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千尋くん見ていますかー?お元気ですかー?
53
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◆kfj4n92PLw
:2021/08/19(木) 03:28:24
>そもそもこういう喧嘩のフィクション性をメタ的な観点から語るっていう行為自体が喧嘩の楽しさそのものをスポイルすることに当たると思う
手段を手段として見ずに目的として見る観点に拠ってしまうと、初めに置かれた目的は目的で無くなってしまい、そこへ至らんとする努力も減衰して、行為自体味気なく感じられてしまう。何故そうなのかと云うと、目的の意義を疑う方へ言葉の作用が働いて行けと願うのが人の理性の働きであるからなのでしょうが、では左様の観点に拠れば必ずそうなるかと云うにノーの答が適切だと云いますのは、手段は必ずしも目的と不可分でないから、目的は大目的を頼むものであり得るからなのであります。…なんて、変な書き方をし始めたが息が続く筈もないので放棄する。放棄しました。で、この一つ目のは何をいっているかといえば、ある目的に達する手段は甲と乙と丙と諸々あり得るのなら、甲を考えてそれが目的の全容(*1 を考えることにはならないということをいっています。二つ目のは目的がまた別の目的を達するための手段に過ぎない場合があり得て、その上に目的改め手段が、新たにお出ましした目的を達成する手段の種々ある内の一つにしか過ぎないならば、手段に改まる前の目的を達成するに当っての手段が唯一つな場合であれ、新しい目的の全容は目的改めの手段を調べて直ちに把握されるものではないという趣旨なのです。全容を把握するとはどういうことかというと、目的何ぞやと考えて、目的の一つの絶対にある筈の性質として、手段があるなあと認めることです。目的は未来のある時点に置かれるものです。手段は人がこれを現在進行形で取るものです。目的のために邁進する人が、ふと目的を手段とみなしたものならば、現在進行形(のもの)であった手段はつい手放されて、(彼の)目の前にぽとりと落ちますね。そうしなければ目的のようには見なせませんから。つまり、客観的態度を取らざるを得ないということです。興醒めの端緒たり得るのがこれです。
今述べたようなことも、大喧嘩を喧嘩とは別に考えてみると、応用されるのではないかなと思います。
これも乱文ながら、ちょっと要点を示そうというつもりで書いてここに掲げます。
(*1 本質というべきでした。
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