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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える
557
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/05(火) 07:35:14
>初心者さま
なるほど・・・ご主張をおまとめくださりありがとうございました。これ
から再読致します。
558
:
初心者
:2011/07/05(火) 09:00:48
どうやらわたくしは、実相世界と実在宇宙を混同していたようです。
これまでわたくしは、ずっと一貫して「寂光モデル」を支持してまいりましたが、
「寂光」とは実在宇宙であったようです。
仏教界が説いてきた「寂光」とは実在宇宙のことであり、
西方浄土は実在宇宙でありました。
雅春先生は、その上の世界を説かれたことになります。
わたくしは、しばらく前に、「寂光モデル」と「実相モデル」が同時並行的に
共存しているということの可能性について述べたことがありますが、
その様相をイメージすることは、はなはだしく困難でありました。
そのわけが、ようやく判然としてまいりました。
「寂光モデル」と「実相モデル」は、ほんらいは別物であるのに、
それを同一のものと混同していた、というのがその理由であります。
正しくは、「寂光モデル」とは「実在宇宙モデル」であり、
実在宇宙と実相世界はぜんぜん別物であるということを
理解しておく必要があったのです。
「寂光」と「実相」が別物とわかったことにより、
「寂光モデル」と「実相モデル」が同時並行的に
共存できることが、明確にイメージできるようになりました。
実在宇宙と実相世界は、ともに存在しています。
「寂光論争」で倉田百三氏が言及されたのは実在宇宙です。
倉田百三氏は、実在宇宙を「寂光」と呼び、
それが無明の世界であるとも感じておられたのです。
雅春先生は、実在宇宙という言葉こそお使いにはなりませんでしたが、
それもひとつの信仰とお認めになり、
「そのあたりの信仰に落ち着いていられる人」と述べておられたのが印象的でありました。
これにて「寂光論争」は解決いたしました。
実在宇宙について、追加の記事を書きます。
実在宇宙については、多くのことがわかってまいりました。
わかってきたというよりも、すでにわかっていたといったほうが正確であります。
これまでわたくしが述べてきた「寂光モデル」の考え方が、
そのまま実在宇宙にあてはまります。
ですから、「すでにわかっていた」ということになります。
したがって、これまでわたくしが述べてきたことが変更されることは
おそらくありません。大枠は維持されることと思います。
ただ、事態は以前よりもずっと複雑な様相を呈してまいりましたので、
こまかいところでの修正は必要になるかと存じます。
559
:
初心者
:2011/07/05(火) 09:04:58
役行者様へ
>初心者様の日頃の真理探究の苦渋苦悩に、神様が与えてくれた
インスピレーションでしょうね。真理探究の援助をすることができて、
光栄です!
みなさまには、わたくしが勝手に暴走しているように見えているかもしれませんが、
すべては役行者様の問いかけのお陰であります。
役行者様とのやりとりがなければ、ここまで追い込まれることはなったと思いますし、
したがって、すべての問題をいい加減にやり過ごすことができていたとも思います。
追い込まれることによって、人間は活路を見いだすことができるようです。
わたくしが述べておりますことは、すべてわたくしにとりましての真理です。
わたくしの真理がわたくしのなかに留まっているかぎり、それは「独我論」でしかありません。
わたくしの真理を、多くの人々とともに表現できる言葉に変えることができれば、
それは「独我論」ではなくなるかもしれません。
「独我論」を脱するために、わたくしは、できるかぎりの人々にたいして、
わたくしの真理の妥当性を問わなくてはなりません。
ここでもしも、いっさいの反応がなければ、わたくしは、
人々にたいして何も問えないということになってしまいます。
役行者様が、わたくしの真理を批判的に評価してくださいますことは、
わたくしにとりましての、この上もない「幸い」であります。
こちらこそ感謝いたします。
560
:
役行者
:2011/07/05(火) 13:55:46
>初心者様
>役行者様が、わたくしの真理を批判的に評価してくださいますことは、
わたくしにとりましての、この上もない「幸い」であります。
こちらこそ感謝いたします。
いや、初心者様らしい、お褒めの言葉をいただきまして、我が意を得たり!です(笑)
>「独我論」を脱するために、わたくしは、できるかぎりの人々にたいして、
わたくしの真理の妥当性を問わなくてはなりません。
ここでもしも、いっさいの反応がなければ、わたくしは人々にたいして
何も問えないということになってしまいます。
雅春先生に訊け管理人様を筆頭に、真理を明らかにするためにも、
初心者様のためにも、追い込まれる程に、批判的に評価しましょうぞ(^^;)
561
:
初心者
:2011/07/05(火) 18:41:29
役行者様
真理はすべてわかった。
こんなことを言ってよいのでしょうか。
でも言ってみたい気分なのであります。
最大の難敵は、ソシュールの言語学でした。
わたくしは、ソシュールに、この20年間、ずっと悩まされてきました。
ソシュールによって、唯物論も観念論も、ほかの何もかもが
現代思想からは完全にほうむり去られました。
生き残ったのはオカルトだけです。
だからオカルトにしがみつきました。
生長の家ではなぜソシュールが問題にならないのか。
ずっとそう思っていました。
そんなソシュールの言語学を、実在宇宙の発見により、
やっとこさ攻略できたのです。
これまで手も足も出せなかった最大の難敵を攻略した。
今はそんな気分なのであります。
残すところは、実践的課題であります。
ここでの議論が、最初にどのような形ではじめられたか、
おぼえてらっしゃいますでしょうか。
ことの発端は、「現世利益問題」でした。
生長の家は、経済を変えられるか。これが課題でした。
宗教は、経済活動という下部構造によって支えられている。
これが一般的な見方であります。
経済活動が最優先で、宗教は二の次というのが社会の常識であります。
この常識に風穴をあけることができるのか。
これが実践的な課題でありました。
広く世界を見渡せば、新自由主義の台頭によって、
経済的弱者は、さらなる窮地へと追い込まれてしまいました。
こうした矛盾を弁証法的に解決しようとしたのが、
ギデンズの「第3の道」でありました。
「第3の道」は、英国のブレア政権によって採用されましたが、
たちまちにして失敗いたしました。
生長の家は「第3の道」を提示できるのか?
これがわたくしからの問いかけでありました。
答えは「できる」というものでありましたが、
具体的な展望はいまだ示されておりません。
わたくしの周辺もあわただしくなってまいりました。
私家版「第3の道」の構築が急務であります。
みなさまのおかげで、真理の理論的枠組みは完成いたしました。
あとは実践的課題あるのみです。
構築に全力を傾けなくてはなりませぬ。
562
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/06(水) 06:52:26
>初心者さま
いやー、結論から申しますと「未だよく判りません」という次第でありま
す。558にて貴殿がご投稿された内容もさることながら(〝混同〟されて
いた点)、おそらく私を含む他の方々の疑問は、貴殿がご投稿される際の
〝語の定義〟に帰結するのではなかろうかと、こう思うのです。たとえば一
例を挙げるならば、
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
470 :初心者:2011/06/27(月) 10:42:42
実相世界と実相は異なるものだと思います。寂光に実相はありますが、
寂光は実相世界ではありません。雅春先生がお説きになっておられる実相世界と
は、具体的な形として存在する、神の創造せし世界であると理解しております。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
といったご投稿文章になるのですが、まあ要するに、上記ご文章などに見られ
る「實相」「實相世界」さらに「実在世界」というのは、貴殿の内部にてどの
ように定義されているのでありましょうか。これを一度ご掲載頂きませんと、
なにやら「?」マークで一杯になってしまうのであります。よろしくお願い致
します。
追伸
上記の点を今まで指摘しなかった理由は、「(途中までは)さほど重要で
もないのかな」と思ったことでありまして、別に他意はございません。まあ、
些事語の定義に時間を使わせてしまうのも、申し訳ないと思っていた次第なの
ですが・・・やはりこれ、一度ご定義頂けないと、議論参加は不能にならぬか
と。そしてできますれば、「思想傾向としては(4)」といったカタチで冒頭
述べて頂けると助かります(おそらく3〜4であろうと、大凡のメドは立って
おりますが・・・語の定義不明のため判りません)
563
:
初心者
:2011/07/06(水) 08:50:53
ブログ管理人様
定義が問題になるという状況は、大歓迎であります。
だいたいにおいて、定義無視で、おたがいがわかったような気分で
なされるのが宗教談議というものであります。
宗教談議をコミュニケーションの手段としてもちいるのであれば、
それで十分でありますが、真理探究の手段としてもちいるには、
それではあまりに不十分であります。
ブログ管理人様に「定義云々」といっていただけるまでに、対話の内容が
深化してきたものと受け止めさせていただきます。
「実相」と「実相世界」の違いを比喩的に申しますなら、絵の具と、
描かれた絵ということになるのでありましょうか。
実相は絵の具であります。実相世界は、絵の具によって描かれた絵。
このような感覚で理解していただければ、十分ではないかと存じます。
また「実在宇宙」でありますが、これは「今の宇宙」であります。
今現在、この瞬間に存在する宇宙であります。
思想傾向は(5)ということにしておきましょう。
わたくしたちが見ている宇宙はすべて過去の宇宙です。
それは、すでに実在しないという意味で、仮相の宇宙であります。
生長の家でいう「現象世界」とは、この、すでに実在しない仮相の
宇宙の意であります。すでに過去のものとなり、今この瞬間に存在
しない宇宙が、生長の家では「現象世界」と呼ばれています。
そこでわたくしは、「現象世界」とは異なるという意味で、今の宇宙を
「実在宇宙」と名づけることにしたのであります。
現象はない!
この言葉は、たしかに過去の宇宙にはあてはまります。
しかし、今この瞬間に存在すると想定される「実在宇宙」に、
はたして「現象はない!」はあてはまるのでありましょうか。
「実在宇宙」はけっして見ることができません。
しかし、わたくしには、たしかに「そこにある」と感じられます。
わたくしたちが見ている宇宙とは、まったく異なる形で、
「実在宇宙」はたしかに存在しているはずであります。
わたくしたちは、この「実在宇宙」を、
これまでずっと無視してきました。
「実在宇宙」の存在じたいを、おそらくは、
ただの一度として考えたこともないはずです。
今この瞬間に存在する宇宙。
それは、見ることもさわることもできない宇宙です。
しかしそれは、想像を絶する姿で、たしかにそこに
存在しているはずなのであります。
思想傾向としては、「実在宇宙」はかぎりなく(5)に
近いかと存じます。(5)とはいえぬにしても、(5)に
近いがゆえに混同したということでございます。
「実相世界」との違いは、「実在宇宙」には光が存在しない
ということでありましょうか。
光が存在しないがゆえに、それは寂光となるのであります。
ビッグバンが「実相世界」のエネルギーによって引き起こされたと
すれば、「実在宇宙」は、そのエネルギーによって創造された
宇宙ということになります。
このケースでは、「実相世界」がニワトリで、「実在宇宙」は卵と
いうことになります。ニワトリが先か、それとも卵が先かの
問題が出てくることになります。
564
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/06(水) 12:27:42
>初心者さま
おおはやい!ありがとうございます。
これからじっくり読ませて頂きます。他の方も、これで了解可能ではなかろうか
と、そう考える次第です。盛り上がりそうですね。
565
:
初心者
:2011/07/06(水) 13:40:23
とりあえず、私家版「第3の道」について。
いま世界でおきていることを、ザックリバランと語れば、
世界が資本にすっかり覆われてしまったってことでしょう。
世界を覆った資本は、やがて、自分勝手で、しかも、手当たり次第に
相手を巻き込む、超強力な自律運動をはじめて、
古い社会と伝統を破壊しながら、地域のコミュニティーを、
資本活動の道具へと仕立てあげていったんでしょうね。
そこでおきたのは、コミュニティーが連帯感と規範意識を
うしない、それにともなって、利益の再配分システムが
徹底的に破壊されたってことだろうと思います。
再配分システムが維持されていれば、経済弱者のもとにも、
それなりのマネーが流れていきます。
維持されなくなれば、流れはとまり、弱者は生活できなくなります。
私家版「第3の道」的には、弱者復活のポイントは、再配分システム
の再構築しかないと考えます。
問題は、国家にはもはやその力はないということです。
経済のグローバル化にともない、こと資本にかんしていえば、
国家はもはや独立した単位ではなくなってきています。
国家には、マネーの流れを制御する能力も意思もありません。
国家ができなければ、個人がやるしかない。
だからこそ、「第3の道」は私家版となるのです。
566
:
役行者
:2011/07/06(水) 16:12:02
>初心者様
以前、私は、
>カン政権により、グローバリゼーションは益々、
国家 に見放された人々の暮らしを直撃し出しました。
>もう、これからは廃県置藩、地域密着型ですね。
グローバリゼーションとは響きがいいですよね。
ところがこれが、バブルを崩壊させ、 リーマンショックを
タイミングよく引き起こしたと聞いたことがあります。
ただ、このグローバリゼーションの頭脳を逆手に取れば、
これ以上の現世利益はないでしょうね。
果たして私は、地域密着型でいきますか!
と、2の >>20 において、述べました。
また、雅春先生に訊け管理人様に >>430 において、
>雅春先生に訊けブログ様。やあ、接待とはゆえ、いいですね。わたしゃ、
ビアガーデンで、旧友とカン首相の悪口を言って、帰ってきました。
カンさん、植物人間となり、延命させられてまっせぇ〜
消費税導入まで何が何でも、辞めないような気がします。
タケシのテレビタックルでも言っておりましたが、
やっぱり、まず、税収が20兆も減ったのですから、
税収から貪っている公務員給料の是正から始めるべきではないか・・・
順序が違うよ。やあ、思わず愚痴を・・・(笑)
と愚痴を述べたら、雅春先生に訊け管理人様は、
>>431 において、
>これに関しては愚生、ある疑問を抱く次第であります。
結論から申すと「日本政府には¥、まだまだザクザクある」というのが
私見です。
一例を挙げますと、日銀の通貨介入額なんですが、3.11以降増大しており
ます。総額なんと100兆円規模(!)とか。(ちなみに納税者ひとり当たり換
算でいきますと¥300万円という規模です)まあ私は菅総理(財務省のエージ
ェント)の申す「政府に¥がないのよ〜」「だから国民、ガマンしてよ〜」
てな主張、全 く 信 用 し て お り ま せ ん (笑)
と・・・ゴルゴ13にお出まし願って、日限とグローバリゼーションとの
コネクションをそれこそ撃つ!!となれば、
国家も少しは改善されるのでしょうが、
ゴルゴ13が実際にいてくれば・・・との話なのでどうでしょう?
つまり、初心者様が述べられた通り、国家は当てにならないのです。
567
:
初心者
:2011/07/06(水) 18:32:14
役行者様
国家をあてしていたら、百年河清を俟つ、ということにも
なりかねませんですよね。
やはり、「地域密着型」ですね。
それも、かなり小さな「地域密着型」です。
国家は、マネーの流れを制御できないでしょうし、
する気もないと思います。
今の流れで大きな利益をあげている人たちはいるわけですし、
国家はすでに、そうした人たちによってコントロールされている
といっても過言ではないかもしれません。
この期におよんで期待できるのは、コミュニティーだけです。
おそらくほかにはないと思います。
コミュニティーは資本にたいして無力ですが、
内部における再配分システムの構築は可能なはずです。
再配分システムというのは、「自分さえ儲かればいい」と
いうのではなく、生活が立ち行くくらいには、みなさんにも
儲けていただきましょう、というシステムです。
たとえばですよ、地域に連帯感のようなものがあれば、
たんまりと儲けた人が、あそこの店は近頃あまり流行ってない
ようだから、ひいきして買ってやるか、とか、こういう人情っぽい
つながりがあってもよいわけなんですよね。
今はもう、コミュニティーが崩壊して、みんな資本主義の手先みたいに
なってますから、連帯感なんてものは、ドブのなかにさえ落ちてなくて、
「安けりゃいい」みたいな感じで、困っている店があっても無視して、
巨大資本で大量仕入れしたところで買えばいい、ってなもんです。
近代社会の問題点は、連帯感と規範意識の喪失だといわれておりますが、
これが最近は、誰もが資本主義の手先へと変身し、価値イコール貨幣、
価値イコール商品と信じ込まされ、どれだけの貨幣を持ち、
何を所有するかで幸福の尺度がはかられると信じるような世の中へと
変わってきてるんですよね。
連帯感のないところへもってきて、貨幣と商品だけが価値とみなされる
世の中になってきたわけですから、みんなこれを集めるのに必死になって、
人のことなんかかまってられないんですよね。
できるだけ手持ちの貨幣を減らしたくないものだから、困っている人が
いても無視して、貨幣が減らなくてすむような店で買い物をする。
あそこの店はちっとは高いけど、買ってやれば喜ぶだろう、みたいな
感じにみんながなれば、それでマネーがうまく流れて、みんなが
そこそこ助かるという世の中になるはずなのに、昔はあったはずの
そうした仕組みは、大資本にとっては不利な仕組みですから、
いまや跡形もなく壊されてしまってるんです。
アンソニー・ギデンズが「第3の道」で共同体重視を打ち出したのも、
なんとなくこうした雰囲気を感じ取っていたからではないかと、
そんな気がします。
とはいえ、とっくの昔に連帯感を喪失し、貨幣と商品を中心にした
価値観が蔓延した世の中になってしまったわけですから、
いまさらコミュニティーの復活をうったえたとしても、聞く耳持つ人は、
ほとんどいないでしょうから、うったえる人もおりません。
私家版「第3の道」は、ただいま突破口を模索中なのであります。
568
:
役行者
:2011/07/06(水) 21:53:24
>初心者様
>>567
これは応援します!
初心者様は、理屈をこねくり回すから、誤解されるところがあるけど、やさしいですね!
昨夜、長崎の五島列島を舞台にしたマツケンサンバ主演の さだまさしドラマスペシャル故郷〜娘の旅立ち をたまたま、見てしまいました。小さなコミュニティーそのものでした。参考になるので、是非!!
あのような人情味あふれる世界がドラマ化されるということは、初心者様の夢はマンザラでもないかも・・・私家版「第三の道」、急がれたし!ご協力いたします。
569
:
初心者
:2011/07/06(水) 22:26:10
役行者様、応援いただいてありがとうございます。
実現はいつになるかわかりませんが、頼りになる主役がおりますので、
一歩一歩進んでゆけばなんとかなると思います。
すべてを真理にまかせて、実現に向けて動き出そうと思います。
我欲で突き進んでもうまくいくはずがありませんので、
今こそ、すべてを真理にまかせるときではないかと思います。
そう簡単にいくはずもなく、具体的な報告はしづらいと思いますが、
小さなコミュニティーづくりをめざして、楽しい夢を見つづけようと思います。
まさにこれはドリーミングなのであります。
570
:
初心者
:2011/07/06(水) 22:59:24
ブログ管理人様
いきなり「実在宇宙」という言葉を持ちだされても、
イメージ化ははなはだしく困難であろうと推察いたします。
理解の助けになるかと思いますので、以前紹介いたしました、
心理学者、アーノルド・ミンデルの「24時間の明晰夢」のなかの
一節を引用いたします。
○複雑な人生の諸問題を簡略化して捉えるのは愚かなことだが、
ドリーミングの視点からすれば、人生の複雑さにもかかわらず、実は
たったひとつの問題しかない。それは現実の背景にあるドリーミングを
無視することだ。
「ドリーミング」を「実在宇宙」に置き換えていただきますれば、
事情がはっきりといたします。ミンデルは、「今の宇宙」や
「実在宇宙」という言葉を使ってはおりませんが、
あきらかに「実在宇宙」について語っております。
ミンデルは、ドリーミングを人生の原動力、大いなる潜在力と位置づけ、
「ドリーミングがなければ、人生の半分を生きているにすぎず、世界の
半分を見ているだけである」といいます。
わたしたちが水道の蛇口をひねるときにもドリーミングが展開されます。
ドリーミンクの視点によれば、わたしが蛇口であり、蛇口がわたしであります。
わたしと蛇口のあいだにドリーミングが展開されることで、
わたしは蛇口をひねることができるのです。
オーストラリアのアボリジニーは、「カンガルーを殺すことはできても、
カンガルーのドリーミングは殺せない」といいます。
アメリカ先住民のネズパース族は、「ヨーロッパの労働観はドリーミングを
消滅させるので、若者たちはけっして働かないだろう」と宣言しました。
人類は、世界が、ドリーミングが展開することで創造されていることを
知っていました。
わたくしは、ドリーミングが、「今の宇宙」、「実在の宇宙」であることを
確信いたします。
571
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/07(木) 06:50:47
>初心者さま
申し訳ありません、ドリーミングでますます意味不明になりました、ブロ
グ管理人でございます(笑)・・・(中略)・・・簡潔に申せばこれ、貴殿
が「実在世界」と申されておられるもの――これは、雅春先生申される〝實
相〟のことではないでしょうか。同時に「そうでもなさそうだ」な感じもあ
りますが・・・まあ、そんな疑問を持ちましたので、以下質問を箇条書きの
上掲載させて頂きます。
1)この〝実在世界〟とは、「唯、善のみあり」という世界なのでありまし
ょうか。それとも「悪も含む」のでありましょうか。思想傾向(5)とは「
唯善のみあり」を意味しますが、貴殿ご主張も、これで間違いないでありま
しょうか。
2)この〝実在世界〟は五官で認知可能なのでしょうか?それとも不可能な
のでしょうか?まあたぶん(測定器を使用しても)「認知不能」の意味だろ
うと思いますが、念のため確認まで。
3)(語の定義について)「実相は絵の具であります。実相世界は、絵の具
によって描かれた絵。」とのことなのですが、〝実在世界〟はそうしますと、
どうなるのでありましょうか(「画布?」ということでしょうか)
→ただ、過ぎ去っていくもの(現象)とは「別のもの、違うもの」として
貴殿は、この〝実在世界〟という語をご使用になられておられ・・・それこ
そ、雅春先生が申された「實相のことでは?」と思える次第ではありますが。
<補足>
8ミリ映画で喩えますと、こういう理解なんでしょうかね?(貴殿の申され
る)實相は〝光〟で實相世界は〝8ミリフィルム〟、そしてこの〝実在世界〟
は・・・ポップコーン売り場やトイレを含む〝映画館〟みたいなイメージなん
でしょうかね?
うーむ、未だ訊きたい点があるのですが、先ずは上記疑問からスタート致
しましょう。このご返答を拝読し、次なる疑問に移るのがよいのかな、と。
(「ニワトリと卵の喩え」に至っては・・・現時点では全く意味不明となる
次第なのであります。まあ、語の定義が共有できれば「ああなんだ」となる
のでしょうけどね。)
追伸
まあ、追加質問を一点だけ挙げますと、以下もよく意味が解らないのです。
――――――――――――――――――――――――
「寂光」と「実相」が別物とわかったことにより、
「寂光モデル」と「実相モデル」が同時並行的に
共存できることが、明確にイメージできるようになり
ました。
実在宇宙と実相世界は、ともに存在しています。
――――――――――――――――――――――――
ここでおっしゃる「ともに存在しています」とは、「実在として共に存在
している」という意味なのでしょうか。もしくは「人々の中には実在宇宙を
(妄想とは云え)『ある』と云っている人が存在している」くらいの意味で
しょうか。それともまったく別の意味になるのでしょうか。(そうであるな
ら、いったいどんな意味なのでしょうか)
572
:
初心者
:2011/07/07(木) 09:24:58
ブログ管理人様
ご質問をいただいてありがとうございます。
不明な点ははっきりさせておかねば、話がかみ合いませんから、
ぜひともはっきりさせておきたいところであります。
まず、絵の具のたとえからいきましょう。
神が絵の具で絵を描いた。これが実相世界でありますね。
描いた絵は風景画ということにしておきます。
風景画を描くためには、その前に風景を見る必要があります。
いちども風景を見たことがなければ、風景画は描けぬわけであります。
ここで問題になるのは、神はどうやって風景をご覧になったのか、ということであります。
神一元であれば、神がご覧になった風景はどこにあったのか。
これが問題となるわけであります。
「実相モデル」では、神はいきなり風景画を描いたということになります。
いくらなんでもそれは無理だといのが、わたくしの立場でございます。
なぜかといえば、風景画を描くためには、その前にどうしても風景を見て
おく必要があるからであります。
神は、実相世界の風景をどこでどうやってご覧になったのか。
これがわたくし的には、大きな疑問となるわけであります。
神一元の世界には風景がはじめからあった、というのはどうしても納得できません。
神一元というのは、神だけの世界でありますから、はじめから風景がどこかにあった
というのは、どうしても合点がいかぬのであります。
神一元の世界に風景はなかった。わたくしはここからはじまるわけです。
すると、風景画を描くためには、神は、まず最初に、風景を見ると
いう作業にとりかからねばなりません。
この作業を説明するのが「寂光モデル」であります。
つまり神は、実在宇宙(寂光世界)をこしらえて風景を見ておられるわけであります。
実在宇宙は、137億年分の風景を描きだします。
この風景をご覧になりながら、神は画想をねっておられるわけであります。
実在宇宙が何かといえば、それは風景を描きだすための装置であります。
この装置はよく出来ておりまして、何度も輪廻転生をくり返すことで
ついには実相世界の風景を描きだせるようになります。
実在宇宙が描きだした、実相世界の風景をご覧になった神が、
これですべてよし、と判断なさり、
ようやく絵の具を手にとり、風景画に着手なさるのであります。
「実相モデル」では、神がいきなり風景画を描いたということになりますが、
「寂光モデル」は、このように、まず神が風景をご覧になる仕組みを
説明しておるのであります。
神はやがて実相世界の絵を完成なさいます。
それははるか未来のことでありますが、実相世界は時間を超越しております
ので、今ここですでに顕現した姿となってあらわれてまいります。
それが、実在宇宙と実相世界の同時並行的共存ということであります。
上記の意味で、実在宇宙は、実相世界の卵ということになるわけでありますが、
はたしてこの卵はニワトリ(実相世界)が生んだものか、ということが問題になって
くるのであります。
で、1)の質問でありますが、実在宇宙は「善一元」ではありません。
実在宇宙は「寂光」の世界であり、空であります。
それはそこにあって、風景を描きだします。
可能なかぎり、神の姿に近い風景を描こうとします。
宇宙意識とは、神がご覧になるのにふさわしい風景を描こうとする意志であります。
この意志を「善」と呼ぶのであれば、実在宇宙は善そのものであります。
しかしこの意志は、人間にとって悪の姿となってあらわれることがあります。
それは、人間がこの意志に抵抗するときであります。
西洋の労働観がそうであるように、人間はときとしてドリーミングを無視し、
あるいは抵抗します。
そこに悪の姿が出現することはあります。
2)の五官認知可能か、でありますが、その存在は「ドリーミング」として
感じられてきました。実在宇宙は、この現象世界に神の姿を描こうとします。
描くために、現象世界に干渉してきます。この干渉を、人類は「ドリーミング」と
して感じとってきました。
道教ではこれを「語られぬタオ」と呼びます。科学者は「量子波動関数」と呼びます。
ミンデルは「沈黙の力」と呼んでおります。
呼び名はそれぞれであるにしても、その存在を五官で認知することは
可能であろうかと存じます。
3)については、すでに説明いたしました。
この後、修正があるかとは思いますが、現時点では以上のように考えております。
573
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/07(木) 11:13:13
>初心者さま
迅速なるご返答、誠におそれいります。貴殿のなかではご主張のほど、実
に整理されて脳内格納されておられる故なのでありましょう。ですので仮説
とは申せ「実に真剣に思索されておられる」ことの、なによりの証左であり
ましょうし、こちら側も(仕事、ホッポリ出してw)対応すること致します。
どうぞよろしくお願いします。
さてまず冒頭、572ご文章を拝読した上での愚生理解を提示致します。そし
て、愚生が把握した貴殿ご主張内容を、〝こんな断言では誤解もあろうが〟
な言葉で表現するならば「貴殿ご主張はまさに、倉田百三氏のそれと同等で
ある」との一文、これになる次第であります。
以下この愚生理解の根拠を述べさせて頂きますが、「そこはやや趣が違う
かなあ」な話もあることでしょう。その点に対しての貴殿からのご指摘を待
とうと思います。そして以下はイワズモガナな既述話ではありますが、「相
手方ご主張内容を、正確に把握せぬことには反論など能(で)きない性質の
私」なのでありまして・・・
<貴殿ご主張=倉田百三「寂光」説、その根拠>
愚生問いかけ1)に対して、貴殿はこのようにご返答下さっておられます。
そのご返答は「実在世界とは善一元ではありません」「実在世界は空であり
ます」というものでありまして、これはまさに倉田百三氏の以下問いかけと
「同等の内容である」と、現時点では考えざるを得ません。その倉田氏ご主
張内容を抜粋するならば、
―――――――――――――――――――――――――――――――――
宇宙の太源に帰一することが、治病、開運、幸福、繁栄を必ず結果する
とは信じられないのです。宇宙の太源と帰一した生活は確かに光明の生活
である。しかしその光明とは、暗(ヤミ)と対比した意味での明るさでは
なく、光と暗とを超えた寂光であり、だから必ずしも光明とは言はず「聖暗」
と言った人もある。明るいとも暗いとも表現出来るような大寂光である。
この世界に病気、不幸,禍言があるとき、それを大寂光裡に包摂することは
出来ても、その反対としての治病、幸福、祥昌であらねばならぬと言うこと
はどうも導き出せないようにわたしには思えるのです。宇宙は本来、健康・
幸福・祥益的であるかどうかは判らない。自分が病む時それは宇宙が病むの
だ、神が病むのだと感じる事は出来るが、それが治る筈だと言う事はどうし
て出てくるのでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
の箇所になる次第です。
絵画の喩えを以って愚生意見を述べるならば、絵画作品上に茶色いシミが
付いていたと致しましょう。そしてその茶色いシミは、その作品の評価を著
しく低下せしめている、そんな想定を致しますが、そのシミに対して貴殿ご
主張を当てはめれば、これは「このシミも神が創造し給うた」ということに
なります。そしてそのシミの出所でありますが、それは「(モデルとなった)
実在世界にシミが付いていたため」であり、また「人間が抵抗したため」のも
のである、そうなるのではないかと思っている現在です。(間違いないであり
ましょうか。もしくは「喩え話にムリがある」かもしれませんが)
まずは愚生把握内容へのご指摘をたまわりたく思います。その他にも不明
点があるのでありますが、上記ご返答を待ってから再度、質問させて頂くこ
とと致します。
追伸
「今さら『貴殿ご主張=倉田百三説』なの?それを再度確認するの?」にな
るのかもしれませんが、やはり重要な確認事項であろうかと愚考する次第で
す。おそらく貴殿ご主張は(5)ではなく、(4)になろうかと思う現在な
のでありまして、そしてその現在地の確認をスキップしては、先に進めぬよ
うな気がしている次第なのであります。お手数ではありますが、よろしくお
願い致します。
<参考>
●五つの人生観
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65562164.html
●寂光をさらに超えて
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65559391.html
574
:
名無しさん
:2011/07/07(木) 12:45:13
ブログ管理人様
いくらなんでも、仕事はつづけておられると思いますが、手があいたとき
にでもお相手ねがえれば、それで十分でございますよ。
>絵画の喩えを以って愚生意見を述べるならば、絵画作品上に茶色いシミが
付いていたと致しましょう。そしてその茶色いシミは、その作品の評価を著
しく低下せしめている、そんな想定を致しますが、そのシミに対して貴殿ご
主張を当てはめれば、これは「このシミも神が創造し給うた」ということに
なります。そしてそのシミの出所でありますが、それは「(モデルとなった)
実在世界にシミが付いていたため」であり、また「人間が抵抗したため」のも
のである、そうなるのではないかと思っている現在です。
上記の一文には事実誤認があります。絵画作品は、神の手になる作品であります。
神が「すべてよし」と判断されて、しかるのちに描かれた作品であります。
シミがつくということは考えられません。
実在宇宙は、神がご覧になるための風景を映し出しているのでございます。
神が「すべてよし」と判断なさるまで、風景を映し続けるのでございます。
もしも風景にシミがついていたとすれば、神はこれを「よし」とはなさいません。
結論から申しますと、倉田百三氏の「寂光」と実在宇宙は、
まったく異なるものであります。
実在宇宙には、「神がご覧になるのにふさわしい風景を映し出す」と
いう意志があります。この点がちがいます。
倉田百三氏は以下のように主張しておられます。
>宇宙の太源に帰一することが、治病、開運、幸福、繁栄を必ず結果する
とは信じられないのです。
実在宇宙は「神がご覧になるのにふさわしい風景」を映しだそうと意志しています。
実在宇宙に帰一すれば、「神がご覧になるのにふさわしい風景」を、
ともに体験することが可能であります。
倉田百三氏の主張とは、かなりちがった結果になる可能性が高いかと、
このように考えます。
実在宇宙は、最低でも4回の転生を経て、こんにちにいたっているはずです。
すでに十分に「神がご覧になるのにふさわしい風景」を映し出せるまでの
進化を遂げたものと考えられます。
したがって、かぎりなく(5)に近いところまでの上昇を遂げたと考えます。
実在宇宙がもしも治病を意志していなければ、たとえ帰一したとしても
病気が治るとはかぎりません。
人間の欲望と、宇宙の意志とは、かならずしも一致しないということであります。
欲望はかなわぬまでも、それが「神の栄光をあらわさんがため」であるのなら、
それもまたよいではありませぬか。
575
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/07(木) 15:10:35
>初心者さま
そうですか・・・ううむ、ますます解からなくなってきました(笑)ここ
で一発、役行者さまが登場なされ、そして貴殿ご主張内容を明確にする質問
などをして頂くと助かるかなあ・・・
追伸
なお以下は〝余談モード〟ネタですが「無関係ではない」話でもあります
・・・実は本日深夜にアップ予定にしておりました弊ブログ記事ですが「関
連あり」ですんで事前紹介します。この記事に於ける〝わたし〟とは「神」
のことであります。雅春先生の『神真理を告げ給う』を榎本先生がご解説さ
れているという・・・
● 迷いの存在理由
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65565814.html
(本文一部引用)
完全な神の分身であるあなたが何故迷うかと、
あなたは問うであろう。
〝迷いは何処から来たのか〟 というのは仏教
でも重大な設問になっている。「〝迷い〟本来
無し」と一刀両断に截ち切る解答は従来からあ
る。それでも、「では、その本来無き迷いが、
どうして恰(あたか)もあるかの如くあらわれて
来るのか」という最後の問が残るのである。そ
の最後の問に〝わたし〟は答えることにする。
(引用終)
・・・余談モードでお話しされればこの記事、貴殿ご主張から見るとどん
な感想になるのでしょうか。どんな共通点があり、そしてどんな相違点があ
るのでありましょう。ツラツラ語って頂きますと、貴殿真意が了解できるの
かもしれません・・・
・・・超余談
まあこれ、本来ならば7月8日深夜2:00頃のアップ予定にしていた記事です
が、これ、7日15:00でも投稿可能なんです。つまり、投稿時刻は7日15:00
なのに、表示される時間は「7月8日深夜2:00」にできるという・・・この機
能を使って「3.11の地震を予知した!」なんて人がおりましたが(そして老
人は騙せましたが)・・・記事内容と併せてこのブログ機能ですが、これ、
実相と時間の関係の喩えに(使えればですが)お使いください(笑)
576
:
初心者
:2011/07/07(木) 17:51:46
ブログ管理人様
ブログ、拝見させていただきました。
今現在、ここでなにが問題になっているのかということを、より明確に
できそうであります。
実在宇宙、つまり今の宇宙は、すべての出来事が同時に生起する世界であります。
実在宇宙では、すべての存在者が混然と一体化されています。
実在宇宙にあるのは、「いま・ここ」だけであります。
あるのは「今」だけであり、すべての存在者が「いま・ここ」に存在するのみで
あります。
実在宇宙に時間、空間の概念はなく、光も存在しません。
わたくしは、こうした世界を想定しておるのであります。
生長の家がこれまで想定してきたのは、ブログ管理人様のブログにて
書かれておりますように、時間、空間のなかで光が活動する世界でありました。
これが、これまで生長の家が想定してきた現象界でありました。
わたくしが想定しておりますのは、生長の家がこれまで一度も想定した
ことのない世界であります。
しかもこの世界とは、「今の宇宙」であります。
けっして荒唐無稽な作り話などではありません。
もちろん妄想でもありません。
「今の宇宙」は、存在する確率がきわめて高い世界なのであります。
さらにいいますなら、わたくしが想定する世界は実相世界ともちがいます。
それは、実相世界以外の、時間、空間の概念がなく、しかも光さえもが
存在しない世界なのであります。
生長の家にとってまったく未体験の世界を、わたくしは想定し、
提示しておるのであります。
生長の家は「今の宇宙」を見落としていました。
「今の宇宙」を想定することなく真理が語られてきました。
ブログ管理人様のブログにて語られておりますのは、
これまで想定されてきた現象界についてであります。
わたくしが想定しております実在宇宙は、
今回の記事においても想定外なのであります。
生長の家にとって想定外の世界を、わたくしが想定し、提示して
おりますことが、現時点における唯一の問題点なのであります。
ブログ管理人様には、そしてほかのみなさま方にも、ぜひとも、
この、いまだかつて一度も想定されたことのない世界を
ご理解いただき、反論していただきたく存じます。
577
:
役行者
:2011/07/07(木) 21:47:31
>初心者様
雅春先生に訊け管理人様の仰るとおり、確かに難しくなってきました!
>そうですか・・・ううむ、ますます解からなくなってきました(笑)
ここで一発、役行者さまが登場なされ、そして貴殿ご主張内容を明確に
する質問などをして頂くと助かるかなあ・・・
とのことなのですが、持論を述べます。そのなかで、意見を述べようかと!!
最初からいきましょう。
神の意志により、コトバ(イデア、理念)がイメージされ、
それから、エネルギーの発動ですね。
まず、このエネルギーは絶対善ということは、大前提です!
人間の思い方や使い方が間違っているから、エネルギーが悪にも
映っているだけですから!!
神の理念の発動!これが、ビッグバンと思います。
その神の理念に、時間と空間が誕生した。これは、未来が誕生したのです。何のために未来が誕生したのか?
それは、結論をいいますと、人間が神となるためにです。
つまり、この地球は進化向上している途上であるということ!
やがて、迷いの雲の陰りすらみえない、澄みきった世界が訪れると
みています。
そのときこそ、現象世界における、実相世界の実現のときと、
存じます。それは人間が、新たに生まれるとき、神になるときです!
しかし、それで神の計画は終おわるのでなくはじまりなのです。
歓喜に満ち溢れた世界が、矛盾なき弁証法的発展により、
無限に生長してゆく世界のはじまり、だと思うのであります。
このように、自分の鏡である世界が神そのものになる日!
これを目的として神はビッグバンを発動した!
これが、三次元空間が誕生した理由です。
そうなると、ビッグバンにはあらゆる可能性が内包していたと、
仮説できるのです。
そのなかに、初心者様の述べられた実在世界があるのでは!
限りなく実相世界に近い現象世界の元となる世界が!この世界は、
あらゆる可能性が秘められているので、寂光世界と名付けても、
差し支えないと思われます!
しかし、この寂光世界はあくまでも、実相世界から観て部分社会にしか
過ぎません。
続きがあります。
578
:
役行者
:2011/07/07(木) 21:49:49
>ここに、ブログ管理人様の言葉をもってきます。
>ますます意味不明になりました、ブログ管理人でございます(笑)・・・
(中略)・・・簡潔に申せばこれ、貴殿が「実在世界」と申されておられる
もの――これは、雅春先生申される〝實相〟のことではないでしょうか。
同時に「そうでもなさそうだ」な感じもありますが・・・
このように思われるのは、きっと、ビックバン発動時にかなり、
実相世界に近い実在世界が存在していたからだと思います。
いまも脈々と存在している。
>今度は、初心者様ですが、以下の文章
>実在宇宙、つまり今の宇宙は、すべての出来事が同時に生起する世界
であります。
実在宇宙では、すべての存在者が混然と一体化されています。
実在宇宙にあるのは、「いま・ここ」だけであります。
あるのは「今」だけであり、すべての存在者が「いま・ここ」
に存在するのみであります。
これは、納得します。そして、実相世界に限りなく近い世界であるため、
今・ここなのです。雅春先生は、超時の今という言葉を使われています。
次に、
>わたくしが想定しておりますのは、生長の家がこれまで一度も想定した
ことのない世界であります。
しかもこの世界とは、「今の宇宙」であります。
けっして荒唐無稽な作り話などではありません。
もちろん妄想でもありません。
「今の宇宙」は、存在する確率がきわめて高い世界なのであります。
なのですが、これらしきものは生長の家でも説かれているのではない
でしょうか?現象世界でも限りなく実相世界に近い世界なのですから、
それが、今の科学の発展により、より明確化されたと言った方
がいいのではないでしょうか!つまり、実相世界がより明確に存在
することが、この実在世界の存在で明らかになってきたと
みた方がいいかと存じます。素晴らしい発見だと思います。
それではその実相世界の定義なのですが、それは、歓喜に満ち溢れた、
矛盾なき弁証法的発展により、無限に生長してゆく世界であり、
この世の始まる前から、厳然と存在していた、衆生劫尽きても、
存在する世界であると思っております。
この定義も議論の余地が大いにあると存じます。
この「実相世界」を、雅春先生は内なる「実相」に照らし合わせ、観た!!となります。
これぞ!大悟。内なる実相とその鏡のごとく照らし合う世界。
これが実相世界。だから、地球である寂光世界では、大悟された実相人間が
点在しているのでは。
いまだ殆どの地球上の方が、イエスが述べられた、水と霊により新たに
生まれる!ことを成し得てないから点在しているのでしょう!
イエスが言われたように、人間はいまだ生まれてない。となると、
実相世界のスタートにも着いてないのでは!
つまり、雅春先生は実相世界のスタートを観た。
そして!未来において、新たに生まれた人間が、つまり実相世界を観た
人間が、この現象世界に、より進化した実相世界を無限発展させて行く
のでは!!
そこではじめて、神は、我が子であり、自分の分身である人間を心から、
祝福する事でしょう!
神は、実相世界をより発展させるため、自分の分身である人間を外在化し、
ともに発展向上していく日を待っているのではないかと。
人間の浅はかな智恵で、述べてみました。
初心者様、訊け管理人様、どうでしょうか?
より、真理を明らかにしてゆきましょうぞ!!地球の未来のために!!
579
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/07(木) 22:27:00
>初心者さま
以下580以降の文章は、役行者さま登場以前に作成したものです。貴殿に
於かれましては二方面対応になりますので、愚生問い合わせは後回しにされ
ても結構です。どうぞよろしくお願いします。
なおあとでも触れますが「今、書き込みしとかなきゃ」な事情アリアリで
ありまして・・・それでは以下ご高覧くださいませ。
580
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/07(木) 22:28:48
>初心者さま
ううむ・・・正直に申せば「まったく意味が解かりません」になります。
なにを質問すればよいのか、それすらも不明の現在です。さて、どうしたも
のか・・・
ということで、「質問を明確にするための質問」を行うことと致します。
なお、この書き方は以下質問を正当化するための、云わば「カッコイイ言い
方」に過ぎません。たぶん以下は、余りにもデタラメな質問になろうかと思
いますが、対処できる範囲にてご返答を頂ければと思います。繰り返しにな
りますが、貴殿から見ればモレもダブリもあると映る、そんな質問になるや
もしれませんが、受け手の我々にすれば「なにを訊けばよいのか」すら不明
なのでありまして、非常にお手数になりますが、よろしくお願い申し上げる
次第です。
<質問>
・・・その前にまずお断りしておきますが、以下質問は、これ「貴殿を批
(う)つために屁理屈を捏ね」かつ「揚げ足を取る意図からの問い合わせに
あらず」と申しておきます。しかし一見・・・ひょっとするとそのような印
象になるやもしれませんが、それは全て理解を深めるためのものとご理解く
ださると助かります。冒頭述べましたように愚生、現在「なにを質問すれば
よいのやら」という、そんな状態でありまして・・・まあ、クドクド述べる
よりも問い合わせに移ります。
(つづく)
581
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/07(木) 22:34:23
●愚生理解不能の要因箇所(?)
――――――――――――――――――――――――――――
まず、絵の具のたとえからいきましょう。
神が絵の具で絵を描いた。これが実相世界でありますね。
描いた絵は風景画ということにしておきます。
風景画を描くためには、その前に風景を見る必要があります。
いちども風景を見たことがなければ、風景画は描けぬわけであります。
ここで問題になるのは、神はどうやって風景をご覧になったのか、
ということであります。
――――――――――――――――――――――――――――
先ず「ここが不明の因なのか?」な疑念のある箇所です。神は「風景画」
を描くと想定されておいでですが、果たして全能者である神が、「風景画を
描くのに風景を必要とする」のでありましょうか。たとえば内省・思索に耽
る画家ならばそれ、そもそも対象を必要としないケースもあるわけです。ま
してや全能者の神が「風景画を描く」にあたり、わざわざこれを必要とする
のでしょうか・・・貴殿は「いくらなんでもそれは無理だといのが、わたく
しの立場でございます。」と述べておられます。そして理由として「なぜか
といえば、風景画を描くためには、その前にどうしても風景を見ておく必要
があるからであります。」と説明されておられますが、果たしてそうなので
ありましょうか。他所でも、
――――――――――――――――――――――――――――
神一元の世界には風景がはじめからあった、というのはどうし
ても納得できません。
神一元というのは、神だけの世界でありますから、はじめから
風景がどこかにあったというのは、どうしても合点がいかぬの
であります。
――――――――――――――――――――――――――――
と述べておられます。ですのでここでは「なぜ、そう思われますか?」と
問いかけ致します。おそらく直ぐ直ぐには回答できぬ、そんな話になるやも
しれませんが・・・可能ならばお願い致します。(くどいかもしれませんが、
「なぜそう思われるのか」その根拠を頂かないことには・・・おそらくご主
張全容が掴めぬかと思うからであります)
繰り返しになりますが一般の画家すら、対象物不要にて名作を創造し得る
現実があるわけです。まして全能の神ならば――貴殿は他所で「善一元では
ない」と申されているが――〝実在世界〟なるものをわざわざこしらえなく
とも、(貴殿文脈での)實相世界を創造しうるのではありませんでしょうか。
この想定が全ての「理解不能の因」という、そんな当りをつけている現在
です。この箇所にてなにか補足など頂けますと助かります。くどく補足する
ならば、「實相世界を創造するにあたり実在世界をこしらえる、その必要性
は?」となりましょう。「対象を要するからです」がご返答ならば、「それ
は全能者と云えるのか」という方向で議論が進むこととなるでしょうし、ま
た「云われてみれば変ですね」になるのであれば、「それは雅春先生の想定
された〝實相〟に近い概念では」という方向で議論が進むと思います。
582
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/07(木) 22:35:03
●〝実在世界〟が〝實相〟と読める箇所
――――――――――――――――――――――――――――
<563ご文章>
また「実在宇宙」でありますが、これは「今の宇宙」であります。
今現在、この瞬間に存在する宇宙であります。
思想傾向は(5)ということにしておきましょう。
――――――――――――――――――――――――――――
と述べておられます。対比として貴殿は現象世界を例に出され、「わたく
したちが見ている宇宙はすべて過去の宇宙です。それは、すでに実在しない
という意味で、仮相の宇宙であります。」と述べられて後、「そこでわたく
しは、現象世界とは異なるという意味で、今の宇宙を『実在宇宙』と名づけ
ることにしたのであります。」と宣言されます。
ここまで読みますと「ああ、ここで云われる〝実在世界〟って、雅春先生
の實相のことだな」となるのが『生命の實相』読者なのですが、この宣言の
のち突如、
――――――――――――――――――――――――――――
しかし、今この瞬間に存在すると想定される「実在宇宙」に、
はたして「現象はない!」はあてはまるのでありましょうか。
――――――――――――――――――――――――――――
なる疑問文を提示されておられます。以降直接の言及がないので、なんと
も判然とせぬのでありますがこの箇所は「現象はありますよね」という意味
になるのでしょうか?そしてもしも「現象あり」なのであれば、貴殿ご主張
の〝実在世界〟とは、ショーペンハウエルの云う「宇宙の盲目的意志」や仏
教で申すとことの〝無明縁起〟に該当するのではないか、そんな疑念がある
のですが如何でしょうか?
(主張根拠一例)※貴殿ご投稿文章
――――――――――――――――――――――――――――
「寂光論争」で倉田百三氏が言及されたのは実在宇宙です。
倉田百三氏は、実在宇宙を「寂光」と呼び、
それが無明の世界であるとも感じておられたのです。
――――――――――――――――――――――――――――
583
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/07(木) 22:35:46
●そして「実在世界は〝空〟」?
――――――――――――――――――――――――――――
で、1)の質問でありますが、実在宇宙は「善一元」ではありません。
実在宇宙は「寂光」の世界であり、空であります。
それはそこにあって、風景を描きだします。
可能なかぎり、神の姿に近い風景を描こうとします。
――――――――――――――――――――――――――――
とのことなのですが、そうしますと貴殿ご投稿文章(574)のこの箇所
の意味が不明になるのです。その箇所とは、
――――――――――――――――――――――――――――
絵画作品は、神の手になる作品であります。
神が「すべてよし」と判断されて、しかるのちに描かれた作品
であります。
シミがつくということは考えられません。
実在宇宙は、神がご覧になるための風景を映し出しているので
ございます。
神が「すべてよし」と判断なさるまで、風景を映し続けるので
ございます。
もしも風景にシミがついていたとすれば、神はこれを「よし」と
はなさいません。
――――――――――――――――――――――――――――
だとするならば、これは〝空〟とは呼べぬものではないでしょうか。(う
ううむ、ますます意味が不明になるのです)この箇所の補足など頂けますと
幸いです。
追伸
まだまだあるのですが・・・まずは上記からスタート致しましょう。なお
明日以降は「おねえちゃんに合コンセッティング」「高校野球、練習試合観
戦」「銀行提出資料作成」等々、激務なのであります。なかなか返答できぬ
と思いますが、よろしくお願いします(ゆっくりで良いです、の意味)
補足
「合コンセッティング」の件ですが・・・維摩詰を見習っての、そのような
仕儀でありまして他意はありません(笑)「中村久子、知ってる?」な話題
から感動をさらい、そして『生命の實相』誌友候補をリストアップして参り
ましょう(笑)
584
:
初心者
:2011/07/07(木) 23:53:49
ブログ管理人様
本日は、お仕事中にもかかわらず、お相手いただいて、ありがとうございました。
ところで、この投稿文は何時間が前に書いたものであります。
その後、しばらくとりこみましたので、投稿できずにおりました。
質問文とは無関係の内容でありますが、とりあえず投稿いたします。
変更点もありますので、このあたりを踏まえながら、ご質問に
答えてゆければと思います。
まあ、ゆっくりいきましょう。
一点ほど、どうしても訂正いたしたきことがありますので、訂正いたします。
実在宇宙を、「神がご覧になるのにふさわしい風景を映し出す装置」と説明
いたしましたが、心情的には、こうした説明にはかなりの抵抗があります。
やっぱりちがう。
ということで、訂正いたします。
まず、実在宇宙という言い方じたいがあまり好きではありませんので、
ここはスピ系っぽく、「ドリームタイム」と呼ぶことにいたします。
ドリームタイムとは、今の宇宙のことであり、実在する宇宙のことであります。
わたくし、どうも宇宙に愛されてしまった、という感覚があります。
朝から晩まで宇宙に愛されまくっている。
ひょっとすると、寝ているあいだも・・・。
わたくしをこれほどまでに愛してくれる宇宙を「装置」と呼ぶわけには
まいりませぬ。
ドリームタイムは装置ではありません。それはもう、愛にあふれた存在なので
ありまする。
ドリームタイムは、ドリームタイムなのです。
それは、いまここに感じられるドリームタイムなのです。
ドリームタイムは、わたくしをさらにハッピーにしてくれます。
これまでよりも、ずっとずっとハッピーにしてくれます。
このワクワク感がたまりません。
ドリームタイムは、なぜわたくしを、こうまでワクワクさせて
しまうのでしょうか。
これまでわたくしは、人生の半分だけを生き、世界の半分しか
見ていなかったのかもしれません。
でも、おそらくそれだけではありません。
わたくしはきっと、ほんの一部分の自分だけを生きていたのであります。
ドリームタイムでは、わたしはあなたであり、あなたはわたしです。
そうなのです。
ドリームタイムとは、わたくし自身でもあったのです。
大きな自分と出会えた。
きっとそんなとき、人はこんなにもワクワクしてしまうのですね。
役行者様
これってやっぱり、歓喜の世界でありまするよ。
ドリームタイムが実相世界とどれほど近いのか、それは判然とは
いたしませぬが、ドリームタイムとは歓喜の世界であり、
それはわたくし自身でもあったりするのでありまするよ。
ここは、宗教的に重くなるより、スピ系っぽく、軽いノリで
ピチピチと軽快に踊りまくるにかぎります(ピチピチ)。
(ちなみに、スピ系とは、スピリッチュアル系であります)
それにしても役行者様、きょうはものすごい気合いでありますね。
真理をぜんぶ、おひとりで語ってしまわれた。
そんな気がいたします。
わたくし、もう気合いに呑み込まれてしまって、ぜんぶ「そのとおりだ!」
と思ってしまいました。
やあ、人生、やっぱり気合いですね。
雅春先生は、
内なる「実相」に照らし合わせ、観た!!
となるわけですね。
そのとおりでありまする。
実相世界はまだはじまったばかりなんですよ。
本当の物語は、これからスタートいたしまする。
いやー、わたくし、ドリームタイムだけで十分なのでありまするが、
これに実相世界がくわわると、
いったいどれほどの喜びとなるのでありましょう。
ようやくスタート地点にたったばかりでこれほどの歓喜でありますからね。
これから先は、どうなってしまうんでしょうね。
ほんまに、とんでもない世界に入り込んでしまったという気がいたします。
585
:
初心者
:2011/07/08(金) 00:08:38
ところで、風景画についてちょっとだけ。
風景画は風景がなければ描けません。
なぜって、風景があるから風景画が存在するわけでありまして、
風景がなければ、そもそも風景画は存在しません。
生まれてこのかた、ずっとほら穴で育ち、外の風景を一度も見たことの
ない人がいるとします。
この人は、はたして「風景を描きたい」と思うでありましょうか。
思うことじたいが不可能でありますが、たとえ思ったとしても
描くことはできないはずであります。
風景を見たことのない神が「風景を描きたい」と思ったとすれば、
これはパラドックスであります。
586
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/08(金) 07:28:17
そうですね。ゆっくり行きましょう。ただ現時点で疑問などを一点、掲載
致します。
<585に関し>
うん、それは、ホラ穴に棲んでいた人の話でありましょう。でも全能者に
そんなものが果たして、必要なのでありましょうか。
全能者と申すからには雅春先生解釈――貴殿の言葉で申すなら、「風景画
なしに風景を描いたことになります」――の方がしっくりくると感じます。
いやこれ、屁理屈を捏ねているように印象されるかもしれません。しかし、
既述ですがこの箇所が愚生にとって「すべての意味不明要因?」という疑念が
拭えぬ次第なのでありまして・・・もしも他に上手い喩えなど思いつかれました
ら、再投稿願えませんか?「実相」と「実相世界」そして「実在世界」(それを
カタカナ化されようが)の再定義、これなくしてはどうも先に進めぬ気が致します。
587
:
初心者
:2011/07/08(金) 10:08:18
ブログ管理人様
どうしてわたくしは、いつもこのように追い込まれてしまうのでありましょう。
追い込まれることで無限力は発揮される。
たしかにこれは、つらい真理なのでありまする。
問題は、「神は風景なしに風景画を描けるのか」
ということでありまするね。
このことにしぼって書いてみましょう。
まずはジジェクが説明する天地創造からまいります。
ジジェクは、神ははじめ完全な無であったといいます。
無であるがゆえに何も欲しなかったと、このように考えます。
ところがあるとき、神は「何も欲しないことを欲した」のだそうです。
この「欲した」ことにより宇宙が創造されてしまったのだと、
ジジェクはこのように説いているようです。
こうした考え方は、神の直感知性を肯定するものです。
直観知性とは、思ったことは何でも実現させてしまう知性です。
ですから、神が何かを思えば、その瞬間に何かが創造されてしまうことになります。
ここでひとつの問題です。神は悪を思うことはできないのでしょうか。
全知全能であれば、悪を思うことは可能です。
もちろん思えるのに思わないということも可能です。
では、「何も欲しないこと欲する」というのは、善なのでしょうか、悪なのでしょうか。
神は「何も欲しないことを欲した」ために宇宙を想像してしまいました。
ジジェクは、これを神の失敗とみます。
そのために、不完全な宇宙ができてしまったと考えます。
神は「風景なしに風景画を描いた」とします。
すると、神は何でもできてしまうことになります。
すると、描いた絵画だけでも、何万点、何十万点、あるいはそれ以上に
なっていることでありましょう。
神は無限の表現力を持っています。
であれば、神の作品は無限の数になるはずです。
実相世界は、その無限の作品のなかのただの1作品にすぎません。
これでは少なくとも「実相世界独在」とはいえません。
ただの1作品である実相世界にどれほどの価値があるのでしょうか。
わたしたちは、実相世界に閉じ込められて、
ほかの作品を体験することはできなくなっているのでしょうか。
それとも、実相世界にいながら、ほかの作品を体験できているのでありましょうか。
もし体験できるとするなら、その「ほかの作品」とは何なのでしょうか。
それはどのような形で実相世界に顕現してくるのでありましょうか。
神は「風景なしで風景画を描ける」とするなら、
神はなんでもできてしまうということであり、
であれば、世界には何でも存在するということになってしまいます。
「世界には何でも存在する」というのは、あの恐るべき多世界解釈であります。
何でも存在する世界は、恐ろしい世界です。
前にも書きましたように、それは、人間が永遠に朽ち果てながら生き続ける世界の
存在を許容します。
それは肉体的な死のない世界です。
それは善なのでしょうか、悪なのでしょうか。
588
:
初心者
:2011/07/08(金) 10:25:39
ここでは「空」について述べます。
わたくしのいう「空」は、何もないという意味ではありません。
ドリームタイムでは、すべてが一体化され、あらゆる区別が存在しません。
そこは、分離も分割も不可能な世界であり、すべての存在者が混然と
一体化された世界であります。
こうした世界は、現実世界の根源でありますが、しかしそれが
どういうものかということを、言葉で説明することはできません。
それゆえに、「語られぬタオ」と呼ばれ、どんなに優秀な科学者にも
理解不能の「量子波動関数」とも呼ばれたりします。
仏教者は、この「語られぬタオ」を「空」と呼んできました。
ドリームタイムを「空」と呼ぶことに問題はないかと存じます。
589
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/08(金) 10:33:18
>初心者さま
となりますと、「実相」と「実相世界」そして「実在世界」とは、
それぞれどう定義されるのでありましょうか?これが不明ですと・・・過去
に投稿されたご文章、多分貴殿以外の議論参加者は意味把握が不能となるの
ではなかろかと・・・
追伸
空にも疑問がありますが、まずそれはさて置きます。またジジェクご引用
文は「無明縁起説」と思いますが、これも現段階ではさて置きます。
590
:
名無しさん
:2011/07/08(金) 12:38:35
ブログ管理人様
とりあえず今は、ほかのことはあとまわしにして、
直観知性の議論に限定すべきだと思います。
もしも世界が神の「思い」によって創造されるのであれば、
どのような世界ができあがるのかということに、
議論は限定されるべきかと存じます。
いま問題になっているのは、「風景がなくても神は風景を描けるのか」、
ということであります。
生長の家では「神は悪を思わない」といわれておりますが、「思わない」ということ
が意志であるとすれば、この意志により何かが創造されてしまう可能性は
否定できません。
「思わない」という「思い」によっても創造は起こるのでありましょうか。
無から有を創造しうるのが神であとすれば、「思わない」ということによっても
何かを創造しうるのが神ではありますまいか。
はたして神は、これまでどのような事物を創造してこられたのでありましょう。
それは実相世界だけであったのか、それともほかにも無限の数の事物を
創造してこられたのでありましょうか。
さらには、善悪はどのようにして決まるのでありましょうか。
永遠に生き続ける肉体は善なのでしょうか、悪なのでしょうか。
「風景がなくても神は風景を描ける」とされるブログ管理人様が、このあたりの
ことについてどのように考えておられるのか。
これは、はっきりさせねばならない重要な問題であります。
しかも、実相世界の定義にかんしましては、これはあきらかに生長の家が
負うべき責任であります。
神が無限の事物を創造したのであれば、実相世界の意味が問われることになります。
それとも神は実相世界のみを創造せられたのでしょうか。
答えるべきは、生長の家ではありませぬか。
591
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/08(金) 12:42:56
>初心者さま
思いついた質問を、やや放談モードにて掲載致します。なお、放談モード
とは申せ、貴殿が過去ご使用になられた語義を明瞭にする役目くらいは、あ
ることと思います。以下よろしくお願いします。(なお言わずもがなですが、
役行者さまへのご返答を優先されても構いません)
<質問1>
〝実在世界〟の創造者は誰なのか?
<質問背景>
貴殿ご主張に於かれては「神は風景画を描くにあたり、その対象を必要と
する」このような前提があります。そうしますと、この風景画の原型(貴殿
云われるところの〝実在世界〟)は、誰が、どのように、創造したのであり
ましょうか。「自身が駆動する」なる趣旨のご説明はありましたが、その駆
動せる主体は、なにになるのでありましょうか。
おそらくこの部分が明瞭でないため、本議論が錯綜しているような観が認
められる、そう思う故の問い合わせになります。
<質問2>
貴殿文脈での〝空〟は、『生命の實相』に於ける〝空〟とは、別種概念で
あるのでは?
<質問背景>
(無論、反生長の家的言説「大歓迎」の前提は崩れませんが)ここで貴殿が
使用された〝空〟の概念説明でありますが、おそらく当掲示板に於ける諸賢
――『生命の實相』読者に於かれては、完全意味不明になる説明ではなかろ
うか、少なくともそう危惧する次第です。そして当然ながら、愚生も意味が
解からぬ状態にある、そんな現在です。(間違いである、という意味ではあ
りません)
貴殿は〝空〟を「仏教者はこれを『語られぬタオ』と呼んできました」と
主張されておられます。つづけて「ドリームタイム(註:貴殿語の〝実在世
界〟のこと)を〝空〟と呼ぶことに問題はない」とされておられますが、し
かしながら、ここで仏教者が言ったとされる、その「語られぬタオ」とは
〝色即是空〟の文脈で語られた〝空〟なのではないでしょうか――つまり
〝現象なし〟の意味で使用された概念ではないでしょうか。
正統の般若心経解釈では〝色即是空〟(現象なし)の大断言のあとに〝空
即是色〟(實相あり)を宣言したわけであります。ですので少なくとも「創
造の本源(仮にそう呼称する)」に関して「それは=空である」と主張する
仏教徒がもしもあるならば、「それは迷いにおちた」との評価がなされるの
ではありませんか。(少なくとも個人的には、雅春先生と浄土真宗との間で
なされた論争で、解決済みの概念です。参考文献『親鸞の本心』)
くどいですが念のため補足を。ここまでの文章は反論ではありません。た
だ「語義の不明瞭さ解消のための」問い合わせであります。ここを念頭に置
かれた上で「追い詰められた」などと申されることなく、熟慮の労を願いたく
思います。
そしてこれまたくどいですが、定義不明瞭のまま進む宗教議論は実に不毛
です。それこそ「谷口雅春の話だった」のが、いつのまにか「福山雅治の話
になってた(笑)」なんてことになりがちなのが、この種の対話であります
から。上記質問がもととなり、「実相」と「実相世界」そして「実在世界」
の定義が明瞭になることを願う次第であります。
592
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/08(金) 12:49:50
>初心者さま
ああ同時投稿になりましたね(笑)
――――――――――――――――――――――――――
しかも、実相世界の定義にかんしましては、これはあきら
かに生長の家が負うべき責任であります。
――――――――――――――――――――――――――
責任所在論はまたさて置きまして、まずは貴殿ご主張の理解、これに努めて
いる次第です。語義の定義不明瞭のままでは、どのような言い方(方便)をする
のが適当か、それすらも不能となりましょう。
593
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/08(金) 12:56:44
あともう一点補足を。
上記で貴殿は「実相世界の定義にかんしましては、これはあきら
かに生長の家が負うべき責任であります。」と申されておられます。
ここはやや、事実誤認があるので語を接ぎますが、ここでの「実相世界」
なる語の定義とは「貴殿はどのような意味でご使用になられたのですか?」
という意味になろうかと、そう思う次第です。
愚生が「実相」と「実相世界」そして「実在世界」の定義が明瞭になるこ
とを願う次第であります。 などと書いている一連の問いかけは、「貴殿側が
どのような意味でご使用になられておられるのか」それが不明であるゆえであ
ります。その点再確認をお願い致します。
594
:
名無しさん
:2011/07/08(金) 15:25:28
ブログ管理人様
正直なところを申しますと、実相世界という言葉を、わたくしは
苦し紛れに使っておるのであります。
寂光世界を肯定する以上、実相世界は必要なかろうかと、そんな
気がしないでもありません。
わたくしの主張は、「神は自分の姿を見たかった」、ただこれだけなのであります。
たったこれだけのことでありますが、じつはこれには、解明不能ともいえる大きな
問題があります。
「自分」という概念は、この相対の世界で人間が持った概念であります。自と他の
区別のない世界で、自分という概念が生まれることは、おそらくなかろうと考えます。
神にとって相対の世界は存在しない。であれば、自と他の区別もあるはずもなく、
したがって自分という観念が生じるはずがないと、このように考えざるをえなくなる
わけであります。
そうなると「自分の姿を見たかった」という考え方じたいが成り立たなくなるわけで
あります。こうした解明不能の問題をかかえながら、わたくしは話を進めております。
けっきょくこれは相対化の問題なのですよ。神が神自身をどうやって相対化するか。
これが問題なのです。
しかしそれ以前に「自分」という感覚を持たない神が、なぜ、「自分」という観念を
必要とする「相対化」を発想さなったのか。
これがどうにも説明できずにおるわけであります。
したがって、ドリームタイムの問題も相対化の問題となります。神はドリームタイムを
相対化した。しかし「相対化したい」という発想がどこから出てきたのか。この説明が
不能となるのであります。
わたくしは解明不能の問題をかかえております。それは事実であります。
しかしそれなら、生長の家は、似たような問題をかかえていないのかというと、
わたくしにはかかえておるように見えるわけであります。
神が実相世界を創造したとすれば、これは、わたくしには、神が実相世界を
相対化したように見えるわけであります。
このわたくしの見方が正しければ、生長の家も相対化の問題をかかえていることに
なります。
そこでブログ管理人様は、「ドリームタイムは誰が創造したのか」と問われておる
わけでありますが、これにかんしては、神がドリームタイムを相対化した、としか
答えることができません。なぜ相対化したのか、となってくると、上記の理由に
より回答不能となってくるのであります。
そして実相世界の定義の話にもどりますが、すでに述べましたように、
「神が自分で自分を見る」という行為において、実相世界は、どうしても
必要なものとはいえなくなってくるのであります。
あえていうなら、「神が神自身の姿を永遠に見つづける」ということをお考えに
なられたとすれば、実相世界が必要となってくるのであります。
ここで、実相、ドリームタイム、実相世界を定義いたしますなら
実相は神ご自身の姿。
ドリームタイムは、神が神ご自身の姿を見ようとなさる行為。
実相世界は、神によって相対化された神ご自身の姿ということになります。
したがって、実相世界は、神が神ご自身を見ようとなさる行為の結果として
生じたものであり、神が行為によって神ご自身の姿をご覧になった時点で
行為を修了することも可能ということであれば、実相世界はあらわれない
ということになってまいります。
これが、わたくしの用いました言葉の定義になります。
595
:
初心者
:2011/07/08(金) 15:41:58
ふたたび「空」についてです。
オーストラリアの原住民は、世界は夢見られることで誕生した、と考えます。
大いなる存在の夢見がドリームタイムです。
神が、自分で自分の姿を見るという夢をご覧になった。これがドリームタイムです。
老荘思想では、これを「語り得ないタオ」と呼びます。物理学者は「量子波動関数」と
呼び、アメリカ先住民は「グレートスピリット」と呼びます。仏教徒がこれを「寂光」と
呼ぶのであれば、禅は「空」と名づけるだろうと考えました。
色即是空の「空」が、もしも「今の宇宙」を想定しているのであれば、この「空」が
ドリームタイムとなります。想定していなければ、まったく無関係であります。
596
:
山ちゃん1952
:2011/07/08(金) 16:22:52
うのはな様
泉涌寺のことを憶えて頂き、感謝申し上げます。
さて泉涌寺は御寺と呼ばれ沢山の皇室を祀っております。
江戸後期の天皇様や陵墓を弔っております菩提寺であります。
たしか12名の天皇様の御陵があります。
是非行って下さい。
東北には3か所の陵墓があります。一番北は秋田県羽黒山にある「蜂子皇子」の陵墓です。
天台宗はたくさん陵墓があります。有名なのは「曼殊院門跡跡」や「三千院門跡跡」などは有名
ですね。
東北では輪王寺の慈眼堂の「陵墓」ですね。幕末明治にかけての皇族の方で
北白川宮能久親王です。ただ皇子とかいう名称はついていません。
それと、昔の生長の家は「陵墓」参拝を行事として企画しました。
今は「マニア」とよばれていますが、(笑い)「天皇信仰」ならば当たり前であると
思っています。
また、その良さをしれば本当にいいです。ただ足腰を鍛えないと山頂に陵墓があることも
多いです。
また、雑木林の中などにもあり「マムシ注意」という立て看があります。
結構、探検心もなくては務まりません。
597
:
初心者
:2011/07/08(金) 18:11:43
役行者様
きょうは待望の花金でありますので、役行者様のご出座はないとみて、
のんびりとしておりました。
役行者様にたいしましては、わたくしは、わたくしにたいする
ブログ管理人様状態になってしまいます。
実相世界における弁証法的発展がイメージできずにおります。
正直もうしまして、実相世界はすでに完成した世界というイメージから
抜け出すことができないために、さらなる発展というのがどういうものなのか、
その具体的な姿を思い描けずにおるような次第であります。
また、わたくし的には、雅春先生が観られたという「実相世界のスタート」というよりも、
役行者様がいっておられる「実相世界へのスタート」という意味の言葉が
しっくりくるような気がいたします。
わたくしも、理屈では「実相世界はすでにある」といっておりますが、感覚的には、いまだ
顕在中なのであります。
まあ、精神的には、実相世界はすでにあると考えたほうが落ち着いてきますので、
落ち着くほうを選びたいというのが人情ではあります。
しかし、実感としては、実相世界いまだ顕現せず、なのであります。
そこで、
>>「今の宇宙」は、存在する確率がきわめて高い世界なのであります。
>なのですが、これらしきものは生長の家でも説かれているのではない
でしょうか?現象世界でも限りなく実相世界に近い世界なのですから、
それが、今の科学の発展により、より明確化されたと言った方
がいいのではないでしょうか!つまり、実相世界がより明確に存在
することが、この実在世界の存在で明らかになってきたと
みた方がいいかと存じます。素晴らしい発見だと思います。
の話になってくるのですが、たしかにドリームタイムは進化発展を遂げ、
実相世界にかなり近い存在になってきていると思います。
で、わたくし的には、このドリームタイムだけで十分なのではないのかと
さえ思える昨今なのであります。それでまあ、
実感できない実相世界より、実感できるドリームタイム。
と、このような考え方に落ち着くことになるのであります。
役行者様も「隠れ持論保持者」のようであられますが、実感という
ことでは、正直なところどのように考えておられるのでありましょう。
昨日は気合負けしてしまいましたが、一夜明けた本日は、役行者様の
実感ということで、日々どのような実感を持って暮らしておられるのか、
そこのところをご開示いただけたらと、ちょっとばかりひねくれたことを
考えてしまう初心者なのであります。
わたくしはやはり、自分にとってもっとも心地のよい思いをいだいて生きて
ゆきたいと、このように思ってしまうのであります。
598
:
役行者
:2011/07/08(金) 20:26:59
本日は花金でありますし、議論することは控えまして、感傷的な気持ち
を開示する次第でございます。少しだけ・・・
>一夜明けた本日は、役行者様の実感ということで、日々どのような
実感を持って暮らしておられるのか、そこのところをご開示いただけたらと、
ちょっとばかりひねくれたことを考えてしまう初心者なのであります。
私の日常を述べる前に、天才物理学者の湯川秀樹のある日常の一端を
紹介しますと、「理論上、数理の上で、物質がないのは分かるが、家に帰る
と妻が愚痴をいい、子供が泣いている・・・」というようなことを述べた
と聞いております。(正確でなかったらお許しください。)
というわけで、日常生活に、物質がない!を生きるのは、至難の技では
ないと思うのです。
湯川秀樹博士におかれましては、「量子波動関数」を学ぶなかで、
今の宇宙、実在世界を観じ入られていると私は勝手に予想するのです。
しかし、家に帰ると・・・なのです。
私の背景は置いておいて、なにやら、人は背負っているもの、しがらみ、
職場の人間関係、大きくいえば、今の政治体制のなかの生活、
人類が積み上げてきた心の影、厭なものが常に襲いかかってきます。
望みもしないのに・・・
その環境のなか、いま、一刻一刻、実相を観じる。
いやあ、達人になれということでしょう!!手強いですね。
ただ、私の場合、歓喜に満ち溢れた実感できる世界を、実相世界と
感覚的に定義しております。ですから、初心者様のような悩みはないのです。
逆に、実感できるドリームタイムを、実相世界に限りなく近い世界だと
なぜ、定義できないのでしょうか?
何か、初心者様の文章から時々垣間みえるものが、適切な表現でない
と思いますが、実相世界への嫌悪感なのです。
初心者様の実相世界の定義をイメージすると、何か殺風景な寂しい世界を
感じてしまいます。そこに議論が噛み合わない、すべての原因がある
ような気がするのですが・・・
勝手なことばかり言って、失礼いたしました。
きっと、訊け管理人様におかれましては、合コンにおきまして、
ドリームタイム真っ最中と存じます。失礼!!
599
:
初心者
:2011/07/08(金) 21:59:46
役行者様
>私の日常を述べる前に、天才物理学者の湯川秀樹のある日常の一端を
紹介しますと、「理論上、数理の上で、物質がないのは分かるが、家に帰る
と妻が愚痴をいい、子供が泣いている・・・」というようなことを述べた
と聞いております。
これは、れは、抱腹絶倒といっては、またちょっと語弊がありまするが、
まことに正直なる心情吐露でございまする。
シンガーソングライターの槇原敬之が、いつぞやテレビにて、コンサートで
ワーッと盛り上がって、家に帰ればイヌのフンの後片付けがまっていると、
達観した表情で述べておったのを思い出しました。
イヌのフンはたしかに物質でございますが、女房、子供は、ただの物質では
ないだけに、ちとやっかいではございまするね。
きのうも友人と、何やらこのような話をしました。
宇宙の神秘を味わってハッピーな気持ちになれるのは、たしかによいことであるが、
ひとたび人の世界に入ってしまうと、ハッピーな気分は吹き飛ぶのではないか、と。
なぜ人の世界は、かくも神秘とは遠く隔たっておるのでありましょう。
>何か、初心者様の文章から時々垣間みえるものが、適切な表現でない
と思いますが、実相世界への嫌悪感なのです。
初心者様の実相世界の定義をイメージすると、何か殺風景な寂しい世界を
感じてしまいます。そこに議論が噛み合わない、すべての原因がある
ような気がするのですが・・・
実相世界への嫌悪感。これが、わたくしが生長の家から脱落いたしました原因の
かなりの部分を占めているのかもしれません。
実相世界から人間は逃げた。このようにいわれれば、納得いたします。
実相世界というのは、どこか自由ではないような気がするのかもしれません。
いつもお行儀よくしてなきゃならない。いつも笑ってなきゃならない。
いつも感謝してなきゃならない。いつも神想観してなきゃならない。
こんな世界であるような気がいたします。
実相世界は嫌いです。
でも、これまでかかわってきた生長の家の仲間たちのことは、
ほんとうは大好きなんです。
きょうはなんだか、役行者様と、ほんの少しばかりの心の交流が
できたような気がいたします。
昔はいつもこんなだったな〜。
毎日、毎日、こうやって交流してたな〜。
わたくしは、大好きだった人たちのもとから逃げだしました。
600
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/09(土) 13:22:15
>初心者さま
今出先より拝読致しております。以前よりは大幅に定義の方が解りやすくな
ったように感じます。これからまた再読致しまして、なにがしかの駄文を投稿
いたしたく思います。
>役行者さま
天才物理学者の湯川秀樹のある日常――いやーこのネタ振りはタイムリー
やもしれません。
近日中にアップ予定だった記事を急遽、先ほどアップしました。ぜひご高覧
のほどを。
●真意「唯心所現」
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65566587.html
ドタバタ投稿になりましたんで、選択した写真が・・・なんか気に入りませんが、
まあ「急ぎ投稿をせねば!」な気持ちに駆られてしまい・・・
601
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/07/09(土) 13:28:29
>役行者さま
<合コンに関するご報告>
まあこれ、こんな書き方をしましたが、独身男女の出会いの場をセッティ
ングし、そして「少子化対策」を行わんとする、そんな愛国の赤誠からの動
機でありまして・・・(中略)・・・クドクドクド言い訳クドクドクド、で、
個人的楽しみなど、これっぽっちもなかったという(笑)
でもしかしオモシロイ話もありますんで後日詳細を述べます。参加者に雅
春先生の話をしたら、「あっ!私の名前の一字は、その方から頂いたんです」
な人がおりまして(笑)「でも『生命の實相』かあ、読んでないなあ」てな反
応でした(笑)・・・もう合コンすら布教の場ですよ(笑)維摩詰みたいな私
ですが、「あっ、この娘、キレイ」てな子が最低6名はいたという、そんな良
質で楽しい飲み会でしたんで・・・(中略)・・・「個人的楽しみなど、これ
っぽっちもなかった」はやや云いすぎ?(笑)
602
:
役行者
:2011/07/09(土) 16:11:13
>雅春先生に訊け管理人様
>まあこれ、こんな書き方をしましたが、独身男女の出会いの場をセッティ
ングし、そして「少子化対策」を行わんとする、そんな愛国の赤誠からの動
機でありまして・・・・・・「個人的楽しみなど、これっぽっちもなかった」
いやはや、大義名分を徒然なるままに・・・歓喜に満ち溢れた
ドリームタイムですね(笑)
>●真意「唯心所現」
見事に、タイムリーなこと!!こうなってくると救済にも無駄がないねぇ〜
ありがとうございました。しかし、これは、一つの写経ですね。頭が下がります。
と思うと同時に、初心者様
>実相世界への嫌悪感。これが、わたくしが生長の家から
脱落いたしました原因のかなりの部分を占めているのかもしれません。
実相世界から人間は逃げた。このようにいわれれば、納得いたします。
実相世界というのは、どこか自由ではないような気がするのかも
しれません。
いつもお行儀よくしてなきゃならない。いつも笑ってなきゃならない。
いつも感謝してなきゃならない。いつも神想観してなきゃならない。
こんな世界であるような気がいたします。
隠れ持論保持者である私にとって、分かる!!うん!!
これを一般的に分析しますと、2世、3世、4世の悩みですね。
贅沢なのかも知れませぬが、はじめから与えられた者にとって、
もっと違う自分を表現してみたい!と内なる叫びを聞いたことがある人は
少なくはないでしょう・・・
バーチャル名義人ならではの心の交流・・・捨てたもんじゃないねぇ〜
603
:
トキ
:2011/07/09(土) 17:44:17
>>602
臨死体験をした人の記録を読むと、臨死体験以後、既成の教会とか宗教に反発を感じて
離れる人が多いようです。では、信仰心がないかと言うとそうではなくて、臨死体験以前
は無神論だった人でも、臨死体験で信仰観が変わり信仰者になった人が多いようです。
宗教法人であるとか教会とかは、束縛が多く、愛情に乏しい面があります。谷口雅春先生
はそんな組織は作りたくない、と考えられたのですが、その生長の家ですら、谷口雅春先生
の御意思から離れた部分があります。特に、今は、環境問題とか「今の教え」とか、理解に
苦しむ状態になっています。
その点は、組織と信仰のあり方の関係を問い直す時期が来たのかもしれません。
合掌 ありがとうございます
604
:
初心者
:2011/07/09(土) 19:35:41
立花隆の「臨死体験」に木内鶴彦さんという方の体験が出ておりました。
木内さんは、世界的に名の知れたコメットハンター(彗星探索家)で、
「生き方は星空が教えてくれた」という本を出版しておられます。
木内さんの臨死体験は非常に変わったもので、臨死体験のあいだに
さまざまな体験をしておられますが、なかでも興味深いのが、
ビッグバン以前の世界に行ってみられたという話がありました。
木内さんによると、ビッグバン以前の世界は、圧倒的な意識の世界で
あったといいます。
そこには意識だけがあり、しかもそれは、世界のすべてを飲み込むような
圧倒的スケールの意識であったといいます。
その意識と木内さんの意識が一体化します。木内さんは、ビッグバン以前の
意識をじかに体験します。
そこで感じたのが、「退屈だ」という思いだったそうです。
圧倒的な意識と一体化した木内さんは、「自分は何もかも知っている」
という感覚を得たそうです。
「この世界に知らないものは何もない。世界のすべてを、自分は知っている」
というのが木内さんの実感であったそうです。
すべてのことを知っているというのは、一見すれば素晴らしいことのようですが、
知らないことが何もないという状態は、きわめて退屈な状態であったと、
木内さんは述懐します。
考えてみれば当然のことです。知らないことがあるからこそ、世界は刺激的で
ワクワクとしたものに感じられるのです。
すべてを知ってしまったというのは、何度も見て、すでに
ストーリーをぜんぶ覚えてしまった映画を見るようなものです。
あるいは、途中経過をすべて知っているスポーツの録画を見るような
ものでもあります。
きっとそれは退屈なものでありましょう。
わたくしにとって、もっとも大事に思えるのはフロンティアです。
それは、知っていることと知らないこととの境界面です。
真理を知れば知るほど、フロンティアは広がってゆきます。
フロンティアに限界はないよう思われます。知れば知るほど、
知らないことが増えていきます。知りたいと思うことが増えてまいります。
フロンティアは、尽きることがありません。
すべてを知ってしまったときが、フロンティアが消滅するときです。
実相世界にフロンティアはあるの?
木内さんの体験からすれば、フロンティアは期待できそうもありません。
役行者様のいわれるとおりかもしれません。
素晴らしいお宝をいただいておりながら、
「そんなもん、いらねえよ〜」
おいらに必要なのはフロンティアだけなのさ。
605
:
初心者
:2011/07/10(日) 08:03:15
わたくしの個人的な感想からいいますれば、「合コン」なる言葉がまだあったのか、
といいたくなるほど、久しく使い忘れていた言葉であります。
合コンといえば、苦い思い出がありまする。
これを書けば正体がバレるおそれがありますゆえ、書けませぬが、
生学連時代のとある合コンの、あの悲惨な記憶がよみがえってまいりました。
ところで、「近代」の特徴のひとつは、科学技術による救済の物語であろうかと存じます。
具体的にいいますれば、医学、健康食品、アンチエイジングなどの、多様な肉体救済手段
を科学技術が提供しているということがあげられるでありましょう。
さらには、機械化による労働の軽減や労働時間の短縮もまた救済といえるでありましょうし、
高速移動手段の発達によって、手軽に物見遊山の旅を楽しめるようになったというのも、
救済のひとつであるのかもしれません。
あるいはまた、ここでわたくしが展開しておりますような、科学的発見を宗教的な救済に
結びつけようとする動きがございます。これはいってみれば、宗教的救済を科学に
肩代わりさせようとするたくらみであります。
現教団によるエコ活動もまた、科学技術による救済の1バージョンでありましょう。
このように科学は、現代では救済と強く結びつけられているように思われてなりません。
いずれにしましても、「近代とは何ぞや」を考えるにあたって、科学技術による救済の物語は、かなり大きなウエイトを占めるものと予想しております。
話は変わりますが、わたくしはかつて、この掲示板で、物事を否定すればするほど、
その物事の持つ力は大きくなる、ということを書いたことがあります。
この法則にしたがえば、実相世界を否定するわたくしにとりまして、実相世界の力は
大きくなるばかりと考えます。
否定し続けた挙げ句に、気づいてみれば、実相世界がリアルになっていた。
こういうことが起こらないともかぎりません。
606
:
初心者
:2011/07/10(日) 08:25:55
科学による救済といえば、一時期、ニューサイエンスがもてはやされたことが
ありましたっけ。
「ターニングポイント」のフリッチョフ・カプラ、「形態共鳴場」のルーパート・シェルドレイク、
「生命潮流」のライアル・ワトソン、「脳のホログラフィーモデル」のカール・プリブラム、
「意識のスペクトル」のケン・ウイルバー、「ホロン革命」のアーサー・ケストラーなどと、
当時もてはやされた名前がつぎつぎと浮かんでまいります。
わたくしは、ニューサイエンスに大いに期待したものでありましたが、
いまやその言葉を聞くことはありません。
科学がついに真理を語りはじめた。そう思ったのも束の間、その後しばらくして、
ニューサイエンスは姿を消すことになります。
いまだ健在と思えるニューエイジャーがその末裔といったところでありましょうか。
1990年代あたりには、宇宙意識や高次元存在との交信とされるチャネリングが
脚光を浴び、バシャール担当のチャネラーであったダリル・アンカが活躍しておりました。
バシャール関係の本は何冊か買ってみました。
さらに、たしか1994年であったか、ジェイムズ・レッドフィールドの「聖なる予言」が
全米ナンバー1のベストセラーに輝きました。これも買って読みました。
「神との対話」の初版も、だいたいこのあたりではなかったかと思います。
いろいろと紆余曲折はあるにせよ、一般の人々の意識レベルは、昔とは
くらべものにならぬほどに上がってきておるように感じます。
ニューサイエンスから現代のスピリッチュアルにいたる流れのなかで、
人々の意識は、格段の成長を遂げたものと推察いたします。
かつての時代であれば、雅春先生の教えを知るものと、知らないものとでは、
その意識レベルにおいて雲泥の差があったと申せましょうが、
今の時代、この差がかなり縮まってきております。
生長の家の内部に目をうつすなら、昔の生長の家の人々と、今の人々とで、
どちらの意識レベルがより高次ものかと考えますれば、それはいわずもがなの
ことであるようにも思われます。
もしもし生長の家の人々の意識が低下傾向にあり、一般のまったく無宗教の人々の
意識レベルが上昇傾向にあるとするなら、いつしか彼我の関係が逆転する日が
こないともかぎりませぬ。
ドリームタイムに気づいている人々は、日本のなかにかぎっただけでも、
相当な数にのぼっているのかもしれません。
「物質がない」ということに気づいている人もおそらく少なくはないでしょう。
世界がマボロシだということにも、多くの人々が気づきつつあります。
ひょっとすれば、「病気なんてないよ」という会話が当たり前になる時代が
すぐそこまで来ているのかもしれません(さすがにこれは、しばらく先でありましょうけど)。
世間一般の人々の意識レベルが上昇傾向にあると考えられるこの時代に、
はたして生長の家は、旧態依然としたままであってよいのでありましょうか。
世間の人々以上に、意識の向上に努めなければならないのではありますまいか。
もしそうであるとするなら、そのために何をなせばよいのでしょう。
この問いかけが、そのまま「近代とは何ぞや」の問いかけにつながるような
気がしてなりません。
607
:
初心者
:2011/07/10(日) 09:20:24
近代という時代は、宗教による救済から科学による救済へとシフトしつつ
ある時代であるのかもしれません。
現総裁は、宗教ではなく科学による救済を選択したとも考えることができそうです。
科学は日進月歩の進化を遂げているようにも見えます。
そのうち科学が、重大な真理に到達する日がこないとは断言できません。
すべての救済が科学にゆだねられる。
そんな時代がこないという確証を、わたくしは持つことができません。
科学的思考によって意識の向上がはかれるのであれば、人々は科学を
学ぼうとするでしょう。
科学の力によって、どこまでも意識を向上させてゆこうと考えるはずです。
そしてもしもそのことが可能であるとするなら、科学が宗教を凌駕する
日がかならずやってくるということなのです。
いまや仏教の僧侶が書いた本のなかにも、科学的な見方による救済ばかりが、
これでもかというくらいに述べ立てられているのが現実であります。
おなじひとつの事柄について論ずるにしても、これを宗教的な立場から論ずる
のと、脳科学の立場から論ずるのとでは、脳科学から論じたほうを人々は信頼する
という傾向があるといわれております。
これは、科学による説法と、宗教による説法の優劣の問題なのであります。
人々は、宗教よりも科学の説法を信じる。こうした傾向が顕著なのであります。
もちろん、量子力学やひも理論を持ち出しても、人々は、容易には信じようとしません。
そこで科学は、ブームになっている脳科学で語ろうとします。
データを示しながら、人間とはこういうものだと、脳科学の立場から説明する。
そうすれば、たとえそれがデタラメな説明であったとしても、多くの人はその説明を
鵜呑みにする傾向があるのです。
科学はこれからも、脳科学だけでなく、人々を信じ込ませ、飲みこんでゆくことのできる
新説法をつぎからつぎへと編み出してゆくことでありましょう。
めくるめくばかりの真理的世界を人々に示してゆくことになるのでありましょう。
しかし、宗教の側は、いま以上に進歩する方法を知らずにおります。
旧態依然とした説法で、進化してゆく科学の説法に対抗してゆくしかありません。
現総裁はそんな宗教に見切りをつけたのでありましょう。
科学的手段による説法に乗り換えたのでありましょう。
さあ生長の家よ、どうするのか。
これが雅春先生から示された禅の公案であると考えます。
608
:
復興G
:2011/07/10(日) 14:48:52
初心者様のお誘いで、こちらの掲示板を初めて訪問させていただきます、復興Gです。
まず、この板の内容の広大無辺なスケール(宇宙的スケールですね)、密度が濃く膨大な情報量・・・・・・等に圧倒され、浅学非才にして体力的にもそれほどタフでない、愚鈍なる私には、これを消化して何かを書き込むことは容易ならざることであると、ため息をついているところであります。
しかし、谷口雅春先生から与えられた禅の公案から、逃げ出すわけにはいかない。参加させて頂きます。
前述の「浅学非才」はまだしも、「体力的にもタフでない、愚鈍なる・・・」 は間違ってました。「神の子、無限力」をいただいて、神に生かされている私でありました。
しかし、時間をください。私は現役の方たちとは逆にウィークデイよりも土日の方が、ボランティア活動で忙しいのであります。今日もこれから出かけなければなりません。そして、膨大な情報量の今までのログを、まず読まなければなりません。
では、しばらくのご猶予を。再拝
609
:
初心者
:2011/07/10(日) 15:31:58
復興G様、どうぞごゆっくりなさってください。
ここでの論争は、まだまだ解決しておらず、あせらずのんびりやっていこうと、
みなさまこのように考えておられます。
近代につきましては、これから思いついたことを書いてゆくつもりでおりますので、
まずはこちらのほうを読んでいただいて、ご意見などをお聞かせねがえれば
ありがたく存じます。
610
:
初心者
:2011/07/10(日) 15:33:46
「近代」についてすこし書きます。
英国ブレア政権版の「第3の道」を提唱したアンソニー・ギデンズに「リスク社会」と
いう考え方があるようです。
「リスク社会」によって想定されるリスクは、自然界に存在するリスク、たとえば地震や
台風、火山の噴火といったリスクとは異なります。「社会」という言葉からもわかるように、
それは人間がつくり出したリスクという意味です。
そのリスクのひとつが「地球温暖化」です。地球温暖化は、人間がつくり出したリスクです。
人間がつくり出したという意味では、地球温暖化は、ほっておいて自然に回復することが
ほとんど期待できないリスクということになります。
これが何を意味するのかといえば、地球温暖化が事実であれば、その解決を
神の手に(すなわち自然の回復力に)ゆだねることはできないということなのであります。
地球温暖化は、人間が解決するしかないリスクなのであります。
ここで、「リスク社会」のリスクの本当の意味があきらかとなります。「リスク社会」の
リスクは、解決することそれ自体がリスクになるということなのです。地球温暖化を
解決するために原子力を用いるのであれば、それが新たなリスクとなります。
原子力を用いないとすれば、それは経済の衰退をまねきかねないというリスクとなります。
何をやっても八方ふさがり。これがリスク社会のリスクであり、人間の浅はかな知恵が
生み出したリスクの正体です。
ギデンズは、こうした、リスクの解決がリスクとなって帰ってくる状況を「再帰性」と
名づけたのではないかと思います。
地球温暖化は、神の手にゆだねることのできない再帰的課題である。
現総裁はおそらく、ギデンズの「リスク社会」に感化されて、このように判断
なさったのでありましょう。
近代においては、「再帰性」がつねに問題になります。
問題はすべて自分から出て自分に帰ってくる。これが再帰性であります。
近代以前はどうだったでありましょう。
その時代、神も自然も伝統的社会も、たしかに存在していました。
神、自然、伝統は、問題の吸収体となりえたのであります。
かつての時代に、近代のような大規模な自然破壊や環境破壊は、おそらく
なかったはずです。問題が発生したとしても、自然が吸収体となり、
その回復力にゆだねることで問題の解決は可能であったはずです。
個人の問題もまた、伝統的社会の調整機能によって、かなりの部分までは
解決可能であったろうと思います。
近代になって、神、自然、伝統といった吸収体は消滅しました。
神は死んだ。ニーチェのこの言葉が近代の混迷を告げました。
自然破壊は、自然の回復力をはるかに超えました。
伝統社会は、新自由主義の台頭によって、最後のとどめを刺されました。
人々のまわりから、問題の吸収体が消えました。
すべての問題を自分で解決するよりほかはなく、解決しようとする行為が
さらなる問題を生みだすという再帰性が出てきました。
こうした再帰性に現代人はとらえられております。
わたくしが実相世界を嫌うのも、その深層には再帰性があるはずです。
自分の問題はすべて自分で解決しなければ気がすまない。
自分から出た問題は自分に帰ってこなければ気がすまない。
これが再帰性パラノイアであります。
再帰性パラノイアは問題の吸収体を欲していません。
実相世界に問題の解決をゆだるのではなく、問題をあくまでも自分自身の問題と
とらえ、自分で解決することを望むのであります。
近代は再帰性の時代です。
脳科学やスピリッチュアルブームの背景にも再帰性が見え隠れいたします。
現代人は、自分で自分の意識を向上させなくては気がすまなくなっている。
だからこそ、ニューサイエンスからスピリッチュアルにいたる意識拡大ブームを
くり返し体験することで、問題の再帰性を維持してきたのだろうという気がいたします。
現総裁が推し進めるエゴブームもまたこの流れかと存じます。
現総裁を追放したからといって、近代から再帰性が消え去るわけではありません。
再帰性の背景には、死んだとされる神、自然状態からのひきこもり、マネーや商品に
よって破壊された伝統的社会の問題が折り重なっていることを忘れてはなりません。
「リスク社会」の問題点は、リスクを一気に解消してくれる神が存在しないと考えられて
いることにこそあるのです。
地球温暖化の問題を解決してくれる神や自然が存在しないと考えられる以上、
それは人間がどうしてもやらざるを得ない課題となります。
神は何もやってくれない。
現総裁は、きっとこのように考えておられるはずです。
611
:
緑の意思
:2011/07/10(日) 22:43:43
>宗教による救済から科学による救済へとシフト
も一理、しかし今は宗教と科学の統合の方向へ、とも言えるかもしれませんね。
初心者様が考察されますように、人類の霊的意識レベルは格段に、引き上げられていますから、今の時代、旧態然とする宗教組織体制に従うなら、逆に精神の向上を妨げることになっていることは確かだと思います。
ダライ・ラマ14世と科学者の対談の話ですが、お相手をした科学者は、それこそ人類の最先端科学の知識を持つわけですが、人類の未来への展望を語るにどうも深みを感じられない印象だったのです。ダライ・ラマは純粋な真理の探求として、科学に深い興味を持たれながら、宗教の叡智を統合させる方向を見据えていらっしゃる感じがしました。やはり統合、という最後の一打は、宗教的叡智が不可欠と感じます。人類意識の覚醒の最後の片栗粉の一滴のようなものが、この叡智に存在するという印象でした。
いくら脳科学のミラーニューロンが人間の文化的活動の源泉だと説かれても、それが魂の救いになるとは思えません。
科学者においても、宗教的神話や、偉大な慈悲心の存在へ目を向ければ、科学技術の暴走などはなくなると思われます。
その統合は宗教家(あるいは人類意識全体の向上)力量にもよるところで…生長の家では今の総裁がそれを成し遂げる兆しを今の時点で、見いだすことはできないと感じているでしょう。
私は地球温暖化説懐疑派の方でして、持論、とまでは言いませんので、温暖化説も黙って聞いてる口ですが、やはり、「人類にしか解決できないリスク」というところに、どうしても一部の策略的なものや意図された限界、を感じてしまいます。もっと大きな地球的変革も考えられます。(また、個人的に自然に近い生活を目指すのは、心が喜び好きだからやろう、と思うだけで、人類に与えられた反省や使命からは多分…続けないと思います。だから、これが宗教的教えになることが理解できません。)地球環境、美しい言葉ですが、その前に国土の魂を疎かにして環境の問題は、ないということも思います。日本の自然から日本独特精神構造が育まれたと考えられますが、逆も、つまり、精神に反映した自然が育まれる可能性も大きいと考えます。
自然や地球環境は、人間の霊性に、思う以上強く関係があり、つまり物質的汚染以上に、精神の荒廃の感応が自然環境を悪化させている、と思えます。自然自体もそれぞれ植物や動物が内在する自然計算により相互作用の調和が保たれていることが、具体的な化学物質として証明されていますが、人間の精神的反応から、他の物質に影響を与えていることも明らかになってきているので、今はこのことも理解がしやすいと思います。
だから、宗教は、もっと神話の復活や人間の感謝、慈悲心、供養の心、など自信を持って強く伝えることが大切で、一見非科学的に思えるそのことが、地球の危機に人間が責任を負える、キーワードだと、やはり思えます。
初心者様のお相手をする力量や知識もないのに、拙い言葉でだらだらと思うつくことを書きまして、失礼しました。でも、初心者様のお話は、私の鈍な理解ながら、知的なインスピレーションに飛んでいてワクワクさせて頂いています。ありがとうございます。
612
:
緑の意思
:2011/07/11(月) 10:03:44
>地球温暖化二酸化炭素説 ◯
地球温暖化説 ×
613
:
初心者
:2011/07/11(月) 11:56:14
緑の意思様
おっしゃられておられるように、科学と宗教の関係をどうとらえるのかということが、
宗教界がかかえるこんにち的な課題であるのはたしかだろうと考えます。
このあたりで問題を整理しておく必要がありそうです。
それは、生長の家に何ができるのか、ということです。
人類はすでに、地球温暖化だけでなく、ほかにも多くのリスクをつくり出しています。
それは多剤耐性菌の出現であったり、ウイルスの拡散であったり、遺伝子組換え技術に
よる、予測不可能な生物出現の危険性であったりと、おそらく元にもどるのは不可能と
思えるさまざまなリスクを、人類はつくり出してしまいました。
これらのリスクは、世間一般では、すべては人間の強欲がつくり出したリスクであり、
したがって問題の解決は、神や自然にゆだねられるべきではなく、人間が解決する
しかないリスクと考えられているように思われます。
こうしたリスクに対して生長の家は何ができるのでしょうか。
その答えを出す必要があります。
現教団にたいする批判は、地球温暖化の問題は宗教が取り組む課題ではない、
というのが大勢であるような気がいたします。
わたくしにすれば、こうした批判は的はずれでしかありません。
人類はすでに逃れようのないリスクに呑み込まれています。
リスクの解決がさらなるリスクを生む。
このことに、人類はすでに気づいています。
感染症のリスクを減らすために、人類は抗生物質を発明しました。
その抗生物質が、多剤耐性菌という新たなリスクを生みだしました。
あるいは、農薬の乱用による薬剤耐性昆虫の出現が予測されます。
薬剤耐性昆虫が出現すれば、それは人類の滅亡へと直結します。
人類はすでに、逃れようのないリスクの循環をつくり出してしまいました。
これにたいして生長の家は何ができるのか。
現教団を批判したところで、何も示したことにはならないでしょう。
人類をリスクの循環から救いだすことにはならないでしょう。
いま問われているのは、生長の家は、かつて存在しなかったこれらの
リスクをどう捉えているのかということだろうと思います。
それは本当に、宗教が取り組むべき課題ではないのでしょうか。
わたくしは、まずこのあたりから問題を掘り起こしてゆくべきだろうと
考えています。
614
:
緑の意思
:2011/07/11(月) 13:32:53
雅春先生は、現代の科学者が「地球が心を持っている」という、半世紀以上も前に、地球の意識や魂のことについて言及され、原発や地下の原子力実験が、人類の意識に如何に悪影響を与えるかということも、すでに詳細にお説き下さっています。自然界の細菌やウイルス類に至るまで、人間の意識に敏感に反応することもまた、証明されてきているところと思います。
宗教が科学や環境問題に取り組むことは、避けられないと私も思います。生長の家の場合、いまの総裁のその取り組み方ですね。
生長の家は環境ISOの取得を、環境問題実践する宗教団体として殊更に宣伝しましたし、森のオフィス構想も自然との共存の実践の根拠のように、話されています。ISOの取り組みにしろ、それは一つの管理システムにしかすぎず、まあそうしたことを全く否定するわけではないですが、現総裁の組織では、偏りを感じざるを得ないと思います。宗教の大事な根本となる魂や救いなどの問題を脇においておくようにみえる方針を展開し、人間に与えられたリスクとしての地球環境問題に取り組みましょう、という姿勢は、本当の宗教の役割を果たしているのか…。魂の救いも環境問題も根本は同じ人間の魂や意識の問題として、すでに雅春先生は説いて下さっていますので、そこに学ぶことを皆様が望んでおられるのではないでしょうか。
615
:
初心者
:2011/07/11(月) 14:39:36
緑の意思様
現教団が環境問題に取り組んでいることは、ある程度は評価する必要がある
かと思います。ただ活動に取り組むにあたって、神や自然との関係を
どこまで明確にしてきたのか。そのあたりに疑問点が残ります。
活動に取り組むにあたっても、そこには宗教的な深さが表明されていなければ
ならないはずです。わたくしは、現教団とのかかわりはまったくありませんが、
傍から見ているぶんには、あまりに浅薄であるという印象はぬぐいきれずにおります。
そこで、現教団が顧みようとしない魂の救済が問題になってくることになりますが、
今という時代は、各個人が、自分の力でそれをやろうとしている時代であるような
気がしなくもありません。
宗教や組織を必要としない人々が増えてきているような気がします。
かつての時代、人々は、自分の代わりに世界を救ってくれる救世主を待望いたしました。
今や人々は、救世主にたよらず、自分で自分を救済しようとしているかのようです。
おそらくわたくしもその中のひとりでありまして、教団組織にたよらず、人の力にも
たよらず、自分自身で自分の救済をやり遂げようとしてまいったような気がします。
ですから、わたくしがここでくり広げておりますものも、教団という組織にたいする
批判の側面もあろうかと存じます。緑の意思様もいっておられますように、
人類の意識は、ほんの20年、30年前とくらべましても、そうとうに高いレベルに
達しているような気がします。少なくとも、そのように感じさせる人は少なくない
ように思います。
自分で自分を救済しようとして、しかもそれをやり遂げてしまう人々があらわれてきた
なかで、宗教組織が果たすべき役割が問われているように思います。わたくしは、
そういった側面から、こちらでしつこく、教義までふくめて、あらゆる批判をおこなって
まいったつもりであります。
わたくしは、生長の家が憎くて批判しているわけではありません。
(多少の嫉妬がまじっているのは認めますが)
生長の家のみなさまが、批判にどう応えてくださるのか。
それによって教団の将来を占おうとしているような気がいたします。
616
:
トキ
:2011/07/11(月) 18:28:47
昔の生長の家学生連盟などの活動家の中には、活動に熱心なあまり大学を中退した人が
たくさんいると聞いた事があります。私の頃は、さすがに中退というのは厳重に戒められ
ていましたが、それでも留年というのは珍しくありませんでした。留年が続くと、生長の家のエラい
人に喚びだされ、活動停止、学業に専念すること、とのご命令を下る事がありました。
本人は、日本のため、世界のためと力んでいても、学業を放棄して活動をするのは本末転倒です。
ましてや、活動のために中退するなど、周囲の人にも迷惑で、本人の将来も危うくし、生長の家に
とっても不名誉な事です。
さて、生長の家など宗教法人と環境問題を考える時には、「本業はどちらか」という事を考える
必要があります。世界的な視野での発想とか、地球の危機とか言っても、その法人には、本来の使命
があります。宗教法人の本来の目的は、信仰であります。もちろん、宗教者としての立場で、社会に
警鐘をならすのは大事な事ですが、基本的には、本業をきちんとした上での奉仕活動になります。
その優先順位を間違うと、とんでもない話になります。
それと、環境問題、人間疎外の問題は、人間が作り上げた問題ですから、多くの人が気がついており
また、重大な政治的な課題になっています。優れた頭脳と熱い情熱をもった人達が既にこの問題には
かかわっています。そういう人達の努力というものを過小評価するのは間違いだと思います。餅は餅屋
で、環境の事は環境専門家の主導にまかせ、宗教は宗教でなければ出来ない部分を担うのが、本来の
役割り分担かと思います。
とりとめもない感想を述べて、すみませんでした。
合掌 ありがとうございます
617
:
かぴばら
:2011/07/11(月) 19:15:06
初心者さまへ
横からちゃちゃを入れて申し訳ないですけど、教えてください。個人が覚醒してきていると言うのはよくわかるお話ですが、ああいう人達って○○星人とか、クリスタルチルドレンとか諸々のことはとても詳しいんですけど、親に感謝とか、先祖供養とかそういうことって全然言わないですよね。
それって必要ないんですか?
ちょっとお子ちゃまな私(精神がですが・爆・爆)にも教えて下さい。
618
:
トキ
:2011/07/11(月) 19:33:07
初心者様からの重大なご提言を興味深く拝見しました。
またまた、学生の話ですが、大学受験にしろ、資格試験にしろ、中には独学で
難関大学や難関資格に合格する人はいます。しかし、そんな例は少数で、やはり
予備校に通って教えてもらう必要はあります。
インターネットが発達し、本も図書館に行けば自由に読める時代ですが、それ
でも、信仰について勉強する時に、多くの人にとっては、やはり困難が伴うという
面はあると思います。
ですから、私のような凡才にとっては、やはり教えてくれる人がいて一緒に勉強
が出来る同志がいる組織は都合がよい場所でした。
ただ、個人の考え方がより多様化する時代ですから、今までのようなやり方では
難しいとは思っています。
と、またまた、とりとめもない事を書いて、どうもすみません。
合掌 ありがとうございます
619
:
緑の意思
:2011/07/11(月) 20:19:26
初心者様
初心者のおっしゃる通り、宗教組織の存在は、問われる時代なのかもしれませんね。
インドの宗教家クリシュナムルティが、自ら長をつとめる宗教団体を「真理は権威者を必要とするものではなく、まして集団に属するものではありえない」として解散し、宗教組織や組織的な活動によって真理に到達することは不可能である。永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な人間がいてくれれば充分であると言ったことは、真理なのかもしれないと思うところもあります。そもそも、霊性の向上に、組織は必要なのか、とかについては、実は私も考えるところはあります。
しかしトキ様がおっしゃるように、私も生長の家の団体がなければ、雅春先生の教えや諸先輩方の愛に触れることができなかったのですから…必要さについては全面否定できませんね。
確かに総裁は、現代の問題に生長の家の役割を見い出そうと模索されてきた、しようとしていることは認めますが、それが浅薄である、と見えるところに、いまの方針に偏りや限界があるところと思います。また、現代でも充分対応可能な偉大な教えさえも、排除の対象とするようなところに、個人の人格まで問われるところです、、
生長の家組織擁護派の方や雅宣総裁の方針擁護派の方には、初心者様の真摯な問いかけに答えて頂いて、これからの展望を見せて頂きたいところですがね。
>かぴばら様
私こそ、横からすみませんが〜、これは由々しき問題と思いますよ、、
人間が生まれる霊線となるご先祖抜きに、なんとか星人だの、なんとかチルドレンだの、ってあるかい〜、って世界ですよね…
身近な家族やご先祖を放って、魂の浄化だの、神の愛だの、は、信用できない、と私は思います。
620
:
初心者
:2011/07/11(月) 20:26:43
トキ様、ありがとうございます。
たしかにエコ活動は宗教のやるべきことではございません。
それでも、現教団によるエコ活動は、評価に値するとわたくしは考えます。
それはなぜかといえば、現教団がエコ活動に邁進してくれたことで、
現代社会に広がりつつある真の危機が明らかになったからであります。
「リスク社会」という言葉を最初に提言したのは、ウルリッヒ・ベックという社会学者
であったそうです。ベックの主張は、手に負えなくなったリスクをいかにして分散する
かということでありました。
リスク社会のリスクは、人間によって選択されたものです。それは自然災害とは異なります。
人間がみずから引き受け、拡大させていったリスクです。
1980年代、多くの国家が財政破たんのリスクにさらされました。
リスク回避のために、リスクの分散がおこなわれました。
いうまでもなくそれが新自由主義の潮流です。
国家が背負うべきリスクが分散され、個人が引き受けざるを得なくなりました。
個人は選択の自由をあたえられ、その代わりに、選択することのリスクを背負わされました。
リスク社会とは、個人がリスクを背負い、そのリスクを回避、分散するための方策を、
個人が絶え間なく模索しつづけなければならない社会だったのです。
自己責任を個人に強いるのがリスク社会です。
リスク社会においては、個人は自分で選択し、自分の道を自分で切り開いて
いかねばなりません。
自分で自分を救済しなければならない。
このように考える人々が増えてきたのは、それがリスク社会の要請であったからです。
自力で意識を高めなければならないと思いつめるほどに、個人は追い詰められています。
リスク社会において、個人は、みずからの意識を高めることを強制されます。
自分の道を自分で歩め!
リスク社会は個人に強制します。
現教団は、見事に地球温暖化のリスクの分散化を引き受け、それと引き換えに、
個人にたいして背負うべき意識拡大の責任から逃れました。
現教団は、まさにリスク社会の申し子であります。
組織として、地球温暖化のリスクを引き受け、
組織として、信仰の自由を個人に分散させました。
自由に信仰せよ。
今や信徒は、このように強制されております。
621
:
初心者
:2011/07/11(月) 20:59:34
かぴばらさま〜、おられたのでありますか。
ネットでカピバラを検索してこのかた、あの体形を忘れることができずにおります。
かぴばら様は否定なさいましたが、わたくしにとりましては、あの体形が
かぴばら様なのでありますぅ〜。
出てこられるのをお待ちしておりました。
でも、いきなりのするどいツッコミであります。
答えをいいますと、今の時代、人々は自分のことで手いっぱいといった
ところなのではないでしょうか。
伝統的社会はすでに破壊され、地域の連帯感は失われました。
自分の問題は自分で解決せよというのが社会の要請のようでもあります。
人々は逃げ場を模索しているのかもしれません。
その逃げ場が、親でもなければご先祖でもなく、どこかの見知らぬ
惑星であったのかもしれません。
人々は意識を拡大させましたが、それはけっきょく逃げ場をさがす
ためだったのかもしれません。
残念なことに、宗教組織は逃げ場にさえなることができなかったのであります。
現教団は、リスク社会における宗教組織のあり方を見事に体現してくれている
ようにも思われます。
622
:
初心者
:2011/07/11(月) 21:01:43
緑の意思様
話が「リスク社会」などと、途方もない方向へ向かっております。
現教団は、宗教とリスク社会のかかわりを、いみじくもわたくしたちに
教えてくれているような気がいたします。
個人ははたして、正常な形での意識の拡大を成し遂げているのか。
かぴばら様はこの点を危惧しておられます。
もしも意識拡大ブームがリスク社会の産物であるとするなら、
これにたいして適正な解を出すのが、生長の家の役割であるはずです。
「何の束縛も受けない自由な人間」
今の時代、人々は自由を強制されているように感じます。
リスク社会において「何の束縛も受けない自由な人間」は存在しない
ということが、ひとつの問題であるような気がいたします。
623
:
義春
:2011/07/11(月) 21:14:50
>>622
初心者さま
自由である事に束縛される…か。凄い矛盾であるけど、若い子の就活観てたら、そんな子が結構いますね…。
私?私は義春である事に束縛されてます。矜持という言葉は、一発変換されないくらい廃れた言葉になってしまったけど、でも、己が大事とした事を守るくらいの矜持はあって良いと想うのですよね。
624
:
初心者
:2011/07/11(月) 23:16:17
義春さんへ
あるブログに、自分にあった好きな仕事を見つけよと、若者たちは、リスク社会から
強制されている、といったような意味のことが書かれていました。
今の時代は、自由に生きることが強制されている時代であると思います。
自由になった個人は、こんどは束縛をさがしはじめます。
どこかに自分をあやつっている真犯人がいるにちがいないと、
こんな疑いを持ち始めます。
人々は、自分を背後からあやつってくれる存在を、本当は待ち望んでいるのかもしれません。
自分で自分を束縛する。
それができれば、真犯人をさがす必要はなさそうですね。
それにしてもわたくし、自分で問題を提起しておきながら、
自分で答えてしまっているような気がいたします。
625
:
緑の意思
:2011/07/11(月) 23:43:54
自由を強制される、というのは現代の実感かもしれませんね、
やっぱり、現教団は、リスク社会における宗教団体が受けるべきリスクの選択を、間違えてるってことじゃないですかね…。
個人が正常なる意識の拡大を目指すための指導的役割を担うべきなのに、それは、なんとか星人に、任せちゃってるわけですかね、?
真の秩序に従った魂の自由のため霊的指導できるのが、宗教の役割と思ってましたが…
そういう役割も、「リスク社会」においては崩壊してるんのですかね?
自由が強制に感じるのは、従うべき秩序を失っているからじゃないでしょうか?真の秩序になら、人間は喜んで従いたいものです。
先祖供養抜きに神の世界は有り得ないし、日本国を売り飛ばして地球人とか、有り得ないし…。
そうした秩序なくして、個人の真理の探求って難しいと思うんですよね。
その秩序を示せるのが、生長の家の真理だとおもうところです。
626
:
初心者
:2011/07/12(火) 10:10:56
緑の意思様
>やっぱり、現教団は、リスク社会における宗教団体が受けるべきリスクの選択を、間違えてるってことじゃないですかね…。
教団が間違えてくれたお陰で、問題の真の在り処を明らかにできるかもしれません。
教団が間違えてくれなければ、問題があることを知らずにやり過ごしていた可能性も
あるわけですから。
今の時代、人々に何が起きているのでしょうか。
「現象はない」で起きていることを無視して光明面だけを観ているとすれば、
見るべきものが見えてこなくなる可能性もあるかもしれません。
いま何が起きているのか。これを明らかにすることが、公案を解くひとつのカギに
なるような気がします。
>個人が正常なる意識の拡大を目指すための指導的役割を担うべきなのに、それは、なんとか星人に、任せちゃってるわけですかね、?
たしか惑星エササニから来たというバシャールは、地球人に向けて多くのメッセージを
残しました。
そのなかでもっとも有名なのが「ワクワクすることをしなさい」というメッセージでありました。
これを聞いて、ワクワクしながら生きることを選択した人たちがいたはずです。
でもそれは、ワクワクして生きることを自分自身に強制しただけであったように思います。
異星人のメッセージは、たしかに心地よくて、誰もが受け入れやすいものですが、
いかんせん、言葉に深みがありません。
どれもワンパターンで、最終的に人々は、決まりきった生き方を選択させられてしまった
だけのようでありました。
いってみれば、現総裁から発せられるメッセージもまた異星人バージョンのひとつである
のかもしれません。
現総裁は、救済を異星人に任せているのではなく、総裁自身がすでに異星人なのです。
>真の秩序に従った魂の自由のため霊的指導できるのが、宗教の役割と思ってましたが
そういう役割も、「リスク社会」においては崩壊してるんのですかね?
秩序それじたいが崩壊した。それが「リスク社会」の真の姿であるのかもしれません。
したがうべき秩序や規範がないために、人々は、自分の生き方をすべて自分で決めな
くてはならないという強迫観念にしばられているようです。
人間は、秩序のなかに身を置くことによってしか、自分が何者であるのかを
決めることができないのかもしれません。会社にいるときは肩書があって、それが自分
であると、たいていの人は納得しているはずです。定年退職して、秩序から離れると同時に
肩書きも消え、自分がどこの何者であるのかがわからなくなる人がいるといいます。
かつての時代であれば、自分が何者であるかは、世の中がすべて決めてくれていたに
違いありません。どこそこの村の権兵衛ということさえわかっていれば、それだけで、
自分で何も決めずとも安心して生きていられた時代であったようです。
今は、自分のことはすべて自分が決めなくてはならない時代のように思えます。
それでも、会社にいれば、会社という組織が、自分の代わりに決めてくれます。
組織を離れて個人になったとき、人は自分のことは自分で決めなければならない
という現実に直面させられます。
この掲示板で、「内部と外部」というテーマで、こうした問題について書いたことが
あります。教団という組織をひとたび離れると、自分が神の子であるということを
自分で言い続けなくてはならなくなるのです。
今という時代は、真の秩序にもとづいた霊的指導者不在の時代です。
秩序が崩壊した今だからこそ、異星人に出番がまわってきたともいえそうです。
強制された自由のなかで、人々は秩序を探し求めているのかもしれませんが、
たよるべき秩序は、もはやどこにもありません。
627
:
緑の意思
:2011/07/12(火) 15:40:31
初心者様
>これを聞いて、ワクワクしながら生きることを選択した人たちがいたはずです。
パシャールの「ワクワク」は、たぶん職を転々とする若者と、スピリチュアルカウンセラーとかを名乗る主婦をたくさんうんだんじゃないでしょうか、笑。
自分が「ワクワク」しなきゃ本物じゃない、「ワクワク」すること以外はやらなくていい、みたいなことをいう本もそのころ増えてた気がしますね
そういえば、最近ブームの物を捨てて整理する断捨離も、捨てる基準は、「ワクワク」するか、しないか、なんですって。パシャールの名残がここにも、と思いました。笑。
>総裁自身がすでに異星人なのです。
そうか〜。異星人の目的は、神話の破壊と霊線の断絶じゃないでしょうか。なんか共通するものを感じます。鳩山さんにも。
リスク社会の現代の不安というのは、根が深いですね…
だからこそ、雅春先生の教えが生きる時代だと思うのですが、時代にあった説きかたとはなんですか…?と思うんです。確かに、「現象なし」とか日時計主義に不安の回避を求めてはいけません、宗教は現代の問題に向き合うべきなんですよね。で、時代が変わってもそれに耐えうる教えが、実相哲学ではないのですか、と思うんですが…
自分とは何者であるか、をどこに求めるか、ですね
神話の復活、親孝行、先祖供養、当たり前の日常の中にこそ、超オカルティックな?秘訣だと思うんですが…
難しいですね。
628
:
初心者
:2011/07/12(火) 15:43:13
わたくしは、実感として、世の中は急速に変化していっているように思います。
何がどう変わっているのか。それを考えることができないくらい、世の中は
アップテンポで変わりつづけているような気がします。
昔も世の中は少しずつ変わっていたのかもしれませんが、今の時代ほどに
ハイスピードで変わりつづけた時代は、おそらくなかっただろうと考えます。
世の中はただ変わっているだけでなく、どんどんと複雑化し、高度化していって
いるようにも思います。パソコンを使いこなせる人とそうでない人とでは、大きな
差が出る時代になっています。
昔はソロバンを使えるかどうかの差であったと思いますが、現代は、パソコンという
高度な情報機器を使いこなせるかどうかが、その人の社会的な立場を左右するまで
になっています。
新しいビジネスが生まれ、古いビジネスはどんどんと淘汰されてゆきます。
今日の主役が、明日には降ろされている。それが現代という時代です。
人々は、変化してゆく環境に自分をあわせていかなければなりません。
たえず変化しつづける環境にあわせて、自分自身を進歩発展させていかなければ
ならないと、多くの人々が感じているはずです。
人間は自分で自分のことを考えます。「これでいいのか」とたえず自問自答を
くりかえします。「このままでは世の中に取り残される」と不安をかかえることにも
なります。
進歩発展してゆく世の中にあわせて自分自身を変えていかなければならない。
多くの人が、こうした思い込みのなかで生きているにちがいありません。
この思い込みから「リスク社会」が生まれます。
自分を変えていくというのは、それ自体がリスクなのです。
人々とのコミュニケーションをもっとうまくとれるようになろう、と考えて
努力をはじめた人がいたとします。
努力しても努力してもうまくゆかないということがあります。
いくら努力しても、誰もその努力を認めてくれないということもあります。
世の中で頻発する通り魔的犯行の原因は、もしかしたら、
こうした努力にあったのかもしれません。
リスク社会は、人々に変わることを要求します。
リスク社会では、変わらないこと、それじたいがリスクなのです。
自分を変えるために努力することによって、またしても新たなリスクをかかえみます。
これがリスク社会の怖さです。
リスク社会を生きる人々は、絶え間のない自己変革をせまられていると感じています。
自分を変えつづけることができなければ、世の中から置き去りにされると考えます。
企業活動は、自己変革の典型です。たとえいま業績が順調であったと
しても、変わらないでいたならば、強力なライバルがあらわれて、業績は
あっという間に低下してしまいます。
企業はたえず変わろうとしています。変わることでしか生き延びられない
ことを知っています。
個人であれ、企業であれ、変わらなければ時代に置いて行かれます。
多くの個人や企業がこのように考えているはずです。
高次の存在に生まれ変わらなければならないと考える個人が
増えているように思います。
脳科学やスピリッチュアルブームの背景にあるのは、自己変革を成し遂げたい
という個人の欲求であるのかもしれません。
宗教は変わらないもの、変われないものと、おそらく世間では見なされている
はずです。絶えざる自己変革を遂げようとする個人にとって、そんな宗教は
受け皿とはなりえません。
個人はスピードを求めています。変革のスピードを求めています。てっとり早く
自分を変えてくれる変化の担い手を個人は求めます。
変わろうとしている人々は、変わろうとしない宗教に何の魅力も感じません。
脳科学で自分は変われる。きっとそう思っているはずです。
宗教にとって、変わることはリスクです。
宗教とは何も変えないことだと信じられてもいるようです。
でも、リスク社会とは〝変わる〟ということなのです。
現教団は総裁の力で見事に変わることができました。
ただその変わり方が、あまりにも場当たり的で叡智のかけらもなかった。
まともな信徒からすれば我慢のならない変わり方であったようです。
ではいったい、生長の家はどのように変わるべきなのでしょう。
それとも変わるべきではないのでしょうか。
まだ誰も答えを出してはいません。
629
:
「訊け」管理人
:2011/07/12(火) 15:53:24
>初心者さま
その世界・・・私は30年以上、そこで生活しておりました(笑)
そしてその世界にて「現象あり」の認識で、問題対処を繰り返していたわけ
です。いわば私は「自力信仰のベテラン」であり、努力だけはしてきた、と
自負しております(これ、「自慢にもならぬ話」です)
オモシロイ話ができそうで、楽しみです。
630
:
初心者
:2011/07/12(火) 16:06:24
緑の意思様はわたくしと似たようなことを考えておいでのようですね。
バシャールをご存知でしたか。
たしかにワクワクすることじたいは悪いことではありませんが、強制されて
ワクワクするというのは、ちょっとちがうんじゃないかと思いますよね。
自然とワクワクする。これがふつうです。ワクワクするためにワクワクする
というのは、どうしたって不自然ですよね。
仏魔同面という言葉があります。悪魔は仏の顔で近づいてくるという意味です。
悪魔が最初から「わたしは悪魔です」みたいな感じで近づいてくるはずがありません。
かならず仏の顔で近づいて人を安心させます。
異星人だからといって、すぐに信用するのは考えものです。
かぴばら様に言っていただかなければ、わたくしもあやうく信用するところでした。
今という時代は、リスク社会の問題もふくめて、数十年前からすれば
大きく変わってきているはずです。
こうした時代に、生長の家はどのように向き合うべきなんでしょうね。
具体的なあり方を見いださなければならない時期にきていると思います。
そのためにも、今という時代がどういう時代なのか、これを見極める必要が
あるように感じます。
631
:
初心者
:2011/07/12(火) 16:08:45
ブログ管理人様
その世界の話、くわしくお聞かせくださいませ。
632
:
「訊け」管理人
:2011/07/12(火) 16:11:15
>その世界の話、くわしくお聞かせくださいませ。
まあいずれ、ということで。
もう、余りにも盛りだくさんですんで(笑)
633
:
「訊け」管理人
:2011/07/12(火) 16:39:21
やや「的外れな印象」かもしれませんが、まあ、いずれ「こんな方向に
議論は進むんじゃ?」なアタリをつけての・・・そんな余談です。
<画像にご注目>
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65565814.html
冒頭画像ですが・・・これ、なんでガイコツに見えちゃうんでしょうかね?
本来は「神の救い」(ここではナース、しかも美女)なのに、我々は人間智に
て状況を、「ガイコツ」と判断します。
まあ、そんなお話しになるのでしょうかね。
634
:
「訊け」管理人
:2011/07/12(火) 16:42:11
余談の余談
ちゃっかり「自分のブログを宣伝しちゃう」のも、これ、貴殿が628でご投稿
された様な、そんな世界で培われた知恵だったりするんです。
イヤラシイですね、商売人わ(笑)
635
:
かぴばら
:2011/07/12(火) 18:51:08
初心者さまへ
有難うございます。初心者さまの誠に哲学的な悩みに非常に世俗的なちゃちゃを入れまして申し訳ないです。
私も前世は地球外生物だったか、石ころだったか、あるいはかぴばらだった?(ちょっと可愛い?)かわかりませんが、初心者様のなやみはあまりにも壮大すぎて、なんか宇宙でひとりぼっちって感じがするのですよね。(とても寂しい!!)
怖くて、つい考えるのを拒否してしまうという感じです。宗教は人になんらかの結びつきを与える役目もあるのではと思います。
宗教の役割にやはり個人の救済だけならず、他にも諸々の意味があるのではないかと思います。
いや知り合いに、各地に日本の浄化の為に光の柱を建てたとか言う人がいて、アセンションについてもよく知っている人なんですが、そのこと自体は私は特になんともわからないのですが、その方と世俗的な話をしていて、「私は親のことあんまり好きじゃないんだよね」発言があったのです。いやそれぞれ親に対する複雑な思いはだれでもあると思うのですが、そのことを聞いたときなんか「あれっ?」て言う気持ちになっちゃって・・・。
いや、失礼しました。議論をお続けください。お邪魔しました。
636
:
もみじ
:2011/07/12(火) 22:33:59
合掌
皆様、初めて投稿させて頂きます。
本流の方へ書き込みしているものですが、あそこは疑心暗鬼に捕われている様で疲れてきました。
とても生長の家人とは思えない様な言動を続ける人が多々居るのにはまいります…。
こちらを拝見すると非常に穏やかでうらうらやましく思います。
あー… 愚痴になっちゃいますね、失礼しました。
再拝
637
:
初心者
:2011/07/12(火) 23:06:57
かぴばら様へ
親の悪口は言ってもいいんですよ、子供ですから。近親憎悪ってやつなんですかね。
言いたければいくら言ってもいい。だけど、赤の他人が親の悪口を言うのは絶対に
ゆるさん!これでいいんですよ。
わたくしもここで生長の家の悪口をさんざん言ってますけど、ぜんぜん関係のない
ヤツが悪口を言えば、ぜったいにゆるさん!となりますからね。
宇宙について考えているうちにわけがわからなくなってしまう、という人は
少なくないようですが、かぴばら様もそのなかのおひとりのようですね。
宇宙というのはそれほどわかりにくいものではなくて、わかってしまえば
それほど難しいものではないような気がします。
(あくまでもそんな気がしているだけであります)
宇宙について考えていると気が変になりそう、ということはまずありません。
ですから、わたくしとしては、自分の考えていることが壮大であるという
感覚はぜんぜんなくて、あるのは、ごくふつうのことをふつうに考えている
という感覚だけなのでありますよ。
何にしましても、それほど難しいことを考えているわけではありませんので、
どうかご安心くださいませ。
638
:
初心者
:2011/07/12(火) 23:09:17
ブログ管理人様
いくら「現象はない」とは申せ、現象世界で法を説く以上は、
現象世界の何たるかを知らねばなりません。
かつて真理が説かれていた時代と今とでは、現象世界の
ありようも、ずいぶんと様変わりしてまいりました。
異星人の言葉を信じる人が、かつてどれほどいたでありましょう。
今はといえば、異星人の言葉に救いを見いだそうとする人々まで
あらわれるような時代であります。
そこでわたくしの話になるわけでありますが、わたくしの場合は、
ことにニューエイジ的思考に親和性が高いらしく、ニューエイジの
主張のほとんどが、そのままわたくしの主張になっているといっても
よいようです。
ただニューエイジの場合、かぴばら様のご指摘のとおり、親孝行や
先祖供養については、たしかに何もいっておりません。このあたりは、
伝統やしがらみを否定するというニューエイジの欠陥であるやも
しれませぬ。
ニューエイジの発想の根本は、人生を気持ちよく生きようということ
であろうと思います。そのために、ニューエイジャーにしてみれば、
自分を縛りつける存在でしかない伝統やしがらみを否定するという方向に、
どうしても向いてしまいがちになるのでありますが、
この心情もわからぬことではありません。
ニューエイジとは何かをひと言で申せば、それは生長の家でいうところ
の横の真理を説いているということであろうかと存じます。つまりは、縦の
真理は説いていない、ということでもありまして、このあたりに反・実相世界
という思想が醸成される下地があるのでありましょう。
ニューエイジの歴史を紐解けば、それは1950年代アメリカのビートニクスに
起源を発するようでありまして、この意味でも、ニューエイジは反近代という
ことになります。
ビートニクス衰退のあとにヒッピーがあらわれ、その衰退ののちに
ニューサイエンスがあらわれ、その衰退ののちに現在のニューエイジが
登場したと見てよいかと存じます。
ニューエイジの特徴はわたくしと同じでありまして、現象世界をこよなく
愛するということであろうと、わたくしは考えおります。現象世界を肯定的に
受け入れてしまう。こうすることで人生を気持ちよく生きようとしているようで
あります。
そしてこのニューエイジの前に立ちはだかるのが、リスク社会であります。
人類は逃れようのないリスクの円環に捉えられた。これがリスク社会であります。
(感染症のリスクを抑えるために抗生物質を用いれば、多剤耐性菌をつくり出して
しまう。用いなければ、感染症のリスクが増大する。用いつづければ、さらに強力な
耐性菌をこしらえてしまう。耐性菌に対抗するために強力な薬剤を用いれば、
それがまた新たなリスクをつくり出してしまうことになる)
何をやってもリスクを再生産してしまう。こうしたリスク社会にあって、人生を心地よく
生きることが可能であるのかと申せば、それはおそらく不可能に近いかと存じます。
ニューエイジに行き詰まりがあるとすれば、それがリスク社会でありましょう。
このままでは、リスク社会は人類の未来を閉ざしてしまいます。
いまこそ人類には、リスク社会を乗り越えるための叡智が必要なのであります。
現教団は、リスク社会を広く知らしめ、警鐘を鳴らすために出現したと、
このように考えることはできないでありましょうか。
リスク社会の申し子のごとき教団が、この生長の家に出現したということは、
何やら浅からぬ因縁があるようにも思います。
リスクがリスクを生みだす、この無限の行き詰まりをどう打開してゆけばよいのか。
解決のための叡智が求められております。
639
:
初心者
:2011/07/12(火) 23:23:44
もみじ様、よくいらっしゃいました。
(と、管理人でもないのに、先にご挨拶いたします)
当掲示板には、ここの板以外にも、心のあたたまる板がございますので、
存分に楽しんでいってくださいませ。
(1、2、3、4と四つのスレッドがありまして、2のスレッドがいちばん心があたたまります)
トキ様、お先に失礼いたしました。
640
:
「訊け」管理人
:2011/07/13(水) 07:41:26
>初心者さま
うーん・・・おそらく誤読しているでしょうが一点だけ。
うーん・・・生長の家の御教えですけど、これ、現象世界を「無視」して
おりますかね?たしかに「現象なし」が御教えではありますが、「現象を無
視せよ」(=対処不要)とは申されておりましょうや?ううむ・・・貴殿が
申されておいでの〝ニューエイジ〟も多種多様ですが――支那に於ける上海
人と東北人のように一括定義は不能と申せ――「現象世界をこよなく愛する
ということであろうと、わたくしは考えおります」を前提とするならば、「
それ、生長の家の御教えですよ」になるのではなかろうかと、こう愚考する
次第です。
まあそんな方向へ、「議論は流れていくのかなあ」そう考えております。
641
:
初心者
:2011/07/13(水) 08:19:14
ブログ管理人様
教団内で活動していたときの実感としては、うっかり現象の話をすると、
まわりから「それは現象だ。実相を見よ」という声がかならず飛んでき
ていたような気がします。
そこですかさず「現象処理も必要だ」と切り返さなくてはならなくなる
わけです。「現象処理も必要だ」ということをいったい何度言い、なんど
聞いたかわかりません。
教団内で現象の話をするときは、「現象処理も必要だ」ということを
かならずといっていいほど言わなくてはなりませんでした。そういって
断っておかなければ、「実相を見よ」という言葉が、たいていは飛んできて
いたような気がいたします。
わたくしが実相世界を嫌うのも、ひょっとするとこのあたりの体験が
トラウマになっているのかもしれません。教団内の実態としては、
現象を無視するというのがトレンドであったような気がいたします。
642
:
緑の意思
:2011/07/13(水) 09:50:23
>教団内の実態としては、現象を無視するというのがトレンドであったような気がいたします。
これ、時々実感します。
今回の震災の対処に置いても全く同意です。被災地でない場所ですが仕事で大変な思いをしたので、即災害マニュアルを作成し教区に配ったり、ボランティアについて話しましたが、生長の家の人とは、温度差を感じたんですよね。「現象処理は大切ですから、」とは何度もいった気がします。
道場の知り合いの若い研修生たちは、次々他の宗教団体がボランティア入るのを見て、生長の家として対処が遅いのにやきもきして、結局道場をやめて違う団体からボランティアに行きました。私も違う団体からです。
リスク社会に教えとして立ち向かうのはともかく、生長の家組織としては、もう限界なのかもしれませんね。
実は、私は現教団、学ぶ会、本流…ではない第三の勢力の出現に、次の世代を担うと希望を見いだしているのですよ。つまり、合コン伝道から…キャバ嬢ゲリラ、左翼教師ヨハネ伝戦略…どれも見事としか言いようがありません、笑。
雅春先生に訊けブログ管理人様、リスク社会を生き抜いた貴方こそ、生長の家に残された希望の光かもしれません、、
643
:
トキ
:2011/07/13(水) 10:09:57
>>642
谷口雅春先生時代は、よくボランティア活動をされたと聞きました。
このあたりは、ご存知の方がおられたら、投稿を期待したいです。
今は、組織時代が萎縮してしまっています。
下手な事をして、上ににらまれるのが怖いというのを感じます。今の組織
はガタガタですが、それでも、総裁が声をかければ、ボランティアとして
動く事は可能です。でも、それをする気持ちが上層部にないのです。
新潟の大地震の時も、総裁が逃げ出した時に、救援活動を指揮するため、
という言い訳が教団からされましたが、具体的な動きはわかりません。
ただ、阪神大震災の時は、青年会が健在で、多数の会員がボランティア
に行っていたが、報道はされなかったので、ひょっとしたら私が知らないだ
けかもしれませんが。
何か、そのあたりの具体的な事をご存知の方、ご教示をお願いします。
合掌 ありがとうございます
644
:
トキ
:2011/07/13(水) 10:26:56
もみじ様
ようこそ、お越し下さりました。大歓迎申し上げます。ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。
本流掲示板では、酷い目にあわれましたね。ここの管理人という立場上、感想は遠慮しますが、
もみじ様のご対応には何も間違いはないと思います。よく調べられたと感じます。ちょっと、あの
反応は酷いですね。
こちらは、「学ぶ会」でも「援護派」でも大歓迎です。極端な話、教団の広報編集部が、
谷口雅宣先生万歳! という投稿をされても、削除などは一切しません。逆に、「学ぶ会」などの
人が、教団解体を叫んでも、それ自体を問題視する事はしません。まあ、総裁が投稿することは
期待できませんが、それでも、歓迎します。
八ヶ岳の問題は複雑ですね。本当なら、学ぶ会の人などが、実際に現地の行って、地元の人達の
話を聞いて、それを公表すべきだと思います。あれは、もう、阻止はできないだろうけど、数年で
「やーめた」となりそうな気がします。
では、今後とも、ご投稿を期待しております。宜しくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
645
:
緑の意思
:2011/07/13(水) 10:37:21
トキ様
ボランティアはそうですね、いまの私の視点からの印象にすぎませんが。みな個人としては、青年は何かしたい、という思いに駆られたし、
しかし生長の家として出来ないから、と。今はそういう雰囲気ということですか。
総裁は今回の地震でも、即自宅へ帰りましたし、祈りの発表も周りに要求されてようやくあの、祈りです。
信頼にたる組織のトップとしての対応とは、言えないかもしれませんね。
646
:
初心者
:2011/07/13(水) 10:48:55
緑の意思様
>雅春先生に訊けブログ管理人様、リスク社会を生き抜いた貴方こそ、生長の家に残された希望の光かもしれません、、
いや、そうなんですよ。わたくしも、生長の家を救えるのはブログ管理人様を
おいてほかにはないと考えておりました。
この時期になぜこのような人があらわれたのか。
考えてみるまでもなく、ブログ管理人様は白馬に乗った王子様なのですよ。
647
:
「訊け」管理人
:2011/07/13(水) 10:58:37
>初心者さま(笑)
ちょちょちょちょ――っと初心者さま。
聞こえませんのでもう一度、お願いします。
最後の方がよく、聞こえませんので、もう一度、お願いします(笑)えっ?
「白馬」までは聞こえたんですが・・・(中略)・・・さあ、仕事しよ(笑)
648
:
緑の意思
:2011/07/13(水) 10:59:15
初心者様と、同じ結論に至るとは…恐悦至極でございます笑。
いや本当に、義春様あたりと、大いに暴れて頂きたい逸材ですね、
649
:
「訊け」管理人
:2011/07/13(水) 11:02:01
>緑の意思さま
いや、工業高校の元保健体育教師と私では、格が違いすぎます(笑)
650
:
初心者
:2011/07/13(水) 11:51:15
どうやら「聞きたくない」とおっしゃられておられるようなので、
もういちど申し上げます。
ブログ管理人様は、白馬にまたがった王子様〜、でありまするぅ〜。
義春殿は、馬子?
651
:
義春
:2011/07/13(水) 11:55:52
だぁぁれがぁ〜保健教師だにぃ〜(CV:若本)
まぁー…暴れたいよなぁ〜10代が懐かしいくて仕方ないですわ…。
652
:
緑の意思
:2011/07/13(水) 12:24:28
>いや、工業高校の元保健体育教師と私では、格が違いすぎます(笑)
あの噂は…やはり事実でしたか(冗、笑)
それにしても、白馬の云々〜のくだりを二回も聞くと、私の豊かな想像力もうお腹一杯になりますよ。
かのブログ管理人様が、王冠を被り白馬にっ…(いえ、これでも精一杯美男を想像しているのですよ〜笑)
653
:
商人
:2011/07/13(水) 12:29:18
初心者様
商人です。いつも御文章勉強になりありがとうございます。
まさにおっしゃる通り! 我が尊敬するブログ管理人(我が先生)様は、まさに白馬にまたがった王子様です!
これからもご指導ねがいたいものですね!
けっこう忙しくしてらっしゃいますので宮崎までみんなで会いにいきましょうか!笑
654
:
「訊け」管理人
:2011/07/13(水) 14:04:53
ちょっと待って下さいよ・・・私がなんで王子様なんですか。
私なんて、顔が福山雅治ソックリなだけの、 そんなツマンナイ男ですよ。
655
:
「訊け」管理人
:2011/07/13(水) 14:43:45
福山も私も、ですね、眼と耳が2つづつあり、口と鼻が1つづつ・・・
(中略)・・・キャバ嬢からも「激似」だと。
656
:
初心者
:2011/07/13(水) 15:04:40
わたくし、ブログ管理人様が槇原敬之にそっくりとは知りませんでした。
まあ、いいではないですか、槇原敬之にそっくりな白馬の王子様でも。
のこる問題は、白馬にまたがった王子様に誰がキスしてもらうかと
いうことだけですね。
ここはやはり、日頃から、ブログ管理人様にたいする熱愛を告白して
らっしゃる商人様がいちばんそれを望んでおられることと存じます。
みなさん、泣く泣く、キス役を商人様におゆずりなさることでありましょう。
熱い接吻をかわすおふたりの写真がブログにアップされる日をもって
生長の家復興第1日目ということにいたしましょう。
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