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苦の滅尽
13
:
和井 恵
:2013/11/14(木) 13:13:47 ID:/qZ2M5.20
★ 9 への返信です。
> 例えば、受の滅により
「受の滅」を、具体的に経典の言葉で示すならば、下記のようになります。
つまり彼は、もし楽受を感しても、それに繋縛(けいばく)されることなく、
もし苦受を感じても、それに繋縛されることなく、
またもし非苦非楽なる受を感じても、それに繋縛されることなくしてそれを感ずるのである。
( 相応部経典 受相応 36.6 箭 )
── つまり、 「 受 」 に潜在する ( そこに染み付いている ) 渇愛 ( 喜貪 ) が消滅することなのです。
経典の中で語られている 「 〜の生起 」や「 〜の消滅 」 には、大きく分けて二つの意味があります。
一つ目は、そこで語られている 「 認識対象 」 に、それまで付随 ( 染著 ) していた 渇愛 が消滅している、ということ。
二つ目は、「 無常想 」 を育成するための修練として、その対象の生・滅 〈 行苦や壊苦 〉 をイメージする、ということ。
例えば、「 六処の滅 」 と言っても、眼や耳などが、見えなくなったり聞こえなくなるわけではありません。
これについては、近々に 「 中部 152経・感官修習経 」 を UP しますので、それを参考にしてください。
> 長部経典第21経「帝釈天問経」に説かれており、
> その時には、有尋有伺よりも無尋無伺が優れているとも書かれていました
この説明には注意が必要です。
瞑想の境地 ( 依処としての環境・条件 ) としては、確かに、その構成要素が少なければ少ないほど勝れています。
── しかし、尋 と 伺 ( 如理作意 … 有用な熟考と吟味 ) を使わなければ、「 妄執想 」 を滅ぼすことは出来ません。
だからこそ、有尋有伺定と ( 有尋有伺を繰り返し修習すると無尋有伺に至ります ) 無尋無伺定とを修練するのです。
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