有゜」の独在――「有゜」の絶対的存在――であります。それと同じように「暗黒(やみ)」も「死」も「無明」も、光が無゜い゜、生命が無゜い゜、自覚(さとり)が無゜い゜というふうに“nothingness”の別名にすぎないのでありますから、この世にありとしあらゆるものは、すべて「光明」であり「生命」であり、「智慧」であるのであって、その反対のものは、どんなにあるように見えても本当は”nothingness”(絶無)なのであります。だから「無゜」の゜中゜に゜「有゜」を゜肯゜定゜す゜る゜の゜は゜な゜ん゜で゜も゜な゜い゜。それは「一人角力(ずもう)」をすれば必ず勝つというのと同じで、神が、ただ、「光あれ」と言い給うだけで、「光」は既に「暗」を征服したのであります。』
かくの如く、尊師谷口雅春先生はお説き下さっているわけでございます。
この真理の実証は、私自身、あと一ヶ月保たないと宣告された肺癌が、忽然と消え去った体験でも明らかなわけですが、もう一つ、あるレプラ(癩病)患者についての体験をお話させて頂きたいと思います。(つづく)
783
:
金木犀
:2012/06/03(日) 01:00:16 ID:j28jHRaM
(つづき)
鍵のかかった部屋で
私はある収容所に参りました。この患者さんは、レプラ患者の中でも特に重症で、特別隔離室に鍵をかけて収容されております。その部屋に、鍵をあけて頂いて入らせて頂きました。八年の長い間この患者さんは、親兄弟、親戚すべての人の訪問なく、手紙一通さえ来ることなく、あらゆるものを呪い、恨み、“自分が好きでこんな病気になったのではない。この世の中に神も仏もあるのか”といった暗い悲しい気持ちで暮らしていました。当時、米軍から支給された野戦用の鉄のベッドの上に粗末な毛布をただ一枚敷いただけで、その上に横たわり、本当に、全身の関節という関節は皆曲がり歪んで皮膚は破れて、膿み爛れて、まったくこれ悲惨な状態でございました。
さすがの私も、この姿を見まして、“ああ、地獄というものがあるならばこれが本当の地獄ではないのか”と思いました。私は、その人の名前を呼びまして「○○さん、今日は。今日私がここにお伺いしましたのは、あなたと仲良くしてお話合いがしたいので来たのです」そう言いまして、思わずベッドのそばに近より両手をとりますと、本人はビックリ致しまして、「何をするんだ!!出ていってくれ!!」と怒鳴られました。それも無理からぬことです。八年もの長い間、誰一人として訪なう人のないこの部屋に、突然入って行ったのですから。
「俺は、親も兄弟も、誰一人として来てくれない、手紙一通もくれないのにその俺に、見たことも会ったこともないあんたのような人が、何のために来たのか!!」
そう言って、形相も凄く私の顔を睨みつけておりました。
「○○さん、あなたは八年という長い間どなたが会いに来なくとも、今、あなたの目の前に私が会いに来ておるではありませんか」
と申しますと、じっと私の顔を見つめていらっしゃいました。私は、また、しばらくしてから静かに両手をとって、体を引き寄せ肩を抱いて、耳もとで、
「○○さん、あんたと私とは今日只今から兄弟ですよ。私の方が年上のようだから兄貴、あんたは弟。今から仲の良い兄弟ですよ。兄貴の言うことだから、弟はきいてくれるね……」と、静かに言いました。そして、この素晴らしい生長の家の真理を懇懇と話させて頂きました。聴いているうちにその人は身を震わせておりましたが、たまりかねて、声を出して泣き出してしまわれました。「先生、有難う、有難う」と言って、私にしがみついて来られました。「ああ、よかったね。有難うを言うのは私の方だよ」と、私もともに涙にくれました。
「ああ、よかった。よかった。これでよかったね」
と言って、その日は『甘露の法雨』を一冊置きまして、「そのうちに又来るからね」と言って帰らせてもらいました。(つづく)
784
:
金木犀
:2012/06/03(日) 01:01:36 ID:j28jHRaM
(つづき)
素晴らしい聖使命菩薩に
そして三日後の朝、私は癩療養所から連絡を受けました。この御本人が、その朝突然に立ち上がられたという御連絡でございました。(拍手)まったく、八年間も、動くことも、立つこと坐ることさえも出来なかったこの重症患者が、三日目の朝に、皆さん、立ったのです。
これは、医者の業では出来るものではないのです。神あればこそのことでございました。生長の家のこの素晴らしい御教えあればこそ、谷口先生居られればこそでございます。(拍手)まことに有難いことでございます。
この本人が、一ヶ月足らずのうちに療養所内の専門医の診断を受け、無事に、有難くも、全快全治の認定を受けまして、外出証を発行して頂き、八十キロあまりもある私の自宅まで、わざわざ、不自由な身体を運ばれて面会に来てくれました。(拍手)
本当に素晴らしいことだと思うのでございます。
その後一ヶ月足らずのうちに、この人、本当に全快して、今日なお所内に踏みとどまりまして、療養所内の患者の指導に当っておられます。生長の家の幹部として、聖使命菩薩の行を、今日もなおひたすらに励んでおられるのでございます。
皆さん、かくも素晴らしい聖使命菩薩がおられるのです。本当に有難く、頭の下がる思いが致します。
有難うございます。
私たちは、これほどまでの生命の尊さを知るとき、この生命の素晴らしさをお説き下さる御教えを、一人でも多くの人にお伝えしなければと思います。神誌拡大の弾丸を雨ふらし、進軍ラッパも勇ましく、堂々の“いのちの進軍”を続けて行こうではありませんか。
有難うございます。 (拍手)
(終わり)
785
:
真に生長を導く者
:2012/06/03(日) 03:24:16 ID:KdhUxVl.
なんか㊦↓の
>>28
に犯行予告している奴がいるぞ
【裁判】 「興奮とストレスで歯止めが利かなかった」 強制わいせつ致傷公判で元京都府警巡査(28)、起訴内容認め結審…大津地裁
ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1338533270/l50
786
:
a hope
:2012/06/03(日) 08:21:46 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
困難な仕事ほど面白い
人生の経験はちょうどオリンピック大会のようなものでありまして、
いろいろの障害物や困難があるのでおもしろいのであります。
水の中を泳いでみたり、高跳をしたり、何かそこに唯の平地を歩く以上の障害物があるで
力を入れて熱心にやるだけの値打ちがあるのであります。
だから皆さんは難しい仕事や、難しい勉強や、困難な境遇に置かれる毎(ごと)に常に
オリンピック大会に出ている選手みたいな必算(つもり)で、
その時間、その境遇にできるだけ全ての経験をえさせていただきましょう、
と喜んでその境遇、仕事、学科、時間を生きてゆきますと、
どんな時でも喜ばれる、事柄が難しければ難しいほど喜ばれるはずであります。
事柄が難しいほど私達はそれに対して真剣になります。
又それから得られる教訓も、経験も多いという事になります。
困難な事柄がどんなに起こってきましても、それが皆拝めるようになりましたら、
そこから不平というものが一切なくなる、
総(あら)ゆる難しい境遇は、私達の心を富(と)まし、
私達の心に栄養を与える良い機会だ、ああありがたいという事になるのであります。
(つづく)
787
:
SAKURA
:2012/06/03(日) 12:47:01 ID:N28agCuQ
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは・・・ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。
“天使の声”が、鳴り響いています〜〜♫〜〜
昨日から“キン〜〜コン〜〜カン〜〜♫”と“教会の鐘”が〜〜〜
まるで「生長の家の扉…」??そうなのです!!
私たちの「聖典板」此処に集まれる“言葉”すべて【天使の狂想曲…】を、
鳴り響きませましょう〜〜〜♫〜
さて!今日の言葉〜〜〜〜♫〜〜〜“導き下さいませ〜〜☆”
■【幸福を招く365章】
――――真理は実践しなければならぬ―――――
「人間本来完全」の真理を教えられて知ったならば、如何なる問題でも起こって
来たときに、その問題が、自分の問題であろうと、家族の問題であろうと、
友人の問題であろうと、どんな小さな問題であろうと、大きな問題であろうと、
「あの人は完全だ、善い人だ、不親切な人ではない」と云う風に、相手の心の
うちで拝んで、その実相の完全さを常に念ずるようにすることです。
そうすると念じた通りにその完全さがあらわれて来るのです。先ず小さな問題から
始めることです。そしてその効果を体験することによって、自信を増し、更に段々
ほかの大きな問題を念ずるようにするのも好い方法である。併し、最初から
「世界平和」を念ずるようにすることは、結果はすぐあらわれないでも自己の魂の
向上にだけでなく健康増進のためにも大いに役にたつのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私も、現在「大きな問題」を抱えています…。「祈る!」時は、やはり【実相礼拝】
「大きな問題」がありますから、そこから順次かたずけて行くより〜〜><
出来る事から〜始めましょう〜〜〜!そうした方がいいです〜〜〜ョネ!
今回!あちらの集団の方々?には、ほとほと〜〜><あきれるばかりなのですが…?
今回「葉書問題…」が、発生!!!【緊急事態!!】
実は私の“住所”を勝手に使用して、“第一教区の練成とか?”…><
いろんな“行事”に“参加”していたのでしょうか??
今回!教区からの“案内はがき”の名前が……
私の姓ではなく?別の人の姓?です…。何度も〜何度も〜舞い込んで来ていまして、
その度に、TELしていましたが…
今回!変!と思うようになり、これが【外部の動き?】でしょうか…
今回!或る突っ込みで分かり、これは“ダイレクト葉書”をかなり悪用している事が、
分かりました…。更に?ある時は、名前の方を使い…
今回幾ら【正義…】と言っても、これは行きすぎではな〜〜い?と思います。
■…でしょうか??
更に!【真理…】は、いつも一方通行で“セット期間が、ゼロに近い…ブル−カラ−”
教区の友人は、今の総裁先生で“十分”と言っていますし、
“心”がフラ〜フラ〜何処に行っても「向こうの方々」は、同じ繰り返しで〜ショ!
先ずは「良い種」を…
今回は「現総裁先生…」勇気を持っての“行動”…その様に思います。
信者は、“ブログ”etc拝読しながら、総裁先生の人格を 認め出しておりますし、
「種を蒔く」これからの「芽が発芽」致しますまでは、気〜〜長に行こうと思います。
■【心の法則】ですから、心が念じた通りになるのが、今の「現象世界」なのです。
更に!今「芽…」が現実として現れなくとも、何か別の形で出ているのでは?と
思います。今回!此処至り【真理の勉強】が、前以上に“進歩”しています。
今の私には、とるにたらない“エッセンス”と、言える位…
【真理=>心の中はクリスタル?】なのです…。
とても“自由自在”なのでしょうか……?今のままでは……?
例え!!「小さき生長の家」として「現象=現実世界」に投影されても、
そこに集まる【集団…人!・人!】で、助け合っていこうと思います…。
更に!私もTYOに,戻れば…【私の本格的活動のペ―ジ】の始まりでもありますネ!
再合掌
トキ様 へ
【真理…】本当に“行”じなければ、「から念仏」と同じ事ですョ〜〜ネ!
昨日は“小さき愛行”を、させて頂きました…。「ノ―ミ−ト運動」実践!
少しは理解して頂いたものと思いますが…!これも【環境問題…】に入りますモノ!
本日の言葉…【真理=実践】どのように受け止められていらっしゃいますでしょうか?
788
:
SAKURA
:2012/06/03(日) 13:04:13 ID:N28agCuQ
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。
どうしたら?・・・「真理の道」に・・・「大道部門のロ−ド」・・・?と
皆様も、そう思っていられるのではないのでしょうか!!!
答えは“簡単”なのです〜〜〜ョ〜〜〜
毎日「聖典を読む!」理解できなければ?何度も読むこれだけでしょうか???
しいて言えば・・・毎日のごはん作りをちゃんとしますでしょ〜
日々読む・理解しようとする心…此処からが出発点なのですモノ〜〜♫〜〜
■【幸福を招く365章】
―――――人から誤解された場合――――――(谷口雅春著)
他人から誤解されたからと云って失望してはならない。自分も多くの人々の美点
の総てを見ることに失敗し、時々誤解によって人々を悪しざまに思ったことが
あるからである。肉体の人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うこと
を知って、誤解した人を宥さねばならない。又どんなに偉い人でも、釈迦でも、
キリストでも、親鸞でも、日蓮でも、誤解されてその時代に容れられなかった時が
あるのだと云うことを知って、自分が受けた批難くらいは何でもないことだ、
と心から捨ててしまうことが必要である。そして「すべての人は神の子であるから、
互いに愛し合い理解し合っていて誤解し合っている人は一人もない」と
実相調和の有様を心に描くことがひつようである。
■今日は“各提示版”でも、いろんな事?が、発生しています〰〜ョネ!
不思議なのです〜〜ョネ!本当に…“本…”を開きますと?
神様の“メッセ−ジ”が、私の「心の修行」でしょうか…?
『ピッタリ〜〜”心“にフィット!』です〜〜〜ネ!
他人はそれぞれ“捉え方”が違いまし、“能力・知識・思想・理念…etc”も〜〜><
違いますでしょ〜〜!若い時は、人は誰も同じ様な気持ちに、必ず!
なれると信じていました…。
■これが若さの“甘さ”でしたのでしょうか?過去最大の“失敗”!!!!!
私の「聴覚喪失」も失なったわけです〜〜〜ョネ!
此の様に「誤解」は、いつもつきもの?なのですが…?
「今日の雅春先生の言葉」から、相手を悪く見る“好悪観”が【100%の場合】は、
人間は“念の波動”があります。ですから…いやな観念が相手に【伝染】します。
良い意味でならば、いいのでしょうが…><悪い“念の波動”は、早いのです〜〜ョネ!
なので「祈り」に、私の波動を調整して、前に行ってる処なのですが…?
今回は“楽しんでいました〜♫”から〜〜〜“いやみな文章”でも…
相手の“レベル…”を見ながらでしたが…
更に!貴方に云ってます〜〜ョと、深切に教えてくれる人も…いらっしゃいまして
複雑な気分でした。世の中不思議〜まか不思議〜〜☆異国のひびきにて不思議〜〜☆
色々な「考え・捉え方」を、改めて勉強させて頂きました…。
■……此処で“ブレイク”しますが…?
【赦す…】を、「雅春先生」は…【宥す事…】此の“漢字”を使われています…。
【宥…の意味】は????果たしてどの様な“感情・感覚”なのでしょうか?
■なだめる===>軽く受け流すこと!中国の方が“まぁ〜〜まぁ〜〜”と、
云いますでしょ・・・!つまり!
脳に入れ込まない==>潜在意識に受け入れない……此の様に考えますと…
【人間性=信仰=祈り(イメ−ジ・トレ−ニング)実相調和の世界観】です〜〜ネ!
今!今!私も〜〜〜“心をオ−プン”に!モット〜モット〜広げて行きます…?
私も“モット〜〜かる〜〜い感覚”で理解出来るようにと、思っていますが…?
今日の先生の“言葉”より更に!【心でつくる世界…総てをつくる】のですネ!
■「われは好悪を捨て 私心を去り 我の判断を捨て 心を空しくして
神の叡智に一体ならんことを期す 神の叡智我に流れ入り給いて
御心の如く導き給うのである」 今日も“祈り”に徹します。
再合掌
PS:トキ様へ…【前回・今回の“雅春先生の言葉“】先生の“漢字・カナ遣い”
つまり!日本語の素晴らしさ!思います。反面「英訳」の難しさ?…><
此の点は、如何お考えでしょうか???
789
:
ハマナス
:2012/06/03(日) 19:20:23 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
人間は進歩と向上あるのみ (『新版 生活の智慧365章』P.170)
変化を悦びと見ないで、過去の栄えと今の衰退とを比較して歎く者は憐れなるかな。
また過去にありし労苦を反芻(はんすう)して、持越し苦労を続ける者も愚かなるかな。
植物に春夏秋冬の変化があるが如く、人生にも春夏秋冬があるのである。冬が来て外に
目立って伸びない時に植物は年齢の間隔をせばめて堅緻な材質をつくるが如く、人間も
艱難で鍛えられて堅実なる人格と不撓(ふとう)の意志とが養成せられるのである。
未来の変化を想像して取越苦労をする者は、神の此の世を“変化の芸術”とした摂理と
慈悲とを知らないものである。未来は悉く現在よりも、内容的に豊かにして責める者と
なることは間違いないのである。
年老いれば、外から見れば、形容枯槁し、その姿に老醜をあらわすと雖(いえど)も、
それは蚕が脱皮するに先立ちて、その皮膚の色変化し醜くなるのと同じことであって、
も早役に立たぬ外皮を脱ぐ準備をしつつあるに過ぎない。吾れら更に脱皮して霊界に
天翔けらん。人間の生命には、ただ進歩あるのみ、向上あるのみである。
感謝合掌
790
:
a hope
:2012/06/04(月) 07:46:01 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
なぜ人間は仕事を嫌うか
人間は妙な習慣がありませして、どういうものか仕事をする事を嫌う人が多いのであります。
仕事をしたら損だという間違った観念がどうして起こったかは知りませんが、
恐らく仕事というものは強制させる事から、その反動的に起こってきたものであろうと思います。
仕事が嫌になるのは、人から強制されたと思うからで、
人間の生命というものは自由というものを求めておりますから、
自由に反して、これからお前は金で雇ってあるから働けというように縛られた気持ちになると、
どうも仕事をするのが面白くなくなるのであります。
しかし、働いてお金を貰うからとて、お金に縛られて強制せれるのだなどとは考えないで、
ただ仕事そのものを考えて、それを熱心にやる、あるいはこれは自分が神様から授かった尊い仕事である、
これで自分の生命(いのち)を伸ばしていただくありがたい勉強であると考えれば、
どんな仕事も、縛られたというような不快な感じなしに喜んでやれるようになるのであります。
勉強という言葉は、「努め強(し)いる」と書いてありますから、
勉強というだけでも嫌いな人がありますが、それを勉強だと考えずに、
自分の生命の伸びる唯一の機会であると喜ぶようにすることが肝腎であります。
「神は今に至るも働き給う」と聖書に書いてありますが、
私達は神の子ですから働きが神の子の使命であり、
働きが神の子の本然(もくぜん)であります。
働かなければ神の子の生命は伸びないと分かったら、
自分の生きる道は働くしかないという事になるわけであります。
言い換えると、仕事をする事その事が自分を伸ばす仕事であって楽しいと思うようにならなければ、
人間は本当に発達するものではないのであります。
(つづく)
791
:
SAKURA
:2012/06/04(月) 21:23:53 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。
昨日は“オフ・タイム”でした…。久しぶりに“公園周辺”を〜♫〜“ペット”と?
更に「現総裁雅宣先生の観自在菩薩」のシリ−ズ第4回まですが…><
第3回まで拝読させて頂きまして…
■何と!!!【法則・法則…?此の言葉“心”に残り…やはり!
ゆっくり読み直しますと、その中には「雅春先生の真理」が〜〜
受け継いでいます〜〜〜ョネ〜〜〜!では今日も【SAKURA流】 でゴ−!!
■【幸福を招く365章】
======心の窓を閉じて自分を護ること======
外に寒い風が吹きすさんだり、あまり外に埃が立つときに諸君は窓をしめて、
その風が吹きこまないようにするであろう。それならば、誰かが貴方の心の中に
激情の嵐を吹き込ませたり、怒り憎しみや悪口雑言の埃を吹き込ませたりするときに
何故あなたは自分の心の窓をひらいていて、その嵐で自分の心の中をさわがせたり、
吹込んで来る怒りや憎しみの埃だらけの心にしてしまうのであろうか。
人が誰かの悪口を云うときには自分の心の窓を閉じよ。人が汝を悪しざまに
云うときには自分の心の窓を閉じよ。人が病気の話をするときには
自分の心の窓を閉じよ。 (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今日の“言葉…”は本当に思います…。
「学ぶ会」・「ときみつる会」・「靖国会」…etcの皆様…
この「三者の会…の皆様」……
「現総裁雅宣先生」への“批難”・“中傷”は、すごい〜〜〜ですネ!
いつも〜〜いつも〜〜“批難”集中型です…。
しかも!【悪口・憎怨・悪念集団…】の様に見えまして、
このような時は、本当に!私でも“心の窓”を閉じる事でしょう〜〜!!
しかも「ネット世界」此の事が…【世界中に配信…】されていますとしたならば、
本来の「生長の家」の理念であります…【言葉=言霊=美点】如何なものでしょう?
■“いやな言葉”は……!!!!!
【言 わ ざ る!聞 か ざ る!・見 ざ る!】でしょうか…?
でも!「心の窓」を閉じて、冷静に物事を、見直す事も大事でしょうかしら〜〜ン?
私も、もう少しで?去年は事の成り行きの判断が、分からないままに?
冷静に判断出来ず、のせられそうにもなりましたが〜〜〜???
■【人間関係=コミュニケ−ション】の中で、必要な事です〜〜ネ!
【のせられない様に〜〜〜><】
それには【神と一体】となる事が、不可欠なる条件です〜〜ネ!
今日から、気をつけて“心の窓”を閉じて…私なりの【運動展開】を!!!
再合掌
PS:トキ様へ
今日の言葉…【自分の心の窓を閉じよ〜♫〜】この様な状況に、至られました事?
ございますでしょうか…?
今回の「お家騒動」此の事は。。。信者に取りまして当に!冷静に判断する為には、
必要な事と痛感していますが…?【心の窓を閉じよ〜〜】
あくまでも【人類!!信者!!】人々への救済…此の認識を持っての、
【裁判…地裁・高裁…】への行動でしたのでしょうか???
当初は社会事業団からの申し入れとか??お聞きしましたが??
非常に【憤り…】を感じます次第ですが…?
792
:
愛国掲示板より転載
:2012/06/04(月) 22:08:15 ID:eWw166D.
>≪衝撃ニュース≫4月に1万人近くの会員が退会した!! 投稿者:情報通V
≪衝撃ニュース≫4月:生長の家聖使命会員が、
月間1万人近くが退会した!!
生長の家・・・・・・戦後最大級の退会記録。
原因は、
「4月1日発表の大自然賛歌」に信徒「激昂!!!!」。
谷口雅春先生の「聖域」を犯した3代目に怒り爆発・・。
最大退会教区は、東京第一教区。2000人集団退会。
愛知。岡山。
神奈川。兵庫。高知。300人〜400人以上集団退会。
宮城、広島、埼玉、熊本、京都第一、宮崎、福岡、
島根、三重、札幌、他・・集団退会100人〜200人以上
たった、1か月で1万人近く退会したということです。
雅宣氏は、懲りずに
5月28日には「観世音菩薩賛歌」を発表。
今のペースでも「年間10万人退会」のペースだが、
もしかするとこれで、加速すること必至。
(最近まで国内70万信徒であったが・・)
このままでは、50万信徒が、
来年春までには10万人くらいまでに
減るのでは・・。
そうなると、広大な敷地を維持できなくなるのは必至。
ここ、2〜3年がリミットだろう。
まさかの経済破綻である。
793
:
ハマナス
:2012/06/05(火) 00:17:17 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。遅くなりました。
無限の力は肉体の内にはない (『新版 生活の智慧365章』P.171)
吾々は自分の持っていない力をあらわすことはできない、と同時に自分の持っている力でも、
それを自覚しない時にはそれを自由に使うことはできないのである。他の人の持っている金を
自分が自由に使うことができないのと同様、その力を他の人がもっているのでは自分の自由に
ならないのである。自分の“内”に“無限の力”が宿っていると自覚することができる者のみが
その力を自由に使うことが出来るのである。その自己内在の“無限の力”を自覚するには、自分
自身を単なる肉体だと思う観念(かんがえ)を打ち破らなければならないのである。
有限矮小なる一個の肉塊、かくの如きものの内に、何ぞ“無限の力”が内在する道理があろうや。
そこで肉体を単なる人間の外皮と見、人間の実相が、虚空に満つる霊体であり、神の生命につな
がる者、神と一体であるとの自覚を得なければ“無限の力”が自己の内に内在するということは
到底自覚することはできないのである。
感謝合掌
794
:
a hope
:2012/06/05(火) 07:19:37 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
仕事するほど健康になる
私は自分の事をいうのは気がひけますが、私などは朝起きると寝るまで
常に働いて休暇というものは一年中一日もないのであります。
夏休みというものもありませんけれども、仕事そのものが楽しいのですから、
仕事の中に休暇があるのです。
私達の心臓だって一日も一時間も休暇した事はない。
心臓が休暇をとったら人間は死んでしまう。
心臓が休憩してくれないからこそ、私達は夜寝ていても生きている。
心臓がいつも働く事によって私達は健康を保っているのであります。
ところが世間には、吾々が働き過ぎるから神経衰弱を起こすとか、
仕事をし過ぎるから病気を起こすとか考えている人がありまして、
往々にして深切な人々から「あんたは病気ですから、神経衰弱だから、
家にいてぶらぶらしていなさい」と言われることがありますけれども、
これは、決して本当の深切ではありません。
その証拠に老人になって、会社の仕事をやめて、隠居でもいたしますと、
直ぐ人間は老衰してくるのです。
なぜ老衰してくるのかと言いますと、それだけ働きが無くなったため、
人間の生命は働きそのものでありますから、働きそのものが無くなった時、
生命の生きる力、神の生命(いのち)がだんだん現れなくなってこの世から不要になり、
その挙句の果に本当に死んでしまう事になるのであります。
神は生命であり働きでありますから、私達は働きさえしたら生きる。
心臓にしても、細胞にしても、常に働いて、「新陳代謝」といって、
新しいものを入れ、古きものを排泄して、常に働いているからこそ生きているのであります。
ですから、私達は働かなければ却って自分自身が死につつあるという事を考えなければならないのです。
(つづく)
795
:
SAKURA
:2012/06/05(火) 23:32:36 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは… ローマ字の【SAKURA】で〜〜〜す。
毎日の日課ですが…思いもかけない“気付き”もあり〜毎日“心の掃除”でしょう?
「雅春先生の言葉」で、前に進む事が出来ますし、更に!気がつかなかった事も?
明るみに判り……毎日“心の掃除”なのです〜〜〜が?今日も「心の掃除…」を
では!!参りましょう〜〜〜“スタート!!”
■【幸福を招く365章】
――−――神想観の時の注意――−――
漠然と無意識・無想念のようなボンヤリとした想念の状態に於ては、
それは放送された精神波動に対して選波作用(どの波長を選ぶかのハタラキ)
がありませんから、浮動する出鱈目の精神波動を感受してそれによって動かされます。
それでは其の人は目的の定まらぬ気の変わり易い浮浪者になってしまいます。
従って、神想観をするときには無意識をするときには無意識、
無想念になって、何も考えなくなるのは良くありません。
必ず実相円満の完全なる世界像と人間像とを心に描いて、
それに精神を集中するようにしなければなりません。すると、
実相界の完全なる波動が自分の「人間受信機」に受信され感応されて、
そこに現実界にも幸福なる完全なる有様が現れて来るようになるのであります。
ハッキリと自分の欲する状態を心で選び取らねばなりません。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
【神想観…中】なのですが〜〜♫〜〜?
「神の無限の力〜〜〜我が中に流れいる〜〜〜♫〜〜〜」と…唱えています時、
ふと!「無意識状態」になりますと…段々!変な方向に流されて〜
これは確かに“本来の思念”が、おかしくなる時もあります…ネ!
■【無意識?無想念?…】は、本当によくありませんです〜〜ネ!!
更に!そのような状態の時は、「悪い波動」も入り込みますから……
最近は“ず〜〜〜っ”と“思念…!”して行きますと「丸い円の中に、小さな字」が…
見えるのです。そして、意識的に見ようと思いますと…読めない状態に陥りますが?
その間の“時間”はまちまちで、瞬時?消えたり?少しの間は見えたりで…
まるで何処かの「言葉…」なのでしょうか〜〜〜??
次に“風景”が見えたり……「宇治の総本山」が見えたり?色々忙しいですが…
更に見て行きますと、必ず“答”を私に下さいますモノ〜〜〜♫
“パートナー”は、何か起きますと?「要望…意識?」が生じまして…
必ず!見える様な感じなのですが???
例えば、今回の「物件…」建物の玄関が“アーチ風”で“街路樹?”が見えるとか?
そのような時は、良く“神からのメッセージ”が此の現実世界に反映・投影され、
その通りの事が現れて来ますから〜〜〜更に!私も“直観”が鋭くなります。〜♫〜
やはり【神想観…】は〜〜〜?
自分の欲することが【宇宙の法則】として“叶う”のなら、必ず【願いは叶う】のです。
■>【実相円満の完全なる世界像と人間像とを心に描いて、
それに精神を集中するようにしなければなりません。実相界の完全なる波動が
自分の「人間受信機」に受信され感応されて、
そこに現実界にも幸福なる完全なる有様が現れて来るようになるのであります。
ハッキリと自分の欲する状態を…心で選び取らねばなりません!!】<
■ ■ 益々!!!【内的意識に集中!!!】なのです…。 再合掌
PS:
トキ様へ…「神想観中…」人間受信機に、ぼんやりとした想念を送りますと〜〜???
今日の「雅春先生」がおっしゃっています“言葉”が〜〜〜?
トキ様は、どのような経験?(ボンヤリとした状態)の時の…メッセージがおありでしょうか?
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