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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

587初心者:2011/07/08(金) 10:08:18
ブログ管理人様

どうしてわたくしは、いつもこのように追い込まれてしまうのでありましょう。
追い込まれることで無限力は発揮される。
たしかにこれは、つらい真理なのでありまする。

問題は、「神は風景なしに風景画を描けるのか」
ということでありまするね。
このことにしぼって書いてみましょう。

まずはジジェクが説明する天地創造からまいります。
ジジェクは、神ははじめ完全な無であったといいます。
無であるがゆえに何も欲しなかったと、このように考えます。
ところがあるとき、神は「何も欲しないことを欲した」のだそうです。
この「欲した」ことにより宇宙が創造されてしまったのだと、
ジジェクはこのように説いているようです。

こうした考え方は、神の直感知性を肯定するものです。
直観知性とは、思ったことは何でも実現させてしまう知性です。
ですから、神が何かを思えば、その瞬間に何かが創造されてしまうことになります。

ここでひとつの問題です。神は悪を思うことはできないのでしょうか。
全知全能であれば、悪を思うことは可能です。
もちろん思えるのに思わないということも可能です。
では、「何も欲しないこと欲する」というのは、善なのでしょうか、悪なのでしょうか。
神は「何も欲しないことを欲した」ために宇宙を想像してしまいました。
ジジェクは、これを神の失敗とみます。
そのために、不完全な宇宙ができてしまったと考えます。

神は「風景なしに風景画を描いた」とします。
すると、神は何でもできてしまうことになります。
すると、描いた絵画だけでも、何万点、何十万点、あるいはそれ以上に
なっていることでありましょう。

神は無限の表現力を持っています。
であれば、神の作品は無限の数になるはずです。
実相世界は、その無限の作品のなかのただの1作品にすぎません。
これでは少なくとも「実相世界独在」とはいえません。
ただの1作品である実相世界にどれほどの価値があるのでしょうか。

わたしたちは、実相世界に閉じ込められて、
ほかの作品を体験することはできなくなっているのでしょうか。
それとも、実相世界にいながら、ほかの作品を体験できているのでありましょうか。
もし体験できるとするなら、その「ほかの作品」とは何なのでしょうか。
それはどのような形で実相世界に顕現してくるのでありましょうか。

神は「風景なしで風景画を描ける」とするなら、
神はなんでもできてしまうということであり、
であれば、世界には何でも存在するということになってしまいます。

「世界には何でも存在する」というのは、あの恐るべき多世界解釈であります。
何でも存在する世界は、恐ろしい世界です。
前にも書きましたように、それは、人間が永遠に朽ち果てながら生き続ける世界の
存在を許容します。
それは肉体的な死のない世界です。
それは善なのでしょうか、悪なのでしょうか。


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