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千尋くん見ていますかー?お元気ですかー?

1名無しさん:2018/05/24(木) 03:19:28
.

2:2019/06/08(土) 03:48:37
はい。
https://zawazawa.jp/kenkakai/

3seiko ◆wOUe8iWjRg:2019/08/18(日) 21:38:52
千尋くん見ていますか?お元気ですか?三食ちゃんと食べてますか?

ホントに心配してます。連絡ください。

4seiko ◆wOUe8iWjRg:2019/08/18(日) 23:05:06
夕方の街を歩いていて、街頭の下で佇んでいるオジサンを見ました。ハンマーヘッドシャークって知ってますか?あのサメみたいに目が異常に離れている顔つきです。

何かを必死に書き綴っているような動作をしていて、メモでも取ってるんだなーと思ったんですが、よく見るとペンを持っていない。それどころか紙すら持っていない。

手を何か摘まむような形にして、ツメを立てて手のひらに一生懸命擦り付けてるようでした。理由とか動機は全く不明なんですが、まぁ何ですかね?自分の手のひらの上で摩擦熱で火を起こそうとしているんじゃないか、みたいな感じです。ゴシゴシやってる訳です。

ただその勢いが異常なんです。狂気を感じるぐらい。ツメが剥がれるか手のひらの皮が剥がれるかという勢いで、目を見開いて、周りを全く意に介さず、一心不乱に。
それでたまに”ングッ!”とか”フヒッ”みたいな声を上げるんですよ。
横目で通り過ぎるときに、オジサンの唇の端から涎が垂れていくのが見えました。

気持ち悪いじゃないですか。恐らく50過ぎの浮浪者みたいな恰好をしたオジサンが。悪夢です。精神障碍者なんだと思います。
動物以下だなと思いました。というと語弊がある言い方なんですが、動物は行動原理がシンプルな分、明白なんです。行動と動機付けが。
野良犬が必死に地面を掘り続けていても”気持ち悪い犬だ”なんて思いません。

人間固有の複雑な行動原理や欲望を社会的な圧力の中で昇華することに失敗した結果、不均衡な複雑さが産み出す整合性を無視した異端、
そういったものを目に見える形で見させられるのは、いい気持ちではありませんでした。

他の通り過ぎる人たちも、ちらりとそのオジサンを見ただけで、何かを察したような感じで、すたすた横を歩いて行きました。
”ああ、この人キチガイだな、みんな見なかったことにしましょうね”っていう、健常者だけが感知できるある種の共有認識みたいなものってありますよね。
でもそういうのを感じる瞬間って不思議と不快じゃないです。むしろ、愉悦を覚えます。”自分はマトモな側にいる”って思えるからでしょうか?
驕りですね。自分がソッチ側にいない保証なんて何処にも無いのに。

5seiko ◆wOUe8iWjRg:2019/08/18(日) 23:15:44
千尋くんの事を思い出したのは、ちょうどその時でした。気持ち悪いオジサンを見た時、周囲の人々と無意識の共有認識で繋がった時、残酷な優越感が脳みそにドーパミンをどぷどぷ分泌し始めた時。

脳みそと記憶って不思議ですよね。だって自分でももう覚えていないような何年も前の、ネット掲示板の赤の他人にまつわる漠然とした記憶が、日常のふとした瞬間を契機に、暗い洞窟に灯りを照らしたようにパッと閃きはじめるんですから。

覚えていないというのは妙な言い方でした。実際は覚えているんだけど、とっくの昔に意識的な関連付けを放棄していて、今では脳みその片隅に「千尋」と「キチガイ」っていう”付せん”のついた箱があっただけ、っていう状態でしょうか。
で、今回たまたま”キチガイ”というワードで検索を始めた脳みそが、たまたま気まぐれでその埃のカブった箱を見つけて、「こんなんあったでー」ってことで持ってきたっていう事なんでしょう。

でも、キチガイっていうキーワード自体は頻繁に検索にかけられているはずなんです。なぜ今回に限って”千尋”がヒットしたんでしょうか?わかりません。
おそらく、”千尋”には”キチガイ”以外の索引が付けられていて、それも複合的に検索結果として現れたというところだと思います。

この文章を千尋くんが読むことは無いでしょう。おそらくもう千尋くんは死んでるでしょうから。何も無い人生に絶望してクソ垂れ流しながら首吊って死んでるんだと思います。そうじゃなくてもあまり興味はないです。いずれにせよ結果は同じでしょうから。

でももし、万が一、この文章が千尋くんに届くことがあるのであれば、これだけは覚えておいて欲しい。
世界の片隅、見も知らぬ浮浪者のキチガイが手のひらを擦り続けていて、その光景を見る度に、千尋という名前を思い出す人間が居るんだということ。千尋くんの人生は全くの無価値というわけでは無かったということ。

そして今、”千尋”という単語に新たに”浮浪者”、”ハンマーヘッドシャーク”という関連付けが加わったということ。これだけは忘れないでほしい。

6seiko ◆wOUe8iWjRg:2019/08/18(日) 23:42:13
センパイTribal Trapって超DOPEじゃないッスか?マジパキッってんスけど
https://www.youtube.com/watch?v=xt544bCPqAw

7seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/06(金) 23:22:14
10年ぐらい前喧嘩サイトに書き込みしてたのは中学生のころで、そのあとしばらく無職でブラブラしてた頃があって、ある日、海外の幻覚物質に関するドキュメンタリーを見て凄く興味が湧いた事があった。
それはアイオワスカというアマゾンの部族が宗教的な儀式で飲用する幻覚剤で、現地に自生する特別な植物を煮詰めて作られる。

死にかけの野良犬がひり出した下痢みたいな色で味も最悪なんだけど、何か特別かというと、これを飲むとマジクソブッ飛ぶらしい。
いやぶっ飛ぶなんてもんじゃなくて、もう脳みそパキパキのチンポバキバキで意識が宇宙とコネクトされて自我が時空を超越し超自然的な悟りの境地を得られるらしい。
なんてったって頭に孔雀だかなんだかの羽付けた半裸のシャーマンが前歯カチカチ言わせて痙攣しながらアヘ顔で涎垂らしてんだから間違いない。
その幻覚体験は強烈で、一度経験すると人生観が180度変わると言われている。

これはやるしかないと思って、ネットで色々調べたけど、ツアーに参加する方法がよく分からなかった。
ちょっと英語が出来るので海外圏のネットを調べると同じような事を質問しているRedditが有って、そこを見ると毎年参加してるから連れてってやるぜ!っていうファンキーなアメリカ人がいた。
ダメ元でメッセージ送ってみると、「日本人からメッセージが来るなんて思いもしなかった、インターネットってすげー!」みたいな謎の感動してて、既に何人かと約束してるから現地空港で会えるならついでに一緒に行ってもいいと言ってくれた。

ペルーの空港で落ち合ったあと、車で何時間もかけてアマゾン川の近くにある町まで行った。同行してたのはオタクっぽい無口のアメリカ人の男子学生と、自称ミュージシャンの日系のカナダ人のおじさんで、
お前は何してんのと聞かれて「自分探し中です」って言いたかったけど英語が分からなかったから"i'm looking for myself"って答えたら、超ディープな事言うね〜って感心された。
ガイドと思われる現地人の斜視で銀歯のおっさんとも会って、儀式は夜から始まるから適当に時間潰して、あと全部吐くことになるからメシは食うなみたいなことを言われた。

夜になると茅葺の小屋にほかのツアーの団体と一緒に集められてサークルを作ったあと、シャーマンが呪文的な詠唱したり、鐘を鳴らしながらロウソクを付けたり消したりいかにも儀式っぽい事をするのを眺めた。
その後、一人ひとり汚い陶器のコップを手渡されて一気に飲むように促された。めちゃめちゃ苦くて喉を通らないけど、気合いで飲み干した。
全員が飲み終わると、明りが消されて聞こえるのはシャーマンの歌、木が風で揺れる音、参加者の唸り声だけ。

しばらくすると幻覚作用が効いてきたのか、参加者たちが前後にゆらゆらしだしたり、布団に横たわって苦しそうな声を出したりし始めたけど、
俺は特に何も感じなくて、ただ背筋の寒気と、眠いけどどうしても眠れない時みたいな目の奥が疼くような感覚だけがあった。
それでもじっとしてると、何か頭頂部からすーっと引っ張られているような、見えない手に脳みそをつかまれて魂を抜き取られているみたいな感じがあって、
ついに来たか!?と興奮していたらすぐに元の感覚に戻ってしまって、ついでに全く無意識のうちにうんこを漏らしていることに気が付いた。

もうどうしていいか分からなくて、小学生みたいに手を挙げてシャーマンの人に「すいません、うんこ漏らしました」とジェスチャーでアピールした時の、彼の無関心と失望が入り混じった視線は今でも忘れられません。
とりあえず外に出るよう促されて、無言で水の入ったバケツと紙を数枚渡された。目の前でドアをピシャっと閉められてちょっと心が痛かったです。
パンツ脱いで綺麗にした後、うんこまみれのパンツをどうしたらいいか分からなかったので、手で地面を掘って埋めました。
もうその時点で儀式や幻覚や解脱体験とかはどうでもよくなっており、ただ具合の悪さとうんこを漏らしたという事実だけが重く自分にのしかかっていました。

帰りの道中のことは余り覚えてないけど、みんな気を使ってその話題は触れないようにしてくれて、カナダ人のおじさんは帰り際に「まだ若いんだから頑張れ」的なことを言ってくれた。
あとで知ったのはアイオワスカの幻覚作用には個人差があって、何も感じない人は本当に何も感じないそうだ。
まぁ、そんなことはどうでもいいし、もう二度とアマゾンに戻ることは無いんだけど、わざわざ日本からアマゾン川までやってきてうんこ漏らしたパンツを埋めていった日本人は歴史上俺しか居ないだろうなぁ、と思うと幾ばくか感慨深いものがありますなぁ、と思いを馳せたくなった次第でございました。

8seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/08(日) 00:48:06
なんとなく>>2の掲示板を眠い目しぱしぱさせながらセンチメンタルな眼差しで眺めてたら考えてたこと

喧嘩サイトは廃れたが、喧嘩という行為が廃れた訳ではないし、廃れることは未来的にも無い。旧来的な方式としての意味で今ある喧嘩というスタイルは絶滅していくかもしれないが、喧嘩という行為の核にあるコンセプトは人間の感情と交流のあり方に基づいているので、人間が社会性を保ち続ける限り消滅することはない。
端的に言えば、「喧嘩」という行為は、人間同士の社会的な関係における衝突という一種の禁忌を、合意形成を確認した上で楽しもうという”健全な”営みである。

一般的に人間社会において平和を乱し混乱をもたらす衝突行為は忌避されるべきイベントであり、能動的に衝突を起こそうとする存在は危険分子として忌み嫌われる。
衝突行為が日常化してしまうと、社会の秩序が乱され、正常な機能が出来なくなる。衝突行為は非生産的であり、真っ当な社会の維持と発展を阻害する悪魔である。
一方で、禁忌とされるものに魅力を感じ、抑圧と発散に愉悦を覚える者が一定数存在するのも事実である。そして、そういった欲望の顕在化は”社会不適合者”として排除されてしまう事に繋がる。

だけど、世の中には、相手を完膚無きまでに論破して敗北を認めさせる事に快感を覚える者もいれば、徹底的に人格否定の煽りを入れて相手の自尊心を粉々に踏み潰す事に執念を燃やす者もいる。

しかしそういった行為は平穏と規律を重んじる社会の観点から見た上で認められてはならない犯罪行為である。それら行為を合法化する為の場所が彼らには必要であった。その場所が喧嘩サイトなんだと思う。
「人をナイフでぶっ刺したら楽しーよね!」という異常者が他の異常者を呼び集めて、「お前、俺のことをナイフでぶっ刺していいから、俺もお前のことナイフでぶっ刺していい?」という契約を結んでお互いをナイフで刺し合うのが喧嘩という行為であり、それら異常者の隔離場が喧嘩サイトなのである。

余談だけど、異端に好奇心を覚えるというのは青少年の人格形成期に良く見られる現象で、多くの喧嘩師が比較的若い年齢のうちに喧嘩サイトに寄せ集められているのは、体制に対するアンチテーゼに一種の羨望を覚えたがる繊細な中二病のお子様達にとって喧嘩というアンダーグラウンドな世界観とその仕組みが魅力的に映るからではないかと思う。

9seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/08(日) 01:09:40
喧嘩サイト、という場所は、一般人の目から見ると非常に奇妙な場所に映るはずだ。議論がしたいから建設的なディベートに興じる訳でも無いし、誹謗中傷が飛び交うがお互いを心の底から憎しみ合っている訳でも無い。
「お互いゼロの関係性から進んで意図的に軋轢を生じさせ、時には品性下劣な語彙で罵倒しつつ、それでも最低限のルールには従いながら論理的攻防に興じる」というのは、どこか滑稽でありながら競技的でもあり、哲学的な部分がありつつも幼稚である、非常にアンバランスな光景だと思う。
しかしそのアンバランスさも、彼らにとってのコミュニケーションのあり方の一つであって、一般社会的に不適合な行為であるという事を自認した上で、自らの嗜好を正当化出来る環境を構築してきたというプロセスは理に適ったものである事を否定することは出来ない。

興味深いのは人が集まるコミュニティには一定数、言論的な熾烈さを好む層がいて、そういう人たちがいわゆる喧嘩界とは全く無関係ながら、典型的な「喧嘩的行為」に特化した局所的なコミュニティを形成してたりする事で、詳しく調べたら喧嘩の普遍性を語る上で貴重なサンプルになりそうだと思うし、もし誰か頭のネジ外れたキチガイが本当に喧嘩板を復活させたい!とか思うなら、そういう所から始めたほうがいいと思う。

なぜ喧嘩サイトが廃れたかという点に関して、SNSの台頭に伴う「ネット上の群衆意思決定の容易化」と、5chに代表される匿名文化が複合したことによる相乗効果が要因の一つかもしれない。
人を貶め蔑んでチンポをシゴきたい異常者は今や、わざわざ相手の同意を得て喧嘩という形式的なやり取りに興じる必要は無い。相互の同意に基づいていた衝突行為の正当性が、「群衆によって非中央集権的に決定された攻撃対象としての偶像(アイドル)の正統性」に形を変えたからだ。
「誰を攻撃しても社会的に許されるのか」という合意形成を追及する為に匿名文化が人間の感情を扇動し熾烈化させ、SNSの情報の奔流が群衆の意思決定を今までに無かった速度で加速化させる事によって、今のネット上には常に「あらゆる批判が許されるイージーターゲット」で溢れかえっている。
昔で言うところのチャットとか掲示板の役割がTwitter等のSNSで置き換えられつつある今、大衆に迎合するだけで人間の闇の部分にかかわる欲求を満たす事が出来る環境からすれば、個人間の関係に拘らなければならない上に、勝敗という絶対的な格付けに向き合わなければならない喧嘩サイトにおける喧嘩という形式は、ただ冗長で厄介なだけの時代遅れの遺物なのかもしれない。

それでも俺は、喧嘩板の何でもありなプロレス感、論理ガチガチの頭デッカチのメガネ君と、金髪鼻ピアスのチャラ男と、ちん毛生えかけの小学生と、ネクタイシワシワのくたびれたサラリーマンが一同に介してクソみたいな下らねー議論に花咲かせてる、みたいな空間が好きだったな。

10seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/08(日) 01:16:04
千尋くん、元気にしてるのかなぁ…心配だよぉ

11seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/08(日) 23:24:42
何ていう名前だっけ おでんっていう名前の人?あの人もいつか自殺するんじゃないかって思って見てたんだけど、まだ生きてるのかな。ADHDのハムスターみたいで見てて楽しかった

12コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/14(土) 21:16:47
Seikoさんの投稿を読んでいたら考えが頭の中に漂い出したのをちょっと言葉にしてまとめてみたくなりました。それだけなら別に投稿することは必要でもないのだが、出来上がった文章が誰かに読ませたい感じのものにならないとも限らず、もしそうした時に誰に読ませるのか考えると、喧嘩師とか喧嘩界とかそういうことに関心がありよく知っているような人で、ものをよく解する人、それが第一に浮かんだ条件で、第二に文章の出来上がる経緯に関わる人であること、第三といってはおかしいかもしれないが読んで貰う人は一人でも、一人だけなどということはない、それでもう有難いものだと感じるので一人でよい。
と考えて、それならseikoさんに読んで貰えるようなところに投稿すればよいと思いました。まぁ、これから書く文章がどういう質のものになるのか知れませんから、上の文も無駄になるかもしれないが、そうでない場合が望ましい。
ところで、このサイトは喧嘩サイトと呼べるかどうかも決めかねる場所のように僕には思われます。喧嘩など何年も起こっていなさそうだし、書き込みもまばらである。千尋教本堂とあるがよくわからない題名です。そんなところに僕は初めて書き込むわけで、失礼しますとかお邪魔しますとか言えたものかどうか。勝手に書き込むというしかなさそうだ。それなので、seikoさんには読んで貰えたら嬉しいが、投稿に対しどう返事をして貰うかについて期待するところは特段ありません。お返事下さればもちろん嬉しいです。
あと、僕は千尋氏ではありません。
以上前置き。

13コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/14(土) 21:20:59
僕は喧嘩サイトにseikoさんより結構遅い、2011年とかそんな頃に投稿し始めたので、また投稿を日常的にしていた期間は僕自身が喧嘩をしてそれを楽しく思う期間という風ではなかったので、喧嘩サイトというものへの見方が、態度の点で相異なるものがあるだろう。
喧嘩は見て面白いものではあったが、やって面白いものとは違った。何故なら僕はどう喧嘩すれば楽しめるか知ることをついに得なかったから。
そのことを研究しないでもなかったが、結局喧嘩をして楽しめる時はなかった。
見て楽しむのが喧嘩への、それも現在進行形だった喧嘩よりも、過去の、そのとき既に当事者達が去った後のものだった喧嘩に対する僕の楽しみ方だった。
それで、僕には当時からしても昔の喧嘩師達への親しみの気持ちが持たれた。彼らへの関心が生じた。勝手なことだ。

僕は一々彼らの名を挙げたり、行状に言及したりするのを正しい行為とも、今望ましい行動とも思わず、無意味だと感じるので、これから書くだろう彼らに対する感想めいたものは漠たるものに留まるであろうと認める。
不正確な認識など当事者がこれを認めて気分を害するかも知れない事柄もあるいは出るかもしれぬ。
恐れ入りつつ僕の旧喧嘩界住人たる者としての背景を言った次第。

喧嘩サイトが廃れたとseikoさんは述べたが、どうも僕にはそんな気がしない。

まず、yayなる交流用サイトで喧嘩界隈と名がつくものが繁盛しているらしいと聞いたことがその一つの訳であろう。
Yayの他にも、今より多少古い流行に於いてのことだろうが、何とかチャットとやらがそうだったらしい。
何とかチャットはとりあえずチャットだが、yayはチャットとは、また掲示板とも形式が違うサイトだと見受けられるもので、そういう場所にも喧嘩が文化らしい恰好のものとして、その一角に於いてであれ、認められているのはダイナミックな観あることである。
どういう経緯で喧嘩の文化が発したのか、現状その文化がどうなのかは知らない。
どんなものにもせよ、喧嘩がここにいわれている喧嘩同様に行われ、行う人どもが活況を呈するための人材になっている、らしい。
昨年ちょっと見に行った時は、なんだか掲示板の喧嘩みたいなあれが目指されているんだなと感じられた。
掲示板で喧嘩をしていた人がそこの界隈の地位を得ているのでもあるようだ。

さて他の訳とは、喧嘩サイトが廃れていなかった頃とはどのぐらいの時のことで、また、何時でも、今というか廃れた時点と比べてそんなに盛り上がっていたものであろうかというのが僕には判然としないことだというのである。
喧嘩に情熱を燃やした人はいない訳でもなく、いっぱいいたことであろうし、名だけ挙げるなら沢山挙げられたのが当時だろうとはいえ、一回喧嘩するだけならそれは誰だって情熱を燃やすというか、むかつきとか、相手に当人の言い分を呑ませたいとか、そんな訳でむきになる気味合いを持つものだろうし、喧嘩をしてしまうきっかけというのも他愛なく、宣伝の文でも見て訪問した際につい書き込んだのが噛み付かれたとか、そのぐらいであるのがあり得る。
名が多く挙がるのに、その中で本当に喧嘩師の一人前の資格がありそうなのはどのぐらいの割合になるかわからない。
資格ある人というのは今でも僕が名を思い浮かべられる人達だろう。

Seikoさんはどういう意味で廃れたといったか、わからないが、人が多く来て書き込みをしていった時期をそうでない時期と比べていったのか、一人前といえる喧嘩師が頻りに投稿をする気分を保ち続けていられた時期をそうでない時期と比べていったのか、さようの二つの場合を僕は考えている。
前者なら、それは流行り廃りの流行りが風邪のように起こってやんだだけなのではないか?
後者なら、それは媒体の性質を比較して論ぜられる問題であるより、込み入ったものを検討して個々人に取材し考えてようやくわかるものの多く含まれた問題ではないか?
僕はそう思った。

なお、後者についてこう付け加えたい。
媒体の性質は無論問題の内にある何事かの要因なのではあるようだと考えるのは自然なことだ。けれども、僕はどうも知っている人、喧嘩師達のことを考えると、媒体が新たに世に出て大衆を作り、人間活動の新しい様相を現しめたことというのは、どのぐらい大事な事実なのだろうと思う。

「何だかんだ言って、喧嘩師の人達ってツィッターで(or5ちゃんねるで)炎上事件の実況に居合わせたり参加したりするのにあまり気を取られてはいないんじゃない?」と思う。

14コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/14(土) 21:22:35
ここまで書いて、趣旨がseikoさんのいうところの趣旨と相反するのではなさそうだと改めて認めたので、ちょっとまた付け足しの文を趣を変えるつもりで書きます。
何というか、seikoさんがいう「人間の闇の部分にかかわる欲求を満たす」ことの捌け口になりそうな事は例えば炎上事件についてツボをついた投稿を人が行ったのを読みに行ったり、自分でそんなつもりの投稿を巷へ放ったりすることだと思うが、一度喧嘩の味を占めた喧嘩師達はそれを喧嘩の代替物と見なして落ち着いていられるのかな?って思った。

欲望が発散するような形で爆発せず事態が収まるというか、わざわざこれを練り上げなくても過ごして行かれるご時世になったので、なんというか人の中にあったものが退化していく条件を得ている訳のものか。それは大いにあり得る説だ。

ただし、喧嘩師達はそんな内実の動機から初め喧嘩に手を染めたにしろ、文字を連ね文を綴っての応酬に明け暮れる中で、何かその行為に、行為による結果に、新たな自分の楽しみ方のありようを見出したものではないのかなとも思う。
それが喧嘩に依らずとも行われ得るもので、且つ喧嘩の球根的なのも別の捌け口に植えればよいならば、喧嘩師は離れて行くのが自然の成行なんだなと…やっぱりseikoさんの説に異論が出来ない。
なんだか独り納得してしまったが、書いてしまったものは読書感想文のつもりでここに置いて行きます。

15ヌー兄∞§(~q~)§∞〔靑〕 ◆14duqX5056:2021/08/15(日) 04:24:15
小雨が降りだした

16コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/15(日) 13:42:59
>>13の補足
喧嘩サイトが廃れたというのはよく考えれば当たり前の現実描写に過ぎず、現に喧嘩専門に設けられた場所がどこも不人気なのである。
僕は喧嘩サイトを喧嘩界隈と取り違えてそれと気付かずに立言した。お粗末。

17seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/16(月) 01:07:53
うおおおお人がいたぁあああああああああああああああああ

誰に読んで貰いたい訳でも無いけど暇潰しがてらに駄文をツラツラ書いて誰か反応してくれたらオモロイなーと思ってたんだけど、まさかこんな廃墟に生者が訪れるとはたいへんおどろきました。
失礼ながらお名前を存じ上げないのでコップさんがどの世代の人なのかは分からないけど、読んでる限り平成喧嘩塾が身内のダベリ場化して畢竟が意識高い系の人材集めて意識高い風の喧嘩サイト作り始めてた頃かな?年代別の記憶がかなりあやふやなので自信が無いです。
なんにせよこんな秘境の地をチェケラしてる相当な喧嘩フリークであることはお見受け致しましたのでこんなわたくしからで良ければ幾ばくばかりのリスペクトをご査収頂ければ幸いです。
というかサハラ砂漠のど真ん中みたいなこんな場所で誰かに文章を読んで貰えるってかなりエクスタシー感じますね。昨今では中々味わえない感覚なので新鮮でした。ありがとうございます。

まず謝らなきゃいけない箇所なんですけど、俺が言ってた喧嘩サイトっていうのはあくまで”俺が知ってる”喧嘩サイトという狭い範疇の言葉でしか無かった。まさか誰かが読むとは思ってなかったので、言葉の定義を自己完結させて説明を端折ったり飛躍した論理で物事を語ったりしてる所があったと思う。ごめんなさい。
もし現状、”旧来のしたらば掲示板喧嘩と良く似た形式で言論行為を嗜んでいるインターネッツ”というものが存在しているのであれば、広義で言えばそれ等は喧嘩サイトに含まれるのかも知れないが、俺が意味する所の喧嘩サイトには当然含まれていませんでした。
もう少し具体的に言語化するなら、「2000年代から2010年代初頭にかけて隆盛を極めた、毒殺天国や平成喧嘩塾を代表とする主にしたらばレンタルサービスを利用した掲示板群」といったところでしょうか。語弊を避けるため、以後これを「旧喧嘩界」と呼称します。あ、コップさんがよろしければ「自己顕示欲が爆発した社会不適合者の掃き溜め」とでも呼んでもらってもかまいません。

「やってもつまらんけど、見てて面白い」っていうのは、スゲー共感できる心理で、例えば暇な時間無限にありますみたいな粘着クソニートと喧嘩なんて誰もしたくないんだけど、そいつが笑顔MAXで他人にネチネチ張り付いてるのを見るのはめっちゃ楽しかったりする。背景のある他人同士の議論を観戦するのも、人間の感情の機微が伺えたりして興味深かったりする。そういう対立構図が散発的に起きていく中で醸成されて行く掲示板の雰囲気って別のコミュニティじゃ中々お目にかかれない。
俺の理屈から言えば、コップさんは「ナイフで人を刺すキチガイじゃなくて、刺されてる人を見るのが好きなキチガイ」っていうだけであって、喧嘩師としての本質や動機はプレイヤーとそれほど変わりはないんだと思います。
自分の論理や煽りで相手を屈服させる事に楽しさを覚える暴力主義のゴリラなんじゃなくて、他人の心理や行動原理を観察したり、新たな見地を得ることが好きな共感力の高いタイプなのではないでしょうか。いずれにせよ誹謗中傷上等の世界に進んで身を置く/置いていたキチガイであることに変わりはないんですが。
旧喧嘩界でもそういう人は珍しくなくて、自ら率先して議論を吹っ掛けるよりも、喧嘩師をポケモン図鑑みたいにアイテマイズしたり、ログを保管して分析するのが好きな奴らはたくさんいたし、むしろそういう人達こそが旧喧嘩界の世界観の構築に大きな貢献してたんじゃないかなぁ。

そしてそういう人たちを含めた多様性、もっと言うとコップさんが列挙しているような「名前も浮かべられないような有象無象」の存在の多さ自体が「廃れていない環境」の適切なイメージになると思うんですが、いかがでしょうか。
情熱を燃やしてリロードボタンを連打して相手のレスを待ち続ける者もいれば、一度のやり取りで満足して二度と来ない者もいる。人間の総数が増えれば増えるほど個性は多様化され、凡庸な書き込みも増えていくものです。その中で「資格があるもの」として認められるには、それ相応に突出していなければならないでしょう。そうやってコップさんが今でも名前を思い浮かべられる人物が存在する、という事実そのものが「廃れていなかった過去」の証明になるというふうには考えられませんか。

18seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/16(月) 01:09:55
別の世界で旧喧嘩界とはルーツの異なる生態系が発展しているというコップさんの指摘に関しては、まったく異論がございませんし、むしろそれがインターネットにおけるコミュニティのあるべき姿だと思います。
わたくしは、喧嘩は人間のサガだ!みたいなワイルドで突飛な主張をしていたと思いますが、もうすこし掘り下げると、
人間には一定数、本来禁忌とされるはずの衝突行為を自発的に楽しむ異端な存在がいるものと仮定した上で、ある程度の規模の(特に言論活動を旨とする)コミュニティが存在する場合、そういった存在らがコミュニティからの本質的な排除を避けるために自発的に副次的なコミュニティを形成し決められた枠組みの中で欲求を発散しあう、という構図は旧喧嘩界の影響力の関与に関わらず起こりうる筈だ、と俺は捉えています。
それらの小規模なコミュニティがいかにして旧喧嘩界のような大きなダイナミズムを携えて存在感のある世界観を構築できるか、という問題はまた微妙に別の話になってくると思うんですが、
俺の中では、例えば沸騰するヤカンの中でグツグツ煮えたぎるお湯があったとして、プツプツ消える小さい泡がそういったマイナーな喧嘩サイトで、たまに出来る大きな気泡が旧喧嘩界みたいなイメージでした。
どれだけ大きかろうがいずれにせよ泡が弾けるのは目に見えているんですが、俺の言っていた「喧嘩サイトが廃れる」というのは、旧喧嘩界の泡が弾けただけじゃなくて、ヤカンの温度自体が下がって、ふつふつ沸き立つ気泡も減ってて、沸点ギリギリになってるように見えない?みたいな話にもなっています。
もちろん現状をあまり知らないのでもしコップさんのおっしゃっている様な場所がマイナーどころかめちゃめちゃ栄えていて「どこが廃れてるんだよ何言ってんだこのハゲ」みたいな事なんだったらマジで申し訳ないです全部忘れてください。

コミュニティが維持するためには風通しを良くして、新鮮な風が入るようにしなくてはならないと思います。末期の旧喧嘩界では窓が締め切られたような閉塞感で、顔ぶれがほとんど変わらない状況でした。
身内感が強くなれば馴れ合い中心になって喧嘩は飽きが加速化していくし、年齢層も上がればネット上の言葉遊びに費やす時間が減っていくことは当然のことでしょう。もし仮に未だに平成喧嘩塾が存在していて塾長とSelciaが二人きりで連日連夜喧嘩に勤しんでいるなんて事があれば冗談抜きで誰もが精神状態に異常を来たしていると思うでしょう。
自分はその「風通しの悪さ」の要因のひとつが情報の奔流により群衆の合意形成を迅速化するSNSの台頭にあるのではないか?と問題提起したつもりでした。既存の喧嘩師がTwitterに流れていったのが原因だ、と言いたいのではありませんでした。
具体的な話をすると、少し前のネットだと割とクローズドな関係性の比較的少人数のチャットやSNSが流行ってて、MSNチャットとかもなちゃとなんかのコミュニティから人が流れてきたりしてたんだけど、
今だとTwitterのフィードやトレンドを眺めてるだけで攻撃対象のアイコンが明白だし、いわゆるキャンセル・カルチャーが蔓延る環境の中で、一対一で他人をピックアップして言論的に攻撃するという行為(かつ”される”というリスクを背負わなければならないこと)に新鮮さや魅力を感じる人が減っているんじゃないかなぁと思ったわけです。
もちろん何の統計学的なデータも根拠も無いただのうわ言なので実地的な検証が必要なのではというコップさんの指摘はとっても正しいです。

>喧嘩師達はそんな内実の動機から初め喧嘩に手を染めたにしろ、文字を連ね文を綴っての応酬に明け暮れる中で、何かその行為に、行為による結果に、新たな自分の楽しみ方のありようを見出したものではないのかなとも思う。

実は個性的な文章を綴ることが目的で喧嘩は手段に過ぎないと考えている人間ほど長生きしてて、末期には「とりあえず奇を衒って文章書いて自己陶酔したい」っていう奴ら(オレも含む)しか残ってなくて中々混沌とした様相を呈していた記憶があります。
でも自分は旧喧嘩界の復興なんかには余り興味が無かったので半分開き直りで、死にゆく喧嘩板でとうの昔に息絶えた屍を眺めて昔に思慮を馳せながらオナニーでだらだら物書いて自分が楽しければそれでよくね?と思ってました。なので他人の読書感想文も大好きです。ありがとうございました。

19seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/16(月) 01:11:12
>>15

おまえ、千尋をどこにやった??
出せ!

20コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:31:33
お返事ありがとうございます。
こちらの返信が大分嵩張ってしまったので、箇条書きらしく一つの書き込みにつき一つの引用とそれへの返事を述べることにします。

21コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:31:49
>うおおおお人がいたぁあああああああああああああああああ
どうも(^^)ゞ

22コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:32:21
>誰に読んで貰いたい訳でも無いけど暇潰しがてらに駄文をツラツラ書いて誰か反応してくれたらオモロイなーと思ってたんだけど、まさかこんな廃墟に生者が訪れるとはたいへんおどろきました。
どういたしまして。

23コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:32:46
>失礼ながらお名前を存じ上げないのでコップさんがどの世代の人なのかは分からないけど、読んでる限り平成喧嘩塾が身内のダベリ場化して畢竟が意識高い系の人材集めて意識高い風の喧嘩サイト作り始めてた頃かな?年代別の記憶がかなりあやふやなので自信が無いです。
「多分その時期よりは少し後です。少しというのはそんなに喧嘩界隈の歴史上の特記に値
する事件が起こらなかった間がその時期と僕が訪れた時期との間に挟まっているという感
覚でいったつもりのものです。今引用した部分よりも少し後であなたが述べているように、
僕は「喧嘩フリーク」の端くれでした。それなので訪れた初めてより前のことをいくらか知
っている」…こう書くつもりでしたが、途中で、そういえば「喧嘩城」だの「ぷるぷるマン
ボー」だの、幾つか掲示板が栄えていた(いや、栄えていたのか?)時期が挟まれていたなぁ
と思い出したのです。僕は「乱気流」が連日スレッドが埋まり、「平成喧嘩塾」が三代目?
ぐらいで開始した辺りが、初めて訪れた頃と合っているのではないかなと思います。「***」
****************(思うところあり伏字にしました)。

24コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:33:21
>なんにせよこんな秘境の地をチェケラしてる相当な喧嘩フリークであることはお見受け致しましたのでこんなわたくしからで良ければ幾ばくばかりのリスペクトをご査収頂ければ幸いです。

戴きました。m(__)m

25コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:33:48
>というかサハラ砂漠のど真ん中みたいなこんな場所で誰かに文章を読んで貰えるってかなりエクスタシー感じますね。昨今では中々味わえない感覚なので新鮮でした。ありがとうございます。

どういたしまして。(^^)

26コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:34:30
>まず謝らなきゃいけない箇所なんですけど、俺が言ってた喧嘩サイトっていうのはあくまで”俺が知ってる”喧嘩サイトという狭い範疇の言葉でしか無かった。まさか誰かが読むとは思ってなかったので、言葉の定義を自己完結させて説明を端折ったり飛躍した論理で物事を語ったりしてる所があったと思う。ごめんなさい。

なるほどそうでしたか。僕にとってこそ、その病(やまい)は気を付けられるべきものなのだ
ろうと自ら戒めます。それでもところどころ現れがちと思いますので、目についたのは是非
教えてもらえたらなと思っています。そのつもりで書いているといってもよいぐらいで、乱
文を呈することをお許し願いたい所存です。

27コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:35:07
>もし現状、”旧来のしたらば掲示板喧嘩と良く似た形式で言論行為を嗜んでいるインターネッツ”というものが存在しているのであれば、広義で言えばそれ等は喧嘩サイトに含まれるのかも知れないが、俺が意味する所の喧嘩サイトには当然含まれていませんでした。
>もう少し具体的に言語化するなら、「2000年代から2010年代初頭にかけて隆盛を極めた、毒殺天国や平成喧嘩塾を代表とする主にしたらばレンタルサービスを利用した掲示板群」といったところでしょうか。語弊を避けるため、以後これを「旧喧嘩界」と呼称します。あ、コップさんがよろしければ「自己顕示欲が爆発した社会不適合者の掃き溜め」とでも呼んでもらってもかまいません。

seikoさんに倣って「旧喧嘩界」の呼称を以後僕も使いたく思います。
旧喧嘩界は大体喧嘩専門と名実ともに認められた掲示板、あるいは喧嘩師が間借りして物
騒な書き込みの続くスレッドを維持していても怒られないような掲示板がその舞台だった
のではないかと思います。ところで、もしツイッター喧嘩界隈なるものがあるなら、「掲示
板」に相当するものは喧嘩師某のアカウントなどというものよりも、タイムライン、ツィー
トが流れるのですが、どのツィート、誰によるツィートが流れるのかを決定出来る、いわば
一人一人の庭のようなもの、すなわちこれになるのではないでしょうか。そうすると誰が見
ても同じであろう掲示板とは違って、景観の点に於いて完全に同じである場所は見つから
ない訳です。喧嘩師Aと喧嘩師Bとがやり合っている状況は彼らのやりとりを見た者には
同じように認められるのである筈ですが、喧嘩師CがAの評判をしたり、喧嘩師Bが別の
機会に喧嘩をAに売ったりすることがあるとして、それらを一幅の内に収め得る仕組みは
あくまで個々人に属するものとなります。少なくともツィッターで完結する限りはそうで
す。それがしかし、togetterというものがあって、ツィートを拾って、Aさんのもの、Cさ
んのもの、Bさんのものと、その誰の手によるか、いつ投稿されたかに拘らない、ないし束
縛されない仕方で順々に並べられるものがこれです。ある人はこれを熱心に利用し、「まと
め」を当人と誰それとの喧嘩の過程について作り、題名に「何とかさん敗北www」みたい
なものを文字にして並べて、ある時は年に(月に?)何個も、公にしていたものでした。記念
のつもりで、ご満悦と見受けられましたが、こんな例があるように、掲示板らしい仕掛も出
来ないものではないもののようです。もっとも、掲示板はtogetterよりも仕組みが簡潔であ
り、編集者たる者を要しつつその者の能力や嗜好の如何で「まとめ」が中立的にも贔屓然た
るものにも、面白くもつまらなくもなるtogetterは掲示板を模倣するにも限度があるので
はあります。何か、喧嘩界隈みたいなものは世界観を作るために素材が共有され得るにもな
るべく同じような材料があることが望ましいものだと思いますが、ツィッターはそうして
みると、舞台としてはどうなのだろう?と考え込むのでした。
追記
チャットなんかはツィッターと同じように、いやそれよりもっと事件や文章が消えやすい
ですよね。なんだかチャット喧嘩師の評判をする類のものを見ると、ただランキングだけが
あって、それがちょっと謎めいた感じを覚えさせるようでした。チャットを訪れたらSラ
ンクの何某さんに会えるのかな?という謎めいたものへの興味がむしろそれで搔き立てら
れたりもしたんですが、ツィッターなどはそういう憧れが持たれにくいですね。なんだか一
人で呟いてばかりの幽人さながらの人のツィートが非常に面白いとか、そういう興味はあ
るのでしょうが。

28コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:35:59
>「やってもつまらんけど、見てて面白い」っていうのは、スゲー共感できる心理で、例えば暇な時間無限にありますみたいな粘着クソニートと喧嘩なんて誰もしたくないんだけど、そいつが笑顔MAXで他人にネチネチ張り付いてるのを見るのはめっちゃ楽しかったりする。

対岸の 火消しのけんかも 見ものなり お粗末

29コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:37:30
以降、改行を無くします。
>>27がwordで見るのと違って大分見にくかった…すみません。

30コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:37:48
>背景のある他人同士の議論を観戦するのも、人間の感情の機微が伺えたりして興味深かったりする。そういう対立構図が散発的に起きていく中で醸成されて行く掲示板の雰囲気って別のコミュニティじゃ中々お目にかかれない。
>俺の理屈から言えば、コップさんは「ナイフで人を刺すキチガイじゃなくて、刺されてる人を見るのが好きなキチガイ」っていうだけであって、喧嘩師としての本質や動機はプレイヤーとそれほど変わりはないんだと思います。

何だかね、歌舞伎で人が死んだり傷つけられたりしても、その出来事自体が起こらなければ…なんて後悔する気持ちにはなりません。まあ、歌舞伎を観ることはあまり(っていうか、youtubeで昔のものを観るぐらいしか…)無くて、親しみのないものが例えに浮かんだ訳なんですが、故なく傷つけられて気の毒な人が登場人物にあるのでも、それは筋立て上、後になって身内の人や家来の人が加害者に復讐を遂げるとかで、そういう勧善懲悪の物語の起こりになるだけ。あるいは心中に至る男女の仲が材料でも、どうにか救ってやりたいと思うのでもない観賞態度が普通です。義憤とか同情とかは少なくとも歌舞伎の作に対しては、その元の出来事なり、それと似た現実の事件なりに対するよりも、目方でいえば少なく、質も違っていることが大概なものでしょう。当たり前、過去を過去として傍観するわけですから、目の前現に進行している事態に会うもの、体験した過去を悔やみつつ思い出すものとは自ずから異なる。作中認められる旧時代の習俗や一般的な価値観の野蛮さ、いやな感じなどは、想像を逞しくすれば観る人にも感じられるだろうが、彼はそれを改革しようなどと思う筈が無い、そういう底のものです。現代の社会のある場所に起こる出来事、事件などを目撃者がどうかして世論の俎上に上げようとするのとは、歌舞伎を観て起こる気持ちや、観てから取られ得る行動の動機は別な様子があります。僕は喧嘩板の過去の喧嘩など見ると、なるほど、彼らは望んでやっていることでもあろう。未成年の、まだ子供が後先を十分に慮らずやっているのではあるが、それに忠告など加えようもない。ハンドルネームをつけた人々の営為なのである。面白い点さえある。是非を言うにも及ばない。読んでいて面白いなあ。そんな気持ちで見る自身の態度を自覚する時があります。なにも刃傷沙汰や性に関わる暴力の現場などと、文字の喧嘩とは、後者はいろいろあれ、同日に論じられないのが大概の事ではあるが、これがもし喧嘩界隈を復興して人を集めて喧嘩させようなんぞと思う日に遇ったなら、後者も、よくない。よいとはすぐにいえません。前者についてはフィクションの形で創作し得るが、後者はフィクションのつもりで当事者達が演じるのがなかなかそうはいかない成行が思われます。一人だけで書くのと、二人でやるのとは、物語、現に創作しつつある物語から途中連続的に受ける影響が作者に於いて相異なる。Aがばかと言ってBがなんだこのやろうと答えればBは腹を立てるであろうしAは再び物言いをするであろう。そんな風に悲劇を演じたつもりが実際の悲劇に陥らないとも限らず、当事者は演者から犠牲者に落っこちないともわかるものではない。喧嘩界隈再興にあたって、やっぱりそんなことも思われるんですね。ちょっと息を吹き返させてやりたいなと思うことは僕にも度々ありました。その時の僕はこういった考えを念頭に置かずのんきにおりました。無感覚の罪ですね。つまり、seikoさんいうところの「刺されてる人を見るのが好きなキチガイ」が僕に該当するのは、どうも、よっぽど気を付けないと免れ得ないものでしょうね。僕は自覚するところ「人が刺し合う劇を看るのが好きなキチガイ」である。しかし、それは気持ちの上で、実際は過去の喧嘩を看るにしろ「ほんとうに人が刺され合ってる」のが、思い込んでいたより深刻なのであったものかもしれないと、思えば当初の気持ちに安んじていられない所以を認めます。喧嘩界隈を再興するなどとなれば尚更です。

31コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:38:49
>自分の論理や煽りで相手を屈服させる事に楽しさを覚える暴力主義のゴリラなんじゃなくて、他人の心理や行動原理を観察したり、新たな見地を得ることが好きな共感力の高いタイプなのではないでしょうか。いずれにせよ誹謗中傷上等の世界に進んで身を置く/置いていたキチガイであることに変わりはないんですが。
当時を思えば僕は前者に憧れないでもなかったが、「技量」がそうさせなかったのである。また、何か嫌なことを言われて(そういうことは度々あったのだが)、やりこめたいとか、何なら駆逐したいとは一時強く感じもしたのだが、もしそれを想像の範囲で最も強く、すなわち暴力的なやり方で実際にやれるものだったら、僕はためらいを覚えたことかと思う。あるいはそうでなかったかもしれませんね。これは当時の僕を弁護しようと置く言葉なのではありませんが、あの時、僕はある種の「煽り」をある人に向かって言おうとして、ためらい、ついに言わなかったことがありました。他方で、僕は非常に酷い、今になってみれば悪人の(人非人の)言葉だと言うしかない言葉を文字に作って人へ向け、殴りつけたようなことがありました。総括すれば僕は人の下等なありようを自ら選んだのであったし、「暴力主義」を隠れ喧嘩師として奉じた訳のものでもある。後者はさて、妥当するか判断するに迷いが持たれます。喧嘩界隈、面白いもんなあ。喧嘩師、楽しい人物が多かったもんなあ。それはそうと、ある人物の行動原理や心理を一面あるいは全てに足らない面より見て楽しみ、その他の面を顧みずに安んじることが、特に傍観者でいるのなら良い態度なのだとは思われないです。彼に関わるのなら、まあやりようにも限度があるのだし、攻撃される立場に我がある事なのなら、やってやる義理も無い。親切にする要はありません。彼に関わらないでもいい傍観者の態度で、ないし条件でものを言う人間がうるさくその非を咎め、欠点をあげつらい、未熟を嗤って一向反省しないでいる様子は、腹が立つものなのです。自分には。見てしまったものを思考の過程にほ(う)り込んで納得させることは人間にはけだし許されるはずのことです。それを常習にするのが、どうも卑怯であるようです。傍観者は一言忠告してやるぐらいが最低限望ましいと思います。よっぽど話の通じないやつを目の前にしたものならばともかく。さて、僕はもし自分が喧嘩師として参加し、喧嘩界隈に於いて活動するのなら、正しく人の心理や行動原理を言い当てた言葉、要を得て誇張を斥けた言葉を誰かに向け発したいものだと思います。てきめんに煽られたら相応に煽り返してやりたいとつい思い、そうしてしまうのも、どうも自分自身未だこれをやましめるに足らざる未熟さがあるようなのですが、幸いにして僕には今喧嘩師たろうとする気概がなく、その動機も自らの内に認められない。いや認めないでもないが、面倒がはるかにまさるものなのです。
追記 忠言は苛烈にしてよくものを言い当てたのがしばしば見られるが、これは両立し得るばかりか、然るべくして両立するのでも往々にしてある。僕はその価値を肯定します。

32コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:39:21
>旧喧嘩界でもそういう人は珍しくなくて、自ら率先して議論を吹っ掛けるよりも、喧嘩師をポケモン図鑑みたいにアイテマイズしたり、ログを保管して分析するのが好きな奴らはたくさんいたし、むしろそういう人達こそが旧喧嘩界の世界観の構築に大きな貢献してたんじゃないかなぁ。

まさに。

33コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:39:42
>そしてそういう人たちを含めた多様性、もっと言うとコップさんが列挙しているような「名前も浮かべられないような有象無象」の存在の多さ自体が「廃れていない環境」の適切なイメージになると思うんですが、いかがでしょうか。

同意をいいたいです。

34コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:40:16
>情熱を燃やしてリロードボタンを連打して相手のレスを待ち続ける者もいれば、一度のやり取りで満足して二度と来ない者もいる。人間の総数が増えれば増えるほど個性は多様化され、凡庸な書き込みも増えていくものです。その中で「資格があるもの」として認められるには、それ相応に突出していなければならないでしょう。そうやってコップさんが今でも名前を思い浮かべられる人物が存在する、という事実そのものが「廃れていなかった過去」の証明になるというふうには考えられませんか。

妥当なお考えだと思います。ちなみに、僕は先日書いた際、「何だかんだいって、名のある喧嘩師どもは昔も今も喧嘩を喧嘩板でしているんじゃない?」と考えたり、「いや、昔はきっと早いペースで、また頻りにやっていたのだろう。今はぽつぽつと見られるのみであるのか。」と考えたり、色々と思い直したのです。僕は「喧嘩フリーク」ですが、昔の喧嘩など見る時、ただ文字を眺めるだけで、数字、つまり日時には目もくれませんでした。年ぐらいは気にしましたが、そんなわけであったから、AさんがBさんと2008年ある場所で喧嘩していて、2010年これとは違う場所でも喧嘩しているなあ。おやっ2011年にも妙な所で噛みつき合ってるぞ。などと出来事を眺めていました。常連みたいな人は何だかんだ言って今まで喧嘩界隈の動脈を移動するものであり続けていたもので、どうも昔に比べて今の喧嘩界隈は動脈が短くなって静脈が長くなったようだぞ。などと思われるのですが、彼らをおいてまた喧嘩界隈に間々出現した人々というのは、バイキンか(失礼)、食い物か(失礼)、薬剤(失礼)か、害になったにせよ益になったにせよ、一過性に溶けて消えるだけのもの(大失礼!)だったので、それしきのものという認識、軽視する傾きが無いでも無かったもののようです。オンラインゲームであるクランが一時は栄えていたがその時を昔に去らして(変な言い回しでしょうか?)、たまに人が二三人会合した時に遊ぶぐらいが上々というありさまを呈するようになった、そんな場合には誰が見ても昔が盛りの時期で今が衰える過程なのでしょう。オンラインゲームは空間と時間とをその要素とするものですので、そこの様子を体験の上で見る者でも、傍観の下に見る者でも、空間と共に時間それもhour単位minute単位をもっていえるような時間を気にしない訳にはいきません。人数が変わらないでも会う機会が減ったならそれは時間の観点をもって考えて廃れたものとみなせます。ところが、喧嘩界隈を見るところの僕は、時間ということをあまり気にしないで、もっぱら空間におけるログの有無を見て、量を見るにしても時間を軸にした比較などをもってするのではなく、何となく見たものなのでした。さようの偏頗なる見方が僕にとってあることを自覚したので、栄えたのがいつで衰退がいつからのことかと論ずるのを、あとの方では控えた筈なのですが、自覚するまではこれに囚われて考えをなし思いをなしていたために、ああいう物言いがあったのであります。

35コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:42:26
>別の世界で旧喧嘩界とはルーツの異なる生態系が発展しているというコップさんの指摘に関しては、まったく異論がございませんし、むしろそれがインターネットにおけるコミュニティのあるべき姿だと思います。

同意をいいたいです。

36コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:42:47
>わたくしは、喧嘩は人間のサガだ!みたいなワイルドで突飛な主張をしていたと思いますが、もうすこし掘り下げると、
>人間には一定数、本来禁忌とされるはずの衝突行為を自発的に楽しむ異端な存在がいるものと仮定した上で、ある程度の規模の(特に言論活動を旨とする)コミュニティが存在する場合、そういった存在らがコミュニティからの本質的な排除を避けるために自発的に副次的なコミュニティを形成し決められた枠組みの中で欲求を発散しあう、という構図は旧喧嘩界の影響力の関与に関わらず起こりうる筈だ、と俺は捉えています。

「いじめ」が起こるコミュニティの類よりは、「本質的な排除」がなされるコミュニティは健全なのでしょうね。そもそも不健全であるのなら、「異端な存在」は相手を選ばず、少なからぬ場合に於いて弱い者を選び、「いじめ」て、周りにも認められるのをいいことに自ら改めることをしないものであろうと想像されます。然らずんば「異端な存在」にもいろいろあるので、弱い者「いじめ」が好きな者もあれば、何だか公文式でもするように強い者をひしゃげさせてさらに強い者へ牙を剥きたがる類の者もあるでしょう。なにか人間と彼の発する言葉という区別を設けて、人間のありようよりも彼の言葉の方へ関心がある者は、もし異端的気質が備えられているのであっても、そもそも取り柄のない言葉には関心を向けず、もっともらしいが欠陥があるのであったり、いかにも大股に雑な論理を着て歩いている底のものであったりに強く関心を持ちそうです。いや、どうなんでしょうか?胡乱なことをいったもののようです。

37コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:43:37
>それらの小規模なコミュニティがいかにして旧喧嘩界のような大きなダイナミズムを携えて存在感のある世界観を構築できるか、という問題はまた微妙に別の話になってくると思うんですが、
>俺の中では、例えば沸騰するヤカンの中でグツグツ煮えたぎるお湯があったとして、プツプツ消える小さい泡がそういったマイナーな喧嘩サイトで、たまに出来る大きな気泡が旧喧嘩界みたいなイメージでした。
>どれだけ大きかろうがいずれにせよ泡が弾けるのは目に見えているんですが、俺の言っていた「喧嘩サイトが廃れる」というのは、旧喧嘩界の泡が弾けただけじゃなくて、ヤカンの温度自体が下がって、ふつふつ沸き立つ気泡も減ってて、沸点ギリギリになってるように見えない?みたいな話にもなっています。

「いずれにせよ泡が弾けるのは目に見えている」と、seikoさんが言ったのには異論があります。喧嘩文化というか、言い方をここで作れば「喧嘩師の世代」なるものについて、一つの世代から次の世代へと受け継がれるミームのようなもの、喧嘩の仕方というか、「煽り」のスタイル、スマートな殺し文句、恰好良さの演出などといったものは、考えられるのではないでしょうか。そういうものが世代から世代へ引き継がれ、場所が成り立ち続けることはあり得ない訳ではないのだと、考えられるのではないでしょうか。というのは、僕が意気込みに於いては、ある時期そうだったので、当時の僕自身よりも能力を備える人が同じように意気込んで臨んだなら、それは、全然駄目だった僕とは違い、彼には可能なことで、実現され得る場合もあるのではないか?と思う訳で、そういったのです。泡が弾けても、あるものはより小さくなりつつ水草にでも付着し、ひょっとするとそこにまた合流するものがあって、あるいは気泡が水草の呼吸の作用で出るものを吸収して…などというと言葉の綾に過ぎないのかも知れませんが、如何にしてか、弾けたのが弾け尽くすのではなしに、見方に依っては継承される。そんなことは無いでもないと、想像を出来るのではないでしょうか。いえ、「泡」が喧嘩サイトの大小さまざまにあるのをいったものだと捉えられますので、もしそうならちょっと僕の例え話は要領を得なさそうな感じが覚えられるものではありますが、まあ、つまり「喧嘩界隈」はどうかすれば一場の盛りのたびに新たなるものを産み出し、それを次に伝えてまた生産するもののためになるというサイクルを持てるのではないかという訳のお話です。
追記 水温がseikoさんの述べた場合と僕の述べた場合とで大違いですね…(^^; /なんだか「異論」といったのが全然異論でなさそうなのが先にした書き込みと同じことを繰り返すようで恥ずかしいです。同じ水はいずれ気泡を出し尽くす。新たに注がれる水が無いといけないのです。僕が言った「ミーム」は新たな水によく溶け込むものですから、それが全然無くて、古い水がただ煮立てられて年月を閲するばかりの様子をいったはずのseikoさんの言にもし何か付け加えることがあるのなら、古い水には水を注ぎ、それで温度は下がるかもしれないが泡はともかくもよく出るものであろうと期待して面倒を見てやるのがいいのだろうという至極当たり前の言がその第一でしょう。僕は恐らく「泡」がいうところの「喧嘩サイト」をサイトという仮構物に限らずサイトの内容みたいなものも含めて表され得る比喩と思ったものなんでしょうが、きっとseikoさんは個々別々の喧嘩サイトが多く人を呼んで後にはスパムまみれのスレッドばかりになるというその「物」をいったものなのだと推されますので、異論といったのがそういう異同を弁えない軽率な語であった訳なのでした。何だか書きながら納得する調子でございまして、恐れ入る次第です。

38コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:44:06
>もちろん現状をあまり知らないのでもしコップさんのおっしゃっている様な場所がマイナーどころかめちゃめちゃ栄えていて「どこが廃れてるんだよ何言ってんだこのハゲ」みたいな事なんだったらマジで申し訳ないです全部忘れてください。

なんだか結構栄えていますが花は咲か(え)ずといったところか、それか雑草が一面に靡いて花なんどもところどころに見付けられるのだが、よく見たら雄しべも雌しべも無い花であったり、造花が挿してあったりするのである。といった風情なものでした。なんだか無性生殖みたいな気味悪い殖え方で顔つきが似たり寄ったりの作りになった奴ばらが起こって群舞しているらしく見受けられました。印象はこのようにそう褒めたい感じのするのではありませんでしたが、どうも今もわちゃわちゃした場所なのであるそうです。前に述べた喧嘩師の人が長くそこに留まっているようなので、彼が小便をし、それを栄養に育った草があるいは徒花ならざる一箇をもつに至ることもあるべきか。大便でもよろし。…尾籠ですみません。orz

39コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:44:55
>コミュニティが維持するためには風通しを良くして、新鮮な風が入るようにしなくてはならないと思います。末期の旧喧嘩界では窓が締め切られたような閉塞感で、顔ぶれがほとんど変わらない状況でした。
>身内感が強くなれば馴れ合い中心になって喧嘩は飽きが加速化していくし、年齢層も上がればネット上の言葉遊びに費やす時間が減っていくことは当然のことでしょう。もし仮に未だに平成喧嘩塾が存在していて塾長とSelciaが二人きりで連日連夜喧嘩に勤しんでいるなんて事があれば冗談抜きで誰もが精神状態に異常を来たしていると思うでしょう。

こわいっす ((^^;

さて、二人いて彼らが喧嘩している時一方が他方を揶揄するのも、それは揶揄したような、戯画化したような見方に囚われた場合があり得て、なんというか、もしその二人が馴れ合いをして行って互いの素性性格などを理解し合う関係に進んでゆくものとすれば、そうしてある程度理解し合ったのを喧嘩などで一人が他方を揶揄し、からかう文句をもって言うのは、コミュニケーションとして、何だかつまらないっていうことはあると思います。わかりきっていることならわかりきっていることで、嘘なら嘘で、「煽り文句」の賞味期限が短いものになるのは、その内容が何も話し相手を驚かせるものでないからなのだと言えそうです。煽り文句で、ふとした驚きを覚える。それは、相手と自分との間に交渉が未だ深くないのであるのに、何か言い当てられたがゆえの驚きでもあるでしょう。また、相手が自分の事を全然言い当ててるのではないが、そういう相手であればこそ、煽り文句の威力がいや増す訳のものでもあるでしょう。畏怖を覚えさせるのでもあるでしょう。そういう、コミュニケーションのいまだ尽されない状況ならではの怖さというのが喧嘩板の場所における外連味であったかもしれないと、seikoさんの文を読んでいて考えました。「論理的攻防」は出来ないでもないですもんね。どんな間柄にしろ可能だといえます。それでも、論理的攻防が喧嘩の形をとらないことが特に親しい間柄にある人々に於けるありがちなことだというのは、一面論理的攻防が議論と似て非なるもので、議論はどんどん双方が新たな考証の材料を知識から、あるいは活字など外部の知の実りから持ち寄って、結論に於ける、より高みに近いところへ昇っていこうとするものであるが、論理的攻防は「こういったけどそれならこんな考えは出来ないよね?」みたいな牽制的言辞に往々にして必要の役割が与えられて、相手の可能性を潰すとでもいうような文章がしばしば行われるのであるし、そういったものを自制しても論理的攻防がよりそれらしくあった頃の文章の書き方、作文作法などといったもののしっぽを中々萎れさせられずに、めんどくさい文章が意に反して出来上がってしまうというようなことを呼ぶものでもあるであろうから、彼は時宜に合い、これは合わないという対照が出来ているのではないか。議論を喧嘩と偽ってやっていけば案外喧嘩板として体裁が保てて行けるのではないかと思わないでもなかったものですが、やっぱり、議論は七面倒で、千里の道をゆく如きものにもなり、互いに互いの身体を杖にして支え合って行かねば、これが続かない場合が認められるのでもあるでしょうから、掲示板に延々と連ねて、その景観がおもしろいものになったかというと、どうもそんな気が今はしないです。なにか昔の人が何かを評して簡約にして肯綮に当たる言を吐いたりしたのは、古典に見えていまびとの模範にもなり得るのでしょうが、語彙が全体に観念的で、そのしがらみによって当時いえたのが真理の一部分を偏見につづめたものなのである場合もそうしたものの内に認められるのかもしれないと、つい思いましたが、そういう古い語彙でなにかお互いを決めつけあって恬としているような時代ずれのしたやりとりなど、案外喧嘩に適当するのではないかと思います。「コスプレ」のつもりで、軍人調の人格、大正の文学青年風の人格、他にもいろいろあるだろうものを作り上げてやってみるとか、その向きの文体など借りてきて遊んでみるとか、喧嘩を楽しむにはさようのやり方があるのではないでしょうか。ばかとか、死ね!とか言ったりするのは、どうもばかとしかいいかねるやつをさしていうのはあるだろうけれども、ちょっと死ねというのは誰に言うにしても不穏なので、くたばれと言ってみようと、あるいは誰かが思いついたりするかもしれません。それは「くたばれ」という語が「死ね」という語に比べ、なにかフィクショナルなふぜいで響いて、人格の奥底を掻こうとする指の触感のようなものを感じる度合が少なく、言う人が安心して言い、聞く人もさほど興奮をさせられず聞けるというだけの語の背景を持っているからです。そういう語を喧嘩板に流通させ、うまい具合に喧嘩の虚構と実感される何かの由来するところとを止揚せしむること、あるいは無きにしもあらずか。

40コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:45:21
>自分はその「風通しの悪さ」の要因のひとつが情報の奔流により群衆の合意形成を迅速化するSNSの台頭にあるのではないか?と問題提起したつもりでした。既存の喧嘩師がTwitterに流れていったのが原因だ、と言いたいのではありませんでした。

なるほど。喧嘩界隈に縁が無かった人が縁を持つにも、SNSの存在ゆえの(平等になされる)競合というより、SNSの特性ゆえの彼に有利で此に不利であるところの競合があるために、どうもその可能性が少ないのだと述べておられたと理解しました。改めて同意いたします。

41コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:45:51
>具体的な話をすると、少し前のネットだと割とクローズドな関係性の比較的少人数のチャットやSNSが流行ってて、MSNチャットとかもなちゃとなんかのコミュニティから人が流れてきたりしてたんだけど、
>今だとTwitterのフィードやトレンドを眺めてるだけで攻撃対象のアイコンが明白だし、いわゆるキャンセル・カルチャーが蔓延る環境の中で、一対一で他人をピックアップして言論的に攻撃するという行為(かつ”される”というリスクを背負わなければならないこと)に新鮮さや魅力を感じる人が減っているんじゃないかなぁと思ったわけです。

ありようをよく観察しておられると思います。喧嘩は駒と駒とのぶつけ合いですが、下は兵隊から上は王様までくるめて一個の作品として、すなわち自我をそのものとして呈するものとして、駒の一切合切を作り上げる必要がそのためにはあるものでしょう。相手を攻撃するにも、ばかの一言でも、そう言えるだけの人格の訓練されたところが無いといけません。さもなければ、変なやつを見ても迷惑だなと思ってつい見て過ぎるだけで、やあねえとか言って立ち去るのが関の山でしょう。ある場所に、あるものを自己の代表として遣るには、そのつもりがないといけませんし、喧嘩板のような場所にやるなら、文字で自分の仮の姿を描いて相手にわかってもらい、相手がそうするのを自分でも受け取って人間関係を育み、維持し、時にはあえて破るという活動の場所である「比較的少人数のチャットやSNS」で、そうしたことに慣れている者が、より要領よくやれるのであろうとは考えられるものなんですね。角が生えた動物どうしで角が長いのと角が短いのと争えば長い方が大抵勝つのですが、長いのと、そもそも生えてないのとは、勝ち負けが生じる底の争いをそもそもしません。それは、生えてないやつは争いを角でするということがわからず、長い者に迫られても、ためらわず逃げていくからなのです。短くとも角の生えているやつはきっと挑んだり、挑まれたらこれを受けて立ったりすることでしょう。それは角が生えているからには、ただ邪魔と思ったり、拾った兜のように尊いものと思ったりせず、とにかく自分の持ち物であり身体の一部であり自分自身なのだと思うという訳のことだと思われます。以上は思いついた例え話です。実際どうかといえば、例え話は例え話として認められるものに過ぎず、実際の動物の生態や性質と比べれば滑稽なものかもしれないと思われますので、例え話の指向あるいは雰囲気だけでも伝わったならよいなあと思います。

42コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:46:12
>もちろん何の統計学的なデータも根拠も無いただのうわ言なので実地的な検証が必要なのではというコップさんの指摘はとっても正しいです。

さようですか。もし検証するなら、観点として右にいうものが一ついいんではないかなと思いました。seikoさんの述べた「攻撃対象のアイコンが明白」で、「いわゆるキャンセル・カルチャーが蔓延る」ところの環境に接する人は、大人も子供もあるものであります。大人はどういう風にネットに触れるのか?その一方で、子供はどう触れるのか?と考えてみますと、子供の場合は情操に接触して影響するところが大人の場合に比べて甚だしいことがいえると思います。自分自身の姿を自覚するのにも、どういう特徴をもってその像を作り上げるかということは、彼がどういうものに触れるか、ある種の本なり雑誌なりはたまたネットの一領域に流れる文章の作る風景(景観というべきでしょうか。)なり、色々なものがある内それぞれにある特徴を備えるところのものどもの内の何に触れるかが大分影響するのだと思います。一には自己表現の仕方、一には他者に対しての評価の観点のありよう、そういったものを調べれば、seikoさんの述べたことを否定するようにはならないとは思われますが、さらに開拓されることを見方に就いて得られるのではないかなと思いました。とはいえ、これはいったものから始める。つまり自分がすべきなのです。

43コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:47:12
>>喧嘩師達はそんな内実の動機から初め喧嘩に手を染めたにしろ、文字を連ね文を綴っての応酬に明け暮れる中で、何かその行為に、行為による結果に、新たな自分の楽しみ方のありようを見出したものではないのかなとも思う。
>
>実は個性的な文章を綴ることが目的で喧嘩は手段に過ぎないと考えている人間ほど長生きしてて、末期には「とりあえず奇を衒って文章書いて自己陶酔したい」っていう奴ら(オレも含む)しか残ってなくて中々混沌とした様相を呈していた記憶があります。
>でも自分は旧喧嘩界の復興なんかには余り興味が無かったので半分開き直りで、死にゆく喧嘩板でとうの昔に息絶えた屍を眺めて昔に思慮を馳せながらオナニーでだらだら物書いて自分が楽しければそれでよくね?と思ってました。なので他人の読書感想文も大好きです。

seikoさんは楽しんで書いておられたのですね。どなたかが楽しんで書いた文章を享受する機会は有難いです。僕は現にseikoさんのご返信を楽しく読んだのでありますし、こうして返信を綴る間も楽しさが続いているのを覚えるものであります。いやいや、あまり長く書き過ぎたんではないの?と心配してはいるんですが、どうかご笑覧下されば幸いです。

44コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/16(月) 13:52:21
>ありがとうございました。

こちらこそ、お返事いただいて、しかも頗る厚い内容なので、楽しみました。ありがとうございました。
やりとりがあまり長くなるなど、必ずしも好ましくないものかもしれないですから、僕はいつでもやりとりが途絶した場合を、そうなるべくしてなったものだと是認するはずです。当然のことながら、断っておくのです。しかしながら、seikoさんのお返事には、もしこれをいただいたものなら、お付き合いしたいと思っているものですので、よろしくお願いします。

45seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/18(水) 07:24:41
>Twitter

Togetterっていうのは、ユーザーが各々、Tweetを取捨選択して記事にするまとめサイトみたいなものだよね?更なる議論を推奨する場としては機能するかもしれないけど、それが「掲示板らしい仕掛け」かと言われるとちょっと違うかもしれない。まったく掲示板を模倣する必要性は無いからそれがTwitter界隈で機能しているのなら何も問題は無いんだけど、個人的には恣意的なツイートのピックアップによる記者のプロパガンダの場になったり、安易なゴシップ拡散の温床になりそうで怖い感じがする。Twitterでいわゆる喧嘩らしい喧嘩をしている光景を見たことが無いから想像での話になってしまうんだけど、本質的に掲示板のように特定の場所の特定のトピックありきで参加者が募るようなシステムではないから(勿論スレッドを利用して似たような仕組みを再現することは可能だと思うけど)個人主義的な要素が強くなって、「喧嘩界」っていう括りが必然的に曖昧になる土壌だと思う。そういう環境で喧嘩が持続的なエンターテインメントとして発展していく展望って俺にはどうしても中々イメージ出来ないところがあって、何故かというと「自分の庭」から「他人の庭」に乗り出して喧嘩を売るっていうのが凄くエネルギーを消費する行為(確立された自らのセーフスペースを抜けて敵対関係を意図的に作り出すストレス性の高い行為)に見えてしまうから。もっと言うと、Twitterだとある特定の個人が「どんな発言をして来て、どういう交友関係を築いていて、どんな人間性なのか」っていうプライベートな情報に対して外部の人間が容易にアクセス可能だから、インターネット上の仮の人格とはいえ、どのようにして自己を確立してきたかという点が常に観衆に晒される意味で現実社会に類似した常時評価型社会として個人にかけられる圧力の存在が強くて、ただ単に掲示板のスレッドに参加して見ず知らずの他人を煽るというだけのシンプルな構図に対して、Twitterだと安易な衝突行為のリスクが高すぎるから忌避されるみたいな現象が起きがちなのではないかと想像してみる。Twitterの文化圏において、周囲と関係性を持つために他人と言葉を交わす必要は無くて、呟くという行為そのものが世界に対する発信行為になるから、創造的な言語活動であったり他人の喜怒哀楽の感情に訴える刺激的なツイートが拡散されて人気を得るっていう個人の関係性における非破壊的な活動のほうが主流になってて、やっぱり喧嘩という格式がマッチしている感じがしないです。140文字とかいうクソみたいな文字制限がそもそも絶望的に足りねーだろって話は置いといたとしても。


>泡

自分としては確率論として、人間が形作る社会というものは往々にして人間の生来的な本質をある程度反映するものであって、それが一見まったく異なる分野や領域であったとしても、何かしらの最低限の共通性を有するものだと考えた上で、人々を惹きつける「喧嘩」というコミュニケーションの根本に内在する動機-というか人間の欲望的なもの(喧嘩の様式そのものの事ではない)が、その共通性のひとつとして語れるのではないか?ということを言いたかったつもりですが、とはいえ旧喧嘩界の文化が何らかの形で継承される(生存する)ということは十分有り得ることだと思うけど、局所的に見た時にやはりその空間の継続性というものは途切れてしまうわけで、当時の状況を鑑みた際に旧喧嘩界の衰退は必然的なイベントであったと思う。そもそも、泡が弾けるのが目に見えている―というのは、インターネット上のあらゆるコミュニティを包括的に神の目線から観察した時に、全ての”各所で散発的に発生する喧嘩アクティビティは大小の差あれど栄枯盛衰である”という諸行無常みたいなことが言いたかっただけの観念的な文章表現です。しかし、喧嘩をミームとして捉えると進化の継続性を世代を超えて観察出来るのではないかという観点は自分には無かったので面白い考え方かもなーと思った。空間の断続性ではなく文化の継承としてみれば、それぞれ進化の系譜として点と点に線を繋げるようなイメージで大局的な視点が形成できるということですよね。現実論としてその系譜が実証しうるものかというのは、カオスを紐解くような感じで難しそうに思うし、旧喧嘩界の記憶が全く別の世界で文化的価値として伝播し進化の種となっているかもしれないと考える事は、あくまで受動的な理想論でしか無いかもしれないけど、緩やかな死を迎えた世界の住民から見ればある種の救い、というか慰めのように映るかもしれない。

46seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/18(水) 07:30:00
>煽り

喧嘩における煽りっていうのは他者に自己の優勢を主張させる手段であるとともに相手の立ち位置を自分の都合が良いポジションに操作する手段であって、単なる「あほくそ死ね」みたいな誹謗中傷は一番原始的なものに過ぎない。死ねとかアホとか罵って相手の心が折れてくれればそれだけ簡単な事はないんだけど、ある程度経験値のある人間に対してそんなものは句読点と左程変わりの無いノイズにしかならない。
原始的なレベルでは相手をボロクソに扱き下ろしても許されるという環境は反社会的で刺激的な行為に見えるだろうし、そういった刺激が多くの喧嘩師にとっての喧嘩界への入り口であった事は間違いないんだと思うけど、言語活動としてもっと深い観点から見た時に、じゃあ効果的な煽りって何?って考えると、それはもっと人間の胸にナイフを突き立てて心臓を抉り取るような意地の悪い行為としか形容できないと思うんだよね。

単に罵倒するだけじゃなくて、相手の論理を崩した上で自尊心を傷付けるような切り口で畳み掛ければもっと気持ちが折れるだろうし、相手が自己の能力に自負があるようであればそれがいかに稚拙で非生産的であるか分からせるような展開をしていけばその「自負」を「恥辱」に転化させる事も出来るだろう。もっと言えば承認欲求を貪欲に求めるタイプの人間も居て、そういう人間に対して「お前の言ってる事は分かる」とか「必ずしも間違いではない」みたいな語り口で説いていくと、満足して素直に負けを認めてくれる事もあるし、これも一種の煽りとしてカテゴライズ出来ると思う。
こういった喧嘩の前提-分析-実行の流れにおけるフィクション性を理解していない第三者から見ると、その行為自体が残虐で憎悪に満ちた犯罪行為のように映るかもしれないし、もしかしたら未熟な相手からもそういう印象を持たれるかもしれないけど、実は醜く汚い人間の本性を言語ゲームに昇華して更に白黒付けてやろうっていう、前向きで紳士的なやり取りなのではないだろうか?と思ったけどそれは言い過ぎかもしれない。
なんにせよ、その結果傷付いてしまった人間が居るのであれば、それは自ら足を踏み入れた以上自分が招いたリスクであるわけだしその割り切りをできない人間に考慮する必要は全くない。

コップさんは自分には向いていなかったというけど、コップさんみたいな観察力の高い人間こそそういう機微の認識力にも長けている筈だと俺は思ってて、例えば「こいつは竹槍で突っ込んでくるだけの原始人だな」とか「こいつは自尊心が高いナルシストだな」とか、他人の文章を読み込んでいる内に人間のタイプって徐々に見えてくるところがあって、それぞれのタイプの心を折る為にはどういう煽りが効果的なのか分析する能力さえあれば、あとはそれを表現する文章力と論理性さえ身に着けて、もう立派な喧嘩師になれちゃうわけですよ。そもそもこういう喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語るっていう行為自体が喧嘩の楽しさそのものをスポイルすることに当たると思うからこういう話は今までした事がなかったんだけど、まあ他愛の無い昔話のついでだし、もういいよねって感じです。

>コミュニケーションのいまだ尽されない状況ならではの怖さというのが喧嘩板の場所における外連味であったかもしれない

なので、親密になればなるほど、いわゆる喧嘩の醍醐味が薄れるという点でコップさんの意見はその通りだと思う。
友達として親しい喧嘩師同士でも喧嘩は出来るんだけど、それってなんというか喧嘩ごっこ、とでも言うのか、お互いに感性が似通った人間同士が文章を交わす時に両者が感じている事って「お前ならこういう切り口が好きな筈だ」とか「こういうアプローチなら理解してくれるだろう」っていう既にお互いで共有されているはずの価値観の確認行為に決着するのであって、本質的な喧嘩の真逆を行ってるような感じがする。
当人からすれば本質的って何?楽しけりゃいいじゃん?って所だと思うんだけど、その確認行為こそむしろ喧嘩でやる必要が本来的に無いので、最終的にそれを当人同士で喧嘩という枠組みに当てはめるモチベーションが無くなれば、次第に離れていく形になるよね、という事になる。
俺を含めて名前をコロコロ変えて喧嘩板に書き込んでる層が一定数居て(そういう一貫性の無さを嫌う人達も居たけど)、それこそコップさんのいうコスプレ的な感覚でキャラ作って喧嘩売ってたんだけど、やっぱりアウトサイダーとしてある程度距離を置いて新鮮度を保ちたいっていう動機があったんじゃないかなぁと回顧しています。

47seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/18(水) 07:33:04
おっしゃるとおりあまり長くなると不便なので掻い摘んで返信しました。直接言及していない部分もちゃんと読んでなるほどぉーとなっておりますのでご容赦ください。
文章が達者だなぁーというか、書きながら思考が固まっていくのが流動的に伝わってくるような感じの作家がノートの切れ端に書き殴ったみたいな喧嘩板で中々見ないタイプの文章で、こんな人がどこに隠れてたんだろうと頭をひねってます。
お話を聞くところやはり廃墟マニア的な趣で嗜んでいたようですが、一般的価値観からすれば幼稚とも一蹴されかねない喧嘩板にコップさんみたいな人が引き寄せられてくるっていうのは面白い現象だなぁと思いました。いろんな人がいるもんだ。

48コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/18(水) 22:24:59
>人間が形作る社会というものは往々にして人間の生来的な本質をある程度反映するものであって、それが一見まったく異なる分野や領域であったとしても、何かしらの最低限の共通性を有するものだと考えた上で、人々を惹きつける「喧嘩」というコミュニケーションの根本に内在する動機-というか人間の欲望的なもの(喧嘩の様式そのものの事ではない)が、その共通性のひとつとして語れるのではないか?

>そもそもこういう喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語るっていう行為自体が喧嘩の楽しさそのものをスポイルすることに当たると思う

Seikoさんのお返事を読んでいて上二つの引用部分が非常に印象的でした。考えが全然書かない内からこれらの文字の上に縹緲と現れて来て、その雲は他へと拡がらず同じ場所でもくもく盛り上がり、雨を降らしそうな有様です。僕はもうその過程がどんなかというのを言ってられません。解答だけ書きたい気持ちです。退屈だというんではなく興奮を覚えさせるものでそれが勢い猛く押し流してしまう「橋」や「飛び石」にはもう目をくれる気が起こりません。

49コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/18(水) 22:25:58
解答 seikoさんのおっしゃる「喧嘩の楽しさ」は「喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語る」によって「スポイル」される段階からさらに進められる潜在性があると思います。進めばスポイルしません。これまで喧嘩は「一対一」でした。これからも基本は「一対一」だが、甲対乙で甲と乙と両方味方を持つ。これはすなわち両方味方を持つものは典型の一を言うに過ぎないかもしれないものだが典型には違いないだろう従ってこれを見る。一対一の喧嘩は自分と相手との可能性を「相手を文字で操」って追求し合うものである。仲良し同士喧嘩してもなんも無いっていうか無くはないが…。まあつまり気心が知れた同士やるのに発見はあまりない。やるんなら喧嘩を対立してやるんじゃなく結託してやる。グループが複数対立していればそれでよい。喧嘩は決闘から戦争行為の一部になる。戦争の舞台は掲示板!何をやるんでもよい駒を取り合うヨシ殲滅ヨシ他なんでもヨシ。馴れ合いが叩かれた。「盛り下がる」から。サポートは味方同士存分に行われればよい「馴れ合い」OK!一対一の喧嘩は純粋なのは味方同士やるんでもよいがそれは切磋琢磨→発明のため。技術開発。喧嘩の方法論を開拓すること。喧嘩は今まではルールをわかったようでわからんような(…要領というか自分なりの定義というか大事なことがわからんような)者同士でやるのが興奮出来た。ルールがわかっちまうと終わりが見えてつまらん。それだが剣道にしろなんにしろルールは効率のためだ。武術はもと戦闘術。面胴小手が例えば剣道ではルールの一項目だ。人の弱点だから。剣道に飽きた。うまいから。それなら一緒にやればよい。戦争すればよい道場同士やればよい。ボールのけり合いは一人と一人でやるより十人と十人?調べたら11人であるのが多いとかそんなら11人同士でやれば楽しめる。戦術の幅が広がる。喧嘩界に仲良しがいるメリットは喧嘩しあえるより喧嘩で協力できること。AがBに反論してそれにBが応じる…こういう基本形式は崩れないがいや本当だろうか?CがAに肩入れする者ならAはある筋で立言しCはそれとは別の筋を立てればよい。CはAの立場を擁護するよりBを滅ぼすのを目指す。剣道はフィクション性あるものだがフィクション性は元来有意義であった。その意義を取り戻すのはいかがか。仲良し万歳〆

50コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/18(水) 22:31:00
無惨な文の塊ですねこれでは(^^;
でも、何だかこんな調子で考えがずらずら出て来て…ありのままこれを書いてどうかわかってもらえたら嬉しいのです。ありのままとは違いますがまあ手を加えずという程でしょうか。ちょっとこれは前書いた時と違うテンションに浮かされてます。口で言った方がまだ論理的に言えたかもしれないものです。今もまともに文章を書けない気持ちなのです。
まぁ、このぐらい滅茶苦茶なら趣旨を解する人は多くないでしょうが、それは僕に都合が良いのかも知れません。あるいは趣旨にとって都合が良いかもしれません。上に書いたもしくは打ち撒けた文章は僕が考えたことの一部分です。が、残りの部分はもう喋るかチャットに述べるかです。文に書いてなんかいられません。

こんな無茶苦茶な返事をお目にかけてseikoさんが驚かない訳にはゆかないだろうと思います。思うに僕は「書きながら思考が固まっていく」時は前の如く而して「書く前に思考が固まった」時はこの如くです。後者の時、これをほぐす煩に僕は耐えられません。結論だけ言っちまってせいせいしたいわけなものです。上に書いたのは結論どころか、導出過程で問題用紙のあちこちに小さい計算をした跡が残っているその脈絡が互いに繋がってないのを並べたようなものなんですが、きっと意味あるものだと信じます。また、熱が冷めたら書き振りを革めて縷説をする能力が己の内に備わって来るかも知れません(現在はちょっと覚束無く今書くのもこわごわ…)が、とりあえずの、もしくは…いや、寧ろ、正直に依るお返事はここにあるに外ならぬものです。

謹んで採点を待ちます。よろしくお願いします。

51コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/18(水) 22:46:49
追伸
seikoさんのお返事へのお返事は、また改めて投稿したいです。上のもので済ますというのは全然駄目です。愚人ここに叩頭す orz

52コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 03:22:03
>人間が形作る社会というものは往々にして人間の生来的な本質をある程度反映するものであって、それが一見まったく異なる分野や領域であったとしても、何かしらの最低限の共通性を有するものだと考えた上で、人々を惹きつける「喧嘩」というコミュニケーションの根本に内在する動機-というか人間の欲望的なもの(喧嘩の様式そのものの事ではない)が、その共通性のひとつとして語れるのではないか?

「喧嘩」は一対一のコミュニケーションですが、ここにもし「大喧嘩-おおげんか」という語をちょっと特有の意味を帯びさせるつもりで出して見たらどうなるものでしょう?「大喧嘩」は、喧嘩師が複数いる集団が複数あって、彼らは反目し合っている。で、そんな彼らがどこかの掲示板上で戦っている様子をあらわした語です。語感はご勘弁(- -; なんちゃって、大喧嘩はともかくも喧嘩の集まりです。集団Aの喧嘩師アが集団Bの喧嘩師イと争っている。こういう状況の総合が大喧嘩です。Aは仲良しの喧嘩師達が集まったのである。Bも左に同じ。AとBとは反目し合っている。アがイをこてんぱんに言い負かしても、Bの中でイは慰められたり、喧嘩技術に係るアドバイスをしてもらったりする。大喧嘩は、例えば掲示板上で起こったなら、もし、「現在進行形」の喧嘩が見当たらなくても、ずっと続いているのである。というのは、AとBとが反目し合っている状況があるので、すでに喧嘩師同士対立しているのが前提と認められるのである。
こういう状況があるなら、Aの中で仲良し喧嘩師たちが馴れ合っているのはあまり問題にならなさそうです。大喧嘩に支障を来すことにはならなさそうです。また、喧嘩がどうやって行われて、どうやって決着するのかということを分析的に語る者があっても、それはその集団の喧嘩技術のレベルを上げることになるし、喧嘩は大喧嘩に非ずなので、大喧嘩をつまらなく見せるということにも必ずしもならない。では、大喧嘩の目的とは何か。Aにとっては、例えばBのカの面目を潰すとか、エ以外のメンバーをボコボコにしてエをこっちへ引き抜いて連れて来るとか、はたまたウがコに片思いしているので、どうにかコとウとの親しむ機会を作って、それから引き抜いて連れて来るとか。Bにとっては、また何か色々あるんでしょう。さようの諸々の目的は、全て掲示板上で起こる大喧嘩によって目指される。…
>>49でうだうだ書き散らした事どもはその起こりを言えばこんなところになるもののようです。これもちょっとまともな文章ではありませんが、一応意味は>>49より通じる筈と思います。

53コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 03:28:24
>そもそもこういう喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語るっていう行為自体が喧嘩の楽しさそのものをスポイルすることに当たると思う

手段を手段として見ずに目的として見る観点に拠ってしまうと、初めに置かれた目的は目的で無くなってしまい、そこへ至らんとする努力も減衰して、行為自体味気なく感じられてしまう。何故そうなのかと云うと、目的の意義を疑う方へ言葉の作用が働いて行けと願うのが人の理性の働きであるからなのでしょうが、では左様の観点に拠れば必ずそうなるかと云うにノーの答が適切だと云いますのは、手段は必ずしも目的と不可分でないから、目的は大目的を頼むものであり得るからなのであります。…なんて、変な書き方をし始めたが息が続く筈もないので放棄する。放棄しました。で、この一つ目のは何をいっているかといえば、ある目的に達する手段は甲と乙と丙と諸々あり得るのなら、甲を考えてそれが目的の全容(*1 を考えることにはならないということをいっています。二つ目のは目的がまた別の目的を達するための手段に過ぎない場合があり得て、その上に目的改め手段が、新たにお出ましした目的を達成する手段の種々ある内の一つにしか過ぎないならば、手段に改まる前の目的を達成するに当っての手段が唯一つな場合であれ、新しい目的の全容は目的改めの手段を調べて直ちに把握されるものではないという趣旨なのです。全容を把握するとはどういうことかというと、目的何ぞやと考えて、目的の一つの絶対にある筈の性質として、手段があるなあと認めることです。目的は未来のある時点に置かれるものです。手段は人がこれを現在進行形で取るものです。目的のために邁進する人が、ふと目的を手段とみなしたものならば、現在進行形(のもの)であった手段はつい手放されて、(彼の)目の前にぽとりと落ちますね。そうしなければ目的のようには見なせませんから。つまり、客観的態度を取らざるを得ないということです。興醒めの端緒たり得るのがこれです。
今述べたようなことも、大喧嘩を喧嘩とは別に考えてみると、応用されるのではないかなと思います。
これも乱文ながら、ちょっと要点を示そうというつもりで書いてここに掲げます。

(*1 本質というべきでした。

54コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 12:43:57
えー、seikoさんの直近のお返事にどう返事したかを見れば、僕が何故喧嘩に向いていない自覚を持っているのかが露わにされている様子が認められるでしょう。僕は他人の書いたものに向き合う時その意味が明らかでない場合は寧ろ簡単にやって行けます。書きながら疑問に従って、頭を垂れるように手元に出来上がる途中の文章に意識をやり、つまり僕自身の事に意識を集中して行き、狂いが無い手つきでそのために従事する事が出来ます。これは、相手が書いたものの意味が分明で、且つそれに自分がどう思いをやっているかが幾分か無意識の領域に沈んでおり、書いて行けば判明するものだろうかと展望される時に当って、また同じように言える訳なものですが、もし相手が書いたものから自家の見識らしいのが持ち上って来て既に胸中にある時は思考に於いては取留なくアイディアが出没し、文章に就いては、あらしめられるのは混乱に外ならぬものです。思考の前提が勝手に出来上がっていて、胸の内はその前提に由るもので満たされています。それらを表現したいとは思いながらも、前途に難多し。アイディアも、アイディアの前提たる事も、書かない内に分かっていながら、容易に書かれません。筋道をつけるのが面倒くさいので、また筋道をつけるための言葉の初めを作るにもめどが立たない次第で、捗らない始末です。疑問があれば、どこかに着眼点を見出し、そこから進んで行くことが出来ます。それは見当はずれでなければ、疑問をよく解決して、しかもその始終で人にも理屈をわからせられます。ところが、疑問なしには道案内が難しいです。どう来たかよくわからないがとにかく見晴らしがいい崖に至ったので、その崖をロープに頼って這い降りてキノコが採れるらしいとはわかったのだが、さて人をそのキノコのありどころまで、喫茶店で、コーヒーでも喫みながら言葉の上で連れて行こうとするなら、これは非常に難しい。藪をどう抜けたか、わかるようでわかりません。当時はわかったつもりでも、さて、今はどこから入った次第なのか、記録してないせいでわからんのですね。記録されたのでないと飛躍が途中に挟まれます。それは、内容を不完全にするものならまだよいのですが、内容を損なわない程度でありながら飛躍であるようなのだと困る。というのは、つまりは言葉遣いなどをおろそかにする気持ちが「内容を損なわない程度」の「飛躍」を生ぜしむる。ビデオカメラで、藪に分け入ったところから録っている場合は、すなわち文章でものを考えて行こうという場合です。これはスタート地点とゴール地点が後から見ても全然飛躍しないルートで結ばれており、しかもスタート地点がどこかと明白にわかるので、よいのですが、そういう記録が無い場合は困りものです。スタート地点をどこにとれば、スマートにゴール地点まで行けたものかわからない。ゴール地点の所在が判明していても、そうなのです。ゴール地点だけわかっていてもどうも難しい。スタート地点を妙な場所にとってしまうと、ゴール地点まで迷路をむやみに辿らねばならなくなる。そんな文章は書いてて疲れます。言葉遣いなんぞもそのうちに気を遣わずに平気になりそうです。口で、そんな変なところからどうゴールに辿り着いて、キノコが見つかったのかというのが、なかなか説明出来そうにもないので、僕は困った訳でした。したがってキノコの効用なぞもなかなか説明しようがなくなる。

(1/2)

55コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 12:46:24
Seikoさんは「書きながら思考が固まっていくのが流動的に伝わってくるよう」だと僕の以前のお返事を評して述べていますが、それは、つまりはビデオカメラ式でキノコを探しに行こうというつもりで書いた文章を評していたので、僕が書く文章は必ずしもそうではない。僕は、seikoさんの言葉を嬉しく承りました。しかし、どうもこれから書く文章は一気に悪いものに見えはすまいかと心配してもいて、現にその通りなので、うめき声さえ漏れそうな感じを現状を瞥見して抱きます。今にしても、ビデオカメラが揺れてます。文章が下手に落ちています。その一方で、ビデオカメラ式だとどうも誤りを正す以上のことは難しいんですね。成就する見込みが全然無いのではないにしろ、「煽り」思想の実行ということはなかなかむず(かし)いんです。文章の動機が自ら疑問を見付けて解決しようというんでなく、相手を誘導するところにあり、筋(カニの足の筋をイメージしてください)であるところの「煽り」によって文章が連続していくなら、ビデオカメラ式がなかなかよくない。しかるに、ビデオカメラ式でないと僕は満足に言葉遣いも保てない。それが嫌なんです。あと、ビデオカメラ式を僕は殆どしたことがありません。マジメに文章を書こうという気持ちを起こす機会が乏しく、その数少ない機会に於いて書いてみたことがあるばかりで、前のお返事はまさにその僅少なる機会であった訳なものですが、なんだか大概ヘロヘロ式で書いてばかりいる。というより、書かずにものを見て何か分かったつもりになってそれでいいやという風に過ごしてしまっている。まともにものを考えて、それを外ならぬ文章で表現しようというのが、あまり機会を多く持たないことで、実生活上でそういう機会があっても、なんだかそれは頭の内で思いを巡らして勘所の見当をつけてから、ビデオカメラ式のふりをしてヘロヘロ式について書いてしまえば、人には満足してもらえるだろうというものなので、実際にそうして、それでまず及第しているのですが、何だか喧嘩板で何かものを書いてなんやらしようという時になると、人に満足を与えるよりは自分に満足を与えたくなって、そうするとビデオカメラ式でなければ言葉遣いの水準には達せないことが、障碍となります。喧嘩板では大体ヘロヘロ式の方が融通が利く。それだのに、僕はどうもヘロヘロ式が自分に満足を与えないものだといって、ビデオカメラ式に拘りたがるんですが、ビデオカメラ式で相手に話しかける時って殆ど例外なく相手に敬意を抱いている時なんですね。敬意を持てないような相手にビデオカメラ式の労を取って何かを伝えてやる気にはなれない。そんならヘロヘロ式で敢えて意のままにしてやろうかという程の思い入れも持てない。相手を見ればその程度が知れる訳なもので。もっとも、昔の僕はビデオカメラ式を(最低限という意味で)満足にやれたか非常に疑わしい。

この文章も、ビデオカメラ式を志しながら、そもそもがヘロヘロ式でしかいえないようなアイディアを念頭に置いたものなので、とうとう最後までビデオカメラ式の恰好にはなれなかった次第のものなんですが、今度のお返事は、もしseikoさんからお返事をいただいたものなら、どうかビデオカメラ式で作りたいと思います。

(2/2)

56コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 12:49:35
追伸
>ビデオカメラ式で相手に話しかける時って殆ど例外なく相手に敬意を抱いている時なんですね。

と書いたのは、正しくは「ビデオカメラ式で相手に話しかける時って、例外なく相手に敬意を抱いている時なんですね。」です。

57コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 12:56:13
追伸その2

seikoさんの直近のお返事についても、未だお返事をその全てに対しては出来ていませんので、また、言及したいと思います。

58seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/19(木) 13:08:50
本意はまだ分からないけどコップさんがもしすこし勘違いをしているのだとしたら、俺の文章がやはり抽象的に過ぎたかもしれない。
抽象的な文章を書いてしまう癖は、具体化によって分かりやすく説明することにより逆に細部の瑕疵を指摘されるのが嫌だという逃避行為の顕現であって、「わざと発言の間口を広く持っておけば厳密に追及されても言い逃れが出来るし、逆にミスリードした相手を叩ける」という、喧嘩をする上で身についた意地汚いテクニックのひとつでありまして、ご不便おかけしておりますことを再度深くお詫び申し上げたい次第でございます。。。

でもでも、コップさんの文章も観念的ですごく分かりにくいのでお互い様だと思う (❃´◡`❃)
なんとなく、分かっているふりをしながら自分が喋りたい事を喋っているだけのような感じがしませんか?それでいいと思います。こんな辺境の地で、お互い会話から何を得ようとするわけでもなく、そもそも喧嘩板における書き込みなんて相手の手を使った自慰行為に過ぎないわけですから。
コップさんは喧嘩自体に興じていたわけではないそうだから、”無茶苦茶な返事”でも下衆な目論見で嫌がらせがしたいのではなくて、むしろ頭の回転が速くて思考の奔流に文章が追い付いていない故の乱筆さのように見えます。自分は鈍いのでそういうチャットや通話とかでもバーっと話が出来る人が羨ましかったりする。

喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語る行為が寒いっていう発言をかみ砕くと、例えていうなら将棋の全駒の全局面における全手数をスーパーコンピューターで解析しようとする試みみたいなもので、本来の嗜好を阻害してしまう事になると思わないだろうか?なんというか、セックス中に上司から着信みたいな感じで白けてしまわないだろうか?ということなのだけど、
これは、俺がずっと思っていた感覚で、うまく言語化が出来ない。でも強者とよばれる喧嘩師たちがいわゆる自らの「喧嘩論」みたいなものを大っぴらに鼻高々と語っている所をあまり見たことが無いので、ある程度ディープに入り浸っていた人たちなら何となく共有していた感覚なのではないかなと思う。

たりない脳みそで頑張って言語化すると、(少なくとも自分にとって)喧嘩の楽しさは「相手の論理を過去の発言を元に追及する」という確実性(論理にもとづく絶対性)と、「人間の感情を利用して優位性を争う」という非確実性(感情にもとづく不安定性)のバランスを考えながら自分が有利な展開に持ち込む状況支配の妙であって、
その「喧嘩とはかくあるべし」とか「こういう相手にはこういうスタンス取れば勝てる」みたいなメタを喧嘩が実際に行われている場所で分析する(自分だけで持論を練るだけでなく、それを公の場で他人と共通する)っていうのは、実際に問題を解く前の答え合わせであり、何でもありイコール何があってもおかしくないという喧嘩の本質的な前提に反する行為であると感じてしまうから、という理由付けになる。気がする。結局は「お笑い芸人が語るお笑い論って笑えないよね」的なフィーリングの話なので、あんまりかっこつけて語っても深い意味は無いと思います。

コップさんの言っている”大喧嘩”っていうのは、要するに「喧嘩そのものに、利害を共有するグループ間の紛争関係における武器としての実利的な意味付けを行えば、メタ的に語られる喧嘩論に新たな意義が見いだせるのではいか」というコンセプトという事でよろしいでしょうか。
これは理に適っていると思うし、実際に過去を考えた時にいわゆる掲示板間での帰属意識からくるグループ同士の対立という形で似たような構図が出来たことも多々見受けられた。
なので、現実の観測と照らし合わせた上でコップさんの問題解決の方向性は正しいと思う。でも、俺が思うのは、それって問題の先延ばしというか、本質的に解決の手段になっているのかな?という所で、
つまり1対1の構図を10対10に引き延ばしたところで、そもそものシステムが同様のものであれば、それは10という1個の運命共同体が俯瞰的に1対1と同じ事をしているだけなのではないかと考えられてしまう訳で、
こうなると、再帰的に「じゃあ大喧嘩をメタ的に語るのって興醒めだよね」っていう論点が再び適用されてしまう必然性が避けられず、コップさんが言っている目的と手段における全容の把握という観点においてループに陥ってしまっている感じがする。
なので本質的なアプローチとなると①目的そのものを違う方向に捉え直す(例えば喧嘩から競技性を排してお互いの認知能力や芸術的感性を高める互恵主義的活動と考える) ②そのものへの言及を避けるという参加者が最低限従うべき不文律として観念化する のいずれかになるのではないかと思います。

59seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/19(木) 13:12:21
なんと、かいているうちにレスが増えていた
>>58は、>>48-53に対するレスです。たくさん返事をくれてありがとう!(・ω・)b また後日見に来ます。

60コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 19:20:04
>本意はまだ分からないけどコップさんがもしすこし勘違いをしているのだとしたら、俺の文章がやはり抽象的に過ぎたかもしれない。
>抽象的な文章を書いてしまう癖は、具体化によって分かりやすく説明することにより逆に細部の瑕疵を指摘されるのが嫌だという逃避行為の顕現であって、「わざと発言の間口を広く持っておけば厳密に追及されても言い逃れが出来るし、逆にミスリードした相手を叩ける」という、喧嘩をする上で身についた意地汚いテクニックのひとつでありまして、ご不便おかけしておりますことを再度深くお詫び申し上げたい次第でございます。。。

承りました。でも、seikoさんの文章はものを考えてよく追究するものです。僕はこれを読んでいろいろと考えを求め、思いを巡らせられるので、不便を感じませんでした。読み間違えても、その反映が文章に於いて認められているなら、是非を云々すべき対象は読み間違えではなくその上に立った文章自体がいう意味の方です。少なくとも、僕の側では、seikoさんの述べたことを時に理解し切れていないでも、それで僕自身が文章を作る時、ひらめいたり、導かれたりしたことのためになっているなら良いです。読み間違えているところは勿論そのままにはしておきませんが、別にそれで読解内容を変える必要が出来たのでも、不便には感じないです。

61コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 19:20:31
>でもでも、コップさんの文章も観念的ですごく分かりにくいのでお互い様だと思う (❃´◡`❃)

うっ・・・ ごめんなさい。

62コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 19:21:37
>なんとなく、分かっているふりをしながら自分が喋りたい事を喋っているだけのような感じがしませんか?それでいいと思います。こんな辺境の地で、お互い会話から何を得ようとするわけでもなく、そもそも喧嘩板における書き込みなんて相手の手を使った自慰行為に過ぎないわけですから。

僕自身理解している事でなければ文章にしたくはない気持ちがあります。勿論、ある一纏まりの文章を作ろうという時にその結論がどうなるか初めから判明しないでも良くて、それはむしろ当たり前です。わからないことを分かっているところから手を着けて考え始めて、そうして分かっていることがさらに分かっていることを呼び、文章が成されて行くにつれ、当然の事実や的を射た発見が、あるいはそれらを呼ぶための殊更に目につかない前置きが、余計なものを間に挟まずに一つの全体をつくり上げることは、文章が作られる過程の内で最もよいものだと思います。詩などはちょっと別でしょうが、散文は、殊に物事を論ずる種の文章はこういう過程しか持てないのだといえるのではないでしょうか。僕が先に投稿した返事は、さようでない過程を取ってなされた悪文でしたから、そんなものを投稿した僕には、seikoさんに巧くその意を汲んで欲しい気持ちが無かったではないものでした。
Seikoさんは思うに自由に文章を作り出すのが喧嘩板に投稿するものを書く時でも可能な限り維持されるべき、楽しみに繋がる筈の原則だと見解を持っているようです。僕はその自由を妨げるような要求はしません。不自由な手に成った文章を投稿し、その意を汲んでもらいたいとは思いこそすれ、意を汲んでこれこれこうだろうと「言い換えて」もらうことは、seikoさんが我から求めるのなら悪い訳もないのだが、僕から求めて、seikoさんがこれに応じるといった成立の、つまりはseikoさんにある種の表現に於ける制約を課すようなことになるものであるのなら、決して僕はこれを求めません。
(1/2)

63コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 19:22:38
参加型アートってアーティストがその傍らにいて、立ち止まった客の裾を引いて強いて参加させようとするようなのはすごくウザいっていえます。参加型アートは居合わせた人間の表現への意欲をプラスにするものであれ、刺激しないものであれ、抑制するものであってはいけないと思いました。といって、そんなものに全然縁が無いことは例に依ってのことで、今思いついた例えなのですが、もし参加型アートがさようの意義を元にしたものだというなら、(seikoさんが文章を作るきっかけにしたいと思い得る)喧嘩板の投稿のありようと、ちょっと共通したところがあるようです。
①  書き込みが無い場合
②  書き込みがあり、seikoさんに表現にあたっての制約を課す場合
③  書き込みがあり、seikoさんに表現にあたっての制約を課さない場合
こうして見た時、恐らくseikoさんは①と③とについては、大概容認しそうです。②も、まぁ無くもないんですけど、それはあくまで喧嘩目的のやつが変なこと言って来た場合に限られるでしょう。ふつうに雑談したいんですけどぉー、こんな風に書いてくださあーいって言って来られたら、seikoさんは嫌な気持ちになると思います。喧嘩目的のレスっていうのはまず負けを認めろだのなんだのうるさく言って来るのは割合少なくないですからね。そりゃそうだろうという感じで、喧嘩板に喧嘩師がいちゃならない法はありませんし、seikoさんはきっとそれを、まあものによっちゃあ嫌うでしょうが、あってはならないものとは認めない筈だと僕は考えます。その一方、喧嘩をしたいでもなしに、何かseikoさんに向かって表現の制約を強いる形でアプローチしてくる書き込みの態度が認められれば、それはもうあってはならないものという感じで、seikoさんは茶室に大道芸人、それもやる気まんまんの大道芸人の人でも見たような気持ちになるんではないかと想像します。そもそも「やりとり」を強いて来るものは、喧嘩板では喧嘩目的のレス以外に何もないことが正常の事だろうと僕はつい思いました。

追記 大道芸人を例に挙げたのは、大道芸を茶室でやっている人があったらさぞ不調和な光景であろうと想像をしたからで、大道芸人をする人が、茶室にいてはならないというのではありません。大道芸をしなければいいのでありますし、大道芸人の人だって茶室で大道芸をやる筈がないのです。下手な例えを行ったものだと気がついたのでここに補うべきを補おうとして追記した次第です。

64コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 19:24:01
>コップさんは喧嘩自体に興じていたわけではないそうだから、”無茶苦茶な返事”でも下衆な目論見で嫌がらせがしたいのではなくて、むしろ頭の回転が速くて思考の奔流に文章が追い付いていない故の乱筆さのように見えます。

いいえ、僕はseikoさんのお返事を読んでから、返事を作る前に外出、食事、散策、遊興などしたので、間々念頭にお返事の内容に係る想が浮かんでしまい、しかもそれは幾つもの内容に亘って、内容はそれぞれ脈絡を持ち、それらの脈絡は感じの上では正しい訳なものでした。ただ、内容を個別に見ていくと、どう発想して、どう考えて行って思いついたものなのかが不明でしたから、改めて書いて簡単に述べられる内容は一つも見当たりませんでした。むしろ、頭の中で手前勝手に脈絡を求めてしかも答えにまで行き着いてしまった際、これを答えだけ記すのではなしに途中式など書いてみよというのは、初めから何も考えないで問題の解決に取り掛かる場合よりも、難しいです。途中式はあるいは簡単かも知れません。一つの式が間違いないのであれば、それをとりあえず並べて行ってしまえば体裁は作れるのですから。しかし、途中式が簡単でも、分野を変えて、例えば高校生や何かがやる現代文の答案を考えれば、これはよっぽど骨が折れます。長々と文字を綴る文章などになればなおさらです。文章は初めが肝心で、初めに何を置くかによって、どう書いていけば結論に達するということが違って来ます。発想を頭から尻尾まで自然に行っていこうとするに限っては、まず間違いがないものであって、文章が二つあって、結論が同じでも、初めの一文が相違していれば、途中にも大分相異なる観が出来ているのがその二つの比較で大抵言える事です。初めの一文が、哺乳類を論ずるためにコアラを挙げ四つ足だというか、パンダを挙げ四つ足だというか、そんな違いしか無ければマァ二つ目の文が同じなのでも変ではありませんが、まずは四つ足に着目するという一つのことがあるか、無いかは、それに続いて述べられる筈の内容にとっても大事なのです。ここまで、先にした書き込みの内で述べたこととあまり変わりの無いことを述べた筈で、以降丁寧に書いて行っても同様でしょうから、二の舞三の舞どころか、いくつの舞かも知れないのを演じてしまうと、頭の回転が速い人でも遅い人でも、文章を作り上げるならやることは同じで、考えを全部文字に託して、考えの推移も文字に委せて、勿論文字の取捨選択などで良し悪し人により分かれる点より言えば頭の良し悪しは大事なのだろうが、頭の回転ということだと、全然関与しないことが文章を作り上げることである訳で、むしろそこで頭の回転がどうというのが文字に表れてしまうような場合は、書く人の能力不足が出た場合なのであろうと思います。頭の回転が速いならそれは空想のとめどなさだけでなく文字を思いつく速さにも亘らねば片手落ちなものなのです。

65コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 19:24:22
>自分は鈍いのでそういうチャットや通話とかでもバーっと話が出来る人が羨ましかったりする。

さようですか。僕はチャットでも通話でも、ただ話を聴いてくれるだけの人は、沢山ものをいう人と優劣がつかないのだと思っています。喧嘩時にはバーっと喋らないでは大変でしょうが、会話の場では、二人きりで喋るのでも、みんなで喋るのでも、口数の多い人も、少ない人も、あるいはゼロの人も、みな尋常によろしい。

66コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 19:25:08
>喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語る行為が寒いっていう発言をかみ砕くと、例えていうなら将棋の全駒の全局面における全手数をスーパーコンピューターで解析しようとする試みみたいなもので、本来の嗜好を阻害してしまう事になると思わないだろうか?なんというか、セックス中に上司から着信みたいな感じで白けてしまわないだろうか?ということなのだけど、

Seikoさんが例として挙げた将棋はゲームですね。ゲームで、ある人が対戦相手を持って、二人相対している時、相手の手に、どう手を打てば有利になるのかというのを、彼自身が考えることは醍醐味であるのでしょう。手を打つ時のパターンというか定石は、さようの醍醐味を減じます。少なくとも、例えば三手先のことがわかれば絶対に勝てるというゲームでは、どんな盤面でも知識が三手先のことを全部教えてしまうのだと、もう勝つ努力が必要ありません。努力は手を動かしてそれで終わりです。対戦ゲームとは違うルービックキューブを例に挙げて考えてみるとわかりやすそうです。ルービックキューブは面のパターンが有限個なので、一つのパターンに一つの解決方法があるのを全部列挙してしまい、それを知識として人に覚えさせてしまえば、もう彼はいかなるパターンにおいても対応の解答を考えずに得てしまう。思い出す早さとか、手を動かす時のミスの無さとか、そういうことはキューブの面を合わせる時間の短さを競う場に於いては重要なので、解決方法を全部知ってしまった人がそれでルービックキューブを全く楽しめなくなったとは直ちには言えませんが、もし、時間の短さでなく、解決方法を見出すことを楽しみにして、他のことを楽しみにしていなかった人が全部の解決方法を知ってしまったのなら、もう彼はルービックキューブが全然楽しくない状況を一度は得てしまう訳なのです。
夫婦である人々がセックスをしている最中、(彼らの内の一方の)姑か何かが受精に至るコツを彼らに言いに来たら、彼らはさぞ興醒めがすることでしょうね。セックスを楽しもうという気持ちが引っ込んでしまう。見られていやなのは当たり前なのですが、セックスが子作りの過程であるとまざまざ示されてしまうと、何だか仕様がありません。
でもって、
>これは、俺がずっと思っていた感覚で、うまく言語化が出来ない。でも強者とよばれる喧嘩師たちがいわゆる自らの「喧嘩論」みたいなものを大っぴらに鼻高々と語っている所をあまり見たことが無いので、ある程度ディープに入り浸っていた人たちなら何となく共有していた感覚なのではないかなと思う。

「喧嘩論」はセックスを子作りの一面から喋々する傾きが概してあるものだと思います。自分で考えるならよいが、他人に言って何がどうなるものか知れません。

67コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 19:25:53
>たりない脳みそで頑張って言語化すると、(少なくとも自分にとって)喧嘩の楽しさは「相手の論理を過去の発言を元に追及する」という確実性(論理にもとづく絶対性)と、「人間の感情を利用して優位性を争う」という非確実性(感情にもとづく不安定性)のバランスを考えながら自分が有利な展開に持ち込む状況支配の妙であって、
>その「喧嘩とはかくあるべし」とか「こういう相手にはこういうスタンス取れば勝てる」みたいなメタを喧嘩が実際に行われている場所で分析する(自分だけで持論を練るだけでなく、それを公の場で他人と共通する)っていうのは、実際に問題を解く前の答え合わせであり、何でもありイコール何があってもおかしくないという喧嘩の本質的な前提に反する行為であると感じてしまうから、という理由付けになる。気がする。

確かに、seikoさんは喧嘩の本質的な事を言っておられます。「本質的な事」は、喧嘩をする者にとっては、どうしても左右出来ない事実ですので、いうなればバカにも賢にも(かしこ です)ノーが言えないんですね。喧嘩板というのは、やっぱり喧嘩をする場所だとみんな思っている。何を言うにしろ、喧嘩をしたい人がそこに首を突っ込んできて、ちょっとおかしな異論など言ったり出来たら楽しいだろうと思いながら言うんです。それに反論出来たら面白いだろうなとワクワクする感じを予感として抱いて言うんです。しかし、「喧嘩の本質的な事」は、喧嘩のタネにしようがありません。道理を弁えない本物のくそ馬鹿が反論でもない支離滅裂の言を述べに来たり、普通人でも、よく呑み込んでいない人が疑念を述べに来たりすることはあるでしょうが、前者にしろ、後者にしろ、喧嘩のタネに食いついて来た感じがしません。前者が来た場合は「喧嘩の本質的な事」は喧嘩のタネになるんでしょうが、それは1+1が2だと述べたら絶対に3だと言い張る馬鹿が来た場合と同じことです。ちょっと話になりません。後者には、教え諭せばそれで済むから、あんまり新しい事を述べたりする機会がその時に出来る訳ではなさそうなものです。Seikoさんは「喧嘩の本質的な事」は、結局、それを言ってそこから何が発展するでもないことだから、言うことを憚る気味が多くの人の間にある訳のものなんだと述べているらしく僕には思われます。そんなことより、もっと人の興味をそそり、異論を呼び、発見につながるような発言や、意表を突く面白さがある発言を行いたいと感じるのがseikoさんの喧嘩板に対するスタンスの上には生じざるを得ないものであるのだろうと思いました。

68コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 19:26:35
>結局は「お笑い芸人が語るお笑い論って笑えないよね」的なフィーリングの話なので、あんまりかっこつけて語っても深い意味は無いと思います。

お笑い論よりは夕べサンマを食べた話でもした方が面白い話になりそうですもんね。

69コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 20:12:32
>コップさんの言っている”大喧嘩”っていうのは、要するに「喧嘩そのものに、利害を共有するグループ間の紛争関係における武器としての実利的な意味付けを行えば、メタ的に語られる喧嘩論に新たな意義が見いだせるのではいか」というコンセプトという事でよろしいでしょうか。

はい。

「大喧嘩」については項目を一つ立てて述べる形で述べます。

70コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 20:13:12
「喧嘩」は個人同士が行うもので、「大喧嘩」はグループ同士が行うものです。
「喧嘩」も「大喧嘩」も、どう行われるのかを定式化され得ることは真にそうです。
人は何かの行為について、定式化で言えてしまう意味以上のものを見出すことはあり得ます。いやなやつが町内相撲大会に出るので、おれも出て、ひとつとっちめてやろう。とか、そういう場合は相撲なんて土俵の上でぶつかり合うだけだろうと思っていた人も一つ熱心にやってみる気を持ちそうです。
でも、定式化した以上の意味を求められない場合が物事に於いて通例であるような場合もあって、見知った相手しかいない喧嘩板での「喧嘩」は、その一の場合であるように思われます。
AとBがめちゃめちゃいがみ合っている場合などは別でしょうが、それでも、一回こっきりで喧嘩は終わってしまいそうです。言いたいことを互いに言ってしまって、それっきりな感じがします。その喧嘩が完全燃焼であればある程そうでしょう。
では、「大喧嘩」を考えて、グループ甲とグループ乙とがいがみ合っている場合を考えましょう。すると、甲のAと乙のBとが喧嘩をして、AがBに負かされても、Aは一旦甲に戻るでしょう。Bもまた乙に戻るでしょう。甲には乙への怨みが新たに生じます。乙に於いてはBが手柄者として褒められます。グループ同士の遺恨というものはなかなか容易には晴らされないものです。
イメージとしては、「なにかいがみ合っている学校同士が、ラグビーで二年に一度試合を行い、そこで双方生徒連がめっちゃ盛り上がる」のです。
色々と人のハンドルネームがあるのを全てどこかしらのグループに帰属させるのです。これは束縛するということですが、人は束縛されたがって束縛される場合があります。そして、一旦束縛されるとなかなか脱しがたいのです。

>実際に過去を考えた時にいわゆる掲示板間での帰属意識からくるグループ同士の対立という形で似たような構図が出来たことも多々見受けられた。

とseikoさんは述べていますが、どうもそういう対立がその始まりの熱を何個も喧嘩が起こった後にまで持続出来た例があるようには思いません。それもそうで、「帰属意識」が例えあったにせよ、掲示板は所詮は「喧嘩板」で、そこに雑談やゲームを介しての交流やは起こりにくいです(*1)。やっぱり、同じ掲示板住民同士でも、そりがよいのと悪いのとありますし、つるむ仲とそれほどでもない仲とが分明に見分けられるようになるのは避けがたい趨勢であるのでしょう。何というか、僕はその「つるむ仲」をグループの単位にして、「つるむ仲」メンバーが彼ら以外の喧嘩師について、ゲームの最中チャットで言及したり、雑談のついでに言ったりするというその、彼らの喧嘩師への関心へのありようが、「大喧嘩」をもって喧嘩界隈の人々へアプローチする方に作用して行かないものかと想像を巡らせます。

えー、大喧嘩というのは、つまりは絶対に背景をそれなりに持っている訳のもので、えー…後述します。

71コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 20:14:15
>なので本質的なアプローチとなると①目的そのものを違う方向に捉え直す(例えば喧嘩から競技性を排してお互いの認知能力や芸術的感性を高める互恵主義的活動と考える) ②そのものへの言及を避けるという参加者が最低限従うべき不文律として観念化する のいずれかになるのではないかと思います。

②は僕の上述した事と相通じたことのように承ります。①については、大喧嘩が喧嘩とは別に考えられるなら、喧嘩にも競争が色濃いものと、相互の啓発が色濃いものとを、前者は大喧嘩の敵同士で行われるもの、後者は大喧嘩の味方同士で行われるものとして、分けて認められそうです。互恵主義的活動というのが、ただ喧嘩板が一つあるだけで、そこに喧嘩師が屯しているだけの状況に於いては、あんまり奮うように見えないんですが、もし敵味方ある内の味方の陣営で稽古をしているというような時ならば、直接には競争性を持たず、しかし向後ある筈の競争に寄与するという意味で競争性が保たれているので、「喧嘩」が「喧嘩」である意義をそこに保てる…などと書くと、直接にはseikoさんの述べていることと関連しないようなんですが、思うに「喧嘩」には競技性とは別にまた競争性が考えられると思います。Seikoさんが述べている「お互いの認知能力や芸術的感性を高める」側面というのは、いうなれば演習性とつづめて述べられるのではないでしょうか。
「競技性」は、一個の喧嘩の起こりから終わりまでの範疇で、互いに相手をどうかして負かそうとする努力を発揮することに現れた性質。
「競争性」は、(例えば)一個の喧嘩をある結果に終わらせることで、自分の相手がただ負けたばかりでなく、その決着の時からずっと引き摺るような痛みを感じるように仕向けること。あるいは、(例えば)一個の喧嘩が始まる前から自分と相手との間にある因縁を、これを行い、決着させることで、解決させようとすること。そういったことに現れた性質。
競技性は、あくまで競技の内で競う事なんですが、競争性は競技以前の状況を、あるいは以後の状況を念頭に置いて競技で然るべく事を行おうとする事です。競技性の見地によっても、競争性で参照されるような因縁は初期条件の一つとして、競技の内で沙汰に上り得ることなんでしょうが、競技性は競技に於ける相手を打ち負かすことに係り、競争性は競技に於けるよりも、一人の人物としての相手を打ち負かすことに係るのだと、それぞれ言えそうです。で、この競技性は一般化して記述可能なものです。しかるにこの競争性は、一般化すると大事なところを取り落とす感じが受けられるところのものです。競争性というのは、例えば、前回自分が小手ばかり打たれてやられたので、今回は同じ相手の小手ばかり打ってやったという話に表されます。「物語性」と言ってもよいかも知れません。で、僕はきっと、この「競争性」は「大喧嘩の一部分としての喧嘩」に必ず備わっている筈なのであると考えました。単独の事としての「喧嘩」をやる者は、どうしても一回限りで完結する気味合いの「競技性」の優ということを考えないといけない。が、「大喧嘩の一部分としての喧嘩」では、「競技性」が拙にして「競争性」が優であるところの喧嘩は大いにあり得ます。Seikoさんが述べるところの「メタ的に語るの」が「興醒め」であるような物事というのは、大体、そうしてメタ的に語られて、語り尽くされてしまう程度には研究されてしまった物事であろうと思います。駄洒落をメタ的に語ると興醒めかも知れませんが、小説をメタ的に語ると興醒めだということにはならなさそうなのは、きっとそこに通じているだろうと思います。「喧嘩」は駄洒落になり得るのですが、「大喧嘩の一部分に於ける喧嘩」は、ただ単独であるところの「喧嘩」よりも駄洒落になりにくい気がします。また従って、「大喧嘩」も、作者を変えて書き続けられる小説のように、メタ的に語られ得ない秘所をふとした瞬間晒して、我々の目を驚かせるものであり続けられるのではないかと思いをやった次第です。

72コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 20:23:40
ちょっと、書いていて気掛かりなところは未だにあるようでもあるし、新たに生じたようなのでもありますが、書かないで一旦ここで終わります。いえ、やりとりを終わるという意味でなく、seikoさんのお返事を待つという意味です。また、後に述べることになるかもしれません。

>なんと、かいているうちにレスが増えていた

(^^)ゞ

> >>58は、>>48-53に対するレスです。

承りました。

>たくさん返事をくれてありがとう!(・ω・)b 

こちらこそ、沢山書いて、しかも読みにくい筈のものを読んでもらって、お返事いただいて、恐れ入りつつ嬉しく思います。ありがとうございます。m(_ _)m

>また後日見に来ます。

ありがとうございます。
(^^)ノシ

73コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 20:32:00
>>60補足

僕はここでは読み間違えを肯定するかのように書いていますが、読み間違えは読み間違えであって、僕がどなたかのした投稿の趣旨を読み違えて、読み間違えを持ってしまった場合には、その人の指摘を受けてにせよ、僕自身気が付いてにせよ、機会を得て適切に改められるべきものだということ(常識)に異存は全然ありません。あくまで、レシピを間違えて何かを作ったら新しい美味い料理が出来たという時にそのきっかけを肯定するという程度の意味合いです。前にあった料理を後にあった料理で置き換えるとか、その位置を乗っ取るとかいう真似は全然しません。

74コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 22:12:46
>>70補足

*1 昔の喧嘩板などでは雑談含む一切の交流が掲示板上で完結し、他愛もない話から親睦を深め合う話、特別な関係を結ぼうと一方が他方に迫る話、はたまた有無を言わせぬ絶縁が一方から他方へ言い下される話、そういった種を始めに、あらゆる種類の話(もちろん喧嘩も含まれるのです)が、掲示板のスレッドに於いて流通させられていた場合があるいはあったのかもしれませんね。MSNmessengerなるものが使われていたとも聞きますが。

75seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/22(日) 23:31:41
----挨拶 はじめ----



こんばんは
休日の終わりに喧嘩板に腰を据えて、冗長な文章を読みながら、さらに冗長な文章をカタカタする惨めさを久しぶりに味わいました。精子と書いてSeikoと呼びます。今日はよく寝れそうです。



----挨拶 ここまで----

76seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/22(日) 23:32:52
俺は文章が自由であるべきだとは必ずしも思っていなくて、文章を書く上で筆者の意思が文章そのものと方向性を同じくして特定の意義を表そうとするときや、文章が筆者の意図を体現する形で漠然とした思考空間のなかの一塊の概念を彫刻刀でこつこつと削り上げていくかのように物語が進展していくとき、文章というものの制約性が表層的な価値観から説得力を持つ命題としてひとつの文化のなかで語られるべきである物であってはならないと思っている。
しかしながらそういった論調というか、風潮っていうのは時代の閉塞感が強まるにつれてじわじわと噴き出してくる傾向があって、それは何故かというと、それが最も短絡的で誰にでも理解できる「自明らしく見えるもっともらしい理屈」だからであって、必ずしも多角的視点からの精査に耐えうる妥当性を備えていなければならない必要は有らず、表現として眼の前に並べられている言葉の数々を、誰もが理解可能な分かりやすい価値観を共有させて「評論する」という経験自体に、裏付けのない優越感という形で容易に人間の欲求を満たすことが出来るという安易な解決を見出しているだけなのだと思う。

先程から述べているスタンスを逆説的に言うと、とある特定の形式の文章体系が、全く無欠で精緻に筆者の展望を表出しうる性質を持っていると仮定した時に、その文章系以外の存在を根本的に否定する立場を取る場合もありえるという事になって、俺が極論的な意義として文章の自由性を前提として肯定しつつも結論として制約すべきであるという二律背反のような立場を取りたいんだなぁということが分かってもらえると思うんだけど、
むしろ文章は自由であるという思考は危険であるとまで思っているところがあって、まったく制限のない自由度から開始した文脈は行き場を失い、自由性そのものに足を絡め取られて七転八倒した挙句、そもそも自らが成し遂げたい目標地点の設定も儘ならないまま、右も左もわからず手探りで盲人のように彷徨ってみたところで 広大な白紙のページを前にして手がかりの無さに絶望し、茫洋たる大海に身を投げ捨てられて溺れてしまうような、にっちもさっちも往かない袋小路に追い込められて、頭をすっかり抱え込んでしまう惨めな経験をしたことが自分は何度もあるので、それならむしろ誰かに決められた道標をなぞりながら、自らをコミュニティの最大公約数的に定められた枠組みに押し込めて、制約された環境のなかで虚偽の自由を満喫しているようなふりをしていたほうが、身の丈に合わない自由性を礼讃しながら実態と理想の乖離に悩み続けるよりも、「まし」だと考えるようになってしまった。過去形ではなく、今でもそう考えている自分が居るし、その呪縛からはいよいよ逃れられないものなのだろうと覚悟している。

つまらない改悛の自分語りになってしまったので話を戻すと、文章の制約が規則的な義務論の表象としての視点から語られるとき、往々にして「文章そのものを相互がそれぞれにとって未知であるはずの世界を切り出して意思表示として相手に提示していくための道具であると見做し、それが織り成す連続的な対話的価値の形成にこそ真たる意義が横たわる筈だ」という視点が排斥されてしまう傾向が強く、視点がより独創的であればあるほど唾棄すべきものとして見做され、標準にそぐわない文章のエッセンスたる価値は形而下的な文脈からまったくもって省略され、いよいよ逃げ道のなくなった哀れな文章の魂には、手足をもがれて無価値な残骸として側溝に掃いて捨てられてしまう悲劇的運命が待ち受けている。

俺はそれが悔しいので、圧制に立ち向かう反政府主義者のような気持ちでこんな事もやってやるぜという感じでアナーキーな態度を取って見せるんだけど、それ自体が標準、規範、評価対象の枠から逸脱していると解され、そもそも同じものではない、文章という体が共通なだけの違う動物であり、文化が違えば住む場所も食べる物も使う言語も違うので、そもそも会話が成り立たないというような感じで一蹴されては、心の片隅で文章の自由性という幻想にか細い希望を抱いている自分がいて、いや自分の能力が足りないだけで、文章が紡ぐ物語性が一貫している限り、伝えられる意見があり、動かせる情緒、少なくともその余地があるはずだと思って、無限の可能性を信じて色々なアプローチを試してみるんだけど、返ってくる答えは画一化された価値観の承認を一方的に要求するだけの杓子定規の「はいろんぱ」であって、自分がやっていることは深淵の暗闇に向かって必死に呼びかけているだけのような感じがして、またねぐらに戻って不貞寝をする、結局そういう事しかやってない、いっつもそれ、俺はなんて無能なんだという話です。だからコップさんがお世辞でも礼儀ただしく敬意的なものをちらつかせてくれるたび、心が痛くてしょうがないのが本音です。

77seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/22(日) 23:34:15
コップさんは、頭の回転が速かろうが遅かろうが、文章を書く上でやることは同じだという。自分はこれには異議を呈したい。コップさんが意味するところは、頭の回転というのは思考地点Aから思考地点Bまで辿り着くまでの速度であって、結果的に到着地点は同じなのであり、違う箇所は単に到着にかかる時間なだけであるから、方法論として両者は同様のものであるということを言いたいのだと思うんだけど、俺にはむしろまったく逆のことをやっているように見える。もちろん文章を書く能力との違いを強調する為の便宜的な取り上げ方で何てことは無い些細な重箱の隅であるかもしれないことは承知しているんだけど、それでも興味深い観点の違いだと思うから少しこれについて話したい。
いわゆる「頭の回転が速い人間」というのは、まるで不随意反射のように特定の情報がインプットされたときに思索を瞬時にアウトプットすることが出来て、多くの場合本人にすら何故そのアウトプットが生成されたのかがいまいち定かでは無く、あたかも直観の裏付けを行なってゆくかのように、無意識に脳が線と線を繋げた過程を遡及して思考をしていくのに対して、「頭の回転が遅い人間」にとっては、インプットされた情報をほかの情報と関連付けて引き出すことがなかなか出来ず、ときとして類推や言い換えに頼りながら自身で確信を持てるように、随意的に、一本、一本と線を繋げていく地道な作業のプロセスが典型的な思考様式になる。当然自分は「速い」側の人間ではないので経験論として話すことは出来ないが、例えば複雑な数学の計算問題を瞬時に暗算出来たり、一見全く何もないように見える所から公理を閃く人間がいる。そういった人たちに、「どうやって考えたのか」と聞いても愚人が納得できる形で理論的に説明できる者は少ないのではないかと思う。彼等にとって思考とは人間の意思とは無関係に発火するニューロンの営みであり、言語化は逆説的に行われる「必要があらざれば空虚な作業」に過ぎない。

「思考の言語化」と「言語の思考化」という違いについて考えていくと、「文章を作り上げる上でやること」も当然違ってくる。前者はもつれた紐をほぐしていく作業であって、後者は紐を編んで長くしていく作業である。コップさんはとても頭の回転の速そうな人なので、わたしのような遅い人間の意味せんとする内容がなかなかピンと来ないかもしれない。もちろん逆もしかりで、例えば俺はコップさんの文章に対して、書いているうちに思考が固まっていくのが伝わってくるようだと感想を述べたけど、それはやはり「頭の回転がとても遅いseiko」の目線から見た文章-自分が普段からやっていることの準用としての評であって、実際にコップさんのやっていることとは全く別の視点になっていたのだと今になって気づかされたし、だからこそコップさんの文章を読んで「妙だ、分かりにくい」という感覚をおぼえたんだと思う。というのは、自分はA、B、Cという感じで文章を読んでいくんだけど、例えばBの次にZが来たりすると頭を傾げてしまって、なんでこいつはDについて話さないんだ?と勘繰ってしまう。しかし、俯瞰的に文章全体を見た時に分かる事として、アルファベットがそれら文字で構成されているという事実が体系的に論理を成しているのであれば、「アルファベットは音素の語順に従って記述されるべきである」という前提はただ単に読んでいる側の勝手な幻想であって、これはやはり方法論の違いの現れということになると思う。

頭の良し悪しと、頭の回転の速さを分けて考えることは妥当な観察で、たとえば「頭が悪いけど頭の回転は速い」っていうタイプの人種も多く居て、そういった人々は普段から情報と情報が支離滅裂な文脈で関連付けされていて、当然導き出される結論も荒唐無稽なものなんだけど、輪を掛けて悪いことにそれらをせめて論理的に補強、修正して縷説する能力もないものであるから、自己にとって自明な結論をろくな解説も出来ずキャンキャン吠えるだけの全くつまらない会話相手になってしまう。言っていることに何の中身もないのに、空っぽのチンケな議論をそれなりに取り繕うだけの頭の要領が有るせいで、ただただ長ったらしい悪趣味な意地の張り合いに終始した挙句、前提として結論が固まっている以上思考もロックしていて、最終的に会話の着地点として辿り付く所が「価値観って人それぞれだよね」みたいな幼稚園児レベルの結論にしかならない。そんな人をよく見ます。それならまだ、頭の回転も遅くて頭も悪いけど、身の丈に合った言葉で、結論ありきの衝突ではなく、理論としての昇華をお互いのやり取りの中で認識できるような人のほうが成長の見込みがあると思うんだけど、いややっぱ目くそ鼻くそだしどーでもええわとも思うかもしれない。

78seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/22(日) 23:35:42
ありていに言えば、「喧嘩の本質」や「煽りの極意」等といった言葉の塊自体が、俺にとってサブイボが立つ程気持ち悪いものに映ったわけです。もう全身を血塗れになるまで掻き毟って、黒い血が詰まった爪を齧りながら全裸でバスタオルを羽織ってガタガタ震えて神に許しを請いたくなるような気持ちにさせられたわけです。そんな文字列を眼にした暁には、ノートPCの画面をバタンと閉じて、電源も引っこ抜いて押し入れに詰め込んだ後、窓を全開に開けて深呼吸しながらヨガで汗を流して、お香を焚いてアールグレイの紅茶を飲みながらドストエフスキーでも読んで、喧嘩板の存在すら忘れてクリーンな気持ちで残りの日を過ごしたい、そこまで思わせる負の圧力が有ったわけです。
でも今はそんな事はない。冷静に観察をして、あるがままを分析してみようという気になれる。なぜだろうか?それはやはり、今は第三者として部外者の視点から物事を見れるようになったからだと思う。あほな事をしているなぁと、冷笑できる精神上の余裕が出来たから。自嘲的、冷笑的立場から振り返ると、やはりそれぞれが成し遂げようとしていた理想とか目標みたいなものが客観的に浮き彫りになってきて、それらを見直すという行為は、当事者としてそれらと直面する上での意味合いとは違ってきて、惹起される感情も別のものに変わってくる。

自分が楽しんでいるつもりだった喧嘩も、本質論とか、復興論とかそういう概念が剥き出しになってどんどん必死感を帯びていくうちに、何やらチープで、かすかにくすぶる吸い尽くされた煙草の吸殻のようで、生気もスリルも無いやり取りのように見えてきてしまう。たかだか喧嘩師のクセにお高く留まって理想論ばっかり語ってんじゃねーよバーカと、頭デッカチの理屈の重みで潰れて歩けなくなっちゃ元も子もねーだろと、そういった語り口に対してほとんど憎しみのような感情すら抱いてくるんだけど、それに反骨精神を沸かせて噛みついてしまう事自体が存在を肯定して影響を拡散してしまう行為になってしまうから、それならむしろ全く見ない、考えない振りをして、何も知らない無知の装いでひとしれず溜息を付いて、次第に陳腐化していく興味を、誰と共有することも無く一人で抱擁して、どうでもいいようなニヒルな恰好つけた態度で、内側では悶え苦しんで死にそうにしている、そんな人は一人じゃなかったと思うんだけど、どうなんだろうか。そういう人は、打開策というか、救いの道を、喧嘩以外のものでもいいけど、何に求めたんだろうか?

*へんじがない ただのしかばねのようだ*

コップさんが説明したくれたように、喧嘩というのは連続する物語性の中で、偶発的な予期せぬ機会に備えながら物事を予期すべき方向に進めるというアンビバレントな遊びです。それを紐解き、理論として提示し、戦略として分析し、文化として固定化するような「喧嘩論」の吹聴は、自分にとって土台となる世界観そのものの否定のように捉えられたのかもしれない。もしくは、喧嘩の本性は嘲笑的視座にあって、他者の滑稽さが徹底的に批判されるべき世界において自らの本質論を馬鹿正直に語るという滑稽さの存在が矛盾したものであり、それに対する生理的嫌悪の発露であったという言い方もできる。
当然、本質なんてものは人に依るものだから、そんな事を論じてなんの為になるんだという実利主義的な視点から語ることもできると思う。ただ、喧嘩板っていうのは最悪最低の土壌を養分にしてまで花を咲かせようとするマッドサイエンティストの集まりだから、そういう無価値で意義の見当たらない論点をいっぱしの議論に昇華させる芸当も横行していて、それが何らかの展開を更にスパークさせる切っ掛けになるのであれば、論点そのものが抱える見栄え上の発展性や生産性の有無っていうのは左程重視されるべきではないと考えているので、俺の思っているところはなんというか、もう少し「腹の虫」みたいな意味合いが強い。コップさんは観客としての時期が長かったようなことを言っているのでそれらの言葉が持つ得も言われぬ気味の悪さについて力説されたところで、「なにをいっているんだこいつ」という感じで、比喩的な抽象観はもういいからもっと現実的な史観に基づいて説明してみろよクソ野郎と俺のことを心の中で罵っているかもしれないけど、俺の表現力の限界もありまして、こんな感じでしか話が出来ません。

79seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/22(日) 23:36:16
大喧嘩云々という理論は、自分にとってみれば既存の枠組みの拡張であって、結局おなじ構造に再帰しうる論点を形だけ変えて再構築しているだけのように感じる。というのが、俺の言いたい事だ。

分かりやすく例をあげてみよう。

ヨシキ(仮名)は小説家志望の物書きである。気づけばもう40代になり、生え際が気になり出した年齢だが、これまでずっと夢を追い続けていた。亡くなった親の遺産を切り崩しながら、いつか文芸誌に連載が掲載されるように毎日文章の腕を磨いている。今執筆している小説は、今流行りの異世界転生物だ―「ブサイクな俺がゴブリンの村に転生したら超イケメン扱いでモテモテ美少女ゴブリンハーレム、ついでに雌オークもやってきてゴブリンとオークの異種姦大乱交!?」。しかし、何を書いたところで、自分でしっくりする物語を描く事ができない。ヨシキはいよいよ絶望した。何年経とうが名前は売れず、ネットに投稿した小説も誰も読んでくれない。「きっと自分には小説を書く才能など無いのだ、叶わない夢など見るのを止めて、代わりに資格勉強でもしよう」そう思った。

そんなある日ヨシキは、ふと映画館に立ち寄って映画を見ることにした。モノトーンの情景で、男と女がボソボソと心情を小出しに見せていくだけのつまらない映画だ。なんでこんな陰気なものが商業映画として成り立つんだ?ヨシキは疑問に思った。もっと刺激的で面白い題材ならいくらでもあるじゃないか。例えばゴブリンとオークとの3Pとか。俺ならもっと緻密に女ゴブリンの発情を表現してやれるのに。その瞬間ヨシキの脳内に閃きが走った。「そうだ!小説というアプローチは間違っていたんだ。自分はもっとビジュアルな人間で文章を視覚的に組み立てるのが得意なんだから、自分が目指すべきなのは映画の脚本化だったんだ!映像化を前提とした文章なら、今の俺のマンネリ化した文章が、より輝ける舞台で活躍できるはずに違いない!」ヨシキは家に帰るとすぐにパソコンに向かい、「小説家になろう」のブックマークを光の速さで削除すると、Googleの検索バーに「脚本家 なり方」と打ち込んだのでした。

ヨシキの判断は正しいものであろうか?ヨシキが今後歴史に名を遺す偉大な脚本家に成る可能性はゼロでは無い。だが大多数の観点からすれば「ヨシキの判断はおそらく間違っている」と見られるのがいわゆる一般論であろう。それは何故かというと、ヨシキが本質的な問題の解決に意識を向ける代わりに、自らの問題点を矮小化して、些細なディテールの変化にのみ拘り、その事実とは掛け離れた頼りない一点のみに解決を見出しているからである。確かにその特定の点には一縷の望みというか、小数点何桁以下の可能性が宿っているかもしれないけど、目線をズームアウトして大局を注視してみると、「文章がつまらない」とか「発想力に欠ける」とか根本的な問題の解決にはまったく触れられていない。

例えば「今の流行りの傾向を分析して、次のトレンドの先駆者を狙う」とか、「名の知れた識者に弟子入りしてノウハウを教わる」など、もしくは、問題をそもそも問題たらしめる要因を掘り下げて追及するというアプローチがあってもよい。つまり、「雑誌への連載を諦めて、友人同士での同人活動で満足する」など目的そのものを身の程に合っていないものだと自認して他の観点にシフトすることも、立派な問題解決の手法だ。

話を戻そう。大喧嘩とはすなわち、ヨシキが追い求める「劇場版 ゴブリンとオークの大乱交」なのだ。それそのものについて良い、悪いという価値判断をしたい訳ではない。喧嘩のフィクション性をメタ的な視点から語るという行為に批判的なオレの立場から見れば、喧嘩というものをバンドル化して提供してみたところで、結局のところ「大喧嘩の本質論」みたいな議論が浮上してきたときに、それはまるで喧嘩の本質論を再適応する形で語り直されるものに過ぎないんじゃないかと考えている。他の俺はそれを胸糞の悪い汚物のようなものだと捉えてきたっていうことはさんざん書き散らかしているので省略するとして、やはり俺からするとしっくりくるコンセプトにはなり得ないかもしれないけど、ただ個人の嗜好の問題なので、野菜を眼の前にしてイヤイヤしてる五歳児みたいなもんだと思ってくれて構わない。コップさんの仰る理想は理解出来るけど、仲良しこよしのチンパンジーの群れが、よりバナナがなる木をめぐって他のチンパンジーの群れと喧嘩を始めたからといって、それがオスチンパンジーとオスチンパンジーによるメスチンパンジーをかけた喧嘩と何が異なるのだろうか、と考えても、「どちらも原始的な欲求に基づく本能的闘争という点で同質の行為なのだから、そこに介在する深い文化的意義など深読みしようとしたところで糠に釘だ」、と俺にはどうしても感じてしまう。

80seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/22(日) 23:38:31

しかしまぁ、なんて抽象的で陰鬱でつまらない話なんでしょうか。代わりにかわいい猫の話とかしませんか?これさっき見つけたんですけど、親の毛づくろいをマネするこねこ

https://www.youtube.com/watch?v=3iKadmbnc-k
はぁ…ちょーかわいい。癒される。

81コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/23(月) 01:18:15
>こんばんは
>休日の終わりに喧嘩板に腰を据えて、冗長な文章を読みながら、さらに冗長な文章をカタカタする惨めさを久しぶりに味わいました。精子と書いてSeikoと呼びます。今日はよく寝れそうです。

こんばんは。
僕はコップとハンドルネームをつけてみたが由来は目を上げて認められた紙コップに過ぎません。以前使っていたハンドルネームはきっとseikoさんもご存知ではあるでしょうが、もう言わないでも何に於いても困る筈が無い名ですので、人が察するに任せておきます。
さて、お書きになったことは読みました。返信を行わないが書いてみようというつもりで二度も今まで読みましたが、喧嘩に着目した(*1)論は今は出番が無いものだとわかりました。もし、これにご用でしたら、いつでもおっしゃって下さい。僕みたな者でも喜んで談義の一方を担う機会には乗りたい。それはともかく、seikoさんの述べたことが僕にどう刺激したかは言いようが見つかりませんが、これを見付ける気にもなりません。ありがとうございます。左様にしか言い得ません。

*1 必ずしも「本質論」を目指すものでありません。

82コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/23(月) 01:19:13
>しかしまぁ、なんて抽象的で陰鬱でつまらない話なんでしょうか。

具体的な話はよくないですね。また、陰鬱で、つまらないことは僕に打開しようがない様子なのですから、この話は自ずときりがつきました。

83コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/23(月) 01:27:35
>代わりにかわいい猫の話とかしませんか?これさっき見つけたんですけど、親の毛づくろいをマネするこねこ

>https://www.youtube.com/watch?v=3iKadmbnc-k

>はぁ…ちょーかわいい。癒される。

数年前拾った子猫に似た、しかし違う見た目な猫さんです。その子猫の写真はここに掲げられませんが、もしよければメールか何かでちょっとお見せできます。もらわれて行った子です。
https://www.youtube.com/watch?v=m7Ml0nB4mKg
こないだ観て印象が出来たビデオです。

blanccup4@gmail.com
これが僕のメールアドレスです。

そんなわけで、不調法ながら返事はこのようで。おやすみなさい。

84コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/23(月) 03:09:00
>>81補足

「喧嘩に着目した」と言ったのは「喧嘩板に着目した」。このように訂正すべきものであろうと思いました。

85コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/23(月) 03:11:04
>>85追伸

おやすみなさい。

86コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/23(月) 03:14:29
>>85訂正
誤 >>85追伸
正 >>84追伸

なのでした。
三度目の正直で
おやすみなさい。

87seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/25(水) 21:37:24
でかい猫カワイイと思うの矛盾してる気がする。でも猫が捕食者じゃなかったら可愛さ半減だろうなぁとも思う something about solitariness does attract certain people.ってじっちゃんも言ってた

88seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/08/28(土) 21:30:09
モンゴルロックがクソイカツイ
https://www.youtube.com/watch?v=v4xZUr0BEfE

89seiko ◆wOUe8iWjRg:2021/10/16(土) 20:46:29
猫の写真こない(´・ω・`)

90コップ ◆kfj4n92PLw:2021/10/16(土) 22:09:10
  \ │ /
   / ̄\
 ─( ゚∀゚ )─ おはやう
   \_/
  / │ \
    ∩ ∧ ∧∩
∩ ∧ ∧∩ヽ( ゚∀゚)|
ヽ( ゚∀゚)/ |   ノ
 |  〈 |   |
 / /\」 / /\」
  ̄   / /
      ̄

91コップ ◆kfj4n92PLw:2021/10/16(土) 22:13:54
>>89
メールして下さいましたか?
一月以上前に受信したメールが迷惑メールフォルダに振り分けられて、そのまま削除されてしまった場合がありそうです。
もしそれなら、もう一度メールして下さると有難いです。
お手数をかけますが、よろしくお願いいたします。 m(_ _)m

92ヌー兄∞§(~q~)§∞〔靑〕 ◆14duqX5056:2021/11/07(日) 09:44:36
セケーンゲイパのパトロールするかおまえら


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