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千尋くん見ていますかー?お元気ですかー?

1名無しさん:2018/05/24(木) 03:19:28
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48コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/18(水) 22:24:59
>人間が形作る社会というものは往々にして人間の生来的な本質をある程度反映するものであって、それが一見まったく異なる分野や領域であったとしても、何かしらの最低限の共通性を有するものだと考えた上で、人々を惹きつける「喧嘩」というコミュニケーションの根本に内在する動機-というか人間の欲望的なもの(喧嘩の様式そのものの事ではない)が、その共通性のひとつとして語れるのではないか?

>そもそもこういう喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語るっていう行為自体が喧嘩の楽しさそのものをスポイルすることに当たると思う

Seikoさんのお返事を読んでいて上二つの引用部分が非常に印象的でした。考えが全然書かない内からこれらの文字の上に縹緲と現れて来て、その雲は他へと拡がらず同じ場所でもくもく盛り上がり、雨を降らしそうな有様です。僕はもうその過程がどんなかというのを言ってられません。解答だけ書きたい気持ちです。退屈だというんではなく興奮を覚えさせるものでそれが勢い猛く押し流してしまう「橋」や「飛び石」にはもう目をくれる気が起こりません。

49コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/18(水) 22:25:58
解答 seikoさんのおっしゃる「喧嘩の楽しさ」は「喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語る」によって「スポイル」される段階からさらに進められる潜在性があると思います。進めばスポイルしません。これまで喧嘩は「一対一」でした。これからも基本は「一対一」だが、甲対乙で甲と乙と両方味方を持つ。これはすなわち両方味方を持つものは典型の一を言うに過ぎないかもしれないものだが典型には違いないだろう従ってこれを見る。一対一の喧嘩は自分と相手との可能性を「相手を文字で操」って追求し合うものである。仲良し同士喧嘩してもなんも無いっていうか無くはないが…。まあつまり気心が知れた同士やるのに発見はあまりない。やるんなら喧嘩を対立してやるんじゃなく結託してやる。グループが複数対立していればそれでよい。喧嘩は決闘から戦争行為の一部になる。戦争の舞台は掲示板!何をやるんでもよい駒を取り合うヨシ殲滅ヨシ他なんでもヨシ。馴れ合いが叩かれた。「盛り下がる」から。サポートは味方同士存分に行われればよい「馴れ合い」OK!一対一の喧嘩は純粋なのは味方同士やるんでもよいがそれは切磋琢磨→発明のため。技術開発。喧嘩の方法論を開拓すること。喧嘩は今まではルールをわかったようでわからんような(…要領というか自分なりの定義というか大事なことがわからんような)者同士でやるのが興奮出来た。ルールがわかっちまうと終わりが見えてつまらん。それだが剣道にしろなんにしろルールは効率のためだ。武術はもと戦闘術。面胴小手が例えば剣道ではルールの一項目だ。人の弱点だから。剣道に飽きた。うまいから。それなら一緒にやればよい。戦争すればよい道場同士やればよい。ボールのけり合いは一人と一人でやるより十人と十人?調べたら11人であるのが多いとかそんなら11人同士でやれば楽しめる。戦術の幅が広がる。喧嘩界に仲良しがいるメリットは喧嘩しあえるより喧嘩で協力できること。AがBに反論してそれにBが応じる…こういう基本形式は崩れないがいや本当だろうか?CがAに肩入れする者ならAはある筋で立言しCはそれとは別の筋を立てればよい。CはAの立場を擁護するよりBを滅ぼすのを目指す。剣道はフィクション性あるものだがフィクション性は元来有意義であった。その意義を取り戻すのはいかがか。仲良し万歳〆

50コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/18(水) 22:31:00
無惨な文の塊ですねこれでは(^^;
でも、何だかこんな調子で考えがずらずら出て来て…ありのままこれを書いてどうかわかってもらえたら嬉しいのです。ありのままとは違いますがまあ手を加えずという程でしょうか。ちょっとこれは前書いた時と違うテンションに浮かされてます。口で言った方がまだ論理的に言えたかもしれないものです。今もまともに文章を書けない気持ちなのです。
まぁ、このぐらい滅茶苦茶なら趣旨を解する人は多くないでしょうが、それは僕に都合が良いのかも知れません。あるいは趣旨にとって都合が良いかもしれません。上に書いたもしくは打ち撒けた文章は僕が考えたことの一部分です。が、残りの部分はもう喋るかチャットに述べるかです。文に書いてなんかいられません。

こんな無茶苦茶な返事をお目にかけてseikoさんが驚かない訳にはゆかないだろうと思います。思うに僕は「書きながら思考が固まっていく」時は前の如く而して「書く前に思考が固まった」時はこの如くです。後者の時、これをほぐす煩に僕は耐えられません。結論だけ言っちまってせいせいしたいわけなものです。上に書いたのは結論どころか、導出過程で問題用紙のあちこちに小さい計算をした跡が残っているその脈絡が互いに繋がってないのを並べたようなものなんですが、きっと意味あるものだと信じます。また、熱が冷めたら書き振りを革めて縷説をする能力が己の内に備わって来るかも知れません(現在はちょっと覚束無く今書くのもこわごわ…)が、とりあえずの、もしくは…いや、寧ろ、正直に依るお返事はここにあるに外ならぬものです。

謹んで採点を待ちます。よろしくお願いします。

51コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/18(水) 22:46:49
追伸
seikoさんのお返事へのお返事は、また改めて投稿したいです。上のもので済ますというのは全然駄目です。愚人ここに叩頭す orz

52コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 03:22:03
>人間が形作る社会というものは往々にして人間の生来的な本質をある程度反映するものであって、それが一見まったく異なる分野や領域であったとしても、何かしらの最低限の共通性を有するものだと考えた上で、人々を惹きつける「喧嘩」というコミュニケーションの根本に内在する動機-というか人間の欲望的なもの(喧嘩の様式そのものの事ではない)が、その共通性のひとつとして語れるのではないか?

「喧嘩」は一対一のコミュニケーションですが、ここにもし「大喧嘩-おおげんか」という語をちょっと特有の意味を帯びさせるつもりで出して見たらどうなるものでしょう?「大喧嘩」は、喧嘩師が複数いる集団が複数あって、彼らは反目し合っている。で、そんな彼らがどこかの掲示板上で戦っている様子をあらわした語です。語感はご勘弁(- -; なんちゃって、大喧嘩はともかくも喧嘩の集まりです。集団Aの喧嘩師アが集団Bの喧嘩師イと争っている。こういう状況の総合が大喧嘩です。Aは仲良しの喧嘩師達が集まったのである。Bも左に同じ。AとBとは反目し合っている。アがイをこてんぱんに言い負かしても、Bの中でイは慰められたり、喧嘩技術に係るアドバイスをしてもらったりする。大喧嘩は、例えば掲示板上で起こったなら、もし、「現在進行形」の喧嘩が見当たらなくても、ずっと続いているのである。というのは、AとBとが反目し合っている状況があるので、すでに喧嘩師同士対立しているのが前提と認められるのである。
こういう状況があるなら、Aの中で仲良し喧嘩師たちが馴れ合っているのはあまり問題にならなさそうです。大喧嘩に支障を来すことにはならなさそうです。また、喧嘩がどうやって行われて、どうやって決着するのかということを分析的に語る者があっても、それはその集団の喧嘩技術のレベルを上げることになるし、喧嘩は大喧嘩に非ずなので、大喧嘩をつまらなく見せるということにも必ずしもならない。では、大喧嘩の目的とは何か。Aにとっては、例えばBのカの面目を潰すとか、エ以外のメンバーをボコボコにしてエをこっちへ引き抜いて連れて来るとか、はたまたウがコに片思いしているので、どうにかコとウとの親しむ機会を作って、それから引き抜いて連れて来るとか。Bにとっては、また何か色々あるんでしょう。さようの諸々の目的は、全て掲示板上で起こる大喧嘩によって目指される。…
>>49でうだうだ書き散らした事どもはその起こりを言えばこんなところになるもののようです。これもちょっとまともな文章ではありませんが、一応意味は>>49より通じる筈と思います。

53コップ ◆kfj4n92PLw:2021/08/19(木) 03:28:24
>そもそもこういう喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語るっていう行為自体が喧嘩の楽しさそのものをスポイルすることに当たると思う

手段を手段として見ずに目的として見る観点に拠ってしまうと、初めに置かれた目的は目的で無くなってしまい、そこへ至らんとする努力も減衰して、行為自体味気なく感じられてしまう。何故そうなのかと云うと、目的の意義を疑う方へ言葉の作用が働いて行けと願うのが人の理性の働きであるからなのでしょうが、では左様の観点に拠れば必ずそうなるかと云うにノーの答が適切だと云いますのは、手段は必ずしも目的と不可分でないから、目的は大目的を頼むものであり得るからなのであります。…なんて、変な書き方をし始めたが息が続く筈もないので放棄する。放棄しました。で、この一つ目のは何をいっているかといえば、ある目的に達する手段は甲と乙と丙と諸々あり得るのなら、甲を考えてそれが目的の全容(*1 を考えることにはならないということをいっています。二つ目のは目的がまた別の目的を達するための手段に過ぎない場合があり得て、その上に目的改め手段が、新たにお出ましした目的を達成する手段の種々ある内の一つにしか過ぎないならば、手段に改まる前の目的を達成するに当っての手段が唯一つな場合であれ、新しい目的の全容は目的改めの手段を調べて直ちに把握されるものではないという趣旨なのです。全容を把握するとはどういうことかというと、目的何ぞやと考えて、目的の一つの絶対にある筈の性質として、手段があるなあと認めることです。目的は未来のある時点に置かれるものです。手段は人がこれを現在進行形で取るものです。目的のために邁進する人が、ふと目的を手段とみなしたものならば、現在進行形(のもの)であった手段はつい手放されて、(彼の)目の前にぽとりと落ちますね。そうしなければ目的のようには見なせませんから。つまり、客観的態度を取らざるを得ないということです。興醒めの端緒たり得るのがこれです。
今述べたようなことも、大喧嘩を喧嘩とは別に考えてみると、応用されるのではないかなと思います。
これも乱文ながら、ちょっと要点を示そうというつもりで書いてここに掲げます。

(*1 本質というべきでした。


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