参加型アートってアーティストがその傍らにいて、立ち止まった客の裾を引いて強いて参加させようとするようなのはすごくウザいっていえます。参加型アートは居合わせた人間の表現への意欲をプラスにするものであれ、刺激しないものであれ、抑制するものであってはいけないと思いました。といって、そんなものに全然縁が無いことは例に依ってのことで、今思いついた例えなのですが、もし参加型アートがさようの意義を元にしたものだというなら、(seikoさんが文章を作るきっかけにしたいと思い得る)喧嘩板の投稿のありようと、ちょっと共通したところがあるようです。
① 書き込みが無い場合
② 書き込みがあり、seikoさんに表現にあたっての制約を課す場合
③ 書き込みがあり、seikoさんに表現にあたっての制約を課さない場合
こうして見た時、恐らくseikoさんは①と③とについては、大概容認しそうです。②も、まぁ無くもないんですけど、それはあくまで喧嘩目的のやつが変なこと言って来た場合に限られるでしょう。ふつうに雑談したいんですけどぉー、こんな風に書いてくださあーいって言って来られたら、seikoさんは嫌な気持ちになると思います。喧嘩目的のレスっていうのはまず負けを認めろだのなんだのうるさく言って来るのは割合少なくないですからね。そりゃそうだろうという感じで、喧嘩板に喧嘩師がいちゃならない法はありませんし、seikoさんはきっとそれを、まあものによっちゃあ嫌うでしょうが、あってはならないものとは認めない筈だと僕は考えます。その一方、喧嘩をしたいでもなしに、何かseikoさんに向かって表現の制約を強いる形でアプローチしてくる書き込みの態度が認められれば、それはもうあってはならないものという感じで、seikoさんは茶室に大道芸人、それもやる気まんまんの大道芸人の人でも見たような気持ちになるんではないかと想像します。そもそも「やりとり」を強いて来るものは、喧嘩板では喧嘩目的のレス以外に何もないことが正常の事だろうと僕はつい思いました。