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苦の滅尽

1:2013/10/14(月) 04:05:10 ID:x0SqdRKg
「苦」は「名色⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒渇愛⇒取⇒有⇒生⇒老死」と言う順観で発生します。(苦集諦・十支縁起)「名色・識」で妄想が生起します。

もう一つの道をたどると「老死⇒生⇒有⇒取⇒渇愛⇒受」(逆観)となり、ここでの「受」を縁として「受⇒渇愛⇒求⇒利⇒用⇒欲貪⇒

著⇒嫉⇒守⇒護」(順観)が生じ、その結果「鞭を取る事・剣を取る事・不和・異執・口論・論争・両説・妄語」等の現在進行形の不善の法が起こり続けています。(求・利・用・欲貪・著・嫉・守・護は、イメージでしか捉えられませんが)

上記2つの理由により「名色と識」の破壊と「受」の滅を目的とします。

実践では、五蓋の滅尽を目的として四念処の修行を行います。これは「名色(識の四識住と四大)と識(六識)」の関係の破壊につながります。

そして四禅定で「受」を滅尽しきれれば、「受」を縁とする「渇愛⇒取⇒有⇒生⇒老死」は生起しませんし、同時に「受」を縁とする「受⇒渇愛⇒求⇒利⇒用⇒欲貪⇒著⇒嫉⇒守⇒護」は生起せず、その結果「鞭を取る事・剣を取る事・不和・異執・口論・論争・両説・妄語」等の不善法は生起しません。この「受」の滅尽により、それに付随する「無明」が滅せられ、同時に「渇愛」も滅尽されています。

つまりは一切の「苦の滅尽」(滅聖諦)です。

このような理解ですが、間違い等ありましたらアドバイスをいただければ幸いです。宜しくお願いします。

2和井 恵:2013/10/27(日) 22:20:38 ID:/qZ2M5.2

> このような理解ですが、間違い等ありましたらアドバイスをいただければ幸いです。宜しくお願いします。

縁起の法について、その本質的な部分を、これからブログ記事の方で説明する予定ですので、そちらを参照してみてください。

釈尊の教えの 「 真髄 」 は、自灯明・法灯明 なのです。

つまり、その原理が分かってしまえば、誰かに 「 答え合わせ 」 を してもらう必要がなくなるのです。
それは、誰もが例外なく、「 自分で ( 他の人の助けを借りなくても ) 」 確認 ( 検証することが ) できてしまう方法なのです。

3:2013/10/28(月) 03:01:36 ID:x0SqdRKg
>釈尊の教えの 「 真髄 」 は、自灯明・法灯明 なのです。

理解しました。

ここからは雑感ですが、今までに、マハルシ・ラメッシ・龍樹と学んできましたが、最後に釈尊に行き着きました。一番ややこしいのはやはり釈尊の教えでした。なぜなら、言葉の定義がネット上には一応あるのですが、その大半が大乗系のものであり、区別がつかず、おまけに初めに龍樹の空を学んだものですから、これが釈尊(仏教)の流れだと言う思い込みで進んでいたからです。これは別に、大乗や空を非難している訳ではありませんで、単なる感想ですが、とにかく、ネット上には言葉の意味は書かれているのですが、それら同士が繋がった文章としての意味になりませんでした。そんな視点で一番ややこしいと感じましたし、教え自体も四聖諦の中に八正道を含み、同時に八正道の最初に四聖諦の理解が含まれていると言う、一見、永遠にループしそうな表記の仕方がされています。・・・クラインの壷のように感じていました。私が知りたかったのは、仏典の中で表現されている表現とそれぞれの言葉や文字自体とそれらの意味合いでした。しかしながら和井恵さんに教わり、ようやく文章として繋がる意味の理解が起こりました。大変、有難う御座いました。まずはパズルのピース自体を組み立てて、それらを繋ぎ合わせると、静寂が完成します。私は人に何かを教えると言う立場をとりませんので、今はこれで十分です。

聖なる七本柱で支えられたその境地からの逃げ道には「迷いの生存を願ってはならない」と言うお札が張られていますが、この生起した悪魔の城は、やがては滅尽する事を悟って、一応質問は終わりにします。

大変勉強になりました。有難う御座いました。

4和井 恵:2013/10/28(月) 03:09:24 ID:/qZ2M5.2

片山一良先生・訳の、長部経典21経「帝釈天問経」の中の12ページ分くらいを、
( 妄執想の部分の滅尽に到るふさわしい実践・パーティモッガの防護による実践・感官の防護による実践、など )
来週中に、原始仏典@和井恵流 の方にUPしますので、少々お待ちください。

5和井 恵:2013/11/04(月) 16:40:16 ID:/qZ2M5.2

長部経典21経「帝釈天問経」の部分訳、の転載が終わりました。
ここには、とても重要なこと(縁起の法の本質)が説かれているのですが、それに気がつきましたか?

  神々の主よ、世界は種々の要素のもの、様々な要素のものです。
  その種々の要素、様々な要素の世界において、もろもろの生けるものは、執着する要素についてのみ、強く、取り、執着して言います。
  『これのみが真実であり、他は虚妄である』と。
  それゆえ、沙門・バラモンが誰もすべて、唯一の説、唯一の戒、唯一の欲求、唯一の意趣をそなえているのではないのです。

部派仏教は、「無常・苦・無我」のみが真実であり、他は虚妄である ── と主張しました。
大乗仏教は、「縁起=空」のみが真実(第一義諦)であり、他は虚妄(あるいは方便)である ── と主張しました。

釈尊は、そのような決めつけをすることなく、「渇愛を増大させるもの」と、「渇愛を減退させるもの」の二種を説いたのです。

6:2013/11/04(月) 22:05:59 ID:x0SqdRKg
>長部経典21経「帝釈天問経」の部分訳、の転載が終わりました。

ありがとうございました。

>ここには、とても重要なこと(縁起の法の本質)が説かれているのですが、それに気がつきましたか?

この(有の)世界には多種多様な要素があり、この有の世界に生ける者は、それぞれの執着する要素についてのみに強く執着して「これが真実で、これ以外は妄想・虚妄だ」と言う見解を持ちます。この見解への執着から論争が生起し、多様な苦が生起します。そして「渇愛の滅尽により解脱した者」のみが「見解」に執着しない者であり、究極の梵行の終焉を迎えた者であると書いてあると理解しました。

実際の生活上では、苦しみの滅尽を実践している人との遭遇は、まずありません。ですので、私に何か聞かれる事もありません。よって、私は何も語りません。

もしも語る機会があったとしても、同じ次元の方との会話なら、何も見解を持たないもの同士ですので、何も主張しあいませんので、何も問題のない会話のみとなりますし、例え、違う次元の方との会話であっても、その方がその世界(処)で、その多種多様な要素に執着しているのが分かりますので、それすらも私にとっては何も問題ではありません。

>釈尊は、そのような決めつけをすることなく、「渇愛を増大させるもの」と、「渇愛を減退させるもの」の二種を説いたのです。

理解しました。経典の中でも神を登場させて、アーナンダが気付く瞬間が書かれているものがありますね。

「樹木の根本の繁みの中に進み入って、心の内に安らぎを落ち着けて瞑想せよ、ゴータマ(アーナンダ)よ、怠る事なかれ。がやがやおしゃべりする事が、そなたに何の用があろうか。」と。(「アーナンダ」サンユッタ・ニカーヤII)

喩えばの実践として、村人と共にがやがやと長話をする事が、渇愛を増大させるものなのか?減退させるものなのか?・・その度ごとに、自らに問いかけてみなさいよと言う事でしょう。

>部派仏教は、「無常・苦・無我」のみが真実であり、他は虚妄である ── と主張しました。
>大乗仏教は、「縁起=空」のみが真実(第一義諦)であり、他は虚妄(あるいは方便)である ── と主張しました。

部派も大乗も「見解」を持っていますね。理解しました。

7:2013/11/07(木) 13:28:33 ID:x0SqdRKg
彼は、単一〈専心・入定〉を単一と思い、単一を単一と思って単一を考え、単一において考え、単一から考え、〈 私の単一である 〉と考え、単一を歓ぶ。それは何故か? 彼には知悉されていないからである、と私は言う。



彼は、涅槃を涅槃と思い、涅槃を涅槃と思って涅槃を考え、涅槃において考え、涅槃から考え、〈 私の涅槃である 〉と考え、涅槃を歓ぶ。それは何故か? 彼には知悉されていないからである、と私は言う。(中部 1経 「根本法門経」)

歓喜は、貪りを生起させ、それに対応する怒りを生起させます。ですので「彼には知悉されていないからである」と釈尊は言うのでしょう。

>『これのみが真実であり、他は虚妄である』と。
>それゆえ、沙門・バラモンが誰もすべて、唯一の説、唯一の戒、唯一の欲求、唯一の意趣をそなえているのではないのです。
(長部 21経「帝釈天問経」)

>釈尊は、そのような決めつけをすることなく、「渇愛を増大させるもの」と、「渇愛を減退させるもの」の二種を説いたのです。

つまりは、歓喜は執着から生起するのであり、執着は渇愛から生起するので、その渇愛を増大させるものと減退させるものの二種を説いたと言うのが縁起の法の根本なのですね。

「生存のうちの恐怖と、生存から離脱することを求める人々の生存とを見て、わたしは生存を尊重せず、いかなる喜びにも執着しない。」
(中部 49経「梵天招待経」)

837師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

839師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
(スッタニパータ)

ですので「何を説くのですか?」と問われた返事が・・

「神や、魔や、梵天や、沙門・バラモンたちと共なる、世間の誰とも論争をすることがなく、さらにまた、諸々の欲望を離れて住するので、疑惑が無く、不行儀を絶ち、種々の生存において渇愛を離れているので、諸々の想念が潜在しない。私は、このような論者であり、このように説く者です。」(中部 18経「蜜丸経」)となるのですね。

8和井 恵:2013/11/08(金) 13:56:48 ID:/qZ2M5.2

長部経典22経「大念処経」の部分訳を、さらに追加してみました。

この「集諦」と「滅諦」の説明が、そのまま「縁起の順観」と「逆観」の説明へと結びつくのです。

── つまり、渇愛は、十二支縁起の「八番目の縁起支」にだけ見出されるのではありません。
「無明」を始めとするどの縁起支にも、すでに渇愛は染着している(生起して留まっている)のです。

つまり、一つ一つは小さな「雨粒」が、地に落ちて、高いところから低いところへと流れ、次第に寄り集まって、
小さな流れから、せせらぎとなり、小川となり、それらが集合して、やがて「大河」となって流れていくように、
そのような「あちこちで生起し留まっているさまざまな渇愛」が、寄り集まって(集起して)、次の転生を形成する力となるのです。

ですから、各支における「生起」と「滅尽」とは、「そこに生起し留まっている渇愛」の生起と滅尽を意味しているのです。


> 歓喜は執着から生起する

いえ、同時存在・同時消滅なのです。

 つぎに、比丘たちよ、「苦の生起という聖なる真理」とは何か。
 これは再生を起こし、歓び貪りを伴い、ここかしこで歓喜する渇愛です。

渇愛は、喜び・歓びや、歓喜と「共に(それを伴って、それと同時に)」あるのです。
つまり、そこに「喜び」があれば、同時に「渇愛」もそこにある ── 喜び・歓びは、渇愛が生起していることを表わす「サイン」なのです。

9:2013/11/09(土) 13:40:04 ID:wfU.Go.c
一切の生起したものは、やがては滅します。そして一切には「渇愛が染着している」と言う事でしょう。そしてこの一切を知る為に、この縁起の法が説かれ、その具体的な分別をして説かれたものが、十二・十・九等の各支縁起だと言う理解です。二支縁起(無明→老死)でも良いのですが、これでは分かりづらいですね。ですので、一切の生起と滅尽の理解を促す為に、例えば十二支縁起が説かれていますので、「つまり、渇愛は、十二支縁起の「八番目の縁起支」にだけ見出されるのではありません」のご指摘は、ごもっともだと言う理解です。

>そのような「あちこちで生起し留まっているさまざまな渇愛」が、寄り集まって(集起して)、次の転生を形成する力となるのです。

比丘たちよ、それと同じように、壓縛(けいばく)するものをじっと味わい観ていると、その人には名色が現れてくる。
その名色によって六処がある。〈→触→受→愛→取→有→生→老死・愁・悲・苦・憂・悩〉が生ずる。 
かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以(ゆえん)である。

しかるに比丘たちよ、その壓縛するものを、これはいけないぞと観ていると、その人には、名色は消滅する。
名色が滅すると六処が滅する。〈→触→受→愛→取→有→生→老死・愁・悲・苦・憂・悩〉が滅する。
かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以(ゆえん)である。(相応部経典因縁相応36.名色)

例えば、受の滅により正定の完成が果たせたのならば、続く愛は生起せず、続く取→有→生→老死は生起せず、不死の境地の獲得となり、又、受の滅によりそれに付随する、無明(三毒)は滅尽できています。そして無明から生起する渇愛の滅が確定し、同時に、識の滅も果たせます。なぜなら識は、受を識別するからですね。識別すべき受が滅尽すれば、識も生起しませんね。

友よ、『それは識別する、それは識別する』という、このことから識と言われます。しかし、何を識別するのでしょうか。

『楽である』と識別するのです。『苦である』と識別するのです。『非苦非楽である』と識別するのです。

友よ、『それは識別する、それは識別する』という、このことから識と言われるのです。(中部経典43経「大有明経」)

よって「受」の滅により得られる果報は、愛の滅・無明の滅・識の滅です。そして識が滅すると、続く名色との関係が破壊されます。これは、妄執想の滅を意味しますね。そして実際の生活上では、感官の防護が助力として機能しますので、磐石の体制ではないでしょうか。つまりは、何がしかの行為に従う場合にも、六処に対応する六境に接触・感受した場合にも、もろもろの不善の法は減退し、もろもろの善の法は増大すると言う方に従うと言う、パーティモッカの防護による実践や感官の防護が、長部経典第21経「帝釈天問経」に説かれており、その時には、有尋有伺よりも無尋無伺が優れているとも書かれていました

10:2013/11/09(土) 13:40:43 ID:wfU.Go.c
もう一つは「次の転生を形成する力となるのです。」と言うところですが、

存命中に、識の滅に至り、死の直前の状態として識の滅で、熱と寿命の縁が切れたのであれば、その識は転生しませんね。輪廻からの解脱だと言う理解です。なぜなら識が母胎に入り、名色と結合し、その和合が概況に触するからです。母胎に入るべき識がなければ、再生はしませんね。

39「比丘たちよ、悪魔パーピマン(波旬)が、善男子ヴァッカリの意識(識)はどこに住しているのかと、かれの意識を探し求めているのである。

40比丘たちよ、善男子ヴァッカリは、かれの意識は住することなく、完全な涅槃に入ったのである」(ヴァッカリ「サンユッタ・ニカーヤ」22.87)

>ですから、各支における「生起」と「滅尽」とは、「そこに生起し留まっている渇愛」の生起と滅尽を意味しているのです。

理解しました。

> 渇愛は、喜び・歓びや、歓喜と「共に(それを伴って、それと同時に)」あるのです。
つまり、そこに「喜び」があれば、同時に「渇愛」もそこにある ── 喜び・歓びは、渇愛が生起していることを表わす「サイン」なのです。

なるほど。サインですね。理解しました。

11:2013/11/09(土) 18:32:20 ID:wfU.Go.c
失礼しました。 No9 の冒頭部分が切れていたようです。

>この「集諦」と「滅諦」の説明が、そのまま「縁起の順観」と「逆観」の説明へと結びつくのです。

はい。そうですね。

第一章 菩提

1・1 熱情ある者に、瞑想する婆羅門に、まさに、諸々の法が明らかに成るとき(諸々の法が生じては滅する、まさにその、あるがままのあり方が明らかに成るとき)、しかして、彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る――因を有する法を覚知するがゆえに因によって法が生起する道理、つまりは、縁起の法を覚知する。

1・2 熱情ある者に、瞑想する婆羅門に、まさに、諸々の法が明らかに成るとき(諸々の法が生じては滅する、まさにその、あるがままのあり方が明らかに成るとき)、しかして、彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る――諸々の縁の滅尽を知ったがゆえに因によって法が消滅する道理、つまりは、縁起の法を知った。(ウダーナ 自説経)

縁起の法とは、苦の生起と滅尽の道理だと理解しました。



一切の生起したものは、やがては滅します。そして一切には「渇愛が染着している」と・・・・

13和井 恵:2013/11/14(木) 13:13:47 ID:/qZ2M5.20

★ 9 への返信です。

> 例えば、受の滅により

「受の滅」を、具体的に経典の言葉で示すならば、下記のようになります。

  つまり彼は、もし楽受を感しても、それに繋縛(けいばく)されることなく、
  もし苦受を感じても、それに繋縛されることなく、
  またもし非苦非楽なる受を感じても、それに繋縛されることなくしてそれを感ずるのである。   

  ( 相応部経典 受相応 36.6 箭 )

── つまり、 「 受 」 に潜在する ( そこに染み付いている ) 渇愛 ( 喜貪 ) が消滅することなのです。

経典の中で語られている 「 〜の生起 」や「 〜の消滅 」 には、大きく分けて二つの意味があります。

 一つ目は、そこで語られている 「 認識対象 」 に、それまで付随 ( 染著 ) していた 渇愛 が消滅している、ということ。
 二つ目は、「 無常想 」 を育成するための修練として、その対象の生・滅 〈 行苦や壊苦 〉 をイメージする、ということ。

例えば、「 六処の滅 」 と言っても、眼や耳などが、見えなくなったり聞こえなくなるわけではありません。
これについては、近々に 「 中部 152経・感官修習経 」 を UP しますので、それを参考にしてください。


> 長部経典第21経「帝釈天問経」に説かれており、
> その時には、有尋有伺よりも無尋無伺が優れているとも書かれていました

この説明には注意が必要です。
瞑想の境地 ( 依処としての環境・条件 ) としては、確かに、その構成要素が少なければ少ないほど勝れています。

── しかし、尋 と 伺 ( 如理作意 … 有用な熟考と吟味 ) を使わなければ、「 妄執想 」 を滅ぼすことは出来ません。
だからこそ、有尋有伺定と ( 有尋有伺を繰り返し修習すると無尋有伺に至ります ) 無尋無伺定とを修練するのです。

14和井 恵:2013/11/14(木) 14:27:11 ID:/qZ2M5.20

★ 10 への返信です。

> なるほど。サインですね。理解しました。

つまり、このサインを自分で確認することで、渇愛が生じていることを 「 自ら知る 」 のです。
そして、これが 「 自灯明 」 の意味であり、「 如実知見 ( あるがままに観ること ) 」 の真意なのです。

  ウパヴァーナよ、ここに一人の比丘があって、
  彼は、眼をもって色 ( 認識対象 ) を見ると、色を感知し、かつ、色に対する貪りを経験する。
  また、わが内に色に対する貪りがあると、
  〈 おお、私はわが内に、色に対する貪りを抱いている 〉 と みずから気がつく であろう。

  そこで、ウパヴァーナよ、そのようにして、
  比丘は、眼をもって色を見ると、色を感知し、かつ、色に対する貪りを経験し、
  また、わが内に色に対する貪りがあれば、
  〈 ああ、私は、わが内に、色に対する貪りを抱いている 〉 と 自分で気がつく のであるから、
  私はまた、ウパヴァーナよ、この 現生的なる法 は、また、即時的 にして、
  〈 来って見よ 〉と示され、よく 涅槃 に導き、智者のそれぞれみずから知るべき法 である、と言うのである。

  ( 相応部経典 六処相応 35.70 「 ウパヴァーナ ( 優波婆那 ) 」 の部分 ) 

これを 「 自ら知る 」 ときには、どのような 「 見解 」 も 「 価値観 」 も必要ありません。
むしろ、そのようなものは邪魔になるだけなのです。
そしてもちろん、誰かに 「聞く ( それを問い合わせて確認する ) 」 ことも必要ありません。
これが、 「 自灯明法灯明 」 の 本当の意味なのです。


── ただ、そこでの 「 喜貪 ( 喜び ・ 歓喜 ・ 快感 ) 」 の、有 ・ 無 を … それだけを、正知するのです。



そして、何故、私たちに 「 渇愛 」 が 生じてしまうのかと言うと、

  また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。 何故であろうか?
  比丘たちよ、愚かなる凡夫は、欲楽を求める以外には、苦なる受から逃れる方法(すべ)を知らないからなのだ。
  そして、欲楽を、喜び願い求めると、眠れる欲貪の随眠が彼を捉える。


  彼はまた、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
  あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、本当に知ってはいない。
  それらを よく知っていない ことから、苦でもなく楽でもない受を感ずると、眠れる無智の随眠が彼を捉えることとなる。


  つまり彼は、もし楽受を感ずれば、それに繋縛(けいばく)させられ、
  もし苦受を感ずれば、それに繋縛させられ、またもし非苦非楽なる受を感ずれば、それに繋縛させられる。

  ( 相応部経典 受相応 36.6 「 箭 」  )

── ここに、その答えが説示されているのです。

 1.愚かなる凡夫は、欲楽を求める以外には、苦なる受から逃れる方法 ( すべ ) を 知らないから。

 2.彼はまた、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
   あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、本当に知ってはいない。

これらが、つまり、「 無明 ( 四聖諦を知らない ) 」 ということなのです。

部派の説いている、「自然界の真実相(無常・苦・無我)」に対する無知、や、
大乗の説いている、「すべてのものは縁起している ( = 空 ) 」 ことへの無知、を意味しているのではありません。

これらは全て 「 見解 ( 価値観 … これが最高の真理なのだ ) 」 へと結びつく、「 見取 」 になってしまうのです。

15:2013/11/14(木) 20:33:11 ID:wfU.Go.c0
>「受の滅」を、具体的に経典の言葉で示すならば、下記のようになります。

経典の中に探しておりました「受の滅」は、ここにあったのですね。理解しました。この経典では「彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、身における受であって、心における受ではないのである」と言う「二の矢は受けない」と言う実際の果報のみを理解していました。

>──つまり、「受」に潜在する(そこに染み付いている)渇愛(喜貪)が消滅することなのです。

はい。理解しました。

>これについては、近々に 「 中部 152経・感官修習経 」 を UP しますので、それを参考にしてください。

これは、過去記事で少し触れられている経典ですね。。

>──しかし、尋と伺(如理作意…有用な熟考と吟味)を使わなければ、「妄執想」を滅ぼすことは出来ません。
>だからこそ、有尋有伺定と(有尋有伺を繰り返し修習すると無尋有伺に至ります)無尋無伺定とを修練するのです。

妄執想の滅尽に向けて、有尋有伺から無尋有伺へ、そして無尋無伺定を修練して行きます。そして妄執想の滅尽に至った後は、

そのうち、大まかな考察のある、細かな考察のあるものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないもろもろのものが勝れています。(長部21経帝釈天問経)

また大王よ、いかに比丘は、諸根において、門が守られた者となるのでしょうか。 
大王よ、ここなる比丘は、眼によって色を見ながら、相(大まかな特徴)に執せず、随相(細かな特徴)に執しません。(長部2経 沙門果経)

パーティモッカの防護・六根の防護として「見ながらにして、相(大まかな特徴)に執せず、随相(細かな特徴)に執しない」と言う事だと理解しました。つまりは、対象を見ながらにして、尋も伺も無い状態である無尋無伺が、行為を二種に分別した場合に、同条件での有尋有伺よりも、パーティモッカの防護・六根の防護としては優れていると理解しました。(帝釈天問経と長部2経沙門果経を連動させての理解です)

つまりは、六境に意識を向けて、細かく観察(分別・分析)しようとする事を防護する事だと理解しました。

>つまり、このサインを自分で確認することで、渇愛が生じていることを「自ら知る」のです。
>そして、これが「自灯明」の意味であり、「如実知見(あるがままに観ること)」の真意なのです。

そうでしたか。これが自灯明・如意知見の意味でしたか。理解しました。

>これを「自ら知る」ときには、どのような「見解」も「価値観」も必要ありません。
>むしろ、そのようなものは邪魔になるだけなのです。
>そしてもちろん、誰かに「聞く(それを問い合わせて確認する)」ことも必要ありません。
>これが、「自灯明法灯明」の本当の意味なのです。

>──ただ、そこでの「喜貪(喜び・歓喜・快感)」の、有・無を…それだけを、正知するのです。

なるほど、これなら即時的に理解が起こりますね。これが自灯明法灯明の本当の意味なのだったのですね。
自らの内に、貪りが、怒りが、無智があると言う事を自らが知る(気付く)と言う事ですね。

実生活上でも、怒りの直前には必ず貪りがある事を確認しています。そしてその貪りは、喜びをそのサインとして確実に知覚できますね。

>──ここに、その答えが説示されているのです。

理解しました。

>1.愚かなる凡夫は、欲楽を求める以外には、苦なる受から逃れる方法(すべ)を知らないから。
>2.彼はまた、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
>あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、本当に知ってはいない。
>これらが、つまり、「無明(四聖諦を知らない)」ということなのです。

理解しました。

16和井 恵:2013/11/14(木) 22:10:04 ID:/qZ2M5.20

「 中部 152経・感官修習経 」 を UP しました。

これまでの理解があれば、この経典が何を教えているのかは、すぐに解るはずです。

この後、148経 「 六六法経 」 、149経 「 六六処経 」 も、近いうちにUPすることにしますね。

17:2013/11/15(金) 16:05:30 ID:wfU.Go.c0
>「 中部 152経・感官修習経 」 を UP しました。

ありがとうございました

>これまでの理解があれば、この経典が何を教えているのかは、すぐに解るはずです。

ウッタラ青年の師は「眼によって色を見ない。耳によって声を聞かない」を感官の防護として説いていましたが、それに対して釈尊は「それでは、眼(耳)の見えない(聞こえない)者は、目(耳)によって色(音)を見る(聞く)事がないので、感官の修習者になりますね」と言うと、ウッタラ青年は答えに窮しました。

釈尊の説いたものは、眼(耳)で色(音)を見て(聞き)「喜び・喜びではない・喜ばしく喜ばしくない」ものが生じた場合、それらは「作られたもの・粗いもの・縁により生じたもの」と言う理解が起こっていれば、それらは消滅し、平静が確立し、そしてそれは、眼を開けたり閉じたりするように、迅速に簡単に消滅し、平静(寂静)が確立すると言う事で、これが「聖者の律における無上の感官の修習ですよ」と説きました。

つまりは「喜び・喜びではない・喜ばしく喜ばしくない」と言うものが起こった瞬間に、これは「作意されたもの・縁により生じたもの」であると言う理解があれば、それは瞬時に消滅しますね。そして消滅した後には静寂が確立します。これは「一切の生じたものは何であれ滅する」と言う一切知の範疇の教えの一つですね。

その方法は「喜び・喜びではない・喜ばしく喜ばしくない」と言う感情が沸き起こった瞬間に、それに気づき、「作られたもの・粗いもの・縁により生じたもの」と言う理解の下にそれらを避けるだけです。

そして最終的には「厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように」と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。となりますね。そしてこのように住む者を「聖なる感官修習者」と、経典では表現しているのでしょう。

18和井 恵:2013/11/22(金) 08:41:56 ID:/qZ2M5.20

> つまりは「喜び・喜びではない・喜ばしく喜ばしくない」と言うものが起こった瞬間に、
> これは「作意されたもの・縁により生じたもの」であると言う理解があれば、それは瞬時に消滅しますね。

理解によって、瞬時に消滅する ── ならば、 とても素晴らしいと思うのですが、そうはなりません。
だからこそ、釈尊の教えは、少し、ややこしい ( 解りにくい ) のです。

「 ありのままに観る 〈 如実知見 〉 」 というのは、要するに、最もシンプルな 「 現状確認 」 なのです。


それ以上でも、それ以下でもありません。

ですから、「 ありのままに観る 」 ことによって、何かが変化する ( 消滅する ) ことはありません。


── 喩えて言えば、
お財布携帯を使って、五千円をチャージし、それからコンビニなどで買い物をするとします。
そして、今いくら残っているのかを携帯の画面で確認すると二千円くらいになっていた、と。
この、五千円と二千円を、それぞれ画面で事実確認することが 〈 如実知見 〉 なのです。
何を確認するのかと言えば、五千円がチャージされていることの 「 最初の確認 」 と、
〈 買い物をした 〉 ことによって、現在の残高がいくらなのかという 「 事後確認 」 です。
そして、この二つの 「 確認 」 によって、次のことを正しく把握することができるのです。


 買い物をすれば残高が減り、そして、チャージをすれば残高が増える。


これと同じように、何を繰り返すと ( 不善法の ) 残高が減り、何を繰り返すとその逆に増えてしまうのか。
それを正知するために、「 現状確認 」 をして、特定の法を修習し、そして再び 「 現状確認 」 をするのです。

上記の説明を、別の角度から表現すると、

  証知 ( 事前確認 ) → 捨断 ( 憶念・修習 ) → 現証 ( 事後確認 ) → 修習 ( 選別して繰り返す )

  楽味・危難・出離 … これらの意味とその使い方を知悉する( 苦を滅する方法の、一切・全てを知る )

── という「 四聖諦 」 の、具体的な実践法として表わすことが出来るのです。

そして、

 1. もろもろの不善の法が増大し、もろもろの善の法が減退したのならば、それは、従うべきでないものです。 
 2. もろもろの不善の法が減退し、もろもろの善の法が増大したのならば、それは、従うべきものです。

   ※ もろもろの不善の法 → 〈 渇愛・喜貪・取著・固執 など 〉 
     もろもろの善の法  → 〈 厭離・離貪・捨棄・平静 など 〉

という、これらのことを実証的に、誰かの受け売りとしてではなく、体験を通して( 自己を依処として ) 確認するのです。


  以上のように、そこ ( A ) に全くない そのもの ( B ) によって、そこ ( A ) を空であると見る。
  なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、 「 それはある 」 と知る。
  このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。

  ( 中部 121経 「 小空経 」 )


以前にはまだあったものが、なくなっていることで、それを 「 空である 」 と見る ( その変化・滅を知る )。
まだそこに残っているものを、 「 それはある 」 と、ただあるがままに ( 何の価値観も付加せずに ) 知る。

( つづく )

19和井 恵:2013/11/22(金) 09:27:23 ID:/qZ2M5.20

( つづき )

これと同じことを説いているのが、以前にも引用した下記の経典なのです。
( つまり、「 如実知見 」 と 「 空 」 は同じことを説いているのです )


  ウパヴァーナよ、ここに一人の比丘があって、
  彼は、眼をもって色 ( 認識対象 ) を見ると、色を感知し、かつ、色に対する貪りを経験する。
  また、わが内に色に対する貪りがあると、
  〈 おお、私はわが内に、色に対する貪りを抱いている 〉 と みずから気がつく であろう。

 
  …… 中 略 ……
 
  しかるに、ウパヴァーナよ、ここに一人の比丘があって、
  彼は、眼をもって色 ( 物体 ) を見ると、色を感知するけれども、色に対する貪りを感じない。
  そして、わが内に色に対する貪りを感じないから、
  〈 おお、私はわが内に、色に対する貪りを抱いていない 〉 とみずから気がつく であろう。

  そこで、ウパヴァーナよ、そのようにして、
  比丘は、 眼をもって色を見ると、色を感知するけれども、色に対する貪りを感ぜす、
  また、 わが内に色に対する貪りがないのであるから、
  〈 ああ、私は、わが内に、色に対する貪りを抱いていない 〉 と 自分で気がつく のである。
  だから、私はまた、ウパヴァーナよ、 この現生的なる法は、また、即時的にして、
  〈 来って見よ 〉と示され、よく涅槃に導き、智者のそれぞれみずから知るべき法である、 と言うのである。

  ( 相応部経典 六処相応 35.70 「 ウパヴァーナ ( 優波婆那 ) 」 ) 


そして、従うべきものと、従うべきでないものが体験として解るようになれば、「 択法 ( 法を選ぶ ) 覚支 」 が確立します。
「 択法覚支 」 が確立すれば、「 善法を増大させて、不善法を減退させる 」 という 「 精進覚支 」 も確定してゆくのです。

── つまり、「 七覚支 」 の前半の流れは、
厭逆想 ( 無常想・不浄想など ) や 不厭逆想 ( 慈想・悲想・喜想など ) を憶念して確立させる 「 念覚支 」 の修習。
次に、 如実知見 → 厭逆想 or 不厭逆想 の 修習 → 如実知見 → を繰り返して検証する 「 択法覚支 」 の実践。
これらの積み重ねによる実績によって、ベクトルの定まった 「 精進覚支 」 が確定してゆくのです。



中部10経「念処経」においては、「 身念処(出入息念など) 」では、無常想や不浄想などの修習をしますが、
「 受念処 」 や 「 心念処 」 では、ただ、ありのままに観る … ということを説いているのです。


  楽を感受すれば〈 私は楽を感受する 〉と知る。
  苦を感受すれば〈 私は苦を感受する 〉と知る。
  不苦不楽を感受すれば〈 私は不苦不楽を感受する 〉と知る。


  貪りのある心を、貪りのある心であると知る。
  あるいは、貪りを離れた心を、貪りを離れた心であると知る。
  怒りのある心を、怒りのある心であると知る。
  あるいは、怒りを離れた心を、怒りを離れた心であると知る。
 

これらは、相応部経典 六処相応 35.70 「 ウパヴァーナ ( 優波婆那 ) 」と同じことを言っているのです。
要するに、「 ある 」 ものを 「 ある 」 と知る ── ただ、それだけを述べているのですが、
これらは 「 身念処 ( 出入息念 ) 」 と交互に修習することで、その効果が現われるのです。
各念処を、それぞれ単独でこのように見てしまっていては、ほとんど意味不明の説明にしかなりません。



ですから、中部 152経 「 感官修習経 」 の、


  たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人は、曲げた腕を伸ばしたり、伸ばした腕を曲げたりすることができます。
  ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、
  生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。


── このような説明も、毎日繰り返し繰り返し実践していくことによって、
ほとんど動かなかった腕が、少し曲がるようになり、だんだん曲がるようになり、
やがてあちこちへと動かせるようになり、曲げたり伸ばしたり自由に動かせるようになる。
…といった、そこへ至るまでの、リハビリのような地道な訓練 ( 修習 ) が省略されて説かれているのです。

20:2013/11/22(金) 13:45:32 ID:wfU.Go.c0
>理解によって、瞬時に消滅する──ならば、とても素晴らしいと思うのですが、そうはなりません。

不思議ですね。私が「理解が起これば瞬時に消滅しますね」と言う意味合いで表現すれば、和井さんは「そうはなりません」と表現される。私の表現が曖昧なのでそうなるのかも知れませんが。理解はするものではありませんで、起こるものです。これを突き詰めて行くと、会話は消滅します。恐らくの想像ですが、和井さんは、思考においての理解、記憶の事を前面に想定しての「そうはなりません」と表現されているものだと思いますが。

>ですから、「ありのままに観る」ことによって、何かが変化する(消滅する)ことはありません。

勿論そうなるでしょう。「ありのままに観る=如実知見」では、何も変化するわけがありませんし、勿論「消滅」はしませんね。如実知見に至るまでの、妄執想での見え方・捕らえ方・認識の仕方から如実知見を体得した時に、妄執想での見え方・捕らえ方・認識の仕方が変化し、それら妄執想は、消滅します。そしてその前後の状況を「そのまま認識する」だけではないのでしょうかね。でないと、妄執想の滅を目指す意味がなくなります。

>これと同じように、何を繰り返すと(不善法の)残高が減り、何を繰り返すとその逆に増えてしまうのか。
>それを正知するために、「現状確認」をして、特定の法を修習し、そして再び「現状確認」をするのです。
>
>上記の説明を、別の角度から表現すると、
>
> 証知(事前確認)→捨断(憶念・修習)→現証(事後確認)→修習(選別して繰り返す)
>
> 楽味・危難・出離 … これらの意味とその使い方を知悉する(苦を滅する方法の、一切・全てを知る)
>
>──という「四聖諦」の、具体的な実践法として表わすことが出来るのです。

そうですね。繰り返す事ですね。実践としては、何度も何度も繰り返します。何かを認識した瞬間に、それに気づき、捨断し、現証し、そして再度修習しますね。

さてゴーディカ尊者は、熱心に精励し、修行につとめていたが、精神統一にもとづく心の解脱に達した。ところが、次いでゴーディカ尊者は、その精神統一にもとづく心の解脱から退いた。

再びゴーディカ尊者は、熱心に精励し、修行につとめていたが、精神統一にもとづく心の解脱に達した。再び尊者は、その精神統一にもとづく心の解脱から退いた。



七たびゴーディカ尊者は、熱心に精励し、修行につとめていたが、精神統一にもとづく心の解脱に達した。

(ゴーディカ サンユッタ・ニカーヤII)

21:2013/11/22(金) 13:48:10 ID:wfU.Go.c0
>という、これらのことを実証的に、誰かの受け売りとしてではなく、体験を通して(自己を依処として)確認するのです。

そうですね。理解しました。これも「誰かの受け売り」ではなく「体験を通して」の理解です。受け売りではない理解の経典や、パーティーモッカの防護・六根の防護がなされておらず、最終的にそれに気付く修行僧の話等が経典にはありますね。

実に、尊師よ、ここで、わたしは、尊師を信ずるが故に、信の能力(信根)が、修められて多くなされるなら、不死に深く入り、不死にいたる道となり、終には不死に到達する、精進する能力(精進根)が、修められて多くなされるなら、不死に深く入り、不死にいたる道となり、終には不死に到達する、気づきの能力(念根)が、修められて多くなされるなら、不死に深く入り、不死にいたる道となり、終には不死に到達する、定の能力(三昧根)が、修められて多くなされるなら、不死に深く入り、不死にいたる道となり、終には不死に到達する、智慧の能力(慧根)が、修められて多くなされるなら、不死に深く入り、不死にいたる道となり、終には不死に到達する、とするのではありません。



よろしい、よろしい、サーリプッタよ、サーリプッタよ、もし、智慧によって、これを了解せず、見ることなく、知ることなく、証明することなく、ふれることがないならば、かれらは、他のものたちを信ずることによって、信の能力(信根)が、…、精進する能力(精進根)が、…、気づきの能力(念根)が、…、定の能力(三昧根)が、…、智慧の能力(慧根)が、修められ多くなされるなら、不死に深く入り、不死にいたる道となり、終には不死に到達する、となすだろう。

サーリプッタよ、もし、智慧によって、これを了解し、見て、知って、証明し、ふれているならば、迷いなく、かれらは、そこで、信の能力(信根)が…、精進する能力(精進根)が…、気づきの能力(念根)が…、定の能力(三昧根)が…、智慧の能力(慧根)が、修められて多くなされるなら、不死に深く入り、不死にいたる道となり、終には不死に到達する、ということに疑いをもつことはない。

(東の門屋 サンユッタ・ニカーヤ 48-44.)

神は近づいてから、その修行僧に次の詩を以て話しかけた。「水中に生ずるこの蓮の花は、与えられたものではないのに、そなたはその香りを嗅いだ。この香りは、盗まれるものの一つだ。修行僧よ。そなたは、香りの盗人だ。」

修行僧いわく「わたしは、この花を取り去ったのではありません。折ったのでもありません。離れて、蓮華の香りを嗅いだのです。それなのに、どういう理由で、わたしを香りの盗人と呼ぶのですか?蓮の茎を掘り、蓮根を喰う人、このように汚れた行動をなす人を、どうして盗人と呼ばないのですか?」

神いわく「下女の汚れた衣のように、汚れて荒々しい男に向って、わたしは説いているのではない。わたしは、そなたに向ってこそ言うべきである。罪汚れなくして、常に浄らかさを求めている人には、毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく見えるのである。」

(紅蓮華(または白蓮華)サンユッタ・ニカーヤII)

>中部10経「念処経」においては、「身念処(出入息念など)」では、無常想や不浄想などの修習をしますが、

そして身念処は修行が進んで行くと観智に通じますね。 

『実にこの私の身は、有色であり、四大種所成であり、母父所成であり、飯と粥の積集であり、無常なる破壊・摩滅・分断、破砕の法である。そしてまた、この私の識は、そこに依止し、そこに結びつけられている』と。(長部2経「沙門果経」・長部10経「スバ経」)

22:2013/11/22(金) 13:48:55 ID:wfU.Go.c0
>「受念処」や「心念処」では、ただ、ありのままに観る…ということを説いているのです。

受念処は、三受をありのまま観て行く事で、その時の受の状態を自身で把握できますし、心念処は、四無量心の瞑想につながります。こちらのブログにお邪魔するまで全く知らなかったのは「法念処」でした。つまりは、何も知らなかったと言う事です。

>これらは、相応部経典六処相応35.70「ウパヴァーナ(優波婆那)」と同じことを言っているのです。
>要するに、「ある」ものを「ある」と知る──ただ、それだけを述べているのですが、
>これらは「身念処(出入息念)」と交互に修習することで、その効果が現われるのです。
>各念処を、それぞれ単独でこのように見てしまっていては、ほとんど意味不明の説明にしかなりません。

そうですね。同じ事を表現していますね。

垢があり、内に垢があると知らない。垢があり、内に垢があると知っている。垢がなく、内に垢がないと知らない。垢がなく、内に垢がないと知っている。と言う四種の人々と言う内容が書かれている「中部第5経 無垢経」もありますね。ただそれに気付けるのは、受の滅を自ら確認できた後で、それを基準としての貪りの心であり、貪りを離れた心であるのでしょう。その時に感官の防護が役立つのではないでしょうか。

>──このような説明も、毎日繰り返し繰り返し実践していくことによって、
>ほとんど動かなかった腕が、少し曲がるようになり、だんだん曲がるようになり、
>やがてあちこちへと動かせるようになり、曲げたり伸ばしたり自由に動かせるようになる。
>…といった、そこへ至るまでの、リハビリのような地道な訓練(修習)が省略されて説かれているのです。

理解しました。過去には、雨粒に溶け込んだり、風と一体となったりして遊んでいましたが、最近では、我慢・疑・驕慢・見取・我語取に注意を払い、心がけているのは捨断です。

23和井 恵:2013/11/27(水) 00:52:24 ID:/qZ2M5.20

> 不思議ですね。
> 私が「理解が起これば瞬時に消滅しますね」と言う意味合いで表現すれば、
> 和井さんは「そうはなりません」と表現される。
> 私の表現が曖昧なのでそうなるのかも知れませんが。

この場合は、掲示板を見ている人たちへの説明、という意味合いが強いのです。
ときどき、対話をしている人のレスを 「 ダシにして 」 第三者へのメッセージを書いているのです。


> 理解はするものではありませんで、起こるものです。

これは、なかなかの名言ですね、その人の瞑想の練度が表れています。


> 過去には、雨粒に溶け込んだり、風と一体となったりして遊んでいましたが、

雨粒に溶け込む、風と一体となる、あるいは、この「世界」と一つになる(oneness)という瞑想は、
要するに 「 五蘊 ( = 世界 ) と 五取蘊 ( = 私 ) を一つに ( 合一 ) する 」 という、
釈尊の教えとは 「 真逆 ( 対極・正反対 ) 」 の瞑想を実践してしまっているのです。
このような瞑想体験を、悟りや覚りだと勘違いしている人たちが、最近は多くなってきているようです。


> 最近では、我慢・疑・驕慢・見取・我語取に注意を払い、心がけているのは捨断です。

── 釈尊が弟子たちに教えた瞑想は、次の言葉に要約・集約されています。

  比丘たちよ、また、如来によってこの最上の寂静句がよく覚られています。すなわち、
  六の触処の、生起と消滅、楽味と危難と出離とを如実に知って、執着のない解脱があるのです。

  ( 中部 102 経 「 五三経 」 )

上記の 「 最上の寂静句 」( これと同じ説明が、長部 1 経 「 梵網経 」 の最後にも登場します ) と、

  渇愛の滅尽により解脱している比丘たちこそ、究極の目的、究極の無碍安穏、究極の梵行、究極の終結がある者です。

  ( 長部 21 経 「 帝釈天問経 」 )

── という、この 「 二つのポイント 」 をしっかり押さえているならば、釈尊の教えから外れることはありません。

24wai kei:2014/01/02(木) 19:38:50 ID:/qZ2M5.20
明けまして、開けまして、空けましておめでとうございます。
今年は、忙しい年になるので、前半でガンと関節リウマチを完治します。
そして、アウトドアーが多くなるでしょう。

瞑想法、など、how to で、本当にお困りの方は、メールでアドバイスいたします。
但し、人に縁るかも知れません。教義的なことは、この掲示板をお使いください。
ただし、公の(公開の場)なので、私の言葉の中には、第三者に向かって話している場合もあります。
あらかじめご了承くださいませ。

それでは、善いお年を。



和井恵

25:2014/01/03(金) 00:15:29 ID:0tNF5gww0
新年明けましておめでとうございます。

本年もブログ等、仏典解説を楽しみにしています。

皆様にとって、良い年になりますように。

今年も宜しくお願いします。

26wai kei:2014/01/04(土) 11:08:07 ID:/qZ2M5.20
> 本年もブログ等、仏典解説を楽しみにしています。

今年からは、活動がアウトドアへと移行します。

時さんの場合は、以後、見道・修道共に、
この掲示板では無く、LINEやスカイプなどを使って説明します。

これらは、もちろん全て無料ですし、無条件で提供します。
経典には、教えを説いて見返りを受けることは禁止されているのです。

 ※悪魔との対話(サンユッタ・ニカーヤⅡ)のP156参照
  岩波文庫(860円+税)

用意するものは、中村元先生の岩波文庫シリーズ。
すでに何冊かお持ちならば、そのタイトルをこのスレッドで教えてください。
テキストは、その本を使います。年内には、少なくとも明解脱を得ることができるでしょう。
これは、有尋有伺定と無尋有伺定・無尋無伺定を駆使して行ないます。
一つ一つを具体的に教えますから、今貴方が抱えている疑問は全て消滅します。
釈尊の時代、多くの弟子たちが、短期間で成就者に成れたのか? その理由も明確に証知します。

──この成就は、それを別に私が「認可」するわけではありません。
自らが自ずと正知・証知・了知するのです。「解脱知見」…この意味を貴方は体現するでしょう。

27:2014/01/05(日) 23:20:55 ID:0tNF5gww0
wai kei様。

ご親切に、大変有難う御座います。

私は、仏典は、現在も一冊も所有していません。そして、他所にて個別にご指導いただけると言うご提案、有難う御座います。しかし、今後も私は、誰かに何かを教えると言う立場をとりませんので、現在は、今までこちらで教えていただきました内容で十分です。

お心遣い、感謝申し上げます。大変有難う御座いました。

時。

28wai kei:2014/01/06(月) 02:06:51 ID:/qZ2M5.20
> 時さん。

それは素晴らしいですね。
自灯明法灯明で歩む、それもまた善しですね。

それでは、参考までに、次のgooブログ記事に、
有尋有伺、無尋有伺、無尋無伺の具体例を、挙げておきましょう。
参考にするもしないも自由です。

善いお年を。

29台灣代購:2014/12/10(水) 08:33:38 ID:wAM.XYiA0
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